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  [No.317] 青木 半左衛門について(真田家に仕えた)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:08:47

青木 半左衛門について。。。
群馬の青木さん 2007/08/02 (木) 12:22
青木 半左衛門について詳しく教えてください。(あれば家紋もお願いします。)


  [No.318] Re: 青木 半左衛門について。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:10:04

Re: 青木 半左衛門について。。。
副管理人さん 2007/08/02 (木) 21:11
群馬の青木さん 今日は。始めまして。

ご質問ですが、半左衛門では全く判りません。

青木氏は、皇族賜姓青木氏5家5流24氏と藤原秀郷流青木氏直系1氏、直流4氏、支流4氏の主要9氏から成り116氏に及んでいます。これに分家分派分流が入りますので、個人の名前だけでは到底わかりません。又、多分、江戸時代か明治以降の人の名前と見られますので、尚更わかりません。
本来は左衛門は朝廷官職でしたが、江戸末期から明治に掛けて官職ではなくなり、単純な名前となってしまいましたので余計に判りません。尚更、家紋は無理です。
江戸初期かそれ以前のご先祖の情報をお書きください。
第3青木氏でなければ、この時期のご先祖の情報は先ずは菩提寺をお調べになりその寺の過去帳にある筈です。菩提寺が判らない場合は、第3青木氏である可能性が有りますのでルーツ等は判明は出来ませんし、判りません。明治初期の青木氏である事に成ります。
まず、その範囲の情報をお知らせください。研究室の上段に書いていますルーツの最低情報を先ずは提供ください。
その上で、ルーツ解明のお手伝いをします。
では、お待ちしています。
先ずは、どのようにルーツ解明をしてゆくかを知るために、研究室の多くの青木さんからのお尋ねをお読みください。


  [No.319] Re: 青木 半左衛門について。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:11:09

Re: 青木 半左衛門について。。。
群馬の青木さん 2007/08/03 (金) 13:18
申し訳ありません^^;説明不足でした。真田家に仕えて関ヶ原後に真田昌幸と信繁と高野山まで供をした者ということなのですが。


  [No.320] Re: 青木 半左衛門について。。。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:12:38

Re: 青木 半左衛門について。。。
副管理人さん 2007/08/03 (金) 19:26

さて、群馬の青木さん。
まず、お尋ねします。この研究室では、「群馬の青木さん パート2」の人からの投稿が以前にありましたが、この方ですか。

違うとして、始めての方であるとして、同じく、研究室に「WHO AM I」と言うタイトルでとお尋ねがありましたが、この方は、貴方の情報と同じ真田氏の家来であったご先祖を持つ方です。
もし、そうだとすると、ご先祖は親類であった筈です。

一度、この方のご質問を是非お読みください。

真田氏は信濃の南部の真田郷を居留地であり、本家がここに城を築いて一時、武田氏に潰されますが、後に、再び武田に拾われて、本領安堵されます。
それ以後、武田氏が潰れても、秀吉の保護されて頑張り、天下分け目の戦いの豊臣氏と徳川氏の戦いで、兄は徳川氏に味方し、弟は豊臣に味方します。
兄の本家はその後、徳川時代で論功行賞で、本領安堵で大きく成ります。この時、弟と父は九度山に
配流されました。
この時の一族であろうと思います。

この先祖の事に付いては、「WHO AM I」の方のレポートをお読みください。
家紋は、ご先祖の中で、御家の男子の継承が出来ていたかで違ってきますので、養子などを取り女系になれば家紋は養子先のものに成ります。「家紋掟」というものがあり、男系による継承が出来なければ家紋は変わります。

それを解明しないと家紋は変わります。
ただ、信濃の本家の家紋がどのように成っているのかも知る必要があります。
真田氏は、藤原秀郷一門で支流一門ですが、この家来であるとすると、藤原秀郷流青木氏が考えられますが、ただしこの時は古くからの家来であったことに成ります。

