※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
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Re: 苗字について
副管理人さん 2008/03/25 (火) 19:33
神戸さん 始めまして。
青木サイトにお越し頂きありがとう御座います。
これからも宜しくお願いします。
さて、残念ですが、神戸家の事に付いては全く判りません。
九曜紋では、甲斐の皇族賜姓青木氏の武田系青木氏がこの家紋ですが、甲斐の国の王の一族の賜姓青木氏と九曜紋を持つ他氏との血縁で賜姓青木氏(笹竜胆紋)に嫡子が無く養子を九曜紋の家からとりましたが又嫡子が生まれず、結局、女系となり家紋掟により養子先の家紋となった養子系の青木氏に組み込まれたものです。
この家紋は比較的新しい室町末期から発祥した新しい氏です。
青木氏と血縁したこの氏は武田氏の支流であるとされています。
神戸氏が武田系であるかはわかりません。ご先祖が岐阜定住氏であるとすると武田系では有りません
皇族系との事ですが、皇族系には神戸氏が有りません。
皇族系では史実より青木氏、佐々木氏、源氏、近衛氏、藤原北家氏、が本流で支流では太田氏などがありますが神戸氏は有りません。皇族の者(第6世以上)が下俗する場合は青木氏を名乗る事になっています。(賜姓族5家5流24氏以外にこの青木氏は2氏しかありません)
第7世はひら族となり坂東八平氏であります。
皇族系には平安期の氏ですので室町期以後はでて居ませんので、神戸氏などの新しい氏には有りません。藤原北家系の公家ではありませんか?。然し、岐阜では有りません。
参考
神戸氏は織田信長の息子の信孝が神部氏を潰し、養子にはいり神戸信孝となりましたので、本サイトから青木氏ブログに入り、左メニューの織田信長のサイトに入り、織田信長年表から神部氏のことを調べてください。神戸氏は伊勢の豪族でした。この神戸氏があります。専門外であるので、公家の末裔といわれる神戸氏とは関係があるかはわかりません。
平安期の皇族氏は下克上、戦国時代で狙い撃ちにされて上記の保護された一部を残し殆ど滅亡しました。
以上、史実の構成から知る範囲でお答えしました。
苗字について
神戸光吉さん 2008/03/25 (火) 12:59 [ メール ]
私の苗字は 神戸 です 幼い時から 変わった苗字だとは思っていました メリットは一度で名前を覚えてもらえる事でした 家紋も丸に九曜紋で 他の家紋とは 何か違うとは感じていましたが 今回 壊れた家紋のキーホルダーを製作するため ネットで検索中 このサイトを発見し 大変驚いています 本家は 岐阜県 加茂郡 字 神淵 にあり 其の部落のほとんどが この家紋を持つ神戸家です 墓には 数え切れないほどの石碑があり 落ち武者の部落とは 聞いています 本家に聞いたところ 皇族とは 何か関係がある事は聞いているが 詳しい事は知らないとの事です 神戸家について 何か分かる事は有るでしょうか 宜しくお願いします
大島さん 今晩は。
北本市の史の新田氏の支流説は何処の時代の資料を元としたかによります。
室町期初期以後の史料は余り当てになりません。これは歴史を研究している者の常識です。
自市史を良く見せる為によい情報を出します。
新田氏は清和源氏足利氏の家来筋の支流ですが、分家は兎も角も、本筋かは疑問です。家紋が綜紋を使っていませんので支流の支流でしょう。足利期以降の系譜や家紋は余り当てになりません。
昔は「国抜け」と言い国以外に許可無く出ることは出来ません。無許可で出ると一族郎党死罪です。
大島氏分家の新田氏の支流は考え難いものです。この大島氏は未勘の氏か搾取偏纂の可能性が。
今の感覚で考えると間違いを起します。
多分、居るとすると、この大島氏は立身出世して武士に成った者が大島の縁ある者か遠縁のものが名乗ったと思われます。
剣片喰の家紋の多い地域は新田では有りません。青木氏の家紋掲示板に記載していますので参照して下さい。主に四国阿波と美濃付近です。
昔は「氏家制度の社会ですので血縁は均等な家柄の血縁と成ります。
大島氏本家は1家は、鎌倉期の史料より証明されているものですので、確実です。
ただし、大島氏本家筋1家1流ですので数は限られます。
笹竜胆の綜紋の大島氏は多くはないと考えます。
(本来は正腹で直系で無いので綜紋の笹竜胆紋使用はではないし、総宗本家の許可を得ていないので疑問 家紋掟では未勘氏の丸付き紋の笹竜胆紋が正しい)
全国で5-10軒程度でしょう。後は、あやかり族と思います。
江戸中期以降は殆どは女系になっても「家紋掟」により家紋を変えることをしていませんので信用できません。
本家大島氏は源氏本流とは違いますが、亜流の妾腹(戦地妻と言います)ですが、為朝の直流です。
調査に際して、注意される事は、史料が全て正しいと言う事では有りません。前レポートで書きました室町期末期からのものは、3つの混乱期の系譜家紋詐称偏纂が殆どですので。
市史や県史や系譜書は先ずこの3期の搾取偏纂をしたものを元にしています。本青木氏のレポートにもありますが、徳川を始めとして全てに近い氏はこの搾取偏纂です。
特に清和源氏を名乗る氏の殆どは未勘の氏と成ります。
この点を留意してお調べください。
先ず史料を頭から信じると何がなんだかわからなく成ります。
それでは。
Re: 埼玉県北本市 大島です
大島さん 2008/03/03 (月) 20:15
管理人さん、有難うございました。
色々と勉強になりました。
ウィキペディアの源為朝に北本市の大島氏の事が載っておりました。
足立郡宮内村(現在の北本市宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、永正 大永の頃、小田原北条に属して武州に住し戦功ありて、永禄七年甲子の感状を賜う。その外 槍二筋を持ち伝えり。且その頃は鴻巣領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、北条時政にその旨を訴え、源頼朝により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、承元2年(1008年)に八丈島に弥陀寺を創建した。(現在の宗福寺)太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。戦国大名太田氏の家臣団・鴻巣七騎の1人大島大膳亮久家がおり、小田原の役後帰農して今に連綿と系譜が続いている。家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ) 。
家紋は剣片喰となって降りますが、笹竜胆が本家で北本市でも2.3軒しかないようです。
剣片喰の大島家は、たくさん有り分家だと思います。
北本市史をみたところ、北本の大島氏は新田氏の支流だとの記載もあり、何が本当か
わかりません。
これから、調査していきたいと思っております。
Re: 埼玉県北本市 大島です
副管理人さん 2008/03/02 (日) 19:59
埼玉の大島さん。今日は。 始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
青木氏のサイトですが、ご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。
判る範囲でお答えしたいと思います。
さて、ご質問ですが、伊豆大島の大島さんですね。
既に、このサイトの大島さんの事はお読みと思いますので、概略をお話します。
伊豆、大島さんは、清和源氏の分家頼信の子孫(本家頼光)ですが、頼朝義経などと同じルーツの源氏です。この源氏の為朝が平氏に追われて中国地方、九州地方、沖縄まで逃げ延びて、最後に黒潮を渡って伊豆大島にたどり着きます。
此処で、土地の伊豆の水軍の豪族の大島氏に保護されて、暫く、留まります。
此処で、豪族の娘との間に子供が出来ます。この子供は背の高い大変大きい人物でした。ところが、為朝は迷惑が掛かるので腹を決めて都に帰り処刑と成ります。
この大島の子供に脇差と認知状を渡しました。その後大きく育ちました。
丁度、義経が平家を壇ノ浦で打ち破りましたが、平家の残党の陶水軍(後の村上水軍)が再結集して源氏の首根っこの三浦半島を急襲します。頼朝は水軍を持っていませんし、この域に防備が敷いていませんでした。慌てた大島氏の落しだねの伊豆水軍は5日かかるところを3日で駆けつけて、平家と最後の決戦をします。そして、打ち破ります。
ところが、頼朝は義経と歩調を合わしたこの大島氏を正等に扱いませんでした。頼朝のバックの北条氏はこの大島氏を襲います。何とか逃げ延び伊豆大島に帰ってしまいます。
これが、清和源氏は滅亡しましたが、子孫を遺して笹竜胆紋を使える5氏(皇族賜姓青木氏(5)、近江佐々木氏(1)等)の一つ、伊豆の大島氏(1)があります。
この伊豆大島本家筋1氏だけが特別に笹竜胆紋です。
しかし、この大島氏の分家筋は他紋です。大島氏の家紋に付いては専門外ですのでわかりません。
この笹竜胆紋は本家筋本妻のルーツの者が引き継ぎます。
さて、お家の家紋は「丸に揚羽蝶」紋との事ですが、揚羽蝶紋は平家紋です。この揚羽蝶には沢山の文様があります。
しかし、先ず、平家紋の揚羽蝶紋かどうかです。
平家にあやかってよく似た揚羽蝶紋を多くの氏が使っています。
次に、平家の揚羽蝶紋は丸付き紋を使用して居ません。
分家は副紋方式です
同様に、笹竜胆紋、下がり藤紋も丸付き紋は使用していません。
第1番目は、これ等の紋に「丸付き」にしている紋は「未勘家紋」といいまして、主に「あやかり氏」であります。
大島氏に遠縁や分派分流族や何らかの間接縁を持つ者が大島氏を名乗ってその家紋に丸付きにして使用しました。
この現象は室町末期の混乱期、江戸初期の混乱期、明治初期の苗字令の3期に起こっています。
大島氏は平家である事は上記の事から考え難いです。清和源氏を助けたのですから、本家が源氏なのに分家筋が平家はおかしいです。先ず無いと思います。
第2番目は、従って、江戸初期の家紋を持たない武士に出世した者がこの家紋を使用したか、この丸付きの揚羽蝶を家紋としている氏と血縁し男系継承できずに養子を取り女系となった氏とも考えられます。
氏家制度は男系ですので養子と成ると養子先の家紋と成りますし、妾腹の子供は原則は家紋を引き継げませんので別の物にする必要が出てきます。
第3番目は、家紋は江戸初期まで中級武士以下は持っていませんでした。
家紋の無い武士と成った者は、この時期に集中して家紋を作りました。
氏の家紋の変化は他にもいろいろとありますが、主だったものはこの程度です。
笹竜胆紋は、賜姓青木氏5家5流の綜紋ですので、直系氏だけですので、子孫を遺しているのは、青木氏、近江佐々木氏、滋賀佐々木氏、伊勢北畠氏、大島氏です。
これ以外は、有りませんで、これ以外は「あやかり氏」の未勘氏です。大変覆いのです。
(中には、日向青木氏の様に家紋消失の丸付き笹竜胆紋は特別で別です)
私の近所にも居まして、伊豆大島の大島さんが笹竜胆紋です。
大島氏は専門外ですので以上です。
ご質問が有りましたら、お尋ねください。
埼玉県北本市 大島です
大島 重正さん 2008/03/02 (日) 14:26 [ メール ]
今日は、埼玉県北本市の大島と申します。
ネットで自分の苗字を検索していたら、こちらの青木様のサイトにたどり着きました。
こちら、サイトに記載のあった伊豆大島氏のことですが、教えてください。
私は、埼玉県北本市の出身で、この北本市には、大島の姓が多いのです。
以前に鴻巣七騎(鴻巣の地にいた戦国時代武士)の1人の大島大膳亮久家が伊豆大島から
この地に住み着いたと聞いておりました。
確かに、北本市宮内に子孫の方がいるそうです、お墓に行ってみたら笹竜胆の紋でした。
また、同じ宮内の別の墓地にも、大島の墓が有り、この墓の家紋は剣カタバミの紋でした。
宮内の隣の古市場にも大島一族の墓が有り、丸に揚羽蝶を使用しておりました。
同じ北本市の大島なのに家紋が、なぜこんなに違うのか?
また、どの大島家も一族の墓で、かなり大きいな墓地でした。
ちなみに、私の家は家紋が丸揚羽蝶です。
しかも家の本家は、大善院と言う里修験だったようです、しかし江戸時代の墓には大島と言う
苗字が刻んで有りました。
やはり、北本市の大島は伊豆の大島氏でしょうか?
桐紋
副管理人さん 2008/02/26 (火) 07:29
Re: 青木氏と血縁族(家紋)-25(桐紋)
(新) 山内博臣さん 2008/02/26 (火) 01:06 [ メール ]
七五三の桐紋って何家の紋か分かりますかね?
副管理人が山内さんの投稿を此処に移しました。
今日は。始めまして。
よく青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、残念ですが、青木氏以外の事はよく判りません。
そこで、折角ですので、知る範囲の事でお答えします。
既に「青木氏と血縁族」(家紋)の桐紋のところをお読みになったと思いますので、詳しく述べません。
162もの家紋の文様があり、結局、天皇家の象徴紋から、家紋の持たない中級以下の武士と一般庶民のものとなりこの文様を使用しました。
その中でも、特に、この七五三の桐紋は松下氏の一族が最初に使用しました。そして、明治初期の苗字令で、その内に誰でもが使用するように成りました。
その使用の状況は各地で、村全体が、又は郡全体が家紋、式紋、墓紋等に限って使用するなどの現象が起こりました。つまり、言い換えれば汎用紋や一般紋になった家紋類です。
従って、氏家を確定する事は困難です。
以上です。判らない所が有りましたら、お尋ねください。
Re: 実家の青木について
滝沢まりさん 2008/02/15 (金) 17:42 [ ウェブサイト ]
色々と教えて頂きまして有り難うございました。丸に木瓜は長野で3番目に多い家紋だそうで我が実家もそんなところからきているのかもしれませんね。牧郷村は山深く交通の便も悪かったようで父は子供の頃犀川を船で渡ったそうです。そんな事もあって疎遠になってしまったのかもしれません。雪も大変多いそうで雪がとけて安全な状況になりましたらお墓参りに行って来ようと思います。曹洞宗についても勉強してみます。本当に色々と有り難うございました。モヤモヤとしていた頭がスッキリ致しました。大切なお時間さいて頂きお礼申し上げます。
。
丸に木瓜紋の青木さん。こんにちは。
始めまして、青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからも同じ青木さん同士で宜しくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、
最初にお断りする事は家紋を除く情報の時期が新しいという事です。
先ず少なくとも、江戸初期前くらいのご先祖の情報が確保できる必要があります。
祖父でありますと、大正か明治の時期でありますから、明治の苗字令(3、8年)が出た後に成ります
のでルーツに関しての検証は無理です。
しかし、この家紋の丸に木瓜紋と宗派曹洞宗と在所の牧郷村と情報で、付随して牧の島城(土岐光衡)と成ります。
先ず家紋に付いては、本来であれば、土岐氏の分家筋と成ります。或いは。第3の青木氏が丸付き紋にして家紋を定めた。この何れかであります。
しかし、この家紋に対して、本来は浄土宗であるものが曹洞宗であります。先ず5家5流24氏の宗派の浄土宗の宗派は先ずめったに変える事はありません。氏家制度の皇族賜姓族の5家5流一種のステイタスと成っていました。従って、新しく特長ある曹洞宗と成るのは考え難いものです。
5家5流の青木氏の一つの信濃には浄土宗の寺はありますので、宗派変えする必要はありません。
次ぎに、信州(美濃?)牧郷村と牧の島城ですが、この時代の氏の発祥は疑問が残ります。
徳川氏のように、源氏を搾取偏纂したように、この時代の大名や城持ちはその家柄を良く見せる為に搾取偏纂したものが殆どです。第一、戦いに敗れて土岐氏は滅亡しています。戦いの後必ず掃討作戦を実行しますので、よほど遠縁でもなければ、子孫は残っている事は有りません。この時代はほんの少しの関わりでも家柄を良く見せる為に一族だと名乗っているのです。出なければ出世は出来ません。江戸初期はこの傾向が一種のブームと成りました。この時に搾取偏纂しました。
面白い話があります。搾取偏纂した者(上山氏が絶えた滋賀の青木氏の分家の後を名乗る)が元の本家青木氏と秀吉の前で戦いになり、結局、元の本当の青木氏が負け青木氏を奪い取られたと云う事さえ起こっているのです。史実として残っているものとして、特に青木氏に関しては皇族賜姓族であるので力の持った者が奪う事が各地(5地方)で起こりました。この時、宗派だけは過去帳を守る為に寺が認めませんので異なる宗派となってしまうのです。一寺が認めても元の本寺は当時は力がありましたので、認めませんでした。過去帳と宗派が変える事が出来ないのです。
他に例として、徳川氏も朝廷が源氏と認めなかったのです。(ありえない南北朝の頃の16代目の源氏を持ち出してきた)幕府を開くには源氏朝臣でなくては成りません。そこで徳川氏は朝廷の資金源を絶ちましたので困窮し止む無く認めるというはハップニングが怒りました。その後、征夷代将軍になるには「源氏頭領」の称号も必要ですから、さらに要求しましたが、朝廷は今度は死に物狂いで断わりました。
そこで、仲介案が出て、「源氏長者」と新しく作り、これを飲んだ史実があり、幕府は開けたのです。秀吉も農民ながら公家出身だと言い張り同じ事を太閤という位にした有名な事件もありますね。
この時期の出世武士になった者全てがこの範疇です。
明治3年に苗字令が出ますが、余り進まないので明治8年に特例法が出て、全ての国民は苗字をもつ事に徹底されましたが、村全体の全員が、ある日突然、農民や庶民が青木氏や藤原氏を名乗ると言う現象が各地で起こりました。
5家5流の青木氏には5国(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐)の「国府」(政庁のあった所:県庁所在地)に青木村がありますが、別のところに青木村でない青木氏が集中して沢山出来たのです。
(第1期の室町末期、第2期の江戸初期、題3期の明治初期の混乱期に起こりました)
青木氏に関しては、嵯峨期に使用禁令が出ていますので、このことは明治初期まで世間では知られていました。
(これ等のことは研究室にレポートしています)
下克上と戦国時代にこの5家5流の皇族賜姓族は下級武士や出世武士の集中的攻撃を受けて潰されました。(不入不倫の権で保護されていた伊勢青木氏などの本家筋を残して)
ですから、室町期に遡って調べなくては本当のことは判りません。
土岐氏系青木氏と云っても皇族賜姓青木氏です。氏家制度は男系社会ですので、家系が男系で無く成る事が続き土岐氏系に組み入れられたという事ですので、土岐氏の城が側にあるからと云ってその証拠となるとは限りません。上記3期のブームでむしろその逆でそれを使ったという事に成ります。
純然たる土岐氏の一族とは違います。男系が取れなかった皇族賜姓族の一族と成ります。
皇族賜姓族の宗派の重みから見て、馬場美濃守が土岐氏である曹洞宗(土岐氏が曹洞宗である事には疑問は無い)と名乗っていることもありますが、徳川氏と同じと見えます。
どうしても、搾取偏纂すると、この様にルーツ確定の条件が一致しないところが出て来るものです。
特別に極めて大きな事で宗派変えをしたとも成りますが、一人が変えても総宗本家からはじまり一族が変わらなければ何の意味も有りません。一人で変えられたとする事はそれはそのルーツの者でない事を意味します。又逆に総宗本家から曹洞宗と言う事は皇族賜姓族ではないことを意味します。
特に天智天皇から始まり光仁天皇までの第6位皇子の5家5流の皇族賜姓青木氏は藤原秀郷流青木氏と違いこの宗派には問題が出ます。先ずあり得ないことです。
末家で宗派変えがあったとすると、当時の「氏家制度」の慣習から、総宗本家から家紋の剥奪と破門取り潰しとなるでしょう。
氏全体を総宗本家が管理している社会ですので、今とは違います。本家に逆らうと家も潰されると言うことが起こる社会です。
江戸初期前のご先祖名と年代、青木村を形成する在所、本家筋の過去帳、元の美濃の浄土宗菩提寺の有無、お家かご本家筋に残る何らかのステイタス、などのことが判れば、もっと明確に検証できると考えます。
丸付き紋には6つくらいのいろいろな意味とパターンがあります。
単純には妾腹分家と女系跡目と成ります。しかし、多さから見ると一番多いのは、第3のパターンでしょう。
皇族賜姓青木氏の笹竜胆紋と藤原秀郷流青木氏の下がり藤紋は丸付き紋は使用していません。
然し、丸付き紋の方が多いのです。この確証の取れない家紋群を「未勘家紋」と言います。
お家は、もし、賜姓族であるとすると、笹竜胆紋から丸付き木瓜紋に成ったことを意味します。
女系が2代以上続くと氏家制度からみて、養子先の家紋となり、血縁的にも皇族賜姓族とは異なる事に成ります。お家或いは美濃にある筈の総宗本家ではこの間にどの程度の女系を経たかも問題です。
曹洞宗は特長ある歴史的行動を江戸時代まで採ってきました。このことから見て皇族賜姓族がこの大変に新しい宗派に変紋する事はないと見られます。あるとすると少なくとも浄土真宗と成ります。
藤原秀郷流青木氏116氏はある特定の地域でこの真宗の青木氏が多いのです。
理解される上でも、この曹洞宗の歴史的なことをお調べになるとお分かりに成ると思います。
皇族賜姓族24氏の妾腹の丸付き紋は大変少ない氏と成ります事もあわせてお考え下さい。
兎も角も上記の限定した範囲での検証ですが、書きました未確認情報をお調べになる事だと思います。
その際に、ご質問が有りましたら、ご遠慮なく生お尋ねください。お待ちしています。
実家の青木について
滝沢まりさん 2008/02/14 (木) 22:36 [ ウェブサイト ]
実家の青木について教えて頂きたく投稿させていただきました。祖父は次男で分家し本家は長野の牧郷村現在の信州新町にあります。家紋は丸に木瓜で宗派は曹洞宗です。長野なのに家紋は土岐氏系青木氏で浄土宗ではなく曹洞宗なので第3の青木かもしれません。ですが牧郷村の歴史を調べてみると牧之島城というお城があり土岐光衝の一族の馬場美濃守が城将で宗派が曹洞宗でした。父も子供の頃に行ったきりで現在は長野を離れてしまっているので本家との付き合いが途絶えてしまっています。遠い記憶でお墓は一族が一緒の場所にあったそうです。本家も分家して本家になったそうで総本家が
あるようです。今のところここまでしかわからずお手数ですが宜しくお願いいたします。
宮崎の青木さん
今晩は。お久しぶりですね。
進言レポートの件は、既に昨年10月1日に読んで頂いて、お家の丸つき紋の笹竜胆紋に変更されています。
ご兄弟の青木さん 野球活躍されていますね。
教えていただき以後応援しています。
又、何か有りましたら、お便りください。
出来るだけ新しいレポートを提供するつもりですので、お読みください。
現在、仮称の「温暖化の裏話」を時事放談で執筆中です。
青木氏に関してのレポートは「青木氏の家訓」の3に入ります。これ原稿編集中です。(現在家訓2です)
追伸
前回のお答えの中で、お家の元祖系譜となる配流された源氏の者の詳細の人物が書き漏れていましたので、追記します。
源広綱、頼政の子
源宗綱、頼政の孫
源有綱、頼政の孫
(源高綱、頼政の子?)
