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  [No.1175] 三重の青木です
     投稿者:青木佑太朗   投稿日:2020/08/23(Sun) 00:48:47

福管理人さま

お世話になっております。
ルーツが三重県四日市市で(出生地は別)、現在は東京に住んでいる青木です。

◆お聞きしたいこと
自分のご先祖様がどんな人たちだったか(仕事や生き様、社会の中で果たした役割、後世に遺したものなど)
※膨大な数のご先祖様がいるのは承知の上ですが、一旦浅くてもよいので全体感を把握したい

◆自己紹介兼導入
昔から自分のルーツ・ご先祖様に興味があり、おじいやおばあに昔のことをよく聞くような子供でした。
長男でもあり、家を守ることに対し少し責任感を感じていたのもあるかもしれません。

この夏、興味関心が高じ、ネットをあさっていたところ本掲示板にたどり着きました。
率直に驚き、また興奮しました。膨大な情報量があり、裏には地道で大変な作業があったと思います。感謝申し上げます。おじいやおばあから断片的に聞いていたことが、掲載されていることにもとても驚きました。少しずつ読み解いているところです。
個人的には、「青木家の家訓」のシリーズが好きです。私自身はそういったものは聞いたことがありませんでしたが…
また、戸籍情報を遡って取得したので、そちらの情報も参考になればと思います。

◆おじい・おばあから聞いていたこと
・三重県員弁郡東員町大木のあたりがルーツである
・先祖は織田信長に攻められて(当時神主?)、その後農業に携わった

◆戸籍情報
・私の曽祖父の祖父が青木佐右衛門(天保十三年生まれのようです)

どうぞよろしくお願いいたします。


  [No.1177] Re:三重の青木です
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/08/25(Tue) 10:17:17

今日は。
ようこそ全国の青木さんが集う「青木サイト」にお越しいただきました。
これからも宜しく是非にお願いします。

そうですか、次第に年齢を重ねると自分自身を知りたくなるのは、人間が脳に持っている過去への憧れで、それが無意識に出て来るものです。
何時か自然に引き付けられて行くものだと思います。
これが「遺伝子」の中に組み込まれているのだと思います。


お聞きしたいこと、の件に付いて。
自分のご先祖様がどんな人たちだったか(仕事や生き様、社会の中で果たした役割、後世に遺したものなど)

「青木氏」には、「伝統的な密教の考え方」があって、“自分は曾孫までは自分の未来の自分とし、それを見ているのだ”と云う考え方があって、“孫や曾孫が無条件にかわいい”と成るのは、この事に由来する事だとしているです。
今の科学から観て、これが遺伝子に組み込まれたものから来ていると云われています。
そういう場面に遭遇すると、何となく親しみを感じたり落ち着いたりするのはこの事から来ていると云われています。
筆者も小さい頃から「歴史好き」で、取り分け「青木の事」に付いて興味を持ち父の旅に付いて行って昔の親族や関係者に会って話を聞くのが好きでした。
他の兄弟とは全く行動が違っていました。
当時は、“松阪の主家・福家の御坊様”と呼ばれた記憶があり、何の事か良く判りませんでした。
一族関係者に遺された資料等を読み漁り其れを纏めて行ったもので年月と大部足を運びました。
それが現在に至っているのです。

さて、故に、お家には筆者は実に親しみを不思議に感じました。
それは、この事から来ていると思います。
何故ならば、「血のつながり」のある当に”「親戚・家族」”だからです。
筆者は「伊勢松阪の青木」です。
この「伊勢」には、”「四家」”と云って、「松阪」と「名張」と「員弁」と「桑名」の四つに分けて構成され「氏族の主家」を構成していました。
これは「皇位族」に課せられた掟でした。
この「氏族」は「伊勢衆50氏」から成る「氏人」で、全て「女系」で何重にも繋がる族を構築しているのです。

「天智天皇の第七皇子」の「施基皇子」は、647年に皇族から「臣下」して「朝臣族」として「賜姓」を「天智天皇」から授かり、「伊勢王の臣下族」として「賜姓の青木氏」を名乗ったのです。
そして「天皇」が認める初めての正式な「唯一の氏族」を構築したのです。
この時、「天智天皇」から「皇位族の象徴紋」として「笹竜胆紋」、「仏師の鞍作止利作の大日如来坐像」、「神木で象徴木のあおきの木」と「旗印の白旗」と「祖先神の神明社」を守護神とし、「神職の象徴紋の柏紋・神木」を与えられました。
「仏師の鞍作止利作の大日如来坐像」は平成10年まで青木で保管していましたが、「青木氏の氏の菩提寺」である「松阪の清光寺に移しました。
JR松阪駅前の道路を渡った右手の角の裏手にありますよ。
そこには、青木氏の氏族の大きな墓所もありますので、この仏像と共に観てください。
「神職」と書かれていましたが、その「皇祖神」の「子神」の「祖先神の神明社」の守護神も付近にあります。
これが「柏紋の青木氏の神職」で、全国に「488社」もあります。
ここの神職全ては「青木氏の神職」ですよ。
全国の神明社を5年程度の交代制で回っていたのです。
お家は、元はこの「総紋・氏族紋の笹竜胆紋」を「総紋」として、唯一、天智天皇から与えられた「神木の副紋」を持つ「柏紋の神職の青木氏」なのです。
員弁から桑名に掛けて9社ありますので、恐らくはこの内のどれかの神明社の神職をしていたと思います。
交代制ですから全て廻っていたと思いますので「菩提寺の清光寺」と「神明社訪問」も良いかもしれませんよ。