詳しくは「藤原秀郷一族の生き方」をお読みください。

しかし、この土地には、皇族賜姓青木氏と、この支流の足利系青木氏と諏訪族青木氏があります。
このものが、後に真田氏に仕官したこともあります。

詳しくは「皇族賜姓青木氏」をお読みください。

これらの方のお問い合わせも研究室で沢山記録されていますので、検索してお読みください。

多分、前記期だと考えます。

何か他に、手がかり情報が有りませんか。


  [No.944] Re:青木 半左衛門について(真田家に仕えた)
     投稿者:土屋みのり   投稿日:2014/03/31(Mon) 00:57:04

長野県坂城の青木半左衛門の子孫です。村上義清の家臣でした。真田幸村親子と高野山へ同行しています。村上義清が葛尾城を出た後に真田家に仕えたようですが、慈野一党です。江戸時代幕末まで坂城で本陣をしていました。村上義清500年祭には、ひいおじいさんがよばれていると聞いてます。


  [No.952] Re:青木 半左衛門について(真田家に仕えた)
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/04/07(Mon) 12:17:07

今日は。お便りありがとう御座います。

真田氏の家臣になった信濃の青木さん 更に村上氏の家臣でもあったと云う事ですね。
これでお家のルーツが判りました。
お家のルーツの情報が少なかったものですから、なかなか難しく特定できませんでした。
ここ信濃は、奈良期より「皇族賜姓族の5家5流青木氏」の定住地です。
更には、この青木氏と血縁した「諏訪族青木氏」の定住地でもあります。
そして、この地の豪族の流れを組む「足利氏系青木氏」が定住しています。
夫々は住み分けをしています。
ところが、ここには次ぎの青木氏が一時期に移動してきました。
関東武蔵から[丹治氏系青木氏」、武蔵から[藤原秀郷流青木氏」の2氏があります。ただ,「藤原秀郷流青木氏]は信濃には定住していません。
そこで、このお話は、信濃と甲斐に繋がるお話です。

ところが、この甲斐には「3流の青木氏」があって、「皇族賜姓族の青木氏3家」、「武田氏系皇族青木氏4家」と「武田氏系諏訪族青木氏2家」、それに「第3の青木氏」があります。
賜姓地の中でこの甲斐にだけ「第3の青木氏」が存在します。
従って、甲斐に関わる青木氏の場合は、この江戸期前にルーツを持たない「第3の青木氏」の検証をしなければならないのです。
「甲斐の青木さん」を検証する場合は情報が少ないと特に難しいのです。信濃と違って元々少ない傾向があるのです。
つまり、この「甲斐の第3の青木氏」には、一つの癖がありまして、武田氏の家臣の青木氏説、真田氏の家臣の青木氏説、村上氏の家臣の青木氏説、信濃から甲斐の豪族の家臣の青木氏説などを持ち出して家柄を搾取偏纂で誇張しているのですが、その「根拠と成る条件」が全て合致しないのです。
その殆どは、明治初期の3年の苗字令と8年の督促令に基づいて名乗った青木氏なのです。

実は、これにはある理由がありまして、この甲斐の国には一種この様な歴史的な風習の様な習慣があったのです。
そもそも、武田氏が清和源氏を名乗っていますが疑問ですし、武田氏系青木氏も嵯峨期の詔勅を根拠に清和源氏の皇族出自だからと主張して「青木氏」を名乗ったり、母方が公家だからと主張して「一条氏」を勝手に名乗る等しています。何れもその確実な根拠はありません。
その典型的な家柄の搾取偏纂の勃興氏はこの「真田氏」なのです。
有名で真田氏の系図と記録を考察すると、ある程度の歴史的知識があれば直ぐにでも誰でも判る程の矛盾だらけです。
これらの甲斐の家柄の記録は殆どは後付記録です。(ここでは議論しない。)

これには、ある理由があったのです。
江戸期初期になると幕府が、全国の1万石以上の大名に対して「家系譜作り」を強引に命じたのです。
立身出世したものばかりですから、「家系譜」や「由緒書」や「添書」などは元々作れる筈がありません。
しかし、その時に、「江戸守護大名として権威づくり」の為には、農民や商人から立身出世した大名ばかりであった為に、その「権威の低さ」から”政治的に拙い”として、無理承知で「平安期の名族」と強引に結び付けて提出させたのです。

