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Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/27 (火) 20:56
今日は。讃岐の青木さん。
早速お読みいただき有難うございます。
ご質問ですが、安芸に移動した時代資料では鎌倉期の後半と江戸前期ごろにも見られます。
つまり、鎌倉幕府が出来て藤原一門は職を失います。中には藤原秀郷の武蔵国や下野では生き残りのために本家筋は頼朝に合力し御家人となりました。
この合力が頼朝の幕府樹立に大きく貢献したのです。坂東八平氏の勢力では到底なし得なかったのです。
この藤原秀郷一門の本家筋は各地に離散した一族を引き取る義務がありますので味方をしましたが、此れは同時に自分の首を反面しめる事にもなるのです。
しかし、多くの一族と縁者を引き取りました。
この時、讃岐や阿波に赴任定住していた一族は新たな守護が入りますので争いが起こります。
お家の一族の丸に三階松紋の一門は故郷の武蔵や下野に向かって移動をはじめました。そして、本家筋が鎌倉幕府の御家人となって守護地を関東や東北地方に授かり、其処の護衛軍団として戻ってきた一門を配置しました。
この時に関東東北に向かって先ず移動しています。
残った一門は讃岐から安芸の国に移動しています。この時この一門は讃岐に定住中に任務としての税の運搬、販売等のノウハウや運搬の護衛力を生かして裏家業を営みました。この様なノウハウのある者の一族が残ったのです。
特に青木氏は護衛役としての役目柄を生かしました。
当時は大きく商売をするには運搬力とそれを護衛する武力とシンジケートとの渡り合える武力がなくては絶対に商いは成り立ちません。
テレビドラマでは単純な商人が商売を営んでいるようにありますが、此れは間違いです。
当時は全ての商人は「二束の草鞋」の面を持つていました。
国司や守護は税を集めそれを金にに換える仕事をしていましたので直ぐに商売に切り替えることが出来るのです。
当時は商売はシンジケートが介在して行われていました。此れとの関係を持たなくては絶対に商売は出来ません。
シンジケートは鎌倉期に浪人となった土地の豪族などが山に入り各地のシンジケートと連携し合って組織を作っていたのです。
このシンジケートの主は地主や庄屋や郷士や郷氏などをして表向きとしていました。
例えば、楠木正成はこのシンジケートの主です。ですから10万の軍と3000の兵で戦えたのです。これはシンジケートと連携していたので食料や武器などは充分でしたが10万軍は餓死して戦えなかったのです。
私の家も二束の草鞋で伊勢で紙問屋を表向き営んでいました。一方では国司や守護や最後は郷氏の顔を持っていました。
明治35年まで950年程度続きました。NHK大河ドラマには3度も登場しました。伊勢の豪商紙屋長兵衛として。
特に藤原秀郷系の一門は突然に失職したので、この方向にはしりました。
お家の一部族は武蔵の国の本家に向かって移動しましたが、お家は此処での力を生かして讃岐と安芸との間での商いを営んだと見られます。そうでなくてはこの地で新しい守護が着て生残る糧は有りません。その地に生残ると云う事はこの手段があるのです。そして、抱えた家来を養う事が出来るのです。
幸い青木氏は武力を持っていますので容易です。そして、他面では新しい守護に仕官する事もできました。
お家の安芸に移動した一族は後に安芸の守護の浅野一門と毛利に仕官しています。中には江戸期には出世した者も居ます。
この時に裏の家業も同時に営んでいました。この様に一族で結束して生き残ったのです。
だから、下がり藤紋を維持出来たのです。普通の商人は家紋など有りません。
豪商という全ての商人は二束の草鞋なのです。
堺商人や伊勢商人や松前商人や博多商人は全て「二束の草鞋」です。
讃岐と安芸と言えば塩や魚と瀬戸の水軍を生かした海運は国司や守護やの時の本業です。
私の家も伊賀の和紙を扱う裏業を商い、大船を3痩をもち、各大名との商いをしていたとの事であります。秘密裏に武器や火薬も扱う商人でした。1315年ころから始めたとの記録です。
丁度お家の家業の始まりの時期と一致しています。藤原秀郷流青木氏も皇族賜姓青木氏もこの時期に窮地に陥つていました。
最後明治35年の祖父の時代にこの火薬爆発で倒産しました。
お家の先祖と私の先祖の青木氏は鎌倉幕府樹立と室町期の混乱期に同じ家柄と官職から同じ道を辿った事に成ります。
場合に依っては我が家の記録から見て知っていた事も考えられます。
というのは、毛利の武器調達や赤穂浪士事件の時に浅野氏の財産の買取に船を廻したとあります。当然お家の領域に伊勢松阪から船を廻したのですから何らかの繋ぎを採っていたことが考えられます。
お家のご先祖の一族の方と赤穂地方の豪族の亀甲族との間で血縁を結んだとありますので、この亀甲族に大野氏が見られますが、ご先祖の大野氏の中に亀甲紋と関係する一族がいないかご調査いただけませんか。
確か、このサイトに残られたお家の一族の方の亀甲族血縁の方のルーツ依頼が以前にあつたと記憶しています。
亀甲族は古くからこの土地の豪族です。亀甲紋は出雲神社の神紋です。
汎用的に多くの土地の豪族に用いられたとあります。
非常に良い情報でしたが、これで又、ルーツが進んだと思われます。
大野氏のルーツの中に繋がりがある筈ですので一度お調べください。
どんなことでも繋がることがあります。
お便りをお待ちしています。
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/06/27 (火) 17:14 [ メール ]
すごい短時間でご回答をいただき、また内容にも驚嘆の境地です。ありがとうございます。ご回答の中に安芸に移動した一族とありましたが、それは浅野家の時代で塩業、海運の絡みなのでしょうか?それから分家の赤穂にも移動したとか?赤穂の大野氏も先祖にあたると聞いたことがあります。戦後まで塩業と海運を業としていたようです。
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/27 (火) 12:09
讃岐の青木さん 今日は。
早速ですが、雁金紋は前レポートとに書きましたように範囲が限定しています。
家紋の紋様も多くありませんし、江戸初期に殆ど作られた紋です。
紋が作られると言う事は別の意味を持ちます。紋がなかつた事を主に前提と成りますので当然に家紋の持たない者が戦国期から江戸初期までの混乱期に庶民が何らかの手柄を立てて出世して家紋を持ったと言う事に成ります。
青木氏にもそのようなことで家紋を作り氏を詐称して大勢力を持ち青木氏を名乗った人物が3人も居ます。本筋の青木氏と偽の青木を名乗るものと戦いを起しています。この3人は本筋に勝った者です。乗っ取ったのです。
多くは家紋を殆ど正式にもったのは江戸期に入ってです。室町前から鎌倉にかけては一般の氏はもてない状況でした。従って、ルーツとなると室町から江戸期にかけての家紋にての検証には困難があります。
第一に松平氏でも三河の豪族であったときでさえ家紋や先祖は正式には不祥です。
後で、系譜などを偏纂する事になり、朝廷から官職をもらうのに大変苦労しています。源氏でなくては幕府は開けませんでしたので16代目の源氏の末子を持ち出してきて源氏を名乗ったのです。
16代の源氏とは南北朝のころの源氏です。既に源氏の時代はとっくに終わっている時代ですし南北時代は朝廷の家柄さえ危ぶまれている時です。源氏は実際は11代目の花山天皇のときまでが正式で、源氏の賜姓を受けるのは第6位皇子が受けますが、12代目から16代までは第6位皇子は殆ど居なくて皇子さえもわからない状況でした。
この様に家紋でさえも室町期以降の家紋は充分な検討を要します。
したがって、私は鎌倉期以前の確実な家紋どころを調べて査証しています。
雁金紋は讃岐の地元の紋では有りません。有名な土佐坊昌俊の家紋ですので讃岐には少ないと思います。
念の為に、当時はまだ氏家制度の仕来りが残っていましたので現代の仕来りで自由に縁組が出来るわけでは有りません。
先ず家柄の吊りあいと身分の違いを前提にします。どんなに勢力があっても。
ですから、伸し上がった豪族は家柄と身分の獲得に動くのです。戦いも覚悟の上で。
藤原秀郷流青木氏と家柄と身分を対等になる豪族は室町以降は殆どありません。
下克上と戦国の時に全てこの家柄が潰されて焼き討ちにあいました。其れが中級以下の武士の下克上の目的でした。ですから、下の家柄のものとの血縁となりますので、青木氏が116氏にも広がる原因のひとつになったのです。
谷沢氏の件ですが、藤原秀郷系列氏の中に谷沢氏が確認出来ません。讃岐籐氏のなかでも確認は出来ません。
藤原氏は4家あり、秀郷系列の北家と式家と南家と京家であり戦いの末にこの内最もさかえたのが北家筋です。
藤原氏は氏名の後ろの字が藤の付く苗字の藤原氏と藤原氏と血縁を結んだ氏ととちの地名を採った分家分流分派した氏に成ります。
この中に谷沢氏は出てきませんが専門では有りませんので。
藤原秀郷氏一門は主要5氏から構成されています。この系列ははっきりしていますのでこの中に谷沢氏は見つかりません。
(藤原秀郷一門から出た氏ははっきりしています。)
ただ、中沢氏は長沼氏の系列にはあります。
前記しましたように、氏名の査証は3度歴史上で起こっています。
一つは室町後期の混乱期と、江戸期前半の安定期と、明治初期の混乱期です。
この時期に家紋や氏名や系譜の詐称偏纂が大変多くおこりました。殆どと言っていいほどです。
この3つの時期には寺に金品をだして系譜や家紋や氏名の保証をしてもらい
家柄身分系譜を買い取ったのです。此れを第3の氏といいます。この氏には検証上矛盾が出ます。
今全国に8000程度の家紋がありますがこの内200が確実なルーツを持つ氏です。これを家紋200選といいます。更に絞り込むと40程度に成ります。確実に信用でき史実が取れているものは1/40です。お家はこの1/40の中です。
此れでお判りと思います。
次に、家紋の丸付き紋の事ですが、丸付き紋には次の3つの要件があります。
先ず、男子の子供が多く居て嫡子が跡目を取ります。長男と言うことでは有りません。そうすると後の男子は分家する事に成りますが、此処で問題が起こります。妻には4段階の身分がありますが何れの子供かにより丸がつくかが決まります。正妻の子供は同紋を宗家から許されます。しかし、妾の子供は同門は許される事は少ないのです。ただし男子がいない場合に限り嫡子と成りますので同紋ということに成ります。それ以外は宗家の許可を得て丸付き紋になるのです。
第2番目は宗家に嫡子の男系がなかった場合は養子を他の氏から採りますが、この場合は遠縁から迎えた場合は丸付き紋を本家が認めます。
しかし、全く他の氏からであると先ず養子元先の家紋とします。次ぎに生まれれる子供が男子であれば下に戻す事が出来ますが、又、女子であると2代続きであるので養子先の家紋の決定と成ります。女系となつた事を意味します。
ただ特別に本家筋が此れを認めた場合は丸付き紋と成ります。
場合に依っては本家筋にも女系のおそれがある場合は副紋使用を認めます。
第3番目は上記した第3の氏の場合ですが、その家紋の本家筋の手前上争いが起こりかねないので、遠慮して丸付き紋として認めさせることが起こります。
事実、青木氏ではこのことが起こっています。結局、元上山氏の青木氏が宗家の青木氏と2度戦い宗家がまけました。
この第3の家紋が実に多いのです。姓と家紋と系譜と出所が史実と一致しないものはこの第3の家紋と成ります。
藤原一門と藤原秀郷一門には丸付き紋の藤紋はありえません。
これは藤原氏の一つの掟であり、支流分派分流しても決して丸付き紋を定めることはありませんでした。
これで第3のことがお判りいただけたと思います。
藤紋及び下がり藤紋に関しては全て多分明治の第3の家紋と見られます。
明治の時に苗字の持たない者が寺とか神社に金品を渡して系譜と家柄と家紋と身分を詐称証明してもらい自分の家を依りよく見せたと言うことが流行になりました。
平安期の紋は勝手に決めるわけには行きません。自分が決めても親類が決めなければどうにも詐称は出来ません。
その為に氏家制度のもとに総宗本家筋の許可がいるのでどの大きい氏でも管理されていました。
朝廷には律令制度の中この官職もあり氏家制度を維持するために今の時代より厳しく管理されていたのです。
日本書紀にもこのことでもめごとになり官僚が仲裁に入っている事を書いています。
現代の感覚では情報の間違いを起します。
この為に確実な家紋類は「家紋200選」として定まっています。
家紋を定める場合にも「家紋掟」の慣習が定められていて氏家制度の維持を図っていたのです。
家紋は7000-8000とありますので大変です。
ちなみに、武田氏、足利氏系の氏は賜姓青木氏と賜姓源氏の血筋を入れたことにより源氏としていますが、あくまでも支流源氏で直接の笹竜胆の家紋は使用できません。足利氏は更に藤原秀郷一門の血筋も入っています。
足利氏は藤原氏が押す支流の足利氏を作りだし争いの上勝ち本家を乗っ取っています。
二つの青木氏は全てこれらの要件が定まっています。
青木氏を名乗ってもいずれで矛盾が出ます。
青木氏に関しては嵯峨天皇期に詔を発して青木氏を名乗る事を禁止しました。この令は江戸初期までほぼ原則的に守られてきました。
天智天皇の第6位皇子から発した皇族賜姓伊勢青木氏から始まり、光仁天皇の第6位皇子の青木氏までの5家5流と桓武天皇を一人空けて嵯峨天皇は青木氏を変名して第6位皇子を源氏として賜姓しました。源氏は本来は11代の花山天皇まで続きました。
そして、第6位以内の皇族の者が還俗して下俗する場合は『青木姓』を名乗る事に詔を出したのです。
そこで950年ころに藤原秀郷が勲功を受けて特別にこの青木氏を名乗る事を許されました。これが第3子の千国で藤原秀郷の青木氏の祖であります。
その許された根拠は勲功もあるが、この皇族賜姓青木氏の母方は伊勢青木氏を除く4家4流は全てこの藤原氏の血筋を持つもので、同じく賜姓源氏も母方に藤原氏の血筋を持つ者の子孫であつたからです。
青木氏は二つのルーツではっきりしてますが、皇族賜姓青木氏5家5流24氏は「笹竜胆紋」が綜紋の家紋です。
藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏は「下がり藤紋」が綜紋です。
この二つの家紋が綜紋と成ります。
三階松紋の件ですが、三階松紋には12もの紋様があります。青木氏に関わる紋様はこの一つです。丸に三階松紋(右)です。この内丸付き紋の三階松紋は5つもあり一見して見分けがつきません。
この全体で124紋様の中で通称松紋と称されるもので藤原氏に関わる紋様は松紋の讃岐籐氏の綜紋ですが、すべて庶流の家紋と成ります。
西隆寺氏、紫野氏、豊田氏、平尾氏、成宗氏等の氏が使用。
北家藤原秀郷一族の讃岐守護は「文紀」のみと成ります。
「家成」は秀郷一門では出てまいりません。平安末期に守護として赴任したものとしてはこの地には「文紀」です。又この青木氏は北家秀郷流からのみですのでこの範囲での検証です。
「家成」の讃岐籐氏で三階松紋を使用している氏の家紋類は、本来は「松紋」と称する紋様での中で違いがあります。
それは次ぎの二つのものによります。
藤原秀郷流青木氏の三階松紋は右ですが、この讃岐籐氏は他の12のうちの4つの紋様を使い分けしています。此処に意味があると考えます。
多分讃岐籐氏とは区別するために藤原秀郷流青木氏の三階松紋に対して後で江戸期に発祥した籐氏とみられる一門は変紋をしたものと考えられますし、更に違いを出すために副紋使用としたと見られます。
平安中期ごろはまだ全ての主要48氏が家紋を持っていたわけでは有りません。
90%以上は江戸期の安定期になって急遽しつらえた物です。
上記したような偏纂詐称行為事がありこの時期の家紋からルーツを起すには余り当てにはなりません。
次にこの籐氏の三階松紋の紋様は主に上がり藤紋等と必ず副紋付きです。
上がり藤紋はこの讃岐籐氏系列が使用しています。
藤紋97の中で下がり藤紋は藤原秀郷の一門のみで7家です。
参考に綾氏は奈良期ごろから帰化した後漢の民で元は綾部氏と称していました。綾編みの職人集団です。この四国地方と中国の中部に帰化定住しました。
以上ですが、納得頂けましたでしょうか。
Re: 讃岐の青木です。
青木忍さん 2006/06/27 (火) 08:05 [ メール ]
早速のご回答をありがとうございます。今のように交通手段が発達していない時代に一族あげて大移動してたかと思うと頭が下がります。というか藤原秀郷流の広がりにただびっくりするばかりです。雁金紋のことを調べてみたいです。地元ではそんなにポピュラーな紋ではないようですが。あと同じ地元で遠縁の谷澤(たにざわ)家も下がり藤に結び雁金紋です。もとは同族なのでしょうか?あと墓参の時に紋が丸で囲まれているものもありましたが分家でしょうか?分家する場合、紋を丸で囲むなど、こんな地方でも知っていたのでしょうか?三階松紋は平安年間の国司藤原家成と綾氏を祖とする讃岐藤原氏(香西氏が総領の63家)で使われているのでこちらではよく目にしますよ。
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/26 (月) 22:52
讃岐の青木さん 今日は。始めまして。このサイトによくお越し頂けました。
丁度この前の栃木の青木さからのルーツのご質問にお答えしたばかりですが、
丸に三階松紋のルーツが判明確認出来ましたが、この方のご先祖の赴任先がこの讃岐でした。したがって、讃岐には必ず故郷に帰らなかった一族の方が居られる筈と見ていましたが、矢張り居られたわけです。この点が栃木の青木さんのポイントでしたが検証されました。
その青木さんがお家でした。
従って、お答えは藤原秀郷流青木氏です。青木氏主要9氏の直流4氏の一つです。
直流4氏のうちのどの氏かはわかりません。何かお家の先祖のことで一寸したことでも有りましたらお知らせください。手がかりになるかもしれません。
この前のお家は讃岐地方の三階松族との血縁を結んだお家でしたが、このお家は藤原秀郷の子孫の本家筋の赴任地に護衛役として同行しました。
この時の人物は讃岐に赴任した「藤原文紀」であります。
もとより研究室のレポートをお読み頂けますとお判りになると思いますが、藤原秀郷流青木氏は秀郷の第3子で千国が祖で貴族から武士となり護衛役をにないました。この一族116氏にも成ります。直系1氏直流4氏支流4氏の9氏から拡がったものです。
秀郷は大化の改新での藤原鎌足から8代目の者です。藤原4家のうち最も栄えた一族です。
奥州平泉の藤原氏もこの一門です。
藤原秀郷一族の氏は朝廷の命にて24地方に官職として赴任していますが、この全ての土地では土地の豪族との血縁を結び勢力を拡大しています。
この青木氏は藤原秀郷の主要5氏の一つです。
さてお家の情報は讃岐と浄土真宗と赤穂と下がり藤紋に雁金の4つですが、
この赤穂地方には二つの藤原氏の一門が入っています。
その一つは讃岐からの青木氏が対岸の安芸に移動した一族ともう一つの美作と備中に定住した青木氏があります。
後者は別の藤原宗家の者に同行した藤原秀郷流青木氏です。
お家は赤補からとしますと前者の青木氏です。
前の三階松紋の方は三階松紋族との血縁を結んだ藤原秀郷流青木氏ですが、この一族と同じ縁者で男系家督が続き家紋を総宗本家の家紋の「下がり藤紋」を維持したもので副紋として結び雁金紋としているので、何らかの関係にて雁金族(土佐の寺田氏:結び雁金紋は品の滋野真田氏分家と土佐寺田氏)との関係を持ったことが考えられます。
多分、前の丸に三階松紋のお家とは元は本家分家の関係か兄弟の関係にあつたが丸に三階松紋のお家は男系の跡目が出来なかったと云う事だと思います。
ルーツはご親類です。
雁金族は土佐坊昌俊が源の頼朝から雁金の文字の紋を授かりこれを家紋としたものであります。この紋様は53ありますが江戸期に変紋して使用されました。
お家は副紋を雁金紋を使用しているので、鎌倉期前半までは「下がり藤紋」を使用していたことが云えます。
鎌倉幕府樹立した1192年には藤原秀郷一門全てが失職し離散しました。
お家もこの讃岐で失職した後にこの雁金一族との血縁を持った事がいえます。
しかし、副紋としていますので一門を表す目的から使用していたものと思います。副紋は色々な使い方をします。
下がり藤紋は藤原北家一門の家紋ですが、「下がる」と言う意味合いを嫌い秀郷一族以外は使用せず変紋して使用しました。
この紋様は藤原秀郷主要5氏の青木氏と永嶋氏と長沼氏と進藤氏と長谷川氏が使用しています。苗字の後ろに藤の字が付くのが藤原一門です。これは地名と役職名の二つから出来ています。
盛り藤紋を維持している青木氏116氏の中では少ないです。
此れで前のお尋ねの栃木の青木さんの疑問点は解決しました。三階松紋の一族の青木氏が讃岐に居た事が確認できました。
そして、お家は本来は浄土宗ですがこの地に浄土宗の寺がない事から宗派換えをした者と思います。
浄土宗は高位の家柄と身分のある者が入信できる宗派でした。江戸時代に徳川幕府の奨励で寺が増えましたが矢張り少ない宗派でした。
地方に赴任した藤原一門の困ったひとつでした。
さてお家の元のルーツはどこかと言う事に成りますが、丸に三階松紋の青木氏は宮城県の加美郡に戻りました。多分お家のルーツは此処ではないかと見られますが、宮城県の栗原郡にも青木氏の村がありますので、住み分けをしていた可能性があります。しかし、故郷に戻らなかった事になりますね。
ご本家筋は9氏の直流4氏の本家の護衛範囲としては武蔵と下野の国堺としていましたことから宮城福島付近にあると見られます。
下がり藤紋の青木氏は少ないのでご子孫を大切にしてください。
研究室の藤原一門の生き方などのレポートをお読みください。
ルーツの詳細がお判りになると思います。
家紋掲示板の下がり藤紋のところをお読みください。
地名地形データーベースのところも確認してください。
ご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
讃岐の青木です。
青木忍さん 2006/06/26 (月) 21:09 [ メール ]
はじめまして。讃岐高松の青木です。家紋は下がり藤に結び雁金です。宗派は浄土真宗です。元禄の頃、赤穂から移ってきたと大伯父が話していたことを聞いたことがあります。元は藤原氏なのでしょうか?
