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  [No.587] 「青木」と「青鬼」
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/10(Fri) 20:11:31

雑談掲示板に新潟の青木さんから次ぎのお便りがありました。

大変興味深いお話を頂きましたので、「青木ルーツ掲示板」に記録したいと思います。


「お便りの内容」

おじゃまします。

新潟県加治川に青鬼監人(あおきかんど)という人物の伝説があります。
安倍氏末裔?の黒鳥兵衛(くろとりひょうえ)と親交のあった人物で、平安末期に加治郷に大天城を築いています。(青鬼氏は朝廷より派遣された源氏の手により滅亡)
(出羽の青木氏が安倍氏に加勢したのでしょうか?)

領民に対して大変温情のあった人物だったそうで、現在でも伝説を知る地元住民からは「青鬼様」と慕われています。
城跡は公園として、青鬼様のお墓はポツンと...現在も残っていますので、全国の青木さんもぜひ新潟にいらしてください。


「福管理人からの返信」

新潟の青木さん 今日は。

大変興味あるお話を聞かせて頂きました。ありがとう御座います。
各地には、伝説として青木氏に関するものが多くありますが、青木氏を理解する上で大変重要なポイントがこのお話の中にあります。

実は「あおき」に青木以外にも沢山あります。「あおき」氏を調べる中で、「青鬼」というのが出てきます。
実は、よく調べますと、「赤鬼青鬼伝説」から着ていることが判りました。
全国各地もれなくこれ等の「赤鬼青鬼」を使った色々な千差万別の伝説が在りますが、これ等全てにに共通する事が一つあります。
それは、赤鬼青鬼ともに人間に危害を加える事で、その危害の加える役目は「青鬼」が悪役、「赤鬼」が押さえ役です。
地震、疫病、災害、などはこの「鬼の仕業」とされ、その主役は「青鬼」の仕業とされて、奈良時代から、この「鬼を追い払う風習」があります。日本書紀のなかにも疫病蔓延、風雨や乾燥の大災害が何年も続き、多くの民が飢餓して死んだので、「鬼神」「風神」(広瀬)「雷神」(竜田)の社を建てて朝廷の祭祀行事をしたと書かれています。庶民の節分行事もその一つです。

平安初期から、この様な社会に害を及ぼした人物を姓を付けずに「青鬼」を代名詞にして呼称すると云う習慣が起こりました。
これは、中国の「陰陽五行説」による考え方で、これを仏教が取り入れたのです。
そう云うことから、全国各地で仏教の説法の「たとえ話」として物語が出来たのです。「桃太郎」伝説などはその代表的なものです。「大江山の鬼退治」等も同じです。
つまり、全て、何れも鬼を退治している訳では有りませんで、土地の者に危害を加える山賊や盗賊などを意味し、場合によっては、戦いで勝利した側が相手側を悪として呼称する手段として赤鬼ではなくて悪役の「青鬼」を使うという手段となったのです。

この様な呼称手段としては東北地方の反抗勢力を朝廷は「蝦夷」(えみし)として蔑む言葉を使いました。これ等を征伐する将軍を「征夷大将軍」の(夷)と呼称しますが、幕府を開くときには、この位に登る必要があります。これが「朝臣族」の身分の者として定められていました。
これは、治める側から見た反乱を起こす側を鎮圧する大将の呼称です。

この様な風習では「鬼門」という言葉があります。この方向に向かって不浄な行為をしては成らないと云う風習の戒めです。鬼を刺激してはならないとする戒めです。
「鬼門」とは北東方向を意味します。十二支の丑寅(牛、虎)方向です。
これは、何故にこの方向になったかと云うと、鬼の牙は牛の角、鬼のふんどしは虎の皮で牛と寅の方向となったのです。

この様に悪を成した者の代名詞として「青鬼」とされ、この呼び方を「アォ−キ ァウォーキ」と発音されていました。現在でも神社での祝詞では青はウォーです。
「青木」(アオキ)に対して「青鬼」はウォーキと成ります。

青木氏は皇族賜姓族である事から、仏教の影響で変化をつけて呼ばれる様に成ったと観られます。
つまり、元は陰陽五行説から仏教の説法話と変化し生活習慣用語として悪行を成した者に「青鬼」と呼称したのです。

