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  [No.1152] 福井県の青木家
     投稿者:青木秀元   投稿日:2020/03/08(Sun) 13:59:32

>自分自身のルーツを辿っていてこのサイトにたどり着きました。
>福井県の青木さんが、私の他には1名しか記帳されていないのは、少し意外でした。
>私自身の祖先が福井県越前町で代々青木與右衛門を名乗っていたことや、その他の情報についてはご来場記帳に記載した通りですが、気になっているのは以下の2点です。
>1.越前府中城、北ノ庄城主だった青木一矩とはなんらかの関係があるのか?
> →青木一矩の孫が荘左衛門と名乗り武生で酒造業を営んでいたとのことだが、越前町の家には>大きな酒樽があって酒屋を営んでいたとの話を聞いたことがある。
>2.前田家の家臣団の1人の青木與右衛門とはなんらかの関係があるのか?

来場投稿
自分自身のルーツを辿っていて、このサイトに辿り着きました。
東京在住ですが、両親は福井県出身で、私自身の本籍も結婚時に東京に移すまで福井県越前町にありました。
家紋:丸に木瓜
菩提寺:天台真盛宗 西徳寺
代々青木與右衛門と名乗る庄屋だったようですが、地域にはそれほど青木姓は多くありません。
菩提寺にある墓は昭和初期に建てられたもののようですが、墓石に先祖代々の没年月と戒名が刻まれています。それによれば少なくとも天和ニ年二月(1682年)までは遡れます。代々の祖先の戒名は「上座」を使っているので武士ではなかったようです。代々の戒名では「心」という字と「山」「峯」「岳」などの山にまつわる字が多く使われているのが気になります。
なお、以前越前町の家から見つかった古文書が、福井県文書館のデジタルアーカイブに「青木与右衛門家文書」として記録されている事を、最近知りました。

>よろしくお願いします。


  [No.1154] Re:福井県の青木家
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/11(Wed) 07:58:54

福井の青木さん 今日は。
ようこそ、「青木氏氏サイト」にお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

さて、お尋ねですが、その前に概要の経緯を先に述べます。

サイトにも論じています通り、「福井」は越前を中心に越後境にも定住していました。
ここは、元来の「青木氏の定住地」ではなく、奈良期に「皇位族」より臣下した「五家五流の賜姓青木氏(近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域)」が住んでいまして、「源平争いと戦乱と下克上」で、考え方の違いで「二つ」に分かれました。
そして、「近江と美濃と甲斐」は源氏に味方して「滅亡の憂き目」を受けます。
遺った「伊勢と信濃の青木氏」は、”「質」”と云う組織を立ち上げ、これを立場が「皇位賜姓族・賜姓五役」であった為に、「青木氏の守護神」の「神明社」で運営します。
この「神明社」は「天皇家の皇祖神の子神」として全国に「500弱の社」を建立してました。
この組織に「伊勢と信濃」は「一つの役目」を与えます。
これに滅亡して各地に散った「青木氏族」を救う為に集めてこの「神明社組織」を使ったのです。
それは、戦乱で追われた「各地の一族」を「各地の神明社」が先ず寄せ集めて、それを「越前の神明社」の一か所に更に集めて、「伊勢と信濃」が「経済的支援」をして護ります。

「伊勢と信濃」は、天皇から命じられて「和紙の開発」とそれに「関連する諸具」を開発して、朝廷の名で「余剰品の販売」を一手に引き受けたのです。
これが「紙屋院」の称号であって日本で初めての「商社」と成ります。
その事によって「膨大な利益」を獲得し、それを「神明社の経営」などに注ぎ込み残りを「献納」として「利権益」を朝廷に納めていたのです。

従って、ここには主に「近江、美濃、信濃・諏訪」から逃亡してきた「青木氏」と、それを支援する「神明社」を運営する「伊勢や信濃」の「青木氏の神職族」が平安期末期から次々と定住する事に成ったのです。

この「質」とは、本来は「現在の質・質屋」の意味ではなく、「中国の仏教」で生まれた定期的に行われる「救済行事」で、飢餓に苦しむ者等に食事を与え、職を与えて救済していたのです。
これを日本にも取り入れて、それを「伊勢と信濃」が「神明社・柏紋の青木氏」にやらしたのです。

そして、「越前の福井」がこの拠点だったのです。
この時、「神明社」で匿った「青木氏」に、「土地の利」を生かして「無償の資金」を出して「酒造業」を中心に先ずやらせます。
これが成功して、この「神明社」から一人達する者には、この「酒造業に関わる職業」に従事させ、「一連のマニファクチュウア組織」を形成させたのです。

