※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
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群馬の長島さん 今日は。ようこそ青木氏サイトにお越しいただきました。
本サイトは全国の青木さん関係が集うサイトですが、藤原氏北家の藤原秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる秀郷流青木氏と親族関係にある永嶋さん又は長嶋さんの資料関係も整えています。
永嶋さんは秀郷一門の主要5氏の一つです。
青木氏、長沼氏、永嶋氏、長谷川氏、進藤氏です。
秀郷は関東で「平将門の乱」を平定した勲功で貴族になり武蔵国を領地にしました。
これらの事は研究室の「藤原秀郷一門の生き方」等関連のところに詳しくレポートしていますのでお読みください。
ムカデとかぬえとか大蛇とか鬼とかを退治したと言い伝えでありますが、この平将門が5年間にわたり関東に独立国家を形成し続けて誰も平定できなかったのです。これを秀郷と平貞盛とが数年かけて平定した事から云い換えられて物語に成っているものです。
さて、関東の永嶋氏は流れが2つに分かれていまして、永嶋氏と長嶋氏とに成ります。
元は下総結城氏から酒井氏へそして永嶋氏と変わりました。
主に系譜では陸奥長嶋氏と常陸永嶋氏であります。
研究室にレポートしていますので関係レポートをお読みください。
「関東屋形」と呼ばれて一大勢力をはりました。愛知より東関東域にその勢力は拡大しています。
そこで、長島氏ですが、秀郷一門の中での史実には長島氏はありませんが、ただ、永嶋氏の西域は伊勢長嶋のところまでです。
もし、紀州にご先祖がいたとすると、お家が紀州南紀から伊勢長嶋にかけて勢力を張っていたこの長嶋氏である可能性もあります。
考えられる事は1200年ごろに紀州に居た事が云われていますので、後に何等かな理由で長島氏に氏名を変更した事が考えられます。
その根拠にはある程度の史実があります。
先ず有力な事件ですが、その変更した理由は1300年ころに起こった南北朝期の建武の乱ではないかと思います。
それより以前と成れば、「以仁王の乱」の1180年があります。源氏が平家に対抗した最初の戦いで源頼政が起こした乱です。この後源頼朝が1185年に平家を滅ぼしました。
この時、藤原秀郷一門の永嶋氏で伊勢の南紀よりの長嶋に居た長嶋氏がこの戦いに源氏と共に闘いました。しかし、初戦の「以仁王の乱」で負けました。頼政は伊勢に向けて逃亡中の宇治平等院で自刃します。この時に伊勢長嶋氏の一部が中部地方経由で逃亡します。
紀州−伊勢付近で一族が移動しなくてはならない事件と成ればこの時代としてはこの2事件だと思います。
先ず、建武の乱の紀州九度山で籠城し朝廷に請われて鎌倉幕府に抵抗した楠木正成の乱ですが、足利軍等を主力として鎌倉軍10万の軍に対し3千の兵で籠城戦と伊勢シンジケートを使ってゲリラ戦を行い勝利した戦いです。
この時主軍の足利尊氏は九州に逃げ、後に幕府の要請を根拠に再び兵を起こして朝廷軍の楠木軍を撃ち、その勢いで逆に北条氏の幕府をも倒す戦いとなった事件です。
この初戦の時か、後戦の時かに関東の永嶋氏の根拠地に逃げ延びたかと成ります。
実はここで考察しますと、伊勢の氏名は陸奥の長嶋氏系です。
実は陸奥は藤原秀郷一門の勢力地なのです。平安期には鎮守府将軍として12代にわたりここに勢力を張っており小山氏、小田氏、花房氏等の地元豪族と血縁関係を作り、この3氏の血縁族は後に秀郷一門とともに武蔵下野の領国に戻ってきました。そしてこの下野、上野、常陸、下総に勢力を拡大し小田氏は親族の結城の永嶋氏と共に関東屋形と呼ばれる4大豪族の一つに成りました。
佐竹氏、宇都宮氏、小田氏、永嶋氏です。
この永嶋氏と小田氏の勢力地の陸奥に移動し呼び名を変えて結城陸奥白河の長嶋氏としたのです。
甲斐の武田氏は小田氏が前身土豪に、信濃足利氏は花房氏が前身土豪です。
この時、伊勢長嶋での親族豪族であった伊勢北畠氏とも永嶋と長嶋氏が1400年ごろに窮地に陥った時に伊勢から軍を差し向けて援助に向かっています。
北畠氏は村上天皇の末裔で朝廷側です。
そこで系譜から永嶋氏を大きく分けると、佐野氏族永嶋氏と結城氏族永嶋氏があります。何れも親族です。
一族系譜からはこの佐野永嶋氏は足利氏とは親族であります。
ここで検証する永嶋氏は佐野氏族永嶋氏であります。
佐野氏系永嶋氏は下野国安蘇群佐野庄の出です。
お家は上記の事件で移動した時に佐野氏族の伊勢長嶋氏が関東に移動し来たので呼び名を長島で違いを出したと考えられます。
ですから、実は、この長島氏は逃亡経路の愛知から中部地方と群馬の線上にかけて多いのです。
恐らくはこの東端に辿りついた長島氏だと思います。
この事からすると、信濃経由しての逃亡だとすると信濃足利氏系の佐野氏族永嶋氏の末裔と成ります。
そうすると、移動時期ですが、初戦の時に伊勢長嶋氏が足利氏に味方して朝廷軍に敗北したので、信濃足利氏の根拠地を通り関東群馬域に中部地方経由して逃げたと観られます。
両方の永嶋氏は親族ですが結城氏族永嶋氏の方は、この後に史実は長嶋氏は伊勢の北畠氏の援助を受けて立ち直り勢力を盛り返しますが秀吉に滅ぼされます。
しかし、佐野氏族長嶋氏は関ヶ原で徳川方に味方し3万78千石の藩になり、後に富田信濃守事件で除封廃藩と成り衰退します。
この様に足利時代には伊勢長嶋氏の足利氏系の佐野氏系長嶋氏は勢力拡大します。氏名はこの移動後の区別を付ける事から両方の永嶋氏と長嶋氏の多い伊勢長嶋氏の方は長島と名乗ったものと考えられます。その逃亡経路上に長島氏の氏名が増えたものと検証できます。
結城永嶋氏−陸奥長嶋氏、 佐野氏系永嶋氏の伊勢長嶋氏−下野上野の長島氏
と成ります。
以仁王の乱の事件としますと佐野氏系長嶋氏の伊勢長嶋氏の逃亡経路は同じです。
この二つの事件の何れかですが、年代が良く判りませんが1200年のころと成りますと以仁王の乱だと思います。
家紋は「左三つ巴紋」だとのことですが、これは全永嶋氏一族の総紋ですね。元は秀郷一門の総紋の「下がり藤紋」です。そして、お家の紋は「丸に十字紋」と成りますね。
家紋上では問題なく上記検証と一致します。
「丸に十字紋」に変わったのは、上野国のところで江戸初期から中期にかけて男系跡目が叶わず、婿養子を2代続きで迎えて女系長島氏に成ったので、初代の婿養子先の家紋に家紋掟により変紋を余儀なくされた長島氏と観られます。
或いは明治初期かに関係するところですね。これはところでお家の宗派は何宗ですか。
この宗派で検証の状況が一変しますのでお知らせください。
次は、熊野権現は神社ですが、お家との関係は。藤原氏は春日大社系ですが。
長島氏を名乗る以上は藤原一門ですので、熊野権現は氏神には筋が違います。
関東は藤原氏の根拠地ですので、わざわざ熊野権現の引導はどの様な経緯があるのか疑問です。
源氏一門であれば判りますが、源の新宮太郎がこの時1180年の乱に活躍しています。
この時代は熊野権現は平家に味方していますね。保護を求めた義経弁慶を追い払いましたよね。
平家に味方している熊野権現が、何故敵方の藤原氏が上野に神社を引導するのでしょうか。何故自分の氏神があるのに。無関係ではありませんか。
建武の時にも熊野権現は中立ですので長島氏との関係が採れません。
確かに、群馬県太田市熊野町という地名がある様ですが、私の持っている資料では熊野神社の三様方式の中には該当する神社がありません。
参考 「鈴木氏とその周辺環境」(熊野神社 藤白神社)を参照してください。
別の形で神社一部の御霊移しで熊野権現が当地の熊野町に引導した経緯はありますが、時代があいません。
全国各地の熊野神社をレポートした「鈴木氏とその周辺環境(第1社の藤白神社 熊野神社)」のレポート参照してくだせさい。
情報が少ないので、検証は確定できません。明治期の長島さんの場合もあります。
他に何か情報がありませんか。
ご質問、等ありましたらご相談に乗りますのでご遠慮なく又是非お便りください。
はじめまして。
私は群馬県南東部に住んでいる長島と言います(一族みなこちらの島です)。
自分のルーツに興味を持ち調べていた所このサイトを拝見させて頂きました。
祖父が生前私に先祖の事を伝えてくれていたのですが、当時年齢的に幼かった為、記憶が曖昧になって
しまっています。興味を持ち調べだしたのが最近の事なので、これから自分のルーツをたどって行く為にご
指導の程宜しくお願いいたします。
家紋は左三つ巴で副紋は(裏紋と言っていたような?)丸に十文字です。
その他 今現在私が分っていることは、下記の通りです。
1.紀伊の地で何か起こり(聞いたのですが、忘れてしまいました。)一族で逃げてきたとの事で、その時に
伊勢の熊野神社の一部を持ってきて群馬県太田市熊野町にある熊野神社を造りそこに収めたとの事でし
たがその熊野神社の情報では、「元久元年(1204年)出羽の修験者小坂上人により御遷座されたと言い
伝えられています。」と他のサイトで書かれていました。?
2.先祖様は、化け物を退治した有名な人間だと聞いてたが、大ムカデでは無く ぬえ と言っていたような
気がします?
以上ですが、是非とも皆様のお知恵をお借し下さい。宜しくお願いします。
雑談掲示板から代理投稿
この前初めて投稿しました神奈川県伊勢原市の青木剛です。
家紋の事で質問があります。
絵柄は丸い円に青の木だか藍の木を図案化したものです。
過去帳も調べてみましたが、江戸時代前期までは遡る事が出来るのですがそれ以前は焼失してしまっていて判りませんでした。
ただここらへんの土地にはかなり古くから住み着いていたらしく同じ家紋の青木家が何軒もあります。
この事から何か判る事はありますでしょうか?
それと余談になるのですが同じ青木家でも家紋の違う家が何軒かすぐ側に居らっしゃいます。
家紋はまだ見せて頂いていないのですが、こちら青木家とは全く別の青木家だと親から聞いたことがあり是非一度お話を伺いたいと思っています。
青木剛さん 今日は。 始めまして。
4月の初めごろにお便りいただきましたね。有難うございます。
これからもよろしくお願いします。
さて、早速ですが、お尋ねの件ですが。
頂いた情報では、家紋は「丸に立ち葵」ではないかと思いますが、お便りでは良く判らないのですが、神奈川の青木さんとすると「丸に立ち葵」だと思います。
家紋掲示板に全国の青木さんの家紋が記載していますので、一度ご確認してお便りください。
さて、この神奈川付近には、3つの流れの異なる青木氏が分布している所です。
先ず、一つは、藤原秀郷流青木氏です。
この青木氏は武蔵の国(埼玉県)の入間郡を根拠地にして、横浜神奈川を半径とする円状の中に116氏の青木さんの本家筋が定住しています。この分家筋が全国24地方に移動分布して定住しています。
藤原秀郷一門の勢力圏で一門の青木氏は護衛役が任務ですのでここまで分布しているのです。
この青木氏は元は下がり藤紋の一つでしたが家紋掟により、つまり116の家紋に変化したことを意味します。従って、この氏の総紋(宗家が必ず引き継ぐ一門の代表紋)は下がり藤紋になります。
藤原秀郷の一門の中でもこの総紋を家紋として引き継いでいるのは7氏しかありません。
ご質問ではこの116の家紋に含まれていれば同じ家紋でなくても元は親類と成ります。
家紋掲示板か研究室の「青木氏と血縁族」(家紋)から御調べください。
二つ目は、伊豆地方を中心に神奈川付近まで伸びて分布する皇族賜姓青木氏が定住しています。
この青木氏は皇族賜姓青木氏5家5流の一つで伊勢青木氏と信濃青木氏の一部の末裔です。
家紋は笹竜胆紋です。この氏はその家柄の為から、家紋の継続システムルールが違うために家紋の変紋は原則少ない事に成ります。
伊豆の国は清和源氏源頼光系の頼政の領国でしたので同族の伊勢の青木氏が護っていました。このためにここに青木氏が存在します。
三つ目は、皇族賜姓族の末裔の信濃諏訪族青木氏と武田氏系青木氏と武田氏系諏訪族青木氏が織田氏と武田氏の戦いにて追われて、この藤原秀郷流青木氏を頼りこの神奈川まで移動し保護された末裔が住んでいます。この一部は栃木まで更に移動したのです。
家紋は「抱き角紋」か「諏訪梶紋」(3つ葉根有梶紋)です。この一族も皇族系ですので家紋の変紋は少ないのです。諏訪梶紋は「3つ葉立葵紋」と似ています。
これらの事は研究室に詳しくレポートしていますので、お読みください。
ルーツ掲示板にもたくさんの元親族の方のお便りが届いていますよ。
この3つの違う一族がこの地域に混在して青木氏圏を構成しています。
さて、お家は臨済宗であり、今回のお便りよりこの内の藤原秀郷流青木氏だと思います。
比較的新しい116氏の中の青木氏で江戸初期に発祥した青木氏です。
恐らくは、江戸時代初期以前は藤原秀郷流青木氏116氏の一つであって、江戸初期に分家となり討ち死等の何等かな理由で男系継承が困難と成り、立ち葵紋の氏から養子を迎えた。しかし、又嫡子に恵まれず再び養子を迎えて女系となったことから、氏家制度の「家紋掟」から最初の養子の実家の家紋に変紋した事が考えられます。つまり、女系に因って立ち葵の一門に成り、分家として新しい青木氏の氏を発祥させた事になります。
元は116氏の家紋のどれかであった事になります。ですから江戸初期で過去帳は止まっているものと考えます。宗派から観て寺の消失と云うより上記の事が原因と思います。
寺が燃えても家に移しの過去帳手帳が残り、元が浄土宗であれば過去の人の全戒名の書いた札の入った累代位牌が仏壇にもある筈です。
又、ご宗家やご本家のご仏壇の形が浄土宗仏壇であるかの確認をすると良く判りますよ。臨済宗に成った時期が。
戦国時代であったために江戸期初期にはこのパターンが大変多く起こりました。
この様な背景でご近所でも家紋の違う3つの青木氏がいる事になります。
違っていても元は親類と云う事もあり得ます。
只、伊豆地方の皇族賜姓青木氏は青木村を形成していますし、家紋掟にて変紋しない限り家紋は笹竜胆紋ですので、はっきりと区別ができます。この一門は青木村を形成する特別な家柄でしたので、男系が切れても村の一族から養子を迎えて血筋を保ち家紋宗派を護りました。
家紋が大きく変わることは余程の分派分流の出でなくては起こらない仕組みでした。
平安時代には3氏ともに青木村を形成する事は許されていましたが、室町時代後に神奈川は青木村には混在してしまっていて判別が困難と成っています。
全国の青木村の地名地形データーベースを参照してください。
藤原秀郷流青木氏の事については研究室には膨大な資料を準備していますので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。
お家のルーツの事先祖のいろいろな事が判りますよ。
「丸に3つ葉立ち葵紋」は分家筋にあたり、三河の松平氏、本多氏の家紋となり立ち葵紋は本多氏が使用したものです。
葵紋は京都賀茂神社の神紋です。本多氏もこの賀茂神社の神官職の家柄です。
お家は江戸初期前は藤原秀郷流青木氏でしたが、上記の理由で本多氏の分家支流筋から養子を迎えた事になります。この本多氏から迎えた養子の際は公には本多氏の家紋を一時使うことになりますが、その子供が男子が生まれれば元の家紋に戻ります。
しかし、又女子であれば婿養子に成りますので女系と成って家紋が親の養子先の家紋と成ります。
つまり、立ち葵紋の新しい藤原秀郷流青木氏を発祥させた事になります。
本家筋では縁者関係から養子を迎えて本家の氏を継ぎますので家紋は維持されます。支流分家ではなかなかその様にはなりませんので他氏から迎えることになるのです。
女子がいて婿養子の場合と、子供がいなくて養子婿に嫁をとる場合とありますが、お家は恐らく立ち葵紋の家紋から見て前者と考えられます。
従って、本多氏の発祥から見て時代性は一致していますので、江戸初期ごろ以前のお寺の過去帳からの発見は難しいことになります。
調査は本多氏系のルーツに移る事が必要になりますね。
江戸初期の賀茂神社の神官職の本多氏発祥からみて、本多氏側への調査となり、本多氏の菩提寺又は神道の賀茂神社系列の調査に入る必要が出てきます。
もう一方で藤原秀郷流青木氏の本家筋が保持している元の家紋を何とか調べられれば、秀郷一門のルーツに入れる事に成ります。
多分、お家の宗派が臨済宗と成っていますので、この事から本多氏系の宗派に家紋変更と同時に行ったものと考えられます。
藤原氏は本来その身分家柄から浄土宗古代密教です。一部、24地方の赴任地に定住した地には密教の為浄土宗寺はありませんでしたので一時の代わりに浄土真宗にした経緯もあります。
しかし、臨済宗は新しいある特定の下級身分階級の宗派でした。
その宗派の勢力に特徴があり、元下級武士であった本多氏の移動経路から見てその勢力の強かった一時甲斐信濃にも移動していますし、三河の時代には家康に逆らいこの宗派的な問題を起こしています。
この事から臨済宗の強かった地域性から分家筋の本多氏の宗派となった事が家紋と合わせて一致します。この事から支流分家であって「丸付き紋」である事は納得できます。
他にいろいろなちょとした事の情報などありましたら、本流の藤原一門に入る事が出来ますのでまたお便りください。
以上、ご不明な点やご質問ありましたら是非お便りください。
尚、雑談掲示板はメモリーが小さいので、青木ルーツ掲示板にお家の専用の欄を設けましたので、この
Reでここからお尋ねください。
ルーツ掲示板には立ち葵の青木さんからのお便りもありますので検索で呼び出してお読みください。
元はご親類ですね。
では、お便りをお待ちしています。
「ご来場記帳」から代理投稿
広島の青木さん
はじめまして。系図をつくっています。戸籍簿では、天保元年とか、安政四年、文久3年などの先祖の名前までは辿れました。お墓には、「丸に木瓜」が刻まれています。戸籍簿では、4代前くらいしか分りません。昭和時代までは、役場で改正戸籍簿や戸籍謄本など、系図作成のためと申請すればもらえていましたが、今では、そういう請求では発行してもらえなくなりました。ルーツを確認する手立てを、この青木氏氏ホ
ームページで探ってみたいと思います。よろしくお願いします。
全国の青木さんが集う青木サイトにようこそ御越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
ルーツを探る手立てについては沢山レポートされていますのでゆっくりとお読みください。
まず、ルーツ探りは歴史的な史実や慣習を習得する事が秘訣です。
「氏家制度」の慣習は現在とは違いますので、その状況証拠の扱いに注意が必要です。
とかく現代社会と同じ様に考えてしまいます。
ですから一寸した事が大きくルーツ調べに影響する事に成ります。
ご協力いたしますので、ご不明な点などご遠慮なくお尋ね下さい。
そこで、お家の菩提寺が何処かです。この場合、江戸時代末期ご先祖がお判りに成っていることですので、本家筋がどこにあり、その「菩提寺」は何処かを調べ、そこに有る「過去帳」をお調べに成る事がもっとも正確に辿りつけます。