さて、話を基に戻して、お問い合わせの話に戻ります。
それをすべて、「男系」で繋がるのでは無く、「女系で繋がる氏族」を先ず「伊勢」を始めとして形成したのです。
これが伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の五家五流に広がります。
伊勢王の「施基皇子」の青木氏には「7人の嗣子」と「9人の女子」が生まれました。
この「七人の嗣子」の内、「松阪と名張と員弁と桑名」と、別に後に「四日市」に配置して、要するに「四家」と云う制度を敷き「皇親族の家」を造ったのです。
そして、「天皇」よりこの「朝臣族」としての「賜姓氏族青木氏」に課せられたのが、永代の「賜姓五役と令外官」でした。
この役目を「四家の青木氏」で熟したのです。
其れの内、お家は「員弁殿」と呼称された「青木氏」なのです。
この制度の仕来りは江戸末期まで続きました。
つまり、お家がその「員弁殿の末裔」という事で、筆者とは非常に濃い血が流れているのです。
最後は明治35年に「伊勢屋・青木氏」が「維新政府・薩摩藩」から攻撃されて一度倒産の形を執り摂津に本家を移して難を逃れました。
この時、正式には伊勢は「解散の形」をとり「四家」は、名張家、松坂家、員弁家、桑名家として独立して生きて行くことに成ります。その少し前から難を逃れる為に開始していました。
それがお家です。
天皇家より余計な格式のある家・青木氏の存在を薩摩は否定したのです。

「織田信長」に攻められて(当時神主?)、その後農業に携わった の件ですが、
この事は「伝統シリーズの論文」で詳しく論じています。
室町幕府は青木氏を律宗族として認めましたが、信長は青木氏の力が大きいので認めませんでした。
この間、農業・庄屋に関わりながらも四家は護っていたのです。
江戸期で再び青木氏を認められ四家・伊勢屋は続けます。
実は全くおっしやる通りで、その通り「信長」と「伊勢青木氏」との「戦い」でした。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、そもそも、「施基皇子の皇位族」であって、賜姓時に当たって「朝廷・天皇」から「永代の賜姓五役と永代の令外官」の役目を与えられ、その「伝統ある格式」を護るために、「信長」に対抗する直接する「武力を持つ事」を禁じられていました。
その変わりに、「皇位族」でありながら「影の令外官」として「紙屋院」と云う「格式ある称号」を初めて与えられ、この「称号」に基づいて「商い」を認められたのです。
この時期は、全ての職人の造った物は、一度、朝廷に納められ、「余った物」を市場に放出して、「利益」を獲得して「朝廷の財源・内蔵」としていたのです。
これを「部経済」と云います。
「部」とは、「職人」の全てを以て「部人」と云う身分を与え、「朝廷の国造」か「青木氏の造」に所属させました。
これを「青木氏部」と古来より呼ばれていました。
そして、この「青木氏」は同時に、「国造」をも含むすべてを「管理支配する役目も令外官」としても役目を担っていました。
この「市場に放出する役目」から、先ずは「紙の放出権」を与えられて「商いの役目」を司ったのです。
この時は未だ、「木簡や竹簡」と云ったものに記録する文化で、「紙」は全て中国から輸入する状況で、高価で中々普及しませんでした。
そこで、天皇は“これを解決せよ”と命じられ、特権を与え此の「貿易の務め」も果たしていたのです。
そこで「悪質な中国製の紙」ではなく、「日本製の良質な紙」を開発する様に天皇より命じられます。
これに楮を使った紙に見事成功します。
此の「紙の独占権を持った青木氏」は、室町期末期には「紙文化」が起こり、「日本一の巨万の富」を獲得します。
これが「伊勢屋と青木氏」です。
つまり、「二足の草鞋策」です

さて、時代が進み、この「青木氏・伊勢屋」は「信長」にとって「目障り」でした。
「伊勢と信濃の青木氏」には「抑止力」と云う「信長の武力財力」の数倍以上を凌ぐ力を持っていたのです。
海には「伊勢水軍」を配下にし、自らも千石船3艘をも持つ「大勢力」で関西と瀬戸内の支配権を持っていたのです。
「信長」はとてもかなう勢力の抑止力では無かったのです。
そして、更には、「日本一の豪族」の「藤原北家秀郷流青木氏・116氏」と「秀郷一門361氏」とは「女系」による長い歴史の親族関係にあって、「信長」も中々に手が出せなかったのです。
そして、その「財力」と「50の伊勢衆の氏族の氏人・伊賀青木氏を含む」が構成する「伊勢シンジケート」があったのです。
南北朝時代に「10万の足利氏の軍・2万餓死」をこの「伊勢シンジケート」で餓死させる戦績を持っているのです。
この事を知っていた「信長」はこれ等の「武力」そのもので背後を突かれるからです。
この事を恐れていたのですが其処を「信長」は「伊勢攻め」を無理に実行したのです。
そして「5つの出城」を築いて「伊勢」を攻め落とそうとします。
ところが、「伊勢シンジケート」と「秀郷一門の武力」の「動向」等も加えて、この城を「火付け火災」で能力低下させ、「搬送の食料」を襲い、関東から迫る秀郷軍を恐れて、遂には、先に信長軍は大阪に引き上げて仕舞い「北畠氏」は潰されましたが、其の後に「信雄・責任者」を罰して取り敢えずは治まりました。
この時、「四家」は犠牲を負いますが、お家の「員弁殿」は地理的により大きな犠牲を負ったのです。
「松阪」も寺や蔵などに焼き討ちを受けましたし、尾張に近い「桑名殿」も犠牲を負いましたが、財力で直ぐに元に戻りました。
「伊勢攻め」は2度あり、「秀吉の長島攻め」もありましたが何れも「強力な抑止力」で勝ちました。

“私の曽祖父の祖父が青木佐右衛門(天保十三年生まれのようです)”