(「氏」を構成している「中級武士」以外には、”「ルーツ」を継承して記録する概念”そのものが無かった。農民や商人などから立身出世した「姓族」には無かった。兎も角も「氏の記録」を継承する「菩提寺」そのものの慣習は無かった。あったとしても「税」に対する「人別帳」で「一代限り」で「ルーツの系統」は無かった。「人別帳」にしても「檀家寺」か「庄屋」か「名主」などの「村主」が行っていた程度であってその夫々が「目的」が異なっていた。「墓などの概念」そのものがなかった。あったとしても「河原」の「路傍の石」を積み上げたもので一代限りのもので風雨に晒されて無くなるのが関の山であったし、仏教でもその様に教えていた為に「砂岩」を使わせた。”「路傍の石」”の言葉もこの事から来ている。)

徳川氏そのものも例外ではないのです。拙いものは突き返すなどしてこれを公的に公表したのです。
これを基に色々な「有名な歴史書」が作られました。「権威づくり」の為に”作らした”と云った方が正しいのです。
従って、その大名の各種の内部記録には矛盾が多く残っているのです。
当然に、各大名の上級家臣にもこの事を求めましたので、結果として出世するにはこの家柄が重視する社会が生まれたのです。況や「封建社会」です。
この風潮が強かったのは甲斐が元々強かったのです。
この様な社会体制の事に反発した甲斐の庶民の「100年一揆」が続いた位です。
(背後に曹洞宗の扇動があった。)
特に明治初期には、甲斐から信濃にかけて庶民にこの反発が爆発して一向一揆などが頻発して起こる程に強かったのです。
例えば、「甲斐の青木氏」は「家康の命令」で全て青木一族郎党を埼玉鉢形と八王子に集団移植させているのですが、ところが居ないはずの「甲斐の青木氏」を名乗る青木さんは鉢形より多いくらいなのです。(「鉢形衆」や「八王子1000人衆」で有名)
実は、これには「8年の督促令」が左右していて、明治政府が苗字令が一向に進まない事から、半強制的に村郡の庶民に対して、一斉に期限を切って周囲の名族を名乗る様に指導したのです。
一夜にして村全体に「青木氏」が甲斐に出来たのです。これが「青木氏」の多くなった経緯なのです。

(郡全体で一夜で「藤原氏」を名乗った地域もあった。「藤原氏」は直接「藤原の氏名」を名乗っていない。その「仕来り」は無く、「藤原氏」は「氏族の総称」で、官職名、役職名、国域名の順で「3つの頭文字」を「藤」の前に付けて名乗る仕来りであった。「伊藤氏」は「伊勢の藤原氏」の様にした「仕来り」であった。「甲斐の青木氏」もこの様な仕来りで判別する事が出来る。)
 
元々、庶民でなくても武士階級でもその傾向が強かったので、江戸初期には立身出世した下級武士も平安期から室町期中期の「名族」を名乗ったのです。江戸時代は名乗っても文句を附ける氏族は幕府の圧力を感じて云わなかった状況であった。豊臣時代は逆に戦いで秀吉面前で決着させたくらいであった。
つまり、甲斐は”「国衆」”でも物語る様に、庶民等の「立身出世の一番多い地域」であったのです。
”庶民等の立身出世を夢見る者”は「農兵」などしながら、この「国衆」の家来に成ったのです。
「農兵」の場合は、村の者から世話役を作り、この世話役が「国衆」と条件で掛け合うのです。
真田氏等の様に、大きくなればこの「農兵」も家臣に取り立てられ出世して行く事に成ります。
「農兵ー傭兵」の「自然のシステム」が出来上がっていたのです。
「農民や下級武士」の「甲斐100年一揆」はこの結果から起こった事なのです。
この様な下から上への社会の循環が強かった事が、この信濃と甲斐と上野に掛けて横一線に強かった事を物語っていたのです。
他の国は少しこの強さの点でお国事情で異なっています。
例えば伊勢などでは殆ど起こっていません。

さて、そこで、お家はこの何れの青木氏に成るのかと云う事ですが、検証してみると判ります。
このお便りの以前には「群馬の青木さん」と他のお一人の方とのお便りがリンクしています。
お二人の情報が少なくてこの検証ができませんでした。
群馬の青木さんの場合は、「真田氏の家臣」と云う事でしたが、この場合は実はある事件があって真田氏の家臣と成っている青木氏には、実はよく調べると「2流の青木氏」があります。