明治維新の時のご本家の戸籍簿でも詳細に身分、出処が判ります。
江戸中期前の菩提寺が重要です。氏家制度では主に戸籍はお寺が行っていました。
これが過去帳です。
次に過去帳に書かれている戒名から更に色々な事が判ります。氏家制度では身分制度の中で戒名のつけ方が異なっています。戒名を三つのルールで作りますのでそれで判明する事が出来ます。
分家、本家、宗家、総宗本家までたどり着く事が出来ます。
家紋から見て観ますと、
お家は丸付き紋ですので、分家筋です。このままではルーツにたどり着けません。
ご本家が何処かを見つけることですね。
丸に木瓜紋は美濃、三河、駿河付近までに拡がっている氏です。
氏家制度では勝手に移動は出来ません。「国抜け」と云って一族は斬罪と成ります。
逃げれば無宿者です。そうなりますと過去帳には載りませんのでルーツは有り得ません。
過去帳は武士以上の身分で庶民では特別には5つの身分の者のみが過去帳を持つ事を許されていました。つまり、名字帯刀を許されてた者です。永久と一代限りとあります。
これは戒名で判ります。
庶民には時系的にルーツを作る習慣概念はありませんでした。
お家が何時、何で美濃付近から安芸の国に移動したかの疑問を解く必要があります。
また家紋は男系社会ですから女系になると養子先の家紋に変化します。
4つ木瓜紋は美濃の皇族賜姓族のルーツを持っています。
本家となれば恐らくはこの美濃にたどり着く事になります。
俗名でもそのルーツの身分が判ります。
庶民では有れば明治の少し前くらいまではわかりますが、江戸中期以前には難しいと思います。過去帳と墓が有りませんから。今のような墓を作る習慣が庶民には上記特別な者以外にはその習慣と概念が有りませんでした。「土に帰る」の教えによるもので、簡単な河原の石を積み上げたもの程度でした。
次ぎは宗派です。
宗派はその身分でほぼ決まります。氏家制度は自分の身分にあった宗派に限定されていました。
木瓜紋は原則浄土宗です。中には事情により浄土真宗か真言宗かになります。
浄土宗と天台宗、真言宗は古代密教方式ですので、誰でもという宗派では有りませんでした。
今のように自由に入れるのは江戸末期からです。正式には明治3年からです。
お家の宗派は何んですか。
有る程度のルーツの持つ氏はなかなか宗派変えする事は有りません。ルーツが宗派が変わるので過去帳が変わり消えてしまいますから。つまり、ステイタスですね。
この宗派でもルーツの分布地域が判ります。
これ等が氏家制度の慣習の史実に矛盾しているか無いかを解明してゆく必要があります。
古くから広島に住まわれているとしますと、藤原秀郷流青木氏で讃岐籐氏の一門か米子八頭に定住している皇族賜姓族足利氏系青木氏の何れかに成ります。
家紋が藤原秀郷系ではないので足利氏系青木氏となります。
ただ何らかの理由で江戸期に美濃付近から移動した事も考えられます。
まずは文久までたどり着いていますからね、維新の戸籍簿がご本家筋に有ると思います。
以上参考までに。
この様に氏家制度の慣習に従って進めると前に進みます。
レポートにはこの事が書いていますのでお読み下さい。
> 「雑談掲示板からの代理投稿」
>[1848] Re:初めまして、島根の青木です。
青木 俊美
2010/04/25 11:14 - パソコン
早速のご返信ありがとうございました。
福屋氏については、詳しいこは分りませんが、近い親戚筋の多い島根県江津市桜江町の平野(丘陵地)の地に、「大石城址(島根県遺跡データベースシステムの情報)があり、そのデータベースには、「大石城」は、福屋氏がかかわったとの書かれていたものです。詳しいことは、島根県の遺跡調査関係に聞いて見ないと分らないところです。
また、その平野の地(大石城址近隣)には、多数の先祖の墓石があると伝承されています。その場所は、山間部の今は廃れた所の様子で、墓参は、祖父母の時代にも絶えたままであると聞いていますが、私自身では、最近、この墓参を実現させたいとの思いが強くなっています。祖先の魂を沈めたいとの思いと、その墓石群から何かの情報が得られないかとの思いがあります。
一方では、祖先は、いつの時代か分りませんが、武士を捨てており、近世には、商人となっていて、桜江町近隣に多数の山林を保有していたとも伝承されています。このことは、武士の青木氏と商人の青木氏が存在していたのかも知れず、今となっては分らないと思われます。
今のところ、この程度です。地図等の情報を集めて、一度、現地に入ってみたいと思っています。
之からも、情報交換させていただきますようお願いします。
「雑談掲示板からの代理投稿」
1845] 初めまして、島根の青木です。
青木 俊美
2010/04/24 17:12 - パソコン
讃岐の福屋氏について調べていたら、貴HPに入ってしまいました。
島根の青木です。
真剣にルーツの調査をしていますが、情報が乏しく・・・進みません。
祖先は、島根県江津市桜江町にある「大石城址」の武士であった模様で
城から城に、矢文を放って交信していたとか、夜になると下の村まで
降りて水・食料の仕入れをしたとかの言い伝えがあります。
家紋は、毛利氏(萩市)と同じで、横一の下に○が三個です。
桜江町には、菩提寺もありますが、昭和初期り豪雨で、過去帳など
の記録が流出して、手がかりはあまりりません。
大石城跡は、島根県遺跡データベースシステムによると福屋氏(讃岐)が
手がけたとあります。
なにか、分ることがありますでしょうか?
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[1847] Re:初めまして、島根の青木です。
福管理人
2010/04/25 08:05 - パソコン
島根の青木さん 今日は 始めまして。
全国の青木さんが集う青木氏氏サイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、お訪ねですが、残念ながら判りません。
そこで、一つ手がかりがあります。
家紋と島根と讃岐と青木です。
家紋は「一文字三つ星紋」です。これは毛利氏の吉川氏の家紋です。
次ぎは島根の青木さんですが、この青木さんは「讃岐籐氏」と呼ばれて藤原秀郷一門で藤原秀郷流青木氏です。この青木氏は瀬戸内を挟んで大勢力を持っていた一族で島根の宍道湖の西側に廻船問屋の商いの為に拠点を設けて子孫を広げました。この秀郷一門は「2足の草鞋策」で廻船問屋を始めとする大商いも営んでいたのです。
お家はこの商いの為に島根に移動となったと観られ、武士であったとするとその護衛に就いた青木氏と考えます。移動し末裔を広げた史実があります
お家は恐らくはこの讃岐籐氏の藤原一門の「第二の宗家」と呼ばれた護衛団の藤原秀郷流青木氏の分家筋だと思います。
ここで「讃岐」のキーワードで繋がります。
そこで、この福屋氏がお家の青木氏とどのような関係にあるのでしょうか?。
母方ですか?。
福屋氏が「讃岐籐氏」の一門であるかをお調べに成ると判ると思います。
この讃岐一帯は武士である場合は恐らくは讃岐の秀郷一門だと思います。
隣の愛媛一部と高知県と安芸広島までその勢力は伸びていました。
問題は家紋だと思います。
何故に長門星紋を使用されているのか、その理由をお調べに成ると手がかりが掴めると思います。
特に、讃岐のところに「福屋」と言う地名が無かったどうかを調べられると良いと思います。藤原氏の末裔は姓を付ける場合には一族を見分ける方法として有る規則がありました。一族の家柄にてちがいますが、役職や官職や屋号や地名などで呼ばれる工夫などをしていました。
福屋は地名か、讃岐籐氏の商いの方の「屋号」であった可能性があります。
恐らく、商い側の護衛役をしていたために後に屋号を姓にしたのではないかと考えます。
推測ですが、讃岐籐氏の青木氏が”商いの時に使用する姓を屋号で名乗っていた。
讃岐の青木氏=讃岐の福屋氏
藤原氏は家柄は最高ですし秀郷一門は藤原氏四家の一つで最高勢力を張った北家筋の中でも一番勢力を持った藤原氏です。
特にその中の青木氏は皇族賜姓族のひとつで特別に朝廷から青木氏を名乗ることを許されての一門です。
そのために商いの場合には直接青木氏を名乗る事はしなかったのです。
近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐、の5つの皇族賜姓族青木氏と藤原秀郷流青木氏116氏の本家筋24地方の青木は豪商の顔も持っていました。「2足の草鞋策」です。
例えば、筆者の家は、伊勢松阪の青木氏ですが、大河ドラマでも3度も出て来る伊勢の豪商紙屋長兵衛
の顔も持っていました。讃岐の青木氏とは連携も有りました。
家紋ですが、毛利氏との血縁を讃岐籐氏の青木氏か一門が何れかが行った結果、2代続きで男子に恵まれず女系となり男性側の家紋となる家紋掟により養子先の毛利氏吉川氏の家紋となったと観られます。
当時の血縁は家柄の吊り合いから行いますので毛利氏との血縁は充分にありえると思います。
福屋氏と青木氏の関係がどのような関係に有るかが判断の分れ目になると思います。
尚、この讃岐籐氏の青木氏に付いては充分な資料がありますので、先ずは「青木ルーツ掲示板」の検索から「讃岐」でお調べください。
藤原秀郷流青木氏に付いては研究室に沢山の資料があります。
そこでご質問等有りましたらご遠慮なくお訪ねください。
ご来場記帳にお便りいただき雑談掲示板にご返事いたしました。
青木修さんの専用投稿欄をここに設けました。
代理投稿
[1838] 埼玉の青木修さん
福管理人
2010/04/20 16:44 - パソコン
埼玉の青木修さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトです。これからも青木サイトを盛り上げる為にご協力をお願いします。
サイトには膨大な資料がありますのでゆっくりと楽しんでお読みください。
ご質問など有りましたら専用投稿欄を青木ルーツ掲示板に設けますのでご遠慮なくお訪ねください。
私も長い間若い頃に埼玉草加に住んでいました。
さて、お家の家紋が丸に割り菱紋(又は丸に花菱紋)との事ですね。
武蔵の国は藤原北家の藤原秀郷子孫の宗家を入間を中心にして藤原秀郷流青木氏が「第2の宗家」として護衛役を担っていました。
そしてその圏域は横浜神奈川を半径として勢力を張っていました。
秀郷は藤原氏の中でも最大の勢力を持っていました。
この青木氏は秀郷の第3子の千国を始祖としています。そして、4代目の兼行流青木氏です。全国赴任地の24地方にその子孫を遺して来ています。
秀郷一門は351氏に末裔を広げています。その中でも最大は青木氏で116氏も広げています。
さて、お家は江戸時代から武蔵国に住んでおられ、菩提寺があり、家紋が丸に割り菱紋又は花菱紋であるとすると、実はもう一つの青木氏です。
武田氏が滅び、この時、一族の武田氏系青木氏の分家一族が全員家康に依って国代えを命じられました。そして、そこが武蔵国の鉢形です。
秀郷一門の青木氏が住んでいる中に移動したのです。そして徳川家の旗本の家臣になりました。これが花菱紋又は割り菱紋の青木氏です。
嵯峨期の詔に依って皇族系の者は青木氏を名乗る事が出来る事に成っていました。其の他は名乗っては成らないとの詔です。
藤原秀郷流青木氏はこの特例として母方が全て藤原氏である事を理由に名乗ることを許されたのです。
これとは別の皇族系源氏の武田氏である事を理由に名乗ったのです。
丸付き紋ですのでこの分家筋の末裔です。
家紋の事は家紋掲示板にレポートしています。
梅紋か星紋は多分は母方の家紋か副紋だと思います。
昔ご先祖が鉢形付近に住んでいませんでしたか
先ずはレポートをお読みになって不明な点が有りましたらお訪ねください。
お待ちしています。他に色々情報がありましたらお知らせください。
このお家の事は「青木氏氏研究室」の中のレポートの「甲斐青木氏の研究」に詳しくレポートしていますので先ずは先にお読みください。
この専用欄からお便り頂きます様に。
お訪ねの件(雑談掲示板からの代理投稿)
家の家紋は「○内に違い鷹の羽」です。
菊池家家紋は○内に並び鷹の羽と思いますが
熊本の阿蘇神社と同じ家紋ですけど、なにがしの関係があるのか不明です。
今日は。菊池郡内の青木姓のお訪ねの方へ
さて、お尋ねですが、
先ず、「違い鷹の羽」の文様は浅野家が用いた文様です。
そもそも鷹の羽の意義は勇猛果敢な印象とその美しい鳥の姿と羽根の強靭な印象から紋様化したものです。
蒙古襲来以降によく用いられる様に成りました。
代表的な古い家紋は菊地氏の「並び鷹の羽」です。
この菊地氏が阿蘇神社を崇めて援助擁護していた事から、この神社の神紋とした事に依ります。菊地氏の守護神であります。
神社には2つの方式があり、一つは氏の自ら管理維持する守護神としてその神紋を自らの家紋とする方式です。
二つ目は神社の周囲にいた者が力を持ち自ら運営する氏神ではないがその神紋を家紋とする方式です。
菊地氏は北九州一帯を支配するほどの大豪族で自らの一族の守護神として阿蘇神社を管理運営をした前者の方式です。
後に、江戸初期にこの鷹の羽家紋が旗本御家人が多く使われました。
確認出来る.ところで80もあります。
「違い鷹の羽」の青木氏は藤原秀郷流青木氏です。
秀郷家紋主要8氏の中の一つに成ります。
江戸初期にこの藤原秀郷流青木氏が浅野家との血縁をして2代続きで男子の嫡子に恵まれず女系等となり養子を採りました事から家紋掟により養子先の家紋と成ってしまったものです。江戸初期の頃と見られます。
浅野家の安芸の国などの中国地方に定住していた秀郷一門の青木氏がここで血縁したとすると讃岐籐氏の秀郷流の青木氏の一族と観られます。
讃岐籐氏の青木氏は瀬戸内に大勢力を敷き安芸の国までその子孫を拡大させました。或いは阿波の剣片喰族の阿波の秀郷流青木氏が安芸地方に一部移動した事から血縁関係を結んだとも考えられます。
恐らくは讃岐籐氏の末裔と観られます。
並びと違い鷹の羽の青木氏との繋がりは有りません。
元は藤原一族の家紋116氏のどれかであったと見られます。116氏の青木氏の中でも家紋主要8氏に成っていますので大きな力を持った青木氏であったとみられます。
お家はその分家筋に当ります。
元々は藤原秀郷9氏が使用する綜紋の下がり藤紋の副紋であった筈です。
依って、お家は直接菊地氏との関係は無い事になります。
明治以降に移動が自由になったころに北九州にご先祖が移動したのではないでしょうか。それまでは氏家制度に依って縛られていましたので許可なくして移動は出来ません。武士であれば「国抜け」の犯罪者に成りますので一族斬罪に成りますので無宿者になります。主君の転封以外にはありません。(3期あります)依って、普通は明治以降になります。
この掲示板はメモリーが小さいので、ご質問が有りましたら青木ルーツ掲示板に専用欄を設けましたので、ここからお尋ねください。
依って、本文を写します。
今日は。お久しぶりです。
お元気ですか。
よく覚えています。実は花子さんの名前です。私の母親が花子でしたので。
さて、お尋ねですが、一つあります。
お家のルーツの青木さんがどの系列の青木さんかが見えてきます。
家紋など古い情報があれば更に確定へと進むと思うのですが。
出身は広島県の三坂村、宗派は真言宗、年代は文久以前、お名前は青木彌平、文重さん、町長
そこで、お尋ねです。
彌平さんと文重さんの前にもう一つの名前が有りませんか。・・兵衛とか 青木・・兵衛文重と言う風に。
家紋は是非お調べください。菩提寺の戒名をお調べください。これで判ります。
検証しますと、お家は讃岐籐氏の青木氏の末裔だと観ます。藤原秀郷流青木氏で、讃岐に赴任した宗家の護衛役として同行、そこに定住した青木氏です。この青木氏は瀬戸内一体に大勢力を張っていました。
そして、「2足の草鞋」策で廻船問屋を営み、安芸の国に子孫を拡げ、最終島根鳥取の宍道湖付近まで拡げました。廻船問屋ですので商いで各地に店を広げて定住したのです。
三坂村はその証拠です。
次に宗派は本来は浄土宗です。多分本家は浄土宗だと思います。お家は、この商いに従事した側の末裔だと考えられます。大店を営むにはこれを護る武力が昔は盗賊、山賊、海賊対策などで必要でした。
運搬や店護衛などで武力が要ったのです。
これをもう一つの顔の武士で有ったのです。土地の勢力範囲を護る軍事力です。
この集団の廻船問屋は昭和の前まで豪商でした。
お家は宗派から、室町時代か鎌倉時代の間に商い側に従事していたために真言密教に入信したと見られます。真言宗は紀州の高野山で、四国は阿波と讃岐と土佐はその宗派の根拠地です。
この時代は「2足の草鞋策」を豪族は採りました。氏家制度の中で大一族で助け合う制度ですので経済的な裏付をつけて一族を護ったのです。
元々豪族は税として土地の産物をさばく仕事をしていますので、この時にこの産物を各地に運搬して行きます。護衛することが必要です。これをそのまま仕事にして護衛と商いに一族を分担させたのです。
各地に出張所を設けます。
お家は商いを担当した分家筋の末裔と見られます。
年代が文久ですので文重さんは寛政の頃だと思います。
国から指名されての台湾の町長をされていたとすると、まだある程度家柄であったと考えられます。
経済に強い所とその見識をみとめられたものと観られますので、安芸に渡った讃岐籐氏の青木さんではと思います。
安芸青木氏はこの讃岐籐氏の一族が主流です。家紋でわかりますのでお調べください。3つくらいの家紋に分かれています。安芸には明治以降の第3の青木氏は少ないのでまず確かと観られます。
この掲示板に沢山の讃岐籐氏の青木さんがお便り頂いています。
検索で讃岐でお調べください。お家の総宗本家の方からのお便りもありますよ。
藤原秀郷流青木氏のレポートが研究室にありますので、お読みください。
膨大な資料ですのでゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。
判らない所とかご質問はどんどんお尋ねください。
先ずは家紋などの事がわかればお知らせください。過去の商いの証拠となるような事も。
こんにちは。以前、先祖の青木家で台湾に渡った青木のことで質問をしたことがありましたが、
昭和54年に祖母花子の兄弟が台湾から骨を拾い、福島県の飯坂町にある医王寺に墓を建てたと聞いて、最近母と尋ねていきました。つまり真言宗派の青木で、文久生まれの恵範は京都の成相寺の和尚さんだったようです。そこから国からの派遣で初代台南の町長さんになったようです。恵範も養子縁組で元の姓は岡田で鳥取に本籍が残っているようです。つまり、その前の青木彌平(やへい)がどうしても子供ができず、恵範さんをもらい、恵範さんもえいさんと島根県出身の糸原徳上門さんを養子縁組させた者同士結婚させて祖母が生まれたようです。青木彌平さんは青木文重のこどもで、広島県の三坂村の出身のようで、福島の青木が旅をして訪ねていくようです。今回の母との旅でわかったことは、うちの青木の先祖は真言宗で、広島出身のようです。
まとめると、
花子、二郎、正徳等6人兄弟ー糸原徳右え門+植田えい(鳥取屋敷当主)ー岡田恵範ー青木彌平ー
青木文重ー?
