※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
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Re: 群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/03/15 (水) 20:46
追加ですw家の近くには諏訪神社という神社があります。
群馬の青木です。
上州の青木さん 2006/03/15 (水) 19:58
群馬にすんでいる青木です^^家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です^^ですが実際のところ…どこの血筋かわかっていません(親もわからないw)宗派は真言宗です^^;(お寺が真言宗だからw)よろしくお願いします。
Re: 尾張の青木です
青木研究員 さん 2006/09/26 (火) 11:21
尾張の青木さん 今日は。始めまして。
青木サイトに良くお越し頂きました。
さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、頂きました情報ですが、少ないこともありますが、次の事が検証出来ます。
先ず、尾張のお住まいのところには4つの流れの青木氏が住み分けています。大変青木氏の多いところです。
その前に青木氏の由来を記します。
青木氏には主に2つの流れの青木氏が存在します。
1つは皇族賜姓青木氏です。5家5流24氏あります。
詳細は研究室の「皇族賜姓青木」のレポートをお読みください。
大まかに、天智天皇の第6位皇子が臣下(侍に成ること)して天皇より賜姓(氏を直接に賜る事)を受けて青木氏と名乗りました。
日本の最初の青木氏です。
この天智天皇から5代の天皇がこの第6位の皇子に臣下させて賜姓を授けました。
5代の天皇とは天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人です。
この5代の皇族賜姓青木氏は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの国の守護として任命しました。伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成りその子孫が青木氏を引き継ぎました。
この青木氏の任務は天皇を自らの子供に守らせる親衛隊です。
此れは天智天皇の大化の改新での反省からです。
蘇我氏が権勢を我が物顔で振るまい天皇を脅かす存在と成り、中大兄皇子と中臣鎌足とが蘇我入鹿を倒して天皇家をまもりましたが、この時、天皇家には軍事と経済と政治の3権を蘇我氏に牛耳られて象徴的存在で有りました。
この反省で、先ず軍事的に自らを守るだけの信用の置ける護衛隊が必要と考えて第6番目の皇子を天皇の王位継承権を外して臣下させて侍とし氏を与えました。此れが青木氏の始まりです。
次に経済的な負担を軽減するために皇族に掛かる費用が莫大であったので第4番目までの皇子に皇位継承権を与え皇子とし、第6番目の皇子には親衛隊として任務を与えました。第7番目以降の皇子には下俗(一般化する)させて天皇家の菩提を祭る僧侶などになりました。
其れまでは第6世までを皇族として扱い第4世までを継承者の権利がありました。
つまり、4世方式から第6位皇子方式に変更しました。
天智天皇は子供が34人もいてそれに皇族関係者がいましたので大変でした。
此の方式は嵯峨天皇期(光仁天皇より2代後)に正式に詔を発しました。
此れが皇族賜姓青木氏です。
大化の改新で中臣の鎌足は天智天皇から藤原氏の賜姓を受けました。
藤原鎌足です。この8代あとの藤原の秀郷が「平将門の乱」を鎮めた功績で武蔵の国と下野の国(埼玉と栃木)を授かり貴族の称号を授かりました。
この時、貴族になりましたので軍事はつかえませんので、第3番目の子の千国に天皇家の青木氏に習い、朝廷より許可を受けて青木氏を与えて侍にして藤原氏自らを守る護衛隊を編成しました。
(嵯峨天皇のときに青木氏は皇族以外の者が使用することを禁じました。その代わり第6位皇子は源氏と賜姓することになりました。11代続きました。)
この藤原氏は主要5氏で兼光系では青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流では進藤氏、長谷川氏です。
この内の青木氏が、此れが藤原秀郷流青木氏です。直系1氏、直流4氏、支流4氏の9氏から成り、116氏までこの青木氏は広がりました。
この藤原秀郷一門は皇族賜姓青木氏とは母方の藤原氏で繋がっています。
藤原氏で見ると一族です。伊勢青木氏を除き。
この二つの青木氏があります。(室町期と江戸初期、明治初期の混乱期に庶民が青木氏を名乗った第3の青木氏があります)
さて、お家の事ですが、家紋が「丸に違い鷹羽」ですので安芸国の浅野家の流を組む藤原秀郷流青木氏です。
つまり、藤原秀郷一族の者が朝廷の命で各地に赴任します。この時に護衛役として付き従ったのが藤原秀郷流青木氏です。
この赴任地は全部で24国あります。(66国)
藤原氏の戦略としてこの青木氏は赴任地に土地の豪族と結び付きを強くするために必ず子孫を残してきました。
此れが各地の藤原秀郷一門の116氏にもなる青木氏です。
氏姓制度の中で男系の継承が出来ずに土地の豪族から養子を迎えて世継ぎとしましたが、更に男系が出来ずに女系となり家紋は家紋掟により養子先の家紋となつた青木氏です。
元は綜紋は「下がり藤紋」です。
この芸州には3箇所から藤原氏一門が移動定住してきています。
讃岐から阿波から滋賀からです。
家紋掲示板の2Pの鷹の羽紋のところ、地名地形データーの岡山と広島のところのレポートをお読みください。
お家はこのどれの一族かは今の情報ではわかりません。時代が江戸期のものですので困難です。もう少し戻る何か情報があればつかめますが。
しかし、讃岐、阿波の藤原秀郷流青木氏一族から見ると足利を通して滋賀から移動してきた藤原秀郷流青木氏ではないかとも思えます。
藤原秀郷流青木氏は埼玉の入間を中心に神奈川横浜までの距離を半径に円を描く範囲にこの青木氏の本家筋の116氏が存在します。
そこで、この名古屋付近の青木氏ですが豊田、丹波、渥美、高浜の4つの地方に村を形成して済み分けていました。地名地形の所をお読みください。
藤原秀郷の一門の詳細は「藤原秀郷一族の生き方」のレポートをお読みください。お家の古いルーツの行動などが良く判ります。
系譜はインターネットで藤原秀郷ルーツでお調べください。
東と南は藤原秀郷流青木一門、西は皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏、北西には土岐氏系青木氏(賜姓美濃青木氏との血縁族)、北東には足利氏系青木氏(賜姓信濃青木氏との血縁)から成っています。
このなかの青木氏の中に安芸国の藤原秀郷流青木氏としてお家が入っています。
何はともあれ元祖は藤原秀郷でその第3子の千国であり、秀郷より4代目の兼光系青木氏で後の行久ルートの末裔です。116氏にも拡大しています。
宗派の情報はこの土地に住した藤原氏としては浄土真宗で一致しています。
本来は浄土宗です。浄土宗は大変高位な家柄の氏にしか入信を認めていませんでしたので少なく、各地に赴任した藤原は浄土真宗に入りました。
やっと、江戸時代に入り、幕府が奨励して増えたのです。
先ずは上記のレポートをゆっくりとお読みください。
ご不明な点とかご質問があればご遠慮なくお尋ねください。
また、一寸した事でも結構ですからあればルーツが更に開けてきます。
お便りをお待ちしています。
尾張の青木です
青木さん 2006/09/26 (火) 05:21 [ メール ]
愛知県名古屋市近郊に住む青木です。家紋は丸に違い鷹の羽紋で宗派は浄土真宗です。私が住んでいる一帯はかつては大脇村とよばれたところで青木という家が密集しています。曽祖父より前のルーツがわかりません。ぜひお願いします。
Re: 栃木の青木
青木研究員 さん 2006/09/24 (日) 21:54
栃木の青木さん 今日は。大変お久しぶりです。
2つ疑問を持たれたとのことですが、良いところに気がつかれました。
先ず1つ目のご質問ですが、次の様な事になります。
鹿角紋には二つに分類できます。
1つは「抱き角紋類」です。
この紋は勿論お家の諏訪族の紋様です。
この紋様は12あります。
2つは「鹿角紋」です。
これは近藤氏の氏の紋様です。
藤原氏の家紋ですが近江に定住した藤原氏です。
抱き角紋より新しい家紋の氏で松平清康の共で狩りに出て、「上がり藤紋」の近藤乗直が鹿の角を引き裂いたとのことでその武勇を褒めて「鹿の角」を家紋とすることを命じられたもので以後その一族が使用したものです。
「抱き角紋類」には角の数を5つと4つと3つの3種のものがあります。
通常、5つの角紋を持つ抱き角紋としては主要紋で宗本家筋の家紋です。
(家紋集では4つは5つと同紋として扱われる場合がある)
5つの角数の抱き角紋には「抱き角紋」(総宗本家)「丸付き抱き角紋」「陰抱き角紋」「石持ち地抜き抱き角紋」「抱き角に一つ巴紋」「抱き角に日足紋」「隅切り角抱き角紋」の7つです。
5つの角数の場合が主要紋であるので「4つ又」とは云いません
直流分派の家紋類です。
4つの角数の抱き角紋には「4つ又抱き角紋」(抱き角紋と分類しない場合がある)「細抱き角紋」「違い抱き角紋」の3つです。「4つ又」と呼ぶ時は角数が4つです。
支流分派の家紋類です。
3つの角数の抱き角紋には「細輪に三つ又抱き角紋」「変わり抱き角紋」
の2つです。
支流分派の家紋類です。
後は、藤原一門の近藤家です。(藤原氏には四家4流あり、南、北、式、京の4つです)
参考 北家の藤原秀郷の一門としては文行流の進藤氏と長谷川氏です。
諏訪族青木氏はこの総宗本家の5つ角の抱き角紋の血筋の家柄一門の中にて皇族賜姓青木氏の血筋を持つ特別の立場にあった氏です。
これ等、5つの角数の抱き角紋を中心にして12の抱き角紋から諏訪族は構成されており、これが有名な赤兜の軍団を構成していました。
武田氏が滅びこの赤兜の軍団は徳川氏や多くの大大名に仕官しました。
お家の諏訪族の青木氏一族はこの時、横浜神奈川から栃木まで逃げ延びて旧来の藤原秀郷一族をたよって2つの地域に定住したのです。
お話だとご先祖のあるそのお墓にあつた家紋類は長い間の歴史の中で上記の一族の支流分派の諏訪族と血縁を結んだお家の縁者であります。
ですから、お家は総宗本家筋の青木氏ですから全体としては少ない可能性もあります。
そこで、先ず4つ又抱き角紋の4つの角数のそのお墓の青木氏の集まりの中でのお家のお墓の位置がどのような位置に存在したかをお調べになる事も意味があると思います。
墓の構えが男墓(本墓)と女墓(女の戒名ばかりを書いた墓石がある)に分かれていなかつたかも思い出して見ることも必要です。
(賜姓族の青木氏の宗家の墓は家柄から古来よりこの形を採っている)
多分、この4つ又抱き角紋の青木氏以外にも支流分派の青木氏も存在する筈です。氏家制度の中で家柄の吊りあいを重んじた時代ですので少ないかも知れませんが。
12紋様の中でも宗家に相当するお家であるのでどのような家紋集にもありますが、この支流分派の家紋類は普通の家紋集では掲載されていない可能性もあります。(四つ又抱き角紋だけは同門扱いもあり)
次に、この賽銭箱の家紋が「4つ又抱き角紋」であるとしてこの寺は諏訪族青木氏の菩提寺であり、この寺の住職は分家筋の4つ又抱き角紋の青木氏であるかあったかを意味します。
甲斐の諏訪地方から移動してきた「抱き角紋」(5つの角数)を宗家とする諏訪族青木氏は諏訪神社と共に菩提寺を建立したものです。
菩提寺があることの意味は、また諏訪族が、(ほかの抱き角紋の紋様類を家紋としている青木氏以外の他の氏姓を持つ末裔も多く存在する中で)諏訪族青木氏の一族が挙って集団で移動してきたことをも意味します。
他の氏姓の諏訪族(縁者関係のある)も数は少ないが同行している可能性もあります。
合わせて菩提寺があるくらいですから栃木にも多くの青木集団が移動した事をも意味します。横浜神奈川と同じ程度に。
5つの角数を家紋とする一つの単位の本家筋を中心に分家筋が行動を共にしていた事にも成ります。
四つ又抱き角紋の栃木の青木さんたちはお家とはかなり近い親族関係であったことを意味します。
そうすると、どちらに宗家の「抱き角紋」の青木氏が多かったのか、
どのようにして分けたのか、
青木氏以外の上記の家紋類の諏訪族も同じにして移動していたのか、
との疑問も出てきます。
(私は神奈川横浜地域の青木氏が資料より主であったことと考えていますがこれほどのものとは思いませんでした。)
「抱き角紋」(5)と「4つ又抱き角紋」(4)の青木氏以外にも他の10の「抱き角紋類」との血縁をした少ないかも知れませんが青木氏も在る筈です。
私の研究では4つの青木氏が検証済みで確認されています。ただし「4つ又抱き角紋」は分類せずに「抱き角紋」として扱つかっていますが、家紋掲示板を参照して下さい。
兎も角も又一つルーツの詳細が確認出来て広がりましたね。
賽銭箱のような一寸した事がその事からわかってくる事があるので面白いですね。
来月、観光で上諏訪に行く予定です。
諏訪族青木氏のことが色々とわかってくるので研究の検証の参考になり面白いですね。かなり検証があって合っている様です。
又、ちょっとしたことでも判りましたら又お便りください。
楽しみにお待ちしています。
浜の青木さん お元気ですか。
先ず、お尋ねの件ですが、いくつかありますので順次ご説明いたします。
第1番目の過去帳の件ですが、皇族賜姓青木氏系24氏の一族は皇位の家柄であるために、室町期の下克上と戦国時代にほとんどは壊滅的な打撃を受けました。
又この様な家柄という事に対する反発もあり、焼き討ちに逢い宝物、家伝のもの、系譜、由緒書きやステイタスと成る物、ついには菩提寺や青木氏の神社などが焼失してしまいました。
したがって過去帳は昔の戸籍簿ですがなくなっているのが殆どです。
先ずは、江戸の中期ぐらいの過去帳しか有りません。
江戸中期と言うのは安定期の文化の栄えた時期でしたので此処からは大方の過去帳は残っているのです。
つまり、自分の家は皇族賜姓青木氏の武田系青木氏であると言う事がわかっていても又、言伝えがあっても証明する物は到底ある事などありません。命を守るのが精一杯でした。
其れと男はこの戦乱で跡目の多くが無くなり、男系の継承すらままならなかったのです。そう云うことから言い伝えそのものも途切れると言うことが起こったのです。
ですから判るところから江戸初期ぐらいから初代として扱い、家系譜を造るということが起こりました。
しかし、家の氏名と家紋と宗派程度は他の親族がいるために継承することが可能ですので青木姓と家紋と宗派は残ったのです。
次ぎに第2番目の横浜の件ですが、神奈川郡横浜から伊豆地方までには実は青木村が3つあり、この皇族賜姓青木氏の3つの氏が住み分けて存在しています。
西端の伊豆地方には平安期にはこの地方には清和源氏総宗本家の源頼光系が入り、一族の守護地でした。
此処には、この頼光系の血筋を引いた皇族賜姓青木氏(伊勢青木氏の支流)が定住しています。
この地の墓には全て笹竜胆の家紋がありこの墓石は青木氏のものです。
神奈川郡の横浜付近西よりには甲斐の武田系青木氏の一族が定住しています。
この一族は二つに分けられます。
一つは甲斐を兄の頼光から守護職を譲り受けた頼信は此処を基盤として東に勢力を伸ばしたのです。
4代後の源の義家や義光などの頼朝や義経の先祖が関東を制圧して此処を拠点として藤原秀郷と同盟して東北から北陸地方へと勢力を伸ばしました。
この時に付き従ったのが甲斐の武田氏系青木氏です。
したがってこの一部にはお家の諏訪族も含まれいるのです。
大体は付き従うのは分家筋の子孫がつき従います。
青木氏の宗家や支流の本家筋は確実に子孫を残すために地元に残るのが慣例でした。
ですから、先ずは此処に入る親族を頼ると言うことが起こったのです。
又、隣には藤原秀郷流の血縁を持つ青木氏がいますので逃げ延びるには格好の場所でした。(母方は藤原氏)
この青木氏には天皇から「不入不輪の権」が与えられてあり、これを破って東に信長は討伐に勢力を伸ばす事には背後を突かれるということもあり、且つ、この藤原秀郷一族とこの青木氏とお家の武田系青木氏それに伊豆の頼光系皇族賜姓青木氏がいますので無理というものです。
まして、伊豆と横浜との中間には頼信の東制に従ったお家等家元の甲斐の皇族賜姓青木氏の皇族賜姓青木氏が村を形勢しています。
この3つと藤原秀郷流青木氏と秀郷一族がいるところに信長は入れません。
したがって、此処が甲斐武田系諏訪族の青木氏の逃げ延びる最本拠地なのです。
更に東の奥に入れば縁者が少なくなるのですが、信長の勢力はより届かないところと成ります。
