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  [No.1089] 川崎の青木です
     投稿者:青木裕実   投稿日:2016/03/28(Mon) 15:52:27

先祖代々川崎に居住する青木です。
叔父が調べたところによると、間宮一族と一緒に山中城で戦い、山中城の落城に際して川崎まで落ちのびたとの事です。笑いながら金子が無くなって、多摩川を渡れなかったと言っていましたが、間宮一族の領地である川崎に落ち着いたものではないかと考えています。
お寺は横浜鶴見区の宝泉寺です、お墓は青木寺と呼ばれていた西運庵です(現在は、青木姓以外のお墓も多数ありますが…)。ちなみに、本家は現在17代目です。
家紋は丸に木瓜で、西運庵の他の青木一族のお墓も木瓜系が殆どです。
山中城までは辿れたのですが、それ以前はどうなのかを知りたくて、アドバイスをお願いします。


  [No.1090] Re:川崎の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/03/29(Tue) 10:29:19

川崎の青木さん 今日は。始めまして。
これからも宜しくお願いします。

サイトには、青木氏に関する情報が満載しています。
膨大な資料ですので、ゆっくりとお読みに成り、不明な点や質問が在りましたらお便りください。
又、他に、ちょっとした情報が在りましたら、お便りください。
意外にその様なちょっとした情報にお家の歴史が隠されているものなのです。

さて、サイトには「お家の事」も詳しく記載されていますよ。
お家のこのお便りの事は、有名な戦いでしたから、お家の事は直ぐに判りました。

北条氏と豊臣氏の最後の戦いで、小田原の支城として山中城の山城は間宮氏等が護っていた処です。
ここの城には、「信濃の諏訪族」の諏訪族青木氏の守護神とする「諏訪神社」がある所です。
「諏訪族青木氏」が定住するところには必ず、「諏訪族の守護神」の「諏訪人神社」があります。

関東地域では35、その中で神奈川地域では15、埼玉北部地域では6、在ります。
中部地域では20、その中で長野地域では12、も在ります。

お家の守護神の山中の諏訪神社も関東域の一つですし、神奈川の15もお家の本家筋のものです。

この「諏訪族一門」には、「信濃皇族賜姓族青木氏の血筋」を持つ筆頭格の「諏訪族青木氏」(1)と、この一族と「武田氏」との「血縁族」の「武田氏系諏訪族青木氏」(2)と、この「皇族賜姓族の甲斐青木氏」と「諏訪族の血筋を持った武田氏」とが血縁した「諏訪氏系武田氏族青木氏」(3)が在りますが、この「諏訪氏系武田氏族青木氏」と「諏訪族青木氏」が血縁した「青木氏族」の「青木氏族武田氏系青木氏」(4)の中で「諏訪氏族の三氏」が存在して居ました。

この諏訪三氏は「同族血縁族」です。
信濃が武田氏に攻められ信濃甲斐下野を含み武田氏の支配下になりますが、この武田氏が滅び、この「諏訪三氏の青木氏」は神奈川横浜に定住していた「藤原秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びました。

一部の「武田氏系諏訪族青木氏」は、「越後」の「秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びます。

この時、「皇族賜姓族」の支流の「武田氏系甲斐青木氏」は甲斐に入った徳川氏の配下に入り、武蔵の鉢形に一族が移動させられます。
武蔵北部の下野上野の守備を担当します。

そこで、この「諏訪族青木氏」等の諏訪三氏の内、一部が「藤原秀郷流青木氏」の「入間の宗家の青木氏」の依頼により「栃木と仙台」に隣接する域の守備の為に北部に移動します。
そこで秀郷一門の「北の護り」を致します。
ここで、この「諏訪三氏の諏訪族系の青木氏」は、勢力を再び固め拡大します。

残った諏訪三氏の一族の一部が、後に北条氏に間宮氏と共に味方してこの山中付近に移動定住します。
ここに一族の守護神の諏訪神社を建立するまでに成りました。

「武蔵の間宮氏」(間宮氏は本来は近江が元祖出自地です。)とはお家と血縁しています。
北条氏が滅び、この城は廃城と成りますが、この時、お家は再び、横浜神奈川の本家筋一族を頼って川崎に移動したのです。

「間宮氏の川崎」では無く、逆の現象が起こったのです。

お家の逃亡先の本家筋(横浜神奈川域圏全域に分布)に間宮氏を引き連れて戻ったと云う事に成ります。

後に間宮氏もお家と血縁して共にここで勢力を拡大したのではないでしょうか。

お墓の青木寺の西運庵ですが、このお寺には過去帳がある筈ですので、この「川崎での経緯」や[間宮氏」との関係も判る筈です。
他氏もあると云う事ですが、これは、江戸初期の顕教令と明治初期にも廃仏希釈運動が起こり、青木寺にも他氏の墓を作る事に成ったのです。
然し、この他氏の墓の一部には、お家との古い関係を持つ他氏の墓所もある筈です。
つまり、「青木氏族」の墓所が必ずある筈です。
つまり、「諏訪族の三氏の青木氏」が、母方の一族の跡目が絶えたので青木氏の子供の嗣子の一人に「母方の跡目」を継がすと云う事が起こるのです。

