備前青木氏のルーツを探しています
国方さん 2008/07/06 (日) 19:53 [ メール ]
こんにちは、初めて書き込みさせていただきます。
昨年父が亡くなったことで以前から気になっていた
自分のルーツを知りたくなり、家系について独自に調べていたところ、
4系統の内のひとつ母方の祖母の家系である青木氏について大変詳しい内容が記載されている
こちらのサイトを拝見し、投稿させていただいた次第です。
記述が長くなることをお許しください。
祖母から伝え聞いたところによると。
本家所在地 赤磐郡円光寺
家紋 抱き茗荷
宗派 不明です
菩提寺 不明です
和気 天神山に刀塚がある。
お納戸役として勤める。
駕籠に乗って登城していた。
近くに青木があるが、そちらは別の生まれ。
安土桃山時代にはすでに、宇喜多氏に仕えていたそうです。
浦上氏の名前もあがっていたことから、それ以前から備前に居住していたのかもしれません。
備前守、備前介として任官した藤原氏に随従した一団だったのかもしれません。
ここが重要なのですが、青井から青木に氏名を変更したと聞きました。
青井氏といえば藤原南家相良氏流で相良7代目の弟である、
相良頼範(青井氏)からの家系ではないでしょうか。
いつ氏名を変更したのか、なぜ青木に氏名を変更したのかはわかりません。
また、家紋が「抱き茗荷」であることから、近江青木氏と伊勢青木氏のどちらかと、
婚姻関係を結んだ二宮氏(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)の血統も
流れていることになるのではないでしょうか。
また、藤原一門であることから氏名を青木に変更することが許されたのでしょうか。
ここで疑問が生じるのですが、
相良7代目相良前頼は南北朝時代から室町時代前期にかけての武将なので、
それ以前の時代である藤原氏が備前守、備前介の時代には青井氏は存在しないことになります。
また兄が九州の肥前守護に任官していたことから、
この時代の備前に弟である青井氏が移り住むとは思えません。
また、「戦国時代には守護代の浦上氏が主家の赤松氏の勢力を締め出して備前国を支配した。
戦国時代末期には浦上氏の家臣宇喜多直家が主家を凌駕する力をつけ、
ついには浦上氏を追い出して、備前国に美作国と備中国の一部も加えた戦国大名となった。」
とゆう記述を考慮すると、やはり1500年代ごろ
備前に親類縁者を頼り移動したのではないでしょうか。
ここで先ほどの備前守、備前介として任官していた藤原氏の末裔が
備前に土着していたとしたら仮説としてなりたつようには思います。
しかし、宇喜多氏有力家臣団に青木氏、青井氏の記述はみつかりません。
青井氏が青木と氏名を変更したことを考慮すると、
青井氏が土着の氏族と婚姻関係を結んだと考えるのが自然な流れだと思われます。
口伝を信じるならば、青木氏青井氏が同時期に備前に着いたとは考えにくく、
青井氏は近畿圏で近江青木氏と伊勢青木氏と婚姻関係を結んだ二宮氏
(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)と血縁となり、氏名を青木に変更した後に備前に赴いた。
もしくは、備前に土着していた近江青木氏と伊勢青木氏と婚姻関係を結んだ二宮氏
(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)と、後の時代に辿り着いた青井氏が
婚姻関係を結んだのではと考えられます。
ですが、その辺りの資料がなく仮説としてなりたちません。
少し青木氏から話が脱線しますが、
宇喜多氏有力家臣団に、もうひとつの家系で母方の父系である
寺尾氏の名前の記述を見つけることができました。
こちらの家系も武家であるのは間違いありません。
寺尾氏の家紋は「下がり藤」なのです。
真言宗から天台宗に改宗したことや、蔵に鎧兜、刀、などが所蔵されていたこと、
口伝で戦に破れ逃れてきたことなどから間違いないと思います。
また、家紋が藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤」であることなどで、
なんらかの関係があると思われます。
こちらの家系は祖母から聞いた話によると新田氏と関係があると伝え聞いています。
清和源氏新田氏流で寺尾氏といえば、脇屋義助の後裔となりますが、
母から家紋は変更していないと聞いていることから、
脇屋義助の後裔の寺尾氏は家紋が「結び鐶唐花」なので、「下がり藤」とは合致しないことや、
藤原秀郷一門から寺尾氏を見つけることはできず、調査を進めるのが難しくなっていました。
そこで先に青木氏を調べていると、宇喜多氏の家臣団で、
もうひとつの家系の寺尾氏をみつけることができたのです。
不思議とどこかで繋がっているものだということを実感しました。
上記のことを踏まえると、
青木氏と青井氏のつながりをどの辺りを調べればよろしいのでしょうか。
また、家紋掟や武士の氏名変更についての資料があればお教えください。
お手数ですがご教授いただけると大変助かります。