お便り内容
来場記帳欄より代理投稿します。
投稿名は出生時の名前で現在地は結婚して氏が変わり他県に住んでおります
青木の墓は浄土真宗で白島にあり 墓石には二重菱というのでしょうか大きい菱形の中に小さい菱形が入っている家紋が掘られています
15年程前に現在はお亡くなりになっている前住職から青木についてたまたまお話を聞く機会があり 本当のことを知りました
私の母は亡くなった父から士族で他県から広島に来た本家であると聞いていたそうですが 実際は200-300年前から(過去帳が実家にあるためうろ覚え)ずっと同じお寺でお世話になっていたようでした
4代前からりょうもらいだということで やっと私が生まれたのかと思った記憶があります
母が父から聞いた話なので本当かどうか定かではありませんが他の青木は東京にいるといったような話もあったようです
残念ながら私には兄弟もおりませんのでうちもこれで終わりなのだと思っております。
広島の青木さん
副管理人より投稿
お便りが遅れました。
記帳欄にお便りを頂きましたので見落としました。
誠に済みませんでした。
さて、お便りより判断し御返答いたしますと、お家は「甲斐国の青木氏」と考えられます。
間違いは無いと考えられます。
お家の墓所は「広島県白島」にある事
家紋が「いりこ菱紋」と云うものである事
明治維新の戸籍簿で士族と書かれている事
縁者関係者が江戸にいた事
広島に過去帳と云うものが存在する事
浄土真宗である事
以上でお家の経緯が歴史と一致します。
では、そのお話をします。
ご先祖の「ロマン」として子孫の方に伝えられれば、それは「終わり」ではないと思います。
「人間の務め」は、“自分を含めた先祖の生き様を伝える事”に究極はあると思います。
「青木氏の密教」はその様に説いています。
現在までもお家の「ルーツの活躍具合」が詳細に遺されていますよ。
これを是非、「生き様の伝統」として繋いで行って下さい。
其れも「広島の地名」までの移動に関する歴史が遺っているのです。
筆者も、これ等の事に付いてのは歴史は充分に承知し、お家の事を「研究室の伝統シリーズ」や「ルーツ掲示板」でも論じていますよ。
さて、判り易く「青木氏」は次の「二つの青木氏」から成り立っています。
共に、「親族」でした。
先ず、一つ目は「皇位族」の「賜姓臣下朝臣族青木氏」です。
「伊勢青木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」です。
これを「賜姓臣下族の五家五流青木氏」と云います。
「天智天皇」より「大化の改新」で、「天皇家の皇子」は「第四位皇子」までを「皇位継承権」を持ち、「真人族」と呼ばれ「天皇家」に遺ります。
「第六位皇子」からは「天皇家」を外れ、「臣下」して「賜姓」の「青木氏」を賜り、「氏族の朝臣族と云う立場」に成ります。
これらの族が「賜姓五家五流青木氏」です。
初代の「賜姓臣下朝臣族」は、「天智天皇代七位」の「施基皇子」が「伊勢青木氏の始祖」と成り、「平城天皇」までの臣下した「皇子の王」は、「近江王」であり、「美濃王」であり、「信濃王」であり、「甲斐王」なのです。
これは「天皇」が代替わりする度に、「天皇継承権」の持たない「皇子皇女」は起こりますが、全てこの「五家」に入る事に成り、「青木氏」を名乗る事に成ります。
この「第七世族以上と成った者」は「坂東」に「配置・流される」します。
此処からお家の歴史に入ります。
ところが、「甲斐の家」には余り「皇子皇女」は、当時としては「山奥」と云う印象があり、行かず避けたのです。
そこで、「桓武天皇」の子の「嵯峨天皇」は、この「賜姓の仕来り」を「詔勅宣言」で破って、父である「桓武天皇」との「親子争い」が起こったのです。
「桓武派の平城天皇」と「親子争い」の「薬子の変」です。
有名な「桓武天皇」は、「光仁天皇の子・山部王」で、その「光仁天皇」は「施基皇子」の「四男・白壁王・青木氏」で、「伊勢青木氏の出自」です。
ところが、「女系の孝謙天皇」は、「天皇家」に絶えた男系を元皇子であった「施基皇子の子」の「伊勢青木氏の四男」に無理やり「天皇」に成る様に「白羽の矢」を立てて「天皇・光仁天皇」に仕立て上げ、それに自分の姉の「井上内親王」を「后」として送り出し「天皇家の筋目」を建てます。
当然に、この「嵯峨天皇」も「光仁天皇の孫」に当たります。
この「孫」が、何と「自らの実家」の「青木氏」を仕来りの「賜姓する事」を止めたのです。
これで「青木氏の子孫」である者等が「二派」に分かれて「親子喧嘩」が起こったのです。
「嵯峨天皇」は「青木氏」に替えて「源氏」を今後賜姓すると「詔勅」を出して宣言をしたのです。
そして、この「賜姓源氏」に「嵯峨天皇」は「皇位族朝臣族の格式」である事を義務付けたのです。
ところが、この「賜姓源氏」は「嵯峨天皇」が提示したこの「9つの縛り」を全く護らず勝手な行動を採る様に成ったのです。
賜姓を受けられなかった「皇子皇女」は、「賜姓青木氏に入れる事」が出来なくなった為に、賜姓の無い源氏を名乗り生活力の殆どの無い者は滅亡しました。
