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  [No.397] 富岡さんのお尋ねの件・・・(上州富岡氏)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:51:51

富岡さんのお尋ねの件・・・(上州富岡氏)
副管理人さん 2008/08/24 (日) 19:54
戦国サイトから富岡さんの投稿をこちらに移しました。

以下がご質問です。

はじめまして、ブログではお世話になっております。
さて、私の先祖は真田町の横尾城の城主であったようです。村上氏に従い上田原の戦いに参陣し当主は討ち死にし、上州へ子息が逃れてきたとの話が伝承されています。横尾氏の家紋を調べますと、子息が逃れてきた地が富岡市丹生という場所ですが、この地域の横尾の家紋は五瓜に唐花ですが、私の家は逆三角が三つ上から大きく、中央、一番下が最も小さい三角で「下がり藤菱」とか言っていた記憶があります。私の家は本家といわれ、代々続いておりますが家紋が全く異なるのはどうしてなのか疑問に思いメ−ルしました。



今日は。富岡さん。始めまして。
福管理人です。
これからも宜しくお願いします。

さて、お尋ねの件ですが、「下がり藤菱」と「五瓜に唐花紋」との違いですね。
その前に、「下がり藤紋」の事に付いてご説明いたします。
「下がり藤紋」は藤原氏の綜紋です。
藤原氏は四家ありまして、式家、京家、南家、北家とあり、最も栄えたのが「北家」です。
この北家が綜紋としました。しかし、「下がり」と云う意味を嫌い上りに変更しました。
ところが、北家でも最も栄えたのが、藤原秀郷一門です。鎌足より8代目です。
この秀郷が、この「下がり藤紋」を頑固に維持しました。
この内、秀郷351氏(家紋数)の内、この綜紋を家紋としたのはたった9氏です。秀郷主要5氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)があり、この他に佐藤氏など4氏がこの綜紋を維持しています。
「下がり藤」の綜紋は宗家(本家)が維持する義務があります。男系跡目が出来なくなっても上記の9氏の中から養子を取り家紋を変更させないようにする義務があります。絶対に護ります。
もし、難しくなった場合、上記の下がり藤紋の9氏の末裔縁者から跡目を入れて変紋をしなくても良い様にします。それでも難しい場合は9氏の血縁縁者(他氏)から跡目を入れると、他氏の家紋(血液)を持つ一部が入ります。その時、この9氏の宗家は下がり藤紋の中央にその家紋を入れて、綜紋を維持します。
つまり、「下がり藤に・・紋」と成ります。
そこで、お家の「逆三角が三つ上から大きく、中央、一番下が最も小さい三角」が入る訳ですが、ところが、この紋は日本全国8000の家紋がある中では見つかりません。
そこで、よく似た菱を3つ重ねた「三階菱」と云う家紋があります。(疑問1)
このことを先ずお調べください。
次に、「下がり藤紋」の綜紋を仕えるのが9氏の宗家末裔ですが、お家はこの中にありません。(疑問2)
主君の真田氏は有名な藤原秀郷の一門末裔です。しかし、その家臣が藤原秀郷の綜紋です。逆転しています。(疑問3)
横尾氏が「五瓜の唐花」であるとのことですが、これは正しい家紋です。真田氏は甲斐武田氏の家臣と成りましたが、武田氏は「武田菱紋」と「唐花紋」も使っています。
武田領にいた横尾氏は五瓜族と武田氏の支流との血縁族です。ですから「五瓜に唐花紋」に成ります。本家であれば、この家紋を護っていた筈です。
ところが、富岡姓に苗字が変わっています。普通本家であれば家紋と同様に変えません。本家が変えてしまっては本家ではなくなります。本家はこの義務を持っています。
分家が変えないのに本家が氏名と家紋とも変わっていることは疑問です。(疑問4)

たとえ信長に追われて一族で逃亡しますが、逃亡しても余程のことが無い限りこの辺は変わらないものです。
先ず、ご本家であれば、次のことが確認出来る筈ですので、お調べください。
宗派は何、菩提寺は何処、寺の過去帳の有無、仏壇の形式、家の過去帳、伝統古物、など