味方の縁者が多くいるところを選ぶか、より信長の勢力が届かないところを選ぶかの選択です。お家のおずか紋の一族の青木氏は子孫を確実に残すには両方に分けた方が確実です。其れは信長の比叡山攻めの印象や、武田氏の壊滅作戦や、東本願寺攻めの激烈な殲滅作戦から考えて、青木氏も例外ではないとしてこの様な選択をしたのでは無いでしょうか。
第3番目の戒名の件ですが、高位の皇族賜姓青木氏系の血筋を引く一族にはつぎの仕来りがありました。
それは、墓には男墓と女墓とがありました。
つまり、男系を主としていますし、妻には4階級のものがあり、皇后(本妻)、后(きさき)、妃(ひ)、優、と階級外に采女(うねめ)がありました。
これ等はその妻の実家の身分に寄ります。
皇位と高位であるので子孫を確実に遺すためにこの4つと一つの妻を認められていました。
よって、この者たちの女の墓は一つの墓に入れることは出来ませんので、妻の墓として「おんな墓」を作り、その横にその戒名だけの書いた大きな石碑を立てます。
当然、女墓があればその近くには男墓の本格的な大墓があるのです。
見られた墓は女墓であったはずです。
其れと、仏教では戒名が本当の名で、俗名は仮の名として扱います。
家柄の高位系の氏では昔は死ぬ前から官職を外れるとこの戒名で呼んでいました。江戸期から俗名に変わったのです。
筆者の伊勢の墓にはこの二つの墓があり、1年の宗教的行事には周囲と違う仕来りがありつい最近までこの仕来りをまもっていました。今でも少し違いがあります。
第4番目は光仁天皇の皇子の件ですが、先ず、第6位皇子の件ですが
その時の天皇から見て天皇の子供とその孫、天皇の兄弟の子供と孫を天皇の全ての子供とします。
そして、これをより高位の妻の子供から年齢に関係なく第1位とし続けて、次ぎに兄弟の子供として、これ等を並べて第6番目の子供を第6位皇子と呼び、この皇子から臣下します。
そして、この第6位皇子までを王と呼びます。この第6位王にだけ賜姓(氏名を天皇自ら与える。)を授け臣下させ侍として天皇の親衛隊とします。
そして、この第6位皇子(王)には青木氏としました。
第7位の元皇子は土地の名を採り氏名としました。
この第7位以降の者は天皇が代わるたびに、そしてその子供と孫が生まれるたびに順位が代わります。
世代で云うと、7位以降に関わらず第7世程度の者になりますから8世9世と下がります。この下がった一団は青木氏は名乗れませんので関東地方に移動して生活しました。
(この青木氏を名乗れる者は花山天皇までで全部で27人ですが実質18人となっています。名乗ったのは5人程度です。後は僧侶で終わったことに成ります。)
この一団のことを「ひら族」といいます。(平清盛の一族の「たいら族」とは異なる)
この集団を「坂東八平氏」と云い、鎌倉幕府の頼朝の後ろ楯となり2年後に頼朝はじめその一族を抹殺して鎌倉幕府を奪い取つた北条氏らの平氏8集団です。
この第6位皇子には各地の天領地の王として配置します。
これが伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王と成ります。
つまり、伊勢の青木氏、近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏です。
伊勢の青木氏は天智天皇の第6位皇子(施基皇子)が伊勢王となり氏名を青木氏として子孫を青木氏とした初代の青木氏です。
伊勢王は最初は天智天皇の敵の孝徳天皇の子供が伊勢王となりましたが、2年もしない内にこの王とその弟が同じ日に没します。そして、その直ぐ後に天智天皇の第6位皇子の子供の施基皇子が伊勢王に成ります。
この青木氏の祖の施基皇子は天智天皇の采女の子供です。
天智天皇には男女合わせて34人もの子供が居ました。内12人が男子の皇子です。この中には日本書紀を造った舎人皇子がいます。
施基皇子と川島皇子と大友の皇子と舎人の皇子(近親婚の弟)他にもう一人(近親婚の弟)がいます。
川島皇子は近江王となり、第7位皇子でしたが特別例外として賜姓を受けて初代の近江佐々木氏となりました。
伊勢青木氏は藤原系の血筋の無いただ一つの青木氏です。
他の4つは全て藤原氏を母方に持ち4階級の何れかの妻です。
この5つの青木氏のことを5家5流の皇族賜姓青木氏といい、天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人です。
この天皇の間には女性の3天皇が在位します。
この様な方式は大化の改新によりこの反省(天皇を自ら守る親衛隊がなかったことと皇子達の家を維持する経済的費用の節約からから実施しました。蘇我氏に専横を許した原因)から行いました。
この方式を聖徳太子のときまでは第4世皇位第7世王としていました。これを第2世皇位第6位王に変更したのです。世と位との違いです。
第4世はその天皇の孫の子供まで、その天皇の祖父の親まで、兄弟の孫の子までを皇位の者としたのでしたが、これを兄弟の子供までを一つの子供とし上位から数えて第6番目までの子供を皇子として王とする方式で、以降の子供は皇位を外れて比叡山や門跡寺院や皇位賜姓青木氏の寺社の仏門に入ると決められていました。
この方式は光仁天皇まで行われ、この後に光仁天皇の子供の桓武天皇がこの方式を嫌い別のこと(たいら族に賜姓で後の平清盛)をしました。
しかし、この子供の嵯峨天皇は元に戻して第6位の皇子を青木氏と賜姓するのをの源氏(16代続いた)とする事をきめました。
そして、青木氏は皇族から下俗や還俗する時の氏名とすることを嵯峨天皇の詔令により決めました。
この嵯峨天皇は世継ぎの問題が起こったために少し方式を変更して第4世皇位第6位王方式に緩めました。(5位はどちらにも付かずとする)
第5番目の光仁天皇の子供の件ですが、子供は桓武天皇ですが、その他の第6位以降の皇子の名はわかっていません。其れが今でも歴史家の研究課題です。何れは判明するでしようが、資料が無いためにまだ墓さえ判明していないのです。
光仁天皇は伊勢青木氏の施基皇子の子供です。したがって甲斐の青木氏は伊勢の青木氏とは同じ血筋を持つ同族です。お家と筆者は最も古いところで血縁族です。
施基皇子のことは日本書紀に18回も出てきます。最も多い人物です。この皇子は有史来の極めて有能な人であり、日本書紀によると当時の各地で起こる大問題を天皇に変わってすべてを解決しています。何でも施基皇子を呼び出して解決していることが克明に書かれています。お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。あげくには皇太子をさておき天武天皇の葬儀の責任者を務めています。天武天皇は兄の子供の施基皇子を自分の子供以上に可愛がっていることが書かれています。
天智天皇と天武天皇にも信頼されて皇太子より信頼されている様子が判ります。天智天皇や天武天皇の軍師役を演じています。
お家と伊勢の青木氏はこの皇子の血筋を引いていることに成ります。
伊勢青木氏は代々天皇家の軍略家として北畠氏と共に働き、秀吉との戦いに敗れるまでは務めていました。伊勢青木氏は1200年頃から「二束の草鞋作戦」を採り、一方では伊勢の豪商紙屋長兵衛としても名を馳せています。(NHKの大河ドラマにも3度もでてきました。余計なことですが、筆者の物の考え方もこの血筋の影響を受けている気がします。)
この時期の資料は殆どは日本書紀と古事記以外になく、歴史史書は戦国期の焼失などで判らなくなっています。
後は韓国の史書に日本の史書より詳しく載っている「日本世記」という史書があります。
この書いた人は大和の国の朝廷の行政指導をしていた人で韓国に帰って日本のことを書いた極めて詳しい日記を残しました
参考に、この時に施基皇子が伊勢王となって伊勢の青木氏を賜姓を受けた時の状況を詳しく書いており、この時にこの伊勢の青木氏の施基皇子に仏像を天智天皇は送ったと記されています。
歴史小説家の司馬遼太郎氏もこのことを調べてこの仏像の所在不明のことをかいていますが、実はこの仏像は1360年も続いている代々筆者のところにあります。
かなりの大きくきれいで保存の良い状態の仏像です。世間に出せば日本最古となるでしよう。
これが全ての5家5流の24氏の青木氏のステイタスです。
この時期の事を調べる事は国の専門家でも今でも研究しているのです。高松塚古墳群は誰の墓などと研究は続いています。
司馬遼太郎氏や黒岩重吾氏や山本惣五郎氏や松本清張氏などもかなり詳しくこの時期の事を調べていますので読んでみてください。
又、歴史写真マガジンなどの本もあり、各大学の専門研究家がプロの写真を添付して此処にその歴史的なことをレポートした本もあります。
筆者の経験からは室町期以後の史書は殆ど当てになりません。この時期の事は疑問をもち推測を立てて一つ一つを潰していくことの研究が必要です。
以上ですが、参考にしてください。
Re: 同じです!
K.Aokiさん 2006/04/03 (月) 01:31
青木研究員さん,お返事と詳細な解説ありがとうございます.
先日実家(同じ神奈川県内)に帰った際に,親戚がお寺の過去帳を元に作成した家系図というものを見ました.
それによると,過去帳に存在する一番古いご先祖は私から数えて12代前で元禄7年(1694年)に亡くなったようです.初代と書いてありましたが,これが実際に過去帳に書いてあるのか,家系図を作成した親戚が書いたのかは分かりません.
ということは,私のご先祖は信長から逃げた際に横浜に来たのではなく,16XX年頃に移動してきた可能性が高いと思われます.恐らくいったん栃木に逃げ延びた中から,江戸時代になって一部が横浜に来たのではないでしょうか.
ちなみに初代から7代目くらいまでは2種類の名前がほぼ交互に表れていました.家督を継ぐものは名前も継いでいたんでしょうが,区別が付きません.奥さんに至っては戒名だけで俗名が残っていないのはなんだかかわいそうでした.
とりあえずボトムアップ方式で300年ほど遡れることが分かりました.いつか光仁天皇まで繋がったら面白いですね.
本当の初代にあたる光仁天皇の第6皇子(皇位継承順でしょうか,第6子という意味でしょうか)の名前というのは判明しているんでしょうか?
Re: 同じです!
青木研究員 さん 2006/03/05 (日) 15:33
抱き角の栃木の青木さんのご親類の方 始めまして。
当サイトに良くお越しいただけました。
これからも同じ青木氏としてこのサイトでお会いしましょう。
其れとお答えが非常に遅れました事をお詫びいたします。申し訳ありません。
実は栃木の青木さんのところに入っていたので気が尽きませんでした。
昨日、管理人さんから指摘を受けておどろきました。
抱き角紋の青木さんは言うまでもなく栃木の青木さんと全くの縁者です。
皇族賜姓青木氏の血筋を引くお家の方ですので、私とは元は同じルーツに成ります。私は伊勢青木氏の総本家です。
既に栃木の方のレポートをお読みと思います。そこで信長との戦いで逃げ延びる時に一族の一部の方は大勢の一族がかたまることは好ましくない事から多分神奈川郡横浜にとどまったもので、他の一族は藤原秀郷一族がいる奥手の栃木に逃げ延びたのでしょう。
信長はこの地域まで戦線を伸ばす事は戦略上は出来ず、又戦いになる場合はお家のご先祖の勢いを再び高めることにもなり、この結果、藤原一門の結束が起こり余計に複雑にする事にもなり、尚且つ、背後を突かれる可能性がありました。ですからこの方向に逃げ延びることを選択したのです。
そして、万が一のことを考えて子孫を残す目的のためにも両端に分けたものと思われます。
武田一族は風林火山の下に強い軍であったことは知られ、徳川家康も大量に家臣にしています。
一部は伊勢の青木氏を頼りに逃げてきています。そして、伊勢の桑原地域に留まっています。伊勢青木一族は天皇の伊勢不可侵の令の保護を受けていましたので逃げる事ができたのです。
信長はこの令を守りましたが、武家の出ではないので秀吉は守りませんでした。
私の家も3つの青木城に籠り戦いましたが、秀吉の命を受けた蒲生氏郷に
負けました。
しかし、無敗の武将で学者でもあった蒲生氏郷は青木氏とは清和源氏の血筋を持つ氏であったので、これを守り、これ等の青木を手厚くまもりましたので武田系青木氏も含む青木一族は生き延びました。徳川氏もこの令を守りました。
そのなかでも武田系青木一族の大半は藤原氏を頼ったことに成ります。
家紋に何らかの細工がないとしたならば完全な親族です。抱き角紋の本家筋と少し分家筋となると極めて小さい範囲で細工をして見分けられるようにしてあります。(一度細部に渡ってみてください。家紋掲示板を参照)
しかし。抱き角紋と同じは家族か兄弟か親類の人たちであったはずです。
そこで、横浜の件ですが、全く新説では有りません。
極めて歴史的な史実の中に居ます。
甲斐国の武田氏系の諏訪氏の青木氏は元を正せば武田氏は藤原秀郷の一族の者が陸奥国の守護(鎮守府将軍)として赴きました。この時、現地の豪族の武田一族との間で縁組が整い藤原秀郷の一族の血筋を受けました。
そして、この鎮守府将軍は次に甲斐の国の守護を命じられましたが、この時、この藤原の血筋を受けた武田の一族は護衛のために同行しました。
そして、この武田の一族が甲斐の国で勢力を持ち本家筋にも劣らない一門となります。
(研究室の皇族賜姓青木氏のレポートと藤原秀郷流青木氏関連のレポートをお読みください。)
この武田氏が其れまで、甲斐の国にて守護としていた皇族賜姓青木氏と縁組をし、更には後に守護代として入った清和源氏の分家源の頼信(本家は頼光)より8代目の者がこの武田氏の跡目に入ります。
上位からの跡目であるので家紋も家柄も上位の家柄と成ります。清和源氏の支流一門となったのです。
つまり、日本の上位2つの氏の両方から陸奥の豪族であつた武田族はついには、藤原秀郷の血筋と皇族賜姓青木氏の血筋と同じ皇族賜姓源氏の血筋をも持つ氏となつたのです。
そこで、逃げ延びる時に、このときは既に弱体化していたが藤原秀郷一門でしたが、武蔵国と下野の国を定住地としていたので一族で固められた土地に上記した縁を頼って甲斐の武田系青木氏の一門は逃げてきました。
この藤原秀郷の武蔵の国は埼玉県の入間郡を中心に現在の西は神奈川横浜、東は栃木の県境、南には葛飾郡まで、北は北埼玉郡まで丁度円を描く様に取り囲み内側より直系の青木氏、中段は直流の青木氏,外円は支流の青木氏と言う様に取り囲み防衛をしていました。
この藤原秀郷流青木氏は鎌足から8代目の秀郷の子供千国がこの護衛の役目を担いました。(平将門の乱の勲功で秀郷は公家に昇格したので武力を持つ事ができなくなり子供の戦国にこの役目を与え、皇族賜姓青木氏に習って青木氏と名乗らせたった。皇族賜姓青木氏も天皇を守る親衛隊の役目を担う)
以後、この青木氏は各地に赴任した本家の一族にしたがって護衛として各地に点在し、その分家筋が勢力を拡大するために赴任地に定住しました。
本家筋は上記の本国の守りと各地に送り出すための子孫を増やす目的から残りました。
元々は藤原一門の血筋を受けている武田系青木氏(母方の郷)はこのルートを使って逃げたのです。
鎌倉時代には藤原一門は衰退しますが、これらの本家筋は源の頼朝に合力して
御家人となつた者が多いのです。
室町期にも同じく武田氏と同じで藤原氏の血筋と皇族賜姓青木氏と皇族賜姓の清和源氏の血筋も受けている足利氏ですので、ある程度の力は保持していました。
そこを頼ったことに成ります。
神奈川郡の横浜はこの藤原秀郷の勢力圏内の西の入り口です。栃木は東の出口と成ります。
元を質せば、諏訪族は中国の後漢の光武帝から21代目の献帝の子供の阿智使王とその子供の阿多倍が引き連れてきたの民で、帰化して200万の一部がこの甲斐の国の開拓に入ります。
大型の外国馬を飼育しこれを糧として生きてきた一族です。640年代のことです。孝徳天皇期で大化の改新期です。
(お家のご先祖が日本書紀に度々出てきます。そして、天皇はお家のご先祖を守っていることも書かれています。)
そして、この渡来系の民の開拓を守る為に皇族賜姓青木氏(光仁天皇の皇子)がこの甲斐国に入ります。950年代には清和源氏の源氏本家の頼光が守護代として入り、その後970年頃には弟の頼信が守護代として入ります。
1120年代頃には武田氏が入ります。
ですから、栃木の青木さんとお家は大変な血筋を持つ一門です。武田系となつていますが、家柄からは武田系青木氏は武田氏より上位です。
当時はかなり丁重に扱われていたはずです。
正真正銘の浄土宗の皇族賜姓青木氏(光仁天皇と清和天皇と阿多倍王)の血筋を引き継ぐ一族です。
(皇族賜姓青木氏は5家5流でその支流一族にあたります。)
栃木の青木さんの所のレポートでも書きましたが、皇族賜姓青木氏の後は皇族賜姓源氏と変名しましたので何重にも皇族の血筋を受けている事に成ります。
この様な末裔ですので、是非多くの子孫を遺していただきたいものです。
これからも、このサイトに是非お越しください。又、ご質問があれば遠慮なく
同じルーツを持つ者として平易にお尋ね下さい。
同じです!
