※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
ワード検索 |
---|
最新記事 |
---|
新たに返信頂きありがとうございます。
他の方の専用投稿欄に投稿してしまい、失礼致しました。
父に詳しい話を聞いた所、どうやら家紋は丸に下がり藤で、静岡の清水出身との事です。菩提寺の宗派は時宗でした。昔から木工職人だったと伺っているのですが、やはり明治以降の青木なのでしょうか?
代理投稿(福管理人)
他の方の専用投稿欄にReで投稿されていましたのでこちらに移動しました。
投稿内容
> 実家が静岡県で家紋が下がり藤なのですが、ルーツは皆様と同じなのでしょうか?
静岡の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトです。これからもよろしくお願いします。
たくさんの青木氏に関する用意がされていますので、ゆっくりと楽しんでお読みください。
さて、お尋ねですが、情報が家紋と土地柄でしか有りませんので何ともお答えできません。
何時の時代ごろから静岡にお住まいなのかなどが判らないと判断が付きません。
ところが実は静岡には確かに藤原秀郷流青木氏が多く定住している土地柄です。
しかし、確かに下がり藤紋の家紋もこの藤原秀郷一門の綜紋ですが、問題があります。
この綜紋は藤原秀郷流青木氏を含む藤原秀郷一門一族361氏の代表紋です。
この綜紋の家紋を引き継げるのはこの内の宗家の7氏だけです。
この7氏の中には藤原秀郷流青木氏116氏が含まれますが、この116氏の内の総宗本家だけが引く継ぐ事が出来る家紋なのです。
そして、その下がり藤紋は下がり藤紋だけを家紋とするのでなくて、それに副紋をつける掟に成っています。ただ一家この下がり藤紋を使える家があります。
藤原秀郷の武蔵入間に現存して居る361氏の総宗本家一家だけです。
つまり、この一家除いて下がり藤紋そのものを使う家紋は無い事を意味します。
詳しい情報がないので確定として云えませんが、この家紋を単独で使用していることから、明治3年の苗字令と8年の督促令に基づく青木氏ではないかと思います。
国民の九割の庶民が明治になり氏家制度の社会から契約社会となった事から苗字を持つ事が義務と成りました。この時、近隣の土豪の氏名と家紋を真似て届け出ると言う現象が青木氏の土地並びに各地の有名な氏の土地で起こりました。
むしろ、苗字化が一向に進まないことから維新政府は焦ってその様に指導しました。
その為に、村、郡全体が突然に一夜にして青木氏に成ったと云う現象が各地で起こりました。
その結果、この宗家だけが引き継ぐ家紋を副紋も使わずに家紋とした青木氏が生まれました。
361氏のなかで350程度の家紋のある藤原秀郷一門の綜紋を引き継ぐ宗家の家紋があちこちに増えてしまったのです。この下がり藤紋だけを引き継いでいる総宗本家は入間に現存しています。
それはそれなりに100年程度の伝統の歴史を有する事は意味のあることですが、藤原秀郷流青木氏としては学術的にどうかと尋ねられれば”違います”とお答えするしか有りません。
又、100年程度の歴史を有する明治期の青木さんとなれば、その可能性は高いということになると思います。要は宗派と過去帳の有無と維新戸籍簿如何にて確定するでしょう。
しかし、静岡には藤原秀郷流青木氏と、この明治期の青木さんが多いのですから、むしろ現実にはこの明治期の青木さんの方が多いのです。
その判別は家紋や宗派なども然ることながら、前者の青木氏は江戸時代以前から「青木村」を形成しています。
その青木村に近隣で関係していた庶民、農民がこの苗字を使用したので広域の村と成ると判別がつきません。しかし、江戸期前に氏家制度の中で青木氏であったかどうかで決まります。
それは青木氏の「氏寺の菩提寺」を持っているか、其処の寺に「過去帳」なるものがあるかで判別できます。江戸期前にご先祖の名が確認出来るか、明治維新の戸籍簿でも判別できます。
一度、菩提寺と過去帳の有無と宗派をも確認ください。有れば藤原秀郷流青木氏の青木さんと成ります。
無ければ、明治期の青木さんと成ります。
宗派も特定の宗派に限定され、その宗派の菩提寺となるわけです。
有ったとしても家紋に問題がありますので、この副紋なしの綜紋の家紋が何故使用したかの調査が必要です。
では、ご質問が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
家紋掲示板より代理投稿
三つ鍬形 やす 2010年10月10日(日) 17:56 メール 修正
私の家紋 三つ鍬形ですが、
こちら和歌山には少ないと聞かされ、
京都の侍の家紋だと、亡祖母が言っていたが、
赤穂浪士の一人に仕えていたとか。
ルーツの探し方など、何かヒントがあれば、教えて下さい。
和歌山のやすさん 今日は。始めまして。
青木さんかどうか判りませんが、ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、鍬形紋ですか。大変珍しいですね。
鍬形紋には12の文様があります。
そのうち三つ鍬形紋は4つあります。
1つは尻合わせ紋
2つは変り尻合わせ紋
3つは三つ組み合わせ紋
4っは三つ違い鍬紋
です。
普通は1の文様です。
そこで、お家のご家紋はこの内の1と観てお答えします。
この家紋の経緯は、家康が信長、秀吉と膝を合わせて談合している夢を見たとするところから、家康が「変え紋」として、鍬は農民の主道具であるところから三つの鍬を組み合わせた文様を考え使用したもので、家康の次男の紀州徳川の初代藩主頼宣がこれを引き継ぎ、紀州家の「変え紋」としたのが始まりで、家臣がこの変え紋を拝領して使用したとされるものです。
主に家臣などに与える紋として使用されます。
(一部三河松平氏も使用した経緯がある)
(主紋や副紋に対して「変え紋」と呼ばれる−臣下からは下賜紋 拝領紋と呼ぶ)
むしろ、和歌山発の家紋なのです。この家紋を貰った家臣は一部を変更して12の家紋に成ったものなのです。
従って、下賜紋なので和歌山にも少ないですが、その後、関西地方と中国地方に分布しました。
紀州徳川氏になる前の藩主は紀州と難波の和泉地方を領地とする浅野氏でありました。徳川氏に成った後この浅野氏であった家臣の土豪は紀州徳川氏に仕官しました。その浅野氏の一部も和泉地域を与えられて残りました。(浅野氏の城跡がある)
この時に三つ鍬形紋の家紋を拝領した一族が発祥したのです。
お家はこの紋を大事にしお家の前の家紋に変えて主紋としたものです。
その後、残った紀州徳川氏の家臣団と成った紀州の浅野氏一族は、浅野事件等もあり取り潰しに成り整理されて、多くは安芸の浅野氏に移動しました。安芸に分布する三つ鍬紋はこの時に移動した一族の氏です。
他に、近江、滋賀、付近にもは役目柄で赴任していた家臣もあり、それが紀州国、和泉国、滋賀国付近に分布する様に成ったものです。
つまり、お家が住まいする紀州がその発祥地なのです。
さて、そこで、お家のルーツはこの経緯からその本拠地は大阪の和泉市から和歌山市付近に分布しています。恐らくは徳川氏の家臣と成った浅野氏の家臣であったと観られ、この家紋の使用を紀州徳川氏から許されたところを観ると浅野氏の遠縁かその家臣の重臣の一族と観られます。
浅野氏は、違い鷹の羽紋が主紋ですが、お家のルーツは次の要領でお調べになる事が必要です。
紀州徳川氏が使用する「変え紋」を許可された家紋であるところから観ると、限られた少ない家紋であることは間違いないと思いますので、調査も限定されますね。
この様な家紋は、家臣が特別な功労を挙げた者に使用を許す家紋なのです。
例えば豊臣氏では、天皇家の式紋「桐紋」(五三の桐)を秀吉に許し、秀吉はその家紋の一部を変更して豊臣家の家紋(五七の桐)としました。後にこの五三の桐紋を黒田藩などの有力大名に使用を許可し、それを貰った大名はその又家臣に、更にその家臣は庶民の功のあった者に一台限りで使用を許すというような事が起こりました。これに習って徳川氏や各大名もこの様な「変え紋」の家紋を設えて家臣に使用を許すシステムが確立したのです。紀州徳川氏は桐紋のほかに独自にこの「三つ鍬紋」を与えたのです。
与えられた大名級家臣には田所氏や富氏や浅野氏など紀州藩の5つの大名格の元土地の豪族がありましたが、これらの氏等または家臣に与えました。
恐らく、全国で特に関西と中国地方以東の地域に12の文様しかないこの鍬紋が分布していますところから、紀州徳川氏の家臣に成った元の領主の浅野氏の一族一門か重臣であった可能性があります。
そこで、先ずは本家の調査をされて、その本家の「菩提寺」(氏寺)の調査をします。必ず一族一門が集まってひとつの箇所に祭られている筈です。檀家寺の場合は一番本家に近い人の墓所に成ります。
恐らくは、本家筋や菩提寺が和泉地方にあると思います。
その寺にお家のご先祖の「過去帳」がありますので、それを調べられるとルーツが詳しく出てきますよ。
分家では無理ですよ。
次に宗派の調査ですが、身分に依って宗派は異なりますので、お家の江戸期ごろの宗派ですが、当然、その宗派は菩提寺に繋がる筈です。和泉と和歌山地域内にある筈です。
宗派としては、三つ鍬紋である場合は高野山にも墓所または永代供養寺があると思いますが、浄土宗、真宗、真言宗の何れかと見られます。
真言宗の場合は高野山も考えられます。
もし、菩提寺や檀家寺が判らない場合は明治維新の戸籍簿がご本家の土地の役所にありますので、明治以降と江戸末期直前のルーツは判ります。そこから割り出せばお家の昔の土地柄が出てきます。
土地柄が判れば菩提寺も判ります。
先ずは、お家の宗家に近い江戸期のご本家または宗家をお調べください。
ところで、お家の氏名は何ですか。
この家紋を貰える氏は和歌山では歴史的に限られてきます。和歌山か和泉かも地域判別できますよ。
和歌山では武士であれば、室町期の守護に付き従って和歌山に来た信濃の氏が足利幕府が滅亡してこれ等の氏が和歌山に住み着きましたので氏がはっきりしているのです。
信濃足利氏の家臣団氏名が殆どです。
平安期は藤原氏が守護を務めていたましたので、紀伊守護守の藤原修行の家臣団の氏名とで土豪は構成されています。その上に徳川氏の家臣団となります。
この浅野氏を含む4つの土地に定住した土豪集団が徳川氏の家臣団に組み込まれました。
先ず、簡単にルーツには辿れつけませんので、ご本家の調査が判りましたら又ご指南いたします。
では又お便りをお待ちしています。
青木正明さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
全国の青木さんが集うサイトですので、これからもよろしくお付き合い頂きます様にお願い申し上げます。
サイトの研究室等には青木氏に関する大変多く資料を準備しています。
また、更に研究を続けて全体像をより多く正しく後世に遺そうとしています。
ご協力の程お願いします。
多くの青木さんから貴重な情報も提供して頂き、青木ルーツ掲示板にもお便りも頂いています。
その中にはお家の室町期にご親戚であった多くの方からもお便りが届いてますよ。
さて、お便りのご質問が多くありますので、かなり難解なお答えですので整理しながら順次お答えして行きます。
実はお家のお便りは本研究室の一つの追求テーマでもありましたので、驚いている次第です。
実はこの「青木近江守持通」の子孫の一つがお便りで福井に現存している事は判っていますが、もう一つの子孫が何処に現存しているのかが判りませんでした。徳川氏の家臣になり関東に移動している事が判っていたのですが、水戸に現存している事がお便りで判りました。
資料では上総とあるのですが、矢張り水戸でしたか。
そこで、ご質問の一番目からご説明いたします。
ご質問は1と2を合わせてお答えします。
ご質問1
教えて頂きたいのは青木近江守持通から青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
に至るまでの抜けている部分です。五世とあるから五世代その間に存在すると
いうことになると解釈しているのですが、如何なものでしょうか?
ご質問2
また青木近江守持通に関する史実及び青木近江守持通に至る経緯が分かれば
教えて頂きたいと念じています。
お答え
「青木近江守持通」は大変珍しい人生を送って居りまして、歴史上、不思議の一つとされています。と云うのは、近江守護は先ず鎌倉時代からその守護は近江の佐々木氏が専有しています。5代中全て源氏の一員の近江佐々木氏です。室町に成っては一部京極氏もありますが殆どは足利の家臣六角氏です。
この室町期の中に突然に一代に限り青木氏の近江守護が生まれるのです。
特に青木氏ですので、この辺の経緯からご説明しないとその真意が出てきません。
では、そもそもこの佐々木氏の始祖は中大兄皇子(天智天皇)の4人の皇子の内の「川島皇子」が始祖と成ります。
この「川島皇子」は日本書紀にも多く出て来る人物で近江の生まれで、本来、「第6位皇子」が天皇から賜姓を受けて天皇家の護衛団の親衛隊として臣下するのが仕来りです。
ところが、第7位の川島皇子は大変に有能である事から、第6位皇子の施基皇子と共に賜姓族と成り近江の土地の佐々木を採って佐々木氏の氏を天智天皇は賜姓します。
そして近江守護王となり佐々木氏の始祖と成りました。
これが源頼朝の鎌倉幕府に成っても、室町時代手前まで全て代々守護職を務めたのです。
念のために、この理由は、源氏は嵯峨天皇の第6位皇子の仕来りから賜姓を受けて臣下した皇族賜姓族です。つまり、先ず最初は天智天皇から始まった第6位皇子が青木氏の賜姓を受け、施基皇子からの伊勢青木氏から始まりました。
この仕来りは天智天皇を含む5人の天皇(天武、文武、聖武、光仁)に引き継がれ伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐に守護王と成ります。これが5家5流の皇族賜姓青木氏です。
ところが、光仁天皇の子供の桓武天皇はこの仕来りを実行せずに、自分の母方の一族を引き上げます。
この一族と云うのは、中国後漢国の光武帝より21代献帝の子供の阿智使王と孫の阿多倍王が、618年前後にして後漢が滅びますが、日本に17県民200万人の各種の技能集団を引き連れて上陸し瞬く間に無戦で66国中32国を制圧します。そして薩摩大隈に定住しますが帰化します。
朝廷はこの首魁の阿多倍王を大隈の半国を与え、更に伊勢国北部の伊賀地方の半国を領国として与え、敏達天皇の芽淳王の孫娘と血縁させます。その阿多倍の孫に当る「高野新笠」と「光仁天皇」との間に出来たのが「桓武天皇」です。そして、この「高野新笠」の親が阿多倍王の子の国香です。
ところがこの「国香」から始まった一族は瞬く間に5代後には太政大臣「平清盛」と成ります。
「たいら族」として桓武天皇から賜姓を受けたのです。関東に配置していた皇族第7世族の「ひら族」に真似て「たいら族」としたのです。「桓武平氏」と呼びます。
しかし、桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反発して争いをします。そして賜姓を元の第6位皇子に戻し、第1期の皇親政治を敷きます。この時、賜姓を青木氏から源氏と変名して、青木氏は皇族の者が下族する際に使用する氏名として「嵯峨期の禁令の詔」を発します。
この令の仕来りは明治まで3期の動乱期を除き原則守られました。つまり、嵯峨期から始まった賜姓源氏は花山天皇までの11代と賜姓青木氏5代と合わせて16代続きました。要するに天皇家の同族です。
鎌倉幕府の頼朝は土地の同族の賜姓佐々木氏を近江守護として平安期より続いた役職を与えます。
頼朝の2度に渡る「本領安堵策」で近江守護として同族を守ります。北条氏もこれを維持します。
次ぎの室町幕府の足利氏はこの清和源氏の摂津源氏の源氏の傍系支流ですが、家臣の六角氏と京極氏に代々近江守護職を与えます。
ところが、突然、9代目だけにこの「青木持通」に近江守護を2年間(4年の説もある)与えたのです。(1412−1414)
ところが、この青木氏には問題を持っています。(1411年の説1412、1416年1414の説もある)
実は、元はこの青木氏は甲賀の上山郷の者で上山氏を名乗っていましたが、元は武蔵国の丹治氏の末裔で平安時代に赴任先に定住し土地の者と成り兵農を生業とする小土豪であったのですが、この一団が立身出世して勢力を大きくします。
しかし、身分制度と役職の厳しい氏家制度ですので、丹治氏系上山氏では大きく出世する事が出来ません。そこで、近江賜姓青木氏が滋賀甲賀地方の国司として移動した際に土地に分家筋の子孫を一部残して再び近江に帰ります。この時、土地に残した一部分家も絶えてしまいます。
ところが、この上山氏はこの絶えた分家を興すためにこの残った青木氏の遠縁に当る娘を探し出します。そして、上山氏と血縁をして近江賜姓青木氏の分家を再び興したのです。近江青木氏の名籍を奪ったのです。この分家は上記の近江賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族です。
そして、この元上山氏の青木氏は大変に有能であった事から朝廷に取り入りその家柄にあった役職を与えられます。後にこの末裔子孫は青木氏の名籍を下地に鎌倉幕府、室町幕府にも取り入る事に成ります。
現在もこの近江賜姓佐々木氏系青木氏として滋賀地方に現在も分布しています。
ところが、ややこしいのは同じ元上山氏を名乗る別の青木氏があります。
この青木氏のこの分家一族は賜姓滋賀佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族であるとして佐々木氏系青木氏と名乗っていたのです。
この佐々木氏は川島皇子を始祖とする近江賜姓佐々木氏ではなく、宇多天皇の滋賀賜姓佐々木氏との血縁族を名乗ったのです。
この別のルーツを称する元上山氏の佐々木氏系青木氏は平安時代に北陸、越後、近江、山城、大和、淡路、阿波、土佐、伊予、石見、美作等の守護を務めました。赴任地の各地にこの子孫を残してきました。
この滋賀賜姓佐々木氏系青木氏も丹波、甲賀、若狭地方(滋賀)に分布しています。この末裔は現在福井県にも現存しています。
注目すべきはこのどちらもが、家紋は「丸に揚羽蝶に副紋を木文字」です。
そこで、全青木氏の中で、「揚羽蝶紋」を主紋としている氏は多治氏と丹治氏系青木氏が只一つです。
実は、上記の丹治氏には、その一族にはこの様に別に嵯峨期の詔による「皇族青木氏」が発祥しているのです。
更に、この丹治氏系青木氏には藤原秀郷流青木氏の始祖千国の母方の元嶋崎氏のルーツもあります。
此処で、更にややこしいのです。
この丹治氏の発祥は、平安時代に皇子「多治彦王」と云う者が罪を犯し、関東武蔵に配流と成ります。
この時、土地の土豪と血縁して子孫を遺します。この「多治彦王」は罪が解けて京に戻りますが、この子孫が「多治彦王」の名から武蔵で丹治氏を名乗ります。
これが「武蔵7党」(丹党)と呼ばれる一つです。
この丹治氏(丹党)は嵯峨期の詔に基づき、皇族の子孫である事を理由に一部が丹治氏系青木氏を名乗ったのです。
上記の丹治氏系嶋崎氏の青木氏は、又別に藤原秀郷流青木氏の母方である事から藤原氏系の嵯峨期の詔によるこの青木氏を名乗った氏です。
さて、次のようにまとめます。
1 丹治氏末裔の甲賀の上山郷の元上山氏の近江賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との分家血縁族
2 丹治氏末裔を名乗っていない丹波の元上山氏の滋賀賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族
