※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
ワード検索 |
---|
最新記事 |
---|
はじめまして。 |
どなたかはよく判りませんが、今日は。
近江源氏佐々木流青木氏に付いてと美濃の馬渕氏の件ですが、先ず近江佐々木氏と近江青木氏と事に付いてお答えします。
佐々木氏の発祥に付いて2つのルーツがあります。
一つは近江佐々木氏、二つは滋賀佐々木氏であります。
一つ目のこの佐々木氏は天智天皇期に発祥しました。
この佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子が元祖と成りますが、第6位皇子の施基皇子が天皇より賜姓(天皇より氏を与えられて臣下して侍になり天皇の親衛隊を務めました。)を授かった後にこの川島皇子にも特別に賜姓しました。
第6位皇子が臣下する事が起こったのは大化改新の蘇我氏に牛耳られた事と財政負担からの反省からの対策でした。其れまでは第6世臣下方式でした。つまり、第4世までは皇位継承権を保持し第5世はその中間としての令に基づく慣例でした。
第6位と第6世の大きな違いです。第6位はつまり原則として第2世と成ります。
大改革です。これが大化改新です。行政財政改革です。
この結果生まれたのが此れが皇族賜姓青木氏の伊勢の青木氏です。5家5流の皇族賜姓青木氏の最も古い青木氏です。(647)
同時に近江佐々木氏です。
この二人の皇子の活躍は日本書紀にも18回程度も出てきます。大変活躍し天智、天武天皇から14人の皇子の中でも万来の信頼をされていました。天皇の相談役で補佐役を皇太子に替わって行っています。その後も天武天皇の妻の持統天皇のときにはその能力を褒め称えています。
この伊勢の青木氏(施基皇子)は軍略師(軍略所)として天皇から全ての行政の問題の解決に指名されて日本全国に飛び回って活躍しています。(川島皇子も同じ)
この伊勢の青木氏と近江の佐々木氏は1575年頃まで軍略師(軍略所)として活躍しています。
青木氏は天皇家の親衛隊でその軍略所(天皇の相談役)を担っていてた家柄です。
天智、天武、聖武、桓武、光仁の5人の天皇からの第6位皇子から伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐の王として赴任し皇族賜姓青木氏を遺してきました。
この2代後の嵯峨天皇から青木氏を変名して賜姓源氏となりました。
家紋は皇族賜姓青木氏と皇族賜姓源氏とも笹竜胆紋です。
この5家5流の青木氏は24氏の支流に広げています。
この時、第7位以降の皇子は下俗(比叡山や門跡寺院などの僧侶や一般の者になる事)する事に成っていましたが大変有能であったことから特別に地名の佐々木を採り佐々木氏と賜姓しました。
此れが第1の近江王の佐々木氏です。(647)
二つ目は宇多天皇期に同じ第6位皇子に佐々木氏を賜姓し滋賀王となり滋賀の佐々木氏を発祥させました。
お尋ねはこの一つ目の近江王の近江佐々木氏です。
次に、近江青木氏の件ですが、この青木氏は天武天皇期に第6位皇子を近江の皇族賜姓族の青木氏として臣下させました。(この時、血族結婚である為に施基皇子も川島皇子も天武天皇は14人のうちの皇子として扱われていました。)
ところが、この皇族賜姓青木氏は同じ天智天皇の川島皇子の佐々木氏との間で勢力争いなどがあり、一部は滋賀に移りました。滋賀王の青木氏となり暫く定住していました。
ところが、再び一部を残して一族は近江に移動しました。
矢張り何らかの理由で摂津王として摂津に移動しました。
この残った一部の分家の滋賀青木氏の分家から分派した青木氏を、上山と名乗る者がこの子孫が途絶えた分派青木氏を乗っ取ってしまいました。そこで、この途絶えた分派と分家の本家との間で争いが起こりこの本家が負けてしまいました。
この上山の青木氏は勢力を拡大し出世して大勢力となりました。(当時は家柄が皇族賜姓青木氏か藤原氏か藤原秀郷流青木氏の系譜の持つ家柄でないと国司とは成りえませんでした。)
そして、この上山の青木氏が10国の国司や押領使になり赴任しました。この時に各地に子孫を残し土地の豪族と血縁して上山系の青木が増えました。
(この上山氏は伊勢北部伊賀地方の上山郷の出で、立身出世したものです。)
近江王の賜姓佐々木氏と、同族の近江青木氏が滋賀から戻り血縁をし、この青木氏の方が男系跡目が出来ずに2代続きの女系となり家紋は同族血続一族門であるので変紋はせず佐々木系青木氏となりました。家紋は矢張り笹竜胆紋です。(近江佐々木氏も笹竜胆紋)
この佐々木系青木氏は近江に残り本家近江青木氏は摂津に移ります。
次に、この皇族賜姓青木氏の後の皇族賜姓源氏は嵯峨天皇期から16代(実質11代の花山天皇まで)まで源氏を発祥します。
この源氏8代目の清和天皇の第6位皇子の経基王が賜姓を受けて臣下し清和源氏と成りました。
この2代後の源の頼光が攝津、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の国司を務めました。
(甲斐は後に弟の頼信に譲り、頼信はここを拠点に関東を制覇しました。)
この時、この攝津の青木氏と摂津の源氏と血縁をし同族血族の血縁をして摂津源氏系青木氏が発祥し同じ様に各地で血族結婚を繰り返し勢力拡大を図りました。
この時に近江でも同族血族結婚が起こり近江源氏佐々木系青木氏が発祥します。
つまり、青木氏であり佐々木氏であり源氏である同族賜姓族の3つの血族結婚が起こったという事に成ります。
佐々木氏系は2つの地で、源氏と青木氏は5つの国で起こりました。
当時は血族結婚はこの皇族身分では血筋の純血性を守る為に普通の事でした。平安中期まではこの血族結婚を繰り返しました。
青木氏は2つのルーツから発祥しています。一つは5家5流の皇族賜姓青木氏24氏と藤原秀郷流青木氏の主要9氏の116氏があります。
藤原秀郷流青木氏は藤原鎌足より8代目で第3子の千国から発祥しています。何れも母方藤原氏の血筋からの出あります。
この2つの青木氏はそのルーツは明確であるし一定の条件を満足しているものではっきりしています。
ところが、江戸の初期前後の混乱期と明治の初期の混乱期と苗字令にてこの高位の青木氏を系譜偏纂と搾取で発祥しています。
江戸初期前後の青木氏は庶民から侍になり出世して青木氏を名乗った第3の青木氏が生まれています。この時の青木氏には完全に矛盾がありますし系譜は不明確です。100%に近くこの青木氏はルーツは確定不能で信用出来ません。
明治の青木氏は当時は神社や寺院が戸籍簿の役目を果たしていましたのでここに高額の金品を渡して系譜家紋などを偏纂して明治政府に届けました。この青木にも当然矛盾があります。
この2つの第3青木氏には宗派と家紋が異なっています。
上記の2つのルーツの121の青木氏は浄土宗ですし自らの菩提寺と村を持っています。
平安初期から浄土宗にはこの高位のものしか入信できませんでした。したがって寺数も少ないことから各地にはなく上記の様な土地柄にしか有りません。この状態は江戸中期まで続きました。
徳川幕府は特別にこの浄土宗を奨励しました。しかし、入信できる人はある程度の身分のある侍でした。ですから寺の戸籍簿の過去帳も第3の青木氏には江戸中期くらい以降しかありません。
ですからせいぜい14−15代程度です。
明治以降は3代程度ですしか判らないというのが現状であっても搾取で同じ系譜が2つも3つも出て来る始末です。
江戸前後の第3の青木氏は概ね5つ程度の大一族が確認出来ます。一部2つの青木氏は豊臣と徳川時代で小大名に成っています。
家紋に於いても一家でも家紋を搾取しても親族や本家が違うと言う事が確実100%で起こります。
そこでよく似せた家紋にしています。
上記した2つの正規の青木氏は全部で33文様となり家紋にしては121と成ります。
この家紋の土地柄もはっきりしています。
また、青木村も形成しています。
さて最後に、馬渕氏の件ですが、この馬渕氏は上記の皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の中にはありません。鎌倉期前後には氏としてはせいぜい40−200程度です。
家紋200選というものがありこの中になければ第3の青木氏です。
奈良期40と平安初期は200程度、鎌倉800程度、室町期40程度、江戸期2000、明治で8000程度と成ります。
この馬渕氏にかかわる青木氏と馬渕氏は江戸期からの氏で室町期前には確認出来ません。
美濃の安八郡の件ですが、青木氏の地名地形データーベースに詳しく記載していますので参照して下さい。
その他の青木氏に関わる内容は「青木氏と血縁族(家紋)」や「藤原一族の生き方」などに詳しくレポートしています。
近江の佐々木氏や青木氏に付いても「皇族賜姓青木氏」関連のところに詳しくレポートしています。
系図に付いてはプライバシーに関わることなので掲載は出来ません。
馬渕氏の菩提寺に行かれて過去帳をご覧になると判明します。
一族の菩提寺を持っていないとなりますと判るのは過去帳では江戸中期くらいまでと思います。
また、インターネットでは室町期からの系譜などが記載されていますが余り信用は出来ません。
下克上の混乱と戦国時代の混乱で規範は完全に崩壊していますので。
豊臣や徳川の系譜なども全く搾取であるくらいですから。
しかし、江戸中期からのルーツはルーツで尊重するべきですが偏纂と搾取がない信用できるものは鎌倉期までです。下克上の持つ意味をご理解下さい。
念の為にこの近江の青木氏は豊臣時代に他の族が本筋の青木氏を奪い取る為に戦いを2度し本筋の青木氏が負けて奪い去られています。この時は秀吉もこの戦いを容認しています。家柄をよくしないといい役職に付く事は出来なかつたのです。この勝った近江の青木氏は豊臣徳川の戦いに参加しています。後に徳川によって滅ろぼされます。
負けた青木一族の氏も滅びました。
ですから、近江青木氏(佐々木氏系含む)は本来は滅亡しています。
何ゆえに存在するかは判りません。ここが江戸明治共に第3青木氏のねらいどころです。ゆえに系譜等を発見する事は難しいと思います。
後に再び江戸初期前後にこの近江の青木氏の件で二つの名乗った青木氏が紀伊の守を名乗り本物から指摘されてばれた事を隠す為に”後勘に問う”として逃げました。
非常に難しい問題ですので充分にレポートする事は出来ませんが何とかお判りいただけましたでしょうか。
何かご質問有りましたらお尋ねください。その前にゆっくりと他のレポートご参照ください。
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/08/11 (月) 08:46
讃岐の資延さん 今日は。
海外の勤めたいへんですね。かんばって下さい。
そうですね。段々とわかってきましたね。
青木サイトがお役に立ててよかったです。
藤原一門であるとの事ですが、藤原秀郷一門では青木氏のサイトに沢山のレポートが用意されていますので、ゆっくりとお読み頂き、そこから又更にルーツが拡がると思います。
先ずは藤原秀郷一門の讃岐籐氏の一族である事が判っていますので、この一族のことは完全に把握できると思います。
資延氏の原点も近衛氏の末裔白川氏から発祥していることもわかりますし、確実な系譜も取れますので、後は讃岐での動きの状況を把握されると良いのではないでしょうか。
何はともあれ、お役に立ててよかったです。これからも何なりとご質問ください。
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/10 (日) 05:56 [ メール ]
管理人様、お久しぶりです。
北海道の資延様、始めまして。
最初に書き込みしました、讃岐の資延です。
久々に見てみたら、反応があってビックリです!!
まだあれから日本には帰っていないのですが、なんだか情報が増えていて、嬉しい限りです。
青木様関連にも関わらず別の姓なのに、いろいろ丁寧にお答えいただいてありがとうございます。
資延姓についてのルーツをもっと何か知りたいという気持ちがどんどん強まりますね!
ここ(海外では)インターネットで探す以外に方法がなくてウズウズします。
メールアドレス入れましたので、気が向いた時にでも連絡くださいませ。
失礼いたします。
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/04/08 (火) 19:23
資延さん。 今日は。
最初の資延さんと違う方で同姓の人ですか。
同姓の方ですと、奇遇ですね。
最初の方は投稿されて、現在、海外ですね。
帰られたらメールいただけるでしょう。その時をお待ちください。
青木氏サイトが、資延氏に付いてのルーツの簡単な検証レポートを参照していただけてると思いますので記述しません。
それでは。又、お便りください。
Re: 青木ではないのですが・・・
資延さん 2008/04/08 (火) 17:57
自分の苗字のルーツが知りたく、“資延”で検索したところ、このサイトを発見いたしました。
“資延敏雄”は私の祖父です。
私は、自分専用のノートPCがないので、会社のパソコンからメールしております。
もし、この文面にお気づきでしたら、メール投稿頂ければと思います。
Re: 家系図の写し届きました!
副管理人さん 2008/12/04 (木) 07:20
讃岐の資延さん 今日は。
そうですか。家系図がとどきましたか。
大変興味がわきますね。
参考までに、
漢字との事ですが、簡単な「返り点」を入れた漢文形式に成っていると思いますが、この程度と漢文内容でも何時に誰が作った系譜が判ります。
系譜が継続して代々継ぎ足してかいたものかも大きな差となってきます。
殆どの系譜はある代の一人が書き上げたものが多く、また、専門の職人に書かせたものが多いのです。内容などにも時代性に食い違いなどあり、系譜に関してはこの様に判断する材料があります。
先ずは、ゆっくりと解き明かす必要があります。
ではお便りお待ちしています。
家系図の写し届きました!
讃岐の資延さん 2008/12/03 (水) 06:10 [ メール ]
副管理人様、いろいろとお世話になりました。
北海道の資延さんとやっと連絡がとれまして、実家の方に写しのコピーを送っていただきました。
ということで私はまだ直に見ていないのですが、母によると難しい漢字だらけでどこまでが名前や戒名やら、読めないわ〜と苦戦していました。
鎌足さん以前のもあるようで、その辺はもう現代の名前とは相当かけ離れているようです。
私も見れるのだろうか心配ですが、妹が更にコピーしてこちらに送ってもらう予定なのでそのときはまたこちらにてお知らせさせていただきますね。
青木様の資料にお役立ていただければ何卒幸いに思います。
Re: ただいま戻りました
副管理人さん 2008/11/17 (月) 10:09
お久しぶりです。
お帰りなんさい。
さて、系譜がお判りに成るとの事、よかったですね。
又、色々と判りましたらお便りください。
先日の12日付けのご疑問のことにも多少専門的な事も絡んでおりますのでお答えする用意があります。
先ずは系譜を観られる事が肝要と思いますが、系譜は何処でもマジックがありますのでそのたねあかしが必要です。その上で12日のご疑問にお答えします。
では又お便りお待ちしています。
Re: ただいま戻りました
讃岐の資延さん 2008/11/17 (月) 08:22 [ メール ]
>写しを送りますので、電話 ファックス 番号を教えてください。
本当ですか?!ありがとうございます!
ここに情報を公開するわけにもいかないので、
お手数ですが、go_on_rock@yahoo.co.jp まで一度メールいただけませんでしょうか?
お気遣いいただいて、恐縮です。
ただいま戻りました
讃岐の資延さん 2008/11/12 (水) 02:50 [ メール ]
お久しぶりです、管理人様、副管理人様、功様。
日本から戻ってまいりました。
10月というのに、西日本は夏のようでしたね。
さて、家系図の写しですが今回は手に入らなかったのですが、母方の親戚(観音寺の近く)を尋ねて家系図の話をした際、なんと意外なところから貢さんの連絡先がわかり、来年にはどうにかがんばって入手できそうです。母方の方からとは全くの灯台元暗し&観音寺ほぼ皆親戚?という感じですかね。
庄屋の話も聞きました。資延家には高価な陶器などもたくさん家にあったらしいのですが、長曽我部軍が攻めてくるということで隠してはみたものの、結局ほとんど破壊されてしまったとか。
ネットでいろいろ見ていて疑問に思った点があったのですが、長曽我部時代に既に庄屋の資延家が存在したのであれば、久我や近衛家のほうは通っていないと思うのです。
もう一つ、あと近衛家の方にいってしまえば秀郷さんは通らないことに気づきました。
藤原房前さんから近衛のほうであれば真楯と、秀郷にいく魚名に分かれてしまいます。
と、私のような素人目にはややこしいです。早く家系図が見れればいいのですが。
功さ〜ん、見てますかー?