K.Aokiさん 2006/02/12 (日) 00:18
私は神奈川在住ですが,栃木の青木さんと同じ家紋です.(丸に抱き角)
また宗派は浄土宗です.
祖父からは「祖先は山梨で武田家の家臣をしていたが(何らかの理由で)現在の横浜市戸塚のあたりに一族郎党で移動してきた」と聞かされていました.
実際,お墓のある戸塚の大運寺に行って見るとお墓が青木だらけでした.
今日は「抱き角 青木」で検索してこのページを見つけました.
詳細なルーツの解説があって驚きました.
どうやら我が家のルーツは栃木の青木さんとほぼ同じようですね.
青木研究員さんの説だと信長に滅ぼされて逃げ延びた先は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木ということですが,横浜に落ち延びた一族もいるということで新説になりましたでしょうか?
Re: 栃木の青木
青木研究員 さん 2005/10/08 (土) 09:24
栃木の青木さん それは本当によかったですね。
私も長年青木氏の研究をしていますが、青木氏は比較的に他の氏と異なりその家柄からか血統を横に広げなかった傾向があり、血筋は有力部族に限られています。
これは、嵯峨天皇期に出されてた令にて、青木氏は皇族の者か又は特別に藤原氏に対してのみ認められた姓であります。それ以外のも者は名乗る事を禁止しました。
皇族が天皇が代わるたびにどんどん増えてゆき、朝廷の財政を圧迫するのでこれを防ぐ事を目的として天智天皇が大化の改新で行ったことが最初です。
天智天皇期には皇子と皇女は34人もいました。(現代までの天皇の中で最も多い。)このために其れまでは第4世皇位第6世臣下方式をとっていました。
此れを天智天皇は覆し、第2世皇位第6位臣下方式にかえました。
これが第6位の皇子の施基皇子(しきのみこ)であり、伊勢王となり賜姓を青木氏と受けて臣下して伊勢の青木氏が誕生しました。この青木氏が初代であります。この方式が5代続きました。(天智、天武、文武、聖武、光仁)
そして、各地の守護として配置しました。(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)
の順です。
伊勢青木氏のときに特別に第7位の川島皇子も賜姓を受けて近江王となり土地の名前を採って佐々木氏となりました。
光仁天皇の子供の桓武天皇はこの方式をせず、自分の母方の(渡来系一族の阿多倍の孫に当る娘 前回のレポートの渡来人)阿多倍王又の名は高尊王又は高望王に賜姓をし、平氏(ひらぞく)の氏を使ってひきたてました。これが5代後には清盛の京平家になるのです。
次の天皇の嵯峨天皇は伝統を崩すこの方式を嫌い元の皇族に戻し、青木氏より変名して源氏(16代続く)としたのです。
この時にこの様な事がないように上記の令を発し天智天武期の方式に若干手を加えてを正式に発令したのです。
この時、第6位以下の皇子は殆どは比叡山か門跡寺院に入り学僧となりました。後にはこの皇子たちが還俗(俗世に帰る)する時は青木氏を名乗ることとし、皇族の者が下俗するときは青木氏として一族の姓の統一をはかりました。
この賜姓の受けない皇族の青木氏も確認出来るところでは5家(実際は15人ほど)ほどあります。
(門跡寺院とは天皇家の者が皇位を離れて僧になるときに入る独自の寺の事)
このように令により青木氏は血筋を護られてきたのです。
お家の賜姓青木氏の血筋を受けた武田氏系青木氏中の諏訪氏流青木氏は今日の情報でも裏付けられました。
そして、室町ころまで菩提寺は貴方の一族だけを祀るお寺であつた筈です。
門跡寺院と同じく何々院としていますので限定された菩提寺であつたのです
大寺の社主で青木氏と佐々木氏と藤原氏が多いのはこの理由からです。
間違いは有りません。一族の寺院を持つと言う事は大変な皇位の家柄を示し
その勢力も大きかったと想像できます。この様な寺を持つ一族は青木氏、藤原氏、佐々木氏などの限られた10氏程度の氏です。持ちたくても持てなかったということの方が現実でした。
この事から、現在の栃木のお住まいの所に貴方のお家のお寺があるかも知れません。この様な氏は必ず先祖を祭る寺も引き連れて移動しているのです。
逃げる状況にも依りますが、又、藤原秀郷氏の青木氏の寺もありますので難しいかも知れません。ただし藤原氏の青木氏の寺は浄土宗です。お家は天台宗ですのでこの点で見分けられると思います。
(下野武蔵国では殆ど浄土宗の中にいますので、お寺が元の浄土宗に戻していることも考えられますが)
地名も移していることが考えられます。面白い調査ですね
又、何かわかりましたらお知らせください。楽しみにお待ちしています。
Re: 栃木の青木
青木勝一さん 2005/10/07 (金) 23:33 [ メール ]
住所地の昔の表示に〇〇町大字諏訪瀬という表示があり、菩提寺の名前にも諏訪山〇〇院の文字がありました。
Re: 栃木の青木
青木研究員 さん 2005/10/06 (木) 19:51
武田氏系青木氏で諏訪族の血筋を引くとなれば、日本広しと云えど戦国武士の見本のようなものです。だからその血筋を引くお家の子孫だからこそ無意識に呼び寄せられるのでしょう。
今の世界でも通ずる「風林火山」の旗頭は私の行動の原点となっています。
又、何かありましたら、お尋ねください。
Re: 栃木の青木
青木勝一さん 2005/10/06 (木) 13:07 [ メール ]
大変詳しい解説ありがとうございました。自分では知らないことばかりで驚いています。青木なんてありふれた名前だと今まで思ってきましたが、いがいと良い家柄だったのですね。ただ無意識的に武田信玄がなぜか、前から戦国武将で一番好きでした。これもなにかの本能でしょうかね?この度は自分のルーツを知ることができ大きなプラスとなりました。ありがとうございました。
>。
栃木の青木さん 始めまして。
暫く旅行しておりましてご返答遅れましたが、本日お答えすることが出来ます。
貴方のお家のルーツを調べる情報は次の事とします。
1 家紋は丸に抱き角紋(鹿角 おずか)
2 移動してきた武士
3 宗派は真言宗
4 武田氏系か
5 栃木には違う青木氏
最も重要なのはお家の家紋ですが、このことがお家のルーツの大元を示します。
では、鹿角紋の所以を述べます。
戦国時代に兜の前立(まえだち)として武家の間で好まれ、何時しかこれを紋としてもちいられました。
この家紋は近藤乗直という者が松平清康(家康の長男)前でしかを捕らえて角を引き裂いたことの伝説から家紋として清康から賜ったと伝えられています。
角の枝数で氏が判断出来ます。
この家紋は上記の藤原秀郷系の近衛将尉の役柄を平安期に務めていた家柄で、この近衛からの役務の頭文字をつけた藤原氏で近藤と名乗ったものです。
そして、この家紋を綜紋として用いていたのは甲斐の国の諏訪氏です。
この諏訪氏には付いては次のとおりです。
甲斐の国の武田氏に付いては、陸奥(青森)に赴任していた藤原秀郷の一族の者が陸奥の土地の土豪武田氏の者との血族で生まれた氏で、この氏が藤原氏の主の移動で甲斐の国に移り住み、その藤原氏を背景に力を発揮し土地の豪族となりました。
しかし、この時、土地には諏訪氏と言う土豪の強い一族が居て、この一族との決着がつきませんでした。そこで甲斐に入った武田氏は周囲の豪族を見方に引き入れるために、その土豪集団の長であつた諏訪氏との政略的な婚姻を結び、武田信玄の若き頃に見方の一族に引き入れることに成功し、甲斐の国最大土豪となりました。
この一団が結局、武田の最大武力集団の主役になり多くの戦いに働きました。これが諏訪族と言う有名な一族で、諏訪太鼓で有名で、戦いの最前線に出て太鼓を叩きながら前進する姿を見て、敵は全て逃げると言う程の武田諏訪族なのです。(日本書紀に大隈の首魁が太鼓と踊りで天皇をもてなしたとでてきます 後述)
武田と云えば諏訪族です。この諏訪族がこの家紋をもとより使用していました。
貴方のお家はこの武田諏訪族の一族の支流に当ります。
丸つきの抱き角紋に付いては諏訪氏の支流の家紋です。
諏訪氏支流とは諏訪氏の一族の者と武田系青木氏(後述)との間で血族関係を持ち、諏訪一族の者を婿に取り、後に生まれた子供にその婿の実家の家紋を継がせて、武田の諏訪族の配下にはいり、その証明として家紋に支流の印とする丸付き紋としたのです。
(家紋掟と云うものがあり、丸付き紋はこの場合が多いのです)
そして、武田系青木氏と諏訪氏との血統を持つ家柄の青木氏である事を示し、一族の安定を図ったのです。
武田氏の家臣で武勇に優れて世の中を怖がらせた諏訪族の一団員であつたとされます。
では、武田系青木氏とはどの様な一族かを概略を示しますが、詳しくは当研究サイトの青木氏の記述をお読みください。
この青木氏の出生は次の通りです。
昔は甲斐国 巨摩郡 青木村と言われている所がありました。
645年の中大兄皇子の大化の改新にて皇族の皇子を臣籍させて「青木」という「氏」を造り、5天皇自ら賜姓して、夫々5つの土地に配置し、この地の発展のために此処に赴任させました。
(5つの土地とは伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)
詳しくは、この皇族賜姓青木氏は天皇の直接の護衛集団として「天智天武」期から5代に渡り、第6位の皇子を賜姓して青木氏を出生させました。
この賜姓は645から790年まで5代の天皇に依って5地方に行われました。この地は790年前後の時期と考えられます。
そして、この地に守護として国府を置き、部落を形成して賜姓青木氏は住み着きました。そして、この村を青木村と名づけました。
その後、開拓が進み、朝廷はこの土地を他国から守る為に青木氏の勢力以外にこの青木氏の領国に清和源氏の「源の頼光」を守護として派遣しました。(975-980年頃)
「頼光」は弟の「頼信」を分家させて領国を勝ち取る為に、この地の守護を後に譲りました。ここを拠点に関東に進出しました。(義経や頼朝の先祖)
更に、確固たる勢力を作り上げるためにこの地に赴任して領国としていた賜姓青木氏とは、当初は政治的な連合関係でしたが、後に跡目による皇族系の姻関係を結びました。
(ほかの賜姓青木氏4家も同じ時期に跡目による婚姻関係を結んでいます。)
土着の豪族の武田氏との清和源氏(8代目源の源光と15代目義虎)との跡目の血縁関係をも構築し、源氏の裾野を広くする戦略を採りました。これが支流武田源氏の始まりです。
この武田氏と賜姓青木氏とが更に血縁関係を結び此れが武田氏系青木氏です。
この様に三つ巴の戦略を採り、清盛等の「京平氏」に対抗しました。
関西と中部に大きな源氏による勢力圏を構築したのです。他の賜姓青木氏4家同時期にも同じ戦略を実行しました。
このような歴史的な背景から、ここには皇族賜姓青木氏と武田系青木氏の2氏の青木氏が存在し村を形成しました。3つ巴の戦略です。この地のこの3つ巴戦略が成功して鎌倉幕府が出来たといっても過言ではありません。
平安期の歴史がその名として今に残っている貴重な地名なのです。将来も残してほしい地名です。
その後、2流2家の青木氏は、清和源氏の関東への移動に伴い、この皇族賜姓青木氏と武田系青木氏の子孫の一部は伊豆地方にも移動しています。
この様に生まれた武田系青木氏は、更に土豪の最大集団の諏訪族との婚姻を果たしました。武田氏系青木氏の中の諏訪族流青木氏となります。
この青木氏は上記した経過で諏訪族の系列に入り支流一族として組み込まれました。
もとより、お家の青木氏はこの諏訪一族に入った青木氏でありますが、更に辿れば上記した様に藤原氏の血筋も引いている一族でもあります。
更に元は皇族系の賜姓族の青木氏の血筋も持っている氏でもありますが、質せば、この皇族賜姓青木の母方は伊勢の賜姓青木氏を除く全て藤原氏の北家の血筋を引いていることにもなり、藤原秀郷の北家の血筋の引く武田氏と賜姓青木氏の母方藤原氏北家の血筋の2つもの藤原氏の血統を強く持つ一族です。
名家の一族です。
更に、この土豪の武田氏は清和源氏の跡目を受けて支流清和源氏(母方は藤原氏北家族)の血筋も持っているので、3つの北家の藤原氏の血統を持つ諏訪一族に入った青木氏ということに成ります。
賜姓青木族、諏訪族、清和源氏族、藤原氏族、武田族の5つの血統を持つ氏でありますが、中でも5つの族が並んだとしたならば、最も上位の家柄は主従は別にして賜姓青木氏が主であります。
お家はこの血筋の持つ青木氏です。
最後に採っておきの血族を持った結論を示します。
では、この強い諏訪族とはルーツは何にという疑問が湧きます。
このことに付いて長く成りますが下記に記述します。
この諏訪族の先祖は645年頃を中心として日本に帰化してきた渡来系の200万人に及ぶ後漢の国の民族です。
この後漢の光武帝から21代目の献帝の孫の阿智使王とその子阿多倍が、後漢が滅び、その一団を率いて日本に上陸しました。この集団は非常に高い軍事、政治、経済。生産能力に伴う技能などの持つた集団を引き連れて戦いをせずに帰化してきました。
ヤマトの朝廷はこの高い能力の持つた集団を歓迎し、各地に配置し、その技能で未開の土地を開墾させて、朝廷と国の力を高める戦略に出ました。
この戦略は大成功し、現代の第1、2次産業の基礎はこの集団が持ち込んだものが殆どです。現代にも維持されているのです。
この集団を甲斐の国の山間部に配置し、米を始めとする山の産物の加工と背の高い馬の放牧をし増産しました。この成功を朝廷は護るために信用できる天皇の皇子を臣下させ賜姓して、ここに配置し監督させたのが皇族賜姓青木氏であります。
ですから、この諏訪氏は元を正せば、渡来系の民族の血が流れている事になります。又、清盛等の京平家もこの集団の長の阿多倍の5代先の子孫に成ります。
この集団は天皇家とも血縁になり、賜姓を受けて、大蔵氏、内蔵氏、坂上氏、永嶋氏、阿倍氏、阿倍氏等がこの一族となります。
ついでこの縁者となるのは、全ての名前の後ろの字が「部」のついた氏はこの集団の末裔です。例えば、海部、服部、武部、綾部、磯部、など全てはこの渡来系族です。
古くから居た諏訪族はその信仰の元を、(当時まだ真言宗か少し後の浄土宗しか有りません。この渡来系の諏訪氏は)真言宗を宗派としました。
そして、賜姓青木氏とか16流ある源氏一族とか藤原氏とかの高位の武士と公家は浄土宗としました。鎌倉時代中期まで一般の者は宗派には入れませんでした。
したがって、貴方のお家は諏訪一族系の族になりましたので、真言宗に改宗したものと思います。
甲斐の国には上記した様に、皇族賜姓青木氏(笹竜胆)と武田系青木氏(割菱)となり、武田氏系青木氏の中のこの一族の諏訪系青木氏(抱え角)とが居た事になります。(武田氏は角菱紋)
角紋は24紋あります。
この中で、お家の家紋は家紋200選というものがあり、この中にありまして、全国の有力氏の一つとして選ばれた一族です。
(8000から10000あると言われる中で)
武田氏が信長に滅ぼされて、お家の一族が逃げ延びて栃木にきたのでは無いかと思います。
栃木の下野国は武田氏の故郷の藤原秀郷一族の領国で親族が多く居るところだからだと思います。
この一族が逃げ延びる事ができる方向は武蔵国の埼玉と下野の国の栃木だと思います。
この2国には藤原秀郷流青木氏が存在します。お尋ねの系列の違う青木氏です。(藤原秀郷流青木氏に付いては研究室のレポート参照してください)
嵯峨天皇期に令が出されて、青木氏を皇族、皇族賜姓族と藤原秀郷の氏以外の者が名乗ることは江戸末期(名目上)まで禁止されていましたので、家紋が正しいとして元を辿ればこのようにはっきりします。
(2大別すると、お家などを含む皇族賜姓族の血筋を受け継いだ末裔と、他には上記の藤原秀郷系の青木氏があります。明治初期の苗字の令にて苗字の持たない者がこの青木氏を名乗った第3の青木氏もあります。これ等は全て判別する事が可能です 地名データーベース参照)
青木氏であると言うことから、その範囲はこのように集約されて来ます。
元をただせば、同じ青木氏の血筋の持つ者の願いとして、是非に大変な名家ですので子孫を多く残してください。
以上が情報から観た貴方のお家のルーツとなります。