以上三人が1180年の以仁王の乱の敗戦で平家に配流される。
三人は廻氏に匿われる。
大隈の国に簡単な仁田尾城を築城して反乱した。
別に景綱(野州)、盛綱(勢州)、宗綱(能州)に配流
頼政、中綱、兼綱、仲家、仲光、石川有光、足利義房、一来法師は討死
宗綱に関しては能州に配流との説もあり、生き延びたの説もある。
高綱は討死に説もある。
ただ一人子孫を源氏宗家の遺す為に、頼政の3人目の末孫(京綱)は同族の最古の伊勢青木氏の跡目に入れて平家の掃討を逃れて子孫を遺した。
従って、お家の青木氏は広綱か有綱が元祖となります。
つまり、この元祖に付いては伊勢青木氏の京綱(筆者)とは叔父と兄に当ります。頼政の子孫と成ります。
頼政は、清和源氏の経基ー満仲ー頼光より4代目 頼政ー(仲綱): 総宗本家
以上の情報を追加します。
Re: 宮崎の青木です。
宮崎の青木ですさん 2008/01/22 (火) 11:36
お久しぶりです
家紋使用に関して至急進言レポートをお読みください・・・
とありますがどこを見ればよいでしょうか?
見る場所の題名等をお聞かせいただけるとたすかります
Re: 宮崎の青木です。
たかさん 2007/10/02 (火) 13:21
いろいろとありがとうございました。
日本史は苦手だったんですが自分の『青木』を通じて好きになりました。
これも、良き副管理人さんにお会いできたおかげです。
鹿児島に男孫さんがおられるんですね、ということは私より先輩の方ですね。(私は29歳なんで)
これから、『丸に笹竜胆紋』を大切にして子孫代々受け継いでいけたらいいなと思っております。
家建てたら門にも入れたいと思ってます。^^;
--------------
日向の青木さん
福管理人さんはお出かけ中ですので
この部分だけご希望通り修正いたしました。
本当にびっくりしました。
皆さんによろしくお伝えくださいね。
また、是非お越し下さい。
ありがとうございました。
by かんりにん
Re: 宮崎の青木です。
副管理人さん 2007/10/02 (火) 06:40
早速のご理解ありがとう御座いました。
安堵いたしました。
着物屋さんも本職ですからこのことを知っていたのですね。
これで、「日向青木氏」も子々孫々まで、その意味が伝わると思います。
お子さんが元気に育つように同じ青木氏としてお祈り致します。
実は私の3番目の男孫も先日、鹿児島市で無事にお宮参りを致しました。
他にも実は、血筋で致しますと、私の伊勢青木氏と頼光系で繋がっています。
日向青木さんも大いに元気な子孫を広げて頂きます様に。
これからも、いろいろなお便りを当サイトにお送りください。
>
Re: 宮崎の青木です。
たかさん 2007/10/01 (月) 22:21
進言ありがとうございました。
笹竜胆の外周に○を付ける 『丸に笹竜胆紋』ですね。
これを、「丸付き紋の笹竜胆紋」という呼び方があることも、円を付ける事で本家ではないという意味を持つことをはじめてしりました。
今回大変勉強になりました。
ありがとうございました。
ちなみに、着物は既に発注していたんですが・・・偶然、着物屋さんが「お宮参りの男の子には紋の周りに○を付ける人が多いよ!」って言ったので ○付けときました!
これからは 『笹竜胆紋』 ではなく 『丸に笹竜胆紋』 でいきます。
ありがとうございました。
向の青木氏に関する由来に付いてお判りいただけたのは幸いです。
現在に於いて、どのような家紋を使用されるかはご自由ですが、一言老婆心ながらご進言いたします。
と云いますのは、笹竜胆紋は「綜紋」と明記いたしました。
又、確かな情報が少ない情報ために、状況証拠からの解明ですので確定は出来ないことも明記していますので、
念の為に前回ノレポートにも書きましたが、再度、研究室の皇族賜姓青木氏のレポートか、家紋掲示板の1Pの33番/33の笹竜胆紋と、研究室の「青木氏の綜紋笹竜胆紋」を是非お読みください。
そこで、
綜紋とは、「青木氏」の全体の「総宗本家」の「直系」が引き継ぐ家紋です。
現在、この家紋を使用できるのは、たった日本全国で5家(10軒に満たない)の本家筋だけです。血筋を正式に繋いでいる直系一族の家紋と成ります。
この旗の元に戦いの場合、集まるときには、先陣に立てる家紋が参集した一族縁者の統一の代表紋で、それを総宗本家が引き継ぎます。
「分家」はその家紋に部分的に違えた家紋を、一部に血筋を引いた(母方や間接的に)「支流」とその枝分かれの「分派」は全く違う家紋を使用する事に成ります。
「笹竜胆紋」を使用できる直系一族は、皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏で合わせて16家16流が全部であります。
この直系の「笹竜胆紋」は、直系の源氏一族は全て滅亡しましたので、直系の皇族賜姓青木氏の5家と、皇族賜姓佐々木氏(近江源氏と滋賀源氏)とだけであります。他に、特異なケースとして伊豆大島の分流一族の大島氏があります。
(大島氏は、清和源氏の3男の頼信の直系の末裔の嫡男が伊豆大島に逃げたときに土地の豪族との間に生まれた子孫で、その後、この為朝は斬首になり、子孫はこの大島だけとなりましたし、認知刀と認知状を保持しましたので直系子孫となり笹竜胆紋と成ります)
これ以外には有りません。
この「笹竜胆紋」は、他の家紋と違い皇族系(第6位皇子の直系末裔)であるので、藤原氏(秀郷)の「下がり藤紋」と同様に副紋や一部を違えた文様は一切慣習と禁令により使用していません。
そこで、江戸時代に何とか少しでも源氏の血筋を受けている一族の者は、源氏の流の一門族の者である事を誇示するために、「丸付き紋の笹竜胆紋」を使用しました。(第3の源氏と第3の青木氏)
「綜紋」の笹竜胆紋ですので、日向の青木氏は、直系ではなく、認知でなく、未勘の氏と成ります。
分家、分派、分流の以外で、はっきりしないとされる「不詳系」(未勘氏という)となります。
「進言」
従って、もしお使いになるのであれば、「丸付き紋の笹竜胆紋」をお使いになられるのがよいと思います。(本来は、家紋のない未勘の氏の青木氏でありますので。)
この「丸付き紋の笹竜胆」は、日本全国8000の家紋中から選んだ「家紋200選」にある家紋です。
「進言」
ありえない家紋を使用するは、親族や周囲や世間より嘘をついていると子孫代々の後日の恥じとならない様に、強く御家のために進言します。
(或いは、肝付氏の支流紋の10位あるもの(日向付近の多い家紋)をお使いに成る事も納得できる所です)
当サイトでルーツ由来を伝授しました責任上に於いてむしろお願いする次第です。
言いますのは、この笹竜胆紋の綜紋を使える氏は上記したとおりであり、家紋の知っている人や、歴史知識のある人、明治、大正、昭和20年生まれまでの人であればこのことは良く知っています。
例えば、現在も、天皇家の「菊紋」を誰も使わないのと同じ理由で、限定してたった5家に限られているので、昔から笹竜胆紋は使いません。禁令もあった。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏の直系青木氏の「総宗本家」で、現在も使用している。この一族の伊勢青木氏を始めとして存在します。それ以外には誰も使いません。)
どうしても使う場合は、未勘氏の「丸付き紋の笹竜胆紋」を使用するのが「家紋掟」にて、「世間の慣習」から普通です。
この丸付きの家紋の意味は、分家分派分流や母方を含む何らかの薄い血筋を持つ源氏縁者である事を示します。
他の丸付き紋の多くも、この意味をもって居ます。
お宮参りに使用されるのであるのであれば、至急に進言します。
Re: 宮崎の青木です。
たかさん 2007/10/01 (月) 10:16
お蔭様で、貴殿の素晴らしいアドバイスにより我が家の新しい家紋は『笹竜胆紋』でいこうと思います。
『五三の桐紋』が農民してた時に黒田藩にもらったものだという理由と、
『青木』発祥のルーツで日向に逃げてきた青木がいて室町から江戸まで国抜けができない状態であってひいひいじいちゃんは1826年生まれで江戸を生きていた人だからうちはずっと青木なんだということ。
あと、女系続きや苗字令のせいで『青木』や『家紋』が分からなくなっていること
これらをふまえて、あと、私個人の「五三の桐は多いから・・・人と同じはあまり好きじゃない」という勝手な感覚からうちの家紋は 『笹竜胆紋』 でいくことが家族会議で決定しました。
ほんとありがとうございました。
Re: 宮崎の青木です。
副管理人さん 2007/09/26 (水) 21:14
宮崎の青木さん 今晩は。
さて、情報をいただきましたが、
1 お墓の紋は「五三の桐紋」である事。
2 曾祖父が一番古い人である事。
3 古くから宮崎日向である事。
4 先祖は農家である事。
そして、私の提供情報ですね。
以上のことですが、この情報で少し話しがすすみますよ。
先ず、第1番目のお墓の紋です。
この紋は、明治前は天皇家の儀式紋でした。そして、この紋を最初に天皇から譲りうけたのは豊臣秀吉でした。
天皇は功績のあった者に対して、褒美としこの儀式紋の使用を許しました。この他に秀吉の家来(黒田氏を始めとして)にも秀吉の推薦で与える事になりました。
しかし、その内、この伝授を秀吉が自分の推薦で、天皇家に届け出て、独自に家来に使用許可を与えるようになりました。
秀吉は、自分のルーツは天皇家のルーツだとして、系譜の搾取偏纂をして「五三の桐紋」から「五七の桐紋」を作り上げて、強引に天皇家に認めさしまして豊臣家の家紋としたのです。
その内に、秀吉は朝廷に許可無くこれを勝手に乱発した結果、ついには秀吉の許可無く各地の大名が勝手に家臣や土地の者に何かの功績に対して乱発をする様になり、更には、ついには庶民が勝手に使用するようになりました。
その後、困った朝廷と江戸幕府は、この紋の使用の禁令を発しましたが、全く守られませんでした。
更に、明治政府も禁令を出しましたが、駄目でした。
遂には、明治3年の苗字令が発せられてからは、苗字と家紋の持たない庶民は挙ってこの紋を紋付や墓紋に使用してしまいました。
はじめは、この天皇家の儀式紋で象徴紋である五三の桐紋が、この様に広がったのです。
だから着物屋さんが言った言葉はその通りなのです。
この経緯から御家の墓の紋が五三の桐である事は頷けます。
その根拠は、さらに黒田藩が秀吉の軍司の家柄であったことから、この家紋の使用を許されたことは有名です。
そして、日向の国の御家の在所の村民は、黒田藩の九州の征圧の時(秀吉の天下統一の戦い)この闘いに参加しました。
この時の戦いは、宇都宮氏が九州征伐の先陣を命ぜられたが、拒絶し、この為、黒田考高(如水)が秀吉の命でこれを城井城で、謀略(騙まし討ち)と、実戦では農民の協力を得た戦い方で撃ったのです。
これは、史実として有名なことですが、この功績で黒田の藩主からこの五三の桐紋の使用を農民に与えられたのです。(黒田の家臣)
だから、家紋の持たない農民の全ての墓にこの紋が使用されるようになったのです。
ただ、墓紋としてだけに使用を認めたのです。
この様なことは各地の藩でも起こりました。
明治初期までは、特別な者以外は、庶民には家紋と姓としての使用は禁じられていました。
(明治3年)。そして、この特別の者には(庄屋や名主や豪農や郷士には)、藩主から「家紋や苗字帯刀の特権」が許されたのです。
各地の神社や寺では村の何かの儀式のときには使用されるようになったのは上記の事から起こったのです。
第2番目の曾祖父が一番古い人である事に付いては、曾祖父は明治の人になりますね。
つまり、明治初期の苗字令にて姓と家紋(五三の桐)を使用できるようになったことから寺の過去帳(当時は戸籍関係は寺で行っていた)に残るようになったのです。
明治3年と曾祖父の時期は一致します。
第3番目の件は、黒田藩であり、古くから居た村民であったことから使用が許されたのです。
黒田氏は元は播磨付近の普通の流地侍で生計のために薬を売って生計を立てていましたが、大変知恵が働き村が隣りの国から攻められたときに、庄屋に頼まれて、この黒田の元祖が村人を救う為に知恵を出して追い払いました。
その内に、この村を取り仕切る土地の豪族たちが、この黒田氏を呼び入れて周囲の豪族を組み入れます。
後に、この豪族の元締めには跡目が無く、又、他の豪族から攻められて潰れそうに成ります。そこでこの黒田氏が又、知恵を出して救い、村人から頼まれてその豪族の跡目を継いだのです。それが黒田氏の黒田族の始まりです。
秀吉の中国攻めの時前に、この話を聞きつけて秀吉はこの知恵者を家来にして軍司にします。その後に勲功を立てて播磨藩主に成ります。秀吉の天下取り後、国替えで日向の国を守る事に成り九州征圧に乗り出します。
この時、瞬く間に征圧します。この戦いに御家のご先祖の近隣の農家の人たちが戦いに参加して戦勝をします。この時、黒田氏はもとより侍の家臣を使うより近隣の農民の協力を得て戦う戦法を播磨の時と同じく得意としていました。
秀吉も農民の出ですので、この黒田氏の戦略を好み、黒田氏の戦法軍略を取り入れて、秀吉の戦歴の内の2つの戦い以外は、武力による「無理攻め」はしませんでしたし、農民を多く使いました。
この戦法には、秀吉の農民に対する「思いやり」が含んでいて、戦勝すると、勲功に応じて金品を農民に還元して潤させる事と、武力を使わない戦法を採るには、その軍の力を誇示する必要があり、このために農民を多く集めて誇示するという戦法なのです。
秀吉の戦歴を研究すると殆どこの方式を採用しているのです。
この農民の役目は、戦う事のみならず、その能力を利用して土塁や陣柵や炊飯や城立てや水攻めのなどの庶務作業一般に当てたのです。
秀吉の戦い方は上記した力攻めは2度しかないのです。(両方が失敗)
戦隊を大きく見せ誇示し相手を威圧し、物量で攻める戦略で主に黒田勘兵衛の立案です。
(後に家康もこの戦法を真似するようになる)
その様なことから、日向の農民は当然に黒田の家臣扱いとして、参加した農民には勲功としてこの五三の桐の紋の使用を許したのです。(黒田家臣の元から居た者は農民の出ですから)
それがこの由来の一つです。(もう一つある。肝付氏の末裔の伝統)
次の第4番目の問題では、何時から農民であったかと云うことが問題です。
この五三の桐から、室町末期ごろから農民であった事が覗えます。その理由は当時の社会では「国抜け」と云ってその国から外に、勝手に藩の許可なしでは出来ませんでした。
もし、出るとその者の一族郎党と縁者は打ち首に成ります。
この掟では、南九州では庶民は藩主の指揮下の者として考えられていたのです。
御家の村人が、この農民になった始めの時期は、平家が滅亡したときごろと見られます。(1180-1185年頃)
と言うこの理由は、この青木姓の使用なのです。
青木姓のルーツの詳細は、研究室の所のレポートを参照してください。
青木氏の使用は2つのルーツ以外に、嵯峨天皇の弘仁5年の詔で皇族の者以外の使用を禁じました。そして、明治3年の苗字令まで原則守られました。
しかし、この禁令は次の3期ではまもられませんでした。
室町中期の下克上と戦国時代の第一期、江戸時代初期前後の第2期、そして、明治3年の苗字令期のの3期です。
そこで、前の雑談掲示板で予測として書きました事に繋がります。
前の記述の事件は1180年の源の頼政と以仁王が平家に対して起した戦い、即ち、「以仁王の乱」
です。この時に源氏は負けて主な源氏の者(宗家の頼光系)は惨殺されましたが、清盛の母の嘆願を入れて若い下記の者(3人)だけが生き残りこの日向に流されました。
この源氏の一族は家紋は同族の青木氏と同じの笹竜胆紋です。
しかし、この家紋を使うと平氏に捕まります。よって詔に基づき源氏であるが為に、上位2番目の朝臣の身分でもあり、姓を青木氏に変更してのみ家紋は隠したのです。
これが、日向の青木氏の始まりです。
しかし、結果として余り子孫を遺す事が出来ませんでした。以後、縁者は農民となって室町期から明治までこの地に生きたのです。
この時、その小さい村の青木氏に関係する血縁者や縁者や遠縁者が、長い時代の間(500)で血縁関係が出来上がり、明治3年の苗字令で、この血縁をベースを下に、この元の青木姓を血縁の村民が用いたと定説として予想されています。
そして、この時の農民は、元はこの北九州からこの日向国までを支配していた最大の大豪族の肝付氏の支流一族であろうと考えられています。
(肝付氏は、最後に勢力を南九州の薩摩で勢力を伸ばして来た島津氏と3回戦い、最後に残った城のこの日向の国付近で最後に滅亡します。)
この時の落人が日向より南に逃げて山里に逃げて農民となり村(宮崎の宮崎市阿波岐原青木村から最終鹿児島の大口村字青木まで分布する。 宮崎廻村から現在の大口市青木まで逃げた。)を形成して生き延びたのです。これが御家の元のルーツと見られます。
(ここで清和源氏を匿いその血筋を得た末裔を保護し青木村を形成した青木氏は、日向廻村から薩摩の鹿児島大口町までの間に分布する。最後は大口村まで逃げ延びたと記録されています)
御家の村の人たちの血筋は黒田氏を助けたことを始めとして、清和源氏の者をも助けるという歴史的な史実を持っていますが、これには元は侍としての伝統をもつ肝付氏の血縁者である事の所以として考えられています。
ただ単なる農民ではなく、古来よりその心魂には侍としての魂があるから農民としても2度の大きな戦いが出来るのだと思います。農民だけで平家に対抗する事はできません。プロと素人の戦いです。そにはこの様な経緯があり2度も大きな戦いをしたのです。
