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>埼玉県行田市須加地区出身の長島ですが、
>家紋は丸隅立て四つ目、お寺は曹洞宗です。
>藤原秀郷一門と繋がりはありますでしょうか?
埼玉の長島さん 今日は。
始めまして。これからも青木サイトを宜しくお願いします。
長島さんは藤原秀郷一門主要五氏の一つ青木氏、永嶋氏、長沼氏と長谷川氏、進藤氏(五氏 計361氏)があり、中でも前三者は、始祖の秀郷より4代目の兼行系で「青木氏族」と呼ばれます。
秀郷一門の「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏」とは最も縁籍関係が深く、「青木氏116氏」が定住する地域には必ず「永嶋氏一族」が存在する程でした。
「秀郷一門の秀郷流青木氏」は、「皇族賜姓臣下族の五家五流青木氏」と共に「朝廷が認める護衛軍団」で、その役目は天皇を近衛で警護する軍団として、又、「五家五流皇族賜姓族の補完役」(賜姓五役)として「円融天皇」から特別に賜姓を受け「青木氏」を永代で名乗る事を許され、身分や格式や官職官位は同格の最高位で、且つ、その役目を義務付けられたのです。
秀郷一門の「宗家の第三子」(始祖は千国)が、必ず「補完役の青木氏の跡目」に問題が出た場合は「青木氏跡目」を継承する事を義務付けられました。
そこで、「青木氏族」の「永嶋氏族系」は25氏(全35氏)から成り立つていて、定住地は青木氏とほぼ同じ地域です。
長谷川氏と進藤氏は、四代目の文行系で、この「皇族賜姓臣下族の補完役」を補佐する立場にあって、「青木氏への跡目」を出していた為に「青木氏族」とも云われます。
中でも、「永嶋氏」は、「関東屋形」と呼ばれ、「永嶋氏一族」は秀郷一族一門の中でも「青木氏」につぎ最も古く、「秀郷一門の奈良期の古巣の地」の「由緒ある結城」を任されていたのです。
従って、「永嶋氏の宗家」は「結城永嶋氏」と呼ばれ、「結城の地」は一時は平氏に攻め執られていて、鎌倉期直前に秀郷一門の宗家が取り戻します。
ここを「永嶋氏」の宗家が護り、「永嶋氏一族のルーツの地」とも成ります。
さて、そこで「お家の長島氏」ですが、この上記した「青木氏族」の「永嶋氏」には、「永嶋氏と長嶋氏と長島氏」との三氏が在ります。
この「ナガシマ氏」には、この呼称でそのルーツが解る様に成っているのです。
お家の「長島氏」には、永嶋氏一門に仕える一団の中で、ある二つの理由で名乗る氏名です。
それは、一つ目には、家臣団の中で、「永嶋氏」と女系の縁籍関係を持った者の末裔が名乗る氏名が在ります。
その、二つ目には、永嶋氏一族にその職能で永代に仕える者の集団の中の「長」に与えられて名乗る氏名です。
お家の長島氏は、二つ目の氏名の「長島氏」なのです。
それは、そもそも「永嶋氏」は、奈良期の元より”「結城」”の名の通り、土木や建築などを司る技術集団で、現在で云えばゼネコンの官僚族でした。
この「ゼネコン官僚族」で、家臣団の殆どは、この”「永嶋氏部」”と云う「技術集団」に所属し、この「長島氏」は”「永嶋氏部」”と云う集団を取り仕切る由緒ある「頭領」の血筋で、「永嶋氏」とは直接、間接的な何らかの縁籍関係にあった者等の宗家から与えられる特別な誉れ高い呼称の氏名でした。
そして、”「永嶋氏部」”と云う特殊な技術集団を持つ「結城永嶋氏」は、奈良期から「朝廷の技術者集団の役人」を担っていました。
その技術レベルは、現在でも技術的に全く劣っていないとされ、天智天皇が中国の脅威から国を護る為に山口から京都に敷かれた「古代の山陽道」(京までの緊急情報伝達手段も含む)を敷いたのは、お家らの「永嶋氏等の結城一族」です。
現在の夜空を美しく飾る「花火」も、この情報伝達手段の一つとして「狼煙方式」と呼ばれて、「花火の形や色や煙の具合」等でこれで情報を京に伝えていたのです。
これを開発したのがお家らのご先祖の長島氏なのです。
現在でも、この「古代山陽道」の一部が遺されていて技術的には現在の「土木工学」や「建設工学」や「材料力学」や「冶金工学」に劣っていない事が証明されています。
現在でも、「狼煙方式」もそうですが、通用する超本格的な土木工学がベースに成って出来ています。
つまり、土木、建設等の技術が得意とする「珍しい総合技術氏」です。
こんな「技術氏」は他にはありません。
然し、かと言って、武力的にも陸奥で「白河の結城永嶋氏」が直接に「秀吉軍団」と戦って惹けを採らなかった珍しい有名な強力な一族で、お家の長島氏等が裏で支えていたのです。
