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  [No.698] 群馬の長島です。
     投稿者:群馬の長島   投稿日:2010/06/05(Sat) 02:26:35

はじめまして。

私は群馬県南東部に住んでいる長島と言います(一族みなこちらの島です)。

自分のルーツに興味を持ち調べていた所このサイトを拝見させて頂きました。

祖父が生前私に先祖の事を伝えてくれていたのですが、当時年齢的に幼かった為、記憶が曖昧になって

しまっています。興味を持ち調べだしたのが最近の事なので、これから自分のルーツをたどって行く為にご

指導の程宜しくお願いいたします。

家紋は左三つ巴で副紋は(裏紋と言っていたような?)丸に十文字です。

その他 今現在私が分っていることは、下記の通りです。

1.紀伊の地で何か起こり(聞いたのですが、忘れてしまいました。)一族で逃げてきたとの事で、その時に

伊勢の熊野神社の一部を持ってきて群馬県太田市熊野町にある熊野神社を造りそこに収めたとの事でし

たがその熊野神社の情報では、「元久元年(1204年)出羽の修験者小坂上人により御遷座されたと言い

伝えられています。」と他のサイトで書かれていました。?

2.先祖様は、化け物を退治した有名な人間だと聞いてたが、大ムカデでは無く ぬえ と言っていたような

気がします?

以上ですが、是非とも皆様のお知恵をお借し下さい。宜しくお願いします。


  [No.699] Re:群馬の長島です。
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/06/06(Sun) 15:05:07

群馬の長島さん 今日は。ようこそ青木氏サイトにお越しいただきました。

本サイトは全国の青木さん関係が集うサイトですが、藤原氏北家の藤原秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる秀郷流青木氏と親族関係にある永嶋さん又は長嶋さんの資料関係も整えています。
永嶋さんは秀郷一門の主要5氏の一つです。
青木氏、長沼氏、永嶋氏、長谷川氏、進藤氏です。

秀郷は関東で「平将門の乱」を平定した勲功で貴族になり武蔵国を領地にしました。
これらの事は研究室の「藤原秀郷一門の生き方」等関連のところに詳しくレポートしていますのでお読みください。

ムカデとかぬえとか大蛇とか鬼とかを退治したと言い伝えでありますが、この平将門が5年間にわたり関東に独立国家を形成し続けて誰も平定できなかったのです。これを秀郷と平貞盛とが数年かけて平定した事から云い換えられて物語に成っているものです。

さて、関東の永嶋氏は流れが2つに分かれていまして、永嶋氏と長嶋氏とに成ります。
元は下総結城氏から酒井氏へそして永嶋氏と変わりました。
主に系譜では陸奥長嶋氏と常陸永嶋氏であります。
研究室にレポートしていますので関係レポートをお読みください。
「関東屋形」と呼ばれて一大勢力をはりました。愛知より東関東域にその勢力は拡大しています。
そこで、長島氏ですが、秀郷一門の中での史実には長島氏はありませんが、ただ、永嶋氏の西域は伊勢長嶋のところまでです。
もし、紀州にご先祖がいたとすると、お家が紀州南紀から伊勢長嶋にかけて勢力を張っていたこの長嶋氏である可能性もあります。

考えられる事は1200年ごろに紀州に居た事が云われていますので、後に何等かな理由で長島氏に氏名を変更した事が考えられます。
その根拠にはある程度の史実があります。

先ず有力な事件ですが、その変更した理由は1300年ころに起こった南北朝期の建武の乱ではないかと思います。
それより以前と成れば、「以仁王の乱」の1180年があります。源氏が平家に対抗した最初の戦いで源頼政が起こした乱です。この後源頼朝が1185年に平家を滅ぼしました。
この時、藤原秀郷一門の永嶋氏で伊勢の南紀よりの長嶋に居た長嶋氏がこの戦いに源氏と共に闘いました。しかし、初戦の「以仁王の乱」で負けました。頼政は伊勢に向けて逃亡中の宇治平等院で自刃します。この時に伊勢長嶋氏の一部が中部地方経由で逃亡します。
紀州−伊勢付近で一族が移動しなくてはならない事件と成ればこの時代としてはこの2事件だと思います。
先ず、建武の乱の紀州九度山で籠城し朝廷に請われて鎌倉幕府に抵抗した楠木正成の乱ですが、足利軍等を主力として鎌倉軍10万の軍に対し3千の兵で籠城戦と伊勢シンジケートを使ってゲリラ戦を行い勝利した戦いです。
この時主軍の足利尊氏は九州に逃げ、後に幕府の要請を根拠に再び兵を起こして朝廷軍の楠木軍を撃ち、その勢いで逆に北条氏の幕府をも倒す戦いとなった事件です。