Re: うちの家紋は・・・???
副管理人さん 2008/09/19 (金) 08:30
お久しぶりですね。
お便りお待ちしていました。
過去帳をお調べになりましたね。
江戸までたどり着けた事ですので、もうひと踏ん張りです。がんばって下さい。
ルーツを調べると言う事は根気のいる事です。その根気を楽しみにして進めてください。
ルーツ確定まで辿りつけるかの如何に関わらず、その事が先祖に対する感謝の念となると思います。
そこで、一言。
実は、われわれ現在人は現在の常識で過去の事を考えてしまう癖があります。
過去は過去の社会慣習の常識がありますので、大事な一寸した情報を見流してしまう事が多いのです。
例えば、今では国内を自由に移動する事は出来ますが、過去は出来ませんでした。領民は全て領主の支配下に置かれていましたので、自由に移動すると「国抜け」として厳罰に処されます。
ですから、「移動」があるとした場合は大変な意味を持ちます。
過去の社会は、「氏家制度」という社会でしたので、現在の核社会ではありません。本家が分家などを支配する社会慣習でした。
例として、この様に違いますので、細かい、一寸した事柄が意味を持ってくるのです。
このことに注意してお調べください。
今の歴史テレビドラマで演じられる内容とは少し違っていますね。
一つの情報に幾つかの推理を立てながら一つ一つを潰して行く事が良い方法です。
例えば、一つのお寺に過去帳が江戸時代まであると云うこと、の意味です。
まず、”明治初期発祥の第3の氏ではないこと”が確定しますね。
次ぎは、江戸時代のどの程度のところの人までなのか。
更に、その人の俗名に「官職名」がついていないか。
その人たちに、「通名」が着いていないか。
その人たちの戒名には地名の字句がないか、ルーツに繋がる字句が無いか、共通の字句が無いか、などを細かくお調べください。
そして、江戸時代に過去帳を持っている事は、それ以前にもつながっていることの可能性をもっていますので、菩提寺の火災の時期なども大変歴史的な意味を持っている筈ですので、それとの絡みもお調べになるとよいと思います。
「江戸」と言うキーワードだけで、これだけの可能性を広げる事になりそれを一つ一つ潰して推理してゆく事がバイバイに広がり大変大事です。
判らない事やご相談が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。青木氏がお力に成ります。
では、お便りお待ちしています。
Re: うちの家紋は・・・???
T-Tさん 2008/09/19 (金) 01:53
随分とご無沙汰しましたが、調べたところ過去帳が江戸時代までのものしか現存しないということでした。以前の物は火事で焼失したらしいです。
ただ、江戸時代までは分かるのでとりあえずいけるところまではやってみようと思います。
Re: うちの家紋は・・・???
副管理人さん 2008/06/09 (月) 19:06
今日は。早速のお便りありがとう御座います。
石川県と前田家の家臣ですか。この二つの事で次の様に成ります。
家紋からではなく、土地からの検証ですと、前回のお答えで、”三連揚羽蝶紋は、信長が戦いのときに軍を分ける為に使用する幟(のぼり)として使用し、これを家臣に持たせたものが、その家臣の氏(池田氏)が後に家紋としたものです”と記述しましたが゛、石川県と前田氏と池田氏と信長と足利氏系青木氏が繋がっています。
足利系青木氏は一部は鳥取の米子や八頭に逃亡して移動しましたが、藤原秀郷側が推す分家の足利氏に付いた足利氏系青木氏があります。
その事から、お家の青木氏は北の加賀、越前、越後付近に定住していた皇族賜姓族の24氏の米子青木氏の親族の一つ足利氏系青木氏の可能性が出てきました。
信濃の国境と加賀、越前、越後の一体に足利氏系青木氏、信濃の国府のあるところ県庁所在地に本家筋の皇族賜姓の信濃青木氏、南には藤原秀郷流青木氏が住み分けていました。
そして、信長の家臣として鳥取より発祥した室町期後期の池田氏が前田氏の配下となり、石川に移動。この池田氏の分家との間で養子縁組が起こり、男系跡目が再び出来ずに女系と成った足利氏系青木氏とも考えられます。
只、池田氏がこの三連揚羽蝶の丸付き紋を分家に持っているかは専門外ですので判りません。
又、池田氏の丸付き紋の分家筋が居たとしたら、この石川に移ってるかは判りません。
もし、この二つがないと言う事に成れば、室町期末期の第1期の混乱期に武士になり、発祥し出世した第3の青木氏と言う事に成ります。
この二つを確認する必要があります。
それには、先ずは、石川付近のご本家の菩提寺のお寺の過去帳にこの時期(室町末期)の人が存在するかを確認する必要があります。
では、又、ご確認して、足利氏系青木氏を確定致しましょう。お便りをお待ちしています。
Re: うちの家紋は・・・???
T-Tさん 2008/06/09 (月) 12:20
江戸時代のころには既にいたということです。それよりも前という事になると少し時間がかかるかもしれません。それと、前田家の家臣だったという事は参考になるのでしょうか?
Re: うちの家紋は・・・???
副管理人さん 2008/06/05 (木) 17:48
T-Tさん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、あなた様のお名前が判りません。
家紋掲示板は青木氏に関する家紋類です。
青木氏でないとすると、貴方が云われる家紋はありません。
又、青木氏であるとしても、この家紋を持つ青木氏も有りませんので、明治以降の苗字令により発祥したルーツや家紋が確認出来ない青木氏だと思います。
どちらにしても、明治までの日本の家紋8000ある中ではこの家紋は有りませんので、明治以降に一族だけではなく1氏だけで家紋としたとも思えます。
そこで、折角ですので、この丸付き紋の揚羽蝶紋に付いて、知る範囲でお話します。
日本の蝶紋の文様は97文様あります。
その中に、「三連蝶紋」という文様は12あります。
そして、この三連の揚羽蝶の文様は3つあります。
しかし、この3つの揚羽蝶には丸付き紋は有りません。
この3つの「三連揚羽蝶紋」は池田氏と大河内氏が使用しています。
この三連揚羽蝶紋は、信長が戦いのときに軍を分ける為に使用する幟(のぼり)として使用し、これを家臣に持たせたものが、その家臣の氏が後に家紋としたものです。
岡山、鳥取、愛媛に多くあります。
そこで、この家紋に丸がついている事に成りますので、「丸付き」の持つ意味には沢山の意味を持っています。
例えば、幾つか例を挙げますと、
本家が三連揚羽蝶紋の使用を認めなかったので丸付きとした。
本妻ではなく妾の子供であるので、丸付き紋とした。
男系跡目ではなく、女系になった氏が丸付きにした。
血縁の低い者が三連揚羽蝶を使用として丸付き紋にした。
家紋や系譜が無いので、とりあえず丸付きにした。
明治以降の庶民が家紋を作ったが「三連揚羽蝶紋」を勝手に使用すると文句が出るので問題を避ける為に丸付き紋にした。
歴史上から観て、何らかの血筋を遠い縁で持ち、「三連揚羽蝶紋」の者が、何時しか家紋を失い、家紋を戻した。この様な意味を持っています。
只、この揚羽蝶紋は平家紋ですが、基本的には丸付き紋は家紋掟で使用していませんので有りません。
お家の家紋はお名前も判らないし、このどれに当るかはわかりませんが、家紋8000に無い極めて少ない家紋ですので、絞られてきます。
ご質問が有りましたら、お尋ねください。わかる範囲でお答えします。
以上です。
来場記帳のところに記帳して頂きました事を後で気づきました。青木さんですね。すみませんでした。
所でご先祖の石川県ですが、何時頃の時代の方でしょうか。これに依って話しが変わります。この家紋は上記した2つの氏が使用しているので、岡山、鳥取、愛媛の住人に成ります。
この3つの土地には、先ず岡山には、藤氏の讃岐青木氏の末裔、鳥取の米子と八頭には足利氏系青木氏、愛媛には香川よりに藤氏讃岐青木氏が定住しています。
仮に、余り移動していないとして、鳥取付近の住人であった事も考えられます。
そうすると米子か八頭の青木氏が住んでいる地域に居て、この青木氏に跡目が無く止む無く池田氏支流から男子の養子を取ったが、娘との間に又男子が生まれず、家紋は池田氏の支流「3連揚羽蝶」紋になり、何らかの理由で池田氏支流紋が使えなくて丸付き紋にした。但し、池田氏が丸付き紋を使用しているかは専門外で判りません。(信長に与えられてものであるし、平家類似紋でもあるし、普通は使わない。)
米子の青木氏は信濃の皇族賜姓青木氏が土地の豪族の足利氏と血縁して出来た氏ですが、藤原秀郷一門と争い足利本家を奪われて、本家に同行して米子付近に逃げ延びた氏です。
それか、家紋8000に無い家紋からすると、この地域にすんでいた者が明治の苗字令で池田氏の青木氏に因んで名乗ったとも考えられます。第3の青木氏であります。
(例えば、埼玉、栃木等の藤原秀郷流青木氏では「下がり藤紋」に因んで青木氏を名乗り、その家紋に丸をつける青木氏が多いのです。藤原秀郷の一門の「下がり藤紋」は丸付き紋は使用していません。)
以上、3つの何れかに成ると思われますが、確定する情報が全く有りませんので、何かちょっとしたものでも時代性(江戸以前)のある事であればお知らせください。
ではお便り楽しみにお待ちしています。
うちの家紋は・・・???
T-Tさん 2008/06/05 (木) 15:05
丸の中に3匹のアゲハ蝶がいる家紋がうちの家紋なのですが、家紋掲示板には無かったのですがどうなんでしょうか?
根元さん 今日は。はじめまして。
本青木サイトにお越しいただきまして、ありがとう御座います。
さて、本サイトは、青木氏に関する研究をしていますので、他氏のことは判りません。
折角ですので、家紋の考え方に付いてのみ参考までに。
この家紋は、三つ笠松紋類ですね。
問題視されている荒枝付きと丸付き紋の件を解決すれば、良いのではと思いますが。
西尾氏は3つの家紋を使い分けていますが、ご指摘の通り、「丸に折れ松葉」「櫛松」「松葉」ですね。
先ず、丸付き紋には。、家紋掟により、約6つ程度の条件があります。
最も多い条件として、氏家制度の中、男系跡目を筋目としていますので、男系ができなかっ場合の処置で丸付き紋にする。つまり、女系に成りつつある場合、そして、ついには2代続きの場合は養子先の家紋と成ります。
本妻子でない場合、本家が認めなければ、丸付き紋になる場合などもあります。
多分大方はこの二つのどちらかですね。
次ぎに荒枝付きですが、これもほぼ同じ理由から本家、分家、分流、分派、支流の違いを見極める為につける手法が在ります。小さいところを一部変更して表すのです。
三つ笠紋(三つ松紋)は三つ笠紋族の本家筋の家紋ですから、5つの流の表示の場合はこの様な方法を使います。これ等は宗家本家が決めて家紋を引き継ぎますので氏に依って異なります。
この三つ笠紋は天野氏です。
次ぎは、西尾氏の3紋が何故、天野氏の家紋類に変更したかの疑問です。
氏家制度の中、家紋掟にて、西尾氏の分家筋が男系跡目が叶わず、娘に天野氏から養子を取りましたが、又も男子の嫡子に恵まれず、2代続きの女系となり、養子先の家紋と成ります。
この時、男子に恵まれた場合は、一時養子先の家紋を使用するか丸付きにするか、細工をするかして変紋して凌ぎますが、基の家紋に戻ります。
つまり、この場合は、女系となり、男子側の養子先の家紋と成ってしまった事に成ります。
そこで、荒枝ですが、本家紋外の上記の流による印をつけた事に成ります。
例えば、武田氏は菱紋ですが、武田一族はこの様な結果から、本家分家などの違いで家紋を少し変えています。
ですから一部が違うからといって他氏とは限らないのです。この様な場合は家紋文献でもそこまで細かく載せることは有りません。
読者側でその家紋の知識を持っていないとわからないことに成ります。
一族紋類と云う事を知る必要があります。
西尾氏が全て、「丸に折れ松葉」「櫛松」「松葉」とは限りません。
本家、分家、分流、分派、支流に依って家紋は変化します。
もっと云えば、三つ笠紋から更に、長い間には跡目の事が起こりますので、別の家紋と成ってしまうわけです。
本サイトの青木氏の藤原秀郷流青木氏は元は「下がり藤紋」が綜紋ですが、何と116氏の家紋にも拡がっているのです。
ただ、本家宗家は家紋を維持する義務がありますので、なんとしてもいろいろな方法を使い変紋が起こらないようにしなくては成りません。
西尾氏宗家本家は上記3つの家紋を維持していると思いますが。いつも西尾氏は本家外は殆ど変わっている筈です。近親結婚しない限り。
そのお家は途中で男系跡目が途切れたという事でしょう。殆どの氏は途切れる。
もう一つは、第3氏の西尾氏です。
氏家紋の持たない庶民の者が立身出世して、周囲の西尾氏の姓を採り名乗った氏です。
この様な時期が3期ありまして、室町末期、江戸初期、明治初期の3期です。
特に明治の苗字令と督促令の2回に氏姓のない者が多くがこの周囲の姓を名乗ったのです。
ある日突然、村や群が同じ氏になったと言う事が頻発しました
氏名と家紋を知る場合はこの様な知識が必要です。氏家制度の社会習慣を。
紋には、綜紋、副紋などの多くの紋があります。
結論 西尾氏だから、いつも、「丸に折れ松葉」「櫛松」「松葉」とは限らない。
既に、3つの家紋をつかってといますよ。
これは上記の男系不継承の結果から、一時、2つの家紋を使ったが何とか妻妾から嫡子に恵まれて本紋に戻って一時女系に成りかけた事があった証拠です。松紋の遠縁族から養子を迎えたとの証拠です。
これは、宗家か本家の出来事です。
分家等と成れば更に起こっているでしょう。
その御家が、宗家、本家、分家、分流、分派、支流であるかを先ず知ることでしょう。
ご質問あれば、お尋ねください。知る範囲でお答えします。西尾氏は知りませんが。
Re: 木曽義利と青木家の関係について
青木研究員 さん 2006/12/22 (金) 20:50
どこかの青木さん 今日は。始めまして。
ご先祖がどのような人物であつたかというお問いあわせですが、結論から申し上げると大変矛盾の多いご先祖であると思います。
先ず家紋は升に松紋である事。
次に先祖は清和源氏の木曽氏であると聞かされていた事。
そして徳川に改易された下総の義利ではないかとある事。
江戸か明治初期には山を持つ財産家である事。
そして、どこかの青木氏である事。
ご先祖の周囲には青木村を形成していない事。
明治ごろには村の議員であつた事。
宗派は浄土宗である事。
国は美濃ではないか。
以上
さて、家紋から入りますが、家紋掲示板の2Pの中ほどに青木氏に拘る松紋をレポートしていますので参照して下さい。
この松紋は讃岐籐氏といい、大化改新の藤原鎌足の8代目の人物で藤原秀郷が居ましたが、この子孫が讃岐(香川県付近)の国に国司として朝廷の命で赴任した時に、土地に定着して子孫を遺した藤原秀郷一門の家紋類です。
この藤原秀郷は平の将門の乱を平定して勲功をあげ武蔵国(埼玉県)と下野国を領国として与えられ貴族の身分にもなりました。
この藤原秀郷は第3子の千国を侍にし青木氏の氏を与えて護衛隊の任を担わせました。
これが藤原秀郷流青木氏で主要9氏からなり116氏に末裔を広げています。
この藤原秀郷の主要5氏は永嶋氏と青木氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏です。綜紋は下がり藤紋です
この青木氏以外に皇族賜姓青木氏で5家5流24氏があります。綜紋は笹竜胆紋です。
天智天皇から5人の天皇が第6位皇子を臣下させて賜姓を授けて天皇の親衛隊として5つの国の王とし青木氏を発祥させました。伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐国の5国です。
この5家5流青木氏です。24氏に支流が出ています。
この二つがルーツが確認出来る青木氏ですが、江戸初期前後の乱世期で高位の氏名を搾取し系譜偏纂して庶民が侍となり出世する際に必要とする家柄をこの高位の青木氏の氏を使いました。
この第3の青木氏の代表的な人物として青木一重など4、5名程度の1万石程度以下の大名となつた人物があります。
そして明治初期の混乱期の苗字令で発祥した第3の青木氏があります。
この青木氏は金品を持つ一般の財産家の者が戸籍簿を担っていた寺社に高い金品を支払いこの氏名を貰い系譜と家紋を搾取し偏纂した青木氏があります。
この青木氏は余りに多くてルーツは途中からで親族との違いなどの矛盾が発生しますので特定は出来ません。
ともかくもこの二つの第3の青木氏には皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏と異なり特定する条件が存在しません。
松紋は藤原秀郷の末裔ですが、ところが御家の家紋は全国8000氏の家紋の中にはありません。
又主要家紋の家紋200選の中にもありません。
この松紋は殆どこの讃岐籐氏の血筋を受けた一族ですが江戸時代の御家人です。114紋様にも成りましたがこの中にも有りません。
この事は先祖を多くに広げていない端族であり途中からの家紋となります。
ここにもお話のご先祖とは違って矛盾しています。
先祖は清和源氏の木曽氏とありますが、家紋は笹竜胆紋ですので矛盾があり、松紋は藤原秀郷一門ですから源氏ではありません。当然矛盾です。
木曽氏一門と末裔は滅亡しています。勿論、義利は乱暴を理由でお説の通り徳川氏に改易追放され滅亡しています。下総(上総の説あり)で改易し武蔵国で死んだとされています。
末孫まで尽く潰すのが掟ですからこの一門から子孫が残る事は先ずありません。
その人物と子孫が大財産家になる事は考えられません。ここにも矛盾があります。
