どなたかはよく判りませんが、今日は。
近江源氏佐々木流青木氏に付いてと美濃の馬渕氏の件ですが、先ず近江佐々木氏と近江青木氏と事に付いてお答えします。
佐々木氏の発祥に付いて2つのルーツがあります。
一つは近江佐々木氏、二つは滋賀佐々木氏であります。
一つ目のこの佐々木氏は天智天皇期に発祥しました。
この佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子が元祖と成りますが、第6位皇子の施基皇子が天皇より賜姓(天皇より氏を与えられて臣下して侍になり天皇の親衛隊を務めました。)を授かった後にこの川島皇子にも特別に賜姓しました。
第6位皇子が臣下する事が起こったのは大化改新の蘇我氏に牛耳られた事と財政負担からの反省からの対策でした。其れまでは第6世臣下方式でした。つまり、第4世までは皇位継承権を保持し第5世はその中間としての令に基づく慣例でした。
第6位と第6世の大きな違いです。第6位はつまり原則として第2世と成ります。
大改革です。これが大化改新です。行政財政改革です。
この結果生まれたのが此れが皇族賜姓青木氏の伊勢の青木氏です。5家5流の皇族賜姓青木氏の最も古い青木氏です。(647)
同時に近江佐々木氏です。
この二人の皇子の活躍は日本書紀にも18回程度も出てきます。大変活躍し天智、天武天皇から14人の皇子の中でも万来の信頼をされていました。天皇の相談役で補佐役を皇太子に替わって行っています。その後も天武天皇の妻の持統天皇のときにはその能力を褒め称えています。
この伊勢の青木氏(施基皇子)は軍略師(軍略所)として天皇から全ての行政の問題の解決に指名されて日本全国に飛び回って活躍しています。(川島皇子も同じ)
この伊勢の青木氏と近江の佐々木氏は1575年頃まで軍略師(軍略所)として活躍しています。
青木氏は天皇家の親衛隊でその軍略所(天皇の相談役)を担っていてた家柄です。
天智、天武、聖武、桓武、光仁の5人の天皇からの第6位皇子から伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の王として赴任し皇族賜姓青木氏を遺してきました。
この2代後の嵯峨天皇から青木氏を変名して賜姓源氏となりました。
家紋は皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏とも笹竜胆紋です。
この5家5流の青木氏は24氏の支流に広げています。
この時、第7位以降の皇子は下俗(比叡山や門跡寺院などの僧侶や一般の者になる事)する事に成っていましたが大変有能であったことから特別に地名の佐々木を採り佐々木氏と賜姓しました。
此れが第1の近江王の佐々木氏です。(647)
二つ目は宇多天皇期に同じ第6位皇子に佐々木氏を賜姓し滋賀王となり滋賀の佐々木氏を発祥させました。
お尋ねはこの一つ目の近江王の近江佐々木氏です。
次に、近江青木氏の件ですが、この青木氏は天武天皇期に第6位皇子を近江の皇族賜姓族の青木氏として臣下させました。(この時、血族結婚である為に施基皇子も川島皇子も天武天皇は14人のうちの皇子として扱われていました。)
ところが、この皇族賜姓青木氏は同じ天智天皇の川島皇子の佐々木氏との間で勢力争いなどがあり、一部は滋賀に移りました。滋賀王の青木氏となり暫く定住していました。
ところが、再び一部を残して一族は近江に移動しました。
矢張り何らかの理由で摂津王として摂津に移動しました。
この残った一部の分家の滋賀青木氏の分家から分派した青木氏を、上山と名乗る者がこの子孫が途絶えた分派青木氏を乗っ取ってしまいました。そこで、この途絶えた分派と分家の本家との間で争いが起こりこの本家が負けてしまいました。
この上山の青木氏は勢力を拡大し出世して大勢力となりました。(当時は家柄が皇族賜姓青木氏か藤原氏か藤原秀郷流青木氏の系譜の持つ家柄でないと国司とは成りえませんでした。)
そして、この上山の青木氏が10国の国司や押領使になり赴任しました。この時に各地に子孫を残し土地の豪族と血縁して上山系の青木が増えました。
(この上山氏は伊勢北部伊賀地方の上山郷の出で、立身出世したものです。)
近江王の賜姓佐々木氏と、同族の近江青木氏が滋賀から戻り血縁をし、この青木氏の方が男系跡目が出来ずに2代続きの女系となり家紋は同族血続一族門であるので変紋はせず佐々木系青木氏となりました。家紋は矢張り笹竜胆紋です。(近江佐々木氏も笹竜胆紋)
この佐々木系青木氏は近江に残り本家近江青木氏は摂津に移ります。
次に、この皇族賜姓青木氏の後の皇族賜姓源氏は嵯峨天皇期から16代(実質11代の花山天皇まで)まで源氏を発祥します。
この源氏8代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が賜姓を受けて臣下し清和源氏と成りました。
この2代後の源の頼光が攝津、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の国司を務めました。
(甲斐は後に弟の頼信に譲り、頼信はここを拠点に関東を制覇しました。)
この時、この攝津の青木氏と摂津の源氏と血縁をし同族血族の血縁をして摂津源氏系青木氏が発祥し同じ様に各地で血族結婚を繰り返し勢力拡大を図りました。
