先ず、青木氏の家紋は合計121家紋もあります。
主要紋は次の通りです。
1 皇族賜姓青木氏の「笹竜胆」紋 (5家5流)
2 藤原秀郷流青木氏の「揚羽蝶と副紋つき」紋と「梅鉢と副紋つき」
この青木氏は9氏あり計116氏家があります。(116家紋)
( 丹治系青木氏も「丸に揚羽蝶と副紋つき」)
3 足利氏系青木氏(土着足利氏と賜姓青木氏との血族氏)
足利氏系(青木氏を含む)、この一門は二つ引両紋を用いています。
引両紋には34もあり新田氏など名家の家紋として用いていまして、足利一門の中でも名家の青木氏は足利氏と同じ”丸に二つ引両紋”です。副紋は有りません。
笹竜胆と同じで二つ引両の文様の一部を変化させる方式です。呼び名は同じです。
4 武田氏系青木氏(土着武田氏と賜姓青木氏との血族氏)
「割菱紋と副紋つき」と「花菱紋と副紋つき」
「葉菱紋と副紋つき」(主要2氏あり。)
5 土岐氏系青木氏(土着土岐氏と賜姓青木氏との血族氏)
「桔梗紋と副紋つき」
直流と支流合計青木氏121氏の家紋の中には貴方のお家の家紋が見つかりません。
ただ、貴方のお家の家紋は「三つ矢の丸に鷹の羽」と云うもので、
この矢紋の家紋は武家の紋に用いられたもんですが、いまだ家紋を確定できないほどに一般武士の家紋である為に多くの紋(100程度)があります。
その中で、この「三つ矢」紋は室町期に使われた紋で、松平深溝氏が用いた家紋ですが、中央部の部分はその一族の出自を表すものとされています。
例えば、「三つ矢の丸に花菱」の家紋の場合は、中央の花菱は武田氏の支流の血筋を持つ氏とされます。
したがって、貴方のお家の家紋の「三つ矢の丸に鷹羽」の鷹羽は松平氏と白須氏系の支流の血筋を持つ氏と観ることが出来ます。
このことから、内と外の文様からともに「支流松平氏系血族の武士」であつたと見られます。
そこで、貴方のお家の青木氏は121氏の青木氏にありませんので、なんらかの理由にて青木氏に名乗り換えしたものと思われます。
その理由としての史実があります。1200-1230年台頃に。
その史実として、1200年頃に近江から美濃等に移動した氏で青木氏を名乗った一族があります。
元は近江の国の甲賀に住まいし、上山氏と名乗る家紋も持たない下級武士がいましたが、源平の乱にこの者が功績を立てて美作守家頼となり、大変に出世して近江の青木庄に移り住んで、身分に合わして青木と名乗り換えしました。(本来は使用禁止姓)
近江青木氏は上記の皇族賜姓青木氏と賜姓佐々木氏との血縁にて発祥した氏です。
(賜姓とは皇子が天皇から氏を与えられて臣下する事)
この上山氏、即ち変名の青木氏は下から出世したので、元々家来が有りませんので出来る限りの縁者関係を集めて家臣団を当時の慣習として作ったのです。
1150-1200年頃は、従って、まだこの時期は全ての者が家紋を持つという事ではなく、持たない一般の武士の者が多かったので、一族の縁者関係も家紋は定まっていなかった筈です。
その後、この者は一族の者たちを引き連れて美濃をはじめ10以上の各地の守護を務めて戻りました。(1203-1230年頃)
この時に、美濃守の時に主に付き従って後、この血筋の持つ者が此処に定住した氏と見られます。
(美濃には現代も末裔が存在し、その一部が後に移動)
(ご指摘の備後などの土地は主家が1230年以降までに[鎌倉期に]移動したもので、貴方のお家の後の移動先はこの10以上の土地外ですので、後に移動したものと思います)
この一族の血縁族が甲斐や越後などの10の転勤の土地に残留した者が多いのです。
従って、重複する土地の者との血縁にて家紋が変化して、松平深溝氏系の一族となり、家紋を「三や矢の丸に鷹羽」としたのであると推測されます。移動の少ない故に少ない家紋となるのです。
この一族の主は出世したときに家紋を「丸に揚羽蝶と木文字」としました。従って、貴方のお家を始め一族関係は主に統一した筈ですので、元の家紋はこの紋所であり、この者の宗派は元は下級武士ですので、曹洞宗か臨済宗等の一般武士が入信する宗派でした。
しかし、出世したときに地位と家柄を誇示誇張するために浄土に宗派換えしたとされています。
(当時の慣習から守護職になると宗派換えする)
この影響を受けていて、全ての武士が家紋を定め始めた時(1350-1400年頃)に末裔も少ないこと故に、実情に合わせて変更したものと考えます。(多いと一族の家紋全部を変更する事は不可能)
この主の家紋は10以上も転勤したので直系の縁者が比較的に存在します。貴方のお家は変更が出来た故にこの支流の一族であつたと思われます。
家紋とか青木氏とか史実とか当時の慣習とか考慮すると上記の結果と成ります。
何でもご質問があればお尋ねください。