要は青木氏の嗣子であるので、「青木氏の寺」の中に他氏の母方氏姓の名がある事にも成るのです。
1600年前頃の墓であれば、先ずこのパターンだと思います。

この「神奈川横浜」に逃亡した「諏訪三氏」の内、お家は「武田氏系諏訪族青木氏」(2)と成ります。

「木瓜紋類」を家紋としているのは、「武田氏系諏訪族青木氏」に成ります。
家紋には「諏訪族」は、「総紋]を持たない「姓族]では無く、朝廷より認可された「氏族」ですので、「氏の総紋」が在って、 「諏訪氏族の青木氏の総紋」の「四角の抱き角紋」が「総紋」と成り、これに支流化すると「家紋」が出て来る事に成ります。
お家はそれが「木瓜紋類」であったと成ります。
お家の「氏族の総紋」は「四角の抱き角紋」なのです。

後の[諏訪二氏」は、「諏訪族青木氏」(1)の「総紋」と「家紋」が同一の「笹竜胆紋」で、「皇族賜姓族の総紋」です、
「皇族賜姓族」は本来は純血性を保つべき「賜姓族の掟」が有りますので「家紋」を持ちません。
つまり、「総宗本家筋」の「諏訪族青木氏」で「皇族賜姓族の宗家筋」です。
「諏訪氏系」の本家筋の「四角の抱き角紋」の「青木氏」と、「諏訪族の総紋」の「立梶紋」を引き継いだ「青木氏」と成ります。

「青木氏」とは、そもそも、「皇族第四世族]の「第六位皇子」に与えられる「特定氏名」で「五家五流皇族賜姓族」にしか「天皇が出す命令の詔勅」に依って使用を認められていません。
近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の国の王と成った一族が名乗れる事が出来る氏名です。
信濃の諏訪族は、この「信濃王」の末裔と血縁した母方に「土地の豪族」の「諏訪族の血筋」を持つ「信濃王の末裔(青木氏)」なのです。


では、江戸初期には、お家の「武田氏系諏訪族青木氏」の本家筋一族は徳川氏に仕官して150石の旗本と成った事が判って居ます。
これがお家のルーツです。

依って、神奈川横浜川崎の域圏が「第三の故郷」ですが、元の出自は「第二の故郷」が「甲斐西部域」で、更に「第一の故郷]は「信濃の諏訪湖西部」です。

ここがお家の本当のルーツの故郷です。
夫々の「移動定住先」で子孫を拡げ現地本家を造り拡大してきました。
移動先で子孫を拡げ現地の本家と守護神の諏訪社を建立するまでに勢力を吹き返すのには,「諏訪族の赤兜」で有名な「強い結束力のある頭の良い氏族」であったからです。

だから徳川氏は各地の諏訪族を積極的に家臣にしたのです。

「信濃諏訪湖付近」に行きますと、オーイと呼びますとハーイ答える程のお家の最古の御先祖の青木氏の多い所です。

更に奈良期に進みますと、筆者の青木氏と繋がります。
お家のルーツは日本書紀にも出て来る程に奈良期からの「皇族賜姓族の一族」で「天智天皇」や「天武天皇」の「皇子の末裔子孫」に繋がり、その元祖は「信濃王」と成ります。

更に云うと、お家の「母方の最古の御先祖」は、中国の後漢国の第21代「献呈」の孫の「阿知使王」とその子の「阿多倍王」の子孫に繋がります。
更に、この「阿多倍王」で探ると、「平の清盛」に繋がります。
更に、母方で探ると「桓武天皇の母」に繋がります。
この「桓武天皇」を探ると筆者の「伊勢青木氏」とも繋がります。

そもそも「諏訪族」の元祖は、隋の国に追われて中国後漢の国から「大陸の大型馬」を大和の国に持ち込み、放牧をして「信濃」を開拓して生活を始めたのです。

これらの事は「日本書紀」と「累代三代格明鑑」に記載されていますよ。

お家の詳細は資料もはっきりしていて研究室に記載しています。
ルーツ掲示板にはお家の元親族の方のお便りが多く在りますので、そちらも、「諏訪族青木氏」の献策で引き出し関係する事から次第に広げて行って先ずお読みください。

サイトの献策を使って関係する処の論文からまずお読みください。

それで、質問等ありましたらご遠慮なく、このReで専用欄としますのでお尋ねください。