しかし、お家の場合は、”村上氏500年祭の招待がある”と云う事を信じて、信濃での青木氏であるとしていますので、上記の事の知識を念頭にして検証が出来ます。

さて、では検証を進めます。
青木氏も真田氏も信濃小県郡の「国衆」でした。
この時、この小県郡には「信濃青木氏」も定住していました。この時は、先ず「信濃青木氏」は「村上氏」に”「合力」”して「配下の家臣」と成りますが、何度も戦った末に武田氏と村上氏の戦いで村上氏が上杉氏に助けを求めて城を放棄します。
ここで、お家の「小県郡の信濃青木氏」は、城を捨てた「村上氏の合力」を解き、今度は「真田氏に合力」します。

(「国衆」であって「合力」であった為に、「契約主の村上氏」が城を放棄すれば、必然的に「合力の契約」は解けます。お家は”家臣”としていますが、「国衆」は「直接家臣」ではありません。
今で云えば、正社員と契約社員の関係に近いのです。
「小県の信濃青木氏」は「契約社員」であった。)

実は、この信濃小県郡域には多くの「国衆」と呼ばれる土豪よりより「小さい武力集団」が集まっていた地域なのです。
各地の立身出世を夢観て、又一攫千金で金儲けをしようと集まっていた「小さい武力集団」なのです。これを”「国衆」”と呼ばれていました。
必ずしも、その国の土地の者でもなく、各地から集まって来て「大きな武力集団」(豪族衆)と合力(味方する契約して配下に入る)して、その土地の一部の防衛を任されて住み着きます。
この様な「小さい武力集団」が、信濃から甲斐に掛けて、美濃から信濃に掛けて集まっていました。
「豪族衆」にとっても直接の家臣を抱えるよりは財政的にも有利で良く、且つ、周囲をもれなく護る事も出来ます。”イザ戦い”ともなればこの契約をすれば実力以上の戦力を持つ事が出来るのです。
ただ問題は契約である以上、その契約状況が悪ければ離反すると云う事も、又リスクとして起こります。
この「小さい武力集団」にしても、逆に何時潰される事もあるかも知れず、その為には互いにまとまり、更に大きい協力集団を形成して互いに護り合い、「戦い」が起こると何れかの陣営に合力して、”勢力拡大の機会”を待っていたのです。

尾張から関東には「坂東八平氏」で8つの党や、関東には「武蔵7党」で7つの党や、美濃から信濃には「中津川一統」で10程度の党、信濃から甲斐付近では「滋野一党」、常陸から上野には「秩父党」等多くの集団が蠢いていたのです。
関西では主なもので、根来集団、雑賀集団、伊賀集団、甲賀集団、柳生集団、楠木集団等数えきれないほどの武力集団がありました。中国地方では亀甲集団等有名な集団があります。
特に関東の集団は各地に移動してそのチャンスを狙っていました。

信濃では「足利氏」、甲斐では「武田氏」「村上氏」等の「大豪族衆」は、これらの「小さい武力集団」を合力させて配下に収めて、勢力を保っていたのです。一種の「傭兵制度」です。
その「合力の見返り」として、「小さい土地」を与えたり、「金品」を与えて味方の陣営に引き付けていました。崩れる時にはまた早いと云う欠点もあります。
そこで、中には、優れた集団には「娘」を嫁がせたり、「姓」を与えたり、「役目」を与えたりして引き留めていました。
ところが合力した主が、”形勢不利”と成れば、直ぐに支配関係を解き、”有利”と観られる方に行動して徐々に勢力を付けて行くのです。
ある程度の力を持つと、今度は国の協力集団の他の党の小集団を呼び寄せて、更に大きくして、発言力を増し、より大きい土地や傭兵金を獲得して拡大して行くのです。
これらの小さい集団は各地を転々として移動してこの機会をねらっていたのです。
日本全国各地にこの様な武力集団がありました。
この地域ではお話の真田氏等がこれを繰り返したこの典型的な成功した集団でした。
(真田氏のルーツに付いては諸説紛々にあり論じない。)
この時、その一つの真田氏は、武田氏に合力し帰属し、西上野国に侵攻し、その上野国の「岩櫃城代」となり城を任されます。
各地に点在していた真田一族はここに集結して移り台頭のキッカケを掴みます。
そして越後上杉領を監視する役目を担うまでになります。
この時、小県郡の青木氏は直接武田氏に合力せずに真田氏に帰属する事になりました。
信濃の国衆同士が合力した事に成ります。