この伝統の農民は、後に薩摩に吸収されましたが、この「兵農」の伝統は薩摩の島津氏にも引き継がれました。
だから、江戸時代末期まで、日向の黒田藩士と薩摩藩の藩士は、通常は侍でありながら農業もすると言う伝統を持っているのです。
西郷隆盛も農業をしていました。農民でありながらも、だから黒田氏に合力する力があったのです。
家臣に細かく土地を分け与えて、農業を振興させ、体力をつけさせ、自給の精神を創り上げる国防の軍戦略です。
この事に付いて、これは各藩の力を強くする事であるので、弱体化を狙って、秀吉と家康は全国にこの「兵農分離」の令を出しましたが、南九州の藩は明治維新までこれを無視し続けました。
西郷隆盛の説得で明治維新の活躍ではこの伝統を長州藩も見習いました。
そして、3藩連合軍は、明治維新前後の時は、農民を中心とする軍を作り、それまでの武士を中心とする10万の徳川軍と戦い勝ちました。
この様な伝統と由来を持つ御家のルーツの村人です。江戸時代まではただの農民では有りませんでした。
参考に、昭和の第2次大戦の時も九州の連隊はこの為に大変強かったのです。しかし、大阪と東京の連隊は全戦全敗で、大阪の連隊は”又負けたか大阪10連隊”と呼ばれました。
この関係で、村人達の祖先は、肝付氏と都の五大豪族の一つの伴氏などの血筋と天皇家の血筋を引いていたので、この肝付氏の血筋を持つ村人は、清和天皇の清和源氏の配流者3人を助け、再び平家に挑んだのです。(敗戦する)
{伴氏は朝廷より九州に差し向けられた弁済使(税)の官僚です。後にこの伴氏と肝付氏は血縁します}
御家などは農民をしていますが、この支流の末裔であると見られます。
従って、清和源氏の血筋を受ける末裔は、この戦いで直系者が絶えたためにその家紋と成る笹竜胆紋が消えたのです。
(青木氏と清和源氏は同族で同紋です)
この推理はまず間違いは少ないと考えます。
上記しました3期の青木氏の使用の殆どは、その周囲に住んでいた皇族賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏の一族が定住していて、それを搾取偏纂して、禁令を破り名乗った氏の青木氏です。殆どこの経緯で名乗ったのですが、御家の場合の日向の青木氏は、少し違っています。
しかし、日向は周囲にはこの2つの青木氏の一族は有りません。
国抜けで移動は殆ど有りませんから、従って上記推理が出来上がります。
一番近い所で、北九州に藤原秀郷流青木氏が、武蔵の国から朝廷の命で国司として赴任してきているだけですので、先ず、この姓を使ったとは考え難い事です。
配流者は、元は清和源氏の宗家の頼光系の孫(配流者不詳 宗綱、盛綱、高綱?)(3人は死んだ)ですが、この配流者と肝付氏の流を組む地元の農民の娘との間で出来た子孫です。(村人はこの末裔男子を守り逃げ延びた)
後に、弘仁の詔を知っていた彼らを保護した住職が、農民として姓を持たないこの末裔なので、詔に従い、危機が迫った時、青木氏の姓を名乗ることを寺の住職の勧めで、初めて名乗った事が記録されています。
つまり、この3人の血筋の引いた、村人に保護された村娘の子供に、青木氏を名乗るように勧めたのです。
村人はこの末裔を守って生き延びました。
そこで、従って、500年の間に女系となりなどし、家紋や本家はどこかもわからなくなったと考えます。よって基本的には家紋は無い事に成ります。
しかし、この推測では、元は3人の血筋を引いた末裔であるので、綜紋は笹竜胆紋と成りますが、正式には認められているわけではありません。
この経緯と同じ事が他に2つ起こっているのです。
現在まで、子孫をのこしたのは、伊豆大島の父島の大島氏です。源の為朝が逃げ延びたときに土地の豪族との娘の間で生まれた子孫の大島氏の宗家が、現在もこの笹竜胆紋の家紋を使用しています。
(伊豆大島の大島氏には、為朝は短刀を渡して子供である事を認知)
大島氏は、源の頼朝が、平家の水軍に三浦半島を裏から攻められた時に、伊豆大島から大島水軍を引き連れて3日で黒潮を乗り越えて駆けつけて間一髪で助けた一族で有名です。
後は、木曽国の源の義仲の一族の末裔の青木氏もこの経緯と全く同じものを持っています。
これらと良く似たことだと思います。
詔での皇族の青木氏は他に多治彦王の末裔の武蔵七党の丹治氏の青木氏、島左大臣の末裔の青木氏、名古屋の伊川津七党の青木氏の3氏があります。
(少し違った形では、宿禰族の橘氏の青木氏がある)
これ等の3氏の青木氏は家紋とルーツを幸い明確に維持してきました。
2つのルーツの青木氏外の上記3期の第3の青木氏の中には、別に御家のようなこの経緯を持つ青木氏があるのです。(家紋が消失)
ここで、どの程度の血縁者であるかはわかりませんですが、御家の古くから居た村の本家筋が血縁が濃いと思いますが、男系で跡目が出来ているかはわからなく成っているのではないかと考えますので、その家紋も不明と成ったと考えますので桐紋を使用したのだと思います。
この点のところが調査する必要がありますが大変ですね。元住んでいた村の庄屋あたりがこの本家筋に当ると見られますが。
そして、御家はこの村の血筋を何らかの形で引き継いでいる事も考えられます。女系に成っていることも充分考えられますから、家紋は経緯から結果として原則として無い事とも考えられます。
日向青木氏はこの様に得意な経緯を持った青木一族です。
日向青木氏の青木さんからの投稿を待っていましたが、やっと出てきたと思っています。
まだ、木曽青木さんとか伊川津の青木さんもまだ有りません。
全国の家紋を持たない民は約6割以上と成りますが、御家の場合は消失ケースと考えます。
お判りいただけたでしょうか。
以上のことでご質問がありましたら、ご遠慮なくお便りください。お待ちしています。
以上ですが、ご不明な点が有りましたら、お尋ねください。
宮崎の青木です。
たかさん 2007/09/26 (水) 11:21
先日私の第一子が誕生いたしまして、お宮参りをするのに家紋が・・・わからないんです。
お墓についていた家紋は「五三の桐紋」でした。
うちの親父に聞くと・・・
「お墓についている家紋は正直正しいものなのかわからない。
うちは百姓の出だからね。
うちの(宮崎県日向市)家の近くには『黒田の家臣』って場所があるやろ。
そこの戦に百姓が借り出されてそのときもらった家紋なんじゃないの?」
とかいってました。でも・・・『黒田の家臣』の紋は確か・・・『違い鷹の羽』なはず。
ますます怪しい。。。。
宮崎県日向市と言えば、元々宮崎県自体『日向の国』・・・
日向市美々津町と言えば紀元前、神武神武天皇が宮崎の皇宮屋(こぐや)で東征の軍議を決定されて大和へ向け出発、船出の港に選ばれた地
(参照)http://www.pmiyazaki.com/mmt/
日向市は昔、『天皇直轄の地』とも言われています。
これで参考になるでしょうか?
是非!自分の家紋が知りたい!
宜しくお願いします!!!
ちなみに、うちの戸籍謄本は・・・曾じいちゃんでとまってますんでそんな昔までは書いてませんでした。うちは元々ずっと日向市にいるみたいです。(他県から移住したとかではなさそうでした)
どうかみなさん教えてください。
宜しくお願いします。
群馬の青木さんさん。今日は。5月からですから、半年以上のご無沙汰ですね。
何時も熱心にお調べになって、実に感心します。
ルーツ調べとか歴史調べはこの様な地道な努力が実を結ぶのですよね。
私も同じ様なことをして次第に目的に近づき幅のある情報を取る事が出来る様になりましたが、大変ですよね。
実によく解ります。少しづつ進むのが楽しみですよね。
実は私もここまではよく解りません。青木氏に関わることを中心に江戸中期以前の史料を多く調べましたが、この域には入っていません。
しかし、群馬の青木さんの疑問に対する私の意見として述べさしてもらうと、次の様になるのではと思いますが、参考にして下さい。
さて、2つの問題があります。
先ず一つは、この史料が群馬の青木さんの疑問の通り、琉球の何にあたるのか、もう一つは、幕府の直接の仕事をしていた事に成りますので、直参旗本という事に成ります。
この二つの推理を立てて、確認出来れば、お家の青木忠左衛門さんの所に近づく元になると考えます。
そこで、先ずね琉球の件ですが、推測として、幕府の諸国の担当の外交部中で、琉球との仕事を担当していた部門において、人事勲功の辞令があり、人事とその褒章としたものの記録ではないかと推測します。
先ず、お目付役の件ですのが、琉球国の薬事調達に関する関係管理を円滑にし働いたとする理由で、二人に対して年末の辞令交付であったと思います。
日本の会社でも功績のあった者に対して1年を締めくくる年末の仕事納めのときに辞令公布があるのと同じですね。
その時、次は幕府の琉球の薬用の調達の実務の役職によく務めたので、人事として、芙蓉の間(重役会議室)に集まり列する老中の中に列し、備前の守を拝命して、その列の若年寄組に列座する事を許され、その中でも奥向きの書記役を命じられた。そして、その時、その功績に対して、金貨一枚(現価10−15万円程度)の金一封を与えられた。
となるのではないでしょうか。
実は、この琉球と江戸幕府との経緯があったのです。
この江戸時代では、琉球は薩摩藩の管理管轄国で、江戸幕府の家康とこの琉球を巡って、壮絶なる争奪の小戦を含む政治戦をした有名な史実があります。
その後も、この琉球の産物獲得は莫大な経済的利益があるのでその争奪戦が、秀吉が死んだ直後から、幕末まで続きます。
このため、薩摩藩はこの琉球の管理権を採られまいとして、隠密に情報を盗まれまいとして、秘策を立てます。それは、薩摩弁です。言葉を解り難くする事と、隠密の徹底した掃討策でした。
言葉は、人称を逆にする事(行くは来るとするなど)、主語を無くする事、全ての言葉に解らない方言をつける事、等をしました。
政治的には、秀吉の命令に背いて、又江戸幕府の命令にも背いて、兵農分離を実行しませんでした。
これは、九州の薩摩島津氏以前の統治者であった1000年も続いた肝付氏の政策でもあったのです。だから、幕末の三国同盟で毛利家に対しても島津家のこの方式を採るように、坂本竜馬は進めて実現し、維新軍は強かったのです。西郷隆盛でも農作業をしていたのです。
更に、これに絡んでこの琉球国の中国との奪い合いなどもあり、江戸幕府は難しい立場にありました。
その中で、鎖国中で、中国との貿易取引もこの琉球国を経由して行う必要があり、喉から手の出るほどに欲しい国と権利でした。逆に傷ものに触るように難しい問題でした。
薩摩はこの琉球を通じて、鎖国策からのがれられて、中国を始めとして、外国との貿易の権利を勝ち取る薩摩の国の存亡に関わる最大の政治課題でした。
だから薩摩は幕府が手を出せないし一目置くほどに幕末まで強かったのです。そして、遂には、坂本竜馬の仲介で契機を掴み、倒幕へと進んでいったのです。
その最大の最後の秘策は、来年の大河ドラマの篤姫の徳川氏への輿入れでした。
この篤姫が実に賢い人物でしたので成功したのです。
この様に、琉球との交易は単純な交易ではなく、間に薩摩がかんでいる交易でした。
薩摩、琉球では隠密は全て抹殺されていましたから、大変な交易でした。
特に、科学薬品の無い時代の中国4千年の漢方薬は日本にとって鉄砲や武器弾薬以上に最大の必需品でした。
これを幕府が自ら行う鎖国の中で、権利を薩摩に握られている中で調達する事は至難の業でした。
だから、隠密や調達護衛役の目付け役と薬事方役の調達の担当者がその功績に賞された。
以上が一点です。
次の疑問です。
この仕事は直参の旗本の仕事ですから、何時、武田に属していた諏訪族が直参に成る時期、条件、場処、の史実に関する大きいものがあったかという事です
簡単に、他の藩に仕官するように幕府には仕官できるものでは有りません。
と成ると、過去にその大きな史実があったことに成ります。
特に、その諏訪族に限ってあったかと言うことです。
史実では、諏訪族青木氏は横浜神奈川と栃木に移動しています。また一部は讃岐土佐にも移動(逃げ。)しています。
実は、歴史上、最大のイベントがあったのです。群馬の青木さんももうお気づきに成っていると思いますが、超有名な事がありました。
それは、徳川家康は、諏訪族の赤兜の武田軍を先頭に、南下してきた信玄の武田軍に立ち向かいます。そして、織田信長の助けも無く、敗戦を覚悟で三方が原(1573)で立ち向かいました。
そして、家康は負けて恐怖の糞をして三河に逃げ延びます。しかし、ここで、武田軍は三河を潰さず通り過ぎて行きます。しかし、途中で信玄は死にます。そして、武田軍は甲斐に引き上げます。その後、信長は武田と和睦をしたかに見せて、周囲の国を掃討して強く成ります。そして、時期が来たときに諏訪族の血筋を引く武田勝頼に率いられた諏訪族を主軍とする赤兜軍団と戦います。武田軍は負けて敗走します。
しかし、織田軍に組していた家康の三河徳川軍はこの戦いの直ぐ後に、前に負けた武田軍の赤兜軍の諏訪族の多くを家臣団にし家来にします。
この時、当然に家康は信長に嫌疑を掛けられて窮地に陥ります。大きい犠牲を払って、この諏訪族を中心とした武田家臣団を放置していては、信長の関西攻めには問題が起こるとの主張をして家臣団に加えたと言い張ることで、関西攻めでは先陣を切ることで許しを得ます。
この時に、家臣になったこの諏訪族赤兜の騎馬軍団は徳川軍の主力と成ります。
この軍団を先頭に立てることで減らせると観た信長でしたが、意外に強く減ることは無かったので、信長は悩みますが、大きくなった家康の軍を潰すことは出来ませんでした。
これが、諏訪族青木氏が直参旗本になった時期なのです。
もし、この忠左衛門さんが、お家のご先祖とすると以上の2つの推理が裏付けます。
単独の直参旗本ではなく、この諏訪族青木氏一族を率いる一門とすると当然に、徳川軍団の中の中核になっていても不思議では有りません。氏家制度ですので、充分に考えられます。
時代が進み、文化の時期では(235年後)徳川幕府の古参の直参旗本と成っている事に成ります。
仮に同姓同名であったとすると、青木氏でありますので、藤原秀郷流青木氏の直参もあります。この藤原秀郷流青木氏も直参に成る史実は幾つかありましたので、否定は出来ません。
有名な芙蓉の間の重役に成れるのですから、大きい諏訪族青木氏の長である事が考えられます。
もし、藤原秀郷流青木氏とすると、静岡の東に定住していた藤原秀郷流青木氏と、江戸に移封されたときに家臣になったと思われます。
後者は大きな家臣団を持っていたとは考え難いので、諏訪族青木氏の可能性があると考えます。
ただ、ここで、伊勢青木氏が紀州徳川吉宗の時に飛地領の伊勢の豪商紙屋の青木長兵衛が商い知識を請われて江戸に同行します。そして、享保の改革を実行した伊勢の青木氏があります。この青木氏は納戸役や勘定奉行に成ります。この末裔の一部は江戸に残り直参に成りました。
この一族は青木氏の官職の・・兵衛を世襲としています。
幕府直参と成り重役であると以上があります。
個人で重役までにはよほどの事がないと出来ない筈ですから可能性は少ないと思います。
そこで、その判別は、ただ一つあります。
抱き角紋であるかどうかです。
家柄身分を中心とする時代ですので、抱き角紋は守っている筈です。
この忠左衛門さんの家紋は何なのか。
皇族賜姓族の諏訪族青木さんですので、その忠左衛門さんは藤原秀郷流の青木さんの家紋かです。
江戸時代の青木さんレポートが青木氏氏ブログサイトにあります。
この点の情報を掴む事が出来れば、確定ですね。
つまり、戦国末期の古い時期三河を境にして北系なのか、西系なのか、東系なのかですね。
しかし、三河の家康は後に関東に移動していますので、この時に関東に住まわれたのかもしれませんね。この件は、難しいことかも知れませんね。
青木氏の左衛門の官職名は朝廷の親衛隊の役職にあった両方の青木氏が名乗っています。
従って、この下につく俗名がお家の忠左衛門にはなんであるかと云う事も判別のものとなりますね。
青木忠左衛門・・ですね。同姓同名でもこの俗名で判別が出来る様になっていました。
江戸中期前は忠左衛門は名では有りませんでした。中期以降誰でもこの左衛門や右衛門を真似てつけましたので名と成ってしまいました。
この点も昔の徳川家臣人名簿でお調べになると解るかも知れません。
兎も角も、私は意外にご先祖である可能性は高いのかも知れないと思っています。
あと少しのような気がします。頑張って下さい。
何かわかりましたら、又お便りください。楽しみにしています。
資料を発見
群馬の青木こと。銃剣士さん 2007/12/25 (火) 11:44
お久しぶりです。
武田系諏訪族青木でございます。
インターネットの方で、私の先祖にあたります人と同姓同名の人の名がのっていました。
生きていた時代もほぼ一致します。
下は資料の一部です。通航一覧巻之二十
琉球国部二十
目録
一来貢「文化三年」
文化三年十二月七日
大目付
時服三 伊藤河内守
同 神保佐渡守
御目付
時服二 仙石次兵衛
同 黒川与市
右は、琉球人参府御用相勤候ニ付被下旨、於芙蓉間老中列座、備前守申渡之、若年寄中侍座、
奥御右筆
金一枚充 青木忠左衛門
間宮平次郎
右同断御用相勤候ニ付、於奥被下之、
青木忠左衛門という人が多分そうだと思います。
しかし、この時代にも同姓同名のものはたくさんいたと思うので、同じ人物かというのは微妙なところです。
あと、この資料の内容もよくわかりません。多分、琉球との外交でしょうか?