これが、大成功を治め、「伊勢と信濃」はこの酒等を販売する役割を担ったのです。
「伊勢」は、上記した様に奈良期から「紙屋院・伊勢屋」と云う「称号」を「天皇」から特別に得て「皇位族」で在り乍らも「商い」が出来る立場を特別に獲得していたのです。
これが「日本の最初の商い」となり、先ず、「和紙の開発や硯、墨などの開発」に成功して「巨万の富」を得て、925年に、そして1025年には総合商の「貿易商」を営みます。
この利益の一部は朝廷に「献納金」として納められ、「皇位族としての令外官」として勤めます。

江戸期直前まで、この「財力」を以て「越前福井」で一族子孫繁栄のために「質」を営み、主に酒造業を継続し、その繁栄で越後までこれが広がります。

概要は上記の通りの経緯を持っています。
従って、「福井・越前」には「近江、美濃、伊勢、信濃」の「賜姓青木氏」が存在し、当時の婚姻の「慣習・四掟制度」で、これらの「皇位融合族」が住んでいた事に成ります。

この「青木氏」は「嵯峨天皇の勅令・伊勢青木氏の出自元」で「青木氏」を「五家五流の青木氏」以外は名乗っては成らないと「詔勅と禁令」を発し、その「慣習仕来り掟」も使っては成らないと禁止されました。
この禁令は明治3年まで護られました。

上記の経緯で、この「福井越前の青木氏」は、間違いなく「近江、美濃、伊勢、信濃」の「融合族」である事には間違いは無く、恐らくはどの「青木氏」かは分別する事は出来無いと考えます。

お答えは、「1の青木氏である事」には間違いはありません。
何処かで血筋が繋がっています。
それも、「皇位族」に課せられた掟の「四掟制度」で一族内で婚姻する事に成りますので、結果として長い時間の中では「一つの青木氏融合族」なのです。

ところが、2はちょつと経緯が異なっています。
「青木氏」には、もう一つの「円融天皇」により賜姓された「藤原秀郷流青木氏」と云う氏族があり、この族は「伊勢と信濃の青木氏の母方族」で、元から「女系で繋がる血縁族」です。
「武蔵」に本拠地を置き、全国24地域に116氏の一族が分布しています。
その中の一つの「越後の秀郷流青木氏」です。

藤原秀郷とは平の将門の乱を沈めた有名な人物です。
この子供の「三男の千國」がこのこの初代の青木氏を名乗ります。
永嶋氏や長沼氏や長谷川氏や進藤氏は臣籍族で「青木一族」と呼ばれます。

実は、この越後の「秀郷流青木氏」を頼って、「信濃青木氏」の系列の「諏訪族青木氏の三氏」が武田氏の家臣と成り、「長篠の戦い」で敗退し、この「秀郷流青木氏」を頼って神奈川と栃木に逃げてきます。
この「諏訪族青木氏」の一部が、更に「越後の秀郷流青木氏」を頼って更に逃亡したのです。
これ等の「秀郷流青木氏」と「諏訪族青木氏」は更に血縁し、「酒造業一族」が「絆」で結束して「越前の助け」を受けて始めて成功します。

「青木氏の記録」や多くの記録に遺る様に、関ヶ原の敗戦で室町の大名であった「青木一矩・八万石」や「青木忠元・四万石」等の多くの一族を含め逃げ延びて、融合し、この「越前の融合族」が越後境に伸び、越後も越前境に伸びて行きます。
そして、この二つは「四掟制度」で更に融合したのです。

お家は、「1の青木氏系の融合族」です。
そして、間接的に「2の青木氏とも血縁族」なのです。

但し、「前田家の家臣と成った青木氏」は、「越後の大郷氏」であった「秀郷流青木氏」の一部が「酒造業」で富を得て、その経緯より「前田家の戦略(地元の勢力を固める為)」で「家臣と成つた事」は知られています。
多くは、「大庄屋・郷氏」です。

来場記帳の件に付いては、当時、江戸期の商人の多くは元は武士か郷士が殆どで、従って、明治維新では、「身分」として書き込まれるところは「商人・平民」と書き込まれます。
「武士の場合」は「士分」として記入されます。

ところが、「平民」と記入されても江戸期末期までは「商人」で在り乍らも姓も持ち、且つ、死んだときの「戒名」は「武士の戒名」が着けられ、「大きな郷士や郷氏」であれば「特定の先祖の寺(菩提寺・檀家寺)」を持っていたのです。
「庄屋」は、殆どは、「武士」の一段上の格式を持つ「郷氏・大きな土豪」で大きな「土地の地権者」でもあったのです。
「農民。庶民」には、上記の戒名や寺や庄屋などに成るこの慣習を認められていませんでした。

