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  [No.229] 滋賀の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:45:37

滋賀の青木です
近江の青木さん 2006/12/12 (火) 16:47
こんにちは。
滋賀県の大津に住んでます。
先祖は、同じく滋賀県、湖北町速水というところに住んでいたそうです。
家紋は丸に抱き柏で、宗派は、真宗大谷派です。近くに家のルーツに関して知っている者はおりません。管理人様、何かお分かりでしたらお教えください。
お願いします。


  [No.230] Re: 滋賀の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:46:28

滋賀の青木です
近江の青木さん 2006/12/12 (火) 17:01
上に書き忘れましたが、我が家では代々名前に「吉」の字をつけてます。(例:青木吉雄)
参考にならないかもしれませんが。。
よろしくお願いします。




  [No.231] Re: 滋賀の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:47:44

Re: 滋賀の青木です
青木研究員 さん 2006/12/12 (火) 18:25

今日は。 滋賀の青木さん 始めまして。
情報が少ないので確定は出来ませんが先ず家紋と土地柄とから検証してみます。
早速ですが、滋賀には古くから2つの青木氏が定住していました。
この2つは次の通りです。
1つは近江の青木氏が移動して滋賀に移り住んだ青木氏です。
この青木氏の末裔の本家筋一族が元の近江に戻り残った分家の一部が子孫を増やして滋賀の青木氏となりました。
この滋賀の青木氏の更に分家した一族の絶えた分家がありました。しかし、元上山と名乗る者が勢力を得て土豪となり家系を出世に必要とする為にこの絶えた分家分派の青木氏を奪い取り名乗り始めました。この青木氏を奪った上山一族が子孫を増やして滋賀の青木氏が出来ました。

そもそも青木氏は皇族賜姓青木氏の5家5流の24氏の青木氏と藤原秀郷流青木氏の直系1氏と直流4氏と支流4氏とで主要9氏で出来上がり116氏にも広がりました。

それ以外に、江戸初期前の混乱期を経て出世して江戸の初期から侍になった者と明治の初期に庶民が苗字令に基づき青木姓を名乗った者とがあり、これを第3の青木氏といいます。このルーツは一部を除き横の全ての縁者関係を維持していません。
研究室の青木氏と血縁族(家紋)のレポートを参照して下さい。
家紋掲示板の2Pに柏紋の6つの青木氏の家紋が載っていますので参照して下さい。
研究室にはこの皇族族賜姓青木氏のことも詳しくレポートしていますので一度ゆっくりとお読みください。

この滋賀には3つの青木氏がありますが、天智天皇より始まったもので、第6位皇子が臣下して天皇の親衛隊となり侍と成りました。
5代の天皇 天智、天武、聖武、文武、光仁の5代に続き青木氏が出ました。
この青木氏は5つの土地の守護王となり赴任地に定住しました。
初代は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成りました。
これが青木氏の5家5流の24氏の青木氏です。
家紋掲示板にある皇族賜姓の家紋類です。24家紋と成ります。

この青木氏は宗派は浄土宗です。浄土宗はこの藤原氏を含む高位の者が入信できる宗派で江戸時代まで限定されていました。
中には、少ない寺院であるので赴任地や移動地になく止む無く浄土真宗に入る者もありました。

さて、御家の家紋はこの6つの家紋類には有りません。
したがって、明治初期か江戸初期の何れかの青木氏である事が覗えます。

そこで、御家が侍であったかでこの2つのどちらかであるかが判ります。

この江戸時期には136もの柏紋を家紋とする侍が生まれました。この中にも青木氏を名乗った者も多くおります。
又、御家の縁者関係が多く広がりを見せているのかも一つの資料と成ります。
ご親類の菩提寺や宗派が一致しているかや土地柄が古いなども大きな資料と成ります。
ご先祖の本家筋がどのくらいのところまでわかるかも判断資料と成ります。10-15代程度までだと江戸初期の青木氏で、3−5代程度ですと明治初期ですが、男親の本家筋のルーツ家紋など一致するかも資料と成ります。

滋賀の速水に長く住まわれていて本家筋がこの地に存在するかも重要です。
というのは、途中で男系不能となり女系と成って家紋掟により変紋を余儀なくなくなり現在の家紋に変わったことも考えられます。