この「青鬼」の言葉はそれだけに「悪行」と見なされる土地柄、つまり、朝廷色の強い保守的な国のところに多いのです。当然、皇族賜姓族の定住する伊勢、近江、滋賀、美濃、信濃、甲斐、と藤原一門の定住地武蔵、下野、上野、常陸とその赴任先の24地方の内、出羽、讃岐、阿波、越前に目立ちます。皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の定住地と一致する事に成ります。
当然に「赤鬼青鬼」の伝説も多い事に成ります。

安倍の反乱ですが、陸奥の国で起こった「前九年の役」(1051-1062)と「後三年の役」(1083-1087)ですね。「前九年の役」は安倍頼時と子供の貞仁が国司に抵抗して勢力を拡大し為に、朝廷は清和源氏の頼信の子源頼義と孫の義家がこれを鎮圧しました。この時は出羽の清原氏の協力で鎮圧出来ました。

ところが、「後三年の役」では前の戦いで協力した清原氏が勢力を拡大しました。清原氏に内紛が起こり一方の藤原清衡を助けて清原氏を滅ぼしました。
朝廷は義家の勢力拡大を恐れた為にこれを内紛とした。
義家はこの後、藤原秀郷一門に代わって陸奥の「鎮守府将軍」と成ります。
この後、「征夷大将軍」に変化します。
この時に、上記する意味から朝廷に反抗した悪罪で「青鬼」と呼称されたのは安倍氏等の事です。

「監人」とは朝廷の役職を司る役人を云います。
もとより、「監」とは水鏡に映す様を示します。
例えば「監督」とは”水鏡に映すようにして観守る人”です。

これには平安期には次ぎの3つがあります。
1 「監奴」(かんど) 下役の者の頭人
2 「監司」(かんし) 州郡の見廻り役人
3 「監吏」(かんり) 監督する役人(主に税関役人)
これ等を総称して「監人」(かんど)と云います。
地元では、「安倍」氏を含む反抗者等を氏で呼ぶのでは無く、故意的に呼称を朝廷に憚って「青鬼」として呼んだものと観られます。その様な古史書には他の地での表現が見当たります。
それが当時の保守的な社会の慣習用語でした。

1、2、3以外に、これと似た「蔵人」とか、「冠者」とかも職位の呼称です。
普通は個人名では、この「監人」の後に来る「通名」と「俗名」と「幼名」が個人名と成ります。
前には、「身分」(朝臣)と「官位」と「官職」が来ます。

そこで、上記のことを当てはめますと、次ぎの様になるのではと思います。
このお便りの風説の意味からして、「監奴」(かんど)で、安倍氏等を罵して陸奥の”下役者の頭”の意味が含まれているのです。しかし、慣習用語でしたので土地の者にしては別の心情が合った事は否めません。
風説は「監人」とありますので安部氏の宗家筋を指しているのではと思います。

藤原秀郷流青木氏は「第2の宗家」として宗家に変わって一門を指揮していましたので、確かに青木氏は陸奥では少なく成りましたが、安部氏に加担する事は出来ませんし、平泉の藤原氏も清原氏と血縁を結んでいるとはせよ秀郷一門の血筋も引いている氏です。前九年の時は協力しているのですから青木氏を「青鬼」として扱われる事は有りません。
もしそうするのであれば陸奥の藤原秀郷流青木氏は絶えている事に成ります。
逆の立場に居たわけですから。

各地に存在する「青鬼」は上記の意味を持っていますが、越後も同じだと思います。
越後には、青木氏は定住していませんで、藤原利仁流一門の勢力圏の在所です。其処に秀郷流青木氏の勢力軍が入る事は有りません。
陸奥側国境(藤原秀郷流青木氏)と信濃側国境(皇族賜姓青木氏)には青木氏が定住しています。

過去に調べた結果ですので投稿されました風説がここでお役に立てる事が出来たかは判りませんが「青鬼」にはこの様な意味を持って居ます。それが何時しか時代を経て氏名と誤解されて行ったと思います。各地では地名になるほどですので。

ありがとう御座いました。またお便りください。


  [No.588] Re:「青木」と「青鬼」
     投稿者:新潟市の青木   投稿日:2009/07/10(Fri) 21:14:25

勉強になります。
青鬼伝説と「我が家に関して」でお世話になった青木です。
我が家に関しては今後も調べていきますが、実家は鷲ノ木新田にあり小作地も有していました。新発田藩で水害があった際にはこの地の水門を開け堤防を切って排水したそうです。濁流は村上藩を襲い下流の長岡藩も増水したことと思います。
解説にあった災害と青鬼ですが、近隣諸藩からみれば鷲ノ木新田の先祖は「青鬼」かもしれないと思い胸に感じるものがあります。