この件ですが、当にお家が「員弁殿の裔」である事にはこの事で間違いはありません。
其れは「賜姓の青木氏」には「天皇」から認められた「氏族であった事」から、その呼称には「5つの名前」を持っているのです。
その内、「家柄を示す世襲名」と云うものがあったのです。
「伊勢の松阪」の「松阪殿・福家」は「・・兵衛」、「員弁殿」は「・・右衛門」として呼称し、桑名は「・・左衛門」とその前にその「立場・役柄」を表現する事で「格式」が判る様にしたのです。
お家は「佐」が付いていますが、この「佐」とは「朝廷の役職」の「佐官」と云う「最高級の立場」を示しているのです。
天皇を直接護る「近衛兵軍団」の佐官、つまり、「軍団の最高クラス」の指揮官を意味します。
現在の「自衛隊の一佐・将軍の直下で上から3つ目」の事です。
「伊勢王」の「施基皇子」は、「天智天皇の第七位皇子」で「大化の改新」で「第四位皇子以外」は、「天皇の継承権」が無く、「皇位継承族・真人族」から外れ、臣下して、天皇より直接に「賜姓・氏名」を授かり「朝臣族」と成ります。
この「朝臣族」には2種類あり、我々の「賜姓青木氏」は「皇位族の朝臣族」で、血筋の繋がる「天皇を身内で護る近衛兵軍団」を造って、「宮廷の門、寝室の隣」で侍って護っていたのです。
この事から、「侍らう人。はべらうひと」、つまり、「侍人」、つまり、「侍の始まり・さむらい」の言葉が生まれたのです。
宮廷門には「右門と左門」があって、左門が上位なのです。
これに最初に成ったのが、「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」と「北家藤原氏」なのです。
ですから、伝統よりお家の「員弁殿」は「佐右衛門」なのです。
因みに、松阪は「長兵衛」は「左の門」、「右の門」と「寝室の隣室」でこれらの「兵衛軍」の全体の「長・頭・指揮者・責任者」の事で、務めは「寝処警護役」です。
この「慣習」が後に世間に真似されて庶民誰でもが使う呼称と成って仕舞ったのですが、「四家の呼称」は元々の本物なのです。
現在でも「伊勢神宮の常夜灯」に「伊勢青木氏の四家」が寄付したものが遺っていますよ。
其処に、長兵衛や右衛門等の四家の名が刻まれていますよ。

さて、筆者は「四家の松阪殿」と呼ばれた「福家」です。
「施基皇子の賜姓の青木氏」とは「氏族名」ですが、「皇位族」であり「賜姓五役の立場」である為に、「姓」を発祥させません。
従って、「氏名の青木」のみを「四家の末裔」は名乗る掟に成っています。
他氏とは異なり唯一「姓名」を持たない氏族」なのです。
その代わりに「女系族」であり「嫁ぎ先の氏人」の「50の伊勢衆・郷士」は夫々独自の「姓名」を持って名乗ります。つまり、「氏人」としての「50の姓名」が女系の縁者があるという事です。
故に、「四家」の裔は「姓名」を持たなくて「氏名の青木」を名乗るのです。
もし、ところが「青木氏の子孫」として「姓名」として名乗っているのは偽で、江戸初期にこの搾取の現象が起こつたのです。
江戸初期に「武士としての証明書・国印状」を貰う為に、「良い家柄の偽の系譜」を造らなくては貰えない事からこれを幕府はこの偽行為を黙認したのです。
格式ある江戸の幕府を造り上げる為に行いました。
ところが、幕府は其の後に反省して「偽の青木氏」を名乗つた武士に対して別の名にする様に命じました。
そこで、生まれたのが、葵木や青樹や仰木等のあおきで、偽の系譜を作った「春原」や「美海」等の「偽の姓名」も「別の名」に改めました。

故に、この独特の氏族としての「四家」にはその差が無く、独特の跡目継承をして引き継いで行きました。
他氏から絶対に男子が入ってこないし、「男系継承」を絶対にしない「女系での継承族」です。
お家はその「四家の青木氏の員弁殿」のお家です。
四家は殆どは家族なのです。
全て「女系、即ち、母方族」で其れで「血」を濃く成るのを防いでいるのです。
後に論じますが、「遺伝子学的」には最も合理的な継承方式なのです。
「女子から生まれた子供の男子・嗣子」を「四家の仕事」を図る為に据えるのです。
この為に、「四掟」と云う「血縁に関する掟」を定め、「妻嫁制度」と云う「仕来り」で、「女(むすめ)」を養育して「50の伊勢衆の血縁族の氏人」に嫁がせ、そこで生まれた女子を「福家」に再び集めて、「玄孫」までを一か所で集めて「青木氏の娘・「女(むすめ)」」として養育するのです。
ここで統一して養育された玄孫迄は「青木氏族」の差別のない「女(むすめ)」として育てます。
そして、そこから「秀郷流青木氏」や「四掟」と云う「皇位族」に特別に課せられた「掟に叶う家」に「青木氏」の「女(むすめ)」として嫁がせます。
当然に、その嫁ぎ先の「女(むすめ)」で生まれたその「娘」は、「嫁家制度」と云う「仕来り」で、「伊勢の四家の青木氏」に再び「嫁」として戻る事に成る仕組みです。
嫁家先は、伊勢で教育を受けた統一した慣習仕来りを嫁家先に敷きます。
これを繰り返すと、その家は代々に「青木氏の仕来り」が敷かれますのでそこで育つた娘が又、再び青木に入る仕組みですので、「慣習仕来り掟」は同じものを持った「娘・嫁」で繋がって行きますので円滑に「青木氏の伝統を繋げて行ける仕組み」に成るのです。
この「繰り返し」で「青木氏の氏族」を守っていたのです。

