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  [No.659] 丸に三つ柏の山口さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/11/21(Sat) 07:10:43

福管理人の代理投稿

函館の青木さんの投稿欄に記載により移す。

投稿内容
私は山口と申しますが 家紋は丸に三つ柏で 父親は青森県出身で子供の頃 庭に柏のきがあり 昔は青森県の名主と聞きましたがル-ツとご先祖様はどなたなのでしょうか?

山口さん 今日は。 始めまして。

青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。

さて、お尋ねがありましたが、函館の青木さんの専用の投稿欄に投稿されていましたのでこちらに移しました。

お尋ねのルーツの件ですが、全くわかりません。
その理由として、青木サイトである事、情報が少ない事、情報が昭和で新しすぎる事、昔とは何時の時代判りません。

折角お尋ね頂きましたので、判る範囲でお答えをしたいと思います。

先ず明治初期からは戸籍簿がありますのでそのルーツは判る筈です。
名主との事ですから、農民であった事を意味します。そうしますと、江戸時代以前は「氏家制度」でしたので、下級武士以下農民、庶民はその氏を持ちません。
当然に、姓を持ちませんので、戸籍は残りません。
当時は、戸籍は菩提寺で管理されていましたので其処に「過去帳」と云うものがありました。
しかし、氏が無い事で過去帳を作ることは出来ません。
つまり、ルーツを辿る術が無い事を意味します。氏が無かったので「山口氏」と言う氏を辿る事は出来ない事に成ります。
ではその山口氏ですが、明治3年の苗字令、8年の督促令により全ての国民は「氏姓」をもつ事に成りました。その時に家紋も同時に持った事に成ります。
その山口氏の所以は何かの縁で名乗ったと見られます。多くのパターンがあります。これ等のことは青木氏のレポートなどをお読みください。詳細にレポートしています。
「氏家制度」で氏を中心に社会の習慣取り決め事が決まっていましたし、その氏の組織で支えあった社会でした。しかし、この習慣は上級武士以上の社会システムで、その農民等はその支配者の領する者としての社会でした。ですから、農民等は氏を持たない習慣でした。したがって江戸時代以前のルーツは有りません。

当然に墓所も寺では無く、河原の路傍の墓石を積み上げて作り自然の淘汰に任した砂岩、泥岩の墓でした。「・・村の何助」と言う風に記して。ですから、寺に墓所がある者は氏を構成している武士以上の者か特別に支配者から氏を与えられた者しか寺には有りませんでした。
農民の長となる「庄屋、名主」は農民、と「豪農、郷士、郷氏、豪商」は元は武士でしたので氏姓と家紋と帯刀を持っていました。前者の2つは氏を持つ事も許されている場合もありますが、必ずしも家紋は持つということではありませんが、多くはこの支配者から許可されて与えられた者が上記の2つの身分の者でした。

山口さんの名主は何時からの名主でしたか。

次ぎは家紋ですが、柏文様は130もあります。三つ柏でも50程度もあります。丸付きの三つ柏紋では九つの家紋類があります。

元は古く祭祀などに用いられた文様で、この家紋の多くは神職系の氏者が多かったのです。江戸中期以前では。神職系はお互いに特別な職種である為に氏家制度の中ではその神職の家柄を保つ為に血縁関係を網の目の様に張り保ちました。ですから、全国の神社の神職は多くは互いに血縁関係を持っているのです。当時はこの様な血縁関係を作り組織を維持していたのです。
これが氏家制度の見本のようなものです。
大神社とその系列の小神社まで全国に組織化されていたのです。

有名な所では、伊勢神宮の「久志本氏」、熱田神宮の「千秋氏」、宗像神宮の「宗像氏」、吉田神宮の「吉田氏」、「卜部氏」、吉備津神宮の「大守氏」等九州の豪族菊池氏らもそうです。