そこで「周囲の立場」を失った「嵯峨天皇」は、自らの「出自元の青木氏」に対して、「代替わり」で出て来る「皇子皇女」に、「青木氏の伝統ある一切の慣習仕来り掟」を真似ては成らないと明記して宣言します。
兎も角も、「折衷案」として失敗を隠すために「賜姓青木氏」を保全したのです。
但し、此処に条件を付けました。
それは、「9つの縛り」をある程度に護った「源氏族」か「皇子皇女族・真人族」である事を「証明する物」があれば、「賜姓」はしないが“「青木氏」を名乗っても良い”としたのです。
更に、「新撰姓氏禄」と云うものを定めて勝手に名乗れなくしたのです。
これで全国の豪族の格式を定めたので名乗る事は難しくなりました。
そのトップに「青木氏」を置き「収拾案」を提示し納めます。
そこで、「皇子皇女」が行かなかったこの「甲斐」には、止む無く「嵯峨天皇の子供」を賜姓は出来ませんし、護らない賜姓源氏にしたくない為に、賜姓に継ぐ役柄の「冠者蔵人の役名」を着けて「甲斐」に配置したのです。
これが「甲斐の賜姓青木氏・嵯峨の甲斐青木氏」と云うものです。
これが、「賜姓」では無く「嵯峨氏の源光・冠者蔵人」と云うものでした。
ところが、この「冠者蔵人」であるが同格として無理に「青木」を名乗り、この「青木源光の兄」の「時光」は、「弟」が出世している事に納得せず、「9つの縛り」も護らなかったのに、勝手に許可なく「源氏である事・支流」を理由に「条件付きの嵯峨詔勅の青木」を名乗ったのです。
これが「お家の始祖・甲斐時光系青木氏」に当たります。
さて、これでは終わらなかったのです。
此処からびっくりするような「お家の大きな歴史」が始まるのです。
この「甲斐」では、伝統ある正統な「源光系青木氏・冠者蔵人」の「青木氏」より、上記の「条件付きの嵯峨詔勅の青木」の「時光系青木氏」の方が子孫を大きく拡大させたのです。
此処で「時光系青木氏」の中で複雑な「一族争い」が起こったのです。
甲斐全土に大拡大した「時光系青木氏の分家」に「お家騒動の争い」が起こります。
時光より「七代目分家」の「信正の子供」の「信定」が、その「信定」の子との「親子の仲」が悪く、「分家跡取り」を巡って子の「正定と弟の豊定」とが組んで「親・信定」と対立します。
結局は「親の信定」はこの子供の二人を甲斐の山奥に飛ばします。
「正定」は北巨摩郡、「豊定」は柳沢に飛ばして親子の縁を切ったのです。
「信定」はそこで、「安芸」に「時光系青木氏分家」より「一族の者」を「養子」を出していました。
そこからこの「縁」を通じて子供一人を「養子・信之」としてもらい受け「分家の跡取り」とします。
そこで、千葉から流れ着いた「武田氏」が「甲斐」で勢力を拡大させ、現地の豪族の「時光系青木氏」は飲み込まれ、この「武田氏」と縁組をし益々拡大します。
この「武田氏」とは血縁をして「武田氏系青木氏」を始めとして「時光系武田氏族青木氏」、の二つとで「時光系」の「三つの青木氏」が誕生します。
ここで、「長篠の戦い」が起こり、敗戦しこの三つは完全に滅亡します。
ところが、戦い途中で、「信定の養子」と成った「安芸の養子の信之」は負ける寸前で、早々と「安芸の故郷」に逃げ帰ったのです。
ところが、「北巨摩郡の正定」と、「柳沢の豊定」は「武田氏」に参戦をしませんでした。
「甲斐の戦後処理」は「家康」に任されますが、この時、「北巨摩郡の正定」の一族と「柳沢の豊定」の一族の「兄弟の族」は、「家康」によって「武蔵の鉢形」に一切移住させられ、「家臣団」に加えられます。
その三代目が賢く「将軍綱吉」に取り立てられて「御側用人」と成って有名な大名と成った「柳沢吉保・青木吉保」なのです。
この時、兄の一族は吉保の家臣と成ります。
「吉保」は、故郷の甲斐3郡を「知行地の扶持」として与えられます。
最後は、「奈良・郡山」に転封されますが、此処でも「青木氏の子孫」を拡大させます。
さて、お家はこの「養子の信之」の裔系と成ります。
それは、記録では、安芸の高尾伝九朗の三男 母は多田次郎右衛門昌繁の女と成っています。
その「安芸」に戻った後の、「延宝五年・1678年」に「安芸の家・高尾家」を再び継ぎ、「安芸松平家の家臣」と成り、「元禄七年・1689年」に「大番役」に成り、「200俵の録」と成る。とあります。
最初に「安芸」に「甲斐」から「養子」に行ったの者は、記録では「某」とされ誰か判っていません。
解っている事は,名は「三十郎」か「清左衛門」と成っていて、”養子先家督継ぐ”とあり、安芸では「宝蔵書」を務むとあります。
恐らくは、「清左衛門」は「世襲名」であり、分家の「跡継ぎの名」ですので、「三十郎」が安芸に養子に行った事に成ります。
以上が記録されています。
その養子が戻った安芸では、「大番役」であつた為に警護役として「安芸松平家の江戸詰め」として損が江戸に定住する事に成りました。
その後に「正定と豊定の一族甲斐青木」とも同じ「甲斐者の青木氏」として血縁を持つ事に成ったのです。
奈良に転封後もお家には、義理ではありますが、「正定と豊定の一族甲斐青木氏」の多くは江戸にも子孫を残しました。
以上がお家のルーツとして判っている事です。
この事を「最低限の先祖の情報」としてお家のお子さんの「青木氏の子孫に遺す事」もロマンではありませんか。
では、又、お便りを下さい。