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  [No.614] 美濃の青木さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/26(Wed) 21:36:31

はじめまして。

上記の青木さんとは違う青木です。

私の祖先も墨俣一夜城の対岸にある日置江村の出です。
家紋は州浜で、浄土真宗です。
菩提寺には家系図があり、一応16代〜18代前まで書かれているみたいです。
江戸時代には名字帯刀を許されていたみたいです。
土地持ちの農民だとは思うのですが。


研究室を拝読させていただきますと、州浜は藤原秀郷の流れをもつと書いてあります。

この土地は3氏の青木氏が混在したとありますが、そのうちの一つである、藤原秀郷の末裔の兼光系藤原秀忠が美濃の守護に付いたときに同行した青木氏という解釈でよろしいのでしょうか?


美濃の青木さん
今日は。始めまして。

全国の青木さんが集うサイトですので、これかからも色々な地域のお便りなど有りましたらお知らせください。

さて、お尋ねですが、前のお便りの美濃青木さんの内容をお読みに成ったと思いますので、この内容に付いては割愛します。

では、先ず、お答えから先にします。
お尋ねの通りです。

そこでお家のその経緯をお答えします。
菩提寺がお在りに成り、過去帳があり、16−18代前まで書かれている処から古くて室町中期前頃のご先祖が一番古い人と成ります。
としますと、それで現在の菩提寺以前にもご先祖が居た事に成りますので、室町初期までは充分に考える事が出来ます。
この様に成りますと次ぎの事が考察出来ます。
鎌倉幕府が樹立した時に藤原秀郷一門は平安期の立場を無くし失職離散しました。
頼朝の藤原秀郷一門への2度の「本領安堵策」と平家に領地を奪われていましてので、「平家没官僚策」の恩恵を受けて、息を吹き返します。
ただ、この時一部は武士を棄てその土地での平安期の守護の立場を生かして「豪農」と成りました。
特に、美濃に於いては、藤原秀郷一門の勢力の西側域の最前線です。
室町時代末までその勢力を維持していました。
この時、この土地の青木氏一門を「武士の家」と「土地の豪農」に分けて、この域を「武と農」の立場から勢力を安定させました。