3 多治彦王から発祥した丹治氏系青木氏の皇族青木氏(嵯峨期の詔)
4 丹治氏から元嶋崎氏の藤原秀郷流青木氏(嵯峨期の詔)の青木を名乗った皇族系青木氏
4氏の何れもが「丸に揚羽蝶」(たいら族 桓武平氏の家紋 丸付き紋は支流紋)を主紋としています。
(丹治氏系青木氏はほかにも多く分流している)
何れも平安中期と平安末期からの氏発祥と成りますが、この何れかの氏がこの室町時代の近江守護職九代目を勤めた氏の者が「青木持通」と成ります。
明らかに1と2のどちらかですが、2の青木氏が「青木持通」であります。
2の青木氏が滋賀賜姓佐々木氏と近江賜姓青木氏との血縁族の分家として興し、勢力を高めて興した青木氏で、その再興する前の4代前の青木氏では有りませんので、名乗りは「5世青木持通」と成るのです。これは史実と一致します。
5世前の先祖は上記のこの氏の経緯から先祖は無い事を意味します。
4世前は皇族賜姓青木氏の男系ルーツと成ります。
この2の上山氏は上記した様に時代性から一致していますので近江守護職を経験しています。
この青木氏は室町期には城(友政城等)を有しています。ここを拠点に活動しています。
更に室町期に勢力を持ったこの青木氏から有名な多々良姓青木氏も発祥している程に末裔は栄えました。
ここで追加経緯として、遂にこの発祥元1と2の甲賀の青木氏は、持通の後4代までは美作守と成りますが、佐々木承禎の家臣として近江正福寺城に住していましたが、本流の近江賜姓青木氏と「名籍争い」を2度起こします。最初は信長の家臣として仕えます。信長死後一度目は負けますが、2度目は秀吉の監視の下で近江国勢多に於いて戦います。そして、勝って正式にこの近江の青木氏の分家名籍を滋賀青木氏として引き継ぐ事を許可されます。
この後4代続き、5代目からの分家は松平氏(徳川氏)に合力します。
その子供の兄弟(4人)の一人次男「高頼」(五左衛門)は上総に移動して先ず武蔵と上総で650石取りの家臣と成ります。
この一族は三河松平氏の代々御書院番に列し高禄を賜うとあります。
その後、その子の一人は上総水戸徳川氏に仕えるとあります。
この関東に移動した側の本家を継いだのはお家が云う「青木貞景」であることを意味します。
(検証要 後記)
この御書院番の関係から、娘が先ず水野氏の正室に成った後に松平清康の室に入ります。
これは歴史的に有名な事件です。この娘が後の「華陽院」と成ります。
恐らくはこの者が関東に於いてのお家の系譜とするご先祖の元祖と成ると思います。
(検証要 後記)
関東に移動した次男「高頼」の兄の長男「法頼」も「守山崩れ」事件後に家康に仕えますが、甲斐攻略時に家康に有名な事件が起こります。
家康の乗った船が浅瀬に乗り上げて碇が船底に食い込み沈没仕掛けます。その時この「法頼」(長左衛門)は飛び込み碇を外して船の沈没をくい止めます。そしてその結果溺死殉死して家康を救います。この子孫を家康はこの縁戚青木一族と共に高禄にて優遇します。先ず秀忠付きの御書院番に引き上げます。
残りの者4男(平左衛門)は井伊家に仕官します。
福井に移動して子孫を広げた1の青木氏です。
近江、滋賀の青木氏の分家名籍を継いだ3男(本家襲名 木工右衛門)が父(安頼)に継いで2度目に近江賜姓青木氏と戦い決着を付けた人物です。この末裔が滋賀、甲賀に分布する1の青木氏です。
長男、次男の関東に移動した一族が2の青木氏であります。
この2の青木氏が1の系譜を松平氏後の徳川氏の家臣と成った事から系譜を偏纂して悪い印象とする所を美化したものと考えられます。
依って、関東の長男と次男の2つのルーツのこの青木氏は系譜を貞景のところで消したものと考えられます。又は、移動に伴ないその先祖の累積が判らなくなった事も考えられます。
つまり、各地を点々としていますので、移動に伴ない菩提寺は無くなり檀家寺も変わりますし、宗派の寺も土地に無い事が起こり変わるかも知れません。依って寺の過去帳の維持は確実に困難になった事が考えられますし、又は消えてしまった事も有り得ます。
兎も角も、何時この系譜を編集したかは不明ですが、恐らくは旗本や御家人達に最も系譜を作る事が流行った時期の江戸初期か江戸寛永前後か寛政の頃ではと考えられます。
この2つの時期に多くの氏はこの時期に偏纂や改竄をして系図系譜を作っています。同時に家紋や宗派をも決めると云う流行が起こったのです。
この頃の系譜は殆どが搾取偏纂により信頼度が低いのです。
そもそも、系図系譜とは代々書き足して行くのであれば良いのですが、これは余程の伝統ある家柄、大家や大名のような資力のある氏でなくては出来ません。(菩提寺の氏寺を管理運営する武家の氏)
まして、又一人一人が過去に遡れるだけの専門的な歴史知識を習得している訳ではなく、更に、社会に書籍が少ない事、個人の故人の系譜を把握している者や書籍もありません。
下克上、戦国時代、一揆などの動乱がありましたので、証拠と成るものが消失したり、寺などが戦いの拠点の役目をしていましたので一番に焼き討ちに合ったりしています。だから資料と成る過去帳が無く成るという事が起こっています。(檀家寺に入信する武士)
依って、個人で作る事は物理的に無理であり、100%に歴史学者と組んだ専門の業者が居てこの者に頼んで作成するのが普通でした。従って寛永と寛政の頃に主要氏の歴史書がまとめられたりしました。
その作成の元は菩提寺や檀家寺の「過去帳」以外に経時的に調べられる手段はこの時代の社会にはありません。
”過去を遡る”という概念が薄かった時代にまして個人の過去に遡る事等到底物理的にも無理で、其処に家柄、身分の流行が出てきた訳ですから、信頼できる系図などたどる事は現実無理な事です。
当然、菩提寺等を保有していない氏は作成は困難です。また檀家寺に過去帳が存在しても、まともな「院殿居士」程度の戒名が無ければ到底無理な事なのです。
そうすると”如何するか”ですが、自然の摂理の「人の知恵」が働きます。
個人の自己満足や見栄に対するを目当によく似た幾つかの系譜をつなぎ合わせて、その繋ぎ目に架空の人物を入れて「繋ぐ方式」を採るのです。架空人物が難しい場合は逆の事をします。一人物を系図から抜くのです。「抜き方式」で繋ぎます。周りが知らないのですから余程の事でないと文句は言えません。
酷い系譜では北九州の有名豪族に関西の有名豪族を一人の架空人物を一人か二人入れてそこから出た様な系図を作り、それを北海道の氏の系図にする等のものがあるのです。
これではどちらの氏も文句が言えません。過去に架空の人物が存在したのかもその2つの氏は到底判らない事ですからね。
これで系図が出来ますが、しかし明らかに次ぎの要素で矛盾が出ます。
家紋、宗派、菩提寺、戒名の方式、仏壇、墓形式、地理、氏分布、歴史的仕来りに縛られた部分の社会習慣を代えられませんので、矛盾が出るのです。
豊臣氏や徳川氏等の搾取偏纂の系譜がその典型的な見本です。この2氏も朝廷と揉めた有名な事件が起こっています。そこで水戸光圀などはより正しい主要氏の「大日本史編集」等に動いたのです。
現在でもこの様な業者が現存しますが、歴史研究して雑学を知り調べるとこのトリックが判るのです。
さて、系譜系図の信頼性に付いて特記しましたが、話を戻します。
このことを念頭に於いて以下のことをお読みください。
ここで、更に、上記の名籍争いは元一族であった1と2の間で争いと成ります。
江戸に入り関東の2の方から関西の1の方に対して青木氏の正式名籍の異議申し立てを行います。
後勘に問うとして1の方が発祥源として2に対して反論を行いませんでした。
恐らくは、1の方は正式な系譜である事から判っているのですが、2の美化した系譜に対して反意を持ちます。当然に1と2は同じルーツであるのですが、他方いずれかが系譜を作る際にその先祖の処を間違えた或いは変えたのではと考えます。
この史実の後勘から観て、明らかに甲賀の上山氏が正しいもので、丹波の方はその経緯を美化してルーツを作ったもので、佐々木の由来から調査すると2の方に矛盾が生じます。
その最な所として、家紋から考察しても佐々木氏側には揚羽蝶は完全に矛盾するところです。
つまり、近江と滋賀の賜姓佐々木氏と近江と滋賀の賜姓青木氏も皇族賜姓族ですので、全く反対の源氏を含む賜姓族の綜紋の「笹竜胆紋」だからです。揚羽蝶紋は平家紋です。
恐らく、5世持通の時には1と2は同じであったと考えます。5代後辺りから変化して行く事になったのです。
特に、2の関東派の2つの流の方で大きく移動遍歴の歴史を持った事から変化して矛盾を起こしたことに成ります。
「丸に揚羽蝶」の家紋が正しいとすると、丹治氏系と青木氏分家奪取を2が系譜編纂の時に隠したことを意味します。
実は、何故この様な説明を上記でしたかと云う事ですが、示されたお家の系図にはこの現象が起こっています。
これが9代目の近江守護の5世青木持通までの経緯と、5世持通以後の貞景(検証要 後記)までの経緯です。
約120年程度のブランクがありますが、系譜としては1の資料で説明すると明確に埋ります。
注釈
お答えには、この間の経緯の系譜は末裔が厳然として存在しますが、資料は公的にしていないものです。故に個人情報の域を脱していませんので、記載する事は出来ないのです。
ただし一部の名を書く事だけを致しました。
そこで、お家の系図作成に関しての下記の様な疑問点が幾つかあります。
これ等の点を解決して系図を向後の為にも編集し直す必要があるのではないでしょうか。敢えて進言いたします。
依って、折角ですのでその問題点を敢えて青木氏である事を理由にご指摘いたします。
疑問1
矛盾する3つの流れの青木氏を繋いでいる事です。上記123の流を繋いでいる事です
当然に、まず大きな矛盾である家紋が異なります。
家紋の持つ意味はその氏の伝統そのものですから、これが異なると云う事は「違う」の意味を持ちます。
青木貞景の一族は明確な別の流れの独立した武蔵の丹治氏系青木氏です。皇族青木氏です。
家紋は「富士山に霧紋」です。「揚羽蝶紋」では有りませんし、まして丸付き紋でも有りません。
丹治氏系青木氏の中で富士山紋は多い家紋です。
つまり、この3の先祖で江戸初期に丹治氏系青木氏の麻田藩青木一重流と同族でもあります。
この者は元は丹治氏系青木氏で武蔵国足立郡青木郷に住し、その後、信州に移動し徳川氏の家臣と成ります。この一族の末裔が青木貞景でこの娘が有名な「華陽院」で、家康の祖母である事が通説(検証要 後記)とされています。そのために家康は幕府を樹立した時に、一時豊臣に味方したにも拘らずこの青木一重に摂津1万石を与え麻田藩を作った程です。その一族の弟の一族にも四千石を与えた程です。
上総の青木氏と丹波、甲賀、滋賀の青木氏は元は同族である筈ですが、5代後には変化していますので違和感が沸きます。先ずこの事をお調べに成る事を無お勧めします。
又、家紋と連動している情報として提供されていませんが「宗派」もお調べ下さい。
宗派は検証の大きな要素です。
持通の資料から観て、甲賀、滋賀、丹波、伊賀にも豊臣方に味方した大名2名の青木氏末裔が居ますが、少なくとも、この内の一つが1のルーツの末裔であると見られますので、お家は2の上総に移動した兄弟の2人の内の一人の末裔と成ります。
疑問2
この一族は元上山氏で武蔵の丹治氏の末裔で、その家紋はその中の一つの「丸に揚羽蝶に木文字」紋です。ところがお家は「丸に揚羽蝶紋」としていますが、丹治氏が使う家紋は全て副紋を併用しているのです。これには家紋の仕来りがありまして、賜姓青木氏、藤原秀郷流青木氏、嵯峨期の詔に基づく皇族青木氏等の高位の氏は、先ず丸付き紋を使用しない仕来りで、更に、副紋方式を採用しているのです。
皇族賜姓族青木氏は副紋も使いません。つまり全ての皇族氏との血縁を図り血族を保ち血筋を護る方式です。飛鳥の時代から天皇家を始めとして同族血縁を主体としていたのです。
「たいら族」の「桓武平氏」は皇族の血筋を引いていますので原則丸付き紋を使用していません。
この「たいら族」の「桓武平氏」の丸付き紋があるのは「未勘氏」と云いまして、そのルーツを証明する証拠が無いか、確認出来ない氏で殆どは搾取偏纂の氏です。
賜姓青木氏と賜姓源氏の笹竜胆にも丸付き紋がありますがこれも未勘氏です。
ともあれ、皇族青木氏の丹治氏系青木氏は確かに「たいら族」の血筋が入っていますが、皇族青木氏側の方を名乗る以上は矛盾が生じます。依って「武蔵7党」の丹治氏は特別に丸付き紋を使用する代わりに副紋併用方式を採用したのです。
男系、女系の何れかに「たいら族」の血筋が入っているのですが、恐らくは女系であると観られますが、本当の家紋が副紋と成る事を意味しています。
揚羽蝶紋は「綜紋」(一族代表紋)として扱いをしています。家紋掟から女系である事から丸付き紋にした事に成ると観られます。
ところがお家の場合はこの副紋が有りません。また、本来無い「未勘氏」の丸付き紋です。これは疑問です。
疑問3
青木持通は1の流ですが、お家は2の流です。この青木持通を先祖とする根拠は120年程度の空間があるにも拘らず、何故、この青木持通に辿り付いたのでしょうか。辿り付いたとするとそれなりの根拠があるから辿り付いたのでは有りませんか。辿り付いたとするとこの120年のブランクは無い筈ですね。それが判らないと云う事は疑問です。
相当に青木氏と佐々木氏と丹治氏の3氏を学術的に専門的に研究しないと、この元上山氏に辿り付けない筈です。まして、江戸期の頃の系図では無理である筈です。
この疑問から、徳川氏の詳細は専門では無い事から他説が無いのかを確認していましたが、岡崎市の史跡説によれば広忠の母方は別人の説を採っている様に伺えます。ある程度納得できます。
この根拠はこれ等の疑問が解けない事によるのではないかと推察します。何れ多少の疑問が残るものですが、かなり決定的な疑問ですので。
筆者は華陽院は青木貞景説と記憶していましたが、もし違う事と成ればお家の系図は全て霧散します。
つまり、系図の作成時期、作成者、作成方法、作成の資料根源元が問題に成ります。
その為にも作成に関わる人、時期に付いて疑問を持っていました。この件も如何ですか
疑問4
実はお答えに時間が掛かったもう一つの理由は、この点の確認をしていたのですが、インターネット上に”豊臣氏と徳川氏に関わった青木氏”のサイトに示された系図と一語一句全く同文のものが出てきました。お家が運営されているサイトでしょうか。それとも資料を引用されたのでしょうか。
これも何時ごろかこの系図を作成されたご先祖の人と時代と時期を教えて頂きたいと思います。
疑問5
ご提供された主な情報では次ぎの事に成りますが、
水戸学の藤田東湖の墓地の向かい側に青木家の墓地
家紋は丸に揚羽蝶です
五輪の塔の建立
青木近江守持通五世
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
青木筑後守若年の時江州を出て、駿州に来り。
今川氏に属し後三州に住す。天文元年十二月卒
六十九歳。
筑後守は江州−駿州−三州 今川氏に属すとありますが、三河から上総に何時移動しているのでしょうか。移動の経緯が判らない事、今川氏から松平氏に変わった経緯が判らない事です。
何故上総のお家に繋がったのでしょうか。
この1と2と3の青木氏から観ると織田氏と豊臣氏と松平氏と徳川氏とその家臣団に成りますが、隆道成る人物は三河で終わっていますので上総までへの経緯証明は必要です。
ここで家紋とルーツの異なる貞景の人物に隆道を結び付けている様に見られます。
即ち上総の2の青木氏に無理に繋いでいる事に成ってしまいます。
1500−1700年代で観ると、上総の青木氏は明白に資料から1の別れの2の一族の一人につながっているのですが。又、上総の青木氏は他に藤原秀郷流青木氏も結城付近に多く分布します。
この文章から、お家の系図は後作りである事が判ります。
天文期、永録期の事を記述していますので少なくとも1600年頃以降より水戸藩家臣としていますので、系図が書ける時代と成りますと、寛永期の1650年代の第1流行期か、1750年以後の「寛政の重修諸家譜」を使った可能性があります。
従ってこの資料を使って系図を作れる時期としては第2流行期の1800−1850年頃の幕末期と成ります。或いは、明治初期の苗字令、督促令の後の第3の流行期かでありますが、文章から観て第2の流行期と観られます。
疑問6
筑後守と記していますが、若年の時とは、広忠1526-1549、隆道1463-1532 若年としては1478年頃滋賀を出た事に成ります。今川から三河で仕官すると成りますと1500年頃仕官したことに成ります。娘の婚期は最低1505年頃に水野氏 1535年清康没 広忠10歳の頃に事件追放 その2年前に没、1530年頃前にこの青木氏はどうしたのでしょうか。続けての仕官は無理で浪人と成った筈です。
死の直前で浪人、では子孫は如何したのでしょうか。
更に、この1478年頃の時代の筑後守は守護名ですから、この時期はまだ流行しました江戸期の金品で買える一代限りの官職ではなかった事から守護が勝手に土地を無は離れる事は不可能です。
この疑問も起こりますが、この官職名は何なのでしょうか。
又、1478年と言う事に成りますと青木持通の近江守護は1412-1416 その後は美作守と成っていますが、62年後ですので持通は生きているか次ぎの子供の代(美作守)と成ります。
続けて安頼の時まで美作守を務めます。次ぎの代の関東に移動した長男の時に家康に仕えて天正12年で無官と成ります。
しかし、お家の系図から計算すると生1463-1532とすると「孫」と成りますが筑後守は如何観ても疑問です。お家の系図では孫なら系譜は判る筈です。持通が判り孫は判らないと云う事は疑問です。
持通の系譜(代毎に追記方式)から観て時代120年と行動に疑問があります。
後からこの様な史実の経緯がありながら判らなかったか、無視したかでよく起こる現象です。
これ等の点を検証をお勧めします。
さて、次ぎのご質問に入ります。
ご質問3
清康公御室廣忠公御母堂永禄四年八月四日逝去
廣忠公の誕生が代永六年四月二十九日或いは
天平四年という情報があるのですが、事実は
何年でしょうか?
徳川氏の事ですので良く判りません。
ただ、この清康と広忠の有名な事件(守山崩れ 1535)から観て、華陽院は1560年没とすると広忠は誕生は1526年で没が1549年の23歳か24歳と成ります。
天平4年に付いて天文4年では有りませんか。阿部氏に保護されながら、没は信定に追われて伊勢や遠州など各地を転々としましたが、1549年没ですから1535年だとすると14才と成りますね。若すぎます。1526年が正しいと思います。
ご質問4
我が家の系図では永禄四年八月四日逝去と記載されて
いることから産後まもなく死去したと言うのは当たらないない
と考えるのですが?如何なものでしょうか?
広忠のことを言われているとして、産後と成りますと広忠が信定に追放される事は起こり得ないことに成ります。ご質問が華陽院の事を示されているのであれば、生1492年から没1560年ですから広忠は1526年ですから水野氏の妻から清康の後妻に入ったとして34歳の時の子供であり納得できる年数ですから”産後間もなくは”はおかしいと思います。(検証要 後記 広忠は別の子供の論調)
ただ、華陽院の広忠の子供説は松平信貞の娘説もありお家の系図の年代と異なる可能性もありますね。信貞の娘として云っているのではないでしょうか。
広忠は清康の別の室の松平信貞の娘の子供とする説ですが、実孫の説が岡崎市史編にありますので通説通りに一概に云えないのではと思います。
又は清康1535年没と貞景1532年没と広忠1526生が近似していますがこの事を云っているのではないでしょうか。
ご質問5
何処に埋葬され、墓地はどこにあるのでしょうか?
どのようにすれば墓地の場所がわかるでしょうか?