宗派は藤原秀郷一門の真田氏と同じ宗派である筈です。
有る限定された藤原氏一門が入門している宗派があります。
何宗ですか。

菩提寺は、城主であるので、横尾氏一族一統が祭祀されている寺があります。本家ですのでこの横尾氏菩提寺があり、そこに祭祀されている筈です。

当然に、寺には横尾氏の過去帳がある筈です。この有無です。
この過去帳にはお家のご先祖の名前が書かれています。そのご先祖が横尾城の前のご先祖が確認出来る筈です。

仏壇は城主で本家あるので、仏壇の有無と宗派の形式の仏壇であるかと言う事の確認。

当然、お家には家の過去帳があり、先祖代々位牌(個人位牌ではなく)の中に戒名と俗名を書いた木札がある筈です。そのご先祖の古い人が横尾城の時期に一致しますか。

ご本家であれば、少なくとも何らかの古物伝統のステイタスになる品物を保持している筈です。何かありますか。周囲に分家の横尾氏が存在する限り何か本家として持っている筈です。

疑問1−4と確認6でありますが、この確認で大方の事は明確に成ります。

実は、この様な藤原一門の有名な氏にはこの名前を搾取偏纂し口伝を造りした氏が大変多いのです。「第3の氏」と言いまして、第1期の室町末期、第2期の江戸初期、第3期の明治初期の3期混乱期に起こっています。第1期は戦国、第2期は旗本御家人の家紋化、第3期は庶民の苗字令の時です。
この3期には土地の名士の氏名などを名乗りました。
この第3氏には、上記した疑問と確認に矛盾が生まれます。
藤原一門はこの辺をはっきりさせている氏ですので違いが出てきます。
ですから、上記の点を確認してください。

お答えは、”本家であれば、家紋と氏名は江戸末期までは原則変わらない”という事に成ります。


尚、この青木サイトには、藤原秀郷一門のことが詳しくレポートされていますので、ゆっくりとお読みください。

右メニューなどからお選びください。

ご質問が有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.398] 青木氏じゃないのですが・・・・(武州富岡氏)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:53:47

青木氏じゃないのですが・・・・(武州富岡氏)
三毛ちゃんさん 2008/11/30 (日) 12:48
б(=^・w・^=)三毛ちゃんと申します。б(=^・w・^=)青木さんじゃないのですが、家のルーツ調べていて苦労してます。б(=^・w・^=)富岡氏の子孫で、言い伝えによると、自分の先祖、鉢形城に立て篭もって、後北条方について、豊臣秀吉と戦ったらしい。戦争に負けて一家離散したらしい。小泉城城主の富岡一族と同じ運命をたどりました。小泉城城主と同じ運命たどったところ見ると、【小泉城城主の分家なのかな?】と思い家紋を調べたら別でしたので【別の一族なのかな?】と思っております。
б(=^・w・^=)と同じ氏族 埼玉県内にも多くいるみたいで、ルーツをたどると、いくつかのルーツに分かれるらしく、自分の祖先のルーツたどり着くのに苦労してます。埼玉鉢形城近辺の一族家紋は【丸に剣花菱】が多いらしいです。【丸に剣花菱】は、武家の家紋で農家では使えなかったらしいです。б(=^・w・^=)も同じ家紋なのですが、ルーツがわからないので知っていたら教えてください。

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★結城氏族 群馬県小泉城城主 富岡氏 【結城氏の分家】家紋 三つ巴【←結城氏と同じ家紋。】
★小山氏の分家で富岡氏もあるらしい。
埼玉県もいくつかルーツあるらしいく
★藤原足利氏の一族の分家で富岡氏というのがあるらしいのですが、資料不足でそれ以上の事 わかりませんでした。
★あたりも草加市近辺に富岡村というのがありそこから出た一族 家紋不明
その他2ルーツあるみたいですが


  [No.399] Re: 青木氏じゃないのですが・(武州富岡氏)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/22(Thu) 09:55:54