とにかく大幅に進歩しましたので。
お伝えさせていただきました。
今後ともまたよろしくお願いします。
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/08/26 (火) 08:13
これからも、ご質問等有りましたら、お尋ねください。
青木氏として可能な限りにご協力いたします。
このサイトには、藤原秀郷一門と判った限り、お家の藤原秀郷の一門の史料がたくさんありますので、ご先祖がどの様に活動されていたかが判るかとも思いますので、研究室右メニューから選んでお読みください。
ご先祖の苦労などがお判りになると思います。ゆっくりと、楽しんでお読みください。
青木氏のブログにも掲載しています。
実はこの青木氏サイトは最近口コミか何かで鈴木氏を始めとして他氏の方からの問い合わせが多くなりまして驚いている次第です。
鈴木氏などはこのために、本ブログに鈴木氏のルーツ史料を提供した所ブームに火がつき毎週50件くらいもサイトに入りレポートを読まれているようで、そのレポートの地理を頼りに鈴木ルーツの神社には毎月500人くらいの全国からの訪問者が来るように成ったようです。
これからも、せいぜいかんばるつもりです。
まぁ、兎も角も、本サイトの目的の「先祖に対する尊敬=自分の尊厳」を知ってもらう為に、世に不足する史料を提供しているものですので、管理人さんの同意を得て可能な限り対応するつもりでいます。
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/26 (火) 06:43 [ メール ]
こんばんは副管理人様
はい、以前にたぶんそのような家系ではと憶測していただきました。
まさか本当にそんな風に繋がっていたとはですね!
背筋の伸びる思いです。
青木様とは関係のない苗字にも関わらずいろいろ助けていただいてありがとうございます。
出会うはずもなかった親戚とも連絡が取れるとは、このサイトのお陰です。
散々書き込みをさせていただいてしまったので、青木様にとって資延家も藤原家を知る上での資料の一部になれれば光栄です。
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/26 (火) 07:01 [ メール ]
功様、ありがとうございます。
やっと繋がりましたね!!
ただ寿恵子ばーちゃんは父親の兄弟(叔父達)のことは殆ど覚えていないらしいです。
実さんの名前、出ましたね。
彼は観音寺で、父の葬式や親戚の法事などで何度かみかけたことがあります。
私が家系図持ってるかどうかで電話したらビックリするでしょうね。でもやってみます!
あまりにも個人的になってきてしまいましたので、気が向きましたらメールでもくださいませ。
メールのところにメアド入れていますんで。
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2008/08/25 (月) 07:32
今日は。始めまして。資延さん。
当サイトの福管理人です。
ご不明点がおありの様ですね。
ご不明な点は、第2番目と4番目と6番目に書いていますのでお読みください。
藤原氏の末裔の公家最大の力を誇る近衛一族の末裔で白川氏の子孫です。その中に資延と言う者ただ一人あり、その者が入山し還俗して四国に渡り資延氏(僧が還俗する時は新たに姓をつけます)として土地の酒井氏(剣片喰)と血縁して子孫を遺したのが、資延氏です。
系譜の概容は書いていますが、(個人情報ですので書けません)詳しくインターネットでもお調べください。藤原氏-近衛氏で白川氏筋でその個人がでると思います。
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/24 (日) 22:25 [ メール ]
こんにちは功様!
私が子供の頃ずっと祖母だと思ってきた、正義(祖父)さんの妹、寿恵子ばーちゃんに電話をして、その先代のお名前までわかりました。
「縫五郎」だそうです。私から見れば曾祖父ですね。さすがに彼は明治生まれでしょうね。
彼のお名前は家系図にありますか?
本当にこれ以上は市役所に行くか、観音寺のどこかで家系図を見なくてはわかりません。
うちは天台宗、家紋は丸に剣方喰、ビンゴです。
私はともこと申します。今後ともよろしくお願いします。
私が興味があるのは、藤原から資延の間の苗字の移り変わりです。どこがどうなって資延になったのか知りたいです。
寿恵子ばーちゃんなら貢さんのことも知ってるかなと思ったのですが、わからないとのことです。
それでは、また!
Re: 青木ではないのですが・・・
讃岐の資延さん 2008/08/23 (土) 06:09 [ メール ]
副管理人様、資延功様
いろいろな情報提供、重ね重ね誠にありがとうございます!
去年秀郷さんの本を3冊ほど注文して難しいながらも読み漁りましたが、
全くもって資延とか出てこないので、父が見たものは本当だったのかと長年不思議に思っていました。
本をインターネットで注文したためその一冊は義太夫のもので更に意味不明でした(笑
母に尋ねたところ、貢様のお名前は聞いたことがないと申しておりました。
観音寺の親戚に聞けば絶対知ってると思うけど!とも。
観音寺に、しかもなんらかの形で親戚とはいえ会った事のない人のとこまでいって、お邪魔できるかどうかですね。
うちの祖父、資延正義は昭和50年8月に亡くなったらしく、私は既に生まれていたとはいえ、祖父の記憶は全くありません。今の段階ではうちの母も誕生日もわからないとのことです。たぶん大正生まれではないかと思いますが。正確に知るには除籍謄本取るしかないですね。
功様の家系図の写しには「正義」の名前はありますか?
ちなみに祖父は大阪に出て家族を作ったらしく、うちの父は大阪生まれ、成人するまで大阪育ちです。
それでは近いうち、また。
失礼します!
Re: 資延 家 系図
讃岐の資延さん 2008/08/10 (日) 06:02 [ メール ]
初めまして、功様
讃岐の資延です。
観音寺市の資延家の方々とは法事や父のお葬式でお会いしているはずです。
資延貢様ですね。明日にでも母に母に聞いてみます!!
Re: 資延 家 系図
副管理人さん 2008/07/12 (土) 09:24
資延功さん 始めまして。
ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
さて、資延氏のつながりが少しづつ解明されてきてよかったですね。
青木氏サイトでも、専門では有りませんが、(調べましたレポートを既に記載していますが、)藤原氏から資延氏が出ている事が判っています。
功さんのお便りから四国の綜紋「下がり藤紋」の剣片喰紋の氏で有る事が判明しましたね。資延頁さんが四国讃岐に住んでいてその家系図をお持ちとの事ですね。綜紋「下がり藤紋」剣片喰紋等は讃岐から出て、瀬戸内を支配した大豪族で廻船問屋を手広く営み明治維新頃まで続いたと成っています。ここには下がり藤紋を綜紋とする剣片喰族等の讃岐籐氏の一門の藤原秀郷流青木氏が居て、その勢力は美作、備前、備中などに子孫を広げています。
従って、この一族とは同族に当る事に成ります。比叡山を下山して讃岐籐氏を頼り讃岐に定住した讃岐籐氏の末裔が資延氏をなのったとすることに成りますので、貴殿のお便りと当青木氏のレポートと一致します。これで青木氏のレポートつなぎ合わせれば平安時代から現在までの系譜が取れた事になりますね。
青木氏サイトがお役に立ててよかったです。突き詰めれば、現在、現存される綜紋「下がり藤紋」の剣片喰紋等の讃岐籐氏の藤原秀郷流青木氏とは縁続きであったことを意味しますね。(研究室の検索で「讃岐の青木さん」のお便りなどをお読みください。阿波、土佐にもこの一族の方たちからのレポートも沢山ありますよ。
お便りからすると、この讃岐籐氏と藤原秀郷流青木氏の末裔のお家が大廻船問屋を閉めたときに同一族の資延氏が北海道に渡った事になりますね。讃岐籐氏のこの青木氏とも繋がりを持っていて運命共同体として働いていて、それが理由で北海道に移動の仮説がうまれますね。
又何か有りましたらお便りください。お待ちしています。
資延 家 系図
資延 功さん 2008/07/11 (金) 11:01
始めまして、明治30年初期頃北海道に渡った資延の子孫です、 資延家の先祖の系図の元本は現在四国香川県観音寺市 資延 貢 さん宅に有ると亡父から聞かされて居ります。
北海道に渡った、先祖は未開の地を開拓をしながら、寒冷地にて熊や豪雪と戦いながら苦労をして、子孫を残し天国へと帰って逝つた事でしょう。心のよりどころとでも言いますか資延家の系図の写しは持参している、方々も居る様に聞いて居ります。
資延 貢さん勝手にお名前を借りてゴメンナサイ。
私は資延傳四郎ー資延宗蔵ー資延伊勢蔵ー資延金治ー資延高之雄ー資延営ーの子孫です。
(藤原鎌足 第45代資延営と記して有ります。)
気の向くままに亡父の言葉を思い出して記入しました。平成20年7月11日
Re: 青木ではないのですが・・・
資延さん 2008/04/10 (木) 18:22
資延様
書き込みを拝見しメールしております。
私は資延敏雄の孫で侑子(ゆうこ)と申します。
疎遠になっているのは、多分北海道在住の資延家(うち)であると思います。
いつかお会いできれば良いですね。
お気づきでしたら、お時間のある際に、このサイトに書き込みして下さい。
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2007/12/18 (火) 16:23
天台宗ですか。
比叡山の天台宗に当時は藤原氏や青木氏の末裔が僧として入山しましたので、又一歩進みました。
これが他の宗派でしたら問題でした。
当時は、天皇家を始めとして血筋を引く一族は、全て皇位継承の外れた者は門跡院か比叡山の天台宗に入り、多くは残り、そこから学を修めた者は下山して自分の宗派を開きましたし、弘法大師などに師事したのです。
弘法大師の真言宗も、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗など天台宗から出ています。
本来、藤原氏と青木氏等の高位の者は、浄土宗と限られていました。しかし、お家は天台宗又は真言宗と成りますと、直接個人が帰依する事は出来ず稀ですので、殆どは学僧として入山し、後に還俗して、お家の四国の縁の弘法大師の真言宗に帰依したと考えられます。一種の仏教の大学院の役目をしていたのです。
四家の藤原氏のままでは、浄土宗と成りますが、この点が僧として違いであるのです。
前回の推測は慣習の経緯で当っていると思います。
前記した藤原氏の近衛氏から続いた末裔であろうと思います。
ではお帰りに成った時には又お便りください。
再び失礼します。
母親に問い質したところ、うち、資延家は天台宗とのことです。
大元は比叡山延暦寺にあるわよー。とゆっていました。
元は真言宗から来てるから、同じ、同じ。唱えていることは同じよー(?!)
みたいなことを口走っていました。
もう私はこれ以上???です。
父の生家でもある、遠縁になってしまっている資延家があったことを思い出しました。
今度の帰国の際は勇気を振り絞って是非尋ねて見ます。
今回報告まででした。
ではまたいつか失礼させていただきます。
すけのぶ
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2007/12/13 (木) 16:46
ご返事痛みいります。
ご参考までに、お家の宗派と菩提寺とを確認される事をお勧めします。
(特に本家筋が正しく出ます)
次に仏壇がお有りのはずですので、何派仏壇かもお調べになると進むと考えます。
次ぎに明治維新以降の戸籍簿では出ませんので、お寺の「過去帳」に記録されていますのでお調べください。(江戸以前はお寺が戸籍を管理していました)
藤原氏一門の者は寺に僧として入山する事は慣例で、特に妻の妥女クラスの子供の場合は一族の菩提を祭祀する役目を担う事が多かったのです。
藤原氏のような高位の家柄では4階級に妻が別れていました。嫡子と成る者が多くいる場合、経費が掛かるので3番4番目の妻の子は僧になるのが慣例でした。青木氏や天皇家などでも僧と成りました。何かある場合は還俗します。
僧になって各地の関連の寺に赴任移動しますので子孫が各地にできる事に成ります。
多分元は同じと考えます。
参考として、「資延」という名の藤原氏の子孫がいます。
近衛尚通-久我春通-通監-通世-秀通-英通-通条-白川雅富-資顕-資延
氏としては、藤原氏-近衛氏-久我氏-白川氏-資延氏となったと観られます。
白川氏一族には資延の代には嫡子が多くいます。そして、傍系です。資延の兄弟の雅言がいますが、この者も子孫は切れています。上記の推測は当っています。
藤原摂関家の近衛氏の末裔で久我氏となり、後に白川氏となり、白川資延がいます。
この資延で末裔は切れています。
この事は、仏門に入り子孫を遺さずの形をとった(系譜抹消)。ところが後に還俗したので藤原氏の白川氏を名乗れず、せめて俗名の資延を姓にして、下族(婚姻)して子孫を遺す結果となった氏と見られます。そして、阿波の土豪の酒井氏と血縁するが、男系不継で養子先の家紋となったと観られます。(青木氏ではないようです)
以上ですが、これを確定するには、上記の宗教関係の事の情報を先ずお調べになる事だと思います。
そこから確定は更に進むと見られます。
では、又、お便りください。
Re: 青木ではないのですが・・・
すけのぶさん 2007/12/13 (木) 08:41
副管理人様
お返事大変ありがとうございます!