そこで推測の域を出ませんが、農民の名主を前提に、家紋から観ると、元は神職系か、又は名主である為にその神社の氏子の総代を務めていたとして、柏紋を明治の苗字令で使用したと考えられます。
この時は全村民が統一して一斉にこのその神社の家紋と姓を使用したのです。大変多いパターンです。
其処に、どの丸付き紋かは判りませんが、丸付き紋の傾向から考えるとその可能性が高いと思います。
三つ柏紋は熱田神宮の専門の神官家紋です。
丸付き紋の三つ柏紋はその縁から江戸時代では神職系の牧野氏が有名です。

牧野氏紋以外の其の他の丸付き紋は遠慮して丸をつけたのです。

お家の名主をして総代を務めていたことは概ね当っていると思いますが、その神社は熱田神宮系の支社の神社であったことが考えられます。そこが熱田系の支流の血縁関係を保った氏であったことから丸付き紋に成ったと観られます。
歴史的に名主がその村の氏子代表として総代を務めたので、その関係からその神社の分家との血縁関係をもった可能性は充分にあります。養子婿、嫁取りもあり得ます。
それを明治期に総代として受け継いだと考えられます。

もし、ルーツを探されるのであれば、この神社関係の血縁から探されると名主でもルーツを取ることは可能で、神道でルーツの戸籍が見えるかもしれません。直系でなくても。
名主であった村の神社とその系列を調べられて、後にその血縁関係を辿って行けば多分出て来る事があると思います。その前に、明治はじめの戸籍簿を確認する事で見えてきますよ。当時の戸籍簿はこの事柄を書き記していますので。

以上です。

では又、ご質問が有りましたら、この投稿欄からご遠慮なくREで専用でお尋ねください。


  [No.660] 山口と申します。
     投稿者:山口と申します。   投稿日:2009/11/21(Sat) 18:22:12

少ない情報の中からありがとうございます。
その後 お役にたてる情報ではないと思いますが ほんの少しわかった事ですが 名主時代 お醤油をつくっていて 大きな蔵があり かなり大きな土地と家で 青森県(現在 黒石市)では 有名だったと聞いていて今もその土地は残っているそうです。 しかし 第二次世界大戦後 滅んでしまったそうです。
名主はいつからかは はっきりとは わかりませんが
曾祖母くらいではないかと 父親がいっておりました。
あと 青森県の宗像神社が三つ柏紋の大元で 丸付き家紋が分家とあったのですが 関係あるのでしょうか?

情報が少なく お役にたてませんが もし 少しでも わかるのでしたら宜しくお願いいたします。


  [No.661] Re:山口と申します。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/11/22(Sun) 08:45:05


山口さん お便りありがとう御座います。

さて、早速ですが、お便りからは、”曾祖母”とありましたが、明治初期ころですね。
若干、曾祖母と成りますと、女系の山口さんですか。
江戸以前は男系の氏家制度ですので、もしそうであればルーツは取れないと思います。
それから名主さんであったとする事は確実との情報ですので、多分、江戸期でも名主さんであっただろうと予測します。農家ではなく商家で会った事に成ります。農民の「名主」さんではなく、町の裕福な実業家であったとなりますね。
農民の名主さんは村の長の「庄屋」等も務める事もある役柄ですから、多少違ってきましたね。
明治期に醤油で財を成したお家であって有名人であったとなりますね。

醤油は江戸末期に中国から持ち込んだ金山寺味噌から発見された液汁のうまみ成分を発酵させて作ったもので和歌山県有田市が発祥です。今でもそのお家は存在し、昔は村の庄屋さんで地域に大変な貢献をし、歴史に残る有名なお家で政治家にも成りました。
そして、江戸にそれを売るために千葉の野田に工場を作りそれが全国に広まったものですから時期的には明治初期と成ります。恐らくは野田で修行をして青森に広めた方だとも思います。ですから財を成したと考えられます。