この上野国側にも「秀郷流青木氏」がすぐ近くにいて、この「秀郷流青木氏」は真田氏に敵対します。
この時、一時、次ぎの様な”青木氏同士が対立する事件”も起こりました。
記録に遺されているところでは、この時に「青木氏」の中で「小さな事件」が起こったのです。
恐らくは、この甲斐と上野の国境には「小県の青木氏」と「上野の青木氏」の「融合族青木氏」が存在して居たのです。(家紋分析から判断)
「武田氏に合力する側」と、「真田氏に合力する側」との「路線選択の違い」で上野側の館での話し合いの際に殺戮の小競り合いが起こったのです。
この「融合族」は「秀郷流青木氏の意向」を強く反映して「真田氏側」に合力することを主張していたのです。
上野の「秀郷流青木氏」に取っては信濃を制圧した甲斐の豪族武田氏がこれ以上に上野側に勢力を高められる事は防衛上は得策では無かったからです。
恐らくは、「群馬の青木さん」のお便りは、この「融合族の青木さん」であると観ています。
ただ確定する為の「家紋等の情報」が無いので断定は出来なくて、以前のお便りの状況と成っているのです。


この後、「甲越同盟」が起こり敵対は無くなります。
天正7年には武田・上杉間で「甲越同盟」が締結され、上杉方との抗争は収束します。
本来では合力関係は解消される筈です。
ところが、相模国北条氏との「甲相同盟」が破綻したため、「甲斐国」ー「上野国」が引き続き緊張状態が続きました。上野は秀郷流一門の領国です。この一門を指揮していたのは秀郷流青木氏です。
この様な状況が起こりますと、上記した様にこの「小さい武力集団」は直接の家臣関係にありませんから支配関係が解けて、「合力関係先」を求めて蠢くのです。
合力関係を採らずとも秀郷一門は青木氏を中心として防衛力を持っていました。

ところが3年後には「織田氏と徳川氏の連合軍」により「武田氏」が滅亡しますと、今度は真田氏は全く反対側の織田信長に合力し恭順します。蠢いたのです。
そして、真田氏は、上野国の吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、更に元の3倍の勢力を獲得しました。
「小さい武力集団」はこの様にして大きくなって行くのです。

今度は3年後に「本能寺の変」により信長が死すると、武田領は空白域化しますが、越後国上杉氏、相模国後条氏、三河国徳川家康の三者で甲斐領を巡る争いが発生するのです。
(上杉氏の家臣と成って養子縁組もした村上氏はこの時に上杉氏から城を一つ任されます。)

この環境が「小さい武力集団」にとっては絶好のチャンスです。
そこで、その真田氏は今度は上杉氏に帰属します。
村上氏に従った青木氏と真田氏に従った青木氏はここで又味方同士の一つに成ります。
ここで、真田氏は3郡を手中に納める豪族までに伸し上がります。
村上氏の配下にあった真田氏は、今度は逆転して、村上氏は一城の城代で、真田氏は3郡の領主になっていたのです。
そして、この時に真田氏は合力する「傭兵軍団」を止めて、3郡が任されたのではなく単独で手中に入った為に初めて自立する道を選んだのです。

更に、天正10年には、第一次上田合戦において単独で上杉氏共に徳川氏と戦ったのです。
そして何と知略を使って豪族の徳川氏に勝利します。
ここでも、更に真田氏(信繁)には、徳川方に味方した”信濃の「国衆」”の仲間であった「屋代氏の旧領」が与えられます。
これで、更に、1郡が増えて4郡を獲得します。完全に「国持の豪族衆」として独立します。
(4郡で一国の掟)

さて問題は、この時に、家臣と成ったお家の「信濃青木氏」です。
小県郡で同じ「国衆」であった仲間が一国の主となりましたが、出遅れた「信濃青木氏」が一国の領主と成った「真田氏の家臣」に成る事を選択したのです。