貞景のことですか、華陽院の事ですか、それとも広忠の事ですか
青木貞景がお家の先祖とするならば、武蔵の丹治氏系青木氏とするならば、このルーツのお家のご宗家の菩提寺をお探しになり、そこに過去帳がありますので確認した上でその菩提寺に聞かれてはいかがでしょうか。
この様な家柄であれば「菩提寺」の氏寺が必ずある筈です。
華陽院であれば、清康の後妻として没した訳ですので、清康の祀られているお寺の三河松平氏のご本家の墓の横に「女墓」がある筈です。その「女墓」に平石が建てられていて、そこに松平氏本家の妻を含む室も関わった代々の女房達の戒名を列記しています。その中に掛かれている「院殿居士」による「・・華陽院殿・・大姉」とある筈です。「女墓」です。
華陽院の戒名に3つの内容を読み込んでいますから、この戒名を解きますと生き様の一部が読み取れます。
ある高位の家柄の場合は墓の祭祀の仕来りがあり、格式があり普通と異なる墓方式です。
徳川氏、松平氏には独自の一族だけを祭祀する菩提寺が各地にありますので、三河岡崎にある筈です。そこの「女墓」にあります。
松平氏や徳川氏の墓では一族に関わった女性は別に祭祀され、「女墓」とよばれるものがあります。
又、それを探される事と一族代々に関わった女性(妻、室、妾)は「比丘尼寺」(びくに)と云う寺があります。そこに全て収容されて社会と隔離され一生尼僧として先祖を祭祀する様に成っていますので、其処にも葬られています。
”三河松平氏の菩提寺”で岡崎市に聞かれては如何ですか。
それにお家のご先祖の戒名もお調べに成るとお家の家柄も判り証明できますのでお勧めします。
ご質問6
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
青木筑後守若年の時江州を出て、駿州に来り。
今川氏に属し後三州に住す。天文元年十二月卒
六十九歳。
疑問6
先ずこのご質問6の事で疑問があります。
御家の系図の説から隆道即ち貞景(1532)が没するまで、上記しました様に青木持通(1412−1416)からすると120年程度がお家の家系図にブランクがありますね。
又、この情報があるインターネットでは全くの同文で書かれていますが、この貞景がご先祖とお判りになるのであれば、持通までの6−8代程度のご先祖が判らないのは何故なのでしょうか。
この系図を作成する時に当然にご先祖の誰かがこの系図作成を専門家に依頼した事に成ります。
つまり、私資料からすると貞景が隆道とするところが不明です。
何故、隆道の別名があるのでしょうか。
仕来りでは武士の場合は中級以上は4つの名がありますが。
ブランクになった時点で私資料の襲名と俗名と違う名の継承が途切れた事を意味していると考えますが、何か理由があるのでしょうか。その為に貞景成る人物に系図を宛がえたと云う事ではないのでしょうか。
疑問7
その証拠にお家の系図には青木氏に関わる官職名がありませんね。時代と家柄から観て大疑問です。
「青木・・左衛門尉・・貞景・・」と成るはずです。系譜があるのであれば不思議です。
武士とりわけ五輪の塔を有する系譜は全て書くのが仕来りですから。せめてもし、高禄を持つ氏の旗本であれば、最低は一代限りの官職名を付けるのが普通です。特に青木氏は「民部尉」の階級が着きますが付いていますか。寛永の歴史書1615と寛政の歴史書1800には必ず官職名が書かれています。
そこで、これらを検証する為に「五輪の塔」を有するのであれば。お家の五輪の塔の石質を知りたいのですが。これで判断が出来ます。時代で仕来りから石質が宗教上の理由で異なるのです。
又、お家の宗派が判りませんが判ると尚判断が付きますが。
また、更に仏壇形式が五輪の塔を有する武士の階級で判別できますが、お家の仏壇は何形式でしょうか。
上記インターネットサイトでは貞景=隆道と書かれていますが、他には公的な資料サイトではこの名は出てきません。ここも疑問点です。
注釈
「五輪の塔」は先祖が死亡して先ず仮の木の大きい塔婆を建立します。5年後本墓を建立します。この本墓が法事が終り後に50年経つと先祖墓の五輪の塔に収め直します。
普通は3代までを祭祀します。50年経過して五輪の塔が建立されるまでには実際は60年以上かかります。依って50年経過の先祖が2代3代と成りますには100年以上の1世紀に成りますので普通の氏ではまず五輪の塔がなかなか出来ません。この仕来りから観て明治期から観ると五輪の塔を建てられる氏はやっと今ごろに成ります。
江戸初期の氏発祥は段突で、長期もその枝葉が拡大して氏発祥はどの時代のものより大きいのです。
そうすると、明治前江戸期では江戸中期前の氏がやっと建立できる計算に成ります。
殆どの氏は江戸初期から中期前が発祥に成りますので五輪の塔がある氏は古い氏と成ります。
この事から、氏家制度の社会習慣や氏の仕来りもありますが、有無如何が名籍と成ります。
そこで、お家のご先祖は江戸初期に関東上総に来たとすると、そこで氏は近江関係とは切れていますので新たな発祥となり、五輪の塔がやっと建てられるのは江戸中期ごろに成ります。
水戸藩藩士は家臣と成るのには殆どがお家の様な青木氏より新しく発祥した氏の事に成りますので、五輪の塔が江戸末期頃に成ります。
水戸藩士集団墓地と成りますと、仕来りも大きく働きますので勝手な事は身分家柄から出来ない事に成ります。だから余り見当たらないことに成ると思います。
同じ事から、当然にも系譜系図の作成もこの中期以降でなくては作れない事を意味します。ですから寛永の頃、寛政の頃に歴史書が作られこれを元に多くの氏は系図を作り始めたのです。
当然に江戸初期前の系譜と成れば、繋ぎの系譜や抜きの系譜の搾取偏纂が必然的に起ったのです。
青木氏等の上記する賜姓一門や藤原氏一門の古い氏は自らの氏寺の菩提寺や氏神社を自力の高い経済力と武力で自らの一族が住職神職を務め管理運営していましたので、五輪の塔のみならず過去帳から系譜系図がしっかりとしていることに成るのです。合わせて。、室町期初期から「2足の草鞋策」を採っていた事から可能に成る事なのです。
ですから、宗派は系図と共に連動して信頼の於ける要素と成ります。
筆者の本件に関する上記した1から4までの私資料はこの背景にあります。
これ等の内容は研究室のレポートの中に記述されていますので後日ゆっくりとお読みください
参考
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の弟に青木隆吉(又の名:青木六左衛門)
が記載されています。
貞景の妹には、近江蒲生郡の六角氏に仕えた蒲生左衛門大夫高郷(氏郷の曾祖父)の妻となった者がありますが、その子が「梵純」として母姓を名乗って青木玄蕃允とする者が居ますが、この者は伊勢に住しています。筆者の先祖と氏郷と玄蕃允とは大きくかかわりのある人物です。
又、青木六左衛門は筆者の先祖の伊勢青木氏の者で、8代将軍吉宗の享保の改革を実行するために、吉宗が伊勢加納家に育てられたのですが、この加納家と血縁を繰り返している伊勢松阪の950年も続いた紙問屋青木長兵衛の者を招き江戸に同行させます。
納戸方や勘定方の重役を務めましたが同姓同名ですね。
「五左兵衛門」であると上総に移動した弟(高頼)のルーツには襲名名としてあります。
「六左兵衛門」はその意味で江戸に移動した伊勢青木氏のルーツの襲名名ですが、青木氏のこの時代の襲名名が同じと云う事には釈然としません。
江戸には6つのルーツの青木氏と21氏の青木家があります。
水戸には藤原秀郷流青木氏が多く定住しているところです。恐らく水戸家臣の中に居たと思われます。又、華陽院の妹の嫁ぎ先の蒲生氏とも伊勢青木氏は付き合いを深くしていました。この蒲生氏の末裔の青木玄蕃允も伊勢青木とは付き合いがありました。その様な事から貞景の研究はしていました。
その意味で驚きました。青木氏サイトに上総家臣との青木氏の歴史を遺したいと考えていますが、逆質問で申し訳有りませんが上記の疑問点にお答え頂けませんでしょうか。よろしくお願いします。
このお尋ねは他の青木さんにも観てもらって歴史の雑学を高めて頂く為に詳細に当時の慣習も加えて記述していますので、お答えが忌憚無くして記述して長く成っています事をご理解ください。
お答えが遅れました事をお詫びいたします。
念の為に、系図をお作りになった時点の情報の錯誤で系図に疑問がありますが、丹治氏系の上総青木氏である事は間違い無い事です。平成の大修正もいいと思いますが。
本文は急いで記述しましたので誤字や説明不足などありますので、修正しながら投稿しますのでご留意ください
では、また逆質問のお便りやご説明でご不明な点があると思いますので、ご質問頂きます様に御願い致します。
。
> 私はルーツが知りたくて、書き込みました。
> 父も祖父もルーツにあまり興味が無くて、私に何も言わずに他界しました。
> 私は、自分のルーツに興味があり先生のホームページをみて、私の青木氏としての
> ルーツに興味を持ち、書き込みました。
> わたしの知る情報としては非常に少ないのですが、わかる範囲で教えて頂ければ
> 幸いです。
>
> 祖父の姓=青木
> 祖母の姓=丹治
>
> 家紋 丸に三つ柏
>
> 全国の青木さんが集う青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
サイトには青木氏に関する事をレポートとして沢山準備しています。
膨大な資料ですのでゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
読み終わりますとアマチュアに成りますよ。
さて、ご質問頂きました内容ですが、確かに少ないですね。
祖父の姓=青木
祖母の姓=丹治
家紋 丸に三つ柏
他に、宗派、土地柄、など教えてください。
では、先ず、祖父、祖母では大正時代の人と考えますが、明治以前の人の氏名はお判りになりませんか。
これではルーツを検証できません。
明治までの人であれば役所の戸籍簿で完全に判りますよ。
特にその前にご本家を探し出す事が必要です。ご本家しかルーツを辿る事が出来ません。
ご本家が見つからない事は明治以前のルーツを持たない氏、つまり、「第3氏」と成ります。
ご本家の菩提寺が発見できれば「過去帳」がありますのでご本家が見つけられます。
明治以前の庶民は本来氏名を持っていませんでした。
明治3年苗字令と明治8年の督促令で、社会体制が江戸時代前の氏家制度から自由な契約社会に代りましたので、武士を除く農工商の庶民は氏名を急に持つ様に成りました。
当然に、ルーツを辿る氏名が有りませんので江戸時代以前にはルーツはありません。
その様な社会慣習の概念が無かったのです。勿論、墓も有りません。
”何々村の何助”だけで、庄屋の人別帳程度のものしかなく戸籍簿は有りませんでした。
武士は、菩提寺か檀家寺が氏名でその先祖を「過去帳」というもので管理されていましたので、最も古い氏では大化期まで遡る事が出来ますが、普通は室町末期か江戸初期までです。
武士は国民の1割程度ですから、ルーツを辿れる人もこの程度です。
先ず一つ目の青木氏は中大兄皇子(天智天皇)の第6位皇子の647年まで遡る事が出来ます。
「皇族賜姓族」と云います。29氏あります。
もう一つの青木氏は890年頃まで遡ります藤原秀郷流青木氏で116氏あります。
次に、室町末期、江戸初期、明治初期の3期動乱期に発祥した「第3の青木氏」があります。
ここで青木氏は嵯峨天皇がこの青木姓を皇族以外に名乗ることを禁じる詔を発しました。
明治8年まで原則護られましたが、上記の3期には下克上、戦国時代の中で庶民が立身出世でこの禁令を無視して皇位の家柄の「青木氏」を名乗ったのです。
明治期は上記の通り、姓の持たない者に維新政府は進まない命令に対して土地の豪族の氏名を真似て名乗る様に強力に指導しました。
ある日、当然郡や村全体が家柄の良い氏名の青木氏などの名乗ると云う現象が各地で起こったのでした。しかし、これ等の明治期の第3氏又は江戸期の未勘氏には宗派や過去帳や戒名や仏壇などはまねして変更する事が出来ない為に判別できます。
それはそれなりにルーツを持つと云う事では長いか短いかの問題ですから、問題ありませんが、本来は全国8000の氏の中で、青木氏に関してだけは、朝廷が認めた皇族賜姓族5家5流29氏の青木氏と朝廷が母方が藤原氏で血縁している藤原秀郷流青木氏主要5氏116氏が本青木氏となり、他は朝廷かの禁令に従わないので「第3氏」と「未勘氏」と呼ばれています。
この「第3氏」はルーツを持ちません。「未勘氏」は系譜が作成されていますが歴史的にそれを証明できない氏(殆ど搾取偏纂)となります。
詳しい事はレポートをお読みください。
さて、お家の”祖母の姓=丹治”に関して大正期のものですが、この丹治氏は関東の氏で上記の皇族賜姓族で、丹治氏から嵯峨期の詔の青木氏が平安中期に出ているのです。
「丹治氏系青木氏」と呼ばれています。上記の29氏の一つです。
この丹治氏は、平安中期に朝廷内で罪を犯し武蔵国に配流となった「多治彦王」が現地で子孫を遺したもので、後に放免となり朝廷に帰りますが、「多治彦王」から子孫が「丹治氏」と成ったのです。
お家の祖母の姓=丹治はこの氏です。武蔵入間付近に多く定住しています。
この「丹治氏」が皇族からの子孫を理由に「青木氏」を名乗り「皇族青木氏」と呼ばれます。
祖母さんは丹治氏で丹治氏系青木氏では無いようですが、祖母側の江戸期の国は何処ですか。武蔵の埼玉ですか。
この埼玉の入間は藤原秀郷の領国で、入間を中心に横浜神奈川を半径に円を描く様に秀郷流青木氏は入間の宗家を護っていました。
祖父に関しては江戸期の土地柄などが判りませんので、上記のどの青木氏に当るかは判りません。
土地柄、宗派、ご江戸期頃の本家の判明、菩提寺の有無、過去帳と戒名の有無、又は檀家寺の過去帳の最も古い人、その人の戒名、ご本家の維新戸籍簿、で調べられます。
どれか一つでも判れば大方は上記のどの氏の青木氏かは判りますよ。
少なくとも土地柄と宗派で判ります。曾祖父の方の土地柄で判ります。
家紋ですが、上記の明治期の時には家紋も同じ様に真似ることが起こりましたので、家紋だけでは判りません。これも土地柄と宗派で判別できますよ。
この家紋のことに付いては「神職紋」ですが、研究室の「青木氏と血縁族」(家紋)の九番目の柏紋をお読みください。ご質問や不明な点がありましたら、お尋ねください。
では、お判りになりましたらお便りお待ちしています。
私はルーツが知りたくて、書き込みました。
父も祖父もルーツにあまり興味が無くて、私に何も言わずに他界しました。
私は、自分のルーツに興味があり先生のホームページをみて、私の青木氏としての
ルーツに興味を持ち、書き込みました。
わたしの知る情報としては非常に少ないのですが、わかる範囲で教えて頂ければ
幸いです。
祖父の姓=青木
祖母の姓=丹治
家紋 丸に三つ柏
はじめまして。
青木正明と申します。
現住所は静岡県三島市加茂39-2に在住です。
本籍は茨城県水戸市です。
家紋は丸に揚羽蝶です。
墓地は茨城県水戸市内にある水戸徳川の藩士のための
水戸常磐共有墓地内にあります。
水戸学の藤田東湖の墓地の向かい側に青木家の墓地が
位置しています。
青木家の墓地には昔の古い五輪の塔があります。
共有墓地の管理人によれば、共有墓地内には五輪の塔
が建立されている墓地は他にないそうです。
従って、家格、身分の高い家柄であると教えられました。
現代ではお金を出せば、誰でも供養塔を設けることが
できるが、当時は五輪の塔の建立は勝手に設けること
は許されなかったことから家格が判明するそうです。
青木家の系図は
青木近江守持通五世とあり
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)から下記のように
始まっています。
青木筑後守若年の時江州を出て、駿州に来り。
今川氏に属し後三州に住す。天文元年十二月卒
六十九歳。
教えて頂きたいのは青木近江守持通から青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)
に至るまでの抜けている部分です。五世とあるから五世代その間に存在すると
いうことになると解釈しているのですが、如何なものでしょうか?
また青木近江守持通に関する史実及び青木近江守持通に至る経緯が分かれば
教えて頂きたいと念じています。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の弟に青木隆吉(又の名:青木六左衛門)
が記載されています。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子には
女子(名前の記載なし)として下記の記載があります。
清康公御室廣忠公御母堂永禄四年八月四日逝去
次の質問ですが、
廣忠公の誕生が代永六年四月二十九日或いは
天平四年という情報があるのですが、事実は
何年でしょうか?
清康公御室廣忠公御母堂は廣忠公の出産御まもなく
なくなっているという情報もみうけられます。
我が家の系図では永禄四年八月四日逝去と記載されて
いることから産後まもなく死去したと言うのは当たらないない
と考えるのですが?如何なものでしょうか?
何処に埋葬され、墓地はどこにあるのでしょうか?
どのようにすれば墓地の場所がわかるでしょうか?
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子(次女なあたる)には
女子(名前の記載なし)として下記の記載もあります。
松平善兵衛信正妻
信正の子善兵衛正親其子善兵衛康安は元亀三年叔父青木
四郎兵衛吉継と共に遠州二又城を守る。其子善四郎正朝
後壱岐守に任す。六千石を賜い水戸中納言頼房郷に附属
せらる。其弟志摩守重成五千石を賜て兄と共に頼房郷に附属
せらる。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子青木吉継
又隆重 四郎兵衛初名又四郎遠二股城代を命せられ元亀三年
十二月二十二日同国味方原合戦に討死四十三歳
*徳川家康嫡男岡崎三郎信康の寺 清瀧寺(天竜市)に墓があり史跡となっている。
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子隆員
青木権十郎
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の子青木泉良
法印権大僧都
青木隆道(又の名:吉道或いは貞景)の女子
伊豆の守義勝妻
以下省略
以上宜しくご教示いただきたくお願い申し上げます。
青木家の系図を検証しながらより完成させていくことを希望しています。
次回は明治時代の早い時期にある事件が起こっています。その件に
お伺いいたしたいと思っています。先代の時に水戸市役所の史跡編纂係りから
資料を求められたことがありましたが、残念ながら...
氏名: 青木正明
青木正照さん 今日は。 始めまして。
全国の青木さんが集う青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもこのサイトが盛んに成ります様にご協力の程お願いします。
尚、正照さん専用の投稿欄を此処に設けましたので、以後Reで此処からお便りを頂きます様にお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、ご先祖の情報では次ぎの様に成ります。
長慶天皇に仕えた。
ご先祖の方のお名前は青木新左衛門秀頼と言う人
ご先祖の国は三河国宝飯郡音羽村
ご本家筋が青木丹生大明神を祭祀
東海道赤坂の宿の旅籠 大橋屋
家紋は鷹の羽紋
では、先ずご家紋の鷹の羽紋の青木さんの件ですが、「青木氏と血縁族」(家紋)の11番の「鷹の羽紋」のところの一番目に記載していますよ。
又は、家紋掲示板の「鷹の羽紋」のところにも同じものが記載しています。
更に、青木ルーツ掲示板にも昔同じ親族一族であった鷹の羽紋の方からのお便りも沢山頂いていますので掲示板の検索でお調べください。
この際、「違い鷹の羽紋」も支流一門ですので縁者と成りますので同じくお読みになってください。
この「鷹の羽紋」類の一族は藤原秀郷一門361氏の中でも「家紋主要8氏」の一つで、秀郷一門主要5氏に続いて大豪族です。
そこで、結論からお家のルーツを先に申し上げます。
高い確率で間違いないと思います。
藤原秀郷流青木氏の一門です。
この藤原秀郷流青木氏の一門の事は「青木氏氏 研究室」の藤原秀郷関係のレポートをお読みください。
レポートは膨大と成りますので、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
一応此処ではそのレポートを容易にご理解頂けるためにお家のルーツの概容を記述いたします。
お家のご先祖は、武蔵国入間を中心に横浜神奈川を半径とする円内を領国として栄えた藤原氏北家筋始祖秀郷一門の青木氏です。
そして、この藤原氏は4家(北家、式家、京家、南家)ある中の最も栄えた一門で、鎌足から8代目の人物です。平安時代初期に関東で「平の将門」の独立動乱を平定した二人の一人で、貴族と武蔵国と後に下野国をも領国として与えられた人物です。
この時、貴族に成りましたので秀郷の宗家は武力を使えません。そこで、第3子の「千国」なる人物に一族を護る護衛役を任じます。そして、朝廷に申請して嵯峨期詔の禁令である天皇家の者が下族する際に使用する氏名の「青木氏」を名乗ります。
藤原氏は母方で天智天皇から始まった第6位皇子に与える賜姓氏名の皇族賜姓青木氏と血縁である事から、特別に許されます。
皇族賜姓青木氏は天智天皇から始まった伊勢青木氏と、続いて天武天皇、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の4代の天皇の近江青木氏、信濃青木氏、美濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流の第6位皇子の皇族賜姓青木氏が発祥します。この青木氏は天皇家を守る親衛隊としての任務を与えられて臣下します。
光仁天皇の子供である桓武天皇はこの賜姓方式を中止し自らの母(高野新笠)方の氏を引き上げて「たいら族」として賜姓します。これが「国香」、貞盛から始まった後の5代後の「平清盛」と成ります。
つまり、平氏の先祖で、中国後漢の光武帝から21代目の献帝の子供阿智使王と孫の阿多倍王が17県民200万人を引き連れて後漢滅亡後に日本に上陸し、瞬く間に66国中32国を無戦制圧してしまい、そして帰化した渡来人です。
この渡来人が天皇家と血縁して、伊勢北部伊賀地方を与えられます。そして力を付けたのですが、桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこれに反対して、皇親政治を目指して第6位皇子の賜姓方式を戻します。
この時に発したのが「嵯峨期の詔」ですが、この時それまでの「青木氏」に代えて「源氏」として賜姓します。そして「青木氏」は天皇家の者が臣下又は下族する際に名乗る氏としたのです。
この青木氏一族と母方を血縁関係にある藤原氏の秀郷は同じ天皇を護衛する任務として、また藤原氏と秀郷一門一族を護る護衛集団としても認可され子供の「千国」が担当しました。
宮殿は賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏の母方同族が護る事になったのです。後の北面武士と呼ばれるものです。この時の官職名が「・・・左兵衛門」又は「・・・右兵衛門」と付けられたのです。
これにこの役目の階級「尉又は佐」を付け更にこれに「上下」を付けての4段階で呼ばれました。
お家のご先祖の「新左兵衛門」は平級官職名で青木氏に付けられた永久官職名です。
江戸時代には上級旗本、御家人が金品を天皇家に御調し一代限りの名誉官職名を獲得しました。
この結果、乱発したために明治時代には勝手にこれに真似て庶民も名乗るようになったのです。
後に、この藤原秀郷流青木氏は116氏に末裔が広がります。
この青木氏は秀郷一門361氏を護る為に宗家に代って「第2の宗家」と呼ばれていました。
お家はこの内の一つで、鎌倉幕府北条氏の時代の蒙古襲来時に北九州に宗家を護衛して赴任します。
この時、子孫繁栄のために同じく北九州一の豪族の菊池氏と血縁をします。
(「1274 1281の文永弘安の役頃」)
この菊地氏が阿蘇神社の神紋でもある「鷹の羽紋」を土地の氏子として最初に使用していた氏なのです。