はっきり申し上げまして、感服いたしました。
真言宗ですか・・・藤原家からどなたか仏門に入ったんですね。
母には一応聞いてみますが、ただ父方(資延家)の祖父も叔父も父も亡くなっておりますので、少しでも詳しく聞ける人が周りにいません。これ以上は戸籍探索していくしかないようですね。
現在は海外在住になってしまいましたので、一時帰国した際にでもがんばってみます。
従兄弟にも興味あるか聞いてみます。
ここまで推測していただけるとは一人で探索しているよりよほど謎が解けました。
青木さんとも繋がっているらしいとのことで、ここに立ち寄ったのも何かの縁ですね。
今後ともよろしくお願いいたします。
すけのぶ
Re: 青木ではないのですが・・・
副管理人さん 2007/12/11 (火) 09:41
資延さん 今日は。はじめまして。
本サイトにようこそお越し頂きました。
これからもお尋ねくさい。
さて、お尋ねの件ですが、青木氏ではないので、残念ながら、お答えできないのですが、折角のお尋ねですので、予想できる範囲で推測の域は出ませんがお知らせします。
先ず家紋からですが、
この剣片喰紋は酒井氏の家紋です。
この酒井氏と血縁をした青木氏があります。この青木氏は武蔵の国の藤原秀郷流青木氏です。
藤原秀郷一門は藤原氏四家の内最も勢力を持った「北家」でこの北家のなかでも最大勢力を誇った一族です。この一族には主要5氏があり、青木氏と永嶋氏と長沼氏と進藤氏と長谷川氏です。
この5つの藤原氏から24氏に広がっています。
青木氏は116氏に広がっています。
(研究室の所に「藤原秀郷一門の赴任地と発祥氏と主要5氏の分類」の所にレポートしてまいすので参照してください。また、「藤原一族の生き方(1-13)」にも詳しくレポートしています)
この中には、確かに剣片喰紋の氏はありますが、概ね藤原秀郷360氏の中にはお家の資延氏は出てきません。
藤原秀郷一門が24の国地方に朝廷の命で赴任していますが、この国と地方に地名と氏名が見付かりません。全国の中でも見付かりません。
ただ、氏はある特長で存在しています。
それには、先ず、真言宗の弘法大師の密教の住職の名に多いことです。
次に、剣片喰族の家紋は四国阿波と讃岐と武蔵入間に存在する多い家紋族です。
更に、酒井氏も元はこの四国阿波の豪族でした。
この3つの特長は四国で一致しています。
4つ目は、弘法大師は四国の住人で、四国巡礼の所です。更に和歌山の高野山に真言密教を開山した僧です。
5つ目は、この阿波と讃岐は、藤原秀郷一門の赴任地です。特に、この二つの国には非常に藤原秀郷流青木氏が多いところなのです。宗家の藤原氏も「讃岐籐氏」「阿波藤氏」と呼ばれて多いところです。この地の豪族はこの藤原氏の一門の支流族です。
特に、傾向として、阿波が剣片喰族の多いところです。
お家も讃岐だとしますと、一つ浮かんでくる事があります。
宗教関連の特に真言宗の住職です。
それは、阿波と讃岐の藤原氏をともらう菩提寺の住職に一族の者が成り(一族から出す慣習あり)この住職が元の藤原資延(青木資延)の名を採って、後にそれを氏名としたと思われます。
現在でも全国に拡がった資延氏を調べますと多くはこの関連の氏のようです。
この資延氏が剣片喰の家紋を持つ事は、後にこの寺関係者が還俗したときに元の家紋と名を使用したと見られます。
「藤原(青木)の朝臣左(右)衛門尉資延」と名乗っていたと考えられます。右衛門と左衛門は朝廷の官職名で藤原氏と青木氏とは基は皇族出身ですので朝廷の天皇の親衛隊でした。
この為に藤原氏と青木氏はこの親衛隊が守る宮廷の門衛で、右衛門と左衛門を使ったのです。その後ろか前に「佐」か「尉」の階級職名をつけました。
「北面武士」と「西面武士」が総称です。
青木氏も同じ一族の者が菩提寺の住職を務めるのが慣例です。
と言うのは、この賜姓青木氏と藤原氏は天皇家との血縁が特に強い2大氏で、この氏は真人族に次ぎ朝臣族という高位の身分であるので、自らの菩提寺と氏神を持つ事を許されていました。
青木氏はこの二つの氏から出ています。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏です。
この様な背景から、四国阿波藤氏か讃岐籐氏の一族の氏で酒井氏の血縁を受けた一族である可能性が高いと見られます。この四国の寺には青木氏の住職が藤原氏一門の菩提寺を多く勤めていましたので、場合に依っては、藤原秀郷流青木氏の116氏にはないのですが、江戸中期以降か維新初期の苗字令で四国の青木氏から出た氏の一つである可能性があります。
つまり、青木氏を名乗らず、一族の藤原姓の資延の名を姓にした可能性があります。
全国に広がっていることから考えると江戸中期となるでしょう。
研究室の検索から、剣片喰紋の青木氏の投稿も参照して下さい。讃岐の青木さんも阿波の青木さんの投稿もお読みください。このどちらも剣片喰紋です。本家は武蔵の国にあります。
この予想は大きく外れては居ないと観られます。情報がもっと多くあれば更に確定する可能性が潜んでいます。
どんな事で小さい事でも大きな情報となるのがこのルーツのポイントなのです。
当時の慣習から、大きな意味を持つのです。
特に、ご先祖に、この宗教関係の何かのお話が伝わっていませんか。
元は、青木氏であるかも知れませんね。可能性は否定できません。
有りましたら、ご遠慮なく又お知らせください。いつでも、ご協力申し上げます。
青木ではないのですが・・・(資延氏)
すけのぶさん 2007/12/10 (月) 07:24
管理人様、初めまして。
自分のルーツのことを調べていましたら、何度もここのサイトが出てきましたので、
苗字は青木でもなんでもないのですが、もしかしたらお力添えになっていただけるかと思いまして書き込ませていただくことにしました。
10年前に亡くなった父から先祖はムカデ退治の「藤原秀郷」だと何度もきかされていました。
父は家系図も見たと行っていましたが、度重なる引越しで祖父が紛失させてしまったとのことです。
平将門様の話は父からは一切聞いたことはなく、後で知りました。
これまでの人生大きな不幸に見舞われたことは一切ありませんが、スピリチュアル・カウンセラー(?)霊媒師的な仕事ともいいましょうか、そういう関係の友達に連れられて、首塚にお参りもしてきました。
苗字は上に書いたとおり、資延(すけのぶ)と申します。
従兄弟は同じ漢字でしのべと読ませているようです。
祖父以前はすけのべと名乗っていたとも父から聞きました。
出身は讃岐(高松市)です。
家紋は「丸に剣方喰」
とてもではないですけど、藤原→資延につながる資料など探せないので、その間がとても気になります。
本当に秀郷流だと思われますでしょうか?
北海道の資延敏雄氏とも何か繋がりがあるのでしょうか。
何か少しでも情報いただければ幸いです。
失礼いたしました。
すけのぶ
返事ありがとう御座います。
家紋掲示板に笹竜胆紋と青木氏のステイタスの大日像の生仏像様が掲載されていますのでご覧下さい。
伊勢青木氏の宗家青木氏のステイタスとして天智天皇から与えられた日本最初の仏師の鞍造部止利作の仏像です。(現在、筆者の伊勢青木氏があるところに保管され祀られていますが、安全の為場所は不記にします。また、総菩提寺の場所と寺名も安全の為不記にします。)
では、お便りをお待ちしています。
Re: 福島の青木香保里さん
福島の青木ですさん 2008/12/02 (火) 09:59 [ メール ]
福管理人さま。
早速のご返事有難うございました。四日市の親類との行き来が途絶えているようですが、本家筋の菩提寺の宗派は曹洞宗ではない可能性があります。明治以前に中山町の曹洞宗の寺に医家の跡取りである人物が医家の道をとらず僧侶となり、曹洞宗の寺院に住職としてはいり、以来その寺が菩提寺となったようですので。他の宗派だった可能性が考えられると思います。なるべく早く、山形の菩提寺の過去帳を見せていただき、最も古いご先祖の名前なども調べてみたいと思います。このサイトで、青木氏に関する詳細な資料が拝見できるのに感激いたしました。まずは教えていただいた史料から熟読させていただきます。
福島の青木香保里さん
副管理人さん 2008/11/25 (火) 19:53
福島の青木香保里さんから、次ぎのお尋ねがありましたので、お答えします。
お尋ねの件
実家が山形県東村山郡中山町です。何百年前かに「故あって」四日市から、殿様に?従って山形に移り、以来山形の地に住まうようになったとか。何かの戦さまたは権力争いに敗れ落ち延びたのか?と想像しています。山形では代々の殿様に御典医として仕えていたようです。数年前伊勢にいく途中で妙に懐かしい気持ちになったことを、山形の親戚に話したところ上記のようなことを初めて教えられ、以来何だか気になっています。山形の菩提寺は曹洞宗のお寺でした。家紋は丸に二つ引き。四日市、あるいはその周辺に現在お住まいの青木さん、あるいは似たような話をきかれたことのある青木さんがいらっしゃったら、教えていただけませんか?
福島の青木香保里さん 今日は。 始めまして。福管理人です。
改めて、研究室から、お答えいたします。
お答えに付いて、ご質問やご不明な点がありましたら、こちらからRE(返信)でお尋ねください。
お尋ねは次ぎの通りと思います。
実家のご先祖は山形県 何百年前から在住。
元は4日市。
殿様に従って、何らかの理由で山形に移動。
伊勢に行く途中で懐かしく成った。
家紋は丸に二つ引き両紋
宗派の菩提寺は山形の曹洞宗
情報は以上ですが、この6つの情報で繋がることがありますので、この範囲でお答えします。
このことに付いて、菩提寺にはお家の過去帳がありますが、最も古い人はなんと言う方で何時の時代の人でしょうか。
四日市には菩提寺かご親類がありますでしょうか。このご本家筋の菩提寺の宗派は何宗でしょうか。
もし、お判りになる事が出来ましたら、お便りください。
以下のことを確証する史料に成ります。
では、お答えします。
先ず最も重要な情報は家紋で「丸に二つ引き両紋」です。
この家紋は、皇族賜姓青木氏5家5流の青木氏と言う氏がありますが、この支流紋です。
研究室の右メニューには「皇族賜姓青木氏の背景」や「皇族賜姓」関係の資料をお読みください。
詳しくレポートされています。
青木氏氏ブログでも読む事が出来ます。
地名地形データーにも関連史料があります。
概容をここではお答えします。先ず、青木氏は2つのルーツに分類されます。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏です。
お家は、皇族賜姓青木氏で、伊勢賜姓青木氏、近江賜姓青木氏、美濃賜姓青木氏、信濃賜姓青木氏、甲斐賜姓青木氏の5家5流です。各5国の国府に定住しています。
この5家5流は、夫々天智天皇、天武天皇、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の5人の第6位皇子で、夫々の王です。この制度は大化改新の天智天皇の第6番目の皇子を天皇の護衛隊として臣下させ天皇より青木氏を与えられた氏です。この制度で発祥した他の氏には、嵯峨天皇から始まった賜姓源氏で青木氏より変名して11代続きました。清和源氏の義経、頼朝はこの氏で賜姓青木氏とは同族です。
合わせて16代と成ります。
この内、近江では土地の豪族賜姓佐々木氏系青木氏を、美濃では土地の豪族土岐氏と血縁した美濃土岐氏系青木氏を、信濃では土地の豪族足利氏と血縁した足利氏系青木氏を、甲斐では土地の豪族武田氏系青木氏が発祥しました。他に諏訪族青木氏があります。
お家は信濃青木一門の足利氏系青木氏です。
信濃の皇族賜姓青木氏の者が男系跡目の継承がとれず、土地の豪族足利氏から養子を迎えますが、再び男系の嫡子に恵まれませんでした。そこで止む無く家紋掟により女系と成った為に養子先の家紋に変更します。そして、信濃皇族賜姓青木氏から、養子先の系列になりました。それが信濃の足利氏系青木氏です。族としては賜姓青木氏です。この足利氏は家紋が「二つ引き両紋」が主紋です。
お家は丸付き紋ですので、この足利氏系青木氏の分家筋に当ります。
信濃の国府にはお家の本家の本家の「総宗本家」の賜姓青木氏が定住しています。
綜紋の家紋は笹竜胆紋です。信濃国府付近(県庁所在地)にこの笹竜胆紋の青木氏がいますが、ここがお家の宗家です。
初代は天智天皇の第6位皇子の「施基皇子」の「伊勢王」の末裔の皇族賜姓青木氏です。(645年)
伊勢松阪がその本拠地です。伊勢は守護地でした。後に3分轄されます。
そこから伊勢と奈良の国境の名張から員部や桑名付近までこの一族が分布しています。
ここに5家5流一門の青木氏の総菩提寺があります。
室町初期までは賜姓青木氏5家5流を祀る独自の寺でした。後に、青木氏が守る天皇家の天領地でありましたが、徳川時代に、紀州徳川氏の独自の菩提寺に成りました。3度の火事で明治期より一般の寺と成りました
青木氏は嵯峨天皇期に詔を出して「青木氏」を他氏が使用するのを禁じました。3期を除いて原則明治3年まで守られました。
そこで、この伊勢青木氏と信濃青木氏一門とは明治氏初期まで深い付き合いをしていました。
伊勢と信濃西との中ほどに「伊勢町」と言う地名があるくらいです。
お家が、旅の途中で、何かしら懐かしく思ったのはこの青木氏総菩提寺の先祖の魂が貴方の魂をひきつけ貴方に働いたものと思います。この事からと思います。
4日市はその名張と伊勢松阪と信濃のライン上にあります。伊勢町は信濃よりのところにあります。
4日市にはこの伊勢の賜姓青木氏がぎりぎりのところで、信濃賜姓青木氏とのぎりぎり合流点に定住しています。
さて、この皇族賜姓族の足利氏系青木氏の足利氏の「二つ引き両紋」は北条氏の幕府を倒して室町幕府を1338年に開きます。そして、全国を統治する為に、関東には関東官領(1368)を、北北陸地方に奥州探題を配置しますが、この「奥州探題(陸奥)」は後に「羽州探題」とに分かれます。
「羽州探題」は出羽国ですが、秋田、山形です。
お家は、この時、足利家の分家筋の者がこの羽州探題として山形に赴きました。この時、親族の足利氏系青木氏の分家が付き従いました。
(青木氏は元々は護衛を専門としての役目を持っていました。)
この時に、1360年頃に移動しました。
お家のご先祖はこの時に移動したものと考えます。
足利氏の元は奥州の陸奥の国の土豪でした。ここは藤原秀郷一門の赴任地で、藤原秀郷一門が務める「鎮守府将軍」でした。鎮守府将軍を務めていた時に土豪の足利氏と血縁をしました。その後この藤原氏一門が信濃に赴任しましたが、この時に、この血縁した足利氏(花山氏、小山氏、小田氏)の一部が護衛として同行しました。そして、信濃の土地に定住して足利地方に勢力を持ったのが土地の地名を採った足利氏です。
陸奥付近には藤原秀郷流青木氏も護衛として定住しています。
この付近には青木氏が多いですが、藤原秀郷流青木氏が多い事に成ります。
ですから、お家は足利氏と賜姓青木氏と藤原秀郷の血筋を持つ青木氏ですが、元の先祖の故郷の地域の土地に出向いたと言う事に成ります。
その後、藤原秀郷一門の主家と陸奥から移って来た足利氏との間で跡目相続の事件が起こります。
陸奥から来た足利氏の本家と、その分家に秀郷一門の者を跡目として入れて本家争いが興ります。
分家の足利氏が勝ち、元の本家の足利氏は米子に逃亡します。
この分家氏が本家となり、その後室町幕府を開き遂にはこの足利氏が信長に1573年に潰されますが、この時一族全ては西の山口と四国に逃げましたので、逃亡しての山形ではないと考えます。
この時は、関東の武蔵より北にむけて山形には信長の勢力は及んでいせん。山形に逃亡した青木氏の史実も有りません。ですから、北陸道一帯7国とこの出羽には藤原秀郷流青木氏が多く定住しています。
そこで、次ぎに宗派ですが、本来はこの皇族賜姓青木氏の宗派は浄土宗です。ところが、この宗派は江戸初期まで、限定された地方にしかありませんでした。
その限定した所とは、皇族賜姓青木氏が存在する土地と藤原秀郷一門が定住する関西と西関東域です。
と言うのも、浄土宗派は青木氏や藤原氏の高位の氏が入る事が出来る宗派でしたので、出羽地方には有りませんでした。
そこで、移動定住した一族は止む無く他の宗派に入信したのです。
本来、この高位の青木氏と藤原氏は自らの氏神と菩提寺を持つ事が許されて、青木氏と藤原氏が神職や住職に成って赴任地で祀りごとをしていました。
浄土宗が広まったのは徳川家康が浄土宗奨励の令を出した事によります。
しかし、江戸時代でも奥州や出羽までは無理でした。
そこで、実家の現在の菩提寺の一番ご先祖を調べる事で判別確定が出来ます。
元の元は信濃の国府か、それより北よりの越前との国境付近ところに本家の浄土宗の菩提寺がある筈です。
お家は出羽に定住した経緯はこの様に成ります。
その結果の情報は以上の様に合致します。確定は情報が少ないので困難ですが検証は可能です。
伊勢松阪市本拠として青木氏の元は、現在の玉城市や四日市市や名張市はお家の総菩提寺のあるところでルーツが祭られていたところと成ります。
青木氏の総宗本家の宗家伊勢青木氏は大化より守護としてこの一帯に3つの城を持っていました。
これ等の詳しい事は研究室のレポートに沢山ありますので、ゆっくりと楽しんでお読みください。