詳細をよろしくおねがいします。
桐生の青木さん おはようございます。
始めまして。ようこそお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。同じ一族の青木さん同士でコミニュケ−ションを致しましょう。
本サイトには、青木氏の全ての歴史的な事柄をレポートしていますので、ごゆっくれとお読みください。
家紋や地名や地理や歴史ロマンや史実や由来や大勢の青木さんとのやり取りなど準備しています。
さて、お尋ねの件ですが、情報が家紋と群馬という事ですので、確定は難しいのですが、わかる範囲でお答えします。
歴史は少なくとも江戸中期以前の情報が必要です。そこでその調査のキッカケになる情報を提供します。
先ず家紋から、判断しますと、藤原秀郷流青木氏です。
この藤原秀郷流青木氏に付いては、「藤原秀郷一族の生き方」1-13に詳しくレポートしていますので先ずこれをお読みください。長論文ですのでゆっくりと楽しんでお読みになってください。
次に、家紋掲示板に州浜紋の1Pに大まかなことを掲示しています。
研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」のところに州浜紋のレポートがあります。
研究室の検索で元親族であった州浜の青木さんからのお便りも沢山あります。
地名データベースでも、群馬や陸奥の事も書いています。
さて、お家は、青木氏のうち、藤原秀郷の一門です。
藤原氏は四家といって四家の流がありますが、北家筋で最も栄えた一門です。藤原鎌足から8代目の秀郷が平の将門の謀反を平定した勲功で貴族と武蔵下野の領土を得ました。
この時、貴族になったので、直接武力を仕えませんので、息子を侍として3番目の千国が護衛役を担いました。この時、侍になるので、朝廷から青木氏の使用の許可を得ます。青木氏の姓は皇族の者しか使用を許されていませんでした。しかし、特別に、皇族賜姓青木氏との母方でつながっていることから使用を許されます。
皇族賜姓青木氏とは2大青木氏の一つです。天智天皇第6位皇子が臣下して天皇の護衛役を担い天皇から直接青木氏を名乗るように命じられます。この青木氏は5家5流の青木氏があり、5人の天皇の第6位皇子が臣下して護衛役を担い主要5地に配置されます。
この一族と血縁関係にあるので、藤原秀郷の子供の千国は同じ護衛役としての役目柄青木氏を与えられたのです。
秀郷主要5氏は青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏で、これから末裔は24氏にひろがり、更に361氏と成ります。(「藤原秀郷一門と主要5氏と発祥氏と赴任地の分類」を参照)
お家は藤原秀郷主要9氏青木氏(直系1氏、直流4氏、支流4氏で116氏になる)のうちで、この直流の青木氏です。
藤原秀郷の宗家一門は代々陸奥の国の鎮守府将軍となります。この時、護衛役を務めていて分家が土地に定住し、その青木氏は陸奥の豪族の小山氏と血縁し、男系の後継ぎに恵まれずに養子を小山氏から迎えます。そして血縁をしましたが再び嫡子が出来ずに女系となり止む無く家紋掟により小山氏の家紋の州浜紋と成ります。元は、藤原秀郷氏の綜紋の「下がり藤紋」です。
この分家一族の本家筋が小山氏一族と共に護衛のために陸奥から関東に再び赴任地移動して、青木氏は元の武蔵、下野に戻りました。
(この時、陸奥の武田氏も藤原氏と血縁していましたので護衛として同行して甲斐に定住したのです 小山氏の支流の小田氏も、花山氏ととも足利に。)
この戻った一族が子孫が増えたので末裔が下野から上野、(常陸)へと勢力移動して行きました。
武蔵の入間に住む藤原秀郷の総宗本家を守る為に、入間を中心に神奈川横浜までを半径として円を描く様に116氏になった青木氏の本家筋が円状に取り囲み守りました。外側になるほどに116氏の分家筋が取り囲みます。お家は、武蔵よりの群馬域の護衛を任された陸奥戻りの直流分家筋のこの時の州浜紋の青木氏です。
藤原一門の中でも古く、尚、藤原秀郷流青木氏(兼光系)の116氏の青木氏の中でも古い一族です。
以上家紋からみたルーツですが、詳しく上記のレポートをお読みなるとお家の事が詳しくわかると思います。
その上で、ご不明な点やご質問が有りましたらご遠慮無くお尋ねください。
ここは、全国の青木氏のリビングですので、リビングが賑やかにする為にもお力添えをお願いします。
ルーツの事等でちょっとしたことでもわかりましたら雑談掲示板か研究室に是非お便りください。
はじめまして
栃木出身の青木ですさん 2007/12/16 (日) 03:53 [ メール ]
はじめまして。栃木県下野市(旧国分寺町)出身の青木です。今は東京に住んでおります。今度、娘が誕生するのをきっかけに、自分の先祖に関心が湧きました。そして今回、このようなサイトを見つけ、驚きとともに、ますます自分の「青木」を知りたいと思い、質問をさせて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。まず、家紋は「州浜紋」です。披露宴のときに確認し、間違いありません。本家は群馬県桐生にあり、織物を扱う商屋であったと祖母が言っていた記憶があります。(祖父が桐生から栃木に来た)また本家は、明治(?)期に徳川埋蔵金の発掘に財を注ぎ込み、家が傾いたそうです。(本家は現在もあるそうですが)このような情報しかありませんが、もし、私の先祖の何かしらの史実をご存知でしたら、教えて頂ければと思います。自ら桐生に行けば良いのかもしれませんが、何かしらの小さな手がかりでも構いませんので、私の「青木」を教えて下さい。重ねてどうぞよろしくお願いいたします。
群馬の青木さん 今日は。始めまして。
群馬の青木さんからの投稿は沢山ありますので、”始めまして”なのか解りませんが。
そうですね。前回ありましたですね。
情報が少ないので住み着いた一族かは判りませんが、兎も角も今回は住み着くかどうかのお答えにします。
先ず原則として少ないと考えます。
戦いは、軍の「後詰」として、その戦後の仕事の役目があります。
戦って死んだ怪我をした者を探し出し根始末する仕事があります。勝敗に関係がなく。
付近に居る残兵を一掃する必要があります。
更に、逃げ延びている敗者の大将クラスの追討作戦があります。
更に敗者の一族の掃討作戦があります。
敗者に味方した村の焼き払いと村民の掃討作戦があります。
奪い取った城の当面の守備の仕事があります。
戦利品の始末もあります。
逃亡者の始末もあります。
これ等のことは後に憂いを残さないためにも徹底します。
特に、信長の戦歴は異常と思われるまで行いました。殲滅でした。
武田氏も当初はかなり行ったと記録されています。
敗者側が住み着く、勝者が住み着くと言う事は、よほど稀です。
先ず敗者が住み着く事は不可能です。よほど山奥で武士を捨てなくてはなりません。その内に近隣の村人に届けられます。匿うとその一族全て打ち首です。村ごとと言う事もあります。
勝者は戦後処理で論功行賞の末で勝者側の者がその城に入りますので、その者の家来が住み着く事に成ります。
お家がどの様な家柄かわかりませんのでなんとも言いかねますが、青木氏に関してはないと考えます。
先ず、皇族賜姓青木氏に関しては5家5流の土地柄が明確ですので、掟上そのような行為は有りませんでした。
次の藤原秀郷流青木氏に関しては室町期の戦国時代には、各地の守護の家臣になりましたので、奪い取った城の守備隊として家来として守備に付いたとする事はありえます。
そこで、お家が群馬に長く定住しているとすれば、守備隊として住み着いたとする事は考えられません。
甲斐には、皇族賜姓甲斐青木氏の一族と、この一族と武田氏と血縁した武田系青木氏、賜姓青木氏と血縁した信濃諏訪族青木氏、この一族と武田系青木氏の血縁族の青木氏、それに藤原秀郷流青木氏が存在(上田)します。
これ等の青木氏は平安初期の古い氏ですので、鎌倉以降は地侍として長くその地に定住する一族と成ります。従って、大きく移動する事はありません。又移動しても、当時の慣習から元の故郷に戻ります。今の時代と異なり、勝手に移動することは出来ません。「国抜け」という慣習の思い罰などがありました。人口を移動させる事はその国の政治力や軍事力や生産力を落とす事に成りますので、先ずめったに有りません。稀の程度でしょう。有るのはテレビのドラマです。
従って、この地に赴任して守備に着いたとするこれらの武田に組した青木氏一族は有りません。
(皇族賜姓甲斐青木氏は除く)
その理由は青木氏に関しては定住地がはっきりとしています。
そのはっきりとした理由からすると、群馬は藤原秀郷流青木氏です。
この一族は武蔵入間を中心にして半径を神奈川横浜として縁を描く範囲に定住しています。
一部北側は群馬まで延びています。
お家の古い情報が無いので、どの様な青木氏かわかりません。
これ等の青木氏に関することは研究室に詳しくレポートしていますので、ゆっくりと楽しんでお読みください。特に、先ずは、「藤原秀郷一族の生き方1-13」を参照下さい。
御理解されると思います。
他の群馬の青木さんからも投稿がありますので、研究室の検索でお読みください。
その上で、ご不明な点とかご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。
回の風林火山にて。
群馬の青木さん 2007/11/30 (金) 22:35
前回の風林火山にて、我が故郷 厩橋城(現在県庁と)や赤城神社 滝沢不動明王がでていました。
何を隠そう 私はちょうど赤城神社の麓に住んでいて 上杉と武田の決戦の地でした。
いくつか城跡もあり 勝頼が攻め落す話も数々残っています。
滝沢不動明王は上杉氏と関係をもっており 謙信がお守りとして不動明王の腕をもっていった話も
前回の大河ででてましたよね。
故郷は両軍が対立した地です。。。ということは私の先祖はその戦のさいにこの地に赴任したのでは
ないのでしょうか? 近くに3つ城があり、ちょうど北側に位置しています。
しかも、 その1つの城の土塁が今もたくさん町に残っています。
上野侵略の最大の決戦地に家臣がおくられ、そのまま住み着くというのはありえるのでしょうか?
Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/12/01 (土) 20:22
静岡の青木さん 今日は。お久しぶりです。
そうですね、もう12月ですね。
今年は異常に暑い夏でした。梅雨過ぎから雨も今まで降った日は10日も有りません。
果物は大変おいしいもの採れましたが、野菜類などは駄目でした。
このままで行くと東南アジアみたいな季節になりそうです。
さて、随分調査されて努力されているようですね。ご苦労様です。
ルーツは根気が必要ですね。
私も40年も掛かりました。
頑張ってください。
3つ気になる事があります。
伊勢の地名のこと。
桑名藩の松平氏の伊勢の菩提寺のこと。
系譜の消失のこと。
伊勢の青木氏は3つの流れが平安期からあります。
一つ目は賜姓伊勢青木氏です。(大化期)
二つ目は藤原秀郷流青木氏です。(平安期)
この2つが主流です。
三つ目は鳥羽稲垣氏と血縁した藤原系青木氏と賜姓青木氏との血縁の青木氏(江戸初期)
これら3つの流れは土地柄で区別できます。
伊勢と紀州の松平系の菩提寺は江戸初期に伊勢松阪のある浄土寺に有ります。
この寺は、元は賜姓伊勢青木氏の単独の菩提寺でした。3度の火災で消失して江戸期に徳川氏により新たに(伊勢と紀州)徳川氏(松平氏)寺として建立され収拾された。
系譜の消失時期と消失した災難の種類は何でしょうか。
伊勢は3度の大火に会っています。
1つは明治35年です。2つは室町中期、3つは江戸中期です。
この火災で、松阪付近にあった3度菩提寺が転々としました。
明治35年の伊勢の大火は賜姓青木氏の宗家より出火(950年続いた宗家の青木氏の紙屋長兵衛は倒産)しています。
お家の今回の情報では江戸中期の時期に当りますが、大火では3つ目と成ります。
もし、伊勢の1つ目か3つ目の大火であり、「本宮」と成りますと、一つ目の賜姓伊勢青木氏(筆者)の末裔と成りますが、家紋が異なります。
何かの理由で梅鉢紋になったことも有り得ますが、これを解決する必要があります。
桑名の松平氏となると、この地は桑名の伊勢青木氏の末裔と成ります。
(家紋に付いて、今までの投稿の所を読み直しましたが、松平氏にこの家紋の使用を許されたと書いていますので、2度の男系不継で女系となって変紋を余儀なくされたと異なります。
よって、元の家紋が笹竜胆紋か伊勢青木氏の家紋類に相当しているかによります。)
これで、家紋は原則解決出来る事になります。
この賜姓青木氏は名張、松阪、桑名、員弁のライン上の青木氏です。(筆者の伊勢青木氏の一族)
家紋を前提とすると、二つ目の藤原秀郷流の青木氏です。しかし、土地柄は永嶋域となり異なります
江戸時代の大名身分とすると、稲垣氏です。すくないですが、稲垣氏青木氏があり、この青木氏は四日市付近が地域と成ります。この青木氏が同じ伊勢の桑名藩の松平氏と関係していたことが考えられます。
ところで、伊勢から紀州徳川氏に特別に請われて、伊勢青木氏宗家は紙屋長兵衛の商いの知識を求められて、吉宗に付き従い、納戸頭、勘定奉行として「享保改革」を実行しました。
もう一人は、伊勢青木氏が紀州徳川氏の納戸役を請われて一時家臣として仕え、江戸に赴いて働いています。
参考
伊勢松阪は紀州徳川氏の飛地領でしたので、元伊勢守護の青木氏と大正14年まで親交していました。
それと、久兵衛の・・兵衛は賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏のこの2つの青木氏の専有の名誉官職です。
伊勢の藤原秀郷流青木氏は安土期では官職は大膳(大典)と玄審ですので、久兵衛となりません。
朝廷の宮廷の親衛隊で3つの宮門を守っていた衛兵役です。(北面武士、西面武士)
(天智天皇からこの役を担う)
青木氏は・・兵衛を名乗ります。これには2つのクラスと3つの階級に分かれています。
賜姓伊勢青木氏は、長兵衛が襲名でした。5家5流の賜姓青木氏は長や作や右や左等を使っています。
長と久の違いですが、伊勢青木氏では、この前の長を分家筋では変えていますから、久はありえます。久は長では有りませんか。再度確認ください。間違って系譜を作るときに草書体では似ていますので間違えた可能性があります。
長兵衛は一族宗家の襲名です。
系譜を作るとき、分家が元祖として、長兵衛と書いたのではないでしょうか。
伊勢の一族では4つ程度確認出来ますが、私の方でも調べてみます。(卯、萬、作、長、次郎)
但し、江戸中期から誰でもが金品を朝廷に払い推薦を得て獲得できるものとなってしまいました。
そこで、明治期に官職を得たとなっていますので、上総の青木氏と今回の伊勢の青木氏の可能性もあります。
そこで系譜消失の時期とその理由をもう一度お調べください。
まだ可能性はあります。
それにより、伊勢の賜姓青木氏か、伊勢の藤原秀郷流青木氏かの糸口が出て来ると思います。
伊勢出と本宮と桑名と官職(久兵衛)と系譜消失の5つもの情報が附合一致していますので大きく進展してきました。
長と久の違いと、久兵衛は襲名ですかもお調べください。
久兵衛の最初の先祖の時期と、家紋の件を解決すれば(家紋変更時期と元の家紋)、筆者の私と同じ伊勢青木氏である事も考えられます。
伊勢青木氏は天智天皇の第6位皇子(施基皇子)の子孫と成ります。
伊勢青木氏は、伊勢松阪に「2足の草鞋」で950年続いた紙問屋の豪商の青木長兵衛(名張の戦いで名張城で信長に勝った等歴史的に有名 2つの小説や歌舞伎がある。NHKの大河ドラマに3度も出て来る)
青蓮寺城(名張)と青木山城(度会)の2つの城持ちでした。(天正期まで)
松阪を経由して桑名から信濃の手前の伊勢町を通じて信濃の青木氏とも付き合いがあった。
綜紋は笹竜胆紋です。ステイタスは天智天皇から与えられた鞍作部止利作の大日像の仏像があります。
「青木氏の綜紋の笹竜胆紋」や「青木氏のステイタスの生仏像様」をお読みください。
以上ですが、もう少しです。
Re: 静岡の青木です
青木 昇さん 2007/12/01 (土) 10:37 [ メール ]
今年ももう12月になり、めっきり寒くなりましたがお変わりありませんか。
インフルエンザが流行しそうだとのこと、十分お気をつけください。
その後、少し分かったことがありましたので、ご報告いたします。
過去帳の先頭に書かれている先祖のところに、添書きが記載されていました。
それによると、生国本宮共に伊勢のよしとあり、妻は伊勢より江戸に同道、
里方伊勢山田佑 師 何集女とありました。
書物、系図は焼失したとも書かれていました。
推測になってしまいますが、
伊勢桑名藩主松平(久松)定重の十男忠定が江戸の旗本水野家に養子に入った時と、
時期的に一致しています。
従って、忠定のお付の家臣として同行したのでは思われます。
ルーツ&雑学研究室のなかに、伊勢のことが随分書かれていますが、
伊勢もなかなか大変な土地柄だったようなので、これ以上追跡することは、
困難なようです。
このサイトを見て伊勢周辺に住んでおられる方の過去帳に、
青木久兵衛何某と書かれているものが見つかり、教えていただくことを期待する以外
ないように思われます。
では失礼いたします。
Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/10/19 (金) 20:27
静岡の青木さん。こんばんわ。お久しぶりです。
よくお調べになりましたね。なかなか難しいので大変でしたでしょう。
そこで、さらに参考になる情報を提供しますが、地名地形データのところには、愛知の青木氏に関する情報がありますので参照してください。
実は、愛知には、5つの地方での青木氏があるのですが、この地方は大変多い一族の青木氏が混在している所でして、その青木氏は4つに成ります。
西側には、皇族賜姓青木氏の土岐氏系青木氏、更に、西側には、皇族賜姓伊勢青木氏、北側には、足利系青木氏、東側には、藤原秀郷流青木氏、南側には、御家が言う知多の阿久比付近の昔の渥美郡、額田郡の伊川津7党の青木氏、更に、北側の2つ目には、丹波大口付近と豊田には甲斐の武田系青木氏、存在して、ここに青木村を形成して住んでいました。
江戸時代中期以後には、この関係が多少混在します。
青木氏の出自を確定するに日本一大変難しい所なのです。
これ等の青木氏に付いては、家紋掲示板や研究室での「青木氏と血縁族」や研究室の検索でお調べになってください。詳細に記述しています。地名地形データでも簡単に記述しています。
さて、阿久比付近に存在する青木氏は伊川津7党の青木氏の末裔ですので、御家とは違っていると考えます。
もし、この小さい付近の小土豪となった伊川津7党の一つの青木氏であれば、江戸初期の混乱期の第3青木氏と言う事に成ります。(他説あり)
松平、水野氏、結城氏(後に結城氏を名乗る)も徳川時代の松平氏の一門と成ります。
土地の小土豪集団の伊川津の第3青木氏の青木氏が水野氏との血縁関係になると言う事は考え難いことです。
提供された今回の青木氏であれば、故に、西側2つの青木氏、北側2つの青木氏と、南側の伊川津7党の青木氏は適用されません。
ただ一つは、東側の藤原秀郷流青木氏と成りますが、御家の血縁族が住んでいた所と成りますと、この反対側に定住して村を形成していた藤原秀郷流青木氏とは当時の経緯から見て異なっています。
多分、藤原秀郷流の青木氏であると思いますが、この江戸の時期からすると、参勤交代で武士だけは移動していますので、一門の水野氏の上総の青木氏が赴任地にて、又は、養子などの縁組で移動したものと考えるのが妥当ではと思います。
そして、その後、松井氏との縁組が進んだとも考えられます。故に家紋が軸なしの星梅鉢紋と成ったと観られます。
松井氏は松平氏としてみて、その支流拡大期の氏と成りますので、江戸中期前後と考えられます。
(松平氏の主紋が軸なし星梅鉢紋ではありません。松井氏一族の家紋です。)
この5つの青木氏には、家紋などの夫々の特徴がありますので、「梅鉢紋」又は、星紋では可能性が少ないと見られます。
剣入り紋以外の梅鉢紋には、軸のある紋と、軸の無い紋と2種あり、この内、星梅鉢または、裏梅紋は、軸の無い家紋類です。この家紋は、松平の支流の松井氏の家紋で有ります。この氏は上記の5つの青木氏とは関係する記録が有りません。
家紋は松平と記述されていますが、この家紋は、松井氏だけですのでご注意ください。
松平流を受けていると主張する支流の松井氏は愛知三河からの出と成りますが、この氏の本家筋とされる松平氏の出自は、そもそも松平氏の系譜搾取偏纂から始まっていますので、上記の氏とは全く関係がありません。
結果として、調べると、松平氏そのものは10程度の家紋を持って居る事に成ります。この意味をご理解ください。
江戸時代から明治にかけて起こった家柄をよく見せるために、第3青木氏のように、松平氏も使われたのです。松平氏の支流と名乗る事で、出世、縁組をよくしようとした搾取偏纂です。
松平氏そのものが有名な搾取偏纂の例で、朝廷に見破られた有名な経緯があります。
御家は、幾つかの養子縁組から、家紋掟でこの家紋になったと確実に見られますので、御家の青木氏は私は上総が高いのではと考えます。
家紋は変わっても、氏は養子を受ける、出るとは関係有りませんから、仕官や縁組での移動し縁組で家紋変化したとみられます。
水野氏との関係での事かと考えます。
養子縁組などを繰り返している事から分家(どちらかというと分派、分流)となり、かなり難しい所でしょうね。
昔の青木村では、皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏などの氏は特定の村を形成を許されたのですが、逆に言えば、多氏のもの、又は他の青木氏は特別の理由が無い限り、入村できません。
江戸時代にはまだ無理でした。まだ、氏家制度の血筋を守ると言う慣習は残っていました。むしろ江戸初期から中期にかけて、むしろ、強くゆり戻しがおこった時代でした。だから、かもんもこの時期が一番増えた時期でした。その中でも、厳しいのは、「国抜け」で、これは縁者を含む末代まで死刑でした。この意味は他国者をも入れ無いと言う事です。どんな嫌疑を掛けられるか判りません。現代の仕来り慣習では考えられません。
従って、余程の理由が無くては、御家の移動形態や縁組では、この5つの氏には成りません。
もう一度、ご理解されてお調べになる場合は、本家筋の郷里の所の情報がこれを解決するのでは思います。それと時代の慣習で考察される事をお勧めします。それと、インターネットの有名な江戸時代の氏の系譜などは、100%に近い状態で搾取偏纂ですので、ご注意ください。
しかし、よくお調べになりました。
御礼ありがとう御座います。
Re: 静岡の青木です
青木 昇さん 2007/10/19 (金) 15:17 [ メール ]
先日、お礼の返信をしたつもりでしたが、操作ミスか届いていないようなので、
改めてお礼申し上げます。
今までのご指導により、家紋の伝承が大切なことが分かり、主家水野家の沢瀉紋と青木家の星梅鉢紋に接点はないか、調べてみましたのでご報告いたします。
「インターネット等による調査」
・旗本の水野家(7千石)に伊勢桑名藩松平(久松)家から養子が入っていた。
・伊勢桑名藩松平(久松)家(11万石)は星梅鉢紋だった。
・松平(久松)家の先祖は、菅原道真が失脚したのに連座して、長孫の菅原雅規(幼名久松麿)が
尾張国阿久比に配流された。
・南北朝時代は後醍醐天皇に仕えた、菅原定長の子定範が尾張国知多郡目代に任ぜられ、
英比(阿久比)郷に土着した。
・久松の苗字は先祖の久松麿から取った。
・室町時代は尾張国守護の斯波家に属する国人領主だった。
・松平(久松)家から水野家に養子に入った水野忠定が、安房北条藩(1万5千石)を立藩して3代
続いた。
・水野忠韶の時に転封により、上総鶴牧藩(1万5千石)を立藩し、3代続いて明治になった。
・青木家の過去帳は水野忠定が水野家の養子になった年代頃から記載されている。
・明治2年に各藩の組織が複雑な為、藩政改革が行われ、青木家は鶴牧権大参事(家老)に任じら
れた。明治4年に廃藩置県になった。
・家族で笑って聞き流していた、我家の口伝が裏づけられた。
・松平(久松)家の知多郡阿久比と水野家の刈谷周辺に青木性が非常に多いと聞いた。
「考察」
・家格のうるさい時代に、主家に付随する家紋(星梅鉢)の使用が許されたり、分家に養子に入る
人がいたりして、ご指摘の通り相当緊密な間柄だった。
・青木家の先祖は松平(久松)家の家臣で、主家と一緒に転勤していた転勤族だった。。
「推論」
・現在の愛知県知多郡阿久比町周辺出身の青木家ではないかと思われます。
「お礼」
・このサイトに出会わなければここまで調べる事も無く、家にある資料も全て散逸していたと思わ
れます。ありがとうございました。
Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/09/29 (土) 21:23
早速のご連絡ありがとうございました。
良くお調べになりましたね。
私の推測とほぼ一致しますので、大方の所のルーツを検証する事が出来ると思います。
ただ、江戸中期以後の情報ですので、青木氏のルーツの確定は少なくとも江戸初期前後以前のものが必要ですし、本家筋の宗家の情報が必要ですが、兎も角もこの情報の中で、一部繋がりましたので、それをお答えします。
その情報とは、水野家の菩提寺が上総国にある事、
その瑞安寺が浄土宗である事、
水野家が星梅鉢紋である事、
この水野家(分家)何度か養子に入って深く血縁している事、
確実に経緯の時代性見て江戸初期前後が武士であった事、
そして上総付近に住まいしていた事が予想できる事、
水野家に養子に入れるほどの立場であった事、
久兵衛の官職名を持ち襲名方式を採っていた事、
関東以外に移動していない事、
などの以上の情報の中に含まれる江戸の社会慣習と比較しての青木氏の特異性が考えられる事、
などが上げられます。
というのは、この情報を補足する裏には、
上総の国に藤原秀郷流青木氏が結城付近を中心に存在する事、この青木氏は浄土宗である事、
水野家と血縁するには当時の血縁の慣習として、その先祖の持つ家柄を重んじることがある事。
最終1万5千石の大名との吊りあいで血縁で出来る事。
この梅紋には、藤原秀郷流青木氏の上総の家紋であり、3つある梅紋の青木氏が存在する事、
この藤原秀郷流青木氏は、藤原秀郷宗家の藤原朝光という者がこの上総の付近の領主であった事
(平家に奪い取られる)。
後に源の頼朝の平家討伐に合力して上総結城を中心とした国を本領安堵された事、
等が附帯されます。
この経緯は、次の通りです。
鎌倉幕府樹立で朝廷に仕えた北家筋の藤原氏一門は、日本全国24国に国司としては赴任してましたが、その時のいた官職と領土を失う。
この時の武蔵国の宗家と共に藤原朝光は奮起して、この上総の領国安堵を許される。
この時、同じく離散したこの一族の青木氏も朝光のこの土地の護衛役を勤める。
後に結城氏と名乗る。
そして、この地に藤原秀郷流青木氏の上総青木氏の末裔が広がる。
その後、鎌倉幕府が倒れて室町幕府が樹立したが、下克上と戦国時代になり、2つの結城氏(陸奥、上総)は滅亡する。
この時、この護衛役のこの上総(結城)青木氏は徳川氏に味方した事は史実としてのこっている。
土地の縁から地元の上総青木氏は、後から入ったてきて上総付近に住した水野氏に仕官したと見られる。
その後、徳川幕府になった時に、この水野氏の分家筋との幾度もの血縁が成されて養子縁組が出来るほどの立場となった。
以上が予想されます。
(藤原朝光に付いては、藤原秀郷の青木氏が出た兼光系である。)
(藤原秀郷流青木氏の役目は、全ての藤原秀郷の宗家一族の護衛役を担って全国24地方に同行していて各地に子孫を残してきている)
この証拠として、御家のご先祖の襲名が証拠でありますが、久兵衛の官職を名乗るためには朝廷からこの官職名を名乗れるほどの力(大名などの推薦と金品の献納で受けられる)があつた事を意味するのです。江戸初期ごろには。
(ただ、この官職は、後に勝手に名乗るようになる。明治になっては庶民まで名乗った)
この官職は藤原秀郷流青木氏が朝廷から取得できる身分官職です。