で鳥取ー鳥取、島根ー鳥取、広島ー広島、ー?
真言宗、
となります。
家紋を尋ねるのを忘れました。。。また次回。
これから、管理人さんのほうでわかることありますか?
以上
初めまして高石と言います。
青木さんのルーツの掲示板ですが、お借りいたします。
僕が知っている、高石家のルーツです。
昔、調べたHPから↓
地名が高石(たかいし)に成るまでの変化→(越)〜(こし)→(高志)〜(こし)→(高脚)〜(たかし)→(高師)〜(たかし)→(高石)〜(たかし)→(高石)〜(たかいし)
高石の地名初見は(日本書紀)乗仁天皇三十五年九月条で、五十瓊敷命を河内国に遣わして、高石池を掘らせたとの記述あり。この時代に高石(たかいし)の苗字を名乗っていた部族は大和朝廷から特殊な支配を受けていた。(補)部族は能力が高かったみたいで僧行基も同じ部族。(父親苗字)高志才智。大和朝廷の命を受け全国豪族征伐に加わりこの地高石より全国に下って行った。
だそうです。
上記が正しい高石家のルーツかどうかは分かりませんが、参考になればと思います。
ちなみに、僕の高石村は昔(たこす)と言っていました。
家紋は、伊賀の服部半蔵系列の「矢尻付三本重ね矢」です。
農家なのに、大小の刀が飾ってありました・・・(忍者?)
管理人様へ
このホームページに関係のない事ですが、書かせて頂きました。
すみません。
草加市の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集う本サイトにようこそお越しいただきました。
これからもよろしくお願いします。
埼玉(武蔵の国)の草加市ですか、草加煎餅ですね。懐かしく思い出します。
実は私も長い間、この草加市に住んでいました。
綾瀬川の近くの氷川町でした。
ご先祖は代々神職との事ですが、草加には神社が3社ほどあった記憶がありますが、実はその一つの氷川神社の直ぐ側でした。
この地は藤原秀郷一門の本領国、領地で、入間を中心に一門の「第2の宗家」の宗家と呼ばれる青木氏が横浜神奈川を半径とする円状の中に護衛役として取り囲む様に総宗本家を護っていました。
この藤原秀郷流青木氏は116氏にも広がっていますが、秀郷の第3子の千国を始祖として室町末期まで大繁栄し、4代目の兼行系のルーツを持ちます。
その後この青木一族は仙台の手前までその勢力を広げました。
その青木一族の親族は永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏等にも広がっています。
特に永嶋氏と長沼氏は深い関係にあり、「青木一族」と呼ばれています。
この一族は自らの氏神と氏寺を持ち一族の内の者が神官や住職を務めました。
お家は代々神官職であるとの事ですので、この末裔ではないかと考えられます。青木氏の神官宮司職は全国的に多いのです。
この事から青木一族で神職で寺の住職をも兼ねていたとする事は十分に考えられ、その事例は藤原秀郷一門が定住する地域24地域には多いのです。(事情は異なりますが江戸初期、明治期にも起こりました)
寺の住職の宗派は本来では浄土宗であるのですが、室町末期ころから古代密教の浄土宗を一族で氏寺として維持する事が難しく成り、真宗或いは特に真言宗密教に宗派変えする事が関東で起こりました。
甲斐の国より東側で起こりました。これは下克上や戦国時代で狙い撃ちされた藤原氏一門一族の衰退が起こり、密教の氏寺の維持が経済的な事や焼き討ち等で氏寺を失うなどが起こり再建が難しく成った事に依ります。古代密教に比べてやや真言密教派は緩やかであった事から来ているものです。
恐らくはこの時に真言密教になったと考えられます。
この様な事は研究室にレポートしておりますので、膨大な史料ですのでゆっくりと楽しんでお読みください。
ご質問等有りましたら。本投稿欄からReでお尋ねください。
お待ちしております。
先祖代々草加市で神職やってます。昔は三覚院と言う寺も所有していたと聞くので、宗派は真言宗豊山派なのか?資料は残っている様だが、ちゃんと見たことないので本物かどうか判らないですね。親戚には藤波姓もいます。
つい自分の思いが先走ってしまい、申し訳ございませんでした。
このサイトに青木家に関する膨大な資料がありますので、もっと自分なりに熟読し、
頭に入れて、なおかつ、副管理人さんがおっしゃられているとおり、
江戸の頃の自分のご先祖様についてを確認しないと、何も始まりませんね。
(陸奥の国の本家を探し出すことと自分の菩提寺探し等)
申し訳ございませんでした。
青木家(ご先祖様の生い立ち)をもっと知り、しっかりと頭に入れて、
史実を基にして自分のご先祖様の旅をはじめたいと思います。
また、旅をしていてわからないことがありましたら、ここの史実を基にして
お伺いしたいと思いますので、そのときはよろしくお願いいたします。
今日は。
宗派の事は情報の通りです。
それらの理由で浄土宗から真宗に変更する事が大きく明治維新頃から起こりました。
室町末期、江戸初期、明治初期で起こりますが、経済的な混乱期の昭和初期にも起こりました。
お家はこの昭和期か大正期末に宗派変えしたと考えられます。
昭和の頃までの最近まで浄土宗であった事は大切な情報です。
まず江戸期の浄土宗の寺が何処であったかと云う事になりますね。
つまりご本家筋が何処かと云う事に成ります。
さて、ルーツを調べるには先ず江戸期のご本家を探し出す事から始まります。
それには、できる限りの情報をどんな小さい事でも集める事ですね。
それを歴史的史実などで検証して入り口を探し出す事です。これが秘訣です。
明治期のルーツは檀家寺の過去帳で確認出来ます。あとは明治維新の戸籍簿で判りますので、この維新の戸籍簿を保有するご本家を見つける事だと思います。
つまり、隆さんが言われているご本家は新しすぎますので、更に上のご本家(江戸時代)を探す情報を探され事だと思います。
ちょっとした事の情報が進展を呼び起こしますのでご注意ください。
その一寸した情報を認識するには先ずサイトの研究室のレポートをお読みください。
読みながら集められる事をお勧めします。
その集められた情報に対してご協力を致します。
副管理人さん
早速のご返事ありがとうございます。
私の父親や、祖父はなくなりましたが、先祖供養を大事にしている、叔父がいます、浄土宗は、祖父及び父親から聞きましたが、その後、父親や祖父よりも先に、私の叔父の奥さんが、私が小学校の時に、なくなったときに本当は浄土宗でやりたかったみたいですが、お布施等の金額がかかるということで、浄土真宗ではではどちらになるのか?を聴いたらしく、そちらに変えたと中学校の時の法事の時に叔父が言っていたことを、記憶に残っています。
また、本籍(東京)にまで、行くことはできないということで、親戚同士でお金を出し合い、お墓を大阪に建立しました。(祖父や私の父親も今はそこに眠ってます。)
話はそれてしまいましたが、そういう一件を、聞いていますので、先祖供養及び、私の先祖探しの旅の情報を調べていく上で、叔父がもしかすると知っているかもしれませんので、聴いてみたいと思います。
そこでわかったことをまたここで報告したいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
雑談掲示板より代理投稿します。
副管理人さん
はじめまして、戸籍謄本を父方(青木家)のほうを取り寄せると、祖父が北海道の旭区から東京に出てきた模様です。
父親や祖父が生きていた頃に菩提寺(東京が本家)で、どうも私は分家にあたるみたいです。
あと、亡くなった父親から聞いた話ですが父親の子供の頃、昭和20〜30年代の頃だとは思いますが、祖父と父親が、菩提寺に行っていたみたいで、そのときは過去帳とは言ってませんでしたが、家計図が無いといわれ、本家に家計図を渡したとのことを、お寺の方は言っていたみたいです。
祖父と父親が本家にも出向いて、話したところ、本家には家計図は預かっていないとのこと、いったいどこに言ったのかも、不思議で仕方ありません。
あと、私の今の本籍地は公務員宿舎になっており、本家がどこにあるのかも、確認してみないとわからない上京ではあります。
先祖供養のためにも、1回どこまでいけるかはわかりませんが、やってみたいとは思います。
資料室もじっくり読みつつ、自分がどの先祖になるのかも確認してみたいと思います。
最後に本当かどうかはわかりませんが、父親の話から聴いたことによると、菅原道真公が祖父が、東京にいるときに家計図を見たときには、祖父の名前が最後に書いてあり、菅原道真公も書いてあったと、聴いています。
そこのあたりも、本当かどうかは今の段階では、わかりかねますが、調べて生きたいところでもあります。
一応おしらせまで・・・
大阪の青木隆さん 今日は。
お便りありがとう御座いました。
拝見いたしました。
さて、早速ですが、お便りと歴史的背景から大方の推測出来ると思えます。
先ず、宗派から浄土宗であったが、お金が掛かり真宗東派に宗派変えした事です。
実はこの一点が大事なことなのです。
藤原秀郷流青木氏は浄土宗で、この浄土宗は誰でも入信できる宗派でなく、古代密教を前提としての宗派で身分家柄の高位(真人族、朝臣族、宿禰族に限定)の氏が入信し、経済的、政治的、武力的な力を持ち、独自にその氏で宗派を維持する仕組みでした。
他氏の氏と共に宗派を維持する仕組みの宗派ではない密教で特に浄土宗派中でも古代密教でこの仕来りを厳格に護って着ました。
天台密教、真言密教の3大密教です。
中でも、この浄土密教派は古代の密教を厳格に護ってきた宗派で真言密教とは大いに違う所でした。
(青木氏の氏一門で自らの独自専有の寺を持ち運営する仕組み)
ところが室町末期ごろから一門が衰退し寺を維持管理する事が出来なくなり、藤原秀郷流青木氏の多くはその財政的な負担で系列であるが密教ではない真宗に宗派変えをしたのです。
そこで江戸の初期に衰退する浄土宗に対して督奨令を発して浄土宗を保護しますが、矢張り密教性が強く一般の上級武士しか入信できませんでした。
従って、浄土寺が限定された地域にしか無ったのです。
明治初期前後頃に浄土宗であったが宗派変えをした事はお家の言伝えは史実から正しい情報と成ります。移住された事も大きな原因とされます。
ご祖父は北海道に居たとされていますので、この事から、明治の北海道開拓時代に渡ったものと考えられます。
特に、開拓に参加した多くの青木氏は歴史的経緯から観て東北北陸地域の関係からですので、陸奥青森の青木氏、岩手青木氏、新潟青木氏、長野青木氏の一門が上げられます。
可能性から観て又宗派を浄土宗としていた事、藤原秀郷流青木氏が多く定住していた事から、浄土寺を多く存在していたのは陸奥でその青木氏ですので、ここから推測しますと、ご本家ご先祖は陸奥の青木氏では無いかと思われます。
江戸時代は「国抜け」と云って国を自由に移動する事は出来ません。祖祖父か更に上の代の方の時代と成りますので、ここからスタートする必要があります。
明治維新からは戸籍簿がありますので確認は出来ます。
江戸より前はご本家筋の系列の菩提寺の過去帳が戸籍簿に成ります。
ですから、陸奥に総宗本家の菩提寺があり、其処の過去帳にご先祖の人たちの戒名と履歴が残っていると考えられます。
現在の菩提寺は明治以降の移動後のものだと考えられますので、過去帳及び家計図的なものは明治維新のご本家の戸籍簿で判明します。この維新の戸籍簿は更にもう一つ上のご本家と考えられます。
ですから、ご指摘のご本家に家計図が無いのは時代から観て、もう一つ上のご本家だと思います。そして、このご本家のルーツが陸奥になるのではと考えられます。
陸奥になるかは何か情報を見つける事が必要ですね。
明治維新の戸籍簿には何処から移動してきたか、身分家柄などが書いていますので其処からスタートする必要があります。其処に陸奥国住人とか陸奥国から移動云々等が書いている筈です。
明治以降の系譜を調べられたご本家の更にご本家のところに系図はあると考えられます。祖祖父以前のところですね。
歴史的史実より家計図は殆ど信用が出来ません。
家計図は一人の人間がつくりあげたもので代々書き足してきたもの以外は信用が出来ません。余程の事で無いと書き足しは困難で維持する事は乱世では無理です。
今と違い情報社会でない時代に歴史的知識も余りない時代の者が過去に遡り一個人が家計図を作る事等不可能です。
まして、戦国、下克上の焼き討ち、などで全て消失しているのが現状です。特に藤原一門は全てこの下克上の菩提寺の寺などの焼き討ち受けています。
江戸時代に家計図を搾取偏纂する流行が流行りそのような偽商売を無する業者が横行しました。
立身出世した者たちは江戸時代の風潮から家柄を良く見せるためにこの搾取偏纂した家計図を作ったのです。徳川家康を始めとして。
それよりは確実に100%のルーツを探るのは菩提寺の過去帳です。
ここで云う菩提寺とは青木氏独自で運営した一門の浄土寺のご本家筋の密教専有寺のことです。
これを見つければ戒名と俗名から全てのご先祖の生き様が判るのです。
ですから、先ずご本家筋のルーツを探る事から青木氏の一門の氏寺の菩提寺が見つかり、其処に過去帳がありますので、ルーツが判明します。
藤原秀郷流青木氏は地域がはっきりしていますので、辿る事はご本家筋と成ります。
江戸時代は現在と違い氏家制度の社会ですので、全て一門はこのご本家に集約されます。
調べられた際には、かなり専門的な史実の知識が必要ですので、ちょっとした小さい情報でも大きく進展する事がおこるのがこのルーツ検証の特長です。つまり、氏家制度の社会習慣の知識が大事なのです。
全国の青木氏のルーツ探求はサイトの目的とする処ですので、ご遠慮なく都度お力に成りますのでお尋ねください。
ルーツ探求と同時に、研究室にはその知識が集約していますので、ゆっくりと楽しんでお読みください。
そこで専用の投稿欄をこれに定めますので、ここからReでお便りをお願いします。
ではお便りお待ちしています。
> 今晩は、始めまして。 青木さん掲示板 拝見させて頂いてます。
> ルーツについてお尋ねします。 父から教えられた家系図では、藤原秀郷の系図に成ってましたが?
> 祖先の住まいは、茨城県筑西市嘉下佐和です、周りには青木姓がたくさんいます、近くには春日神社が有ります、家紋は糸輪つたです。 これしか解りませんが、如何でしょうか?