家紋のことは家紋掲示板、レポートは研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」などにもありますし、現在シリーズで連載しています。
「藤原秀郷の主要5氏の家紋の研究」にも具体的に賜姓族の史料もあります。
皇族賜姓足利氏系青木氏や信濃賜姓青木氏の方からのお便りも沢山あります。
研究室の検索からお調べになってください。
兎も角も、右メニューのレポートの皇族賜姓一門関係のレポートから先にお読みください。
お家の一族のことを詳しくレポートしています。
お読みになってご質問やご不明点が有りましたらご遠慮なくお便りください。お答えします。
実は筆者は伊勢青木氏で御家とは同族賜姓族です。
神奈川の青木SHOUさん
副管理人さん 2008/11/26 (水) 13:25
神奈川の青木SHOUさん 今日は。はじめまして。
お尋ねがありました内容に付いては、下記に複写しました。
この内容からとりあえず、検証します。
情報が少ないので、確定は困難です。
以下のお答えについて、ご質問やご不明な点が有りましたらその都度新しい情報に付いてお答えして行きます。
研究室には上の投稿の内容をご覧に成りより詳しくいただけると、さらにルーツの詳細は出て来ると思います。どんな小さい事でも結構です。意外に小さい事で重要なことが判るのです。
投稿内容
父の実家が小田原(早川)の青木です。
周りは青木だらけですがほとんど交流がないようです。
古過ぎて総本家もよくわからないようです。
すぐそばが小田原城です。
家系図はお寺に預けていましたが台風で紛失
してしまったそうです。
宗派は真言宗で家紋は柏の違えです。
支流の支流だとは思いますが小田原には青木が
とても多くいるように思えます。
ルーツを知りたいのでどなたか情報をお持ちでしたら
ご教示いただけないでしょうか。
宜しくお願いします。
先ずは上記の情報でお答えしますが、お家に一寸したこと例えば刀が在ったとか、神社とかに関係する事があったとか、ご先祖が何時頃から小田原にお住まいかなどをありましたらご連絡ください。
家紋が現在は最も重要な情報です。
この家紋は家紋掲示板にも掲載していますし、研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の柏紋を参照ください。
お家のご家紋は「違い柏紋」です。
この柏紋は、神職系統の一族の家紋です。
神職関係での血縁で末裔が広がったものです。全国各地に。
そのなかでも、「違い柏紋」は駿河、尾張付近に分布する末裔です。
この地域の神職の青木さんは藤原秀郷流青木氏です。
藤原秀郷流青木氏に付いては詳しく研究室にレポートしています。
藤原秀郷一門の関連レポートを沢山ありますので、それをお読みください。お家のルーツの情報が全て判ります。研究室右メニューからもわかりますし、検索からも「藤原秀郷青木氏」でお調べになると出てきます。
青木氏氏ブログにも同じ内容のレポートが掲載しています。
全国の柏紋の青木さんからのお便りも沢山あります。
先ずは、「青木氏と血縁族(家紋)」からお読みください。
小田原付近には次ぎの青木さんが定住しています。
皇族賜姓青木氏の伊勢青木氏の分家、皇族賜姓武田氏系青木氏、皇族賜姓信濃青木氏、皇族賜姓信濃足利氏系青木氏と藤原秀郷流青木氏とで、この氏は歴史的な事情により各地に住み分けて定住しています。この事情は関連レポートをお読みになると判ります。
お家は柏紋の末裔ですので、藤原秀郷流青木氏です。秀郷一門が赴任した地域圏ですので小田原付近には親族縁者が多いと思います。
皇族賜姓青木氏5家5流とその一門、その母方で繋がる鎌足の北家の末裔藤原秀郷流青木氏は自前で独自の神社や寺社を持つ事を許されていました。青木氏や佐々木氏や藤原氏が自前の神職を造っていますので多いのです。
お家のご先祖はその役割を司っていた神職関係の青木さんです。現在でも青木さん多いのです。
現在、神職関係に無いとすると、分家であり、各地の神社関係に養子にはいりますが、なかったので分家して一般に成りました。
そこで、辿るとどこかで親族や縁者関係で神職関係に突き当たるはずです。神職から外れた時に真言宗に入った事も納得できます。この神職関係者の末裔の分家の人はこの真言宗に入ったのが特長です。
情報では納得できますので、より多くの情報をお調べください。
菩提寺がお判りになれば、其処に過去帳がありますので、出来るだけ古い人をお調べになると先ずその糸口が掴めます。時代性は江戸中期以前の人が掴める事に成ります。
神職関係ですので、比較的情報は残ってたいますので、お調べください。
その前に事前に予備知識をこのサイトのレポートから習得されて、お調べに入ると判断が高められます。
現在、「藤原秀郷一門の主要5氏と家紋の研究」でシリーズでレポートしています。
その史料も沢山ありますので参考に成りますよ。
その中で、ご不明点がありましたら、何なりとお尋ねください。
ではお便りお待ちしています。本文のReでお便りください。
讃岐の青木です。
讃岐の青木さん 2008/10/03 (金) 20:41
資延さんがんばってください。あと資延さんの本家の近くの讃岐三豊市高瀬町上高瀬には御先祖、秀郷の出世の糸口となった平将門の長男の平良門(相馬太郎)と家臣6名の落ち延びた伝承があります。将門には長男良門、次男将国(相馬氏、信田氏先祖)、3男景遠がいたそうです。http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-205.html を参照。良門のことはhttp://ja.wikipedia.org/wiki/平安時代の人物一覧 を参照してみてください。
Re: 讃岐の青木です。
讃岐の資延さん 2008/08/23 (土) 05:43 [ メール ]
副管理人様、讃岐の青木様
こんにちはー
そのお話本当ならなんとも神秘的ですね。
1000年以上前からその地に居た先祖から現代に繋がっている(かもしれない)なんて、想像しただけでもぞくぞくします。
皆様のご協力で市役所に行くこともなくここまで解明されれば念願かなったりです。
本当に皆様に感謝いたします。
後は言いだしっぺの私が資延本家にいって家系図をこの目でみないとですね!
Re: 讃岐の青木です。
副管理人さん 2008/08/22 (金) 10:46
讃岐の青木さん 今日は。お便りありがとう御座いました。
大変役くに立つお話でした。
全国の青木さんにとっても、先祖を知る上で大変役くに立つ事でしよう。これからも宜しくお願いします。
狩野氏の描いた「竜に珠の絵図」はこのことを材題にしたものでと聞いています。昔、この絵本をみたことがあります。
私の先祖は伊勢の紙問屋を営み代々傍ら趣味とし、紀州徳川氏にも代々友人として教授して又本職にした先祖が代々続いていまして、私の代で終わっていますが、この図柄を見聞きしこの話を良く聞きました。
千常は第1子ですが、彼は陸奥、伊予、讃岐、他二つと各地に赴任しています。
四国は、藤原氏にとって、最も遠の深い土地柄ですし、四国全体が藤原氏であると云っても過言でありませんでした。
秀吉の四国攻めで苦労したのはこのシンジケートがあったからで、その最たるものは高松の水攻めや讃岐籐氏の末裔長曾我部盛親(剣片喰)との戦いがあり、秀吉は自らも出かけ天下統一の最後の戦いを大内氏にやらせて、最後の砦藤原氏の最強軍団讃岐籐氏を潰そうとしたものですね。
なかでも、中心は讃岐青木氏でありました。平家や信長や秀吉などに負われて逃れた全国の青木氏を関連する公家などを匿うなど史実が多くあります。
「藤原秀郷の主要血縁族の研究」のレポートを連載で投稿していますが、このなかで、讃岐籐氏の活躍具合を書いていますし、家紋から検証しています。現在、史料シリーズ2ですが、この史料からも検証できる一つとして、讃岐の下がり藤紋(雁金)の青木氏が、秀郷宗家の中でも「第2の宗家」と言われた116氏主要9氏の最高位の位置にいた氏と観ています。
私は、直系1氏か直流4氏の内の一つであったと観ています。そして、四国の剣片喰族を含む4氏の青木氏を長くに渡り束ねていたと観ています。
研究の中で、藤原一族近衛氏の末裔白川氏(資延氏)もそのなかの一つではなかったかと観ていましたが、偶然にも、他氏の資延氏の投稿があり驚きました。
家紋からの研究のレポートをお読みください。理解を自然に深めてもらう為に一度に出さずに現在は史料関係を出しています。その史料を見ると明らかに「下がり藤紋」を保持している宗家筋のことが良く判ります。青木氏の下がり藤紋を維持する宗家は直系、直流の合わせて5氏しか有りませんので恐らく、讃岐籐氏の青木氏はこの一つでしょう。
千国のことも系譜が途中までありますが、個人情報の範疇と成っているので、概容を書いています。
秀郷宗家の「第3子の家法」にて跡目に入れています。史料で確認出来るところは青木家宗家には6度跡目があり、支流には宗家筋から恐らく度々跡目を入れていたと観ています。
これの推論も書き添えていますので参考にしてください。
系譜の形では史料は途中までで、あとは関連史実の発掘と、家紋からの研究に成りますが。
先ずはお便りありがとう御座います。藤原秀郷一門の位置付けの一つが土地の逸話に残っていた史料と成ります。大変貴重な提供ありがとう御座います。
Re: 讃岐の青木です。
讃岐の青木さん 2008/08/21 (木) 22:45
ありがとうございました。千国のことをもっと知りたいとも思います。兄弟の
千常さんは藤原純友の討伐で四国に来られていたようですね。
資延さんの投稿欄で藤原房前(ふささき)(千国、秀郷、道長含む五摂家の御先祖で藤原四家の筆頭、北家の初代)が登場したので讃岐(香川県)との縁の話をひとつ。
地元に海女の玉取り伝説という昔話があります。昔話どころか能楽(海士)玉の段として演じられてるそうです。内容は今から1300年の昔(天武10年・681年頃)、大職冠(たいしょくかん)藤原鎌足公が、この世を去った時のことです。当時、海の向こう唐の高宗の妃となっていた鎌足の娘(白光・びやっこう)は、父の死を嘆き悲しみ、氏寺の山階寺(平城京遷都にに際し奈良に興福寺として再興)におさめるため、唐の宮廷に伝わる(花原磬・かげんけい)、(洫浜石・しひんせき)、(面向不背の珠・めんこうふはいのたま、釈迦三尊が刻まれ、どこから見ても背を向けない)の三つの宝物をはるばると船に乗せて送ってきました。ところがその船が讃岐の志度の浦の沖合いにさしかかった時、一天にわかに掻き曇り、波が立ち騒ぎ、あれよあれよと驚くうちに波間から姿を現した龍神が宝物の一つ面向不背の珠を打ちつかみ海底深く沈んでしまいました。そのことがあり、鎌足の息子の不比等は、その珠を奪い返すために(淡海)と名乗り、身分を隠して志度の浦に下ってきました。そして眉目美しい海女(玉藻)と契りを結びました。後年、ついにその本心を打ち明けて、宝珠を取り返すことができたなら、海女と儲けた男の子を藤原家の跡継ぎにすると言いました。海女(玉藻)の驚きは如何ほどばかりだったでしょう。愛する夫の為に悲しい決意を胸の奥深く秘めた海女は、ただ一筋の命綱を腰に巻き、海底深く龍宮を目指しどこまでもどこまでも潜っていったのです。不安になりながらも泳ぎ続けた海女はやがて龍宮にたどりついたのです。その中の様子を伺ってみれば、目的の面向不背の珠は確かにあったのです。高い宝の塔の上に置かれてその周りを八人の龍王が守っているのです。獰猛そうな魚や鰐もいる。「この様子ではとても生きては戻れまい」波の向こうにいる息子や大臣を思い、別れ難さに涙する海女だったが、思いを断ち切るように、一気に龍宮へ飛び込んでいった。突然の侵入者に龍王たちは混乱した。その隙に海女は目指す珠を手に取り、懸命に逃げる。しかし逃げおおせるものではない。海女は携えていた剣で一気に乳の下を掻き、切り裂き、その傷口に珠を押し込め、剣を捨てて身を伏せた。血が龍宮の者が忌み嫌うことを知っていたので予てより考えていたことであった。そして珠を隠し、真っ赤な血で海上を染めて浮かび上がりました。そして、夫の手に珠を渡し、追ってきた龍神らに下半身を食いちぎられて息絶えてしまったのです。不比等は玉藻の心根を不憫に思い、海辺に堂宇を建て、遺体を埋葬し、この地を死渡(しど・極楽浄土に続くと云う意味)の道場(死渡寺)と名付け、霊を弔い、子供を連れて都に帰りました。この子供が後の藤原四家のなかで一番繁栄した北家の創始、房前大臣・ふささきのおとど(房裂き)と呼ばれた藤原房前です。
13年後、房前大臣は死渡を僧の行基とともに訪れ、千基の石塔を建立し、母の冥福を厚く祈り、悲しみを乗り越える為にこの地名を志度と変えたと伝えられています。今もその千基の石塔の一部といわれる20基が残っています。志度寺は現在、四国88ヶ所の86番札所です。開基は藤原不比等。
夫のため子供のために命を捨てた海女(玉藻)の墓は今も志度寺の境内に残っています。
取り返した珠は今も興福寺の本尊釈迦如来の眉間に納っているそうです。
時代は下り、讃岐の領主となった子孫の生駒親正(豊臣政権の三中老の一人 *五大老五奉行を繋ぐ役柄で他は中村一氏、堀尾茂晴)は遥かな祖母を偲び十六度市を起こし、自分のなきがらも菩提寺の弘憲寺とともに志度時にも分骨しています。後も歴代藩主により保護されています。讃岐は生駒氏の改易後は東讃を水戸支流松平氏、西讃を佐々木氏流の山崎氏、後、同じく佐々木氏流京極氏が治めています。
この話が真実なら藤原秀郷、秀郷流青木氏を含め北家流の人々は皆、讃岐が御先祖の地になるんですね。四国88ヶ所を参る機会があれば気に留められたらと思います。房前の地名は駅名でも現存します。
Re: 讃岐の青木です。
副管理人さん 2008/07/14 (月) 11:48
讃岐の青木さん おひさしぶりですね。
お便りくださってありがとう御座います。
そうですね。こちらの方は讃岐の青木さん関係の事が多く出て来るようですね。シリーズのように偏る感じをしています。
いろいろとお便り頂き、史実が更に深まりますのでありがたく思っています。これからも宜しくお願いします。多分、讃岐の青木さんのお便りを参考にしている方が多く居られると思いますので、これからも宜しくお願いします。
私もその方向でレポートして居ます。情報が立体的になって大変重厚なレポートに成っております。
私も四国をルーツや由来を紐解きま良く調べてみました所、お家の讃岐青木氏は江戸時代まで四国全体と瀬戸内を支配していることが良く判ります。
多くは、讃岐籐氏一門の末裔といっても良いのではないのでしょうか。
そして、藤原秀郷流青木氏一門の多くと皇族賜姓青木氏などに軍事経済の面で歴史的に保護をしている事が浮かび上がってきます。
土佐の青木氏、阿波の青木氏、美作の青木氏、安芸の青木氏、備前の青木氏、米子青木氏、摂津青木氏、近江青木氏、滋賀青木氏、足利系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏などを戦国時代に保護しているようですね。伊勢青木氏などと連携をしてつながりを持っていたようです。
伊予との勢力争いでの関係も出てきます。
信長も四国と関東に手を出せなかった一族の関東の藤原秀郷一門ともすごい勢力を誇っていたことを、裏付けています。
このことから、お便りのように、四国の「下がり藤紋」の青木さんは四国を占めていたのではないでしょうか。
秀郷主要5氏の一つの進藤氏は秀郷一門の進藤氏と利仁流の進藤氏がありますが、四国の進藤氏は利仁流の進藤氏ではないのではとも考えています。
讃岐籐氏の菩提寺のお寺で住職を代々勤められていたのではないでしょうか。
資延氏も結局、藤原秀郷氏の近衛氏の末裔ですが、この氏も讃岐青木氏を頼って定住してきたのではないでしょうか。
南北朝時代室町末期に公家が四国、伊予、讃岐と美作、安芸、周防に逃げ延びたのはこの讃岐青木氏の庇護を受けに逃亡したのではないでしょうか。
又、平家の落人の一番多い四国では、始祖千国の青木氏(平家の嶋崎氏より母方が入っている)とのつながりを求めて讃岐籐氏一門にある四国に逃げ延びたとも考えられます。
本拠地である九州や中国地方に逃亡せすに四国に多いのはこの庇護に入ったからではないでしょうか。
本家信州上田の真田氏も藤原秀郷一門ですので、当時でも最大勢力を誇り、信長、秀吉も四国攻めにはてこづったのはこのお家の讃岐青木氏のシンジケートがあったことでしょう。この為に四国に逃げたのではと考えます。
東でも藤原秀郷流青木氏を頼って、武田氏系青木氏、諏訪族青木氏、武田氏系諏訪族青木氏が信長の勢力の及ばない武蔵に逃げたのですからね。
青木氏の逃亡には、東西の藤原秀郷流青木氏がこの様に全てにかかわっているのです。
同じ伊勢青木氏では、伊勢シンジケートを持ちながらも青木氏のこの史実が余り見つかりませんのも、讃岐青木氏の勢力が如何に大きかったかを物語ります。
長く続いた2回の「相良騒動」の宇喜多氏のことも瀬戸内の讃岐青木氏の関わりからです。
加茂神社のことですが、京都の加茂神社をはじめとして、全国の加茂神社は殆ど藤原北家筋の秀郷一門の居る土地柄にあります。
そもそも、家紋神社の由来は、神武天皇が東征して紀州の森(後の熊野神社の社領)にはいり、道に迷い、そこで夢うつつに耶田烏の後を着いてゆけと御告げがあり、奈良に入れたとされていて、迷ったそこが紀州加茂郷というところであり、その時の耶田烏を熊野神社の御告げ鳥とされ、以後、江戸時代までその熊野神社の耶田烏の空かしの入った紙で書いたものを誓書としたとされています。