と云うのも、「陸奥白河の結城永嶋氏」やお家の「長島氏」らを始めとして、「永嶋族」は、互角に戦い、秀吉軍団の背後から「関東屋形」と呼ばれた「下総の結城永嶋氏」が深い縁籍関係にあった「伊勢の青木氏族」の援助を受けて秀吉の背後を攻めかかり、秀吉戦績の中で唯一、何と「獣道」とされる「商人道」の「新潟道」を一目散に逃げ帰った「有名な陸奥白河の戦い」と云うのが在ります。
この秀吉を逃げ帰らしたのには、”「結城族」”であったからです。
城や堀を造る専門集団や高い科学技術を持っていたからで、「技術工作術」が高く、何が起こるか判らなく怖くてまともに攻められなかったのです。
その結果、秀吉は判断を誤り「無理攻め」して歴史に残る大戦死者を出してしまいます。
以後、秀吉は以後、深く反省して、攻める時は、この様な「技能集団」を家臣団に抱えて「中国攻め」に入ったのです。
「高松攻め」等に観られる様に、武力は最後の手段にしたのです。
これが後に「秀吉の強み」に成ったのです。
豊臣家が滅亡してからは、これを観ていた家康は関東に居た秀郷一族一門をごっそり基礎の家臣団にし、御家人や旗本に据えたのは家康なのです。
この「技術者集団の名乗る氏名」が「長島氏」なのです。
そして、この「長島氏の氏名」は、古式豊かに継承されて行く徒弟制度の中で引き継がれて来たのです。
取り分け、「埼玉の行田」に住していたとすると、「秀郷一門の慣習仕来り掟」から、その「技術集団の頭」に当たる家筋の末裔である筈です。
そこで、これらの「技術者集団」は、「永嶋氏部」ですので多く在りますが、家紋と宗派で細かく判別する事が出来るのです。
お家の家紋は、「丸隅立て四つ目紋」で、お寺は曹洞宗ですね。
当に、その地域が歴史的に有名な「職能の町」の「埼玉の行田」で、奈良期から平安期には「鉄鋼」で周囲が栄え当時の遺跡も遺されて、更には河川路、排水路、池沼の灌漑工事は取り分け発達していた町です。
江戸期には、「当時の殖産の機械化」が得意とした街で、特段に進み栄え、足袋等を機械産業化して発展した町で有名です。
「キュウポラの町」としても有名な「浦和」と共に「工場町」としても栄えた町です。
これは、この「長島氏の技術集団の御蔭」なのです。
(筆者は13年間埼玉に住んでいた経験があります。)
家紋が「隅立て四つ目結紋」と云って、秀郷一門が自ら抱える「職能部の長」に氏名を与えて伝統的に継承させる時に使うのが、「丸隅立て四つ目紋」の「結文様」なのです。
この「結文様」の隅に「職能の印」(お家の場合は丸)を入れて、お家がどの様な職能の持ったお家かを解る様にしていたのです。
お家の文様は、中でも取り分け、青木氏と関係を深く持った家紋です。
秀郷一門には、近江系秀郷流佐々木氏や青木氏が在りますが、この流れを受け継いでいる長島氏なのです。
秀吉との白河の戦いで「伊勢の秀郷流青木氏」が援護しましたが、「伊勢の秀郷流青木氏」は近江の秀郷一門が伊勢の青木氏の跡目に入って居た事から援護に入ったのです。
つまり、上記のルーツの通り何らかの血縁関係があった事を如実に示しています。
伊勢にも「伊勢の長嶋氏」が居たのです。
そして、この「職能紋の目結の結文様」の「家紋の者」は、秀郷一族一門の徒弟制度に従っていましたので、宗派も統一して曹洞宗なのです。
秀郷宗家一門は浄土宗、家臣団は浄土真宗、技術集団は曹洞宗と分けていました。
「技術の武士」も含む「職能の人」はこの「曹洞宗」に入信しています。
「青木氏」では「技術集団」は「青木氏部」と云い、その「氏部」の「徒弟制度」は、”「御師制度」”と云う組織で出来ていた集団です。
詳しくは調べていないですが、「永嶋氏」も「青木氏族」として「御師制度」(おし制度)を敷いていたと考えられます。
伊勢で育った吉宗が、秀郷一門を家臣団にした御家人や旗本にした江戸幕府に敢えてこの制度を敷いたのです。
何故、曹洞宗かと云うと、「永嶋氏の永嶋氏部」の宗派は「曹洞宗」で、それは禅宗で座禅などで技術者と成るにはその「精神の悟りの有り様」等を唱え、その様な「技術の徒弟」に理解のある宗派でした。
恐らくは、情報が少ないので確定は出来ませんが、お家は、この家紋と宗派と埼玉である事から、「長島」を名乗る事を許された「職能の者」で、そして一団を取り仕切る長の「職能武士の家柄」のお家に成るのではないでしょうか。
青木研究室や青木ルーツ掲示板等で、検索を使って昔親族であった人からのお便りも在りますので、お読みください。
「丸隅立て四つ目紋」の長島氏の大変珍しいお便りで驚きました。
研究室にも論じています。
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先ずは、藤原秀郷一門の「永嶋氏の職能集団」の当にその長島氏の家柄でした。お答えまで。