この様な絶えてた氏の氏名を名乗るのがこの第3の青木氏の特長です。
お寺ではこのことを戸籍簿(過去帳)から観て判りますから選んで問題が起こらないようにしたのです。
今の所は逃げ延びて滅亡した事の記録はありますが、子孫を遺したとする記録は有りませんから疑問です。
(このようなところの氏を使って寺社が系譜を偏纂搾取して第3の氏に与えるのが常道手段でした。正規の家系譜を使うと文句が出てきます。このような問題が3件戦いが起こっています。)
皇族賜姓源氏とは、皇族族賜姓族の青木氏のあと嵯峨天皇期に第6位皇子が賜姓臣下するときに青木氏より源氏に変名しました。その時に青木氏は皇族出身の下族した時に使用する氏名としまして禁令を発しました。実質には花山天皇まで11代続きました。
この皇族賜姓族は青木氏と合わせて実質16代に成ります。
皇族賜姓源氏の子孫である氏名は5氏以外にありません。青木氏、佐々木氏が本筋で、支流的には大島氏、新田氏、北畠氏ですが、武田氏と足利氏と土岐氏も支流分派です
ここでも矛盾があります。
多くの家人が源氏だと名乗っていますが殆ど全てが偽です。多くの戦いでそれほどに子孫を遺していませんしその子孫であるには特定の条件が成立します。
当時はこの賜姓の青木氏と源氏は純血を守る為に又氏家制度とその身分の高さと権威を維持するために守る為に同族結婚を繰り返しました。この特定の当り前の慣習は天皇家を初め平安初期まで続きました。
例えば兄弟の子供を妻にして子が生まれるとその子供は更に従兄弟と結婚するなど第3親等までの血族結婚をしていました。
笹竜胆紋が8000紋の中にない「升に松紋」の氏に変化する可能性は殆ど可能性は低いと思います。先ず家紋200選になければ明治初期ごろ以降の家紋類です。
源氏の木曽氏から皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏が出ていません。これははっきりとしています。5つの皇族賜姓青木氏はこの清和天皇の第6位皇子経基王の賜姓した清和源氏と純潔を守る為に同族結婚をしています。
美濃、信濃、甲斐などの青木氏は一族の氏寺と神社とを持っていて、確実に青木村を形成しています。
多くの一族の方が本家分家を作って村を形成して墓も同じ所にあります。
墓所は全て青木です。祖父のところではそのようになっていますか。本家分家支家分派が存在していますか。墓所のある村や町にはこのような現象が起こっていますか。
お話ではないと見られますので矛盾があります。
財産は別に農家でも祖父の時代かその前では明治ごろに財産を築いたと見られますから特別のステイタスとはなりません。少なくとも江戸初期頃からでなくては判定材料とはなりません。
山というよりはこの氏では平地の土地や特別の証拠となる特別の財産などのステイタスと成るものを所有しています。
系譜は信用できません。江戸時代からの系譜は100%偽です。純血性を守ったために末裔が少なくて残っている事は稀なのです。
更に残ったものは室町初期からの「下克上」でこのような高位の氏は100%焼き討ちに合い資料関係は有りません。
次に室町末期から起こった戦国時代でまた焼き討ちに合い消えて行きました。
更に江戸初期前後ごろの混乱期にもこの氏は焼き討ちに会いました。
昭和20年までの4年間もの戦争で紙ものは焼けています。
残るは金属関係です。仏像、名刀、馬杯、軍配、等の骨董品などが証拠になり家紋が入っています。
本家筋の仏壇が浄土宗仏壇でお盆などはお供えや飾りや仕来りなどが他と比べて違っています。
江戸初期からその村の庄屋や名主や郷士や郷氏で豪農や豪商などを務めています。
本家のご先祖が何台まで確認出来るでしょうか。14.15台程度以内であれば上記の情報の可能性は有りません。
宗派は浄土宗である事はその通りですが、江戸初期から徳川氏は特例を出して中級武士には浄土宗に入る事を奨励しました。
やっと江戸末期と明治初期頃から各地に寺が出来始め一般の庶民も入信しました。それでも金品のある者にかぎられていましたし、一族全体で浄土宗に入らないと意味がありませんから食い違いが一族内で起こります。
豊臣は勿論この脚色と搾取と偏纂である事は有名ですが徳川氏等もこの搾取偏纂なのです。
ですから朝廷は源氏の頭領などの冠位を認めなかったのです。
16代の源氏の一部を偏纂して源氏を名乗ったのです。ところがこの16代の源氏は南朝時代ですので源氏は11代程度で既に終わっていますし、この時代には第6位皇子は存在しません。
それどころではなく天皇になる皇子がいなかつたのですから。明らかに似せであることが判りますし源氏はその系列ははっきりとしていますので天皇家でも判っています。
強引にこれを認めさしたのです。
先ず、天皇家の財政をなくして家の壁が崩れても直さないほどに貧困にし圧力を加えて次に金を与えて認めさしたのです。しかし、源氏の頭領だけは認めませんでした。
この様に徳川氏がこの様ですから下のものは殆どは100%偽です。
近江と美濃と信濃と甲斐での青木氏には江戸初期前のこのルーツのない第3の青木氏が多いのです。伊勢神宮での伊勢の青木氏は禁令があり特別に保護されていたので「不入と不倫の権」として守られていたので第3の青木氏は有りません。
結論としては矛盾が多すぎます。家紋8000の中にないところではこの明治の苗字令による青木氏と見られます。
一度実家の本家筋の先祖代数がどの程度かどのようなステイタスが残っているかをお調べになるとよいでしょう。総宗本家筋の独自の専有の菩提寺があってお寺の過去帳を調べてみる事が必要です。
研究室の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一族の生き方と家紋掲示板と地名地形データーベースなどをゆっくりとお読みください。詳しくレポートしています。
疑問が取れると思いますし、思いつく事もあるかも知れません。
ともかく、ご質問が有りましたらお便りください。
Re: 木曽義利と青木家の関係について
青木さん 2006/12/22 (金) 01:13 [ メール ]
すいません、さらに追記させていただきます。
家紋の松紋に何か付随して四角いものがついていました。
Re: 木曽義利と青木家の関係について
青木さん 2006/12/22 (金) 00:56 [ メール ]
追記失礼いたします。
宗派は浄土宗です。
。
木曽義利と青木家の関係について
青木さん 2006/12/22 (金) 00:28 [ メール ]
初めまして、戦国時代のゲームをやっていて非常に自分のルーツが気になりました。
小生はまだ27歳ですが、我が青木家での嫡男は自分しかいません、家督相続や家の事業の事もあって最近非常にルーツが気になっています。自分でもある程度は調べたのですが、祖父の実家に帰らなくてはわからない事が多すぎるので恐縮ですが、ご質問させて頂きます。
何卒よろしくお願いします。
私は昔からご先祖様は「木曾義仲」であると聞かされています。
祖父の家は築130年以上もたっていますが、リフォーム等もして今もあります。そんなに大きくはありません。
長野県の南木曽町に坪単位ではわからないくらいの山と土地を保有しているようです。岐阜県にもあるようです。
祖父も町の議員を勤めたり、地元の温泉などでは祖父と行けば顔パスで入れるという優遇を受けています。現在は町の歴史に関し最後の仕事だと言い、執筆中です。
家紋は「松紋」です。家系図もあります。
以上が小生の自己紹介となります。
小生が知りたいのはこの先で、自分のルーツは果たして戦国時代の武将との血縁関係があるのか?またその可能性があるのか?です。
自分が調べた限りでは、武田家家臣の青木一重か木曽義利しか思いあたりません。
青木一重は後の麻田藩の藩主になった事と、その地方付近に親戚がいるという話は聞いた事が無いので、自分では違うのでは無いかと思っています。
木曽義利は徳川家康に下総の国を追われた後、木曽谷に隠匿していた母(武田信玄の娘)と木曽で生涯をすごしていたという最後からその関係でどこかで姓が変わったのでは無いかと推測していますがいかがなものでしょうか?
400年前の事まで遡るので小生では調べるのが大変困難なので、ご教示の程よろしくお願いいたします。
Re: 初めまして、仁賀木(にがき)と申します
仁賀木さん 2008/08/27 (水) 22:25
こんばんは。
お答えありがとうございました。
やはり、これだけの情報では分かりませんね。
。
仁賀木さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
さて、このサイトは青木氏に関する資料を準備していて、他氏のことはよく判りません。
しかしながら、折角ですので、知る範囲でお答えします。
でも、判定する情報が少なく、新しすぎますので、お答えは限定されます。
ただ一つ家紋がありますので、それから推測します。
この家紋群は、既に、本サイトとでも観てご存知の菅原氏系の紋です。
地域は中部地方に分布しています。本来は畿内が多い筈ですが、党首の菅原道真氏は藤原氏の圧力を受けて配流を受けて散在しましたのでこの様な結果と成ります。
処が、筑後にあると云うことは、江戸期では「国抜け」と云いまして、領民は絶対に移動することは出来ません。もし、勝手に抜けますと、「一族惨殺の刑」の刑を受けますので移動は有りません。
出来るとすれば、国抜け成功か、明治以降の時しか有りません。
国抜けでは、一人国抜けに成りますので中部地方から九州までは一族では無理です。
従って、家紋とルーツはありませんね。
平家落人の説ですが、この平安末期の時期には梅鉢紋の氏と家紋化は有りませんので平氏では有りません。後の江戸初期頃に血縁で身元のはっきりした元平氏末裔の方の家紋が血縁で梅鉢になつたのです。平氏の一人は天皇家の相談役をしていて源平に参加しなかつた平氏がいたのです。この末裔です。身元もはっきりとしています。
第一に一人逃亡説に成りますと、氏家紋はありません。現在と違い、いつでも仕事にありつけることは殆ど有りませんし、そのような者を匿う事事態が犯罪ですし、氏家制度の封建社会の中での事は現在意識の判断はありません。
この様な者を昔は川原者といいまして、生きることさえ難しいのです。
山奥に逃げることさえ尚無理です。
としますと、明治初期の開放ですね。苗字令が3年と8年に出ていますので、その時からは庶民は自由に移動しました。多分、お名前からして、可能性が高いと見ます。
仁賀木に纏わる地名、由来が付近にありませんか。
私は推測ですが、沖縄からではないでしょうか。
新垣と云う姓は沖縄に多いのです。”しんがき”から”じんがき”にそれが、仁賀木となったのでは有りませんか。だからもとは沖縄の姓だし珍しいのです。
家紋は、明治初期の苗字令にて、身近なものを選んだのでは有りませんか。国民の8割はこの苗字令にもとづく苗字ですし、家紋も同様です。家紋は8000もあります。
身近に有るきれいな気に入ったものを採用したのです。
菅原氏ははっきりとした氏ですので、ルーツも大方取れますので、考え難いと観ます。
青木氏の所の家紋関係にも書くくらいですのではっきりとルーツを確定できます。
以上ですが、専門外ですが、ご質問ご不明な点が有りましたらお答えします。
Re: 青木氏じゃないのですが・・・・
副管理人さん 2008/12/01 (月) 19:37
富岡さん 今日は。 始めまして。
青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
さて、さっそくですが、青木氏のことを研究しているサイトですので、富岡氏の事は良く判りません。
只、多少、青木氏と関係する所がありますので、そこの所でお答えし、さらにルーツ調べの知識のことについてお答えします。
提供して頂いた情報は
秀吉に攻められて鉢形城に立て篭もった。
後北条氏に合力した。
小泉城主富岡氏と別一族か。
埼玉県に多くいるらしい。
鉢形近辺の一族家紋は「丸に剣花菱」
お家の家紋は剣花菱紋と同紋
小泉城主は結城氏一族で家紋は三つ巴
小山氏の分家の富岡氏
草加の富岡村
以上だと思います。
実は、この情報の中に繋がる4つあります。
先ず、結城、丸に剣花菱紋、小山氏、埼玉(草加)、小泉氏(富岡氏)です。
この5つは繋がっています。
更に、鉢形城の家紋と小泉城の家紋の違いの件です。
では、検証します。
先ず、結城氏は下総の結城の結城氏で、この氏は関東全体を抑えていた藤原鎌足より8代目の藤原秀郷一門で藤原朝光の領地でした。この朝光の前に平家に土地を奪われました。
ところが、この朝光はいち早く源氏の頼朝に合力し平家を追討して、本領安堵され、土地を取り戻しました。
この子孫が結城氏です。この子孫から藤原秀郷一門の主要5氏の一つ藤原一門結城氏系永嶋氏が発祥しました。
そこで、この藤原秀郷一門は「鎮守府将軍」として陸奥国に代々赴任しました。そこで土地の豪族小山氏や小田氏や花山氏(花房)らと血縁をしました。そして、その小山氏は藤原秀郷一門の者が赴任先から戻る時にこの血縁族の小山氏も同行してきました。そして、この秀郷一門の勢力圏の常陸や上総、下総付近一帯に定住しました。
この一族は「関東屋形」と呼ばれる大豪族の一つに成りこれが常陸の小山氏です。
その時に同行した血縁氏の小山氏とその一門の小田氏の一部は秀郷一門の赴任地の甲斐の国にも同行しました。そして、甲斐で勢力を持ちこれが地名から武田氏(武田菱紋)と成りました。
この武田氏の分家が「花菱紋」を使いました、「剣花菱紋」はその武田氏の更に分家と成り、その更に分家が「丸に剣花菱紋」です。
余談ですが、血縁氏の花山氏(花房氏)も信濃足利に、秀郷一門の赴任地(足利大夫)に同行しました。そして、勢力を持って地名を名乗ったのが初代の足利氏なのです。ところが途中で秀郷一門が絶えかけた分家に宗家一門から跡目を入れて本家を乗っ取っりました。(元本家は八頭と米子に逃げ延びそこでむらを形成しました。この時、足利氏系青木氏も一部同行し青木村を形成しました。これが米子青木氏です)
そして、この藤原秀郷一門は武蔵国(埼玉入間)と下野、上野などを領地を拡げました。
その防衛網は入間を中心に横浜神奈川を半径とする円を描く中にいて、その勢力は近江地方までに及んでいました。
次ぎにこの小泉城の土地には小泉氏が発祥しましたが、この氏は藤原秀郷の末裔朝光の子孫結城一族の末裔で、藤原秀郷一門の支流末裔です。
秀郷一門は主要5氏24氏から出来ていますが、更にその24氏の末裔の更に支流に成ります。
この小泉氏の支流の富岡氏はこの秀郷一門の支流一族の末裔と成ります。
三つ巴紋は秀郷一門の121の家紋群の中の一つです。つまり、秀郷一門の小山氏を含む結城氏系末裔支流一族と成ります。
秀郷一門の内、青木氏と永嶋氏と長沼氏と長谷川氏と進藤氏はこの三つ巴紋と血縁しています。つまり、同族血縁をした事を意味します。つまり、巴紋は秀郷一門の家紋です。故に小泉氏(富岡氏)は秀郷一門結城氏であるので巴紋の家紋であります。巴紋筋の藤原秀郷一門と成ります。
当然、秀郷一門支流の小山氏も三つ巴紋です。
これで全て藤原秀郷一門で繋がっている事に成ります。
藤原秀郷一門の藤原朝光の結城一族系支流小泉氏系の支流富岡氏と、元の藤原一門の支流小山氏の富岡氏は一族同門であります。更には何れもが全体としては支流末孫の藤原秀郷一門であります。
ただ、姻戚関係で出口が違う事になったわけです。それは次の結果から起こります。
小山氏の「剣花菱紋」の富岡氏は武田氏の分家末裔と血縁をして男系跡目が出来ずに、武田氏の分家の分家と養子縁組(娘)をし、再び男系跡目に恵まれず、結局、女系となり、氏家制度の「家紋掟」により家紋は養子先の家紋(三つ巴紋から剣花菱紋に)と成ったものです。これが小山氏系の富岡氏と成ります。
土地の地名から名乗った富岡氏(上野の富岡村か武蔵の富岡村)です。
結城氏の「三つ巴紋」の小泉氏の富岡氏は、(小泉氏の支流末裔の者が、)同じ藤原秀郷一門の三つ巴紋の小山氏の支流富岡氏一門から本家小泉氏の分家に養子縁組(嫡子跡目を養子)で入り富岡氏を名乗った。(小泉氏よりこの富岡氏の方が氏が繁栄した。?)これが小泉氏一門の小泉城主の富岡氏と成ります。
藤原秀郷一門の三つ巴紋の結城氏本家と同じく三つ巴紋の藤原秀郷一門の小山氏本家とは、藤原秀郷一門の「関東屋形」と呼ばれて血縁関係にあり、更にこの結城氏流小泉氏系富岡氏、小山氏流富岡氏は四重の同族血縁です。
小山氏は元は陸奥で藤原秀郷一門と血縁し、更に同じ直系一門の結城氏と血縁氏し、更に藤原秀郷同門の小泉氏と富岡氏が血縁し、更に再び小山氏の富岡氏が血縁した形に成ります。
当然、これ等には、藤原秀郷一門の血筋を陸奥で持つ小山氏系(小田氏)武田氏系富岡氏ですから、藤原秀郷一門の血縁で固めに固めた事に成る藤原秀郷一門の支流族一門と成ります。
さて、最後は草加市の富岡氏ですが、もうお判りいただけたと思いますが、武蔵国入間を中心にして藤原秀郷一門を、秀郷主要5氏の一つの本サイトの青木氏116氏の本家筋が円を描く様に取り囲んで宗家を守っていました。外側に行くほど116氏の分家筋となりその本家筋が守っていました。
その防御網の縁は栃木群馬までに及んでいます。
その秀郷総宗本家の護衛役を一切担い「第2の宗家」と呼ばれて取り仕切っていました。そして、分家筋は秀郷一門の赴任地24地方に同行して末裔を土地に遺してきました。
その武蔵草加に富岡氏が多いのは、小山、結城一門が血縁をした土地の豪族の富岡氏が村を形成して住んでいた事によるものであり、この様な事情から充分に考えられます。
実は、この武蔵一帯には「武蔵7党」と言う土地の小豪族集団がありました。
(児玉、秩父、比企、入間(丹治)、大里、葛飾、川越等)上州富岡(群馬埼玉県境:上州富岡氏)から武州富岡付近(埼玉:武州富岡氏)の土地に長くから定住する土豪富岡氏はこの武蔵7党の児玉一党の流を汲む1氏です。