回答が遅れましたが何かご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
栃木の青木
青木勝一さん 2005/10/01 (土) 19:28 [ メール ]
以前このHPに来ました、久しぶりに来てみました。
私も自分のルーツを知りたいと思い、わかる範囲で教えていただきたいと思っています。
家の家紋は丸に抱き角(鹿角)です。
母の話によると、昔どこからか移動してきた武士だ。といわれました。
住所は栃木県の足利市で家の系統と違う青木もいると聞きました。
地元の表具屋さんに偶然聞いたのですが「お宅は武田の関係の青木でしょう」と言われた事があります。でも初めて聞いたことでした。
宗派は真言宗です。
わかる方いたら教えてください。
Re: 埼玉県川口市の青木です
青木研究員 さん 2006/09/21 (木) 21:55
お尋ねの件ですが、お答えします。
先ず、埼玉は昔武蔵の国といい、藤原秀郷の領国でこの藤原秀郷の子孫には5つの主要氏があり、2流から生まれ、兼行流から青木氏、永嶋氏、長沼氏、文行流から進藤氏、長谷川氏が発祥しています。
この藤原秀郷流青木氏の発祥は研究室の「藤原秀郷一族の生き方」に詳細にレポートしていますので参照ください。
つまり、この埼玉を中心として茨城、栃木、千葉一帯に主要9氏とその支流の116氏が存在します。
青木氏は主に2流から発祥しています。
1つは皇族賜姓青木氏です。詳細は皇族賜姓青木氏のレポートを参照して下さい。
2つは上記の藤原秀郷(大化改新の時の中臣鎌足の8代目の子孫です)流青木氏です。この一族がこの埼玉の入間を中心に神奈川横浜を半径に円を書く範囲に円状に分布しています。
お家の「抱き茗荷紋」の青木氏は
研究室の「青木氏(家紋)と血縁族」の茗荷紋のところ
家紋掲示板の2Pの抱き茗荷紋のところ
雑談掲示板の654のところ
地名に付いては地名地形データーベースを参照して下さい。
先ずは一読してください。詳しくレポートしています。
この二つの系列の青木氏は宗派は浄土宗です。
浄土宗は特定の高位の家柄の氏が入信出来る宗派です。
茗荷紋は本家筋が「抱き茗荷紋」です。
そして、此れに丸がついた物は「丸付き抱き茗荷紋」でこの分家筋です。
決して珍しく有りません。この一族は滋賀と伊勢鳥羽地方に多く分布しています。
元祖は二宮氏です。
この二宮氏と皇族賜姓青木氏と血縁し青木氏の方に男系の跡目が出来ずに二宮
氏の末裔の一族(稲垣氏、鳥羽氏)から養子を迎えたが更に男系継承が出来ずに家紋掟により家紋を抱き茗荷紋に変紋を余儀なくされた賜姓青木氏の一門です。
そこで皇族賜姓青木氏とは天智天皇の第6位皇子が臣下して天皇より氏を賜り侍となり、天皇を守る親衛隊として主要地に守護として赴任した皇族の末裔です。
此れが日本最初の伊勢青木氏です。
天智、天武、聖武、文武、光仁の5代の天皇から第6位皇子の青木氏が発祥しそれぞれ伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5つの天領地に赴任しているのです。この青木氏は伊勢以外に上記の国に存在します。
5家5流24氏です。
お家の青木氏は24氏の新しい方の一つです。
家紋の綜紋は「笹竜胆紋」です。源氏も同族ですので綜紋は笹竜胆紋です。
お家は元は「この笹竜胆紋」でありました。
詳細は研究室の賜姓青木のレポートを参照して下さい。
お家の縁戚は江戸時代に伊勢志摩地方の領主となっています。(稲垣氏)
お家の青木氏はこの皇族賜姓の伊勢青木氏の血筋を引いている青木氏と見ています。(近江青木氏説の可能性もありますが)
日本中で最高位の家柄ですし、最も古い氏です。
とりあえず上記の3つのレポートと研究室の賜姓青木氏のところをお読みいただき、時間があれば藤原秀郷一族の生き方のところもお読みいただければお家のルーツがよく理解されると思います。
その上で、不明な点やご質問があれば遠慮なくお尋ねください。
一週間前に雑談掲示板に抱き茗荷紋の方の投稿がありましたよ。縁者ですょ。
そして、私とは元は同じ賜姓族の伊勢の青木氏で元祖は同じです。
参考として、源氏はご存知でしょうが、この氏も賜姓源氏で青木氏の後の皇族氏賜姓源氏で同族です。嵯峨天皇から青木氏から源氏とよび替えました。
源氏は実質11代の天皇の第6位皇子の賜姓族で続きました。
このサイトには沢山の青木さんが毎日のように色々と投稿していますよ。
お気軽にご質問等でお出で下さい。
先ずは、お読みください。ではお待ちしています。
埼玉県川口市の青木です
K.Aokiさん 2006/09/21 (木) 20:17 [ メール ]
偶然このサイトを見つけて書き込みします。
私は祖父の代までしか存じませんが、祖父は東京都出身だと思われます。
私も生まれは東京ですが、幼い時に埼玉に引っ越してきました。
偶然にも埼玉県の川口市には「青木」とつく地名が多く、また
青木姓のお宅も大変多いです。
お寺は東京都板橋区の「乗蓮寺」(東京大仏)で、浄土宗。
家紋は丸の無いただの「抱き茗荷」です。
祖母(旧姓:久保田)からは、幼い頃に
「先祖は武士だった...」と聞かされましたが、根拠は不明。
祖母方の先祖は三代ほど前までハッキリしていますが、
祖父方(つまり青木姓)は、祖父が若いうちに亡くなってしまっていること、
祖母も既に他界しているため、詳細は不明です。
お寺がとても立派な事と、家紋が珍しい?
(わたしは丸の無い抱き茗荷を他で見たことが無い)
ので、先祖はいったい・・・?と昔からの疑問でした。
このサイトを通じて、何かルーツがわかれば!又、
少しでも縁のある方と出会えれば、大変光栄です。
山形の抱き茗荷紋の青木さん
青木研究員 さん 2006/09/17 (日) 20:01
雑談掲示板から代理投稿
青木
2006/09/17 15:33
パソコン
先祖代々の墓が山形県尾花沢にあります。抱き茗荷が家紋ですが関西圏の家紋なのに山形に墓があります。昔は青木官兵衛という屋号で受け継ながれてきて尾花沢では地主だったそうですが、私の先祖と山形のつながりが知りたくご教示願います。
山形の青木さん 今日は。
お家のご先祖は確かに滋賀の二宮氏の末裔で伊勢の青木氏か滋賀近江の青木氏との血縁で発祥した青木氏です。
この滋賀の二宮氏の末裔が江戸期に出世して伊勢志摩の領主になり、この土地の鳥羽氏もこの二宮氏の末裔です。
従って、この二氏のいずれかと伊勢の賜姓青木氏の方との血縁で発祥したことが高いものと考えられます。
しかし、滋賀にも賜姓近江青木氏の一部がある時期に滋賀に移ったことが記録で確認されていて、後に又近江に戻ったことがわかっています。
この青木氏との血縁と二宮氏の末裔との血縁での発祥とも考えられますが、確定は出来ません。
いずれにしても賜姓青木氏との血縁の青木氏である事は間違いはないと考えられます。
家紋に付いては笹竜胆紋の賜姓青木氏の一族の者が跡目問題で男系継承が困難となり抱き茗荷紋の二宮氏の末裔(二宮、鳥羽、稲垣)から養子を迎えたが又男子が生まれずに、結局、女系となり家紋掟にて「笹竜胆紋」から養子元の「抱き茗荷紋」に変紋を余儀なくされたものと成ります。
(詳細は研究室のレポート参照)
青木氏の主な流れは皇族賜姓青木と藤原秀郷流青木氏の2つの青木氏があります。
皇族賜姓青木氏は5家5流の24氏と藤原秀郷流青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏の116氏であります。
その根拠は伊勢と近江には藤原秀郷流青木氏が守護として赴任した事実は2度しかなくこの期間は2年程度である事が判っています。
この内の一つは藤原秀郷の2代前の藤成という者が伊勢に赴任しています。
もう一人は基経と云う者が平安末期に赴任しています。
何れも期間が短く二宮氏の抱き茗荷紋が出来るかなり前(400)のことです。
青木氏を含む殆どの抱き茗荷紋の一族は滋賀と伊勢地方に分布しています。
そこで、この抱き茗荷紋の青木氏が何故に東北地方にあるのかと言う問題ですが、この移動に関する歴史上の事実を探して見ますと次ぎのような事が出てきます。
室町期の伊勢志摩地方の豪族は次ぎのように変化を遂げています。
先ず天智天皇から第6位皇子の施基皇子が臣下して賜姓を受けて伊勢王となりその子孫が賜姓の氏の青木氏を発祥させました。此れが伊勢の青木氏で日本の最初の青木氏です。
この状態は朝廷よりの伊勢神宮のある土地の保全を目的として「不入不倫の件」を与えられ伊勢地方とそれを守る青木氏に対して与えられ、この状態は豊臣時代前まで守られました。(伊勢国は天領地)
この間の室町期には、賜姓青木氏による伊勢守の守護の代理を行う役人を3つに分離して、そこを守る国司を三つに分けました。其れを「半国司」と云います。
伊勢中部はもとより賜姓青木氏ですが次ぎの二つの半国司を置きました。
一つ目は伊勢北部の伊賀地方を伊賀守として伊賀氏の半国司を置きました。
二つ目は伊勢東部の鳥羽永嶋地方にも半国司を置きました。この時の「半国司」が北畠氏です。
この前に抱き茗荷の二宮氏の末裔が伊勢に移動しています。
この時に滋賀の稲垣氏とその分流の鳥羽氏が「抱き茗荷紋」の氏として伊勢に定住しています。
そして、この二つの氏は勢力を拡大して更に拡大するために土地の賜姓青木氏との間で血縁を持ったものと推測しています。
其れが抱き茗荷紋の青木氏と見ています。
この稲垣氏は北畠氏の半国司に仕官したものと見られます。
この稲垣氏は江戸期にはその前まで九鬼氏が納めていた志摩地方を攻め落として志摩の領主に伸し上がっています。(江戸期)
この半国司の北畠氏は秀吉に攻められた有名な戦いの「伊勢永嶋攻め」で滅亡します。
この時に伊勢青木氏と伊勢北部の伊賀氏が北畠氏に合力します。
この伊勢永嶋攻めの前に北陸の北畠家とその一族の和賀氏この一帯を制していました。
この時、この戦いの秀吉側の将は蒲生氏郷でした。秀吉が無理押しをして、ただ一つてこづり大負けした戦いはこの一戦であります。
(最後には落とします。秀吉はこれ以後、大反省して無理押しの戦い絶対にしなくなった有名な北陸の戦いでした。 )
この時の戦いに伊勢の北畠氏が史実として応援に向かっています。
多分、この時に抱き茗荷の青木氏と鳥羽氏をも含む稲垣氏の一族はこの伊勢の北畠氏に同行して当然に北陸の北畠氏の応援に出たものと考えます。
結局、この応援に出た伊勢北畠氏は同じ一族のある下総の北畠氏にやつと逃げ帰ります。主君は此処でなくなります。
その後、上記した秀吉による有名な伊勢永嶋攻めが起こるのです。
直ぐに北畠氏が滅亡すると伊賀攻めのゲリラ戦の「名張の戦い」が起こります。お家の青木氏を含む伊勢の青木氏一族挙げて名張の城からの応援で秀吉は大変てこずります。
そして間を置かず1585年に北陸の北畠氏攻めの大将の蒲生氏郷が伊勢青木氏の根拠地の「伊勢松阪攻め」を行い「不入不倫の権」を無視して皇族賜姓青木氏を倒します。
しかし、この時に皇族賜姓の伊勢の青木氏は特別に保護されて再び松阪に戻りることを許されます。
この時に、この稲垣氏も許されて北畠氏に変わって志摩地方の領主になり江戸時代まで続きます。
大将の蒲生氏郷は大変に学問や政治や経済にも優れていたので徳川時代には秀吉に味方したが徳川家康はこの人物を登用します。そして出世します。
そう云う人物であったために伊勢青木氏と伊勢稲垣氏の一族は助かりました。
このような人物の蒲生氏郷は同じくこの北陸の北畠氏の応援に出た一部を許しその土地の治安に遺しました。伊勢の稲垣氏も許したのです。
多分、不入不倫の権を持つ伊勢青木氏と同じ様に扱われて、その時の一部に抱き茗荷紋の青木氏が入っていたと考えられます。
それは、天智天皇の施基皇子の伊勢王の血筋を持つ皇族賜姓の伊勢の青木氏の血筋を引く一族で合ったからと考えられます。
故に、伊勢の二宮氏末裔の稲垣と鳥羽氏の存在と共に伊勢青木氏説を採っています。
このような偶然は当時の国抜法度と氏家制度の慣習から無いと思います。
滋賀からはこのような歴史的事実がつながりません。
それだけでは無くこの蒲生氏郷も賜姓源氏の清和天皇の第6位皇子の経基王の血筋を引いている事によります。
伊勢の青木氏の宗家と抱き茗荷紋の青木氏もこの(清和天皇の賜姓源氏の宗家の頼光の4代後の頼政の子の仲綱の子(頼政の孫))宗家の源京綱から跡目を受けています。(1180)
参考 源の頼政は「以仁王の乱」の首謀者で平家と戦い負けます。
一族を絶やす事が出来ないので孫の京綱を同族の伊勢青木氏に跡目として入れて子孫を遺す作戦に出たのです。
(平清盛は不入不倫の権を持つ伊勢青木氏と伊勢を犯す事は出来ないので)
参考 源氏とは嵯峨天皇のときに第6位皇子を臣下させて賜姓を受けて源氏と名乗った氏です。
青木氏はその嵯峨天皇の2代前までの5人の天皇の第6位皇子が賜姓を受けて青木氏と名乗っていました。
(天智、天武、聖武、文武、光仁の5人の天皇 伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5国の守護 詳細は研究室の賜姓青木氏レポートを参照)
つまり賜姓青木氏と賜姓源氏は皇族の同族です。ある理由があり変名した氏姓です。
この嵯峨天皇の時に前の青木氏は皇族の者が下俗するときに名乗る氏姓として使用することを詔を発して他に使用を禁じました。
それ以後、賜姓源氏は正確には11代{花山天皇)まで続きました。
この様な背景があり蒲生氏郷とは元祖を同じくしている事から伊勢青木氏らを許したのです。
秀吉もこの家柄を利用して「不入不倫の権」の持つ青木氏の扱いを蒲生氏郷に委ねたものと考えられます。
北陸地方に定住した抱き茗荷紋の青木氏も許された後に、江戸期初期には領主が変わり、定住地でその力を基に地主になつたと見られます。
江戸初期には地主は殆どは元はその土地の統治支配していた氏がなりました。
そして、江戸期には治安のために力のある者が庄屋や名主や郷氏や郷士になりました。
多分、この時の抱き茗荷紋の青木氏であり、その元は伊勢の皇族賜姓青木氏の血筋を引く一族がこの地に定住したものと考えます。
歴史的史実からこのような検証が出来ます。
(参考 筆者は宗家の皇族賜姓の伊勢青木氏です 少なくとも元を辿れば1300年代頃からは親族の同族です)
何か、不明な点とか質問が有りましたら研究室から何なりと遠慮なくお尋ねください。
Re: 理由あって先祖の事を調べています
青木研究員 さん 2006/08/01 (火) 09:46
管理人さんの所にお礼を頂いたので此処に副管理人が代理投稿します。
早速のお礼有難うございます。
私も出来る限りの情報を提供させて頂きます。四国の青木さん関係は前回に記しましたように阿波と讃岐です。この阿波と讃岐の青木氏は広島と岡山にも移動していますので4つの家紋の氏が存在します。全て元は一族末裔です。
ほぼ同じルーツを持つ青木氏でありますので遠慮なく何なりとご質問ください。
Re: 理由あって先祖の事を調べています
青木研究員 さん 2006/07/29 (土) 10:30
さて、早速ですが、お尋ねの件ですがナカナカ難しいことではありますが、お答えは情報が少ないのでヒント程度になると思いますがご了解ください。
ご祖父の方は青木氏で四国の方ではないかとの事ですが、この情報を元に推測します。
青木氏は当サイトの研究室にいろいろとレポートしていますので其れを先ずお読み頂けると道が開けると思います。
お読みいただいた後に不明な点とか質問とか相談とかをやりながら切り開いてゆくことが必要と思います。
というのは、このルーツに付いては色々な時代の知識や情報とかが必要になりそれをもとに入り口を切り開くという作業が伴います。
現代の常識で考えて推測してもは絶対にわかる事は無いのがこの難しさです。
そして、ほんの一寸した事がきっかけで大きく入り口を開ける事が多いのです。ですから、現代では何の価値もない情報がルーツ解明の場合には重要なのです。私もこのことに気づくのに苦労しました。
歴史的な知識を段々と増えるに従い、アッと思い当たる事が出るのです。
ですから先ず、お調べになる際にはこの気持ちをお持ちください。
秘訣は何の価値もない一寸した事を見逃さない事です。
では、先ずにご祖父の方の故郷が四国という仮の前提に建ちます。