耶田烏は中国の吉兆鳥とされているもので、日本書紀にもこのことが書かれています。
紀州加茂郷では以来熊野詣の人たちを楽しませたこの伝統的なお祭り行事があり現在も続いています。
ここが全国にある賀茂神社の最初の加茂神社といわれいます。
加茂郷の加茂神社はこの由来もあり、紀州の人々の漁業と林業と紀州発祥の鈴木氏の移動からも各地に移動してひろまったとされている所です。
紀州を初めとして、伊豆、千葉など又ね鈴木氏の移動経路の奥羽北陸地方にある加茂郷にある加茂神社も、そこには藤原秀郷流青木氏の在所で、そこには青木村の地名も必ずあるくらいです。摂関家の藤原氏もこの伝統ある加茂神社をもちろん氏神にしていたのではないのでしょうか
次に始祖の千国ですが、北家藤原秀郷一門の氏には、「第3子」を「青木氏」として藤原秀郷の護衛隊とする事を定めています。嵯峨期の禁令で青木氏は皇族の朝臣と宿禰族の身分の者しか名乗れない氏として原則明治年まで続きました。この例外として、秀郷には、独立国を主張した「平将門の乱」を鎮圧した勲功で身分は貴族と武蔵の国を与えられます。この時、貴族に成った秀郷は武力を自ら持つ事が出来ないために、第6位皇子を臣下させ賜姓して護衛隊とする賜姓青木氏の慣例に習って、秀郷は第3子にこの役をになわしたのです。この時、秀郷には6人の子供が居ました。(本来は5人となっていますが、3代目に位置付けた千常の子の千万も子供であるとしています。)
第3子は千国(母は平家一門)と成ります。この千国から4代目の兼光流から更に跡目を引き継がれて、制度として護衛役としてなくてはならないために、判る範囲では3度も秀郷本家筋から第3子をこの青木氏に跡目をいれており、本流の総元締めの青木氏に跡目が耐える事の無いようにして居ますし、最後には秀郷本家から行久がこの時にも本家の青木氏を引き継いでいます。
藤原秀郷一門の戦略的目的から、秀郷本家筋の第3子が青木氏を代々名乗る仕組みであり、青木氏の跡目が絶えると入れて総本家の秀郷一門24氏の護衛役を担ってきました。
青木氏は、この為に、直系1氏、直流4氏(一門第3子系)、支流4氏(分家)の主要9氏で、前代未聞の数の116氏にも広がっています。これ程に末裔を広げているのは他にはありません。
長い間には、男系継承が出来ない事も起こりますが、この第3子システムで成り立ち、他の氏から養子を入れるのではなく、本家筋より跡目を入れて、常に直系1氏、直流4氏が男系継承で成り立つようにしている訳です。この為に、藤原秀郷流青木氏一門だけは、直系が常に存在し、千国ルートが繋がっているわけです。この主要氏の5氏にも跡目を入れているわけです。
中には、秀郷の親戚筋の利仁流からも青木氏の跡目を入れて保っている事さえあるのです。
江戸時代に成ってもそのつながりで大勢力の藤原秀郷24氏をまもる事が出来たのでしょう。
第3子システムが組織を固め、戦国時代の多くの青木氏を東西で庇護する事が出来たものと観ています。
私は皇族賜姓青木氏の5家5流の自らのつながりはもとより、この第3子システムの藤原秀郷流青木氏とのつながりもあって厳しい時代を2つの青木氏はの遺しえたものと見ています。
対照的なのは、母方で繋がる藤原氏とも同族の源氏が(11家11流もありながらも直系直流の)全く子孫を遺せなかったのはこのシステムのなさが原因していると見ています。
源の宗家の頼光系子孫が伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏に跡目を入れて遺すのが精一杯であったのです。第6位皇子筋の同族の青木氏に子孫を委ねたのが戦略であった事に成ります。
非常に限定されたこれ等のことを研究したこの史料は唯一非売品本で、全国の主要青木氏に配布されています。著者は超有名大学の民族歴史学名誉教授の佐々木氏です。著者佐々木氏ルーツは天智天皇の第7位皇子の近江佐々木氏の末裔です。(近江佐々木系青木氏も出ている)
つまり、佐々木氏は特別に近江の佐々木の地名から近江王として賜姓をうけたもので、賜姓を天智天皇の第6位皇子の始祖の施基皇子伊勢青木氏の弟に成ります。本来であれば青木氏で有ります。
本来は、後の嵯峨天皇期の詔からすると浄大2位の高位の朝臣族ですので、青木氏一門族と言う事に成ります。この事から民族学的に藤原秀郷流青木氏と皇族賜姓青木氏と嵯峨期からの皇族青木氏の3つに付いてと、第6位皇子の源氏一族の関係を歴史的史実を明記し網羅した書物です。
この研究書物は調査されて主要関係氏に有料で配布されたものです。当時としては販売しても限定されている氏である為に売れることは無かったのではと考えます。
他に関連する書物としは最近のもので、新しい「歴史フォットグラビヤ」と「古い後2つの書物」にも藤原秀郷の第3子の事が書かれています。公的なサイトですので、この程度としますが固有名詞は控えます。
我が家の口伝とともに当方の家宝となっています。
有名な3人の歴史家で小説家も対談単行本などでこの事に触れて書かれて居ます。外国史書籍を含む他古書籍の論文史実と書記紀と、そして、この書物からも伊勢青木氏等を端目とするの関連時事をも調べたものです。
いずれにしても、限定された青木氏のことは調べる人も少ないし本には成らないでしょうね。
この書物にもありますが、千国以降の藤原秀郷一門の系譜は公的にしたものがあります。
ただ、この歴史的史実書は下克上、戦国時代の打ちこわしと戦火で殆ど有りません。日本世記などの外国書の外交史籍に詳しく青木氏のことは記載されてのこっています。
各青木氏の遺された僅かな主要氏の史料と系譜系図を編集してこの様になるのではとしたものです。
従って一般に出回わるほどに有りませんので載っていません。研究論文です。
ですから、青木氏を研究して資料をまとめた研究者が少なく限定されているので無いので、本サイトに私の研究資料を遺そうとしています。
固有書籍名は法的なことから明記する事は出来ませんが、藤原秀郷流青木氏の事に付いての研究論文はこの書籍程度ではないかと考えられ、著名な歴史家も、「信頼性が高い事」から、どこかで入手獲得してこの非買品本から引用していると考えられます。
他のもの多くは江戸時代のもので、矛盾がありすぎて、手前味噌で搾取偏纂が全てで全く信用が出来ません。
信用し楽しみにするかはその人の自由ですが。徳川氏の系譜と系図を見ても判る様に。
兎も角も長くなりましたが、讃岐青木氏などのことを社会の成り立ちの現実的論理で史実と絡めて調べると如何に働いていたかが判るので歴史はおもしろいと私は考えます。
讃岐青木氏のことも、この様な史実と合わせて調べましたが、何故歴史的に四国に良く逃げるのかなどのテーマで大きな史実とつながりがあることが判ってきます。戦いで移動し逃げるにはそれなりの安全確実な根拠があるからですが、それを調べると面白い事つながりが見えてきて、”あっなるほど。”となります。
讃岐青木さんのお便りのことは同感です。楽しく読ませて頂きました。又、是非面白いお便りください。
Re: 讃岐の青木です。
讃岐の青木さん 2008/07/13 (日) 19:21
御無沙汰しております、讃岐の青木です。最近、讃岐(香川県)関係のことがよく記事になっていたのでお便りしました。
こちらの新しい発見としては隣の隣の中世からの港町(近世は塩田のまち)の宇多津(中世鵜足郡の港)西光寺(浄土真宗)の家紋も下がり藤に結び雁金でした。門と瓦が紋入りでした。ここのまちの青木家も含めて昔の港町にひろがっている青木は一族のようです。宇多津には数件しかないようで家紋は現在、未調査です。それで西光寺さんの住職さんは進藤さんといわれるかたです。宇多津町に進藤姓は1件のようです。研究室に進藤姓も利仁流で幾度かでてきていたので不思議な縁を感じます。
あと最近の記事のなかでのことで、資延姓は西讃岐の三豊市高瀬町(16件TEL帳)、観音寺市(5件TEL帳)にありました。高瀬の方とは仕事でお世話になったことがあります。宇喜田姓は私の住んでいる高松の南西部に子孫のかたが数件いらっしゃるようです。花房姓(雁金紋かどうかは未調査)も固まっていらっしゃいます。あと真田信繁(幸村)が夏の陣で落ち延びてきて4男の之親さんの子孫が今も続いているようです。関係本の系図にもよく掲載されています。真田家の裏紋が結び雁金紋のようです。真田信繁(幸村)8女の阿菖蒲の嫁ぎ先も青木家(次郎右衛門、家臣?)(別冊歴史読本幸村と真田一族による)とあったので偶然にしてはと興味深く思いました。
以前、副管理人さんがおっしゃったように、こちらの高松藩主松平公の菩提寺は浄土宗の法然寺です。
こちらの加茂神社(讃岐藤氏の香西氏が1200年頃創建との伝)はでのことですが、一度再建されたようで以前は現在地より氏神の藤神さんの近くにあったようです。現在、北山池と呼ばれている池は昔はそのことの名残で宮池という呼び名だったとのことです。
あと一般にでまわっている文献で秀郷関係の系図に千国、青木始祖と書かれているものが見つかりません。千国以降の系図とかが記載されている資料とかはあるのでしょうか?
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/09/07 (木) 20:45 [ メール ]
ありがとうございます。よくわかりました。教えの通りに調査に動いてみます。実際、動いてみて、なにか一つでも手がかりとか繋がることがみつかると本当に楽しいものですね。ですが、とにかく時間のやりくりが大変です。また、なにか見つけましたら報告致します。
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/09/07 (木) 10:16
岐の青木さん おはようございます。
早速の返礼有難う御座います。
早速ですが、お尋ねの件ですが、
先ず、「四つ結び雁金に違い鷹の羽紋」の件ですが、結び雁の頭を内側にして羽先で四角に繋ぎます。真ん中に隙間が出来ます。ここに違い鷹の羽を入れます。「違い鷹の羽」は浅野家の綜紋ですが、青木外のことですのでこの氏の詳細はわかりません。鷹の羽の違いの内容でどこの浅野家かがわかります。
この違い鷹羽は安芸です。
結び雁金紋の主要紋の氏は安芸寺田氏ですが以外に有りませんので讃岐安芸の範囲での血縁となれば寺田氏以外にないと思います。
寺田氏そのもののことはよく判りません。
青木氏と繋がる家紋元はどこかとの調べた範囲での記録ですので。
我が家の記録は3つの方法の口伝と記録帳と史書でつなげていますが、明治35年に出火して松阪の大火となり店は焼失して記録は少なくなりましたが、
判る範囲としては安芸に廻したものは艘と成りますので千石船と成ります。
祖父の代まで950年も続いた店であつたので口伝は多く遺されています。
脚本家のジェームス三木氏や司馬遼太郎氏や当時の5人の歴史小説家の記録から我が家のことが多く判明しています。
NHK大河ドラマに3度も出て来ました。
人員は別の記録から身内で250人を手配差配出来る数としたとされていますが、船に乗った数はわかりませんが。積荷や依頼主の記録は明治35年の時に焼失しましたので不明です。大石氏に家財買い上げの為に3艘廻したことまでです。
同じ事をどこで調べたのか判りませんがジェームス三木氏も調べています。
記録で一番古いものでS647年の事まで史書でわかっています。口伝と日本書紀や日本世記などからも。物的証拠もあります。
いま祖父の代になくしたものを私がもう一度我が家の歴史書を後継ぎとして焼失したものごとを再生しています。40年掛かっています。
その過程で青木氏全体のことも判明してきたのです。
同じ事を近江の佐々木氏の方も佐々木氏のことを調べられていて一部青木氏でで重なる部がありまして参考になりました。従って佐々木氏のことも把握しました。
参考に。
近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子ですが、第6位皇子は伊勢王の施基皇子(越の道君伊羅都女の子)で伊勢青木氏の元祖です。二人は異腹の兄弟です。
本来天皇の賜姓は第6位皇子までですが天智天皇は特別に第7位の皇子にも賜姓しました。近江王の川島皇子(忍海造小竜の色夫古娘の子)佐々木氏です。
此処で、繋がっていたのですが調査は合っていました。
このように色々調べてゆくうちに今回のように広がり始めて又資料も増えてゆきます。
直接の資料を求めるだけではなく関係する資料から広がりが見えてくるのもこのルーツの極意です。今回のように。
大野氏がご先祖でしたか。忠臣蔵で有名な方ですね。
このお家のことを調べるとまだ色々と出て来るかもしれませんね。
紐解きには私もずいぶん苦労しました。
それと寺田氏のことを何らかの方法で調べ出すことが先ず広がりを出す決め手かも知れません。藤原氏は判っていますから。郷土史を利用しては如何ですか
参考として、お家のルーツの推測案を立てていますが。
そのことに触れてみたいと思います。
四国伊予にも藤原秀郷の宗家子孫が赴任しています。
藤原行長が伊予に赴任していますがここの青木氏は充分に確認出来ません。
行長は永嶋氏の元祖ですので護衛は子供の永嶋氏が担ったのではないかと思いますが疑問が残ります。
場合に依っては讃岐の青木氏か、淡路の青木氏が護衛を担っていた事も考えられます。伊予にお家の末裔が瀬戸内だけではなくここにも存在していると思います。
行長が赴任しても子供が護衛としても初期にはまだ難しいと思いますのでこの地域にいる直系の青木氏のお家がカバーしている事が濃厚です。
伊予に青木氏か永嶋氏(青木氏と同じく大勢力を持っていました)が存在するかです。
永嶋氏は名古屋地方から以西に分布しています。地名として残っています。(九州の永嶋氏は別)
この事によって見えてくるものが沢山あります。
お家のご先祖の位置付けです。つまり伊予は土佐南部と共に雁金紋の本来のルーツですので、此処で雁金紋の分家筋の結び雁金紋の氏から跡目の養子を入れての血縁を結んでいることも考えられます。其れが寺田氏のルーツでは。そして後に安芸で子孫を広めたとも考えられます。
伊予に青木氏か寺田氏がいるかどうかです。
つまり、副紋を用いたのは安芸の寺田氏から跡目を入れたというよりも地理的に伊予から跡目を入れた可能性が高いと見ているからです。
お家の家紋が副紋に変紋を余儀なくされた時期は安芸の結び雁金紋を広めた寺田氏の時期ではないと見ています。
私はこの推論が極めて高いものと見ています。
そのルーツとすると時期が合うと見ます。室町末期から江戸期前の混乱期にわざわざ変紋をするかどうかです。
私はその前だと考えています。土佐坊の後の鎌倉後期から室町中期までの頃ではと推測します。
つまり、藤原氏が離散して少し落ち着きが出た少しあとの戦国時代の前の「下克上」の時期頃(1340頃)と見ています。
(この時、伊予は下克上の人物の河野氏が支配していた 国堺で讃岐籐氏等とも争っている)
一族を守る為に日の出の勢いのこの雁金紋の氏を利用したのではないかと見ます。そうすれば海向こうの氏ではなく地元の範囲の氏で勢いの有る氏と成ります。
お家は岡山、淡路、讃岐と広く子孫を持っています。もし、跡目が無ければこの大きい子孫の中の縁者から養子跡目を入れることで充分に済み家紋を副紋とすることは有りません。
それではすまない存続に関わる大危機に立ち至ったことを意味します。
其れは離職した経済的危機の中でも、更に「下克上」が起こってしまった。
「下克上」は藤原氏や青木氏や社会を牛耳っていた階級の撲滅ですから、泣き面に蜂です。(殆どの40ほど主要氏は壊滅した)
中級階級以下の反乱ですから足元からも起こる事も充分に考えられます。
此れに対抗するには鎌倉幕府の下級武士の出世頭の氏の地元の雁金紋一門との血縁を結ぶことで収まりがつくというものです。これで周りは襲う事は出来ないと成ります。
だから、変紋せずに副紋を主家一族一門として利用したものと見ます。
だから生き延びられたのではないでしょうか。
更に云えば本家は嫡子がありながら跡目を「結び雁金紋」の氏から入れたといえるのではないでしょうか。
このほうが当時の状況から自然と見ます。
その意味でも地元の当時の状況もわかることもありますのでその事を調べられると上記の推測が証明しやすいのではと思います。
讃岐の郷土史とか岡山の郷土史とか広島の郷土史とか阿波の郷土史とかに必ずお家に関係する事柄や場合に依っては直接出て来る場合も大いに有ると見ています。どこの地方公共団体でも出しています。役所に行くと売っています。
閲覧することも出来ると思います。県史や地方史として。
又何かわかりましたらお知らせください。
お待ちしています。
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/09/07 (木) 00:44 [ メール ]
有り難うございます。思っていた以上の繋がりがあったのでびっくりしました。副管理人さんの知識の膨大さと回答の速さにもいつものことながら感動します。それで、お話にありました結び雁金紋の安芸の寺田氏のことと四つ結び違い鷹の羽紋を教えて下さい。四つ結びなら鷹の羽はどこに配置されているのでしょうか?