Re: 青木氏じゃないのですが・・・・
副管理人さん 2008/12/01 (月) 19:37

富岡さん 今日は。 始めまして。

青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

さて、さっそくですが、青木氏のことを研究しているサイトですので、富岡氏の事は良く判りません。

只、多少、青木氏と関係する所がありますので、そこの所でお答えし、さらにルーツ調べの知識のことについてお答えします。

提供して頂いた情報は
秀吉に攻められて鉢形城に立て篭もった。
後北条氏に合力した。
小泉城主富岡氏と別一族か。
埼玉県に多くいるらしい。
鉢形近辺の一族家紋は「丸に剣花菱」
お家の家紋は剣花菱紋と同紋
小泉城主は結城氏一族で家紋は三つ巴
小山氏の分家の富岡氏
草加の富岡村

以上だと思います。

実は、この情報の中に繋がる4つあります。
先ず、結城、丸に剣花菱紋、小山氏、埼玉(草加)、小泉氏(富岡氏)です。
この5つは繋がっています。

更に、鉢形城の家紋と小泉城の家紋の違いの件です。

では、検証します。
先ず、結城氏は下総の結城の結城氏で、この氏は関東全体を抑えていた藤原鎌足より8代目の藤原秀郷一門で藤原朝光の領地でした。この朝光の前に平家に土地を奪われました。
ところが、この朝光はいち早く源氏の頼朝に合力し平家を追討して、本領安堵され、土地を取り戻しました。
この子孫が結城氏です。この子孫から藤原秀郷一門の主要5氏の一つ藤原一門結城氏系永嶋氏が発祥しました。
そこで、この藤原秀郷一門は「鎮守府将軍」として陸奥国に代々赴任しました。そこで土地の豪族小山氏や小田氏や花山氏(花房)らと血縁をしました。そして、その小山氏は藤原秀郷一門の者が赴任先から戻る時にこの血縁族の小山氏も同行してきました。そして、この秀郷一門の勢力圏の常陸や上総、下総付近一帯に定住しました。
この一族は「関東屋形」と呼ばれる大豪族の一つに成りこれが常陸の小山氏です。
その時に同行した血縁氏の小山氏とその一門の小田氏の一部は秀郷一門の赴任地の甲斐の国にも同行しました。そして、甲斐で勢力を持ちこれが地名から武田氏(武田菱紋)と成りました。
この武田氏の分家が「花菱紋」を使いました、「剣花菱紋」はその武田氏の更に分家と成り、その更に分家が「丸に剣花菱紋」です。

余談ですが、血縁氏の花山氏(花房氏)も信濃足利に、秀郷一門の赴任地(足利大夫)に同行しました。そして、勢力を持って地名を名乗ったのが初代の足利氏なのです。ところが途中で秀郷一門が絶えかけた分家に宗家一門から跡目を入れて本家を乗っ取っりました。(元本家は八頭と米子に逃げ延びそこでむらを形成しました。この時、足利氏系青木氏も一部同行し青木村を形成しました。これが米子青木氏です)

そして、この藤原秀郷一門は武蔵国(埼玉入間)と下野、上野などを領地を拡げました。
その防衛網は入間を中心に横浜神奈川を半径とする円を描く中にいて、その勢力は近江地方までに及んでいました。
次ぎにこの小泉城の土地には小泉氏が発祥しましたが、この氏は藤原秀郷の末裔朝光の子孫結城一族の末裔で、藤原秀郷一門の支流末裔です。
秀郷一門は主要5氏24氏から出来ていますが、更にその24氏の末裔の更に支流に成ります。
この小泉氏の支流の富岡氏はこの秀郷一門の支流一族の末裔と成ります。

三つ巴紋は秀郷一門の121の家紋群の中の一つです。つまり、秀郷一門の小山氏を含む結城氏系末裔支流一族と成ります。
秀郷一門の内、青木氏と永嶋氏と長沼氏と長谷川氏と進藤氏はこの三つ巴紋と血縁しています。つまり、同族血縁をした事を意味します。つまり、巴紋は秀郷一門の家紋です。故に小泉氏(富岡氏)は秀郷一門結城氏であるので巴紋の家紋であります。巴紋筋の藤原秀郷一門と成ります。
当然、秀郷一門支流の小山氏も三つ巴紋です。
これで全て藤原秀郷一門で繋がっている事に成ります。