武蔵の国に古くからいたこの「武蔵7党」と呼ばれ一族と後から来た藤原秀郷一門と血縁をしていますが、この流を汲む土豪の富岡氏です。秀郷が武蔵の領主になる前にはこの「武蔵7党」が集団で武蔵を守っていました。其処に「平将門の乱」追討で勲功を挙げた藤原秀郷が朝廷より領地として授かりました。貴族の身分も獲得しました。貴族は武力を使えないので、秀郷の第3子の千国が青木氏を名乗り護衛役を担いました。
専門で無いので其処までで詳しい事情はわかりませんが、多分、小山氏の富岡氏の本家筋はこの辺(群馬埼玉県境)にあったと考えられます。そして富岡の姓はこの地名から出たものであります。
実は、筆者はこの草加綾瀬川の河渕の氷川町(八潮)に長く住んでいましたので富岡氏は承知していますが群馬県境から埼玉草加付近までに富岡氏は分布していました。
結論は、藤原秀郷一門の血縁で先ず繋がる。小泉城主の富岡氏と小山氏の富岡氏とお家の富岡氏は縁者関係にある事に成ります。お家は多分この小山氏の富岡氏であろうと考えられます。富岡氏の本家筋系の支流分家筋と成ると考えます。
氏の拡大というのは、氏に男系跡目が出来ずに、氏家制度の社会の中、家紋掟により家紋の違う氏が増えてゆくことに成ります。
当然、この中には娘に養子婿を、男女の子供ない氏に縁者から男子(養子)を迎えてそれに嫁を採る縁組等も起こります。
この様にして、家紋の違う氏、氏の違う同家紋が生まれて行くのです。
この両方が同時に起こる事もあります。
そこで農家が家紋を用いる世に成ったのは明治3年と8年の苗字令とその督促令から苗字家紋を持てるように成りましたのでもともとは農民は持てませんでした。
ただし、兵農分離で中でも、多くの武家の出の名主、庄屋、豪農、郷士、郷氏とは持つことを許されました。戸籍も、寺が管理していましたが、役所の人別帳だけで、農民には戸籍が有りませんでした。折角の折ですので、青木氏は嵯峨天皇期の詔で、特例で皇族以外の者はこの青木氏を使用禁じました。明治3年まで続きました。
明治3年以後、青木氏とか藤原氏一門の姓を姓の持たない庶民は金品を払って青木氏等の特別の姓を名乗ったのですが、これを「第3の青木氏」等と言います。
ある日突然関東東北地方では村、郡全体が藤原氏を名乗ると云う現象が起こりました。
氏家制度とは、好きで血縁すると言う事は中級武士以上ではなく、殆ど政略血縁で氏の繁栄の為のものです。身分、家柄、血縁筋の合う同じ氏関係で行うのが氏家制度です。男子がこの条件の下の氏とは血縁をし無い社会習慣です。血縁は決して分家だけでは出来ず、本家、宗家の許可が要ります。逆らうと潰されるのが掟です。しかし、経済的、軍事的、政治的な確実な支援をも受けます。
そのような社会の中で、生まれた藤原秀郷一門の血縁で固められた支流一族の氏と成ります。
氏家制度システムは総宗本家、本家、分家、分流、分派等があります。確定できませんが、青木サイトから観ると、多分推測ですが、分け方としてはお家は分流系の分家筋と成ります。
不思議に青木サイトの関連氏でしたので、何かの縁ですね。
藤原秀郷一門の色々な史料は青木氏サイトに充分にレポートされていますので参照してください
大変な史料と成りますので、ゆっくりと楽しんでお読みください。
念の為に、8月24日付けの他の富岡さんからの投稿がありますので、参照ください。
ご質問、ご不明点が有りましたら、関連氏ですので、ご遠慮なくまたReでお尋ねください。
では、この程度で参考にしてください。
青木氏じゃないのですが・・・・(武州富岡氏)
三毛ちゃんさん 2008/11/30 (日) 12:48
б(=^・w・^=)三毛ちゃんと申します。б(=^・w・^=)青木さんじゃないのですが、家のルーツ調べていて苦労してます。б(=^・w・^=)富岡氏の子孫で、言い伝えによると、自分の先祖、鉢形城に立て篭もって、後北条方について、豊臣秀吉と戦ったらしい。戦争に負けて一家離散したらしい。小泉城城主の富岡一族と同じ運命をたどりました。小泉城城主と同じ運命たどったところ見ると、【小泉城城主の分家なのかな?】と思い家紋を調べたら別でしたので【別の一族なのかな?】と思っております。
б(=^・w・^=)と同じ氏族 埼玉県内にも多くいるみたいで、ルーツをたどると、いくつかのルーツに分かれるらしく、自分の祖先のルーツたどり着くのに苦労してます。埼玉鉢形城近辺の一族家紋は【丸に剣花菱】が多いらしいです。【丸に剣花菱】は、武家の家紋で農家では使えなかったらしいです。б(=^・w・^=)も同じ家紋なのですが、ルーツがわからないので知っていたら教えてください。
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★結城氏族 群馬県小泉城城主 富岡氏 【結城氏の分家】家紋 三つ巴【←結城氏と同じ家紋。】
★小山氏の分家で富岡氏もあるらしい。
埼玉県もいくつかルーツあるらしいく
★藤原足利氏の一族の分家で富岡氏というのがあるらしいのですが、資料不足でそれ以上の事 わかりませんでした。
★あたりも草加市近辺に富岡村というのがありそこから出た一族 家紋不明
その他2ルーツあるみたいですが
富岡さんのお尋ねの件・・・(上州富岡氏)
副管理人さん 2008/08/24 (日) 19:54
戦国サイトから富岡さんの投稿をこちらに移しました。
以下がご質問です。
はじめまして、ブログではお世話になっております。
さて、私の先祖は真田町の横尾城の城主であったようです。村上氏に従い上田原の戦いに参陣し当主は討ち死にし、上州へ子息が逃れてきたとの話が伝承されています。横尾氏の家紋を調べますと、子息が逃れてきた地が富岡市丹生という場所ですが、この地域の横尾の家紋は五瓜に唐花ですが、私の家は逆三角が三つ上から大きく、中央、一番下が最も小さい三角で「下がり藤菱」とか言っていた記憶があります。私の家は本家といわれ、代々続いておりますが家紋が全く異なるのはどうしてなのか疑問に思いメ−ルしました。
今日は。富岡さん。始めまして。
福管理人です。
これからも宜しくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、「下がり藤菱」と「五瓜に唐花紋」との違いですね。
その前に、「下がり藤紋」の事に付いてご説明いたします。
「下がり藤紋」は藤原氏の綜紋です。
藤原氏は四家ありまして、式家、京家、南家、北家とあり、最も栄えたのが「北家」です。
この北家が綜紋としました。しかし、「下がり」と云う意味を嫌い上りに変更しました。
ところが、北家でも最も栄えたのが、藤原秀郷一門です。鎌足より8代目です。
この秀郷が、この「下がり藤紋」を頑固に維持しました。
この内、秀郷351氏(家紋数)の内、この綜紋を家紋としたのはたった9氏です。秀郷主要5氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)があり、この他に佐藤氏など4氏がこの綜紋を維持しています。
「下がり藤」の綜紋は宗家(本家)が維持する義務があります。男系跡目が出来なくなっても上記の9氏の中から養子を取り家紋を変更させないようにする義務があります。絶対に護ります。
もし、難しくなった場合、上記の下がり藤紋の9氏の末裔縁者から跡目を入れて変紋をしなくても良い様にします。それでも難しい場合は9氏の血縁縁者(他氏)から跡目を入れると、他氏の家紋(血液)を持つ一部が入ります。その時、この9氏の宗家は下がり藤紋の中央にその家紋を入れて、綜紋を維持します。
つまり、「下がり藤に・・紋」と成ります。
そこで、お家の「逆三角が三つ上から大きく、中央、一番下が最も小さい三角」が入る訳ですが、ところが、この紋は日本全国8000の家紋がある中では見つかりません。
そこで、よく似た菱を3つ重ねた「三階菱」と云う家紋があります。(疑問1)
このことを先ずお調べください。
次に、「下がり藤紋」の綜紋を仕えるのが9氏の宗家末裔ですが、お家はこの中にありません。(疑問2)
主君の真田氏は有名な藤原秀郷の一門末裔です。しかし、その家臣が藤原秀郷の綜紋です。逆転しています。(疑問3)
横尾氏が「五瓜の唐花」であるとのことですが、これは正しい家紋です。真田氏は甲斐武田氏の家臣と成りましたが、武田氏は「武田菱紋」と「唐花紋」も使っています。
武田領にいた横尾氏は五瓜族と武田氏の支流との血縁族です。ですから「五瓜に唐花紋」に成ります。本家であれば、この家紋を護っていた筈です。
ところが、富岡姓に苗字が変わっています。普通本家であれば家紋と同様に変えません。本家が変えてしまっては本家ではなくなります。本家はこの義務を持っています。
分家が変えないのに本家が氏名と家紋とも変わっていることは疑問です。(疑問4)
たとえ信長に追われて一族で逃亡しますが、逃亡しても余程のことが無い限りこの辺は変わらないものです。
先ず、ご本家であれば、次のことが確認出来る筈ですので、お調べください。
宗派は何、菩提寺は何処、寺の過去帳の有無、仏壇の形式、家の過去帳、伝統古物、など
宗派は藤原秀郷一門の真田氏と同じ宗派である筈です。
有る限定された藤原氏一門が入門している宗派があります。
何宗ですか。
菩提寺は、城主であるので、横尾氏一族一統が祭祀されている寺があります。本家ですのでこの横尾氏菩提寺があり、そこに祭祀されている筈です。
当然に、寺には横尾氏の過去帳がある筈です。この有無です。
この過去帳にはお家のご先祖の名前が書かれています。そのご先祖が横尾城の前のご先祖が確認出来る筈です。
仏壇は城主で本家あるので、仏壇の有無と宗派の形式の仏壇であるかと言う事の確認。
当然、お家には家の過去帳があり、先祖代々位牌(個人位牌ではなく)の中に戒名と俗名を書いた木札がある筈です。そのご先祖の古い人が横尾城の時期に一致しますか。
ご本家であれば、少なくとも何らかの古物伝統のステイタスになる品物を保持している筈です。何かありますか。周囲に分家の横尾氏が存在する限り何か本家として持っている筈です。
疑問1−4と確認6でありますが、この確認で大方の事は明確に成ります。
実は、この様な藤原一門の有名な氏にはこの名前を搾取偏纂し口伝を造りした氏が大変多いのです。「第3の氏」と言いまして、第1期の室町末期、第2期の江戸初期、第3期の明治初期の3期混乱期に起こっています。第1期は戦国、第2期は旗本御家人の家紋化、第3期は庶民の苗字令の時です。
この3期には土地の名士の氏名などを名乗りました。
この第3氏には、上記した疑問と確認に矛盾が生まれます。
藤原一門はこの辺をはっきりさせている氏ですので違いが出てきます。
ですから、上記の点を確認してください。
お答えは、”本家であれば、家紋と氏名は江戸末期までは原則変わらない”という事に成ります。
尚、この青木サイトには、藤原秀郷一門のことが詳しくレポートされていますので、ゆっくりとお読みください。
右メニューなどからお選びください。
ご質問が有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
Re: 家紋(丸に立て二引き)
副管理人さん 2008/08/22 (金) 21:45
丸に立て二つ引両紋の青木さん。 今日は。始めまして。
このサイトは青木さんのサイトです。これからも宜しくお願いします。
さて、「丸に二つ引両紋」は足利氏の家紋で皇族賜姓の信濃青木氏(笹竜胆紋)と足利氏との血縁で男系継承が2代続きで出来ず養子先の紋となった足利氏系青木氏です。
信濃には大変には大変多い氏です。
皇族賜姓青木氏は宗家5家5流があり24氏から出来ています。
詳しくは研究室の右のメニューから選んでお読みください。家紋に付いては家紋掲示板、家紋の詳細は「青木氏と血縁族(家紋)」で、地理に関しては地名地形データーで、各地の青木さんからのお便りは研究室と雑談掲示板で、お調べください。
青木氏は皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏と第3の青木氏の3つに成ります。
「第3の青木氏」には、第1期の室町末期、第2期の江戸初期、第3期の明治初期の混乱期に発祥した青木氏があります。この青木氏は、庶民が立身出世して武士となった氏です。
ルーツを持たない青木氏と成ります。
第3の青木氏以外は一定の条件の上で成り立っています。
皇族賜姓青木氏は奈良期大化期天智天皇から始まり、平安初期に発祥した北家の藤原氏で秀郷の末裔です。鎌足の8代目です。
お家は、「青木氏と血縁族(家紋)」と家紋掲示板の家紋青木氏の中に無い場合は、この「第3の青木氏」です。
この青木氏は上記二つのの特定条件に当てはまりません。この二つの上記の2つの青木氏の土地30−35程度の土地に発祥していますので、この特定条件で判定できます。
家紋、宗派、菩提寺、土地名、過去帳、上記の3期の時期のご先祖の有無、などがあり直ぐにわかります。
もし、上記の条件がお判りでしたらご連絡ください。
丸に立て二引両紋は家紋掲示板にありません。
多分、信濃にご先祖が上記3期の内に発祥させた青木さんだと思います。
ご先祖の過去帳の最も古い人が何時かでもわかります。
多くは、第3期の明治初期の苗字令に基づく青木さんです。この青木さんは30−35氏ほどあります。
皇族賜姓青木氏は29氏、藤原秀郷流青木氏は116氏あります。
青木氏は嵯峨天皇のとき詔で使用を禁じていまして、上記の3期を除いて原則明治3年まで護られました。
「丸に二引き両紋」は足利氏ですが、信濃に大変多い氏です。
たて紋は別に成ります。
引き両紋は40の文様があります。
兎も角も、レポートをお読みください。
そして、ご質問が有りましたらお尋ねください。
家紋(丸に立て二引き) |
Re: 日野ですが・・・
副管理人さん 2008/07/31 (木) 19:55
日野さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
さて、お尋ねですが、ご承知の通り、このサイトは青木サイトですので、日野氏の事については良く知りません。
ただ、家紋からの知識はある程度ありますので、知る範囲の事でお答えいたします。
情報は五三の桐紋との事、出身地は淡路島、日野中納言では、この3つですが、先ず、出身地と歴史的時期が新しすぎますので、全く確定は困難です。
歴史は少なくとも、江戸中期前から江戸初期前でなくてはどの氏のルーツでも無理なのです。
調べるに足る書籍の信頼度が全く低いからです。
室町末期から下克上と戦国時代で世情が混乱し、証拠とする書籍が少ないのです。
実のところ、100%に近い状況で信用できません。
その書籍は立身出世して、搾取偏纂して、自分の家柄を良く見せると言う風習が起こって、手前味噌にも事実と異なり良く書いているのです。
第一、徳川家康や豊臣秀吉がその代表的氏だからです。
この搾取偏纂は歴史上3期起こっています。
第1期は室町末期の混乱期、第2期は江戸初期の混乱期、第3期は明治初期の苗字令のときです。
この1、2期の混乱期の立身出世者、第3期の一般の苗字家紋の持たない庶民と成ります。
このことをまずご承知ください。
さて、家紋の五三の桐紋ですが、ご説明しますが、この家紋が第2期から第3期の混乱期の代表的なこの事例の家紋なのです。
五三の桐紋に付いてご説明します。
この紋は桐と葉と花を形象化したものです。
桐には沢山の種類がありますが、白桐を紋様化したものです。
昔、中国では、桐は聖者が現れるときに、瑞鳥鳳凰がとまる嘉木として扱われてきました。
つまり、瑞祥的なものでした。
このために平安時代に、天皇が用いる「象徴権威紋」として定められていました。日本書紀にもこのことが書かれています。
桐竹鳳凰を一組組み合わせて文様とし、これを天皇が用いる式服の袖に織り込まれて物でした。
これが、後に、桐の文様だけが取り出されて用いられて、公的な天皇の象徴と権威の文様と成りました。
ところが、秀吉の「太閤」の位を認めさせて、更に天皇家の末裔として認めさせるために採った天皇家への経済的圧力により、天皇家は財政的な困窮に陥ります。そこで、財政の掛からない方法として、天皇家は朝廷として勲功のある者にこの文様紋の使用を許したのが始まりです。
先ず秀吉が、この文様の使用を許可されます。その内に、秀吉が無断で、家臣や大名に使用を許します。更にその内には、その大名が更に家臣に使用を勝手に許す羽目に成ります。最後には更には、これを受けた主だった家臣が戦いのときの兵として出陣した村全体の農民にこの使用を許します。
許された農民は特別な立場を得たとして家紋や墓紋に使用しました。
明治初期には、明治3年の苗字令と8年の督促令に基づき、この時、多くの庶民が苗字とこの家紋を使用するようになりました。明治政府は遂には止められなくなり、17年の使用禁令は広報で諦めて認めてしまったのです。
歴史上の有名な出来事です。
これがこの五三の桐紋なのです。
九州や中国地方では村や郡や県全体が、ある日突然同じ苗字と家紋を使用すると言う現象が起こりました。この時、この桐の五三の桐文様が最も多く使用されました。
中には遠慮して、五七の桐紋など似せて作りました。160もの文様が出来ました。
その中の代表的なものが五三の桐紋です。
徳川時代にもこの現象が御家人旗本に起こりましたが、幕府は諦めました。
この時、苗字もそれに絡んだ苗字をつけました。それが青木氏や藤原氏など始めとして皇族や公家の高位の氏名を名乗りましたが、日野氏や近衛氏の公家苗字も使用しました。
日野氏は足利時代には大変有名な公家です。
明治以降、隆盛を極めた公家が淡路の山奥に住んでいるとは考えられません。
ですから、祖父でありますと、明治か大正時代ですので、その隆盛は続いていますが、淡路の山奥では考え難い事です。
