管理人様
早速のしかも、ご丁寧なご返答ありがとうございます。
青木一貞の6人の男子という説は無い可能性が高いですね。
以下ご意見を頂いた上での思ったことです。
1、戸籍見直しました。申し訳ございません。
該当の人の筆頭に「同村」の指示語があり、現西宮市発行の戸籍なので武庫大社村かと思いました。
しかし、古い書き方の原戸籍で元の在籍地、実際には広島の能美島を指していると考えます。
2、1、のことから、古川が武士の家系とすれば、戸籍上の広島の能美島には維新直後移動したと考えます。
すると、青木の方は既に戦国末から定住している可能性があります。または、能美島は一時小早川隆景から与えられた水軍の村上氏の領地であり、これについてきた青木の可能性があります。(近くでは伊予の青木は足利流という話もあるようですが?)
また花房正興の後裔は存在せず、その系は途絶えているようです。その他の女子4姉妹は父来島氏、母鳥居氏ですが、
3名は早くに亡くなり、1名は播磨高家松平広寿の嫁となり、ここから2代で来島氏、母鳥居氏両方の血を
引き継いだとは考えにくいです。(但し、正興には花房外記正興という別人もあると旗本の辞典にあります)
さて当家の伝承ですが、
a,花房氏、b,来島村上氏、c,熊野権現鳥居氏の血を引き継いだ。また一族の名の構成が一、重、興、国、吉、皆、その他3氏の縁の地名の言葉で名前ができていることから。c,との血縁説は仮冒だと思います。家のつながりのみでしょう。何故なら、古川家と、青木家の子どもにはc,を表現する名前は皆無です。その後の世代になって初めてc,が登場し不自然です。
a,ついては美濃時代の花房氏と交流のあった青木氏(伊予と同系でしょうか?)から、b,については、能美島は一時小早川隆景から与えられた水軍の村上氏の領地であり、これについてきた青木氏から受け継いだというのが私の仮説です。この系に維新後移動してきた古川氏が加わります。戸籍上に後に村上氏と血縁の河野氏と、また血縁にある山野井氏に嫁にいったりしています(他は諏訪氏、阿倍氏等です)
3、1827年生まれの青木の娘と結婚した夫の古川の家紋は丸にオモダカです。美濃○という名を持つ祖母の女紋は「八重向こう梅」で母もこれを譲り受けています。家紋辞典によると花房氏は三つ雁金紋や梅鉢紋を使っていたようなので、関連性はあります。梅鉢→向こう梅→八重向こう梅と3回は変化しているので、美濃花房氏からは何回も分家や婚姻があったと仮説しています。
4、伝承では青木氏も花房氏も美濃で斉藤道三の斉藤家と関わりがあるようです。先祖は斉藤道三を大変尊敬しています。藤原北家利仁流の青木も絡んでいるでしょうか?
5、過去帖はどこかに残っているのでしょう。しかし、母方祖母の系は疎遠で移動が多くかつ籍の移動が多く期待できません。しかし、古川家は明治末の摂津の他家の古文章にも登場し、小さな家ではなかったのは判ります。
6、岡山は旗本花房氏の領地で近くには麻田藩の領地があったようです。何かここにも関係がありそうです。
よろしくお願いいたします。
東京の仁太郎
> > はじめまして、東京に住む仁太郎と申します。お世話になります。
> > 私の母の実家は古川氏といい、岡山の花房国興の後裔といわれており、江戸時代後半は村上水軍の後裔でもあるためか広島のある島に移り住んでいます。村上、鳥居、板倉の流れといわれています。そのことがわかるように各氏の祖先の名や縁の地名から名前ができています。