この説からすると、野田から全国各地に広まりましたから、野田付近の農民か町人であった事が覗えます。そして、青森にきて商家を興し、山口氏を名乗り、家紋を丸付き紋の柏紋にしたとも考えられます。
この説の方がより近いのではないでしょうか。情報の醤油の経緯からすると。

お答えは、あまり変わらないのですが、恐らくは近くの神社かの「総代」を務められたと考えます。
その神社が青森の宗像神社の支社である事は確実ですね。
その関係で、三つ柏紋の丸付き紋を使われたものと考えます。
丸付き紋の使用例は色々ありますが、「神社総代」を務められた関係で明治期の苗字令でそのお礼として使用を許されたものと思います。その時、当然に宗像氏の子孫では無い事から、遠慮して丸付き紋を使用した例だと思います。明治期にはこの様な事が遠慮方の丸付き紋の使用が頻発しました。

典型的な例として藤原秀郷一門が使用した「下がり藤紋」の一族は丸付き紋を使わない掟ですので、その周囲の村に住んでいた人たちはこの下がり藤紋に丸をつけて使用したのです。苗字令である一つ全村人全てが使用すると言う現象が起こりました。

ところで、疑問ですが、名主であれば、親族や菩提寺や何か証拠になるものが残っている筈ですね。
自分の家以外にも町内にも。
町の裕福な商家や総代であればその宗像神社には明治期の総代さんの名が大理石で作った柵の柱にしているものに書き込まれている筈です。或いは、神社に貢献した人や寄贈者の大口の累代の名簿等を石碑にして必ず神社の境内にはあります。その様な仕来りですから。
多分お寺にもある筈ですし、神社の氏子簿にも乗っている筈ですよ。

先ず確認される事ですね。その前に明治維新の戸籍簿に何処の住人と書かれていますよ。
平民、士分などともあります。
また、お墓のあるお寺の過去帳をごご覧に成ると直ぐ判ることです。一番古い人、戒名などでも判明します。恐らくはこの説が合っているかの確認が取れるはずです。

以上、又、確認されて不明な事やご質問等有りましたらお尋ねください。


  [No.662] 山口と申します。
     投稿者:山口と申します。   投稿日:2009/11/22(Sun) 14:54:12

少ない情報の中から 丁寧でわかりやすく ありがとうございます。いろんな事がわかり ご先祖様 家のル-ツがわかり 嬉しく感謝しております。

疑問があるのですが 我が家の宗派は曹同宗 浄土宗 のどちらかみたいです。
あと 庭に 大きな柏の木があったと聞いてますが
神社の総代 と関係はあるのでしょうか?

お手数おかけしますが 宜しくお願いいたします。


  [No.663] Re:山口と申します。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/11/22(Sun) 19:22:25

さて、お手伝い出来てよかったです。
前回の情報の醤油の件が大変な情報です。
お家の財を成した時期と醤油の広がり時期が一致しています。
野田に和歌山から醤油工場を作り、その後、各地に工場を作りました。その時に野田には和歌山から多くの職人が出向き其処からまた各地にこの和歌山の職人を派遣して醤油の拡大を図りました。野田の人も覚えて各地に移動しましたが、その指導などで和歌山の人が移動しています。
お家が醤油を未だ出来て間が無い時に独自でこの時期に醤油を作る事は出来ない筈です。
恐らくは、この時期は専売製造ですので、和歌山の人か野田の人が開いて財を成したと思います。
この新製品の時期でなくては財を成すことは出来ない筈です。
私はルーツは野田に居た和歌山の人ではないかとも思います。
有田の醤油を作ったあるお家の縁者関係者ではないかと思います。
各地に製造所を造り親族縁者を責任者として配置しましたから。
兎も角も、醤油職人であったと思います。