藤原秀郷一門の藤原朝光の結城一族系支流小泉氏系の支流富岡氏と、元の藤原一門の支流小山氏の富岡氏は一族同門であります。更には何れもが全体としては支流末孫の藤原秀郷一門であります。
ただ、姻戚関係で出口が違う事になったわけです。それは次の結果から起こります。


小山氏の「剣花菱紋」の富岡氏は武田氏の分家末裔と血縁をして男系跡目が出来ずに、武田氏の分家の分家と養子縁組(娘)をし、再び男系跡目に恵まれず、結局、女系となり、氏家制度の「家紋掟」により家紋は養子先の家紋(三つ巴紋から剣花菱紋に)と成ったものです。これが小山氏系の富岡氏と成ります。
土地の地名から名乗った富岡氏(上野の富岡村か武蔵の富岡村)です。

結城氏の「三つ巴紋」の小泉氏の富岡氏は、(小泉氏の支流末裔の者が、)同じ藤原秀郷一門の三つ巴紋の小山氏の支流富岡氏一門から本家小泉氏の分家に養子縁組(嫡子跡目を養子)で入り富岡氏を名乗った。(小泉氏よりこの富岡氏の方が氏が繁栄した。?)これが小泉氏一門の小泉城主の富岡氏と成ります。

藤原秀郷一門の三つ巴紋の結城氏本家と同じく三つ巴紋の藤原秀郷一門の小山氏本家とは、藤原秀郷一門の「関東屋形」と呼ばれて血縁関係にあり、更にこの結城氏流小泉氏系富岡氏、小山氏流富岡氏は四重の同族血縁です。

小山氏は元は陸奥で藤原秀郷一門と血縁し、更に同じ直系一門の結城氏と血縁氏し、更に藤原秀郷同門の小泉氏と富岡氏が血縁し、更に再び小山氏の富岡氏が血縁した形に成ります。
当然、これ等には、藤原秀郷一門の血筋を陸奥で持つ小山氏系(小田氏)武田氏系富岡氏ですから、藤原秀郷一門の血縁で固めに固めた事に成る藤原秀郷一門の支流族一門と成ります。

さて、最後は草加市の富岡氏ですが、もうお判りいただけたと思いますが、武蔵国入間を中心にして藤原秀郷一門を、秀郷主要5氏の一つの本サイトの青木氏116氏の本家筋が円を描く様に取り囲んで宗家を守っていました。外側に行くほど116氏の分家筋となりその本家筋が守っていました。
その防御網の縁は栃木群馬までに及んでいます。
その秀郷総宗本家の護衛役を一切担い「第2の宗家」と呼ばれて取り仕切っていました。そして、分家筋は秀郷一門の赴任地24地方に同行して末裔を土地に遺してきました。
その武蔵草加に富岡氏が多いのは、小山、結城一門が血縁をした土地の豪族の富岡氏が村を形成して住んでいた事によるものであり、この様な事情から充分に考えられます。

実は、この武蔵一帯には「武蔵7党」と言う土地の小豪族集団がありました。
(児玉、秩父、比企、入間(丹治)、大里、葛飾、川越等)上州富岡(群馬埼玉県境:上州富岡氏)から武州富岡付近(埼玉:武州富岡氏)の土地に長くから定住する土豪富岡氏はこの武蔵7党の児玉一党の流を汲む1氏です。
武蔵の国に古くからいたこの「武蔵7党」と呼ばれ一族と後から来た藤原秀郷一門と血縁をしていますが、この流を汲む土豪の富岡氏です。秀郷が武蔵の領主になる前にはこの「武蔵7党」が集団で武蔵を守っていました。其処に「平将門の乱」追討で勲功を挙げた藤原秀郷が朝廷より領地として授かりました。貴族の身分も獲得しました。貴族は武力を使えないので、秀郷の第3子の千国が青木氏を名乗り護衛役を担いました。

