増田と申します。私のルーツを調べているうちにこのHPに出会いました。
私の実家は明治初期まで群馬県桐生市新里町新川というところにありました。
明治維新で没落し、祖父の代で栃木に移ってしましましたが、先祖代々の墓は群馬にまだあります。
除籍謄本によれば、江戸末期江戸の旗本から養子をもらっており、身分には士族と書かれていました。
家系図等文書では残されておりませんが、父や叔父の話では、いつ頃の昔の話か分かりませんが、
赤城山南麓の広大な領地を支配していた聞きます。子供のころの話なので、大ぼらを吹いているのだなと
ほとんど関心はありませんでしたが、父が亡くなった今少しずつ調べはしめているのですが、下記のことが
分かりつつあります。
・先祖代々の墓は江戸初期(一番古いもので寛文3年 1663年)から江戸末期までのものが
現存しております。
・家紋は「丸に抱き茗荷」です。
・除籍謄本によれば、江戸末期江戸の旗本から養子を迎えている。身分は「士族」となっている。
・しかし群馬の新川という場所は城下町ではなく、武士が住んでいたとは思えないので、いわゆる
郷士だったのではないかと考えている。
・父や叔父の話では(言い伝えなので真偽は不明)、いつの時代か知らないが、赤城南麓の広大な
領地を支配していたと聞く。
・除籍謄本での住所は、南勢多郡新川村66であり、淵名荘と新田荘の境界争いをしていた「早川」
という川沿いの西側(淵名荘側)である。江戸時代からの墓は、お寺ではなく増田家の敷地内にあった。
場所は家と同じ早川沿いの西側で、住居の新川66から北に約2km行った早川沿いの西側。
・祖父の妹の話では、子供のころ(明治時代)家の近くの「天神山」というところでよく遊んでいた。
この山は中世期、五輪塔の良質な材料としてよく使われたいた。
・群馬県に太田市にお住いのある個人所有の家系図に「藤原姓益田(増田)氏家系略記」という
ものがあり、ルーツは藤原秀郷と書かれているようです。この家系図によれば、秀郷の流れを汲む
大胡氏が築城されたとする大胡城は、実は秀郷流藤原姓益田(増田)氏の先祖が築城したと記されて
いる。(もちろん真偽は不明)。彼の子孫が横瀬国繁の時代、大胡城を攻められ、岩松、横瀬氏が
支配する太田金山に引き取られたということらしいです。
ということで、家紋の「丸に抱き茗荷」では秀郷の流れを汲んでいる可能性があるような気がするのですが
、横瀬氏との関係では新田氏のような気もするし、よくわかりません。
いずれにしましてもいつの時代にあの地に住み着いたのか(少なくとも江戸初期には住み着いていた)
、私のルーツは誰なのか?知りたいですね。
是非とも青木さんのご見解をお聞かせ願えませんでしょうか。宜しくお願い致します。
増田