そして、青木氏であったということにします。
青木氏は主に二つのルーツより発祥して限られた範囲での氏です。
このことは研究室の「藤原秀郷の一族の生き方」と「皇族賜姓青木氏」関連のレポートとに詳しく書いています。
概略として
第一に皇族賜姓青木氏の5家5流24氏の青木氏があります。
この青木氏は大化改新の天智天皇より平安期の光仁天皇までの5天皇の第6位皇子より発祥しています。
上記5代の天皇の第6位皇子には天皇は氏を与えて臣下させて侍にして天皇を守る親衛隊をつくりました。
天智天皇より男系の天皇の8代目(嵯峨天皇)のところで青木氏から源氏に変名し青木氏は詔を発して皇族関係者が還俗する時にのみ名乗る事とし他に名乗ることを禁止した氏としました。
この禁令は正式には明治初期まで守られました。
室町末期頃と江戸初期頃とに少し乱れました。
ただし、特例が一度認められました。
それが、第2番目の青木氏で藤原秀郷流青木氏です。
この青木氏は主要9氏があり116氏に広がっています。
この青木氏は大化の改新の藤原の鎌足の8代目の者に当り功を立てて恩賞として貴族に取り立てられ2国(武蔵の国と下野の国)を与えられました。
この時、貴族になりましたので自ら武器を持つことが規則で出来ません。
したがって、自分の第3番目の子供の千国というものを侍にして護衛団を勤めさしました。そして、この一団に朝廷の許可を得て青木氏を与えました。
此れが藤原秀郷流青木氏です。
皇族賜姓青木氏の母方は伊勢の青木氏を除き最大勢力を誇ったこの藤原北家の藤原氏の子孫です。丁度従兄弟関係に当るによって朝廷は認めたのです。
この藤原秀郷の一族主要5氏は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏です。
この秀郷の総宗本家が朝廷の命にて24地方の守護を務めました。
この時にこの青木氏が全ての地方に護衛軍団として付き従いました。
そして、土地の豪族と血縁して青木氏の子孫を土地に遺しました。
この中で、四国には藤原秀郷一門の2つの守護地があり、阿波と讃岐です。
この二つの国にこの青木氏は同行して土地の豪族と血縁をして子孫を遺しています。
ご祖父のご先祖はこの二つのうちのどちらかの子孫と成ります。
此処で、お調べになる事は最初に、このどちらかかと云う事に成ります。
ここがスタート点です。
つまり、現代の徳島県付近か、香川県付近かです。
それには大事な2つのヒントがあります。
其れは、第一のヒントは家紋です。
家紋が判ればこのどちらかが判ります。
第二のヒントはお寺の宗派です。
このお寺が判れば、お家のルーツは更に進みます。
当時は現代の役所仕事は菩提寺のお寺が行っていました。
ですから、このどちらかの地方の宗派のお寺を見つければ詳細にルーツと家系譜が出来上がります。
先ず、この家紋を見つける調査をして下さい。
家紋は「家紋掲示板」か「青木氏と血縁族」を参照して下さい。
この二つはまだ連載途中ですが、四国に関する藤原秀郷流青木氏の家紋は既に記述しています。
このサイトにこの一族の方の投稿が幾つもあり、800年立って親族がこのサイトで出会うと言う現象が起こっています。
特に、この四国の末裔の方の出会いが多いのです。
沢山の投稿がありますので、そこのレポートもお読みください。更に解明の糸口が開けると思います。研究室のレポートのうちの「四国の青木氏」や「讃岐の青木さん」や「岡山の青木さん」や「八王子の青木さん」や「ルーツに付いて...」や「理由あって先祖の...」のところをみてください。
かなりのことが判るはずです。
既に四国も限定されて、道が開けましたよ。阿波と香川になりました。
兎も角も、今度は更にこの二つのことから調べて行きましょう。
何か、二つのことで解明に役立つような「仔細な事」が有りましたら遠慮なく必ずお便りください。必ず解明は可能ですからご相談に乗ります。
ではお便りをお待ちしています。
由あって先祖の事を調べています
青森の旧姓青木さん 2006/07/29 (土) 00:20
私の実家は、本家ですが祖父が3度結婚しており、私の父が小学生の時に亡くなっています。私の父は、3番目の妻の子にあたり、本当の末っ子です。地元には兄弟は父しかおらず、祖父の実家すら知らない状況です。腹違いの兄妹の話では、祖父は四国の人だという話もありますが、はっきりしたことが何もわかりません。
調べ方が何もわからないので、何かヒントでもあればと思い、投稿してみました。よろしくお願いします。
有難うございます。
手がかりが見つかったらまた書きこみます。
Re: 鳥取の先不明です
青木研究員 さん 2006/08/17 (木) 21:45
鳥取の青木さん 今日は。始めまして。
お尋ねの件ですが、調査するには情報の数と時代性の問題で困難です。
しかし、次ぎの情報が確証されたものとしての前提でお話します。
第1に家紋が「丸に木瓜紋」である事。
第2に宗派は浄土真宗である事。
第3に鳥取である事。(ただし、時代が明治であるので使えません。少なくとも室町ぐらいのものでないと使えません。鎌倉期では確実に成ります。)
歴史の史実は室町期前の物しか信用が出来ません。下克上期と戦国時代は国が混乱して偽りが殆どです。
青木氏のことに付いても同様です。
青木氏のことに付いては研究室の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏に関係するレポートを一度時間をかけてお読みください。そこには詳しくレポートしています。
青木氏に関しては皇族の者が名乗る氏ですので室町期と明治初期に多くの氏や家紋などをもたないものが競って系譜や名前を高額の金品を出して寺社に頼んで密かに造って多くの人が名乗りました。これを第3の青木氏といいます。
室町期と江戸初期は家柄や姓の持たない者が侍となり出世した事でよい家柄の氏を名乗りました。
又明治では全てのものが苗字を持つことを認められましたので、一般の者は家柄を偏纂しました。この時昔は寺が戸籍簿の役割をしていましたので寺の証明があれば許可されました。
従って、この氏には縦横の親族関係や史実に多くの矛盾が出てきます。
ルーツ調べはこの矛盾をどうして克服するかによります。
証拠の物品の探し出しや一寸した事が当時の慣習から糸口を探し出す事が出来る様にするなどの努力が必要です。
全く矛盾の無い人も氏もあります。資料が遺されていて。丁度警察の犯人探しとよく似ています。ヒントとひらめきです。
この人たちのルーツは江戸期からのものに成りますので菩提寺に行けば過去帳がありますので系譜は見られます。
逆に、江戸期くらいまでの系譜であれば特別な場合を除きこの青木氏に成ります。
このような背景は研究室のレポートに書いています。
さて、では確証された前提でお話します。
先ず、家紋は一族が同じ一族である事を証明する手段として用いましたが、
この家紋は上記の2つのルーツの皇族賜姓青木氏のルーツを示す家紋の一つです。
家紋掲示板のところのP1の木瓜紋のところの3番目が丸に木瓜紋ですので、古くからこの紋である事が証明できれば皇族賜姓青木氏の5家5流24氏の流れを汲む青木氏であります。
青木氏に関して33紋様がこの2つの青木氏に関係する家紋です。
家紋掲示板に現在掲載中で21紋様までレポートしています。
この5/33番目のところの家紋です。
「青木氏と血縁族」の木瓜紋のところもお読みください。
この家紋は昔の美濃国の豪族の土岐氏との血縁を結んだ皇族賜姓青木氏です。
この皇族賜姓青木氏は5代の天皇の第6位の皇子が臣下して侍と成り天皇自ら青木氏という氏を与え賜った者で、この皇子たちは5つの土地の守護となりました。
この5つの土地は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国です。
この5人の天皇は天智、天武、聖武、文武、光仁の天皇です。
この5人の天皇の第6位の皇子より天皇を守る親衛隊として侍になりました。
7位以降は僧侶になりました。
5位までは皇子で皇位継承権のある皇子と成ります。
この5つ土地は主要な国で防衛的に大事な国と成ります。
美濃の皇族賜姓青木氏はこの美濃国の守護となり赴任して土地に住み、美濃王となりました。この美濃王の子孫が美濃青木氏です。
この美濃青木氏の一族の方からこのサイトに投稿がよくありますのでレポートを参照されると良いと思います。
そこで、美濃の第6位皇子の美濃王の子孫が土地の豪族との関係を強くするために血縁を結びました。この子孫が土岐氏系青木氏です。
この青木氏は本来は家紋は『笹竜胆紋』ですが、この土岐氏と血縁した一族に男系の跡目が2代続いて出来ませんでした。よって家紋掟により、笹竜胆から血縁先の家紋に変紋を余儀なくされた氏で土岐氏系に所属する青木氏と成りました。
参考までに、この土岐氏は同時期に清和源氏の末裔とも血縁を結んでいます。
皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏は同族です。
光仁天皇までが第6位皇子が青木氏を賜姓し、2代置いて嵯峨天皇期からは第6位皇子の賜姓を源氏としました。青木氏は5代で源氏は16代で正式には花山天皇までの11代です。
土岐氏の宗家本家は「桔梗紋」ですが、この土岐氏の庶流支流の木瓜紋を家紋とする土岐一族から養子を迎えるなどの方法で血縁したのです。
この後に、この木瓜紋の一族の分家筋に当る子孫が「丸に木瓜紋」になったのです。
したがつて、もし、この家紋が一族全てのものであるとすると鎌倉期までは美濃地方に住んでいた事に成ります。
鳥取は時代が違いすぎますので参考になりません。
間違いなく氏家制度の中では美濃の国に一族子孫がいる筈です。当時は国抜けとして罰せられましたので国を自由に出入りできませんでしたので。まして、総宗本家の許可が無い限り旅も出来ません。
さて、次ぎにこの皇族賜姓青木氏の5家5流と24氏は宗派は全て浄土宗です。
この理由はこの皇族系の者は全てこの浄土宗に入る事に成ります。
その高位の者しか入る事が出来ない宗派です。
江戸時代まで゜この慣例は守られましたが、寺が檀家が少ないので成り立たずに江戸幕府は特別に令を発して許可制として奨励しました。然し、矢張り少ない宗派です。今でも。
お家は浄土真宗ですので、時代が少し後にもなり、宗派も異なっています。
少ない事から、室町期の混乱期に移動して浄土真宗に宗派変えをしたとも考えられます。
お家のご親類や本家筋が浄土真宗であるとこの家紋の前提が崩れます。つまり、明治室町期の第3の青木氏と成ります。
この場合はルーツは調査できません。
藤原秀郷流青木氏は理由があって浄土真宗もありえますが。
この紋所は藤原秀郷流青木氏では有りませんので。
西本願寺系と成りますと問題が出ます。
よほどのことが無い限りは宗派は変えませんので、変えても多くの一族が一度に変えなければならないわけですから物理的にも、普通は伝統を重んじることでも不可能です。当時は現代と違い一族郎党が結束して生き延びていました。
「宗旨替え」といいますが普通は行いません。
先ず、お家のご先祖の鎌倉期か室町前期の故郷が美濃国にありませんか。
お家の本家の本家程度のところが浄土宗でありませんか。
仏壇が浄土宗仏壇となっていますか。
明治の戸籍簿では平民ですので普通は士族ではなかつた事が覗えます。
しかし、大農家、大商家であれば2足の草鞋策でもとは武士ですし、江戸期までは家紋や姓や系譜や刀や許されていました。
つまり、郷士、郷氏です。明治期はこれも平民としました。これ以外は一般庶民の平民ですので、先ずこの点もお調べください。
つまり、大農家や大商家や郷士や郷氏であったかどうかです。庄屋や名主も含めて。
これ等を証明する物が残って居ませんか。
何でもちょっとしたことでも大きく解明につながりますのでご遠慮なくお知らせください。お待ちしています。
そこで、更に解明が進みますので。
兎も角、一度上記した研究室のレポートを是非お読みください。ルーツに関するヒントが出る事も多くあります。
Re: 鳥取の先不明です
tocyさん 2006/08/17 (木) 11:03
家紋について 書き忘れでーす。
丸にモッコウです、宗派は 浄土真宗お西です。
鳥取の先不明です
tocyさん 2006/08/17 (木) 10:55
私の曾じいさんは戸籍謄本によると鳥取県、でもその先はわかりません。手元に残る戸籍謄本の内容には
明治17年9月23日相続
明治44年10月14日鳥取県東伯郡長瀬村大字田後村百番屋敷より転籍届出同日受付入籍
戸主;平民:前戸主との続柄 父 亡青木 甚治郎、母 亡 てつ:二男; 青木 長蔵 出生 元冶元年正月弐拾壱日・・・・・・・・・倶知安町役場
とあります。
Re: 山形の暇な青木です。
青木研究員 さん 2006/07/28 (金) 21:06
山形の青木さん 今日は。はじめまして。
ご質問の件ですが、家紋掲示板に記載し、「青木氏と血縁族」にもレポートしていますので参照して下さい。
仰るとおりこの家紋の青木氏は皇族賜姓青木氏の氏神を祭る宮司の家柄の家紋です。
青木氏には2つのルーツがありますが、この内の一つは皇族で天皇の第6位皇子が臣下してその天皇から氏を賜り、青木姓を名乗りました。
この青木氏は5家5流の青木氏があります。
最初は天智天皇と天武天皇の第6位皇子が青木氏を賜り伊勢の青木氏と近江の青木氏を発祥させています。(伊勢青木氏の元祖は施基皇子)
第2番目は聖武天皇の第6位皇子が美濃の青木氏を、文武天皇の第6位皇子が信濃の青木氏を、光仁天皇の第6位皇子の甲斐の青木氏を発祥させています。
(光仁天皇は施基皇子の子供)
此れが皇族賜姓青木氏です。
桓武天皇を一人置いて嵯峨天皇は賜姓族を青木氏から源氏に変名しました。
この時に詔を発して青木氏は皇族以外の者が名乗ることを禁止しました。
そして、この高位の皇子の青木氏の家柄の氏では自らの氏神を持っています。
この5つの青木氏の氏は自らの一族の者を選び宮司として務めさしました。
この元は笹竜胆の家紋を持つ5つの青木氏の宮司が男系跡目が不能となり土地の豪族の他の氏より跡目を入れて継承したものです。
この結果、家紋掟により家紋は三つ柏紋となりました。この一族が5家5流の氏神の宮司を務めました。
お家は丸付き紋ですので、この分家筋に当ります。どこの青木氏の神官であったかは情報がありませんので判断はつきません。
この皇族賜姓青木氏が下克上と戦国時代の混乱期に高位の家柄であるが故に狙い打ちにあい、5家5流の氏の氏神は尽く焼き討ちに合いましたので、この5家5流の氏神の神官は逃亡して還俗して通職に戻りました。
この室町よりの混乱期時代を経て本来は浄土宗であるのですが、逃亡過程で宗派変えをして江戸時代に曹洞宗になった可能性もあります。
江戸時代に家紋と姓を持たない者が武士として功を成し、そのためにこの神官職の青木氏に少しでも縁にある者がこの縁で青木氏を名乗りました。この為に132もの家紋が出来ました。
お家はこの二つのいずれかであると思います。情報が無いので確定は困難です。
二つ目は藤原秀郷流青木氏です。(詳細は研究室の「藤原秀郷の一族の生き方」を参照して下さい。)
この氏も藤原氏の中でも最大勢力の北家筋です。
この氏も自らの氏神を持っています。この氏神の神官は藤原氏か青木氏か中には佐々木氏が勤めています。
(この佐々木氏も天智天皇の第7番目の皇子で近江の特別賜姓族です。元祖は島皇子 宇多天皇の第6位皇子の滋賀の佐々木氏もある)
以上、二つの何れかを決定する一寸したことでも情報が有りましたらお便りください。
山形の暇な青木です。
mあおきさん 2006/07/28 (金) 19:06 [ メール ]
はじめまして
全国の青木さんこんにちは
通りすがりの者ですが、どういう出なのか?
気になっていたので投稿させて頂きます
家紋:丸に三つ柏
亡き祖父の着物にあった紋です
現在:山形の東村山郡に在ります
本家は"寒河江市"にあったそうですが、大分前に絶えたそうです
宗派:曹洞宗
ですが...分家して移り住んだので、元は不明です
周りにも親戚にも青木姓が居ません
これだけで、何か判ることがあるのでしょうか?
紋からすれば、神職の血筋になるのですか??