あと、伊勢から赤穂の件で廻された船の大きさとか人員なども台帳として残存されているのでしょうか、そうならすごいことだと思います。300年も前なのに。
忠臣蔵の活動資金、家臣分配金の件はその通りだと思います。うちの先祖の一人といわれている赤穂の大野九郎兵衛知房は財政面で塩田、新田開発などで藩を立て直しを成功させていたのにあの事件があり、また家臣の分配金で役割に沿った分配を主張したものだから、身分の低いものから順に高い額の支払いを主張した大石さんにいいところをもっていかれ、また逐電したものだから汚名のみ後世残すようになってしまいました。うちには弟か息子がきて塩田開発したと言い伝えのみあります。事件前から赤穂藩の剣術師範の東軍流、奥村権左衛門無我(元備前藩士)の屋敷がうちの実家近くにあったので藩士の往き来はかなりあったようです。だからうちの先祖もなんらかの動きはしたとは思うのですが、なにぶん文献がみつからないので想像の域をでないところが寂しいです。もし、なにか船で依頼主、積み荷などの記録がありましたら楽しいと思います。ご存じかと思いますが、前述の浅野長恒は大石良雄の父の従兄弟です。
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/09/06 (水) 20:08
讃岐の青木さん 今日は。
早速ですが、大変に良く調べられて驚きました。
実は、大変な事が沢山判りました。
このようにルーツを調べてゆくと思いがけないところで先祖の繋がりが網の目のように見えてきます。
先ず、順を追ってレポートしたいと思います。
お家の副紋の「結び雁金紋」の関係で岡山方面に雁金紋が多い事がレポートされています。
「尻合せ雁金紋」の花房氏が対岸の岡山に定住していることですが、この花房氏のルーツは判っていますので、面白いところで繋がります。
花房氏は元は『陸奥の国』の小豪族でした。
陸奥は藤原秀郷宗家一門が朝廷より北国を鎮圧させるために『鎮守府将軍』として任された専職としての土地で。初代より代々引き続き担った役職です。
この中でも、藤原秀郷より4代目の兼光が鎮守府将軍として赴いた際に土地の地固めとして2つの縁組を結んでいます。
藤原秀郷の一門はこの4代目の兼光と文行の兄弟から二つの流れになります。
兼光流から、青木氏と永嶋氏と長沼氏との3つの流れが起こります。
分行流から、進藤氏と長谷川氏の2つの流れが起こります。この進藤氏から更に2つに分流します。利仁流の進藤氏です。
この兼光の一族と土地の小豪族の武田氏の縁組が起こります。
更に、土地の小豪族の花房氏の縁組が起こります。
藤原秀郷の子孫の則高が甲斐の国に赴任した時にこの武田氏は護衛として陸奥より同行して土地に根を降ろします。此れが甲斐の武田氏です。
一方、花房氏は藤原秀郷の子孫の有綱が信濃に赴任した時にこの花房氏が護衛として陸奥より移動します。此れが信濃(足利)の花房氏です。
更に、この武田氏と足利氏は藤原秀郷の武蔵の宗家と血縁をしています。
足利氏には兼光流の成行が跡目で血縁に、武田氏も血縁を結んでいます。
この「三つ雁金紋」の花房氏は足利氏の支流と血縁を結び足利の配下となり室町期に中国地方(岡山)に赴任します。此処までは判っています。
したがってこの花房氏は足利氏の藤原秀郷成行一門の血筋と陸奥国での藤原秀郷の兼光の血筋と重複して藤原の血筋を濃くしています。
したがって、お家は讃岐の青木氏で藤原兼光流青木氏の直系4氏の一つですから、この花房氏とは同じ兼光流の血筋です。
鎌倉期に藤原秀郷一門は離散する事に成りますが、この時、この花房氏は足利氏の下で健在です。
この時、お家は讃岐に留まり、その元の役職と地の利と海の利を生かして商いをしたと考えられます。当然、お家の歴史どおりの海船問屋です。
この時にこの岡山付近に配置された花房氏との関係が必要と成ります。
ルーツを辿れば同じ藤原秀郷一門で兼光流です。
当時の慣習から同族として、お家と何らかの関係を持っていた事は当然の成行きです。不思議では有りません。
その後、足利幕府が潰れて花房氏の土地の勢力を生かすために領国主となつた宇喜多氏はこの勢力関係を維持して統治するのが常道です。
そこで瀬戸海の支配を任したと見られます。
当然に、瀬戸海の支配の花房氏はお家の海船問屋との関係も同族として持つ事は自然です。で無ければ瀬戸内の支配と安全は維持できません。
そこで副紋の「結び雁金紋」のお家と、「三つ雁金紋」の綜紋の花房氏(尻合せ三つ雁金紋は分家筋)は共に「雁金紋」の血縁で尚且つ藤原秀郷の兼光流一門である事から、家紋は一致せずとも、いずれかのところ(本家筋)で縁者関係を持っている筈です。
此処が讃岐青木さんの次ぎの調査ポイントに成りますね。
必ず繋がっている筈です。
因みに、この雁金紋は源の頼朝の治承の挙兵で土佐坊昌俊に与えた「旗差し紋」ですが、この岡山の地域にはこの血筋を引く「三つ雁金紋」の海野氏もいます。この氏の末裔が此処にひろげたものと考えます。
この紋様としては「雁金紋」を主要紋として53紋様あり、この内「三つ雁金紋」の系列は「尻合せ三つ雁金紋」や「三つ盛り雁金紋」などを含む8つがあります。
「結び雁金紋」は花房氏との血縁と見ると安芸の寺田氏であり他には信濃の真田氏があります。2つを中心として6つあります。
お家の副紋の「結び雁金紋」は室町期末期から江戸期前位にこの寺田氏との血縁ではと見られます。
第2の確認ポイントです。
次ぎに私の伊勢青木氏との関係は浅野長恒氏の江戸期の伊勢の山田奉行との関係はあつた事は充分に考えられます。
伊勢の豪商の紙問屋の青木長兵衛は船三艘を瀬戸の岡山の港に浅野家の依頼で家財の買い付けで廻したと記録されています。
忠臣蔵の活動資金と家臣の分配金にしたと見られます。
勝手に、当時は海支配と言うのがあり、伊勢から瀬戸内までには5つの支配の海を通る必要があります。伊勢支配、熊野支配、紀伊支配、摂津支配、瀬戸内支配があり自由には瀬戸内に入ることは出来ません。
又この間には海賊があり、特に紀伊支配には紀伊水軍の海賊がいました。
又、お家の様な廻船問屋の聖域もあり、役務のところの「札差」(鑑札)が必要です。
此れには奉行の許可を取る事に成りますので、それが丁度、浅野氏の伊勢山田奉行の依頼と許可が当然に必要となった考えます。
浅野氏とは認識は有りませんでした。此れで完全に三艘を廻した理由が判明しました。
長兵衛は松阪に本店2つを持ち、支店を含む蔵群が隣の玉城町の面積の8割が
青木長兵衛のもので合った事が記録と伝えられています。
松阪商人としてお家などの瀬戸内の廻船問屋さんのグループに依頼されて参加したのではないかと思われます。
さて、お家のルーツと活動範囲が明確になってきましたね。
花房氏と意外なところで繋がっていました。
代としても時代性から藤原秀郷一門との縁続きの元は兼光より1、2代の非常に近い範囲ではと考えられます。
お家の青木氏の千国の元祖より兼光(曾孫)は2代あとですからね。其れが陸奥のところで血縁ですから。お家も直系4氏の一つですからね。
次ぎに、丸に剣片喰紋の青木氏の讃岐の墓地範囲にあつた事ですが、
剣片喰一門は鎌倉幕府樹立で離散して一部は領国八王子付近に、一部は淡路の赴任地に、一部が讃岐にと移動した事はわかっていますが、矢張り、讃岐の青木氏を頼ったのですね。確認出来ました。
お家の青木氏を頼ったことは一つの意味を持ちます。
頼るだけの力があったことを意味していますし、墓地が同じと言うことは更に隣の阿波の国の剣片喰紋の青木とも関係を維持していたことがわかります。
岡山や広島の一族の方と同じく、多分、領国武蔵ではかなり近い親族中の親族関係にあつたと見られます。(藤原秀郷流青木氏9氏の116氏)
(阿波の青木氏は宗政親子に同行した青木氏)
亀甲族や三階松紋の青木氏も含めて、そして、岡山の花房氏は藤原秀郷の兼光の縁者関係で濃くつながっていた事に成りますね。
大変な発見ができました。
参考として、結び雁金紋の氏は当地の浅野氏とも血縁しています。
「四つ結び雁金違い鷹の羽紋」です。
当地岡山付近では青木氏を挟んで亀甲族と雁金紋の何らかの争いが見えてくるようですね。
三つ盛り亀甲に花菱紋の件ですが、青木氏以外のことは良く判りませんが花菱紋は割菱紋の武田氏の分家一族が使用した家紋ですので、この一族との関係あった亀甲族の氏とも見られます。武田支流がこの亀甲族との関係をどのようなことでもったかは判りません。
何せ、この亀甲族は出雲大社の氏子の小豪族の連合帯ですので、身を守る為に多くの氏との血縁を結んで安定を図り守っています。
ちなみに、浅野氏との血縁を結んだ「亀甲に違い鷹の羽紋」があります。
楽しく見させて頂きました。
又新しい情報が有りましたらお知らせください。楽しみにしています。
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/09/06 (水) 03:50 [ メール ]
ご無沙汰しておりました。調べましたことを報告致します。まずはうちの副紋の雁金紋のことです。副管理人さんのおっしゃる通り地元では見つかりませんでした。ですが対岸の岡山に戦国時代、宇喜多直家の重臣として活躍した花房氏が雁金紋(尻合わせ三つ雁金紋)を使用していたことがわかりました。花房正幸が瀬戸内海に面した邑久郡虫明城主(18,000石)として海上交通に睨みをきかせていたそうです。うちの里は本州(岡山)まで直線で7Kと瀬戸内海で一番狭くなっている湾岸にあります。邑久とは目と鼻の先の距離です。武家家伝にはつぎのような文章がありました。
戦国時代、備前国に清和源氏足利氏流を称した花房氏がいた。花房又右衛門が播磨灘を船で通ったとき、海賊に襲われ、弓矢をもって防いだが、矢をきらして進退窮まった。その機に乗じた海賊は船を寄せて花房の船に乗り移ろうとした。そのとき、最後の雁又の矢で海賊の大将の首を射抜き、勢いにひるんだ海賊に「われは花房又右衛門ぞ、雁金紋に雁又矢、これぞ天下の珍高ぞ」と大音声でよばわった。その勢いに恐れた海賊たちは、以後、瀬戸内海を通る「雁金紋」を付けた船は襲撃しなくなったという。この話から、戦国時代にあってすでに花房氏の雁金紋が瀬戸内にあってかなり有名なものであったことが知られるのである。とありました。花房氏は次代の正成の時も宇喜多氏の重臣として秀吉の備中高松城攻めに従軍して水攻めを進言した功により、のち備中高松城主ともなり31,000石を領したそうです。のち宇喜多家内紛により徳川家に仕えたそうです。次代の志摩守幸次はで草創期の伊勢山田奉行に任じられています。 うちの雁金紋はこちらのほうに関係がありそうにも思えます。あと以前、うちは播州赤穂にも関係があると書かせていただきましたところ、伊勢青木氏も関係があったとお話いただきました。赤穂藩一族浅野長恒という人が刃傷事件当時伊勢山田奉行だったそうです。その縁で伊勢から赤穂収公関係に船を廻す機会があったのでしょうか。
花房氏の出自も秀郷ゆかりの常陸國久慈郡花房郷だそうです。伊勢のこともそうですが、何かが少しづつ繋がっているような気がします。
うちの地域は戦後すぐまで海運業で栄えていて、戦時中も船は徴用されたりしていたそうですが、何隻あったとかどこに行ったとか調べようとしても何一つ資料がでてきません。船の名前も屋号みたいな感じで口伝えで少し残っているだけです。地元の数少ない文献にもみつかりません。個人で所有しているものならば余計、他人には見せないだろうし、資料の価値も興味あるものにしかまず、わからないから、忘れさられ消失するのが多いのだろうとつくづく感じさせられました。 前回、お話した藤神様の付近にあった本家もどこに移ったかもわかりませんでした。話では馬小屋とか刀の類もあったようです。明治の初めの頃に事情があり他所に移ったそうです。その時に全て処分されたようです。30数年前を最後に無くなった藤神様の相撲は10/14に行われ、その後荒神さん、船だまさんと日を変えて行われていたようです。(なぜその日だったのか不明)
あと、青木の墓石の家紋を調べたところ3地区にわかれて50基位ある中で1基だけが丸に剣片喰紋がありました。あと亀甲紋のことを以前、教えて頂きましたが、青木姓ではないののですが三ツ盛亀甲に花菱の家紋がありました。
では、またなにかわかりましたらご報告致します。
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/13 (日) 14:40
讃岐の青木さんの代理投稿です。
お世話になります。讃岐の青木です。里の大伯父に会って話しを聞いてきましたので、報告いたします。以下の文章省略。
讃岐の青木さん 今日は。
お便りありがとうございます。色々と調べられたようですね。努力のおかげでお家に関係する重要な情報が五つもありました。
一つは藤神様の祠です。
二つは獅子舞です。
三つは加茂神社です。
四つは奉納相撲です。
五つは岡山です。
では先ず、1番目の籐神様の祠です。
讃岐の藤原秀郷氏宗家の一門を『讃岐籐氏』と呼びます。例えば伊勢の藤原秀郷の一門(藤成、基経)の場合は『伊勢籐氏』と呼びます。そして、結局、その氏を『伊藤』と呼ぶようになったのです。そして、それらの青木氏を含むその一門を祀る神を『籐神』と呼びます。
場合に依っては讃岐の宗家の現在の姓は「讃藤」で”さとう氏”と呼んでいることも考えられます。
”さとう”には沢山の「さとう氏」があリます。「佐藤、左藤、讃籐」の様に前は2つは役職名を、後ろは土地名を採っていることが考えられます。このいずれかです。讃岐付近にはかたまってさとう氏なる氏が必ず存在します。それがお家が護衛役として同行した一門の藤原秀郷の一族の宗家に当ります。つまり、讃岐籐氏です。
参考までに、讃岐籐氏は次ぎの氏名が名乗っています。
西隆寺、豊田、柴野、平尾、有岡、竹田、成宗
この氏名は全て庶流です。本流宗家筋では有りません。
室町末期から江戸初期頃に武士になったものが仕官するに当り氏名と系譜と家紋が必要になりました。
少しでも何らかの関係があったりした場合にその一族だと名乗り氏名、系譜家紋を偏纂と搾取して名乗りました。出なければ仕官は無理と成ります。
参考に。
そもそも、徳川氏は史実としてこの偏纂と搾取で将軍になれたのですから。
任官するのに朝廷は大変抵抗しましたが勢力に負けました。
16代目の天皇の第7位以降の皇子で僧侶であつた者が、還俗して全国行脚して三河の小さい土豪の家の門前に立ち、そのまま松平の家に居着き、そこの娘の婿入りをしたとするのです。
