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  [No.1107] 長島さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/01(Wed) 17:16:33

投稿がエラーと成っていましたので、代理投稿します。



> はじめまして。
>
> 私は茨城県県南地方に住んでいる長島と言います。
> 昔は長嶋姓を名乗っていたようです。
>
> 先祖やルーツについて調べている時に、このHPを
> 拝見し、青木さんと昔は関係があったことを知りました。
>
> 場違いだとは思うのですが、ぜひお力をお貸しいただけないでしょうか?
>
> 家紋は丸に桔梗です。宜しくお願いします。


  [No.1108] Re:長島さん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/02/02(Thu) 14:56:26

> 昨日、投稿がエラーと成っていましたので、代理投稿します。
>
>
>
> > はじめまして。
> >
> > 私は茨城県県南地方に住んでいる長島と言います。
> > 昔は長嶋姓を名乗っていたようです。
> >
> > 先祖やルーツについて調べている時に、このHPを
> > 拝見し、青木さんと昔は関係があったことを知りました。
> >
> > 場違いだとは思うのですが、ぜひお力をお貸しいただけないでしょうか?
> >
> > 家紋は丸に桔梗です。宜しくお願いします。



長島さん 今日は。始めまして。これからも宜しくお願いします。

ようこそお越し頂きました。

さて、先ず、お家は、何時頃から茨城にお住まいですか。

お便りは、昔は長嶋さんでしたとの事ですが、元は全て「永嶋さん」です。
この「永嶋氏」が武蔵から各地に赴任して「現地孫」を残し、その「現地孫」が地域に依って見分けられるように「永嶋氏」から「長嶋氏」、「長島氏」と変名します。
薩摩の先端まで各地の豪族と血縁氏にてこの一族は広がります。

この一族の元の「永嶋氏」は、奈良期の頃から元祖は「結城地域」から発祥しています。

そして、その「永嶋氏」が「藤原秀郷流兼行系の主要五氏」と成って、その勢力を拡大します。
詳しくは、ルーツ掲示板か研究室に極めて詳しく掲載していますので参照してください。

そこで、概要ですが、この「主要五氏」は「二つの流れ」に分かれます。
秀郷より四代目の「兼行系」と「文行系」に別れ、「兼行系」には青木氏、永嶋氏、長沼氏の三氏、「文行系」には「長谷川氏」、「進藤氏]に分かれます。

この「主要五氏」は、「青木氏族」と云われます。
この中でも「永嶋氏」は、一時、”「関東屋形」”と云われ、関東域から中部域まで、北域では、陸奥域(現在の青森ー仙台間まで)までその勢力圏に収める程に大勢力を張りました。

この「永嶋氏」は奈良期の結城氏の末裔で「永嶋氏の元祖」です。
この「元祖の結城氏」は,奈良期には朝廷の土木建築の専門の官僚で指揮を執っていました。
「天智天皇」の時に、中国が攻めて来るという事で、山口から奈良までの山陽道を敷きましたが、この工事が結城氏に依って行われたのです。現在の山陽道です。
その技術的レベルは現在にも劣っていないと成っています。
ところが、この「結城域」は「平家」に依って奪われてしまいます。
鎌倉初期まで奪われたままで、そこで、「藤原秀郷の宗家末裔の朝光」が、頼朝に味方して、その戦功で結城を本領安堵を願い返されます。

ここに、「藤原秀郷流永嶋氏」が、この「遠祖地の結城」に定住するのです。
「結城永嶋氏」として全国にその勢力を拡げます。

その勢力は西は美濃までとして、そこに一族を配置して固めます。
それが、伊勢に拠点を設けますが「伊勢長嶋氏」です。
この伊勢には、「秀郷流青木氏」と一族の「伊勢藤氏の伊藤氏」と配置して、「伊勢藤氏の長嶋氏」で固めていたのです。

この「中部域の永嶋氏族」は、「長嶋氏」として呼称する事に成りました。
この一族は、五年に一度は武蔵と結城に帰ります。
この為に、結城にも、末裔の「伊勢長嶋氏」が遺る事に成っていたのです。