ここで問題は、この「小県の信濃青木氏」は、「5家5流の信濃の皇族賜姓青木氏」なのかと云う事なのですが、実は、この小県郡の「国衆の青木氏」は、上記した様に「国衆」なので違うのです。
賜姓族はこの様な事が賜姓族の戒律で出来ません。
では、”何処の青木氏か”と云う事ですが、この「青木氏」は、相互協力の防衛武力集団の「武蔵7党」の一つで「丹党」と云う集団の中の「丹治氏系青木氏」です。
関東の武蔵より出て信濃に「国衆」としての勢力を張った「丹治氏系青木氏」です。
この「丹治氏系青木氏」は、13の地域に移動しています。
各地に移動地の経路には多く子孫を遺してきています。
一氏が13もの家紋を持つ事は珍しいのです。信濃もその一つの経路です。
この「信濃」の後は「丹治氏系青木氏」の主体は次ぎには「美濃」に移動しています。

ところが、一国一城の主となった真田氏が戦乱の影響を強く受け「浮沈の影響」を強く受けた事から、この「丹治氏系青木氏」も領袖を問われて3つにわかれる選択に迫られるのです。
「信濃」では真田氏の様に芽が出せなかった為に一族は次ぎの3組に分かれたのです。
真田氏の家臣と成った青木氏を選んだ組
真田氏から独立する事を選んだ青木氏の組に分かれます。
この独立組は更に2つに分かれたのです。

この時、真田氏と共に九度山の「配流組」と、「現地残存組」と、「独立組」に分かれます。
残存組はその後、上田市や南佐久郡に定住しました。
本体の「独立組」は、一族一門を連れて又「美濃」に移ります。
しかし、丁度運良くと云うか、それをねらって美濃に移動したと考えられます。
 ”豊臣氏と徳川氏の戦い”が起こり、この独立した「丹治氏系青木氏」は、その勢力を以って、今度は「信濃」より出て「美濃」に来て、豊臣側に合力します。
この時の「合力の契約」として「奈良の一部2郡」を与えられます。
ところが、これに気づいた「家康の調略」に掛かり一国を与えられる事を約されます。
「丹治氏系青木氏」の国元は「武蔵の国」です。家康と同じ領内の土豪集団です。戦略上は家康は「武蔵7党」を放置する訳にはいきません。懐の火種です。そこで、勝負に出たのです。

(この時、豊臣側は大名集団が味方しなかったのです。そこで、各地の傭兵集団や土豪や国衆を土地と金で味方に引き入れる戦略を採ったのです。)

徳川方に味方して、結果として選択は成功し、「摂津麻田藩1万石」を与えられます。
弟には河内郡内の4000石を与えられます。
結局は、真田氏と同じ「国衆」の動きから、遂には、真田氏と別離して「丹治氏系青木氏の独立組」も大名と成ったのです。
この時、故郷の「武蔵7党」を呼び寄せての軍団で勝ち得た最終目的でした。

実は、これには苦しい決断があったのです。
この「麻田藩の独立組の青木氏」と「真田氏に従った青木氏」は、「丹治氏系青木氏」の親族で互いに先陣で敵味方に成って血みどろの戦をした末の結果でした。
「麻田藩の独立組の青木氏」も家康と契約して皮肉にも「徳川方の先陣」を切る事を約束したのです。
豊臣側に合力した九度山の真田氏も先陣を切りました。
この有名な戦いでは、真田氏は城から低い丘の約4キロ程度のところまで戦いに成る前から事前に左右に「廓柵」を設けて先陣の機会を待っていたのです。
「武蔵7党」の「丹治氏系青木氏」の軍団は、家康の旗本軍の前に陣取る先頭に位置していました。