お家が「四家」の一つの「員弁殿」であるので、この内の「氏人の50の伊勢衆」からと、「秀郷流青木氏」や、四掟に叶う「公家一門」から嫁いで来た娘との間に出来た「嗣子」が、「員弁殿」に関わらず何処かの四家の当主と成ります。
この場合、その母から離れて嗣子の中で優秀な嗣子から「四家」の何処かの当主と成って行くのです。
況や、「員弁殿の血縁族」は「伊勢青木氏全体の血縁族」と成るのです。
つまり、「松阪殿も員弁殿も同じ血を持つ家の子」なのです。
「松阪の筆者」も「員弁殿」のお家も「親戚」ではなく要するに「家族」なのです。
全く同じ血を分け合った「四家と云う大きな家族」が出来ているのです。
これが「青木氏の女系族」です。

当然に、「嫁家先」の例えば、「秀郷流青木氏116氏」の「家の慣習仕来り掟」は、「伊勢・四家」から入った「女(むすめ)」が持ち込んだ「慣習仕来り掟」で育ってて、それを身に着けた中で、「育った娘の娘」が再び「伊勢」の四家の何処かに戻ってくると云う事に成るのです。
そして、その「娘」が伊勢で産んだ娘は、再び「女(むすめ)」として赤子の時から一か所に集められて、「女(むすめ)」としての知識や素養で教育され、一人前の「女(むすめ)」として「妻嫁制度」と云う「教育制度」で養育されるのです。
一人前の「女(むすめ)・8〜15歳」に成るまでの、丁度、「青木氏族保育園・学校」ですね。

「青木氏の研究室」の「検索」で、「伊勢青木氏」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟」や「秀郷流青木氏」や「松阪殿」や「名張殿」や「員弁殿」や「桑名殿」や「施基皇子」や「春日王」や「榎井王」や「湯原王」や「白壁王」や「桑名王」等を検索して出て来る論文を“かたぱし”から読み漁る事で理解が進みますよ。
「歴史的な青木氏の専門用語」がありますので、それを覚えて行って下さい。
先ずは、メモリ容量の事もありますので今回は此処までとします。

そこで判らないことは直ぐにご遠慮なく質問やお便りください。
そして、先ずは徐々に深めて行きましょう。
ある程度が出来れば更に論文を読んで行くと理解が出来ますし、遂には「歴史マニアー」に成りますよ。

では、先ずはお便りを


  [No.1181] Re:三重の青木です
     投稿者:青木佑太朗   投稿日:2020/12/30(Wed) 12:29:52

こんにちは。お返事が遅くなってしまい申し訳ございません。

先日、教えていただいた松阪の清光寺に行ってきました。境内にアオキがいくつも植えてあり、不思議な感覚でした。恥ずかしながら仏像と墓所がどれなのか分からなかったですが。。。

今年はこちらのサイトに出会えてよかったです。
管理人さんも良いお年をお迎えください。


  [No.1182] Re:三重の青木です
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/01/01(Fri) 09:15:28

今日は 伊勢員弁の青木さん 今日は。
有難う御座います。

東京はコロナで大変ですね。充分に注意されてお過ごしください。

そうですか、お訪ね頂きましたか。
仏像は、本殿の中に入り奥のガラス保管棚の左側の仏像の木像の大日如来坐像で約一メートル以上は有ります。
台座を加えると1.5mもありますよ。
その右横にも木像はありますが、これは紀州徳川氏の仏像です。
この寺は過去三度の類焼を受けました。
江戸期に入り、この清光寺は紀州藩に接収されました。
「青木氏の密教の菩提寺」であった室町期までは現在地より2m西側の位置にありました。
江戸期に顕教令が出され密教が禁止された為に紀州徳川氏に接収されましたが、「青木氏の福家の総墓」は残されました。
墓所に右から入ってほぼ中程手前にあり、更に突き当たる場所の右側に青木家の夫々の墓があり、その隣には女の戒名を並べて刻まれた女墓所がありますよ。
残念ながら筆者の墓所も移住して遠く成り歳をとった事から別の住まいの近くの処の知恩院派浄土宗寺に移しました。
現在では本殿で青木氏の仏像を観るにはお寺に見せてもらう為には恐らくは御布施がいりますよ。
筆者がその後に訪れても僧侶は年毎に知恩院から派遣されている為に記憶があやふやに成って仕舞っている様です。
仏像は平成10年10月まで伊勢松阪の青木氏で保管していましたが、伊勢の松阪青木は父の妹が継ぎましたが絶え、「商い」と摂津に本家を移したので、松阪清光寺に保管をお願いしました。

お仏像の写真は本サイトに掲載していますよ。
他の伊勢青木さんの墓所は「清光寺の本寺」の他に青木氏所縁の分寺が四か所ありますのでそちらでも墓所がありますよ。

不思議ですね 筆者の孫の長男も青木佑太ですよ。

ではまたお便りください。


  [No.1196] Re:三重の青木です
     投稿者:青木佑太朗   投稿日:2021/10/02(Sat) 15:27:26

こんにちは。お世話になっております。
先日、祖父が他界したため帰省しておったのですが、
私の祖父の従兄弟がご先祖のルーツを調べた史料を受け取り
いくつか新たに分かったことがあったので共有いたします。

もちろん内容として全て正しいとは限りませんが、
基本的に記録として残されているものを参考にして記述されているため
今後の青木氏に関する研究の進展のためにも要点を簡単に記します。

また伊勢青木氏との関係性について何かお判りになることがあればご教示いただけますと幸いです。


・員弁郡 大木村 真慶寺に繋がる茂福青木氏
・青木佐右衛門から九代さかのぼった九郎助(生年不詳、1752/8/25没)という人物が初代であり、最初に茂福に入植している
・そのプロセスや理由は不明であるが、下記の歴史的事実が付記されていた
┗茂福青木一族の南隣家は、茂福氏の末裔が住んでいた場所である
┗1746年、茂福家三十代五佐衛門盈盛が茂福村から員弁郡鍋坂村に移籍(大木村の真慶寺とは員弁川を挟んだ隣村)