先ず、この五三の桐は本来は家紋では有りません。天皇家の「菊紋」の家紋ではなく、天皇の位の「象徴紋」です。これを家紋とする所に無理があります。
この家紋に合わせて日野氏を名乗ったものであると思います。
公家が身内の天皇の象徴紋を使用する罪を犯すなどの事など有りません。
そこで、次の事をお調べになると確認出来ます。
先ず、お家の宗派は何でしょうか。
菩提寺は何処でしょうか。
江戸初期の過去帳をお持ちでしょうか。
自前の氏神は何処でしょうか。
何か証拠となる古物や標がありますか。
公家の日野氏であれば、この上の条件を一定の中にありますので、それから外れると、明治の混乱期の第3の氏と成ります。
先ずは簡単な所から、宗派ですね。これで殆ど決まります。
宗派が異なりますと先ず第3の氏です。宗派伝統の象徴ですから。
淡路の山奥ではこの宗派はないと思います。特定のところ特定の身分家柄にしかなかった宗派ですから。
次に独自の日野氏の菩提寺を持っていますので、それがどこかです。次には過去帳があるのかと言う事を調べられたら良いと思います。
あるとすると、元も古い人は何時頃の人かで決まります。
3つの混乱期の氏にはこの条件が当てはまりません。
江戸中期のまでの昔は、武士でも中級武士以下は菩提寺はもとより過去帳も有りませんでした。
又、特定の身分家柄以外は、墓も川原の積み石の石墓で済ませて有りませんでした。そのような習慣がなかったのです。今のような墓石は明治以降の風習です。
どんな大豪族でも、せいぜい、泥岩で作ります。泥岩は次第に溶けて土に返ると言う風習があったのです。
江戸の昔は「国抜け」と云ってそこの村から一生代々出られませんので、淡路の山奥ではこの条件に合う事はないのではと思います。無断で出ると一族民殺しの罪を受けたのです。
もし、宗派や菩提寺や氏神がお判りになるのであればお知らせください。
普通はこの様なことは先祖伝来で伝統でつながれている筈です。まして、日野氏であれば。
判らないということ事態が氏の伝統がないことを意味しますので。
ともあれ、氏の立件は青木氏と同じですので、その要領でお答えしました。
ご質問はご遠慮なく。ご協力します。
日野ですが・・・(日野氏)
日野小梅さん 2008/07/31 (木) 10:26
こんにちは、始めまして!数年前から我が家のルーツを探してます。ここは青木さん専門のようです
が、とても詳しいので是非力を貸していただきたいと思いメールしました。
名字は日野、家紋は五三の桐。三代前に淡路島から現在の地に引っ越して来ました。
亡くなった祖父・父から「家は日野中納言の家系」と何度も幼い頃より聞かされていたけど証拠がな
いのです。後醍醐天皇がなんとか・・・とかも言ってましたが、その頃の私はまだ幼く、亡くなった
今になって気になってしょうがありません。
一般的に有名な日野家の家紋は鶴丸ですよね。でも家は五三の桐。戸籍より淡路島の住所に行ってみ
ると潜んでいたとしか思われない山奥。
過去に何があったとしても現在幸せに暮していけるのは御先祖様のお陰なので、徹底的にルーツを探
し伝えたいと思ってます。
宜しく御願いします。
Re: 備前青木氏のルーツを探しています
副管理人さん 2008/07/10 (木) 11:13
菩提寺が真庭郡久世町にあるとの事ですが、岡山にはもともとはここは浄土宗法然の生誕地で、中国33霊場の第1番札所で、「生誕寺」というお寺があるところですね。
藤原秀郷流青木氏は浄土宗か浄土真宗です。ここには古い浄土宗のお寺も幾つかあるようですが、天台宗との事ですが。この宗派の違いもお調べになるとよいのではないでしょうか。
真庭には、新庄というところが有名ですね。昔聞いた事があるのですが、木山寺と言うお寺もありましたが。
菩提寺のここは戦災にあっているのでしょうかね。もし、無ければ過去帳は存在し、お家のご先祖の方の名が残っているはずです。この時、その方の官職名がついていますのでそれを確認ください。
例えは、青木氏であれば、左衛門尉・・とあるはずです。尉が佐に成っている場合もあります。又、左が右と成っている場合があります。民部尉も同様です。
青木氏は天智天皇から第6位皇子が臣下し賜姓を受けて親衛隊として天皇を守護する軍としてその役目をしてきました。藤原氏の青木氏も同じです。ですので、宮廷を護る衛兵のつく官職名が末代までなれる事に成っています。(一代限りの官職名も江戸中期から生まれました)
藤原秀郷流青木氏であれば、上位衛兵の官職が付けられています。
氏家制度が確立していた江戸中期までは、武家の変名は原則的には無いと言う事に成りますが、考えられるのは、婚姻関係による変名、3期の混乱期の室町末期と江戸初期、特に青木氏に関しては詔があり、武士は青木氏にする事は根拠が無い限り世間から観て難しいでしょう。
青木外でも、前2期の時を除いてない事に成ります。
自分が変えても親族一族が変わらないとおかしい事に成ります。家紋や宗派も伝統の象徴ですので変える事は少ないですね。
氏家制度が確立していた江戸中期までは先ず無い事でしょう。
変更する事ができるのは3期の混乱期に身内が無く単独出世した場合に限ります。
氏と家紋と宗派は氏家制度の中では連動していますので、少ないですね。
もともとは、武士でも、上級武士で無い限り、家紋と氏は無かったのです。
氏、家紋、宗派を持つ様に成ったのは、江戸初期からです。最も氏と家紋が増えた時期です。
徳川幕府は3期の戦国時代の混乱期を修正する為に、氏家制度の規律を取り戻す手段として出世の条件として重んじました。この時、宗派の内、浄土宗の信仰の督励を2度出しました。
上級武士に限りこの浄土宗の寺を各地に建てて入信を勧めたのです。
それまでは、特定の高位の氏の宗派でした。従って、特定の地域にしかないのがこの宗派の特長です。
そして、それを寺が管理する体制を強化しました。従って、上級の武士以外は寺については菩提寺はもとより過去帳すら有りませんでした。
殆ど、中級以下の武士と一般の庶民は菩提寺や過去帳の慣習は有りませんでした。江戸長期以降の特に明治初期以降のことです。
上級武士以外は、墓も、現在のような立派なものでなく、川原者の言葉があるくらいに、大抵は川原の側に川原の石を積み上げて作るのが慣習でした。上級武士でも、「土に帰る」を前提に川原にある泥岩の墓石でした。
大理石のように立派に成ったのは明治初期以降です。
ですから菩提寺と過去帳の有無は検証の一つの条件に成ります。
この様な観点からもお調べに成る事が必要です。現代感覚では迷路と成ります。
それに、江戸期の書物を検証する場合は、特に史実を無視した偏纂に注意ください。
では、又ご質問等有りましたら、お便りください。
Re: 備前青木氏のルーツを探しています
国方さん 2008/07/10 (木) 01:32 [ メール ]
こんばんは。
大変詳しい解説ありがとうございます。
いろいろとわからないことが多くあり、まだまだ調べなければならないことがありそうです。
管理人様の情報をもとに、さらに調べていこうと思っています。
青木氏の件ですが、新しい情報を母から聞いたので記載しておきます。
宇喜多氏ではなく浦上家に仕えていたそうです。
備前から浦上氏のお城に仕えるために赤磐郡にでてきた。
和気天神山に城を構えるためについてきた。
菩提寺は真庭郡久世町にあるそうですが母は数十年前に祖母と参ったそうですが、名前は覚えていないそうです。
墓所は先祖墓を含めて30基ほどのお墓があり、途中には元はそれが墓だとは思わなかったような、一畳ほどの一枚岩でできた古い墓が6基ほど並んでいたそうです。
祖母が『和気郡誌』に先祖が載っていると言っていたそうで、私に読めるかわかりませんが、『備前軍記』『天神山記』『美作太平記』『和気郡史』『赤磐郡誌』『和気郡誌』これらの資料を調べる必要がありそうです。
また、当時の世相や時代背景を知るのに司馬遼太郎氏の「播磨灘物語」なども読んでみようと思います。
天神山城は浦上宗景が築いた城なので、浦上宗景について調べる必要がでてきました。
相良騒動についてですが、室町時代の1448年、下相良氏の相良長続が上相良氏を滅ぼし、肥後三郡の統一したことでしょうか?もしそうなら、青井氏がどちら側であったかが鍵となりそうですね。
さて、当初簡単に調べられると思っていた寺尾氏ですが、なんとも不可解になってきました。
戦に負け、落ち延びていた際にかくまってくれたのがお寺だったので、寺尾と改名したと聞きました。
こちらも、菩提寺がわかりました。
菩提寺 上寺山 余慶寺 天台宗 本載院(漢字がこれであっているのかわかりません)
お寺の決まりごとだそうです。7つ位があるうちの一番上なそうですが、この決まりについてはわかりません。
寺尾氏も青木氏探しと平行して調べたほうがよさそうですが、その寺尾氏ですが様々な武将の家臣として名前を見かけます、この道を探すのが正しいのかまったくわからなくなってきました。
武家がそんなに簡単に氏名を変更できるのでしょうか。
また名を変えても家紋がそのままでは、周囲にわかるのではないでしょうか。
安東氏、伊賀氏が備前、美作の藤紋を使用している有力な氏族のようですが、どちらも「下がり藤紋」ではありません。家紋で探すのは難しくなってきました。
菩提寺に過去帳があればいいのですが。
今度帰郷した折に母が青木の菩提寺や墓所を案内してくれるそうなので、同時に寺尾氏についても調べてみようと思います。
何かわかりましたら、ご連絡します。
Re: 備前青木氏のルーツを探しています
副管理人さん 2008/07/07 (月) 21:02
備前の青木さんルーツの方 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
さて、いろいろと歴史をお調べに成っているようですね。
出来るだけ、知る範囲でお答えしたいと思います。
先ず、その前に、備前には、藤原秀郷流青木氏で四国の讃岐の藤氏の藤原秀郷流青木の綜紋「下がり藤紋」と剣片喰紋等を家紋とする一族が、備前と美作などに大勢力伸ばしていました。この一族讃岐と行き来をして明治まで廻船問屋などを大きく営んでいました。
そして、この同族の備前に赴任した藤原氏に同行した藤原秀郷流青木で茗荷紋の青木氏がいます。
青井氏の件ですが、藤原氏の南家であるとしていますが、上記のここの青木氏は何れも最大勢力を誇った北家ですので、原則的には違うのではとも考えます。
しかし、ある条件では一致するところがあります。それは下記に示します条件なのです。
氏の変更の件では、青木氏は大化期の天智天皇より伊勢の青木氏から始まり、光仁天皇の5代続き、桓武平城天皇の2代を外して、政治的な理由で嵯峨天皇から青木氏を源氏に変名しました。
この時、青木氏は朝臣族か宿禰族の皇族以外(藤原秀郷流青木氏は母方で繋がるために例外に認められた)のものが使用する事を禁止しました。明治3年まで続きます。
原則的には、この間の3期の混乱期を除いて護られました。
そこで、もし、青井氏から青木氏に変更したとすると、この3期の室町末期の第1期、江戸初期の第2期、明治初期の第3期の何れかと成ります。
二宮氏の抱き茗荷紋であるとすると、第1期の室町末期と成ります。
そして、その理由は上記の例外藤原一門(本来は北家)として、嵯峨天皇の詔では、朝臣族、宿禰族が名乗る事ができるのです。
これを理由に、南家の青井氏から青木氏に家柄か何かの理由(下記)で、これを重んじて変名したと考えられます。(藤原氏は朝臣族としてのこの例外は2件ある)
その必要性はこの時期に大きく出世した事と、高位(皇位)の家柄との血縁の必要性があったとも考えられます。(多分、近江青木氏一族一門との血縁か 近江青木氏の一門の摂津青木氏では)
この血縁は稲垣氏ら3氏ではなく、家紋からこの3氏の元の二宮氏が拘っていたであろうと考えます。
この3氏は江戸時代の伊勢で、後に二宮氏の末裔として豪族になった氏である事から、時代性から観て、直接古い発祥氏の二宮氏の方だと考えます。
全く衰え殆ど潰れた南家筋の藤原氏を名乗るより、藤原北家の朝臣族を利用して、賜姓族ではない詔による皇族青木氏を名乗る事により有利となり、政治的にも二宮氏との血縁の際の上位の血縁と成ります。
主に摂関家などを努めた代々の北家筋だけが認められた青木氏ですが、この場合、嵯峨期の詔により室町末期に朝臣族を理由にして身分の位をあげて、後に駕籠を使える身分の侍までなったとすると、出世も絡めた「出世と血縁」をかさねたものであると考えられます。
現に、徳川時代ではその勲功と家柄で、二宮氏の末裔の稲垣氏も伊勢の東部の大名にまで成っています。又鳥羽氏も稲垣氏を背景に相当の勢力を持っていました。
このタイミングが、提示されている貴殿の次の疑問の「相良騒動」でしょう。
この騒動は次の事で符合一致するのではありませんか。
実は、宇喜多氏の件ですが、伊勢の青木氏(藤原秀郷流青木氏 伊勢永嶋半国司の藤原秀郷の末孫の基景に同行した青木氏)の青木氏の一部が、戦国時代に宇喜多氏を名乗ったと言う土地の説があるのです。宇喜多氏側からの説と思います。
出世によって家柄身分を創り上げる為に、この時代に良くあったことですが、徳川氏のように、騒動時の時に持ち出して名乗った青木氏とも考えられます。
この事が事実とすると、藤原秀郷一門の伊勢永嶋の青木氏の末裔の分家筋か、縁者関係が土地の土豪の宇喜多氏との血縁(入り婿)で立身出世して、青木氏として独立したのではとも考えますが確証は取れません。
つまり、宇喜多氏の一部が、立身出世後に絶えかかった元の親族の藤原秀郷流青木氏を名乗ったとも考えられます。いずれにしてもこれで青木氏が宇喜多氏から出た事に成ります。
つまり、この情報から観ると、家臣団ではなく、宇喜多氏そのものが青木氏であった事に成ります。
相良の藤原氏の朝臣族で青井氏から青木氏に、藤原氏の青木氏の宇喜多氏から青木氏に、の二つの青木氏が考えられるのではないでしょうか。
不思議にどちらもが偶然に相良がキーになっています。
推理ですが、相良では長い期間に勢力争いが幾つも起こっている中で、何れが相良氏か家臣の宇喜多氏からか青木氏で結ぶ知恵を出した。そして、それを理由に解決しようとした。
相良氏は朝臣を理由に青木氏に、宇喜多氏はもとの抱き茗荷の青木氏にしてで双方が結び一族としてタイアップし、その裏づけに、讃岐籐氏の綜紋「下がり藤紋」の剣片喰族等の青木氏の勢力圏の世界の中で、同族の藤原秀郷流青木氏の旗の下でとしてを青木三者連合を結んだ。
この接着材は青木氏であった。この接着は茗荷紋の婚姻では。
だから、経済軍事を背景に、長期間の相良騒動の後も、宇喜多氏は大勢力を張る事ができた。「三方一両損」です。何時の世も何も背景が無ければ個人の力では簡単に潰れます。
相良を乗っ取る事が出来たのは大きな力が働いたからです。
美作と備中に定住していた青木氏には、四国一体と瀬戸内を政治経済軍事で明治まで支配した讃岐籐氏に同行した「下がり藤紋」を宗家として剣片喰族等の藤原秀郷流青木氏があります。家紋関係が異なりますが元は同じです。
利害を伴ない同族である事から三者連合が成立した。
この地域では備中に赴任した藤原一門に同行した青木氏の末裔は大きく子孫を遺せなかったことから、殆どは讃岐籐氏の青木氏です。この讃岐籐氏の青木氏一族は、四国阿波はもとより、広くは、中国地方の土豪の亀甲紋族も含めて広島山口まで広げています。
参考に、直ぐ北側に位置する鳥取の米子から八頭付近までに信濃足利から逃れてきた足利本家とそれに同行した足利氏系青木氏(皇族賜姓青木氏)の一部がここまで逃れてきて定住しています。
(藤原秀郷一門と本家争奪戦で本家筋が負けて奪い取られる。)
美作、備中、備前の土地の豪族を全て血縁関係を維持し経済と軍事を支配するほどに大きい力を持っていた「2足の草鞋策」を持った藤原秀郷流青木氏の中に、その大勢力の領域に宇喜多氏の青木氏が入ったのではないかと思われます。生き残り策の連合です。
元は、この二つは伊勢の藤原秀郷流青木氏(家紋不明で片喰紋か)と讃岐の藤原秀郷流青木氏(剣片喰紋)で同じルーツですが。
つまり、基の青木氏を持ち出して、同族である事を背景に見方に引き入れる手段としていたのではないでしょうか。平安時代なら別にして、この時代に普通なら変名したところで家柄を誇張する背景程度で大した意味はありません。
しかし、この宇喜多氏はこの讃岐籐氏の力と前記する二宮氏一門の力を何らかな方法(婚姻変名劇)で獲得したかつたのではないでしょうか。
だから、青井氏から変名をもしたのではと考えます。青木氏による三者連合を成す為に。
宇喜多氏は、「讃岐籐氏」と呼ばれるくらいにこの瀬戸内の両岸を抑えていた藤原秀郷流青木氏の一族間のこの大背景を基にして、有名な「相良騒動」を乗り切ったのではと考えます。
この「相良騒動」を乗り切るには、経済的な裏づけと、軍事的な後ろ楯を得なければ出来ることでは有りません。
この「下がり藤紋」を綜紋としての宗家剣片喰一族等の藤原秀郷流青木氏の勢力は、土佐、阿波にも剣片喰の同属で抑えていたのです。
秀吉も四国攻めの時にはこの一族に余りにその勢力が大きくて手を焼いた有名な話があります。
信長も手が出せなかったのです。
多分、抱き茗荷紋の青木氏を名乗ったのもこの環境とこの背景があったのではないでしょうか。
さて、次に、宇喜多氏の家臣の寺尾氏の「下がり藤紋」の件ですが、藤原秀郷一門宗家の氏の綜紋を引き継げたのは確認出来るところでは藤原一門の主要5氏を含む計9氏しか居ません。又、藤原秀郷一門の中に寺尾氏が見つかりません。
綜紋を引き継げるには藤原秀郷一門の青木氏を含む本家筋主要24氏でありますので、寺尾氏の「下がり藤紋」は疑問です。支流末裔族の氏では無いでしょうか。または第3の氏と成ります。藤原氏には大変多いのが「第3の氏」で江戸時代初期に利用されたものです。
宇喜多氏が支流紋で、寺尾氏が本家紋は疑問です。
