>前田さん寄りのお便り。
>初めまして。とても驚愕しております。私は伊勢商人とりわけ射和商人を知りたく射和商人にも青木氏が関係が有れば詳しく教えていただけたらと思います。宜しくお願いします。
前田さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
「松阪商人」の「紙問屋青木長兵衛(総合商社」)の処でお読みに成ったと思いますが、ありがとうございます。
さて、早速ですが、「射和」(いざわ)は{伊勢松阪の南域}に位置し、玉城との川を隔てた北側の処にある古い町並みですね。
筆者も伊勢松阪が出自で良く存じているところです。
筆者の先祖は、奈良期の古来よりの定住地で、室町期末期は伊勢松阪の武家屋敷町の9番地から11番地に住んでいて、主に「伊賀和紙等を扱う総合商社の紙屋」でした。
要するに、925年頃から「二足の草鞋策」で、{伊賀和紙関連の品}を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には「朝廷よりの許可」にて「朝廷の余剰品の販売」を925年頃に「商い」を営み、更に、1025年頃には「豪商」と成り、歴史にも出て来る位の「商い」を営んでいました。
そして、室町期には「室町紙文化」に依りこれらの「殖産」から「巨万の富」を獲得しました。
この「流れ」に乗り、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方指導」をし、「吉宗」に同行しての「享保の改革」にも参加してその「伊勢商法」を活かしていました。
この江戸時代には、三重の伊勢き「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「商人」が多く輩出されました。
伊勢の「御師制度」と云う「職能集団の組織制度」を幕府に吉宗はこれを採用しましたが、この制度は、元は「伊勢神宮の職能集団の制度」で、「伊勢神宮の皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「神職」などはこの「御師」(おし)により選ばれます。
「青木氏」はその「首魁の御師」で、この組織を「江戸幕府の職能集団」に適用して組織を纏めました。
これも「青木氏からの提案(江戸の伊勢屋出店)」に依るものでした。
特に、江戸時代には、この{伊勢松阪}は、「吉宗」が育った土地で「青木氏(吉宗育ての親 経済的背景)」と「加納氏(吉宗の付人役)」が「吉宗」のバックと成って将軍に育てました。
「青木氏の伊勢屋の紙屋」と共に、「加納氏の加納屋等」の豪商が出ました。
一方で、紀州藩は、「伊勢青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、「伊勢青木氏の指導」の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて多くの殖産を進め、「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」等を作り出し、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功しました。
特に、「吉宗」はこの事に学び、そしてこれに「商法の力」を注ぎ、この商人等を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図りました。
伊勢には、江戸期に紀州藩の指導の下で、「松坂組」と[射和組」とに編成させて経済を活性化に成功させたのです。
「松阪組」には、「青木氏や加納氏」、「射和組」には、「玉置氏や富山氏や国分氏」等が中心と成って繁栄させました。
櫛田川を挟んで、射和の南側の玉城(現在の玉城氏)の全域は、「青木氏」が地権を持つ地主で、その全域は「伊勢紙屋の蔵群」と「職人の住宅地」として成り立っていました。
この状態は、祖父の代の明治35年まで続きました。
ところが、明治35年に筆者の家から失火して「松阪の大火」に成って仕舞いました。
この時、折しも風が強く、その風向きの影響でこの川沿いの間近まで類焼したと聞いております。
この時、「射和地区」だけは免れたと聞いていますが、この為に現在も「古い商家の街並み」が遺されているのです。
「松阪の北側」は消失してしまいましたので、商家の街並みや作業長屋群は消えて仕舞いました。
この「射和地区」も含めて、本家の全財産を投げ売って賠償したと聞いています。
その為に、「本家筋の商い」は倒産をしました。
大阪にも堺と摂津にも店が在りましたので、ここを拠点として出直しました。
現在も、この松阪には親族が住んでいます。
そこで、「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は直接的な血縁的関係には無いと聞いています。
唯、「射和組」には、「醤油」も手掛けていて、この「醤油」は、紀州湯浅地区が生産地で、この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移したと聞いていますので、この「湯浅醤油」の「玉置氏」とは、「筆者の家」とは二度も縁者関係にあった事は判っています。
この意味では、「青木氏とは繋がり」を持っているのですが、富山氏や国分氏との繋がりは伝え聞いていません。
恐らくは、「吉宗の御側用人の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在った事が関係から判ります。
この「加納氏の加納屋」とは本家加納氏からの出であり、過去には何度も血縁関係を結んでいます。
筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成りますが、加納氏本家から嫁いできています。
その意味で、間接的な関係にあった事は否めません。
「射和組」の商いは、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の肝いりで殖産したのですから、「女系」では確実に繋がっているとは充分に考えられます。
と云うのは、「松阪組」の「伊勢屋の紙屋」は「紙関係」は勿論の事、リサイクル骨董品などまでの「総合商社」を営んでいましたので、地元の「伊勢醤油」、「伊勢陶器」、「伊勢氏白粉」、「伊勢軽紛等」も扱っていた事は間違いはないと考えますし、その様に資料と共に証明できます。
何らかの資料記録関係のものが越されていれば良いのですが、今は充分とは言えず少なく成っているので、確実には辿る事が出来ないのです。
古く奈良末期から、土地の「郷士との関係」を持っていた事は確認できていますし、この「伊勢郷士」との血縁関係を掴めていますので、「青木氏」を背景にこの「郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っています。
「伊勢郷士集団」とは古くから親交が有って、「青木氏の末裔」が「家人」に成って、これらの「郷士族」と血縁していました。
依って、これらの「伊勢郷士」は「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していましたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であった「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えます。
「江戸期の商人」の元は殆どがこの伊勢の「郷士」でありました。
ところが、江戸初期にある事があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っています。
その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」が扱っていた事も判っています。
恐らくは、記録にあるこの時の事が「射和組」として編成されたものと観ていました。
この射和組には、「伊勢郷士衆」と、後から加わった「紀州門徒衆」の「二組の流れ」がありました。
「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の古来からの藤原氏で、この地に定住していた氏です。
その始祖は、「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たります。
この「末裔の方」が書いた本には、この「射和商人の事」が書かれています。
実は、この伊勢の「伊藤氏本家」とは、筆者の「伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は従兄弟として承知しています。
この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知しています。
ところが、如何せん、筆者の先祖の遺品にも確証とする証拠は見つかりません。
「陶器」等にも何か遺されている事もあるかも知れませんね。
依って、本サイトでは筆者も一切触れなかった事柄でした。
思いがけない御投稿でしたので、実の処は驚きました。
「伝統シリーズ」では、既に、一部ではこの事に触れてはいますが、もう少し研究してみたいと思います。
その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考えます。
お家の前田氏とは、どの様な関係にあるのでしょうか。
何か、お家にも情報が在りましたらお知らせください。
当方でも資料から割り出して観たいと思います。
残念ながら、系譜と添書が明治35年の出火で消失してしまいましたので、曾祖父や祖父の遺した忘備録での確認と成りますので、不充分で関係が現在では最早、掴め切れません。
現在これを復元中です。
では又、お便りください。