ところが、その後、この菊地氏と血縁した秀郷一門の青木氏は嫡子に恵まれず、更に菊地氏から養子を迎えて血縁をしましたが、再び嫡子に恵まれず氏家制度の「家紋掟」に従い、結局、2代続きで女系に成った事から養子先の男系家紋の「鷹の羽紋」に変紋を余儀なくなり、秀郷一門の「下がり藤門」の綜紋から「鷹の羽紋」に成った秀郷一門の青木氏です。
この「鷹の羽紋」の秀郷一門の青木氏が、北条氏の鎌倉幕府滅亡前後のこの北九州から1340年頃に武蔵国の領国に戻ります。24の地方に土地の豪族との間に子孫末裔を遺してきた秀郷一門の青木氏らは赴任中の宗家一門とともに一部を残して領国に戻ります。
恐らく、帰国後、1350年頃、この時に、南北朝時代となり、藤原氏の天皇家との繋がりから「南朝派」に仕官していたものと考えられます。(1370−1383 長慶天皇)
菊地氏と家紋と南北朝と土地柄とご先祖の官職名や南朝仕官などで史実から観てどれもが極めて時代性が一致します。
約100年程度の期間から観て、お家の本家のご先祖は「鷹の羽紋」と「違い鷹の羽紋」類の発祥祖と成りますね。
この人が「青木新左兵衛秀頼」と云うご先祖であったとも考えられます。
更に、ご本家の把握と本家筋が「青木丹生大明神を祭祀」の史実は、藤原氏母方血縁の天皇家のつながりのある2つのルーツの「青木氏」が「皇祖神」として大化期から伊勢青木氏の守護役であった伊勢神宮の「明神信仰」を行っていた事の史実も一致します。後に室町時代から江戸時代に掛けて、この「神明信仰」は「お伊勢参り」で有名に成ります。
恐らくは、経緯から観て、お家のご先祖一門の何方かがこの宮司を司っていた事もあると思います。
藤原秀郷一門の中で神明の宮司は大変多いのです。藤原氏は春日神社が氏神ですが、この中でも母方皇族系の青木氏である為に、この青木氏だけは神明(明神)社の宮司、祭祀の役目を荷っていたのです。
そして、更には三河国として愛知から静岡(駿河)にかけて藤原秀郷流主要5氏一門(青木氏、永嶋氏、長沼氏と長谷川氏、進藤氏)が定住する地域で、中でも、鎌倉期から室町期にかけては横浜神奈川地域からこの地域西圏に勢力を伸ばしたのです。
主要5氏の中でも「青木氏」と特に直系の親族である「永嶋氏」は「関東屋形」の3氏と呼ばれて、青木氏の保護を受けて関東の最大豪族となって勢力を伊勢の付近まで勢力を伸ばしました。
依って、この地域には藤原秀郷流青木氏が青木村まで形成して多く定住している主要な地域なのです。
故に紀伊半島とその以西にはこの「鷹の羽紋」と支流の「違い鷹の羽紋(浅野氏)」が多いのです。
お家はその「鷹の羽紋」とその支流の「違い鷹の羽紋」が多く存在する西端の愛知付近にあたり、その主要一族であることに成ります。このことも史実に一致します。
「東海道赤坂の宿の旅籠 大橋屋]に関しては愛知県豊川市にある現在も続いている大老舗で日本一老舗で有名ですね。聞いたことがあります。武家であったと云う話をうっすらと覚えています。
ご先祖の国は「三河国宝飯郡音羽村」ですから、音羽村大字赤坂郷は今の豊川市ですね。
真に額田郡青木村や岡崎の青木村に近くその権域にある秀郷一門青木氏が最も多く住んでいた所ですね。
その土地の赤坂村に1600年頃からの老舗ということですが、ご本家の始めた時期がよく判りませんが、上記の事からも考えて平安期からの藤原秀郷一門の土地の豪族であった事がよく理解できる事柄です。
商い創業期が室町時代から始めて江戸時代に入ったとあれば、神明の事も含めてその頃の力を利用して室町期末期の戦国時代かにご先祖は「2足の草鞋策」を採ったのではと考えます。その後江戸時代手前で大商い(旅籠等)に主力を置いたと考えられます。
その理由はこの頃(1550−1600)から「神明信仰」で各地に神明社が立て始められた時期で、そしてその「お伊勢参り」としてブームに成り始めた時期でもあります。その流行は明治初期まで続きました。
当時の豪商はこの時期にこの「2足の草鞋策」が殆どでよくある事でした。
この事に付いては証明する情報が今有りませんが、確率高く予想できる事と思いますが、何らかの一寸した情報が有りましたら確定するためにもお知らせください。
この愛知の青木さんに関しては、この地域は上記しました経緯から、幾つかルーツを持つ青木さんが存在します。これ等の事は詳しくはレポートに記述していますが、概ね、次ぎの青木さんに成ります。
皇族賜姓伊勢青木氏 西端域
藤原秀郷流青木氏 中央から東全域と信濃より全域
皇族賜姓美濃青木氏 北域の美濃より
皇族賜姓信濃青木氏 北端上の信濃より
皇族賜姓足利氏系青木氏 北端下の信濃より
伊川津7党の青木氏 愛知やや中央より西域(愛知の土豪集団 美濃青木氏の末裔)
(地名/地形データーベースに愛知の青木村を表示しています。)
西加茂郡青木村、
丹波郡青木村、
豊田郡青木村、
渥美郡青木村、
額田郡青木村、
岡崎市の青木氏
秀郷一門青木氏の青木村は以上の6つの村が有ります。
お家はこの2番目の域に定住していた青木氏だと考えられます。
次におうちのルーツを調べるにはお一人の情報探求の能力だけでは現在ではなかなか難しいと思います。それほどに多く資料が遺されていませんのでかなりの雑学から研究する以外には無いと考えます。
お便りから観て正しい情報であるかを確認する術を保持していないのではと思います。
殆どが江戸時代前後の残された書籍は家柄誇張などの理由から搾取偏纂の書籍が多いからです。
そこで、ご本家がお判りであるのなら、ご本家の家紋の詳細、過去帳、氏寺、ご本家筋の維新戸籍簿、宗派、仏壇、古物品、戒名などを先ずお調べになり、それをお尋ねしていただければ、サイトで正しい専門的な検証のお手伝いをさせて頂きます。分家からのルーツの検証探求は無理であります。
そうする事で専門性の雑学史実からの検証が可能に成ります。
その前に掲示板などの本サイトとのレポートをお読みに成る事でルーツ探求の判断力が付き、より解決に向かいますよ。
兎も角も、上記したルーツ概容がお家のルーツだと思いますが、そこでご質問等が有りましたらお尋ねください。更に検証の確率とより詳細なご先祖を発見する事が出来ますよ。
ではお便りをお待ちしています。
青木正照さん 今日は。
”Re:愛知の青木について ”は別の方の専用投稿欄と成っていますので、新たに正照さんの専用投稿欄をこちらに設けます。(代理投稿しました)
次回からはこちらから投稿をお願いします。
[No.748] Re:愛知の青木について
投稿者:青木正照 投稿日:2010/09/23(Thu) 01:45:21
たまたま我が家の家紋を正確に知りたくて、ネットで調べていたらこのサイトに行き当たりました。
同じ愛知の青木でもルーツは異なるようですが、非常に懇切丁寧に回答されていたので、思わず私もお尋ねし
てみたくなりました。
私の先祖は、長慶天皇に仕えていた青木新左衛門秀頼という人で、長慶天皇が身罷られた後に故国三河に帰り
、宝飯郡音羽の里で余生を送ったとされています。
その本家として、青木丹生大明神(祭神は月夜見尊・多治比古尊・雅日女尊・高野御子大神です)を祀ってい
るのは、東海道赤坂宿の旅籠として、今も営業してみえる大橋屋さんです。
私の知っているのはこの程度の知識ですが、このサイトで紹介してみえる家紋の中には、我が家の家紋である
鷹の羽は出て来なかった様に思いますが、何故でしょうか。
また、私が知る青木新左衛門より前の歴史については、どの程度まで遡って調べられるもので、何を調べれば
分かるのでしょうか。
どうか、ご教示の程よろしくお願いいたします。
> こんにちは、つたない私の質問にここまで真摯にお答えいただき大変恐縮な思いです。
>
> 搾取編纂、やはりそうでしたか。
>
> 余談ではありますが、やはり現在でもルーツという縦のつながりをどこか自身のプライドのようなものとして認識していることが私にあることが伺えました。(現況はともかく)「うちは武家の出身」だと聞くと慢心し「農民だった」と聞くと落胆する、それの何が自分に影響するかなどといえばほとんどないにもかかわらず、です。歴史的な有名人や英雄がそのルーツに含まれていれば、自分まで少し偉くなった様な気がする。
> 昔も今も大して変わらないのかもしれません。
>
> 私が子供のときから実際に親から伝え聞いたことは、おそらく件の系図を基にしたものですから、長沼→永沼になったという記述が証明できないわけですね。
> だとすると、私がもつ資料からは何も出てこないと考えるべきですね。
> これは、大きな収穫といいましょうか、親族一同この系図を信じているので複雑な気分です(笑)
>
> そもそも武家出身説を補強する物的材料に長刀と短刀が数本祖父の家にあったからでありまして、無論その刀の年代を考察するには至っていないわけですが、祖父あたりの前戦時中に兵隊(仕官)として出たという話はありませんのでそれより古いものだということは確かです。これは一度改めて確認したいと思います。(第一、軍刀を二本差しなどしませんもんね)
>
> 家紋はよく珍しいと言われるのですが、菱に五本骨扇です。葬儀屋が父の葬儀のときに家紋のデータがないといって、現場で風呂敷を参考に自作しておりました。
>
> 福岡の水巻には永沼の姓が多く残っているとも聞きました。関係はないかもしれませんが福岡の重文として永沼家庄屋家屋というものが京都郡みやこ町犀川本庄 にあります。
>
>
> 藤原系から外れたとなると、もはや青木さん系列からも外れた結果になるかと思われ、手前勝手ですがこれもご縁と取っていただき、しばしお知恵を拝借できればと思います。
永沼さん 今日は。
ご返事をお読み頂けましたか。ありがとうございます。
青木サイトでの参考とするお答えですが、参考になれてよかったと思います。
さて、国民の九割は庶民で明治初期前のルーツを社会慣習から持っていません。
そもそもそう云う概念がなかったのです。又、社会もその必要性を持っていませんでした。
ですから、明治期の契約社会になった事から国民全員がその必要性に迫られたのです。そこで、1割の氏がいると羨望が生まれるは必然です。
しかし、有るものが無いのではなく、無いものが無いだけです。九割の人が。
論理的に辿りたくても辿れないのです。辿るためにはファクターとして経時的に氏名が必要です。
これはファクターの一つの墓も同じです。家紋も同じです。必要ないものを持つ必要も無かったのです。
宗派もある意味でその一つとして成り立っていたのです。
限定された3密教の宗派だけがファクターと成っていました。
心の持ち様は個人の責任の範囲であり個人の資質の範囲です。何時の世も。
ただ、武士であったからと云って良い悪いの問題では無いと思います。
武士であったからと云って氏や家紋や墓や宗派を持っていたのは中級以上の武士階級で、やや持つ様に成ったのは江戸の中期ころからの事です。
武士であったから良かったと云う事では有りませんでした。ただある程度の経済的幸運が保証されていたことだけの話でその必要とする伝統を維持するために命をかけることが頻繁であったからです。
武士の嫡子はよくっても後の嗣子は薄幸です。中には抹殺されるか僧になるか養子になるかの宿命しか有りませんでした。
世襲の中で氏を形成しないと武士としての支配権が獲得できないからで、その立場に居た中級武士の立場だけでした。氏家制度の中に、農工商の民は組み込まれていたからに依ります。
氏が構成する国が潰れればそこの民も潰れると云うシステムです。
私などは農工商の方が良いと思います。今でも伝統を維持する苦労は大変ですよ。それに苛まれて。
さて、珍しい家紋、宗派、明治期までのルーツ、地理的な事から本ルーツの永沼氏では無い事は間違いはないと思います。ただ、明治期に起こった九割の庶民の苗字では土地の土豪等の氏名や家紋を用いた、又は維新政府が用いさせた大方の経緯があるからで、同じ氏名であってもルーツを持つ持たないは別です。九州に見られる長沼氏又は中沼氏から永沼氏を名乗ったとする氏は末裔を広げた事は史実があり、又その氏名を以ってして明治期にも発祥した事も史実です。
専門外ですが、恐らく藤原秀郷一門から観ると、長沼氏又は中沼氏の九州の氏は蒙古襲来で福岡一帯に一時移動して襲来に備えした時に青木氏や永嶋氏や中沼氏や長谷川氏等の藤原秀郷一門は土地の豪族の菊地氏や肝付氏や大蔵氏や佐伯氏や島津氏と血縁関係を結んで子孫を遺しています。
この時の九州中沼氏または長沼氏の一部の者が何らかの理由で「長沼氏」を名乗れなかったのではないかと思います。それで止む無く別ルーツの「永沼氏」を名乗ったと観るのが筋で、その現存する「庄屋の永沼氏」の場合はその末裔ではないかと推測されます。恐らく、この場合の多くの場合は妾子であって宗家本家から氏名や家紋使用の許可が出なかったのではないかと推測します。
又、刀等の古物はその時に多くは自己の明治期の氏名を証明するものとして準備した事の流行がありました。系譜も作るなどの事の職業としてあり、金を出して頼めば家紋、系譜、刀、古物、氏名など全て準備するものが流行ったのです。寺や神社や専業者が連携してありました。現在でもあるのです。
ですから、当時の人は余計に家柄を意識しその様な口伝を遺そうとするのです。
しかし、氏寺、菩提寺、宗派や過去帳や戒名や墓、仏壇等、伝統古物までは代えられないことから矛盾が生まれて見破れるのです。
ただし、氏家制度の中で、政治的、経済的、地理的なその掟の中では庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商だけは別です。多くは中級以上の支配武士階級以上であったからです。農民でも氏の伝統を持ちえていたのです。大変な思い押して伝統を護っているのです。元は平安期からの多くは豪族であったのです。
それが下克上の焼き討ちや戦国での敗退で退きました。
ですから、歴史的に観て庄屋等が永沼氏であるからと云ってそうでない永沼氏はそうであると云う論理は違うのです。
この様に過去の事には歴史的史観があります。
判別手段
そこで、刀の件は前回のお答えに書きましたが、黒田藩を含む北九州地方又は薩摩藩を含む九州全体は「農兵制度」を採用していましたので持っているのです。秀吉はこの刀狩をしてこの農兵制度を禁止しましたが、これ等の藩は守りませんでした。明治維新の立役者「鎮来さん」は伝統ある農兵ですよ。ですから幕府を倒したのです。上記の件かこの事の何れかです。歴史では刀だけではさして証にはなり得ないのです。家紋などの異なる永沼氏を名乗っている経緯から「農兵」であったと考えます。
その村や郡の農兵を取り仕切っていたのは「庄屋の永沼氏」で、戦いに勝つと農兵には永沼氏等の氏名や家紋を使用を許したのです。黒田藩などは秀吉から天皇家の桐紋の使用を許されていましたので、これを褒美に村人の農兵には特別な場合に於いて(祭祀、式典、登城、墓紋)桐紋の使用許可を与えたのです。誉を助長させたのです。
この桐紋は秀吉が頻繁に大名に与えたので、その全国の授与大名は又家臣や農兵に限定許可しました。全国に桐紋が多いのはこの理由なのです。
この様に歴史史実による雑学私観の判断が必要になるのです。ルーツ解明には。
其の他、判断が確実に出来るものとして、家紋を含む、氏寺、菩提寺、宗派や過去帳や戒名や墓、仏壇等、伝統古物を証しとして調べられるように。
先ず、戒名は3つの意味合いを含ませて寺は作りますが、その家柄身分で戒名の作りが異なるのです。一目瞭然で判ります。
過去帳の有無は九州ですので残っている筈です。下克上の嵐があまり起こりませんでしたから、江戸中期のご先祖の戒名が存在するかで決まります。
宗派はお家の場合全国氏の家紋8000の中にも有りませんから永沼氏の氏を構成するほどの大きさではない極めて小さい氏である個人家紋のことを意味します。
大きい氏は氏家制度ですので氏寺までとは云えませんが一定の決めた氏の菩提寺を持っていて一族の仏を一箇所に定めて祭ります。
墓の形や石でも判りますよ。花崗岩の墓石では明治以降の墓になります。江戸期の墓石は仏教の決まりでこの石は仏が安住して眠れないとの戒めがあり使用していません。多くは砂岩や泥岩から作ります。自然に戻るという教えに基づきます。
ご宗家に近い本家が判別できれば維新戸籍簿に詳細に記述されています。
墓処に付いては時期が問題です。江戸中期頃のもので、墓石の件は勿論、輪塔がある事です。
仏壇にはその身分家柄に相当する宗派の仏壇が置かれています。
伝統の年代古物には検定では難しい専門域ですがそれなりの歴史的背景の意味を持っています。
何はともあれ、如何なる口伝を護るもそれはそれなりに意味のあるところであり、それをどう扱うかはその口伝を聞いた者の如何で、ある意味で宿命です。それの扱い方です。信じるも良し信じないのも良し黙認するも良しその取り扱いに自己の度量の如何によるものと思います。
しかし、一面伝統あるも地獄ですよ。その人物の心得如何と成ります。
お答えは常に青木氏のサイトを青木氏の歴史資産として管理するに必要とする責任と考えています。
史実を遺して青木氏の人の責任に於いて史実を全てに明確に網羅せんとしています。それを「伝統」としてその生き様を振り返る事を後世に委ねて遺しています。
何か有りましたら、何なりとお尋ねください。青木氏に関わらず忌憚なくお答えします。
こんにちは、つたない私の質問にここまで真摯にお答えいただき大変恐縮な思いです。
搾取編纂、やはりそうでしたか。
余談ではありますが、やはり現在でもルーツという縦のつながりをどこか自身のプライドのようなものとして認識していることが私にあることが伺えました。(現況はともかく)「うちは武家の出身」だと聞くと慢心し「農民だった」と聞くと落胆する、それの何が自分に影響するかなどといえばほとんどないにもかかわらず、です。歴史的な有名人や英雄がそのルーツに含まれていれば、自分まで少し偉くなった様な気がする。
昔も今も大して変わらないのかもしれません。
私が子供のときから実際に親から伝え聞いたことは、おそらく件の系図を基にしたものですから、長沼→永沼になったという記述が証明できないわけですね。
だとすると、私がもつ資料からは何も出てこないと考えるべきですね。
これは、大きな収穫といいましょうか、親族一同この系図を信じているので複雑な気分です(笑)
そもそも武家出身説を補強する物的材料に長刀と短刀が数本祖父の家にあったからでありまして、無論その刀の年代を考察するには至っていないわけですが、祖父あたりの前戦時中に兵隊(仕官)として出たという話はありませんのでそれより古いものだということは確かです。これは一度改めて確認したいと思います。(第一、軍刀を二本差しなどしませんもんね)
家紋はよく珍しいと言われるのですが、菱に五本骨扇です。葬儀屋が父の葬儀のときに家紋のデータがないといって、現場で風呂敷を参考に自作しておりました。
福岡の水巻には永沼の姓が多く残っているとも聞きました。関係はないかもしれませんが福岡の重文として永沼家庄屋家屋というものが京都郡みやこ町犀川本庄 にあります。
藤原系から外れたとなると、もはや青木さん系列からも外れた結果になるかと思われ、手前勝手ですがこれもご縁と取っていただき、しばしお知恵を拝借できればと思います。
> つづきです。武田氏も青木氏のように阿波の小笠原氏、三好氏(阿波、畿内で活躍)と清和源氏義光系の同属ネットワークをたよってきたものなのでしょうか?讃岐も長曽我部氏の前は三好氏でした。現在も三好姓は近くに多いです。
> 武田勝頼土佐の会 http://katsuyori.seesaa.net/article/113340623.html 讃岐の青木さん 今日は。
お元気ですか。
早速のお便り頂きましたが、楽しく読まして頂きました。
確かに四国には伝説が多い事は驚きますね。
何故でしょうね。先ず、この疑問を解消せねばなりませんね。
思うに、矢張り、1つは陸続きでは無い事、2つは島の大きさが大きい事、3つは京、奈良に近い事、4つはそのルーツに反映する島民性、では無いかと考えています。
1から3は地理性の有利性ですね。これは段突です。
確かに多くの島がありますが、では九州は比較としてどうなのか、この地域の伝説には然程に確固たる史実性に若干疑問視される傾向がありますね。
矢張り、都から遠い事、それとルーツとする傾向又は、日本の7つの民族の融合化でその民族の構成が関西と若干違う事があり、九州の育まれる島民性が違う事が上げられます。
昔は余りに都から遠いために政治が行き届かず、「遠の朝廷」と呼ばれ後漢の帰化人の200万人の首魁阿多倍一族の末裔の大蔵氏が入国以来、無戦で納め朝廷は「錦の御旗」を与えてまで「信任統治」してきた島です。
ですからなかなか、都と関連した伝説が地理、島民性、政治性などから生まれ難かったと考えられます。
しかし、この四国は適度に地理性に恵まれ、政治性にも、住民の種属性でも良い関係にあった事から伝説化が丁度良い環境に合ったと考えられ、そこに育まれた4の島民性が伝説のみならず平均的、標準的な環境にあった事から、特に、その人の生き様としての伝説にはその土壌が大きく占めていたのではないかと常々思っています。
例として、坂本竜馬と西郷隆盛の比較にある通りに。種族性の違いから島民性が異なり、だからこの2人のマッチングが明治維新の改革がなされたものと思うのです。竜馬のような人物の所以ではないでしょうか。
昔、これ等の事に疑問を持ち、大分前に若い頃に研究したことですが、既にレポートしている「日本民族の構成の研究」レポート投稿していますが、現在はこれは既に遺伝子的に学問的証明が成されています。
私は、四国にはこの「民族構成と地理性」が伝説化を促したと考えています。
飛鳥、奈良時代前、奈良時代から室町時代までの四国の氏の構成から観るとその「多くある伝説の真偽性」が高いと見ています。
先日のお便りの「若宮」や「神明」や今回の「武田氏」、当然に「藤原氏」やその「青木氏」や「源氏」や「平氏等」の事も考えると四国の伝説は歴史研究の宝庫となります。
例えば、その一つのきっかけは足利氏系青木氏や武田氏系青木氏の土佐へ導いた史実が、この讃岐籐氏の青木氏らの保護から出たなどとする結論はこの推理から研究して検証されたものです。
讃岐の青木さんのお考えの通りと思っています。
これは故に伝説が伝説を生み、又昔の人はその伝説に引き込まれて四国に渡ると云う連鎖が起こっていたのだと思っているのです。
そして、その伝説の結果から、上記した「地理性」と「古来からの島民性」が尚更マッチングしたと考えています。
例えば、平家の落人の多くはこの四国に逃げ込んだのもこの事からであり、本来ならば、平家のルーツの九州に逃げ込む筈ですね。しかし、四国に大半は逃げ込んだのです。
九州には源氏の基点はなかったのですからね。最も安全で彼等の古来からの基盤のあるところであり、平家の再起は充分にあった筈です。
彼等の先祖は九州を武力制圧したのではなく、「技能」を普及伝播させて、原住民の信頼を得ての征圧なのですからね。しかし、逃亡しなかったのです。
まして、「遠の朝廷」と「錦の御旗」の政情化と、大豪族の大蔵氏と阿部氏の地元なのです。何故か不思議です。
それでも、四国と和歌山の山奥に逃げ延びた事は、当時からあったこの「島民性」と「地理性」にあったから引き寄せられたのでしょう。
村上水軍や中国を制覇し毛利氏に最後潰された陶族の彼等平家の末裔が多くいるこの四国を選んだと観ています。
更に遡れば、四国は飛鳥の始めに渡来した応仁大王(天皇)の頃の帰化人の入島と、後漢の頃の第1陣、2陣からなる帰化人の入島がある処から観ればそちらを選んだとも考えられます。
私は歴史を紐解くには、この「日本民族の構成から来る種族性」とその「土地の歴史性地理性」の雑学が最も重要だと思っているのです。基本になると考えています。
そのために「日本民族の構成」などの関連レポートを投稿しているのです。
兎も角も、その意味からこの全ての条件が伝説を生む適度な環境を育む四国であると考えます。
その意味からも、その信頼性は高いと考えます。調べてみますと、武田氏の様に伝説に近い源氏支流を名乗る氏は「未勘氏」と云いますが、最も多いのもこの四国なのです。
そこに、日本を奈良時代から凡そ桃山、室町時代まで揺ぎ無く牛耳った天下の讃岐籐氏の藤原氏とか阿波の藤原氏が定住すれば、伝説が生まれない方がおかしいと思います。
その点で私の場合は、青木氏等の歴史を研究する時、雑学として、四国の伝説を色々調べる事が最大のヒントになっているのです。
実は、その要領があり、この場合の研究は何処の国、この場合は何処と割り振る事が出来るのです。
同じ島でも、佐渡が島等にもある意味の歴史史実があるのです。雑学として知っていると便利ですね。
