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  [No.309] 古川さんへの回答(葵井さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:56:52

古川さんへの回答
副管理人さん 2007/07/02 (月) 19:58
古川さんの代理投稿です。(雑談掲示板より)

ご質問
沢瀉紋は青木氏の家紋の中にあり、青木氏からの家紋は三十三あるとなっております。全体で八千もの家紋があるという中で、青木氏から発祥している沢瀉紋の種類はその中でも三十三ということなのでしょうか。そしてその三十三ある家紋の中の一つに沢瀉紋があるという意味なのかどうか。

沢瀉紋だけにおいても、その紋様の種類は八十二あるとあります。この八十二の紋様の中で青木氏は三つの紋になる、とあります。青木氏が三つの紋ということは、ほかにも沢瀉紋を発祥させている氏姓家があり、その中で、青木氏が三つあると解釈するのでしょうか。そこのところの意味合いがよく分かりません。

お答え
先ず、青木氏は主に2つの流から出来ています。
この2つの青木氏(一部第3の青木氏含む)が男系不継承で家紋掟により変紋を余儀なくされて家紋が変わったものです。

この結果、二つをあわせると33文様と成ります。
この内の中のひとつとして「沢瀉紋」があるということです。
そして、この沢瀉紋の文様を使用している氏には、他氏のも含めて82もの文様があると云う事です。
この82もの沢瀉文様のうち3つが青木氏であると云う事です。
他は他氏です。

上記の2つの青木氏の内訳ですが、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の2つに成ります。
皇族賜姓青木氏は5家5流から支流24氏に拡がっています。
この青木氏は綜紋を「笹竜胆紋」として24の家紋をもつ事に成ります。

藤原秀郷流青木氏は主要9氏、即ち、直系1氏、直流4氏、支流4氏から成り立っていまして116氏に子孫を広げています。
「下がり藤紋」を綜紋として、上記の家紋掟により116の家紋を持つ事に成ります。

これ等二つの氏は母方で藤原氏で繋がる同族と成ります。

これ等をあわせて140家紋と成ります。

この家紋を「家紋分類」すると33の文様と成ります。

日本全体で8000種の家紋となるうちの140家紋と成ります。

「文様」とは、沢瀉文様を色々と変えて出来た「家紋」が82もあるということです。
この沢瀉紋様の82の家紋が、82/8000と言う事です。

家紋は「家紋200選」というものがあり、8000のうちの主な家紋を選出したものです。
この中に、自分の家紋があると主な氏と成ります。
青木氏に関しては、この中に入る家紋が60%程度です。

御家の家紋は「丸に抱き葉沢瀉紋」ですので、沢瀉紋が主紋ですので、それに、抱き葉が追加された紋となり、更に、丸付き紋と成ったという事に成ります。
これには数多くの意味を持っています。
家紋200選には有りません。

家紋掲示板や研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」で書きましたように、沢瀉紋を構成する氏と関連する氏であるか、どうかという興味事ですが、抱き葉と丸付きが付いていますので、関係ない氏と見られます。丸付きには二つの意味を持ちますし、抱き葉にも意味を持っています。ここではお答えは専門外ですので、間違いが起こるので別のところでお調べください。

以上が青木氏の沢瀉紋です。

青木氏に関してのご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.310] Re: 古川さんへの回答
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:59:54