この「伊勢長嶋氏」は勿論の事で、「秀郷流青木氏」や「伊勢伊藤氏」との同族血縁や、「二つの伊勢青木氏」とも血縁したのです。

この「伊勢長嶋氏」は、遂に中部に勢力を伸ばしていた「信長との決戦」に及び、伊勢の「二つの青木氏」や「伊藤氏」も「伊勢長嶋氏」を助けますが、「伊勢長嶋氏」は敗退して何とか「結城」に帰ります。
恐らくは、この時の関東に逃亡して結城に辿り着いた末裔と考えられます。
この時、筆者の「皇族賜姓臣下族」の「伊勢青木氏」は、「二足の草鞋策」(200万石の豪商)を敷いていて、影で「伊勢シンジケート」を使って出来たばかりの「戦いの出城」を焼く等、また「織田軍の物資調達」の「妨害買い占め」をしたりして、「ゲリラ戦」で山道の物資の輸送の邪魔をしました。

その後、秀吉の時代に成り、未だ関東と東北北陸域に勢力を持っていた秀郷一門361氏を代表する「永嶋氏」は、秀吉と激しい戦いに成ります。
秀吉は、先ず結城の弟が治める「陸奥の白河結城氏の永嶋氏」を攻め落とす事に成り、秀吉は軍を自ら率いて攻込みますが、白河の永嶋氏の抵抗を受けて中々攻める事が出来なかったのです。
そこで秀吉は、結局は「無理攻め」をして3000人以上と云う戦死者を出します。
ところがここで秀吉に大変な事が起こります。
それは、「伊勢長嶋氏」と縁籍で同族の伊勢の「秀郷流青木氏の青木主膳」が「白河結城氏」を救う為に軍を出して背後を牽制したのです。
「結城永嶋氏の宗家」は関東を固めなくてはならない事(秀吉の戦略)から軍を出せなかったのです。

伊勢の「二つの青木氏」にはその「賜姓五役の立場」から”古来より武力を使わない事”に成っていたのです。
ところが、これで「秀吉の計算」が狂い思いがけないところから軍が背後に迫ったので、「挟み撃ち」で全滅する事に成る軍様と成って、「秀吉」は慌てて、北陸の道なき道を逃げ延びて大阪に戻るという事件が起こったのです。
これは秀吉が敗戦した唯一の戦いでした。
この以後、秀吉は秀郷一門との戦いを止めて講和する事に成ったのです。

注釈として、この事が原因と成って家康を関東に追いやればこの煩い秀郷一門と揉めて徳川氏は衰退するだろう見込んだのです。
衰退したところで徳川氏を討ちとる戦略でした。
ところが、徳川氏は、この秀郷一門361氏全てごっそり家臣にし旗本と御家人にしたのです。
其れも、上級の官僚として雇ったのです。
そして、遂には一族に秀郷一門の「女系の血筋」を入れて自らも「藤原朝臣徳川の家康」と名乗ったのです。
その前は、偽の「源氏朝臣」と名乗っていたのに急に「藤原朝臣」としたので、地域の大豪族であった秀郷一門は揉め事も無く、むしろお家などの力が中部域まで及んでいたので、いざと云う時は各地の秀郷一門が動くとして以前より強く成って仕舞ったのです。
秀吉の大失敗で、これで命運が決まったのです。

従って、この「戦い」でお家等の永嶋一門の「長嶋氏」は結城地区で生き残ったのです。

そもそも「秀郷一門361氏」を指揮していたのは「第二の宗家」と呼ばれた「秀郷流青木氏116氏」です。

そもそも、「青木氏族」と呼ばれた根拠は、「女系の血縁」のみならず、「円融天皇」の時、「皇族賜姓臣下族の青木氏」が、「青木一族」の「嵯峨天皇の詔勅」に依り「皇親族」から外され衰退し、「賜姓五役」と云う「朝廷の役目」が出来なく成りかけていました。
それを憂いた「円融天皇」が、「将門の乱」で功績のあった地方の藤原氏の秀郷に「貴族の格式」を与える代わりに、秀郷宗家一門の第三子を永代に「青木氏」(始祖 千国)に任じて「皇族賜姓臣下族」と「同格の格式身分」(従四位以上 公家以上の身分)を与え、天皇から特別賜姓を受けました。
そして、「皇族賜姓臣下族の青木氏の補完役」を命じたのです。
それで、再び、「賜姓五役の役目」は動き出したのです。

「皇族賜姓臣下族の筆者の伊勢青木氏」とは、「秀郷流青木氏」とは母方で繋がる縁籍関係にあり、この「秀郷流青木氏」と同族の「秀郷流永嶋氏」とも血縁関係にありました。
まして、「伊勢の長嶋氏系一族」とは、筆者の「皇族賜姓臣下族の伊勢青木氏」とは女系で繋がっています。