ところが家康はこの廓柵の存在を疑問視していたのです。
戦況は動き、豊臣側不利と成り徳川方の大名の軍は前線に移動してしまった時に、突然に真田軍3000の騎馬兵がこの廓柵をまっしぐらに突っ走りました。
周囲からは柵で見えずにこの状況が判らず、又判ったとしても柵が防護壁と成って何もできない状況下でした。
周囲が気が付いた時には既に、真田軍は無傷で疾風の如くの速さで隙間の空いた「家康の旗本防御軍団の前に出ていたのです。
家康の旗本防御軍団の前には、先陣組として「独立組の丹治氏系青木氏」でしたから、真田軍団と正面衝突の戦いと成り、肉弾戦の状況で真田軍団にバタバタと突き破られて家康の前まで出て来てしまったのです。信繁(幸村)は家康に敢えて一太刀与えて討ち取らず引き揚げます。
この時に、何とか独立組の丹治氏系青木氏の生き残りの軍団が護って伊賀上野の安全な地域に引き上げたのです。
真田氏は本家筋の兄は徳川氏に味方し、父と幸村は豊臣側に味方していずれにしても真田家が遺されるように仕組んだのです。
依って、本家に影響がある事を心得て討たなかったのです。
信繁の判断は、”天下は家康と云う人物”が治めるが最善としての策であったので、家康の論功行賞では、この信繁の判断を知っていた家康は、「本家真田氏」に対しては、遂には「国衆」から「23万石の大名」としたのです。

そして、お家の丹治氏系青木氏も摂津麻田藩1万石の大名と成りました。

お家の「丹治氏系青木氏」は「13の家紋群」から成り立っていますが、麻田藩は「富士山に霧紋」です。
この家紋群を観れば、その移動経路が良く判ります。
副紋を「丸に揚羽蝶紋」としているところから、伊勢平氏の支流末裔であると主張しています。
ところが、この「丹治氏系青木氏」は、そのルーツははっきりとしています。
そのルーツからするとこの「丸に揚羽蝶紋」の副紋は疑問です。
平安期に武蔵の守に任じられた「多治比氏の末裔」で、峯時の代に秩父別当と成り、ここで丹治氏を名乗ったものです。
「多治比氏」は「丹治彦王」の息子で「十市王の孫」にあたります。
平安期に一斉を風靡した波乱に満ちた人生を送った島左大臣の子の広成の孫の武信が罪を得て武蔵に配流されます。この地でその子の繁行が丹治氏の丹党を結成し興します。
要するに、皇族の配流孫の末裔が丹治氏を名乗り、皇族である事を理由に嵯峨期の詔勅に従って青木氏を名乗ったのです。
ここには、平安期に伊勢平氏が駐屯していたこともあり、その伊勢平氏と女系で血縁して副紋としたと考えられるが、「嵯峨期の詔勅」では「青木氏」を名乗る以上は平氏は名乗れない事に成ります。
何故、全ての家紋は副紋として「丸に揚羽蝶紋」を用いているのかは不明です。
しかし、平安期に青木氏を名乗る以上は禁令を敢えて犯す事はしない筈ですから、「丸付紋」が意味を持たせたと観られます。
伊勢平氏は「賜姓族の掟」として「丸付き紋」を使用していないからです。
”丸付紋は別のものである”としたと観られます。
恐らくはこの事を狙ったものと考えられ、副紋を使っているところから「女系」には間接的に”伊勢平氏の支流の末裔だ”と主張している事に成ります。
男系では丹治彦王と島左大臣の末裔、女系では伊勢平氏の末裔と主張しています。

「富士山に霧紋」の「丹治氏系青木氏」の一氏が移動に伴って、「12家の流れ」を持った事に成ります。
この他にも「武蔵7党」との血縁もしていますから、大変な子孫力を持った青木氏と成りますね。
お家の家紋がこの内のどれであるかは判りませんが、「真田氏の家臣、九度山、村上氏」の3つの情報から検証を進めました。
一度、ご確認ください。以下の13の家は現存しています。

その家紋群は次ぎの通りです。
富士山に霧紋(主要紋)

三頭左巴紋1
三頭左巴紋2
三頭左巴紋3

丸に揚羽蝶1(副紋を主紋としている家)
丸に揚羽蝶2

芳船紋
鎧揚羽蝶
三鱗紋
丸に鱗
三銀杏
木文字紋
花菱紋
九曜紋

三洲濱紋
洲濱紋

丸に葛花紋

「三頭左巴紋」は類似家紋3種で一部が異なる。
「丸に揚羽蝶」も同様に一部異なる。
全ての家紋は「丸に揚羽蝶紋」を副紋としている。
夫々の家紋には歴史を持っています。
その歴史とお家との絡みが、又、ルーツのロマンや生き様が拡がり何か観えてきますね。

以上ですが、他に情報がありましたなら、お知らせください。
では、ご質問やご不明な点がありましたらお尋ねください。