Re: 葵木さん
副管理人さん 2007/07/23 (月) 21:09
青木研究員 [副管理人] 2005/07/01 (金) 10:48
葵木さん はじめまして
大変珍しい御姓ですね。私なりに珍しい御姓なので、家紋からですが調べて見ました。確実な事としては云えませんが、古いルーツの出身地などが判ればさらに確実な事が判明すると思います。
家紋のみでの範囲では、次の結果になります。
先ず、青木氏との関連ですが、詳しいことはこのサイトに青木氏の内容が書き込まれていますので、一度お読み下さい。
青木氏には主に二つのルーツがあります。皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏です。そして第3の還俗青木氏です。
貴方の御姓はこの一つの藤原秀郷流の子孫です。藤原秀郷の子孫は次の2つの流れに分流しました。
1 文行流です  これには進藤氏 長谷川氏
2 兼光流です  こりには長沼氏 永嶋氏 青木氏
  進藤氏から利仁流進藤氏の二つに分かれています。
この秀郷から四代目の上記の兄弟から子孫を大きくひろげました。この5氏は日本でも巨大な氏です。
そこて゜、家紋200選というものがあり、日本の主な氏を分類するとほぼ200の氏に分類されます。(全部では12000程度の氏)
貴方のお家の家紋はこの200選の中にあります。
青木氏家紋集にはありません。
そして、この家紋は上記の内の3氏が更に分流した内の一つです。
つまり、進藤氏、長谷川氏、長沼氏です。
残りの2氏はこの家紋を使っていません。(一族では無いこと)
推測ですが、貴方のお家は、兼光流の長沼氏の分流になると思います。その理由はこの流れに青木氏があるからです。御姓がアオキであるからです。
途中でなんらかの血縁関係を持った事が十分に考えられます。
当時は出来る限りに氏の勢力を強くするために余り他流との血縁は戦略上結びませんでした。
家紋は「丸に五三の桐」ですから、家紋に丸がついた場合はついていない氏の支流、分流となります。つまり、直系ではなく、長沼氏の一族の娘が嫁に行き、嫁ぎ先が生まれた嫡子(男子)に実家の家紋にする場合は、この家紋に丸をつけて直系ではなく支流一族であるとしたのです。(嫁ぎ先が実家の氏より低い場合で、実家の氏の勢力範囲に入るときに使う。)
「丸に五三の桐」は(秀郷本流の家紋は「丸に揚羽蝶に一文字」です)なんらかの血縁関係で支流(五三の桐)になり、更にそこより
支流になり一族に入ったとなります。
アオキの姓は推測になりますが、同族の長沼氏と青木氏の血縁族の内、青木氏に近い縁者一族であったと思います。本流は長沼氏ですが。そして、御先祖は途中で、なんらかの理由で武家を捨てられたかして(不詳)江戸に出てこられて、明治初期の姓を持つことに成ったために元のルーツのより近い姓を採られたのでは。と推測します。「丸に五三の桐」は日本で最も多い家紋です。3つのルーツを持った家紋ですから。
家紋からの判断ですが。御質問を。


  [No.311] Re: 古川さんへの回答
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:00:48

Re: 葵木さん
副管理人さん 2007/07/23 (月) 21:10
ごっそーさん 2005/07/01 (金) 11:27
ご丁寧に返信いただき、ありがとうございました。

やはり、「青木」姓と何らかの関わりがあったのですね。

また、疑問なのですが、「葵木」という苗字は、明治時代から名乗られたものかどうかということです。

僕の先祖は戦前、旧麹町区に住んでいたそうです。しかし、戦災で戸籍が焼失してしまって、一体いつからそこに住んでいたのかはわかりませんでした。ちなみに、明治時代は「米屋」を営んでいたそうです。

ですが、明治時代から麹町に住んでいたかは不明です。江戸時代の地図を見てみると、その一角は、武家屋敷が立ち並ぶところだったので、そんなところで米屋を営むことができたのかわかりません。

また、菩提寺は旧麻布区にあり、過去帳には1800年頃から載ってます(戒名のみ)。


江戸時代の旗本人名録をみても「葵木」という苗字はありませんでした。

やはり、町人だったのでしょうか。。


  [No.312] Re: 古川さんへの回答
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:01:48