というのは、この時代は、まだ「兵農分離」の制度(豊臣秀吉が兵農分離令を出した)は実施されておらず、むしろ家臣だけの戦力より「戦いの主力」として「農兵」の制度に傾いており、維持されていましたので、この戦略が特に必要であったのです。
そこで、一門のリーダーの青木氏は24の各地で「豪農」や「豪商」に成りました。
そのうち「豪農」は「土地の長」(名主、庄屋、郷士、郷士、豪農、豪商)として郡又は村の「農民」を「農兵」として徴用する事が出来ます。金品と契約条件をつけて農兵として徴用するのです。
この時期はむしろこの制度の充実が出来ている氏が生き残れる条件でした。
まして、室町時代は、「下克上」が起こり、後には「戦国時代」と成りましたので、「土地の農民」を味方に引き入れる事が勝負を決める条件にも成っていました。
その為には「武士の立場」よりも農民の「土地の長」としての立場の方が都合は良い訳と成ります。
そうする事で、一門を守る事が出来る訳です。
戦いには”何万の兵を集める”と云う事は、「家臣」ではこれだけの兵を養う事は経済的には出来ません。従って、農兵が大きな力と成るのです。
その農兵の長を務める者が必要です。そこで生まれたのが、武士が農民に成り身分を「郷士と郷氏」の豪農としたのです。
この様な事を秀郷一門の中で指揮するのは「第2の宗家」として取り仕切っていたのは藤原秀郷流青木氏です。
青木氏は自ら秀郷一門を代表して実践したのです。
お家は武蔵の宗家の青木氏から指示を受けて先ず「豪農」と成ったと観られます。
そこで、お家の一族を細かく分けて村などの庄屋や名主などと成って「長」を務めたのです。
まして、この土地は秀郷一門の最前線ですので一族一門を守る為に、特にその必要性に迫られていたのです。
この土地は、お尋ねの通り、平安末期の16代目の藤原秀忠に同行した一門の護衛団役の青木氏です。
この土地には定住した「陸奥の小田氏」と陸奥に赴任した藤原秀郷流青木氏との血縁族の末裔「州浜紋」青木氏が、美濃の秀郷宗家の赴任地に同行した時に、この州浜紋一族と血縁した土地の別の豪族の「五瓜紋」と血縁し、更に後に「五瓜に州浜紋」の支流を生み出した青木氏です。
この様に血縁で地固めをして支流を出しています。
五瓜紋は美濃の織田信長等の土地の土豪一族紋です。
この様に大変力のある青木氏であったので、青木氏の分家一部が土地の豪農と成って固めたのです。
ですから、秀郷一門は「下克上」の攻撃に合わずに、また「戦国時代」に滅びる事も無く生き延びる事が出来たのです。
更に秀郷流青木一門の一部は各地(24)での領主としての税の扱いの立場を生かして自ら「豪商」と成りその経済的な裏付の役目を担ったのです。
つまり、その仕組みは、美濃では、豪農として親族が長として務める村の物産を集めて、豪商が売さばき、そして、その利益を親族の豪族に入れる仕組みです。
お家はその一躍を担ったのでこの地域には大変多い氏で家紋なのです。
確定は出来ませんが、この州浜紋のこの土地の青木氏の本家筋と観られます。
この地域に青木氏の豪農が多いのは上記の戦略に拠ります。
最終、秀吉の「兵農分離令」から、更には家康の4階級身分(士農工商)に分けた結果、お家は農民の豪農(多分、郷氏だと思います)として認められて元からの苗字帯刀と家紋を持つ農民として位置付けられたと考えます。
「郷氏」とは「郷士」より上の藤原秀郷一門の氏や賜姓青木氏などの家柄身分などの良い土地の地侍を意味します。郷士とは普通の地侍です。この二つは武士と農民の立場を持ちます。
近藤勇、坂本竜馬などは郷士です。
お家は16−18代ですので、現在の菩提寺に過去帳を持ち始めた室町中期前の時期です。
分家が一族を遺すためにその必要性から宗家からの指示で農民の「郷氏」に成る事を決断実行した時期と見られます。つまり、それまではご先祖の一族のご本家の古い氏寺の本当の浄土宗菩提寺は武蔵国にあったと観られます。
武蔵国の入間を中心に横浜神奈川を半径とする円状の中を勢力圏して秀郷流青木氏が螺旋状に宗家本家分家支流と外側に位置付けて取り囲む防衛体制を堅持していました。
秀郷一門一族の主要5氏は青木氏を先頭に永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏です。
その中で青木氏が宗家の貴族身分に代り「第2の宗家」として一門に指揮をしていました。
その中でも(一門361氏青木氏116氏)州浜紋は血縁族16氏の中にありますので、ご本家はこの圏内の中間当りに位置して護っていたはずです。武蔵の浄土宗寺のどこかに州浜紋俗の青記氏のご本家が祭祀されていると筈です。
宗派は本来では浄土宗ですが、土地にその寺がなかった場合は秀郷一門は浄土真宗に入信しましたので問題はありません。
この日置江地域は国府のところの国府安八郡の北域ですので、問題はありません。
墨俣東地域には未だ長良川の未開墾で浄土寺は無かったと観られますので、土地の郷氏としての役目柄からも特別氏が入る浄土寺ではなく地域の真宗に入ったと観られます。
この地域には郷氏の青木氏が多いのはこれらの青木氏の生き残りの事情からです。

この蘭の上二つの青木氏も同じではと思います。

({藤原秀郷主要5氏と家紋の研究}の青木氏のレポート参照 また其の他の「藤原秀郷一門の生き方」のレポート参照して下さい 詳細にレポートしています)

お答えはお尋ねの通りです。

その背景などの事は研究室にレポートしています。
長いですしゆっくりとお読みください。
他にご質問等ありましたら、お尋ね下さい。

お家の専用の投稿欄を設けますので、其処からReでお尋ねください。