専門で無いので其処までで詳しい事情はわかりませんが、多分、小山氏の富岡氏の本家筋はこの辺(群馬埼玉県境)にあったと考えられます。そして富岡の姓はこの地名から出たものであります。

実は、筆者はこの草加綾瀬川の河渕の氷川町(八潮)に長く住んでいましたので富岡氏は承知していますが群馬県境から埼玉草加付近までに富岡氏は分布していました。

結論は、藤原秀郷一門の血縁で先ず繋がる。小泉城主の富岡氏と小山氏の富岡氏とお家の富岡氏は縁者関係にある事に成ります。お家は多分この小山氏の富岡氏であろうと考えられます。富岡氏の本家筋系の支流分家筋と成ると考えます。

氏の拡大というのは、氏に男系跡目が出来ずに、氏家制度の社会の中、家紋掟により家紋の違う氏が増えてゆくことに成ります。
当然、この中には娘に養子婿を、男女の子供ない氏に縁者から男子(養子)を迎えてそれに嫁を採る縁組等も起こります。
この様にして、家紋の違う氏、氏の違う同家紋が生まれて行くのです。
この両方が同時に起こる事もあります。

そこで農家が家紋を用いる世に成ったのは明治3年と8年の苗字令とその督促令から苗字家紋を持てるように成りましたのでもともとは農民は持てませんでした。
ただし、兵農分離で中でも、多くの武家の出の名主、庄屋、豪農、郷士、郷氏とは持つことを許されました。戸籍も、寺が管理していましたが、役所の人別帳だけで、農民には戸籍が有りませんでした。折角の折ですので、青木氏は嵯峨天皇期の詔で、特例で皇族以外の者はこの青木氏を使用禁じました。明治3年まで続きました。
明治3年以後、青木氏とか藤原氏一門の姓を姓の持たない庶民は金品を払って青木氏等の特別の姓を名乗ったのですが、これを「第3の青木氏」等と言います。
ある日突然関東東北地方では村、郡全体が藤原氏を名乗ると云う現象が起こりました。

氏家制度とは、好きで血縁すると言う事は中級武士以上ではなく、殆ど政略血縁で氏の繁栄の為のものです。身分、家柄、血縁筋の合う同じ氏関係で行うのが氏家制度です。男子がこの条件の下の氏とは血縁をし無い社会習慣です。血縁は決して分家だけでは出来ず、本家、宗家の許可が要ります。逆らうと潰されるのが掟です。しかし、経済的、軍事的、政治的な確実な支援をも受けます。
そのような社会の中で、生まれた藤原秀郷一門の血縁で固められた支流一族の氏と成ります。
氏家制度システムは総宗本家、本家、分家、分流、分派等があります。確定できませんが、青木サイトから観ると、多分推測ですが、分け方としてはお家は分流系の分家筋と成ります。
不思議に青木サイトの関連氏でしたので、何かの縁ですね。

藤原秀郷一門の色々な史料は青木氏サイトに充分にレポートされていますので参照してください
大変な史料と成りますので、ゆっくりと楽しんでお読みください。

念の為に、8月24日付けの他の富岡さんからの投稿がありますので、参照ください。

ご質問、ご不明点が有りましたら、関連氏ですので、ご遠慮なくまたReでお尋ねください。
では、この程度で参考にしてください。


  [No.671] 上州富岡氏について
     投稿者:富岡保夫   投稿日:2010/01/02(Sat) 00:52:34

富岡さんのお尋ねの件・・・(上州富岡氏) を偶然拝見しました。
私の家の富岡一族は熊谷市に住んでます。

私の家の先祖は小泉城主だと親戚が法事などで集まるとそうゆう話がでます。
家紋は三代前まで三つ巴を使用していました。今は〇に木爪という紋を家紋にしています。
近くの三代前に別れた親戚は今でも三つ巴の家紋を使っています。

最近は法事などでも昔の話は出なくなりましたというより昔のことを知る人が皆死んでしまって
今の人はそんな話題を出す人も少なくなってしまって「へぇ家の先祖は殿様かい」なんて
言ってるくらいです。