・真慶寺の青木は、青木駿河之守の末裔である(?)
(1571年、滝川一益による侵略に屈して笹尾城城主青木駿河守平安豊戦死という記録がある)
・中世室町期の史料には、北方一揆の構成者として大木氏の名前が何度も挙がっている
・さらにさかのぼると山田城(笹尾城)を築城した青木紀伊守安定に行きつくと思われる
・1574年、青木駿河守の子、大木兼能が織田信長の庶兄津田信広を討ち取るも敗北し、肥後へ(のち熊本で三千石を所領。加藤清正の臣下で活躍)
・その後の熊本大木氏は茂福青木氏と同族である(熊本大木氏については動向不詳とのこと)


  [No.1198] Re:三重の青木です
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/10/07(Thu) 10:00:31

員弁の青木さん 今日は。
お久しぶりです。
そうですか、いろいろ歴史を研究されている様で楽しいですね。
私も若い時は各地に出向き資料などや事情聴取した事等沢山ありました。
行く前は相当研究して疑問点を整理しての事でした。
始めは、家に遺された資料から読み解く事から始めました。

さてお便りは次の様でしたので順次進めます。

“青木佐右衛門から九代さかのぼった九郎助(生年不詳、1752/8/25没)という人物が初代であり、最初に茂福に入植している”

先ず以上の件ですが、筆者にも四家の資料が遺されていて、これを「伊勢四家の時系列」で追って観ると、「伝統シリーズ」でも論じています様に、この時期は「紀州藩」に代わって一手に「伊勢」を発展させる為に「殖産興業」を盛んに展開させていた時期でもあります。
中でも「伊勢秀郷流青木氏」を含む「伊勢藤氏の全一族一門」が「紀州藩の家臣」として活動し「伊勢青木氏・伊勢屋の力・四家青木」を総じて親族一族でこの「大殖産事業」を進めていました。
然し、江戸幕府から派遣されていた「紀州藩の3人の目付家老」との間で、この「殖産興業の発展」に文句を着けられて「争い」を起こしていた時期でもあります。
「殖産に依って紀州藩の発展」を目論んでいた事に「幕府」は警戒していたのです。
吉宗の側用人の「地元の伊勢郷士50衆の一つの加納氏の子孫・家老」を味方にしてこの3人の追い落としを図っていて、「幕府から派遣されていた目付家老」は身の安全と不利と見て手を引き、「新宮の水野家」と「田辺の安藤家」が配されていて、それぞれ支藩を形成していましたが幕府に戻ると叱責されるので引き込んで出仕しなくなった時期でした。
従って、この時から「伊勢の殖産・開発事業」は一挙に発展する様になりました。
又、従って、その時より「伊勢青木氏の四家」は「紀州藩の勘定奉行の相談役」としても活躍し、「殖産資金」の為に「紀州藩」に「2万両の貸付」をした時期でもあります。
伊勢全般、取り分け「員弁の圷開発」を任されていた当時四家の「員弁殿」 (お便りでは「九郎助」)が、「四家」から差配されて「福家の代表」として「茂福等付近一帯」に開拓開墾の為に入植したのです。
これには北隣の「桑名の圷開墾開発」も合わせて行われていたと記されています。

この開墾には奈良期より仲の良かった桑名の「額田部氏の土木開拓業者の専門家」が関わっていた事も判っています。
中でも肥沃であったこの「四日市の開墾」は有名です。

実は、この域は「四家青木氏」とは別に、“「四日市殿」”と呼ばれる「青木氏」が定住していた場所でもありました。
江戸の徳川氏から「家康の孫の勝姫の子孫の娘」を娶り、「伊勢秀郷流青木氏」と「四家の青木氏」との「3者の血縁混合族の青木氏」を四家とは別に発祥させていた場所でもあります。
此処には紀州藩の記録に依れば、「伊勢」の「一般郷士」(「茂福氏等」)が定住していたと添書されていて単に“在所換え”と記されています。

然し、これが「伊勢」から提出された「大殖産計画書」に伴い「紀州藩差配」に依って「茂福氏等の郷士」が員弁側の隣の員弁川を境に西に員弁郡大安町鍋坂村に移し、東に東員町真慶寺には、員弁殿が入り開墾してそこに大殖産事業を興したとあります。
お家のお便りはこの時の事を指していると思います。

さてこれには特別に下記の歴史的経緯がありました。
その事を把握しておく必要があります。

先ず、「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石 1598年)に列せられた者と、「青木伊賀守忠元・四万石」と、これ等の二人は共に「信長に仕えた者」で、その結果で江戸初期に徳川氏から叙封されて「福井」に逃げ伸びて「伊勢の支援」を受けて「酒造業」を営みました。
その後に越後にも出向き「越後秀郷流青木氏」を頼って「本場の酒造業」を身に着け更に福井で拡大させました。
ここには、従って、「伊勢と信濃の青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」と当時の「四家の員弁殿の青木氏」も移住しいて、「ある出来事」に関わって「伊勢」に彼等は居られなく成り、これに依って「青木氏の出直し」を手助けする「伊勢青木氏・四家の財政支援制度」を受けられる「国処の福井」に移動したのでした。
「全国488社から成る神明社の質の制度」によって「伊勢信濃の支援」で共に主に「商いや匠職」や中でも「酒造業」等を盛んに営んで自立させていました。
ところが其の後、江戸期の「福井の地震・1662年」と「宝暦2年・1752年の若狭地震」の「二度の大地震」が続けて起こりました。
此れの影響で、結局、「酒造業」を諦めて潰れて、再び服に移動していた「四家員弁の者」は「四家」から呼び寄せられて「員弁」に戻って、「員弁開発などの殖産」に再び携わりました。

