何処かの青木さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、大変情報が少ないのでなんともお答えが難しいです。
お尋ねの内容からはこの情報でお答えする方はいないと思います。先ず不可能です。
日本全国の特定の個人のルーツを知る人がいるでしょうか?。物理的に無理ですね。
せめて、古くからのご本家の宗派や家紋や菩提寺や定住地などが無くては困難ですので、お知らせを頂きたいと思います。それに付け加えてせめてお名前でも。
しかし、折角ですので、概容をお答えする事に致します。
お家のルーツであるかは別として、
この青木一矩は青木紀伊守一矩です。
官位は従五位左衛門佐です。
越前府中8万石 後に北の庄20万石を領していました。
信長と秀吉に仕えました。
関が原の戦いで西軍に着きました。
徳川氏から叙封されました。
そのため一族は離散の憂き目を受けています。
この末裔は一時西国に逃亡し、その後、徳川時代に越前の国に戻って定住し商いを手広く営んだとされています。現在も子孫は定住しています。
本サイトにもお便りが来ています。
尚、この親族も同じく青木伊賀守忠元です。
越前坂井郡丸岡四万五千石を領していました。
信長と秀吉に仕えました。
関が原の戦いで西軍に着きました。
徳川氏から叙封されました。
一族は離散しています。
同様に一時西国に逃亡し、その後は不明ですが、越前に戻たと考えられます。
この二族は皇族賜姓伊勢青木氏の支流だと見られています。
伊勢松阪の伊勢青木氏は関が原の戦いでは本家筋は徳川家康に直接請われて伊勢路の護りを担いました。
兵250と用員兵1万を出して合力しました。大河ドラマの「徳川三代」で出てきます。
伊勢の豪商青木紙屋長兵衛の二つの顔を持つ青木氏で関が原までの道筋の警護と物品と食料の調達を任されたのです。
この時、伊勢青木氏支流(美濃よりの青木氏)は信長秀吉に組したと記されています。
紀伊守と伊賀守は伊勢国の守護域で、南は南紀新宮まで、北は伊賀地方、東は員弁、桑名までの領域です
信長と戦った天正の乱 3乱 伊賀の戦い、永嶋の戦い、松阪の戦いで伊賀丸山城の戦いで伊勢青木氏は勝利しました。信長が負けた只一つの有名な戦いです。
この時の人物は青木民部少尉信忠です。(天領地の伊勢国は3つに分割されていた)
さて、お家は口伝でとして、一矩の子供としていますが徳川氏に叙封を受けていますので、徳川の軍に掃討されています。武士を追われていますのでその間の経緯がどうであったかが問題です。
商家として紀伊守の末裔は生き延びています。
多分、本家伊勢青木氏紙屋長兵衛の保護をうけたものと考えますが、私の史料には子供の経緯は保持していません。
より伊勢青木氏の研究を進めるためにも、お家のご本家の宗派や家紋や菩提寺や定住地やご先祖の官位や通名などを教えていただけたら幸いです。
実は筆者は伊勢青木氏の本家で青木紙屋長兵衛の直系孫です。
青木一矩の子孫としての研究が拡がります。現在は越前に一矩の一族子孫が存在しています。
推理から、もし一矩次男とすると越前に一族は戻っていて商いをしている事に成ります。
これを確定する事を意味します。
先ずは、概容をお答えしました。
是非、お忙しい中、これ等の事をお調べ頂いてご返事を心よりお待ちしています。