島でなくても国でも出来るだけ「種属性」や「地理性」を雑学しています。
以前より何時か「源氏」と「地理性」「種属性」等のレポートを取りまとめたいと考えていますが今だ実現しません。
清和源氏の分家の頼信系列の義光系が四国との関係は大いにあり、これも「平治保元の乱」の逃亡先でもありますのであると見ています。(嫡男の義家系は関東東北地方に勢力を伸ばした。)
義朝、為朝などは四国に長く滞在した記録が有り末裔を遺したとあり、更には九州、沖縄に、遂には伊豆諸島大島に逃亡して、その子孫は最後の決戦を挑んで鎌倉に船団を率いて攻め入り頼朝軍は急所を突かれて敗退する寸前に、この伊豆諸島の末裔大島氏が黒潮を3日で渡り三浦半島沖で平家水軍と最後決戦をして救った記録があります。
又機会有りましたら青木氏との関係でレポートしたいと思います。
念のために、義光流系青木氏がありまして、近江甲賀郡照養寺には義光より16代青木下野守祐清は足利幕府に仕え、その末裔青木紀伊守8万石は豊臣に使え、更にその末裔の青木新吾郎の母は武田勝頼の嫡男信勝の妾となり、この者を産み豊臣に仕えて四国に任じたと記録があります。後に家康に叙封される。この子孫が四国阿波讃岐にいる事に成っていますが、この本家は現在は甲賀に住している事が判っています。
出来ましたら、又、今回の武田氏の勝頼の末裔や信虎の末裔の様な情報が有りましたら、お便りを頂けたらありがたく、ほかの青木氏の方にも興味が湧くものと思いますので、讃岐の青木さんの可能な範囲に於いてよろしくお願いします。
今回のお便りも全国の青木さんにも楽しく読まれた事と思います。
ありがとう御座いました。
つづきです。武田氏も青木氏のように阿波の小笠原氏、三好氏(阿波、畿内で活躍)と清和源氏義光系の同属ネットワークをたよってきたものなのでしょうか?讃岐も長曽我部氏の前は三好氏でした。現在も三好姓は近くに多いです。
武田勝頼土佐の会 http://katsuyori.seesaa.net/article/113340623.html
こちらこそ、お世話になります。いつもながら、興味深く熟読させていただきました。若宮さんの件はその通りです。もっと伝説を紐解きたいと思います。あと、武田氏のことが話しにあったので、こちらの武田勝頼息子伝説を紹介します。
http://dekiya.blog57.fc2.com/blog-entry-177.html
あと、仕事先関連の高知県吾川にも、興味深い武田氏伝説があったので紹介します。武田勝頼その後の系図はかなり、信憑性は高いと思います。四国には伝説がいっぱいです。
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/keizu.htm
本文は新潟の青木さんからの訪問掲示板への投稿内容ですが、青木氏の研究資料として大変役に立つご情報を頂きましたので、別途、青木ルーツ掲示板に代理投稿させてもらいました。
来場記帳の掲示板のお便り
最近、祖母のかたみを整理していたら、長持ちに掛けてきたらしい家紋刺繍の入った布を見つけ、それが祖母の実家の紋と我が家の紋の対になっていました。我が家の紋は紋付等の家紋から下がり藤だと思っていましたが、下がり藤の中に抱鹿角が描かれており、調べてみたいと思い、このサイトにヒットしました。青木には下がり藤、鹿角も多いらしいのですが、セットになったものはあまりないようです。代々浄土真宗で昔から新潟に住んでた小庄屋らしいですが過去帳等でも江戸末期までしかたどれないようです。聖武天皇の時代に尼寺があったらしく地名や屋号に痕跡はあるのですが、今は古池があるだけです。ちなみに家には屋号がなく我が家を中心に東西南北他、夫々の江戸時代の家業が屋号になっているようです。またご近所は青木姓が多く、古くからの親戚の様です。
新潟の青木さん 今日は はじめまして。
青木サイトにようこそお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。
サイトには青木氏に関する史実研究レポートや家紋や宗教や氏家制度の社会慣習などの歴史的な考え方などもレポートしています。
膨大ですが、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
さて、お便りを読まして頂きましたが、やや少し違っていますので同じ青木さんのよしみでご指摘いたします。それもこのサイトの勉強の一つと考えています。
先ず、歴史感の3つ間違いを起こしていますね。
先ず、お家の家紋ですが、紋付袖紋では「下がり藤紋」で、(祖母方が「抱き角紋」ですか)、そして、「抱き角紋」を組み合わせた家紋との事ですが、実は来場記帳の訪問掲示板に書かれているご感想のご判断が若干違っているのです。
「下がり藤紋」は藤原北家筋の9氏が使っている紋ですが、「下がる」を忌み嫌い多くの藤原氏は「上る藤紋」に変更してしまったのです。そして、たった9氏しか使用していません。
その1氏で藤原氏最大勢力を誇った藤原秀郷一門では主に引継ぎその主要7氏だけなのです。
藤原秀郷一門は361氏もありますが、この内の7氏だけで、尚且つ、その中の総宗本家、宗家、本家筋だけが使え引き継げる家紋です。これを「綜紋」と云います。
つまり、一族一門361氏の「代表紋」なのです。皇族賜姓の青木氏や源氏等の「笹竜胆紋」の綜紋と同じです。戦う時等はこの旗印の下に集まります。
主要7氏の内、主要5氏が有名で大きく子孫を遺しました。
藤原秀郷流の青木氏は「第2の宗家」と呼ばれます。
青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏の5氏で、この「宗家本家筋」だけが引き継ぐ事ができる家紋で、何がなんでもその引き継ぐ義務があります。
武蔵入間を中心に日本全国24地方に一門は分布していますが、せいぜい20家程度です。
お家が「下がり藤紋」を家紋とすると新潟に秀郷一門の宗家筋の青木氏が居た事を意味します。
確かに新潟にはこの青木氏は青木村を形成して多く定住しています。
つまり、宗家本家筋だけが引き継げる「綜紋」です。この様に先ず理解してください。
(注 但し、下がり藤紋を家紋としている氏が多いのですが、これは明治初期の苗字令、督促令に依って名乗った庶民の第3氏です。本来はこの家紋とできるのは宗家本家だけですからね)
次に、祖母方が「抱き角紋」だとの事ですか?。
これは皇族賜姓族の諏訪族系青木氏です。
青木氏には藤原秀郷流青木氏と、母方の藤原氏で同じくし、同族系の皇族賜姓族と、嵯峨期詔の皇族青木氏との青木氏が合わせて29氏があります。
つまり、天智天皇から光仁天皇の皇子の第6位皇子が臣下して天皇より青木氏の賜姓を受け名乗った氏です。源氏もある理由により嵯峨天皇の時に、青木氏の後に賜姓族として変名して第6位皇子が賜姓源氏と名乗った氏で青木氏とは同族です。
その時より青木氏は皇族の者が還俗する時に使用する氏として他に使用を禁止し明治初期まで原則護られました。
さて、違うところは、その「綜紋」の代表紋「下がり藤紋」に、上記の「抱き角紋」を組み合わせた家紋とのことですが、ここも違います。
実は藤原氏には超豪族の為に、又各地に大きく分布している為に何処の氏で誰とかどの様な官職を見極めるためにいろいろな「掟」を作っています。
その一つに、この家紋方式の「副紋方式」と云う「組み合わせ紋」があるのです。
「下がり藤」の下に、別の家紋を書き加えて表示する方式です。
つまり、お家は藤原秀郷一門の青木氏でその綜紋は「下がり藤紋」ですが、一時、嫡子に恵まれずに男系継承が叶わず、他氏から養子縁組をして男子を入れて家系を繋いだのですが、家紋を「下がり藤紋」の下に組み合わせて「養子先の家紋」、つまり「抱き角紋」を表示する事に成ったと観られるのです。
但し、宗家、本家筋として。
例えば、讃岐籐氏の四国広島に広がる青木氏の総本家は「下がり藤に雁金紋」として使い「副紋」を藤の下に雁金紋を表示する仕組みなのです。(家紋掲示板を参照して下さい。)
つまり、6つほどある一般に使われる変紋方式は採用していないのです。
しかし、としますと、ここで問題が出ます。
一つは、「養子先実家の家紋」が「祖母方の家紋」としますと問題が出ます。
祖母先の家紋は別ではないかと思いますが如何ですか。
昔、明治期嫁入りする時は桐の箪笥長持には家紋を入れますが、この時には嫁ぎ先の家紋と相手先の家紋も付けるところがありました。
二つは、「下がり藤紋」は綜紋ですので、お家の家紋は何になりますか、(本家筋でないとすると)
或いは、そうでなければ諏訪族青木氏の家紋「抱き角紋」が家紋と成ります。
つまり、違うとして組み合わせからすると養子先が諏訪族青木氏と成っています。
この経緯は次ぎの通りとなります。
”2代続きで養子を迎えたために男系が切れ女系と成った為に、そこで氏家制度の家紋掟により変紋を余儀なくされてはじめの養子先の家紋をお家の家紋とせざるを得なくなった。”と成ります。
新潟の庄屋さんをなされていたとすると、藤原秀郷流青木氏の「宗家か本家」筋となりますので、藤原氏の掟により「下がり藤紋」の綜紋の下に「抱き角紋」を書き込む家紋としたと成ります。
宗家本家筋でない場合は掟により「抱き角紋」に「変紋」する事に成ります。
これが藤原氏の仕来りです。
実質「女系」と成ったのですから、直近の「抱き角紋」が家紋と成ります。
元の2代前は藤原秀郷一門でありながら、2代続きで養子で”養子先の諏訪族系青木氏の一族系列に組み込まれた”となります。
それでは庄屋等は務まりませんので、本家筋はこの様な「副紋方式」を使います。
庄屋、名主、豪農、郷氏、郷士、豪商は元は土地の豪族でしたので、平安時代からの古い伝統を護る為に藤原氏等の大きい氏はこの様な方式を採用しているのです。
遠縁から養子を迎える事ができなかった為です。大抵は本家筋ではこの遠縁で解決してきます。
それもできなかったことを意味します。
念のために、諏訪族青木氏は日本書紀に出て来る氏で始祖の藤原鎌足と殆ど同時期の氏です。
この信濃の皇族賜姓信濃青木氏も土地の豪族諏訪族との血縁にて発祥した氏で同じく男系にて2代続きで叶わず、「笹竜胆紋」から養子先の諏訪族の家紋「抱き角紋」に変紋を余儀なくされた氏となります。
皇族賜姓族にも掟があり、副紋等一切使用しないのがこの青木氏の方式です。
新潟の歴史的な経緯は秀郷関係のレポートをお読みください。
新潟には確かに多くの秀郷一門の青木氏が主要定住しているところです。
「地名地形データ」のところを参照して下さい。
そうすると、お家が新潟の青木氏の本家筋である可能性が出てきます。
宗派が浄土宗、又は真宗で江戸期には庄屋さん、「抱き角紋」との血縁等から当時の氏家制度の社会慣習から十分に考えられることです。
(庄屋は元は土地の豪族の武士で鎌倉期か室町期に農民になった氏が殆ど)
そうでなければ、「下がり藤紋」は「綜紋」ですのでお家には「独自の家紋」がある筈です。
新潟の庄屋さん筋等であったとすると本家筋である可能性が大です。
問題は、一番目の祖母方問題の疑問ですが抱き角紋とは異なるのでしょうか。
秀郷一門の青木氏は116氏あります。秀郷一門では361氏、この内の最大勢力を誇っています。
「第2の宗家」として最大の軍事力を以って護衛団として始祖秀郷第3子の千国から始まった青木一門として361氏を取り締まっていました。
この青木氏は24地方に宗家(貴族)の護衛として常に同行したので、掟により各地に分家子孫を遺してきました。この24地方に定住した本家筋がこの家紋方式の副紋が使える掟なのです。
これで何処の藤原氏でどの氏と血縁しているかも判る仕組みです。
新潟の本家筋の存在が当然に予想されますし、諏訪族青木氏との血縁は身分家柄の血縁のつりあいは十分に考えられますが、当時、皇族賜姓族で同族系の血縁をしていましたので、他に史実も有り可能性があります。ただ、男系ですので、明治初期の直前の母方の家紋組み合わせには疑問が残ります。
直前まで男系継承を護ってきたこともありえますが。
これ等の事は研究室の関係するレポートに全て網羅していますので、お読みください。
左メニューの地名地形データなどにも新潟の地名もあります。
実は、もし、家紋の時代性から観て、「抱き角紋」が血縁者であると、次ぎの説が新たに出てきます。
信濃から新潟に信長に追われて信濃の諏訪族青木氏は一部が新潟に逃げた事が考えられるからです。
現在までの史実の記録では、横浜、神奈川、栃木に逃亡して生き延び諏訪族系青木氏の3氏の子孫を大きく拡げています。ですから、この2つの地域には諏訪族系青木氏が定住地として多いのです
そこに、「新潟」と成りますと、充分有り得ることです。
むしろ、研究では地形、地理、親族関係から観てこちらの方が数段に得策ではないかと不思議に思っていたところでした。
新潟には、藤原氏母方の同族で藤原秀郷流青木氏と進藤氏と藤原利仁流進藤氏が定住しているところですから、「抱き角紋」の皇族賜姓族諏訪族青木氏が信濃の諏訪から距離的にも近いこと、信長の勢力の及ばない藤原秀郷一門と利仁一門が勢力を張っているところにも手が出せません。
第一に武田勝頼はこの地方の勢力に逃げ込もうとしたのですからね。最高の条件である筈です。
つまり、興味の湧く2つの事が発見できた事になります。
新潟の藤原秀郷流青木氏の本家筋が発見されたこと。(庄屋筋が物語ります)
皇族賜姓族の諏訪族青木氏が逃亡先として選んだ史実が発見される事
この2つの可能性があります。勇気百倍また研究を続けてみます。
地名地形データでもお判りのようにはっきりと史実記録で新潟には幾つかの青木村が形成されている事はわかっています。(平安の朝廷の決まりで特定の村は勝手には形成できない)
お便りには、若干間違いがありましたが、ご指摘させて頂き、何よりも疑問に思っていた事の上記2つの発見資料が掴めた事が驚きでした。
青木ルーツ掲示板などに新潟から多くの青木さんからお便りを頂いて可能性を高めていました。
研究はしていましたが、きっかけがが又掴めました。
ありがとう御座いました。又何か有りましたらお便りを頂けますように。
専門的な用語を使っていますが、上記の事柄は全て網羅させています。
それでは青木氏のレポートをゆっくりとお読みください。
レポートなどにご質問、ご不明な点などありましたら、又是非お便りをお願いします。
永沼さん 今日は 始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
青木サイトには青木氏とその関係する氏に関して研究レポートしています。
確かに、長沼氏と中沼氏に関して藤原秀郷流青木氏を含む藤原秀郷一門として詳しくレポートしています。このことを参考にされたと思います。
さて、早速ですが、ご質問に入りますが、お家は「永沼氏」ですね。
実は、長沼氏と中沼氏は同一氏である事が研究から判っています。
しかし、この過程で「永沼氏」の関係も同じ氏なのかを調べました。
実は、「長沼氏、中沼氏」とはルーツが別である事が判っています。
この藤原秀郷一門の長沼氏は「永沼氏」を江戸以前の確かな歴史的資料から確認出来ません。
しかし、、この「永沼氏」もはっきりとルーツを確認出来るのです。
結論から、申し上げますと、「永沼氏」は「織田氏族系永沼氏」です。
そこで、この「永沼氏」には2つの別のルーツが存在します。
一つは、上記した織田氏系の「永沼氏」、もう一つは島津氏族系中沼氏の「永沼氏」です。
島津氏系中沼氏の中に「永沼氏」を名乗った者の一族があります。
しかし、この「永沼氏」には時代性に問題が若干あり疑問です。
確実に信頼できる「永沼氏」は「織田氏族系永沼氏」です。
先ず、織田氏は家紋からも地理からも平家一門です。
織田氏の先祖は「たいら族」の平氏の支流末裔です。
北条氏などの「ひら族」の第7世族の坂東八平氏とは異なります。
後漢の渡来人の阿多倍王の末裔の国香から始まり貞盛より出世して5代目の清盛までの賜姓の桓武平氏系です。
詳しくは研究室の阿多倍関係レポートを検索してお読みください。
この平家一門の信長より17代前の「親真」から始まった氏で、丁度この「親真」から17代目が「宗康」が「永沼氏」を始めて名乗っています。
「永沼左馬進」からです。始祖となります。
これは確認される歴史的史実です。
ここでお気づきと思いますが、「信長」と17代で同じですから祖父が兄弟と成ります。
そこで、可能な範囲まで系譜を記述しますが、個人情報が絡みますので、この「永沼氏」の始祖の所までのものとします。
親真−権太郎新基−孫太郎−太郎兵衛行広−三郎太郎兵衛末広−三郎基実−三郎四郎広村−三郎右衛門真昌−次郎四郎常昌−助次郎常勝−次郎兵衛教広−次郎兵衛常任−三郎弾正左衛門勝久−弾正左衛門久長−三郎伊勢守敏定−彦次郎定宗−「永沼左馬進宗康」
信長は三郎伊勢守敏定−弾正忠信定−信秀−信長となります。
さて、この「永沼左馬進宗康」の始祖が全国の永沼氏となります。
お便りの藤原秀郷一門からは出ている事に付いては搾取偏纂の結果です。
明治初期又は江戸末期によく行われたルーツを持たない者、わからない者が専門業者に作ったもらったもので、その特長として、突然分派の人物を作り出しこれに別のルーツを貼り付ける手法です。
この種の系譜は全てこの手法に従っています。
お説のとおり突然分派して永沼氏のルーツが出来ている事に付いては、史実がありながらも、このパターンに一致します。
さて、お家がこの「永沼氏」であるかは先ず江戸期以前の氏家制度と封建社会の仕来りから、国の移動は自由に出来ません。不法の「国抜け」は一族郎党の斬罪を受けます。
依って、先ず地理的な問題も出てきます。
この「永沼左馬進宗康」の始祖は明治初期まで主に岐阜と愛知一帯に分布する一族でした。
この付近には、藤原秀郷流青木氏と藤原秀郷流永嶋氏が分布する地域です。
お家のお国は、”慶長五年、私の直系である九州福岡の筑前遠賀郡伊佐座村(現在は水巻町あたりだとおもいます)の永沼にたどり着きます。”と云う事ですと、当時の社会慣習から、時代と掟が一致しませんので、恐らくはお説の通り農民であったと考えられます。そして、明治3年苗字令と8年の督促令の強い指導に基づき何らかの環境と理由にて「永沼氏」を名乗ったものと思われます。
とすると、「永沼左馬進宗康」の始祖のルーツとは異なる事に成ろうかと思います。
一つは、島津氏族系の一部が何らかの理由で名乗った「永沼氏」の系列が覗えますね。
この2つのルーツ確認には、「ご本家の維新戸籍簿」と「氏寺の菩提寺」か「檀家寺にある過去帳」をお調べに成ればすぐに判る筈です。お家の「家紋」もお調べになってください。
また、前者の「永沼氏」と後者の「永沼氏」の「宗派」は異なります。お家は何宗ですか。
前者は浄土宗又は真宗 後者は主に臨在宗、曹洞宗系列の宗派となります。これ以外も明治期の「永沼氏」と考えられます。
明治以前は氏家制度の社会慣習で、この様な身分家柄により仕来りが決められていて、これから逃れる事は出来ませんでした。従って、系譜などを偏纂してもこの仕来りの矛盾が出てしまいます。
ご質問のお答えとしては他の確認要素を見る前に矛盾がありお説の通りと思います。
現在、お家の仕来りとの違いを確認されると直ぐに矛盾点がこの「永沼氏」のように出てきます。
ただ、明治期以降に、この「永沼左馬進宗康の始祖」の末裔が明治期以降に移動してお国に子孫を遺したとも考えられます。福岡の筑前遠賀郡伊佐座村がそれに当るかは不明確ですが、この2つの確認をなされれば村のことも判りますね。
ただ、例外として明治以前にしても、この地域には下級武士から立身出世して秀吉に取り立てられた黒田藩の移動により「永沼左馬進宗康の始祖」の末裔が兵庫播磨地域から住み着いたことも考えられます。黒田藩は家来を少なくし「農兵制度」を採用していましたので、農民でも先祖が氏名を持っていた事もあるのです。それが明治初期に名乗った事も史実として残っています。
農民であったとしても、この村が昔どの様な歴史を持つ村であったかもお調べになる経緯も判る事にも成ります。
恐らくは推測ですが、ご先祖が書き残したものを考慮に入れるとすると、この説が妥当な所ではないかとも思えます。だから、何とか伝え聞いたことを思い出し系譜を作ろうとして無理に継ぎ足しの系譜が出来上がったのかも知れません。
大変、この福岡付近、黒田藩付近には「兵農」を主体としていたのでこのパターンが実は多いのです。下級武士の兵で農民で、農民であって兵であったとするのが殆どです。
多くは、普通は庶民は家紋や墓紋は持たないのですが、戦いの勲功として黒田藩から貰った無秩序に成った天皇家の桐紋を戦いの褒美に与えて使用を許されそれを明治後に家紋や墓紋にしているのです。
これには一つの特長を持っています。
先ずは一度のこの村での上記の調査をされると直ぐに判りますよ。
ルーツの調査は雑学が大いに役に立ちます。この歴史知識が元になります。社会の時代の体制が異なりますので判断には注意してください。
例えば、士農工商の士を除く庶民9割は氏を形成するなどの明治初期以前のルーツの習慣がありませんでした。
氏名、家紋、墓などは江戸より前の時代には無かったなどの雑学が必要になります。
ただ、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は苗字帯刀を許され、元は武士が殆どで、または「2足の草鞋策」を採用しています。
ご不明な点やご質問がありましたら、都度ご遠慮なくお尋ね下さい。青木氏はルーツ解明にご協力いたしますよ。
はじめまして、このたび実家から家系図(といっていいのでしょうか)古い和紙で綴られたボロボロの書物が出てきまして、文字や書かれた文章を見る限りそれほど古いものとは思えませんでした。
残念ながら私が古文に明るくないもので解読はいまだ試みてはいないのですが、とりあえずとは思いインターネット上で書物に載っている古い先祖からを調べてみましたところ、こちらのサイトにたどり着きました。
たしかに、表題に「長沼系図」とありまして」最初の始祖様は天御中尊寺とあり、そこから藤原秀郷、宗政(長沼)となっているところまでは、別段気になるものではありませんでした。
ただここから実際に「永沼」にたどり着くまでには「駿河守藤四郎 宗干」から突然分派(ほとんどの系図では筑前守 政忠 石川氏で切れています)し、持宗にはじまり、讃岐守 宗春、光寛、をへて源右衛門(永沼彊三郎)となり、ここで初めて永沼の姓が出てきます。年代はそのまま読めば慶長五年、私の直系である九州福岡の筑前遠賀郡伊佐座村(現在は水巻町あたりだとおもいます)の永沼にたどり着きます。
こういった系図は確かにどこまでの信憑性があるのかも解りませんし、途中で没落したせいで中央権力から農民に成り下がったのかもしれませんし、ある意味現況でも小市民的な親戚一同を見る限り、すごい家系だとは思ってもおりません(笑)
ただ、系図などがあると、過去から連綿と続いて今があるのだなと、もはや他人も同然かもしれませんが、ネット上にでもその名があるのを見つけると少しでも嬉しいものを感じます。極近い先祖に有名な書家の先生がいたという話は聞きましたが、少なくとも私にその才能はないことはわかっております(笑)
結局何が言いたいのかよくわからなくなってしまいましたが、私の手元にはこういった資料がありますが、このようなものはやはり「あとからかかれた(こじつけられた)もの」である可能性のほうが高いのでしょうか。これらを精査するにはどのあたりから調べればよいのでしょうか。
皆様のお力を少しでも拝借できればと思います。また資料的な価値があるかどうかは解りませんが、できるだけ自分でも読み解いてゆきたいと思っています。(永沼か長沼に関連される姓の方がおられましたらあわせてお知らせいただけると嬉しいです)
全国の青木さん管理人様、私事のようで申し訳ありません。不適当であれば削除していただいて結構です。
副管理人さん、
早急なご返信ありがとうございます。
凄く丁寧に解りやすく、アドバイス頂き、感激です♪
これから頑張って調べてみます。
また、
お世話になるかもしれません(*^-^*)
よろしくお願いいたします♪
> 初めまして
> よろしくお願いいたします
>
> 私の家の家紋は、深溝家の丸に並び扇です。姓は岡崎と申します。
> 詳しくはこれから調べるところでありますが、先祖は愛知県から来たと聞いております。
>
> 家紋で検索しまして、こちらにたどり着かせて頂きました
> ありがとうございます。
>
> 岡崎の姓で調べますと、藤原北家勧修寺流(分家岡崎家)と出てきます
>
> 何かしら、この2つには接点があるのでしょうか?