Re: 葵木さん
副管理人さん 2007/07/23 (月) 21:11
青木研究員 [副管理人] 2005/07/01 (金) 19:39
とんでもありません。貴方の御姓の元ルーツは藤原氏です。歴史で藤原鎌足(大化の改新)を習ったと思いますが、その鎌足から8代目の人が朝廷に対して武功をたてました。(有名な平の将門の乱を鎮めた人です。)
この人秀郷は武蔵の国と下野の国の守護でした。武蔵7党とい関東全域を制圧していた超大豪族です。藤原氏は四つの派がありこのうち北家という最も朝廷に勢力を持っていた一族です。この秀郷の子孫になり、前のレポートでの通りです。多分1200年頃に誕生した氏だと思います。1800年頃の過去帳があるとしますと、このころは江戸11代の家斉の頃ですから、武蔵国か下野の国のいずれかから江戸に出てきたと推測します。出て来る前は特に江戸時代初期(1603)
から1800年の間には武士が町人になる政治的な政策はありません。
従って、武士であった筈ですが江戸に出て来た。そして、武士のままに商売をした。この当時はこのような人が多かったのです。
当時、伊勢や近江の豪商とか言われた人は殆どは武士でありながら商いをしたとする人なのです。何はともあれ、家紋が物語ります。1800年以前は武蔵国か下野国の郷士であったと思います。
当時の武士は大名に着いて国換えで移動しますから、貴方の御先祖が1800年頃に江戸に自由に移り住むことが出来たのですから、この二つの国のどちらかに住み着いた土着武士でしょう。この人を郷士(ごうし)といいます。武士でありながら農業(庄屋)や商いをした人たちです。上記の豪商もこの「郷士」です。坂本竜馬、近藤勇、など沢山の人が居ます。大名に仕えず自由に動ける武士です。この人たち郷士には良い家柄の人が多く生活も大名に仕えた武士より良い家が多かったので残っているのです。1800年に江戸に居たことと家紋と考えあわすと、明治初期まで「郷士」であったと思います。その事は、”米屋を営まれていた”という事でも証明出来ます
江戸時代に米を商う場合は許可が必要です。当時は米の石高値を中心としていた経済ですから、米を扱うだけの能力があるかどうかです。一般の市民や農民や町民や離反武士ではこの商いは出来ません
米を国から調達し運びうるためには、扱う力が必要です。「郷士」は地元に長い歴史と人脈関係を持っていますから出来る事なのです。この能力がある場合にでる許可です。
次に、姓ですが、葵紋の膝元江戸から葵を採ったか、長い間の事ですから、藤原秀郷流長沼氏系だが青木氏に近い氏のために、直接に青木とせず、木と葵とで葵木としたか、この点は判りません。しかし、家紋からは藤原流の武蔵下野の国の武士で江戸期には郷士であったと思います。1800年前のお寺かお墓が判れば確定できるのでは。   1000年頃の名家の氏は郷士の人が多いです。


  [No.313] Re: 古川さんへの回答
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:02:39

Re: 葵木さん
副管理人さん 2007/07/23 (月) 21:12
ごっそーさん 2005/07/03 (日) 20:19
青木研究員さん、ご返信ありがとうございます。

青木研究員さんからいただいたレポートを拝見して、思い出した話があります。

ひとつは、昔、親類の者が小さかった頃に葵木家の話になった時に「藤屋」という言葉が出てきたのを覚えていたという話です。どういう文脈で出てきたのかは、忘れてしまったそうですが、もし屋号か何かだとしたら、もしかしたら藤原氏から採ったのかも知れませんね。


また、同じ親類の者が小さかった頃に、親や祖父母から「米屋というのは、ある程度格式がないとできない商売だったんだ」という言葉を聞かされたそうです。すでに、その頃には米屋は営んでいなかったのですが、その親類の祖父母の代くらいまでは、「偉い人から免許をもらって米屋をやっていたんだ」という自負みたいなものがあったのかもしれません。

苗字のルーツに関して、青木研究員さんは、「葵紋の膝元江戸から葵を採ったか、青木氏に近い氏のために、直接に青木とせず、木と葵とで葵木としたか」という推論をなさってらっしゃいます。「青木氏」となんらかの関係があることは確かなようですが、珍しい苗字なので、なぜ「葵」という字を使ったか、その真相に大変興味のあるところです。
邪推ではございますが、前にも書きました通り、菩提寺が旧麻布区にあるので、当初、近くにある「葵坂」近辺に住んでおり、そこから採ったという説もひとつになりますでしょうか。

