郡山の青木さん
今日は。始めまして
青木サイトにようこそお越し頂きました。これからも同じ青木さんとして宜しくお願いします。
このサイトは全国の青木さんの集うサイトです。
青木氏のことなら歴史的なことも含めてあらゆる情報が準備されています。何でもこのサイトにありますのでお楽しみください。
又、地元での色々な情報などありましたお便りを是非ください。
さて、家紋が「富士に霞紋」、山形の東村山郡の谷地西山の出との事で、江戸期に武士ではなく苗字帯刀を許されたお家との事ですね。
家紋から検証しますと、元は武蔵の国の土豪で「武蔵7党」と云う土豪集団がありました。
この土豪集団の中の一つで丹治氏が在りました。この丹治氏は平安期に「多治彦王」と名乗る皇族のものが居りました。この「多治彦王」は朝廷よりこの武蔵の国に配流されました。
多治彦王は武蔵の国には配流された事は史実です。
この時、地元の土豪との間に子供が出来ました。この事は可能性の状況証拠です。
(他にも3人の皇族系の者が関東に罪を得て配流されていますが配流子孫を遺しています)
この子孫が丹治氏を名乗りに「丹党」を名乗りました。
この本家末裔の一部が朝廷の許可なく「嵯峨期の詔」を根拠により皇族血筋を受け継ぐ者として丹治氏系の青木氏を名乗りました。
これが皇族賜姓青木氏29氏の一つで丹治氏流青木氏です。
現在でも、埼玉入間にはこの子孫と藤原秀郷流青木氏が混在して定住しています。
夫々別の青木村を形成していました。
「武蔵7党」は武蔵の国の入間付近の武装農民(土豪)の「共同防衛集団」で、藤原秀郷一門がこの地を納めた後はこの配下に入りました。
秀郷一門は「武蔵7党」の一つ西山氏と血縁して7党との連携を執りました。
鎌倉幕府樹立により後、秀郷一門が朝廷が崩壊したので失職離散しました。当然、丹治氏も失職しました。この時、武器を捨て、再び地元の土豪農民として生き延びました。
その後、下克上と戦国時代となり、一族の統治が取れずに丹治氏は分散しました。
その後、室町期にはこの丹治氏一門は「武装農民」であるために各地で「郷士」(地元土豪で農民:ごうし)の身分となり、庄屋、名主、豪農として生き延びました。
武装農民はこの時代(安土桃山時代以前)は「兵農」が主流でした。”いざ戦い”となると農具を捨て土地の領主から「契約金品」を受け取り「領主の兵」として「手弁当」で参加するシステムです。
戦いに勝つと、色々と特典が与えられ、その中の一つとして「苗字帯刀家紋の付与」であり、「庄屋や名主」や「郷士の身分」や最終は「郷氏への身分」の格上げをしました。
これを禁止したのが豊臣秀吉の「兵農分離」の禁令です。これが秀吉の農民から武器を捨てさせる「刀狩の策」です。
しかし、江戸時代には、この郷士達には江戸幕府は特別に再び一定の規則を下に「苗字と帯刀と家紋」をもつ事を許したのです。
この末裔の主家本家が関が原の戦いで勲功をあげ江戸期になり一族一門を引き連れて徳川氏の家臣となって関西の摂津2万国の大名となり、その分家は河内4000石となりました。この時、ふるさとの地元の山 「富士山」を図案化して家紋として用いました。
そして、その家紋は一族の違いを表す為に家紋の下の部分に「副紋」を使用して違いを区別したのです。
この内の一つが、「6富士山文様」の中の「富士山に霞紋」なのです。
これが武蔵7党の一つ丹党の丹治氏系青木氏です。
この一族は埼玉から山形県境まで分布しています。
家紋から検証しますと、明治初期あたりに山形東村山郡に移動したのではと思えます。
江戸時代では特別な理由 家臣、武士となって赴任地に移動定住しない限り勝手には山形には移動できませんので、これを犯しますと「国抜け」として一族打ち首罪です。
移動の時期は明治と成ります。
江戸期からこの東村山郡谷地西山に定住しているとすると、山形県境の住民であったと成ります。
武士になった大名に成った主家は埼玉入間付近の末裔ですので、山形県境ではこの支流の分家の末裔と成ります。
参考に、「青木氏氏 研究室」の「秀吉に取り立てられた青木氏」のレポート、「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の4/10のレポートを参照して下さい。
「武蔵7党」で検索するとお家のルーツの事が書かれています。
「地名地形データベース」の武蔵の国(埼玉)で検索して見て下さい。
「青木ルーツ掲示板」にも昔親族であった丹治氏の青木さんからもお便りが有りますよ。検索で観てください。
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