水戸の青木さん。お元気ですか。お久しぶりです。
さて、お墓の件ですが、お墓が2つある事は良くある事です。
特に浄土宗は非常に少ない限られた家柄の者が入信を許される宗派で、藤原秀郷流青木氏は宗家の赴任先に護衛役として移動しますので、そこで定住しますと浄土宗のお寺が殆ど無いのが現実でした。そこで、止む無く浄土真宗か日蓮宗を利用する以外にありませんでした。
浄土宗は江戸初期に幕府が特に奨励してこの浄土宗のお寺を増やしました。
やつと、江戸後期くらいになって各地にお寺が出来る様になりました。それでも他の宗派に比べて少ないのが現状です。
多分、お家はこの為に江戸付近に多くある浄土宗のお寺に墓を移動したのではと思います。藤原秀郷流青木氏はの多くは24の各地に定住していましたが、鎌倉幕府が出来て藤原氏一門はその職を失い、多くは武蔵や下野国等の一族が居たところに戻りました。その為に墓が二つあるお家が多いのです。
これが第一段階で、更に戦国時代から室町後期で再び藤原秀郷流青木氏を始めとして藤原一門は再び離散して各地の大名に仕官しました。
この時にも墓をその地に設けることをしました。このように藤原秀郷一門の宿命的な事が現状でした。
お家は水戸に仕官した一族でしたから江戸後期には江戸に移動して幸いに浄土宗のお寺が幕府の奨励で多かったのでお墓を浄土宗のお寺に戻したと見られます。
お家は以前のレポートでも記述しましたが、藤原秀郷流の青木氏でこの内、揚羽蝶の家紋の丸つき紋でしたから、青木正命をご先祖とする一族ですが、
この一族は結城藤原氏の護衛役を任務としていました。
その後に元の領国の結城の土地に定住していたお家が土地の徳川水戸藩に仕官した事に成ります。
以前にレポートでも記述しましたが、千葉の結城地方には必ず菩提寺があると思います。
地名/地形データーベースの千葉の安房郡富浦町青木村のところを一読下さい
多分、お家のご先祖とその縁者関係がここに青木村を形成しています。
必ずこの土地付近にあると見られますので参考までお調べください。
現代の件と違いまだ家という考えが強かった時代ですので、跡目の件は男系跡目が出来ずに苦労するのがどこでもある事ですが、藤原一門は家柄などの吊りあいもあり更に難しく成ります。その都度、男系の跡目相続が出来ないで家紋を変紋せざるを得ないことが起こりました。
兎も角も宗派も確認出来ていますので、後は菩提寺の調査です。
資料の件は藤原秀郷一門は下克上で全く標的にされましたので資料は少ないのと戦後の混乱で少ないのが現状です。
又何か有りましたらお便りください。お待ちしています。
お久しぶりです。新たな発見がありましたので報告します。それは25年位前までもう一つお墓があったそうです。それは江戸後期から明治にかけて作られたらしいですが、宗派が日蓮宗ではないとのことです。場所は東京近郊だそうです。そう言われれば幼少の時に連れられた記憶があります。ただそれ以上の詳しいことは教えてくれませんでした・・・水戸のお墓は江戸時代からあったそうです。水戸の方の時代ははっきりしませんのでいつ作られたか正確ではありません。お家に2つお墓があるのは良くないということで古い水戸のお墓にまとめたそうです。もしかしたらそれ以前の菩提寺があるのかもしれませんね?彦根藩(これは私がしっかり記憶してませんでした)から養子を迎えたりお家存続のために色々苦労があったと聞かされました。空襲でかなりの資料が焼失し情報が不足しているみたいです。
水戸の青木さん 今日は。
非常によいところに気づかれました。
古河氏の別邸の件は更にお家のルーツを確定する資料です。
実はこのことで次ぎのことが判ります。
先ずこの古河市は茨城県の西部地域の端の埼玉つまり、武蔵の国の東の端ですから、この地域には藤原秀郷流青木氏の支流4氏のうちの「丸に揚羽蝶紋」の青木氏の2氏がこの地域の護衛に当り、北埼玉郡付近の東はずれに2つに分かれて定住していました。
南埼玉郡に分かれて2氏が護りに付いています。
この北埼玉郡がお家の先祖の護りの土地です。
そして、この古河市付近と北隣の結城市付近には、お家と同じルーツの兼光系の藤原秀郷の五代目の孫に当る朝光という者が初代として一族の領国でした。
この一族は「結城氏」であります。
この結城氏の由来は次の通りです。
この結城氏はこの土地は950年頃から1130頃まで領国としていました。しかし、平家との戦いに負けてこの土地付近を奪われました。
止む無く、藤原の朝光は一時武蔵の国の西の群馬付近(上野介の役で)の護りに着いていました。しかし、鎌倉幕府の樹立に貢献した事で、源頼朝から本領安堵策にて結城の土地を与えられてを奪い返す事ができました。
そして、鎌倉幕府樹立にて離散した多くの藤原秀郷一族の子孫とは別に、この(藤原鎌足より8代目の藤原秀郷の)兼光系の結城一族は辛くも鎌倉幕府の御家人となり、再び、55年ぶりに結城市の東隣の水戸付近までの守護を命じられました。
古河市に関係があるとするとお家の護衛役の担当する総宗家の一族はこの結城氏であつた事が濃厚です。
この付近には藤原一族は結城氏のみが領国としていましたので整合性が取れます。
このお家の青木氏が発祥したのは「丸に揚羽蝶紋」ですので、青木氏の元祖の千国より妾妻の実家先(嶋崎氏)の家紋を引き継いだのは2代目頃からですので秀郷より4代目頃からと成ります。(北埼玉郡の護りに着き始めた時期)
お家も藤原秀郷流の兼光系(4代目)の青木氏ですから、支流4氏のうちの北埼玉郡付近を守護するようになつたのは秀郷からこの4代目の兼光より2、3代目の所の「丸に揚羽蝶紋」の支流青木氏でありますので、同族ですし、結城氏は同時代の一族と考えられます。
此れで水戸家との関係も頷けます。
よって土地と時代と同系族の一族と水戸松平氏から考察すると検証結果が頷けます。
次ぎにこの地(北埼玉郡と結城氏付近)には浄土宗の寺は6つ程度ありますのでこの寺の絞りこみをされてはと思いますが。
(インターネットで浄土宗をキーワードに地域限定で絞込み方式で)
青木姓の多く出て来る寺が多分お家のルーツと思います。
この様にちょっとした事がルーツ探しに結び付きますので、頑張って探してください。いつでも御質問いただければお力になりたいと思います。ではまた。
詳細にご説明いただきありがとうございます。さらに調べていきたいと思います。ただ現在菩提寺はありませんので(水戸は光圀の時から共同墓地になってます)おっしゃられる通り武蔵か下総国(いつの時代からか分かりませんが古河市に別邸がありましたので)の浄土宗のお寺を調べてみたいと思います
丸に揚羽蝶の青木さん 始めまして。
お尋ねの件につき情報をまとめますと次ぎのようになると思います。
1番目は家紋の「丸に揚羽蝶紋」です。
2番目は水戸藩の家臣であった。
3番目は宗派は日蓮宗です。
4番目は徳川家康に仕えた。二俣城の戦い
5番目は桜田門外の変
6番目は駿府に移った
以上ですがこれ等を情報として検証しますとお家の青木氏は二つの青木氏のルーツに辿りつきます。
先ずその前に、青木氏の出生に付いての基礎的な情報として次ぎのことを念頭に入れてください。
青木氏のことに付いては研究室の藤原秀郷一族の生き方を先ずお読みください
此処には青木氏のことが詳細にレポートしています。
では、青木氏は次ぎの2つの発祥から出ています。
1つ目は皇族賜姓青木氏です。
この青木氏は天智天皇から5代の天皇が自らの皇子の第6位の皇子を臣下させて賜姓を授けて青木氏を名乗らせ、天皇の親衛隊として任務を与えました。
(臣下とは皇子から侍にすること。 賜姓とは氏を天皇自ら皇子に氏を与える事)
この青木氏は5家5流あり、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5地の王として守護の役にて赴任する。
伊勢青木氏を除く各地の青木氏は母方に藤原氏の血筋を持つ。
天皇は天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5人の天皇から出ています。
2つ目は藤原秀郷流青木氏です。
藤原鎌足より8代目の秀郷が「平将門の乱」にて大功を上げて武蔵と下野の国の守護に任じられ貴族に列せられました。
この時に貴族に列することから自らは武力を使うことは出来ない定めより、2つの国を護るために自分の子供の第3子の千国と言う者にこの護衛の役目を与えて侍ととしたものです。
侍となった千国には上記の皇族賜姓青木氏に習って青木氏を与えました。
本来は嵯峨天皇期にこの青木氏を使用することは皇位の以外の者は禁止しました。しかし、朝廷は同じ藤原氏の血筋の藤原秀郷の一族にだけ特別に許可しました。
この他に明治初期に苗字と家紋を持たない一般の庶民が高額の金額を叩き寺や神社に日本最高の名家家柄の青木姓を付けてもらった青木氏があります。
つまり、第3の青木氏である。
(明治初期は戸籍を作るには古来より戸籍的な役目を担っていた寺と神社がこの役目を担った)
以上の主要2氏の青木氏であります。
この内、お家の青木氏は藤原秀郷流青木氏であります。
この藤原秀郷流の青木氏には次の主要9氏があり、直系1氏、直流4氏、支流4氏となり、ここより116氏に末裔を広げています。
そこでお家の青木氏はこの内の支流4氏の内の「揚羽蝶』又は「丸に揚羽蝶」の家紋を使用しているのは内の3つです。
この「丸に揚羽蝶紋」は元来は京平氏(桓武平氏とも伊勢平氏とも言う)の支流家紋です。
つまり、藤原秀郷の第3子の千国系の青木氏が4代目に男系の跡目が出来ず藤原秀郷の総宗本家から跡目を受けて青木氏を次ぎ、更に18代目のときにも第3回目の総宗本家の行久から跡目を受けています。
鎌倉時代までにこの3回目の跡目があるのですが、この2回目の後に千国より3代目までの間に「揚羽蝶紋」の平氏の一門より嫁を取りこの一族の分流が同じ跡目の問題で「下がり藤紋」より家紋を平家の紋所の「揚羽蝶の紋」に丸をつけて変紋をしています。この一族がお家の元祖です。
この2つの「丸に揚羽蝶紋」の青木氏のうち室町後期に松平氏に仕官し、のちに水戸家に仕官した青木氏は1氏のみです。
藤原秀郷の一族は鎌倉幕府が樹立した時点で崩壊し116氏一族全ては離散します。この時に多くの関東に住んでいた藤原一族の青木氏は縁故を頼りに戦国時代に勢力を拡大した松平氏に仕官します。
この二つの藤原秀郷の主要9氏中の支流4氏の2氏は次ぎの通りです。
1番目は藤原秀郷流青木正命一族です。
この一族は元は平氏の一門で「嶋崎氏」と「岡田氏」を名乗っていました。
「嶋崎兵右衛門利澄」のときに上記した経緯から藤原一族にもどり青木氏に氏姓を戻しました。
この長子を正命といい、次男は利備といいます。
この一族が「丸に揚羽蝶」の家紋を引き継ぎました。
2番目は同じく青木忠英一族です。
元祖は青木玄蕃允梵純です。
3番目は青木安明一族です
藤原秀郷の子の千常が元祖で、安明より前は「根村」を姓としていたが、この安明の時に元の青木氏に改めました。
本来は千国から青木氏が出ているものであるが、この千常の子孫はこの兄の青木氏を名乗ったと云う事になります。
家紋は揚羽蝶と一部子孫の分家は「丸に揚羽蝶」の家紋を使用している。
お家のルーツは後者の分家筋にあたり、何れも松平氏に仕えていて二俣の戦い等に参加しています。
この内に水戸家に仕えた一族は第3番目の分家筋に当る青木氏で、安明より2代目の安長のときに長女が水戸家臣(呉 観石)に嫁ぎ、後に安明の分家筋の跡目家系継承の問題でこの長女の一孫子が実家先一族の分家の青木氏の跡目姓を継いでいることに成っています。
水戸家に関わる青木氏はこの一門のみであります。
更に「桜田の館」に関わる一族は史書からこの一族のみと見られます。
駿府までの経緯は判別できませんが、経緯と水戸の行動から当然に認められます。
池田氏の家紋の件については池田氏は京平家の勢力範囲(32/66)であつた中国地方の支流平家の末裔でと名乗っていることから、江戸初期に下克上と戦国時代の混乱期を経て家柄を誇示する必要から成否は不明であるが、挙って家系を偏纂したのであります。この池田氏の平家の末裔の真偽は不明と言う説があります。この時期の大名になったものは徳川氏をはじめとして殆どは偏纂です。
そして、この池田氏も同様に土地の経緯からこの「丸に揚羽蝶」の平家支流紋の家紋を使用したのです。
しかし、この意味からするとお家は上記した様に青木氏の由来から正規の「丸に揚羽蝶」の根拠をもつ藤原秀郷流青木氏の主要支流4氏の安明一族の分家支流の一つで116氏にも末裔を広げた一つの青木氏の名家であります。
青木氏は主要9氏のであるが藤原秀郷の主要5氏の一つで、長谷川氏、進藤氏、永嶋氏、長沼氏、青木氏であります。
この中でも青木氏は上位の位置にあり最大の116氏にもの家紋を持つ一族であります。
皇族賜姓青木氏を入れると121氏にもなる青木氏ですので、青木氏を理解する上で、詳細は研究室の藤原一門のレポートを時間をかけてお読みください。
これを読むとお家の青木氏の鎌倉前のルーツと歴史と由来などが極めて詳細にお判りになると思います。
尚、宗派に関しては主要9氏は浄土宗です。この鎌倉前は特別に皇位の一族のみしか入れない宗派でした。そして、藤原秀郷の支流116氏の多くは赴任先の土地の各地に定住しましたので、特別に限られた浄土宗の寺は無く止む無く、その元さきの宗派の比叡山の真言宗に入信しました。
(中部から関西中国地方の藤原秀郷流青木氏に多い)
したがって、日蓮宗に関しては水戸家の家臣に嫁いだ先の宗派を引き継いだことが十分に考えられます。
以上の検証結果ですが次ぎの点に推測の部分が残っています。
日蓮宗は鎌倉時代から生まれた宗派ですが、この宗派に入信したのは下級武士階級と庶民が一般的な信者です。
この呉氏(観石)はその姓の経緯から渡来系の一族であり日蓮宗の宗派である事が覗えます。
念の為に、青木安明の一族の菩提寺が武蔵国か下野国か下総国(結城地方)かの土地に元の菩提寺がないか調べられるとよいと思われます。
この三国には浄土宗の寺がありますので、もとはこの地方の寺に菩提寺があったものと推測します。
この寺があるとみられるところでは、私の調べた範囲では17の浄土宗の寺がありますので、他に何かの手がかりを元に調べていただきますように。
武蔵の国にある可能性が高いと見られます。
この宗派の件を確定しますと検証と完全一致いたします。
現在の菩提寺の過去帳を調べられてその中で一部に何らかのとぎれがある場合にその下先を調べることから始められると見つかると見られます。
時代的には1705から1725年頃の菩提寺を探されるとよいと思います。
「丸に揚羽蝶紋」を家紋とされている以上は必ず見つかるものと思われます。
家系上の女子の場合は当時の男系の氏姓制度の慣習の中では女子は書かないか別の家系譜に女系のものを入れたものを作るかしていました。
また、墓も墓横に別に女系の墓石を作るのが慣習となっていました。現在の慣習は明治以降の慣習です。
詳細は先ず、研究室のほかのレポートをお読み下さい。
次ぎに左隅に「丸に揚羽蝶」の藤原秀郷流青木氏の家紋を掲示します。
左隅をクリックして下さい。拡大します。
揚羽蝶紋は姿と足の数と羽の模様と輪郭の4つにてそのルーツを判別する事がで来ます。お家の家紋はこの紋と一致しますか。
以上の検証結果についてご質問や不明点など有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
お待ちいたしております。
詳しく教えてください。
あーくんさん 2006/01/04 (水) 04:09 [ メール ]
はじめまして。最近祖先のことに興味を持って調べておりますが、はっきりしない所もあり詳しく教えて頂ければ幸いです。
家紋は丸に揚羽蝶、お墓は茨城県水戸市の共同墓地にあります。江戸時代は水戸藩だそうです。宗派は日蓮宗です。
実家にある家系図には青木貞景の名前があります。親からの話によりますと、華陽院は貞景の娘!?でも、家系図には女子としか書いてないのでどこにあてはまるか分からないそうです。また、徳川家康に仕え、武田信玄が攻めてきた時には二俣城の副将として戦ったという話。桜田門外の変の時、お家断絶、明治まで復興を許されなかったとか。明治維新の時に徳川慶喜と一緒に駿府へ移ったと聞いてます。
他にも聞いた話は色々ありますが、丸に揚羽蝶は池田家の家紋、平家方ではないのでしょうか?また元々のルーツはどこから来ているのでしょうか?その他分かることがありましたら教えてください。
副管理人の青木です。
さて早速ですが、家紋が丸に梅鉢紋との事で宗派は浄土真宗である事からこの情報からは藤原秀郷流青木氏であります。その藤原秀郷流青木氏の中の支流4氏の一つです。
