群馬の青木昇さん
副管理人さん 2008/07/01 (火) 10:58
群馬県前橋市今井町の青木一族です。現在は群馬県内の安中市にすんでいます。家紋は丸に4本角鹿の抱き角です。
ルーツは武田の武士団であったという事くらいで、よく分かりません。私は現在安中市でかつて、明治38年まで焼かれていて途絶えた自性寺焼を復興する為に、昭和54年にこの地に工房を構えました。現代の名工に認定されております。
菩提寺はなく、神道で、先祖代々の墓地です。
正確なルーツが分かるといいのですが!
群馬の青木昇さん。 今日は。ご返答は雑談掲示板からこちらに移しました。
さて、頂きました情報は、群馬の青木さんで、家紋は「4本鹿角の抱き角紋」ですか。そして、武田軍団との事ですね。菩提寺はなく、神道であるとの事。
自性寺焼きの名工とか、大変ご苦労されての復元であったでしょうね。
これからも頑張って伝統品のご継承にご盛栄下さい。
さて、お尋ねの件で、情報から検証しますと、次の答えが出てきます。
「抱き角紋」は唯一はっきりとした一族の家紋です。
それは、信濃の諏訪地方の諏訪神社を守護神とした諏訪族の家紋です。
そして、この「4本鹿角の抱き角紋」は諏訪族青木氏の家紋と成ります。
この諏訪族青木氏の事については、詳しく研究室にレポートしていますのでそちらをお読みください。
先ず、レポートしているところを紹介します。
研究室の右メニューから、「阿多倍一族関係のレポート」、研究室の検索から「諏訪族青木氏」を入力、研究室の「地名地形データーベース」の信濃地方からのデータ、研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の抱き角紋、家紋掲示板から「抱き角紋」、研究室の右メニューの「皇族賜姓族」関係のレポート、青木という地名地図、等に詳しく掲載されています。
お家の諏訪族青木氏はこの青木氏のレポートの全てに関係してきますので、全てを読まれると完全なルートの由来を把握する事が出来ます。
当然、大レポートに成りますので判らない所も出て来るかと思いますので、不明な所はこのレポートのREでご遠慮なくお尋ねください。
これは相当量のレポートに成りますのでゆっくりと楽しんでお読みください。
大まかに、諏訪族青木氏は2つに別れます。
この青木氏は、皇族賜姓青木氏5家5流の24氏の一つです。
もともとは、奈良期に誕生した大変古い一族青木氏です。
奈良時代の聖武天皇の皇子の第6位皇子が、臣下して信濃の国の守護王として赴任します。
この信濃王の第6位皇子の皇族賜姓青木氏と、土地の古い一族の後漢の渡来系帰化族との間に血縁関係が生まれます。
この信濃の皇族賜姓青木氏の分家末裔が跡目が採れずに、信濃の諏訪族から跡目養子をとりましたが、男系に恵まれず2代続きで女系となり、養子先の一族に組み込まれます。これが諏訪族青木氏です。この諏訪族は大化の改新期(孝徳天皇期)に後漢が滅び、阿多倍の首魁に率いられて17県200万人と言う大集団で大和に上陸し、瞬き間に九州全土と中国地方関西の一部を支配下に無戦の状態で置かれます。当時日本66国中32国を征圧しました。この一団は帰化を選択します。
この一部が信濃の開墾に向けられます。そして、中国より持ち込んだ大型馬を飼育して、開墾に成功し天領地になります。ここに、上記の第6位皇子が守護王として赴任し、その末裔は青木氏を名乗る事に成っていますので、信濃国府に皇族賜姓青木氏が定住しました。これが信濃青木氏です。
この皇族賜姓の信濃青木氏が諏訪地方に定住して生活していた豪族の諏訪族との間に血縁関係が生まれ、上記した女系の経緯で系列が諏訪族側になったわけです。