この官職に付いては「青木氏の官職と職位」のレポートがありますので参照してください。
宮廷の3つある衛兵門の守備職で、兵衛と成ります。(身分によって異なる。)
この官職を江戸初期に名乗れる氏である事を証明します。だから、水野氏との血縁ができたものと思います。
藤原秀郷流青木氏は浄土宗です。当時の浄土宗は特定の高位(藤原氏や青木氏)の者が入信できる特定の宗派と成っていた。
従って、各地には藤原氏か青木氏が定住する土地以外には浄土宗の寺がなかったのです。
上総には、この藤原秀郷の宗家の末裔の朝光と、その護衛役の藤原秀郷流青木氏がいましたので、浄土宗があるのです。しかし、少なく、江戸幕府は上級の大名と武士と御家人と旗本に入信するように奨励しました。
御家が元は浄土宗であったと見られますが、江戸に移った時に寺が少ないが為に、浄土宗の流を組む浄土真宗にはいったものと見られます。
藤原秀郷流青木氏は各地に長く赴任し定住すると、寺がないために、真宗に入ったのです。
特に埼玉や栃木をのぞく関東付近と四国九州での青木氏は仕方なく真宗に改宗しました。
千葉は今でも昔結城という限定される所での藤原氏と青木氏なので寺は少ないのです。
藤原秀郷流青木氏に付いての詳細は、「藤原秀郷一族の生き方」1−13を参照してください。
御家のルーツは提供された情報から検証すると、武蔵の国の入間郡を中心に横浜神奈川を半径として円を書く範囲を領国としていました(元は藤原秀郷の一門の)藤原朝光を元祖とする結城氏に同行した上総の青木氏と見られます。(室町末期には結城から上総全体と下総にも青木氏の末裔は拡がる)
この内容を読まれて思いつく仔細名な事何でも、他に情報が有りましたらお伝えください。より検証が確定できますので。時代にはその時代の慣習があって思いも依らない簡単なことが決め手になる事が多いのです。
以上にご質問が有りましたらお尋ねください。
Re: 静岡の青木です
青木 昇さん 2007/09/29 (土) 18:08 [ メール ]
早速のご返事ありがとうございます。
お問合せの項目につき、ご回答申し上げます。
・家紋について
家紋掲示板にはありません。
掲示板の梅鉢紋で中心の小丸の周囲に印が無く、単純に大丸5個と小丸1個です。
私の家では剣無し梅鉢と言っていました。
星梅鉢紋は沢山の家紋が載っている雑誌にはあります。
大名家では松下(久松)家で使用、水野家出身の徳川家康の母であるお大の方の再婚先です。
掛川城、松山城の展示物に星梅鉢と表記されていました。
・昔の国および敬覚寺は何時頃かについて
過去帳の1頁目は宝暦七丁丑年(1757年)で浅草敬覚寺です。
・菩提寺が上総でないことについて
推定です。鶴牧藩水野家は、江戸時代初期からの大名でなく、旗本が幕府の要職を務め、
徐々に加増され、結果として15000石の大名になった。
旗本時代は浅草周辺に屋敷があったと思われます。
鶴牧藩という名前も江戸の別邸があった早稲田鶴牧町に由来している。(インターネット情報)
・浄土宗について
水野家は上総の浄土宗瑞安寺が菩提寺です。
青木家からも水野家(多分、分家と思います)に養子に入っており、瑞安寺に葬られています。
・火事について
安永元壬辰年2月大火 御屋敷消失
(但し、達筆すぎて読めない字が多く抜粋です)
・養子について
幕末に両貰いの養子縁組をしており、二人の男子が誕生しています。
惣領は水野家の養子になり、二男が青木家を継ぎました。私の曽祖父にあたります。
・本家、宗派について
我家は没落士族の典型で、現在ある過去帳記載以前のことは皆無です。
従って、宗派は浅草敬覚寺が一番古く、他の親類筋の青木家も存在が不明です。
過去帳を見ると男子は一人か二人で多くの分家が出来た様子もありません。
これからは私が二男なので長男が本家となり私が分家となります。
・先祖の物語、古物について
現在残っているものは家紋が入った裃、家紋が柄に付いた守り刀、幕末から明治にかけての
日誌位です。
過去帳も焼けこげている状態で、戦時に母親が必死で持ち出した言っていました。その頃は
関心もありませんでした。
・別件
ツリーの中に平野家のことが書かれていますので参考にご連絡いたします。
前記の養子さんの実家作州北条県士族 旧松平右近将監家来平野登弥太長道 男となっています。
(明治に書かれているので県になっています)
Re: 静岡の青木です
副管理人さん 2007/09/28 (金) 20:58
静岡の青木さん 今日は。はじめまして。
今後ともよろしくお願いします。
文面から研究室のレポートをお読み頂居ているようですね。
たくさんのレポートや全国の青木さんとのルーツのやり取りなども準備されていますのでお読みください。特に右メニューに青木氏に関する事、家紋掲示板には青木氏の家紋、地形地名データには青木村などの事が史料として整えています。
さて、提供されています情報に付いて、判断するに必要とする質問がありますので、それをお答えいただけないでしょうか。
家紋の件ですが、家紋文様には独立して「星紋」と「梅鉢紋」の二つの文様がありますが、この2つは大変に良く似ています。中央部のところの有無で変わります。
家紋掲示板に星紋と梅鉢紋の両青木氏がありますので、一度ご確認ください。そして、この中に御家の家紋がありますかお知らせください。
昔の国に関して、何時頃時代でしょうか。過去帳では江戸中期となっているようですが、浅草の菩提寺での事でしょうか。出来ることなら江戸初期前後か以前の国がよいのですが。
水野家家臣と成りますとご先祖は少なくとも江戸初期前後になると思います。
国は上総でありながら、菩提寺は江戸浅草の敬覚寺と成っています。国が上総であれば菩提寺は上総にあるはずですが、なぜ江戸なのでしょうか。上総に浄土宗の寺が少なかったか無かったからでしょうか。上総には確かにすくないのですが、4つくらいの浄土宗の寺がありますが、それで江戸の浄土真宗に改宗したと言うことなのでしょうか。
敬覚寺は何時頃からでしょうか。
ご本家も浄土真宗でしょうか。(基本的にはご本家の情報を前提としてください)
火事にて過去帳が消えたとしていますが、そのお寺は、何宗で、何処にありましたか、何時頃でしょうか。
男系の跡目が出来ずに養子を取り2代続きの女系となりましたご先祖がありましたでしょうか。結果として家紋の変紋がありましたでしょうか。
青木久兵衛は世襲と見られますが、世襲する御家と成ると御家に先祖を物語る古物が有りませんか。
以上お判りの範囲でお答えください。
家紋掲示板を既にお読みに成っているでしょうか。未だであれば一度お読みください。
といいますのは、第3の青木氏と決め付けるにはきわどい所にありますので今の所ではお答えが難しいのです。
では、お調べいただいたところで、お便りください。
以上が全て判明は難しいかもしれませんね。判る範囲でお願いします。特に家紋と菩提寺の在所を明確にして下さい。
静岡の青木です
青木 昇さん 2007/09/28 (金) 15:12 [ メール ]
このサイトを偶然見つけ、感心しました。
先祖の書いた日誌もあり、急にルーツを詳しく知りたいと思い調べました。
家紋:星梅鉢
昔の国:上総鶴牧藩水野家家臣。代々青木久兵衛○○と名乗っている。
菩提寺:浅草 敬覚寺 浄土真宗(東本願寺)但し、明治に日蓮宗に改宗し現在に至る。
過去帳も江戸中期以前のものは、火事にあったようで消失している。
我家は第3の青木氏と考えるのが妥当でしょうか。
よろしくお願いします。
Re: ルーツを教えてください。
副管理人さん 2007/11/16 (金) 14:30
青木氏のステイタスの「生仏像様」に関するご質問ですが、ご指摘は仏教の仏像としてのご指摘と思いますが、文中にも誤解のない様に内容に幾つかの特長を記述しています。
先ず、皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏は、647年ごろの発祥です。
天智天皇(中大兄皇子、大海人皇子)の皇子皇女の総勢34人中皇子14人の中の第6位皇子が臣下して賜姓を受け、伊勢の国の守護王として赴任しました。この時、この皇子に対して氏として青木氏を与えたのが最初です。(以後 天智天皇と呼ぶ)
この伊勢青木氏に対して、ステイタスとしてこの仏像を与えたと記録されています。
この時、物部氏と蘇我氏との神道と仏教の戦いで、蘇我氏が勝ちますが、いきなり仏教が大きく布教したわけでは有りません。朝廷そのものの神事は「天神文化」そのままの中ですから、まだ神道の伝統の方が大きい位置を占めていました。
聖徳太子の「仏法興隆の詔」は594年ですから、始めて私伝として伝えた「司馬達等氏」から観ると50年後程度です。
この司馬達等氏の孫である鞍作部止利は丁度この時期(647年頃)の人物です。
元々、この鞍作部は、中国後漢から阿多倍王に率いられて帰化してきた200万人の技能集団の一つで、最初は馬の鞍を作る職人集団(部)でした。司馬達等はこの集団の首長でした。
この首長は中国で仏教に帰依して居た事から日本では合間に仏像を掘っていたとされます。(私伝布教した)
この孫の鞍作部止利がその彫り物を広めたもので、天智天皇に命じられて掘ったのも仏教の影響がまだ少ない初期の彫刻です。北魏方式としての彫刻の完成は鎌倉期前と成ります。
この鞍作部止利に天智天皇は「皇族賜姓族の証」として「ステイタス」として彫刻を作ることを命じたのですから、「仏教の仏像」としてより、「皇族者としての証」を強調したものです。
北魏方式とは言え、まだその特長が全面に出るそのような、僧形と僧顔となっています。
京都古美術商の鑑定士と菩提寺僧院もその評価をしています。私も正しいと思います。むしろ、この時代性と仏教性と皇族者と「鞍作部止利」から観ると、むしろその証となると考えます。
口伝は正しいと見ます。むしろ、大日如来像とする口伝による標記に問題があるのかも知れません。
「皇族者としての証」の大日像とするべきかも知れません。
しかし、これでは一般性が無く表現が難しいとして「口伝」と成っているのだと考えます。
何でも勘でも、定印など仏教の最盛期(560年後)の特長にあわしての評価には問題があると観ます。史実を検証するときには、特に難しいのはこの点です。
文化は急に変化するものでは有りませんからね。次第に変化して行くものですからね。
物事は暫時(30−50)送れて影響するものと思います。
あくまでも、仏教の仏像として彫刻したものでは決して有りません。皇族賜姓族として民を導く者の太陽の如く頂点の証としてのイメージした彫り物なのです。それでなくては意味が有りません。単純に仏像を与えた所で「証」にはなりませんし、ステイタスにはなりません。
天智天皇は天神文化の朝廷のその天皇としての立場から「証品」として命じ、子供に与えたと考えるのが無理の無い判断になることだと思います。まして、未だ、人、時、場所の三相から見ても、仏教的要素が少ない時期のものです。
まだ、この時期(647年頃)は詔から50年程度しか経っていませんし、まだ仏教の布教も長い歴史のある神道の地盤もあり進んでいません。朝廷の中での祭祀も神道が主導でした。
まして、伊勢は天智天皇が国の守護神(後に弟の天武天皇が正式に決定)として、この時期に伊勢に神宮を立てた時期でもあります。
そして、それを青木氏に守護させたのです。むしろ神道的要素のあるものとして評価するべきものなのです。
同じく、伊勢神宮の守護役として、伊勢青木氏もその代表的氏でもあります。
浄土宗は鎌倉時代のもので、この時代からやっと仏教としての活動が全国に広がる時代です。
また、その特長も1200頃から出てきたものです。大きく広がったのは江戸幕府が出した浄土宗の帰依督励の法からでした。
浄土宗の法然は1133−1212年ですから、560年後の話と成ります。
更に、仏教と一口で言いますが、仏教は2つの区切りを経ています。
鎌倉時代初期を境にして、594年から1200年までを「旧仏教」(顕密仏教)と呼ばれ、1200年以降1350年頃までを「鎌倉新仏教」と呼ばれその質は異なります。
ご指摘は、浄土宗の特長を560年前に遡って適用して検証すると言う事に成ります。
丁度、現在の常識を室町期のことに適用した事に成ります。
皇族賜姓族の伊勢青木氏の「証」の彫り物です。
仏教とは直接関係の無い彫り物としてのものです。
故に、お話の最後の所のお考えになると思います。
又、ご質問が有りましたら、お尋ねください。
Re: ルーツを教えてください。
********さん 2007/11/15 (木) 21:40
管理人さんこんばんは。色々と教えていただき有り難うございます。今後の参考にさせていただきます。話は変わりますが、青木家の守り仏は、大日如来との事でしたが、もし浄土宗であれば阿弥陀如来が一般的だと思います。それに、大日如来の写真を拝見させていただきましたが、簡素な僧形であらせられますし、宝冠を身に着けていません。それに、仏を特定する手印ですが、大日如来を表す禅定印は法界定印か智拳印と思いますが、写真の如来様は、阿弥陀定印に見えるのですがどうでしょうか。法界定印と阿弥陀定印は似ているので、写真がはっきりくっきり見えませんと特定しにくく、提供写真は少し見えにくいのではっきりと断定できませんが、それとも、古い時代の仏教の仏像なので特別なのでしょうか。どうぞ教えてください。
Re: ルーツを教えてください。
副管理人さん 2007/11/07 (水) 08:50
青木一実さん おはようございます。
伊勢の旅をされた様でよかったですね。
ルーツ確認はなかなか難しいものですよね。
何かご質問等有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。お待ち申し上げます。
お墓に関して、在家の方が移動される場合は、普通、台座を残し上の墓石を移動先に持ち運びます。
ですから墓が旧の位置で見付かることは難しいものと考えます。もし、荒れて残っていても、無縁仏の墓と言うのが多いと考えます。
現在のような御影石の墓石は明治頃からのもので、普通の在家の墓は豪族や大名以外は小さい台座の上に大きな川原の石を載せているのが明治前の墓式です。これには意味があります。
川原の石は三途の川を意味し、墓石の形に合うその石を用いるという一般の習慣でしたし、土葬でしたので御影石でのお骨の保存と言う形はないと考えます。
この川原の石の墓は風雨に弱いので無管理の形では長い年月は無理と考えます。
どの程度の墓石を用いていたかと言う見極めが必要で、且つ、何時の時代にするかの問題もあります。江戸中期前では習慣から発見が難しいのも現実です。
室町期ではそれなりの身分ですと、藤原氏一門青木氏の場合は、男墓と女墓に分かれている事もあります。特に本家筋では。
墓に関しては、当時の慣習をもご配慮されての調査とされる事をお伝えします。
墓が荒れていることの現実はこの結果から来るものと考えます。
寺が廃墟になるという事は、その墓での墓石は付近の関連寺に移動させますので、そこともご配慮されると良いと思います。
明治の時に、政府の方針で「廃仏毀釈」という事を行いましたので、この影響もあります。
提案しましたお寺に移動させていることも充分にあります。
以上のことが参考になればと思いお伝えしました。
Re: ルーツを教えてください。
青木一実さん 2007/11/06 (火) 23:33
こんにちは、返事が遅くなりまして失礼いたしました。この度は、ご丁寧に教えていただき感謝いたしております。先月の末に伊勢・鳥羽に旅行に行きました。その際、消失してしまった龍泉寺に行って調べてまいりました。龍泉寺のすぐ隣には、済度院という浄土宗のお寺があり、この寺の境内を通って龍泉寺に向かいます。その住職さんに龍泉寺の燃え残りを見せていただきましたが、わずかにお経の本が残るばかりで手がかりはまったくありませんでした。墓標は倒れ草ぼうぼうで見るも無残な状態でした。代々の住職の墓に混じって在家の墓もいくつか見られました。しかし、皆倒れてしまって確認はほとんど出来ませんでした。済度院の住職が、供養のため時々清掃するとのことで、その折に調べてくれるとのことです。念のため、浄土宗の済度院の過去帳を調べましたが。発見は出来ませんでした。そして鳥羽の図書館で龍泉寺の事を調べたところ、鳥羽の常安寺の末寺であることがわかりました。今度は、遠くて中々行けませんが常安寺を調べて見たいと思います。伊勢神宮参拝の時は、気持ちの良い秋晴れで、最高にすがすがしい気持ちになりました。これからも、何かと質問することも有ると思われますが、どうぞよろしくお願いいたします。
Re: ルーツを教えてください。
副管理人さん 2007/10/26 (金) 10:34
>全国の青木さんと管理人さんこんにちは。一族の家紋は菅原家と同じ梅鉢紋です。今は埼玉県さいたま市で暮らしています。宗派は本家は浄土宗ですが。昔から浄土宗であったかは不明です。何でも私の父親のかすかな記憶の話によると、明治の始めころ4代前の爺さんが分家して伊勢から東京に越して来たとのことです。今では本家との交流は途絶えてしまってつながりがまったくわかりませんし、存在しているかどうかもわかりません。父のかすかな記憶によると鳥羽あたりで学校の校長先生をしていた人がいるとの事です。伊勢の菩提寺は鳥羽市小浜町に、昭和36年まで存在していた龍泉寺という寺で、宗派は曹洞宗とのことです。なんでも、この寺は火事で焼失してしまって、再建もなく今は開山していないとのことですが、この寺は、なんでも武田信玄の家臣、小浜民部の菩提寺だそうで、檀家というものが存在しないと、隣の寺院の僧侶が教えてくれました。管理人さんは伊勢にいらっしゃるそうですが、この寺のお墓はどうなってしまったのか、もし情報等ありましたらお知らせください。
梅鉢紋の青木さん 今日は。始めまして。
青木サイトによくお越し頂きました。これからもどうぞ宜しく。
さて、文面から致しますと、私の伊勢青木氏のことをおしりになり、お読み頂いている様ですね。
では、この伊勢の青木氏に付いてご説明いたします。
伊勢は、3つの青木氏が存在します。
何れもそのルーツは異なります。ただ平安初期まで遡れば、母方で同じ北家筋の藤原秀郷のルーツを持ちますが。