「ある出来事」とは、確か「別の員弁の方からのお便り」と「伊勢の資料」を突き合わせると、「紀州征伐」で当時、「員弁」を担当していた「四家の先祖」と「員弁郡の村の郷士等を含む者等」が、信長に「敵対行為」、つまり「命令に従順に従わなかった事」、「青木の記録」では、「戦費の年貢米の供出と仮城造りに駆り出された事とある」を示した為に攻められて追われ逃げ、この「四家の導き」で「福井」に逃げ延びたとあります。
再び、「江戸期の地震」で「員弁」に戻ったとする同じ「先祖から口伝の情報」で知っていたとする「お便り」もありました。
このお家も員弁に住んでいた方の四家一族です。

本来は員弁単独で家を構成するのではなく、「女系制度」に基づく「四家の中で生まれた男子」の誰が適齢期になると「福家の差配」で「員弁等」に入ると云う「四家制度」を敷いて引き継いで行きますので、ですから「四家全体」が“員弁殿は員弁の子孫”という事には成りません。
この制度は、一代限りの交代に成る事が殆どであったとされ、別の四家から若い優秀な者が員弁に回ってくると云う制度です。
当時に員弁を差配していた青木佐右衛門から九代遡る・・の事は、必ず員弁の子孫と云う事では無く、その間には四家から何人もの若者が廻されて代替わりして行くのです。
従って「九郎助」が必ずしも「青木佐右衛門の祖」とは限りません。
「員弁殿」を務めていた時に産んだ「子孫の子供」という事もありますが、「女系制度」であり、必ずしも「員弁」は「員弁」の「直系孫尊属」とは限りません。
間には何度も「四家」の中で「四掟」に基づき「秀郷流青木氏等」と血縁して再びその裔の娘が「四家」に戻り嫁入りし子を成し、その成人した男子が「四家」を成すと云う「嫁家制度」で構成されていたのです。
その為に「女(むすめ)」を一族内で統一して養育する妻嫁制度を敷いてました。
この為に「伊勢四家」は殖産に於いても「員弁」に差配した「四家の裔・九郎助」の「東員町真慶寺の開発殖産」は、この時の事をお便りは言っているのです。

さて次は、上記の「青木紀伊守一矩」の者と、「青木伊賀守忠元」の者と、これ等の「1570年から1598年頃の二人」は共に「信長に仕えた者」ですが、その結果で、江戸初期に徳川氏から叙封されて「福井」に逃げ伸びて「伊勢の支援・四家」を受けて「酒造業」を営みました。
この「二人の人物」は織田氏に仕官していますので「四家の者」では無く、要するに「四掟に基づく血縁族」ではありますが、「もう一つの伊勢秀郷流青木氏の裔」という事に成ります。
従って「織田氏の宿老の滝川一益」に侵略落城されたとする「1571年の青木駿河之守・伊勢秀郷流青木氏」は、「四家の者の前提」としていますが違います。

「賜姓臣下族の四家の青木氏・氏族の青木氏」はその「氏族の出自」より武器を持たず、且つ、仕官をしません。
従って、この「青木駿河之守」は「賜姓臣下族の四家の青木氏・氏族の青木氏」では無く、「伊勢」のもう一つの平安期から存在した「母方血縁関係の青木氏」の「伊勢秀郷流青木氏の事」になります。

そうすると、一方の「紀伊守」と「伊賀守」は同じ主君は「信長」であり、一方の「駿河守」は、「信長」に侵略された者であります。
時系列では同年代の上記の二人とは繋がり難いですが、ところが繋がるのです。
これには下記の訳があるのです。

つまり「二つの血縁族の伊勢青木氏」を混同されている様ですが間違ってはいけないのは、確かに古く「平安期からの母方縁者関係族」にある「伊勢二つの青木氏の事」です。

「信長 秀吉」に敵対した「伊勢」には、「伊勢藤氏」として古く「平安時代・始祖は藤成」から「関東の秀郷流一族」の「伊勢秀郷流青木氏・賜姓族」が定住していて、室町期には一時跡目が絶えて衰退をしました。
ところがこれを室町期に再興した者があって、この人物は、そもそも「伊勢を制覇した信長の腹心」の「蒲生氏郷の叔父」に当たりながら、「織田氏」に敵対し味方せずに、その後、寧ろ逆に「秀吉奥羽攻め」の「秀郷流一族の陸奥結城氏」を救い出す為に軍を出して「秀吉背後」を突き成功し「一族の陸奥結城一族」を救い出します。有名な事件です。
この為に「伊勢」から軍を廻し軍師であった近江の「蒲生氏郷の叔父・伊勢秀郷流青木氏を再興した人物」は、有名な「秀吉陸奥逃避行劇」を興させた「主人公・有名に成る」と成るのです。
「近江秀郷流一門の近江蒲生氏郷の叔父・伊勢秀郷流青木氏を継承し再興」でありながらも、「信長 秀吉」に味方しなかった「惣国者の唯一の人物」で、この者は元の笹尾城跡に「庵・後に笹尾城と呼ばれた」を造営した人物でもあります。