お家は維新時には既に、この慣習の中で持っていた事に成ります。
「戒名」の詳しい名が判りませんが、「庄屋」などを務めたとしている「武士出の商人」であったとすれば、「院殿居士」の着いた「格式のある戒名」が出来た筈です。
そして、それには「通名」を読み込んでいる「戒名」に成ります。
その「戒名」で宗派も家柄も族性も判るのです。
「武士」でない「戒名」としていますが、「明治期の戒名」より江戸期の少なくとも享保期位まで遡った戒名が確実です。

江戸期は「密教」は無く、全て「顕教」に統一されましたので、「菩提寺」は無く、且つ、氏族で無ければ「菩提寺」は持てませんし、大名並みの相当な財力で無ければ許されませんでした。
「顕教寺」ですよ。
「庄屋や商人」であれば尚の事です。
「全青木氏」は、奈良期から平安期中頃までは元より「越前の青木」は「神明社の神道」が多いのです。
その後、平安期初期頃に朝廷より「皇親族」として「菩提寺」も持つ事を許されて五家五流の定住地に「清光寺」として各地に創建しています。
従って、平安期初期からの「越前の全青木さんの菩提寺」は、この「鯖江の清光寺」と成り、現在の「鯖江市本町三丁目にある寺」が「菩提寺」と成ります。
これがお家らの昔のご先祖の「菩提寺」なのです。
現在は、江戸期の「顕教令で密教」では無く成り、「顕教の檀家寺」と成っています。

尚、「越前」の「青木氏の守護神・神道」は、次の所にありますので清光寺と共にお尋ねに成ると良いでしょう。
現在名 「質」を行っていた神明社
1 坂井市三国
2 敦賀市松島
3 鯖江市新町
4 池田町松ケ谷
5 越前町小曽原

以上です。

此処がご先祖たちを導いた「神明社」の在った所です。
「清光寺」や「神明社」がお家の「ルーツの源元」と成つた所です。

次に家紋ですが。この「家紋」とするのが、「丸に木瓜紋」は江戸期からの家紋とされるものでしょうか。
庶民は明治期以降で無ければ家紋を持つ事は許されず在りません。
この「木瓜紋類」は、そもそも「青木氏族」には余りない家紋類なので、これを先ず確認する必要があります。

更に、寺の宗派は「天台宗」としていますが、何時の時に入信されたのかが問題です。
それは江戸期の戒名を追い一番古い人の戒名から確定されます。
何故ならば、青木氏族の裔系は、原則、「密教浄土宗の白旗派・原理主義」でした。
室町幕は、法然の浄土宗の中の14派の中でも「極小派の白旗派」を「浄土宗の本筋」として決め、これを「知恩院派」として認定したのです。
この「皇位族の清光寺」の「白旗派の貫主の青木氏」を「律宗族」と定め特別に擁護しました。
従って、越前では「鯖江の清光寺」の「浄土宗」で統一されている筈です。

恐らくは、江戸期の「250年間の間」に、この伝統を失った「何らかの事」が興り、天台宗に帰依した事に成ります。
天台宗は平安期の初期では「密教」でしたが、平安期中期頃から「顕教の姿勢」も取り、これが宗の中の派によっても強弱が異なります。
お家の派は顕教性が強くした派です。

普通は伝統は捨てませんが、多分、武士や郷士の立場を捨て、「酒造の商い」に邁進した事に成りますね。
上記の「越前の青木氏」との「伝統慣習仕来り掟」の違いがあるので、「越前の酒造業」を続ける中で、「一族との立場を変える事」が興ったのではないかと考えます。
ルーツの唯一の密教菩提寺の「鯖江の清光寺」が全く忘れ去られている事が気に成りますし、更に「神明社の伝統」も失われていますね。

「越前」には江戸期に幾つかあった村は消えましたが、未だ「沢山の青木氏」が定住していますが、少ないとしているのは江戸期に「言い伝え」などのこの「繋がり」が切れている事に成ります。
この事が明治期まで引き継がれ、「明治期の入信」と成ったのではと考えられます。
「村」も消えている事ですので、その原因は「繋がり」が薄く認識され「融合族と云う宿命」であった可能性が有ります
従って、「明治期の宗派」は「ルーツ」には関係が有りません。

兎も角も、上記の通りで、「越前青木氏」は「融合族」で有りますので、「完全な系譜」を造り上げる事や「系列を追い求める事」は難しかと思います。
実は、「越前青木氏」には「神明社の神道の家筋の人」が多かったのです。

「越前の青木氏」は、上記の「四掟制度・ある一定の身分格式の中で血縁する掟」により過去に於いては“「融合族」”で、何れにしても間接的には「青木氏一族」です。
尚、サイトでは「個人の系譜の特定」は個人情報を公的に公開する事に成りますので出来ません。

詳しい内容はサイトの論文をお読みください。
尚、質問や判らないときは遠慮なくお尋ね頂きご先祖のルーツの経緯を深めて行ってください。
では、お便りをお待ちしています。

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