あと、菩提寺は、曹洞宗でした。


いずれにしても、青木研究員さんからいただいたレポートで、ある程度全体像がつかめてきたものの、葵木という姓のルーツ探しはまだ始めたばかりです。これから新しいことがわかった時にまた伺うと思いますが、そのときはなにとぞお力添えいただきたく存じますm(_ _)m

本当にありがとうございました。


  [No.314] Re: 古川さんへの回答
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 15:03:37

Re: 葵木さん
副管理人さん 2007/07/23 (月) 21:13
青木研究員 [副管理人] 2005/07/03 (日) 23:28
貴方のルーツは藤原北家の藤原秀郷流兼光系の長沼氏系の青木氏であることは今日の情報の4つの事で更に確実になりました。
兼光系には青木氏があり、十分に附合します。
当時は一族を固め強力にするために互いに血縁関係を作り、いざというときは結束を強くしあつまりました。
多分、長沼氏と青木氏との血縁を結び、長沼氏の縁者家来としてその系列に入ったものと考えます。
先ず、藤屋の屋号ですが、当時は武士(郷士)で商いをするものが
屋号としてつける場合は、米屋の場合だと尚の事、自分のルーツの国(武蔵の国、下野の国)のイメージを持つ屋号としました。
あなたの藤原氏系列の氏族ですから、米は藤原秀郷の国の武蔵国の米(当時は関東平野の米は銘柄米)をイメージするために藤を採って「藤屋」としたのです。例えば、伊勢屋、近江屋、松前屋、摂津屋など米などの主な商いは全ては国の名を採りました。
伊勢屋のイメージは和紙と綿となります。
つまり、この藤屋号からはルーツは武蔵の国の米となります。
次に宗派ですが、曹洞宗ですから、この宗派に入信した人たちは本家本流とは別に支流系の武士が入信しました。
(藤原秀郷の本家は浄土宗です。古来からの名家の本家筋は浄土宗です。)
良い例ですが、松平の家来はこの宗派に入り、一時、家康に反抗しました。これで長沼氏系青木氏であることはほぼ間違いはありません。
次に、葵坂の件ですが、その様なことはありません。
なぜなら、明治初期に姓を付けて役所に届けるには、全員菩提寺に相談してつけてもらいました。それは、それまでは戸籍簿はお寺の仕事でした。過去帳を管理していましたので。
自分勝手にはつける事は親族一統などいますから同じにする必要があります。ですからこの関係を知っている寺に相談する以外にないのです。そこで、当然、米などの商いをしているのは郷士ですから、普通は2足の草鞋を行っている「郷士」(ごうし)ですから、元の青木姓に戻す事になりますが、
ここで難題があります。つまり、寺で姓を付けてもらうには金品が必要です。大変な高い値段を悪徳につけたと言われています。
他の私のレポートに記していますように、青木姓は高貴な姓で江戸期まで名乗ってはならない姓でした。(嵯峨天皇期に決められた)
貴方のお家は当然この青木姓に戻す事になりますが、大変な高額な金品を要求されたものと思います。
まして、その寺はルーツの寺ではありませんから、多分受け付けなかったと考えます。そこで、止む無く、同じ音の葵(葵坂か)と木を繋げて「あおいき」を「あおき」呼ばす事で何とか妥協したのではないかと考えます。これであれば同じ音で安くつけてもらう事で証明と寺が納得して出来て届けることが出来たのでしょう。ルーツの菩提寺では問題なく出来たはずですが。150年もたっているので
難しく江戸の寺に依頼したのでしょう。従って、家紋は家紋200選にありながら姓が極めて少ないという矛盾はこの理由です。これで確実に情報矛盾はなくなります。つまり間違いがないということに成ります。
1800年頃の戒名に何か更にヒントがあるかも知れません。ルーツの武蔵国の村名が判明したら100%です。その村に関する判定材料を調べると出ると思います。頑張ってください。
いつでも協力します。後一息です。