>
> お手数おかけして申し訳なく思うのですが、自分では全く解らず、質問させて頂きました。
>
> 詳しく調べないで質問等と、失礼かとも思いましたが、どうぞ、よろしくお願いいたします。
初めまして
よろしくお願いいたします
岡崎さん 今日は。始めまして
青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもお役に立てる事が有りましたらお尋ねください。
本サイトには沢山の資料がありますが、岡崎氏に関わる内容のレポートは用意されていません。
さて、岡崎氏に関する事は残念ですが全く判りません。
ただ、折角お便り頂きましたので、判る範囲での参考となる事をお答えしたい思います。
先ず、家紋から、「丸に並び扇」から。
お便りの三河の松平深溝氏の家紋は「扇紋」もその一つですが、この氏は数種の家紋を持っていましてどれが主紋であるのか大変わかりにくい氏です。
松平氏には多くの系列の末裔を広げています。この深溝氏の家紋は「開き扇」ですが、扇だけでも家紋でその骨の数が7本、5本、3本と区別しています。
そもそもこの扇の家紋は佐竹氏が最初に使用した家紋です。日の丸付きで。
依って、閉じ扇紋の「丸に並び扇紋」は松平深溝氏の「開き扇」とは異なります。
深溝氏は幾つかある家紋の中で本来この家紋は使用していません。
この家紋の文様を分類しますと、扇を開いた紋、閉じた紋、開扇飾り紋の3つに分類されます。
全国89の文様に成ります。
次に、藤原北家筋の勧修寺系ですが、本来、この氏は藤紋で「下がり藤」が綜紋です。
しかし、北家筋の公家中でも「下がる」を忌み嫌い「上り藤紋」に変紋した流れもあります。
藤原氏は北家、南家、式家、京家とありましたが、勢力争いの結果、北家筋が生残りました。
中でも、藤原秀郷一門の「下がり藤紋」が最も栄えました。
勧修寺派は秀郷一門とは違う北家公家衆ですが、ここから岡崎氏が出たかは判りません。
菩提寺と過去帳を調べればこの勧修寺系の末裔かは判ります。
この高藤氏系勧修寺派には氏寺の一族専用の菩提寺があります。また藤原氏の公家ですので宗派でも判ります。天台宗が主門です。お家は何宗ですか。
この一族であるかは少なくともお家のご本家筋の宗派とこの氏寺にお墓と過去帳がある事に成ります。
過去帳には戒名も書かれていますので、その戒名でも家柄が判ります。
そこに支流とされるなら岡崎氏の墓などがある筈です。この岡崎氏と江戸の頃に藤原北家筋の氏と血縁して岡崎氏を名乗った事も考えられます。
岡崎氏は私が知る範囲では上記の様な家柄の岡崎氏だけのルーツの氏だけではない事がわかります。
色々な身分家柄の岡崎氏を名乗ったルーツがあります。
兎も角も菩提寺ではなくても檀家寺の過去帳の有無と、あるとすれば江戸時代のご先祖の戒名をお調べになることかと思います。その時の戒名でもお家の家柄が判ります。
なければ下記の明治期の氏となります。
江戸以前は苗字を持たない庶民にはルーツを時経的に記録をして遺すと云う習慣そのものがありませんでした。墓所も同じで”路傍の石と成る”と云う慣習で河原の石を積み上げただけの仕来りで庶民は正式な墓所をも持ちません。
庄屋、名主、豪農、郷氏、郷士、豪商は殆どは元は武士でしたので例外です。
この場合のこともあり得ますが本家筋は殆ど「伝統」を保持しているものです。
岡崎は三河国ですので、岡崎氏を名乗るのは不思議ではありませんが、「並び扇紋」の「丸付き紋」ですので分家と成ります。
ただ、当時、直接、地名を氏にする事は相当な三河の松平氏の中でも力のある豪族であった事に成ります。そうすると徳川氏の一門としてそれなりの伝統を今でも保持しているものと思います。
先ず、考えられる一般的な事としてルーツが判らないと云う事はないのではとも思います。
現在でも氏寺の菩提寺、維新戸籍簿、過去帳などを調べればすぐに判る筈ですし、江戸時代は戦乱の世でも有りませんので直ぐに判る事かとも思えます。
もし、藤原北家筋、松平深溝氏、岡崎氏ともなれば、この3つのことは判ると考えられます。
お尋ねのこの3つには関係が有りません。
ただ、明治3年の苗字令と8年の督促令で庶民の苗字の持たない庶民の国民の九割はこの時、一斉に維新政府の指導もあり、捗らない苗字令に対して地元の豪族の「氏名」と「家紋」を使用させたと云う経緯があります。一夜にして村、郡が同じ姓に成ったと云う事も各地で起こりました。
この様な地域はその土地に豪族が存在していたところに起こっています。三河もその最も土地柄です
これを解決するには明治前の過去帳の有無、維新政府の内容(士分など明記)で簡単に直ぐに判明します。何れ3氏にしても菩提寺の確認は簡単に出来ると思います。特に愛知であれば尚更です。
先ずお家のご本家筋がお判りになる事が先ずは鍵とも思えます。
この「丸に並び扇紋」は有名な家紋で全国8000の家紋の家紋群の内の豪族であった主要「家紋200選」と云うものがありますが、その中の一つですし名氏と成ります。
ですから家紋と云う点だけから観ると、何かが引き出せることも考えられますね。
先ずは上記の3つの事はお調べに成ってください。
何か判りましたらご遠慮なくこのお家の専用の投稿欄としますのでReでお尋ねください。
初めまして
よろしくお願いいたします
私の家の家紋は、深溝家の丸に並び扇です。姓は岡崎と申します。
詳しくはこれから調べるところでありますが、先祖は愛知県から来たと聞いております。
家紋で検索しまして、こちらにたどり着かせて頂きました
ありがとうございます。
岡崎の姓で調べますと、藤原北家勧修寺流(分家岡崎家)と出てきます
何かしら、この2つには接点があるのでしょうか?
お手数おかけして申し訳なく思うのですが、自分では全く解らず、質問させて頂きました。
詳しく調べないで質問等と、失礼かとも思いましたが、どうぞ、よろしくお願いいたします。
福管理人様
早速にご返事有り難うございました。貴サイトの各ページで勉強しつつ、ご示唆いただきました事柄を少しずつ調べようと思います。仰せの「6つ」あるは「13」は、挙げてくださった「家紋、宗派、土地柄、菩提寺、過去帳、維新戸籍簿(本家)、本家筋、戒名、伝来品、口伝、言伝え、江戸期身分、ご先祖の名」の1番目から6番目または13番目ということでよろしいのですよね(お手を煩わせるのは恐縮なので、間違っている場合にのみご返事下さい。)。
また何か判明しましたらお教えを賜ることになろうかと思います。どうぞよろしくお願いいたします。
> はじめまして。東京に居を構えて4代目の青木隆と申します。家紋は丸に蔦です。よろしくお願いいたします。
>
> 『桜町治蹟 二宮先生起業地』の序文(http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758763 pp.9-10)を書いた青木浦次郎が大正時代に栃木から転居を敢行し、私はその直系曾孫に当たるのですが、浦次郎の養父(福嘉)より前の先祖のことを調べたいと思っています。
>
> 貴サイトの記事から勉強しようと思っていますが、なにしろ量が膨大なので特に重要な部分をご示唆いただければ幸いです。そのほか参考になりそうなことならば、何でもご教示いただければ幸いです。
>
> どうぞよろしくお願いいたします。
東京の青木さん 今日は。はじめまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。同じ青木氏としてこれからもよろしくお願いします。
さて、そうですね。サイトには青木氏に関する研究資料を沢山用意していますので、膨大になりますね。
そこで、先ず自分に関わる事からお読みになると良いと思います。
先ず、お家ではルーツ情報として「家紋」(蔦紋)がお判りになるのでしたら、「家紋」からお入りになることですね。その関係するレポートをお読みになり、そこからお家に関わる得た情報(例えば宗派)で更に広げてレポートを探すと云う風にして行くのが唯一の辿り付く着く方法です。
先ず、最低は、家紋、宗派、土地柄、菩提寺、過去帳、維新戸籍簿(本家)、本家筋、戒名、伝来品、口伝、言伝え、江戸期身分、ご先祖の名(例えば・・兵衛)、と明らかにする必要があります。
最低は前の先ず6つくらいは把握する必要があります。
これで推理が立ち検証する事が出来ます。
この6つが判らないと云う事は”伝統がなかつた事”を意味しますので、江戸期前ルーツは下記の理由から無理と思います。
ルーツを持つ氏は現代でも代々少なくとも本家筋はこの「伝統」を引き継いできています。
明治期のご先祖と江戸期(封建社会 氏家制度)のご先祖とは社会体制が異なりますので明治期以後の情報ではルーツは確認出来ませんし、明治期以後(自由社会)は戸籍簿で十分に判ります。
江戸期以前は庶民(士を除く農工商)は戸籍を持つ習慣(氏名)がありませんでしたので、ルーツは有りません。(特別な庄屋、名主、郷士、郷氏、豪農、豪商は元は土豪で氏名を持っていました。名字帯刀許可)
そこで、家紋がわかると成りますので、先ず、研究室に「青木氏と血縁族」(家紋)の「蔦紋」をお読みになってください。
お家は、家紋だけでは、蔦紋のレポートの7番目のところの分家筋です。そして、丸付き紋ですので、蔦紋の青木氏の4番目の所の氏の支流となります。
藤原秀郷流青木氏である可能性があります。
もし、この氏の青木氏であればレポートを藤原秀郷流青木氏関連のレポートを続けてお読みになればルーツが把握出来ます。
「藤原秀郷一族の生き方」
「藤原秀郷主要5氏と家紋の研究」
「明治以降の第3の青木氏」
これ等を確定するには、先ず上記の最低6つ、或いは13くらいの所までの情報をお調べください。
ただし、お話の情報は明治期の個人情報のものとなりますので、現在の役所の戸籍簿で明治期以降(明治3年又は8年)まで充分確認出来ます。
それ以前は士分(武士)であれば菩提寺の過去帳(江戸時代はお寺がこの役目を荷っていた)にて辿り付けます。但し、この家紋の青木氏であれば宗派は浄土宗(又は一部で真宗)です。
この家紋群のこの宗派以外の宗派では明治期3年8年の苗字令の青木氏です。
氏家制度の中では藤原秀郷流青木氏の場合は、独自に自らの寺即ち菩提寺と氏神を持っていましたので、檀家寺は即ち菩提寺となります。
お家の江戸期の地理的なところにこの菩提寺がある筈で、そこには蔦紋のご宗家の本家も丸付き紋の蔦紋の支流ご本家が存在している筈です。
それが、江戸期での足利か真岡となるのかをお調べになる事となりますね。決め手になる大事な情報ですね。足利となると別の意味が出てきます。
その時にお答えします。
書かれている大正期のお家の個人情報からでは先ずは200万人もの個人の情報と成るために把握は物理的に困難ですので、明治期前のお家のご先祖の過去帳の把握が絶対に必要です。
蔦紋は新しい家紋群ですので、最終f江戸初期まで辿りつけます。そして、三河、駿河国に辿り付けます。
丸付き紋で分家支流ですので、江戸中期(享保時代以後)までと考えられますが、丸の無い蔦紋のご本家を見つけ出す事が必要です。
明治半ばに「郡長」をされていてこれだけの序文を銘記されたとすると、。(特別な庄屋、名主、郷士、郷氏、豪農、豪商であったか)何か上記の6つの情報は持っていると思うのですが、兎も角も、丸付き紋の支流の直系ですと、この家紋ですと、江戸中期から明治期前までのご先祖となる筈です。
念のため、この栃木には抱き角紋の諏訪族青木氏が多く定住している地域です。
上記6つの情報が取れないととなると明治期3年8年の苗字令と督促令の青木氏になることも有り得ます。
上記の情報が少しでもお判りになれば、ご指導いたしますのでお気軽にお尋ねください。
次第に氏家制度の社会習慣でそのルーツを検証する事が可能になります。
先ずは、研究室の指定するレポートを読まれた後に上記最低6つの情報からお調べください。
では、お便りお待ちしています。
参考
二宮尊徳氏の先祖は滋賀二宮氏で平安末期−室町期からの古い家柄で、家紋を抱き茗荷紋としている。この二宮氏と血縁した青木氏がある。
「青木氏と血縁族」(家紋)の「抱き茗荷紋」参照
以下の業績は昭和前半の教科書に記載されて勉強した有名なものである。校庭の最たるところに薪を背負い本を読む姿の二宮尊徳像が何処の小学校にもあった。
戦前に生まれた者としては最も徳の得た人物として教えられ、本偉業も教えられて知っている。
関係するので下記に複写する。
序
近世の偉人二宮尊徳翁小田原君公の命に依りて野州物井桜町に赴任し居を桜町陣屋に占めその地の開拓に従事し具(つぶさ)に辛酸を嘗(な)め桜町及び真岡東郷に留まること30有余年の久しきに至り偉人二宮翁の活動史を飾れる後半生の波瀾起伏は悉く此の時代に在りしなり。
翁来任の当時上官の圧迫、奸民の反抗、惰民の悪風滔として物井四千石を風靡し随って築けば随って破られ数年に亘(わた)れる幾多の辛酸は偉人翁の如きに非んば到底忍ぶべからざるものなり。
況んや此の間に立って不眠不休住民の指導誘掖至らざるなく怨みに報ゆるに徳を以てし人民を懐柔してその企画を遂行す。
偉人翁の如くに非んば到底為し能(あた)わざる所のものなり。
野猪(しし)の害を除き荒地を開墾して良田を作り水利を図りては灌漑を便にし排水を湿地に設け田畝(でんぼ)を開き交通に治水に民舎の団体的移転等において至便至利なる施設に基き総て実際的農業本位を以て根本と為し来れり。
翁の耕地を整理するや、その設計の画一にして規模の広大なる真に後世農政家の依て以て範と為すべきもの多し。
その道徳の方面に至りては質素勤倹分度推譲等身を以て之を示し凶歳積穀法を設け飢饉の厄を免れしめ延(ひ)いて他地方の窮民を救助し貯蓄を奨(すす)めて事業発展の資に供しその人を訓誨する卑近の例を取って平易に之を諭す。
遠近翁の仕法に則り翁の徳を慕いてその門下に集まるもの百人に上れり。
翁の徳化の及ぶ所深くしてかつ大なりというべし。
余職に此の郡に在ること久しく翁の興復せし物井四千石を過ぐるごとに翁の勧農政策の上において風教改善の上において著しき成功を為せしことを追想して止まず。
常にこの翁の起業の地における大功業を成就せし旧蹟、報徳教の生まれし霊地につき記述の少なきを遺憾とせり。
然るに今や本書の成る。
誠に余の心を得たりというべし。
想うに本書に依りて翁の治蹟を発揮し報徳の趣旨を一層普及せしめ一面においては殖産興業の必須なることを切実に感ぜしむるや必せり。
即ち所懐を述べて序と為す。
明治44年10月
芳賀郡長 青木浦次郎
はじめまして。東京に居を構えて4代目の青木隆と申します。家紋は丸に蔦です。よろしくお願いいたします。
『桜町治蹟 二宮先生起業地』の序文(http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758763 pp.9-10)を書いた青木浦次郎が大正時代に栃木から転居を敢行し、私はその直系曾孫に当たるのですが、浦次郎の養父(福嘉)より前の先祖のことを調べたいと思っています。
貴サイトの記事から勉強しようと思っていますが、なにしろ量が膨大なので特に重要な部分をご示唆いただければ幸いです。そのほか参考になりそうなことならば、何でもご教示いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
> 初めまして。私は台湾に渡った青木恵範のひ孫にあたり、二郎とトヨの孫です。
> 以前に「真言宗の青木」を投稿された貴子さんとは親戚にあたると思います。なんだか嬉しくなり投稿させて頂きました。
> 母が二郎の娘ですので、現在は父方の姓なので青木ではありません。
> 昨年、青木恵範がいたという京都天橋立の成相寺に行ってきました。ご住職とお話させて頂きましたが、時代的に混乱していた時期があり、過去帳が残っていないとの事でした。家紋は母に聞けば分かると思うのですが。。
> 新しい情報でなく申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。
母方実家の青木さん 今日は。はじめまして。
大変珍しいことですね。お話の情報は以前と変わっていませんのでこれ以上何とも云えませんが、過去帳が無いとなると、
次はご本家をお調べに成り、そのご本家には位牌があります。その中の「先祖位牌」と云うものがありますので、その中に木札または戒名の書いた札がある筈です。
同時に戒名を書いた掛け軸の曼荼羅も保存されてあるかも知れません。
真言宗は密教系であるのであることになります。
更に、真言宗であれば、青木恵範氏の末裔でありますと、恐らくは高い確率で高野山に永代供養の分骨がなされている事が考えられます。その寺がどこかをお調べに成られると良いと思いますし、そこでも確認が出来ます。
何故、養子の恵範氏が真言宗に入信し僧侶になられたか、元の宗派は浄土宗か真宗かもお調べに成ればはっきりします。恵範氏から2代続けての完全な無血縁の養子縁組ですので、青木氏の家紋からのルーツの確定は難しいとも思います。
青木文重−青木弥平さんからは3代続きですので江戸時代の氏家制度の慣習から家紋掟では基本的には家紋は継承されません。
更に、戒名が明治期か江戸末期の方の戒名が「院殿居士」が付いているかを確認ください。
もし、付いているとすると、私の検証は当たっていることが確率的に高くなります。
次にその「院殿居士」の戒名はその人の生前の3つの内容を読み込んでいますので、ルーツがどのような生き方をしていたかも大方で判ります。
そのことに合わせて家紋も確認されてそのお調べに成ったことと一致するかを検証するとはっきりします。
又、ご本家の明治維新の戸籍簿を確認してください。そこにも江戸期の身分などの内容が判ります。
以上、お調べに成る別の手段をお伝えします。
判りましたら、またお便りください。
初めまして。私は台湾に渡った青木恵範のひ孫にあたり、二郎とトヨの孫です。
以前に「真言宗の青木」を投稿された貴子さんとは親戚にあたると思います。なんだか嬉しくなり投稿させて頂きました。
母が二郎の娘ですので、現在は父方の姓なので青木ではありません。
昨年、青木恵範がいたという京都天橋立の成相寺に行ってきました。ご住職とお話させて頂きましたが、時代的に混乱していた時期があり、過去帳が残っていないとの事でした。家紋は母に聞けば分かると思うのですが。。
新しい情報でなく申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。
大変詳しい説明ありがとうございます。
こうやってルーツを探ってみて、改めてこれまでの
歴史の上に現代が存在していると強く感じますね。
また新しい情報を入手できたら報告させていただきます。
讃岐の青木さん 今日は。 お久しぶりですね。
お元気ですか。
本サイトも以前より大分拡がりまして、今は他氏からもお便りを頂くように成りました。
又、サイトの内容も充実させてきましたし、青木氏のレポートも膨大になりました。
ブログもヤフーで歴史カテゴリーで厳しい審査を受けまして今やトップテンに入るぐらいに成っています。
青木氏に関係する他氏の事もレポートを致しましたので、お便りも多岐にわたりまして、長年の研究の私の雑学記憶の限界に成ろうとしています。
サイトには青木氏のテーマソングや色々なメニューも追加されました。写真館等もあります。
ある事が切っ掛けでサイトを知る事となりまして、このブログサイトからのヒントで、NHKの番組に3度も放映されていまして、常にディレクターがチェックをしているとの事です。
管理人さんもお元気でこのサイト外にも多くのサイトを立ち上げられて活躍され、現在では実家の家業も成されているとの事で大変忙しくされています。
これも、初期の立ち上げ期に讃岐の青木さんたちに支えられて続けられた事がここまで全国の青木さんや多くの他氏の方に知られる事に成りました。
本当にありがとう御座います。
これからも、他氏にはみられない日本一の青木氏のサイトに仕上げられるように頑張りたいと思いますので、ご協力の程お願いします。そして、子孫に遺したいと思います。
土の匂いのする様ないつもお便りお話がありましたが、これからもよろしくお願いいたします。
さて、面白いお話ありがとう御座います。
弊家に関わるお話ですね。先祖の京綱に関係する事ですが、この叔母の「二条院讃岐」と云う人は昔確かに確認した事が有りまして、実は多くは研究されていません。
ただ、有名な歌人であった事くらいです。
我袖は 潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らぬ乾くまもなく
参考
二条氏とは弊家とは大正14年頃まで深い付き合いがあった様です。多くの手紙が遺されています。
恐らくは、歴史的にこの時の二条天皇(母 源よしこ)の頼光宗家の清和源氏系の天皇として、又叔母「二条院讃岐」頃の関係からの伊勢青木氏(甥の京綱)との付き合いであったのではと観ています。
「以仁王の乱」の以仁王は二条天皇の弟ですが、1180年のこの直ぐ後に乱が起こっています。
二条院讃岐は1189出家(鎌倉時代にも歌人を続けて1210頃没)していますし、1185年には源氏頼朝が平家に勝っています。源氏系の二条天皇(1165)末裔一派は弟の以仁王をして陰ながら応援していたと観ています。
お尋ねですが、この「二条院讃岐」は源忠清の女との間に出来た子供で、「二条院(天皇)]に長く側仕えし(中宮讃岐 夫人)、その後に藤原北家筋重頼の室になり結婚、若狭などにも赴任移動して2人の子供を産んでいます。院没後(1165)に、後鳥羽天皇の宣秋門院の中宮任子(姉)に仕えます。1189年出家しています。
この藤原重頼は葉室氏の顕能の孫ですが、「讃岐」の由来となれば探しましたが、公家の名家で北家の讃岐籐氏と何らかの強い繋がりの葉室氏系の氏しか出て出来ません。恐らくは、この讃岐を名乗ったと見られます。
実は、高位の家柄身分の氏では妻はこの様な「号」を使う習慣がありました。
それはこの様な氏では妻は4段階の身分に分かれていてその妻にはこの様なその家に関わる地名などの呼び名を付けるのです。幼名(・・子)ではその身分などが判りませんので判別を良くする為にもこの様な呼び方をしました。
特に、歌人の場合は「・・子」と云う風な幼名では風雅が有りませんので、「雅号」を付けて呼ばれるのです。門跡となった人には歌人が多いですが、多くは何らかのゆかりの地名を付けています。
そもそも、平安の侍の娘は幼名だけで成人の名前を持ちませんで、「源斉頼の娘(女)、藤原友実の娘(女)]と成ります。
成人の名前を持つ事が出来るのは天皇の皇女か妻かによります。
そこで、嫁いだ後の名前の使い方は天皇などが主宰する歌会で歌を読んでいますので「雅号」によります。現在でもこの「雅号」の習慣は歌会の中で残っています。
例えば、二条院讃岐の従姉は「宣秋門跡丹後 任子」(讃岐は後に使える)と呼ばれ「丹後」としています。
この様に国とか地名とかをつける習慣がありました。
良い例として、天智天皇の頃より皇子は生まれた地名、皇女は全てその母親の実家の地名を呼び名として使っています。
「二条院讃岐」は嫁ぎ先の藤原氏のルーツを又は藤原氏の中でも筋どころや家柄を明確にする意味合いも「二条院」門跡には合ったのではないかと見られます。
藤原氏の讃岐籐氏である事を。北家の葉室氏の勧州院流である事を。
お尋ねの「流罪」ではなく、讃岐は「藤原氏に関係する雅号」です。
では何故讃岐に伝説がとの疑問ですが、讃岐籐氏は藤原氏の中でも北家筋として高い立場にありましたので、この「二条院讃岐」は当時は超一流の歌人で万葉集や古今和歌集などの多くのものはこの「二条院讃岐」の作でした。その事から、讃岐では誉れとして崇め「歌聖」として呼ばれていましたので一族として何らかな伝説を作ったのではないかと考えられます。
藤原重頼は多くの赴任地に赴いていますが、若狭などにも赴任しているところからこの地にも赴任したのではないのでしょうか。大体平安時代は一人で10国、地方に出向き2−5年程度で変わっています。中には青木氏では14の土地に赴任したとする者もあります。
「二条院讃岐」は赴任地に同行したとされていますので、現在、確証は取れませんが、讃岐には必ず赴任している筈です。
当時、貴族が流罪になる場合はその身分家柄と積みの重さで異なります。
皇族4世族までは多くは藤原氏の権域の強いところに流罪と成ります。むしろ「預ける形」を採りました。
例えば、以仁王は乱の罪で讃岐籐氏の土佐に決まっていました。
若宮神社のことですが、神明系の神社として各地に多いですね。
若宮とする高知土佐の神明系の神社にはどの様な由来があるのでしょうか、何かあるから殆どの県にありますよね。神明神社は研究した事がありますので、その位置付けや由来やその土地にある理由など大体把握しているのですが、若宮は皇子或いは皇族の子供の神社となりますので、やはり、この神明系の由来に関わる神社となるのでしょうか。もしお判りでしたらお教えください。
ところで、若宮神社は讃岐には特別に多い所で調べた範囲では6つの神社があります。祠まで入れると10以上はあるのではないでしょうか。
徳島と静岡がこれに続きます。阿波の剣片喰族と三河駿河の州浜紋の藤原秀郷一門の勢力の最も強かった地域です。
これは愛媛讃岐は全国に比べて段突です。しかし、神明神社は皇族信濃青木氏とその支流の信濃足利氏系青木氏の末裔が讃岐の青木氏に保護されて逃げ込んだ国の土佐だけにありますが、讃岐には有りません。
とすると、讃岐には天皇家の皇祖神の神明神社が無いだけに、これは、「讃岐籐氏」の藤原氏と天皇家との繋がりが強く、藤原北家系の皇子皇女が多い所から、とりわけこの若宮を祀ることの強い習慣があった事を物語るものではないかと思います。
当然、若宮には藤原北家筋、平家筋、11代の源氏筋、少ないが橘氏筋等がありますので、讃岐籐氏派はより祭祀したと見られます。(阿波と尾張の藤原北家筋も)
もし、あるとすると、「二条院門跡」の子供等の祭る神社ともなりますね。それが「二条院讃岐」とどう繋がるのでしょうか、大いに興味が沸きますね。もしかすると、「二条院」との間に出来た若宮を祭祀する神社か。そうすると更に讃岐と繋がりますが。?
現在、推測の域を越えませんが、神明神社の皇祖神は天皇第4世族皇子までの守護神として扱われ、第5世以降の元皇子には、若宮(皇族関係の者)としての守護神の神社としたのではないでしょうか。
この様に考えると間尺が合います。配置されている土地柄を見ますと納得出来ます。確定する記録を探しています。(ただ江戸期以降の若宮神社とその祠はの2種は除く)
ただ、多くは「厄除けの神」として江戸時代に創建されたものが多く、創建と云う域まで達しない小さい祠の様なもの2種を除きますと、この推測に成るのではと研究しています。判り次第レポートします。
現在のところ、この2種を除いて観ると、第4世族までの皇祖神の神明社の分布と、第5世族の皇族系の皇子族の若宮神社の分布は平安鎌倉期までのものとしては重複しているところは見当たりません。
この事は、天智天皇は第7世までを皇子としていたのを大化改新で逸早く実行したのは財政難から皇族と皇位継承問題のこの改革から来ているものと考えます。
その改革では第7世族(6世族もある)は主に坂東を守護する臣下として配置しました。
第4世族では各地に配置するだけの人数が足りませんので、そこで6世族までを天皇が代わる度に出て来る皇族の処置として、「若宮」としての言葉で括り各地に配置して、そこに皇祖神の「神明神社」に代る皇族の第5世族皇子の「若宮」の「若宮神社」としたのではないでしょうか。それが何時からかは判りませんが、天智天武の伊勢神社創建からそう遠くは無いのではと推測します。
人時場所について文献などを調べましたが明確にしているものは有りませんので青木氏で更に研究します。全国殆どの県に2社から3社あり、恐らくは小さい祠も含めて100程度ある様に思います。現在調べただけでも70近くありますが、平安期からのものとすると20−30程度内に絞り込めるのでは。
参考ですが、女性の流罪の件ですが、無かった訳では無い様です。
記録によると、上流階級の女性が多くは男女間の問題を起こし、坂東方面に流罪となり、その搬送中に行方不明となる事が多く起こった様で、ある記録の中の話としてその不明の原因は多岐に渡っています。
当時の氏家制度の社会の慣習から、女性の流罪の問題を遺したくなかったのではないでしょうか。
中には逃亡か逃亡させたかとした形である村に助けられ、又は逃げて住み着き余生を送ったとする実話があります。
犯罪のみならず戦いに敗れた側の女は逃亡か人身売買になった事は戦国時代までの記録に多く残っています。例えば甲斐の武田氏が各地を制圧した時にでも、この事が常態化していたのを信玄が中止させた記録もあります。
源の義仲の巴御前は敗退して逃亡して村に密かに住み着いて生き延びたとする記録もあるくらいです。
流罪になる原因は多岐にあると思いますが、多くは記録ではこの2種ですね。
依って、記録に載らない載せない慣習が強く社会の中にあったと考えられます。
参考ですが、頼政の孫の京綱は清和源氏の血筋を絶やさないために伊勢青木氏に跡目に入れて「不入不倫の権」で助かり、宗綱、有綱と叔父の高綱は日向に流罪になります。そして、九州全土を支配していた大豪族の肝付氏の末孫の土地の豪族の廻氏を背景に城を築き、再び九州探題の平氏と戦いますが敗退し敗死します。その廻氏との間に遺した子孫を中心に薩摩の大口村に逃げ込みます。そして、寺に保護されますが、追手が近づき、住職に諭されて、嵯峨期の詔に基づき青木氏を名乗ります。そして、追手を回避するに成功します。その後、この青木氏は大口村で黒田藩での兵農を業として営みます。この頼政の子孫の日向薩摩に広がる日向青木氏です。
この子孫で超有名人がアスリートとして現存しています。伊勢青木氏とは元は親族関係にありました。
「下がり藤に雁金紋」の讃岐の青木さん 讃岐でのこの土地の伝説教えていただけないでしょうか。
お便りありがとう御座いました。 楽しいお便りお待ちしています。
> 讃岐(香川県)の青木です。ご無沙汰しております。
全国で一番狭い県なのに、伝説はいっぱいあります。源京綱さんの叔母さんの伝説も、うちの近くにあります。女性でも流罪はあったのでしょうか?
・源頼政―仲綱―──────────3男 京綱(伊勢青木氏継承)
└頼政娘の二条院讃岐 └次男 有綱(妻は讃岐、屋島檀の浦戦いで名高い源義経の娘)
・源頼政の娘の二条院讃岐さん 香川県高松市の若宮神社http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/jinjya/wakamiya_a.html
>
> ちなみに柏紋は神紋といわれていますが、蔓柏紋と神社は繋がりはないのでしょうか。
お読み頂けましたか。ありがとう御座います。
さて、早速ですが、お尋ねの件の柏紋と蔓柏紋との関係ですね。
それでは、先ず柏紋からその由来を記述します。
研究室の「青木氏と血縁族」(家紋 柏紋)をお読みください。
昔、太古では食器に、奈良時代にはこの葉は大きく旅等にはこれを食器にしていました。
そして、これを素手で食べていた事が判っています。「随書倭国伝」に書かれていますし、日本書紀等にも天智天皇と皇位継承問題で争った有間皇子が蘇我赤兄に熊野古道の熊野神社の社領の第1の鳥居のある第一神社の藤白神社の直ぐ近くで絞殺されます。この時、読んだ辞世の句にも葉を使ったと書かれています。
結論から元は柏ではなく、槲(かしわ)の葉で蔓が付いていました。
槲は関西地方に生息する茨の一種で丸いハート形をして大きさは人間の掌程度の大きさです。関西では「かしわの葉」と云えばこの葉の事を云います。この槲葉には蔓紋と同じ形の蔓があります。
この葉は神様や仏壇等に食べる物を備える時にはこの葉の上に置いて供える習慣があります。
この神事の名残として、5月の子供の日等にはこの2枚の葉で「あんこ」の入った柔らかい団子餅を挟んで蒸して供えたものを食べる習慣があります。
まだ関西の高級料亭等ではこの神事の習慣が残っていて、会席料理の食べ物の下に敷く食器代わりのものとして使われて遺されています。最近都市化で少なくなりましたので苦労している様です。
この葉の事を「さるいばら」方言で(さるびたち)と云っていましたが少なくなった事で忘れられてしまいました。関西(平安の習慣が遺されている主に紀州奈良)ではこの葉を使う習慣が多く遺されていて、柿の葉、からす瓜の葉、紫陽花の葉、あけびの葉などまだまだ沢山あります。
従って、蔓の付いた槲なのです。しかし、鎌倉時代頃からは関東にないこの槲葉は関東に生息する柏の木の葉に成っていたのです。そして、家紋も「柏の葉」に変わっていったのです。
槲の紋は平安の時代から丸く書かれ、柏は鎌倉の時代から細く書かれているのはこの結果から来ているのです。太紋はこの紋に成ります。この例として熱田神宮の傍系末裔の山内一豊の家紋は三つ柏の細紋です。
上記の習慣から太古の世には朝廷の食事を用意する夫を「膳夫」(かしわで)と云いました。
この事から神事に御供えするものにこの槲の葉を使われたことから、槲の柏を「杜の神」として神聖視されたのです。
以後、朝廷の伝統として神事にはこの葉を使用された事から、神職の家がこの槲と柏の葉を紋様化して家紋としたのです。
「神紋」というよりは「神官職紋」と成ったのです。
天皇家の皇祖神の神明神社の伊勢神宮を始めに、熊野神社系の神職の氏も使用するように成りました。その後これに習い、熱田神宮、宗像神宮、吉田神宮、吉備津宮等の神明系が柏紋を神官職紋にしました。
伊勢神宮の宮司久志本氏、熱田神宮の千秋氏、宗像神宮の宗像氏、吉田神宮の吉田氏と卜部氏、吉備津神宮の大守氏がこの家紋を使いました。
当初は上記の様に柏の葉だけではなく蔓も付けた槲紋でした。これを元は「三つ葉槲(柏)」と呼んでいたのです。
その後、時代が平安から関東に移りこの蔓がなくなり、今の柏の三葉紋と成りました。ですから、神職紋としては「柏紋」より「蔓柏紋」の方が古く正しい文様なのです。
そこで、平安初期から上記したこの神官職の間では相互に血縁関係を結びました。
神明関係の神社は大変青木氏が多いのです。
伊勢神宮は伊勢青木氏の守護地でこの伊勢神宮を護っていた氏ですし、皇祖神は自らの氏神でありますので身内から神官職を司ったのです。各地の主要神明社の多くは青木氏で蔓付きの槲紋です。
吉田氏も奈良の古くから朝廷の祭祀を司る神職でした。
室町期の山内氏は熱田神宮系の傍系です。
この柏紋を類似変紋して家紋とする氏はこれ等の末裔血縁氏が多いのです。山内氏、牧野氏、中川氏、蜂須賀氏等あります。150位はあると思います。多くは江戸初期に旗本や御家人がこの変紋を使用したのです。
そこで、原型の三つ蔓柏紋を家紋としているのは当然に多くは青木氏で、朝廷神職官僚の吉田氏と、それらの神明の血縁関係のある末裔と見られる山本氏や長田氏です。
古い氏の青木氏には、二つ葉と三つ葉の蔓柏紋があります。
全国神明関係の神社は今は数えられないほどにありますが、始まりは伊勢賜姓青木氏から近江、美濃、信濃、甲斐の地に、他に19の天領地にある主要神社は多くは青木氏です。この青木氏が各地の神社と血縁関係を結んでいるのです。
従って、神職関係の柏紋には青木氏の血が流れている事が考えられるのです。
吉田氏や宗像氏や千秋氏とは恐らくはつながっている筈です。少なくとも吉田氏とは同じ環境にいたのですから血縁関係はあったと考えられます。
前回のお答えの諏訪神社系(三つ立梶の葉紋 神紋)の諏訪青木氏(抱き角紋)の氏は皇族賜姓信濃青木氏の末裔ですのですので諏訪神社とも繋がりがあるのです。
二つ柏紋(柏の葉を向かい合わせた紋 抱き柏紋)はこの抱き角紋の諏訪族青木氏と繋がっています。
当然に蔓柏紋の藤原秀郷流青木氏ですが、この氏も赴任地の24の国に自らの氏神を持って神官職を務めていますので、もとより母方で繋がり、朝廷とつながっていますので、賜姓族の青木氏と三つ巴に相互血縁関係が成立しているのです。ですから、この藤原氏ルーツは蔓槲紋または蔓柏紋なのです。
「繋がり」という意味からは諏訪族青木氏の宮司青木賢清(抱き角紋)は蔓柏、柏紋と神職関係で繋がっている事にも成りますね。藤原秀郷系青木氏ルーツとして。
お家の蔓柏紋が神職関係に元あった事が確認出来れば、皇族賜姓信濃青木氏系の諏訪族青木氏とも三つ巴に繋がっていることにもなります。
蔓柏紋は藤原秀郷流青木氏の綜紋の「下がり藤紋」から神職になった時点で「蔓柏紋」に成って男系跡目に依って変紋なく、それを引き継いでいることを物語ります。
(神明神社は天照大神を祀る皇祖神で伊勢神宮が本社宮 伊勢青木氏 No706の函館の青木さんのご質問に詳細記述)
兎も角も、前回のご本家の維新戸籍簿や菩提寺過去帳などの確認をなさる事でこのお答えの内容を更に証明することに成ります。場合に依ってはご本家は吉田氏の様に神道であるかも知れませんね。
この様に、次第にルーツ関係の紐が解けてくることもあるのです。
又何か疑問、質問、不明な点が有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
ありがとうございます。
とても勉強になりました。
曽祖父は江戸時代末期生まれで、没落したのはそれ以前と聞いています。
しかし江戸時代に農民だったのかどうかは今のところ分かりません。
青木賢清氏についてもありがとうございました。
身内が九州で大変お世話になったので、何か縁があるのでは・・・
と勝手に思いお尋ねしました。
ちなみに柏紋は神紋といわれていますが、蔓柏紋と神社は繋がりはないのでしょうか。
愛知の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、お尋ねの件ですが、お便りの情報では、「没落」「農家」「時代」がキーワードですね。
先ず、ご母君の実家は江戸時代は農家なのでしょうか。
明治期では氏家制度社会から自由社会に変わりましたので明治後の事はルーツ検証には役に立ちませんし、明治期からは戸籍簿がありますのでルーツは確定します。江戸期は士農工商の身分確定の社会で、武士以外は氏家制度の中にありませんでした。依って、武士は菩提寺に過去帳をつくり、当然に武士は氏を形成して社会を構成していますので、氏名で時系列的に先祖を管理出来ます。
当然にこれを辿ればルーツが判ります。氏家制度社会の中で身分が確定していますので、脱藩や廃藩や罪を犯すことがない限りは「没落」はないことになります。
そして、藩に拘束されますので、他国には移動定住することは出来ません。勝手に出ると「国抜け」と云って一族郎党は斬罪です。
当然、農民も「国のもの」と云う事でこの罪に問われますし、貧乏であることには変わりませんが「没落」はありません。農工商には氏を構成しませんので過去帳は管理維持する事は出来ません。
ルーツを辿ることは出来ません。もとよりそのような社会慣習が必要なかったのです。
何々村の何助で終わりますので過去帳はないのです。
ただし、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は元は武士で合ったことが多く特別に認められていました。
すべての「没落」は原則明治以後の事になります。
平氏、源氏、藤原氏、青木氏などはその勢力圏の中で生きてゆきますので起こりえます。
藤原氏、青木氏などはこの為に「2足の草鞋策」を採りました。
故に、工商を除く武士と農民は少なくともなく「没落」は明治以降の出来事になりますので、”「何度も没落を繰り返している”は疑問です。
祖父の兄は「近衛師団」は明治期の事です。薩摩長州の連合軍の兵は「ちんらいさん」と云って農民が主体で幕府を倒したのです。この「ちんらいさん」が後に天皇を護る師団に変化して主に「全国の優秀な若い農民」と「若い下級武士の子弟」で編成したのです。上記した様に明治以降の事ですからルーツには関係ありません。
江戸期では、祖祖父のことになりますね。
母方の実家は、尾張の国海東郡伊麦村(現在あま市七宝町)の件ですが、岐阜の美濃は国府付近に皇族賜姓青木氏とこの血縁関係にある西域には土岐氏系青木氏の末裔が定住しています。
東には藤原秀郷流青木氏が定住しています。
この青木氏とお家の母方の青木氏ですが、仮に武士であるとすると、地理と宗派と家紋がこの氏の特長ですので、これから観るとこの藤原秀郷流青木氏ということになります。
当然に農家であると、氏を形成していませんのでルーツが出来ていません。
もし、この氏であるとすると、上記した様に「何度も没落」が起こっています。
氏家制度の中では、概ね「没落」をテーマに観て見ると、平安期に3度、鎌倉期には2度、室町期には3度、桃山期には1度、江戸初期に1度程度のことが起こっている筈です。
言い換えれば、室町期末期には土地の土豪でしたから、江戸期は庄屋などはこの氏の「没落」の結果なのです。これをお家の母方の実家の没落と云うのであれば「没落」です。
上記の庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は元はこの一族の氏でしたから、元の氏名と家紋と帯刀を保持しある程度の武力(家人や家者)を持っていましたから農民の代表となっているのです。
これは戦国時代と下克上の結果、土豪が戦いに敗退しての選んだ道なのです。
豪農や豪商は元の立場を生かして税の産物の取り扱いに慣れ、武力を持っていますから運搬などの保護にも必要ですから、商人になったので豪商は殆どこのパターンで、両方を続ける者もいました。
明治初期の近衛師団のお話は「若い下級武士の子弟」「若い農民」ですので、この氏の可能性を高めます。恐らくは、この庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商のどれかであったと考えられます。
長崎の諏訪神社の再建に尽力した宮司の青木賢清の件ですが、諏訪族青木氏は信濃の青木氏です。
皇族賜姓の信濃青木氏の血縁族の諏訪族青木氏、諏訪族武田氏系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏がありますが、この青木賢清は宮司ですのでこの3つの内のどれかの末裔です。
長崎の諏訪神社の再建は1625年前の頃の事ですので、戦国時代に成りますが、諏訪族は武田氏とともに戦い敗退(1585)して主に神奈川横浜の藤原秀郷流青木氏に保護を求めて信長から逃れます。藤原秀郷流青木氏は武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする螺旋状に宗家を護っていました。
この横浜の地に諏訪族青木氏を迎えたのです。
恐らくはこの時期各地で神明、熊野、住吉、宗像など歴史ある大社は各地に支社を建設して勢力の拡大競争が起こっていました。諏訪族の氏神の諏訪神社も例外ではなく再建が起こっていますが、長崎はこの時期キリスト教の教会領であり、それに対抗してその権域で住吉神社と地元氏森崎神社の三社が結束して成したものです。
関東の諏訪族青木氏の逃亡定住地に諏訪神社が多いのですが、各地の諏訪神社の宮司は一族の諏訪族青木氏が多いのです。この青木賢清は間違いなく諏訪族青木氏と考えられます。
諏訪族青木氏が藤原秀郷流青木氏に保護された時期と長崎の諏訪神社の再建と40年の後の事ですのでやっと立ち直る時期です。
この初代宮司は諏訪族一族の存続を掛けての他社との協力で諏訪神社を長崎丸山に建設したのだと思います。長崎には諏訪族の末裔はありませんが。
お家母方実家との繋がりは一族の神奈川の藤原秀郷流青木氏が信濃諏訪族青木氏を救ったと云う繋がりだけです。
青木氏との族が異なります。皇族賜姓青木氏との違いです。両者は元は藤原氏の母方では同じ族となります。故に、嵯峨期の詔の例外で秀郷3男千国に禁令の青木氏を名乗ることを許したのです。
ただ、今の情報ではお家が美濃と愛知にまたがる藤原秀郷流青木氏と確定はできませんが、諏訪族青木氏とは地理的、血縁関係などから見て関係は殆ど少ないのです。
どのような事からのつながりでのご質問でしょうか。
以上ですが、明治期と江戸初期の第3氏の事もありますので、確定は出来ませんが、一度維新後の戸籍簿とご本家に菩提寺が在ればそこの過去帳を確認されるとはっきりします。
ご仏壇の中に先祖位牌がありますのでその中に木札で先祖の戒名札があるはずですのでご確認ください。当然にご本家でのご確認と成ります。
確認出来ない、江戸期の過去帳がないと成りますと第3氏の可能性か未勘氏の可能性と成ります。
青木氏の上記した庶民や農民が禁令の青木氏を名乗った時期が3期あります。
室町末期、江戸初期、明治初期の混乱期です。
明治期は3年と8年に苗字令と督促令を出しています。この時維新政府が余りに進まなかったので指導して近隣の土豪や豪族の氏名家紋などを使うように指導しました。ですから、ある日突然に村或いは郡の者が全員青木氏になると言う現象が起こったのです。
これが江戸期に過去帳を持たない第3氏か室町江戸初期の未勘氏なのです。未勘氏はある程度の過去帳を保持しますが、宗派と地理的なことは異なります。
兎も角も、以上ですが、ご質問やご不明な点が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
お待ちしています。
何処かの青木孫さん 今日は。はじめまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越しいただきました。
これからもよろしくお願いします。
さて、お尋ねの件 大変重要なお尋ねですが、申し訳ありません。
はっきり申し上げて判りません。
ただ、確かに江戸末期と明治初期の青木さんを調べたことがありますが、私の記憶にはありません。