そこで、お家の菩提寺はどちらでしょうか。又、ご本家はどちらにあるでしょうか。
ただ、大変興味深いことがあります。それは京都御所ということです。
つまり、藤原秀郷一門は武蔵国と下野の国を領国としていました事と近辺には栃木や茨城や群馬や宮城にまで広がっています。
その青木氏は藤原秀郷一族の護衛役として24の赴任地に移動しています。
しかし、京は藤原北家の守りどころですので、其処に秀郷一門の梅鉢紋の分家青木氏が居た事に成りますと面白い事実が出てきます。
本来、支流4氏の梅鉢紋は埼玉の入間郡を中心付近に本家筋は護衛している筈です。丸に梅鉢紋はその分家筋ですから24地方に行かずに京都に定住していたと成りますと政治的に面白い事が予想できます。
梅鉢紋のご宗家か、丸に梅鉢紋の本家が室町期ごろにどこにいたのか、本家がどこにあるのかを判るような一寸したこどでもよいですから、お調べいただいてお便りください。其処からより更にルーツが拡がります。
兎も角も、丸に梅鉢紋は藤原秀郷流青木氏で、支流4氏の一つです。
藤原秀郷の青木氏に関する詳細は研究室の藤原秀郷の生き方などのレポートとそれらに関係するレポートをお読みください。お家のルーツの詳細が見えてきます。家系の人名などは菩提寺にありますのでねその菩提寺がどこかを見つければ全てが判ります。
親類の方がいないとの事ですが、とんでも有りません。お家の丸に梅鉢紋の青木さんは埼玉の入間付近に集団の形で住んでいますよ。
地名/地形データーをリンクしてください。其処の埼玉、或いは武蔵国か下野の国をクリックして下さい。ここに集団で住んでいた村の青木村が有りますのでお読みください。何か出て来ると思います。
多分、丸に梅鉢紋の菩提寺とご宗本家は埼玉県の入間と言う付近にある筈です。
確か以前に、丸に梅鉢紋の方から当サイトにルーツ依頼があったと記憶していますので検索で開いてください。(おしえてくださいと書いたところです。)
昔はご親類の方と成ります。1000年ほど経った時にこのサイトで会えることは珍しい事です。
其れと梅鉢紋に付いての事は家紋掲示板にレポートしていますし、研究室の青木一族の血縁族」でもレポートしています。13/33番目です。
何か、参考になることが出て来る事があるかもしれません。是非お便りください。お待ちしています。
京都の青木です
まりこさん 2006/06/27 (火) 22:39
初めまして、お教えいただきたいことがあります。
家紋は丸に梅鉢、曾祖父は京都御所の近くに住んでいたと聞かされています。
宗派は浄土真宗です。
私がわかる範囲では、京都以外に親類はいないようです(近年になり転居したものはいますが)。
よろしくお願いします。
今日は。大変な情報を頂きました。大変にご苦労されたと思います。
早速ですが、お答えします。
先ず先に家紋のことですが、藤原秀郷流青木氏は本来は家紋は「下がり藤紋」です。
しかし、当時の氏家制度では家紋掟というものがあり、男系家督を前提としています。
したがって男子の跡目が生まれなくては家を維持することが出来ません。
女子の場合は養子を他の家柄のつりあうところからとりますが、この時は家紋は「下がり藤紋」を使うことは本系ではないことから出来ません。
よって、仮に養子元先の家紋を使います。生まれてくる子供が男子である場合は元の「下がり藤紋」に戻す事が出来ます。しかし、再び女子である場合は2代続いての女系になる事で家紋は養子の親の家紋を引き継ぐか、更に子供の養子元さきの家紋にするかを決めます。普通は養子の親の家紋に成ります。2代続いての変紋はしない仕来りです。
特別に、仮にこの家の本家筋が「下がり藤紋」に丸付き紋とする事に同意する場合は「丸に下がり藤紋」とする事もありますが、本来は丸付き紋は男子の分家筋が使う家紋です。(藤原氏は丸付き紋を一切使用しませんでした)
この様に、同じ氏でも家紋が異なってくるのです。元の家紋を維持することは大変な事なのです。男系が絶えなかったことになるのです。特に総宗本家は妻を4段階に分けて儲けて何とか男子を作ることにします。
お家の三階松紋に丸つき紋ですので上記の事が2度起こっている事に成ります。先ず「下がり藤紋」から「三階松紋」にそして、丸付き紋にと成ります。
藤原秀郷流青木氏は家柄が最も高いものであつたので多分三階松紋の丸付きの分家筋とは血縁はしないと見られますので三階松紋の本家筋との血縁から男系の不継により丸付きとしたのではないかと見られます。
そこで、この一族は讃岐地方の一族ですから「藤原文紀」に同行した護衛役の青木氏が土地の三階松紋の豪族の地族と血縁して男系が出来ずに三階松紋から丸付き紋にとなったとされます。
本来は藤原秀郷一族すべては『浄土宗』です。しかし、浄土宗は限られた家柄身分の一族しか檀家になれない宗派でした。したがって各地に赴任する時は浄土宗の寺がありませんのでやむなく浄土真宗かまたは鎌倉期前後には日蓮宗に宗派換えをしました。
よって、このことから、お家のご先祖は鎌倉直前(1160年ころ)の時に四国に赴任移動して土地の三階松紋との縁組をした事が裏付けられます。
そして、鎌倉幕府成立で藤原一門全ては職を失います。その時、これらの゛赴任地で定住していた青木氏は多くは故郷の本家筋のある土地に戻りました。
ではどこに戻ったかと言うことですが、ここで大変な確実な情報です。
それは宮城県の「加美郡加美町菜切り谷字青木原村」と言う場所がありますが、ここにお家のご先祖一族すべてが青木村を形成してここに住んでいました。
戦国時代を除き江戸時代まで「国抜け」と云って他国に出てゆくことは禁止されていましたのでここにご先祖がねむって居られます。
詳しいことは「地名/地形データーベース」のリンクを開き宮城県をクリックして下さい。其処に、お家のご先祖がここに住んでいた事を書いていますので参照して下さい。
(私の研究が正しかったことを証明し意味します。)
そのために青木村があるのです。この青木村は藤原秀郷流青木氏の「文紀」に同行した青木氏が住んでいたところです。
このことから、お家の青木氏は藤原秀郷流青木氏の九氏のうちの直流4氏のいずれかの青木氏です。天智天皇の「大化の改新」の藤原鎌足の8代目の藤原秀郷が元祖になりその第3子の千国が青木氏の祖と成ります。其れより更に青木氏は2度の秀郷本家からの跡目を受けて青木氏を継承しています。
詳しい事は「藤原秀郷一族の生き方」のレポートを参照して下さい。
かなり長文のレポートですのでゆっくりと時間をかけてご先祖のルーツを勉強してください。詳しく載せています。
他のレポートも読まれますと、青木氏を立体的に理解されると思われますし楽しくなるはずです。大変な家柄のお家であることが証明されました。
(ご子孫を大切にお守りください。)
そこから、元は宗派は浄土宗で、家紋は「下がり藤紋」で、一族の全てご先祖のお墓はこの加美郡加美村菜切り谷青木原にある筈です。
そして、この村には浄土宗のお寺があり、そこには菩提寺がある筈です。
その菩提寺は青木一族のみを祀るお寺であった筈です。
寺には「過去帳」という昔の戸籍簿がありますので調べられても良いかも知れません。場合に依ってはご先祖の全ての人の名が記録されている筈です。
ただ、戦国時代に殆どの浄土宗のお寺はターゲットとして焼き討ちにあっていますのでなくなっているかもしれません。
又、この付近に神社があればその神社は元はお家の守護神でした。
普通の氏はこの様に一族の寺とか神社はもてませんが藤原秀郷流青木氏は身分家柄から持てる力がありました。
(もう一つの皇族賜姓青木氏5家5流24氏も持っていました。この青木氏とは私の伊勢青木氏を除く母方が藤原系血筋でつながっています。
又、皇族賜姓青木氏のあとの皇族賜姓源氏とも母方の藤原氏でも繋がっています。)
しかし、この付近には青木氏が点在するはずで、全てご親類と成ります。
インターネットでもおおよその事は確認出来る筈ですし、役場などでも資料はあるかもしれません。一度お尋ねになられては如何でしょうか。
ルーツのところに立ちますと遺伝子が騒ぐのでしょうか何か変な気分に成ります。
ほぼ検証は間違いなく確定しました。後はご先祖の名をクリヤーにするだけです。歴史的なことは藤原レポートに載っています。
加美郡では直流4氏のどの氏であるかの確認の情報も得られるかも知れません。
早速ですが、お家の讃岐の青木氏の存在が確認されました。
讃岐の青木さんからお尋ねがありました。
ルーツはご親類と成ります。
では、又ご質問がありますればお尋ねください。
丸に三階松紋を左隅に掲示しますのでクリックして下さい。拡大します。
Re: はじめまして青木です
あおすけさん 2006/06/26 (月) 01:04
こんばんは。
少しだけ情報が入りました。
お寺の宗派は日蓮宗とのことですがこのことでしょうか?菩薩寺まではまだわかりません
あと、本家は宮城の加美群です。今は市町村合併で名称は変わっているそうですが・・・いつごろかまではわかりませんが昔から宮城にいるみたいです。
爺さんが埼玉に越してきて、その後父さんが栃木に越してきたので
もともと関東人ではないみたいです
先ず大きな点は解決しました。
お家の家紋は丸に三階松紋との事ですが、これで青木氏のルーツの大まかなところは確実になりました。
先ず、三階松紋は主に讃岐から阿波国現代の香川と徳島県に成りますが、この地方に分布しています。
この一族は寒川氏や福家氏や飯田氏や新居浜の2新居氏らがこの家紋を使用しています。これらの氏名は地名にもなっています。
江戸時代には西尾氏永井氏などが家紋としました。
多分この一族のどこかとお家の青木氏とが血縁を結んだことを意味します。
この地方には武蔵の国と下野の国から朝廷の命により守護などを含む官職として藤原秀郷の一族が赴任しています。
当然、この本家の護衛役としての青木氏はこの赴任地に付き従います。
藤原氏の戦略として赴任地には必ず土地の豪族との間に血縁をもち勢力を拡大するために子孫を残す方策を採っています。藤原秀郷の一門は24地方に役職として赴任していますが全てにこの方策を採っています。
藤原秀郷の主要5氏は青木氏、永嶋氏、長沼氏、と長谷川氏、進藤氏です。
青木氏は藤原秀郷の第3子の千国が元祖になります。
この元祖は貴族ですが貴族は武力を持つ事が出来ませんので、第3子を武士にして自らを守る親衛隊としての役目を負荷させました。
これが青木氏です。各地に朝廷の命で赴任しますがこの護衛役を担ったのです。ですから子孫を多くのこして護衛軍を作り出さねばなりません。
其れが116氏にもなった所以です。
青木氏は直系1氏と直流4氏と支流4氏の九氏が主要氏です。これが116氏にもなりました。元は直系の「下がり藤紋」です
お家はこの116氏のひとつです。116家紋があることに成ります。
お家はこの九氏のどの系列から出ているかです。今の情報ではわかりません。
讃岐の三階松紋との血縁がある事は直流か支流のどちらかです。
関東に何時もどったかの情報があれば2つのどちらかに決める事が史実から判定できます。
三階松紋の新しい家紋と家柄と勢力から見て支流4氏から出ている可能性があります。
本家は武蔵や下野の本拠地を守る必要がありますので、分家を拡大させて各地に送りだしたのです。
本家は根拠地を総宗本家を入間郡に於いて横浜から栃木までを円を描く様に3重程度に取り囲んで守っていました。
この藤原秀郷は藤原氏のなかでも4家のうちの最も勢力のあった北家です。
この子孫は各地で勢力を拡大し、例えば平泉の藤原氏もこの子孫です。
この藤原秀郷は大化の改新の藤原鎌足の子孫で8代目に当ります。
この秀郷は「平の将門の乱」で軍功を上げて武蔵の国をてにいれました。
この秀郷の末裔の「宗政」という者が阿波国に、「文紀」という者が讃岐国に赴任しています。鎌倉期前に。
多分、宗政は他の家紋の持つ一族との血縁を結び子孫は阿波国を始めとして讃岐や安芸国に分布させています。家紋が異なっています。
ですから、この「文紀」に付き従っていった青木氏が土地の三階松の家紋を持つ一族との血縁を結んだと考えられます。
この時、本来であれば家紋は秀郷の子孫であるので青木氏であるのであれば「下がり藤紋」か他2つ程度の家紋に成ります。
ここで、他2つの家紋になるかどうかはご先祖の出生にかかわることに成ります。大まかに平家の血筋を持つのかどうかに関わります。第1点目
「下がり藤紋」として室町末期から江戸期にかけてお家は男系の相続が出来ない事が起こり定住地でこの三階松紋の一族から養子の跡目を入れて跡を次ぎ更に次ぎの代でも男系が途切れて最終家紋掟に従い養子先の家紋を引き継ぐ結果となったと見られます。
この家紋を持つ青木氏が更に分家してかこの三階松紋さえも男系で継ぐ事ができずに本家の了解を得て丸付き紋になったことも考えられます。
この丸付き紋は三階松紋の分家筋になる時も使用します。3回も家紋が変化することはまれですので男系不継と見られます。
では次ぎに何で今栃木なのかです。ご先祖が関東にあるのかです。
一つはこの元赴任地で定住していたが、何らかの理由から青木氏総本家すじから丸に三階松紋のお家の本家筋のみが関東に呼び戻された可能性があります。このような事は頻繁に軍事上行われていたのです。ですから、多分、この四国には三階松紋の青木氏が僅かに残っている筈です。
四国には三階松紋の青木氏以外に宗正に従った藤原秀郷の青木氏が分布しています。この点が決め手になるものと見られます。第2点目
ここで2つの問題を解決する情報が出て来るかです。
後は宗派と菩提寺と本家の所在地の確認です。第3点目
お家に古物か何か残っていませんか。そういうものが手がかりに成ります。
仏壇の内部の形なども大きく左右します。第4点目
丸に三階松紋には5の紋様がありますが、本家の右三階松紋ですか。第5点目
以上、今のところはこの程度の検証になります。また、お判りになりましたらお便りください。ちょつとした事でもけっこうですから判ることがあります。
研究室の藤原秀郷の所を一度お読みになる事をお勧めします。なにかヒントをつかめるかもしれません。
Re: はじめまして青木です
あおすけさん 2006/06/22 (木) 01:09
ありがとうございます。やっぱり情報が少なすぎますね・・・松紋は丸に三階松紋です。ほかのことも調べて見ますのでまたお願いします
さて、お尋ねの件ですが、情報としては栃木または宮城と家紋は松紋との事ですが、確かに情報が少ないのでお答えが難しいのですが、次ぎのことをお調べ頂くとよりルーツを検証することが出来ますのでお知らせください。
先ず、松紋は全部で114もあります。この内青木氏に関わる家紋類は次ぎの二つです。
第1番目は丸に三階松紋です。
第2番目は抱き若松紋です。
この二つが青木氏に関わる紋と成ります。
そこでお家の家紋はこの内のどちらでしようか。
次ぎにお寺の宗派は何宗でしょうか。
次ぎにお爺さんの代とすると明治のころですのでルーツの確認は出来ませんので室町前後のころのご先祖の居たところですが判りませんか。このころの所在地は移動が出来ない社会でしたので古くから其処に居た事に成ります。
お寺の元々のご本家の菩提寺はどこでしょうか。
しかし、大まかに検証しますと、昔の国として武蔵国(埼玉)と下野の国(栃木群馬)には藤原秀郷流青木氏がこの一体を勢力圏ないに置いて子孫を拡大しました。
(研究室の藤原秀郷流青木氏関連のレポートがありますので詳細はここをお読みください。)
この栃木宮城群馬付近に昔からお住まいとしていたとするとこの藤原秀郷流青木氏の子孫となります。
(但し一部に武田氏系諏訪族青木氏の皇族賜姓青木氏の末裔が桃山時代にこの地に移動してきております。)
大きく分けますと青木氏は次ぎの二つに分けられます。
一つは、皇族賜姓青木氏5家5流24氏と藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏に成ります。
お家はこの付近に長くお住まいと成りますと、家紋も三階松紋であるとするとこの藤原秀郷流青木氏であります。丸付き紋ですのでこの支流のおうちと成ります。松の形が三段階になっておりますし、松紋は大変似通っていますのでご注意ください。
更に、松紋は新しい家紋類に成りますので、江戸初期か室町末期に男系不継により松紋氏支流一族から養子による跡目をとり変紋を余儀なくされた藤原秀郷一門と成ります。
讃岐と栃木ではかなり離れているので難しいところです。
ただ、藤原秀郷流青木氏は護衛役として武蔵等から各地(24)に赴任して定住していますので可能性が遺されています。
松紋は江戸時代に多く使用された家紋類で讃岐地方に分布しているのです。
この二つの紋以外と成りますと明治初期の第3の青木氏と成ります。
詳細はお調べいただいたときにご説明いたします。(研究室にもレポートしています)
青木氏には平安初期より明治維新まで青木氏を名乗ってはならないと言う朝廷より詔がでていましたので他の氏と異なりその出生は限られています。
どんな事でも結構ですからお知らせください。お待ちしています。
はじめまして青木です
あおすけさん 2006/06/20 (火) 23:54
今は栃木ですが爺さんの代は宮城にいたそうです。家紋は松だったと思います。情報少ないですがぜひルーツを知りたいです
狩野さん。始めまして。当サイトをご覧いただき有難うございます。
今後ともよろしくお願いします。
さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、この鹿角紋に付いては元は戦国時代に兜の前立ちにつけた飾りで勇壮であるので用いられたものです。
信長に切腹を命じられた家康の長男の松平清康の家来近藤乗直という者が狩の途中で鹿と組討し角を持ってねじ伏せて角を裂いたことで有名になりこの角を家紋として清康から賜ったという逸話があります。
しかし、既にお読みになつた事と思いますが、この紋の「抱き角」紋は平安初期から
甲斐の国に奈良時代から定住していた中国後漢の国(光武帝)から21代目の献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王が引き連れた17県民(200万人)が大和の国の九州に上陸し帰化しました。大化の改新の頃の孝徳天皇の頃からです。
瞬く間に全土を無戦で制圧しました。次第に上陸した一団は関西まで制圧して土地の者と同化して勢力を持ち当時日本全国数は66ありましたが33までこの一族が制圧してしまいます。この一団の長の5代の末裔が平清盛です。
奈良期の頃には外来馬を飼育して甲斐の国に入植して開拓しました。
この子孫がこの「抱き角」紋の諏訪族です。この入植した一団と国を守護するために光仁天皇の第6位皇子が青木姓を天皇から賜り甲斐王としてこの地に赴任しました。この皇族賜姓青木氏と土地の諏訪族との間で血縁関係が興り子孫が諏訪族青木氏をが発祥させました。
この後に陸奥の国から武田氏が藤原氏を護衛してこの地にはいり、勢力を得て諏訪族を吸収しようとしましたが、この一族には朝廷より不入と不倫の権が与えられていたので武力による吸収は出来ずに結果として政略結婚にて吸収して甲斐を制圧しました。
当然に武田氏と皇族賜姓青木氏とも血縁を持ち、皇族賜姓源氏とも血縁を持ちました。
この諏訪一族の家紋が抱き角紋で22の紋様があり、この内18が抱き角紋(諏訪族系)です。(残りが徳川の家来の近藤氏の家紋です。)
この一族は分家支流共に角の一部を変えて家紋としました。
諏訪族支流のこの「四つ又抱き角」紋も、青木氏は諏訪族と血縁を持ち男系継承不可となり諏訪族から養子の跡目をとり、姓はそのままに家紋は家紋掟によりこの四つ又抱き角紋としたものです。、諏訪族青木氏か皇族賜姓青木氏かの一部のどちらかがこの紋様になつたのです。本来は本家は笹竜胆紋です。
お家の狩野氏はこの諏訪族の他の支流の一族との血縁を持ち男系継承不可(養子)から家紋掟により狩野氏(養子先姓)の姓を引き継いだものと考えられます。諏訪族には他に多くの姓の氏があると思います。
甲斐の3つの青木氏とは間接的に縁者ですがまったく血縁関係が有りません。
当時は氏家制度の中での身分や家柄を中心として血縁しますので、氏として残るには必然的に限定されてきます。
よって青木氏にとっては掟外の血縁は氏としてはのこらず「妾」としての扱いで氏を名乗ることは許されません。
血筋を守る為に当時はこのような認可は総宗本家に届け出て認可される仕組みです。
甲斐では武田氏と諏訪族の二つが血縁関係の相手となります。
「家紋掟」は徳川時代まで維持されました。家紋と氏姓はこの掟により決まりました。
青木氏系は皇族賜姓青木氏は5家5流24氏になります。(藤原秀郷流青木氏は116氏)この中には狩野氏との何れも血縁はありません。
諏訪族の支流の末裔と見られますが、戦国時代を経ていますし、専門外ですので確定は困難です。
狩野氏は甲斐国の出で徳川氏の御家人と見られます。
この御家人は家康が武田氏が信長に滅ぼされた時に勇猛果敢な武田系諏訪族をそっくり家臣にしました。(諏訪族青木氏を除く)
何かご質問がありましたらサイトの研究室にお尋ねください。わかる範囲でお答えします
四つ又抱き角紋の狩野氏
青木研究員 さん 2006/06/04 (日) 20:54
初めまして神奈川県在住の 狩野 (かりの)と申します。
我が家の紋が御サイト題11/33番目の 四つ又抱き角と
同じなのですが つながりはありますでしょうか。曾爺さんから父
の生まれは宮城県です。
Re: 二つ引き紋の青木について
丹沢麓の青木さん 2006/03/14 (火) 08:58 [ メールウェブサイト ]
今回の両引き紋についての解説掲載、有難う御座いました。
我が家の古文書にある二つ引き紋は足利の家紋であり、青木とは何の関係も無い紋だと思い、今まで全く気にも留めていませんでした。
まあ、せいぜい主家の足利から使ってもいいよと与えられた一時的な紋であり、それ故そのあとで紋を変えてしまったのだろう・・・・と。
新しい発見であり、非常に役に立つ内容でした。
全く、貴方の仰る通りです。今の企業どころの話ではありませんね。本家が一つ間違うと一族郎党赤子まで滅ぼされるのですから。まして、同じ一族の者から裏切られる事もありますから、一族は力のある者が指揮しないと死です。ですから、長男が居ても次男がしっかりしていると長男を誅し次男が嫡子になる事は日常の事でした。
賜姓青木氏の所を見ていただくとお判りであると思いますか゛伊勢、美濃、信濃、甲斐の賜姓青木氏は長男や嫡子が居ながら、清和源氏から跡目相続を受けています。又、美濃の土岐氏も、岐阜の足利氏も、甲斐の武田氏も清和源氏から同じ跡目相続を受けています。
又、この土岐氏、足利氏、武田氏と賜姓青木氏と血縁関係を持ち土着豪族系の青木氏が生まれている3つ巴の状況です。
これは渡来系の32/66国の所領を持つ超大勢力の京平氏に対抗するためで、普通の子供では到底一族を維持出来ないためです。
しかし、結果としては伊勢の青木氏を除き清和源氏(頼信系)を含む4氏は滅びます。
しかし、色々と調べていると以外に逃げのぴて子孫が残っている事が判ってきました。現在のところでは伊勢の賜姓青木氏を始めとして賜姓青木氏は美濃、信濃、甲斐に直系の賜姓青木氏(笹竜胆の家紋)が存在する事が確認できました。(支流は太田氏とか多田氏とか伊豆氏とか名を変えて多く残っているが)
伊勢と含めて5家5流氏の青木氏が現存します。
貴方のお家の本家筋の青木氏も、夏冬の陣で豊臣側に着いた一族は消えていますが、徳川方についた本家一族の正頼という人の子孫が代々徳川家に仕えて生き延びています。多分、どこかに本家が存在すると思います。私の調べた範囲では一人が江戸期に城持ちに成っている者がいますが、多分この者は貴方のお家の一族の本家筋の人ではないかと推測します。
本家の家紋は丸に揚羽蝶と木一文字です。このことから、この上山氏は揚羽蝶紋は渡来系京平氏の家紋ですから、丸付き紋はその支流紋と言うことに成ります。故に家紋が事実とすると平家の支流に当る血縁を一部に引いていると考えます。この線を基準に調べると出て来るかもしれません。
(渡来系一族のことは研究室の平家のレポートを参照して下さい。)
(賜姓青木氏と藤原青木氏とに当てはまらない疑問がありますので)
貴方のお家の本家筋は1230年ころまで10程度の各地の守護地頭職をつとめていますから残っていると思います。参考として私の調べた範囲としては地名データベースの欄を見てください。
研究の結果を又、教えてください。
追記
今後の研究に参考になるかもしれませんので以下のことを追記します。
貴方の一族の移動範囲ですが、越後(新潟)、越前(福井)、越中(富山)、美濃(岐阜)、近江(滋賀)、山城(滋賀)、大和(奈良)、淡路(香川)、阿波(徳島)、土佐(高知)、伊予(愛媛)、石見(島根)
以上に30年かけて3人の兄弟一族で移動し赴任しました。
これは一一族が10以上も官職を務めるのは稀で大変有能な一族で団結力もあつた事を示します。それだけに本家分家の内では厳しいものがあったと思います。この内のいずれかに貴方のお家の青木氏を残して来ていると思います。
(上山姓でも子孫を遺しているかもしれません)
(美濃には4氏種あり上山氏の青木氏の存在は確認、四国は無い様に思います。信濃には4氏種の青木氏が居るが1氏種は不明となっていますが、この一氏種は元は上山氏の青木氏かと見ています)
ご質問も何なりと。
丹沢麓の青木さん 2005/09/17 (土) 22:40 [ メール ]
詳細な解説を頂きまして有難う御座います。
少しずつ霧の中の判らなかった部分が見えてきたような気がします。
下克上や家の買取のお話で、ふと気が付いたのですが、嫡男が居るにもかかわらず養子を押し付けられ、実質的に家を乗っ取られたのではないかと思われる例が見え、当家の家系にもそれらしい痕跡が見えております。また、当家の血が幾度となく絶えているにもかかわらず家だけが続いてきたと言うことは、研究員さんのおっしゃるような背景が有ったのかなと、興味をつのらせております。
家の存続というものを巡って、今の企業以上に壮絶な生き残りに懸命であった先祖の姿に感激です。
少しずつ判った範囲を整理して行こうと思っております。
引き続きよろしくお願いします。
先ず、最初のご質問ですが、ではもう少し詳しくご説明します。
ご先祖は甲賀の人ですが、この人は甲賀郡の正福寺というところが最初の出所地です。この人は一時、美作国(岡山県)にて住まいし、1203年の承久の乱に大変な手柄を立てて出世し、鎌倉幕府から、その功を認められて平家の所領であつた美作の国を与えられました。その後、子孫の家頼が丹波の国青木庄に移住して、青木氏を名乗りました。
そこで、この青木庄の青木氏は、次の様な事情の血縁で発祥しました。
天智天武期に第7位の皇子の川島皇子がその功績にて特別に天智天皇より賜姓佐々木氏を受けて臣下しました。
(本来は第6位の皇子が賜姓を受ける 第6位は施基皇子の伊勢青木氏)
そして、近江滋賀の国の王となりました。その後、天武期には、佐々木氏から皇族であるために嵯峨期の令に従い、青木氏に分流して名乗り換えしました。(青木氏別説もあり)
この青木氏が後に何らかの理由で丹波と攝津国(別説の青木氏)に移動しましたが、この丹波の佐々木系皇族青木氏が定住したところが青木庄です。
この土地に、貴方のお家の先祖の家頼と言う人がこの地に移りました。此処で、出世もしたこともあり豪族となり、この地に佐々木氏系青木氏がいましたので、その絶えた青木氏の分家の家柄の一部を買い取るか、下克上の奪い取りなどをして名乗ったとされています。
(当時は守護や地頭になるには家柄が無くては所領を認めてもらうことが絶対に出来なかったのです。)
それは、鎌倉幕府がとつた「本領安堵策」が原因しているのです。
「元の土地をその氏に返す策」で源氏の勢力を、奪い採った平家の土地を賜姓源氏一族か賜姓青木氏一族かに分け与えて勢力を盛り返す策に出たのです。
ですから、功を立ててもこの一族に連座していなければ所領は認めてくれません。そこで、この上山氏は土地に奈良期から居た佐々木氏系青木氏の一部の子孫の絶えた家系を買い取りか、奪い取る方法をしてその功績に見合う家柄をつくったのがこの経緯です。
(なんらかの方法で奪い取るが、下克上が妥当でその理由は下記)
この当時、13〇〇年ころまで「本領安堵策」のために土地を認めてもらうためにこの現象が各地で起こりました。(下克上の始まりです)
貴方のお家の本家は氷上郡にいて、友政城という城がありますが、この一族(久政)の居城と云われています。
1230年頃に務めた美濃国に子孫を遺してきました。
この土地は佐々木氏の家来に成っていた貴方のお家の本家の家頼の孫(安頼)が信長配下の青木左京進(後に秀吉の配下)等に敗れて正福寺の所領を貴方のお家の本家と分家筋の貴方のお家は無くすことに成ります。(墓は浅井郡甲賀村にあり)
この時、1338―1341の3つの乱にて美濃の国に逃げ延びて移動すると成っています。(1400年初め前です)ここに上記した子孫が居ました。
(美濃国安八郡には幕府の国府があり、守護地頭の時代のときに現地の国府近くに1230年頃に子孫を残してきていますから、この安八郡付近には賜姓青木氏と貴方のお家の上山氏変名の青木氏が南よりに住み分け居住)
このことから、元は上山氏は最初は丹波の青木左京進を倒して、この土地を奪って家系も奪いとる事になったのではと推測します。しかし、青木左京進は勢力を盛り返し、上記の乱で再び元上山氏の青木氏は敗退し、更に元上山氏の青木氏が今度はこの青木左京進を再び本家の安頼の息子(不明)が近江勢田で討ち取ると言う事件があり、元上山氏の青木氏は家系と土地を再び保つ事が出来て、本領安堵となり、後に本家筋は徳川秀忠の家臣に成ります。
上山氏の青木氏への変名はこの史実から起こったものと思います。
(一時敗退したときに分家の上山氏の一部が上山氏を名乗り続けたと見られます)
(この敗退した青木左京進の一族は丹波から近江の佐々木氏を頼り戻ったと史実はなっています。)
以上ですが、これでご質問は答えているかと思います。
もとから居た佐々木系氏青木氏とは以上の理由で血族的繋がりは有りません。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏を調べるには全ての青木氏の把握が必要でどの位置に青木氏が歴史的に存在したかは判りません。
ルーツを知る事は同時に先祖の苦労の跡の歴史を知ることだと私は思っていることです。
当然に、佐々木系青木氏が近江で上山氏と戦い丹波に移動した青木氏がどの様な理由で敗北したかも知る事は目的の一つです。
これは、何故に佐々木氏から離れて青木氏が二つに分かれて移動したかの疑問を解明する事も楽しい一つです。ですから上山氏の青木氏の貴方のお家の解明も大変な作業なのです。
摂津に移動した青木氏は兵庫の大木(おうき 古代呼称)に現存します。貴方のお家の青木氏(上山氏)は資料からは5地方程度に居していたことが確認出来、江戸期には城持ちなど大変活躍しています。
調べていると疑問が出てきてどんどんと引き込まれていきますね。
又、調べられて判らないことがありましたら、またサイトにメールください。楽しみにして待っています。
甲賀の青木について
丹沢麓の青木さん 2005/09/17 (土) 18:19 [ メール ]
研究員さんの言及されました甲賀の青木氏について、もう少しお教え頂ければ有り難いのですが。
と、いうのも、甲賀五十三家に上山氏と青木氏の名が見えるのですが、この青木氏は上山氏から名乗り変えしたものでしょうか。
それと、近江から美濃に移った時期が我が家の記録では1400年代の初めとなっております。
事実かどうかは別として、一応将軍足利義量公の頃までは近江に居り、国戦に破れて美濃に追われ、一族が居た美濃の養老郡から安八郡辺りにしばらく定住していたと16000年頃の記載が残されています。この辺りになると諸説入り混じって、どう理解してよいのか困っています。
当家の青木は、甲賀の出としか伝えられて居らず、一般に言われる清和源氏とか藤原氏とかの伝承は全くありません。その点では研究員さんが研究対象とされている高貴な青木氏ではなく亜流の青木氏になりますが、よろしく
丹沢麓の青木さん 2005/09/13 (火) 23:13 [ メール ]
早速のRe有難う御座いました。
家の古文書を溯って行っても戦国時代以前の記録は曖昧で、どこから出た青木なのか首をひねっておりました。
家紋はどこかの時代に変えた(あまり良いことではないようです)とも伝えられていますので、ますますもってややこしい。
しかし、近江甲賀の出と伝えられていますので、研究員さんのご指摘は正しいようです。
どこの青木にぶら下がるのか判らず悩んでおりましたが、お教えいただいてすっきりしました。有難う御座いました。
目下先祖の歴史の発掘中に付き、また判らない事がありましたら質問させていただきます。
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