追記として、「長島氏の発祥」は、「元寇の役」の際に、九州博多に軍を秀郷一門主要五氏は送りますが、九州全土にその力を古来より持っていた「大蔵氏」と血縁をして、「大蔵氏系永嶋氏」が九州博多域で発祥します。
この「大蔵氏系永嶋氏」が九州中部日向で勢力を持っていた「大蔵氏」と血縁族と成っていた「肝付氏」とも血縁して、「大蔵氏族肝付氏系永嶋氏」が発祥し、この「永嶋氏」が「島津氏」と血縁して、更に「肝付氏族永嶋氏系長嶋氏」が、更に、この「長嶋氏」が「島津氏」と更に血縁して「長島氏」が発祥したのです。

「肝付氏系長嶋氏」は、薩摩の東の大隅の隼人に、「島津氏系長島氏」は西の長島地区に住み分けました。
これが「長島氏の発祥源」です。
従って、九州には永嶋氏と長嶋氏と長島氏が在るのです。

さて、次ぎは「家紋」との繋がりですが、上記した様に、中部域には平安末期には「土岐氏」が勢力を張っていました。
この「土岐氏の家紋」が「桔梗紋」です。
ところが、「源平合戦の富士川等の戦い」でこの「土岐氏」は勿論の事、「五家五流賜姓臣下族の美濃青木氏」と「土岐氏」と血縁族の「土岐氏系青木氏」(桔梗紋)も完全に滅亡します。
この「土岐氏系青木氏」(桔梗紋)は「伊勢長嶋氏」とも血縁していたのです。
ところが、「伊勢長嶋氏の分家筋」には、男子跡目が無く二代続きで養子を「土岐氏系青木氏」から求めます。
結局、この「土岐氏系青木氏」の血筋が濃く成り「家紋掟」に依り、「土岐氏族青木氏系長嶋氏」と成り「桔梗紋」と成ったのです。
その後、この「土岐氏族青木氏系長嶋氏」が子孫拡大を図り、分家が増え分家を示す「丸付き紋」の「桔梗紋」が発祥します。
「丸付き紋」に成るにはいろいろの場合がありますが、その一つとして「妾子」の嗣子の場合は本家が認めない限りは「丸付き紋」を使う事に成ります。
恐らくは、お家は結城地区に戻っているという事は、この「桔梗紋の分家」を起こした「妾子の嗣子」の子孫と観られます。

当時は、「青木氏」を含む永嶋氏一門には、その格式から「掟」が有り子孫を確実に引き継ぐために、「妻嫁制度」と云う制度があって、「后妃嬪妾」の妻の制度があったのです。
「嬪」と「妾」は「丸付き紋」に成るかは「宗家の意志」による可能性が有ります。
「永嶋氏」は、本来は総紋が「下り藤紋に副紋付き」です。

お家は、この制度と男系跡目の二代続き養子により、「土岐氏族青木氏系長嶋氏」の子が「丸付き紋」に成った末裔なのです。

つまりは、平安期に滅亡した「土岐氏の血筋を持つ長嶋氏」と云う事です。
彼の有名な明智氏もこの「土岐氏の傍系」で何とか生き残った桔梗紋です。
お家は、ご先祖は平安期の早い段階で、この「土岐氏系族」と血縁していた分家と云う事に成りますので、「伊勢長嶋氏」の中でも分家でありながらも「由緒ある立場」にあった事に成りますね。
だから、妾子であって丸付き紋であっても「結城域」に戻れたと考えられます。
普通は、「現地孫」と成るのが普通です。

だとすると、筆者の「伊勢青木氏」とはかなり早い段階で女系で血縁関係を結んでいた事に成り得ますね。

「青木氏族」と云われる所以は以上の事に依ります。
念の為に、「桔梗紋」とすると奈良期からの「近江佐々木氏」とも血縁している事にも成りますね。

以上が、お家の由来ですが、詳細は研究室の論文やルーツ掲示板のお便り等でお家の由来は判ると思います。
相当な資料ですので、ゆっくりと時間をかけてお読みください。
都度、判らないところは、遠慮なくお尋ねください。

恐らくは長嶋氏マニアに成ると思いますよ。