この時に近江でも同族血族結婚が起こり近江源氏佐々木系青木氏が発祥します。
つまり、青木氏であり佐々木氏であり源氏である同族賜姓族の3つの血族結婚が起こったという事に成ります。
佐々木氏系は2つの地で、源氏と青木氏は5つの国で起こりました。
当時は血族結婚はこの皇族身分では血筋の純血性を守る為に普通の事でした。平安中期まではこの血族結婚を繰り返しました。
青木氏は2つのルーツから発祥しています。一つは5家5流の皇族賜姓青木氏24氏と藤原秀郷流青木氏の主要9氏の116氏があります。
藤原秀郷流青木氏は藤原鎌足より8代目で第3子の千国から発祥しています。何れも母方藤原氏の血筋からの出あります。
この2つの青木氏はそのルーツは明確であるし一定の条件を満足しているものではっきりしています。
ところが、江戸の初期前後の混乱期と明治の初期の混乱期と苗字令にてこの高位の青木氏を系譜偏纂と搾取で発祥しています。
江戸初期前後の青木氏は庶民から侍になり出世して青木氏を名乗った第3の青木氏が生まれています。この時の青木氏には完全に矛盾がありますし系譜は不明確です。100%に近くこの青木氏はルーツは確定不能で信用出来ません。
明治の青木氏は当時は神社や寺院が戸籍簿の役目を果たしていましたのでここに高額の金品を渡して系譜家紋などを偏纂して明治政府に届けました。この青木にも当然矛盾があります。
この2つの第3青木氏には宗派と家紋が異なっています。
上記の2つのルーツの121の青木氏は浄土宗ですし自らの菩提寺と村を持っています。
平安初期から浄土宗にはこの高位のものしか入信できませんでした。したがって寺数も少ないことから各地にはなく上記の様な土地柄にしか有りません。この状態は江戸中期まで続きました。
徳川幕府は特別にこの浄土宗を奨励しました。しかし、入信できる人はある程度の身分のある侍でした。ですから寺の戸籍簿の過去帳も第3の青木氏には江戸中期くらい以降しかありません。
ですからせいぜい14−15代程度です。
明治以降は3代程度ですしか判らないというのが現状であっても搾取で同じ系譜が2つも3つも出て来る始末です。
江戸前後の第3の青木氏は概ね5つ程度の大一族が確認出来ます。一部2つの青木氏は豊臣と徳川時代で小大名に成っています。
家紋に於いても一家でも家紋を搾取しても親族や本家が違うと言う事が確実100%で起こります。
そこでよく似せた家紋にしています。
上記した2つの正規の青木氏は全部で33文様となり家紋にしては121と成ります。
この家紋の土地柄もはっきりしています。
また、青木村も形成しています。
さて最後に、馬渕氏の件ですが、この馬渕氏は上記の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の中にはありません。鎌倉期前後には氏としてはせいぜい40−200程度です。
家紋200選というものがありこの中になければ第3の青木氏です。
奈良期40と平安初期は200程度、鎌倉800程度、室町期40程度、江戸期2000、明治で8000程度と成ります。
この馬渕氏にかかわる青木氏と馬渕氏は江戸期からの氏で室町期前には確認出来ません。
美濃の安八郡の件ですが、青木氏の地名地形データーベースに詳しく記載していますので参照して下さい。
その他の青木氏に関わる内容は「青木氏と血縁族(家紋)」や「藤原一族の生き方」などに詳しくレポートしています。
近江の佐々木氏や青木氏に付いても「皇族賜姓青木氏」関連のところに詳しくレポートしています。
系図に付いてはプライバシーに関わることなので掲載は出来ません。
馬渕氏の菩提寺に行かれて過去帳をご覧になると判明します。
一族の菩提寺を持っていないとなりますと判るのは過去帳では江戸中期くらいまでと思います。
また、インターネットでは室町期からの系譜などが記載されていますが余り信用は出来ません。
下克上の混乱と戦国時代の混乱で規範は完全に崩壊していますので。
豊臣や徳川の系譜なども全く搾取であるくらいですから。
しかし、江戸中期からのルーツはルーツで尊重するべきですが偏纂と搾取がない信用できるものは鎌倉期までです。下克上の持つ意味をご理解下さい。
念の為にこの近江の青木氏は豊臣時代に他の族が本筋の青木氏を奪い取る為に戦いを2度し本筋の青木氏が負けて奪い去られています。この時は秀吉もこの戦いを容認しています。家柄をよくしないといい役職に付く事は出来なかつたのです。この勝った近江の青木氏は豊臣徳川の戦いに参加しています。後に徳川によって滅ろぼされます。
負けた青木一族の氏も滅びました。
ですから、近江青木氏(佐々木氏系含む)は本来は滅亡しています。
何ゆえに存在するかは判りません。ここが江戸明治共に第3青木氏のねらいどころです。ゆえに系譜等を発見する事は難しいと思います。
後に再び江戸初期前後にこの近江の青木氏の件で二つの名乗った青木氏が紀伊の守を名乗り本物から指摘されてばれた事を隠す為に”後勘に問う”として逃げました。
非常に難しい問題ですので充分にレポートする事は出来ませんが何とかお判りいただけましたでしょうか。
何かご質問有りましたらお尋ねください。その前にゆっくりと他のレポートご参照ください。