次に、更に、清和源氏支流一族と結んだ藤原秀郷流青木氏がありますが、これも未勘源氏です。
家紋に付いてのご質問ですが、
家紋は家紋掟により、常に血縁関係で変化します。氏家制度の中で男系継承でありますので。嫡子がなければ養子か婿養子を取り、再び、嫡子に恵まれなければ、養子先の家紋に成ります。
藤原秀郷主要5氏の一つの藤原秀郷流青木氏はこの様な理由で116氏にも拡大しています。
下がり藤紋を維持出来るのは余程の事でなくてはなりません。まして、使える元の本家筋ともなれば9氏筋しかありません。
宇喜多氏の家臣団の寺尾氏は別として、この寺尾氏の件は疑問が残ります。
次のご質問の件ですが。
青木氏と青井氏のつながりをどの辺りを調べればよろしいのでしょうか。
また、家紋掟や武士の氏名変更についての資料があればお教えください
青木氏と青井氏は上記した通りではないでしょうか。禁じられていた青木氏に変名するには、藤原氏のこの朝臣か宿禰族以外にありません。当時は突然に青木氏を名乗ることは周囲のこの禁則から観て出来ない事でしょう。
実は、例えば典型的な例として、伊賀の上山郷の上山氏がこの滋賀の耐えた分家の青木氏を奪い取り立身出世に必要な為に名乗りました。ところが、本家の青木氏が怒って2度戦いをして滋賀の本家青木氏が負けてしまいました。
この後この上山の青木氏はぜんこく8箇所の守護職を勤めるまでに出世したのです。
問題は青井氏から青木氏の変名は朝廷に届けられていたものかはべつですが。
第1期の混乱期ですから、届出はないとみます。
家紋掟は氏家制度の平安末期からの慣習で、家紋化が主要40氏ぐらいが行われてきました。
その後、鎌倉末期から明治初期まで新規発祥の氏が沢山でて家紋化が進んだのです。特に、
3期に集中しています。
室町末期、江戸初期、明治初期の3期です。中でも、家紋は武士のステイタスですので、江戸初期には初めは公家や皇族の高位の象徴紋の8紋程度で、次第に40程度のものになり、平安末期には、200家紋程度となり、遂には一挙に4000位に膨れ上がりました。
明治にはいり、裕福な者が苗字と家紋を採用しましたので7000程度成り、次第には現代では8000以上と成っているのではと考えます。
江戸時代に造られた「家紋200選」というものがあり、奈良時代からの現存する主要な家紋類撰です。
この間もには、氏家制度の中でのステイタスとして、それを守る為に、慣習として、作られてきたのが家紋掟です。江戸時代初期か中期ごろにまとめられたものがありますが、非売品の本で家紋と対比して書かれているものです。私達でも50年前くらいには未だその言伝えが遺されていました。
今でも田舎に行けば残っているのではないかと思います。
基本は、「氏家制度」の社会の慣習、男系継承の規則を知る事で、2つの事を考え合わせればこの慣習の掟は自然に出てきます。そんなに難しいものでは有りません。
論理的です。
後は各氏の特長を把握する事でわかります。
例えば、娘が生まれて、男子が生まれず、他から養子を取ります。
この時は、未だ、男親が居ますので、家紋は維持できます。男親が無くなり、養子の時代と成りますと、今度は娘の時代ですが、この一時期、男系継承ですので男子先の養子先の家紋と成ります。
しかし、子供が生まれますが、嫡子であれば、家紋は元に戻ります。嫡子で男系になったわけですから。しかし、又、女子の娘であれば、2代続きの女系になったのですので、養子の親が生きていれば、養子先の一時期の家紋が本家紋に成ります。もう元に戻る事は有りません。養子の親が死んでも養子先の家紋と成ります。
この様に理屈に氏家制度の知識を組み入れれば自然に掟が出てきます。
ここで、氏家制度ですので、この養子先の家紋にするには、養子先の本家の了解が必要です。
了解が得られなければ、家紋を失うので、何か別のものを考えるしかありません。この時は丸付き紋も考えられます。
その子供が本妻の子であれば、本家が認めれば家紋は繋がりますが、妾腹の子供となると問題に成ります。もし、正妻に嫡子が無く妾腹に嫡子が生まれた場合は本家の了解を得て嫡子として家紋を引き継げます。本家が認めなければ、分家などの支流紋の丸付き紋にするか、別紋を作るかによります。
妾腹でも、本家筋が認めれば、同じ家紋を引き継ぐ事ができます。要は本家がどう出るかによります。
男子も女子もなく子供に恵まれなかった時は、縁者から養子を迎えるかによります。この養子が同じ門であれば問題はありません。
他人から迎えれば、次の養子の嫁との間に生まれた子供が男子であれば、家紋を引き継ぐ条件は取り敢えずは出来ますが、本家が何というかと成ります。
もしNOとでれば、この場合は、家紋を別にする以外にありません。
この様にして家紋は同族でも増えて行く事に成ります。
江戸の中期ごろからはこの慣習が無視されて行きました。本家などの氏家制度は無くなり、明治以降は全くでした。
又、主要な氏には夫々の掟があり、丸付き紋は作らないとか、副紋方式にするとか、家紋の一部に細工して類似紋とするとか、主紋の中に血縁先の家紋を小さく入れるとか、2つ紋にするとかを決めています。
例えば皇族賜姓青木氏の場合、純血を守る為に一切認めていません。そこで、この中に入らない青木氏は丸付き紋しか採用していません。つまり、「未勘家紋」と成ります。
「丸に笹竜胆紋」は未勘家紋です。純血を保て無かった、又は血縁がはっきりとしない氏である事を意味します未勘の丸付き紋としています。支流分家分流分派はこの丸付き紋にして本流の純血を護ります。これが未勘氏です。
藤原秀郷流青木氏は副紋方式ですが、下がり藤紋に丸付き紋の藤紋が殆どですが、これは藤原秀郷一門の家紋掟の内容と異なります。藤原秀郷一門主要5氏24氏はこの丸付き紋を採用していません。
従って丸付き下がり藤紋は偽と言う事に成ります。つまり、如何にも藤原北家一門の者であるかの如くみせている事に成ります。
家紋掟は各主要な氏(家紋200選)の慣習や取り決めを決め、氏家制度の仕来り慣習や系譜とともに家紋とその共通する慣習ルールを取りまとめたものです。
家紋を調べる各主要氏には特長がわかってきますので、これは偽だ何とか判ります。
徳川氏も源氏であるのと主張していますが、「笹竜胆紋」ではありませんよね。16代目の源氏なんかは無かったのですから。南北朝時代だのに。皇子を創り上げて系譜を作り上げたのです。
当時の朝廷は知っていましたので、なかなか認めませんでした。経済的圧力を加えて無理に認めさせたのです。武田氏や足利氏や新田氏も殆どの源氏と主張している氏は笹竜胆紋ではなく支流分流分派の別の家紋ですね。女系になったわけでは有りません。
ルーツや家紋や系譜は鎌倉期にまでルーツを遡らないと真実は出てきません。
3期の混乱期発祥の氏はこの前提を先ず崩す必要があります。100%とに近い状態で信用できません。それはそれなりに良いとして信用すればべつですが。
ところが、真実の書物はこの下克上と戦国時代の混乱期で消失して有りません。
次にルーツをお調べになる場合は次の事を留意しておく必要があります。
ルーツをお調べに成る場合は、この点を考慮しないと書物を見ても、何がなんだかわからないと言う事に突き当たります。これはこのことによります。江戸初期の大風潮で、自分勝手に良く見せてつくりあげたものを信用して史実としているからです。殆どです。
ある日突然、村、否、郡全体が青木氏や藤原氏を名乗ると言う事態があちらこちらでおこったのでいすから。主要な氏の「第3の氏」です。当然、家紋も同じ事になりました。
しかし、これ等の氏には、矛盾が必ずあるのです。本当の氏には歴史的条件が備わっているので、そこまで、この「第3の氏」が条件を合わせる事ができないからです。
特に、宗派などは全くこの条件に合わないひとつです。宗派は歴史と地理性と条件を持っていますから合わせられないのです。
菩提寺、宗派、過去帳などは、伝統の証ですので、第3の氏でない氏の場合は、絶対に護る条件の一つです。特に江戸初期から明治以降の発祥氏はこの条件に合致しません。
判らないとか、知らないとかは先ず少ないものと考えます。
先ずご質問の参考になればとして記述しましたので参考にしてください。ご質問があれば何なりとお答えします。
ではお便りお待ちしています。
備前青木氏のルーツを探しています
国方さん 2008/07/06 (日) 19:53 [ メール ]
こんにちは、初めて書き込みさせていただきます。
昨年父が亡くなったことで以前から気になっていた
自分のルーツを知りたくなり、家系について独自に調べていたところ、
4系統の内のひとつ母方の祖母の家系である青木氏について大変詳しい内容が記載されている
こちらのサイトを拝見し、投稿させていただいた次第です。
記述が長くなることをお許しください。
祖母から伝え聞いたところによると。
本家所在地 赤磐郡円光寺
家紋 抱き茗荷
宗派 不明です
菩提寺 不明です
和気 天神山に刀塚がある。
お納戸役として勤める。
駕籠に乗って登城していた。
近くに青木があるが、そちらは別の生まれ。
安土桃山時代にはすでに、宇喜多氏に仕えていたそうです。
浦上氏の名前もあがっていたことから、それ以前から備前に居住していたのかもしれません。
備前守、備前介として任官した藤原氏に随従した一団だったのかもしれません。
ここが重要なのですが、青井から青木に氏名を変更したと聞きました。
青井氏といえば藤原南家相良氏流で相良7代目の弟である、
相良頼範(青井氏)からの家系ではないでしょうか。
いつ氏名を変更したのか、なぜ青木に氏名を変更したのかはわかりません。
また、家紋が「抱き茗荷」であることから、近江青木氏と伊勢青木氏のどちらかと、
婚姻関係を結んだ二宮氏(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)の血統も
流れていることになるのではないでしょうか。
また、藤原一門であることから氏名を青木に変更することが許されたのでしょうか。
ここで疑問が生じるのですが、
相良7代目相良前頼は南北朝時代から室町時代前期にかけての武将なので、
それ以前の時代である藤原氏が備前守、備前介の時代には青井氏は存在しないことになります。
また兄が九州の肥前守護に任官していたことから、
この時代の備前に弟である青井氏が移り住むとは思えません。
また、「戦国時代には守護代の浦上氏が主家の赤松氏の勢力を締め出して備前国を支配した。
戦国時代末期には浦上氏の家臣宇喜多直家が主家を凌駕する力をつけ、
ついには浦上氏を追い出して、備前国に美作国と備中国の一部も加えた戦国大名となった。」
とゆう記述を考慮すると、やはり1500年代ごろ
備前に親類縁者を頼り移動したのではないでしょうか。
ここで先ほどの備前守、備前介として任官していた藤原氏の末裔が
備前に土着していたとしたら仮説としてなりたつようには思います。
しかし、宇喜多氏有力家臣団に青木氏、青井氏の記述はみつかりません。
青井氏が青木と氏名を変更したことを考慮すると、
青井氏が土着の氏族と婚姻関係を結んだと考えるのが自然な流れだと思われます。
口伝を信じるならば、青木氏青井氏が同時期に備前に着いたとは考えにくく、
青井氏は近畿圏で近江青木氏と伊勢青木氏と婚姻関係を結んだ二宮氏
(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)と血縁となり、氏名を青木に変更した後に備前に赴いた。
もしくは、備前に土着していた近江青木氏と伊勢青木氏と婚姻関係を結んだ二宮氏
(鳥羽氏、稲垣氏、小沢氏)と、後の時代に辿り着いた青井氏が
婚姻関係を結んだのではと考えられます。
ですが、その辺りの資料がなく仮説としてなりたちません。
少し青木氏から話が脱線しますが、
宇喜多氏有力家臣団に、もうひとつの家系で母方の父系である
寺尾氏の名前の記述を見つけることができました。
こちらの家系も武家であるのは間違いありません。
寺尾氏の家紋は「下がり藤」なのです。
真言宗から天台宗に改宗したことや、蔵に鎧兜、刀、などが所蔵されていたこと、
口伝で戦に破れ逃れてきたことなどから間違いないと思います。
また、家紋が藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤」であることなどで、
なんらかの関係があると思われます。
こちらの家系は祖母から聞いた話によると新田氏と関係があると伝え聞いています。
清和源氏新田氏流で寺尾氏といえば、脇屋義助の後裔となりますが、
母から家紋は変更していないと聞いていることから、
脇屋義助の後裔の寺尾氏は家紋が「結び鐶唐花」なので、「下がり藤」とは合致しないことや、
藤原秀郷一門から寺尾氏を見つけることはできず、調査を進めるのが難しくなっていました。
そこで先に青木氏を調べていると、宇喜多氏の家臣団で、
もうひとつの家系の寺尾氏をみつけることができたのです。
不思議とどこかで繋がっているものだということを実感しました。
上記のことを踏まえると、
青木氏と青井氏のつながりをどの辺りを調べればよろしいのでしょうか。
また、家紋掟や武士の氏名変更についての資料があればお教えください。
お手数ですがご教授いただけると大変助かります。
本サイトの他のレポートをお読みになれば更に良くお判りになると思います。
「お寺んち」の言葉は多分、独自の菩提寺の住職が一族を代表しての青木氏であり、この人のことを一族の方たちはこの様に読んだのだと思います。
皇族賜姓青木氏は独自の菩提寺を持つことを許された藤原氏と並んでその氏の一つです。
5家5流の皇族賜姓青木氏の菩提寺は昔は全て青木氏でした。
この事で検証がつきます。
検証には、現在何の意味も持たない一寸した事が当時の慣習から意味を持つのです。周囲に寺が無いのは、廃仏毀釈でこの様な独自の寺は全て潰される羽目に合いました。多分潰されてしまったのではと思います。栃木に逃亡したの諏訪族青木氏はこの寺を護って今でもあるとの事です。
お家の総本家筋の末裔が、現在も諏訪地方の西諏訪には諏訪族青木さんの市長が代々長を勤めていますよ。ここがお家のルーツです。研究室の右メニューの「諏訪の旅」のレポートを参照して下さい。
多分、この市長さんのお家が総宗本家の諏訪族青木氏の筋と見られます。
多分ここに、諏訪族青木氏の本寺がある筈です。ご先祖のルーツの方がわかるかもしれませんね。
更に奈良時代まで遡ると、筆者の伊勢青木氏や近江青木氏に突き当たります。
諏訪族青木さんと伊勢青木氏は江戸初期まで付き合っていた形跡があるのです。伊勢シンジケートで結ばれていた模様です。信長の3度の伊勢攻めにはともに戦ってくれた形跡があるのです。
是非ゆっくりとレポートをお読み成ってください。この様な事が沢山出来ますよ。
信長に追われて、真田氏の家来であったお家の親族らの青木氏が高野山の九度山に逃れてきていますよ。有名な真田十勇士で有名な九度山です。この真田氏の家臣の青木さんは大阪夏冬の陣で徳川氏と戦っています。この方たちもご先祖かご親類です。
研究室の検索で諏訪族青木氏と打ち込みますと、沢山この末裔の方たちとのお便りも出てきますよ。
では、お便りをお待ちしています。
Re: 群馬の青木昇さん
青木昇さん 2008/07/07 (月) 23:40 [ メールウェブサイト ]
大変詳細なご回答を戴き有難う御座いました。
菩提寺については、「浄土宗」ですか!
現在青木家の地域にはお寺はありませんが、かつては『お寺んち』と呼んでいた青木家があります。
廃仏毀釈令によるものだったのでしょか、私の記憶の中にはお寺のお堂などは残っておりませんでした。
我がルーツが是まで遡って判明した事に、驚きと誇りを初めて感じ入った次第です。
ご説明を戴き、大変参考になりました。
一族にお知らせしたいと思います。有難う御座いました。
Re: 群馬の青木昇さん
副管理人さん 2008/07/07 (月) 20:12
群馬の青木昇さん 今日は。
早速のお便りありがとう御座います。
武田氏系諏訪族青木氏の青木さんは、多くは甲斐と群馬、群馬と信濃の西境に多く定住していました。
神道の件に付いては、推測どおりで判断できました。
武田氏系諏訪族青木氏であるとしても、諏訪族と血縁を結び武田氏と血縁関係をした皇族賜姓青木氏の一族であり、男系不継で諏訪族となったものですので、お家の総本家筋では浄土宗です。
元は諏訪族青木氏ですが、武田氏との血縁で生まれた一族の方たちの定住地でした。
そして、ここに、と群馬(上野)の東側には藤原秀郷流青木氏も定住しています。
藤原秀郷流青木氏は武蔵の入間を中心に横浜神奈川を半径として円を描く様に定住しています。その外郭に位置する上野と下野の境にあります。藤原秀郷流青木氏に付いては研究室の右メニューから選ばれてお読みください。(藤原秀郷一族の生き方等のレポート)
大河ドラマの武田信玄に諏訪族青木氏と上田の真田家臣団の中にも青木氏がおりました。
お読みになって、ご質問やご不明な事はいつでもお尋ねください。
出来ますれば、研究室に、この様な内容をまとめていますので、群馬の青木昇さんの回答レポートのREをお使いになってご遠慮なくお尋ねください。
全国の青木さんも楽しみにして読んでいますよ。
では、お便りお待ちしています。
群馬の青木昇さん
副管理人さん 2008/07/01 (火) 10:58
群馬県前橋市今井町の青木一族です。現在は群馬県内の安中市にすんでいます。家紋は丸に4本角鹿の抱き角です。
ルーツは武田の武士団であったという事くらいで、よく分かりません。私は現在安中市でかつて、明治38年まで焼かれていて途絶えた自性寺焼を復興する為に、昭和54年にこの地に工房を構えました。現代の名工に認定されております。
菩提寺はなく、神道で、先祖代々の墓地です。
正確なルーツが分かるといいのですが!