この僧侶がもと皇子であるかは疑問ですが、であるので還俗する時は源氏と名乗る事になっていましたので源氏の血筋を引いていると主張。
しかし、この16代の源氏は室町期の南北朝の時代で源平時代は既に終わり3百年以上も経ち天皇が二人いて皇子も誰が居るか判らない状況の中での主張です。源氏を名乗る習慣とっくには終わっています。豊臣秀吉と同じです。
朝廷は認めませんでしたが生活費に事欠き、土塀が崩れ去れ悲惨なありさままで追い込んでやっと認めさせたのです。しかし、源氏系である事は認めましたが「源氏頭領」だけは認めませんでした。「源氏頭領」だけがなれる幕府を開ける「征夷大将軍」ですが、「源氏長者」として矛盾のある将軍を認める事で朝廷は妥協したのです。此れが現実です。
ですから、この下の御家人は氏名と系譜と家紋を殆ど偏纂し搾取したのです。
話は戻します。
藤原秀郷流主要5氏のように高位の家柄は自らの神社と神主を持っています。この祠も「籐神」さまですので、青木氏の「氏神」を持っていた事に成ります。
そして、その氏神様がお家の側にあるとすると、矢張り、お家は本家筋系の讃岐の「下がり藤紋」を綜紋を持つ青木氏であリます。以前のレポートにも書きましたが矢張りありました。朽ちて記録などがなくなっているのが残念ですが。
次に「獅子舞」ですが、この獅子舞は天皇家の守護神の熊野神社(紀州の和歌山県)系列の全ての神社に伝わる神にささげる舞です。
この「獅子舞」を奉納するところには神社の鳥居門よりはいった所に一対の必ず「獅子頭」の石堂または石碑があります。
この「獅子舞」は源氏系列の神社、特に清和源氏の八幡神社にも伝わっています。つまり、源の八幡太郎義家を祀る神社にもあります。
つまり、天皇家か皇族賜姓族かその一族と交わる藤原北家筋にこの舞が残っています。
特に、熊野神社系列の奉納舞として必ずあります。
この獅子舞は清和系の獅子舞と藤原系獅子舞とは舞い方が少し違っています。
此処でお家の「獅子舞」ですが、もうお判りと思いますが、藤原秀郷北家筋主要5氏の内の一門でもありますので、この「獅子舞」はあるはずです。
当然にその「獅子舞」の祠付近には「獅子頭の石堂」があった筈です。
赴任した時期の平安末期頃にこの祭祀に熊野系神社から招きいれた可能性が高いと見られます。
他の土地の「獅子舞」のと同じ様に其れが「加茂神社」につながっているのではと考えます。
それが更に、決定的な証拠になります。
それは次ぎの三つ目の「加茂神社」の存在なのです。
この「加茂神社」は熊野神社系列の神社でこの「加茂神社」は伊豆地方と千葉房総地方と三陸地方にも存在します。そして、この地方にも「獅子舞」が存在するのです。
では何故かというと、それには次ぎの理由があるのです。
この「加茂」という名の発祥は和歌山県の熊野神社に由来するからです。
熊野神社の社領は和歌山県海南市鳥居と言うところが最初でそこから南紀までがこの神社の社領です。
この鳥居というところに熊野神社の第一番目の鳥居があったのです。此処から此処からが正式な熊野古道です。世界遺産に登録された熊野古道は南紀にしていますが。
各平安期からむ炉町期までの天皇は毎年熊野神社参詣に出かけたのです。
後醍醐天皇は在任期間中24年間の内25回も参詣しています。
この時に天皇に「奉納舞」としてみせたのがこの「獅子舞」なのです。
その習慣が各源氏の守護神と藤原北家一門の守護神に慣例として用いられたものなのです。
つまり、高位で皇族との血縁ある氏の奉納舞なのです。
この第1番目の鳥居のある鳥居地区のところから南に1キロ程度上ったところに熊野神社の第1番目の神社の藤白神社があり、此処からこの獅子舞の奉納が始まります。
そこより一つ山を越えると「加茂郷」という村が有り、この村に「加茂神社」があるのです。ここが全国に広まった「加茂神社」の発祥の元なのです。
では何故広まったかというと、この村は同時に海に面していて漁業が盛んでした。
そして、この土地のものが黒潮に乗って黒潮筋に黒潮漁法を伝えたのです。
その子孫が各地に定住してその子孫の氏子達が守り神として加茂地区から迎え入れて「加茂神社」を造ったのです。
加茂だけでは有りません。勝浦や下津や田辺や由良や和歌山沿岸の土地の地名が各地に伝わっているのです。そして、この奉納舞を広めたのです。
四国の土佐や讃岐地方でもこの黒潮漁法が元で獅子舞も庶民にも広く伝わったのです。
この黒潮漁法とは、船の交尾より糸を出し10メータほどのところに広葉の形をした木の板を付けその30メータ後ろに針と疑似餌をつけて船を走らせる漁法です。
木の葉型した板は音を立て魚が跳ねた形になりますと魚の習性で音の周囲に集まるという事を利用した漁法です。
此れは太平洋のアモイ族が編み出した方法でこれを鯨やのマグロの遠洋漁法する紀州の漁民が物まねで会得し大漁高として有名になり平安期頃から各地に伝わったものなのです。
この様に「加茂神社」の「獅子舞」は「奉納舞」として上記の氏の一つとして皇族に縁のある藤原秀郷一門が定住する地域に広まったものなのです。
当然に讃岐の青木氏のもとにも。そして庶民の祭りなどに使う芸能舞としても。
瀬戸内海では水流が速く内海ですのでこの漁法は向きません。
単純に加茂神社からこの伝統を他の関西の藤原氏一門と同じく招き入れたものと考えられます。
上記した藤白神社でもつい最近までこの二つの行事が行われていました。
獅子舞は残っていますが、相撲は昨年なくなりました。
更に、此れだけでは済まないのです。
この「加茂神社」の「獅子舞」と同時に「奉納相撲」も行われたのです。
「獅子舞」と同じく上記の3つの系列ではこの「奉納相撲」も行われていました。
そもそも最初は「相撲」は神にささげ、楽しませるものであったのです。
特に相撲の中には面白おかしくする舞のようなしぐさでする相撲(ショッキリ相撲)があります。これが神にささげる最初の行事であり、当然、熊野詣で毎年来る天皇家の人々を楽しませたのです。
天皇にささげる相撲は舞と同じく神にささげる相撲でもあったのです。
此れも「獅子舞」と同じく皇族系の一門が住む讃岐の土地にも伝わっていたと云う事です。
そこで、もう一つ伝わっていないかお調べになると完璧に伝統が残っている事に成ります。
それは、「曲水の宴」です。
大きい庭に山から水を引き池にしてその池を庭中を取り囲む様に廻します。
そして、この池にところどころに座って歌を詠みそれを池に流します。
次ぎの人はその歌をとり、返歌して更にその返歌に対して次ぎの人が返歌を繰り返す。そして、その間毎に杯を流して飲み干すまでに返歌するという実に優雅な平安期の歌のゲームです。
これが当時の神にささげ天皇に報じるなどのこの伝統のセツトです。
武家ですので少ないかも知れませんが何らかの形で遺されては居ないでしょうか。
このことから、このような伝統を重んじたことで見えてくることは、讃岐の藤原秀郷流青木氏の「下がり藤紋に結び雁金紋」のお家の一族はこのような由緒ある伝統を現在までに伝えていたのは紛れも無く宗家筋の一門であり、且つ、藤原秀郷流青木氏の主要9氏(直系1氏と直流4氏と支流4氏)のうちの直流4氏のうちのかなり宗家筋の一門であったことが覗えます。
祠を建てたときにこれ等の奉納行事を熊野神社系から招き入れるだけの力があったことを意味します。
更に、間違いなく、讃岐では宗家本家筋から分流した末裔であろう事が覗えます。
そこで私は副紋を「結び雁金紋」としたことには一つの意味があると見ています。
結び雁金紋は前記レポートでも書きましたように土佐出身の土佐坊昌俊が元祖であり、1192年頃に源の頼朝に信頼されて重用された人物で、頼朝より与えられた家紋です。
この頃、讃岐のお家を始めとして藤原一門は鎌倉幕府が成立して全ての職を失い離散して生き残りに翻弄されていた最中であった時期です。
この時に生き残りさくとして、宗家本家筋として何とか一族一門を救おうとして奔走して居た筈です。これは自然の成り行きであり、生存の可否を決める行動ですから、渡りに船の土佐出身の日の出の勢いの頼朝につなぎの効く人物としてみて捉えて、接近し血縁を申し出たのではないかと思われます。
現に土佐坊の一族は元祖であるので元もは豪族ではないし、大きくは無いのだから、氏家制度の社会のもとでは血縁の釣り合いからもありえない家柄です。
結べる家では有りません。
その後も大きい一族では有りませんから同じ条件下であった筈です。
男系が絶えて養子縁組での跡目ではなく生残りとして養子を本家筋に入れて家を立ててその土佐の坊の勢力を見方に引き入れて他の族からの攻撃を避けたものでは無いかと見ます。
ですから、お家をはじめとして、他の藤原秀郷流青木氏と違い家紋を変紋せずに副紋使用としたのだと考えます。
直流4氏系列の多くは副紋使用しているのです。
藤原秀郷流青木氏の直流系の維持を図ったのではないかと思います。そうでなければ、姓をそのままに変紋することで生残れるのですから。
その宗家筋の維持の義務と伝統の維持の責任があつた事だと見ます。
その証拠に後に手広く商いをしていたことが伝えられていたわけですから。
そこで、最後の広島、岡山の地族の問題です。
広島、岡山には讃岐の一門が移動して定住して末裔を広げていることは史実ですが、この一族には下がり藤紋に結び雁金紋をはじめとして、家紋が丸に三階松紋、抱き若松紋、亀甲紋、五瓜紋、剣片喰紋などと血縁を結んでいます。
そして、これらの家紋に変紋しています。
これらは、お家の一族の末裔が広島、岡山に移動して藤原秀郷流青木氏として血縁を結んだ土地の豪族です。
特に2つの松紋の一族はこの讃岐籐氏の血筋を庶流に持つ一族とも血縁をしています。
つまり、遠縁の藤原一門の血縁族と再び結んだことを意味します。
松紋では研究室のレポートを一読ください。
以上で、5つの情報に付いてレポートしました。
此れでお家の一族の横の環境が更に詳しくなり、ルーツ解明が進みました。
一寸した遺された事がルーツにとって歴史上の大きな解明になるので、又、是非何か出ましたらお知らせください。
ルーツが縦横と拡がると楽しくなりますよね。
お待ちしています。
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/08/13 (日) 14:40
讃岐の青木さんの代理投稿です。
お世話になります。讃岐の青木です。里の大伯父に会って話しを聞いてきましたので、報告いたします。以下の文章省略。
讃岐の青木さん 今日は。
お便りありがとうございます。色々と調べられたようですね。努力のおかげでお家に関係する重要な情報が五つもありました。
一つは藤神様の祠です。
二つは獅子舞です。
三つは加茂神社です。
四つは奉納相撲です。
五つは岡山です。
では先ず、1番目の籐神様の祠です。
讃岐の藤原秀郷氏宗家の一門を『讃岐籐氏』と呼びます。例えば伊勢の藤原秀郷の一門(藤成、基経)の場合は『伊勢籐氏』と呼びます。そして、結局、その氏を『伊藤』と呼ぶようになったのです。そして、それらの青木氏を含むその一門を祀る神を『籐神』と呼びます。
場合に依っては讃岐の宗家の現在の姓は「讃藤」で”さとう氏”と呼んでいることも考えられます。
”さとう”には沢山の「さとう氏」があリます。「佐藤、左藤、讃籐」の様に前は2つは役職名を、後ろは土地名を採っていることが考えられます。このいずれかです。讃岐付近にはかたまってさとう氏なる氏が必ず存在します。それがお家が護衛役として同行した一門の藤原秀郷の一族の宗家に当ります。つまり、讃岐籐氏です。
参考までに、讃岐籐氏は次ぎの氏名が名乗っています。
西隆寺、豊田、柴野、平尾、有岡、竹田、成宗
この氏名は全て庶流です。本流宗家筋では有りません。
室町末期から江戸初期頃に武士になったものが仕官するに当り氏名と系譜と家紋が必要になりました。
少しでも何らかの関係があったりした場合にその一族だと名乗り氏名、系譜家紋を偏纂と搾取して名乗りました。出なければ仕官は無理と成ります。
参考に。
そもそも、徳川氏は史実としてこの偏纂と搾取で将軍になれたのですから。
任官するのに朝廷は大変抵抗しましたが勢力に負けました。
16代目の天皇の第7位以降の皇子で僧侶であつた者が、還俗して全国行脚して三河の小さい土豪の家の門前に立ち、そのまま松平の家に居着き、そこの娘の婿入りをしたとするのです。
この僧侶がもと皇子であるかは疑問ですが、であるので還俗する時は源氏と名乗る事になっていましたので源氏の血筋を引いていると主張。
しかし、この16代の源氏は室町期の南北朝の時代で源平時代は既に終わり3百年以上も経ち天皇が二人いて皇子も誰が居るか判らない状況の中での主張です。源氏を名乗る習慣とっくには終わっています。豊臣秀吉と同じです。
朝廷は認めませんでしたが生活費に事欠き、土塀が崩れ去れ悲惨なありさままで追い込んでやっと認めさせたのです。しかし、源氏系である事は認めましたが「源氏頭領」だけは認めませんでした。「源氏頭領」だけがなれる幕府を開ける「征夷大将軍」ですが、「源氏長者」として矛盾のある将軍を認める事で朝廷は妥協したのです。此れが現実です。
ですから、この下の御家人は氏名と系譜と家紋を殆ど偏纂し搾取したのです。
話は戻します。
藤原秀郷流主要5氏のように高位の家柄は自らの神社と神主を持っています。この祠も「籐神」さまですので、青木氏の「氏神」を持っていた事に成ります。
そして、その氏神様がお家の側にあるとすると、矢張り、お家は本家筋系の讃岐の「下がり藤紋」を綜紋を持つ青木氏であリます。以前のレポートにも書きましたが矢張りありました。朽ちて記録などがなくなっているのが残念ですが。
次に「獅子舞」ですが、この獅子舞は天皇家の守護神の熊野神社(紀州の和歌山県)系列の全ての神社に伝わる神にささげる舞です。
この「獅子舞」を奉納するところには神社の鳥居門よりはいった所に一対の必ず「獅子頭」の石堂または石碑があります。
この「獅子舞」は源氏系列の神社、特に清和源氏の八幡神社にも伝わっています。つまり、源の八幡太郎義家を祀る神社にもあります。
つまり、天皇家か皇族賜姓族かその一族と交わる藤原北家筋にこの舞が残っています。
特に、熊野神社系列の奉納舞として必ずあります。
この獅子舞は清和系の獅子舞と藤原系獅子舞とは舞い方が少し違っています。
此処でお家の「獅子舞」ですが、もうお判りと思いますが、藤原秀郷北家筋主要5氏の内の一門でもありますので、この「獅子舞」はあるはずです。
当然にその「獅子舞」の祠付近には「獅子頭の石堂」があった筈です。
