Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/09/06 (水) 03:50 [ メール ]
ご無沙汰しておりました。調べましたことを報告致します。まずはうちの副紋の雁金紋のことです。副管理人さんのおっしゃる通り地元では見つかりませんでした。ですが対岸の岡山に戦国時代、宇喜多直家の重臣として活躍した花房氏が雁金紋(尻合わせ三つ雁金紋)を使用していたことがわかりました。花房正幸が瀬戸内海に面した邑久郡虫明城主(18,000石)として海上交通に睨みをきかせていたそうです。うちの里は本州(岡山)まで直線で7Kと瀬戸内海で一番狭くなっている湾岸にあります。邑久とは目と鼻の先の距離です。武家家伝にはつぎのような文章がありました。
戦国時代、備前国に清和源氏足利氏流を称した花房氏がいた。花房又右衛門が播磨灘を船で通ったとき、海賊に襲われ、弓矢をもって防いだが、矢をきらして進退窮まった。その機に乗じた海賊は船を寄せて花房の船に乗り移ろうとした。そのとき、最後の雁又の矢で海賊の大将の首を射抜き、勢いにひるんだ海賊に「われは花房又右衛門ぞ、雁金紋に雁又矢、これぞ天下の珍高ぞ」と大音声でよばわった。その勢いに恐れた海賊たちは、以後、瀬戸内海を通る「雁金紋」を付けた船は襲撃しなくなったという。この話から、戦国時代にあってすでに花房氏の雁金紋が瀬戸内にあってかなり有名なものであったことが知られるのである。とありました。花房氏は次代の正成の時も宇喜多氏の重臣として秀吉の備中高松城攻めに従軍して水攻めを進言した功により、のち備中高松城主ともなり31,000石を領したそうです。のち宇喜多家内紛により徳川家に仕えたそうです。次代の志摩守幸次はで草創期の伊勢山田奉行に任じられています。 うちの雁金紋はこちらのほうに関係がありそうにも思えます。あと以前、うちは播州赤穂にも関係があると書かせていただきましたところ、伊勢青木氏も関係があったとお話いただきました。赤穂藩一族浅野長恒という人が刃傷事件当時伊勢山田奉行だったそうです。その縁で伊勢から赤穂収公関係に船を廻す機会があったのでしょうか。
花房氏の出自も秀郷ゆかりの常陸國久慈郡花房郷だそうです。伊勢のこともそうですが、何かが少しづつ繋がっているような気がします。
うちの地域は戦後すぐまで海運業で栄えていて、戦時中も船は徴用されたりしていたそうですが、何隻あったとかどこに行ったとか調べようとしても何一つ資料がでてきません。船の名前も屋号みたいな感じで口伝えで少し残っているだけです。地元の数少ない文献にもみつかりません。個人で所有しているものならば余計、他人には見せないだろうし、資料の価値も興味あるものにしかまず、わからないから、忘れさられ消失するのが多いのだろうとつくづく感じさせられました。 前回、お話した藤神様の付近にあった本家もどこに移ったかもわかりませんでした。話では馬小屋とか刀の類もあったようです。明治の初めの頃に事情があり他所に移ったそうです。その時に全て処分されたようです。30数年前を最後に無くなった藤神様の相撲は10/14に行われ、その後荒神さん、船だまさんと日を変えて行われていたようです。(なぜその日だったのか不明)
あと、青木の墓石の家紋を調べたところ3地区にわかれて50基位ある中で1基だけが丸に剣片喰紋がありました。あと亀甲紋のことを以前、教えて頂きましたが、青木姓ではないののですが三ツ盛亀甲に花菱の家紋がありました。
では、またなにかわかりましたらご報告致します。