>
> 宜しく御願いします。
ありがとうございました、お体 御大事に 今後も宜しく御願いします。
長野の青木さん 今日は 始めまして
済みません 体調不良でキーを充分に打てませんので大まかなところをお答えします。
藤原秀郷流青木氏は116氏あり、皇族賜姓青木氏29氏あります。
地名地形データーベースに長野小県郡がありますが、ここには藤原秀郷流青木氏が定住しています。
これ等のレポートをお読みください
青木氏の家紋は33文様がありますが、お家の家紋がこの家紋の中にあるかどうかお調べください。
「青木と血縁族(家紋)19矢紋」や秀郷関係レポートをお読みください
そこで、丸付き紋に付いては家紋掟で変化します
下記レポートによります
丸付き紋は常に丸付き紋であると云う事はありません。
6つ矢車紋の青木氏は原則は丸付き紋です。
しかし、その間に次ぎの事の有無がないかの確認をしてください。
次ぎの8つの事で本家分家などで丸が着くかつかないか決まります。
お家はご先祖の中でこのどれかの状況に落ちいたっているかの問題の有無で変わります
氏家制度は男系継承です。
跡目養子や婿養子で男子の子供が跡目が取れないと家紋が変わる等の事が起こります
分家に成った場合でも本家の許可なしでは丸付き紋に成ります
「家紋掟」
本来、丸付き紋の目的は、青木サイトとして「家紋掟の古原本」より筆者なりにまとめますと、「氏家制度」の「家紋掟」により細かく分けるとすると、7−8つ程度の役目があります。
(本来は6つの掟)
1 宗家、本家、分家、支流、分流、分派の区別
2 嗣子と妾子分類
3 宗家の許可
4 配流子孫の区別
5 男系跡目の継承
6 養子縁組
7 嫡子尊厳
8 身分家柄の保全
これを参考にして調べてください。
ご質問有りましたら都度お尋ねください。
これ等は「氏家制度」と「封建社会」の維持を理路整然として堅持する事を目的としていました
長野の青木です。
我が家の家紋は「丸に六矢車」か「六矢車」かで、ひな人形の家紋入れで騒動になってます。
父親の生まれが長野県小県郡丸子町東内(現在:上田市東内)で菩提寺は「法住寺」で天台宗です。
なぜ丸が付くか付かないかで騒動になっているかというと現存するお墓や仏壇の家紋では彫りの関係上か矢車の
廻りに丸があるような、無いような・・・で彫刻されており、どちらが正しいのか判断できません。
どなたか私のルーツ&家紋騒動についてご教示お願い致します。
体調不良でお答えが侭成りません。すみません
体調が戻りましたら詳しくお答えします。
その間、「青木氏氏 研究室」の「青木氏と血縁族(家紋)」の2番目の蔦紋のレポートをお読みください。
その中の「丸に蔦紋」の支流糸輪丸紋族ですが、江戸時代の吉宗の享保時代にこの吉宗ルーツの松平家支流の縁者と血縁して生まれた氏で元は藤原秀郷流青木氏で男系跡目が適わず松平家の養子先の家紋継承となった氏と成ります。蔦紋は吉宗等が使用した松平家ルーツの家紋です
元の家紋は不明です。
青木和司さんのお家は丸に蔦紋の糸輪丸紋の支流一門ですので藤原秀郷流青木氏116氏の1氏である事は地理的分布から観ても間違いありません。
提供されている情報が少ないのでこれ以上のルーツ詳細のお答えは難しいですが秀郷関係のレポートをゆっくりとお読みください。
武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする園内に青木氏はあり本家分家支流分派分流に従い螺旋を描く様に配置し分布させました。
お家の地理的要素から観ても丸に蔦紋の糸輪丸紋は納得できる所です。
とりあえず、先ずは秀郷関係のレポートをお読みください。
ご質問有りましたらお尋ねください。
高石さん 今日は。
お便り遅れました事、申し訳なくすみません
実は体調不良にてスームズにキーが打てません
そこで、簡潔にお便りをしますのでご容赦ください。
また改めて回復した時にはお便り差し上げます。
檀家であるお寺さんをお尋ねするのは別に自由ですから問題はないと思います。
ただ、高石家のことに付いてお寺さんにお聞きする事には何か高石家の縁の者である事を証明するものがあれば問題はないとおもいますが、ただ寺側が個人情報保護で応じてくれるかは疑問です。
最近は厳しく成りました。過去帳も侭成りません。
常に法事などでお寺さんとの繋がりが無ければいきなりは先ず難しいのではと思います。
一度その前にお寺さんに電話されて確認されては如何ですか。高石家のご先祖の事を知っているかの可能性が高い筈です。
その際はお寺さんに「先祖の曼荼羅」(有料)を作って欲しいなどの依頼を兼ねると良いでしょうね。
ご本家に対しての対応は、ご本家との付き合いがある事からもそのお寺さんに相談されると良いのではないでしょうか。
ご本家との事情から直接的より間接的な先ずつなぎから入る事が必要では。
では、何か進みましたらお便りください。
色々と考えましたが、うちの両親は離婚をして高石家の本家とは疎遠になり行きずらいです。
何かの切っ掛けを作り行きたいと思います。また、本家のお墓は通りに面していて近場にお寺などが無かったような気がします。
また、同じ糸久にはお寺が有りましたが…一度確認に行っても平気だろうか?いきなり行っても迷惑じゃないか?凄い心配です。
一度本家を通してからが良いのでしょうか?
今晩は、始めまして。 青木さん掲示板 拝見させて頂いてます。
ルーツについてお尋ねします。 父から教えられた家系図では、藤原秀郷の系図に成ってましたが?
祖先の住まいは、茨城県筑西市嘉下佐和です、周りには青木姓がたくさんいます、近くには春日神社が有ります、家紋は糸輪つたです。 これしか解りませんが、如何でしょうか?
宜しく御願いします。
> 富岡さんのお尋ねの件・・・(上州富岡氏) を偶然拝見しました。
> 私の家の富岡一族は熊谷市に住んでます。
富岡さん 今日は。始めまして。
青木サイトにようこそお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。
既に上州のこの富岡さんのお便りをお読みになったと思いますが、このお便りに対するお答えの通りで、詳しい事は前のお便りの通りですので改めてお答えする事はありませんが、お家はその昔ご親族であったことに成ります。
富岡氏は概ね2流ある事に成りますが、ほぼお家のお便りと前の方のお答えの史実と一致していますので間違いありません。
ただ、お家の現在の家紋が変わったのは次ぎのことによると思います。
明治の頃か昭和のはじめ頃までの間にお家は男系の跡目に恵まれず、その為に他氏から養子をとりその養子にも男系に恵まれず更に養子を採った事から女系となり、男系の始めの養子さんの内の家紋となったと思います。これは「家紋掟」と云うものがあり、それにしたがって、変紋を余儀なくされた結果で丸に木瓜紋になったとの事ですね。
その後は男系で繋いできていることを意味します。お家のご本家が依然として三巴紋を堅持しているのは男系に恵まれたか、縁者から養子を取ったかの何れかでしょう。
ただ昭和の戦後25年頃からこの掟も守られなくなりました。
富岡氏の総宗本家又は本家は三つ巴紋を守る義務を負っていますので、何とかここまでに繋いできた事になりますね。
総宗本家は江戸時代までの氏家制度の中では絶対的権利を持っていましたので、家紋や墓などの権利はこの総宗本家の裁量の中にありました。
家紋や墓や仏壇などの家紋使用等は全てこの総宗本家の許可が必要でした。
例え血を分けた兄弟でも総宗本家が認めなければ使えませんでした。
三代前のその前のところあたりにその総宗本家があったと思います。
これ等の詳しい事は青木氏のレポートの各所に記載していますのでお読みください。
何かご質問やご不明な点が有りましたらお尋ねください。
ルーツを調べるには多くの時代の史実を把握する事が必要です。大変な時間が掛かります。
富岡氏の件でも、青木氏ですが、わかる範囲でお答えします。
又何か有りましたらお尋ねください。
では又のお便りをお待ちしています。
富岡さんのお尋ねの件・・・(上州富岡氏) を偶然拝見しました。
私の家の富岡一族は熊谷市に住んでます。
私の家の先祖は小泉城主だと親戚が法事などで集まるとそうゆう話がでます。
家紋は三代前まで三つ巴を使用していました。今は〇に木爪という紋を家紋にしています。
近くの三代前に別れた親戚は今でも三つ巴の家紋を使っています。
最近は法事などでも昔の話は出なくなりましたというより昔のことを知る人が皆死んでしまって
今の人はそんな話題を出す人も少なくなってしまって「へぇ家の先祖は殿様かい」なんて
言ってるくらいです。
私が子供の頃に、現在も三つ巴の家紋を使ってる親戚の爺さんが「富岡の大本家は俺の家
なんだ」と言ってました。確かに三つ巴の家紋を使ってるのは富岡の親戚では一軒だけの
ようですが三代前にはその家と私の家の本家は兄弟で同じ屋敷に住んでいました。
でも三代前の人が道楽物で借財をかなり作ってしまって兄の方がその屋敷を出て近所ですが
他に居を構えたようです。元々の富岡家の長男だから出ても本流だという事なのでしょうね。
しかも家紋は昔からの三つ巴を使ってます。
私の家の本家が何故三代前に家紋を変えたのかは知ってる人が居ないので解りません。
本家のばあ様に聞けば知ってるかもしれませんけど、近い内に聞いてみたいと思います。
その大本家だと言ってた人が晩年に墓を私の家の本家の墓から分離して新たな墓を造りました。
その墓石には小泉城の6代の城主の名前を刻みました。もう20年くらい前に亡くなりましたけど。
墓地を分ける時に昔の墓石を自分の家のだと言って随分持って行ってしまったとばあ様が
怒っていた事がありました。私がその墓石を見ていたら、何とその隣のやはり富岡さんの家の
墓の墓石にも同じようなことが刻んでありました。これは古い墓石です。
私には昔のことは分りませんけど私の家の本家はそうとうな豪農でしたね。農地解放までは。
昔は村の神社まで他所の土地を踏まずに行けたと良く本家の人は言ってました。
子供の頃に聞いた話では「昔、小泉から小田原に300騎くらいで応援に行ったけど小田原城は
包囲されていて近くまで行けずに帰って来たら小泉城は攻められた後で城にも入れなかった」と
聞きました。「家の先祖は結城氏だ」という事も聞きました。
> 祖父の兄は市原市糸久にいました、結構土地では有名な方で直ぐにわかりますが、祖父の兄のお墓参りに行き家紋を観るとうちの祖父の家紋と違うので先祖を探すのに苦労をしています。本家と分家は違うのですか?因みに、本家は丸に柏か何かです。分家である祖父のお墓の家紋は下がり藤です。
>
> ちなみに市川市高石神とは関係が無いのでしょうか?御伝授願います。
市川の高石さん 今日は。始めまして。
青木サイトにようこそ御越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
実はお便りがエラーと成っていましたので、お答えが遅れました。
誠にすみませんでした。
さて、早速ですが、ご質問に付きまして判らない所がありますので、それからご質問いたします。
本サイトは青木氏に付いての情報しか持ち合わせていません。従って、高石氏に付いての詳しい事は判りません。
ご本家の宗派や江戸時代以前の古い定住地や古事や古品等の情報がありましたお知らせください。
そこで、折角御越し頂きましたので、判る範囲で一般的なことに付いてお答えを致します。
先ず、お答えから判る範囲で、本家と分家が家紋が違う事は充分にあります。
その原因はほぼ6つくらいありますが、その内、情報が少なく限られていますので、その内次のようなことがいえます。
本家又は分家の何れか又は両方で、男系跡目が出来なかった場合です。
昔は男系社会ですので、家紋は男子側の家紋と成ります。
男子が生まれず、娘であった場合、養子を取ります。しかし、この場合は取り敢えずは、暫定的に養子側の家紋と成ります。そして、男子の子供が生まれて育った場合は男系に成ったのですから元の家紋に戻ります。しかし、ここでも男子に恵まれず、更に養子を迎えた場合は元の養子(男子)の家紋となってしまいます。2番目の養子に男子が生まれた場合は元の養子の家紋が引き継がれます。
2番目の養子に男子が生まれなかった場合は跡目をとった時点で2番目の養子側の家紋と成ります。
当然に娘も生まれなかった場合は、他人か縁者の跡目養子が入りますが、これも上記の掟に従います。
縁者の場合は、家紋が同じであれば何の問題もありません。
多くは殆どはこのパターンを採るのが普通ですが、それも出来ない時の話です。
次ぎは、男子が生まれても、妾子の子供であった場合は本妻に子が居ない場合は、家紋を継ぐ事に成ります。本妻に男子が居る場合は妾子の子供は家紋を継ぐ事の許可が必要と成ります。多くは母方の家紋を継ぐ事に成ります。
更に、同妻に男子が居ても嫡子以外の男子は嫡子の許可無く分家の家紋を告げるかは嫡子次第です。
何の問題も無ければ、家紋を継ぐ事は可能です。
最後に、明治3年の苗字令と8年の督促令で苗字、家紋の持たない庶民が持つ事に成りましたが、国民の九割がこれに当ります。この時、夫々の家の人が自由に他氏の苗字、家紋を使う事が認められましたので、親類が違う苗字家紋と成る事が多く起こりました。
氏家制度が明治から廃止になりましたので、本来の苗字と家紋の持ち主がこれに文句をいえない事に成っていました。
例えば、お家の家紋の下がり藤紋の使用ですが、これは藤原北家一族で中でも藤原北家一門の7氏が使いました。藤原氏はこの下がり藤紋の”下がる”と云う意味を嫌い、殆ど上り藤紋に変紋しました。
歴史的には、殆ど藤原秀郷一門が引き継ぎましたが、この家紋を使えるのは総宗本家筋の許された者のみであります。
この氏は現存していますが、氏姓の藤原氏と家紋の下がり藤紋は藤原氏系351氏の中では数えるしかありません。勿論、下がり藤紋は藤原秀郷の宗家24氏の以外には無くこの内7氏だけです。勿論、氏姓は藤原氏です。下がり藤紋を直接使うのでは無く藤原氏には家紋に対する掟があり、その中でも副紋方式です。現存する総宗本家一家だけが副紋なしです。後は斎藤氏等は有名な一門一族でも下がり藤紋ではありません。
この青木サイトの当然に藤原秀郷流青木氏の宗家は「第2の宗家」と呼ばれて「下がり藤紋」です。
お家の下がり藤紋には副紋付きでないので、ありえません。
お家の姓は、藤原氏では無く、且つ、この7氏の中にも351氏の中にもありません。
実は、この家紋が明治期に最も多く庶民に使用された家紋なのです。
下がり藤紋である土地に現存する藤原氏姓の一族ではないと成りますと、間違いなく、つまり、上記した明治3年の苗字令による氏で家紋と成ります。
この現象は歴史的には、3期起こりました。室町末期と江戸初期と明治初期です。
恐らくは、情報がありませんので確定は困難ですが、ご本家の家紋と土地柄が違い、且つ、分家が「下がり藤紋」を使っているところから、ありえませんので明治期に成ります。
後の二つはもしこの様な事がある場合、江戸中期以前の昔は相当な覚悟を決めなくては成りません。経済力や武力を持ちえていなくては成りません。
つまり、九割の国民がこの苗字令に依って姓を持ちましたので、元は武士以外の庶民であったことに成ります。庶民は、ある特別な身分家柄の庄屋等(6氏)の氏でないと姓と家紋を持つ事は出来なかったのですし、氏家制度の中での社会習慣ですので、氏、家紋は勿論、墓等もありません。当然、氏が無い事に依りますので由来を繋ぐことが出来ませんので戸籍もありえません。当然に菩提寺もありませんでした。
更に当然に、江戸中期以降の氏を辿る事は出来ません。
昔は戸籍は氏寺(又は氏神)が行っていました。
このことをまず調べられる確実な方法はご本家の明治初期の戸籍簿に記載されていますのでお調べください。
苗字を付けたときに、その前の身分を明示しています。(士分、平民・・などとして)
或いは、菩提寺の過去帳がありますのでそれを調べられた時に明治以前のご先祖は無い事に成りますと平民等と成りますのでルーツを探る事は出来ません。
最後に、高石神の件ですが、この明治期の苗字令でよく採用されたのは地名と有名な氏の姓です。
ある日突然に村或いは郡全体が同じ姓を名乗ると云う現象が起こりました。又政府はなかなか進まない苗字令の為にその様に指導したのです。
多くは地名ですが、青木氏、藤原氏など24氏の氏姓を使いました。この場合は、裕福な者はお寺に高額な金品を渡して、偽系図を偏纂してもらい、それを証拠に役所に提出した事がブームとして起こりました。
つまり、現在の総武線と京成線の間の千葉街道の鬼越の高石神であると思いますが、この付近には高石村と言うのがあったのではないでしょうか。その村に高石の神の社などがありその守護神の氏子であって、その高石を名乗ったのではと思います。多くはこの様な地名や氏神などの名前から採ったものが多いのです。提供された情報から判断できます。ルーツを探る場合はこの様な史実を把握してそこからスタートすると面白みが出ます。
例えば、昔はこの東京湾の江戸川沿いは江戸時代の埋立地では無かったかと承知していますが、市川は何時ごろからお住みですか。明治前であるとここに移り住んだとみられ其処に祀った高石神ですかね。
この様な史実を先ず掴むことが必要ですね。
藤原氏一門の本流、支流、分流、分派は特定される地域に分布していますので、市川は異なりますから、この事から観ると高石神の、恐らく、氏子であると観られ農民であったことが高い確率として言えます。
詳しい情報がありませんが、史実と異なる矛盾がありますことから、確率的にいえる事ですが、更に調べられるとすると、お家のご本家の宗派や古い情報や菩提寺の存在等を調べられると小さい確率の中で違う事が出て来る事もあります。先ずはご本家の明治期の戸籍簿をお調べください。
場合に依っては、ご本家の本家と云う事になりますね。
ルーツがある場合は総宗本家と成ります。
明治初期の戸籍簿か過去帳を。ご本家の宗派と分家などの宗派でも判定できます。
又何か出てきましたら、お尋ねくださいご協力致します。
祖父の兄は市原市糸久にいました、結構土地では有名な方で直ぐにわかりますが、祖父の兄のお墓参りに行き家紋を観るとうちの祖父の家紋と違うので先祖を探すのに苦労をしています。本家と分家は違うのですか?因みに、本家は丸に柏か何かです。分家である祖父のお墓の家紋は下がり藤です。
ちなみに市川市高石神とは関係が無いのでしょうか?御伝授願います。
ご親切にありがとうございました。 姓も違う 私に丁寧でわかりやすくご説明ありがとうございます。勝手ではございますが 青木氏ル-ツに参加して 良かったと私は思っております。
少しずつですが ご先祖様のル-ツを ご説明通り いって見ようと思います。
また 参加させて戴く際は宜しくお願いいたします。
この度はありがとうございました。
愛媛の青木さん 今日は。始めまして。
青木サイトにようこそ御越し頂きました。
同じ青木さんとしてよろしくお願いします。
もとより、このサイトは全国の青木さんが集うサイトですが、これからもご協力お願いします。
さて、お便りよく判りました。
実は、お尋ねは文面から観て貴方が密かに思われてていることが、大変な古の縁で繋がっているのです。
祖母の叔母(島根)と祖母(愛媛)は、結論から云いますと、同族です。つまり古では親類です。
そして、祖母の叔母の青木氏を継いだ理由は大きな理由があり、祖母の家とは一門の縁続きでその青木氏の家柄を知っての縁組で跡目を縁者から養子を求めての血縁なのです。
ではご説明します。
先ず、島根から進めます。
この島根の鳥取よりの宍道湖付近と、隣の鳥取の米子と八頭には、次ぎの一族が移動定住していました。
先ず、平安期の中期頃に信濃の豪族(土豪)足利氏と信濃の守護王(第6位皇子)の皇族賜姓青木氏とこの土豪足利氏とが血縁して発祥した足利氏系青木氏があります。
下記に述べる事件でこの土豪足利氏と皇族賜姓の足利氏系青木氏の一部が日本海側に沿って逃亡し移動しました。
この2つの氏は、最終、先ず、鳥取の八頭に定住して子孫を拡げました。
更に其処からその一部は米子まで移動してそこで又大きく子孫を広げました。
この米子の皇族賜姓一族の足利氏系青木氏は島根の宍道湖よりやや西まで子孫を拡げました。
従って、この付近の青木氏は皇族賜姓族の足利系青木氏です。
さて、その事件とは、信濃の土豪足利氏は元は陸奥の花房氏で、藤原秀郷一門(12人)が鎮守府将軍として陸奥に赴任しました。
この時、土豪の小田氏(武田氏)や花房氏(足利氏)はこの藤原秀郷一門と血縁をしました。そこで、朝廷の命で、秀郷一門は信濃の国司として赴任し、それに伴ない秀郷一門の青木氏とこの血縁した花房氏が共に護衛団として信濃に動向しました。
そしてその地に定住し、力をつけ勢力を高めて、秀郷一門の青木氏らの勢力を背景で土地の強い土豪と成長したのです。土地の名を採り土豪として足利氏を名乗りました。
ところが、この足利氏は秀郷一門の云う事を聞かなくなりました。そこで、秀郷一門はその土豪足利氏の分家の絶えた家に一門男子を跡目に入れて再び興し、そして、家柄を良くする為に賜姓青木氏や賜姓源氏の血を入れて本家に負けない家柄と勢力を持つ様にしました。
遂には秀郷一門はこの本家の土豪足利氏本家を潰しに掛かりました。
結局、戦いが起こりこの土豪足利氏の本家は負けて日本海に沿って逃げ延びたのです。この時、守護王の賜姓青木氏との血縁をした足利氏系青木氏の一部がこれに同行したのです。
勝利した分家の足利氏が本家と成りました。
この一門が八頭と米子に定住し土地を開墾して子孫を広げたのです。
皇族賜姓族の足利氏系青木氏です。
次ぎは、この島根の宍道湖より以西の浜田付近までには、藤原秀郷一門の「第2の宗家」の青木氏が定住しているのです。浜田付近がこの住み分けの境界域です。現在では宍道湖付近は混在域です。
さて、この藤原秀郷一門の藤原秀郷流青木氏はその元は香川(讃岐)と香川より愛媛の域を中心に「讃岐籐氏」と呼ばれる藤原秀郷一門が赴任して定住しました。
この時に護衛団の藤原秀郷流青木氏がこの付近を統制していました。
そして、この青木氏は瀬戸内の讃岐の以東全域を勢力圏に納め、更には中国地方の安芸を中心に勢力を拡大し、出雲の土地の出雲神社の氏子集団の亀甲族との血縁を進めて、最終島根の浜田付近まで勢力を直線的に伸ばし子孫末裔を定住させました。
これは武装勢力を背景にもとより瀬戸内の廻船業を営み日本海側との商いで島根の浜田港や鳥取の米子付近の港までに子孫を置き商いで末裔を広げたのです。
そこで、この皇族賜姓族の足利氏系青木氏か、藤原秀郷流青木氏かのどちらかと成ります。混在域とは少し外れていますが難しい所です。
しかし、祖母の叔母の墓の家紋が剣片喰の丸付き紋だと云うことですので、家紋から藤原秀郷流青木氏と成ります。この青木氏は讃岐宗家の主家の「下がり藤に副紋結び雁金紋」を始めとして「剣片喰紋」や「亀甲紋」ですので、家紋と浜田の土地柄である事から先ず間違いは無いと思います。現在もこの主家は讃岐に存在します。
丸付き紋は6つの意味を持ちますが、その一つの「分家」の意味があり、剣片喰紋の丸付き紋は分家紋として明確です。故に讃岐籐氏の青木氏の分家である事に成ります。
讃岐から島根浜田まで一族を置いて商いをさせていたのですから、範囲からして本家筋では無い事は当然ですので丸付き紋があるべき家紋と観ます。
しかし、宗派はこの秀郷一門をはじめとしてこの一族は本来は浄土宗ですが、土地柄(密教の為に浄土宗の寺はない)で安芸などでは真宗に帰依しています。しかし、讃岐と瀬戸内と安芸の一門の青木氏は浄土宗か真宗ですが、浜田付近の秀郷一門の青木氏までは当初は恐らく真宗であったと思いますが、後に改宗している可能性があります。
その根拠は跡目の内容です。養子を直系ではない縁者から求めている事からその養子先の宗派の曹洞宗(庶民:途中で男系跡目が出来なかった)に変更している事が考えられますので、この場合は浜田まで伸びた青木氏までは浄土宗は要件としては出来ません。まして古代密教宗派ですので。
丸付き紋はその理由の2つ目の直系で無く成ったことから宗家から分家扱いの丸付き紋を指示された事も考えられます。
この様に、藤原氏北家の最大勢力を誇った秀郷一門の「第2の宗家」の青木氏ですので、家柄身分は高位です。(藤原氏は四家あり、式家南家京家北家 勢力争いで北家が勝つ)
そして、氏家制度の中で氏をまとめる為に全体を取り仕切っていたのはこの秀郷一門の青木氏ですので、島根の青木氏まで指示命令が届いている事は充分に考えられます。まして、「2足の草鞋策」で商いをしているのでいすから。
この四国では、阿波の国も秀郷一門の青木氏が定住していますし、讃岐の青木氏の保護の下で土佐にも賜姓族の武田氏系青木氏が信長に滅ぼされて逃亡しここに匿いされてその末裔が定住していますよ。
詳細は秀郷一門の関連するレポートを参照して下さい。全てこれ等は網羅されています。
念のために、この青木氏は、天智天皇から始まった第6位皇子の施基皇子の伊勢賜姓青木氏から5代の天皇の第6位皇子が5国に守護王として配置し賜姓青木氏が定住しています。光仁天皇まで5家5流続きましたが信濃もその一つです。
この後2人の天皇を置いて嵯峨天皇がこの賜姓青木氏の臣下5代から賜姓源氏の臣下11代に変更しました。その時、嵯峨期の詔により、皇族系の朝臣族と例外に宿禰族が臣下する時は青木氏を名乗ることを命じたのです。それ以外の者は使用してはいけないとしました。
その時、この詔を使って秀郷は第3子をこの詔の青木氏の例外として朝廷に名乗ることを申請し認められました。その理由は賜姓青木氏は母方が藤原一門である事からで青木氏を名乗ることを認めたのです。この青木氏は宗家の護衛団を任務としたのです。賜姓青木氏も天皇の親衛隊です。
秀郷は平将門の乱を平定した貢献から貴族と成りましたので、直接武力を使えません。そこで第3氏の千国を侍にして臣下させて護衛団を任じたのです。
この様な家柄であって明治までこの詔は原則として護られました。
祖母の実家が愛媛の渡邊氏だとの事ですが、讃岐籐氏の藤原一門の支流の渡邊氏であると思います。詳しい情報がありませんので確定する要素が有りませんが、家紋が「渡邊星紋に一文字」ですから讃岐藤氏一門の支流紋です。宗家だけでは無くこの「三ツ星一文字紋」は秀郷流青木氏も血縁しています。
宗家が血縁すれば、「第2の宗家」の青木氏も血縁するのが当然の成行きです。氏家制度中では。
むしろ「第2の宗家」の青木氏が351氏を取り仕切っていたのですから。
讃岐籐氏の青木氏はこの様に瀬戸内全域を武力と商家の経済力での「2足の草鞋策」で生き延びたのです。
御蔭で平安中期950年ころから昭和の初期20年代までこの勢力は一族は続きました。
だから1000年も伝統ある家柄のおうちであるので、祖父の養子なのです。
当時の血縁慣習から一族で固めに固めたのです。これは秀郷より351氏の有名な家の家法戦略でした。お家もその家宝戦略のパターンに沿っているのです。現在まで。
恐らくは、つい最近まで秀郷一門の血筋で固めていたのはこの家法戦略を知っていたのではと思います。
お家のご質問の疑問とした感は当っていたのです。それは血筋から来る遺伝的なもので脳が働いたとも思えますね。遺伝的に繋いできている古い記憶がこの青木サイトの内容を見て。
氏家制度の社会の中、当時は長い間、血縁は「家柄のつりあい」を前提としていました。
叔母は島根の秀郷一門の青木氏との血縁では吊り合いが完全に取れています。
当然ですね、平安期期から室町期までは付き合いの深い親族でしたからね。
平安期では純血性を保つ為に同族血縁を習慣としていたのです。
平安初期までは3親等以内の血縁を主体としていました。皇族系と藤原氏は。
藤原秀郷一門の最高の家柄と合うのは賜姓青木氏か同門藤原氏北家一門各地(24地方)以外にありません。
ですから、祖父は養子に入ったのですよ。高い家柄を絶えさせない為に縁者から養子を求めたのです。実家も愛媛も島根も全て藤原氏一門ですね。小川氏は別ですが。
お家は提供された情報の範囲で検証した場合は北家藤原秀郷一門の濃い血筋で出来ている事になりますね。確定は出来ませんが。
サイトの「青木氏氏 研究室」にはこの藤原秀郷関係のレポートが沢山あります。読むと1年も掛かるかも知れませんが、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。これ等のことは全て書いています。お家のご先祖の生き様が判りますよ。
それから、「青木氏のルーツ掲示板」にも四国の藤原秀郷一門の青木さんからの沢山のお便りもありここにもいろいろとレポートしていますのでお読みください。2年掛かるかも知れませんね。
歴史の史実なども沢山書いていますよ。先ずは楽しんでお読みください。
検索で観てください。
最近は、他氏のご質問も多く成りましたので大変ですが、折角ですので精一杯頑張っています。こちらもお読みになると歴史好きが更に広がり、遂には、”ご先祖とは何か”もお判りにも。
読んでお疲れになると、写真館で癒してください。
ではお待ちしています。
又、何か判りましたら、お便りをお待ちしています。
ご質問、ご不明点などあると思いますので、ご遠慮なくお尋ねください。
はじめまして。私も青木と申します。30代女性です。
子供の頃から歴史が好きです。
同じ青木でもいろいろな源流があるんですね。
自分もそれを知りたいと思い、お力をお貸しいただきたく投稿いたしました。
どうぞよろしくお願いいたします。
祖父母(愛媛在住)は、祖母のおば(愛媛出身)の嫁ぎ先である島根県浜田市の青木家に
子供がなかったために、結婚して養子に入る形で家を継ぎました。
祖父(島根出身)の旧姓は小川で家紋は不明です。
祖母(愛媛出身)の旧姓は渡邊で家紋は渡邊星、丸がついていたかは不明です。
愛媛のお墓には祖母のおば夫婦だけが眠っており、祖父母が守っています。
家紋は丸に剣片喰で、曹洞宗です。
なぜ祖母のおばが島根に嫁いだのか、なぜ祖父母が島根の青木家を継いだのかはわかりません。
昔のことなので、入り組んだ親戚関係があったのかもしれません。
私自身は島根に行ったことがありませんが、青木姓が多いと聞いたことがあります。
(確か自民党の重鎮だった方も青木さんで島根出身だったような。)
・・・ここまで書いて、いかに祖父母から先祖の話を聞いてこなかったか思い知らされました。
もったいないことですよね。
祖父は認知症気味ですが祖母がまだしっかりしているので、来月帰省する際に
ゆっくり聞いてみようと思っています。
厳密に言えば青木家は私の直系のご先祖ではありませんが、
祖父母も養子に入ってまで守った苗字なので大切に名乗っていきたいです。
以上情報が少なく申し訳ございませんが、何卒宜しくお願いいたします。
お便りありがとう御座います。
さて、お便り納得しました。矢張りそうでしたか。曹洞宗でしたね。
この事で、江戸時代を含む以前は「氏家制度」と云う社会でしたから、何もかも氏や身分や家柄等で色々な取り決めがあり、その事で宗教なども決められそれを超える事は社会としては認められなくはみ出すと生きていけない社会でした。
その宗派は最たるもので曹洞宗である事は、お家の江戸期の身分家柄などが殆ど確定する事に成ります。
更に、総本山のあの有名な修練場の永平寺ですから、その事から、又一つはっきりする事が出てきました。総本山に御魂が祀られている事は、普通の庶民は出来ませんでした。
相当の財と名声を成した者で無いとありえません。
恐らくは、永平寺は「永代供養」と云って死後50年間は永平寺本殿にその遺骨が祭られて毎日多くの僧侶によりお経を上げてもらえる仕組みです。このことが出来るには、2つの要件が備わっていなければ成りません。
先ず、社会に高く貢献し人としての徳を積んだ人である事、次ぎはこの永代供養を総本山でしてもらえるだけの見返り財(高額な金銭)を出さねば成りません。
この二つは先ず普通の人では絶対に無理でした。
金銭が出来ても社会に「功徳」を大きく施す事は出来ませんからね。
この情報で、この「功徳」はお家の場合は、社会にいろいろな貢献をした事に成りますから、その一つは当時では人のために働く事として、神社の「総代」やお寺の「檀家総代」で村や町に問題が起こるとそれを率先して解決に当る等人でした。それは同時に人のために働く事で功徳に成りますので寺はそれを認めた事を意味します。
現在は永代供養は要件が緩やかに成っていますが、当時は氏家制度の社会の縛りがある為に実に厳しかったのです。永代供養してもらう事でその人の徳の高さが評価されたのです。
村議会の議員などその功徳の最たるものでした。現在とは違い議員は全員ボランティアでしたから。その時間と経済的な余裕が無ければ出来ない事でした。
つまり、皆から感謝され慕われる「町の世話役さん」ですね。
これで、お家の江戸末期の状態がわかる事に成ります。
醤油で財をなし、永平寺で永代供養ですから、有田の醤油の経緯から野田の醤油職人であったことに成りますし、周囲に45軒度の山口氏がいる事はそれを物語ります。
江戸末期として5代程度として、最終、各世代子供2−3人の確率で末裔が確実に広がるとすると、32から48軒と成ります。
これで、江戸末期に醤油で財を成した事で和歌山有田の醤油の件は証明できます。
更にこの事に加えて、「曾祖母」の情報です。
江戸の氏家制度では男系でしたが、男子の息子がいなければ養子を求めて氏の存続を続けます。
この時の養子は今の養子と違いその実権は娘に大きくありますので、お家は、「曾祖母」としているのではと考えます。前々回にも書きましたが。
とすると、、「「曾祖母の永平寺」と「45軒」と「醤油」と「曾祖母」とで「醤油職人」を養子に迎えて氏を繋ぎ繁栄させた事に成ります。その前には45軒ですので、財を成すほどの氏では無く普通の庶民で在った事を意味します。
醤油職人を野田から養子に求めてその醤油の製造技術を基に当時のヒット商品を作り売りさばき一挙に財を成した事に成ります。その前からでは醤油もありませんし、45軒ですので無いと成ります。
そうすると、ここで問題に成ります。それは醤油の特売権の専売権が有りませんから、醤油の製造は出来ません。そうなると、その権利を認められた者として、高いレベルを持つ野田の醤油職人が専売権を認められた者か、有田の醤油縁者関係者である筈です。
一人で出来る製造では有りませんから酒の醸造と同じく多くの醤油職人が必要と成りますので、思いついて自分で勝ってに製造出来る状況のものでは有りません。これ等の人を引き連れて出来る製造です。
一醤油職人でも出来ません。ですから、当時としての醤油時期とこの条件が揃わなくては成し得ません。
と成ると、高い職人の説には無理が伴ないますので、これ等の要件が揃うのは和歌山の縁者関係者で醤油職人説が成り立ちます。
現在でも、和歌山では当然に大変に醤油工場が多いのですが、元を辿れば有田の高い匠職人か縁者の職人でその専売権の認められた子孫です。
この様に、史実で紐解けば今回でもルーツの大元は更に広がりますね。
「永平寺」や「45軒」や「曾祖母」の確認でまた確認で拡がりました。
以上ですが、又何か有りましたらお尋ねください。
青木サイトですので、史料が無いので最終のルーツまではたどり着けませんが、お家の詳細な情報を掴みそれを史実で紐解く事でかなりの所までたどり着けます。
前のアドバイスを実行して行くと其処までは行くと思います。
醤油のところと神社お寺を辿れば未だ出て来ると思いますよ。和歌山に近づくにはこの域を越えると出るのではと思います。ゆっくりとお調べに成ってください。
この投稿欄を専用として何時までも保管しておきますので、探し出してここから投稿ください。
夜分遅く申し訳ごさいません。
やはり曹洞宗でした。大本山だそうで そこで曾祖父母が眠っているそうです。 神奈川県横浜市鶴見区の総持寺 福井県の永平寺 と聞きました。
親戚は青森県がほとんどらしく 周りに4 5件 山口氏がいると聞きました。
大本家 本家 分家とあるらしく 大本家は青森県の青森市で現在もあるみたいです。
本家は曾祖父母で青森県のばばしり
分家は祖父母でばばしり 父親もばばしりで生まれ
現在は青森県の黒石市に引っ越ししたとの事です。
両親共々神奈川県に在住ですが。
やはり 江戸時代 商家だったようです (祖父母が明治生まれなので曾祖父母が江戸時代な為)もしかしたら 大本家代からではないかといっていますが…
父が祖父からきいたのですが子供だった為 詳しい事はわからなかったらしいです。
さて、お手伝い出来てよかったです。
前回の情報の醤油の件が大変な情報です。
お家の財を成した時期と醤油の広がり時期が一致しています。
野田に和歌山から醤油工場を作り、その後、各地に工場を作りました。その時に野田には和歌山から多くの職人が出向き其処からまた各地にこの和歌山の職人を派遣して醤油の拡大を図りました。野田の人も覚えて各地に移動しましたが、その指導などで和歌山の人が移動しています。
お家が醤油を未だ出来て間が無い時に独自でこの時期に醤油を作る事は出来ない筈です。
恐らくは、この時期は専売製造ですので、和歌山の人か野田の人が開いて財を成したと思います。
この新製品の時期でなくては財を成すことは出来ない筈です。
私はルーツは野田に居た和歌山の人ではないかとも思います。
有田の醤油を作ったあるお家の縁者関係者ではないかと思います。
各地に製造所を造り親族縁者を責任者として配置しましたから。
兎も角も、醤油職人であったと思います。
宗派はこの時期は未だ浄土宗はそんなに広まっていません。
江戸期は浄土宗の督奨令を出して、特定氏の宗派であった密教の浄土宗を広めようとしました。しかし、そんなに拡がりませんでした。江戸期でも上級武士が帰依する宗派でありました。ですから、青森には浄土寺は極めて少ないと思います。密教体質の浄土宗が急に広がることはありませんでした。
それで広まったのは明治初期からで、多くは農民や庶民は曹洞宗でした。
恐らくは、青森では曹洞宗であると思います。曹洞宗は庶民や下級武士の宗派で、江戸期から明治にかけて関東で起こった一揆に加担したのはこの密教でない宗派でした。
曹洞宗かどうかはご本家の仏壇を見るとわかる筈ですよ。
或いは、お家の檀家寺はどこですか。そのお寺の過去帳でもよく判ります。殆ど確定しますよ。
次ぎは柏の木は関東に見られる木ですが、明治期に総代であった事からこの木を植えたのではと思います。この事からも関東から移動している可能性が高いと観られます。
逆に柏の木から総代であった事もいえますね。確定は出来ないですが。
前の内容を確認されるとはっきりとしますよ。
又少し進みましたね。
山口さんの姓の出所も過去帳でも判りますよ。
周囲に山口さんの姓は多いですか。ご親類は青森に多いですか。
ご本家は何処にあるか判りますか。
以上ですが、又何か判りましたらお尋ねください。
少ない情報の中から 丁寧でわかりやすく ありがとうございます。いろんな事がわかり ご先祖様 家のル-ツがわかり 嬉しく感謝しております。
疑問があるのですが 我が家の宗派は曹同宗 浄土宗 のどちらかみたいです。
あと 庭に 大きな柏の木があったと聞いてますが
神社の総代 と関係はあるのでしょうか?
お手数おかけしますが 宜しくお願いいたします。
山口さん お便りありがとう御座います。
さて、早速ですが、お便りからは、”曾祖母”とありましたが、明治初期ころですね。
若干、曾祖母と成りますと、女系の山口さんですか。
江戸以前は男系の氏家制度ですので、もしそうであればルーツは取れないと思います。
それから名主さんであったとする事は確実との情報ですので、多分、江戸期でも名主さんであっただろうと予測します。農家ではなく商家で会った事に成ります。農民の「名主」さんではなく、町の裕福な実業家であったとなりますね。
農民の名主さんは村の長の「庄屋」等も務める事もある役柄ですから、多少違ってきましたね。
明治期に醤油で財を成したお家であって有名人であったとなりますね。
醤油は江戸末期に中国から持ち込んだ金山寺味噌から発見された液汁のうまみ成分を発酵させて作ったもので和歌山県有田市が発祥です。今でもそのお家は存在し、昔は村の庄屋さんで地域に大変な貢献をし、歴史に残る有名なお家で政治家にも成りました。
そして、江戸にそれを売るために千葉の野田に工場を作りそれが全国に広まったものですから時期的には明治初期と成ります。恐らくは野田で修行をして青森に広めた方だとも思います。ですから財を成したと考えられます。
この説からすると、野田から全国各地に広まりましたから、野田付近の農民か町人であった事が覗えます。そして、青森にきて商家を興し、山口氏を名乗り、家紋を丸付き紋の柏紋にしたとも考えられます。
この説の方がより近いのではないでしょうか。情報の醤油の経緯からすると。
お答えは、あまり変わらないのですが、恐らくは近くの神社かの「総代」を務められたと考えます。
その神社が青森の宗像神社の支社である事は確実ですね。
その関係で、三つ柏紋の丸付き紋を使われたものと考えます。
丸付き紋の使用例は色々ありますが、「神社総代」を務められた関係で明治期の苗字令でそのお礼として使用を許されたものと思います。その時、当然に宗像氏の子孫では無い事から、遠慮して丸付き紋を使用した例だと思います。明治期にはこの様な事が遠慮方の丸付き紋の使用が頻発しました。
典型的な例として藤原秀郷一門が使用した「下がり藤紋」の一族は丸付き紋を使わない掟ですので、その周囲の村に住んでいた人たちはこの下がり藤紋に丸をつけて使用したのです。苗字令である一つ全村人全てが使用すると言う現象が起こりました。
ところで、疑問ですが、名主であれば、親族や菩提寺や何か証拠になるものが残っている筈ですね。
自分の家以外にも町内にも。
町の裕福な商家や総代であればその宗像神社には明治期の総代さんの名が大理石で作った柵の柱にしているものに書き込まれている筈です。或いは、神社に貢献した人や寄贈者の大口の累代の名簿等を石碑にして必ず神社の境内にはあります。その様な仕来りですから。
多分お寺にもある筈ですし、神社の氏子簿にも乗っている筈ですよ。
先ず確認される事ですね。その前に明治維新の戸籍簿に何処の住人と書かれていますよ。
平民、士分などともあります。
また、お墓のあるお寺の過去帳をごご覧に成ると直ぐ判ることです。一番古い人、戒名などでも判明します。恐らくはこの説が合っているかの確認が取れるはずです。
以上、又、確認されて不明な事やご質問等有りましたらお尋ねください。
少ない情報の中からありがとうございます。
その後 お役にたてる情報ではないと思いますが ほんの少しわかった事ですが 名主時代 お醤油をつくっていて 大きな蔵があり かなり大きな土地と家で 青森県(現在 黒石市)では 有名だったと聞いていて今もその土地は残っているそうです。 しかし 第二次世界大戦後 滅んでしまったそうです。
名主はいつからかは はっきりとは わかりませんが
曾祖母くらいではないかと 父親がいっておりました。
あと 青森県の宗像神社が三つ柏紋の大元で 丸付き家紋が分家とあったのですが 関係あるのでしょうか?
情報が少なく お役にたてませんが もし 少しでも わかるのでしたら宜しくお願いいたします。
福管理人の代理投稿
函館の青木さんの投稿欄に記載により移す。
投稿内容
私は山口と申しますが 家紋は丸に三つ柏で 父親は青森県出身で子供の頃 庭に柏のきがあり 昔は青森県の名主と聞きましたがル-ツとご先祖様はどなたなのでしょうか?
山口さん 今日は。 始めまして。
青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、お尋ねがありましたが、函館の青木さんの専用の投稿欄に投稿されていましたのでこちらに移しました。
お尋ねのルーツの件ですが、全くわかりません。
その理由として、青木サイトである事、情報が少ない事、情報が昭和で新しすぎる事、昔とは何時の時代判りません。
折角お尋ね頂きましたので、判る範囲でお答えをしたいと思います。
先ず明治初期からは戸籍簿がありますのでそのルーツは判る筈です。
名主との事ですから、農民であった事を意味します。そうしますと、江戸時代以前は「氏家制度」でしたので、下級武士以下農民、庶民はその氏を持ちません。
当然に、姓を持ちませんので、戸籍は残りません。
当時は、戸籍は菩提寺で管理されていましたので其処に「過去帳」と云うものがありました。
しかし、氏が無い事で過去帳を作ることは出来ません。
つまり、ルーツを辿る術が無い事を意味します。氏が無かったので「山口氏」と言う氏を辿る事は出来ない事に成ります。
ではその山口氏ですが、明治3年の苗字令、8年の督促令により全ての国民は「氏姓」をもつ事に成りました。その時に家紋も同時に持った事に成ります。
その山口氏の所以は何かの縁で名乗ったと見られます。多くのパターンがあります。これ等のことは青木氏のレポートなどをお読みください。詳細にレポートしています。
「氏家制度」で氏を中心に社会の習慣取り決め事が決まっていましたし、その氏の組織で支えあった社会でした。しかし、この習慣は上級武士以上の社会システムで、その農民等はその支配者の領する者としての社会でした。ですから、農民等は氏を持たない習慣でした。したがって江戸時代以前のルーツは有りません。
当然に墓所も寺では無く、河原の路傍の墓石を積み上げて作り自然の淘汰に任した砂岩、泥岩の墓でした。「・・村の何助」と言う風に記して。ですから、寺に墓所がある者は氏を構成している武士以上の者か特別に支配者から氏を与えられた者しか寺には有りませんでした。
農民の長となる「庄屋、名主」は農民、と「豪農、郷士、郷氏、豪商」は元は武士でしたので氏姓と家紋と帯刀を持っていました。前者の2つは氏を持つ事も許されている場合もありますが、必ずしも家紋は持つということではありませんが、多くはこの支配者から許可されて与えられた者が上記の2つの身分の者でした。
山口さんの名主は何時からの名主でしたか。
次ぎは家紋ですが、柏文様は130もあります。三つ柏でも50程度もあります。丸付きの三つ柏紋では九つの家紋類があります。
元は古く祭祀などに用いられた文様で、この家紋の多くは神職系の氏者が多かったのです。江戸中期以前では。神職系はお互いに特別な職種である為に氏家制度の中ではその神職の家柄を保つ為に血縁関係を網の目の様に張り保ちました。ですから、全国の神社の神職は多くは互いに血縁関係を持っているのです。当時はこの様な血縁関係を作り組織を維持していたのです。
これが氏家制度の見本のようなものです。
大神社とその系列の小神社まで全国に組織化されていたのです。
有名な所では、伊勢神宮の「久志本氏」、熱田神宮の「千秋氏」、宗像神宮の「宗像氏」、吉田神宮の「吉田氏」、「卜部氏」、吉備津神宮の「大守氏」等九州の豪族菊池氏らもそうです。
そこで推測の域を出ませんが、農民の名主を前提に、家紋から観ると、元は神職系か、又は名主である為にその神社の氏子の総代を務めていたとして、柏紋を明治の苗字令で使用したと考えられます。
この時は全村民が統一して一斉にこのその神社の家紋と姓を使用したのです。大変多いパターンです。
其処に、どの丸付き紋かは判りませんが、丸付き紋の傾向から考えるとその可能性が高いと思います。
三つ柏紋は熱田神宮の専門の神官家紋です。
丸付き紋の三つ柏紋はその縁から江戸時代では神職系の牧野氏が有名です。
牧野氏紋以外の其の他の丸付き紋は遠慮して丸をつけたのです。
お家の名主をして総代を務めていたことは概ね当っていると思いますが、その神社は熱田神宮系の支社の神社であったことが考えられます。そこが熱田系の支流の血縁関係を保った氏であったことから丸付き紋に成ったと観られます。
歴史的に名主がその村の氏子代表として総代を務めたので、その関係からその神社の分家との血縁関係をもった可能性は充分にあります。養子婿、嫁取りもあり得ます。
それを明治期に総代として受け継いだと考えられます。
もし、ルーツを探されるのであれば、この神社関係の血縁から探されると名主でもルーツを取ることは可能で、神道でルーツの戸籍が見えるかもしれません。直系でなくても。
名主であった村の神社とその系列を調べられて、後にその血縁関係を辿って行けば多分出て来る事があると思います。その前に、明治はじめの戸籍簿を確認する事で見えてきますよ。当時の戸籍簿はこの事柄を書き記していますので。
以上です。
では又、ご質問が有りましたら、この投稿欄からご遠慮なくREで専用でお尋ねください。
ありがとう御座います。
私の真意をご理解頂き誠に感謝します。
史実が如何ともあれど、その真意をお汲みいただいたことが何よりも冥利に尽きます。
重ねて、私は私以外の学問的なことに付いては生来忌憚の無い物言いですので、ご容赦願います。
全くおしゃられる通りです。歴史の面白みはそのご先祖の生き様が想像で垣間見える事にあると思います。
全く大賛成です。これは人の古への本能では無いでしょうか。
これからも、ご遠慮なくお尋ねください。生来の物言いでお付き合いさせて頂きます。
ご丁寧かつ詳細な内容でのご返信、誠に有り難うございました。
また、理解が足らず、青木さんのホームページなのにも拘わらず、度々御手数をお掛けしまして、大変申し訳御座いません。
誤解のないよう、申し上げますが、私個人としては先祖が何処で何をしていた誰であろうが、一向に構いません。ただ現在の私に至る迄の命を繋いでくれた事だけで充分です。その上で、どのような仕事をして、何を考え、どのように暮らしていたのか、少しでも垣間見る事が出来れば面白いと思っています。
ご返信頂いた内容ですが、農民と武士では住む世界が違う。身分制度の確立した世の中での農民と武士との関わり合い方、大変勉強になりました。資料を読むだけでなく、もっと想像力を働かせないと駄目なんですね。難しいけどとても面白いです。周りに歴史に詳しい、このような質問に答えをくれる人が居ない為、つい甘えてしまった事、ご容赦願います。
私がどう思うとか、自らの主観でなく、想像力を働かせ、他者の意見も良く聞いて、それを容れる素養を持った上で、一次資料に基づいて知識を構築しなければならないものだと理解致しました。
「全て世の中の事柄は完全に決まりにはまる事なのでしょうか」…正にその通りですね。耳が痛いですが、折角頂いたアドバイスですから。これから掘り下げて調べて行く上で、気を付けていきたいと思います。
私の為、貴重な時間をかなり割いて頂いたかと思います。
心より御礼申し上げます。有り難うございました。
お答えします。
半農の長が何れかの支配者(この場合は関口氏)から使用を許可されたとするのは、苗字、帯刀、家紋等を全て一度に与えられたと云う事では有りません。
更には、これ等の使用を全面的に無制限で使用を許されたという事では有りません。
例えば苗字の使用はある特定の場合に使う事などを条件として付けられました。又使用する方でも遠慮して儀式などの場合のみに使用したのです。
実際に武士の様に名乗ったと云う事ではありません。元々武士とは社会習慣の場所が違います。
現実、農民には変わりは無いのですから農民同士と付き合う場合は苗字はまだ習慣の違う農民の社会では大した意味を持ちません。
何事もそうですが、与えられた時にその意味合いが無ければ自然に淘汰されて消え行くものです。
それが何時かその意味合いが出た場合に於いて使用すると云う事が自然の成り行きです。
その一つとして、都度起こる儀礼的行為もその一つですが、これが後に例えば、明治3年の苗字令8年の督促令の時にそれを正式に苗字としたのですが、当然明治維新の社会が苗字を基本とした社会(契約や戸籍などの習慣)に変わりましたから絶対的に必要となったのです。
そして、村の長が関口氏を名乗ると周りの農民も同じ農兵として働いて過去に長に与えられただけの事であっても参加した農兵に与えられたものですから、口伝を通じて苗字令の時に一斉に村が同じ与えられた氏姓を名乗ると云う現象が起こったのです。むしろ政府が指導した経緯があります。
次ぎに帯刀ですが、これも農民である事に変わりは無く許されたからと云って武士のような生活習慣になった訳ではありません。矢張り同じなのです。これも大した意味を持ちません。これこそが意味も無いのです。鍬を持つ者が刀を持っても何の利点もありません。
農兵と云っても直接戦う役割を果たす事では有りません。
戦いには、沿道の警備、食料の準備、調達、柵の準備、運搬、軽い警護、指揮所の建設準備、勝利や敗戦処理などの付帯的な仕事です。中には屈強であって戦いに参加したい者がいて実戦をする者が居たとありますが、これ等の者は後に立身出世してとり立てられて支配者に武士にした貰うなどの事が起こったのが室町期から江戸初期までに起こりました。家臣全てがこれ等の事をしたのでは有りません。
戦う場合は戦闘の専門集団の雑賀、根来、柳生、伊賀、甲賀など有名ですが、この様な集団は各地にあり「雇い兵」として戦力にしたのです。
しかし、一般の農兵には本職があるのですからそんな挑戦などしません。元々は契約なのですから。戦って死んでしまったては農民としては意味が有りません。
農民にとっては戦いに参加する事で得られる利益があるのです。
それは先ず契約の現金収入です。次ぎは戦後処理(戦場の清掃処理など)による鎧兜刀などの処理金の取得です。敗戦処理(逃亡者の追討報奨金)等、又更には戦利品の収入です。これ等を個人では無く参加した村の集団で行動するのです。
附帯作業とは云え危険は伴ないますが、これ等を回収し売りさばく商人などがシステムとして存在し膨大な収入があるのです。
農民だけではなく、土地の豪商などもこの戦いに参加したのです。材木の調達、大工の工面、食料の調達、など何万と云う者を動かすのです。
彼等は現実には支配者以上の力を持っていたのです。豪商は元は豪族でその税の取立てや物納の処分などでその処理方は慣れています。そこで武士の顔も持ち、豪商の顔も持ち、「二束の草鞋」をとり当時の物品の運搬などには警護が必要ですから、武装しての搬送と成りますので、普通の商人が出来るものでは有りませんでした。当然にシンジケート(戦いで敗れた土豪、武士等)を保護して経済的に裏付けてシンジケートを作り上げたのです。ですから、豪農、豪商、郷氏らはこれ等を勢力手段として闇の集団として暗躍するほどに力を持っていました。支配者の武力を中心とした力のレベルではありません。
これが裏で農民などを動かしている現実の社会でした。表の勢力者と裏の勢力者の違いでした。
豪農、豪商、郷氏等は農民を裏で動かし、それを支配者に繋ぎ戦いと云う市場に参加するのです。
戦国時代は農産物だけで農民は潤っていた訳では有りません。
歴史の人物の楠木正成がその例です。10万の軍を3000で迎えて10万の兵を餓死させたのです。こんな人間に苗字等の勲功を与えてもばかばかしいだけですが、朝廷はそれでもこれ等の名誉勲功を与えましたね。
そんな者達に苗字、家紋、帯刀など与えても現実には何の意味も無いのです。
これが氏家制度の裏の真実、現実で矛盾の一つです。
ですから、与えられたとしても名主、庄屋、程度の範囲です。
元より、戦いは何度もある訳ですから、直ぐにこの全部、苗字、帯刀、家紋を与えたわけでは有りません。
例えば、これ等の内情とシンジケートの事は知っていた秀吉や信長(後に知る)の戦ではこれ等のことが史実事件として起っていますね。秀吉の「一夜城」でも有名ですね。
他には、信長の只一度の敗戦の次男信雄と滝川一益の軍は天正伊賀戦いでは、実戦では無く戦用の丸山城の城構築で木材や材料調達で城が立てられない、立てたと思うと火付け作戦で燃えるなどと云う事件が起こり、伊勢の元守護王で豪商紙屋の青木長兵衛(青蓮寺城主)との戦いがありました。
紙屋長兵衛は上記した農兵等とシンジケート1万を裏で動かして戦い勝利した事件は有名で、信雄ら二人らは信長に家臣の面前で烈火の如く怒られ蟄居を命じられると言う事件は有名です。
この後、これ等のことを良く知っている秀吉の意見を入れて以後戦いをしたのです。秀吉自身も今度は天正伊勢永嶋の戦いでは裏面工作の紙屋長兵衛(青木長兵衛信忠)とで、秀吉は自ら家臣を使って吉野の山から材木を切り出し谷から麓に流す作戦を実行したのです。結局、秀吉は時間は掛かりましたが勝利しました。これ等の戦いを観ていて学習した家康が云うように”戦いの大半は戦前の戦いで決まる”と言われています。
つまり、実質裏方の農兵らの働きに依るのです。それだけに支配者側は「ありがたみ」を感じての特典を与えた訳で、農兵側からすると生きている社会が違うので何の意味も持たないのです。
帯刀などは本当に何の意味もありません。むしろ持つ事の事態が危険です。
家紋も推して知るべしで、与える側も余りこれを使われると、家紋は武士らの名誉の一種ステイタスです。これで家柄身分などが判り立身出世に大きな役割効果があり、氏家制度の中で生きる武士にとっては無くては成らないものです。しかし、農民は氏を持ちませんので氏家制度と云えどその社会に生きていません。家紋があったからと云って米が増えるわけではなく何の意味をも持ちません。
従って、この家紋使用支配者と農民の間には利害が伴ないます。頻繁に氏以外に使われると武士の権威が低下してしまいます。故に特に限定した使用を求めたのです。
例えば、儀礼的な儀式等だけとか墓石だけとか限定しました。実際にはかなり遠慮して使用した形跡です。使うと何か不始末が興すと支配者側に武士の面子に関わる迷惑が掛かることに成りますので、許可したと云え有名無実な事なのでした。この家紋を付けた時だけに面会を許すとかの「権利的条件」を附帯したのです。支配者側はだから与えたのです。それがどんな家紋であろうと。
お家のご先祖に家紋の下がり藤紋を与えたかは大いなる疑問です。
宗家だけしか使えない、まして副紋方式で、傍流であり、とするとこの掟の知識を知らない事が覗えますので苗字を付けた時期に同時に藤原氏一門と観て引き出して使用したことだと思います。
まして、武士の一門でも家紋使用は宗家の許可を得て使用するのが氏家制度の掟です。
武士の子供でも妾子の子供は使えない許可しないの仕来りがありますので、農民に直接使用を認めることは少ないのです。先ずは無いと思います。
元よりステイタスの低下と利害を招きますので、余程の事では無くては使用を認めません。武士でもある郷士、郷氏、豪農、(豪商は元は武士)の場合は武士でもある訳ですから与える事には問題は有りませんし、むしろ、支配者(関口氏)より家柄、身分、官職などは上の場合が多いのです。
ですから、これ等3者には幾つも家紋を持つ者が出たのです。与えても低い家紋は敢えて使用をしません。支配者との会う場合とかで儀礼的に使用する程度でした。
例えば、賜姓青木氏が笹竜胆の賜姓家紋族ですが、これ以上では天皇家の家紋以外にはありません。しかし、室町期ごろでは守護から離れて郷氏、豪族、豪商に成っています。
支配者より領地や経済的により勢力を持つ郷氏(庄屋、豪農、豪商も営む二束の草鞋です)です。与えられても極めて迷惑です。歴史上この様な場面を歌舞伎で表現しているものもあるくらいです。
更に例として、家紋を付けた羽織を着た伊勢賜姓青木氏は、家康の子の紀州徳川頼宣が天領地であった伊勢地を飛び知領としますが、この際に信長と戦った伊勢の豪商青木長兵衛と面会をしました。この時頼宣は上座を青木氏に譲り下座すると言う現象が起こったのです。この事は個人の伝記、口伝でも伝わっていますが、昔の歌舞伎でも演じられています。
ですから、藤紋使用は郷士、郷氏、豪農、豪商の3者では明らかに無く、前回お答えの前の2者(庄屋、名主、)と申し上げたのです。寛永史書などにも第三氏と未勘氏としてこれ等の氏も多く書かれています。
次ぎは、浄土宗の件ですが、古代仏教は450年ごろに後漢の帰化人の鞍造部で仏師の首魁の司馬達等が私伝として伝えたのが最初です。(後漢阿多倍王等に率いられて渡来人200万人の第一陣です)
これを大化改新前に同じ後漢の第1次の帰化人の物部氏と蘇我氏との争いでも有名ですが、この仏教の阿弥陀思想伝導と成りますが、この時、天智天皇(中大兄皇子)は、大化改新で皇位継承制度の改革を行い、その中の一つ改革の天皇を自ら護る親衛隊の編成をするために第6位皇子を侍にして臣下させる事になりました。
この時、賜姓である青木氏にステイタス仏像と法宝物等を与え、更に伝導直後の仏教の阿弥陀思想の伝導、普及のためにこの古代仏教に帰依させる事を定めて伝導役を決めました。
そして伊勢神宮の保護と伊勢の守護王として伊勢に施基皇子を配置しました。
この時から、この一族5家5流の5代の天皇の第6位皇子が、賜姓を受けて臣下して守護王として配置されました。この時から、この「伝統の伝導義」が起こり、青木氏が独自の阿弥陀寺を主要地5国に建立して古代密教を伝統として伝導継続しました。
神道と仏教で戦っただけでの事だけでは有りませんで、後の「伝導政策」としてこれ等の第6位皇子の臣下賜姓族にその役目を任じたのです。この役目は嵯峨天皇より賜姓源氏に引き継がれて合わせて16代続きました。
(参考 桓武、平城天皇はこれに反発して母方(高野新笠)後漢の帰化人阿多倍王の末裔に賜姓をした。桓武天皇は第6位皇子伊勢王施基皇子の子供の光仁天皇の子供。賜姓は「たいら族」として5代後には太政大臣平清盛です。嵯峨天皇は桓武天皇の子供嵯峨天皇は桓武、平城天皇と路線争いをする。最終この役目を担った第6位皇子の制度に戻し、青木氏から源氏として変名し賜姓する。花山天皇まで続く。これ以後、賜姓青木氏は皇族の者が、下族するもしくは比叡山から還俗する際に名乗る氏名とすると詔で定める。明治3年まで原則守られる。)
それがこの様にして古代密教の阿弥陀思想の仏教は引き継がれて来て、1175年の法然源空がこれを阿弥陀思想の法典として確立しさせ、それを浄土宗と呼称しただけなのです。これに古代密教の阿弥陀仏教から浄土宗の阿弥陀仏新仏教へと「自然継承」となった経緯なのです。
新たに「新しい考え方」の仏教を確律(立)したわけでは有りません。
引き継がれて来た古代密教の仏教を学問化したのです。
天台密教、浄土密教、真言密教の3密教がありますが、ここで「密教論争」のあり方に付いて議論が起こります。賜姓青木らが伝えた古代密教派が浄土宗と呼称されたのです。
藤原秀郷も平貞盛と共に「平将門の乱」の平定の2つ条件で貴族の身分と武蔵下野の国の領主と成りました。従って、武力を使えませんので、自分の第3子の千国を嵯峨期の詔により青木氏を名乗らせて護衛団を形成させて、賜姓青木氏と同様の任務と伝統を維持させたのです。
当然に、朝廷はこの北家秀郷系統には母方が賜姓青木氏と天皇家に血縁していますので、賜姓青木氏と同様として特例としてその同方式と同官職と同役職、同身分を秀郷に与え千国が臣下させて与えました。
当然に、仏教の帰依も含まれて居ました。
この後に共に2つの青木氏は末裔は栄えますが、1175年に法然により浄土宗が改めて開山されて、賜姓族と秀郷一門は同じ浄土宗のその古代仏教と、その密教を仕来りを伝統として各地に末裔が広まり、朝廷で最大勢力を誇った賜姓青木氏に習って引き継ぎます。
仏教宗派としての時期は書物、口伝などから平安期末期の帰依と成ります。
法然源空の浄土宗開山(開基ではない)と同時期と成ります。
浄土宗派はこれ以後、特定地域で皇族賜姓青木氏主要29氏と藤原秀郷一門351氏と源氏11代とその末裔のそれらの支流一門族と縁者関係族に、「特定伝統宗派」として引き継がれて、特定宗派とその特定域に特定氏の寺を建てる古代密教方式に移行してゆきます。
この時から、他の宗には観られない浄土宗の伝統が定まり浄土宗仏壇なども特定仏壇となり戒名や特定の浄土宗習慣等が引き継がれてきました。恐らく現在も筆者の家も含むこれ等の宗家筋ではこの伝統が護られていると観られます。この特定伝導は南北朝時代まで引き継がれて行きます。
初期頃の事として、日本書紀にも伊勢王として朝廷の政務仕事に専念し、この古代仏教に関係した事と、天皇から各地の古代仏教の実情調査を命じられて朝廷の冊子(律令の基)として遺され居り、その関連する事等が書かれています。これが元となり日本最初の桓武天皇の律令制度の国家体制の完成に繋がったです。
この国家態勢に起因するまでに発展させ、その仏教の経緯は専門的には平安末期前後から古代仏教と新仏教に内容が更に変わっています事をご承知ください。言わずもがな学術的にもこのことが確立しています。教材にもこの経緯等は詳細に記載されている衆知事です。
当然、この二つの青木氏、つまり第6位皇子の賜姓族と秀郷第3子の千国の青木氏に関わる高位朝臣族と宿禰族の臣下族と、それに相当する嵯峨期詔の皇族系青木氏等の族は、この伝統を護り維持して古代仏教の伝統は平安期には同じ阿弥陀思想を引き継ぐ浄土宗に帰依する事が定められたのです。
天智天皇から始まった皇位継承制度が更には嵯峨天皇により修正されましたが、第5位皇子以上の真人族は天台宗に入信し、第4位皇子とも天台宗に上り僧侶として務めたのです。皇位継承から外れた者は必然的に比叡山に入り門跡僧侶として入信しました。現在でも比叡山にはこの院が継承されて存在します。当然に、ご指摘の真人族としての貴族、公家は天台密教に帰依する事に成るのです。
平安期末期までには以後、第6位皇子賜姓臣下外の対象者は計18人の対象者が在りましたが、全て天台宗比叡山に上り、後には還俗する者も含めて嵯峨期詔による伝統から浄土宗に入信しました。
この天台宗と浄土宗の判別は真人族(第5位又は4位皇子)は天台宗、第6位皇子族と以下第7位皇子族の朝臣族と宿禰族の高位身分の者で臣下族の皇族賜姓系と皇族系は浄土宗と定められていました。
第7位皇子以下は奈良時代の大化から天皇が代るたびに出る第7位皇子以降は坂東警護団として配置されましたが、この一族末裔の「坂東八平氏」も皇族系ですので当然にこの浄土宗の伝統を護っています。
朝廷では氏家制度を維持するために「八色の姓制度]等を多く決めて、それにより宗派や行為や諸道具や仕来り、身分、官職、役職等を詳しく定めています。
この様にこれ等を判定する条件がいろいろとありまして、ここでは書ききれませんが判定が出来るのです。
何々親王とか云々で高位だからと云って何でもかんでも一緒にして歴史上のことを判断する事は危険です。何は兎も角も「氏家制度社会」です。今とは社会が完全に違います。
兎角、歴史を勉強するとこのジレンマに陥り私の経験を始めとして兎角早とちりして間違いを興して失敗するのです。
氏家制度の多くの知識が必要です。この様な区分けが出来ているのです。
宗派も元より、更には、天台宗、真言宗、真宗などであるかの判定もその伝統とある決まりで出来るのです。
身分、家柄、氏、官職などを重んじる「氏家制度」の社会ですから、当然に多くの事柄が区分けされているのです。
これ等の高位の者は官職名、身分、家柄、役職、など朝廷の決まりを持っています。
日本書紀等にはこれ等の初期の事が詳しく書かれていますので読みますと大きな判定力に繋がります。
これ等の事は青木サイトとしては皆さんは既に都度レポートを読み続け継続の知識として持ちお答えにはこの様なレポートを書く事は余り有りませんが、他氏にはどうしてもお答えにはこの様な事を割愛してのレポートに成ります。
一度、青木氏のサイトとで少しづつでも各種のレポートをお読みいただきますと必ずや氏家制度の仕来り等が良く判りますのでお読みください。他のサイトには書いていない研究論文を登載しています。
しかし、間違いを起こさないようにして完全に書くと本になってしまいます。
前回のレポ−でも文頭にこのことを追記しましたし、文中でもそれなりに意味を持たせて間接的に表現しているつもりですが、伝わりませんか。難しいですね。
以下のご意見ご質問の前提は、若干貴方様の主観性がありますので、そのお答えには次ぎのご質問をさせていただきます。全てにお答えが困難ですので。
「浄土宗の宗旨」の件ですが、以上「宗旨変え」では有りません。仏教には何事も同じですが変化の経緯が在ります。それを宗旨替えとするは如何ですか。
「内部闘争」に関してはそれを闘争と観るかはその人の判断です。宗教はこの世の「考え方」ですので元より論争争いを起こしていますが、その立場の人には書物では闘争ではないと教えがあります。私は闘争とは観ていません。
「将軍云々の件」は全て世の中の事柄は完全には決まりにはまる事なのでしょうか。
朝廷が定める高位等の者が入る「門跡寺院」と云う事をご存知でしょうか。
特に平安期を始め、鎌倉、室町期の寺社仏閣は誰が建てたのでしょうか。どのようなシステムだったでしょうか。そして、その寺社仏閣の文様はどの様にして決まるのでしょうか。
それを判断出来る戒名や法名での「院殿居士」とはご存知でしょうか。
天慶の乱は長く掛かりましたが。秀郷は958年ですが。
天台宗は密教です。個人の天台宗入信は江戸初期の宗教督奨令以降に成りますが。
この質問で私の答えが出ます。
取り敢えず、このご質問もこの程度にしますので、これで宜しいですか。ご質問有りましたらお尋ねください。
では、又お便りください。
度々申し訳御座いません。頂いた情報と此方の秀郷流藤原氏の記事を幾度か読み返した中で、少し分からない点が出て来ました。今後掘り下げて調査する際の参考にしたいので、もし宜しければ教えて下さい。
まず、当家について御推察頂いた、傍系足利系関口氏に雇われた半農の武士ではないか、と云う点についてですが、どのような働きがあったにせよ、自らの家でも使用出来ない宗家の綜紋を、褒賞として半農の土豪に下賜したり、使用を許諾したりするものなのでしょうか?
次の一点は、当家に関係なく、宗派に関してですが、私の浅薄な知識では、秀郷公が平将門を追討したのが西暦で930年代、浄土宗が立教開宗したのが1170年代で、この間約200年の時間的間隔があります。少なくとも、秀郷公より200年もの間は、その宗派は浄土宗ではあり得ない筈です。また、室町から鎌倉時代には浄土宗はどちらかと云うと迫害の対象となっており、皇族や高家の武士は真言宗もしくは天台宗であり、実際に覚行法親王は真言宗の門跡、後醍醐天皇の皇子護良親王は天台座主、足利将軍家からも足利義教は還俗して将軍位に着くまでは、153代天台座主で義圓と名乗っていました。法親王の制度は明治期まで続いており、浄土宗は徳川幕府が庇護するまで、内部闘争もあって主流とはなりえなかったと記憶しておりますが、秀郷流藤原氏一派は、その歴史中のどの段階で浄土宗に宗旨を変えたのでしょうか?
以上2点、細かい事で申し訳ないのですが、御教示頂けたら嬉しいです。宜しくお願いいたします。
長文での詳細な回答、有り難うございました。
前回記しました通り、父の代で群馬から出てしまった為、後の代の事を考えて調べられる処までは調べてみようと思った次第です。余りややこしい事しないで貰いたいですね、ご先祖様ってば。
一ヶ所、墓石の事ですが、大理石ではなく、神社の欄干に付いている、ギボシを縦に細長くしたような形の物だったみたいです。
実家の近くにある、総本家には何かしら資料があるかと思われますが、私の代で総本家より4〜5代離れており、現在付き合いもないようなので中々難しいですね。
いつになるか分かりませんが、また実家に行く機会があり、新しい事実が分かりましたら、ご相談させて頂く事もあるかと思います。この度は有り難うございました。
関口さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。全国の青木氏が集う歴史などで一時を楽しむサイトです。
当サイトには青木氏とその関連する氏の内容に付いてレポートしています。
これからも本サイトをよろしくお付き合い願います。
さて、お尋ねですが、関口氏の歴史的なことに付いては良く判りません。
しかし、折角お越し頂いてのお尋ねですので、青木氏を調べて知りえた知識でお答えしたいと思います。
お尋ねは、藤原秀郷一門ではないかとのものと考えます。
そこで、既に藤原秀郷流青木氏関連のレポートを多少お読みに成っているとしてのお答えとします。
未だお読みに成っていないところが有りましたら、都度お調べに成るかお尋ねください。
このお答えはREでお願いします。関口さんの専用投稿欄とします。
本文に入ります。
関口氏には5つの流れがあります。
一つ目は明治期の苗字令による発祥第3氏です。この氏は家紋を五山桐紋としています。
2つ目は美濃足利氏系関口氏で、清和源氏支流です。家紋は二引両紋です。
3つ目はその支流の木瓜紋です。
4つ目はその支流の一文字紋です。(江戸初期の未勘氏と観られます)
5つ目は秀郷傍系の関口氏です。(江戸期の未勘氏と観られます)
当サイトでは足利氏系青木氏がある処からの関連氏の調査で把握した結果の知識ですが、2番目の美濃の足利系の傍流支流の関口氏がこの関口氏の本流である事が判っています。しかし、家紋が綜紋の二引両紋とあるのは多少疑問です。関口氏が出ている事は確実ですが。
足利氏は元よりそのルーツは藤原秀郷一門の十二人の者が鎮守府将軍として陸奥に赴任した時に、その土地の土豪の花房氏と血縁して発祥した秀郷流花房氏で、秀郷一門が美濃に赴任地代えで護衛団として秀郷流青木氏と共に先ず武蔵に戻り足利に赴任しました。
そこでこの花房氏が定住し、力を付けて土豪となり足利の地名から土豪足利氏を名乗りました。
其処に、秀郷一門からこの土豪足利氏に対して発言権を増す為に、余り従わなかった血縁族の土豪足利氏の本家に対して、絶えた分家に一門から跡目を入れて分家を興し、後押しをして本家に対抗させ、この本家と決戦をして本家の土豪足利氏を追い払いました。この土豪足利氏は日本海沿岸路を伝わり米子、八頭に逃げ延びて末裔を遺しました。この時、この足利氏と土地の守護王で聖武天皇第6位皇子の賜姓青木氏との血縁族の足利系青木氏の一部も土豪足利氏と同行しました。
信濃には秀郷一門の跡目を入れたこの分家筋を本家として立て、足利氏を名乗りました。後に清和源氏と血縁をして足利氏が繁栄しました。この足利氏の室町幕府後、その第3支流として関口氏を名乗ったとされています。多分傍系であろうと考えています。
この秀郷一門の血筋を色濃く持つ足利系支流関口氏は一門分けで江戸初期に秀郷流関口氏を名乗ったと観られています。
その秀郷一門の秀郷流関口氏と言われる元は、秀郷一門の足利氏は「成行」を始祖とします。
その成行の孫の成俊が佐野氏の始祖と成ります。
成行の孫(成俊の弟)の足利の有綱の子供の基綱が佐野氏の元祖と成ります。
依って、秀郷一門の成行の足利氏は曾孫で佐野氏と成りますので、この秀郷流関口氏は佐野氏系とも言える事になるのです。
しかし、秀郷一門の主要5氏から本筋24氏となり第2支流の最終351氏となった一門から更に外れたところの傍系支流であります。
この佐野氏系関口氏と云われている氏は秀郷一門で確証される現存するこの351氏の中にはありません。
恐らくは、足利系の関口氏のルーツからのその一部がその経緯から読み佐野氏系として後に江戸期初期の頃に名乗った未勘氏であろうと考えられます。
この風潮は3期に起こっています。
第1期は室町末期の戦国混乱期、第2期は江戸初期の混乱期で最も氏を搾取偏纂して氏を発祥させた時期、第3期は明治初期の3年の苗字令と8年の督促令にて氏を持たない市民が名乗った時期の3つに成ります。夫々内容が異なります。
関口氏はこの江戸初期の家柄身分を重んじる風潮の最も盛んな時期に藤原秀郷一門の佐野氏を搾取偏纂して佐野氏の系譜の中にルーツの不明人物を創り上げてそれからの系譜を偏纂したものと観られます。徳川氏も有名な事実として、征夷大将軍の称号と幕府を開く根拠として、朝廷に圧力を掛けてこの系譜を認めさせるように系譜を偏纂した史実があります。豊臣秀吉の系譜も有名ですね。
各地に残されている系譜の殆どはこの搾取偏纂のもので、お調べに成られた史料もこの類ではと思えます。佐野氏の正しい正規系譜上に無い人物を創り上げる常道で別ルーツを繋いでいます。
搾取偏纂のルーツはこれを常道手段としています。
関口さんのお調べに成った佐野氏の時綱なる人物にその末裔が正規に繋がっているかの確認が私には残念ながら取れません。
当然ながら、矛盾点が出てきます。
先ず家紋です。佐野氏の支流を含む家紋群は明確に成っていますので、左三つ巴紋を含む家紋群からは関口氏は出てきません。
又、秀郷一門には家紋に関する掟があり、「下がり藤紋」の綜紋に対して、351氏は副紋方式を採用しています。
まして、下がり藤紋は武蔵入間に現存する藤原秀郷総宗本家とその一族だけが使える護っている家紋です。それを傍系が家紋として使うなど大いなる疑問です。ありえません。
秀郷一門の斎藤氏等もこの綜紋の下がり藤紋は使わず別の紋に成っているのに、支流で傍系が下がり藤紋とは。
後は、藤原氏は本流でもそれに藤紋の中に副紋を入れて使う掟に成っています。
各地24地方の藤原一門の本家筋だけが使える綜紋の副紋方式は正規に全て成っています。
先ずはこのことから観ても未勘氏か第3氏である事が明確に覗えます。
多分、江戸初期の未勘氏であろうと考えます。
恐らくは、次ぎの身分の者であったと考えられます。
庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商の何れかでしょうが、このどれかはお家の情報が有りませんので判断が付きません。
恐らくは大きく土地を持っていたなどの内容から苗字、帯刀、家紋の保持を許されたこの6氏の前の三つのどれかと見られます。
その苗字などの許された相手はこの足利系関口氏の末裔からでは無いかと考えられます。この事は頻繁に行われたのです。
つまり、戦いの時には兵を集めなくてはなりませんが、家臣だけでは兵とはなりません。
そこで農兵をある契約で集めます。この時、足利系関口氏からこの6氏に依頼が来る仕組みに成っています。
そして、戦いの勝利した暁には、この6氏の前の3氏には、契約金、戦利品、褒美等と共に勲功として、苗字、帯刀、家紋の保持が許されたのです。
秀吉はこの農兵制度の禁止を令として発しますが護られませんでした。
恐らくは、足利系関口に配下に入った者であったと観られますから、矛盾点が出るのです。
その典型的な関口氏が在ります。
当初に述べた五三の桐紋です。
この紋は元は天皇の象徴紋です。
ところが天皇家には締め付けにより経済的余裕が有りませんでしたので、秀吉に褒美としてこの五三の桐紋の使用を許しました。そうすると今度は秀吉は自分は五七の桐紋を作り、大名に対しては恩着せがましくこの五三の桐紋の使用を勝手に許しました。例えば秀吉の家臣のその一人として、黒田藩は更にはこの五三の桐紋を家臣に使用を許しました。最後は、その家臣が農兵として参加した者の長に対して褒美でこの五三の桐紋の使用を許したのです。
したがって、北九州にはこの付近にはこの五三の桐紋が多いのです。
特に、ところが明治政府は初期にこの使用を禁止しましたが護られませんでした。
このことは大大名の国で全国的に起こりました。
この五三の桐紋の足利系関口氏の未勘氏はこのルーツなのです。同じく一文字紋も同様です。
故に関口氏は足利系関口氏が本筋です。
尚、江戸初期頃までの墓石の藤原氏の文字は普通は刻み込みません。
その墓石は明治初期頃から流行った大理石の墓石では有りませんか。
江戸期の墓石は泥岩か砂岩が宗教的仕来りで使用していましたので大理石(御影石)は使用していません。
”人は死ぬと土に帰る河原に石になる”とのたとえ通りにこの様な路傍の河原の石を使用したのです。
これも判定の基準と成ります。
事程左様に、又、宗派も天台宗とありますので、自ら独自の菩提寺を持つ浄土宗寺があるので、藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤紋」藤原氏の掟ではありえませんが、宗派と共にこの家紋を使用している事でも上に書いた史実事柄からも明確です。
念のためにご本家菩提寺の過去帳をお調べに成り、その時代の一番古い人とその人の戒名をご覧下さい。一目瞭然に判ります。藤原氏にはある一定の浄土宗の戒名と浄土宗仏壇を持っていますので判別が可能です。ここまでは未勘氏、第3氏は変える事は出来ませんので、調査される事をお勧めします。
何らかの形で遺されていますので。
では、この内容にご不明点並びにご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。
早速の返信ありがとうございます。
また私の拙い情報でここまでたくさんの考察をありがとうございます。
自分でも疑問に思っていたところが解かったので嬉しいです。
親戚などにも色々聞いて辿れるとこまで家系をさかのぼってみようと思います。
本当にありがとうございました。
齊藤さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、齊藤氏については特別に詳しくは有りませんが、藤原秀郷流青木氏を調べている過程での知識と成りますので御了承ください。
確かに、齊藤氏は藤原氏北家の一族で9氏の一つですが、藤原秀郷一門でもあります。
齊藤氏は藤原氏の中でも下がり藤紋を使用した9氏の一つです。
下がり藤紋は藤原氏の中で忌み嫌われて上り藤紋に変更したのですが、秀郷を含む9氏がこの下がり藤紋を使用してきました。
秀郷一門からも斎藤氏(齊藤氏、斉藤氏)が出ていますが、そもそも齊藤氏とは奈良時代と平安初期にかけて朝廷の政治機構は「3蔵」と呼ばれて、大蔵、内蔵、斎蔵で構成されていました。
大蔵は朝廷の財政上の役職、内蔵は天皇家の財政上の役職、斎蔵は朝廷全般の祭祀上の役職です。
斎蔵は当然に政治そのものも含むので、中臣の鎌足を始祖とする藤原氏は摂関家として務めたのです。
藤原氏は「藤原四家」と呼ばれて、北家、南家、京家、式家に分かれました。その中でも北家が勢力争いに打ち勝ち生き残り最大勢力を誇りました。
藤原秀郷は鎌足より8代目のその北家一門です。
秀郷一門だけでも351氏にも成ります。
この中で、秀郷一門主要5氏と呼ばれて4代目兼行系の青木氏、永嶋氏、長沼氏 4代目の文行系進藤氏、長谷川氏があり、その中でも青木氏は「第2の宗家」と呼ばれて一門を指揮していました。
詳しくは藤原秀郷関係のレポートをお読みください。
秀郷一門は先ず24氏に広がります。
そして、それが主要5氏を先頭に351氏となるのです。
秀郷流の斎藤氏は24氏から更に広がったこの第2支流に成ります。
この様に拡大した下がり藤紋を綜紋とする9氏らはその何処の藤原氏であるかの区別を明確にするために役職と地名とを使って氏名を名乗る掟を作りました。
「藤」の前に役職をつけて、祭祀を司る斎蔵の「斎」を採って「斎蔵の藤原氏」即ち「斉藤」と名乗ったのです。地名では「伊勢の藤原氏」で「伊藤氏」と成ります。
地名では秀郷一門の赴任地24地方がありますが、全て土地に定住すると云う戦略に基づき赴任地の地名をつけて名乗っています。多くは地名が殆どです。
この斉藤氏は秀郷流一門で5氏、利仁流一門で10氏が在ります。夫々家紋は違います。
この15氏の中には三つ柏紋は有りません。
下がり藤紋9氏の一つの斉藤氏はこの三つ柏紋です。
ただ、丸付き紋の疑問です。
藤原氏は全て副紋方式(2)を掟としていますので、丸付き紋は掟で使用していません。
次ぎの疑問としては斉藤氏が齊藤氏、齋藤氏の氏名を使用しているところです。
この2つの疑問を解決する必要があります。
何れも藤原氏の掟の疑問です。
次ぎは下の内容です。
祖父の父(曽祖父)のお墓は深川の猿江町にあって浄土宗です。
この齋藤氏、(齋藤氏)が関西を中心として定住分布としていますので、深川では判断が付きませんので宗派は疑問です。
藤原秀郷一門は全ては浄土宗ですが赴任地での浄土宗寺はありませんので、真宗に仮入信し赴任から戻ると浄土宗に戻ります。
浄土宗は特定高位の氏が独自で開山する古密教方式でしたので普通の氏が入信できないのです。
普通の氏が入信するようになった時期は江戸初期で浄土宗の督奨令で広がりを見せましたが、未だ上級武士にしか入れない宗派でした。従って、恐らくは深川ではこの浄土宗入信は明治期ではないかと考えます。
つまり、藤原氏の宗派は浄土宗ですが、江戸は初期前は浄土宗で無かった事を意味します。
この3つの疑問をどの様に解決するかです。
そこで、この3つの疑問から判断すると、明治期の3年の苗字令と8年の督促令による氏と成ります。
この時期、ある日突然、村郡の全市民が一斉にこの督促令で土地の知名人の氏名を名乗ると云う現象が起こりました。特に藤原氏のこの現象は特別なものがありました。
関東より以北と関西の近江滋賀付近でも起こったのです。
他にこの3つの疑問を解決する何かがあるかの問題ですが、少ない情報からは判断できません。
深川と云う江戸の土地柄からも疑問ですので、お寺の過去帳も江戸初期以前の前のものが無いようですので、これ以上の検証は出来ません。
ルーツは明治期以後の情報では判りません。明治期のルーツは祖父か祖祖父の戸籍簿ですので現在でも役所に出れば判ります。
以上ですが、ご質問等有りましたら、疑問解決に対する情報が他に有りましたらお知らせください。一寸した事でもルーツでは判る事がありますのでよろしくお願いします。
初めまして。
関口と申します。
家紋を調べていて、こちらに辿り着きました。秀郷流藤原氏の研究、楽しく読ませて頂きました。
現在、自分で我が家のルーツを調べているのですが、今一つ要領を得ません。氏と家紋から、恐らくは秀郷流藤原氏ではないか、と考えているのですが、もし此方で分かる事があれば、御教授頂けたら幸いです。以下に現在分かっている事を挙げます。
・先祖代々、現在まで群馬県勢多郡富士見村(現前橋市)に居住。
・姓は関口、家紋は下がり藤(丸は付かない)、宗派は天台宗。
・代々の菩提寺は和銅年間に勝道上人によって開かれた石井山珊瑚寺。上州七福神の一つで恵比寿天を奉ずる。元は禅宗の寺であったが、後に天台宗に。鎌倉期には尼寺であった。先祖にはこの寺の住職であった者も居る。但し、寺の紋は下がり藤ではない。
・同地域には関口姓が二系統あるが、もう一つの系統については、詳細が分からない。
・元は豪農で、かなり離れた最寄りの駅まで、他人の土地を踏まずに行けたらしい。
・実家の入り口には馬頭観音を奉った碑があり、実家裏には伊豆三島大社を奉っている(珊瑚寺とは恵比寿天繋がりか?)。
・祖母は村田氏で武家らしい。確認はしていないが、祖母の祖父は髷を結い、家のなげしには槍を架けていたと聞いた事がある。
・先祖代々の墓地を整理した際、古い墓石に藤原の文字があったと母が言っていた。
父の代で群馬から静岡に出た為、思うように調べられませんが、以上が幼い頃に聞いた話や、冠婚葬祭で実家に帰省した際に見たり聞いたりした話です。特に、母が見たと言う墓石の文字から、秀郷流藤原氏を疑い調べた処、佐野氏の支流に関口三郎を名乗った、佐野時綱と言う人物を見つけたのですが、佐野氏の家紋は左三つ巴、若しくは揚羽蝶で、その支流が本流筋の下がり藤紋を使う訳が無いですよね。私の知らない他の可能性もありましたらば、と考えて、書き込ませて頂きました。宜しくお願い致します。
戸籍の表記は「齊藤」でした。
初めまして、東京の斉藤です。
家紋の丸に三つ柏について調べていたらこちらへたどり着きました。
祖先のことを少しでも知りたいので、もし解かることがあったら教えてください。
姓は斉藤で、戸籍上は齋藤か齊藤のどちらかです。
ちょと忘れてしまったので今度確認しようと思います。
家紋は丸に三つ柏。
宗派は結婚式は神式ですが、
祖父の父(曽祖父)のお墓は深川の猿江町にあって浄土宗です。
祖父の父で、私の曽祖父の家は深川にありました。
かなり大きな家で庭に竹林があり関東大震災でも倒壊しなかったそうです。
仕事はマグロ問屋と花街への仕出し屋を営んでいた商家です。
親戚も商家関係ばかりで、今もそんな感じです。
あと、親戚関係はほとんど東京に集中していて嫁いできた人以外で東京外の親戚を知りません。
確か花街の近くか中に家があったそうです。
芸者さんなどとよく遊んだと祖父は言ってました。
ですが、よく遊ぶ家系にも関わらずなぜか性に関してはとても硬い家です。
今でもちゃらちゃらしてる人間が多い割に男女関係には慎重で硬い人間が多く
昔から浮気や不倫などを家訓で禁止してきています。
東京大空襲で深川の辺りは焼け野原になってしまい
祖父は末っ子でもう亡くなってしまったので家系に関するものが残っていません。
なにか手がかりになることがありましたら教えてください。
さて、青木氏のサイトですので、関係する以外の他氏に付いては全く判りません。
マア、しかし、折角ですので、ルーツを調べる手段からその可能性に付いて述べて観たいと思います。
提供されました情報からしますと、幾つかの疑問があります。
この疑問をどの様に解決するかは更に詳細な情報を集められて検証する必要があります。
その疑問点を述べます。
先ず、鱗文様には全国26の文様があります。この中で北条氏だと言われている文様は5つあります。
しかし、この鱗紋の三つ鱗紋は前、後北条氏の末裔だと言われていますが、確定する証拠はありません。
そこで更に絞り込み、確実に後北条氏の家紋とされるのは三つ鱗紋です。
その三つ鱗紋でも北条三つ鱗と三つ鱗紋があります。
お家はこのどちらの鱗紋ですか。この二つははっきりと判別できますので調べてください。
次ぎに疑問ですが、この三つ鱗紋に丸付き紋である事です。
後北条氏の家紋には丸付き紋は原則使用せず副紋や三つ鱗紋の変紋を使っています。この点が疑問です。丸に三つ鱗紋は厳然とありますが、後北条氏である確証は有りません。
丸は分家が使用する手段が一つですが、他にその氏の掟で丸は使わない場合で、明治期の苗字令と督促令による第3氏が丸をつけて家紋を使用した場合があります。
次ぎの疑問は宗派です。曹洞宗ですが、北条氏は浄土宗か真宗です。
宗派には帰依する者のその特長があります。その特長ある異質ともいえる曹洞宗に何故北条氏が帰依したのかという事があります。
前後の北条氏は上位の武士で名家です。その名家が全国的に何故一揆を起こす宗派のひとつに入信しているか疑問です。北条氏は一揆を起こされ取り締まる側の立場です。
この3つの疑問を解決する情報があるかの問題です。
この疑問を解決できる事として、名家に対して、明治初期の氏姓を持たない九割近い国民に対する苗字令(明治3年)で、8年の督促令です。
この時は、それまでは戸籍管理は寺が行っていましたので、その寺に高額の金品を渡して名家の氏姓とその系譜の偏纂を頼み名乗ったとする経緯があります。(それまでは一般の民は寺に過去帳は無い これは氏を持たないことによる)
前後の北条氏、それに源氏、青木氏、藤原氏など北条氏を始めとする未勘氏が実に多いのは、この時の小田原付近に定住していた氏姓を持たない者がこの経緯で名乗ったのです。その土地の村全体がある日突然北条やその親族の氏を名乗ったとすることが頻繁に起こったのです。
と云うのも、令を出しても氏を持たない者は氏を出さなかったのです。
そこで困った明治政府は督促令を出し指導して周囲の名家の氏を名乗らせたと云う経緯があるので村郡全体一斉に同じ姓を名乗った事が起こったのです。
これを第3氏と云います。
従って、上記する家紋、宗派、などに矛盾が起こるのです。
そして、北条氏の姻戚関係以上に膨大な氏が誕生する未勘氏が生まれたのです。
秀吉の尽く潰された氏がそんなに末裔を多く遺すわけが無いのです。それも小田原に。それでは秀吉は戦後史よりを何もしなかった事に成ります。
当時は戦いで負けた方は立ち上がらせない為に一族抹殺を掟とします。
この第3氏か未勘氏である事の可能性があります。
それを調べるには、北条氏の氏菩提寺にお家の過去帳があり、そのご先祖の一番古い人は何時頃の人かも調べる事が必要です。
北条氏の本菩提寺ではなく勧栖寺(曹洞宗)でありますので、先ずはそこの過去帳をお調べください。
北条氏が滅びるまでのご先祖が居るかの検証です。
そして、その人の戒名をお調べください。北条氏であればある特定の戒名を持っていますのでそれを確認ください。その際は専門的ですのでご質問ください。
北条氏の支流は岡野氏、江間氏、平野氏らだといわれていますが確証は有りません。
何故北条氏からこの3氏に氏名が変化したのかは不明です。
青木氏に於いても同じ事が起こっていますのでその検証方法から考えて3つの疑問を提起しました。
それを確認するには先ずは過去帳だと思います。
では、先ずはお調べください。判らない時はご遠慮なくお尋ねください。
お待ちしています。
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