然し、上記の「駿河守」に対して「紀伊守と伊賀守の子孫の二人・叔父の子孫」は、今度は「蒲生氏郷の仲介」で敵対した上記の「信長の家臣」となりました。
結局は、「伊勢攻め」で「信雄の指揮」の下で滝川一益に「駿河守」の「庵」は潰されますが、「秀郷流一門一族と伊勢青木氏の支援」で直ぐに息を吹き返しました。
「元の城跡の庵」を潰されたところで「伊勢秀郷流青木氏・116氏にも成る大武力集団」に執っては、歴史に遺る程の何の被害もありませんでした。
この事で「信雄と滝川一益」は信長から叱責を受け、「伊勢の統治」は甥でもある「一族の蒲生氏郷」に全面的に任すという事が興りました。
そこで、叔父一族を救いに入ったという事です。
恐らくはお便りの情報は、この時期にありこの事に関わった事であると思います。

この時期では、「親族の信濃」で教わった養蚕知識を「伊勢」に持ち込み「絹殖産の生産の一貫作業」での「殖産生産」を更に広げる為に開拓者を引き連れて入植したと記されています。
当に、「四日市茂福地方の海蔵川沿いの開墾をした後の事」が判っています。
筆者の資料では、「員弁川全域の圷]を大開墾した後は「養蚕殖産を広げた事」に成ります。
以上の事が時系列で判ります。

・1574年、青木駿河守の子、大木兼能が織田信長の庶兄津田信広を討ち取るも敗北し、肥後へ(のち熊本で三千石を所領。加藤清正の臣下で活躍)
・その後の熊本大木氏は茂福青木氏と同族である(熊本大木氏については動向不詳とのこと)

以上の情報に付いては、江戸期の後付けの資料だと思います。
上記のこの「伊勢秀郷流青木氏」の「子孫・大木兼能」とされるの一部が織田氏の家臣を討ち取り秀吉の家臣であった加藤清正の家臣に成ると云う事は考え難いですね。
ですから、「熊本大木氏」は、「茂福青木氏が同族とする前提」は「茂福青木氏」が「青木九郎助」と「茂福氏」が血縁しての結果を前提としての事ですが、これは上記した様な掟で考え難いです。
可能性は無いとは言えないですが、婚姻に関しては「氏族」である以上、「二つの伊勢の青木氏」には「奈良期からの四掟」と云う掟に明治期まで縛られていましたので、出来ないと思います。
仮に出来たとしても「茂福氏」は「伊勢郷士」(伊勢青木氏と血縁関係を持っていた伊勢郷士衆50とは別)の一つであったので無いと思います。
「青木氏の氏族」は飽く迄も「氏族」であるので「姓」は持ちません。
「姓」は全て「氏人の伊勢郷士衆50衆」の何れかの姓名を名乗ります。
つまり、「伊勢郷士衆50衆」は「青木氏の氏人族」で「女系の縁者関係」にあると云う事です。

そこで因みに判り易い例として、唯、「秀郷流一門・361氏」も「藤原北家の氏族」ですが、「姓」を持ちその為に「佐藤氏」とか「遠藤氏」とか「進藤氏」とか「工藤氏」とか「藤の前に姓」を着けて名乗る仕組みとしていました。
秀郷流主要五氏は青木氏、永嶋氏、長沢氏、進藤氏、長谷川氏で全体で361氏存在し姓とし、更に血縁族の郷士衆も持ちます。

「青木氏の氏人の伊勢郷氏50衆」はこの藤原氏の様な「姓方式」は採用しませんでしたが、「青木氏を構成する氏人である事」には変わりはありません。
つまり、「秀郷流の藤原氏の場合」は、「青木氏の氏名」と同様に「藤原氏の氏名」を名乗れるのは「武蔵入間の宗家本家・現存」だけです。
「北家秀郷流藤原氏」にはこの姓方式とは別に「大郷士衆団」が別にあり、違う処は「姓名」をルールに従って名乗る事です。
「秀郷流青木氏116氏」の場合は、賜姓族である為に「氏名の青木氏」だけです。

従って、仮に血縁しても「郷士の茂福氏」は「茂福氏を名乗る事」に成ります。
伝統を守る為に「茂福青木氏」を名乗る事は「四掟」で絶対に無かったのです。これは明治期まで護られました。
「伊勢青木氏四家」は姓を持ちませんので「四家員弁青木氏」と云う事だけに成ります。

当然に上記の事から、「大木と云う姓名」は江戸初期に勝手に庶民から身を興して無秩序に「青木を名乗った事」から幕府は禁令を出して、「大木や青樹や仰木や葵木などの姓名」に換える様に禁令を発したのです。
この結果からです。
ですから、「熊本の大木」は「青木氏の末裔」と云うのは大いに疑問で江戸期初期・8割程度」か明治初期の苗字令・9割程度」に合わせて都合よくしたのではとも思います。江戸期初期には国民の9割強が武士ではありませんでした。
これは江戸初期には武士の身分に成るには、上記した様に「江戸初期の事・国印状取得・黒印状・搾取偏纂」必要としたためのものでは無いかと思います。
この現象は江戸や福岡県や山口県や甲斐で大木等の姓名は起こりました。

又、「伊勢青木氏の四家の者」は奈良期から「氏族で伝統で一切仕官しません」。
この掟で歴史的にしていませんので、そもそも「大名の家臣」などに成る事は無いのです。
ですから・歴史を考える場合は、それと「伊勢秀郷流青木氏の存在」との「二つの事」を分けて認識ください。
熊本より北部の長崎と大分には「秀郷流青木氏の子孫」が大きく広がっています。
上記の一切の事は「伝統シリーズ」で詳細に論じています。

重ねて「伊勢」には、もう平安期中程から一つ縁者の「伊勢秀郷流青木氏」があり、「伊勢」を制覇して統治した「蒲生氏郷」の「近江」にいた「叔父に当たる者」がこの「伊勢秀郷流青木氏」を引きつぎ再興しています。

