[青木ルーツ掲示板トップにもどる] [青木氏氏 研究室へ]
一括表示

このページのリンクURLです。張り付けてご利用ください。
 
キーワード: 条件: 表示:
 

  [No.1185] 続 豪商長島屋
     投稿者:静岡の青木です   投稿日:2021/04/18(Sun) 16:32:46

お世話になっております。富士宮の青木です。前回ご教示願いました律宗族や密教浄土宗ということについて丁寧に解説していただき、お礼申し上げます。仏教の律宗と思い込んでしまいましたが正確には律令の律宗であると知り、そうだったかと思いました。志貴皇子の時代はまさにまさに律令政治の時代であり、そのことから青木のお家が背負ったものの重みを改めて感じました。
青木のお家は神仏習合の密教浄土宗ということでありますが若い頃聖徳太子や比叡山の天台教学を勉強していたので日本の初期の仏教が神仏習合であることはよくわかります。かねてより青木のお家は古い形をよく残していると感じておりました。
昨年、伊勢神宮へ行ったのですがあえて奈良から入り名張を通過し松阪で清光寺のことが気になって降りてみました。門前の説明版に今は清光寺だがもとは「神光寺」であったとあり阿弥陀三尊や行基菩薩のことが書いてあり、うなりました。やはり神仏習合なのだなと実感しました。そのほか伊勢では慶光院や斎宮が気になりました。富士宮の浅間大社も明治以前は境内に大日堂や護摩堂があり、社僧がいたそうです。
前回お便りしました長島屋のことですが図書館で本を借りてよく読んでみました。長島屋は日光道中、屈指の豪商で、長島屋のいた地は水運と宿場町で豊かな商人が多く、長島屋のほかに「伊勢治」などの大店もあったようです。管理人様が指摘されましたように江戸幕府からたびたびの献金の強要があり、記録に残っているそうで一回当たり数百両の献納を何度もしています。利根川や江戸川が近いのでその堤防は「御府内お囲み堤」といわれ、御府内とは江戸のことで「江戸を水害から守る堤」であったそうで何度か堤が切れたときは実際に江戸まで水が行ったそうです。長島屋はこの利根川水系の改修工事に多額の拠出をしていることがわかっています。長島屋の看板が菩提寺に残っており、長島屋の主人が池大雅と親交があり、池大雅が描いたもので「現金安売りかけねなし」と書かれています。長島屋は多角経営していて呉服のほかに金物、漆器、家具、材木、両替商もしていたそうです。干拓事業も多く手掛けて今でも「長島堀り」という水路が残っており、田畑を潤しているそうです。長島屋の墓所は一色氏と同じ寺にあり曹洞宗でした。また長島屋は結城郡にも田畑を所有していたそうで管理人様の指摘とよく一致するものでした。長島屋は前回書きました、様々な不幸により家運が傾きましたが、明治13年の大火がとどめになり、明治20年ごろ、この地を去ったそうです。江戸時代は青木氏にとって安定した時代であったのかと思っていましたがそうでもなかったのだなと思いました。
この地には平将門の供養塔もあり赤木大明神として祀られています。天慶の乱のとき藤原秀郷が陣を置いたという所もあり、そこには弘法大師ゆかりの光明院という大寺があったそうでそこで秀郷は戦勝の祈祷をしてもらったそうです。近隣にはご先祖が天慶の乱の時、紀州熊野から官軍に参陣したという旧家もあるそうです
いつも管理人様の連載を楽しみに読んでおります。祖父が富士宮の出身なので駿河青木氏の青木貞治のことも興味深く読みました。富士宮ですと駿河青木氏と伊豆青木氏のどちらに入りますでしょうか。
父の記憶によりますと祖父の実家は棚のようなものを作っていて職人さんが何人かいて、一階が店であったそうです。
コロナが収まる気配がありません。お体くれぐれも大切になさってください。どなたかも書いておられましたがこのサイトでご先祖様の生き様を勉強させていただき、感謝の思いです。


  [No.1186] Re:続 豪商長島屋
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/22(Thu) 10:18:23

今日は。お久しぶりです。
お元気でしか?
コロナ禍で大変ですがお気をつけください。

お便り楽しんで読ませていただきました。
より深い興味のある疑問点をご指摘頂きました。
これ等のご指摘の疑問点はルーツの発祥源にあると考えられ、それで筆者のルーツの考え方を先ず論じて観ます。

お便りには、順不同でシリーズで論じてお便りします。

イ 富士宮の件です。
ロ 高島屋の事です。
ハ 一色の件です
ニ 神光寺の件です。
ホ 神仏習合の件です。
へ 斎宮の件です。
ト 伊勢治の件です。
チ 明治13年の大火の件です。
リ 平将門の乱の件です。

先ずイの件です。

「伊豆青木氏」か「秀郷流青木氏」かですが、先ずその前に筆者はこの「二つの血縁族の区分け」に付いて次の様に考えています。
それは「円融天皇の賜姓」に依って「960年頃」から「秀郷流青木氏」が「三男の千國」を以て永代に正式な形で発祥しましたが、その前から「秀郷流一族一門」とは「母系族」として、それまで「313年間」に於いて「中国の四掟制度」を持ち込み、これを基準に「皇親族」、又は「賜姓族臣下族」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、先ずこの範囲で「重相互血縁」を繰り返し純血性を保ってきたものです。
そして、それは相互に「妻嫁制度」と「嫁家制度」と云う「掟と仕来りと慣習」で他から新しい血を徐々に入れながら「血縁被害」も防いで来ました。
それは現在の遺伝学で解明されている様に「女系」であってこそ成せる事でした。
「人類の種の系列遺伝」は「母親」から「娘」にだけ引き継がれると云う特徴を人は持っています。
「日本人」は「7つ民族の融合」の中で、更には、様い範囲では、且つ、「青木氏」、「秀郷流一門」の中で、「基幹遺伝子」は引き継がれていると云う事ですから、「四掟」を限定し「妻嫁制度」と「嫁家制度」を敷けば「特定の範囲の純血性」は保たれると云う事を奈良期から「経験則」で悟っていた事に成ります。
それが偶然にも「遺伝子的」に証明されているのですから、相当な経験則でした。
これが「秀郷流青木氏」が発祥して、その範囲を狭め更にこの「女系での純血性」が保たれ、何と明治初期までの「1200年程度の期間」を女系で繰り返されて来たのです。
遺った「伊勢と信濃の青木氏」は「伊勢と信濃の郷士衆」から新しい血を女系で入れ、「伊勢と信濃の青木氏」は、又、相互に血を入れ、「秀郷流一族一門裔系」から「秀郷流青木氏の裔系」に入り、又、直接に秀郷一門からも新しい血を入れ、これを更に「伊勢と信濃の青木氏裔系」に「女系」で戻すと云う「青木氏族の形態」を構築していたのです。
これは二つ池の水の流れに相似していますね。
これを考えれば、要するにそもそも、“二つの流れに分ける必要は無い”と考えているのです。
その証拠に「近江佐々木氏の研究論文」に於いても、この考えに沿って「研究タイトル」は「青木氏族」と括っていますが、筆者も賛成です。
この「近江佐々木氏の研究論文」は、「近江佐々木氏系と近江青木氏系」も含んだ「奈良期」からの範囲で「青木氏族」を論じています。
間違いなくこの「近江の二つの裔系の血筋」は所謂、「青木氏族」に流れている事は否めません。
唯、「近江佐々木氏の場合」は、「平安末期までの範囲」に限定される為に、「450年程度の期間」とその1200年間の約1/3と成りますので、どう扱うかはそれぞれの考え方に左右されますね。
従って、この「富士宮の件」は、結論から「伊豆青木氏」か「秀郷流駿河青木氏」か「秀郷流相模青木氏」かに成りますが、上記の「括りの考え方」では同じとし、敢えて分けるとすると成ると、「秀郷流相模青木氏」であると成るでしょう。
それには、血縁はその族の大きな決定事項ですから、その「差配」が何処かに依る事に成りますね。
当然に両者の計画的な事前協議に基づく事に成りますが、「伊豆」が勝手に決める訳では無く、「氏家制度」の中では「伊勢の福家」に届け出て裁可を受けての事に成り、その上で綿密に協議して決まりにますので、伊豆の生活圏から横の東に広げる力は無かった筈で元より「伊勢と信濃の融合族」です。
「秀郷流駿河青木氏」は、一度、源平戦で滅亡して「伊勢の助け」と「血縁」で興して再び「秀郷流一門に戻せた経緯」を持っていて、西の「伊勢」や「三河」に生き方を向いていますので、室町期では元の東に広げる勢いは未だ無かった筈です。
だとすると、「神奈川横浜圏」の「秀郷流相模青木氏」の「西外れの生活圏」に矢張り入ると成るでしょう。
当然に一時「伊勢」まで張り出していた「秀郷流一門の青木氏族系の永嶋氏系」が、「源平戦後の鎌倉期」と「室町期中期」から「700年にもなる期間」では、「甲斐武田氏系の青木一族」が救済を求めて逃げて来た歴史的経緯からや過去帳等を観ると、一度や二度の血縁は充分にあったと読み取れますが、これはさておき、「本流の裔の定住地」としての結論は「伊豆青木氏」であったと考えます。
要するにここは「伊豆青木氏」は東は「真鶴」。西は「藤枝」までの域が「伊豆青木氏の住み分けの生活圏」でありました。
確かに「際どい領域と成る事」は間違いなく、「定住地」とは「氏族の戦略的な要素」の中でありますので、「氏族」を固める為にもこの「血縁」もこの中で行われます。
従って、この「富士宮」は「戦略的な意味合い」からも、「西の駿河青木氏」の血縁から観ると「伊勢青木氏系」に成った事を意味し、これに「勢力」を復興させ、南に「伊豆青木氏・伊勢信濃融合族」、東に「秀郷流相模の青木氏」と「三角形の中」で固めていますので、流石に時の勢力の信長も秀吉も家康も手の出す事は出来なかった地域です。