私が子供の頃に、現在も三つ巴の家紋を使ってる親戚の爺さんが「富岡の大本家は俺の家
なんだ」と言ってました。確かに三つ巴の家紋を使ってるのは富岡の親戚では一軒だけの
ようですが三代前にはその家と私の家の本家は兄弟で同じ屋敷に住んでいました。

でも三代前の人が道楽物で借財をかなり作ってしまって兄の方がその屋敷を出て近所ですが
他に居を構えたようです。元々の富岡家の長男だから出ても本流だという事なのでしょうね。
しかも家紋は昔からの三つ巴を使ってます。

私の家の本家が何故三代前に家紋を変えたのかは知ってる人が居ないので解りません。
本家のばあ様に聞けば知ってるかもしれませんけど、近い内に聞いてみたいと思います。

その大本家だと言ってた人が晩年に墓を私の家の本家の墓から分離して新たな墓を造りました。
その墓石には小泉城の6代の城主の名前を刻みました。もう20年くらい前に亡くなりましたけど。

墓地を分ける時に昔の墓石を自分の家のだと言って随分持って行ってしまったとばあ様が
怒っていた事がありました。私がその墓石を見ていたら、何とその隣のやはり富岡さんの家の
墓の墓石にも同じようなことが刻んでありました。これは古い墓石です。

私には昔のことは分りませんけど私の家の本家はそうとうな豪農でしたね。農地解放までは。
昔は村の神社まで他所の土地を踏まずに行けたと良く本家の人は言ってました。

子供の頃に聞いた話では「昔、小泉から小田原に300騎くらいで応援に行ったけど小田原城は
包囲されていて近くまで行けずに帰って来たら小泉城は攻められた後で城にも入れなかった」と
聞きました。「家の先祖は結城氏だ」という事も聞きました。


  [No.672] Re:上州富岡氏について
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/01/02(Sat) 09:14:51

> 富岡さんのお尋ねの件・・・(上州富岡氏) を偶然拝見しました。
> 私の家の富岡一族は熊谷市に住んでます。

富岡さん 今日は。始めまして。
青木サイトにようこそお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。

既に上州のこの富岡さんのお便りをお読みになったと思いますが、このお便りに対するお答えの通りで、詳しい事は前のお便りの通りですので改めてお答えする事はありませんが、お家はその昔ご親族であったことに成ります。
富岡氏は概ね2流ある事に成りますが、ほぼお家のお便りと前の方のお答えの史実と一致していますので間違いありません。
ただ、お家の現在の家紋が変わったのは次ぎのことによると思います。
明治の頃か昭和のはじめ頃までの間にお家は男系の跡目に恵まれず、その為に他氏から養子をとりその養子にも男系に恵まれず更に養子を採った事から女系となり、男系の始めの養子さんの内の家紋となったと思います。これは「家紋掟」と云うものがあり、それにしたがって、変紋を余儀なくされた結果で丸に木瓜紋になったとの事ですね。
その後は男系で繋いできていることを意味します。お家のご本家が依然として三巴紋を堅持しているのは男系に恵まれたか、縁者から養子を取ったかの何れかでしょう。
ただ昭和の戦後25年頃からこの掟も守られなくなりました。

富岡氏の総宗本家又は本家は三つ巴紋を守る義務を負っていますので、何とかここまでに繋いできた事になりますね。
総宗本家は江戸時代までの氏家制度の中では絶対的権利を持っていましたので、家紋や墓などの権利はこの総宗本家の裁量の中にありました。
家紋や墓や仏壇などの家紋使用等は全てこの総宗本家の許可が必要でした。
例え血を分けた兄弟でも総宗本家が認めなければ使えませんでした。
三代前のその前のところあたりにその総宗本家があったと思います。

これ等の詳しい事は青木氏のレポートの各所に記載していますのでお読みください。

何かご質問やご不明な点が有りましたらお尋ねください。
ルーツを調べるには多くの時代の史実を把握する事が必要です。大変な時間が掛かります。
富岡氏の件でも、青木氏ですが、わかる範囲でお答えします。
又何か有りましたらお尋ねください。

では又のお便りをお待ちしています。