この初戦の時か、後戦の時かに関東の永嶋氏の根拠地に逃げ延びたかと成ります。
実はここで考察しますと、伊勢の氏名は陸奥の長嶋氏系です。

実は陸奥は藤原秀郷一門の勢力地なのです。平安期には鎮守府将軍として12代にわたりここに勢力を張っており小山氏、小田氏、花房氏等の地元豪族と血縁関係を作り、この3氏の血縁族は後に秀郷一門とともに武蔵下野の領国に戻ってきました。そしてこの下野、上野、常陸、下総に勢力を拡大し小田氏は親族の結城の永嶋氏と共に関東屋形と呼ばれる4大豪族の一つに成りました。
佐竹氏、宇都宮氏、小田氏、永嶋氏です。
この永嶋氏と小田氏の勢力地の陸奥に移動し呼び名を変えて結城陸奥白河の長嶋氏としたのです。
甲斐の武田氏は小田氏が前身土豪に、信濃足利氏は花房氏が前身土豪です。
この時、伊勢長嶋での親族豪族であった伊勢北畠氏とも永嶋と長嶋氏が1400年ごろに窮地に陥った時に伊勢から軍を差し向けて援助に向かっています。
北畠氏は村上天皇の末裔で朝廷側です。

そこで系譜から永嶋氏を大きく分けると、佐野氏族永嶋氏と結城氏族永嶋氏があります。何れも親族です。
一族系譜からはこの佐野永嶋氏は足利氏とは親族であります。
ここで検証する永嶋氏は佐野氏族永嶋氏であります。
佐野氏系永嶋氏は下野国安蘇群佐野庄の出です。

お家は上記の事件で移動した時に佐野氏族の伊勢長嶋氏が関東に移動し来たので呼び名を長島で違いを出したと考えられます。
ですから、実は、この長島氏は逃亡経路の愛知から中部地方と群馬の線上にかけて多いのです。
恐らくはこの東端に辿りついた長島氏だと思います。
この事からすると、信濃経由しての逃亡だとすると信濃足利氏系の佐野氏族永嶋氏の末裔と成ります。
そうすると、移動時期ですが、初戦の時に伊勢長嶋氏が足利氏に味方して朝廷軍に敗北したので、信濃足利氏の根拠地を通り関東群馬域に中部地方経由して逃げたと観られます。

両方の永嶋氏は親族ですが結城氏族永嶋氏の方は、この後に史実は長嶋氏は伊勢の北畠氏の援助を受けて立ち直り勢力を盛り返しますが秀吉に滅ぼされます。
しかし、佐野氏族長嶋氏は関ヶ原で徳川方に味方し3万78千石の藩になり、後に富田信濃守事件で除封廃藩と成り衰退します。
この様に足利時代には伊勢長嶋氏の足利氏系の佐野氏系長嶋氏は勢力拡大します。氏名はこの移動後の区別を付ける事から両方の永嶋氏と長嶋氏の多い伊勢長嶋氏の方は長島と名乗ったものと考えられます。その逃亡経路上に長島氏の氏名が増えたものと検証できます。
結城永嶋氏−陸奥長嶋氏、 佐野氏系永嶋氏の伊勢長嶋氏−下野上野の長島氏
と成ります。

以仁王の乱の事件としますと佐野氏系長嶋氏の伊勢長嶋氏の逃亡経路は同じです。
この二つの事件の何れかですが、年代が良く判りませんが1200年のころと成りますと以仁王の乱だと思います。

家紋は「左三つ巴紋」だとのことですが、これは全永嶋氏一族の総紋ですね。元は秀郷一門の総紋の「下がり藤紋」です。そして、お家の紋は「丸に十字紋」と成りますね。
家紋上では問題なく上記検証と一致します。
「丸に十字紋」に変わったのは、上野国のところで江戸初期から中期にかけて男系跡目が叶わず、婿養子を2代続きで迎えて女系長島氏に成ったので、初代の婿養子先の家紋に家紋掟により変紋を余儀なくされた長島氏と観られます。
或いは明治初期かに関係するところですね。これはところでお家の宗派は何宗ですか。

この宗派で検証の状況が一変しますのでお知らせください。

次は、熊野権現は神社ですが、お家との関係は。藤原氏は春日大社系ですが。
長島氏を名乗る以上は藤原一門ですので、熊野権現は氏神には筋が違います。
関東は藤原氏の根拠地ですので、わざわざ熊野権現の引導はどの様な経緯があるのか疑問です。
源氏一門であれば判りますが、源の新宮太郎がこの時1180年の乱に活躍しています。
この時代は熊野権現は平家に味方していますね。保護を求めた義経弁慶を追い払いましたよね。
平家に味方している熊野権現が、何故敵方の藤原氏が上野に神社を引導するのでしょうか。何故自分の氏神があるのに。無関係ではありませんか。
建武の時にも熊野権現は中立ですので長島氏との関係が採れません。
確かに、群馬県太田市熊野町という地名がある様ですが、私の持っている資料では熊野神社の三様方式の中には該当する神社がありません。

参考 「鈴木氏とその周辺環境」(熊野神社 藤白神社)を参照してください。

別の形で神社一部の御霊移しで熊野権現が当地の熊野町に引導した経緯はありますが、時代があいません。

全国各地の熊野神社をレポートした「鈴木氏とその周辺環境(第1社の藤白神社 熊野神社)」のレポート参照してくだせさい。

情報が少ないので、検証は確定できません。明治期の長島さんの場合もあります。
他に何か情報がありませんか。

ご質問、等ありましたらご相談に乗りますのでご遠慮なく又是非お便りください。