貴HPを拝見し内容の深さに感銘いたしました。
もしよろしかったらルーツについてご助言いただけると幸いです。
亡父より多磨霊園の青木家墓所を継承しました。
曽祖父が昭和初期に用意したものですが
高祖父以前のルーツははっきりしておりません。
何らかのヒントをいただけたら幸いです。
従叔父に伝わる口伝では「武田家の家来であった」です。
大叔父(故人)の回顧録では 「学者、医者、僧侶神官は士族扱いであり紀州徳川家に仕え、市ヶ谷に居宅を藤沢付近に土地を与えられた父の家は当然士族であったが明治の徴兵逃れのため同じ名字の青木家に養子に入り士族から平民に下げられた」とあります。
私自身のかすかな記憶では祖父が学者の家だったと言っていた覚えがあります。
以上がすべて正しいとすると次の解釈となります。
武田氏家来の青木が、武田氏滅亡後の紆余曲折を経て江戸時代に学者となる。紀州徳川家に仕え市ヶ谷居住、藤沢付近に知行地(旗本と同じ処遇?)があった。
(その後曽祖父の時代に明治維新があり、必要に迫られ曽祖父は戸主となるための手段を講じた。)
これはあり得たのでしょうか?
関連情報は以下の通りです。
−家紋
蔦です。祖父から聞きました。大叔父(回顧録の大叔父の弟)の墓石には丸に蔦の紋が入っています。何世代に渡り蔦紋を使っていたかは不明です。
−戸籍
入手できた一番古い戸籍(明治19年式戸籍)では曽祖父は現神奈川県藤沢市の青木家二男となっております。明治22年(26歳)に他家の養子となり2年で養子解消して青木家に戻り同年に生家隣地番に分家しています。(分家後は北海道、ウラジオストック、東京と移り住みました。戸籍の生家とは殆ど交流がありませんでした。)
戸籍通りとすると回顧録の「紀州徳川家に仕え市ヶ谷に居宅を」の部分は否定され、学者でもなく、口伝のみ正しければ武田氏滅亡後、現藤沢市に代々住み、明治地代になり藤沢を出たと推定されます。
戸籍生家地番の青木家を訪問しましたが曽祖父の時代の事はわからないとのことでした。一方、その折にお教えくださった一族墓所には戸籍に記載された方のお名前をいくつか拝見いたしましたが墓石の家紋は貴HPでお見受けするもの以外でした。