この様な皇族賜姓青木氏は5氏(伊勢青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏)あります。ちなみに筆者は伊勢青木氏です。この5氏は夫々順に天智、天武、文武、聖武、光仁の5人の天皇の第6位の皇子の末裔です。
初代の大化の改新の天皇の天智天皇の第6位皇子の施基皇子が臣下して伊勢王と成ります。この時、天智天皇より「この第6位皇子の末裔には青木氏を名乗ることを許されて青木氏を与えられて天皇の親衛隊として臣下します。この方式が光仁天皇までと桓武と平城の2代の天皇をおいて、嵯峨天皇からは、源氏に変名して第6位皇子は11代続きます。青木氏と源氏は天皇家の同族です。
嵯峨天皇期に詔を発して皇族以外の者が「青木氏」を名乗ることを禁じます。それが明治3年まで続きます。
信濃青木氏の分家筋が諏訪族との血縁で生まれたのが、諏訪族青木氏です。
ところが、ご存知と思いますが、この諏訪族一族は甲斐武田氏の配下に入ります。そして、この諏訪族青木氏は甲斐の武田氏の分家とも血縁して、男系に恵まれず、武田氏系諏訪族青木氏が生まれます。
この武田氏系諏訪族青木氏は甲斐の国の上田地方から群馬に掛けて(真田氏配下)に定住して末裔を広げます。
お家は、群馬に長く定住していたとすれば、この武田氏系諏訪族青木氏であると考えられます。
何れの諏訪族青木氏も元の綜紋は5家5流の家紋の笹竜胆紋です。しかし、女系と成った事から家紋が女系側の諏訪族の抱き角紋になったわけです。そこで、更にその分家筋に末裔が広がり、この抱き角紋の家紋に分家筋の丸付き紋となったわけです。
この分家筋でも本家ルートの分家の分家と成ります。
抱き角紋には、5本角(と6本角)と4本角などの分家分流分派があります。
5本角が宗家で、4本はその分家筋に当ります。更に、その4本に丸付き紋と成りますので、更に分家筋と成ります。
しかし、この後、武田氏は信長に潰されますので、神奈川、横浜と栃木方面と土佐地方に逃亡し、縁者関係にあったもう一つの藤原秀郷流青木氏の保護を受けて定住します。
神道の件は明治はじめの廃仏毀釈により神道になったもののでしょう。元は信濃諏訪神社と、この付近にある菩提寺(青木氏が住職)が5本角の総宗本家筋の元の寺であると思います。
多分、お家の分家筋の菩提寺は廃仏毀釈で無く成ったものでしょう。
皇族賜姓青木氏からすると、信濃国府付近にある浄土宗の寺が菩提寺になると考えます。
皇族賜姓青木氏は皇族なので、青木村を形成して青木氏の独自の氏神と独自の青木氏の菩提寺を持っています。例外なくこの信濃青木氏はこの二つの寺社を持っていました。宮司と住職が青木姓です。
根っからの諏訪族では有りませんので、女系化した皇族賜姓族ですので、必ずどこかに独自の青木村と独自の寺と独自の神社を持って居た筈です。
(4つ角の丸付き紋は家紋掲示板に不記載ですので、4つ角紋でご理解ください。武田氏配下後の室町期後半かに丸付き紋になった事が考えられます。)
移動するとその寺社ともに移動させますので、上田付近に浄土宗の分寺社がある筈です。
大まかには、お家の諏訪族青木氏に関しては書き留めましたが詳しくは上記したレポートをお読みになってください。どちらも日本書紀に出て来る氏です。阿多倍一族と後漢の民と、諏訪族の青木氏も出てきますので日本書紀の青木氏の関係のレポートも用意していますのでご一読ください。
左メニューから青木氏氏ログにも入れます。
大変な大由来を持ったお家であります。
研究室には元はご親族の諏訪族青木氏の方のレポートが沢山寄せられていますのでお読みください。
では、ご質問ご不明な点が有りましたら、どんな事でも結構ですご遠慮なくお尋ねください。