赴任した時期の平安末期頃にこの祭祀に熊野系神社から招きいれた可能性が高いと見られます。
他の土地の「獅子舞」のと同じ様に其れが「加茂神社」につながっているのではと考えます。
それが更に、決定的な証拠になります。
それは次ぎの三つ目の「加茂神社」の存在なのです。
この「加茂神社」は熊野神社系列の神社でこの「加茂神社」は伊豆地方と千葉房総地方と三陸地方にも存在します。そして、この地方にも「獅子舞」が存在するのです。
では何故かというと、それには次ぎの理由があるのです。
この「加茂」という名の発祥は和歌山県の熊野神社に由来するからです。
熊野神社の社領は和歌山県海南市鳥居と言うところが最初でそこから南紀までがこの神社の社領です。
この鳥居というところに熊野神社の第一番目の鳥居があったのです。此処から此処からが正式な熊野古道です。世界遺産に登録された熊野古道は南紀にしていますが。
各平安期からむ炉町期までの天皇は毎年熊野神社参詣に出かけたのです。
後醍醐天皇は在任期間中24年間の内25回も参詣しています。
この時に天皇に「奉納舞」としてみせたのがこの「獅子舞」なのです。
その習慣が各源氏の守護神と藤原北家一門の守護神に慣例として用いられたものなのです。
つまり、高位で皇族との血縁ある氏の奉納舞なのです。
この第1番目の鳥居のある鳥居地区のところから南に1キロ程度上ったところに熊野神社の第1番目の神社の藤白神社があり、此処からこの獅子舞の奉納が始まります。
そこより一つ山を越えると「加茂郷」という村が有り、この村に「加茂神社」があるのです。ここが全国に広まった「加茂神社」の発祥の元なのです。
では何故広まったかというと、この村は同時に海に面していて漁業が盛んでした。
そして、この土地のものが黒潮に乗って黒潮筋に黒潮漁法を伝えたのです。
その子孫が各地に定住してその子孫の氏子達が守り神として加茂地区から迎え入れて「加茂神社」を造ったのです。
加茂だけでは有りません。勝浦や下津や田辺や由良や和歌山沿岸の土地の地名が各地に伝わっているのです。そして、この奉納舞を広めたのです。
四国の土佐や讃岐地方でもこの黒潮漁法が元で獅子舞も庶民にも広く伝わったのです。
この黒潮漁法とは、船の交尾より糸を出し10メータほどのところに広葉の形をした木の板を付けその30メータ後ろに針と疑似餌をつけて船を走らせる漁法です。
木の葉型した板は音を立て魚が跳ねた形になりますと魚の習性で音の周囲に集まるという事を利用した漁法です。
此れは太平洋のアモイ族が編み出した方法でこれを鯨やのマグロの遠洋漁法する紀州の漁民が物まねで会得し大漁高として有名になり平安期頃から各地に伝わったものなのです。
この様に「加茂神社」の「獅子舞」は「奉納舞」として上記の氏の一つとして皇族に縁のある藤原秀郷一門が定住する地域に広まったものなのです。
当然に讃岐の青木氏のもとにも。そして庶民の祭りなどに使う芸能舞としても。
瀬戸内海では水流が速く内海ですのでこの漁法は向きません。
単純に加茂神社からこの伝統を他の関西の藤原氏一門と同じく招き入れたものと考えられます。
上記した藤白神社でもつい最近までこの二つの行事が行われていました。
獅子舞は残っていますが、相撲は昨年なくなりました。
更に、此れだけでは済まないのです。
この「加茂神社」の「獅子舞」と同時に「奉納相撲」も行われたのです。
「獅子舞」と同じく上記の3つの系列ではこの「奉納相撲」も行われていました。
そもそも最初は「相撲」は神にささげ、楽しませるものであったのです。
特に相撲の中には面白おかしくする舞のようなしぐさでする相撲(ショッキリ相撲)があります。これが神にささげる最初の行事であり、当然、熊野詣で毎年来る天皇家の人々を楽しませたのです。
天皇にささげる相撲は舞と同じく神にささげる相撲でもあったのです。
此れも「獅子舞」と同じく皇族系の一門が住む讃岐の土地にも伝わっていたと云う事です。
そこで、もう一つ伝わっていないかお調べになると完璧に伝統が残っている事に成ります。
それは、「曲水の宴」です。
大きい庭に山から水を引き池にしてその池を庭中を取り囲む様に廻します。
そして、この池にところどころに座って歌を詠みそれを池に流します。
次ぎの人はその歌をとり、返歌して更にその返歌に対して次ぎの人が返歌を繰り返す。そして、その間毎に杯を流して飲み干すまでに返歌するという実に優雅な平安期の歌のゲームです。
これが当時の神にささげ天皇に報じるなどのこの伝統のセツトです。
武家ですので少ないかも知れませんが何らかの形で遺されては居ないでしょうか。
このことから、このような伝統を重んじたことで見えてくることは、讃岐の藤原秀郷流青木氏の「下がり藤紋に結び雁金紋」のお家の一族はこのような由緒ある伝統を現在までに伝えていたのは紛れも無く宗家筋の一門であり、且つ、藤原秀郷流青木氏の主要9氏(直系1氏と直流4氏と支流4氏)のうちの直流4氏のうちのかなり宗家筋の一門であったことが覗えます。
祠を建てたときにこれ等の奉納行事を熊野神社系から招き入れるだけの力があったことを意味します。
更に、間違いなく、讃岐では宗家本家筋から分流した末裔であろう事が覗えます。
そこで私は副紋を「結び雁金紋」としたことには一つの意味があると見ています。
結び雁金紋は前記レポートでも書きましたように土佐出身の土佐坊昌俊が元祖であり、1192年頃に源の頼朝に信頼されて重用された人物で、頼朝より与えられた家紋です。
この頃、讃岐のお家を始めとして藤原一門は鎌倉幕府が成立して全ての職を失い離散して生き残りに翻弄されていた最中であった時期です。
この時に生き残りさくとして、宗家本家筋として何とか一族一門を救おうとして奔走して居た筈です。これは自然の成り行きであり、生存の可否を決める行動ですから、渡りに船の土佐出身の日の出の勢いの頼朝につなぎの効く人物としてみて捉えて、接近し血縁を申し出たのではないかと思われます。
現に土佐坊の一族は元祖であるので元もは豪族ではないし、大きくは無いのだから、氏家制度の社会のもとでは血縁の釣り合いからもありえない家柄です。
結べる家では有りません。
その後も大きい一族では有りませんから同じ条件下であった筈です。
男系が絶えて養子縁組での跡目ではなく生残りとして養子を本家筋に入れて家を立ててその土佐の坊の勢力を見方に引き入れて他の族からの攻撃を避けたものでは無いかと見ます。
ですから、お家をはじめとして、他の藤原秀郷流青木氏と違い家紋を変紋せずに副紋使用としたのだと考えます。
直流4氏系列の多くは副紋使用しているのです。
藤原秀郷流青木氏の直流系の維持を図ったのではないかと思います。そうでなければ、姓をそのままに変紋することで生残れるのですから。
その宗家筋の維持の義務と伝統の維持の責任があつた事だと見ます。
その証拠に後に手広く商いをしていたことが伝えられていたわけですから。
そこで、最後の広島、岡山の地族の問題です。
広島、岡山には讃岐の一門が移動して定住して末裔を広げていることは史実ですが、この一族には下がり藤紋に結び雁金紋をはじめとして、家紋が丸に三階松紋、抱き若松紋、亀甲紋、五瓜紋、剣片喰紋などと血縁を結んでいます。
そして、これらの家紋に変紋しています。
これらは、お家の一族の末裔が広島、岡山に移動して藤原秀郷流青木氏として血縁を結んだ土地の豪族です。
特に2つの松紋の一族はこの讃岐籐氏の血筋を庶流に持つ一族とも血縁をしています。
つまり、遠縁の藤原一門の血縁族と再び結んだことを意味します。
松紋では研究室のレポートを一読ください。
以上で、5つの情報に付いてレポートしました。
此れでお家の一族の横の環境が更に詳しくなり、ルーツ解明が進みました。
一寸した遺された事がルーツにとって歴史上の大きな解明になるので、又、是非何か出ましたらお知らせください。
ルーツが縦横と拡がると楽しくなりますよね。
お待ちしています。
Re: 讃岐の青木です。
青木研究員 さん 2006/06/28 (水) 11:02
讃岐の青木さん今日は。
本日も大変貴重な情報が届られました。
確かに拡がってきましたね。これがルーツ解明の面白さですね。
其れが一寸した針の穴くらいの事からぱーと花が咲いたように広がるところが面白いですね。
今日も、きっとそうなるでしょう。
亀甲族は出雲大社の神紋ですが、この出雲大社に関係する周囲の氏子の小豪族は挙ってこの亀甲紋を家紋にしました。
そもそも、亀は万年生きることからこの紋様を目出度いとして家紋にしたわけですが、この紋様は極めて古くからあり、記録には平安中期頃から紋様化されて最初に出雲大社が鎌倉期に神紋化されはじめました。
次第に周囲の氏子族が使い始めて中国全土にひろがりました。ところがこの家紋族は小豪族の集まりから、その結束が弱く大きい豪族を作れ出すことはできませんでした。
それゆえに時代の荒波に乗り切れなかったというのが現実です。
しかし、地名や小豪族が残りました。
お家のご本家の土地名が亀水町もその一つですし、岡山には亀甲駅もある筈です。
亀甲族が住んでいた所は瀬戸の水元を意味しているのではないでしょうか。
つまり、水元は河と海の交わる港という漁業と海運の意味ですから。
この地域は元は中国後漢の国の光武帝から21代目の献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王が17県民(200万人)全てを引き連れて九州北部に上陸しました。孝徳天皇のころの大化の改新のさなかです。
そして、あつと云う間に九州全土を無戦に近い状態で制圧して大和の国に帰化してきました。そして、中国に入りここも無戦制圧して関西に侵入しました。この無戦とはこの一団は多くの民とその進んだ政治と経済と工業の知識と生活手段の集団を引き連れていましたので、土地の者は進んでこの集団の支配下に入り、その技術や技能を修得して生活が豊かになりました。
この阿智使王と阿多倍王を長としての後漢の集団は日本66国のうち32国を支配下に入れたのです。
そして、土地にその生活手段をおろして民を豊かにしました。(氏名の後に部のつく苗字は全てこの集団の民の一族です。)
現代の第一次と二次の産業は殆どはこの集団が持ち込んだものです。
この阿多倍の5代後の子孫が平清盛です。
そして桓武天皇の母はこの阿多倍の孫娘に当ります。
阿多倍は敏達天皇の曾孫を娶り、3男をもうけます。
この長男が坂上氏で次男は大蔵氏で三男は内蔵氏です。この姓は天皇から賜姓を受けたものです。
この3人が朝廷の役どころの3蔵のうち、大蔵と内蔵、そして軍事の実権を任されました。(祭祀や政治の斎蔵は藤原氏 朝廷の大蔵省は次男が 天皇家の財政を三男がそして、長男が朝廷の軍事をと担うのです。
有名な日本全土を制圧した坂上田村麻呂は長男です。大蔵氏は後に永嶋氏と名乗ります。桓武天皇の日本最初の律令政治はこの後漢の国の帰化民族が完成させたのです。
詳細は研究室のレポートをお読みください。
この一族は中国地方も制圧して陶部の陶族が統治しました。村上水軍もこの末裔です。室町幕府の末に幕府に味方して毛利氏に滅ぼされます。
この小豪族をたばねていたのが陶族です。この時にこの小豪族は解体してしまうのです。亀甲族は元を正せばこの阿多倍がつれてきた帰化民であると見られます
ですからこの付近の一族は殆どこの亀甲族の血縁的影響を受けている筈です。
其処にお家のご先祖が1320-50年前後に移動しているわけですから血縁を結んでいるはずです。
今は亀甲紋でなくても血縁を受けている筈です。ましてそのご本家がその真ん中に居るのですから当時の慣習から生きていくうえでも土地の協力なしでは無理なのです。
大野氏もこの亀甲紋に血縁していることは母方も含めて先ず間違いがないと考えます。
次に岡山の亀甲族との関係の持った移動されたお家の青木さんが確かに投稿うされていました。ですから、後は証拠を見つけるだけとみられます。
この付近にある青木氏はお家の一族です。当時は讃岐との連絡も充分に本家分家の関係から一族はとれていたはずです。当時は前レポートに記しましたように一族総出で商いをしていましたから。
この付近の青木氏のお墓の紋所を調べられるとお家の綜紋の「下がり藤紋」から変紋していることが判るはずです。
そして、この付近にお寺がある筈ですからそこからも何かでるやもしれません。
お家は「下がり藤紋」を維持されて来られているところから、讃岐青木氏と岡山の青木氏の本系筋に当ることを意味します。
藤原秀郷一族5氏でも「下がり藤紋」を維持できている末裔は少ないと思います。青木氏116氏ではもつと少ないと考えます。
投稿されている中では2件目になると思います。
又何か新しい情報がありましたら、是非お便りください。
段々と全国の青木氏のルーツの解明が進むことを期待します。
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/06/27 (火) 23:24 [ メール ]
こんばんは、何かすごい話が広がって驚きです。亀甲族と関係あるのか実家は瀬戸内海に面している亀水町(たるみと読みます、難読地名!)というところです。なぜ亀なのか地元でも明確な答えはないようです。たるみとはその昔、対岸の岡山との海上境界を決めるのに樽を流してそれを山から見ていたからこの里はたるみになったそうです。(それなら樽見でよさそうなものなのに)50年位前まではただの字名でした。青木はかなりの件数集中してます。
Re: 讃岐の青木です。
かんりにん [本物] 2006/06/27 (火) 22:15
こんばんは、讃岐の青木さん
そして、副管理人さん
副管理人さんのご記憶ですが、
こういう場合この掲示板の検索機能をご利用ください。
「亀甲」で検索しましたが、何件かヒットしました。
赤字で示されますのですぐに見つかります。
岡山の青木さんの依頼が関係ありそうですね。
検索フォームは掲示板の上のほうにあります。
副管理人さんのいままでの回答がすばらしいデータとして
使えますので、検索機能が生きてきます。
今後とも宜しくお願いいたします。
Re: 讃岐の青木です。
青木さん 2006/06/27 (火) 21:22 [ メール ]
有り難うございます。ただただ副管理人様の文面内容に合点もいき、びっくりしています。早速、地元の本家筋の話の聞ける人を捜してみます。また、なにかわかりましたら、報告させていただきます。その時は、よろしくお願いいたします。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | |