青木ルーツ掲示板
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    ※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。
    みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。
    また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、
    下記の情報を添えて書き込んでください。
    福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。

    必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。]
    ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など)
    ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。
    ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。
    ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。
    現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。

    この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。
    関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。

    青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。
    ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。
    また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。

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      [No.644] Re:東京目黒の青木です。
         投稿者:青木 龍   投稿日:2009/10/25(Sun) 23:53:21  

    福管理人さま、ありがとうございます。

    全国の青木さんのルーツ探しの質問に、いつも詳しくお答えしているところを拝見させて頂いておりましたが、今回、私の祖父の残した文章から、こんなにも色々な事が読み解けるとは感服いたしました。

    是非、福管理人さまに教えて頂いた事を追記し、大切に保存させて頂こうと思います。

    これらの物を持参し、長野の青木本家を訪ねたら、さらに色々なお話を聞くことができるかもしれません。

    また新しい情報が入りましたら、ここに書き込ませて頂こうと思います。

    その時はまたご教授下さいませ。

    本当にありがとうございました。
                               青木 龍


      [No.645] 西寺方町の平野さん
         投稿者:加藤瑞枝   投稿日:2009/10/25(Sun) 23:22:24  

    北条氏照の居城だった八王子城跡に登りました。
    搦め手だった西寺方は父の生まれた故郷です。
    旧姓は平野、家紋は丸にミツウロコ。
    寺は八王子市西寺方町にある勧栖寺(曹洞宗)です。
    後北条氏と関係のある家系でしょうか。


      [No.643] Re:東京目黒の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/25(Sun) 09:02:23  

    東京目黒にお住まいの青木さん 今日は。 始めまして。
    青木サイトに集われてレポートをお読み頂きありがとう御座います。
    これからもよろしくお付き合いお願いします。

    さて、サイトの色々なレポートをお読み頂いていると考えて、ご質問にお応えしたいと思います。
    ご詳細な情報からご質問には明確にお答えが出ます。
    この情報は大切に保管される事を期待します。

    さて、早速ですが、ご先祖久衛門殿は曾祖父であられて明治前江戸時代の方と思います。
    長野県東築摩郡寿村字赤城(現松本市)の本百姓。
    この情報から農民であったとすると、江戸時代は「氏家制度の社会習慣」の中での婚姻関係なので確かに問題ですね。
    この習慣の中(家柄身分の吊りあい姻戚)で、農民と武士が婚姻をする事は一般的に考えられない事です。例外はあるとは思いますが、しかし、ここに一定の定められ公認された例外が在るのです。

    それは、次ぎの身分の者なのです。
    土地の農民の元締め長の「庄屋」
    土地の農民の名士の「名主」
    土地の実力者の「豪農」
    土地の農民で半武士の「郷士」
    土地の名家の武士で農民扱いの「郷氏」
    以上5氏です。
    これ等の全ての者は元は鎌倉、室町期には土地の武士か土豪であり、何らかな理由で武士を棄て土地に根づいた者です。例えば戦いに敗れたとか、土豪で力を持ちながら武士を棄てた者とか、土地で実力があり領主から農民をまとめる為に長を命じられた者とかの経緯のある家柄身分を得た者です。

    土地を治めるには農民をいかにまとめるかに掛かりますのでこれ等の者がこの任に携わったのです。
    苗字、帯刀、家紋等も許され、中には、領主や上級武士から自分の苗字や家紋の使用を許される事が多く起こりました。
    上記の5者の全てはこの特別待遇を受けています。
    信州信濃では、名族として足利氏、諏訪族、武田氏、青木氏(本サイトにレポートしています)等があります。
    詳しくはレポートをお読みください。

    念の為に概容として述べますと、青木氏に関しては次ぎのルーツが有ります。
    1 皇族賜姓青木氏です。奈良時代からの守護王で第6位皇子の皇族賜姓系青木氏
    賜姓青木氏は5家5流で伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5国で、天智、天武、文武、聖武、光仁天皇の第6位皇子守護王の末裔 信濃は天領地で聖武天皇第6位皇子で信濃国府に定住 国府
    2 この信濃賜姓青木氏と奈良期の後漢の帰化人で土地の豪族の末裔の諏訪族との間の血縁で諏訪族系青木氏(賜姓青木氏系) 西諏訪域
    3 信濃賜姓青木氏と土地の豪族足利氏との血縁で足利氏系青木氏(賜姓青木氏) 北域国境
    4 この足利氏系青木氏と武田氏系青木氏との血縁族 甲府東域
    5 この武田氏系青木氏と諏訪族系青木氏との血縁族の武田氏系諏訪族青木氏 甲府北域
    6 藤原秀郷流青木氏(国境南域)

    これ等の末裔の発祥は少しづつ時代は異なりますが全て定住地を住み分けしています。
    提供された情報に拠りますと、4番か5番目の青木氏の姓と家紋を使用したことに成ります。
    時代性からその経緯の元は比較的1570年代の新しい事に成りますね。

    そこで、何故に姓や家紋を使用を許されたかの問題ですが、それには根拠があるのです。
    戦国時代に戦いの戦力は武士だけでは何万と言う陣容を整えることは出来ません。
    徒歩、食事、運搬下働き、柵などの陣形を作る者、沿道を警護する者など必要です。
    当時はこれ等は近在の農民から一定の契約で領主に兵として参戦する仕組みです。
    領主から頼まれてこの農兵をまとめるのが土地の長の上記の5氏なのです。
    この半農半兵の仕組みが戦国時代には構築されていたのです。
    豊臣秀吉はこのシステムを嫌い半農半兵制度を禁止しましたが護られませんでした。
    武田氏もこの仕組みを使いました。
    勝利した暁にはその長は褒美と契約金と戦利品は元より苗字と家紋と刀の使用を許されたのです。

    現在投稿しているレポートの武田氏の「甲斐青木氏の研究(花菱紋 前、中、後)」のところに詳しく記述していますのでお読み下さい。
    武田氏の信玄や勝頼の時は強くこの農兵に頼らざるを得なかったのです。

    お家の三階菱紋の使用と青木氏の使用をこの時に許されたと考えられます。多分間違いは無いと考えます。つまり、武田氏の三階菱紋の青木氏が土地の支配を任され、信玄と勝頼から兵の割り当てがあり、農兵により陣容を整えたと考えられます。三階菱紋は甲斐青木氏3氏6家の支流一族に当ります。
    お家のご先祖はこの時にこの時代にこの制度に応じたと考えられます。
    この徹底的で典型的な構成をしたのが古くは武田藩と新しくは黒田藩と島津藩等が有名です。殆どの大名はこの制度に頼りました。

    西郷隆盛や坂本竜馬などもこの家柄郷士です。

    お家はこの5氏の内の一つであった事から、土地の代官との血縁が出来たのです。
    元を正せばこの5氏は多くは鎌倉前後は武士であったのです。
    中には「郷氏」は武士として豪商も営み「2足の草鞋」策を採っていました。
    郷氏は家柄身分を持ち良く元は国の守護職等の高位の職務を務めていた氏の身分家柄です。

    つまり、ご先祖が信濃の土地で領主からこの様な勲功を受けたのです。
    この経緯が江戸末期まで口伝で伝わり、その根拠により後に青木氏を名乗ったと考えられます。
    故に、その根拠から明治3年の苗字令と8年の督促令の時に名乗ったと考えられます。

    従って、上記5氏の上3つのどれかと考えられます。情報から2番目ではと思います。

    この遺された文章にこれ等の事を書き記して添えられて保存すると後の子孫にその意が伝えられてゆくと考えます。
    更に「甲斐青木氏の研究(花菱紋 前、中、後)」を読まれてその一部を抜粋して添書されると良いのではと考えます。

    この様な経緯が信濃にもあるのです。

    では、取り敢えずはこの程度して、ご質問等有りましたら又お便りください。


      [No.642] 東京目黒の青木です。
         投稿者:青木 龍   投稿日:2009/10/24(Sat) 23:52:59  

    はじめまして、東京都目黒区在住の青木です。
    青木のルーツに興味があり、以前からここで勉強させて頂いております。

    私の家の青木のルーツについては、祖父の残した簡単な文章から多少はわかっているのですが、青木氏の研究家である管理人の方々ならもう少し詳しく読み解いて下さるかなと思い、投稿させて頂きました。


    ・我が青木家の本家は長野県にあるようで、分家(?)である我々は3代前から東京に住んでいます。

    ・私の祖父の墓は築地本願寺(浄土真宗)の和田堀廟所にあります。しかし祖父からなので、その前の代は私は『青山墓地』にあるという事しか把握しておりません。

    ・その墓石にある家紋は『三階菱』です。私が父から生前分与された刀剣金庫の棚にも同じものが刻まれています。


    私の祖父が生前書き残した文章を下記に転記させて頂きます。余分と思われる場所は多少省略させて頂きます。この文章は祖父の祖父、の説明から始まります。
    ※は私からの説明です。

    ---------------------------------
    青木久エ門
     代々続いた、旧、長野県東築摩郡寿村字赤城(現松本市)の本百姓。
    明治以前の生まれなので、勿論、青木の姓は無かった。近くに、元、武田の武将青木氏の山城が有ったので、御一新の時、姓も三階菱の家紋も拝借したらしい。松本盆地の南端に位置し、南へ、200メートル程で丘陵に掛かる豊かな水田地帯で、隣接の二ヶ村と共に、5000石領の上諏訪藩の飛び地だった。
    代官、馬場氏とは、姻戚だった。現在、R子さんが馬場の当主である。
    丘陵は、牛伏寺がある東山に続き、東山の裏側は、諏訪盆地となる。
    久エ門は、政治の真似事が好きだったらしく、若い頃から、長らく村長をして居たそうである。
    明治15年生まれの三男、K雄(※私の曽祖父)を医者にした位だから、教育にも、熱心だったのは確かである。
     青木K雄が、M雄(※私の祖父)の実父である。
     久エ門の長男、K雄の長兄を仁作と言い、この人も村長なぞをして居たが割合若い頃、脳出血で死んだ。私が、知って居るのは、この大伯父からである。仁作は、東京大震災の時、村の若い衆を動員して、長男の久門に指揮をさせ昼夜兼行で、威勢良く、数々の峠を越えて東京の弟に米俵をとどけた。
    この家が、所謂、青木本家である。K雄は、五人兄弟の末子だった。今、本家は昔からの水田や桑畑を、皆、果樹園にして自営している。裏手の丘陵に、先祖代々の墓が有り、父、K雄の分骨された遺骨もねむって居る。
     久エ門の直系卑属で一番初めに医者になったのは、勿論、青木K雄であるが、その後、長野青木一族も続々、医者を出した。
     ちなみに本家の現当主は、塩尻市で医院を開業している青木HKで、久門氏の長男である。新宿の青木から医学校に通った人である。私が中学生の時である。
    ----------------------------------

    長くなりましたが、以上が祖父の残した文章です。

    私の考えでは、久エ門が百姓であった事、姓や家紋を武田の青木から拝借したという事、菩提寺についての記述がなく、祖父の墓地が浄土真宗の墓地にある事から、新青木(第三の青木?)だったのだろうと考えています。
    しかし代官の馬場氏との姻戚というのはどういうことのなのでしょうか?


    青木K雄以降の東京青木一族は代々、皆医師で、私も現在医学部進学を目指し浪人中です。
    私が医学部に進学できたら、是非この文章を持って、長野青木の本家にご挨拶に行きたいと思っています。
    それまでは以上に上げたもの位しか資料がなく、この中でわかる範囲で良いので、わかりやすく説明して下さると嬉しいです。

    本当に長くなってしまいましたが、よろしくお願いします。


      [No.641] Re:家紋の質問
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/23(Fri) 08:01:49  



    綾戸さん 今日は。 お読みいただきありがとう御座います。

    よく色々と歴史の事にご興味をお持ちと推察します。
    同じ歴史ファンとして親近感が湧きます。
    これからも青木サイトにお出でください。お待ちしています。

    「綾部」は大変古い技能集団で大化期前後に帰化してきた帰化人ですが、後漢の人は日本人の15%がこの子孫と成ります。(青木サイトにもこのことは「日本民族の構成と経緯」レポートで詳細にしています)日本の骨格を作り上げた日本人です。恐らくはその末裔と観られますが、その日本人の氏姓はある一定のパターンで姓が出来ています。

    「綾の神」は技能集団の「綾部」の綾氏で「部」はその組織を表現する意味ですからお家の前に「綾の神」を祭祀されていた事は綾氏一族一門の氏神で守護神ですね。
    「部」の人たちが古いご先祖を祀られていた事を意味します。
    そして、それを祀る役目を綾氏の誰かが担当していたのです。
    青木氏も同じで青木神社の守護神が各地にありまして、その宮司や守人は一族の者が行っていました。
    神社の宮司で青木氏が多いのはこの当時の歴史的習慣でした。

    綾氏は大変大きい氏ですが、当然に氏神を持っていました。
    当然に、社人や宮司も居て、何時しかその社人や宮司を「綾人」(あやと)或いは「綾戸」と呼んだとされます。他の氏でも特に「部」の着く氏の氏神は「人」、或いは「戸」又は「家」を付けて氏名としています。
    分類すると役目による使い分けをしていたのです。(神に捧げるお神酒を造る「杜人」も「社人」の中の役目の一種です)
    「人」は主に宮司、「戸」は社人(杜人)、「家」は氏総代と成っている様です。
    綾氏の綾とする一文字の氏は多くはこれ等後漢の渡来人で、そのそのものの「綾部氏」もありますが、これ等の役目柄を後ろに付けての氏名が多いのです。
    室町期ごろから出てきます。
    お家は、氏名のつけるタイプから「戸」は社の人、つまり社を護る一族であったことを物語ります。
    お家は元々綾氏族と云う氏を持ちますので、その元々氏名を持つタイプのその綾の判別をする目的から後ろにつけるタイプです。
    氏名は前につけるタイプと後ろの付けるタイプがあり、役目柄を示すタイプです。地名もあります。
    綾部の綾氏等はその役目柄を3つに分けていたようです。

    例えば、藤原氏はこの前につけるタイプで地名と役目でつけています。
    斎藤氏は斎蔵と言う朝廷で最も高い祭祀を司る最高幹部職ですがその斎蔵の藤原氏と成ります。
    伊藤氏は伊勢の藤原氏と成ります。
    この様に大きい氏はその前後に特長をつけることで判別していたのです。

    ご推察の通り、綾部の綾氏一門の綾戸氏で宮司に近い仕事の神職を司っていたことを意味する氏名です。
    お家の前に、綾神社の社があったことはこの何よりの証拠です。
    多分、近くに、綾人さん、綾家さん、綾部さんも昔は居た筈です。

    「・・部」に付いてたくさんの部の種類がありますがサイトにレポートしていますのでお読みください。これらの多くは氏神を持ち、その役目柄を後ろに付けた氏名があります。

    これ等のことはの由来は後世に伝えて伝統を護って行きたいですね

    画家の綾戸さんに着いては残念ながら良く判りません。
    過去帳を調べられる時に、アドバスとして、その人の戒名で、ご先祖の仕事内容が判る要に成っていますので、よく記録しておく事をお勧めします。
    3つの内容を読み込むように成っています。
    サイトにレポートしています。

    では、これからも何かご質問ありましたら便りください。


      [No.639] Re:家紋の質問
         投稿者:まさ   投稿日:2009/10/18(Sun) 20:03:15  

    丁寧なご回答していただき、ありがとうございます。
    すぐに、お礼申し上げなければならないところを、大変遅くなってしまって本当に申し訳ありません。
    早速、菩提寺の過去帳を見に行ってこようと思います。

    >技能集団の綾織をする技能集団がありました。
     やはり「綾」は、綾織りとの関係が深いのですね。実は、ふと思い出したのですが、今は綾戸家の近くの会館で、祀られている「綾の神」という自然石があるのですが、私の母が子供の頃は、家のすぐ前あたりに祀られていたらしいのですが、「綾」の神を祀っている「戸」(家)で「綾戸」という事はあり得るのでしょうか?また、周辺地域に「天女の羽衣」伝説が残っていて、そのような地域には「綾」という名字が多いという事を知りました。

     綾戸鐘次郎藤原之信についてですが、実際に平岡八幡宮の花の天井を見に行きました。
    神社の人に、綾戸鐘次郎藤原之信について聞いてみたのですが、「ここの絵を書いたという事しか分からない。」という事で、謎に包まれている人物でした。

    どうか、これからも、アドバイスをよろしくお願いします。


      [No.640] Re:青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
         投稿者:   投稿日:2009/10/18(Sun) 15:54:41  

    管理人様

    懇切丁寧な解説とご指摘に感謝申し上げます。
    誠に有り難うございました。

    なお、鷹の羽紋につきましては第1信の「丸に違い鷹の羽」が正しく、第2信の書き込みは再度の誤謬につき謹んで訂正申し上げます。

    伊早坂という希少姓の起こりを知りたくて投稿させていただいた訳でありますが、源平藤橘の中世の四大姓に結びつけようなどとは考えてもおりません。

    四大氏姓を称する氏族のほとんどが仮冒で、本来は土着の古族であることも承知しております、また佐々木氏姓についても本来の沙沙貴山氏とその流れが複雑で判然としないなことも存じています。

    本来、四目結紋は九条家の有紋冠の文様であり、四目結紋九条家の家礼であった定綱以来の佐々木氏が、四つ目結紋の冠を被って朝廷に出仕していたことも存じています。
    現在の沙々貴神社の神紋が平四つ目結紋であるのは、、江戸時代の天保14年(1843)丸亀藩主京極家によって再建されたときに、京極家の紋平四つ目結紋に替えられたからといわれています。
    六角氏が隅立て四つ目結紋、有力庶子家の京極氏は平四つ目結紋を使用していたのですが、四つ目結紋は隅立てが正しいことも分かっています。

    伊早坂は、もともと、土着の古族であろうことは予測しておりましたが、藤原系と称する家や日本家紋研究会「家紋でわかるあなたの先祖」群馬県(高崎・富岡・藤岡)地域の冊子に「伊早坂、丸に平四ツ目、清和源氏族」と掲載されていることも知っていましたが、それについて疑問を抱いておりました。
    むしろ土着の古族とされたことで、落ち着いた気持ちになれます。
    それと、「伊早坂」と「伊坂」「早坂」との間に関連性があるのかどうかも長い間疑問に思っていましたが、今となっては知るすべもないことも分かりました。

    色々と有り難うございました。
    これからも賜姓青木氏のご繁栄をお祈り申し上げます。


      [No.638] Re:青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/18(Sun) 08:35:56  

    群馬の伊早坂さん 今日は。始めまして。
    ようこそ青木サイトに御越し頂きました。

    大変珍しいお名前ですね。
    長年色々とお家のルーツをお調べに成っていられる様ですね。
    そのご努力には敬服いたします。

    さて、折角、青木サイトにお越し頂きましたので、そのご努力に何もお応えする事が出来ないのも残念です。はっきりと申し上げまして全く判りません。
    ただ、長年青木氏に付いて研究してきました事から、その歴史的な史実とかで参考になることがあるかも知れません。
    そこで、提供されました情報から幾つか感じるところがありますので、それを参考になればと思い書き記します。

    ルーツを調べる時に必要とする事は次ぎの事ではないかと思います。
    先ず、「時系列」、つまり、時代性を揃える事、
    次ぎに、「地域性又は地理性」をまとめる事、
    3番目には、「人又は氏系列」を仕分けする事、
    この3つが出来れば、次ぎの事を把握する事です。
    これ等に伴なった「歴史的な史実」を集める事、
    時代に応じた当時の「社会習慣」を把握する事、
    この2つ知識が情報を正しく判断させてくれます。

    特に、室町末期から明治初期に掛けての各種にある系譜や伝説や口伝には搾取偏纂や間違いが多いので2つの知識がその正否の判別をしてくれます。
    ここが重要だと考えます。
    この2つの知識の把握は当然に信頼できる学術的歴史書籍を読みあさり深く広くする事以外にありません。幾ら多くの史料を求めてもこの2つの知識が無ければ違った答えを出してしまいます。
    青木氏を調べた2つの知識から観ても、伊早坂さんが提供された中にも、史料そのものに幾つかの間違いが見当たります。これでは正しい答えは見つかりません。

    家紋、宗派、菩提寺、氏姓、地理、などには奈良時代からの時代ごとの「氏家制度」の習慣があります。しかし、兎角、人は現代感覚で見てしまう癖を持っています。それを防ぐ事が必要です。

    そこで本題に入ります。
    お尋ねは信濃の諏訪族との関わりのことですが、この事に付いて「時代性の問題」から入ります。
    先ず、奈良時代孝徳天皇の前後に2次に渡り後漢の21代献帝の子供「石秋王」の孫の阿智使王と曾孫の阿多倍王が後漢滅亡後に17県民(200万人)の技能集団を引き連れて北九州に上陸しました。この一団は瞬く間に九州全土を無戦の状態で制圧しました。これは彼等の進んだ技能を日本人に伝え生活程度が向上させたので進んで民は配下に入りました。
    その後、中国地方から関西の手前まで征圧しました。
    当時は66国中32国を征圧しました。
    この時、集団の首魁の阿多倍王は大隈地方に定住していました。そこで朝廷と和解し帰化をします。
    どんどんと彼等の集団は入国してきます。
    朝廷は、この技能集団の国内の貢献で第1次産業は著しく発展させので(現在の第1次産業は彼等の持ち込んだ生産技能です)、薩摩大隈地方を半国割譲し阿多倍王に与えます。
    更に、朝廷は伊勢国の北部伊賀地方を割譲して阿多倍王を呼び寄せます。
    そして、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘を娶ります。阿多倍は王は准大臣に任じられます。
    そして、3男を産み長男は朝廷軍の征夷大将軍の坂上氏を賜姓されます。次男は朝廷の政治機構の3蔵の一つ大蔵を担当し大蔵氏を賜姓を受けます。三男は内蔵を担当し、内蔵氏の賜姓を受けます。(斎蔵は中臣氏:藤原氏)
    朝廷の官僚機構の6割は彼等の政治集団です。日本書紀は大半は彼等の仕事でした。天武天皇は一般から優秀な者を採用して彼等の指導を受けさせたほどです。この事は日本書紀に書かれています。
    桓武天皇は律令国家を完成させた天皇ですが、殆どは彼等の進んだ政治知識による貢献です。
    安倍氏、阿倍氏は阿多倍王のその分家支流末裔です。
    彼等の民は「・・部」と着いた氏ですが全て彼等の民の末裔です。
    陶氏(陶部)、秦氏(秦部)、司馬氏(司馬部)等 室町期の中国地方を全征圧していた陶氏はこの末裔です。瀬戸内海の村上水軍(平氏)等もこの陶氏の末裔です。
    その後、阿多倍王の孫娘と光仁天皇の間に生まれた桓武天皇はこの一族を引き上げます。
    そして、この一族に「たいら族」(桓武平氏)を賜姓します。
    それまでは、賜姓は天智天皇から光仁天皇まで5代の第6位皇子が臣下して青木氏を賜姓して各地の天領地の守護王と成りました。これが5家5流青木氏の発祥です。
    しかし、これを桓武天皇は中止しは母方を引き上げたのです。最後は太政大臣の5代目「平清盛」です。

    さて、諏訪族は天智天皇の時、蘇我氏の専横で軍事政治経済ともに弱体していましたので大化改新の一つとして未開地であった信濃、甲斐、上野の山間部を開墾する為に、これらの後漢の渡来人の帰化人をこれ等の地に廻して、その専門的な技能で開墾をさせました。
    ところが瞬く間に開墾が進み朝廷は経済的に潤いました。この開墾地の守護王として第6位皇子の賜姓青木氏を廻したのです。日本書紀にその貢献から都に呼び寄せて褒美を与えた事が書かれています。
    この時、信濃や甲斐には外来大馬の「馬部」を廻して開墾をしたのです。
    この子孫が信濃の諏訪族です。
    この諏訪族と信濃守護王の青木氏とが血縁して諏訪族青木氏が発祥したのです。
    この山間部の諏訪族は海産物を尾張や遠江や駿河から入手したのです。
    この海産物の加工していた技能集団が「磯部」の磯部氏です。
    海産物の加工技能の磯部氏が信濃、甲斐、上野に運搬して売さばいたのです。
    これ等の地にも末裔を置いて商いをしたのです。

    (「・・部」は平安時代の経済システムで「部制度」と呼ばれ、全ての第1次産業の物品を加工する職人集団を朝廷に所属させ、彼等を「海部」「服部」「物部」等と呼びます。
    生産したものは一度朝廷に納めてそれから市場に払い下げるシステムです。「物部」は第1次に入国した軍事を担当する部(べ)です。この事柄について青木サイトに詳しくレポートしています。その後彼等の技能集団はその「部」を氏姓としました)
    そこで、この磯部氏の末裔は馬部達の諏訪族に混じって信濃、甲斐、上野にも分布するのです。
    奈良時代から平安初期までは、お家は上野の民であったとすると、原住民か或いは後漢の渡来人の末裔と言う事が考えられます。磯部氏であったかは史料が有りませんので奈良時代のものは確認出来ません。
    諏訪族青木一門は後に信長に滅ぼされて藤原秀郷一門の青木氏を便りに保護されて神奈川から更に栃木まで逃げ延びました。その後、少ないですが福島域までの北に向かって末裔は広がります。
    この諏訪族が諏訪氏と皇族賜姓族の青木氏と武田氏以外に名乗っていることは有りません。
    宗派も異なっていますので諏訪族一門では有りません。

    平安中期からは、この地は「平将門の乱」を平定した藤原秀郷が武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする範囲を領し下野、上野にはこの一門主要24氏が多く分布しました。
    この藤原秀郷一門には詳細が判っていますがお家のご先祖であるかは史料から確認出来ません。
    しかし、恐らくはその藤原氏の特長から高い確率で違うと思われます
    この地域には、この時期には「桓武平氏」が1185年まで末裔は定住していました。
    しかし、この「桓武平氏」は最終は西国に一門が移動していますのでこの末裔の可能性は無いと思います。
    また、この地域には天智天皇の大化の改革により皇族第7世族が平安期まで代々の天皇が代わる度に発祥しこの地域に配置されました。これが「坂東八平氏」(ひら族)です。この平氏の末裔の可能性が否定できません。しかし、史料は当然有りませんが八平氏の内容から低いと見られます。
    平安末期にはこの地域に藤原一門24氏の末裔が大勢力を伸ばして定住しています。しかし、この一族24氏が拡大して351氏に成っていますが、この一族には氏の特別な判別方法を持ち採用して居る為に一族である事か判る様に成っています。伊早坂氏はその判別方法に適合しません。
    鎌倉期から室町期には下克上、戦国時代となり氏を確定する事は困難なのですが、坂東八平氏か源氏3氏末裔かは家紋でも判別できますので適合しないと見られます。

    室町末期から江戸初期まではこの地域に氏滅亡で移動して来た氏としては、武田氏の一門の武田氏系青木氏や武田氏系諏訪族青木氏や諏訪族青木氏が逃亡して来ています。しかし家紋から見た場合もこの末裔では有りません。
    (鎌倉期からは家紋でも氏判別できます。平安期は家紋は未だ一部の氏しか使用していないので判断できます。)
    次ぎに確かに、武田氏滅亡で江戸初期にこの末裔の花菱紋が武蔵鉢形に一族強制移動してきていますが、丸付き紋にはある種の問題がありまして、江戸中期以降にはこの地域に分布している可能性があります。
    しかし、花菱紋の丸付き紋一族(特に青木氏)は本多氏(信濃)に仕えましたのでこの地域に分布の可能性があります。(花菱紋は徳川氏の旗本と成る。)しかし、それが青木氏から伊早坂氏に氏名を変えた経緯が全くありません。ただ宗派の曹洞宗は一致しています。

    よく間違われている事として、国の自由移動が出来るとして書いた本などが見当たりますし、また現代感覚として間違えやすい事です。
    しかし、元々は奈良時代から平安時代にかけては原則特別な国換え以外には民の移動は禁止です。
    民は国に所属するものとして初期江戸初期以降は特別な場合を除いて国を自由に移動する事は厳しく取り締まりました。「国抜け」は一族打ち首の重罪です。

    これ等時代性、由来、宗派の資料から観ると幾つかの氏末裔と観られますが、伊早坂氏は上野の土着民か土豪であった可能性が専門的立場から観て高いと見られます。
    そこで、更に家紋から観てみますと(室町期には氏家制度の中で「家紋」が成育してその氏の由来を表すことが出来るシステムが構築されていた)、目結紋の内の「隅立て4つ目結紋」に丸付き紋ですので、旗本「矢島氏」の家紋です。丸付きですのでその支流とも見られます。
    そこで佐々木氏等と書かれていましたが、目結紋は81の文様がありますので、佐々木氏の目結紋の家紋では本来は有りません。
    そもそも、佐々木氏に付いては投稿内容に多く間違いがありますので、念のために、多くの資料でも間違いを起こしていますが、近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子が特別に天智天皇から賜姓を受けて土地の地名から佐々木氏を名乗った氏です。これが近江佐々木氏です。この事は日本世記や日本書紀や他の史料にも、また、5人の歴史家小説家の本にも書かれています。(他にもありました)
    正式には皇族賜姓近江佐々木氏と呼びますが、青木氏と同じく家紋はもとより天智天皇より氏名、ステイタス仏像、氏木、賜物の5つのものを与えられています。
    奈良時代(647年伊勢青木氏と5家5流)から皇族賜姓青木氏と同じく皇族賜姓源氏族は笹竜胆紋と成っています。鎌倉期前は家紋は皇族一門と大豪族だけが使える象徴紋として許されていましたので、現代感覚で観たものでは有りません(家紋経緯から故に新しい目結紋の佐々木氏は未勘氏と成るのです)
    ずっと後の宇多天皇の賜姓佐々木氏は近江とされていますが、近江と滋賀は当時一体として観られていた事から近江佐々木氏と成っているのですが、本当は滋賀佐々木氏が正しいのです。
    当時の氏家制度の習慣から皇族方末裔は同地域に同姓で定住する事は有りません。宇多天皇の佐々木氏は滋賀佐々木氏です。
    近江佐々木氏と伊勢青木氏を始めとする5家5流の青木氏とは長い間同族として親族付き合いがあった事が記録されています。1185年の以仁王の乱の時はともに平氏と戦いをしました。
    賜姓近江佐々木氏や賜姓青木氏には神官職が多いのもこのことから来ています。

    宇多源氏、近江源氏が目結紋であるとするのは「未勘氏」です。近江賜姓佐々木氏は異なります。
    そもそも宇多源氏の目結紋も家紋の時代性と家紋経緯からが明らかに異なります。
    源氏は天智天皇の第6位皇子の伊勢王の青木氏を始めとして5家5流と同族の皇族賜姓族であり、その家紋は奈良時代からの特別象徴紋として天智天皇から使用を許された伊勢青木氏をはじめとする笹竜胆紋です。
    (未勘氏とは源氏と勝手に名乗る氏で根拠の確認が取れない氏の事、豪族は家柄身分を良く見せるために源氏と名乗りましたが全てと云って良いほど搾取偏纂の未勘氏です。源氏は花山天皇まで11代続きました。青木氏とあわせて16代の第6位皇子の末裔です。しかし、源氏は最終3氏が遺しこの3氏も信長に完全滅亡させられてしまいました。最終3氏ともに信長の時代に滅ぼされて完全滅亡しています。
    未勘氏が出るほどに彼等の皇族系はそんなに子孫を多く遺すほどに婚姻を広くしていません。また、そのその様な婚姻関係の慣習があり、氏家制度の中では皇族系は特に純血を守る為に同族血縁が主体でそんなに子孫を多く伸ばせるほどに血縁が出来なかったのです。
    これは氏家制度の社会慣習を考慮していないもので、氏家制度ではこれ等の皇族系の氏は純血を守る為に血縁は全て皇族系との同族血縁が平安から江戸初期まで主でした。
    この様に室町末期から起こった未勘氏である事を見分けるには家紋と宗派と地理と菩提寺で完全に判別できるのです。搾取偏纂しても社会慣習から偏纂出来ない事があるのです。

    桓武天皇は第7世族の「ひら族」に習って「たいら族」を賜姓しましたが、子供の嵯峨天皇は天智天皇から始めた賜姓は皇族第6位皇子に戻して、それまでの賜姓青木氏から賜姓源氏と変名したのです。そして、青木氏は皇族の者が下族する際に名乗る氏名として他の者が名乗る事を嵯峨期の詔で禁止したのです。原則明治まで守られました。

    さて、よって隅立て4つ目結紋に更に丸付き紋ですから、全く佐々木氏では有りません。
    江戸初期の頃の矢島氏が使用した家紋ですが、家紋から観ると丸付き紋ですのでその分家か支流か、第3氏かです。つまり、矢島氏との何らかの関係を持つ氏でその分家と成ります。
    矢島氏は江戸初期の旗本です。ただ、家紋から観たこの矢島氏と伊早坂氏との関係はわかりませんが先ず専門的に観て無いと考えます。

    次ぎは宗派から見た検証です。
    曹洞宗ですので、先ずは土豪か土着民であったことが覗えます。それ以上の氏では無いと観られます。
    氏家制度の中では当時の宗派に依ってその氏の家柄身分などが判別できるのです。
    江戸初期前までは氏家制度の慣習の中での宗派でしたので、厳しい宗教的慣習で縛られていました。
    曹洞宗の宗派の特長から足軽などの下級武士や土豪、土着民の範囲です。
    この様に氏の判別は江戸中期前での学術的史料で正しく少なくとも江戸初期の状況からの検証を必要とします。

    恐らくは、古くは磯部氏か馬部氏かの後漢渡来人であって、平安期では上野の土着民であったと考えられます、室町期の戦国時代では立身出世して武士となり、土地の土豪と成り、江戸初期では一般武士としての家紋を持った事を意味します。
    家紋、宗派、地理性、由来から判断してこの域を超える事は氏家制度慣習からは考え難いと観られます。
    提供された情報の中でお調べに成った氏の各専門家の答えとほぼ一致します。
    提供された調査結果からは正確にはお応えしていないようですね。
    忌憚無く申し上げますと、第3氏か江戸初期前では土豪武士である事を意味しているところは一致します。
    家紋から、特に丸に隅立て4つ目結紋と鷹の羽紋も一族の中にある事を考えますと、時代性では江戸初期前の両者ともに比較的新しいものですので、この家紋を使用した菊池氏、浅野氏から観ると、これ以前に家紋を持たない者と成ります。上記の検証となると思います。
    丸に花菱紋に付いては花菱紋の経緯から疑問が大きい事なのです。花菱紋には特別な経緯があり青木氏以外には考え難いのです。それを副紋的に使用されているとなると、むしろ逆に第3氏の可能性を強くします。まして丸付き紋ですので確率は低く成ります。

    中国地方に分布する丸に鷹の羽紋が関東にある事では、藤原秀郷一門の主要5氏との関係からしか有りませんので、この家紋を使用している事から観て、これも第3氏か未勘氏である事も考えられます。
    この第3氏か未勘氏はそれなりの由来性を色々と創り上げて家柄を良く見せたことがブームとして3期の混乱期に起こりました。(室町末期、江戸初期、明治初期の3期です)
    その時期は家紋から観て江戸初期と成ります。ただお家は限定した地域で且つ極めて小さい氏としますと、以上の他の専門家のお応えと同じく旧来より土豪か土着民を超えることは考え難いのではと考察します。よってルーツを採ることは出来ない事が大変に難しい事に成ります。
    と云いますのは、当時は戸籍簿は特定の身分(中級武士以上)の氏の菩提寺が受け持つシステムでした。氏家制度では一部を除く土豪、土着民は戸籍簿が有りませんのでルーツを採ることは物理的に出来ません。個人に近い氏の史料が遺されていない事を意味します。
    (江戸初期以降は庄屋、名主、豪農、豪商、郷士、郷氏等は苗字帯刀家紋を持つ事を許された)

    第2信でのお尋ねですが、家紋が変わる理由として、氏家制度には「家紋掟」と云うものがありましてこれに従っていました。
    先ず家紋が変化する理由として、男系跡目が出来ずに跡目養子か婿養子をとり、その養子にも男系が恵まれず、2代続きと成りましたので女系と成り養子先の家紋を使うことに成ります。
    もし、養子に男系嫡子が出来れば家紋は元に戻す事が出来ます。
    この時は養子はとりあえず養子先の家紋を使うことに成りますが、嫡子が出来なければ養子先の家紋のままで変紋する事に成ります。養子に嫡子が出来ればその子供は元の家紋を使うことになり戻る事に成ります。
    他の四家が丸に鷹の羽紋を使われているとすると、先ずお家が変紋したことを意味するか、分家が男系跡目が出来ずに家紋掟により丸に鷹の羽紋に成った事を意味します。四家ともと云うのはありえないことですね。
    もし、この分家は氏家制度では正妻子で分家が出来て同家紋を引き継ぐ事が宗家本家の許可を得て成立します。妾子では原則引き継げません。ただし正妻子が無く妾子を嫡子とした場合はこれを許可される仕組みです。分家と見られる丸に鷹の羽紋と成りますので、この何れかの分家と成ります。
    もとより、ご本家が丸に隅立て4つ目結紋と成りますと、本来は縁者遠縁から養子婿を取り何とかして家紋を護るのが氏家制度の本家の掟です。そこをルーズにしたのか、護ったのか、女系となり変紋したのかは提供されている情報ではわかりません。
    兎も角も、家紋掟の仕来りはありますが本来の分家と家紋が違う事が大きな疑問です。
    とすると、第3氏か未勘氏である事を意味します。
    鷹の羽紋は北九州から中国地方、関西以西に多く分布する事から観て、上野で何時から鷹の羽紋に成ったのかも問題です。(江戸では移動は禁止です。許可制です。)
    更に問題は目結紋の丸付き紋です。主に丸付き紋は分家支流が本家に遠慮して丸付き紋とする、妾子であるので丸付き紋にした、未勘氏、第3氏が遠慮して丸付き紋にしたなどが考えられます。
    この2つの家紋は江戸初期前後の事ですので、矢島氏か菊池氏か浅野氏の家紋時期と共に一致します。
    どの様に矢島氏と菊池、浅野氏と繋がっているかは家紋、地理、由来等からは判別が困難です。
    ところで、鷹の羽紋ですが、百以上もありますが、一つ羽根ですか、二つ羽根紋ですか。
    この百以上の家紋のどれかによりルーツも大まかに判別できます。
    「丸に一つ鷹の羽」ですか。ご確認ください。
    最初の投稿には丸に違い鷹の羽紋とされていますがどちらですか。
    第1信では「丸に違い鷹の羽」と書かれていますがこちらであれば又話も少しは変わることを意味します。

    参考に伊早坂の氏名ですが、日本の国民が氏名をつけた専門的な知識がありますが、それから観ると地名タイプと観られ「早坂」の地名に対して「伊」に関係する物を附帯した最も多いタイプ方式に拠ります。
    伊勢、伊達、伊豆、伊藤、伊東などの地名等を加えて室町期に氏名とした事も充分に考えられます。
    この点からも調べられる事もお勧めします。伊と矢島氏、菊地氏、浅野氏との繋がりも見逃せません。
    ただ室町期からの発祥にしては氏の拡大は余りにも地域限定しすぎている事が専門的に考えられます。

    以上、青木氏を調べた経験からその情報判断の如何を参考にお答えとしました。
    先ずは、2つの知識の習得から進められる事をお勧めします。
    「氏家制度」の中での知識として、家紋、宗派、地理性、経緯(由来)等を判断史料として取り入れなければ、史料だけを集めるだけでは(史料を判別する能力を持たなければ)、エラーポケットに入り決して正しい答えは絶対に出ません。敢えて、アドバイスします。

    参考として、早坂は福島を中心にして岩手、宮城、山形に多い地名であり氏名も多くあります。
    群馬のお家は、この福島の早坂村から戦国時代に立身出世を夢見て戦乱で上野に移動して岩代の伊達から来たので、伊達の早坂として「伊早坂」と氏名をつけたとも考えられます。
    立身出世した当時の者は地名からこの様な氏名をよくつける事をしました。
    特に、8000ほどある氏名の内殆どは明治期の苗字令によるもので、その時の氏名の付け方はこの方式が多いのです。また周囲地域の豪族の氏名を使うなどの第3氏性が多いのです。

    では、お答えに関しての不明点や何かのご質問が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。


      [No.636] Re:上越の青木です
         投稿者:上越の青木   投稿日:2009/10/17(Sat) 16:36:29  

    福管理人さん、丁寧な解説ありがとうございます。
    さっそくアドバイスいただいてた事項を調べてみます。
    また何か手がかりが見つかったら質問させてください。


      [No.637] Re:青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
         投稿者:伊早坂 正美   投稿日:2009/10/17(Sat) 14:13:22  

    下記の部分について誤謬がありましたので訂正申し上げます。

    【誤】
    8.当家の墓所に埋葬されており、生家の回りにある伊早坂家4家の使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」。

    【正】
    8.当家と同一の墓所に埋葬されている、近隣の伊早坂氏4家の使用家紋はすべて「丸に鷹の羽」。  
      なぜ、本家筋のお宅だけが「丸に隅立て四ツ目」なのかと聞かれて困っています。


      [No.635] 青木姓ではありませんが「伊早坂」です。
         投稿者:伊早坂 正美   投稿日:2009/10/17(Sat) 01:23:10  

    青木姓ではありませんがお尋ねいたします。

     はじめまして、群馬県高崎市の「伊早坂(イハヤサカ)」と申します。私の苗字は希少姓とされ、他界した父はルーツを知りたいと云いながらも病魔に倒れ、願いを果たすことなく死去いたしました。私自身還暦を迎え、子孫のためにも今の内にルーツを探しておこうと祖先探しを始めてみたのですが、未だにルーツも何も分からず寂しい思いをしています。
     
    代々の生家は現在の富岡市一ノ宮町字本町(旧 北甘楽郡一ノ宮町大字一ノ宮甲)に在り、上野国一ノ宮貫前神社の鎮座する蓬が丘の斜面下に位置し、上州と信濃を結ぶ姫街道(現在の国道245号旧道)に面しています。
     
    現在、遡って取得出来る閉鎖謄本には高祖父にあたる前戸主、長五郎と書かれ、隣村・宮崎村の伊早坂家より嘉永元年に長女(天保3年6月出生)が嫁してきており、その頃の住所は北甘楽郡一ノ宮町大字一ノ宮町213番地、現在の上州一ノ宮駅附近にあたるところです。
     
    曾祖父、鉄五郎(慶應元年11月生)、祖父、初太郎(明治24年10月生)共にこの住所に生まれ、家督相続をしています。
     
    曾祖父、鉄五郎の代、明治期に鉄道(現在の上信電鉄)の駅舎が敷設されたため、所有地内の現在地(一ノ宮町大字一ノ宮甲)に移転したものと聞いています。
     ここが、父と私の生家、姫街道(信州街道)に面した庭先には寛永年間に建立されたと伝わる「勲五等抜鉾大明神」「八宮大明神」と刻まれた高さ3m程の富士形の石積の上に三段の基壇があり、その上に1mほどの石祠が乗っており、基壇は五両と十両とに分けられ、それぞれ無数の名が刻まれていますが、風化が進み判読は出来ません。この石祠は現在も生家の庭先に立っています。
     
    生家の古い母屋の入口の上には木剣が掛けられ、その下にはしめ縄、横には柊と鰯で組み合わされた鬼祓いが刺してあり、裏庭の奥には沢山の石祠が並んでおりました。
     
    使用家紋は定紋に「丸に隅立て四つ目」、替紋に「丸に花菱」と「丸に違い鷹の羽」が伝わっています。
     
    生家の仏壇の前には三つの家紋が並んでおり、納屋の奥には黒い木箱の中に朽ち果てた甲冑とボロボロの刀があり、私と弟が抜こうとしても抜けず、甲冑は触ると糸がグズグスに切れてしまいました。兜の前立は丸型のものがついていたと記憶しています。
    祖父他界の折、大叔父が持ち帰ったと聞いていますが、現在の所在は不明です。

    代々の墓地は一ノ宮貫前神社東参道大鳥居の近く、交差点角に位置し、お寺は富岡市宇田にあります曹洞宗宇田山神守寺。
     
    この神守寺は慶長2年(1597)、宮崎城の奥平信昌により建立され、檀家の多くは古い時代に貫前神社の神官をしていた方々の子孫と聞いています。
     
    なお、この奥平氏は甘楽郡吉井町奥平の発祥で、甘楽郡甘楽町小幡発祥の小幡氏と同族とされています。
     
    文書類については、天明の大火災で一ノ宮全体の記録を失い、神守寺は江戸期と昭和初期の二度の火災で過去帳も失い、我が家の記録も昭和初期の貫前神社の丘麓の土砂崩れにより離屋数棟と母屋の半分以上を失い、すべて流失してしまっています。
     
    この変わった姓のルーツを探ろうと、多くの姓氏家系に関する書籍を買い集め、またWebにて様々の検索をして参りましたが、ほとんどの場合、群馬県富岡市発祥か?姓氏未詳とあります。
     
    太田亨博士の「姓氏家系大辞典」には「信濃にみえる」とあり、また、郷土史家の萩原進氏の著「上州の苗字と家紋」には、群馬の難姓・希少姓のひとつとして富岡市発祥の苗字であると書かれています。
     
    子供の頃、大叔母より貫前神社に縁が深く、一ノ宮から西へ1キロ程の所、富岡市七日市にあります七日市前田藩とも縁があったと聞いていましたが、「難しいから大人になったら教えてあげるよ」と云われながらも、教えてもらうことなく他界されてしまいました。
     
    群馬大学名誉教授 山田武磨氏の著「上州の諸藩」上巻の中で七日市前田藩についての記録が書かれており、元和2年(1616)前田利家の五男利孝が入封し藩祖となりますが、初代利孝の初代家老職四名と書かれ、齋藤権兵衛、藤井作右衛門、伊坂荘兵衛、大里半右衛門 が記されていますが、二代利意の時より、保坂庄兵衛、保坂茂左衛門、野尻彦右衛門(のち内藤)、鳥居金平の四名となり、これ以後の家老職は同じ家から出ている。と書かれています。
     
    郷土史家 今井幹夫氏も同じ内容を用いて七日市藩の説明をしています。
     
    ですが、初代の伊坂荘兵衛と伊早坂の間に関係があるのかどうかは分かりませんし、貫前神社との関係も分からなくなっています。
     
    ただ、前述しましたように貫前神社の旧名である抜鉾神社の神を祀る祠が生家の庭にあるのは事実で、江戸時代には、祭祀が行われていたことが群馬県古文書目録の記録に見えます。
     
    上野国甘楽郡一ノ宮周辺の歴史を見てみますと、
    古い時代、信濃・上野・下野・常陸あたりには出雲神族・物部族・渡来族が多く移り住み中臣氏・藤原氏などの氏族も栄えていました。
     
    たとえば上野国物部氏の分布を見てみますと、
    物部君万呂 木簡学会『木簡研究』4-14頁-3(10)(奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』15-24上(136))
    上野国甘楽郡 物部蜷淵 続日本紀天平神護元年十一月戊午
    上野国甘楽郡 磯部牛麻呂等四人…賜姓物部公 続日本紀天平神護二年五月甲戌
    上野国群馬郡下賛郷 物部君午足、蹄刀自、乙蹄刀自 金井沢碑(神亀三年二月高田里知識碑)
    上野国緑野郡小野郷 物部鳥麻呂 奈良国立文化財研究所『平城宮木簡』2-2781(奈良国立文化財研究所『平城宮発掘調査出土木簡概報』3-10下(185))
    と記録があり上野国甘楽郡一帯は渡来系氏族、物部姓磯部氏族、物部姓石上氏族の多い地域でした。
     
    一ノ宮貫前神社には、俵藤太が平将門を討伐する際、手植えをしたと伝わる神木が残されています。

    【貫前神社御由緒】社伝には鷺宮(さぎのみや:現在の安中市)に物部姓磯部氏が、氏神である経津主神を祀り、その鷺宮の南方、蓬ヶ丘綾女谷(よもぎがおか・あやめがたに:当地の古い呼称)に社を定めたのが安閑天皇の元年(531年)と云われ、これが創建にあたります。また、天武天皇の時代に初の奉幣(ほうべい)がありました。
     奉幣とは天皇の命により神社に幣帛を奉ることで、当時遠く奈良の都にまで貫前神社の存在が知られていたと云えます。
     醍醐天皇の時代に編纂の始まった『延喜式』のなかの『神名帳』にも記載され、上野国一之宮として朝野をとわず崇敬をあつめてきました。旧社格は国幣中社。と書かれ
     
    【鷺宮・咲前神社御由緒】(さぎのみや・さきさきじんじゃ)社伝には、当鎮座地は神代、経津主大神(ふつぬしのおおかみ)が健御名方神(たけみなかたのかみ)を追って上野国と信濃国の国境の荒船山に御出陣の時の行在地であると伝わる。
     安閑天皇元年(534)6月、初の申の日に神石「雷斧石」三柱の御出現を仰ぎ、時の朝廷に上奏したところ、奉幣使、磯部朝臣小倉季氏と共に高椅貞長、峯越旧敬を伴い上毛野国に御下向があり、抜鉾(ぬきほこ)大神「健経津主命」をお祀りし、社を建てられた。
     それ以後、磯部朝臣が祭司を司った。敏達天皇元年(572)、第3代磯部朝臣小倉邦祝は磯部郷小崎の里に居を構え、以降小崎を名乗る。
     白鳳元年(650)、第11代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘綾女谷(一ノ宮の古称)に御遷座する。
     供奉の道筋では、七五三原(しめきはら)でまず神事があり、明戸坂で夜明けがあり、宇田(宇多)で御旅所となり御遷宮された。現在の一之宮貫前神社である。
     磯部郷前宮(さきのみや)跡は、先の宮として崇め咲前神社が祀られた。この時改めて香取神宮より経津主大神を勧請し大己貴命(おおなむちのみこと)、保食命(うけもちのみこと)が祀られた。以後の祭祀を藤原姓和太氏が司る。
     平安朝後期に成立したと思われる『上野国神名帳』には、「碓氷郡 従五位上咲前明神」と記され、ご分霊として「片岡郡従五位上咲前明神」が見える。
     室町期には、応永8年(1401)1月7日、足利満兼により新田庄平塚郷一町が寄進されている。 とあり、
     
    6世紀後半、仏教受容をめぐって新興勢力蘇我氏は仏教を掲げ、それに古神道を掲げる物部氏、三輪氏、中臣氏(物部一族)が対抗し敗北、その物部氏の東方移住に伴い咲前神社と貫前神社が創建されたとあります。
     
    群馬大学名誉教授 尾崎吉左雄 著「群馬の地名」によりますと蓬ケ丘には抜鉾神より先に貫前神が祀られており、その後、同地綾女谷に鷺宮から遷宮をされた抜鉾神が北向きに祀られ、後に二社二神を祀る貫前神社となるとあります。
     
    明治以降、貫前神社は御祭神を「経津主神」(ふつぬしのかみ)と「姫大神」(ひめおおかみ)の二社二神としています。
     
    神社名も平安期は貫前神社、それ以降江戸末期までは抜鉾神社、明治に入り貫前神社とされてきています。
     
    鷺宮・咲前神社と一ノ宮貫前神社は4Km程しか離れていなく、物部姓磯部氏が抜鉾大神をお祀りし、後に近江・宇多源氏佐々木氏棟梁である佐々木秀義の三男、佐々木三郎盛綱(加地盛綱)が磯部・鷺宮に居城を定め、子孫は、磯部佐々木氏・加地佐々木氏・小崎(尾崎)佐々木氏を名乗り、祭司にあたるとあり、その家紋は三ツ目結・四ツ目結。

    石部(磯部)氏は、天智天皇が近江に遷都する際、その世話をした功績で「沙々貴・ささき」の姓を賜ったと「沙々貴神社」の社伝は伝えている。これが後に宇多源氏佐々木氏を名乗ることになると、家紋は、ともに「三つ目結」「四つ目結」。
     佐々木盛綱の子孫は富岡市高瀬(一ノ宮大字高瀬)に代々住んでいます。
     
    貫前神社宮司家の子孫、尾崎忠男家文書を見ますと、
    貫前神社の主な神官の変遷について、江戸初期は正神官に磯部物部姓尾崎氏、権神主に小幡姓一宮氏、その下に社家があります。元禄4年以降の朱印地の時代、大宮司に一宮氏、大社家に尾崎氏。明治に入り大宮司に一宮氏、神主に尾崎氏その下に禰宜・杜家が多数おります。
     
    また、新田義貞の二男、新田義興の母は抜鉾神社神主の天野時宣(禰宜時宣)の娘、義興は二男でありながら身分低き者の子として嫡流とされず、三男の義宗が嫡子として扱われ、義興は新田の歴史から消され、子孫については不明とあります。
     
    尾崎吉左雄 著「群馬の地名」によりますと、和名抄には貫前郷、抜鉾郷、酒甘郷、丹生郷、那非郷、湍上郷、宗伎郷、有旦郷、那射郷、額部郷、新屋郷、小野郷の12郷が記載されており、一ノ宮の生家は抜鉾郷に位置し、北甘楽郡宮崎邑は貫前郷に位置します。

    中世期以降は、抜鉾神社が一宮として崇拝されてきたが、明治に入り、貫前郷の貫前神社と抜鉾郷の抜鉾神社が二社二神の貫前神社として上野一ノ宮貫前神社となったとあります。
     
    また、甘楽郡の章には、外来人たちは鏑川の谷口付近の山名から吉井のあたりに住み着いた。吉井を中心としてだんだんに谷の奥へと発展していったが、この上毛野の地の支配者(上毛野氏)は自分は中央にいて、武力のある物部を碓氷川の谷に配し、織物の生産者である渡来人を鏑川の谷に配したが、やがて七世紀のはじめ物部は勢力を拡大して鏑川の谷に進出し、渡来系の人々は、東の方に追いやられ、その後、この地の物部は南の山脈を越えて、神流川の谷に発展した。江戸時代には山中領と云われた地域である。この地に抜鉾神社(貫前神社)を祀った人々が移ってきて定住したものである。
    「神流川」と書いて「かんながわ」と読む、「かんな」はもともと「かんら」であったのである。
     江戸時代に山中領といった村落には貫前(抜鉾)神社の分社が諸所に見えている。と書かれています。
     また、神川町の歴史を見ますと、近代、群馬県と隣接する神川町が、埼玉県の管轄下となったのは明治9年のことでした。昭和29年には丹荘村と青柳村が合併して神川村が誕生しました。とあります。
     
    中世の貫前神社の周辺を見渡すと、ここを取り囲むように多くの中世城郭が配置され、これらの主な城主・藩主の変遷を見ていくと、丹生城(城主:新田氏、小幡氏)、宮崎城(城主:小幡氏、奥平氏)、宇田城(城主:新田氏、小幡氏)、国峰城(小幡氏)、前田藩(藩主:前田家)、小幡藩(藩主:奥平家、水野家、永井家、織田宗家、奥平松平家)となっています。
     
    前田藩・小幡織田藩の両藩には織田信長に敗れ、下臣となった紀姓桓武平氏を名乗る大井氏の後裔、春日部姓伊坂氏もみえ、奥平氏が宇都宮藩主だった頃の紀姓桓武平氏族、井坂氏の名も見えますが、伊早坂との関係は分かりません。私の家系の古い親戚筋に伊坂氏・井坂氏を名乗る方々もおり、祖父の葬儀に参列していたと聞いていますが、その関係も分かりません。

     
    伊早坂の全国分布を(2009.5現在)の電子電話帳より検索してみますと、
    現在の電話帳に登録されている「伊早坂」は、計60件、その内訳を見ると群馬県富岡市の分布が12で最多となっています。

    北海道 9 ( 小樽市 1 函館市 7 北斗市 1 )
    埼玉県 7( 草加市 1 秩父市 3 所沢市 1 本庄市 1 児玉郡神川町 1 )
    東京都 5( 荒川区 1 江戸川区 1 江東区 1 世田谷区 1 調布市 1)
    愛知県 1( 北設楽郡東栄町 1 )
    滋賀県 1( 大津市 1 )
    大阪府 2( 寝屋川市 1 守口市 1 )
    奈良県 1( 香芝市 1 )
    茨城県 8 ( 稲敷市 1 つくば市 2 牛久市 1 ひたちなか市 1 水戸市 3 )
    群馬県 18 ( 太田市 1 勢多郡富士見村 1 高崎市 2 富岡市 12 佐波郡玉村町 1 )
    長野県 6 ( 岡谷市 1 南佐久郡佐久穂町 1 佐久市 3 )

    また、類似の姓氏として以下の分布を見てみますと
    伊早阪 1名 群馬県富岡市
    伊佐坂 6名 熊本県中心
    井早 16名 三重県中心
    伊坂 397名 東京・埼玉・千葉・茨城・神奈川・三重・兵庫中心、全国に分布
    井坂 2,220名 茨城中心
    井阪 374名 大阪府中心
    早坂   6,771名 宮城・秋田県中心
    早阪 12名 京都・大阪府中心

    手始めに同姓の方々に30通程の手紙を差し上げ、7家の伊早坂氏と連絡がとれました。

    1.前橋市の伊早坂(イハヤサカ)氏
    ご実家は、富岡市富岡、ご本家は、富岡市大字宮崎、家紋は「丸に花菱」
    富岡市宮崎の伊早坂家には、富岡市一ノ宮の伊早坂とは流れが異なり、
    宮崎の伊早坂の方がより歴史が古く、発祥は常陸国新治郡、藤原系伊達氏族、伊坂から伊早坂に変化したものであるとの伝承が伝わると、また、発音の難しさを嫌い、別姓とされたご親族もあるとのこと。

    2.東京都江東区の伊早坂(イハヤサカ)様より
    ご実家は、児玉郡神川町、家紋は、「丸に根笹」
     
    3.東京都調布市の伊早坂(イハヤサカ)様より
    ご実家は、児玉郡神川町、家紋は、「丸に根笹」
    ご親族の中には「イハヤサカ」ではなく「イソサカ」と発音される方々も多くおられるとのこと。
     
    4.埼玉県八潮市の伊早坂(イハヤサカ)様より
    ご実家は、茨城県牛久市、ご本家は富岡市一ノ宮、家紋は、「丸に違い鷹羽」50年ほど前に一ノ宮から牛久に移られたのこと。また、戦後には、一ノ宮から北海道に移住されたご親戚もあるとのこと。
     
    5.茨城県ひたちなか市の伊早坂(イハヤサカ)様より
    ご実家は、長野県佐久市、ご本家は代々、佐久の庄屋、使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」、 戦国時代は上杉氏に属し、川中島の合戦では戦功のあったことが記録されているとのこと。茨城県に分布する伊早坂の殆どは、ご親戚とのこと。
     また、昔は佐久・諏訪には多くの伊早坂姓が存在していたが発音の難しさを嫌い、別姓に変えた家が多いと、親族にも改姓が多いと伺いました。
     
    6.長野県佐久市佐久穂町の伊早坂(イハヤサカ)様より
    詳しいことは何もわからないし、墓所の紋についても覚えていないとのこと。
     
    7.大阪市寝屋川市の伊早坂(イソサカ)様より
    ご実家は、北海道函館市、ご本家筋は、富岡市一ノ宮と聞いている、函館の伊早坂は、ほとんどはこちらのご親戚とのこと。
     家紋については、確認したことがないので不明。愛知県の伊早坂(イソサカ)さんもご親戚であるとのこと。親戚の中には伊早坂(イサカ)と読む方もいるとのこと。
     
    8.当家の墓所に埋葬されており、生家の回りにある伊早坂家4家の使用家紋は「丸に隅立て四ツ目」。なぜ本家筋だけ「丸に隅立て四ツ目」なのかと聞かれて困っています。
     現在、親戚付き合いはありませんが、明治の初めに当家から分かれた伊早坂の一家だと聞いています。
     
    このように明確な資料の残された家もなく、家紋も異なりますが、富岡市在住の伊早坂の使用家紋は、すべて生家に伝わっています。しかし、これが何を意味するものなのか、知るすべもありません。
     
    10年ほど以前、父が税理士をしていた関係で面識のありました方で、神社を研究している国税庁の税務官は、公務員は副業で、本業は古神道・神社の研究と豪語し、「伊早坂」についてお尋ねしてみましたところ、しばらくして、「出雲系の神を奉る神官の末裔であろう」と、「イハヤサカ」を古神道にあてはめると、「イハ」は「伊波」につうじ、「イハヤ」は「伊波夜・磐屋」につうじる。また「ヤサカ」は「八坂・弥栄」につうじ、「サカ」は「咲・作・佐久・崎・前」とも書き「ヨミノヒラサカ・イフヤサカ」にもつうじ、いずれも神を奉る者であろう。と。
     また、「イソサカ・イサカ」と読めば「五十坂・磯坂・石上・伊勢・石坂」とも書き「五十」は「イソ・イ・イハヤ」と発音し、海洋民族石族の末裔ではないか。
    と云われ驚いたことがあります。
     
    「伊早坂」の苗字はどこから発生したのか知りたく、各伊早坂氏使用の家紋を添えて日本家紋研究会に照会したところ、「伊早坂氏は、我が国では希少名字の部類に入り、富岡市に集中している。ルーツを調査するにも歴史上の文書がなく、近隣諸藩の家臣にも存在しない。土着の土豪または神官であるかも。ただ提出された他家の家紋を見るとその殆どが清和源氏族に関係深い家紋であるので、新田氏に関係があるのかもしれない。」との回答をいただきました。
     
    さらに、古代姓氏の研究家、新免幸男氏に紹介しましたところ、東京大学史料編纂データベース検索では、「地名・人名・由来」は発見できず。国立国会図書館デジタルライブラリーでも「由来」は発見できず。ただ、「巖屋坂(イハヤサカ)・磯坂(イソサカ)」の地名は見える。

    『古代に文字はなかったが「いはやさか」「いそさか」「いささか」と発音すると「石・巖」は「いし・いさ・いそ・いはや」とも読めるので、現在の漢字にすると伊早坂・伊早阪・五十坂・磯坂・伊佐坂・石作・石坂」と表せる。
    「イサカ」と発音すれば「伊香・伊我・伊賀・石上・石河・五十川・石代・沙田・伊波田」とも表せる。
    「イソカ」とすれば「石上・石川・石田五十河・石代・大春日」などとなる。
    「イハヤサカ・イソサカ・イサカ」は古代姓に相違ない。との回答をいただきました。

    「青木氏のルーツ&雑学研究」を拝見し、もしかしたら諏訪族と関係があるかも知れないと思い投稿させていただきました。よろしくお願いいたします


      [No.634] ありがとうございます。
         投稿者:   投稿日:2009/10/07(Wed) 01:40:23  

    自分で色々調べていても、へ〜っと思う事はあっても、
    ご先祖様に、なかなか近づけずだったんですが、
    少し近づけずたように思います。

    お教え頂いた事を、無駄にしないように、もう一度調べてみます。
    また青木家、前田家の事で何か分かり、行き詰まった時は、又、顔出させて頂きます(笑)
    和泉和歌山の事、よくご存知との事なので、何故か凄く嬉しいです(笑)
    それから、前田氏と青木氏って、やはり繋がりがあるんですね。両家を調べていて、何となくですが繋がりあるんだぁ…位に思ってましたが、やはり何かの縁なんですかね。
    本当、歴史を辿ると奥が深く面白いなぁと思います。
    ご丁寧に、ありがとうございました。
    では又、宜しく、お願いします(笑)
    失礼致します。


      [No.633] Re:ありがとうございました。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/02(Fri) 12:45:55  

    青木さん 今日は。
    大変多く情報を頂きました。これでさらに一歩前進します。
    これを検証して問題点を解消して行けばかなりのお家のルーツの全容が観えてきますね。

    さて、早速ですが、
    宗派の問題ですが、この紀伊守の青木氏はご本家は浄土宗です。
    しかし、お家は曹洞宗です。この問題は解決します。
    関が原で敗退し西国に逃亡し後に越前に戻ります。恐らくは一族の一部は更に西国に逃亡する意見と越前に戻る意見に分かれたのではと考えます。
    つまり、一矩(1603没)とその長男俊矩(j前田氏一時人質)は越前に、一族等は更に西国にとなった事が考えられます。
    そして、福岡まで到達したと考えられます。
    そうしますと、浄土宗は関西から武蔵を中心に関東の特定氏を主にしていましたから、北九州には有りませんでした。浄土宗が全国的に成ったのは、家康による浄土宗の督奨励令によるもの江戸初期には未だ北九州にはありません。
    仮にあったとしても、また逃亡していますので当然に特別な古代密教を教義とする浄土宗には帰依できません。そこで、この時期全国的に広まっていた曹洞宗に入信したと見られます。

    島原の乱に一宗は加わったとすると、一族を滅ぼした徳川氏に対抗する心情から尚更の事では無いかと考え
    ます。この乱は秀頼説もあるくらいですので、豊臣方の侍が多く参加したことは史実です。
    通説では宗教戦争だと成っていますが、1600年慶長3年の関が原から私は豊臣方の巻き返し戦であったと考えています。
    1637年寛永14年から起こった乱は秀吉の農民上がりを承知し要するに農民、庶民、武士を巻き込んだ壮絶な戦いが長く続きました。
    西国北九州に逃亡する根拠はありますし、まして豊臣秀吉の軍師黒田藩の御殿医にもなれるくらいですので筋や根拠が一致しています。西国の逃亡先はここしかないとも考えます。
    つまり、一族は越前に戻って商家(造り酒屋)として出直し組みと、豊臣方が多く居る九州地方にて再起を期するとする組になるのは当然の成行きです。

    越前組は徳川時代になり加賀の前田藩が徳川氏に人質を出し生き残り、この前田氏が一矩の子孫を庇護した事は史実として残っています。(造り酒屋と廻船問屋も営む豪商になる)

    従って、この宗派に関しては問題はないと考えます。また逃亡先の福岡県も納得できることです。

    当然に、本家菩提寺が福井県(越前)にあるとすると、ご本家筋が戻ったところの越前ルーツにある事を意味しますので、ご本家の定住地は紀伊守ルーツ説の移動と一致します。

    一宗末裔のお墓は福岡県西陣の「きんりゅう寺」であるとすると、この寺は何宗かですが、曹洞宗ですか。
    恐らくは、このお寺にも紀伊守一矩の「菩提の御霊写し」も行っていると思います。
    それが当時の宗教慣習です。そのお寺のお家の過去帳には「御魂写し・・何処、何時、誰々」と書き記していることが多いのです。
    つまり”越前より、慶長から寛永に、一宗が”と云う事の意が記されている可能性があります。又は墓石左後ろに書いている事も考えられます。
    一度確認ください。
    北九州人で画家(医師)の青木春英と言う人物も承知しています。
    医師で「青木道豚」と云う人物の事は九州から大阪に出た医者であると聞いた事がありますので納得できます。

    さて、問題は家紋です。

    お家の家紋は青木富士ですが、この青木富士には厳密3つ(副紋含めて未勘氏5つ)あります。
    この内、本家筋の富士は富士山に霞紋です。分家は「変わり青木富士紋」の2つです。後は副紋つきです。
    この紋は実は、関東の武蔵7党の一つ丹治氏系青木氏の家紋で、一族と武蔵7党は関が原の戦いで徳川方に着き勲功をあげ、後に摂津国の麻田藩藩主と成りました。その弟は河内四千石(2千石説あり)の領主と成っています。
    この丹治氏の青木氏は皇族青木氏です。従って浄土宗です。武蔵国の領主の藤原秀郷流青木氏とも血縁しています。


    室町期前のルーツは紀伊守本家筋は伊勢の皇族賜姓族青木氏(又は美濃青木説も)であると観られるので、本家家紋は笹竜胆紋でその末裔は丸に笹竜胆紋を使用しています。
    (美濃説もあり ここではある根拠で伊勢説とする)
    紀伊守系譜と移動説と、伊勢青木氏の分家系譜伝意からも伊勢青木説の根拠としています。

    美濃青木説は伊勢青木氏の東域の員弁、桑名と美濃青木氏の西域が融合しているので判別が困難なのです。
    紀伊守の一矩は、中には美濃の青木氏であるとして、一重ルーツ説が生まれているが一重は丹治氏系青木氏です。この一重説の姻戚説は美濃には皇族賜姓青木氏とその支流土岐氏系青木氏がある事を読み取れて居ないことから起こる説で間違いです。

    一重説では次ぎの事が前提と一矩生誕不明としている。
    一重は1551年生誕
    一矩は1541年生誕
    一矩の実父を一重の4代目「重矩」として居るが重矩は1665年生誕
    家紋、地理、宗派等を無視し、時系列も尚10年も生誕が違うのに、一矩と一重を一族と見立てる第3氏の劣悪説の系譜偏纂説です。

    (この様な手の込んだ家柄の搾取偏纂は江戸期前後のブームであった。第1期の室町期末期と第2期の江戸期初期前後と第3期の明治初期の3混乱期に起こる。この時期のデータを使った説には充分に注意が必要です。室町期前の時系列と家紋と地理性と氏由来性を採らないと殆ど信用が出来ないのです。豊臣氏や徳川氏の搾取偏纂は有名に史実です)

    ただ、丹治氏系青木氏麻田藩の青木一重との婚姻説は充分に考察の余地があるとして研究していました。 

    一重姻戚説は家紋、地理、宗派の検証により明らかに丹治氏系青木氏です。
    (江戸初期の第3氏と未勘氏の搾取偏纂説を排除しての史実に基づく学術的な論説による)
    丹治氏は武蔵7党の一つで多治彦王の配流孫です

    (又、秀吉従兄弟説もあるが伊勢或いは美濃の青木氏と繋がりを着ける為の事で秀吉の家柄を良く見せるために秀吉母方の系譜偏纂した史料を元にしての目的どおりの説であるので全く信用できません)

    青木富士紋の家紋もさることながら一重系譜から”武蔵入間から後に足立郡に住した”とある事からも間違いはなく、多くは多分美濃青木氏、伊勢青木氏、武蔵7党の丹治氏系青木氏等の存在史実を掌握していない説と見られます。

    丹治氏系青木氏の徳川方とは関西の一族の豊臣方の紀伊守と全く反対です。

    さて、この問題をどの様に解決するかです。
    それを確認取れれば、家紋の青木富士はクリヤー出来ます。

    考察経緯

    一つは「一重」を口伝で一矩と聞き違えて伝わった事
    しかし、これには一宗や越前に菩提寺がある事などが一致しません。
    丹治氏系青木氏の麻田藩には子供は2人で養子で一宗は居ませんので聞き間違いでは無いと観られます。

    もう一つ考えられる事は、関が原前に血縁する事です。越前の大名と関東の土豪族との血縁です。
    この場合の問題はこの時代に武蔵7党の丹治氏の末裔がこの越前、越中、加賀、美濃、信濃付近域に来ていたかの問題です。

    一重一族と一矩一族との繋がりはこの繋がりから来ていると観ています。
    一重ルーツ説は推論に近いのですが、その内の一つの姻戚説は美濃説で起こるものですが、そうではなく信濃説であると観ている事を意味します。
    それは、一重の子孫に拠ります。
    下記に記したように養子2人で実子は居ないのです。この内の一人は麻田藩を継承し子孫は摂津に住しています。
    内一人は重正は小寺氏からの貰子です。この重正が信濃に定住するのです。
    本来跡目として入りましたが病弱の為廃嫡し信濃に戻ります。
    この後、一重の弟の可直の子供を養子に迎えて2代目とするのです。
    これが一重説の姻戚信濃説です。

    戦い前に紀伊守の一宗方は同僚のこの丹治氏系青木氏より男子跡目に恵まれず養子を取った。
    しかし、更に男子に恵まれずに女系と成った。
    家紋掟より養子先の家紋と成り丹治氏系青木氏となった。同じ青木姓です。

    当然に丹治氏系青木氏ではこれは嫡子ではなく次男の分家筋のシナリオと成ります。
    一矩の次男一宗がこの血縁をした事を意味します。
    これは曹洞宗を意味付ける事にも成ります。
    つまり、ご先祖の次男一宗がこの血縁をしたのではと成ります。
    よって、不思議に無傷で越前に戻れるくらいに紀伊守一族が生き残れたのは、西国逃亡期間37年間の間の最初の頃、摂津付近域を担当域として出張っていた丹治氏一門(戦後この地域を摂津麻田藩丹治氏の青木氏の領地となる)に極秘の庇護を受けていたことも考えられます。
    そのキーワードは丹治氏系青木氏が北陸3国付近域に末裔が広がっていたかの確認が必要です。
    そこで、家紋の青木富士の2つの内のどの富士紋かと云う事も解決する事に成ります。

    丹治氏系青木氏 青木一重(1551-1628)武蔵の国入間郡から足立郡に住する
    先代より織田氏の家臣を務める
    柴田勝家 北の庄で敗戦 1583年没

    青木紀伊守一矩 北の庄に入る 1585年頃 一矩生没 (1541-1603)
    嫡子俊矩(養子 一矩弟矩貞の子 前田利長人質となる 子女は家康側室蓮華院)

    丹治氏系系青木一重 秀吉の家来 黄母衣伝衆となる 1584年頃
    実は、この麻田藩青木一重(1551-1628)には2人の子供(養子 実子なし)が居ます。
    一人は重兼で、一族末裔は故郷の武蔵足立郡に住まいします。
    最初は武蔵入間付近で後に藤原秀郷がここを領地としてからは足立に移動した本家筋です。
    重兼は一重の甥  弟可直の子−1606年誕
    麻田藩主一重の養子(1619)に跡目継承(1628)する


    次男は重正で、信濃の丸子、南佐久、南小縣、上田の4地域に子孫を広げています。
    小寺則頼の子として生まれる−1580年頃
    重正(1580-1650)の系譜は重正は一重の跡継ぎとして養子に入る−1585年頃。
    病弱にて跡目継げず小寺氏の信濃丸子に戻る-1590年頃
    信濃に丹治氏系青木氏として末裔広げる
    嫡男重吉が跡を継ぐ重吉−1697年没−信濃に代々続く
    嗣子は系譜から重吉含めて3人と見られる

    1600年の役後 一重は1615年に麻田藩主に成っています。
    この間摂津の監主を務めています。

    この説からすると、信濃は越前と国境にありますので丹治氏の青木氏の次男重正の3の末裔一族のどれかとの血縁を結ぶ事が出来ます。
    何れも関が原の乱前にては代々信長秀吉の家来であり、秀吉後は共に家来です。
    関が原前では何れも北の庄と信濃丸子付近に住まいしています。

    紀伊守越前北の庄の皇族賜姓青木氏伊勢青木氏(美濃青木氏)の分家支流と、丹治氏末裔の嵯峨期の詔による皇族青木氏の分家の血縁です。

    結論は”紀伊守の次男一宗と丹治氏系青木氏分家の信濃の4つの何れかの末裔の者を養子に迎えたが男系に恵まれずに家紋掟から女系と成り養子先の家紋となった”と成ります。

    当時の氏家制度の習慣から家柄身分の吊りあいで他国の氏と血縁をすると云う事は普通ですので全く問題はなく、むしろその釣り合いのために探し出すと言うことを頻繁に行ったのです。

    ”この一族が関が原の乱を経緯に敵味方に分かれたことに成ります。そして、敗戦し西国に移動し北九州にたどり着き努力して医術を習得し豊臣方大名黒田藩の御殿医になった”と成ります。

    この説が正しいとすると、大変な史実を掴んだことに成ります。

    別の福岡の青木さん(5人)からのお便りがあります。
    このお家等は同じ青木富士の青木さんで、黒田藩の御殿医の末裔であると云う人です。
    (青木ルーツ掲示板の検索で”摂津麻田藩”でお調べください。)
    この様に福岡の青木さんのお便りとそのお答えがありますが、全て末裔かは確認は出来ません。

    ところが、武蔵と美濃に末裔が存在する丹治氏系青木氏がどの様にして福岡に移動したかは不詳でした。
    この時代は幕府の許可が無くては自由移動は出来ませんので疑問点でした。
    系譜上と添書からも福岡に末裔が直接移動移住している事は有りません。

    しかし、青木富士と黒田藩御殿医と丹治氏の3つのキーワードを持つ青木氏が5つものお便りがあるのです。先ずいずれにしても移動している事は確実の史実です。

    お家への検証のこのお答えは、福岡の青木さんは通説では麻田藩の丹治氏の青木氏の末裔子孫と成っていましたが、ところが”紀伊守一矩の一子次男一宗と信濃の丹治氏系青木氏の次男重正の末裔との血縁による一族で、この一族が関が原の戦いで西国に逃亡し、最終の逃亡先の豊臣方拠点の福岡に定住した。”とすれば、これで、移動説は繋がります。

    その紀伊守の子一宗ルーツの大元は恐らくは皇族賜姓始祖天智天皇の第6位皇子の施基皇子の伊勢青木氏(美濃青木氏もあり確定は出来ない)の支流分家末裔と観られています。

    (伊勢神宮の後に梅香寺として自前移築城とする 伊勢不入不倫の権により伊勢松阪神宮付近には賜姓青木氏以外は築城は出来ない勅令がある。 伊勢青木氏本家には青蓮寺城と松阪館と脇出山城あり。)
    (この説では筆者とは福岡の青木さんと御家とは元は同じルーツの親族となることを意味します。)
    (その元祖は最終越前北の庄の大名となった青木紀伊守の次男一宗を祖としている事に成ります。)
    (梅香寺を一矩一門の菩提寺とするかは議論の余地あり)
    大変多い説が在るのですが大変なところで疑問がつながった事に成ります。
    考察としては余り無理の無い納得できる説とした新しい結果です。
    念の為に更に検証を進めてみたいと考えます。

    更に、お家のちょっとしたことでも結構ですからありましたら是非お便りを頂きたいと思います。検証の史料としたいと考えます。
    一寸した事が今回の様な事に繋がるのがこのルーツの不思議さなのです。

    ではまた、是非お便りを頂きます様に。

    参考
    北の庄の地名は以下の3つです。
    福井県の北の庄
    富山県の北の庄
    福岡県にも北の庄と言う地名がある。

    元越前は越前、加賀、越中です。後に3分割された。
    そのために北の庄は2つに成る。

    福岡は不明であったが紀伊守一族の西国最終逃亡先ではと見られていた。
    恐らくは、この福岡の北の庄にお家の先祖は留まったのではと観られます。
    そこに越前の村名を付けた。

    参考として、麻田藩の系譜を添付します。
    本史料は青木ルーツ掲示板の末尾Pにあります。
    この一族は末裔の方は現存しています。
    丹治氏に付いては「青木ルーツ掲示板」か「青木氏氏 研究室」をお調べください。
    紀伊守や伊勢青木氏に付いても検索でレポートが出てきますので参考にしてください


    紀州入山城主(1万 1585年)−播磨立石城主−越前大野城主−越前府中城主(8万)−越前北の庄城主(20万)
    家康側室の蓮華院(江州浪人 青木一矩の娘 梅の方 後本田氏に)
    大野城 (蓮髄上人)梅香寺後に伊勢市に移設(伊勢神宮の森隣接) 
    公表されている青木紀伊守一矩のルーツに関しては大野城主の時を前提に多くの推理説が生まれている。室町鎌倉時代の先祖のこの青木氏のルーツを前提とした学術的検証は無い。
    この青木氏については殆どは家紋、地理、宗派、慣習などを無視した劣悪説が多い。

    公表されている麻田藩系譜です。

    摂津麻田藩
    青木氏
    藩祖 - 青木 一重(かずしげ)
    天文二十年(1551年) 青木刑部卿法印重直の長男に生まれる。
    母 某氏、幼名 忠助
    所右衛門(通称)、初名 重通、法号 宗佐
    官位職歴 従五位下民部少輔
    経歴 豊臣秀吉の黄母衣衆
    慶長・元和の役後、徳川家康に仕える
    元和元年(1615年)  一万二千石を領し麻田に住む→のち弟可直に二千石分与
    寛永五年(1628年)  8月9日没 法名 梅隣院革屋令曇居士
    葬地 麻布祥雲寺(のち、摂津畑仏日寺へ改葬)
    墓所 江戸白金台瑞聖寺
    正室 不詳
    子女 重正(一重養子、小寺則頼子)→ 病により家督相続できず。武蔵足立から信濃丸子に移る
    重兼(養子) → 二代

    二代 - 青木 重兼(しげかね)
    慶長十一年(1606年) 青木可直(一重弟)の長男に生まれる。
    母 関右京亮某の娘
    幼名 源五、職歴 甲斐守、号 瑞山
    元和五年(1619年)  一重の養子となり、家督を相続。
    寛文三年(1663年)  摂津多田院再興の奉行
    同十二年(1672年)  致仕
    天和二年(1682年)  没 法名 瑞山性正竹岩院
    葬地 河原村北渓の山中
    正室 酒井忠利養女(酒井忠季娘)
    子女 可一(重兼養子、酒井忠勝三男)→ 正保元年(1644年)没
    重成(養子) → 三代
    女子     → 三代の正室

    三代 - 青木 重成(しげなり)
    寛永二年(1625年)  松平忠長家臣朝倉宣親の長男に生まれる。
    母 酒井忠勝の娘、職歴 内膳→民部→甲斐守
    承応元年(1652年)  重兼の養子となる。
    寛文十二年(1672年) 家督を相続。
    元禄五年(1692年)  大番頭・御留守居→側衆を勤める
    元禄六年(1693年)  没 法名 陽徳院殿徹山道剛大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 二代重兼の娘
    子女 直正(青木直澄養子)、重矩(四代)、女子、景孝(朝倉景行養子)、明教(加藤喜隆養子)、源三郎

    四代 - 青木 重矩(しげのり)
    寛文五年(1665年)三代重成の次男に生まれる。
    母 正室 二代重兼の娘、幼名 源五郎
    職歴 民部→甲斐守
    元禄六年(1693年)  家督相続
    正徳三年(1713年)  致仕
    享保十四年(1729年) 没 法名 了心院殿雄山元英大居士
    葬地 摂津畑仏日寺
    正室 戸沢正誠の娘
    子女 一典(五代)、女子(大給[松平]乗真正室→離婚→京都祇園宝寿院行快妻)

    五代 - 青木 一典(かずつね)
    元禄十年(1697年)四代重矩の長男に生まれる。
    母 某氏、職歴 民部→出羽守→甲斐守
    正徳三年(1713年)家督相続
    元文元年(1736年)没 法名 春徳院殿瑞海元活大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 冷泉為経の娘
    子女 一都(六代)、見典(七代)、一新(八代)、女子(加藤明義妻)、女子、寅太郎、
    亀三郎(近江國唯念寺長寿養子)、正岑(井上貞高養子)

    六代 - 青木 一都(かずくに)
    享保六年(1721年)  五代一典の長男に生まれる。
    母 正室 冷泉為経の娘、幼名 源五郎
    職歴 出羽守→甲斐守
    元文元年(1736年)  家督相続
    寛延二年(1749年)  没 法名 覚翁院殿大徹浄真大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 谷 衛衝の娘
    子女 見典(弟、養子)→七代

    七代 - 青木 見典(ちかつね)
    享保八年(1723年) 五代一典の次男に生まれる。
    母 某氏、職歴 内膳→内膳正
    寛延二年(1749年)  兄、一都の養子となる。
    寛延三年(1750年)  家督相続
    宝暦四年(1754年)  没 法名 清涼院殿秋岳浄映大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 不詳
    子女 一新(弟、養子)→八代

    八代 - 青木 一新(かずよし)
    享保十三年(1728年) 五代一典の三男に生まれる。
    母 某氏、職歴 主税→美濃守
    宝暦四年(1754年)  兄、見典の養子になり、家督相続。
    明和七年(1770年)  致仕
    天明元年(1781年)  没 法名 善応院殿心珠衍明大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 久留島光通の娘
    子女 一在 → 明和三年(1766年)没、女子(九代の正室)、一貫(養子)→九代、他 早世男子四人

    九代 - 青木 一貫(かずつら)
    享保十八年(1733年) 伊達村年の三男に生まれる。
    母 伊達吉村の娘、幼名 伊織、職歴 甲斐守
    明和七年(1770年)一新の男子早世により養子になり、家督相続す→大番頭を勤める
    天明四年(1784年)  没 法名 養源院殿慈眠衍端大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 八代一新の娘
    子女 健行(佐野義行養子)、貞喬(設楽貞猶養子)、政佑(米津政従養子)、一貞(十代)、
    女子(渡辺春綱正室)、女子(斎藤利恵妻)、一寧、喜代三郎、他 女子四人

    十代 - 青木 一貞(かずさだ)
    安永五年(1776年)  九代一貫の四男に生まれる。
    母 正室 八代一新の娘、幼名 源五郎
    職歴 出羽守→甲斐守
    天明六年(1786年)  家督相続→柳間詰を勤める。
    文政四年(1821年)  致仕
    天保二年(1831年)  没 法名 正法院殿一乗義貞大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 佐竹義忠の娘、継室 池田定常の娘
    子女 重龍(十一代)、一興(十二代)、衛モ(谷 衛弥養子)

    十一代 - 青木 重龍(しげたつ)
    寛政十二年(1800年) 十代一貞の子に生まれる。
    職歴 内膳正→美作守→駿河守、幼名 源五郎
    文政四年(1821年)  家督相続
    弘化四年(1847年)  致仕
    安政五年(1858年)  没 法名 龍光院殿天祥本瑞大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 森 忠賛の娘
    子女 一興(弟、養子)→十二代、重義(十四代)

    十二代 - 青木 一興(かずおき)
    文政五年(1822年)  十代一貞の子に生まれる。
    職歴 美濃守
    弘化四年(1847年)  兄、重龍の養子になり、家督を相続す。
    嘉永二年(1849年)  没 法名 玄了院殿俊徳義勇大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 不詳
    子女 一咸(養子)→十三代

    十三代 - 青木 一咸(かずひろ)
    文政十一年(1828年) 奥平昌高の子に生まれる。
    職歴 甲斐守
    嘉永二年(1849年)  一興の養子となり、家督を相続す。
    安政三年(1856年)  没 法名 泰雲院殿一峰清咸大居士
    葬地 江戸白金台瑞聖寺
    正室 戸田光庸養女 ラ(戸田光行娘)
    子女 重義(養子、十一代重龍子)→十四代

    十四代 - 青木 重義(しげよし)
    嘉永六年(1853年) 十一代重龍の子に生まれる。
    幼名 源五郎。職歴 民部少輔。
    安政三年(1856年) 一咸の養子になり、家督を相続す。
    明治十七年(1884年) 7月8日 子爵位を授爵す→同年 没
    正室 松平信宝の娘 由(のち、離婚)、継室 塩田伝兵衛の娘

    15代 信光(のぶみつ)
    16代 蔚(しげる)
    17代 淳一(じゅんいち)




    --------------------------------------------------------------------------------

    80 青木一重流青木氏のルーツ
    青木研究員
     
    一重氏の孫 重吉氏は当初は信州の丸子に住まいしていましたが、それ以前は武蔵国足立郡の青木村に住んでいたと記録されていますので、9/14の土地ですので藤原流青木氏と判断しました。
    信州小県郡等にも青木村がありましたがこの青木村は末裔が武蔵の国足立郡の青木村から時間経過から末裔が移住したものと推測します。


      [No.632] ありがとうございました。
         投稿者:青木   投稿日:2009/10/01(Thu) 21:19:00  

    回答していただきありがとうございました。

    早速ではありますが、わかる範囲でお答えさせていただきます。
    まず、
    宗派は禅宗の曹洞宗です。
    家紋は、青木富士で、副紋に関しては、福岡にきてからは輪違いを使っていたらしいです。
    菩提寺は、最古が福井県にあったと聞いています。
    定住地は、一矩さんがいたところしかわかりません。
    なお、明治時代まで福岡県西陣の「きんりゅう寺」というお寺にお墓があったそうです。

    そして、青木一矩の次男「かずむね」(よしぞう?)という方が福岡県久留米市に来て島原の乱に加わったというのも事実です。
    その子孫が、黒田藩の御殿医になって幕末まで14代まで続いています。
    最後の方が青木春英です。
    何代目かわからないですが、青木道琢という人もいます。

    情報が乏しいですですが、なにとぞ宜しくお願いいたします。


      [No.631] 福島の青木さん
         投稿者:福島の青木さん   投稿日:2009/10/01(Thu) 12:35:06  

    代理投稿

    青木和正さん
    2009/09/30 22:30 - パソコン
      初めまして、よろしくお願いいたします。

    コメントをいただけると思っていませんでしたのでびっくりしました。
    実は、いわき市の出ですので未勘氏と思っていました。
    確かに、本サイト中に、「磐城袋内に転封したと思われる」という記載があり、祖父の実家は、この袋内とは4kmほどの距離であり、もしかしたらそこから分家した可能性はあるものの、袋内はどこにもある地名であり、また、丸付き紋であり、その可能性は低いものと思っていました。
    あるいは、転封した青木氏とは関係がなく、近江から逃げのびてきた氏なのかも知れませんが・・・。
    その辺りを更にご教示いただければ幸いに存じます。

    いずれにしましても、最近まで、自分の姓がこんなに歴史のある氏とは思ってもみませんでした。うれしいコメントをありがとうございました。
    今後とも時間がある限り寄らせていただきますので、がんばってください。

    青木和正さん 始めまして。 今日は。
    ようこそ青木サイトに御越し頂きました。これからもよろしくお願いします。

    全国の青木さんが集うサイトです。たくさんの青木氏に関する資料が用意されていますので楽しんでお読みください。

    さて、福島県いわき市ですか。
    この地域は藤原秀郷流青木が大変多い地域でその北限域に当ります。
    又、信長に追われて神奈川横浜から更には栃木に逃げ延びた甲斐の諏訪族青木氏や一部武田系青木氏が地域でその北限域でもあります。
    ですから、青木氏は多いと思います。

    しかし、お家は抱き茗荷紋の丸付き紋(浄土宗ですので分家筋)ですので、先ず考えられるルーツは近江二宮氏です。この二宮氏と皇族賜姓近江青木氏か、この一族である佐々木氏系青木氏と血縁した末裔と考えられます。

    近江で二宮氏と藤原秀郷一門の脩行に同行した藤原秀郷流青木氏の末裔と血縁した青木氏とも考えられます。

    又は、この二宮氏の子孫で近江から移動してきた伊勢の稲垣一族か鳥羽一族と、伊勢にて半国司を務め定住した伊勢の藤原秀郷一門の伊藤氏に同行した藤原秀郷流青木氏との血縁による末裔かとも考えられます。

    私は、浄土宗を現在も福島地域で宗派としているところを見ると皇族賜姓近江青木氏の可能性が高いと考えます。
    藤原秀郷流青木氏も浄土宗ですが、藤原秀郷一門の赴任地には浄土宗が少なく仮入信で浄土真宗を宗派としていることが多いのです。武蔵に帰った者は浄土宗に戻りますが、赴任地で血縁し末裔一族は浄土真宗が多いのです。
    しかし、皇族賜姓族は一切この仮入信をしていませんので、移動先の関東でも浄土宗の伝統を護っているとすると、賜姓族の青木氏と成ります。

    次ぎは、”何で福島に移動しているのか”の理由です。
    そこで、いわきには江戸期中期前後から居たとすると、史実に二宮氏と血縁して伊勢に移動してきた稲垣氏や鳥羽氏と共に、この近江青木氏が江戸期の伊勢地域の大名に仕官し、その江戸大名一族が関東に転封した大名で、更に福島にも一族が居る氏を探して存在すれば江戸期の移動説は確定します。
    且つ、この大名が近江にも居た事が在れば家紋分布としては確定します。

    江戸時代に於いては、「国抜け」で一族獄門張付罪と成り自由移動と定住は出来ませんので、大名の家臣と成って移動定住する以外にはありません。後は無宿者と成るしか有りません。
    二宮氏の末裔子孫の稲垣氏はこの転封で伊勢に移動しています。
    近江稲垣氏の丸に抱き茗荷紋と伊勢志摩稲垣氏の抱き茗荷紋です。
    この時、一族家臣として二宮氏系近江青木氏は当然に移動しています。この時、この稲垣氏末裔も地名から伊勢では鳥羽氏も名乗っています。

    そこでこの伊勢に定住した二宮氏系近江青木氏の支流又は分家筋が何らかの血縁関係でこの地域に居た大名の家臣との血縁関係がありその大名の家臣と成って移動している筈です。

    では”その条件に合致する大名はいるか”です。
    この条件に完全合致する江戸の大大名が伊勢に居るのです。それは神戸藩本多氏です。
    この本多氏は歴史上家康の側近として各地に移動するか一族を移動させるかしています。この移動地は7つあり血縁氏を入れると10程度に成ります。
    そして、問題はこの本多氏が福島に居るのです。それは福島の泉藩本多氏です。

    お家は「丸に抱き茗荷紋」ですので、近江に多く分布する二宮氏系近江青木氏であると考えます。
    つまり、平安初期に第6位皇子として賜姓を受けて近江に定住した皇族賜姓近江青木氏です。
    5家5流皇族賜姓青木氏の1氏です。
    この近江には天智天皇第7位皇子の皇族賜姓近江佐々木氏があり、同族のこの賜姓佐々木氏と賜姓近江青木氏との血縁で発祥した佐々木系青木氏もあります。

    佐々木氏は更に宇多天皇第6位皇子の皇族滋賀賜姓佐々木氏があり、この滋賀佐々木氏と近江青木氏との血縁で発祥した滋賀佐々木系青木氏もあります。
    近江青木氏は平安期に一時一族が滋賀に移動する事が起こります。
    再び、一族は近江に戻り、次ぎに摂津に定住すると言う経緯を持っています。
    現在はこの近江青木氏は一部近江と攝津に分布しています。
    滋賀に移動した時に分家の一部が残りますが絶えます。

    伊勢青木氏、近江青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5皇族賜姓族と、夫々の土地の豪族との血縁族が在ります。土岐氏系青木氏、足利氏系青木氏、諏訪族青木氏、武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏があります。
    これらは5家5流の賜姓青木氏が土地の豪族と血縁して男系跡目が出来ずに養子系の系統に入った青木氏です。

    お家はこの近江青木氏で近江の伝統のある古豪族二宮氏の分家との血縁で2代続きで男系跡目が適わず二宮氏系青木氏となり、家紋は当然養子先の「丸に抱き茗荷紋」と成ります。

    この末裔が稲垣氏の江戸時代の移動で伊勢に移り、その末裔の一部分家筋が当時の伊勢の本田氏家臣と血縁して本田氏の家臣となって、更に福島に移動したと成ります。

    「丸に抱き茗荷紋」の近江青木氏の分家末裔が近江本多氏の家臣であって移動したとも考えられますが確定する情報が有りません。

    私は家紋を重視すると、稲垣氏の伊勢ルートではと考えていますが、宗派から考えると近江ルートとなるかも知れません。
    伊勢ルートであれば、家紋は本来は抱き茗荷紋で、伊勢で分家か支流となり、丸付き紋に成ったことも考えられます。
    近江ルートであれば、家紋は近江で分家か支流の二宮氏と血縁し丸付き紋に成ったと考えられます。

    何れも家紋分布から観て、福島で丸付き紋に成るだけの子孫拡大は大きくありませんので、上記何れかです。

    参考
    A 丸付き紋に成るには、妾子であり、正妻嫡子等が居て、家紋使用を丸付き紋として成った事
    B 嗣子でありながらも何らかの理由で本家から丸付き紋の使用を指示された事、
    C 或いは嫡子が居て、養子(貰子)であったために丸付き紋となった事、
    D 第3氏又は未勘氏が丸付き紋を使った事

    以上4つで家紋掟からこの様に成ります。
    既に、近江では「丸に抱き茗荷紋」の分家も存在していますので、浄土宗ですのでDではありません。

    浄土宗の持つ時系列分布域、家紋の持つ時系列分布域のどちらを重視するかに掛かっています。

    江戸幕府は初期に浄土宗が高位の氏の特定氏、特定域の宗派であったことからも江戸初期に督奨励令を出した経緯があります。

    実は、関東に少なくも存在する抱き茗荷紋の末裔はこの本田氏の移動によるものと考えられています。

    抱き茗荷紋は、関西では近江と伊勢に多く分布する家紋ですが、以下の転封域にも少なくも分布しているのです。つまり、本多氏の移封動経路と一致しているのです。

    本田氏の転封域
    丸に三つ立ち葵紋(立ち葵紋:本多立ち葵紋とも云う)

    近江、美濃、信濃、尾張、遠江、駿河、陸奥
    以上7域

    以上、家紋と宗派から考察しましたが、他に情報が有りましたらお知らせください。

    ご質問、ご不明点など有りましたらお尋ねください。お待ちしています。
    尚、お便りはこの和正さんの専用欄からREなどでお尋ねください。


      [No.629] Re:教えてください!
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/29(Tue) 11:22:03  

    何処かの青木さん 今日は。始めまして。
    これからもよろしくお願いします。

    さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、大変情報が少ないのでなんともお答えが難しいです。

    お尋ねの内容からはこの情報でお答えする方はいないと思います。先ず不可能です。
    日本全国の特定の個人のルーツを知る人がいるでしょうか?。物理的に無理ですね。

    せめて、古くからのご本家の宗派や家紋や菩提寺や定住地などが無くては困難ですので、お知らせを頂きたいと思います。それに付け加えてせめてお名前でも。

    しかし、折角ですので、概容をお答えする事に致します。
    お家のルーツであるかは別として、
    この青木一矩は青木紀伊守一矩です。
    官位は従五位左衛門佐です。
    越前府中8万石 後に北の庄20万石を領していました。
    信長と秀吉に仕えました。
    関が原の戦いで西軍に着きました。
    徳川氏から叙封されました。
    そのため一族は離散の憂き目を受けています。
    この末裔は一時西国に逃亡し、その後、徳川時代に越前の国に戻って定住し商いを手広く営んだとされています。現在も子孫は定住しています。
    本サイトにもお便りが来ています。

    尚、この親族も同じく青木伊賀守忠元です。
    越前坂井郡丸岡四万五千石を領していました。
    信長と秀吉に仕えました。
    関が原の戦いで西軍に着きました。
    徳川氏から叙封されました。
    一族は離散しています。
    同様に一時西国に逃亡し、その後は不明ですが、越前に戻たと考えられます。

    この二族は皇族賜姓伊勢青木氏の支流だと見られています。

    伊勢松阪の伊勢青木氏は関が原の戦いでは本家筋は徳川家康に直接請われて伊勢路の護りを担いました。
    兵250と用員兵1万を出して合力しました。大河ドラマの「徳川三代」で出てきます。
    伊勢の豪商青木紙屋長兵衛の二つの顔を持つ青木氏で関が原までの道筋の警護と物品と食料の調達を任されたのです。
    この時、伊勢青木氏支流(美濃よりの青木氏)は信長秀吉に組したと記されています。

    紀伊守と伊賀守は伊勢国の守護域で、南は南紀新宮まで、北は伊賀地方、東は員弁、桑名までの領域です
    信長と戦った天正の乱 3乱 伊賀の戦い、永嶋の戦い、松阪の戦いで伊賀丸山城の戦いで伊勢青木氏は勝利しました。信長が負けた只一つの有名な戦いです。
    この時の人物は青木民部少尉信忠です。(天領地の伊勢国は3つに分割されていた)

    さて、お家は口伝でとして、一矩の子供としていますが徳川氏に叙封を受けていますので、徳川の軍に掃討されています。武士を追われていますのでその間の経緯がどうであったかが問題です。
    商家として紀伊守の末裔は生き延びています。
    多分、本家伊勢青木氏紙屋長兵衛の保護をうけたものと考えますが、私の史料には子供の経緯は保持していません。
    より伊勢青木氏の研究を進めるためにも、お家のご本家の宗派や家紋や菩提寺や定住地やご先祖の官位や通名などを教えていただけたら幸いです。
    実は筆者は伊勢青木氏の本家で青木紙屋長兵衛の直系孫です。

    青木一矩の子孫としての研究が拡がります。現在は越前に一矩の一族子孫が存在しています。
    推理から、もし一矩次男とすると越前に一族は戻っていて商いをしている事に成ります。
    これを確定する事を意味します。

    先ずは、概容をお答えしました。

    是非、お忙しい中、これ等の事をお調べ頂いてご返事を心よりお待ちしています。


      [No.628] 教えてください!
         投稿者:青木   投稿日:2009/09/28(Mon) 20:14:23  

    はじめまして。

    私は、「青木一矩の次男の子孫」だと聞いています。

    そこで、
    青木一矩の「先祖」、「子孫」、「親族関係」
    を知っておられるのならば是非教えていただきたいです。

    どうぞ、宜しくお願いいたします。


      [No.627] Re:青木の家紋の事では無いんですが…
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/28(Mon) 16:04:34  



    今日は。 始めまして。
    ようこそ青木サイトに御越し頂きました。
    これからもよろしくお願いします。
    このサイトは全国の青木さんが集う皆のサイトです。
    これからもよろしくお願いします。
    色々なメニューが用意していますので御活用ください。
    一時の癒しになればと写真館なども用意していますのでご覧下さい。
    またご相談ご質問等有りましたら雑談掲示板や青木ルーツ掲示板などにご遠慮なくご投稿ください。

    さて、お尋ねですが、母方の前田さんのお尋ねですね。
    前田さんの家紋は鷹の羽紋との事ですね。
    鷹の羽紋は大阪の和泉市の浅野氏の家紋であり、安芸等の浅野氏の本家の家紋類ですね。
    母方の前田さんは和歌山との事ですが、和歌山の直ぐ隣が和泉市で紀州徳川氏になる前は浅野氏の領地でした。
    ですので、和歌山と直ぐ近くの和泉とは国境ですから、家紋から観ればこの一族の縁の末裔であるかも知れませんね。

    母方の前田氏は浅野匠守の地元から分家として移動してきたとも考えられます。
    この和泉と和歌山の浅野氏は元は毛利氏の領地でこの和泉には甲斐の柳沢郡青木氏(高尾氏から養子)が毛利氏の家臣になる前からの守護地(高尾氏の守護地)で、後にこの青木氏が毛利氏の家臣で勲功を挙げて再び和泉守に成りました。
    それ以来、この和泉と和歌山北部は毛利氏で後に分家浅野氏の領地と成ります。
    後に事件により和泉の浅野氏も領地が徳川氏のものと成ります。
    今でも、和泉城があります。
    第1説
    甲斐青木氏の和泉守の時に本家から移動してきたか、浅野氏のときに移動してきたかが考えられます。
    ただ、前田氏であるので、養子縁組女系続きなどの何らかの理由で姓も変わった可能性があります。
    当然に、家紋は浅野家の流れを汲む支流末裔の名誉の為に護り続けたのではないかとも考えられます。

    はっきりと確定は困難ですが、仮に武士であるとして、和泉市付近の何処か菩提寺となる母方ご本家の寺を探されて、其処に昔の戸籍簿の「過去帳」なるものがありますので、それを調べられると詳しい事は判りますよ。一番古い人などの戒名などがわかると先祖が見えてきます。
    もし、お調べに成り、その時には不明な点ご質問など有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
    ご協力いたします。
    和泉はお城も残る位に戦火からある程度残りましたので、確認は出来ると思います。

    第2説
    普通は浅野氏分家一族は播州に戻りましたので、和歌山に残ったとすると恐らくは支流一族ではなくて、縁者一族が浅野氏縁の氏として鷹の羽紋を使用したとも考えられます。普通に考えるとこの場合が多いのです。ですから、姓も前田氏と異なっているのではと見られます。

    青木氏が専門ですので前田氏に付いてはよく判りません。
    しかし、この和泉浅野氏は甲斐青木氏との繋がりもあるので奇遇事ですね。

    青木氏や前田氏のことに付いては又お便りください。
    現在、筆者は和歌山の事に付いては和泉和歌山の事は良くわかりますよ。

    次ぎからお便りいただく場合はここの欄をお家の専用投稿欄にしますので自由にお使いください。
    実家青木氏のことがわかりましたら投稿の情報類もご覧になりも是非お便りください。

    では、お便り心よりお待ちしています。 


      [No.626] 青木の家紋の事では無いんですが…
         投稿者:   投稿日:2009/09/28(Mon) 09:57:06  

    はじめまして。
    もうすぐ旧姓青木に戻る者なんですが、
    本日、メッセージさせて頂いたのは、
    青木の事では無く、母方の家紋の事で、何かルーツが分かれば、お聞きしたくて…
    母方(前田家・和歌山)の家紋(浅野鷹の羽)から分かる事があれば何でも良いので教えて頂けると有難いです。

    母方の先祖は武士だったのか何なのか分からず情報といえば家紋だけなので、
    ルーツも何も…っていう感じだとは思うんですが…
    父方の青木の家紋も調べたいんですが祖母達が家紋の漢字を読めないらしく、
    今度確かめてきて、こちらで調べさせて頂きたく思います。
    今回、青木以外の件で申し訳ありませんが宜しく、お願い致します。


      [No.625] Re:上越の青木です
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/18(Fri) 19:40:45  


    上越(新潟)の青木さん 今日は 始めまして。
    青木サイトにようこそ御越し頂きました。
    同じ青木さんとしてよろしくお願いします。
    このサイトには青木氏に関する事は何でもレポートして資料を準備しています。

    お子さんがお生まれに成るとの事ですね。おめでとう御座います。
    お気持ちはよく判りますので、青木サイトも大いにルーツ探しにご協力いたします。
     
    さて、お尋ねの件ですが、情報が少ないのでなんともお答えでき難いのですが、先ずはサイトの準備したレポートもお読みください。この事もレポートされています。

    「青木氏氏 研究室」の「青木氏と血縁族」(家紋)の処の第2番目の蔦紋の所をお読みください。
    お読みに成った上で、この家紋は各地特に石川、新潟の松平氏との血縁で生まれた青木氏で、江戸時代の新しい氏です。

    そこでお家の情報が少ないのでなんともお答えは難しいのですが、可能性としてお答えしますと、次ぎの様に成ります。
    先ず、江戸時代半ば以前から越前の十日町に古くから住んでいた前提とします。
    そして、武士であったとしますと、上記「青木氏と血縁族」(家紋)のところにレポートしている通りに成ります。
    この青木氏は藤原氏北家の藤原秀郷流青木氏か、親族の藤原利仁流青木氏(秀郷流進藤氏系青木氏)であると観られます。
    藤原秀郷流青木氏に関しては「青木氏氏 研究室」の関連レポートをお読みください。
    膨大なレポートですので毎日少しづつ楽しんでお読みください。

    この越前十日町の付近までは長野、群馬、福井、石川、県境には皇族賜姓足利系青木氏と群馬の藤原秀郷流青木氏と利仁流進藤氏系青木氏の混在する事に成ります。

    さて、宗派は浄土宗がこの3つ青木氏の宗派ですが、皇族賜姓足利系青木氏は全て浄土宗で青木村を形成していますので、対象外でしょう。
    秀郷、利仁流は共に浄土宗ですが、一部赴任地では浄土宗がない場合は現地では浄土真宗に仮入信しました。
    越前では藤原利仁一門が定住していましたので浄土宗の菩提寺(青木氏単独の専用の氏寺)が在りました。従って、新しい真宗に入信する必要がありません。独自の村も形成する立場でありましたので当然に独自村には青木氏と氏寺と氏神が有りますので、真宗は検討を要します。
    青木村の形成についてはメニューの「地名地形データー」の所をチェックして下さい。

    これ等のことをより明確にするためには、お家のご本家を探し出し、そして、其処の宗派と菩提寺或いは墓所のある寺を探し出し、其処に「過去帳」というものがありますので、ご本家のご先祖の累代の人が書かれていますから、そこの一番古い人をお探しください。
    その古い人の時代や戒名などを把握してください。そして、それをご質問して頂ければお答えします。(過去帳とは昔は武士以上の者は戸籍簿として残しました。特別な者を除き農民以下は戸籍簿を持たない習慣でしたので有りません)

    もし、ご宗家かご本家が見つからず、過去帳が無ければ明治期の苗字令による青木氏と観られますので、氏家制度の慣習からルーツは辿る事は明治以後のものでなくては出来ません。
    兎も角も、一度お調べください。
    さて、蔦紋の青木氏は江戸期の新しい青木氏ですので、浄土真宗は平安期末の浄土真宗で無い事が覗えます。

    個人のルーツを把握する事は不可能ですし、直ぐに個人のルーツまでの処までに届く資料はある事は有りません。
    先ず調べられる範囲のご本家を見つけ出し宗派と過去帳をお調べください。あれば藤原秀郷流青木氏である事が考えられます。其処からはご本家にあるいろいろな家宝のようなもので更に詳細なことが解けてきます。この場合は本サイトとが持つ史料で個人のルーツに迫る解明が進む筈です。

    では、先ず、関連レポートをお読みください。
    お便りをお待ちしています。


      [No.624] 上越の青木です
         投稿者:上越の青木   投稿日:2009/09/17(Thu) 23:23:03  

    子供が生まれるにあたり、家のルーツを語れるようになりたいと思い投稿しました。
    どなたかご存知でしたら教えてくださ。
    私の家はルーツは新潟県の上越、十日町の近辺です。
    宗教は浄土真宗、家紋は丸に蔦です。
    先祖の記録がほとんどないのでもしかしたら明治になって名乗った苗字なのかもしれません。

    我が家のルーツに関してご存知の方よろしくお願いいたします。


      [No.623] Re:福岡県の青木です.
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/11(Fri) 10:34:41  



    福岡の青木さん 今日は。始めまして。
    ようこそ青木サイトに御越し頂きました。これからも同じ青木氏としてよろしくお願いします。
    このサイトは全国の青木さんが集うサイトですので、大いにご利用ください。
    青木氏に付いてのことは何でも研究して子孫に資料を遺そうと努力を続けています。
    是非にご協力ください。

    既に10年程度も過ぎて、大分整いそのお陰で全国の青木さんに知られるように成りました。
    又、青木氏と元は親族縁者であった氏のことも揃えて資料も準備していますので、これ等の氏や他氏の氏からのお便りも格段と増えています。
    今年になってサイト訪問者が倍増する事にもなり、1日に4千人程の人が訪問して来てくれています。
    そのお陰でヤフーの歴史カテゴリーでも最初)は250位の最下位クラスであったものが今や10番目クラスのトップに踊り出ています。
    これも全国の青木さんのお陰です。もっと多くの方々にご賛同頂き資料を遺す石杖になればと願っています。

    さて、話が長くなりました。
    お尋ねの件ですが、青木一重の末裔ではとの事ですね。
    お尋ねの提供していただいた情報が少ないので何とも難しいのですが、既に青木一重の事はご存知のようですので、念のためにその詳細事からお話したいと思います。

    先ず、青木一重は江戸初期に於いて勲功を立て幕府から摂津麻田藩1万石の領主となりました。
    そして、その弟は河内付近の4千石を知行しました。

    青木一重は元は武蔵国足立郡青木郷に住まいしていた者で、武蔵7党の丹治氏の末裔と見られています。丹治氏と武蔵7党で徳川氏に合力した事が理由で摂津麻田藩に成りました。
    後に青木民部少輔の冠位を受けました。
    この一重には2人の息子が居りました。重兼と重正です。
    何れも子孫を大きく拡大させています。
    重兼は甲斐守の冠位を受けました。武蔵の足立郡に住しました。
    重正は信濃丸子に住しました。
    この何れもの系譜を把握していますが、そのどちらの末裔か何か史料となるものがあれば系譜を辿ることが出来ます。
    判定検証するために次ぎにご質問をします。
    先ずは簡単に調べられて判る範囲でお答えください。

    ”江戸期に九州へ流れて,医業につき代々黒田藩に御殿医”との情報からしますと、江戸期の何時ごろか判りますか。
    ”九州へ”としていますが、医業を習得する為に長崎に来たと云う事でしょうか。
    ところで、家紋は「青木富士」紋との事ですが、青木富士紋には副紋が使われています。
    その富士紋の副紋は何でしょうか。富士山の下についている文様か或いは副紋です
    丹治氏は副紋を使っていますが、家紋は幾つかありますが、この麻田藩の青木氏は富士山紋の霞紋です。
    この富士山紋には5つの家紋があります。
    ですので、丹治氏本流の青木氏の家紋は詳細に分けると、丸に揚羽蝶紋、三つ鱗の富士山紋、丸に鱗紋の富士山紋、花菱紋、九曜紋、三州浜紋、の6つの家紋の末裔に成っています。
    と成りますので、霞に富士山紋とで富士山紋は三つと成りますのでこの支流末裔である事に成ります。
    前二つの富士山紋の何れかから出た末裔支流と成りますが、副紋が決め手に成ります。
    鱗紋かその分家筋の丸付き鱗紋か更にその支流の霞紋かです。

    先ず、霞紋であるとすると、更にその5つの霞紋の支流があります。

    一重一門はこの霞紋です。であるとすると、この霞紋は2つの霞紋になり、更には江戸末期には2つに分流しています。この5つの内のどの霞紋ですか。
    次にこれ等を判定するに必要とするお家の宗派は何でしょうか。
    それと、お家の本家筋が何処でしょうかお判りですか。消失してもご本家筋が判定の元と成りますのでそこをご確認ください。

    その本家筋の菩提寺(青木氏の氏寺或いは宗寺)は何処にありますか、宗派は判りますか。
    其処にお家の過去帳がありますが、その過去帳の一番古い人は何時の時代ですか。
    もし、判れば、江戸時代の中頃以前の人の一人の戒名が判りますか。
    お家のご先祖の元居た所は何処でしょうか。
    例として、次ぎのところに一重子孫は定住していました。
    摂津、河内、信濃丸子、信濃南佐久郡、信濃小県郡、信濃上田市、武蔵入間、武蔵足立、武蔵大宮
    の何れかですか。

    以上の情報をが判ればお家のルーツの出自がある程度判りますのでよろしくお願いします。

    尚、一重に関するレポートが「青木ルーツ掲示板」と「青木氏氏 研究室」に史料が準備していますし、丹治氏のレポートもありますので、検索で拾い出してお読みください。

    では、以上の史料からお調べに成りお便りをお待ちしています。
     


      [No.622] 福岡県の青木です.
         投稿者:青木将虎   投稿日:2009/09/10(Thu) 16:06:08  

    はじめまして.福岡県の青木です.祖父から伝え聞いた話では,青木一重の血を引く家だそうです.江戸期に九州へ流れて,医業につき代々黒田藩に御殿医として仕えてきた家とのことでした.家紋は青木富士を使っています.祖父が子供のころ火事で資料が焼けてしまったようです.その祖父も今は亡く,事実を確かめようがありません.知恵とお力をお借りしたくメールさせていただきました.よろしくお願いします.


      [No.621] Re:家紋の質問 (綾戸さんから)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/07(Mon) 07:23:48  


    母方の実家の綾戸さん

    今日は。 始めまして。
    貴方の姓が判りませんので、とりあえず綾戸さんとしてお呼びします。
    青木サイトによく御越し頂きました。これからもよろしくお願いします。

    さて、お尋ねは綾戸さんのルーツですが、残念ながら全く判りません。

    余りにも情報が少ないのでなんとも致し方有りません。
    そこで家紋の判断ことですが、この家紋は限られた氏が使用した家紋です。
    元は中国の官服の袖文様として用いられたもので、一説にはボケ木瓜、胡瓜と云われていますが正しくは官服文様です。
    日本では最初に使ったのは車紋としての象徴紋で、徳大寺氏です。これが後に、多くの豪族や旗本など160氏以上が使用しました。

    この内、横木瓜紋を使用した氏を観ると、越前から岐阜一帯域縦に分布します。
    その中でも、この横木瓜紋の代表的な氏は田中氏、大原氏です。
    この多くは、織田信長の家紋の織田木瓜や朝倉氏の朝倉木瓜や日下部氏(草壁)紋と言われるように元は越前、信濃、美濃に住んだ平家一門の支流末裔です。

    これと綾戸氏とはどの様に繋がるかは判りません。
    参考として、綾の姓を使う氏としては元は「綾部氏」が多いとされています。
    つまり、大化期に中国後漢が滅び、初代光武帝より末帝21代献帝の子供阿智使王とその孫の阿多倍王が中国17県民を引き連れて200万人が日本に上陸して帰化しました。
    この時、技能集団の綾織をする技能集団がありました。この集団を当時「綾部」と呼びました。
    「・・部」はその技能の後ろに「部」付けて呼ぶ技能集団の呼称でした。海の幸を採る「海部」、服を作る機械を作る「服部」等この集団の首魁が阿多倍王でした。
    日本書紀にも出て来る人物で日本の66国の関西以西32国を支配する勢力を持っていました。
    この首魁阿多倍王の孫末裔「平国香」より5代目が「平清盛」です。
    その帰化技能集団の多くは当時未開の美濃信濃域に配置されました。
    ですから、この域に平家の支流末裔が多いのです。
    恐らく、後に綾部氏から綾戸氏と変わっていったとも考えられます。
    そこで、綾戸さんの家紋は丸付き紋ですので、更に、これ等の支流のさらに支流と言う事に成ります。
    比較的新しい氏と観られます。

    日下部氏がこの木瓜紋を使っているところを見ると、「草壁」から日下部氏に変化したものと考えると、滋賀地方も入る事と推測できますが正確には判りません。

    兎も角も、家紋に入る前には綾戸氏のご本家のご先祖の菩提寺を探されて、その寺にある「過去帳」を見せて貰う事から始めるのが一番はっきりとすると思います。家紋はこの前提に立っていますので。
    一番古い人を見つけ、その人の生きた時代状況を特定して、そこから地域を推理特定して行けばこの家紋にたどり着く事が可能に成ります。そこで、人時場所の特定からの「歴史的な史実」から割り出せば出て来ると考えます。
    江戸末期であれば資料も残っていますのでたどり着く可能性があります。

    「歴史的史実」の知識はなかなか個人的には把握するには困難です。専門的に長い研究からの知識での判断が必要です。
    家紋だけでは無理でその元と成る歴史な史実が必要です。その前の綾戸さんのルーツを見つける事ですね。
    その時には、「歴史的史実」で青木氏サイトもご協力できると考えます。


      [No.620] 家紋の質問 (綾戸さんから)
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/06(Sun) 19:24:41  

    福管理人の代理投稿
    家紋掲示板に投稿

    綾戸まささんより

    初めまして。
    突然ですが質問があります。
    親戚からの頼みで、京都の平岡八幡宮にある「花の天井絵」を描いた綾戸鐘次郎藤原之信という江戸時代末期の画工と私の母方の「綾戸(あやど)」家の関係について調べています。
    この画工は調べようにも、情報が少なすぎていまいち素性が掴めません。
    そこで、母方の綾戸家の家紋からアプローチしようと思いました。
    しかし、私は家紋については全くのド素人で右も左も分かりません。
    「綾戸家」について、支障がない程度に情報を書きますので、家紋や元々はどこから派生した可能性があるのかなどを教えて下さい。また、家紋から色々調べる時の方法などもご指導頂けたら幸いです。

    ・綾戸家の家紋:「丸に(横)木瓜」

    ・滋賀県にあります

    ・その集落はもとは落ち武者がつくったそうです(事実かどうかは不明)



    よろしくお願いします。この他に情報があれば、随時書いていきます。


      [No.619] Re:秋田の青木さん
         投稿者:青木   投稿日:2009/09/01(Tue) 08:52:19  



    ありがとうございました!!!!
    またよろしくおねがいします!!!

    福管理人からのお願い。
    この投稿は「合言葉の不正」でのエラーと成っていました。
    自分のパスワード(削除キーの事です)を作り覚えておき投稿する時に入力してください。


      [No.618] Re:福島の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/09/01(Tue) 07:34:41  

    福島の青木さん 今日は。

    冬休みに栃木にいかれるという事ですね

    その前に。
    ご先祖の事を知るだけでも「自分の尊厳」にもつながりますね。
    「過去の先祖」は「現在の自分」であり「未来の自分」は「子供の自分」と成ります。
    現在の遺伝学では血液型が同じであれば遺伝は80-90%を引き継いでいることに成ります。
    これの意味する処は「過去の先祖」は「殆ど現在の自分」ですよね。
    そして、子供や孫は「未来の自分」であり「自分の継承」と云う事に成りますね。
    貴方が未婚の若者あるとすると、親は一つ前の「目に見える過去の自分」であり、もし子供が生まれると一つ先の「未来の自分」であり、更に孫が生まれると、最早、目に見える「未来の自分」だと云う事に成ります。ご先祖は目に見えない「過去の自分」と成ります。

    人間は、他の動物と同じく、子孫を遺す事の目的の為に、この世に250兆分の一で生まれて来たのであり、孫が生まれた時の心のそこからの不思議な無意識の喜びは、この本来の動物に持つ本能の「目的達成の喜び」であると思います。
    故に、先祖の事を知ることは「過去の自分の生き様」を知る事に成ります。
    それはとりも直さず、「自分への尊厳」であり、強いては「伝統の尊厳」と云う事に成ります。
    お家は歴史に興味があると云う事は、この事に付いて無意識で気がついている事を意味します。

    そこで、情報を提供します。


    栃木はお家のご先祖のルーツのところですから何か惹かれるものがあります。
    私も皆さんもルーツを訪れますと何となく不思議に安らぎを感じると云います。
    そこで、もし行かれるのであれば次ぎのところをご紹介します。

    栃木県下都賀郡大平町と云うところがあり、其処に諏訪神社があります。

    前回のレポートでお答えした神奈川横浜から、更に栃木南部に移動した諏訪族青木氏が最初に定住したところです。そして、一族はここに守護神の諏訪神社を建立しました。
    ここが第1番目の福島の諏訪族青木氏のルーツに成ります。
    訪れるのであればここを先ず訪れると良いと思いますよ。

    次ぎに、この諏訪族が更に後に福島に移動定住したところがあり其処にも、守護神の諏訪神社を建立しました。
    ではそこをご紹介します。

    4ヶ所あります。
    石川郡平田町 諏訪神社
    いわき市 諏訪神社
    田村郡 小野町 諏訪神社
    双葉郡 富岡町 諏訪神社

    この4つの末寺の元は栃木の諏訪神社です。
    大本は信濃諏訪神社ですが。

    この4つの諏訪神社がお家の守護神です。
    福島の諏訪族青木氏一族の末裔の繁栄が大きく起こり、本家分家の4つに分かれた事を意味しています
    どれが福島の諏訪族青木氏の本家かわかりませんが、神紋や社歴や寺紋や寺歴から判るのではと考えます。
    其処までは私の方で研究は行き届いていませんが、お調べに成ると手近じかで面白い研究に成るのかなとも思います。(信濃の諏訪神社神紋は立ち三つ葉梶根付き紋です)
    抱き角紋は4つの抱き角紋と5つの抱き角紋が在ります。
    この4つの神社の神紋がどの様に成っているか調べると判ると思います。
    神社の綜紋は上記の梶紋ですが、末社の神紋は建てた氏の綜紋(抱き角紋)を着ける習慣に成っています。
    お家はこの何処の神社の氏子であったのでしょうか?。

    興味がふくらみますね。
    訪れる際には「青木ルーツ掲示板」に、先日もよくお便りを頂く諏訪族青木さんの方からお便りもありますし、検索でお調べになり事前知識としてまずはお読みに成る事をお勧めします。
    そのお便りにも詳しく諏訪族のこともレポートしていますよ。

    ではまた、訪れた際には是非お便りください。


      [No.617] 福島の青木です。
         投稿者:福島の青木   投稿日:2009/09/01(Tue) 00:21:14  

    大変ためになりました!有難うございます!自分もこれを機に先祖のことを調べたいと思います。

    まさか青木という名字にこれだけの歴史があると思ってもみなかったし、すごく驚きました!やっぱり知ることは大事ですね。

    私は冬休みに偶然栃木に行く予定なので、そこから始めようと思います。

    最後にこれからも研究頑張って下さい!応援しています
    +何かとよろしくお願いします


      [No.616] Re:福島の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/30(Sun) 22:35:47  


    福島の青木さん 今日は。始めまして。
    本サイトは全国の青木さんが集うサイトです。
    これからもよろしくお願いします。

    さて、お尋ねですが、青木氏のレポートをお読みになると色々な歴史に関する知識を記述していますので、ゆっくりと時間を掛けてお読みください。
    本家、分家のことを始めとしてルーツを判断するに必要とする知識なども全て記述しています。

    抱き角紋は諏訪族青木氏の家紋です。
    この青木氏は信濃には皇族賜姓青木氏が守護王として平安時代まで務めました。天皇の自らの子供の第6位皇子が臣下させて朝廷の天領地の守護として、天皇を護る親衛隊として務めました。
    この皇族賜姓青木氏が信濃に大化期に、中国の後漢が滅びた時に、光武帝より21代目の末帝の献帝の孫の阿智使王とその曾孫阿多倍王が17県の県民200万人を引き連れて九州北部に上陸し、瞬く間に九州全土と関西地方手前までこの勢力で殆ど無戦の状態で征圧しました。

    この後漢の集団の首魁の阿多倍王は九州大隈半島に定住していましたが、進んだ中国の技能を広めて国民の生活を豊かにさせました。そして、帰化を申請し、認められて朝廷に呼び出されて伊勢北部伊賀地方を割譲して半国を与えられました。そして天皇家 敏達天皇の孫の芽淳王の子供の娘を娶り、3人の男子を設けました。この様に血縁をして准大臣に任じられました。
    そして、その引き連れてきた集団も朝廷の官僚として働き日本の律令を作り上げたのです。
    日本の第1次産業はこの集団が構築したのです。
    この時、どんどん入国してくる帰化人の内未開地であった信濃に大型の外来馬を飼育する為に信濃に移動させました。そして、定住しました。発展開拓した彼等を護り、信濃国を北部民族から護り守護王として皇族賜姓青木氏が赴任したのです。そしてこの渡来人の馬部の首魁と血縁しました。これが皇族賜姓族の諏訪族青木氏です。この皇族賜姓諏訪族青木氏と武田氏と血縁したのが諏訪族武田氏系青木氏です。
    武田氏系になるのは、皇族賜姓諏訪族青木氏の分家一部に男系の跡目がなく武田氏から養子を採り跡目を継ぎましたが、更に男子に恵まれず、女系と成った事から系図では男系の武田氏に所属する一族と成ったのです。
    古くは、奈良時代の孝徳天皇の頃の後漢の民の帰化人です。
    ですから、信濃には皇族賜姓系諏訪族青木氏、武田氏系諏訪族青木氏の二つの諏訪族の青木氏があります。
    4つ角と5つ角の抱き角紋等があります。
    お家のルーツはこの5つ角抱き角紋の武田氏系諏訪族青木氏です。
    この一族は織田信長に追われて一族郎党は藤原秀郷流青木氏を頼り、伊豆、神奈川、横浜、栃木に逃亡しました。そこで更に子孫を拡げました。
    恐らくは、ご先祖はその横浜から栃木に移動した諏訪族武田系諏訪族青木氏だと思います。
    そして、その子孫が更に分流して行き関東の本家、分家と拡がっていったのです。

    ですから、その総宗本家は先ず、神奈川付近にあり、更には、信濃諏訪地方に大本の宗家がある事に成ります。今でも諏訪には青木さんが多くて移住しています。
    信濃の諏訪神社のあるところの付近です。関東に神奈川栃木などには諏訪神社が在りますがこのあるところがお家のご本家筋があるところです。その元は信濃諏訪神社です。

    ですから、お家は天皇の第6位皇子の信濃王の血筋と後漢の馬部の首魁の血筋と武田氏との血筋を持つ大変古い伝統を持つ青木氏と成ります。
    「馬部」とは阿多倍が後漢から引き連れてきた17県民の200万人の技能集団の中の馬を飼育する集団です。
    「・・部」と着く氏名は全て後漢から来た職能技能集団の民です。
    例えば、服部、海部、武部、綾部、磯部など沢山あります。これ等が日本の国民に中国の進んだ技能を教えたのです。だから、進んで配下に入り技能を教わり、戦わずして関西西北32/66国を無戦で征圧したのです。
    これ等の集団の大首魁のこの「阿多倍王」の末裔孫の平国香から5代目のあの平清盛まで続いた一族です。つまり「たいら族」です。桓武平氏、京平氏、伊勢平氏とも云います。
    関東の「ひら族」の「坂東八平氏」と異なります。

    子孫の枝葉は総宗本家から本家。本家の分家、分家の本家と枝葉が伸びて行きますので、お家はこの何処の本家筋か分家筋かはわかりませんが、家紋が丸付き紋で無いとすると、何処かの本家筋の分家と成ります。
    お家の総宗本家は先ず多分栃木にあると思います。次ぎのその本家は神奈川地域にあると思います。更に神奈川の本家は諏訪地方にあり、最後には元となった総宗本家は諏訪にあり、最後は、皇族賜姓青木氏の定住地の信濃国府付近にあります。

    さて、お家の本家筋の分家は1582年頃の栃木にあると思います。
    ご本家の住んでいた所には青木氏の氏寺の浄土宗菩提寺があり、其処に過去帳というものがあります。それを調べるとお家の分家が何処の位置にある分家かが判ります。
    福島での菩提寺と成っている浄土宗寺では出ないと思いますが念のためにお調べに成ると良いと思います。それから、栃木から神奈川、諏訪と辿ると良い事に成ります。
    兎も角も、お家の情報が少ないので確定は出来ませんが、確定するには先ずは現在の浄土宗のお寺さんの過去帳の一番古い人を調べて何時の時代の人か判別する事です。今のところでご本家筋が判ればその寺の過去帳を調べると繋がって行きます。

    家紋に丸付き紋が無い所を観ると本家筋の分家です。(違いは家紋掟で参照)

    これ等のことは全て研究室の青木氏氏のレポートとに詳しく書いていますし、青木ルーツ掲示板のところの諏訪族で検索してください。大勢の元親族の方のお便りがありますよ。それを読まれるだけでもお尋ねのことの知識が広がります。

    「青木ルーツ掲示板」諏訪族検索で、「青木氏氏 研究室」の関連レポートを読破してください。
    皇族賜姓青木氏関係などを先に。
    お家のご先祖の事は日本書紀にも何度も出てきますよ。これも「日本書紀のレポート」に記述しています。

    読破すると先生でも知らないほどの歴史のマニアになりますよ。
    本家分家に付いてはその掟の「家紋掟」というものがありますので、それを把握すると本家分家の理解できます。
    今、丁度、「甲斐武田氏の花菱紋の研究」の中編のところに家紋掟のことも書いていますのでそれを読んでください。それで判ると思います。(上から1/3程度のところあたりにあります。)
    (他のレポートにも「家紋掟」のことを書いています。読破)

    とりあえず、大まかに書きましたが、先ず読破して、その途中で判らない時などはご質問してください。

    この投稿欄が福島の青木さん専用のお尋ね欄としますので次からはここからReでお便りください。


      [No.615] 福島の青木です。
         投稿者:福島の青木   投稿日:2009/08/30(Sun) 17:36:50  

    はじめまして!
    私は自分の先祖に興味があり、家紋と青木という名字を頼りに検索し、ここにたどり着きました。

    私の家の家紋は丸に5本の抱き角です。このサイトで調べると、武田系諏訪族青木氏だとわかりましたが、家には家系図も家宝も残っておらず、家族は無関心なのでそれが本当なのか調べようがありません。
    (あとは家が代々浄土宗であることしかわかりません。)          また、自分は歴史が大好きで中でも戦国時代はダントツです。先祖が諏訪族ならば、仲間の友達や先生にも自慢出来るのですが、確信が持てません! それに分家なので実際関わりがあるかも微妙です……そもそも本家と分家の差はどれくらいあるのでしょうか?
    どうか教えて下さい


      [No.614] 美濃の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/26(Wed) 21:36:31  

    はじめまして。

    上記の青木さんとは違う青木です。

    私の祖先も墨俣一夜城の対岸にある日置江村の出です。
    家紋は州浜で、浄土真宗です。
    菩提寺には家系図があり、一応16代〜18代前まで書かれているみたいです。
    江戸時代には名字帯刀を許されていたみたいです。
    土地持ちの農民だとは思うのですが。


    研究室を拝読させていただきますと、州浜は藤原秀郷の流れをもつと書いてあります。

    この土地は3氏の青木氏が混在したとありますが、そのうちの一つである、藤原秀郷の末裔の兼光系藤原秀忠が美濃の守護に付いたときに同行した青木氏という解釈でよろしいのでしょうか?


    美濃の青木さん
    今日は。始めまして。

    全国の青木さんが集うサイトですので、これかからも色々な地域のお便りなど有りましたらお知らせください。

    さて、お尋ねですが、前のお便りの美濃青木さんの内容をお読みに成ったと思いますので、この内容に付いては割愛します。

    では、先ず、お答えから先にします。
    お尋ねの通りです。

    そこでお家のその経緯をお答えします。
    菩提寺がお在りに成り、過去帳があり、16−18代前まで書かれている処から古くて室町中期前頃のご先祖が一番古い人と成ります。
    としますと、それで現在の菩提寺以前にもご先祖が居た事に成りますので、室町初期までは充分に考える事が出来ます。
    この様に成りますと次ぎの事が考察出来ます。
    鎌倉幕府が樹立した時に藤原秀郷一門は平安期の立場を無くし失職離散しました。
    頼朝の藤原秀郷一門への2度の「本領安堵策」と平家に領地を奪われていましてので、「平家没官僚策」の恩恵を受けて、息を吹き返します。
    ただ、この時一部は武士を棄てその土地での平安期の守護の立場を生かして「豪農」と成りました。
    特に、美濃に於いては、藤原秀郷一門の勢力の西側域の最前線です。
    室町時代末までその勢力を維持していました。
    この時、この土地の青木氏一門を「武士の家」と「土地の豪農」に分けて、この域を「武と農」の立場から勢力を安定させました。

    というのは、この時代は、まだ「兵農分離」の制度(豊臣秀吉が兵農分離令を出した)は実施されておらず、むしろ家臣だけの戦力より「戦いの主力」として「農兵」の制度に傾いており、維持されていましたので、この戦略が特に必要であったのです。
    そこで、一門のリーダーの青木氏は24の各地で「豪農」や「豪商」に成りました。
    そのうち「豪農」は「土地の長」(名主、庄屋、郷士、郷士、豪農、豪商)として郡又は村の「農民」を「農兵」として徴用する事が出来ます。金品と契約条件をつけて農兵として徴用するのです。
    この時期はむしろこの制度の充実が出来ている氏が生き残れる条件でした。
    まして、室町時代は、「下克上」が起こり、後には「戦国時代」と成りましたので、「土地の農民」を味方に引き入れる事が勝負を決める条件にも成っていました。
    その為には「武士の立場」よりも農民の「土地の長」としての立場の方が都合は良い訳と成ります。
    そうする事で、一門を守る事が出来る訳です。
    戦いには”何万の兵を集める”と云う事は、「家臣」ではこれだけの兵を養う事は経済的には出来ません。従って、農兵が大きな力と成るのです。
    その農兵の長を務める者が必要です。そこで生まれたのが、武士が農民に成り身分を「郷士と郷氏」の豪農としたのです。
    この様な事を秀郷一門の中で指揮するのは「第2の宗家」として取り仕切っていたのは藤原秀郷流青木氏です。
    青木氏は自ら秀郷一門を代表して実践したのです。
    お家は武蔵の宗家の青木氏から指示を受けて先ず「豪農」と成ったと観られます。
    そこで、お家の一族を細かく分けて村などの庄屋や名主などと成って「長」を務めたのです。
    まして、この土地は秀郷一門の最前線ですので一族一門を守る為に、特にその必要性に迫られていたのです。
    この土地は、お尋ねの通り、平安末期の16代目の藤原秀忠に同行した一門の護衛団役の青木氏です。
    この土地には定住した「陸奥の小田氏」と陸奥に赴任した藤原秀郷流青木氏との血縁族の末裔「州浜紋」青木氏が、美濃の秀郷宗家の赴任地に同行した時に、この州浜紋一族と血縁した土地の別の豪族の「五瓜紋」と血縁し、更に後に「五瓜に州浜紋」の支流を生み出した青木氏です。
    この様に血縁で地固めをして支流を出しています。
    五瓜紋は美濃の織田信長等の土地の土豪一族紋です。
    この様に大変力のある青木氏であったので、青木氏の分家一部が土地の豪農と成って固めたのです。
    ですから、秀郷一門は「下克上」の攻撃に合わずに、また「戦国時代」に滅びる事も無く生き延びる事が出来たのです。
    更に秀郷流青木一門の一部は各地(24)での領主としての税の扱いの立場を生かして自ら「豪商」と成りその経済的な裏付の役目を担ったのです。
    つまり、その仕組みは、美濃では、豪農として親族が長として務める村の物産を集めて、豪商が売さばき、そして、その利益を親族の豪族に入れる仕組みです。
    お家はその一躍を担ったのでこの地域には大変多い氏で家紋なのです。
    確定は出来ませんが、この州浜紋のこの土地の青木氏の本家筋と観られます。
    この地域に青木氏の豪農が多いのは上記の戦略に拠ります。
    最終、秀吉の「兵農分離令」から、更には家康の4階級身分(士農工商)に分けた結果、お家は農民の豪農(多分、郷氏だと思います)として認められて元からの苗字帯刀と家紋を持つ農民として位置付けられたと考えます。
    「郷氏」とは「郷士」より上の藤原秀郷一門の氏や賜姓青木氏などの家柄身分などの良い土地の地侍を意味します。郷士とは普通の地侍です。この二つは武士と農民の立場を持ちます。
    近藤勇、坂本竜馬などは郷士です。
    お家は16−18代ですので、現在の菩提寺に過去帳を持ち始めた室町中期前の時期です。
    分家が一族を遺すためにその必要性から宗家からの指示で農民の「郷氏」に成る事を決断実行した時期と見られます。つまり、それまではご先祖の一族のご本家の古い氏寺の本当の浄土宗菩提寺は武蔵国にあったと観られます。
    武蔵国の入間を中心に横浜神奈川を半径とする円状の中を勢力圏して秀郷流青木氏が螺旋状に宗家本家分家支流と外側に位置付けて取り囲む防衛体制を堅持していました。
    秀郷一門一族の主要5氏は青木氏を先頭に永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏です。
    その中で青木氏が宗家の貴族身分に代り「第2の宗家」として一門に指揮をしていました。
    その中でも(一門361氏青木氏116氏)州浜紋は血縁族16氏の中にありますので、ご本家はこの圏内の中間当りに位置して護っていたはずです。武蔵の浄土宗寺のどこかに州浜紋俗の青記氏のご本家が祭祀されていると筈です。
    宗派は本来では浄土宗ですが、土地にその寺がなかった場合は秀郷一門は浄土真宗に入信しましたので問題はありません。
    この日置江地域は国府のところの国府安八郡の北域ですので、問題はありません。
    墨俣東地域には未だ長良川の未開墾で浄土寺は無かったと観られますので、土地の郷氏としての役目柄からも特別氏が入る浄土寺ではなく地域の真宗に入ったと観られます。
    この地域には郷氏の青木氏が多いのはこれらの青木氏の生き残りの事情からです。

    この蘭の上二つの青木氏も同じではと思います。

    ({藤原秀郷主要5氏と家紋の研究}の青木氏のレポート参照 また其の他の「藤原秀郷一門の生き方」のレポート参照して下さい 詳細にレポートしています)

    お答えはお尋ねの通りです。

    その背景などの事は研究室にレポートしています。
    長いですしゆっくりとお読みください。
    他にご質問等ありましたら、お尋ね下さい。

    お家の専用の投稿欄を設けますので、其処からReでお尋ねください。


      [No.611] Re:うちのルーツは?
         投稿者:青々   投稿日:2009/08/24(Mon) 15:14:06  

    少ない情報の中でご丁寧にありがとうございます。

    両青木家とも栃木県南部ですが、江戸期以前のところまでは確認できていないので
    今後、帰省した時などに菩提寺に伺ってみようと思います。

    とても勉強になります。
    これからもお邪魔しますので宜しくお願いします。


      [No.610] Re:青木姓ではないですが。。。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/20(Thu) 23:34:02  

    志賀さん 今日は。

    お調べに成ったようですね。
    では早速ですが、その前に、大変お答えがし難いものと成りますが、敢えて忌憚無くお答えしますのでそのおつもりでお読みください。サイトの信頼性を貫く為に単刀直入でお答えします。
    それをどう扱うかは志賀さんの判断と心得ます。

    では。
    先ずその家系図又は系譜に付いて、基本的な事をご認識いただきます。その上で、ご判断をお願いします。
    家系図又は系譜はその代毎の人が追記して行けばよいのですが、現実は何処の代の人が何か書物などを基に調べたものを書き上げたものが殆どです。100%だと思います。
    というのは、鎌倉時代より下克上、戦国時代、室町時代、安土桃山時代と戦いに明け暮れ先祖が遺した書籍は消失しているのが殆どで、且つ、討ち死にする等で先祖がわからなく成るなど追記して行く事は現実に不可能です。
    まして、この間には、男系が絶えて女系になり、跡目養子、婿養子などが起こります。この様な煩雑なことを護って残して行く事は不可能です。
    ある代の人がこの系譜を作る時にこの様な事を調べる個人的な史料までは遺されていません。
    ではその典型的な例を幾つか述べて見ます。
    豊臣氏でも、徳川氏でも、今投稿している武田氏でも搾取偏纂の結果なのです。
    徳川氏では幕府を開く時には、まず「征夷大将軍」の称号を取る必要があります。
    これには朝臣族である事が必要です。つまり、源氏である事が必要です。
    徳川氏は南北朝の頃の架空の第6位皇子を作り出して16代目の源氏としましたが、朝廷はこれを認めなかったのです。
    南北朝では第6位皇子の賜姓源氏の意味は全く無く成っている事と、南北朝は皇子が少なくて天皇になれる資格の者が無くて争ったのですから、第6位皇子を賜姓する事の事態が無い訳です。
    それまでの源氏の系譜は明らかに成っていますので、作り出すことは出来ませんので、止む無く南北朝を引っ張り出してきて創り上げました。しかし、朝廷自身が一番良く知っている訳ですから拒んだ結果、天皇家の生活が成り行かなく成るまで経済的な圧力を掛けました。
    壁は崩れ、その日の食事もままならないまでに天領地を剥奪してしまったのです。
    止む無く朝廷は認めます。しかし、征夷大将軍は無理強いで解決しましたが、幕府を造るにはもう一つの条件が必要です。それは賜姓源氏は嵯峨天皇から始まり花山天皇まで11代ありますが、「源氏の頭領」である事が必要です。これには「朝臣族」(第6位皇子まで)である必要があります。
    朝廷は流石にこれは頑として拒みました。この時は殆ど食事も出来ないような状況におかれたと記録されています。そこで、家康は「源氏長者」と云う称号を作り出し認めさせました。
    つまり、「源氏の頭領」は認めていないので、結論は、源氏そのものも認めていないと同然です。
    更に、家康はその系譜を作らないと周囲から疑われます。三河の土豪であったのですから突然に「源氏」と名乗っても信用はされません。そこで、家康の祖父の時代に三河土豪の松平氏の家の前に比叡山僧が現れて泊まったとして、その時に娘との間に出来た子供が家康の父であるとしました。
    そして、この比叡山僧は第7位皇子以下の皇子又は第5世以下の皇族である為に、定めにより皇族を離れる必要がありますので比叡山に登ったとしています。そして、修行の為に下山し、その途中三河に来たとしました。
    確かに、第7位皇子以下第5世以下は「嵯峨期の詔」で下族する事を決められていますので、殆どは門跡寺院や、比叡山等、また、天皇家の神社神官斎王などに成りました。
    この一人が先祖だとして皇族系で朝臣族だとしたのです。
    ここで、矛盾があります。賜姓源氏の11代は全て第6位皇子ですので、下族しません。第7位で第5世以下ですから源氏では有りません。もう一つの矛盾は皇族出身者で下族した人物は嵯峨期から11代続いた中で18人しか居ないのです。家康が云う人物はこの中に無いのです。
    この様に朝廷は記録にも無い事だし、この矛盾を突いたのです。

    因みに、第6位皇子が賜姓を受けると決めて臣下して天皇を護る親衛隊としたのは大化改新の中大兄皇子、天智天皇が定めた令です。
    蘇我氏との軋轢の反省から、50人以上も居る皇子への財政的負担が天皇家を弱くした事、”いざ”と云う時に天皇を護る身内の軍隊を作る必要があったが無い為に蘇我氏にもう少しで天皇を奪われるところであったからです。
    これの反省から、第4位皇子第4世皇位継承権の制度を造り、第6位皇子は臣下して親衛隊とする事を定め、「青木氏」を賜姓したのです。その初代が「伊勢王」の「施基皇子」で伊勢賜姓青木氏です。この制度は5代の天皇に引き継がれます。そして、その5代目の光仁天皇の子供の桓武天皇はこの制度を無視し、中国後漢の渡来人阿多倍王の末裔を引き上げて平族(たいら族 平清盛等 桓武平氏)を賜姓します。
    (関東にある北条氏等の「坂東八平氏」とは異なります。これは「ひら族」と云います。つまり、皇族第7世族です。)
    そして、その孫娘を母に持ちます。ところが桓武天皇の子供の嵯峨天皇がこれに反発して元の制度に戻します。この時に賜姓を青木氏から源氏に変名し、青木氏は皇族出身者が名乗る氏名とするとして禁令の詔を発しました。これが賜姓源氏です。この家康の採った事は有名な事件です。
    秀吉の事は衆知の事実です。

    特に、この搾取偏纂は3期起こっています。
    一つは室町末期、2つ目は江戸初期、三つ目は明治初期です。
    室町期は下克上を通じて農民が立身出世で武士となり伸し上がった者等の搾取偏纂です。
    江戸初期前後はこれ等の者が旗本御家人として家柄身分を良く見せるために「家紋」や「系譜」等を偏纂したのです。出世の為にも爆発的に起こりました。下級武士まで全て持ちました。
    明治では全て苗字を持つ苗字令と督促令で国民の九割が苗字と系譜と家紋を造りました。
    江戸時代は戸籍は寺が行っていましたので、寺に高額金品を払い良い氏名と家紋と系譜を造ってもらい自前のものとしたのです。
    ある日突然に郡や村が同じ土地の有名な(青木氏や藤原氏など)豪族の同じ姓を名乗ると云う現象が起こり、氏名、家紋、系譜を同じくしたのです。ところが3期ともに一つだけ出来ない事がありました。それは宗派です。浄土宗だけはこれ等の特定の宗派で個人が入信できる宗派ではなく、又特定地域にしか無く、寺も多くなく、一つの氏が自前で建立した寺で専用の菩提寺としていましたから、これ等の者等はこれだけは変えることや入信を認めてもらえる事が出来なかったのです。

    さて、お家は家紋が「変わり光琳胡蝶紋」の紋です。天和8年は1622年ですが、徳川氏を始めとして江戸初期の爆発的なブームと成った時期天和と真に一致します。
    この時期の江戸期初期の系譜、家紋、氏姓のものははっきり申し上げて、搾取偏纂が殆どです。
    それまでは家紋、系譜、は主に上級武士階級以上の氏が持つ社会習慣でしたので、無い者は一度に持ち始めたのです。ですから、元から家紋、系譜などある事は有りませんので、この様な搾取偏纂が全てと成るのです。
    次ぎに、先ず、宇多源氏は近江佐々木氏では有りません。滋賀佐々木氏です。
    近江佐々木氏は天智天皇の第7位皇子の川島皇子の末裔です。
    天智天皇は第6位皇子の施基皇子に続いて特別に第7位皇子の川島皇子に相当の勲功があった為に地名を採り佐々木氏を賜姓しました。
    佐々木氏は皆同じと思っての間違いを起こしています。
    これは上記の系譜を造った人の知識の間違いを起こしたのです。
    佐々木小次郎は近江源氏でその末裔です。
    近江佐々木氏と滋賀佐々木氏にははっきりとした違いがありますので判別できます。
    通名や官職名等が異なっています。
    何れも家紋は青木氏と共に皇族系ですので笹竜胆紋です。その末裔も光琳胡蝶紋では決して有りません。
    近江佐々木氏は近江青木氏と皇族同族血縁していまして、佐々木氏系の末裔には変わり光琳胡蝶紋は有りません。まして、前回にお答えしました様に「変わり光琳胡蝶紋」は全国8000の家紋の中に無い程の家紋なのです。個人家紋扱いです。つまり、上記江戸期の混乱期と成ります。
    氏家制度では血縁は同格を前提としています。先ず下げて血縁する事は先ずありません。近江佐々木氏は滋賀佐々木氏よりも上ですが皇族として共に同じ扱いです。
    これ等末裔は全て浄土宗で絶対に改宗する事はありませんので、ここも明らかに違います。
    系譜を作る時に作者はこれ等の知識を把握していない事に拠ります。

    次に佐々木氏は母系としていますが「氏家制度」では男系です。
    ここにも矛盾があります。母系とすると代々母の実家は変わりますので無理に書いています。
    もし、母系であれば娘に養子婿を代々採ったと成りますからありえない事です。

    次ぎに、戒名ですが、ここでも矛盾があります。
    もし、志賀氏が佐々木氏等の皇族系賜姓源氏であるとするならば、戒名があまりに低すぎます。
    戒名はその家の家柄や身分や威徳やなどを読み込みます。
    しかし、宇和島の志賀氏のご先祖の法名戒名はこの仕来りに従っていません。
    「院殿居士」と云いまして、これ等のこの時代であればこの皇族賜姓族はこの院殿居士を使っています。仏教では最高級の位です。宇和島の志賀氏は「院」が着いていますが「殿居士」は有りませんので、武士でもかなり低い戒名と成ります。現在でもこの院殿居士を着く人は相当な人格者でないと着けてもらえません。無理にとすると驚くような高額な金品を支払う必要があり、寺側でもこれを乱発すると値打ちが下がり収入が低下しますので、家柄、身分、威徳が相当の人で無いと着けません。
    「居士」さえも着いていませんし、せめてもの「士」も有りませんので、武士ではないのではとも見られる程度です。普通は武士であれば「士」は着くものです。「士」は元来「さぶろう」の古語の意味を持っています。
    寺側が相手の家柄身分威徳を観てつけるもので厳格に護りますので、戒名法名等はこれらを如実に表します。
    この戒名からすると良くて郷士、庄屋、名主、と成ります。

    次に戒名の形ですが、これは佐々木氏の末裔としての宗派が浄土宗形では無く矛盾が出ています。
    次に、佐々木氏に継いで京極家の公家を着けています。
    佐々木氏で藤原氏北家摂関家であるとしています。矛盾のある着けるだけの家柄を着けたと成っています。

    更に、官職名が着いていますが、「・・衛門」、「・・兵衛」また、この時期は守護職の「・・守」とありますが、この時期のこの二つは勝手に着ける無秩序な事に成っていました。
    「・・衛門」等は青木氏と藤原氏しか漬けられませんでした。朝廷から送られて永久使用の官職名です。家柄身分を示すものでした。上記した様に大化改新で青木氏と藤原氏は親衛隊を形成して宮殿の三門を護る責任者でしたのです。また5天領地の守護王でした。
    例えば「青木民部上尉長兵衛信定」と言う風に。源氏系であればこの様に成ります。
    しかし、江戸期ごろから徐々に申請推薦を無視し自分で着けるほど無秩序に成りました。
    幕府もこれを黙認したのです。朝廷を押さえ込む為に。

    「・・守」は「・・衛門」と同様に室町期は幕府申請によりまだ朝廷から授与でしたが、江戸期では全く名誉職位で金品を朝廷に渡せば送られるものでした。江戸中期前には中級武士以上であれば最後には勝手に付ける始末でした。徳川幕府に締め付けられて朝廷の主な経済的な収入源でしたので無秩序にしたために最後は意味が無く成ってしまったのです。天皇家の「五三桐紋」はその良い例です。秀吉が勝手にやった事ですが。農民までこの家紋を限定した所(墓紋)に使う状況でした。

    次に普通佐々木氏等の家柄身分の氏では世襲の「通名」を使うのが慣習でした。しかし、宇和島志賀氏には見当たりません。これ等の氏には特定の氏家制度の習慣があるのです。
    これ等の系譜、家紋、氏名、官職、通名、戒名、仏壇、宗派、等を調べれば矛盾が生まれるのです。
    それは「系譜系図」を作る条件から来るのです。

    造る人がこれだけの知識を以って造ることは先ずありえませんから、誇張しても直ぐに判るのです。
    これ等の矛盾のある氏の事を「未勘氏」と云います。
    また、青木氏や藤原氏などの氏や家紋や系譜を搾取編纂して造る氏が上記3期に出ました。これを第3氏」と云います。志賀氏の場合はこれに当りませんが、源氏を名乗るところは完全矛盾の多い「未勘氏」と云えます。
    源氏が死に絶えたからこの未勘氏が多く出たのです。
    但し、源氏は滅亡する直前に戦略上、青木氏5家5流(近江は賜姓青木氏と賜姓佐々木氏です、伊勢は賜姓青木氏です、美濃は賜姓青木氏と土岐氏ですが土岐氏は滅亡しました、信濃は賜姓青木氏と足利氏です、甲斐は賜姓青木氏と武田氏です)とに跡目を入れてこのルーツに遺したのです。あとは未勘氏と成る支流、分派、分流、傍流です。
    現在、源氏として正式に名乗れるのは、この5氏と近江佐々木氏、滋賀佐々木氏、伊豆大島氏だけです。そして、これ等から出た末裔の家紋と大筋の系譜も判っています。
    つまり、これはどう言うことかといえば、滅亡するとその末裔から文句をつけられないからです。
    ですから江戸初期には「家紋系譜氏名」にこの系譜系図、家紋、氏名の爆発的なブームが起こったのです。
    青木氏の場合では、秀吉の面前の立会いの上で、本来の青木氏から文句をつけられて250人の兵で互いに戦ったと言う事件も起こるくらいです。この場合は搾取偏纂した方が勝ちました。秀吉のデモンストレーション作戦でした。この様な争いがこの時期に各地で起こりました。

    前回にも述べましたが、仙台付近域の志賀氏は藤原秀郷流進藤氏の末裔である事は青木サイトとの範疇ですので間違いは無いと思いますが、そうすると、宇和島の志賀氏がこの関東域の志賀氏の末裔であるとすると矛盾が生まれます。
    確認が取れませんが、疑うと、つまり、滋賀の志賀として、宇和島の志賀氏が、関東進藤氏末裔の志賀氏との宇和島移封に乗せて、第3氏が名乗ったとも取れる内容に成っています。
    (進藤氏48氏には光琳胡蝶紋はありません。 前回のお答えで途中で変紋した可能性をお調べにと申し上げました。変紋がなかったとするならば、この度の情報の矛盾で未勘氏か第3氏と成る可能性が大きくなりましたが。元は光琳胡蝶紋の文様は豪商、豪農が使いました)

    客観的史実からの評価でははっきりと申し上げて解決出来うる条件ではなく矛盾が多くあります。
    現在、青木氏サイトでは武田氏の事をレポートしてますが、武田氏でも疑問が多くありましたが解けました。
    徳川氏の有名な例を観ても推して知るべしです。家康が自ら搾取偏纂をやってのけたのですから、真実の系譜を作るのがいかに難しいかお判りになると思いますし、その信頼度の土壌がひくいもので在ると思われますし、何はともあれ歴史に興味のある者にしては有名な「天和」ではその真ん中です。
    見本的なものですし、殆どの人は知らないだろうとして、作者は作るのでしょうが、基礎資料の無い中で、専門的に観ると一目瞭然です。

    さて、後はどの様に信じるかは志賀さんの判断に委ねるしか有りませんが、客観的史実からは以上の矛盾を孕んでいます。私見ながら、見本的な未勘氏のこれだけの矛盾は解決は困難だと思います。
    逆に、藤原秀郷一門進藤氏から離れて、この系図では元は武士では無かったのではとも成ります。
    仙台と宇和島に関係性が無くなり、典型的な未勘氏か第3氏の系図ではとも考えられる矛盾を孕んでいます。

    但し、「第3氏」と「未勘氏」の用語は「寛政史書」などにも記載使用する用語です。氏家制度の社会習慣での用語です。念のために。

    戸籍も限られた階級しかない習慣の情報社会ではない、且つ閉鎖的な社会での江戸期前後に、下級武士までの系譜を調べるだけの基礎史料はあったとは思いますか。到底ありえませんね。ではどうするかです。ではどの様なことが起こるかです。
    搾取偏纂してもそれをとやかく云う者は居りません。自分もそうですし、又知らないのが普通ですし、調べる方法は限られていますし、文句をつけてくる家もそれだけの力もないし、情報を入手できるほど社会は進んでいません。ですから、氏の何れかの代の人が氏名、系譜、家紋など搾取偏纂して創り上げて名乗ればその内にそれが伝統と成る事に成ります。
    例えば武田氏でも寛政の頃1800年に武田信政という末裔が武田氏一族の系譜を作ったのです。そして、この系譜は自分が作ったと書き記しているのです。
    それはそれで其処に歴史が生まれますのでそれを自分が信じる事で良い事ですので問題とは云っていません。
    青木サイトの於いては系譜等よりもより史実からその有無を調べてそれを追及研究しています。
    その意味では、作成の経緯から見て専門的には、この時代の系譜系図とには相当信用が出来るものをご使用される事を特に追記します。

    では、何かご質問有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.609] Re:青木姓ではないですが。。。
         投稿者:   投稿日:2009/08/20(Thu) 10:05:53  

    福管理人 様

    ご無沙汰しております。その節は色々とご丁寧にお調べ下さりありがとうございました。
    自分のルーツについてますます興味が湧いてまいりました。

    さて、今回は宇和島に在住しております志賀家の当主(伯父)より、家系図の写しを送ってもらったので
    その真贋等をお教え願いたいと思います。

    その家系図には二種類の系図が載っておりました。一つは、近江宇多源氏佐々木家○系(←○の中は母という文字にも見えるも判読難解)並京極家 ○○家(←○の中は判読不可) というタイトルがついており、宇多天皇から始まる系図でした。

    もう一つは、少し長いですが、「宇多源氏朽木家佐々木苗流江列志賀領主隠岐守高信男信男志賀八郎義信後胤」という添え書き(?)のようなタイトルがついておりました。
    その系図は、宇和島志賀家初代から始まっております。その初代(為貞)の添え書きは、「幼名九良太郎又兵四良後右衛門元和八戌年三月二十五日卒法名天瑞院玄寂宗理」と書かれております。

    またまたご面倒なお願いを申しまして恐縮ですが、是非福管理人様のコメントが頂きたいです。ひょっとしたら源氏が祖先かも? と思いましたが、以前、源氏はほとんど滅亡したというご説明を受けてますから、この家系図の信憑性も含めて教えてくだされば幸いです。

    何卒よろしくお願いします。


      [No.608] Re:うちのルーツは?
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/19(Wed) 08:43:57  

    今日は。 始めまして。 
    ようこそ青木サイトにお越しいただきました。
    本サイトは全国の青木さんが集う処です。同じ青木氏としてこれからもよろしくお願いします。

    さて、お尋ねですが、その前に情報の時代性が判りませんので、お答えが難しいのです。

    既に、研究室や掲示板のところをお読みになって居られるようですので、大体の方向性はお知りになっておられると思います。
    そこで、お家の丸に鷹の羽のご家紋ご先祖が何時からこの栃木にお住まいなのか知りたいのです。
    また、丸に橘紋のご家紋のところも同様にお住まいになられた地域と何時頃からでしょうか。・

    或いは、何れもご先祖の一番古い人が何時頃の人でしょうか?
    何か、農民であったとか、武士であったとか、何か歴史的な遺品がお持ちとか、判断する情報が有りませんか?

    今の情報では判断する事が出来ませんが、
    研究室の「青木氏と血縁族(家紋)」の「丸に鷹の羽紋」では九州の豪族菊地氏と血縁した青木氏で、藤原一門です。
    この家紋は北九州に分布する家紋群ですので、”関東の栃木に何故あるのか”と云う疑問の解消が必要なのです。江戸時代は「国抜け」と云って自由に移動移住する事は出来ません。
    ただ、武士の大名の移転で移動すると言うことがある程度です。移動は全て定住禁止の許可制です。
    国抜けは一族郎党打ち首の厳罰に処せられるくらいのものです。
    ただ、室町期にこの鷹の羽の家紋は一部中国地方と関東の常陸の国に移動していることが史実として残っています。秀郷一門との関係から移動しています。

    ですので、栃木には秀郷流青木氏と諏訪族青木氏と武田氏系諏訪族青木氏と武田氏系青木氏が存在する地域です。栃木での青木さんであれば鷹の羽紋青木氏もこの移動で広がったとも考えられます。
    問題は、時代です。

    もう一つは、秀郷一門の青木氏が中国地方の赴任先で血縁して任期切れで関東武蔵に戻った後に護りを固める為に新説として栃木付近に移動したことも考えられます。
    浄土宗が本来の宗派ですが、赴任地にはありませんので、秀郷一門の24地方に赴任した多くは、浄土真宗に仮入信しました。武蔵に戻ると、普通は氏の持つ菩提寺の浄土宗に戻ります。
    栃木には浄土宗寺はありますので、この辺の考察も必要です。
    元より浄土真宗であるとすると、室町期の第3氏とも考えられます。
    兎も角も、江戸中期以前の菩提寺がどこか、「本家」はどこかの手がかりになることが有りましたらお知らせください。
    また、仏壇は御ありですか。浄土宗仏壇に成っていますか。浄土宗仏壇は他の宗派と異なっています。
    秀郷流青木氏は武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする円状の中に存在しますが、栃木の南域であれば可能性はあります。
    ちょっとしたことでも結構ですので情報をお知らせください。全て問題は時代性ですので、情報の判断がついてゆきます。

    次ぎに実家の「丸に橘紋」は大変少ない家紋で、平安時代は「源平籐橘」の通り大変大きな勢力を張っていましたが。藤原氏に押さえ込まれて殆ど滅亡してしまいました。
    遺しているのは血縁者の2氏程度です。
    と云うのは滅亡した氏である為に忌み嫌い、橘紋を使う者が血縁者の中でも居なくなったのです。使うと疑われて潰される危険があったからです。それほどに藤原氏に徹底的に潰されてしまったのです。
    使い始めたのは家紋の持たない立身出世した江戸初期の旗本や御家人と明治期からの庶民です。
    特に、橘紋の青木氏は嵯峨期の詔で宿禰族として皇族青木氏を名乗ったのですが、極めて少ないのです。殆どは、明治3年の苗字令による第3の青木氏です。
    丸付き紋ですので、第3氏が橘紋を直に使うことを遠慮して丸付き紋とした経緯が江戸と明治期にあるのです。
    本来は橘紋は皇族系宿禰族ですので上記の理由で丸付き紋は使用しません。
    丸付き紋は家紋掟で分家の意味を持っていますが、上記した理由から丸付き紋をつけるほどにこの橘紋は子孫を大きく繁栄させていません。

    この逃亡して隠れて遺された橘氏の2氏の内の更に皇族系青木氏かを確認する情報が何でも結構ですので、お便りを頂きたいのです。主に関西の京から南部域に分布しています。

    簡単に調べられる方法として、お家のご本家の菩提寺に過去帳がありますので、その中で一番古い人が何時の時代の人かをお寺さんで確認すれば直ぐに判ります。その古い人が何時の時代の人かで判別が付きます。問題は菩提寺の有無にあります。無ければ明治期に成ります。
    現在、日蓮宗ですので、明治期とも考えられますが、ある史実がある為に時代性に依っては異なります。
    又、改宗するなどのこともあります。ご本家も日蓮宗とすると第3氏です。
    簡単な方法はご本家の仏壇を見ると判ります。
    過去帳が無い又は明治の始めからであるとすると、第3氏で氏姓を持っていませんでしたので時系列でご先祖を手繰る事は出来ません。
    先ずは、其処から始めたいと考えます。

    お便りはこの欄を今後お家の専用欄としてお使い頂き返信でお便りを下さい。

    では先ずは、時代性に関する事でお便りを下さい。
    お待ちしています。


      [No.607] うちのルーツは?
         投稿者:青々   投稿日:2009/08/18(Tue) 15:22:42  

    はじめまして、よろしくお願い致します。
    家紋について調べていたところ、こちらに辿り着きました。
    私は栃木県出身の青木で、嫁ぎ先が丸に鷹の羽の家紋、宗派は浄土真宗だそうです。
    先に、「研究室」で史料やこちらの過去のレスを拝見したのですが、藤原秀郷の流れ
    になるのでしょうか?
    また、私自身、旧姓も青木です。勿論、親戚関係にはありません。
    実家は丸に橘の紋、宗派が日蓮宗なので、こちらはいわゆる第3の青木なのでしょうか?
    まさか一生、青木の姓と付き合っていくとは思ってなかったので
    どちらも気になっています。


      [No.606] Re:冨田家の家紋
         投稿者:冨田敏雄   投稿日:2009/08/12(Wed) 20:15:37  

    早々と御返事有難うございます。又、もうすこし調べてから投稿しょうと思います。そのときはよこしく御教示のほどお願いします。


      [No.604] Re:青木姓ではないですが。。。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/08/03(Mon) 20:22:05  

    志賀さん 今日は。
    返信がお役に立ててよかったです。

    本サイトとは青木氏に関する史料が沢山準備されていますが、これ等の史料はその研究の過程で出て来る事でして、深くは判りませんが、関係氏に付いては持っているものです。
    大分以前に調べたことでしたが、それを今回のお便りで再び思い起こした次第です。

    今回のお便りのご確認ですが、その通りです。

    藤原秀郷一門主要5氏の進藤氏の支流の末裔と云う事に成ります。

    大化改新の貢献者藤原鎌足の子孫で8代目の藤原秀郷と云う者が居ました。
    藤原氏は「四家」と呼ばれ、北家、式家、南家、京家の流があります。
    しかし、この四家の同族争いが起こりました。結果、北家一族が生き残り摂関家、と一条、近衛、九条、鷹司の公家と藤原秀郷一門とが最大勢力を誇りました。後3家は殆ど滅亡しました。

    志賀氏は藤原秀郷一門の支流に当ります。
    関東に独立国を築き5年間も続いた「平将門の乱」に対し、朝廷は手の施し様も有りませんでした。
    そこで、困った朝廷は”誰かこれを討てる者は居ないか”と呼びかけましたが、居ませんでした。
    そこで、”もし居たらその者に思いのままの希望を叶える”としました。そうすると、2人が名乗り出ました。

    その一人がこの藤原秀郷です。下野の押領使(軍事と警察)でした。
    もう一人は、渡来人で阿多倍王の孫の京平家の平貞盛でした。常陸の押領使でした。
    桓武平氏(京平氏)で太政大臣の平清盛の4代前です。

    この二人は5年の歳月をかけて滅ぼしました。
    そして、条件(貴族に成る事、武蔵国の領主に成る事)を叶えられました。
    これが、藤原秀郷一門361氏の始まりです。

    秀郷一門は関東一円を最終獲得しました。
    この主要5氏が、4代目の兼光流は青木氏、永嶋氏、長沼氏 4代目の文行流は進藤氏、長谷川氏です。
    この5氏から、8氏、16氏、24氏の本流が拡がり、最終、それらの本流の第一支流、第二支流と拡大し、武蔵国比企郡志賀氏にまでに及ぶ361氏の末裔と成りました。

    志賀氏は主要5氏の一つ進藤氏の第一支流末裔と成ります。
    本流、支流、分流、分派は「家紋と氏名」で判別が付きます。

    本流は秀郷の第3子の千国青木氏を除き、24氏は主要8氏は、藤原の藤の前に、役職名を付けて氏姓として呼びます。例えば、有名な斎藤氏の様に。「斎蔵」と云う祭祀を司る官僚のトップ役職名です。
    佐藤氏、左藤氏と云う左衛門佐(宮廷親衛隊)の様に。
    次ぎに、24氏までは赴任地の24地名を付けて氏姓として呼びます。例えば近藤氏(近江)伊藤氏(伊勢)の様に。
    次ぎは支流は定住地の地名を付けます。秀郷の領国の武蔵国比企郡志賀の志賀氏の様に。

    秀郷一門は最終は武蔵、下野、上野、下総、常陸を領国と成りました。
    全体として361氏に成ります。

    青木氏は116氏、永嶋氏は34氏、長沼氏は52氏、進藤氏48氏、長谷川氏111氏、

    お家の武蔵国比企郡志賀域から出た志賀氏は、秀郷一門の文行系進藤氏48氏の支流と成ります。
    綜紋は藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤紋」の内進藤氏の綜紋「かに藤紋」の48の家紋の一つと成ります。
    ただし、1700年頃に「変わり光琳胡蝶紋」を家紋としていますので、この家紋は新しく、上記進藤氏系志賀氏はその前の家紋が平安期の48家紋のどれかに当ります。これ以上は青木サイトからの情報が有りませんので判りません。

    伊達家に仕えたとすると、記録より、武蔵国比企郡志賀の進藤氏の支流末裔48氏であると観られます。
    「武蔵7党」との一部血縁を持つと観られる進藤氏系志賀氏に間違いは無いと見られます。

    結論は藤原氏北家秀郷一門文行系進藤氏48氏の支流末裔であります。

    進藤氏48氏の家紋は、詳しくは青木氏氏 研究室の「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」6/10を参照して下さい。
    「藤原秀郷」のことは研究室に沢山のレポートがありますのでお読みください。

    ご質問有りましたら、ご遠慮なくお便りください。


      [No.603] Re:青木姓ではないですが。。。
         投稿者:   投稿日:2009/08/03(Mon) 14:35:26  

    福管理人 様

    お世話になっております。このたびは青木姓ではないにもかかわらず、質問した内容以上の詳細なご回答を頂きまして誠にありがとうございました。福管理人様のご博識ぶりには、只々感動するばかりでございます。
    自分にとっての新しい発見もあり、大変嬉しく思います。

    家紋というのはその基本形から、様々な形にアレンジ(今回の「光琳胡蝶」→「変わり光琳胡蝶」のように)されてたりするものなんですね。大いに勉強になりました。
    ところで、「浮羽」ということは京平家の文様ではないということでしたが、そうすると志賀家のルーツは、仙台本家が藤原秀郷一門と何らかの関係があることから平家でも源氏でもなく、藤原氏の末裔ということになるのでしょうか? 