その青木氏は、
1つ目は、伊勢松阪と玉城付近を中心に奈良との県境の名張から、名古屋の桑名、員弁までを直線で結ぶ領域に定住している皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏、
2つ目は、近江国と滋賀付近の豪族二宮氏の末裔が、伊勢東の永嶋付近に移動した稲垣氏、その末裔鳥羽氏を名乗り、その後、伊勢青木氏との間で血縁をした永嶋付近に住んでいる鳥羽の青木氏、
3つ目はこの伊勢の国に国司として赴任した武蔵の国の藤原秀郷の末裔一門の藤原基景に同行した藤原秀郷流青木氏が鳥羽永嶋に定住した藤原秀郷流青木氏
の以上3つの青木氏が存在します。
この伊勢鳥羽永嶋には藤原秀郷の宗家一門が3人赴任しています。
一人目は、藤原秀郷(鎌足より8代目)の祖父の藤成です。藤原鎌足の直系の6代目(825ころ)のものです。
二人目は、秀郷より8代目の基景です。
三人目は、平安末期の基経です。
御家はこの家紋の梅鉢紋の青木氏と成りますと、梅鉢紋は菅原氏の家紋ですので、平安中期の藤原基景が伊勢の国司として赴任し、これに同行した藤原秀郷流青木氏でこの青木氏がこの時期に菅原氏と血縁をしたものです。
ただ、この時に基経までの間の何代目かに男系子孫の跡目が出来ず、養子縁組を菅原氏と行い家を継いだと考えられます。しかし、さらに男子が生まれず、止む無く家紋掟により女系と成った事により変紋を余儀なくされ、養子の実家先の家紋、即ち、梅鉢紋になったと考えられます。
その後男系が続いたと考えられます。
養子に後継ぎの男子が生まれれば、元の家紋の藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤紋」に戻る事も出来ました。
養子をとると一時的に家紋を養子先の家紋となり、男子が生まれれば元に戻す事が出来る掟です。
この藤原秀郷の末裔の基景の宗家一門は後に、伊勢に定住して、伊勢の藤原氏即ち、伊藤氏として名乗りました。この藤原氏に付き従った護衛役の青木氏です。
藤原秀郷一門主要5氏は、青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏となりますが、宗家の藤原氏は貴族と成りましたので、自ら武力をもつ事は出来ません。そこで一族の子供に武力を持たせて護衛役を担わしたのです。これが青木氏でありました。
その中の梅鉢紋の青木氏と成ります。この藤原秀郷の青木氏一門は上記のような跡目理由で116氏にも成り拡がりました。
この116氏は藤原氏赴任地24国に広がって定住しています。これは子孫を土地の豪族との血縁を行い、その分家をその赴任地に遺すという藤原一門の戦略でした。
お家は、多分、武蔵国から、藤原秀郷流青木氏の総本家より、さらに梅鉢紋の青木氏本家に指示が与えられて差し向けられた分家一門です。そして、その更に分家が土地に残る仕組みでしたので、お家はこの分家に当る藤原秀郷流青木氏です。
梅鉢紋の菅原氏は901年に菅原道真が藤原時平の左大臣に追い落とされます。そして、大宰府に配流させられます。この時、時平と北家同門の藤原秀郷(959没)の一門の青木氏は存在し、この後、藤原の基景に同行(1100頃)してこの伊勢に赴任します。この時、既に道真の末裔の菅原氏との縁組が出来分家筋もいて伊勢に赴任していますから、およそ、1020−1050年頃の前半に血縁をしている事に成ります。(1200年頃は一時、藤原秀郷一門は鎌倉獏樹立で衰退飛散する)
900年以前は菅原氏は小さい氏で学問所として存在していましたので、青木氏との血縁は家柄上ありえませんし、藤原氏の青木氏は存在しません。又、この頃はまだ菅原氏の家紋は定まっていないと見られます。
平安中期頃は家紋又は象徴紋の持ている家柄は余り多くありませんでした。一般の主な氏の家紋としては平安末期か鎌倉時代の事です。一般武士は下克上と戦国時代過ぎての室町末期から江戸初期のことです。
菅原道真氏(903没)は醍醐天皇に引き上げられた頃に象徴紋として定めたものですから、末裔が家紋としたのは、980-1000年頃ではないかと見られます。(世間の主な40程度の氏が家紋化した時期)
藤原秀郷流青木氏116氏の中でも、中堅ところの梅鉢紋青木氏ではと考えられます。
伊勢は「半国司」と称して、伊勢は天領地ですので、天皇は特別に勲功のあった者に半国司として任じ石高を分け与えました。
伊勢北部伊賀地方と永嶋地方と本領地の松阪です。全体は松阪の伊勢青木氏が647年から守護でした。
お家は、この永嶋地方の護衛役として勤めました。
藤原秀郷一門は全て浄土宗で、この頃は天皇家と血縁を持つ藤原氏や青木氏しか入信できない特別の宗派でした。地方に出た一門は従って限られた土地にしか浄土宗の寺はありませんでしたので、浄土真宗としました。
平安中期に基景に同行した藤原秀郷流青木氏が当時の菅原氏と血縁をした梅鉢紋の伊勢に定住した青木氏です。筆者は伊勢松阪の青木氏総宗本家です。
お墓の件ですが、伊勢は3度の大火災に見まわれています。
最後は明治35年です。伊勢の大化です。
その前は有名な信長の永嶋攻めです。天皇家や藤原氏や青木氏の等の高位の氏の殲滅を目的とした全滅の焼き討ちでした。
この時、永嶋「半国司」の豪族北畠氏との戦いでしたが、伊勢青木氏を始めとして、藤原秀郷一門の伊藤氏やお家の先祖の藤原秀郷流青木氏や二宮氏の末裔の鳥羽の青木氏や伊勢北部の伊賀氏などが合力しました。有名な戦いです。主に3つの戦いがありました。
この時の中心と成ったのが、天正の乱など小説や歌舞伎で有名な「名張の小太郎」「伊賀の小次郎」伊勢紙屋長兵衛(青木長兵衛:青木民部尉信定)の伊勢青木氏でしたが、お家の青木大膳なる者も大いに戦いました。このお家の一部の青木氏は元の総本家の故郷の埼玉千葉に逃げ延びました。
この様な3度の焼き討ちでお寺やお墓が不明に成っていることが多いのです。
1670−80年頃ですから、お家の藤原秀郷流青木氏の菩提寺とお墓は今わかりません。
私の先祖の菩提寺も3度火災に合い、3度移転していますので、なにもかもなくなりましたが、現在は確認出来ています。元は伊勢青木氏の独自の菩提寺でしたが、江戸から現在までに紀州徳川氏の墓所で一般の人の墓もあります。この様に、他の2氏の青木氏に関する事は私には現在把握できていません。
経緯から、鳥羽の龍泉寺は曹洞宗ですので、消失後の寺ではと考えます。その前の鳥羽永嶋の浄土宗の寺を探されたら本家筋のお墓は存在すると思います。
参考 本照寺(真宗)、天真寺、天徳寺、金胎寺、常安寺、済生寺、妙性寺、そして、龍泉寺が鳥羽にあります。この内のひとつではと思います。調べられて浄土宗か真宗を選択してください。
尚、不確定ですが、鳥羽2丁目付近に昔青木という地名があったとする話があり、この付近に当時、青木村を形成して住んでいたと見られますので、この付近のある浄土宗寺とする条件が有力です。
上記の寺の一つの浄土宗か真宗の菩提寺であろうと考えます。
見つからなければ、伊勢の藤原基景の末裔伊藤氏の菩提寺付近にある本家筋のお墓がある可能性もあります。本家筋でなければルーツと墓所は見つからないと考えられます。
そこから戻るのが普通のルーツの調べ方です。
私の調査でこの地方にも現在もお家の本家筋の青木氏が多く存在している事を確認しています。
場合に依っては、浄土寺は近江、奈良、伊勢、美濃、信濃、甲斐、武蔵、横浜、神奈川、栃木には多くありますが、よって、松阪市、玉城市にも多くの浄土宗の寺が存在していますので歴史的経緯からも調べてみる必要もあります。
必ず、伊勢の鳥羽付近には、特別な氏でしたので、お家の本家は存在しますし、寺も確実にあります。私も調べてみます。
何かわかりましたら、お知らせください。ご不明な点が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
参考として、藤原秀郷流青木氏に関しては「藤原秀郷一族の生き方」、「青木氏と血縁族」、「家紋掲示板」の梅鉢紋、研究室の検索で、全国の青木さんからの投稿も沢山ありますので、ゆっくりとお読みください。特に「藤原秀郷の一門」に関する所をご覧下さい。
ルーツを教えてください。
青木一実さん 2007/10/25 (木) 23:34 [ メール ]
全国の青木さんと管理人さんこんにちは。一族の家紋は菅原家と同じ梅鉢紋です。今は埼玉県さいたま市で暮らしています。宗派は本家は浄土宗ですが。昔から浄土宗であったかは不明です。何でも私の父親のかすかな記憶の話によると、明治の始めころ4代前の爺さんが分家して伊勢から東京に越して来たとのことです。今では本家との交流は途絶えてしまってつながりがまったくわかりませんし、存在しているかどうかもわかりません。父のかすかな記憶によると鳥羽あたりで学校の校長先生をしていた人がいるとの事です。伊勢の菩提寺は鳥羽市小浜町に、昭和36年まで存在していた龍泉寺という寺で、宗派は曹洞宗とのことです。なんでも、この寺は火事で焼失してしまって、再建もなく今は開山していないとのことですが、この寺は、なんでも武田信玄の家臣、小浜民部の菩提寺だそうで、檀家というものが存在しないと、隣の寺院の僧侶が教えてくれました。管理人さんは伊勢にいらっしゃるそうですが、この寺のお墓はどうなってしまったのか、もし情報等ありましたらお知らせください。
Re: 家紋について
滋賀の青木さん 2007/11/12 (月) 08:18
早速に詳しいことを教えてくださり有難うございました。
滋賀には青木姓の家が多いようですが複雑なんですね、
我が家は本家筋ではなく、私も本家がどこなのか、菩提寺がどこなのかもわかりません。
死んだ父親から本家は石部あたりにあり、家紋は一文字か丸一文字と聞いていました。
しかし本家はどこに行ったかわからないそうです。
でも、おかげさまで少し先祖のことを知ることができました。
有難うございました。
Re: 家紋について
副管理人さん 2007/11/10 (土) 20:47
滋賀の青木さん 今日は。 始めまして。
では、先ず、お呼びで有るかどうかは貴方にお任せして、次の情報を前提で検証します。
情報の一つとして、家紋が「丸に一文字紋」の青木さんとの事で、ご先祖の土地は石部ですが、この他に情報がありませんか。
例えば、宗派、菩提寺、などのことや、江戸中期以前のご先祖の事などがわかれば、判断がつくのですが。お判りでしたら、お便りください。特に宗派と菩提寺は必ずお願いします。
参照、「地名地形データーベース」の滋賀の甲賀と犬上のところを参照して下さい。
他にも元上山氏の青木氏に付いては多くレポートしています。
第3青木氏に付いては既にお読みとの事なので合わせてお読みください。
とりあえず、上記の二つのことで、お答えします。
先ずその前に、この滋賀の国には、青木氏は2つの青木氏があります。
天智天皇第7位皇子の川島の皇子が特別に賜姓を受けて、土地の名から「佐々木氏」を名乗りました。(第6位皇子が賜姓を受けて臣下するのが原則)
そして、聖武天皇期の第6位皇子が近江の青木氏の賜姓を受けて臣下した近江青木氏があります。
この青木氏が、後に一族が滋賀に移動します。この近江の賜姓青木氏が滋賀から近江に戻り、その後、摂津に移動して定住します。
時代を経て宇多天皇期に滋賀に宇多佐々木氏が発祥します。この佐々木氏と一部滋賀に残った賜姓青木氏の末裔がこの滋賀佐々木氏と血縁して佐々木系青木氏を発祥させます。
ここに、上山氏を名乗る者が立身出世して、この佐々木系青木氏の分家の断絶した青木氏を奪い取り青木氏を名乗りましたが、本家筋と2度の争いが起こり戦って勝ち名籍を奪いました。
ところが、関東に武蔵7党と言う豪族集団があり、この一つの豪族の丹治氏(多治彦皇子の落子の末裔:嵯峨天皇期の詔に基ずく皇族青木氏)の始祖が元滋賀の甲賀郡に住んでいたので、この青木氏を名乗る末裔があります。
ところが、この甲賀の丹治氏青木氏を上記の上山氏がこの青木氏も重複して名乗りました。
つまり、上山氏の青木氏は、滋賀の宇多天皇の佐々木系青木氏と、丹治氏青木氏をも名乗ったのです。
ところが、後で、丹治氏青木氏と佐々木系青木氏から異議を申し立てられて、系譜と家紋の偏纂がばれて系譜に、「後勘に問う」と明記して逃げました。
以上の青木氏があります。
さて、お家の家紋の「丸に一文字紋」(文字文様)ですが、この家紋を使用する氏は、山内氏、須藤氏、蒲田氏の一族です。
家紋の文様は古いものですが、南北朝の頃、「かつ」と詠んで、「敵なし」として縁起を担ぎ「尚武紋」として一般武士に用いられました。
そこで、お家は、この山内氏、須藤氏、蒲田氏の一族の3氏と同じく立身出世した氏ですが、この族と血縁をした、(上記の元上山氏の青木氏との血縁による)、青木氏です。
第3青木氏の中でも超最大氏です。
この元上山氏の青木氏は美作国の守護を始めとして、8国に及ぶ赴任地の守護等を務めた一族です。
滋賀では、佐々木系青木氏や皇族賜姓青木氏よりも段突に一族を大きく広げました。
広くは、滋賀は元より甲賀、伊賀(元は上山氏は立身前は伊勢北部伊賀の甲賀より伊賀上山の出である)と8つの国の土地に末裔を遺してきています。
お家が江戸中期前の昔からこの甲賀(湖南)の地の石部に居たとし、「丸に一文字紋」とすると、甲賀の上山氏の青木氏の末裔であると考えられます。
特長として、元上山氏の青木氏の一族は、家紋も偏纂して、(平家綜紋の「揚羽蝶紋」に丸付き紋の偏纂 家紋偏纂の理由は研究室の検索で阿多倍か平家一族を参照)そして、副紋を「木文字紋」等の多くの「文字紋」を使用しました。(この中に一文字紋が見られる)
(皇族賜姓青木氏と佐々木系青木氏の国府を中心にした青木村の定住地とは異なります)
(元上山氏の青木氏は村を形成する家柄の立場にはありません。)
(甲賀の青木村は断絶青木氏の定住地なので重複します)
時代を経て途中で、戦国時代の豊臣時代や徳川時代の山内氏、須藤氏、蒲田氏の一族との血縁した青木氏ですが、男系跡目が出来ず、家紋掟により、女系となり上記の「丸に一文字」の養子先の家紋となったものです。元は上山氏の何れかの家紋であった筈です。
(元から一文字紋の可能性もあるが確定する情報がない)
参考
藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏の家紋はその役目柄から定住地が明確でありますので、29の家紋種を限定できるのです。(33紋中、特別に4家紋は除外)
家紋は日本全国8000程度の家紋があります。この内、「家紋200選」が主要氏です。
2つの情報では甲賀元上山氏の青木氏であるというこの範囲が限界です。
以上ですが、ご質問が有りましたらお尋ねください。
家紋について
滋賀の青木さん 2007/11/10 (土) 09:34
私の先祖は滋賀県石部の出とか。
管理人さんによれば下剋上とかで成り上がったお呼びでない第三の青木だそうで、高貴な青木氏の話ではありませんが、もしご存知でしたら教えてください。
石部辺りの青木氏で「一文字」又は「丸に一文字」の家紋を使っていたという記録はどこかにないでしょうか?
Re: 群馬の青木です。パート2
副管理人さん 2007/05/12 (土) 19:51
群馬の青木さん。 今日は。お元気ですか。おひさしぶりですね。
さて、お話の件ですが、私が思うには次の三つのどちらかではないかと思います。
先ず一つは、戦前アメリカ軍のB29の敵襲爆撃から逃れるために、地域全域一定の間隔で「防空壕」と言うものを造り、空襲警報が発令されて、サイレンが鳴ると住民は指定された「防空壕」に逃げ込みました。
特に関東では地方と違って必ず町内会で壕を掘って周りを石で囲う補強作策を取りました。
というのは、関東の土は「関東ローム層」といって柔らかい「火山灰」の土ですので弱くて「防空壕」を作るのが難しい事でした。そのために周囲に石塁を組して補強しました。
そのために、その掘る環境条件は川沿いである事、竹やぶ等の根で地盤がしっかりしている所、そして、熱風から避ける為に水のある所、目立たない所、爆風の風圧を避ける条件の備わった所に作りました。或いは川や堀の付近にも条件が合うので作りました。
関西では多くは岩盤であるので山の懐の所に横穴を掘って作りました。木枠で固めて補強しました。
川の土提にも作りました。
二つ目は、城の空堀である可能性もあります。
城は2万国であったということですが、空堀や抜け穴や防護穴を施すほどの大名でないと考えます。
もし、そうであると山城にする筈です。山城は自然の防御条件が備わっています。
平城は安定期に入ったときの城作りですので、元々はその必要性が少ないはずです。
むしろ平城は経済的効果を狙っての造りとし、戦いには、攻撃的速攻性と行動性を配慮したものと成っていますので、考えにくいと思います。
3つ目は、伊賀、甲賀、雑賀、根来、柳生、真田、などの忍者城や雇兵城を護衛を職業としていた小豪族の城では城の周囲に壷(穴掘 蛸壺)を堀り隠れて奇襲する作戦に使用する等のものがありました。
その2万石の城主はどのような人物でしたかを調べればこれに当るかどうかは判るはずです。
多分、一つ目のものに当ると思います。
又、何か面白いことが有りましたら、お便りください。お待ちしています。
Re: 群馬の青木です。パート2
群馬の青木さん 2007/05/12 (土) 09:52
補足です。
私の住んでいる地域は武田・上杉 西上野国地域争奪の舞台だったそうです。
群馬の青木です。パート2
群馬の青木さん 2007/05/12 (土) 09:30
こんにちは。お久しぶりです。
今日の朝、自宅西側の竹やぶを見たところ、内側に土豪(2m近くある模様)や外側に石塁(一部しかのこっていません。高さは現在は60cmほどです。。。)のような跡が見つかりました。
家の近く(2キロ)くらい離れてるでしょう。。。)には城跡があります。(2万石だそうです。ちなみにその城は武田勝頼により落城)わたしが住んでいる町にも竹やぶの中に土塁があるという家があるみたいです。
土塁の前には川が流れていています。自分の考えでは堤かと思うのですが、はやり城と近いということは拠点だったのでしょうか?