宗派はこの時期は未だ浄土宗はそんなに広まっていません。
江戸期は浄土宗の督奨令を出して、特定氏の宗派であった密教の浄土宗を広めようとしました。しかし、そんなに拡がりませんでした。江戸期でも上級武士が帰依する宗派でありました。ですから、青森には浄土寺は極めて少ないと思います。密教体質の浄土宗が急に広がることはありませんでした。
それで広まったのは明治初期からで、多くは農民や庶民は曹洞宗でした。
恐らくは、青森では曹洞宗であると思います。曹洞宗は庶民や下級武士の宗派で、江戸期から明治にかけて関東で起こった一揆に加担したのはこの密教でない宗派でした。
曹洞宗かどうかはご本家の仏壇を見るとわかる筈ですよ。
或いは、お家の檀家寺はどこですか。そのお寺の過去帳でもよく判ります。殆ど確定しますよ。

次ぎは柏の木は関東に見られる木ですが、明治期に総代であった事からこの木を植えたのではと思います。この事からも関東から移動している可能性が高いと観られます。
逆に柏の木から総代であった事もいえますね。確定は出来ないですが。
前の内容を確認されるとはっきりとしますよ。

又少し進みましたね。
山口さんの姓の出所も過去帳でも判りますよ。
周囲に山口さんの姓は多いですか。ご親類は青森に多いですか。
ご本家は何処にあるか判りますか。

以上ですが、又何か判りましたらお尋ねください。


  [No.664] 山口と申します。
     投稿者:山口と申します。   投稿日:2009/11/23(Mon) 01:11:57

夜分遅く申し訳ごさいません。

やはり曹洞宗でした。大本山だそうで そこで曾祖父母が眠っているそうです。 神奈川県横浜市鶴見区の総持寺 福井県の永平寺 と聞きました。

親戚は青森県がほとんどらしく 周りに4 5件 山口氏がいると聞きました。

大本家 本家 分家とあるらしく 大本家は青森県の青森市で現在もあるみたいです。

本家は曾祖父母で青森県のばばしり
分家は祖父母でばばしり 父親もばばしりで生まれ
現在は青森県の黒石市に引っ越ししたとの事です。
両親共々神奈川県に在住ですが。

やはり 江戸時代 商家だったようです (祖父母が明治生まれなので曾祖父母が江戸時代な為)もしかしたら 大本家代からではないかといっていますが…
父が祖父からきいたのですが子供だった為 詳しい事はわからなかったらしいです。


  [No.665] Re:山口と申します。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/11/23(Mon) 09:38:01


お便りありがとう御座います。

さて、お便り納得しました。矢張りそうでしたか。曹洞宗でしたね。
この事で、江戸時代を含む以前は「氏家制度」と云う社会でしたから、何もかも氏や身分や家柄等で色々な取り決めがあり、その事で宗教なども決められそれを超える事は社会としては認められなくはみ出すと生きていけない社会でした。
その宗派は最たるもので曹洞宗である事は、お家の江戸期の身分家柄などが殆ど確定する事に成ります。
更に、総本山のあの有名な修練場の永平寺ですから、その事から、又一つはっきりする事が出てきました。総本山に御魂が祀られている事は、普通の庶民は出来ませんでした。
相当の財と名声を成した者で無いとありえません。
恐らくは、永平寺は「永代供養」と云って死後50年間は永平寺本殿にその遺骨が祭られて毎日多くの僧侶によりお経を上げてもらえる仕組みです。このことが出来るには、2つの要件が備わっていなければ成りません。
先ず、社会に高く貢献し人としての徳を積んだ人である事、次ぎはこの永代供養を総本山でしてもらえるだけの見返り財(高額な金銭)を出さねば成りません。
この二つは先ず普通の人では絶対に無理でした。
金銭が出来ても社会に「功徳」を大きく施す事は出来ませんからね。
この情報で、この「功徳」はお家の場合は、社会にいろいろな貢献をした事に成りますから、その一つは当時では人のために働く事として、神社の「総代」やお寺の「檀家総代」で村や町に問題が起こるとそれを率先して解決に当る等人でした。それは同時に人のために働く事で功徳に成りますので寺はそれを認めた事を意味します。
現在は永代供養は要件が緩やかに成っていますが、当時は氏家制度の社会の縛りがある為に実に厳しかったのです。永代供養してもらう事でその人の徳の高さが評価されたのです。
村議会の議員などその功徳の最たるものでした。現在とは違い議員は全員ボランティアでしたから。その時間と経済的な余裕が無ければ出来ない事でした。
つまり、皆から感謝され慕われる「町の世話役さん」ですね。

