はじめまして、東京都目黒区在住の青木です。
青木のルーツに興味があり、以前からここで勉強させて頂いております。
私の家の青木のルーツについては、祖父の残した簡単な文章から多少はわかっているのですが、青木氏の研究家である管理人の方々ならもう少し詳しく読み解いて下さるかなと思い、投稿させて頂きました。
・我が青木家の本家は長野県にあるようで、分家(?)である我々は3代前から東京に住んでいます。
・私の祖父の墓は築地本願寺(浄土真宗)の和田堀廟所にあります。しかし祖父からなので、その前の代は私は『青山墓地』にあるという事しか把握しておりません。
・その墓石にある家紋は『三階菱』です。私が父から生前分与された刀剣金庫の棚にも同じものが刻まれています。
私の祖父が生前書き残した文章を下記に転記させて頂きます。余分と思われる場所は多少省略させて頂きます。この文章は祖父の祖父、の説明から始まります。
※は私からの説明です。
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青木久エ門
代々続いた、旧、長野県東築摩郡寿村字赤城(現松本市)の本百姓。
明治以前の生まれなので、勿論、青木の姓は無かった。近くに、元、武田の武将青木氏の山城が有ったので、御一新の時、姓も三階菱の家紋も拝借したらしい。松本盆地の南端に位置し、南へ、200メートル程で丘陵に掛かる豊かな水田地帯で、隣接の二ヶ村と共に、5000石領の上諏訪藩の飛び地だった。
代官、馬場氏とは、姻戚だった。現在、R子さんが馬場の当主である。
丘陵は、牛伏寺がある東山に続き、東山の裏側は、諏訪盆地となる。
久エ門は、政治の真似事が好きだったらしく、若い頃から、長らく村長をして居たそうである。
明治15年生まれの三男、K雄(※私の曽祖父)を医者にした位だから、教育にも、熱心だったのは確かである。
青木K雄が、M雄(※私の祖父)の実父である。
久エ門の長男、K雄の長兄を仁作と言い、この人も村長なぞをして居たが割合若い頃、脳出血で死んだ。私が、知って居るのは、この大伯父からである。仁作は、東京大震災の時、村の若い衆を動員して、長男の久門に指揮をさせ昼夜兼行で、威勢良く、数々の峠を越えて東京の弟に米俵をとどけた。
この家が、所謂、青木本家である。K雄は、五人兄弟の末子だった。今、本家は昔からの水田や桑畑を、皆、果樹園にして自営している。裏手の丘陵に、先祖代々の墓が有り、父、K雄の分骨された遺骨もねむって居る。
久エ門の直系卑属で一番初めに医者になったのは、勿論、青木K雄であるが、その後、長野青木一族も続々、医者を出した。
ちなみに本家の現当主は、塩尻市で医院を開業している青木HKで、久門氏の長男である。新宿の青木から医学校に通った人である。私が中学生の時である。
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長くなりましたが、以上が祖父の残した文章です。
私の考えでは、久エ門が百姓であった事、姓や家紋を武田の青木から拝借したという事、菩提寺についての記述がなく、祖父の墓地が浄土真宗の墓地にある事から、新青木(第三の青木?)だったのだろうと考えています。
しかし代官の馬場氏との姻戚というのはどういうことのなのでしょうか?
青木K雄以降の東京青木一族は代々、皆医師で、私も現在医学部進学を目指し浪人中です。
私が医学部に進学できたら、是非この文章を持って、長野青木の本家にご挨拶に行きたいと思っています。
それまでは以上に上げたもの位しか資料がなく、この中でわかる範囲で良いので、わかりやすく説明して下さると嬉しいです。
本当に長くなってしまいましたが、よろしくお願いします。