群馬の青木昇さん。 今日は。ご返答は雑談掲示板からこちらに移しました。
さて、頂きました情報は、群馬の青木さんで、家紋は「4本鹿角の抱き角紋」ですか。そして、武田軍団との事ですね。菩提寺はなく、神道であるとの事。
自性寺焼きの名工とか、大変ご苦労されての復元であったでしょうね。
これからも頑張って伝統品のご継承にご盛栄下さい。
さて、お尋ねの件で、情報から検証しますと、次の答えが出てきます。
「抱き角紋」は唯一はっきりとした一族の家紋です。
それは、信濃の諏訪地方の諏訪神社を守護神とした諏訪族の家紋です。
そして、この「4本鹿角の抱き角紋」は諏訪族青木氏の家紋と成ります。
この諏訪族青木氏の事については、詳しく研究室にレポートしていますのでそちらをお読みください。
先ず、レポートしているところを紹介します。
研究室の右メニューから、「阿多倍一族関係のレポート」、研究室の検索から「諏訪族青木氏」を入力、研究室の「地名地形データーベース」の信濃地方からのデータ、研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の抱き角紋、家紋掲示板から「抱き角紋」、研究室の右メニューの「皇族賜姓族」関係のレポート、青木という地名地図、等に詳しく掲載されています。
お家の諏訪族青木氏はこの青木氏のレポートの全てに関係してきますので、全てを読まれると完全なルートの由来を把握する事が出来ます。
当然、大レポートに成りますので判らない所も出て来るかと思いますので、不明な所はこのレポートのREでご遠慮なくお尋ねください。
これは相当量のレポートに成りますのでゆっくりと楽しんでお読みください。
大まかに、諏訪族青木氏は2つに別れます。
この青木氏は、皇族賜姓青木氏5家5流の24氏の一つです。
もともとは、奈良期に誕生した大変古い一族青木氏です。
奈良時代の聖武天皇の皇子の第6位皇子が、臣下して信濃の国の守護王として赴任します。
この信濃王の第6位皇子の皇族賜姓青木氏と、土地の古い一族の後漢の渡来系帰化族との間に血縁関係が生まれます。
この信濃の皇族賜姓青木氏の分家末裔が跡目が採れずに、信濃の諏訪族から跡目養子をとりましたが、男系に恵まれず2代続きで女系となり、養子先の一族に組み込まれます。これが諏訪族青木氏です。この諏訪族は大化の改新期(孝徳天皇期)に後漢が滅び、阿多倍の首魁に率いられて17県200万人と言う大集団で大和に上陸し、瞬き間に九州全土と中国地方関西の一部を支配下に無戦の状態で置かれます。当時日本66国中32国を征圧しました。この一団は帰化を選択します。
この一部が信濃の開墾に向けられます。そして、中国より持ち込んだ大型馬を飼育して、開墾に成功し天領地になります。ここに、上記の第6位皇子が守護王として赴任し、その末裔は青木氏を名乗る事に成っていますので、信濃国府に皇族賜姓青木氏が定住しました。これが信濃青木氏です。
この皇族賜姓の信濃青木氏が諏訪地方に定住して生活していた豪族の諏訪族との間に血縁関係が生まれ、上記した女系の経緯で系列が諏訪族側になったわけです。
この様な皇族賜姓青木氏は5氏(伊勢青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏)あります。ちなみに筆者は伊勢青木氏です。この5氏は夫々順に天智、天武、文武、聖武、光仁の5人の天皇の第6位の皇子の末裔です。
初代の大化の改新の天皇の天智天皇の第6位皇子の施基皇子が臣下して伊勢王と成ります。この時、天智天皇より「この第6位皇子の末裔には青木氏を名乗ることを許されて青木氏を与えられて天皇の親衛隊として臣下します。この方式が光仁天皇までと桓武と平城の2代の天皇をおいて、嵯峨天皇からは、源氏に変名して第6位皇子は11代続きます。青木氏と源氏は天皇家の同族です。
嵯峨天皇期に詔を発して皇族以外の者が「青木氏」を名乗ることを禁じます。それが明治3年まで続きます。
信濃青木氏の分家筋が諏訪族との血縁で生まれたのが、諏訪族青木氏です。
ところが、ご存知と思いますが、この諏訪族一族は甲斐武田氏の配下に入ります。そして、この諏訪族青木氏は甲斐の武田氏の分家とも血縁して、男系に恵まれず、武田氏系諏訪族青木氏が生まれます。
この武田氏系諏訪族青木氏は甲斐の国の上田地方から群馬に掛けて(真田氏配下)に定住して末裔を広げます。
お家は、群馬に長く定住していたとすれば、この武田氏系諏訪族青木氏であると考えられます。
何れの諏訪族青木氏も元の綜紋は5家5流の家紋の笹竜胆紋です。しかし、女系と成った事から家紋が女系側の諏訪族の抱き角紋になったわけです。そこで、更にその分家筋に末裔が広がり、この抱き角紋の家紋に分家筋の丸付き紋となったわけです。
この分家筋でも本家ルートの分家の分家と成ります。
抱き角紋には、5本角(と6本角)と4本角などの分家分流分派があります。
5本角が宗家で、4本はその分家筋に当ります。更に、その4本に丸付き紋と成りますので、更に分家筋と成ります。
しかし、この後、武田氏は信長に潰されますので、神奈川、横浜と栃木方面と土佐地方に逃亡し、縁者関係にあったもう一つの藤原秀郷流青木氏の保護を受けて定住します。
神道の件は明治はじめの廃仏毀釈により神道になったもののでしょう。元は信濃諏訪神社と、この付近にある菩提寺(青木氏が住職)が5本角の総宗本家筋の元の寺であると思います。
多分、お家の分家筋の菩提寺は廃仏毀釈で無く成ったものでしょう。
皇族賜姓青木氏からすると、信濃国府付近にある浄土宗の寺が菩提寺になると考えます。
皇族賜姓青木氏は皇族なので、青木村を形成して青木氏の独自の氏神と独自の青木氏の菩提寺を持っています。例外なくこの信濃青木氏はこの二つの寺社を持っていました。宮司と住職が青木姓です。
根っからの諏訪族では有りませんので、女系化した皇族賜姓族ですので、必ずどこかに独自の青木村と独自の寺と独自の神社を持って居た筈です。
(4つ角の丸付き紋は家紋掲示板に不記載ですので、4つ角紋でご理解ください。武田氏配下後の室町期後半かに丸付き紋になった事が考えられます。)
移動するとその寺社ともに移動させますので、上田付近に浄土宗の分寺社がある筈です。
大まかには、お家の諏訪族青木氏に関しては書き留めましたが詳しくは上記したレポートをお読みになってください。どちらも日本書紀に出て来る氏です。阿多倍一族と後漢の民と、諏訪族の青木氏も出てきますので日本書紀の青木氏の関係のレポートも用意していますのでご一読ください。
左メニューから青木氏氏ログにも入れます。
大変な大由来を持ったお家であります。
研究室には元はご親族の諏訪族青木氏の方のレポートが沢山寄せられていますのでお読みください。
では、ご質問ご不明な点が有りましたら、どんな事でも結構ですご遠慮なくお尋ねください。
Re: 福岡出身の青木です
副管理人さん 2008/06/11 (水) 09:57
時代性がはっきりしないとわかりません。
つまり、ルーツの取れない第3の青木氏である可能性がありますので、先ず、時代の一番古い人明治以前のご先祖ですが、ご確認ください。
お墓のことでの情報が多いのでそれからの検証事を次に書きますのでお調べください。
領土となると大名です。大名となると先祖の事が判らない事はありません。またご本家がどこかもわかるはずです。
そうでなくても、又、名主、庄屋、郷士、郷氏でもご先祖はご本家が伝統がありますので大事に護っている筈です。この4氏のどちらですか。
お墓は、大きいと書かれていますが、その墓石は花崗岩(御影石)で出来ていますか。
御影石で出来ているお墓は昭和のはじめのお墓です。
昔は明治頃以前は墓石には御影石は使いませんし、特別な大名でも使いません。
墓の墓石には、五十塔のような墓石がありますか。これは50年以上のご先祖が祭られている墓です。どうですか。
墓石は3段になっています。(20年未満の木製の柱の仮墓)父母等の墓石、50年未満の祖父母などの墓石、そして50年以上の墓石、で出来ていますが、どうですか。
墓石の一番古い人の俗名は官職名がついていますがありますか。あれば何とかいていますか。
ご本家は何処ですか。見つけられますか。
宗派は何なのでしょうか。
本籍のところの戸籍簿の一番古い人(明治1年)の所に、平民か士分かの身分が書いています。
このところを先ず確認される事でしょう。
それ以前は菩提寺の過去帳に載っている事に成りますが、載っているか載っていないかで大きく異なります。
そのお墓のお寺は何宗ですか。そこは菩提寺ですか。
そこのお寺のご先祖の一番古い人は何時の人ですか。
寺に所属していない墓所は昔はありません。
昔は一般庶民は川原の渕に作りました。武士であれば寺の中にありました。
墓関係から以上のことでわかりますのでお調べください。
福岡の疑問がありますが、又お判りになりましたらお便りください。
Re: 福岡出身の青木です
福岡出身の青木さん 2008/06/10 (火) 11:47
お返事を頂いてから母に聞いてみたところ、
福岡のお墓がある場所一帯は、元々は領土かなにかだったようで、
いつの時代かは分かりませんが、移り住んだようです。
Re: 福岡出身の青木です
副管理人さん 2008/06/09 (月) 18:03
福岡の青木さん こんにちは。始めまして。
同じ青木サイトに良くお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
沢山の青木氏に関する資料をレポートしていますので、研究室の右メニューと全国の青木さんからのお便り質問がたくさんありますのでゆっくりと楽しんでお読みください。青木氏のルーツがお判りに成ると思います。ご質問がありましたならば、何なりとお便りください。
これからも、同じ青木さんでコミニュケ−ション致しましょう。
さて、ご質問ですが、情報が錯綜していますので、どれを捕らえて検証すればよいか判断に困ります。
先ず、家紋の「丸に三階菱紋」は甲斐の武田氏系青木氏です。家紋掲示板の1Pを参照して下さい。
つまり、天智天皇より光仁天皇までの5代の天皇が、夫々第6位皇子を臣下させて護衛役として、5つの国に配置したものです。
詳しくは、研究室の右メニューから皇族賜姓族のレポートを選ばれてお読みください。
概略は、天智天皇の第6位皇子の施基皇子が伊勢の守護王にし、その子孫を青木氏と賜姓したのが始まりです。
他に近江の青木氏、美濃の青木氏、信濃の青木氏、甲斐の青木氏があります。この5つの国に配置しました。天皇は天智天皇、天武天皇、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の5人です。この後2人の天皇を外して、嵯峨天皇からは、青木氏から源氏に変名して第6位皇子に賜姓しました。源氏は11代続きます。合わせて16代です。
お家は、この甲斐の国の守護王であった青木氏の分家が男系跡目が出来ずに、土地の豪族武田氏から養子を取り跡目を継ぎました。ところが、この養子にも男系が出来ずに、結局、女系となり家紋掟により、養子先の武田氏の分家の家紋の三階菱になったのです。
これが、武田氏系青木氏です。元は皇族賜姓青木氏の24氏です。綜紋は笹竜胆紋です。家紋掲示板の笹竜胆紋1Pを参照して下さい。「青木氏と血縁族(家紋)」のところの菱紋と笹竜胆紋のレポート参照してください。他にも沢山関係するレポートがあります。
武田氏系青木氏には武田氏系諏訪族青木氏と諏訪族青木氏もあります。
「地名地形レポート」では甲斐の地名で観て下さい。
ところが、墓所と国は福岡県です。先ずこの住所は何時の時代でしょうか。江戸中期以前の国が必要です。本籍とすると明治以降の住所ですので、これではルーツは新しすぎて出ません。
福岡には、賜姓青木氏は定住していません。
次に、墓石には古い人では佐々木氏であるとの事。
佐々木氏は、近江青木氏と近江佐々木氏(何れも天智天皇と、天武天皇の皇子の子孫)で近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子の賜姓佐々木氏です。
そして、この賜姓青木氏の一族の者が同様に男系跡目が出来ずに、同族の佐々木氏より養子を取ったが、同じく女系となり、佐々木氏系青木氏となりました。
佐々木氏には、近江佐々木氏(第7位)と滋賀の宇多天皇の皇子(第6位)の佐々木氏があります。
甲斐の賜姓青木氏の武田氏系青木氏と佐々木氏との血縁を示す史料は有りません。
ただ、氏家制度の中で同等での血縁ですので身分的にはありうる血縁です。
養子に来られたとして、この佐々木氏の人は何時の時代の人でしょうか。少なくとも室町時代以前の人である必要があります。第6位と第7位の同族であるので佐々木氏も笹竜胆紋です。
笹竜胆紋の使用できる5氏の内の1氏です。
この佐々木氏も賜姓青木氏と同じく各地に末裔が移動しています。
この甲斐にも室町期の末期にも同族の足利氏の家臣となって各地に赴任して少ないですが定住しています。
問題は福岡です。
福岡は江戸中期以降か明治以降に移ったところでは有りませんか。
佐々木氏と家紋に付いては時代性が室町期に一致すれば解決します。
福岡は何時から、佐々木氏の人は何時の人。
福岡の本家の本家は本家筋が甲斐にある筈です。菩提寺を確認すると良いでしょう。
次に本家の宗派は。
何かルーツを物語る一寸したことは有りませんか。
家紋からは「青木氏と血縁族(家紋)」を読まれるとご理解していただく事が出来ると思います。
甲斐の皇族賜姓青木氏の24氏の一つ武田氏系青木氏の分家の分家です。
そして、研究室の皇族賜姓族青木氏のレポートがたくさんありますのでまずそれをお読みください。
先ずは、上記の事をお調べになり、又お便りください。お待ちしています。
福岡出身の青木です
福岡出身の青木さん 2008/06/09 (月) 17:29
はじめまして。
福岡県出身の青木と申します。
母から、うちの家紋はめずらしいほうだと聞き、私の先祖は誰に当たるのか調べてみたくなり
検索したところ、このページに出会いました。
私の家の家紋は「丸に重ね三階菱」です。
母が言うように、たしかにこの家紋の家は私の周りではとてもめずらしいのです。
先祖の墓参りに行ったら、周りにいくつも他の家のお墓はあるのですが、
私の先祖のお墓が際立って大きいので、何故なのか母に聞いても、
母は元々は青木の人間ではないので、詳しくは分からないようでした。
そこで、どうしても知りたくなり、投稿させて頂きました。
お墓に刻まれている一番古い名前は「佐々木」だそうです。
また、お墓の場所もそうですが、我が家の本籍は
「福岡県糸島郡二丈町」というところにあります。
この情報だけで分かるものでしょうか?
宜しくお願いします。
Re: 千葉の青木です
副管理人さん 2008/06/07 (土) 07:30
>詳解ありがとうございます。家紋は「丸に違い鷹の羽」、確認できるだけで先祖は1700年頃から関宿で名主をしており、青木を名乗っているようです。平安時代、関宿には藤原秀郷の居所があったそうです。何か関係あるのでしょうか?よろしくお願いします。
>千葉の青木さん 今日は。
早速のお便りありがとう御座います。
さて、早速ですが、家紋は「丸に違い鷹の羽」との事。又ご先祖が関宿の名主で1700年代であった。
以上の情報から、考えますと、次のような事が出てきます。
先ず家紋ですが、「丸に違い鷹の羽」は家紋掲示板にもありますように、33紋中の一つで安芸の国に赴任し分家筋が定住した藤原秀郷流青木氏の家紋です。この一族は比較的一門としては新しい青木氏で、室町期に発祥しています。
平安末期に朝廷の命で藤原秀郷一門の青木氏が安芸に赴任して、土地の豪族の浅野氏との血縁をしたもので、定住した藤原秀郷流青木氏分家側に男子跡目が無くて、土地の豪族と成っていた浅野氏の分家筋から養子を取りました。一時、家紋掟により、男系筋のこの養子先の分家筋の家紋と成りますが、この養子にも男系の跡目が生まれず、結局、家紋は養子先の家紋となってしまいました。藤原秀郷流青木氏の方は女系と成った事を意味します。この場合、秀郷一門の家紋の「下がり藤紋」から外れて、「丸に違い鷹の羽」と成ったものです。
秀郷一門は24の国地方に赴任していまして、必ず土地の豪族との間に子孫を残す戦略を採っていました。一門のこの青木氏もそこで嫡男は武蔵国の入間に帰りますが、分家に当る弟筋を遺す戦術を採っていました。ところが、鎌倉幕府が樹立し、藤原一門は離職して多くは武蔵に帰りましたが、この時、残り、浅野分家との血縁を結んだものであると考えます。
その後、室町末期に何らかの理由で武蔵国の藤原秀郷流青木氏のお家のもともと居た本家筋が居る地方の野田付近に戻り、そこで、農業をしながら定住したものと考えます。ですから、野田の土地の豪族ですから、「2足の草鞋策」を採ったものでしょう。この様なパターは藤原秀郷流青木氏の場合大変多いのです。武士ではあるが、農業の手広く小作人を使って行っていたということです。
ですから名主なのです。名主はもともと土地の豪族であつたものが武士を捨てて農業をした者です。
通称、「郷士」と言います。ですから、農民でありながら、名前、家紋等持っているのです。
この武蔵、下野、付近の関東には藤原氏の「郷士」が多いのです。例えば「近藤勇」等は藤原一門の流を持つ「郷士」です。近衛軍の勤めをしていた藤原秀郷の末裔氏で「近」と「藤」で「近藤氏」の名なのです。藤原氏は役柄や土地の字を取りそれに藤原の藤を付けて何処の藤原氏か判る様にしたのが始まりです。近藤勇も大きな名主の家のうまれですね。
家紋と1700年代の名主である事から、平安期には「下がり藤紋」の藤原秀郷の主要一門の青木氏です。(「藤原秀郷一族の生き方1-13」などのレポートを参照して下さい。)
先ずはこの一族と思いますが、さて、問題は、宗派です。本来であればご本家筋は浄土宗です。
只、お家の場合には、キーワードは「安芸」です。
安芸に赴任した藤原秀郷一門の護衛役の青木氏には、この地域には浄土宗寺は有りませんでした。多くは、一門の浄土真宗にとりあえず切り替えました。中には、血縁先の宗派を使用する事に成った者もあります。
多分、確定はこんなんですが、養子血縁先の家紋と宗派を引き継いだものと考えられます。
多分、この浅野氏の分家筋の一部には曹洞宗であったのでしょう。この様なパターンは多いのです。
名主であったとする事がこれを裏付けます。名主で無ければ明治期か江戸初期の「第3の青木氏」であることにも成りますが。
前レポートの条件とはこのことを意味します。その条件(名主の郷士、時代性、場所がら)にぴったりと一致します。
宗派は曹洞宗は下級武士や農民などが入信した宗派です。江戸時代には大変な力をもちました。徳川氏も曹洞宗には苦労しています。関東では武蔵の国などで郷士を交えた武士や農民一揆などを頻繁に起しています。
名主で郷士であったお家は、この時代に農民を守る為に、この当時、良くあった宗派変えをしている事も考えられますが、ここは情報が無いので2つのうちのどちらかかを確定する事は現段階では難しいのです。
のこどちらかなのですが、仏壇がおありであれば、仏壇の形式が「浄土宗仏壇」となっているかを確認すると良いでしょう。仏壇は先祖伝来のものを長く引き継ぎますので、遺している筈です。特に本家筋では。宗派によって仏壇形式は異なります。
もし、浄土宗仏壇とすると、後者でしょう。曹洞宗仏壇では前者と成ると思います。
浄土宗は阿弥陀様ですので仏具に何らかのものが残っていることも在ります。
武蔵入間を本拠地として関宿にも藤原秀郷一門の居所や館が総宗本家の出先機関として当然ある事に成ります。これも条件ですね。
結論としては、藤原秀郷流青木氏であると観られます。
藤原秀郷流青木氏は主要9氏で、直系1氏、直流4氏、支流4氏で、116氏に広がっています。
お家は野田と成りますと、入間から外郭円の外側に成りますので、支流の分家筋に当ると思います。
本家の本家や分家、支流の本家や分家、その又分流の本家や分家と入間を中心に縁を描いて描いていますので、最も外側の護りをしていた青木一族ですね。野田付近は分流の本家か分家ですかね。
研究室に「違い鷹の羽」の一門の青木氏の投稿がありますので、検索で調べてみてください。
昔はご親類で付き合っていたことでしょう。
では、ご質問があればまたお便りください。
Re: 千葉の青木です
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 18:56
詳解ありがとうございます。家紋は「丸に違い鷹の羽」、確認できるだけで先祖は1700年頃から関宿で名主をしており、青木を名乗っているようです。平安時代、関宿には藤原秀郷の居所があったそうです。何か関係あるのでしょうか?よろしくお願いします。
Re: 千葉の青木です
副管理人さん 2008/06/06 (金) 09:40
このサイトは、青木氏のことに付いて多くレポートをしています。管理人さんと打ち合わせて沢山計画がありますが、慌てず少しづつ計画を進めています。これからもどんどんレポートしますのでお読みください。
さて、お尋ねの件ですが、
土地は千葉野田市との事ですね。
宗派は曹洞宗との事。
この二つの情報ですが、正直むずかしいですね
そこで、お調べになるポイントの情報を提供します。