つまり、抱き柏紋は江戸前期から吉田氏や金子氏や豊崎氏や森氏らが用いていますのでこの分家筋に当ります。この分家筋と御家の青木氏とが血縁氏したことを物語っていますので上のことを確認出来れば滋賀の2つの青木氏の分家筋か第3の青木氏かは判断出来ます。

一度、一寸した事でもわかりましたらお便りください。意外に何の意味の無い事でも大きく判ることがあるのがこのルーツ調べなのです。

他に上記したことで判りましたらお便りください。


  [No.232] Re: 滋賀の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:48:39

Re: 滋賀の青木です
T/Mさん 2006/12/20 (水) 22:14
滋賀の青木様  
 管理人様 代理投稿ありがとうございました。
近江源氏青木氏のルーツを探しているのですが、今年 「梅花無尽蔵」の著者 万里周九は近江速水氏の出身である。との説をもとに、湖北町速水へ行きました。その著書のなかに、私が調査している美濃から飛騨へ抜ける街道で、ここは土岐氏の領であると感想を述べた箇所があるからです。
 小谷城の麓にあります。速水氏姓の集落は他に虎姫町にもあるようです。
青木さんの家紋の柏葉は代表的な四つ目結紋ばかりではなく、「佐々木12の添紋」の中にあります。


  [No.233] Re: 滋賀の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:49:37

Re: 滋賀の青木です
青木研究員 さん 2006/12/20 (水) 23:18

滋賀の青木さん 今日は。

どうも内容がよく判りません。近江源氏佐々木流青木氏の投稿と同じでしょうか。
なにを言われているのか少し判りません。

兎も角も青木氏の家紋は2つのルーツの青木氏に限定して家紋類をレポートしています。
したがって、原則第3の青木氏の家紋種は掲示はしていません。
というかルーツを調べたくても不特定に存在する特徴を掴むことが不可能だからです。

青木氏の柏紋様は6つとレポートしていますが。4つ目結には触れていませんが。
目結いの青木氏は4つ目結い紋ばかりでは有りません。三つ目結い紋もありますよ。(3家紋)

柏紋と目結い紋とどのような話の繋がりでしょうか。

佐々木氏と青木氏の間のどのような話があるというのでしょうか。

佐々木氏に付いては綜紋は笹竜胆紋ですが。

念のために、家紋には綜紋と副紋ともあることをご認識ください。(家紋には5つのパターンがあります。)5つの何をもって家紋と呼ぶかです。
この内の一つを捕らえて家紋を論じるにはあまりにも問題があります。
論所を統一する必要がありますね。

佐々木氏の紋様はどの時代までのものをまとめたかも問題があります。

江戸時代までのものであるとすると青木氏の第3の青木氏と同様にこの近江佐々木氏も同様の事が起こっています。
よつて、12とあるはおそらくのこの第3の佐々木氏も含めてであると思います。

江戸期ごろのデーターを元に作本をすると信頼性を低下させます。
勉強の初期このことで訳がわからなくなるのは江戸の初期前後と明治の初期の現象のこの第3があるからです。
其れと一つの書をもって論じる事にもルーツ検証には余りにも危険があります。
其れはどの時代の資料をもとに本を書いたかと云う事が信頼性と云う点で問題なのです。
室町から江戸期の書を用いるとあまりにも偽作がおおいのでとんだ間違いを起すのです。
だから、確実なところでルーツを論じるには鎌倉期前と言う事になってしまうのです。
ところがこの鎌倉期前の資料は極めて少なくなっているのが現状でしらべるには大変な金額と時間の浪費が働き到底我々のアマチュアでは不可能です。

だから、第3と区別する以外に正しくレポートする事は出来ません。
そもそも家紋や系譜を搾取する事でルーツというものが確定するのであれば限界が有りません。なぜなら誰でも出来るからです。いますぐにでも。私はこの第3の青木氏や佐々木氏は取り除く事が先ず大事で次のこの第3の青木氏に付いて論じるのであればそれはそれで一つの見識と思います。

私はこの第3の青木氏が特異な形で意味を持つ大きく末裔を作った青木氏は「家紋掲示板」にも「青木氏と血縁族」にも主要第3青木氏を載せています。
一度、そのような資料館の研究員などの人に質問されるとより正確にまとめる事が可能と思います。

司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や松本清張氏や山本総五郎氏などの著書になどこのことを分析しています。

兎も角、先ず江戸前後と明治初期の第3青木氏と佐々木氏(勿論、藤原氏も)があるということを先ず認識されて調査される事をお勧めします。


  [No.235] Re: 滋賀の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 09:52:52

Re: 青森の青木です。
青木研究員 さん 2006/12/19 (火) 20:07

青森の青木さん 今日は。始めまして。

答えはすぐでます。
御家は藤原秀郷流青木氏です。
この藤原秀郷流青木氏に付いては詳しく研究室の「藤原秀郷一族の生き方」を参照して下さい。

「下がり藤紋」に付いては家紋掲示板の4Pの最初にレポートしています。

又、研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の藤紋のところでも詳しくレポートしています。

藤原秀郷は大化改新の藤原鎌足より8代目の人物で平の将門の乱で勲功を立て武蔵国と下野の国を領国となりました。そして貴族となり貴族は武力を自ら使えませんので第3番目の子供の千国と云う者を侍にし護衛隊の役目を与えました。
この千国が侍になつたので青木氏を与えました。この千国が元祖です。

そして、代々鎮守府将軍として陸奥(青森)に赴任してい居ました。この時の護衛軍が青木氏です。
鎌倉時代から江戸まで征夷大将軍と呼ぶようになりました。

藤原秀郷の主要5氏は青木氏と永嶋氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏です。
そしてこの藤原秀郷の総宗本家は24氏に広がっています
この総宗本家は全国66国のうち24国に国司として朝廷の命で赴任しています。この時全て青木氏が護衛しています。
この青木氏がその赴任地に子孫を残し土地の豪族と血縁を結び勢力を広げています。
だから、24地方には藤原秀郷流青木氏が存在します。
本国は武蔵国で入間郡を本拠地として116氏青木氏の本家筋が横浜神奈川を半径として円縁を描く様に取り囲み内側からより本家筋が取り囲んで居ます。
そして、栃木群馬まで拡大しました。

藤原氏は4家といい、南家、北家、式家、京家がありましたが同族の勢力争いを越しこの内勝ちのこったのは北家でこの藤原秀郷一門です。

この下がり藤紋は”下がる”を嫌い上り藤紋とする藤原氏が出ました。下がる藤紋はこの秀郷一門だけが使用しました。

青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の2流です。

(他に江戸初期と明治初期に第3の青木氏がありこの高位の青木氏にあやかって系譜を搾取と偏纂して名乗りました。)

念の為にこの皇族賜姓青木氏とは天智天皇より5代の天皇の第6位皇子が侍となり臣下して天皇の親衛隊として働きました。

この時にそれぞれ天皇自ら皇子に青木氏の氏を与えました。この青木氏は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王としての国の守護となり5家5流24氏に子孫を増やしました。
この後、2代後の嵯峨天皇から青木から第6位皇子を賜姓源氏に変名し、そのかわりこの時青木氏は皇族出の者(全17人)が名乗る氏とし青木氏の使用を禁じました。

この禁令を藤原秀郷は朝廷の許可を得て青木氏を使うことを許されました。その理由はどちらの青木氏も藤原氏の血筋を引いているからです。

御家は現在も下がり藤紋を引き継いでいるとしたら陸奥に護衛役として同行して定着してから男系跡目が1100年程度できている事を意味します。

この藤原秀郷一門は4代目から兼光系と文行系に別れます。青木氏は3代目までは千国の直系で4代目からはこの兼光系から出ています。後に2代に渡り本家から跡目を入れて守っています。
この一門の綜紋は下がり藤紋です。

この下がり藤紋の青木氏は116氏に広がっています。当然に下がり藤紋から変紋して116もの家紋が出来ました。

これ等の全ての青木氏は鎌倉幕府樹立にて失職します。この時仕官した者や豪商や豪農等になりました。御家は農家を選んだとみられ江戸時代には本家は名主や庄屋などに成っていたはずです。
次第に土地と財産を分けて分家して普通の農家になっていったと観られます。

寺は室町期(乱世)くらいからその内に変化したものでしょう。本来は藤原秀郷流青木氏は自分の菩提寺を持っていました。このサイトの投稿している多くの青木氏は菩提寺を持っています。これも分家分派して変わったものと思います。

青木氏の地名地形データの所の陸奥(青森)の国を調べて下さい。

このサイトには沢山の藤原秀郷流青木氏の末裔の方が投稿していますのでそちらもお読みください
元は縁者の同族です。

ではまたレポートをゆっくりとお読みください。ルーツは詳しく成るはずです。何か有りましたらお便りください。