      [No.600] Re:青木姓ではないですが。。。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/31(Fri) 15:52:40  

    写真届いていますが、容量が大きくてこちらで停止の状態に成っていたようです。
    何とかしました。

    蝶の紋は「光琳胡蝶文様」の変紋です。大変珍しい家紋で家紋8000選にありません。
    光琳胡蝶紋は2つありましてもう一つは陰紋です。明暗が反対に成っている紋です。
    光琳胡蝶紋の関係氏と観られます。

    尾形光琳(1658-1716)は画家であり装飾家で工芸家でもありました。
    大変に斬新な意匠もこなしたと聞いています。
    恐らくはこの光琳胡蝶の紋も光琳が描いた意匠であったと考えられます。
    お家の紋は真ん中に二枚羽が付いていて尻尾に特長をもたせたものです。
    「変わり光琳胡蝶紋」と云います。

    光琳胡蝶紋は江戸初期旗本や御家人ら300氏以上がこの蝶紋の変紋を家紋としたと成っています。

    この内平氏紋は30程度と成ります。揚羽蝶の紋は奈良期に衣装紋的に使われ平安中期に象徴紋として平の頼盛が車意匠として称したのが始まりです。それで後に京平家紋(桓武平氏)に成ったものです。

    羽根を立てた蝶として「揚羽」、羽根を広げた蝶として「浮羽」(伏羽)と云いますが、お家の家紋はこの「浮羽」ですね。依って京平家の文様では有りません。

    この光琳胡蝶紋は元禄時代1700年頃に家紋として使用されたものが確認出来ていますので、光琳が意匠化し何らかな物に意匠文様として最初室町の豪商が使用し、商人から後に武士が変わり光琳胡蝶紋として家紋として使用したのではと観られます。この「変わり光琳胡蝶紋」は武士用の家紋として威厳風格を持たせたものでだと言われています。
    これが、お家の家紋ではと観られます。

    尾形光琳は豪商や上級武士を相手に絵画や工芸や意匠紋を作っり書いたされている人物です。
    「風神雷神屏風絵」は有名ですが、焼き物陶の「九谷焼」や高級漆器「宇和島塗り」や「根来塗り」などの工芸の文様もよく書いたと記録されています。
    現在でも九谷焼や宇和島塗の展示会にはこの光琳文様の銘器が展示されるようです。

    ここで、光琳との接点が「宇和島」として出てきます。
    宇和島塗りの意匠を手掛けたと記録がありますので、お家とのこの「付合い」もここでの中ではと考えられます。

    恐らく、当時の大大名の徳川氏や伊達氏等とも付き合いは広く、この中で、この光琳胡蝶紋の変わり紋を家紋としてお家などが使ったと観られます。
    伊予宇和島塗りでも有名ですが、その付き合い関係から家紋を変わり光琳胡蝶紋としたのではと観られます。

    ここで、この家紋は比較的新しい家紋ですので、経緯から恐らくは、お家は1700年代前頃にはすでに武士であった観られますので、元の家紋があったと考えられます。
    多くの武士の家紋は江戸初期前後に家紋化したものです。それ以前は大名クラスが家紋を使用していました。

    ここで志賀氏のルーツの元の家紋と言う事に成ります。
    では一体何処のルーツかと云う検証ですが、これを調べれば元の家紋も出てきます。実は明確な史実があるのです。
    この仙台の西域北域の国境には藤原秀郷一門が進出していた地域です。
    この地域には、平安期から江戸末期まで代々藤原秀郷主要5氏(361氏中)の進藤氏が定住地域です。
    現仙台市岩切を中心に定住していました。この進藤氏は「かに藤紋」を綜紋としています。この末裔分家の家柄では無いかと考えられます。
    進藤氏は秋田横手、延沢、群馬高崎、山形尾花沢市の地域に定住しています。
    仙台は進藤氏のこの真ん中です。
    進藤氏は藤原秀郷一門361氏の調整役を担っていました。藤原秀郷流青木氏の「第2の宗家」を補助して一門の問題処理に当っていた一門です。
    恐らくはこの末裔であろうと観られ、1騎を列ねるくらいの家臣を保持していたと成りますと少なくとも従来から地元の豪族でなくてはなりません。そうでなくては、また、伊達家の重臣であったはずですから務まりません。地元の豪族だからこそ重臣となり得ます。それ以外の氏がこの地域に入り力を出す事は氏家制度の中で、なかなか出来ません。
    移動は「国抜け」で重罪であり一人が来て身を興すことは最早出来ない時代ですし、関東に明治まで勢力を張っていた藤原秀郷一門末裔と進藤氏一門末裔が許しません。

    この武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする円地域が藤原秀郷一門361氏の勢力圏でした。
    鎌倉時代を経て明治まで氏家制度の社会慣習に護られて定住していた地域です。
    現在も仙台は末裔の現存する地域です。

    その相互依存の形として、進藤氏は「武蔵7党」の主導者で7党の一つ仙台西域の西氏と血縁を結んで配下に治めていました。
    青木氏の史料の範囲では、その志賀氏は武蔵国比企郡志賀の出とされ、進藤氏の支流末裔で志賀の地名から名乗った藤原秀郷一門です。
    この志賀の地には、「淡州神社」(淡州は四国淡路国 現在の徳島 藤原一門が代々阿波の守護を務めた)もあります。

    武蔵7党は進藤氏と血縁して児玉、比企、秩父、入間等仙台域まで広く分布しています。
    (武蔵7党に付いては「青木氏氏 研究室」で検索してください。詳しくレポートしています)

    恐らくは関東一円土豪「武蔵7党」の土豪集団を配下として家臣として伊達に仕えたと観られます。
    その進藤氏系志賀氏と観られます。

    この因果関係として「仙台進藤氏」末裔の一部が伊予にて外姻戚の進藤氏を名乗り伊予進藤氏末裔を発祥させています。
    この地域は、明治まで「讃岐籐氏」と呼ばれて伊予東、讃岐、阿波、土佐、瀬戸内、安芸南沿岸、出雲まではこの「讃岐籐氏」の藤原氏一門の絶対的勢力圏でした。「2足の草鞋策」を敷き軍事経済ともに力を持っていたのです。四国は藤原秀郷一門の末裔域と言っても過言では有りません。秀吉が最後頃まで統治できなかった地域です。ですから、伊達藩を宇和島に一部移動させて安定化の懐柔策を図ったのです。
    それが同じ藤原秀郷一門同士の進藤氏の最も多い伊達藩を当てたのです。
    そして、進藤末裔のお家が選ばれたのです。
    四国は藤原氏の中でも「第2の宗家」藤原秀郷流青木氏の定住地で関東についで多い所なのです。
    上記した地域は全て青木氏が活躍する地域です。
    この青木氏の中に、進藤氏の2流を発祥させたのです。
    多分、お家の宇和島の一族と観られるますが、
    外姻戚で元の進藤氏を伊予宇和島で進藤氏を名乗った氏
    もう一つは、直接内姻戚で名乗った進藤氏末裔綾部氏でその支流の羽床氏です。
    移動後、藤原秀郷氏末裔の同族伊予の長曾我部氏で最後まで和平に応じなかった豪族ですがこれと一戦交えています。

    家紋は「変わり光琳胡蝶紋」で、元は「かに藤紋」を綜紋としていた事、そして、そのルーツは藤原秀郷主要5氏の文行系「進藤氏」であった事が上げられます。
    同族利仁流進藤氏と新潟境で重複しています。

    青木サイトですが、可能な範囲で、家紋とルーツに付いて大まかに述べました。
    伊達氏のルーツもお調べになると、更に意味があると思いますが、更に詳しい事は、又改めてお答えする事もあると思います。とりあえず、ご質問の概容の説明とします。

    ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.597] Re:青木姓ではないですが。。。
         投稿者:   投稿日:2009/07/31(Fri) 12:23:02  
    Re:青木姓ではないですが。。。 (画像サイズ: 240×180 0kB)

    福管理人様

    こんにちは。早速のご回答恐れいります。ありがとうございました。
    添付写真、失敗してたんですね。すみません。プレビューではちゃんと写ってたんですが。。。
    改めて添付いたします。今回はどうでしょうか?

    さて、現在私は千葉県に在住のため、なかなか菩提寺には行く機会がございません。ですからすぐには
    詳細な情報を提供できませんが、伝えられている史実を少し書いておきます。
    先祖の一人に「志賀右衛門」というものがおります。彼はもともとは「伊達政宗」の家臣の一人でしたが、
    政宗の長子「伊達秀宗」が伊予宇和島の藩祖となった際に仙台から供をした57騎の武将の一人であったとされています。おそらく「志賀右衛門」が宇和島志賀家初代なのかもしれません。

    簡単ではございますが、よろしくお願い致します。


      [No.598] Re:東京都多摩地区の青木です。
         投稿者:東京都多摩地区の青木   投稿日:2009/07/31(Fri) 09:06:48  

    早速の返答ありがとうございました。

    これから、法事等で親戚が集まる機会が多くありますので、
    色々話を、聞きたいと思います。

    今後ともよろしくお願いします。


      [No.596] Re:青木姓ではないですが。。。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/31(Fri) 07:21:50  



    志賀さん 今日は。始めまして。

    青木サイトにようこそ御越し頂きました。
    これからもよろしくお願いします。



    さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、青木サイトですので詳しくはお答えする事は出来ないと思いますが手がかり程度の事はお答えする事が出来ます。

    家紋の添付がされていませんので、もう一度Reで「参照」をクリックして、貴方様のドキュメントの写真保存庫をオープンしてクリックし選んで、エンターすると添付ファイルのところにファイルのアドレスが入りますと送れますので、適当な文章をReにつけて送ってください。

    先ず先に。
    蝶の紋は100程度あります。その内揚羽蝶紋は確かに平家紋です。
    次に、源氏紋は皇族賜姓青木氏と同じ同族で笹竜胆紋ですが、源氏の子孫は完全に死滅しましたのでよほどの事で無いと末裔では有りません。
    源氏は11家11流ありましたが残ったのは4氏で清和源氏と村上源氏と嵯峨源氏と宇多源氏です。
    その源氏と名乗っている氏は佐々木氏、北畠氏、青木氏、大島氏以外は殆どが「未勘氏」です。仮に未勘氏でなくても、武田氏、足利氏等のように源氏支流分流分派の傍流か未勘氏です。
    歴史的史実から源氏はそんなに子孫を多く遺している事はないのです。
    地域性も第6位皇子で朝臣族であったために平家と異なり極めて限定されていますので、家紋の蝶と宇和島と仙台では未勘氏と第3氏以外は源氏説は完全に消えます。

    菩提寺が宇和島にあるとして13代目と成りますと、その菩提寺にお家の志賀氏の過去帳がありますので、それを確認されて観ると、ご先祖がわかる情報が入っています。
    その中で一番古い人には、添え書きが記されていて、何処より移動してきたかを記載されている可能性があります。
    戒名には先祖の「3つの情報」を読み込んでいますので、それを全体の人の内容を読み取るとルーツも判ると思います。かなり専門性が必要ですが、その都度ご質問ください。お答えします。
    戒名には、階級があり、身分、家柄、現世功徳などが読み取れます。最高で「院殿居士」と成ります。
    ご先祖の一番古い人を先ずはご確認してください。

    お送りしていただくものとして、江戸中期以前の宗派、伝えられている史実なども判る範囲で詳しく書き込んでください。
    愛媛県宇和島に菩提寺があるとしますと、又仙台(何時頃 一番古い人)と成りますと、考えられる事も無いわけでは有りませんので。

    兎も角も、送ってください。お待ちしています。


      [No.595] 青木姓ではないですが。。。
         投稿者:   投稿日:2009/07/31(Fri) 02:18:38  

    管理人様

    はじめまして。私は青木姓ではありませんが、どうしても我が家のルーツを知りたくてこちらにお邪魔させていただきました。どうかお分かりになる範囲で教えてください。

    私の姓は「志賀」と申します。菩提寺は、愛媛県宇和島市にある金剛山大隆寺です。先祖は、伊予宇和島藩に仕えていました。詳しくは知らないのですが、もともと本家は仙台のようなのです。
    現在は宇和島志賀家十三代が当主であります。

    家紋には「蝶」が使われており、昔は平家がルーツかと思っていましたが、最近、源氏ではないかと思い
    こちらで調べて頂けたらと思います。その蝶の紋ですが、色々とネット等で調べてみたのですが、一致するものが載っていなくて、合わせて家紋名も教えていただけたらと思います。(添付ファイルご参照)
    以上、情報が少なく、また青木姓ではないですがよろしくお願いいたします。


      [No.594] Re:東京都多摩地区の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/30(Thu) 20:46:08  

    多摩の青木さん 今日は。 始めまして。

    ようこそ青木サイトに御越し頂きました。
    このサイトは全国の青木さんが集うサイトです。
    ここには、青木氏に関する史料が整っています。
    これからも自分サイトとしてお使いください。

    それで、青木ルーツ掲示板に「多摩の青木さん」の「専用の投稿欄」を設けますので、ご質問やお便りがありましたらどしどしお使いください。

    さて、お尋ねの件ですが。その前に葬儀屋さんの言われた事は全くその逆ですよ。

    「家紋200選」と云うのがありまして、全国8000の家紋の中で大変子孫を広げ有名な家紋群ですが、その中の一つで、その中でも有名な家紋ですよ。

    この家紋は陸奥小田氏が使用した家紋で、藤原秀郷一門が陸奥の「鎮守府将軍」として12代に渡って勤めました。幕府を開ける身分の「征夷大将軍」の前身ですが、この時陸奥の豪族であった小田氏と血縁関係を結びました。その後この血縁関係を結んだ小田氏は藤原秀郷一門が「鎮守府将軍」の任務を終えた時に護衛隊として同行しました。先ず、武蔵(埼玉)に帰り、その後、再び甲斐や信濃の守護として朝廷の命にて赴任しましたので護衛隊として同行しました。
    甲斐の武田氏の前身はこの藤原秀郷一門と血縁した小田氏で甲斐に定住しました。そして、勢力を得て甲斐の豪族武田氏を名乗りと豪族と成りました。
    この清和源氏支流河内源氏傍流の武田氏で武田信玄で有名な豪族の前身なのです。
    その小田氏の家紋が「州浜紋」なのです。
    そして、この小田氏の一部は武蔵、常陸、地域に移動して「関東屋形」(3氏)と呼ばれる関東一の大豪族
    と成りました。
    つまり、藤原秀郷主要5氏の「第2の宗家」と呼ばれる藤原秀郷流青木氏(116氏)の一つで、この陸奥から移動してきた小田氏と青木氏とが血縁して発祥した州浜紋青木氏です。
    本来は藤原秀郷流青木氏は「下がり藤紋」が綜紋ですが、陸奥小田氏から跡目を採り血縁した時にその養子に男子の子供が出来ずに養子先の家紋に変紋する事に成り「家紋掟」により「州浜紋」に成ったのです。元は「下がり藤紋」で、つまり一族の綜紋です。

    藤原秀郷流青木氏は初代秀郷の第3番目の子供の千国が侍となり一門の護衛役を担いました。
    秀郷は「平将門の乱」を鎮めた勲功で武蔵の国と貴族の身分を獲得しましたので「定め」により自らは武力を使えません。依って第3番目の子供の千国にその護衛役任務を与えたのです。
    秀郷一門が赴任する所(24国)全て同行して護衛役を務めました。
    ですから、24の各地にこの青木氏の末裔があり、116氏にも拡がったのです。

    お家の付近に住まわれている青木氏さんはこの青木さんです。
    武蔵(埼玉)入間郡に秀郷一門の総宗本家が居て、そこを中心に横浜神奈川を半径とする円にこの青木氏116氏が本家筋を内部にして螺旋状にぐるぐると取り囲み下野、上野まで拡がっています。

    お家はその中の多摩地域に定住していた青木氏です。

    この藤原秀郷流青木氏のほかにもう一つの流の違う青木氏があります。
    皇族賜姓青木氏と云いますが、天智天皇より始まり5家5流29氏存在します。この青木氏は5代の天皇の第6位皇子で臣下して天皇を護る近衛兵を勤めました。
    天智天皇、天武天皇、文武天皇、聖武天皇、弘仁天皇の5人の天皇の第6位皇子です。
    伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王の土地の守護王です。
    この一族と母方で藤原秀郷一門と繋がっています。
    ですから、藤原氏の千国の護衛役の青木氏を特別に朝廷の許可を得て名乗ったのです。
    青木氏については、嵯峨天皇の詔により皇族以外に名乗っては成らないと云う禁令を発しました。
    これ等の事は概容を述べましたが、全てレポートしていますので、お読みください。

    先ず、お家は多摩ですが、これ等の事は、左メニュー「青木氏氏 研究室」の「青木氏と血縁族」(家紋)の州浜紋のところのレポートに詳しく書いています。また、「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」の3/10の州浜紋をお読みください。そして、「藤原秀郷」関係のレポートが沢山ありますので、一つ一つ時間を掛けてゆっくりとお読みください。
    藤原秀郷流青木氏は116氏もありますが、その中には片喰族もありますよ。
    片喰族も有名です。33家紋あります。二つの紋を使っていたとすると、女系側の家紋であったと観られます。
    お家のルーツの全ての事が詳しく判りますよ。

    ただ、確認事項として、一つ問題に成るのは、宗派です。2つの流の青木氏は全て浄土宗です。
    青木氏は独自の氏寺菩提寺と氏神を持っていました。
    臨済宗の元は浄土宗(特別に浄土真宗)かをお確かめ下さい。(ご宗家又は本家に付いては浄土宗ですか)
    戦後の臨済宗になる前はご本家の青木氏寺の菩提寺があった筈です。
    それと、お家は5代前とすると江戸時代末期ごろですね。ただしご本家では更に前と成りますがこの点も確認してください。ご本家は武士でしたか、郷士でしたか。
    江戸時代に墓がある事は郷士を含む武士であった筈です。(一般庶民は特別な身分の者以外は墓を持ちません 特別な者とは名主、庄屋、郷士、郷氏、豪農、豪商で多くは元は武士です)
    郷士とは農業もしていた地侍です。名主や庄屋や豪農などはこの郷士が多いのです。
    藤原秀郷流青木氏の場合は鎌倉期に朝廷の仕事を失職離散しましたので一部が武士を棄て特別な者としての身分で生き抜いたのです。それが郷士か郷氏です。

    では。先ずはレポートをお読みに成り、上記の確認事項のことをご確認下さい。

    ご質問が有りましたら専用投稿欄から遠慮なくお尋ねください。

    ではお便りをお待ちしています。多摩の青木さん投稿専用欄にお便りください。


      [No.593] 東京都多摩地区の青木です。
         投稿者:東京都多摩地区の青木   投稿日:2009/07/30(Thu) 18:56:52  

    はじめましして。
    今年、祖父が亡くなり、葬儀屋と打ち合わせの時に、珍しい家紋ですねと言われ、
    我が家の家紋に興味を持ちました。
    我が家の家紋は、丸に州浜紋です。
    墓は内墓だったのを戦後間もなく、臨済宗のお寺に移したと聞きました。
    墓石には8代前まで書かれていました。
    家紋からルーツが解るのであれば、ぜひ知りたいと思います。
    この地域は青木姓がたくさんいますが、親戚の人の話では、
    江戸時代に我が家と、その親戚の家の先祖が兄弟で、
    日出町大久野から出てきて住み着いたそうです。
    親戚の家は片喰紋です。
    祖母の話では、昔男紋が州浜紋、女紋が片喰紋と二つ家紋があったそうですが、
    戦後、州浜紋に統一したそうです。
    よろしくお願いします。


      [No.592] Re:冨田家の家紋
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/29(Wed) 20:41:06  

    冨田さん 今日は。 はじめまして。
    ようこそ青木サイトに御越し頂きました。
    これからもよろしくお願いします。

    さて、お尋ねですが、冨田氏のルーツに付いては専門で無いので全く判りません。

    ただ、折角お尋ね頂きましたので、知る範囲でお答えしたいと思いますのでご参考にしてください。

    提供されました情報は、
    江戸中期は名主、
    家紋は11花弁の丸付き紋の下がり藤紋
    本家は元禄の墓がある
    墓には上州足次村重吉郷写
    宗派は真言宗
    足次村には冨田氏はない
    館林の武士

    以上6つです。
    これで判る事は史実からルーツ分析上判る事が3つあります。

    先ず、氏家制度の社会では、武士以下の庶民は氏姓を持ちません。
    又、当然に墓も持ちません。氏が無い為に「信系統的に時系列」で先祖を記録する事はできませんので寺の過去帳も有りません。
    ただし、次ぎの身分の者は持つ事が出来ます。
    名主、庄屋、豪農、郷士、郷氏、豪商です。
    以上の者は苗字、帯刀、家紋、墓、過去帳を持つ事が許されていました。

    以上から、このいずれかである事が検証出来ます。
    宗派が真言宗で、元禄期に墓があり、丸付き紋の家紋を持つことが出来ている事、館林では武士の口伝から、「郷士」であったと観られます。つまり、その土地の昔から住み着いている「農民」であり「地侍」であったと観られます。
    秀吉の代には「兵農分離令」で「郷士」は「農民」扱いと成りました。
    ですから、土地の名主(殆どは郷士)と成っていたと観られます。

    上州足次村は「重吉郷写」の内容から冨田氏とは無関係と観られます。

    家紋ですが、下がり藤文様は全部で30あります。
    この中で、97氏が藤原氏の藤紋を使っています。
    そして、更に、下がり藤紋は藤原秀郷一門の351氏の内7氏です。
    藤原氏は下がり藤紋を綜紋としていましたが、「下がり」が忌み嫌われ、秀郷一門だけが使いました。「下がり藤紋」は秀郷一門の綜紋です。つまり、宗家、本家だけが使える家紋です。
    下がり藤紋は「丸付き紋」は使いません。
    副紋方式を使用します。下がり藤紋の真ん中に紋を入れる方式です。
    秀郷一門7氏が使う下がり藤紋は花弁が九つです。
    江戸初期250程度の旗本と元御家人が藤紋を使いました。
    藤原摂関家の公家が多く用いました。

    花弁が離れているとしますと、公家紋(花弁11)系の丸付き紋ではと思います。
    以上の家紋掟から、秀郷一門と公家紋は「丸付き紋」を使用していないところから、
    「個人家紋」と成ります。つまり、全国家紋8000の中にも有りませんし、家紋200選にも有りませんので、全国に広がっていない特定の個人が使用していた家紋と成ります。

    この家紋からも、上州館林の「郷士」冨田氏であった事が考えられます。
    館林の確証は有りませんが。
    墓石には戒名が書いている筈ですが、又、ご本家の館林のお寺に過去帳がある筈ですので、それをお調べになると一番古い人が出てきますので、確認されると更に詳しい事が判ります。元禄にお墓があると云う事は過去帳もある筈です。冨田氏を名乗った時期が判ります。

    足次村重吉の後ろにある「郷写」は正しい字句でしょうか。名前でしょうか。
    足次村の重吉郷(ごう)では無いでしょうか。「写」字句は”墓を移した”と云う意味で”現在のところに移した”ではないでしょうか。
    仏教用語でお墓は物を移すのではなく「御魂」なので「写す」とします。「移」は物を移す事の意です。墓所を移動させる時は「御魂写し」と云います。そのための儀式を行います。宗派に依ってはことなりますが、普通は墓石の左側面の左下に小さく書きます。

    「冨田又十郎」に付いては青木サイトですので判りません。

    参考 別の冨田さんからのお便りが以前ありましたので、検索で調べてお読みください

    ご質問や判らない時はご質問ください。


      [No.591] 冨田家の家紋
         投稿者:冨田敏雄   投稿日:2009/07/28(Tue) 22:10:34  

    初めまして、御教示をよろしくお願いします。本家は江戸中期には名主をしていました。           私の家は丸に下がり藤ですが葉が下向き花弁は外11内7家紋です。どちらかと言えば花弁は離れています。本家は元禄頃の墓誌があります、また嘉永5年の墓誌に上州足次村重吉郷写と碑文があります。 宗派は真言宗です、足次村の寺も真言です、足次村には戦国のころから冨田の名字はありませんと、住職にいわれました。館林の武士と口伝えはがあります、冨田又十郎氏と関係があるのでしょうか?又十郎氏の使用家紋はわりましたらよろしくお願いします。本家は明冶の初め火事にあいなにものこってません。 乱文に勝手な御教示お願い申し訳ありません。


      [No.590] Re:お久しぶりです!
         投稿者:福管理人   投稿日:2009/07/12(Sun) 21:24:00  


    群馬の青木さん 今日は。お久しぶりです。


    お元気で頑張っておられるようですね。

    「丸に抱き角紋」武田氏系諏訪族青木氏の青木さん お便りありがとう御座います。
    懐かしく読まして頂きました。

    自衛官になられたようですね。
    実は、私も高等学校を卒業後、海上自衛隊のP2V対潜哨戒機の試験を受け合格しましたが、入隊直前に技術者になりたくて諦めた経緯があります。
    又、私の兄は航空自衛官で1佐で各務ヶ原にて勤務中殉職しました。
    弟は警察官で、国に貢献する一家です。

    自衛官は転勤ばかりで大変ですね。これからは自衛隊も益々と発展すると思います。
    外国事情に推されて必然的に時代が次第にのんびりした自衛隊では無く成るはずです。
    最近は海外まで出て行くように成りました。私が試験を受けた時とは雲泥の差ですね。
    政治的に何だかんだ行っていますが、それを押し切るだけの世界事情があります。
    4、5年もすると一段とその任務の大きさが変わると思います。

    それにしても、諏訪族は武田軍団の「他国衆」8軍団の「信濃先方衆」の一つの諏訪軍団です。
    徳川家康が最大に恐れ、「三方が原」でこっぴどく叩かれた諏訪武士です。
    諏訪太鼓を全面に押し出して前進すると、敵は全て引き下がったと言われる位に恐れられていた武田赤兜騎馬軍団です。そしていち早く武田氏が滅んだ時に家臣団に加えた諏訪族です。
    その後も徳川氏の戦いの先鋒を務めた一族です。大変信頼をしていました。
    その勇猛果敢な血筋をお持ちの武田氏系諏訪族青木氏さんですから、国民の為に頑張ってくれると期待します。その直系の血筋を引き継がれていますので、厳しい訓練に誇りを持ち続け耐えて働いてください。

    そうですか。 諏訪大社に詣でられますか。私も一昨年に訪れました。
    この時のレポートを「青木氏氏 研究室」にありますので、お読みください。
    人は、不思議にそのルーツのところに牽かれます。
    そして、其処に立つと何となく不思議な安堵感のようなものが込み上げてきます。
    お家一族の守護神ですからね。
    個人の先祖に対する尊厳は、強いては国民の尊厳と安寧に繋がります。現在未来の家族をも護る事にも成ります。
    「現在武士」として大いに頑張ってください。


    訪ねた時に思った事は、諏訪大社にもう少し、歴史的な事柄を詳しく書いた掲示板が欲しいと思いました。
    書いてる内容が江戸期の事ですので、もっと奈良期のところまでのことを書けば皆は納得すると思うのですが説明が大雑把でしたね。
    日本書紀にも出て来る伝統ある実に古い諏訪族ですのにね。
    信濃と甲斐にも最近、これに気がついて力を入れ始めたと聞いています。
    私が泊まったホテル支配人がこの諏訪族青木さんでしたが全く知りませんでした。
    西諏訪の市長さんが地元諏訪族の青木さんとの事でした。支配人はその縁者との事ですが、地元でこれでは困りますね。

    日本書紀に書いてある諏訪族の記述レポートは是非お読みください。「日本書紀と青木氏の関係」
    の中に出てきます。

    大変懐かしく思い出して長文と成りました。
    これからも、お便りをいただけますように。

    では、又、お元気で。勤務に精励してください。


      [No.589] お久しぶりです!
         投稿者:群馬の武田系諏訪族青木。改め自衛官青木   投稿日:2009/07/12(Sun) 09:05:08  

    全国の親族の青木さん。
    そして、管理人さん。

    お久しぶりです。

    またはじめまして。

    約二年前にこのページに
    顔をだし。

    自分が武田系諏訪族青木氏だということを知ったものです。

    報告遅れましたが、約二年前から自衛官として

    働いています。自衛官は
    昔でいう武士なので、

    ご先祖様と同じ仕事がで
    きて喜ばしく思います。
    さて、夏なのですが、

    自分の先祖の故郷である
    諏訪に参ります。

    理由に関しては、諏訪大社への参拝と観光です。
    氏神である諏訪大明神を
    拝めることを光栄に思えます。

    自衛官になれたのも諏訪へやっと訪れるのはご先祖様のお導きだと思います。

    長文失礼します。


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