其処を北が弱いとして流石に北から「武田氏」が浸食して来ても結局は左右からこの圧迫を受けて失敗します。
故に、一族を「血縁」で固く固めていた事は否めませんが、「南の伊豆と西の駿河を「要」として「伊勢の財と抑止力」を背景に「経済力」で南海を制し、東は「相模の秀郷一門の勢力」で固めていたので、「伊豆・伊勢信濃系」と「駿河・伊勢系」と血縁で充分に固める前に「伊勢との重血縁で固める事」で「青木氏一族」は護れたと考えます。
矢張りそれには、「伝統」で論じている様に、「伊勢」が動いたのは「伊勢との血縁」で「駿河青木氏の復興」を先ず果たさせ、同時に信長に破壊された「伊豆青木氏とのパイプライン・神明社等」を復興させ、構築する事が「喫緊の課題」であったと成ったのでしょう。
その為には「衰退していた美濃の額田青木氏」に「20倍の即戦力となる近代銃(300・20=6000兵力以上)」を渡し、これを美濃の山奥から引き出して来る事であった事に成ります。
当に「血縁・重婚」よりは、先ずは「歩」を「金」にするよりは「将棋の駒の動かし方」にあったと観ています。
従って、この「周囲で護れる三角形の中心」の「血縁」には余り必要性はなかったと観ています。
恐らくは「祖先」もその様に観ていたのでしょう。
ですから、「伊勢から観た歴史観」からすると「融合族」までに至らずに、「富士宮」の「東・真鶴」からは、主に「秀郷流相模の青木氏」であったと考えます。
「ルーツ掲示板」でもお便りがありましたが、この方の場合はその経緯から「伊豆青木氏」でした。
「伊豆青木氏」が、何故、武力の持たない伊豆青木氏が「半島より北の幹線域」に出て来たかは、それは飽く迄も「商いの伊豆」であったからです。
其れで「伊勢の海運の力」で護ろうとしたのです。

次はロの「長島屋」を追論します。
「長島屋の件」に付いて良くお調べになりましたね。
依然は、この長島屋は、通説から次の様にお答えしています。
それは、この「結城永嶋氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢長嶋氏」とは、取り分け「血縁関係」が深く、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」は一族関係であった事から、「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」の協力を得て、「二足の草鞋策」を「江戸」で財源確保の為に始めたのが始まりです。
そして、「主要五氏」の中でも「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」は「青木氏一族」と呼ばれる一族で、「永嶋氏の中」からも「永嶋氏系青木氏」が出ていたのです。
これが、後の「長島屋の呉服商」なのです。

然し、筆者は別の論を持っていて次の様に成ります。
その理由は、「普通の商い」とは別として、「総合商社の大商い」は「システム」と云うか「背景」と云うか簡単には出来ないと云う事です。
この点に注目して以前から「次の仮設」を立てて、その「証拠集め」をしていますが、「二つの事の記録の証拠」が採れません。
それは一つ目は、“吉宗に同行して伊勢から江戸向行した”と云う記録です。
二つ目は、“江戸での「秀郷流永嶋氏の長島屋の確実な記録」が無い事です。
その大元の疑問は、“長島の名”の確実な記録の事です。
実は第一に秀郷流一門と青木氏に関する記録が何故か消失して実に実に少ないと云う事です。
筆者では、「伊勢の情報」だけのもので、「商記録」に遺された記載でしたが当初は「取引相手」と観ていたのです。
ところが、「長島屋」が「永嶋氏」に通ずる事から関係性があるとして調べる事にしていたのですが、問題は「長島」とするには、「伊勢の長島・古資料には長嶋」か「薩摩の長島」か「静岡の長島」かの範囲で調べていました。
「秀郷流青木氏族5氏の永嶋氏」はその子孫の広がった土地に依って書き方を変えていました。
これは「秀郷流一門の仕来り」ですから、ある経緯から薩摩では無い事は判ります。
とすると、「静岡の長島氏」は「薩摩藩の商人」として移動してこの長島氏の裔が商い」で「静岡」に定着した「長島氏」である事は判っています。
従って、「伊勢長島」と成ります。
とすると、何故、「長島屋の屋号」にしたのかの疑問が解決しますし、そこで何故、江戸なのかです。
そこで、これを仮設に仕立てて、「伊勢青木氏と伊勢秀郷理由青木氏」の影響を受けて「享保の改革」に向けて「吉宗」に同行して「伊勢青木氏の伊勢屋」と共に「江戸」に向かったと観ています。
そして、「伊勢秀郷流青木氏の意向」から幕府の官僚族と成った「武蔵の秀郷流青木氏」を“「商い」で「後押し」”をする為に出向いたとしました。
何故、「後押し」をするかですが、「武蔵の秀郷流青木氏」と共に秀郷一門はそっくりそのままに「江戸幕府の官僚族・家人衆」の名で全て抱えられ史実があり彼等を補完する必要に迫られたのです。
ところが、歴史でも良く知られる様に「三河旗本の旗本衆」との「大きな軋轢」が発生していました。
そこで彼等に「力」を着ける為に、それには「吉宗の改革」に乗じて「武力」では無く「経済的な後押し」をした事は史実として遺っています。
この事は、当に同時期として「駿河青木氏」にも論じた通りです。
それが「長島屋」であったのではないかとして、その史実を集め始めたのです。
判って来た事には「矛盾する処」は有りませんでしたが、問題の「吉宗の江戸向行の史実」が掴めません。
この「江戸向行の史実」の記録が無いのは、“江戸に着いてからの「立上策」であつた”とする仮設も成り立ちます。
つまり、“「表の伊勢屋」の「影の長島屋」の「商社」を策して作った”とする仮説です。
吉宗と繋がる「伊勢屋」が表立って出来ない事をこの「長島屋」がしたと云う仮説です。
それは一族の「3000石の出世近習衆の駿河青木氏」と共に「家人衆の幕府官僚族」と成っていた「秀郷一門族」を裏で力を持たせるために「経済的」に支える役目です。
これに相乗的に「衣布着用の伊勢青木氏の発言力」も伴ってそれでこそ煩い旗本や大名を抑えて「享保の改革」は進む筈です。
「お便り」の通りに間違いなく「長島屋」はこの役割を果たしその様に動いていた事は判っていたのですが、又、「伊勢屋」の「商いでの後押し」であるからこそ「お便り」の通りに「総合商社としての動き」を見せていた事も納得が行きます。
唯、この「総合商社」とする以上は、それを運搬する手段等の総合のシステムが必要で、其処までの「能力・大船やシンジケートなどの保有」が「結城永嶋氏」には勿論の事、「秀郷一門」にも無かったと観られます。
だから、「伊勢青木氏の伊勢屋」なのであって「無数の船籍を持つ伊勢水軍」と「自らも4艘の大船保有」を有し、「伝統の所」で論じた様に「復興した駿河青木氏の水軍」があり、これにも矛盾していません。
後は、その「船の行動範囲」は自由航行権は無く「幕府の伊勢山田奉行所」で規制されていましたので、最高でも「伊勢」は「駿河」まで、後は、「駿河青木氏」がこれを繋ぐシステムで「江戸」に運べば可能です。
それには、どうしても上記した「側衆の家人衆の力の政治の力」と「秀郷一門に経済的な力」で「政治」を動かせば「長島屋の商い」は無理なく成り立ち「システムの構築」は現実に動きます。
筆者は、「青木貞治の裔の家人近習衆」を「出世させた経緯」の一つに繋がつていたと観ているのです。
この「長島屋」が「武蔵の秀郷流青木氏の裔」とする説も確かに成り立ちますが、「総合商社の商い」と云う観点からは説得力は低いと考えています。
これは絶対に「伊勢」と繋がって無ければ成り立つ話ではない筈です。
その「伊勢青木氏と伊勢屋」が「吉宗の享保の改革」を裏から支えていたのは何よりの証拠に成ります。
研究では、其れが「富士宮の伊豆の青木氏論」に繋がっているのです。
「美濃の額田青木氏」と「駿河青木氏と伊豆青木氏」を復興する論の事で此の“「長島」”は成り立つ話でしょう。
この「一連の戦略」の中にあったと考えています。
その証拠に、「享保の改革」の末期に「吉宗」が「伊勢青木氏との約束」を破って「信濃青木氏の領地と養蚕等の殖産」をそっくり幕府に奪い取った史実の事から、「伊勢との関係性」が最悪に悪化して「200店もあった伊勢屋の店」を3日以内に「店子に無償譲渡」し、「船」で「伊勢」に逃げ戻り、その「伊勢」では「伊勢紀州の殖産・勘定方指導の立場」を一手に引き受けていた「紀州藩の保護」で守られて、「幕府からの激しい追討の難」を逃れた史実があるのです。
この「吉宗の行動」は、「力の持ちすぎた伊勢青木氏と伊勢屋と長島屋と秀郷流青木氏と秀郷一門一族のタッグ」を警戒したと解釈できます。
「紀州藩」は、この時に幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられる始末でしたが、護り通したのです。
この時は、既に「紀州藩」は「吉宗系保科氏の系列」から外れ「安芸松平氏」から「養子」を迎えていました。
ですから、「吉宗の幕府」に対して「伊勢の秀郷流青木氏を始めとする伊勢藤氏族」が「紀州藩の全官僚」と成っていた事から、故に「明治維新」の「財政改革と近代的軍革の明治維新」を推し進めた「紀州藩士の陸奥宗光等」が代表される様に維新まで続いた「独立性の強い紀州藩・惣国藩と呼ばれていた・慶喜に従わなかった」が出来ていたのです。

江戸から引いた後は引き続き「伊勢紀州の殖産」で、幕府から「毎年紐付き2万両の借財」をしていた「10万両以上」を5年で返却していて、“紀州藩は云う事が聞かなく成った”と云われるまでにして警戒視されていたのです。
「低い経済力の無い伊勢加納氏」に代わって「親代わり」と成っていた「伊勢の青木氏・伊勢屋」が、その「紀州藩を救う原因」を作ったとして何との「吉宗」に睨まれて、その「親族の信濃の弱い処・聖地の半分の3000石分と養蚕の殖産剥奪」で突いて来たのです。
恐らくは、この時の史実の事件から、この疑問の“「長島屋」”も上記の「システム」が壊れて衰退して行く事に成って、「危険な伊勢」に戻らずに、遂には「女系の縁者の多く居る武蔵」に逃げて隠れた事に成ったと現在の研究では観ています。
実は、この「長島」には当時は「次の仕来り」が在ったのです。
それは各地に拡がった「永嶋氏の家柄」を姓名の漢字で表現して「何処の永嶋氏」かを当時は判別する様に成っていました。
これは「賜姓の青木氏」を除き、秀郷一門361氏全てに適用されていました。
それは「関東屋形」として最高に永嶋氏が勢力を張った「定住地域」に依って変えられていて、永嶋氏>長嶋氏>永島氏>長島氏>永嶌氏>長嶌氏でした。
つまり、その「長島屋」なのです。
その意味からすると、果たして「結城永嶋氏の長島屋の通定説」には筆者は実は未だ「疑問」を持っているのです。
最もしっくり行くのは、完全に「上記の二つの記録」が無い為に確定は出来ませんが、通説とは異なり本説の「伊勢秀郷流青木氏の伊勢長島」ではと観ているのです。

サイトのメモリーの関係から今回は此処までとし、引き続き3の一色論を披露し


  [No.1188] Re:続 豪商長島屋
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/23(Fri) 16:21:04

イ 富士宮の件です。
ロ 高島屋の事です。
ハ 一色の件です
ニ 神光寺の件です。
ホ 神仏習合の件です。
へ 斎宮の件です。
ト 伊勢治の件です。
チ 明治13年の大火の件です。
リ 平将門の乱の件です。

さて、次はハの一色に付いてですが、伝統でも論じている様に一色は天皇から「施基皇子」が与えられた「天智天武持統」の3天皇から「伊勢の土地」の「大字名」です。
日本書紀の記載では、「合計5つの大字名と人民」を賜った様に成っています。
然し、その記載の表現から解釈すると未だ確認されない「小字名の土地」があった様です。
この面積を計算すると、伊勢の当時の有効耕作面積の8割を占めています。
要するに、当に「二代目伊勢王としての実績」を持っていた事に成ります。
これ等に、字の名を着けて呼んでいた一つが「一色」で、他に確認できる「大字名」には「4つの字名」が確認できます。
然し、「施基皇子」が「功績」を立てるたびに賜った可能性のある「小字名」では「数十の小字名」の数に及んでいます。
「施基皇子」は、「日本書紀」にも記載の通り、伝統で論じている様に、ある事件をきっかけに「額田部氏」とのタグを組み「員弁や桑名」等の当時沼地であった「不毛の地」を「干拓灌漑開墾」を施し、「肥沃な土地」にした事が記載されています。
この事で「額田部氏」も「罪」を許されて、「真人」、「朝臣」、「宿禰」、「忌寸」、「道師」、「臣」、「連」、の「連」であった官位が「宿禰」に成る破格も特別破格の「3階級特進の出世」をしました。
その「罪」とは、「桓武天皇」の行った「長岡京から平安京」の「遷都」に同行しなかった事に在ります。
「遷都」に最も重要な者は、「土木工事の専門集団」ですが、当時は「額田部氏と結城氏と和気氏」の特徴を以て三つがその役を「技能集団の官僚族」として務め、中でも「額田部氏」が「職種技量共」に郡を抜いていました。
頼りにしていた「倭人で技能集団と成った額田部氏一族」の「故郷の斑鳩」より離れる事を嫌い拒絶し、「斑鳩追放の罰」を受けたのです。
これを「天智―天武―持統」の葬儀一切と「墳墓築造」に共に携わった「施基皇子と伊勢青木氏の裔」が救い、長い間、「額田部社」と共に「伊勢の桑名」に隠します。
流石に、「出自元である伊勢青木氏」が隠している事を知っていても黙認していたのです。
其の後に「伊勢一帯や近江などの干拓灌漑開墾」に成功し、「伊勢と共に殖産」にも貢献します。
これが遂に評価されて上記の様に「額田」に土地を与えられ「額田部社・朝臣族では無い一氏では無い」も戻されて明治初期まで定住を許されたのです。
この員弁や桑田と額田も施基皇子の大字名でそれ地名と成ったものです。
この「賜姓臣下朝臣族の施基皇子・伊勢青木氏」の「大字名とその民」がその「格式を表す一つの呼び名・好字」と成って平安期には使われる様に成ったのです。
記録に遺る通りこれをある事情で悪用したのが「鎌倉幕府の源頼朝」です。
そのある事情とは「頼朝の鎌倉幕府」は、「地方政治」を「朝廷の守護職の政治」では無く幕府「幕府の地頭職政治」に置き換えて権力を掌握しようとしましたが「西の朝廷」はこれを認めませんでした。
そこで、先ず承認の得られ無い侭に強引に手始めに「伊賀」と「西尾」に地頭を置いたのです。
頼朝の格式も低く、その為に周囲から政治的に無視され「統治」は上手く行きませんでした。
そこで一計を案じたのです。
それがこの「施基皇子の格式」を匂わす「大字名の一色」を利用して恰も「施基皇子の伊勢の大字」と成ったかの様に見せる事で「朝廷の許可」を得たかの様に「格式」を持たしたのです。
この一計は先ず「伊賀」と「西尾」とで効を奏しました。
これを頼朝は盛んに各地で使ったのです。
時には家臣に姓として褒美に好字名として与えると云う事をします。
これが関西各地に広がりました。
同じ「河内源氏の関東の足利氏」の「室町幕府」も「格式」は「9つの縛り」を護らなかった為に世間から低く見られ、家臣等もこの「格式のある大字名」を「第二の姓名」にするという事が起こり、「足利幕府」も「家臣」に「諱号」として与えると云う習慣が起こりました。
「足利氏の家臣」の「一色氏」は当にこれです。
「足利泰氏の子」の「一色公深」は、「三河国吉良荘一色・現在の愛知県西尾市一色町」を出自として、「大字名の一色」を「好字名の姓」として名乗ったのも上記の「西尾の一色」です。
伊賀の足利氏の地頭の一色は出自元である事から無視され遺る事はありませんでしたし、結局、この地頭で赴任した「足利氏」は流石に居られずに「伊賀」から引き上げます。
既に、「西尾の一色」の前には直ぐ東の「美濃額田の一色」には「浄橋や飽浪」が「四家の桑名青木氏」から「三野王家・後の土岐氏」に嫁ぎ、「出自元の大字名の一色」を「地名」として平安期から着けていましたので、二番煎じでした。
この「好字名」は奈良期から平安期には「好字の統制をする為に「好字令」が出る始末で、結局はそれには「三つの目的」を含ませていて、続けても三代目までとする「仕来り」と変わりましたが、鎌倉期―室町期以降は全くこれを護られませんでした。
中でも酷かったのは、「格式の無かった徳川家康」などは無理に格式を高めようとして、「朝臣族」と搾称して、「源氏、藤原氏、平氏、橘氏等」を「時、場所、人」に依って使い分けて「背伸びの好字名と諱号」を使い分けましたし、それに習って重臣旗本までも使いました。
流石に徳川氏は「青木氏の氏名」だけは使った形跡はありませんでした。
「施基皇子の一色等の六つ大字名」は、当初は、資料から観ると「しきのみこ」の「色・しき」から発したものであった様で、この「色・しき」は「八色の姓」、即ち「八つの色」は「八つの草」であって、故に「やくさのかばね」であり、この「草」は「土地」を意味し、資料の語りでは「色」としたものであるとしています。
そして、それが何時しか「一色」と成ったとされ、その「一」は「八色の姓」の「最上位の真人」に位置していた事とされ、天皇が持つ冠位に継ぐ「浄大一位」の「一」に由来する事で「一色」とされたと「資料の流れ」から読み取れます。
故に、この「一色の大字名等」は「青木氏の格式」を「大字名」で表現し、その「土地」で最大限に表現したものであったのでしょう。
その論理で検証すれば他の遺る「五つの大字名」もこれに係わる近い表現から外れていません。
この様に、「諡号の姓族」と違って“「氏族の格式表現の手段」”として「大字名・好字名・ 諱号名」として並行して使われた事が判ります。
「近江の佐々木氏の始祖」の「川島皇子の大字名」も「4つの大字名」が「日本書紀」にも記載がありますが、上記の様に「格式表現」としては全く使われていませんし、他の姓族も「近江佐々木氏の大字名」を「一色」の様にして使われた形跡は遺されていません。
つまり、云わんとする処は、ここには「同族の重血縁族」にありながらも、「伊勢青木氏との違いの格式概念」が特別に奈良期からも世間にはあったと観られその「証拠」と成り得ます。

ニの「神光寺の件」です。

伊勢松阪の駅前の広場先の右側一帯は、「寺町」として「蒲生氏郷」に依って城郭の区画整理された地域です。

「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「伊勢」を蒲生氏郷が統一して松阪城を建設して「城町」を造りました。

この時の名残として「青木氏族の菩提寺の清光寺」の周りには室町期の当時は「4つの寺」が隣接していたとされます。
ところが、度々の火災で焼失して「江戸期」に入って「顕教令」に基づき「密教の菩提寺」の「氏寺の清光寺」は実質無く成り、江戸初期の火災でこの清光寺も焼失して、ここに「伊勢支藩の紀州徳川氏の菩提寺」として新たに建設される事に成り、元あった場所より「東2m横」に建設されたものです。
ここにそして寺名も「青木氏氏族の菩提寺名の清光寺」として名付けられた事が記録として遺されています。
この時に元の位置にあった「焼け跡の一切の青木氏の墓所」をこの位置に移動を許されたと伝わっていて、その元のその寺の名は「神光寺」であったとされ、移された事で「青木氏の菩提寺名」の「1000年以上の由緒ある清光寺」に着け直されたと伝わっています。
現在も「青木氏の主家の墓妾と共に四家の墓所」が女墓と共にここに多く存在します。
この時に一区画内に4つの宗派の違う寺が隣接していた事が記されていて現在もその様ですし、周囲には「光」の着く寺名が「伊勢秀郷流青木氏の菩提寺」であった「西光寺」を始めとして周囲には「光」の着く「6つの寺」があります。これは「伊勢郷士衆50氏の家人青木氏の菩提寺」であった事が伝えられています。
「平成10年10月」まで「伊勢松阪の主家・祖父の妹に継がせた松阪殿の家」は遂に「男女の跡目一切」が途絶え、「旧領地の尾鷲」に移住していた元々の主家の我家に主家が戻りました。
その為に、奈良期からの先祖伝来の賜仏の仏像はこの清光寺に移して祭司させてもらう事に成りました。
当家ではお仏像様と呼ばれていて当家の一室に1000年位上も祭司されていた「伝来の護り本尊とされる仏像・鞍作止利作・司馬達等の孫 作家の司馬遼太郎の祖先」の写真を本文に添付します。
当家に仏像の見学に訪れた歴史があります。

伊勢松阪の駅前の広場先の右側一帯は、この様に「寺町」として「蒲生氏郷」に依って城郭の区画整理された地域です。
「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「伊勢」を蒲生氏郷が統一して松阪城を建設して「城町」を造りました。
この時の名残として「青木氏族の菩提寺の清光寺」の周りには室町期の当時は「4つの寺」が隣接していたとされます。
ところが、度々の火災で焼失して「江戸期」に入って「顕教令」に基づき「密教の菩提寺」の「氏寺の清光寺」は実質無く成り、江戸初期の火災でこの清光寺も焼失して、ここに「伊勢支藩の紀州徳川氏の菩提寺」として新たに建設される事に成り、元あった場所より「東2m横」に建設されたものです。
ここにそして寺名も「青木氏氏族の菩提寺名の清光寺」として名付けられた事が記録として遺されています。
この時に元の位置にあった「焼け跡の一切の青木氏の墓所」をこの位置に移動を許されたと伝わっていて、その元のその寺の名は「神光寺」であったとされ、移された事で「青木氏の菩提寺名」の「1000年以上の由緒ある清光寺」に着け直されたと伝わっています。
現在も「青木氏墓所」がここに多く存在します。
この時に位置区画内に4つの宗派の違う寺が隣接していた事が記されていて現在もその様ですし、周囲には「光」の着く寺名が「伊勢秀郷流青木氏の菩提寺」であった「西光寺」を始めとして周囲には「6つの寺」があります。
「平成10年10月15日まで「伊勢松阪の主家・祖父の妹に継がせた松阪殿の家」は遂に「男女の跡目一切」が途絶え、「旧領地の尾鷲」に移住していた元々の主家の我家に主家が戻りました。
その為に、奈良期からの先祖伝来の「賜仏の仏像」はこの清光寺に移して祭司させてもらう事に成りました。
当家ではお仏像様と呼ばれていて当家の仏像部屋に安置され1000年位上も代々受け継ぎ祭司を続けていた「伝来の護り本尊とされる仏像・鞍作止利作」です。
写真館に記載しています。

次はホの件です。
実は、神明社と清光寺は奈良期からの歴史に於いて「守護神の神明社」を主体とした氏族で、清光寺は、表向きは「聖武、孝謙天皇」が「天皇家の守護神の皇祖神」を主体としながらも、「仏教」を取り入れて国の安寧を護るとする概念を取り入れました。
この時、「皇親族の賜姓臣下朝臣族」であった伊勢の青木氏もこのが五年に従い、これに従って清光寺を建立したのです。
この仏教とする処は、伝えられたばかりの「後漢の渡来人」の「造の部人」等に依って「古代密教浄土の古式概念」の独特の伝統を持つ仏教でした。
現在の浄土宗の原型と成るもので、「皇親族の賜姓臣下朝臣族」の立場を保たんが為に飛鳥より引き継ぐ「神道の神明社の古来概念」と「独特の古代密教浄土の古式概念」とを“融合”させて立場の保全を図ったのです。
当然に、この“「融合」”とは、“二つを一体とする概念”を確立させたのです。
習合とは、つまり、“ノリで接着した概念”では無く、どちらともない「宗教体」を「融合」として造り上げたのです。
従って、「青木氏」にしか通じない「青木氏の独特の密教」という事に成ります。
最初の「神明社の概念」の中に「古代密教浄土の古式概念」を溶け込した概念と成ったのです。
嵯峨期から賜姓された「源氏」が創り上げたのは「八幡社の概念」と「八幡菩薩の仏教概念」を「二つ貼り合わせ」とする「習合」とは異なる事に成ります。
それは「青木氏の融合」とは違い「賜姓の状況」が異なる事から来ています。
「源氏の場合」は「習合の構造」であって「密教・・・」とはならないのはここにあります。
従って、「天皇・朝廷」は「賜姓源氏」に対して嵯峨天皇が「皇位族系朝臣族」に求めた「格式」の「9つの縛り」を守らなかった事も合わせてあり、
その密教とするグループの「白旗」の「密教の仏教の旗印」を与えなかったのです。
頼朝は勝手にこの「白旗」とその「格式の印の笹竜胆紋の象徴紋」とその氏の「神木の青木の賜樹木」と前に論じた「賜姓仏」を与えなかったのです。
唯、「頼政の以仁王の乱」を引き継ぎ勝利した頼朝はこの頼政が持つ摂津源氏の「9つの縛りの格式」をある程度護った「摂津源氏」には象徴紋と白旗の御印」を朝廷の許可が下りなかったので、勝手に「頼政引き継ぎの政権」としてこれを以て「河内源氏」が無断使用したものです。
一切、この事からも「河内源氏」にはこの「三つの賜姓物」を賜った記録は有りません。
当然に、「釈迦八幡の習合の概念」と成るのです。
「青木氏族」は「密教」であって、「顕教を広めた釈迦」では無く、「密教の大日如来」なのです。
「釈迦」が「仏」に代わって「釈迦」がその「意」を「民に直接伝える」とする顕教とする、つまりは「習合」と、「大日如来の教え」を「悟りに依って伝える」とする「融合」とすると云う「概念の差」があるのです。
「顕教の習合」は当然に「伝達の間」があり、それが釈迦であり、悟りで大日如来の教えを直接伝える一体化した「密教の融合」とは「伝達の間」が在るのです。
お陰で、江戸初期では、この「密教」を解体するために顕教令を出し、その「神道の神明社」を幕府管轄にして荒廃させて解体しました。
「柳沢吉保」は「甲斐青木氏の出自」であった事から、密かに武蔵の神明社4社を修復して何とか遺しました。故に甲斐あって現在でも神官は青木氏です。
又、「伊勢と信濃の青木氏」では明治維新に「密教である事」に酷い迫害を受けたのです。

次はヘの斎宮の件です。
伝統で論じている通り、伊勢と信濃の青木氏は皇位から外れた皇子皇女の皇女だけを「生き延びる先」として「平安期中期頃・嵯峨期の賜姓族外し」までは引き取りましたが、これを機に天皇家との関係性は一切決別しました。
女系制度もその一つです。
「青木氏」の「女(むすめ)」として匿いましたが、それ以降は天智期の大火の改新で皇族より排除され第四世族外の皇子皇女等は坂東に配置されて生き残った「坂東八平氏・ひら族」を頼った様ですが危険な道中で殆どは行き着く事は無かった様です。
伊勢ではこれが「多気郡の斎王乃館」と云う場所です。
他には「青木氏の菩提寺の清光寺や来迎寺」等の寺にも「尼皇女」として匿いましたし、伊勢の数多くある「神明社」にも「斎宮」としても匿いました。
「若い皇女」は「青木氏」の「女(むすめ)」として「妻嫁制度」で養育されて「四掟」で「嫁家制度」に基づいて「秀郷一門等」に嫁ぎました。
「嫁いだ先の家娘」も「伊勢と信濃の青木氏の四家の嫁」として再び嫁いでくる「嫁家制度」の中で生きていたのです。
寧ろ、「皇族の中」よりも「伊勢や信濃の青木氏」に逃げて来る多くの皇女も居た様で、「青木氏」そのものが「女系族であった事」も左右したと考えられます。
中には、福家から「女系で繋がる伊勢郷士衆や信濃郷士衆」に嫁ぐ事もあった様です。
正式な記録には平安期中期まで32人ですが、これは「皇女とされる者」だけの数で、妾までの子供や王位を受けられなかった者や、後家とするとした「女(むすめ)」も含めると数百人と成るでしょう。
「伊勢青木氏で遺されている資料」では記録の表現として“数百”との書き方をしています。
恐らくは「正式な記録」があったと考えられますが、何度も起こった「伊勢大火」で「記録保存カ所の神明社や清光寺」などが焼けて消失しているのです。
中には一度は「伊勢屋から失火・放火」もあって、又、「伊勢騒動」に係わる明治維新頃の薩摩藩などからの「資料や記録の元」を消そうとして「打ち壊しや着け火」もあって消失している事もあります。
「伝統」も詳しく論じています。
トの江戸伊勢屋の件です。
最終は伊勢青木氏と吉宗の関係は信濃青木氏の聖域の約半分を没収しそれを四人の家臣に分け与え新藩を造り、殖産と職人の人を奪い幕府領として財源にしてしまいます。
裏切られた江戸の伊勢青木氏は危ないとして3日の内に200店舗もあった伊勢屋を無償譲渡して店子に渡し伊勢に船で帰り着き後は紀州藩に守られます。
全国と江戸に多く伊勢屋が広がった原因はこの事が原因です。
現在の「質屋」もこの時の事に成ります。
現在の「質屋」とは、「市民金融」を江戸に活発化させて「享保の改革」を推し進めた手段として少し違う形で営まれていました。
当初の「江戸の伊勢屋」が始めたのは、中国で古くから仏教メッカの金山寺が“市民を救う為の布施行”として行われていたもので、これを古くから「質・しち」と呼ばれていました。
これを「伊勢青木氏」が「令外官」として「仏教の寺」では無く、「神道の神明社500社の全国組織」を使って救済処置としました、人生過程で失敗し、いろいろな意味で失敗した「青木氏族」を救う為に「越前」に集めてこの「質」を「5か所」にして配置し救ったのが始まりで、明治初期まで続けられた「金融組織」です。
その大財源は、「伊勢青木氏の伊勢屋」から出ていましたが、「能力のある者」に「仕事」を与えて成功すると、「人」を雇い「職」を与えて「布施に当たる寄付」を受け付けて、それを「質」で回転させて、「一般の青木氏とその家人等に賃料として支払う「生活システム」を構築していたのです。
江戸でも伊勢屋は、「ハローワーク」と「銀行」と「賃貸業」と「物々交換業」の「四つの窓口」を持ち、これを一体化したものであったとしています。
それがその後に享保の末期に「伊勢屋と青木氏」が伊勢に引き上げた後に、四つがばらばらに成って独立した「伊勢屋」が出来て営まれたとされます。
これが初めての「日本の経済システムの始りの始り」であった事に成ります。

チの東京に12年と13年と続けて起こった「神田日本橋の商家の大火」ですね。
これが元でお家がお調べに成った「長島屋が引いたとする説」と成ると、前述した「仮説」では享保期からですから「90年間の衰退期間と時期」が長すぎる事も考えられますね。
「持ち堪えた事」もありますが、それにしても「幕府の享保期の影響」が無かった事に成りますね。
仮説が正しいとすると、それ程に「商いの上」では「伊勢屋との関係」が目立つものでは無かったとも成りますね。
「青木氏と伊勢屋」が身の危険を江戸と伊勢で史実として受けていた事は
から考えると「伊勢屋」との関係から間違いなく受ける筈ですが、矢張り、長島屋の「莫大な冥加金」が働いて失いたく無かった事もありますし、秀郷一門とすれば「官僚」として内部で抑え込まれた事もあり得ます。
では「衰退」は何であったのかという疑問が湧きます。
江戸でも貢献しているのに衰退させた要因は何かです。
「長島屋に代わる御用商人」が出て来たのかですね。
何時の世も「大火」があると「総合商社」は潤う筈ですね。
それが衰退したとなると何かが在った事に成りますね。
矢張り、普通は「御用商人」が入れ替わったと、当時に「長島屋を支えていた上級官僚」の「一門の者」がその座から去った事に成ります。
明治13年ですから秀郷一門では無く薩長の御用商人との入れ替わりの維新政府と成りますね。
仮説では、「享保期」とその後の「90年間」は何も無かった事に成りますね。
「伊勢」では、幕府との「戦いに似た軋轢」が以後も続いていて「山田奉行所との戦い寸前・伊勢シンジケートを動かして」の大変な事が起こっていたのですが、この「救い」は「紀州藩との付き合い・莫大な債権」と「朝廷への献納金」でした。
「秀郷流一門の歴史観」から来る「長島屋の屋号の件」とその「システム構築の財」は解決できませんが、お説の通りに「江戸期のその後の長島屋の貢献」にそもそも在ったのかも知れませんね。
豪商として総合商社として成りあがるには、荷駄を運ぶ事や物品を買い占める場合は、その“「組合持合株」”を買い取らなければならず不可能で許可は降りません。
この“「組合持合株」”は、「株を売る人」が無ければ買い取る事は出来ませんので大変な超高額になり、「売り」が無ければ結果としては殆どは「その株の持つ店」をそっくりと買い取る事に成ります。
「その財」が何処から出たのかであり「秀郷一門の長島氏」が出せたのかですが無理だと思います。
武士でも「武士株」と云う「格式」に従ってあって、上に成るにはこの株を買い取る必要があったのです。
それにしては「長島屋のお寺」が「西尾の足利氏一色」の「曹洞宗の寺」と同じという事は「顕教」であった事に成り、「秀郷一門の慣習仕来り掟の歴史観」とは少し肝心な事で外れていますね。
解決するかは別として「伊勢」から観れば「長島」は疑問が遺ります。

リの平の将門の件です。
この乱を沈めたのは一族の本家の「伊賀のたいら族の貞盛」と押領関東押領使の藤原秀郷・俵源太」でしたが、お便りの通り、貞盛だけの軍勢では一族が興した反乱を鎮める力はありませんでした。
念の為に良く間違われるのは、「坂東八平氏」の場合は「ひら族」です。
大化の改新で第4世族外で更に第7世族以上は坂東に配置され、これが「坂東八平氏」と呼ばれるひらに成った事からな名付けられた「ひら族」です。
これに対して「桓武天皇」が「後漢の渡来人の阿多倍王」の伊賀の子孫に与えたのが「たいら族」と呼ばれるその裔系が異なる族です。
そこで、「紀州と伊勢の惣国衆」を集めて臨んだのです。
その中に、紀州一帯の豪族で「傭兵衆の紀族」を集めました。
紀族には「飛鳥5大政権」の「紀族と巨勢族・葛飾族」の三つが存在していましたが、取り分け「紀族」は朝廷の要請で乱が起こると積極的に傭兵軍団として参戦したのです。
この「紀族」には特徴があって戦乱が終わってもその赴任先に子孫を遺して来る戦略を採っていたのです。
「紀の姓」を名乗るとか、「紀」に土地の名を着けて名乗るとかして子孫を遺してきました。
江戸初期や明治初期には「紀族の由来」も消えて別の姓名に変更した経緯を持っています。
お便りの通りこの「紀の族の子孫」が討伐軍を引いた後でもこの土地にも遺っている筈なのです。
恐らくはこの族の裔と考えられますね。

「研究中の仮設の長島屋の件」では伊勢だけの資料であり疑問が残りますが今後の資料発見に期待する以外に在りませんね。

以上お便りに参考の歴史観として記述しました。
大変に参考と成りました。
ではまた何か判りましたらお便りください。
お待ちしています。


  [No.1189] Re:続 豪商長島屋
     投稿者:静岡の青木です   投稿日:2021/05/16(Sun) 10:34:33

富士宮の青木です。たびたび失礼します。
長嶋屋のことで一つ訂正がありました。
長嶋屋の言い伝えに「元禄時代が全盛期だった」という、言い伝えがあるとお知らせしましたが、よく本を見ていましたら、この日光道中の宿場町の元禄八年の検地帳に「長嶋屋」がでているとのことでした。
その時は間口五間程度の店であったようですが、その後五十年ほどの間に急成長し、間口二十間、奥行き三十三間、屋敷地六百六十坪の大店に成長しているとのことでした。
これによりますと長嶋屋は元禄年間にはこの宿場町で商いをしていたことになります。この宿場町以外で商いをしていたのではないかと私見を書きましたが、訂正してお詫び申し上げます。

ついでに長嶋屋の家系について、過去帳にある初代は青木将監で、次に名前がわかる方が「勘右衛門」さんで寛永元年(1624)に亡くなっていて、その後が善右衛門さん(1673没)となり、長嶋屋始祖の吉兵衛さんへと続きます。


  [No.1190] Re:続 豪商長島屋
     投稿者:静岡の青木です   投稿日:2021/05/15(Sat) 15:11:29

お世話になっております。富士宮の青木です。いつも丁寧なお返事を頂き、お忙しい中お時間をさいて頂きまして厚くお礼申し上げます。管理人様ならではの緻密な分析や青木氏のことを詳しく教えていただき興味が尽きることがありません。 
長島屋のことで正確にお伝えしていなかったこと等お知らせします。長島屋のことを調べるのに何冊かの郷土史の本を参考にしました。地元の方で過去に長島屋のことを詳しく調べた方がいて昭和49年刊行の小冊子を出されています。この方も「長島屋がいつ頃どこから来たのか、武士なのかどうかもわからない」と書いていて、また「長島屋が豪商であったことは確かであるが、このような田舎の宿場に現金掛け値なしの商法があったとしても大商人が育つかどうか疑問が残る」と書かれています。
この方の調査によると長島屋の御子孫の方から過去帳を見せていただくことができたそうで、その過去帳や戸籍謄本、墓碑などから長島屋の家系を調べています。過去帳に記されている初代の人は「青木将監」という人で天正4年(1576)に亡くなっています。
日光道中の宿場町で「長嶋屋」として商いを始めた人は「青木吉兵衛」という方でこの方が長嶋屋始祖となります。吉兵衛さんは享保17年(1732)に亡くなっています。
長嶋屋の菩提寺にある墓所にはこの吉兵衛さんの一代前の「善右衛門さん(1673年没)」から代々の墓があり善右衛門さんより先代のお墓はこの菩提寺にはないそうです。長嶋屋の家紋は五三の桐紋のようです。
「長島」の字についてですが本によって「長島」とするもの、「長嶋」とするものがあり、私もよく考えずにお便りで「長島屋」と書いてしまい正確でなかったかもしれません。菩提寺に残っている長島屋の看板(池大雅筆)には長島ではなく、「長嶋屋」となっています。この看板は三越の前身の越後屋の看板によく似ているものだそうです。三越の商標は桁に三の字が書かれていますが長嶋屋の商標は桁に吉の字で商祖の吉兵衛からとったのではないかとされています。
またもう一枚の長嶋屋の看板は徳川将軍の日光社参のときに将軍の休憩所となっていた浄土宗(知恩院末寺)の寺にも残っているそうです。この浄土宗の寺のすぐ近くには真言宗のお寺があり、こちらは4代将軍が宿泊したお寺でこの寺はもともと京都の醍醐寺と関係があったらしく歴代住職の中には九条家の人や六波羅蜜寺の住職を務めた方がいるそうです。この寺は昔の資料によると真言宗でありながら本尊は阿弥陀如来なのだそうです。長嶋屋の菩提寺とこれら二つの寺はわりと近接して建っていて、この3つの寺すべてに長嶋屋の痕跡があります。
4代将軍宿泊の寺には天明の飢饉のときの石碑があります。歴史上最悪の飢饉と言われ、浅間山の大噴火に起因し、この宿場町のあたりも6センチくらいの灰が降り、稲田はすべてダメになり、7月だというのに寒くなってまた河川も降灰の影響で川底が上がり、川の氾濫につながったようです。このときこの宿場町の善意ある商人たちがお金や米を出し合って75日間にわたり粥の炊き出しを続け周辺農村の難民や宿場の難民も含め餓死者を出さずに済んだそうで、そのときの商人たちの名がこの石碑に刻まれています。その中に「長島屋善六」という名があります。(長島の字で彫られています)
長嶋屋の墓所は市の指定文化財になっているそうで近いのでお参りにいかせていただきました。墓石の裏に代々の方の為した功績が墓碑として彫られているそうです。摩滅して読み取りずらいですが、いくつかの墓石に「長嶋」、「長島」,「長嶌」の3パターンの字が読み取れました。
長嶋屋の幕府への献金ですが江戸城本丸再建時やぺりー来航時の品川砲台資金、長州征伐資金にも使われたようです。
長嶋屋の生き方が伊勢のお家とよく似ているようにも思います。享保の改革後の長嶋屋の大きな事件としては天保の飢饉のときに打ちこわしにあっています。この宿場町に住んだ橘守部(伊勢出身)という国学者が門人に宛てた手紙にその時の長嶋屋の被害状況が書かれているそうです。長嶋屋はこの橘守部の門人であったそうです。
また前回のお便りで書きました明治13年の大火は長嶋屋があった日光道中の宿場町の大火のことで言葉が足らず失礼しました。この宿場町の大火で長嶋屋の店も焼失したようです。この火事のことも伊勢のお家と状況が似ているように感じました。
長嶋屋の言い伝えに「元禄期が全盛期だった」とあるそうですが元禄期にはまだ長嶋屋はこの宿場町で商いをしていないころかと思われ、この宿場町以外のところで商いをしていたのだろうかとおもいました。
一方的に情報を書き連ね,、読みずらくて申し訳ありません。長島の字のパターンも色々あったり難しく私では判断する能力がありませんので管理人様に情報をお伝えし,考察の一助としていただければ幸いです。管理人様の仮説が成り立つとうれしいのですが、なかなか一筋縄にはいかないでしょうか。
今回、管理人様と長嶋屋のことでお話しさせていただき、大変有意義でした。またサイトの論文をよませていただき青木氏の勉強を続けて行きたいと思います。またお便りさせていただきます。この度は有難うございました。


  [No.1191] Re:続 豪商長島屋
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/05/26(Wed) 08:29:48

返信 5・25 副管理人より

お便り有難う御座います。
大変興味深く読ましていただきました。
長島屋の件に付いて良くお調べに成っていられる様ですね。
こちらからは筆者も「伊勢」に関わる何かを掴もうとして推理を巡らし、その証拠建てをしようとしますが、何せ関東と云う事もあって発掘は難しい様です。

その「秀郷流一族」はその「青木氏族に関わる信頼できる記録関係」が少なく苦労しています。
「長島屋のとの関係」が掴めれば、「秀郷流一族一門とその青木氏との繋がり」が更に深く解明できて、その「糸口・突破口」とも成りますが未だ「歴史的な経緯」が良く判りません。

つまり、「長島屋と秀郷流一族一門との関係」ですね。
「長島屋」と云う「伊勢」に関わるキーワードから調べているのですが、「享保期」に大きく係わった事だけは「商記録」からも確かに読み取れます。
「享保の改革」では「吉宗」と共に進めましたので、関わっていた事は判っていますが、どうしても「その横の関係」が広がりません。
取り分け、「享保の改革」は「秀郷流一族一門」が「家人衆の官僚」として幕府改革を主軸に成り進めていましたので、「長島屋との関係」も物語の様に成っている筈なのですが。
「青木氏貞治とその子孫」の様に「幕府との関わり」は裏ではあった筈です。
「伊勢」から観ても江戸で「200店舗の伊勢屋の店」を構え「伊勢青木氏の江戸家敷」を二つ与えられ、その隣には「近江佐々木氏の邸」もあった事までも詳しく判っているし、「吉宗」が良く出入りしていた事も「青木氏と佐々木氏の資料」からの一致でも判っています。

これは昔、平安時代に両者の縁戚関係が途絶え「付き合い」が無く成ったその「近江佐々木氏・源平戦で完全衰退」と、「伊勢青木氏との付き合い」が「江戸期」には戻っていた事も立証付けられていますし、衰退したとは言えその後の関係も繋がりを戻しつつあった事も判っています。
「滅亡寸前の近江佐々木氏」が「伊勢青木氏の幕府との関わり・仲介」に依って江戸期に隣に「屋敷」を構えられるに至った経緯も判っています。
ですから、前回でもお便りしています様に「秀郷一門とする長島屋」も「繋がり」を持ち得ていた筈と観ているのですが。
実はその行動を証明する実績があるのです。
それはこの「隣り」に「近江佐々木氏の邸を設けた事」には訳があって、「近江商人」を「江戸に呼び寄せる幕府との仲介役」をしていたのです。
ところが、ここには「一つの問題経緯」があって、「近江商人」が独自に進んだ江戸に出て「商い」をしても成功せずに、不況の中で悉く失敗をして倒産が殆どであったのです。
それ程に進んだ「江戸の商い」だけは甘くはなく、そこで「伊勢」では先ず「商い人」を育ててその後に「江戸」に出して、酷くこの「近江佐々木」が「幕府や民間への仲介」で「商い」をさせて成功させると云う手立てを採ったのです。
近江人の惣国者の反発を受けた様です
それを「解決し後押し」したのが「隣の伊勢屋・伊勢青木氏」であったのです。
歴史でこの経緯が詳しくは語られていませんが、そんな甘いものでは無かったのです。
「幕府」は「青木氏の衣布の立場・直言できる立場」から「助言」を「吉宗」にし、「商いの統制制度・大阪米相場」の様な制度を伊勢で行っていた「西洋式の新しい市場経済」を敷きました。
その為にも「組合制度と持合株制度と保証人制度」の「三つ経済制度」を敷いたのです。
この「三つ」に加わり条件が揃っていなければ「大商い」は出来なかったのです。
この「三つ」を獲得するには「相当な財と繋がりを持つ事」が必要で、これを「後押し」したのが「近江佐々木氏」と「伊勢屋・青木伊勢青木氏」であったのです。
この「伊勢屋」の後ろには同体の「衣布の伊勢青木氏」がいたのです。
そこで、「伊勢屋」は「近江商人」を、一度、「伊勢」で「新しい商い」を経験させて覚えさせ「伊勢」で「近江商人の互助の組合組織」を作らせました。
現在でもこの「伊勢松阪」に「近江商店街」は残っていますよ。
それでも「伊勢」でも「西洋式の競合に馴染めずに失敗する者」も多く居たのです。
この詳しい記録が遺されていて、例えば「母親」が商いの中で病に倒れ、息子も「江戸の商い」に失敗し、「伊勢」に戻って極貧の生活をします。
この時、この「伊勢屋」が「後盾」に成っていた「伊勢の近江人の互助商業組合の組織」は、この「失敗者」を引き興し「商い」を「近江商人」でありながらも要するに進んだ「江戸の商い」を基礎から「伊勢屋」に教えられ覚えました。
その「失敗者」は「近江」に帰らず「伊勢」に戻り、「伊勢屋の保護」を受けて再び「江戸にでる優れた者」を育てました。
そして、育てられた多くの「伊勢の近江商人」を、再び、「江戸の佐々木氏の仲介組織」の中に入り「伊勢屋」を頼って成功に導かれたのです。
何故、「近江」から「江戸」では無く、一度、「伊勢」に来たのかの疑問なのですが、これには理由があったのです。
それは、信長の家臣だった「秀郷流近江の北家藤原蒲生氏郷」は、「伊勢」を平定し「秀吉」に依って「伊勢」を任されます。
この「蒲生氏郷」とは「伊勢青木氏」とはきわめて近い縁戚関係にあり、且つ、「伊勢秀郷流青木氏の里」でもあります。
この時、信長の西洋式の楽市楽座を実行し、松阪に進んだ「西洋式の商いの座」を設けたのです。
この座に「里の近江」から「小商いの者」を一か所に集めてこの座で育てます。
然し、「氏郷」は1590年に会津52万石に「転付」と成ってしまったのです。
結局、その後、「保証人」を失った「伊勢の近江商人」は強引に江戸に出て仕舞ったのですが、有名な江戸の不景気で全て失敗し悉く「伊勢」に戻りました。
ここから「吉宗の出番」と「青木氏の出番」と成って行くのです。
そして、二度と失敗を起こさせない為にも「幕府・吉宗」に掛け合い「近江佐々木氏の末裔・嫁先」を「江戸に呼び出し」、この「幕府と近江商人の繋役」としての働かせようとして、それも「隣邸」に住まわせ連携を良くして行ったのです。
「伊勢屋」も同然に経済的活性化に繋がる話として「西洋式の江戸経済」を造り上げて行くのです。
「江戸」にとっては「近江商人が来る事」には「江戸経済」がより活発になり「地方産物」も入り、「伊勢青木氏の申出」を容易に認めたのです。

それには「幕府」は「直接商人との繋がり」を持つ事は出来ませんので、「商人との仲介役」としての「近江の格式を持つ過去の縁者の近江佐々木氏を据える事」で「大儀の決着」が着いたのです。
江戸享保期に成ってやっとこれで「近江佐々木氏との長い仲違い」が解けたのです。
この事で沢山の逸話が遺されています。
この時にも「近習の駿河青木氏貞治の子孫・近習の御側衆旗本」も大いに影で働いた事が逸話の歴史として遺されています。
何故ならば、「伊勢青木氏」は、何と云っても「衣布の立場」にいたのですから毎日の様に顔を合わせて居た筈です。
この程度の事は何の動作も無かったと考えられます。

さて、そうすると「商祖の吉兵衛さん」が「享保17年頃・1733年頃没」で「日光街道の宿場」で「店を営む商いを立ち上げた」という事に成りますので、仮に筆者の考えている「秀郷一門を背景に一族が立ち上げたとする事の説」はこの度の「お便り」からこれでは成り立ちませんね。

そこで、この説を別にして、ですからお便りをもう一度検証して観ます。

享保改革を1716年から1735年として「吉兵衛さんの商い」は享保期の少し前頃が「商い」を始めていた事が推定出来ます。
「善右衛門さん」が1673年没として、「吉兵衛さん」は仮に70歳で没とすると、この時には1663年に生まれ「10歳の子供」であって、「商祖」は「善右衛門さん」と成ります。
仮に80歳前後とすると「20歳前後の青年期」に入っていたとすると、「善右衛門さん」と共に「商いの立上期の説」が成り立ちます。
そして、「店」を大きくしたのは「享保期の吉兵衛さん」と成ります。
だとすると、上記した「近江佐々木氏の様な吉宗との関係性」を保っていた事に成りますが、「青木氏貞治の子孫の近習衆」や「衣布の青木氏と伊勢屋」と「秀郷流青木氏等の秀郷流一族の官僚集団の家人衆旗本」の力が働いていなかった事にも成り、「彼の近江佐々木氏の近江商人」でも「影役」として動いていたのに何故か筆者の仮説は立ちません。
そこで、然し、「伊勢の商記録」には「長島屋取引名」が出て来ますので、これは何なのかですね。
「今回のお便り」で更に疑問が膨らみましたが「別の有力な仮説」が立ちました。
「今回のお便り」で「時期」は上記の通り完全に一致しましたが、「商いの場所・日光宿場町」と「秀郷一門の関わり」と「駿河青木氏の青木氏貞治一門の関わり」の「予測できる歴史的要素」が出て来ません。
「氏家制度」の中ですので、「駿河の青木氏さん」が独自で動く事は無かった筈です。
単独で商いをする場合は、「武士と青木・武士株」を捨て一族一門からも出ない限りは「氏の中」では「商い」は認められていませんから、「青木氏を名乗って商い」をしているのは「最大の矛盾」と云う事になります。
「青木氏を名乗っている事」を前提にする以上は、「上記の関わり」が「潜り」で無い限りは重要で生まれる筈なのですが。

「お便り」の「郷土史・是非は別々として」に記載される程に「商い」を大きくしたとすれば、上記の「株や組合や決められた商習慣」を護らないと出来ない筈なのですが、そうでは無いようですね。

そこで、余りにも「普通の歴史観」が繋がらないので、「商記録」にある「長島屋」は、“「伊勢の伊勢藤氏」の「長嶋氏の屋号」では無いか”と云う推定で考えて考察を進めて観ました。
「屋号としての答え」は取り敢えずは出ました。
「商い」とは限らない要するに「屋号」では無いかという事です。
「伊勢藤氏の一つの伊勢長嶋氏」が「色々な事業」に資金を出していた「資本家」で、その敬称の総合総称の事の様でした。
これは史実で明治15年に事業に失敗し確かに倒産しています。
同然に、例えば紀州藩の藩主であった人も明治末期に文化事業に手を出して倒産していて伊豆に引きこもり子孫も遺さずに絶えています。
取引として「屋号」であった事が考えられます。
恐らくは、紀州殿と同様にそれは青木氏側の記録としては「貸付の債権」であったと観られます。

さて、そうすると「今回のお便り」から多くの疑問がうまれます。
それを次に記載して観ます。

次はそこで、「お便り」の「長島屋や長嶋屋」に付いては、この「使い分け」をしていたのではないでしょうか。
江戸期の元禄期以降には「超豪商や大富豪」などは当時、民間にも広がったこの「屋号の習慣」を使い分けしました。
「平安時代の朝廷」からその役目に功績のった者に称号として「院」や「号」を与えられたのですが、これに匹敵する「商い人の号」です。
「伊勢」で云えば、「紙屋院」、「絵画院」、「繪所院」、「戦略処院」等多くの院号を授かっています。
これを持つと、「専売権などの特権」が与えられたのです。
この「習慣」が江戸期に「一般の民衆」にも広がり、江戸時代には自らに称号を着ける目的で勝手に“「屋号」”と云うものを使ったのです。
簡単に云えば、その幕府から与えられた“「企業家や資産家の専売特権」を商家の格式として誇示したもの”ですね。

仮に「長島屋」と「長嶋屋」を「使い分け」をしていたとすると、先ず、「江戸時代の習慣」として、一つはこの「企業家や資産家の専売特権」を誇示する事に「使い分け」していた事に成ります。
二つ目は、「格式ある相手」には、前のお便りでも書きました様に、「長島」よりも「長嶋」が上位で、「長嶋」よりも「永嶋」が更に上位あった事から、「長嶋」とした事もあり得ますね。
三つ目は、「商い」では「商号」での「長島屋」、「付き合い」では「長嶋屋」と「使い分け」をしていたのではないでしょうか。
そこで、江戸では無く「日光街道での商い」と成れば、「一つ目」と「二つ目」は「秀郷一門との関わり」が無い事から到底無理な事で消えますので「三つ目」と成りますね。

例えば「家康」は付き合いの大きかった為に、この手段を十幾つかに大いに使い分けしていた事が資料から判っています。
この様に、「江戸時代」はこれを真似て各大名はこれを習慣として頻繁に行いました。
その前提は相手に応じて「格式と役務と家柄」の「上下」で振り分けていたのです。
恐らくは以上の三つ目に当たるでしょう。
それだけにこの三つの何れかで「商いの程度」が分りますからね。

次に、“始祖として「青木将監」であった”とする資料があったとしますが、これも少し疑問ですね。
そもそも“「将監」”は奈良期から平安期に掛けての「朝廷の近衛軍の官位の階級」を示すもので、判り易く云うと、この「将監」は、「戦前の軍」では上から6番目の「少尉」、自衛隊では「2尉」で上から4番目、平安時代初期では上から「6番目の階級の者」と成り、「近衛府第四等三等位官」で、通称ではよく知られる「源義経」が任じられたのが「判官尉の事」ですね。
因みに「伊勢と信濃の青木氏と藤原秀郷流青木氏」は「上佐左衛門位の永代最高階級・大佐」を任じられていました。
この中から命令を受けると「軍の指揮官」の「将」に任じられたので、「将としての大監」として出陣したのです。
故に、「将監」なのですが、所謂、「将軍」ですね。

従って、これは人名では無く「軍位の職位」で、これは同時に「皇位等にいる特別の者」だけが任じられたので、要するに「格式」として扱われたものです。
ところが江戸時代は、最早、この「将軍」は「徳川氏」なので、この前提は崩れ誰でもが勝手に使える官位と成って仕舞ったのです。
「人の名」は、勿論の事、挙って挙句はその「土地が格式」があるとして各地の「地名」までにも使われる始末のものと成りました。
「長島屋の始祖」がこの人だとすると、時代が合わず人名でも無く「江戸の普通の人」という事に成りますね。
その人がこの「青木」の「将監」を名としていたという事は先ず「第一の?」ですね。
普通は、「第二の姓の青木姓」で無い限りは、この様な事はしない筈なので一族から疎外を受ける筈です。
「江戸初期」に名の持たない農民等の者が「武士」と成った事で、この「第二の姓の立場の者」が、「姓名」を持ちました。
そして「武士である事」を証明してもらう為にする「黒の国印状」の取得の為に勝手に実は「青木氏を名乗った者」が多く居ました。
然し、この者ら青木を名乗りましたが、中には「黒の国印状」が発行されず名乗る事をも禁じられ、別の「葵木や青樹」の類似姓で取得しました。

この「青木氏」が余りにも多く出た事で幕府は格式を護る為に「水戸光圀が編纂したと云われる大日本史」を参考にして、使用に関する禁令を発して、これを「第三の青木氏」として、この者らを「別枠」でこの様に区別したのです。
それでも一時は類似姓にしても直さなかった者も居て、「明治3年の苗字令」では元に戻すと云う事が起こったのです。
この「青木さん」は、そうするとこの「第三の青木氏」か「一族逸者」かと云う事に成りますね。

次は、それを「決定的に証明する事」の一つとして「第二の?」は、お便りの「五三の桐紋」の事ですね。
この「五三の桐紋」は、そもそも「天皇家の象徴紋の菊紋」に次ぐ「天皇家」の“「最重要な式紋」"ですよ。
これを「青木家の家紋」であったとする事は前代未聞の事です。
彼の秀吉でさえもこの「式紋の五三の桐紋」を使えず、類似する「五七の桐紋」をつくり、それを「豊臣家の式紋」として定めて、勲功のあった各大名に与え使う事を許しました。
各大名は更に家臣にと与えたのです。
「黒田藩」などはこれを頻繁に使い、「黒田藩の傭兵であった薩摩と日向に住む日向青木氏」にも与えましたが、この事は詳しく記録に遺っていますよ。
其の後、「明治期」に入り、「屋号を持つなどの格式ある家の婚礼」の際に「嫁に持たす礼服の留袖」に「式紋として入れる事」を明治政府は許しました。
それ以外は禁じたのですが、時代が進みこの事から昭和初期には誰でもが使う様に成って仕舞ったのです。
本来は家紋を墓紋に使わないのが慣例で、それは自然に削れて土に帰る前提に墓石は砂岩でしたのでつかいません。ところが明治期に入り砂岩から大理石に替える習慣が起こりました。
そこで中には民衆は明治期に墓紋にまで使う始末でした。

「青木氏」は男子は勿論の事で「女系であった事」から全て「笹竜胆紋」を「嫁や嫁ぐ娘の留袖」にも使用しましたし、「箸椀の一つまで」の「家財」全てにも「象徴紋」が塗り込まれています。
周囲はこれを観て「格式の高さ」を確認したのです。
同然に、「秀郷流青木氏」と「秀郷一門主要五氏」でも「式紋」も「下り藤紋」でした。
お便りのこの伝統の情報が何か?ですね。

次は、「過去帳」に記されている「初代の人」は「青木将監」という人で「天正4年(1576)」に亡くなっていますが、此処に大疑問が残ります。
「顕教令」は、江戸初期に出されましたので、「密教」を禁じ「菩提寺」を無くして、全て“「顕教寺」の「檀家寺」”としましたので、確かに秀郷一門に入っていたとして、「長島屋の始祖」の「青木将監」さんは「浄土宗の菩提寺」に祭司されていた可能性は否定できない事に成りますね。
従って、このお寺が当時の慣習から変わる事は有りませんでしたので、「青木将監」さんの「裔系の菩提寺」として「習慣仕来り」では成ります。
そうすると、ここが「一族の祖先の墓所」になる筈ですが、それを「初代」としているのは疑問ですね。
この「菩提寺とする広い寺」にたった一人だけ祀られていた事に成りますのでそんな事はあり得ませんね。
先ず、「一族の独善の寺」、即ち、「菩提寺」であれば「初代という事」はあり得ませんね。
まず、何故、「菩提寺」で、「初代」で無いのに況してや先祖の無いのに「過去帳」とするのには無理がありますし、且つ、何故、「初代」なのですかね。
「平安期までの過去」がある筈ですよね。だから「菩提寺」なのですから。
更に、“「菩提寺」”で、且つ「知恩院派の浄土宗」あれば、「特別の伝統」に依る“「戒名」”で記録されていて、「青木将監」の「俗名」では無い筈ですね。

“一族の菩提寺”とする以上は、“「青木将監さん一人」”と云う事は論理的に絶対にあり得ませんね。
尚且つ、「青木将監」さん一人で、この寺を建て管理維持していた事に成りますが,そんな事はあり得ませんね。
ではそんな「莫大な財」は何処から出たのでしょうかね。
そもそも、そんな「財」があれば「商い」は「青木将監」さんが始めていた事に成りますよね。
当時、「寺を建立できる能力」は「知行地領5000石程度」が限界とされていましたので、「青木将監」さんはどこの所領を持っていたのでしょうかね。
因みに「青木貞治の死後」の「裔」は、「3200石の知行と駿河水軍の稼ぎと一門の補助」でやっと「一族の駿河の菩提寺の西光寺・盤田見附」を維持管理をしていた事を論じましたが、この「青木将監」さんがこの「駿河青木氏の裔系」であるとすると、「盤田見附の西光寺」の此処に「菩提寺」はちゃんとある筈ですし、史実とは全く違いますね。

仮に「財」が在ったとしても要するに「菩提寺の論説」から来る論調は無理ですね。
そもそも、「知恩院の許可」が出なければ「僧」も廻して貰えないし、当然に僧の無い寺は維持できませんね。
「寺名」も名乗れず、況してや「幕府の許可」が無くては勝手には建てられるものではありませんからね。
当時、幕府から「大きくて数の多い寺社」は統制下に入り「宗教力の低下」を狙って許可は出ず荒廃させて潰して行ったのです。
「神明社や春日社」と「清光寺も西光寺」も同じ仕打ちを受けましたが、密かに献納と賂などで護ったのです。
もっと云えば、「秀郷流青木氏の西光寺と春日社」は「一対の律宗」の中に在りましたので、「駿河の青木貞治の論」で論じた通り、その「寺の傍」には必ず「春日社が存在」し、その周囲には「青木氏の定住地」と成っていた筈ですよね。

この論調で行けば疑問が多すぎて結論は、「青木将監」さんと「駿河青木氏」のみならず「秀郷流青木氏の裔系」と、完全に繋がらない事に成ります。
つまり、「長島屋の青木さん」は「江戸初期頃」に出た「大日本史に記載する第三の青木氏」と云う事に成って仕舞いますね。

仮に「秀郷流青木氏」であるとしても、統一して「西光寺」ですが、「寺名」は違う様でそもそも疑問です。
仮に「駿河青木氏」であるとすると、「周囲の秀郷流青木氏」は何をしていたのでしょうか。ボーと観ていたと云う事になりますね。

「知恩院派」には「清光寺や西光寺」以外は「僧」を出すなどの協力をして貰えたのでしょうかね。
「当時の仕来り」では「浄土宗以外の檀家寺の顕教寺以外」は無理ですよね
「青木氏族」は自らの一族の中から「柏紋の青木氏族の僧」を送り出していました。
つまり、これ等の今回の情報に従いますと、「氏家制度の慣習仕来り掟」の中では完全に矛盾していますよね。
何かこの矛盾を解き明かす事が在るのでしょうか。思い浮かびあがりません。

「日光街道中の宿場町」で「長嶋屋」として「商い」を始めた人は「青木吉兵衛」という方で、この方が「長嶋屋始祖」となります。
吉兵衛さんは享保17年(1732)に亡くなっています。・・

と以上のお便りでは、

「長嶋屋の菩提寺」にある「墓所」にはこの吉兵衛さんの一代前の「善右衛門さん(1673年没)」から代々の墓があり善右衛門さんより先代のお墓はこの「菩提寺」にはないそうです。・・

以上とお便りとありますが、

先ず、「菩提寺」には“「戒名」”では無く“「俗名」”と成っている様ですがこれも変です。
「秀郷流青木氏の菩提寺」は一族統一して「西光寺」で、「守護神」は「春日社」でこれは変わる事は有りません。
そもそも「菩提寺」とは「氏族が経営する一族の専属の密教寺」の事です。
「一般の人の信仰対象」と成る“「檀家寺の顕教寺」”とは違いますので、上記の「お便り」では“「檀家寺の顕教寺」”と成る事に成ります。
況して、「檀家寺」には、「氏人の系譜」に当たる「過去帳」では無く、その時だけの「人別帳・税の為の帳面」で「戒名」と系譜は持ちません。
「檀家寺の顕教寺」は「過去とその系図とその記録」は無く管理されず一世代の「俗名」で管理されていますよ。

代々の墓があり善右衛門さんより先代のお墓はこの菩提寺にはないそうです。長嶋屋の家紋は「五三の桐紋」の様です。・・

田舎の宿場に現金掛け値なしの商法があったとしても大商人が育つかどうか疑問が残る」と・・

「過去帳」や「戸籍謄本」、「墓碑」などか・・

以上の「三つのお便り」に付いて、
私もこの方の疑問の意味する処には賛成です。

「慣習仕来り掟等の歴史の歴史観」を無視した事の「美化や誇張や搾取や間違い」がそもそも良く検証されていず多い「郷土史」には多く良くある現象で、一概に直ぐに判断材料とするのには問題が多いのです。

上記のお便りでは、間違いなく“「檀家寺」”と成りますね。

従って、江戸期でも墓所は武士でも相当上位の者で無くては持てませんし、墓石は「砂岩」で造られるのが普通で、墓石や墓碑では判りませんし、この習慣は明治期以降のものですし、「大理石の墓所」は明治期のものです。
江戸期に於いて「墓石や墓碑を持つ事」が出来た者は「3千数百石以上の知行地を持てる程度の者」と限られていたのです。
昔は、「庶民・百の姓で百姓と呼ばれていた」や「無位格式財の無い者」は、“河原者"と呼ばれ、河原や海岸に先ず簡単な仮の墓所を設けて、河原の石を持ってきては墓石の代わりにし、「目印」にもしたものなので、その後にお骨を取り出し、寺に「木の塔婆」を建てるか「無縁仏の納骨堂」に納める様な習慣でした。
そもそも勝手に寺等をそもそも持つ事等は統制の下では出来ませんでした。

依然は「庄屋や名主や村主」が中心に成って税の為に「檀家寺」などで「人別帳」で管理されていて、江戸に成って「菩提寺」が「顕教令」に依って禁止された事で「系譜管理」はそもそも無くなり、「特別の者」が独自に必要に応じて「戒名」に読み込んで「系譜」を作っていました。
ですからこの系譜には殆どと云ってよい程に搾取や間違いが多いのです。
大金を払って系譜を作ってもらえる専門業者が横行したのですよ。
従って、当然にこの「人別帳」に代わって「戸籍謄本」は明治初期以降のもので、「明治3年と督促令8年の苗字令以降」は、「9割以上の姓を持たない者」に姓を持たしたとするもので、この事で「維新戸籍簿」と呼ばれるものが出来ました。
この「歴史観」を使うとすれば、この「維新戸籍簿」と「浄土宗や天台宗の密教寺の菩提寺の過去帳」を使う必要があり、「特別の知識」で「戒名を読み解くの事の力」が必要で、この「戒名に読み込んだ事」でその過去の格式系譜やその真偽を把握する必要がある事に成るのです。

「真言宗」は平安時代に密教論争で最も頑固に「密教」を説きながら、江戸期に成ってお便りの様な事が信者獲得の為に起こりました。
高野山の墓所を観れば宗派に関係が無かった事が「顕教令の影響」を受けて良し悪しは別としても「緩やかな説法」を唱えていた事が良く判りますよ。
唯、「浄土宗14派」の中で「弱小の白旗派・格式の持つ高位族・清光寺と西光寺」だけは「顕教令」の中でも密かに「隠れ蓑」を使い「密教」を護り通したのですが、その実態は「献納金」と「冥加金」で朝廷と幕府から黙認されていた事が記録で遺っています。
ですから、「朝廷と室町幕府の律宗族認定」で、これを追認して江戸期でも「清光寺と西光寺」と「神明社と春日社」は「隠れて遺す事」ができたのです。

故に、お便りには「顕教令下」であっても「西光寺」が、表向きは[顕教寺」ですが、実態は特別に密かに「青木氏菩提寺として遺す事」が出来ていたのです。
これは「財と格式」があったからの所以ですね。

故に「長島屋の青木さん」は秀郷一門である限りはこの「菩提寺の西光寺」で無くてはならないのです。
そうでないという事はこの「青木さんと長島屋」に付いては「上記の二つの青木さん」という事に歴史観から成るのです。

最後に、大昔から「桁紋」は「商標紋類」、「桝紋」は「職能紋類」と定められていましたし、他にも「神社紋類」とか「寺社紋類」とかありましたよ。
届制の程度の緩い管理下に置いて混乱を避ける為に許可制にしていたのです。

以上の様に史実を知り遺す為にも「青木氏等に係る歴史観」を使ったところが多いので、返信で判らない処が有りましたら、ご遠慮なくお便りください。
お待ちしています。