千葉の青木アキノリさん
副管理人さん 2007/09/25 (火) 09:45
千葉の青木アキノリさん。今日は。
雑談掲示板からこちらにご回答を移動させます。
では、早速ですが、
青木氏ルーツはそのルーツを分けると2つのルーツに成ります。
一つは、皇族賜姓青木氏です。
天智天皇から光仁天皇の5代の天皇の第6位皇子が臣下して侍となり、青木氏を直接天皇から賜姓を受けた氏です。5家5流24氏あります。
もう一つは、この方式を朝廷から許可を得て藤原秀郷の第3子が藤原氏を守る為に侍となり、青木氏を名乗った者です。藤原秀郷流青木氏です。直系1氏直流4氏支流4氏の主要9氏116氏あります。
これ等二つのルーツの氏は藤原鎌足の藤原氏の母方で全て繋がっています。
そして、この青木に関して、光仁天皇の後の2代後の嵯峨天皇期に、この第6位皇子を青木氏から源氏に変名し、そして、弘仁5年に青木氏は皇族身分の者が名乗れる氏とする詔を発しました。
これが、全ての国民が姓を持つ明治3年の苗字令まで原則として守られました。
しかし、この間、3時期に於いてこの詔の禁令が守られない時期がありました。
室町期の下克上と戦国期の第1期、江戸初期前後の混乱期の第2期、そして、明治初期の苗字令の時期の3つです。
天皇家に次ぐ氏でありますので、氏家制度の時代ですから、政治の混乱期に、家柄を良く見せるために出世したものは、この青木氏を寺に高額の金品を出して、系譜を偏纂してもらい、青木氏の血縁者であるが如くに搾取偏纂しました。(当時、寺は戸籍簿の役目を担っていた)
{例えば、同じように徳川氏(源氏一族を搾取)や豊臣氏(皇族一族を搾取)もこの搾取偏纂です。}
明治時期は氏と姓を持たない庶民は法的に認められた行為であるので、金品のある者は寺に家系を造って貰い政庁に届けました。
(真のルーツ調べ、はこの時期と事記の乱れた事を知らないと判断が難しいのです。)
しかし、そこで、この青木氏には矛盾があります。
一つは土地柄です。2つのルーツの青木氏には高位であるので、青木村を特別に形成して居ますので、土地柄がはっきりしています。
二つ目は、この2氏は高位であるので必然的に、藤原氏の特別な場合を除き、高位のものしか入信できない「浄土宗」でした。浄土宗はこれ等の土地柄の限られた所にしかありませんでした。
三つ目は、自分の一族だけを奉る浄土宗の独自の菩提寺を持っていました。(青木氏が住職)
四つ目は、平安期からの系譜を保持しています。本家筋ではその歴史は1000年は越える氏ですし、その宗家筋はあらかたはっきりとしています。
五つ目は、本家筋は浄土仏壇とか、そのルーツを示す伝統品を保持しています。
六つ目は、特別な氏であるのでそのルーツが大方はっきりとしていますので、必然的に家紋にも29の家紋に限定しています。基は皇族賜姓青木氏であれば、綜紋は「笹竜胆紋」、藤原秀郷流青木氏で有れば「下がり藤紋」で、夫々には特別の条件が附帯しています。
従って、この第3青木氏にはこの条件まで合わせることは不可能ですので、矛盾が生まれるのです。
特に明治以降の青木氏に関しては確実に適合していません。
この時期が最も青木氏が増えた時期なのです。上記の特別の土地柄に住んでいた者が成っている傾向があります。
室町期の青木氏は当時は出世した下級侍は家紋や姓など保持していませんでしたので、何らか遠い縁から、引き出すか、買い取るか、奪い取るか、遠い血筋の縁組をするかして名乗ったのです。
公にこの為の戦いを許可得て勝った青木氏もあり、この青木氏は最も大きく末裔を伸ばしています。
江戸初期前後は、出世するには家柄が無くては殆ど封建社会でしたので無理でした。そのために家柄を作る必要があり、金品のある者が、青木氏や有名な高位に繋がる一族の姓を名乗り如何にもその末裔であるが如く名乗りました。この時期は最も家紋が増えた時期です。
この第3の青木氏としては、室町期からの400年という長い歴史を持つ青木氏である事には違い有りません。ただ、ルーツとしてのこの2つ青木氏以外の江戸中期以降の青木氏に関しては、発祥としての点では、1365年という確定した歴史は持たないと言う事だけです。
最たるその例は徳川氏の如くです。
従って、この3つの青木氏に関する内の第3番目の青木氏は、そのルーツの点で3期の3つに分かれるという事に成ります。
御家は、この6つの条件に合致することがどれだけあるかで有ります。
それは、善勝寺の菩提寺にその経緯が残されていると見られます。
明治以降の系譜に付いては、何処でもあることですので、特別な検証証拠とはなりませんので、善勝寺にてお調べになる事をお勧めします。
特に、御家の青木さんには、三つ柏の紋どころを副紋扱いとしている所だけにあり、この三つ柏紋の経緯の確認が必要と見られます。
この三つ柏紋の意味が判れば、青木氏の29紋の一つと成りますので、御家のルーツはこの善勝寺ではなく、基は江戸前期前後には別のところにあったことが覗えます。
この一点に掛かっています。多分、予測として、副紋と旗頭を持つ御家であれば、江戸初期前後の350年−400年くらいのルーツを持つ青木氏であると見られます。
ご本家には多分何らかの系譜以外にその証拠となる納得できる特別の古物品があると見られます。(系譜は一般的にはルーツの証拠には成りません。作ろうと思えば徳川氏のように何とでも作れます)
これ等に関する歴史的な資料は研究室や家紋掲示板や地名地形データーなどにたくさん載せていますので参照して下さい。
長いレポートですので、ゆっくりと時間を掛けてお読みになると、青木氏に関する全般的な事や歴史的習慣や先祖の苦労がなどがお判りになり、お調べに成る手段と判断の基となるでしょう。
現在の常識や定式では歴史のルーツ調べは一種異なり困難ですので、ご質問が有りましたらご遠慮なくこの研究室のサイトにお訪ねください。
では、御家はそれなりの長い歴史を持つ御家と見られますので、先ずは過去帳のところをお調べください。判らない所が有りましたら、相談をしながら検証して行きましょう。
研究室の投稿にもありますように、他の青木さんもその様にして調べて行きました。
アメリカのブレンダ−青木さん
副管理人さん 2007/09/03 (月) 12:56
ブレンダ−青木さん。今日は。
こちらに、追加として、概略をお答えしますので、それをお読みなって後に、雑談掲示板に書きました他の史料をお読みください。
そして、判らない所がありましたら、この研究室の投稿の返信(RE)でお訪ねください。
アメリカに渡られた青木さんのことは情報として知っていましたし、お話の事も少し衆知していました。
特に、長野県や栃木県などからの青木さんが多く渡ったと聞き及んでいました。
つまり、そうしますと、アメリカの青木さんは、多くは諏訪族の青木さん群となりますね。
日本の青木さんのもつとも古い伊勢青木氏の本家の者とアメリカの青木さんの基になる人とのお話ということですね。何かの神の成す縁ですね。
この機会にその人たちとこのサイトでお話が出来ることをうれしく思います。
さて、
雑談掲示板に引き続きまして、1165年と言うことですので、概ね次のルーツに成ります。
先ず、青木氏には2つのルーツがあります。
その簡単な経緯をご説明します
一つは、645年の「大化改新」という政治変革がありました。
この時に、天皇はその時代の政治状況(研究室の大化改新のレポート参照)を反省して、自らの子供(皇子)の第6番目の皇子を臣下(侍にする事)させて、天皇を守る親衛隊を造りました。そして、その子供に「青木氏」という姓を与えました。この慣習が、5代の天皇に引き継がれました。これが「皇族賜姓青木氏」であります。
天智天皇、天武天皇、聖武天皇、文武天皇、光仁天皇の5代です。
この皇子の皇族賜姓青木氏を5つの土地に守護王として配置しました。
それが、夫々の天皇の順に、初代の天智天皇の伊勢(三重県)、近江(京都、滋賀県)、美濃(愛知県)、信濃(長野県)、甲斐(山梨県)と成ります。
ここに、伊勢青木氏を始めとして、甲斐の青木氏までが生まれました。
この時、御家でありますと、そのルーツは信濃王であった青木氏であります。
この青木氏が、土地の豪族と成っていた諏訪族との間で血縁を結びました。
ところが、この青木氏の一族のうちで嫡子(男子の後継ぎ)に恵まれない事が起こりました。
やむなく、土地の諏訪族から男子の養子をもらいうけて娘との間で血縁を結びました。しかし、又、男子の嫡子に恵まれず、当時の社会制度の「氏家制度」の中に「家紋掟」と言うものがあり、これに従い、家紋を養子先の家紋となる事を余儀なくされました。
これが、抱き角紋です。抱き角紋に変紋を余儀なくされたのです。
元は、皇子である皇族賜姓族の身分の象徴紋として、5家5流の綜紋は天皇より授けられた「笹竜胆紋]でした。
本来であれば、次に生まれた子供に男子の嫡子が生まれれば、元の「笹竜胆」紋に戻りますが、更に嫡子に恵まれませんでした。つまり、一時的に変紋した「抱き角」紋が「笹竜胆」紋に戻ることなく女系と成りましたので、この「抱き角」紋に成ってしまったのです。
従って、この皇族賜姓族の分家一族は男系継承を決まりとしているので、諏訪族の一門となる事に成りました。
そこで、その後に、この抱き角紋となった一門の末裔が、分家しました。
分家する際は、本妻の子供は、本家筋からこの抱き角紋の使用を許されるのですが、側室の男子である事から、この抱き角紋に丸をつける等の「家紋掟」があり、「丸付き抱き角紋」となったのです。
この時代は、青木氏や藤原氏などの皇位血筋を引く一族は、子孫を残すために4種の妻(皇后、后、夫人、みめ)があり、この仕来りに従っていました。この他に、この妻で無い「妾」(うねめ)も有りました。
丸付き紋ですので、原則は后か夫人の子供という子とに成ります。
又は、本妻の子供でないが、何か特別な理由がある場合に於いてのみ、丸付きにして抱き角紋を本家筋が許して継承する事が出来ました。
この様に、信濃の諏訪族になった皇族賜姓青木氏であります。
現在も、この諏訪族の子孫は、この諏訪地方の西諏訪に多く住んでいます。そこの町長は代々今でも諏訪族の青木さんです。
参考に、更に、ルーツを遡ると諏訪族は基は、中国の後漢と言う国がありましたが、唐に滅ぼされたこの一族の(17県民200万)の民が逃げて九州に上陸して(600-650)揃って日本に帰化してきました。
この一族の一部が信濃の開墾にまわされます。この末裔が外来大馬を扱う民としての諏訪族でした。
この諏訪族の血筋も受けている事に成ります。
当時の慣習として、血縁は同等身分での血縁を原則としていますので、信濃王の皇族賜姓族の青木氏は中国系の諏訪族の中でも、首領格の家柄の諏訪族の家との血縁をしたことを意味します。
日本人は7つの民族の融合単一民族ですが、中国系の日本人は1/5-1/6にも成ります。
諏訪族系の人はこの一つです。(この事も詳しくレポートしていますので、研究室の「阿多倍一族」で検索してください)
この一族は日本の文化、政治、産業の大基礎を築きました。
「日本書紀」にも御家の信濃諏訪族のことが出てきます。
信濃開墾に大変貢献したとして、その勲功に愛でて天皇に呼び出され、信濃諏訪の「不入不倫の権」(他国が一切事に犯してはならない権利)を与えられます。
天皇にはっきりとものを申す諏訪族であった事のエピソードが書かれています。
多分、この頃の直ぐ後には「天皇拝謁」と「不入不倫の権」の栄で身分が高った諏訪族と信濃王の青木氏一族との間で、諏訪族青木氏が発祥していたと見られます。土地の守護王であった事が天皇にはっきりとものを申す事が来た事と、天皇に拝謁し、且つ発言できる事は当時の仕来りでは、守護王か藤原氏しかありませんので、身分の保障が認められた事を意味します。
又この時には、皇族皇位の信濃守護王の青木氏が同行していた事が書かれています。
(天皇に拝謁し発言できる身分は皇子身分の朝臣三位以上と成りますので)
この他に、信濃には皇族賜姓青木氏と血縁した足利系青木氏と、甲斐にもこの国の守護王の甲斐青木氏と土地の豪族の甲斐の武田氏との血縁を結んだ武田系青木氏と有ります。
又、この武田系青木氏(菱紋)と諏訪族の末裔と結んだ武田系諏訪族青木氏(角紋)があります。
つまり、諏訪族青木氏には御家の諏訪族青木氏(角紋)と武田系諏訪族青木氏とがある事に成ります。何れも濃い血縁関係にあります。そして、何れもが武田氏に組されました。
後に、信長に武田氏は滅ぼされますが、この時、この一族は信長の追手を逃れて、神奈川、横浜の藤原秀郷流青木氏を頼って逃げ延びています。(讃岐にも逃げ延びています)
更に、この一族の一部が栃木に逃れて子孫を大きく拡大しています。
(足利系青木氏等に付いては「皇族賜姓族」のレポート参照)
(藤原秀郷流青木氏については「藤原秀郷一族の生き方」等のレポートをお読みください。2つの青木氏の流の一つはこの藤原秀郷流青木氏です。母方で同族です。主要9氏で116氏に子孫を広げています。
源氏という言葉をお聞きになったと思いますが、光仁天皇の2代後の嵯峨天皇より11代の天皇は第6位皇子のこの青木氏を賜姓する事を止めて源氏と変名しました。その変わりに青木氏は皇族出身者の身分上位2位の宿禰族までのものが還俗、即ち、一般の人になる事ですが、この場合に名乗る氏とし他に使用の禁令を出しました。しかし、この氏は3家しかありません。
従って、源氏も同族です)
参考として、筆者は伊勢青木氏です。
これが大まかな所ですが、詳細は右のメニューや各ページのところの昔、御家の親族に当ります多くの諏訪族の方との質疑応答などのところを読まれる事も望みます。(検索)
そこには歴史の経緯や由来などもレポートしています。
全部読むには大変な時間が掛かりますが、ゆっくりと楽しんでお読みください。
外国で住まわれていますので、日本の歴史はご不明な点が多くあろうと思います。
ご遠慮なくお尋ねください。アメリカに帰られてもこのサイトに是非お便り下さい。どんなことでもご協力いたします。( http://www.aoki.cc/ )
では、お便りを楽しみにお待ちしています。
五瓜紋の古堅 勤さん
副管理人さん 2007/08/20 (月) 21:32
古堅 勤さんから家紋掲示板にご質問の投稿がありました。回答はこちらに移します。
古堅 勤さん この提供された写真では五瓜の家紋と見ます。
このサイトは青木氏に関する家紋研究です。ご覧に成った家紋掲示板は青木氏に関わるものばかりです。
他氏に付いては、専門外なので詳しく有りませんので、ご理解ください。
木瓜の家紋類の文様は80以上に成りますが、御家はこの五瓜のご紋であるとしますと、この研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」木瓜紋のところを参照して下さい。この家紋の事を書いています。
参照して下さい。
御家のご先祖の詳しい情報は判りませんので、この程度の情報しか提供できません。
ただ、鎧兜以外の写真では、武将が持つもので、戦場に出て行く時に、馬上で酌み交わす[馬盃」(馬上盃)とか、守り形見とする「馬形」とか「水差し」も映っています。
また、紫檀の木で掘られた床柱か欄間に使用する様な彫刻等は大変な価値のあるものです。
宝石で形取られた「山水画」も大変なものです。大財力を示すものです。
これらをもしお持ちに成られているのであれば、名のある武将でしょう。
ただ、武将としての実際に使用された鎧兜には家紋入りの「軍配」がつき物ですが、見当たりません。更に武将であれば、「家紋入り刀掛け」や「家紋入り飾り刀剣」も共にあるはずです。
弓矢に相当する「飾り矢」も考えられます。
保存すると言う事から考えると鎧兜だけという事は考え難いことです。
ガラス入りの保存としていますから、明治以降の時代性もあり、保存も抜群で、戦場傷も見当たりません。
「飾り鎧兜」として何処かに保存されていたものでしょうか。400年も立つのに胴周りの漆も剥れていないようですので。鎧兜から見て比較的新しい時代のもののようですが。
もしもお調べに成っているのであれば、この点の疑問点も解消されるとよいと思います。
織田氏はいろいろな家紋を持つ氏ですが、この家紋は織田木瓜紋と見ますが、織田氏一族の中の武将でしょうか。
御家と織田家との関わりは有るのでしょうか。古堅氏との関わりが有るのでしょうか。
もし、関わりがあるとしたら支流分派一門となりますので、この家紋は使用できないはずですが。
織田氏の本筋で、最後まで生き延びられたのは織田信雄ですので、この直系一族の党首の者でしょうか。
織田氏は平家の末裔と言われています。故に源氏兜は使用しないはずです。また、兜の角の形でだれの鎧兜とかわかりますから、この点も検証されるとよいのではないかと思います。
読まれまして判らない所がありましたら、又、ここにお便りください。
家紋掲示板ではメモリーが有りませんし、管理上整理するためにこのレポートの返信でお願いします。知る範囲でお答えします。
Re: 青木 半左衛門について。。。
副管理人さん 2007/08/03 (金) 19:26
さて、群馬の青木さん。
まず、お尋ねします。この研究室では、「群馬の青木さん パート2」の人からの投稿が以前にありましたが、この方ですか。
違うとして、始めての方であるとして、同じく、研究室に「WHO AM I」と言うタイトルでとお尋ねがありましたが、この方は、貴方の情報と同じ真田氏の家来であったご先祖を持つ方です。
もし、そうだとすると、ご先祖は親類であった筈です。
一度、この方のご質問を是非お読みください。
真田氏は信濃の南部の真田郷を居留地であり、本家がここに城を築いて一時、武田氏に潰されますが、後に、再び武田に拾われて、本領安堵されます。
それ以後、武田氏が潰れても、秀吉の保護されて頑張り、天下分け目の戦いの豊臣氏と徳川氏の戦いで、兄は徳川氏に味方し、弟は豊臣に味方します。
兄の本家はその後、徳川時代で論功行賞で、本領安堵で大きく成ります。この時、弟と父は九度山に
配流されました。
この時の一族であろうと思います。
この先祖の事に付いては、「WHO AM I」の方のレポートをお読みください。
家紋は、ご先祖の中で、御家の男子の継承が出来ていたかで違ってきますので、養子などを取り女系になれば家紋は養子先のものに成ります。「家紋掟」というものがあり、男系による継承が出来なければ家紋は変わります。
それを解明しないと家紋は変わります。
ただ、信濃の本家の家紋がどのように成っているのかも知る必要があります。
真田氏は、藤原秀郷一門で支流一門ですが、この家来であるとすると、藤原秀郷流青木氏が考えられますが、ただしこの時は古くからの家来であったことに成ります。
詳しくは「藤原秀郷一族の生き方」をお読みください。
しかし、この土地には、皇族賜姓青木氏と、この支流の足利系青木氏と諏訪族青木氏があります。
このものが、後に真田氏に仕官したこともあります。
詳しくは「皇族賜姓青木氏」をお読みください。
これらの方のお問い合わせも研究室で沢山記録されていますので、検索してお読みください。
多分、前記期だと考えます。
何か他に、手がかり情報が有りませんか。
Re: 青木 半左衛門について。。。
群馬の青木さん 2007/08/03 (金) 13:18
申し訳ありません^^;説明不足でした。真田家に仕えて関ヶ原後に真田昌幸と信繁と高野山まで供をした者ということなのですが。
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