福岡の青木さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。これからも同じ青木氏としてよろしくお願いします。
このサイトは全国の青木さんが集うサイトですので、大いにご利用ください。
青木氏に付いてのことは何でも研究して子孫に資料を遺そうと努力を続けています。
是非にご協力ください。
既に10年程度も過ぎて、大分整いそのお陰で全国の青木さんに知られるように成りました。
又、青木氏と元は親族縁者であった氏のことも揃えて資料も準備していますので、これ等の氏や他氏の氏からのお便りも格段と増えています。
今年になってサイト訪問者が倍増する事にもなり、1日に4千人程の人が訪問して来てくれています。
そのお陰でヤフーの歴史カテゴリーでも最初)は250位の最下位クラスであったものが今や10番目クラスのトップに踊り出ています。
これも全国の青木さんのお陰です。もっと多くの方々にご賛同頂き資料を遺す石杖になればと願っています。
さて、話が長くなりました。
お尋ねの件ですが、青木一重の末裔ではとの事ですね。
お尋ねの提供していただいた情報が少ないので何とも難しいのですが、既に青木一重の事はご存知のようですので、念のためにその詳細事からお話したいと思います。
先ず、青木一重は江戸初期に於いて勲功を立て幕府から摂津麻田藩1万石の領主となりました。
そして、その弟は河内付近の4千石を知行しました。
青木一重は元は武蔵国足立郡青木郷に住まいしていた者で、武蔵7党の丹治氏の末裔と見られています。丹治氏と武蔵7党で徳川氏に合力した事が理由で摂津麻田藩に成りました。
後に青木民部少輔の冠位を受けました。
この一重には2人の息子が居りました。重兼と重正です。
何れも子孫を大きく拡大させています。
重兼は甲斐守の冠位を受けました。武蔵の足立郡に住しました。
重正は信濃丸子に住しました。
この何れもの系譜を把握していますが、そのどちらの末裔か何か史料となるものがあれば系譜を辿ることが出来ます。
判定検証するために次ぎにご質問をします。
先ずは簡単に調べられて判る範囲でお答えください。
”江戸期に九州へ流れて,医業につき代々黒田藩に御殿医”との情報からしますと、江戸期の何時ごろか判りますか。
”九州へ”としていますが、医業を習得する為に長崎に来たと云う事でしょうか。
ところで、家紋は「青木富士」紋との事ですが、青木富士紋には副紋が使われています。
その富士紋の副紋は何でしょうか。富士山の下についている文様か或いは副紋です
丹治氏は副紋を使っていますが、家紋は幾つかありますが、この麻田藩の青木氏は富士山紋の霞紋です。
この富士山紋には5つの家紋があります。
ですので、丹治氏本流の青木氏の家紋は詳細に分けると、丸に揚羽蝶紋、三つ鱗の富士山紋、丸に鱗紋の富士山紋、花菱紋、九曜紋、三州浜紋、の6つの家紋の末裔に成っています。
と成りますので、霞に富士山紋とで富士山紋は三つと成りますのでこの支流末裔である事に成ります。
前二つの富士山紋の何れかから出た末裔支流と成りますが、副紋が決め手に成ります。
鱗紋かその分家筋の丸付き鱗紋か更にその支流の霞紋かです。
先ず、霞紋であるとすると、更にその5つの霞紋の支流があります。
一重一門はこの霞紋です。であるとすると、この霞紋は2つの霞紋になり、更には江戸末期には2つに分流しています。この5つの内のどの霞紋ですか。
次にこれ等を判定するに必要とするお家の宗派は何でしょうか。
それと、お家の本家筋が何処でしょうかお判りですか。消失してもご本家筋が判定の元と成りますのでそこをご確認ください。
その本家筋の菩提寺(青木氏の氏寺或いは宗寺)は何処にありますか、宗派は判りますか。
其処にお家の過去帳がありますが、その過去帳の一番古い人は何時の時代ですか。
もし、判れば、江戸時代の中頃以前の人の一人の戒名が判りますか。
お家のご先祖の元居た所は何処でしょうか。
例として、次ぎのところに一重子孫は定住していました。
摂津、河内、信濃丸子、信濃南佐久郡、信濃小県郡、信濃上田市、武蔵入間、武蔵足立、武蔵大宮
の何れかですか。
以上の情報をが判ればお家のルーツの出自がある程度判りますのでよろしくお願いします。
尚、一重に関するレポートが「青木ルーツ掲示板」と「青木氏氏 研究室」に史料が準備していますし、丹治氏のレポートもありますので、検索で拾い出してお読みください。
では、以上の史料からお調べに成りお便りをお待ちしています。