彼等を「伊勢藤氏」と云い、これらが「信長秀吉に仕えた者ら」です。
ところが後には、江戸初期には家康の子供の最も信頼していた元水戸の藩主だった者の「家臣の居なかった頼宜」を、紀州に引き戻し「初代紀州藩」の「初代藩主」に据えたのです。
そこで上記の「秀郷流青木氏」を、幕府に疑われながらも「優秀な伊勢藤氏」を丸ごと家臣にします。
同じ縁者の「伊勢青木氏・伊勢屋の財力」を利用しながら彼等は共に「伊勢殖産」を始めたのです。
「伊勢青木氏・伊勢屋」はこの為に「全国の秀郷流青木氏を含む藤氏361氏」に呼びかけて「15の商業組合」を結成し、「殖産」で資産運用をします。
この結果、「伊勢」は「殖産」で20万石も石高を増やし続けたのです。
この時の「員弁川沿いの圷干拓開墾事業」もその一つでした。
お便りはこの時の記録に遺る史実話の一つです。

“北方一揆の構成者として大木氏の名前が何度も挙がっている”

以上の件ですが、これは「第一次伊勢騒動」の件ですね。
「秀吉の長島の戦い」に伴って「氏人の伊勢郷士衆50衆」と「他の伊勢郷士・48衆・室町期の地侍」等が結束して興した「秀吉」を牽制した戦いでした。
大木氏は地侍ですので自由に動く事は出来たと思いますが、「氏人の伊勢郷士衆50衆」は「四家の差配」の中で動き、且つ「伊勢シンジケート」を使っての忍者的な行動でした。
この時、幾つかの資料には、“摂津の大阪商人”と云ういう言葉が記録に数多く出てきますが、これが「影の商人・摂津の伊勢屋」で「軍事物資や仮城を築く木材」の値を吊り上げて「秀吉」と戦い「伊勢シンジケート」を使って「山伝いの勢力・葛城山」で補給を脅かし、飢えさせ「武力の持たない伊勢青木氏」は「強大な抑止力」で戦った事件でした。
「信長」が背後を恐れて戦いの途中で大阪に逃げ延びると云う事件がおこりました。

「青木氏」は独自の「氏人の伊勢衆50衆」を使って背後から牽制した事件でもあります。
「戦い」は、結局、頃合いを観て「影の商人・摂津の伊勢屋」と「伊勢シンジケート」は引き上げた事件です。
「背後の伊勢青木氏」は疑われて、秀郷流一門も巻き込んでの「全面戦争」を避ける為に、双方が引き一時、伊勢も形式上で「旧領地の尾鷲」に逃げ延びます。
この形を伊勢は其のままにし「福家」は3年後に戻りました。

「伊勢」にはもう一つ「第二次伊勢騒動」と云うものが江戸末期から明治初期・9年に掛けて「維新政府」に対して、何と「約9年半間」も興し続けた事件で、「信濃青木氏」も背後で経済援護しましたし、有名な「伊勢シンジケート」を影から使って牽制しました。
「維新政府・天皇」は「伊勢青木氏の事・過去の献納」を配慮し「お咎めなし」として罰を受けたのは「役人の首謀者一人」(伊勢の郷士侍・5人の役人首謀者の一人・自ら名乗り出る)だけにして終了しました。
この時も第一次と同じでした。
この時、「江戸末期の幕府」は「伊勢と仲の良かった紀州藩の圧力・勘定方指導」もあって「知らぬ事」としてこの事件を黙認したのです。
一次にしても二次にしても背後には「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、直接武力は無いが、「伊勢シンジケートの抑止力」と「巨万の富の経済的支援・伊勢と摂津」をして煽っていた事は記録からも知られていて、結果は黙認しています。
「伊勢郷士50衆も潰される事」は無く「伊勢」でそのままに無く生き延びています。

これ等の史実事は記録として遺され、且つ江戸期に物語風にして複数で記録として語られています。

因みに、これ等は青木氏の歴史観として知って置く必要があります。
多くの記録から「伊勢の伊勢屋の青木氏」の当主・福家は、「摂津の大阪商人」として名を隠し、顔を隠し、店名も隠し、全ての事に「影の行為」とし当たっています。
時には記録には必ず出て来る「大阪大豪商」も、全て「影の商人」「影の実業家」「影の商人」「影の庄屋」「影の大名」「影の茶人」「影の匠人」「影の組合長」「影の水運主」「影の公家貴族」として時には振る舞っていたのです。
記録には多く遺っています。
そもそも「当時の大豪商」はそもそも室町期から全て危険であった為に「影の人間」として振る舞ってこの様にしていたのです。
「二足の草鞋の大豪商である事」のそのものを隠します。

決して表に出るような「テレビドラマの様な事」は一切ありませんでした。
誰が店主か番頭か、将又、何人も忍者の様にして判らない様にしていたのです。
「伊勢屋の大店」も主に全国に店の名を変えて50店もあり、江戸には200店舗があって判らない様にしていたのです。
それにこの「連絡・情報」も「香具師と云う忍者・伊賀者・伊賀青木氏」が「伊勢シンジケート・影の武力」と連動して形を変えて全国に連絡を取り合うシステムで、「全国秀郷流一族一門」とも連動していた事が判っています。
明治期まで続きました。
この中継点が「全国488の神明社」が使われたとされています。

「青木氏」を正しく考える場合、上記の「伊勢の二つの青木氏の存在」と「シンジケートの様な事」と「二足の草鞋策」も合わせてご判断下さい。
取り分け、「江戸初期の国印状・黒印状」など歴史を大きく歪めている事等も知る事が必要です。
今回のお答えも「青木氏の歴史」を正しく理解する上で大切です。
つまり、「青木氏の歴史観」を正しく知る事です。
判りにくい処は遠慮なくお尋ねください。
ではまた何か見つかりましたら是非又お便りを下さい。
お待ちしています。