既に、本サイトのレポートをお読みと思いますが、改めて書きますと次の様に成ります。
千葉には、藤原秀郷一門の結城氏がいます。千葉の結城地域です。
この結城氏は藤原秀郷一門の朝光と言う者が先祖伝来の土地として守ってきましたが、桓武平氏に奪われ、更に後には坂東八平氏に奪われて、土地を離れ一門の居る武蔵の国で生活をしていましたが、朝廷の命が下り上野の国司として赴任しました。その後、鎌倉幕府が出来て、この鎌倉幕府に一番先に合力しました。この勲功で、本領安堵され、結城を取り戻す事が出来ました。
この結城氏の護衛役を同門の藤原秀郷流青木氏の分家が担いました。
そして、ここに藤原秀郷流青木氏が住み着きました。江戸幕府になっても水戸徳川氏の家来になり、ここに定住していました。
先ず、この流があります。
次に、藤原秀郷一門は武蔵の国を領国としてそれを取り巻くように護衛役の一門の青木氏が下野、茨城、栃木、群馬等に存在し、埼玉の入間を中心に横浜神奈川を半径に円を描く様に、何重にも青木氏の本家から外円に行くほど分家、分流、支流、分派が円を描いて取り囲んでいました。
この一つに野田付近も護衛役の支流の青木氏が護っていました。
この青木氏の流があります。
特別に、栃木と神奈川に皇族賜姓族の武田氏系青木氏(諏訪青木一族)が信長に追われて逃れてこの藤原秀郷流青木氏を頼って移ってきました。
この3つの青木氏がありますが、これと、明治3年の苗字令と8年の督促令に基づき、姓を持たない一般の青木氏が、土地の青木氏に因んで青木氏を名乗りました。この地域には、この明治期に発祥した青木氏が大変多いのです。村全体が突然ある日青木氏に成るなどのことが起こりました。
この青木氏には、藤原秀郷流青木氏と異なり、幾つかの違いがあります。
それは先ず、1番目には、家紋です。藤原秀郷流青木氏は主要9氏で116氏が有りますが、この116氏の家紋は系譜が取れますので明確です。
2番目は、伝統の内の宗派です。藤原秀郷流青木氏は鎌足を先祖とする特別な家柄でしたので、浄土宗です。浄土宗は皇族青木氏、公家、橘氏などの真人族、朝臣族が入信する宗派でした。只、地方に赴任した一門は浄土寺が無いので、系列の浄土真宗に成っているものもあります。
3番目は、この藤原秀郷流青木氏には独自の菩提寺と神社を私有しています。一族の者だけを祭る寺と神社なのです。
4番目は、ですから、昔は役所の役割を担っていた寺と神社を独自にもっていますから、ルーツの系譜が取れますし、本家筋あたりでは青木氏の何らかの伝統を長く保持しています。
5番目は、古い人の官職名があるのか、何であるか、
藤原一門はこの官職名がはっきりしています。
6番目は、古い江戸期以前の由緒の有無。
7番目は、墓所の墓石の家紋と周囲の青木氏との家紋の違い
(周囲の青木氏の家紋は家紋掲示板に存在するものかどうか)
他にも判別できるものがありますが、明治期と室町末期と江戸初期の3期の混乱期の発祥の青木氏とは、とりあえずこの7つで殆どが出来ます。
(明治3年まで皇族の者が藤原氏の青木氏以外に使用の禁令が働いていてました)
先ず2番目の宗派は曹洞宗ですので、外れます。3番目も外れます。
藤原秀郷流青木氏は伝統としてこの宗派は絶対に護るものです。
ただ、1、4、5、6、7番を調べる事で変わることの条件がありますので、お調べになるとよいと思います。
本家筋の家紋はなんであるか、本家筋がどこか、何時からそこに居るのか。本家筋の曹洞宗の菩提寺のある場所、菩提寺にある「過去帳」に先祖の一番古い人は何時の時代で、誰か、官職名は。(寺で教えてくれる)
本家かお家の市役所の戸籍簿の最も古い人の明治初期の人の身分は。(士分、平民などが書かれている。)それ以前は菩提寺の過去帳です。江戸期の過去帳に載っていないのであれば、明治期の青木氏です。
先ずは、家紋で賜姓族か藤原一門かは判りますし、このどちらでもない事が判ります。
とりあえず以上ですが、先ずは上記から始められて参考にされてお調べください。
以上、不明な点はご質問してください。
では、お便りお待ちしています。
千葉の青木です
千葉の青木ですさん 2008/06/06 (金) 00:25
はじめまして、こんばんは。いつも興味深く拝見しています。
私の出身地は千葉県野田市関宿なのですか、この地域は青木姓がたくさんいます。菩提寺は曹洞宗なのですが、先祖のルーツを探る上で、手がかりはありませんか?よろしくお願いします。
Re: 台湾に渡った青木家
takako okamotoさん 2008/05/26 (月) 10:26 [ メール ]
副管理人さん、おはようございます。丁寧なお手引きありがとうございました。!非常に興味深くまた私の知り得ない日本の歴史に深く触れることができ感慨深く読ませていただきました。
そうですねー。引続き他の青木家の人々のアクセスも見ていればきっとそのうち「ええーあなた様が。。」なんて縁者がでてきそうなそんな期待をよせてこれからもアクセスさせていただこうと思います。まずは御礼まで。
Re: 台湾に渡った青木家
副管理人さん 2008/05/23 (金) 21:26
岡本さん 今日は。
ご返事ありがとう御座いました。
故国故郷を離れて、台湾でのお住まいとの事ですが、故国の事を知りたいと思う事はよく判ります。
頑張ってください。
さて、このお便りからも古い情報が有りませんので、兎も角、米子の青木氏の事に付いてご説明します。青木花子さんのご両親と成りますと、明治の方と思われます。ここに大きいお邸を持っていたとすると、その財力から考察すると、この時代からすると、一代限りでは無い事の可能性が高いと観られます。
としますと、江戸時代からと成ります。そうしますと、江戸時代では自由に一族が移動する事は「国抜け」としてきつく禁じられていました。つまり、人口が自由移動すると、その藩の人口が減り偏る事になり藩は維持できません。
先ず、米子に長年居たとする事にしますと、江戸時代は武士であったか、商人であったかと言う事に成ります。砂糖商を営んでいたとされていますので、農民ではなかったと成ります。
武士ではなかった事も、家紋が100年程度で判らなくなっている事、宗派、菩提寺が判らない等は武士ではなかった事を意味します。普通は判っている筈ですし、本家、縁者も米子にいる筈ですが判らないほどに成っているのは武士ではなかった事になるでしょう。武士ではこの辺は厳格に護っているものです。
経緯から検証すると、明治、江戸末期ごろは商人であったと成ります。
この前提で、ここには皇族賜姓青木氏の足利系青木氏(本家筋)が信濃(長野)から移動して若狭湾の日本海の陸沿いに沿って鳥取付近に定住した。
その場所は、八東郡(八頭郡)付近と島根鳥取との国境(米子)との2ヶ所です。鳥取の東西に青木村を形成して定住していた。
もう一つは、島根に赴任した藤原秀郷流青木氏の一部が島根出雲付近に定着した。
同じ一族で讃岐(香川)の藤原秀郷流青木氏が安芸、美作(広島)に移り末裔を広げた。
この藤原秀郷流青木氏が平安時代に朝廷の命で赴任して一部分家が土地の豪族との血縁で定住した一族末裔です。(土地に子孫を遺すのは藤原秀郷一門の戦略でした。赴任地24国に全て遺す)
この藤原秀郷流青木氏は藤原鎌足の8代目の子孫:詳細は「藤原秀郷一門の生き方1-13」のレポート参照)
青木氏は皇族賜姓青木氏5家5流24氏と藤原秀郷流青木氏主要9氏116氏の2つの流から出ています。(研究室の右メニューから皇族賜姓族関係のレポート参照)
これ以外に、室町後期、江戸初期、明治初期の3期に発祥した「第3の青木氏」があります。
上記の経緯検証から、商人と成りますと、この第3の青木氏の可能性があります。
青木氏は大化改新から伊勢青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5代の天皇の第6位皇子が臣下して親衛隊となり賜姓を受けて5国の守護王となった。
この皇族賜姓青木氏は、美濃、信濃、甲斐の国の土地の豪族と血縁して、近江の佐々木系青木氏、美濃の土岐氏系青木氏、信濃の足利氏系青木氏、甲斐の武田氏系青木氏が生まれました。
ところが、この信濃の足利氏で跡目相続で揉め事が起こりました。
足利氏の本家と分家とが主導権争いをしたのです。
この足利氏の分家に藤原秀郷一門が介入して、この分家を本家にする様に上記の藤原秀郷一門が動いたのです。争いの結果、結局、足利家の本家筋が負けました。止む無く、この本家筋は美濃の国から一族を引き連れて日本海側に沿って苦しい逃避行を行います。この時、この足利氏系青木氏の一部も同行します。
そして、遂に、やっと鳥取までたどり着きます。そこで分散してしまいます。それが上記した鳥取の東西に分散した一族なのです。藤原秀郷一門の勢力が余り届かない米子付近と八頭郡に留まったのです。
この米子の青木と言う地名と、青木神社はこの末裔の村と神社です。
実は、この平安時代では、独自の村と神社を保持できるのは、皇族賜姓族青木氏の特別の権利です。
嵯峨天皇の時に詔で定められました。従って、この美濃の皇族賜姓族の足利氏系青木氏にはその権利があり、ここに独自の青木村と青木神社を造ったのです。
また、この時、青木氏を皇族以外の者が名乗る事を禁じました。(4氏ある)
藤原秀郷流青木氏も皇族賜姓青木氏と母方で繋がっていますので、青木村と青木神社を作る権利がありますので各地の藤原秀郷流青木氏が造っています。
そこで、この「第3の青木氏」とは、この皇族賜姓青木氏に因んで、明治初期3年の苗字令で苗字、家紋、系譜、ルーツの持たない庶民が、寺や神社に金品を渡して青木氏の系譜を搾取してもらい届けました。(明治以前は寺神社が戸籍簿の役目をしていた)この時、金品を払える商人などが、あやかって、皇族の青木氏を名乗りました。この「第3の青木氏」は伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐、武蔵、下野、栃木等の青木氏がすんでいる土地で起こりました。
ところがこの青木氏には宗派、家紋などに矛盾が出ます。又、一族のつながりが余りありませんし、古い先祖の戸籍が有りません。寺には過去帳と言うものがあり、これが戸籍簿に成っていたのです。
従って、過去帳に乗せられる特別な者を除いて大変な為に戸籍系譜が普通は無かったのです。
100年程度しか経っていないのに、家紋、縁者、宗派、菩提寺などが不明に成っていることはこの族の可能性が有ります。ルーツが明治までしか確認出来ないのはこの青木氏と観られるわけです。
この賜姓青木氏は浄土宗ですですが、神道との事ですが、皇族賜姓青木氏の足利氏系青木氏は家紋は「二引き両紋」です。宗派は浄土宗です。神社は青木神社です。賜姓族と藤原秀郷流青木氏は浄土宗です。浄土宗はこの二つの青木氏ら一部の一族しか入信できませんでした。
もし、この賜姓青木氏か藤原秀郷流青木氏であれば、米子の浄土宗の寺に戸籍簿として残っている筈ですし、米子の青木神社にも氏子簿がありますので、確認されるとよいと思います。
神道というのは、この賜姓青木氏は自前の浄土宗寺を持ち、自前の青木神社を持っていましたので、神道なのです。
伊勢神宮は天皇家の神宮であり、個人の氏子を待っていませんので、念の為に。
宮家とのつながりを言われていますが、当時では宮家と繋がるにはそれ相当の身分家柄でなくては交際は出来ません。5家5流の賜姓青木氏や藤原系の公家程度で無くてはなりません。
もしそうであると、情報が不明と云う事はおかしい事です。商品の納入などでの付き合いはあるとしても。宮家とのつながりがあるとすると米子の青木神社にはお家の履歴がある筈です。
寺がなく、実は「神道」というのはルーツが無い事を意味しますので、「第3青木氏」のパターンなのです。
賜姓青木氏では有れば、家紋が不明かないというのは、疑問ですが、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の家紋が家紋掲示板にありますのでご覧下さい。青木ブログにもご覧下さい。
兎も角、米子の青木神社で確認されるとはっきりします。ご先祖、縁者も出て来る事でしょう。
詳しい事は研究室の右メニューでゆっくりとお読みください。御理解されると思います。
ご質問があれば、ご遠慮なくお便りください。
Re: 台湾に渡った青木家
takako okamotoさん 2008/05/23 (金) 10:04 [ メール ]
返信ありがとうございました。早速の処理に驚きと喜び、このサイトの大ファンになりそうです!
台湾に両親と共にに渡った青木花子はその後池上花子となりましたが、青木花子時代は聞いた話だと、菩提寺は神道で伊勢神宮だったと思います。家紋の話もきいたことがあるのですが、小さいころだったので記憶が甦りません。これ以前のことがなかなかつかめないのですが、米子市については米子市米子にまだ「大きな屋敷が残っていた」と12年ほど前に聞きました。ほんとに爵位のあった人の子孫なのか、あるいは天皇家にもつながるのか、歴史的に非常に興味があり、投稿しました。 台湾総統府時代の一代前の初代街長というおじいさんのことはもしかしたら青木姓ではないかもしれませんが「…トクウエモン」という名を聞いたことがあります。「青木」又は「ゴトウ?」と結びつくか。。。。兄弟は福島に一人「青木次郎兄さん」がいたはずです。
早速当サイトで検索できる地名の米子市の青木、青木神社を見てみました。これと伊勢神宮とつながりがあるでしょうか? 青木花子を生んだ両親、その先祖はいったいだれ?
なんだか情報がいろいろで、本当のことがつかめずだからこそこのサイトの意味があるのだと思うのです。
私自身は現在海外におり、結婚した相手も「青木」とは無関係ですが、日本人として、遠く昔の歴史のロマンに触れ思いを馳せたいと思うのは同じでは。。。?
Re: 台湾に渡った青木家
副管理人さん 2008/05/22 (木) 21:38
台湾に渡った青木家の青木さん。始めまして。
青木サイトによくお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、情報が余りにも個人的なものですし、時代性が新しすぎて、判断がつきません。
判りますれば、明治以前の江戸時代かそれ以前の情報があれば、よろしいのですが。
大変、失礼ですが、お役に立ちたいと思いますが、探偵社では有りませんので、是非、青木花子さんか青木正徳のご先祖の生まれ故郷、家紋、宗派、菩提寺、ルーツを証明する物などが有りましたら教えてください。出来るだけ古い情報をお願いします。
ルーツは江戸中期以前の情報が必要です。明治以降はルーツを確定する社会体制では有りませんので、ルーツは出ません。
台湾総督の情報を把握されている人はかなりの高齢で難しいのではと思います。パソコンも使えるかも疑問です。
ただ、米子市はずーと古いご先祖の故郷でしょうか。古い情報が得られましたら、まず、左メニューの家紋掲示板、地名データ、研究室のレポートで概ねに把握ください。
鳥取県の米子市では、「青木」と言う地名があり、青木神社も有ります。ここの青木さんではと思いますが。この青木氏では、ルーツが判ります。
家紋からも、地名からも宗派からも菩提寺からも、概ねわかりますので、その後にご質問ください。
その間、暫く、お家のことを知っている青木さんをお待ちしましょう。
台湾に渡った青木家
takako okamotoさん 2008/05/22 (木) 18:48 [ メール ]
こんにちは。明治時代に台湾台北市で砂糖業を営んでいた青木氏のルーツを探しています。どなたか教えてください。解っている名前は台北師範学校卒業の青木花子、青木正徳、など5人くらいの兄弟がいてその父母が砂糖業を営んでいた。その一代前は総統府の初代街長だった。青木花子の生まれは米子市。高円の宮久子様のおば様?ともなかよかったとか。。。その青木のルーツが知りたいのです。
Re: ルーツの調べ方について
副管理人さん 2008/04/04 (金) 20:58
今日は。近江の青木さん。
ルーツ調べは新しい系譜からでは絶対に出ません。
そこで、次の要領でお調べ下さい。
1 大正以後の戸籍簿などからでは無理です。最低、明治初期の戸籍簿が必要です。
江戸社会の氏家制度と、明治の民主社会との境目の「戸籍簿」が先ず必要です。
ここから、本家筋に出来るだけ戻ります。
2 より近い本家筋が出たら、その土地の宗派の寺を調べます。
本家筋の寺が見付かったら、寺にある「過去帳」を調べます。
3 過去帳が出ると・・右衛門を見つけ出す事です。
古い時代(江戸中期以前)では・・右衛門を使っている筈です。その・・右衛門の最も古い人の土地を把握します。
4 ・・右衛門は・・右衛門尉とか・・右衛門佐とか書いている人を見つけます。
この尉とか佐とかに小、大が付いている場合があります。
他に、宮廷の左右とか主の門衛の近衛軍の役職がついている事があります。
例えば、民部尉等の近衛軍の役職があります。
5 少なくとも、江戸初期前から室町中期くらいまで出るとその辺で終わりです。
それ以上は史料が、よほどのことでないと下克上と戦国時代で焼き討ちに会い消滅しています。
心得
何しろより近い「本家筋」に戻る事が必要です。
3からは、ある程度の歴史の「専門的知識」が必要です。(官職や土地柄や歴史的史実など)
その知識で「推理」を立てつぶして行きます。
例えば、推理をつぶして行くには、近江の二宮氏の末裔が鳥羽に移動して稲垣氏と鳥羽氏に分かれ、この更に末裔は伊勢青木氏との血縁して四日市付近で定住し、稲垣系青木氏が生まれます。この様な知識が必要です。
そして、伊勢青木氏につながります。そこから伊勢青木氏を更に調べます。
近江であれば、近江青木氏が滋賀に移動して、滋賀青木氏が出て、更に、この滋賀青木氏は元に戻って、その後、摂津の青木氏に移動して定住します。
滋賀青木氏の絶えた分家を、伊賀の上山郷の者が立身出世して、この滋賀青木氏の絶えた分家を奪います。滋賀青木氏の本家と2度の戦いの末に、上山氏の青木氏が出ます。
この様な知識を屈指して推理を進めます。
推理が大事です。推理が立てられなければ、ルーツは出ません。
それ程、1+1=2のようにはなりません。
東京都では出ませんでしょう。新しすぎます。古い戸籍は空襲で消えています。
結城氏は藤原秀郷の朝光が千葉の結城を平家に奪われます。しかし、鎌倉幕府樹立で本領安堵で結城が朝光に戻ります。ここから、結城氏は奥羽の結城氏とに別れますが、奥羽の結城氏は豊臣側につき滅亡します。千葉の結城氏は生残り、一部は越前に移動して、徳側に血筋として結城秀康として名を馳せます。
千葉の結城氏は光圀の頃まで家来となって生き残りました。
念のため、知識の一つとして歴史をやるものとして徳川時代の系譜は当てにならない事を知っておく必要があります。先ず100%です。県の学芸員などもよく知っていることです。
この室町末期から江戸中期の情報を下にしたものからは正しい答えは出ません。
殆どの史料本はこの範疇です。
正しい知識を獲得するには、司馬遼太郎、松本清張、山本周五郎、黒岩重五、などの歴史家の「足」で調べた歴史本を多く読むことです。そうすると、その本の矛盾が判ります。
この人たちは、この当てにならない情報を排除しています。
推理を立て、それを段々と証明していますので、その推理方法を勉強してください。
先ず、そこからスタートしないと、確実な証拠がなければ無理だと思います。
現在では、単純に誰でもが調べればわかる時代ではないと思います。
その一つとして、青木氏氏のレポートも大きな知識に成りますので、先ず踏破してください。
そして、推理を立てて、その推理の立証が大事です。それには豊富な知識です。
この場合は、現在の常識からは出ません。当時の氏家制度の仕来り、掟、慣習、常識です。
これを知れば、ほんの一寸した情報が大きな答えに成ります。
例えば、現在は自由に移動できますが、当時は「国抜け」と云う掟があり、移動は自由では有りません。等の常識の違いがあります。上記の名に成っている官職にもルールがありその一つです。
役所ではなく、図書館や歴史館などの史料や学芸員などの相談なども必要です。
兎に角、分家からは無理です。本家に戻ってください。戻る事は正しい知識が必要です。戻れなければルーツはでないでしょう。
江戸中期ごろの情報を参考にしているようですが、上記した様に搾取偏纂が殆どですので多分それでは出ません。
わからない場合はお尋ねください。
ルーツの調べ方について
青木○右衛門さん 2008/04/04 (金) 14:57 [ メール ]
こんにちは、以前投稿させて頂き、近江出身ではないかとお答え頂きました、その後ルーツを調べるために色々調査したのですが、いかんせん資料が無く、また東京都の区役所も数件回りましたが、古い資料は廃棄してる(勝手に廃棄するなっての)との事で調査が出来ません、そこで逆に古い資料から調べたら何か手掛かりが無いかと思います。どの様な資料を調べたら良いのかご教授頂けないでしょうか、宜しくお願いします。話は変わりますが、母親の父親(私の祖父)は福井県の金津出身で、山川と言います、元は茨城の結城氏の分家で、家康に結城氏が越前へ国替えさせられた時に付いて行ったとのそうです、そして結城氏の元は藤原秀郷だとの事です、どこかで繋がってるのですね。
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