これで、お家の江戸末期の状態がわかる事に成ります。
醤油で財をなし、永平寺で永代供養ですから、有田の醤油の経緯から野田の醤油職人であったことに成りますし、周囲に45軒度の山口氏がいる事はそれを物語ります。
江戸末期として5代程度として、最終、各世代子供2−3人の確率で末裔が確実に広がるとすると、32から48軒と成ります。
これで、江戸末期に醤油で財を成した事で和歌山有田の醤油の件は証明できます。

更にこの事に加えて、「曾祖母」の情報です。
江戸の氏家制度では男系でしたが、男子の息子がいなければ養子を求めて氏の存続を続けます。
この時の養子は今の養子と違いその実権は娘に大きくありますので、お家は、「曾祖母」としているのではと考えます。前々回にも書きましたが。
とすると、、「「曾祖母の永平寺」と「45軒」と「醤油」と「曾祖母」とで「醤油職人」を養子に迎えて氏を繋ぎ繁栄させた事に成ります。その前には45軒ですので、財を成すほどの氏では無く普通の庶民で在った事を意味します。
醤油職人を野田から養子に求めてその醤油の製造技術を基に当時のヒット商品を作り売りさばき一挙に財を成した事に成ります。その前からでは醤油もありませんし、45軒ですので無いと成ります。

そうすると、ここで問題に成ります。それは醤油の特売権の専売権が有りませんから、醤油の製造は出来ません。そうなると、その権利を認められた者として、高いレベルを持つ野田の醤油職人が専売権を認められた者か、有田の醤油縁者関係者である筈です。
一人で出来る製造では有りませんから酒の醸造と同じく多くの醤油職人が必要と成りますので、思いついて自分で勝ってに製造出来る状況のものでは有りません。これ等の人を引き連れて出来る製造です。
一醤油職人でも出来ません。ですから、当時としての醤油時期とこの条件が揃わなくては成し得ません。
と成ると、高い職人の説には無理が伴ないますので、これ等の要件が揃うのは和歌山の縁者関係者で醤油職人説が成り立ちます。
現在でも、和歌山では当然に大変に醤油工場が多いのですが、元を辿れば有田の高い匠職人か縁者の職人でその専売権の認められた子孫です。

この様に、史実で紐解けば今回でもルーツの大元は更に広がりますね。
「永平寺」や「45軒」や「曾祖母」の確認でまた確認で拡がりました。

以上ですが、又何か有りましたらお尋ねください。

青木サイトですので、史料が無いので最終のルーツまではたどり着けませんが、お家の詳細な情報を掴みそれを史実で紐解く事でかなりの所までたどり着けます。
前のアドバイスを実行して行くと其処までは行くと思います。
醤油のところと神社お寺を辿れば未だ出て来ると思いますよ。和歌山に近づくにはこの域を越えると出るのではと思います。ゆっくりとお調べに成ってください。

この投稿欄を専用として何時までも保管しておきますので、探し出してここから投稿ください。


  [No.668] 山口と申します。
     投稿者:山口と申します。   投稿日:2009/11/24(Tue) 23:55:37

ご親切にありがとうございました。 姓も違う 私に丁寧でわかりやすくご説明ありがとうございます。勝手ではございますが 青木氏ル-ツに参加して 良かったと私は思っております。

少しずつですが ご先祖様のル-ツを ご説明通り いって見ようと思います。

また 参加させて戴く際は宜しくお願いいたします。

この度はありがとうございました。