徳川慶喜の子供となりますと、明治後の静岡での子供となります。
確かに、慶喜は妻一人(美賀子)と側室二人(中根幸、新村信)と側女(新門辰五郎の娘)が居て、側室(側女扱い)二人の間に5男6女を産んでいます。
この内の跡取りの長男一人は慶久といいますが、英国留学、帰国後大実業家に成りました。現在も続く数十社大企業主でした。彼等兄弟一族は日本の企業家の草分けと云われていました。
子供は厚、仲博、誠、精(勝海舟の婿養子に)の5人です。
厚が次男となります。彼等は慶久と共にこの企業を発展させました。確か私の記憶では次男は日赤の創立にも兄を助けて携わったと記憶していますが、確かではありません。
これらの事はNHKの篤姫でのドラマでも有名ですよね。
この中に重次郎はなかったと思いますし、徳川氏にはこのような命名のつけ方ではありません。
もとより慶喜は5人にこのような名前の付け方をしていません。
幼名も徳川氏の慣例で大変多いので数字を使うことになっていました。
慶喜は大変な趣味家で、新しいものを好む性格で、それもプロ並みでした。名前も現在の名づけ方と変わりません。
この人5外には外に妾子はいません。作れる環境と時間がなかったのです。
実は居ない理由があるのです。
幕府崩壊で、維新政府から警戒されていて疑われると困るので一切外との関係を遮断していたのです。
静岡で蟄居閉門で監視が付きましたので鷹狩りや狐狩りなどは飛んでもないことでそれこそ疑われて処刑されます。そこで、子供に疑いをかかるのを恐れた篤姫は維新後親族となる勝海舟の助けを受けてすべての子供を引き取り小さい家に二人の妾と住んでいました。
実は、慶喜の子供と搾取して各地でお手つきの子供と云って6男8女、10男11女、22男23女等々に成るくらいの説があるくらいで地理的、年数的、時間的、行動的にあり得ない言い分で明治の中ごろまでに隠し子だといいそれなりの証拠品のようなものを準備して家柄を良く見せようとしたのが多く出たのです。
明治維新の出来事も本人は後に自伝(日記)によると開国と天皇を中心とする国家体制を願っていたとされています。兎も角も徳川氏宗家の存続を願っての行動であのような非難される行動をとりましたが、その先頭の論者勝海舟に子供を婿にやるということまでしています。
精を除く彼等4人は徳川氏を名乗っています。
静岡ということに成りますと、藤原秀郷流青木氏の定住するところです。
何故、徳川氏が青木氏の氏名を使うのか疑問です。精以外は他氏から養子を迎えたとする記録は見つかりません。
江戸中期に青木昆陽と云う芋で有名な儒学者がいましたが、この青木昆陽は襲名名の重次郎です。
江戸末期に幕府に関わった青木氏は6ルーツとなります。住所が20程度確認されています。
さて、ここまでが私の記憶ですが、祖父が慶喜の子供と判ったとする事はそれなりの史実があることで判った筈ですね。
だとすると、この程度の事は判らないと祖父であることの確証はないのでは、ご質問の意味が少し良く判りません。また、”恐れ多い”と云う事はありません。まして、正式な次男ですよ。
また、”判った”とされていますが、慶喜の子供ははっきりと判っていて実業家でその子孫は現在も企業家です。判っているのです。
徳川氏宗家の慶喜です。ドラマのようなことは出来ません。まして慶喜はまたまじめな人物でした。
江戸城の中で見張られているのと同じです。
二人の側室は顔と体系が良く似ていて極めて仲がよく一つ屋根の下で11人の子供とどちらが母か判らないほどに生活していたのです。彼等は二人の母を幸、信と呼んでいたと自伝に書かれています。どちらが母であるかと意識したこともなかったと書かれています。
むしろ、自伝では篤姫の教育もあり、当然として教育されたと書かれています。
本妻の子供がいないのですからもとより嫡子側なのですよ。他に隠し妾子もないのですよ。この兄弟5人は二人の母を持っていたとする程です。
明治維新の戸籍簿に明確に詳しく書いていますし、静岡の徳川氏だけの菩提寺がありますので、そこには過去帳がありますので確認がとれます。本妻には子供は居ませんでしたので側室二人の子供5人は徳川氏ルーツの墓に入ることが出来ます。
現在も末裔は数十社の実業家ですので、お調べに成られてはいかがですか。
青木昆陽と同じ名である事も偶然とは考えにくいですね。
お家の宗派や土地柄や家紋の出所、明治期のお住まい等の情報がないのですが、史実と照らして疑問を感じます。
現存はしていますが、天下の徳川慶喜次男のお家柄とすると、本サイトにお尋ねする前に、上記した事以外に何がしかの証拠がお家にあるはずですが、まだ100年程度しか過ぎていませんので。祖父であれば戒名、位牌、曼荼羅、墓所などもはっきりとしている筈ですね。それがないのも疑問です。
全青木氏に発する学問的なこととして、忌憚なくお答えさせていただきましたが、私が研究した史実と大変違っていて疑問が多く残りました。
もう一度お調べになって下さい。
そして、ご質問がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。お待ちしています。
はじめまして。
私の母方が青木でそのルーツをたどっていたら当サイトにたどり着きました。
私はとある理由から、母方の青木の影響を強く受けているときき、ルーツを
探り始めました。
母の実家は私が知る限りでは、大きな農家だと思っていました。しかし、
「過去に没落したことがある。」と聞かされていました。
よくよく考えてみると、没落したのは江戸後期あたりで、百姓なら名字は名乗れなかった
はず・・・。またこの没落は、何度もくりかえしているようなのです。
ということでこのサイトをいろいろ拝見しました。
母方の実家は、尾張の国海東郡伊麦村(現在あま市七宝町)。この地域には青木さんが多いようです。
江戸末期にはすでにここにすんでいたようです。家紋は蔓柏。宗派は浄土真宗大谷派。
私の祖父の兄は近衛師団にも選抜されていたようです。関係があるか分かりませんが・・・。
私のご先祖さまは何をされていたのでしょうか?
また、長崎の諏訪神社の再建に尽力された青木賢清についても分かることがありましたら
教えてください。
長崎県には現在親戚などはおりませんしかなり離れているので関係はないかもしれませんが、
もし何か繋がる情報がありましたら教えてください。
あきさん 今日は。
さて、今度は梅鉢紋ですね。
この紋は菅原道真一門の紋です。
未だ余り家紋として進んでいない時代のものです。
菅原氏は、元は古代豪族の土師氏(しがらきし)の出身です。
もとを正せば中国の後漢が618年崩壊し後漢の光武帝の21代末帝の献帝の子供阿智使王と献帝の孫の阿多倍王が後漢の17の県民200万人を引き連れて日本に逃げてきました。
この200万人の集団は多くの技能集団で成り立っていました。
この集団の中に土器の素焼きの器物を作る集団があり、これを土師部と云います。
氏名の後ろに部の付いた姓はすべてこの後漢の渡来人の帰化人です。
今の信楽の里はこの集団の末裔が住んでいた所です。
「しがらき」から「すがわら」に変化したものです。
「すがわら」を菅原とし土師部の集団を菅原氏として構成しました。
その集団の首魁を務めていました。
そして、道真公の曾祖父古人公の頃に、土師を菅原と改姓し、次ぎの文道が朝廷に仕える家柄となりました。
その盛んな時代としては、桓武天皇の子供の嵯峨天皇の時代を頂点として、「文章経国」(学問を盛んにして国をつくる)という方針を主張しました。この意見が取り入れられて瞬く間に従ニ位まで上り詰めました。
丁度、この時、皇族第6位皇子が「賜姓青木氏」にする天智天皇から5代続いた制度を桓武天皇が中止しそれに反対した嵯峨天皇はこれを戻し、変名して「賜姓源氏」として続けました。この時青木氏は皇族の者が下族するときに使う氏名としました。(嵯峨天皇の詔)
そこで、この出世した菅原氏は藤原氏と勢力争いが起こり、結局、突然に大宰府に配流されました。
この時代は、唐風の文化の最盛期を迎えていて、菅原道真は梅が好きな事から梅紋を家の象徴紋としたのです。それが平安870年頃から家紋化されました。
道真は845−903年です。
東風吹かば 香い興せよ梅の花 主なしとて春な忘れそ
と云う歌を遺しました。
この菅原道真一門の家紋です。丸付き紋ですのでその分家支流となります。
菅原氏は橘氏と同様で藤原氏の圧力で子孫を遺せないほどに大きく衰退してしまいます。
概ね、成長期には4氏との血縁で何とか末裔は広がっていますので、それが現在の子孫と成っています。
現在の梅鉢紋の菅原氏はどこかでこの縁者の4氏の中で元の菅原氏の氏名の跡目を継いだのではないでしょうか。
青木氏にも梅鉢紋の青木氏があります。
詳しく研究室の、「青木氏と血縁族」(家紋 梅紋)のところにレポートしていますのでお読みください。
この紋はこの4氏から次第に拡がって行きます。
もし、道真の人柄などをお知りになりたい場合はインターネットや書籍でお願いします。
お読みになってご質問有りましたら遠慮なく又お尋ねください。
唐花・雪紋の追加説明のみならず,わざわざ片喰紋にまでの言及ありがとうございます。
自分の実家のルーツもきちんと認識していなかったので,実家の父に尋ねてみます。
それにしても,こちらの青木氏に関するページの充実が羨ましいです。
橋富という苗字は少々珍しいので,地域等が限定されてしまい,
あまり活発な交流活動が成されないのは致し方ありませんが,
私の実家の苗字(中野と申します)で検索しても,特にこのような活動のホームページには
行き当たらないのが残念です。(探し方が拙いだけかも知れませんが…)
この青木氏のホームページに出会ったのも何かの御縁かと思いますので,
今後も折々にこちらのページを見に参りたいと思っております。
とても丁寧なご回答ありがとうございました。
とってもすっきりしましたし
詳しいお話も聞けて面白かったです。
本当にありがとうございました◎
あともうひとつ わがままいいですか?
丸に梅鉢の人間は昔どんな人だったんでしょう?
ご返事痛み入ります。
ご実家は丸に剣片喰ですか。
この家紋は四国阿波の国に大変多い家紋群です。
小さい頃はこの草花のことを「スイスイの花」(別名 酢奨草)と呼んでいました。
藤原秀郷北家一門の藤原秀郷流青木氏の主要家紋ですね。
藤原利仁流一門の家紋群でもあります。
追伸
本文は読み直しますとやや説明不足でしたので、念の為に、雪紋のところを詳しくご説明して置きましたので、コピーされた場合はお手数で申し訳有りませんが、もう一度コピーをお願いします。
この家紋には感嘆しています。それを家紋化した見識の高さに。
また青木サイトにお越しください。
> 雑談掲示板より代理投稿
熊本の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、お便りは雑談掲示板にありましたが、こちらに移させて頂きました。
さて、お尋ねは「並び鷹の羽紋」の青木氏と玉名市の青木さんとの関連についてでありますが、情報が全くお家の江戸期の昔のものがありませんので何とも云えません。
そこで、お尋ねします。
お家は、何時ごろから熊本にいましたか。少なくとも江戸期には何処に。
宗派は何ですか。
江戸期にして士農工商の武士か農民か何でしたか。
確かに、地名地形データーベースに玉名市には青木村があったことが確認出来ています。
この青木氏は熊本一の大豪族の菊池氏との血縁で発祥した藤原秀郷流青木氏です。
藤原北家一門の秀郷一門が熊本に赴任した時に護衛団として同行した青木氏です。
藤原秀郷宗家は貴族の身分になりましたので武力は使えませんので、秀郷の第3子の千国を武士にして護衛役を担ったのです。これが「第2の宗家」と呼ばれる秀郷一門の中で最大に力を持った青木氏です。この青木氏は全国24地方に赴任しそこに子孫の一部を土地の豪族との血縁で遺しました。
この青木氏は武蔵国入間を中心として横浜神奈川を半径とする円上の中に本家筋が領国を護っていましたが、それが116氏になります。
そこで、現地の豪族、阿蘇神社の氏子、この場合は菊池氏ですが、現地に残った青木氏の一部が男系跡目の嫡子に恵まれず、他氏、つまり、菊池氏から養子縁組をしました。しかし、この養子との間にも男系嫡子が生まれず止む無く更に他氏から養子を迎えましたがこの縁組でも男系跡目の嫡子に恵まれなかったことから前の養子先の家紋継承と成ったのです。つまり、青木氏は結局2代続きで確実に女系となりましたので、菊池氏の方の系列の男系になった事を意味します。そこで、菊池氏系列になりましたことから、家紋掟により家紋は男系側の家紋に変紋を余儀なくされたものです。
阿蘇神社には違い鷹の羽と並び鷹の羽があります。
家紋掟に関しては研究室「家紋掟」のレポートをお読みください。
元は末裔にこの現象がなければ秀郷一門の青木氏は宗家の家紋と同じく「下がり藤紋」であったのです。
従って、玉名市には「下がり藤紋」の青木氏が居るかもしれません。居るとすると、この青木氏の本家筋になりますね。
この青木氏が住んでいたところが今の玉名市で青木村を形成する身分でした。
青木氏は平安時代は特別に氏家制度の中でその身分から村の形成を許されていたのです。
この熊本の青木氏は九州に襲来した蒙古の元寇の役以来菊池氏との深い付き合いをします。
詳しくは「藤原秀郷一門の青木氏の生き方」関連のレポートが沢山用意していますので、膨大な資料となりますが、ゆっくりとお読みください。
研究室にレポート準備しています。
先ずは先に菊池氏との関連のレポートがありますので、そこからお読みください。
「青木氏と血縁族」(家紋 鷹の羽紋)や「藤原秀郷一門主要5氏との関係レポ」
菊池氏と秀郷一門と付き合いが強く、菊池氏の一部が関東の秀郷一門の勢力下に移動して常陸あたりに逆の血縁をしてその子孫を遺しています。これが関東の菊池氏です。
もし、お家のご先祖が武士で江戸期から熊本にお住まいであり確認されれば、この並び鷹の羽紋の青木氏です。
武士であったかどうかは明治維新の本家の戸籍簿か、武士であれば青木氏本家の菩提寺の過去帳がありますのでそれを確認されると判ります。
或いは本家かお家に仏壇があり、宗派が浄土宗か浄土真宗でありますと、先祖位牌の中に先祖の戒名の書いたものがありますので、その一番古い人が江戸時代の人になって居るかを確認されると判ります。なければご本家にある筈です。
そのご本家も判らないとすると、玉名市の青木さんとは別である可能性が高まります。
実は、明治3年と8年に苗字令と督促令が出て、維新政府の指導もあり大半の姓の持たない武士以外の庶民が半強制的に周囲の氏名と家紋などを使って役所に届け出たのです。判別が付かなくなりました。それが維新政府の狙いでもありました。それまでの江戸期前の氏家制度の慣習を壊す目的から。
この庶民は江戸期前には氏を形成して経時的に管理する習慣そのものがありませんでした。
この事の確認が必要で上記の確認となります。
何をともあれ、ご本家には本家の勤めとして何がしかの古い証拠的なものがあると思います。
先ずは情報が少ないので上記のことをご確認ください。
そこで、この青木氏以外に来た九州からの青木氏と宮崎からの青木氏の移動が考えられるのです。
豊前、豊後、筑後地域に分布する青木氏と宮崎鹿児島地域からの日向青木氏が時代死の移動で考えられます。
前者は同じ藤原秀郷流青木氏で、後者は源の宗家頼光より4代目頼政の以仁王の乱の時に孫の高綱、宗綱、有綱が日向に配流され、そこで子孫を遺して青木氏を名乗りました皇族青木氏があります。
この2つの青木氏が肥後に移動してする事も考えられますので、時代性の確認が必要なのです。
ご不明な点やご質問などありましたらご遠慮なくお尋ねください。
雑談掲示板より代理投稿
お便り
はじめまして、私は祖父が熊本の菊池出身の青木です
家紋は菊池氏と同じ並び鷹です
丸など付いてないただの並び鷹です
祖父が亡くなる前に「うちの家は菊池の豪族だったんだ」と話はしていたのですが、詳しく聞くこともなく亡くなってしまいました
こちらを読ませていただいて、ある程度理解したつもりなのですが、菊池氏の方からは玉名市の青木村と関連があるのでは?というお話をいただきました
そのへんのお話もしわかるようでしたら教えていただきたく思いこちらに投稿させていただきました
もし、ご存知でしたらお教えください
こんなに丁寧なお返事を頂き,本当に有難うございます!
次の盆には主人の実家に遊びに行きますので,
ご説明の部分をプリントアウトさせて頂きたいと思います。
ちなみに私の実家の家紋はすぐに見つかりました。
丸に剣かたばみでした。確かに奇数ですね!
今回の件で,奥深い家紋の世界を僅かながらも垣間見たような気がします。
勉強になりました。有難うございました。
初めて投稿させて頂きます。
不慣れな為,乱文ご容赦願います。
私は,名前にある通り,少々珍しい苗字の家に嫁ぎまして,先ごろ長男を出産しました。
先日その長男のお宮参りにて,義母より晴れ着をお借りしたところ,
添付画像にあるような家紋が入っておりました。
しかし,調べても同様の家紋を見つけることが出来ません。
聞くと,義両親もかなり昔に家紋事典のようなもので調べたのですが,
判らず仕舞いだったそうです。
義両親の先祖は,長崎の佐世保で造り酒屋をしていた…らしいのですが,
それ以上の事は判りません。
ルーツまでは判らなくてもいいので,この家紋を何と呼べばいいのでしょうか?
外側は,「丸に」とか,「中輪」辺りでしょうか。
内側は,「唐花」,「六つ」,「変わり?」辺りが来るのでしょうか。
しかし唐花にしては,花弁に模様も入っております。
何分,俄仕込みの知識ですので,見当違いの事を言っていたらごめんなさい。
拙い文にて,大変失礼いたしました。
添付ファイルがjpegでは添付できないのでしょうか。
PCに不慣れなものでして,画像を添付して投稿することが出来ません。
函館の青木さん 今日は。
お読み頂けましたか。ありがとうございます。
この関係は専門的に調べ研究したわけでは有りませんでしたし色々な青木氏に関係する雑学からのもので充分なお答えになったかは疑問でしたが、喜んで戴いてよかったです。
青木氏の研究雑学からこの様なものを見に行きますと、その経緯などのことを知っていると余計に面白くなり、当時の青木氏の人々のナマの生き様が見えてきて益々興味がわきます。
私の教訓では”調べは一つの事に拘ると周りが見えなくなり狭い範囲の答えしか出ないので、雑学を増やす程度が幅広い知識から立体的な視野が出来て目的とするものが見えてくる”というのが長年の秘訣です。
つい最近でも昔幾ら調べても判らなかったものが今判ったとする物が在りました。
嬉しかったですよ。
函館の青木さんも大いにお楽しみください。
判らない事やご相談やご質問何なりとお尋ねください。
青木さん同士や青木氏に関係する他氏の方とも楽しく検証して行きませんか。
ではまたお便りお待ちしています。
函館の青木です。
早速の解説ありがとうございます。
こんなに、関わりがあるとはおもいませんでした。
せいぜい神明との関わり位かとおもっていました。
また、調べる楽しみがふえました。ありがとうございます。
先日、何気なく古い掲示版を見ていて、青森の青木さんが目にとまり読んだところ土地が近いせいもあるのか、同感でおもわず投稿しました。
たくさんの色々な青木さんがいるので、話をしてみたいです。
また、質問がありましたら、遠慮なくさせていただきます。
よろしくおねがいします。
函館の青木さん お久しぶりです。
如何お過ごしですか。先日の青森の青木さんにもお便りを頂きました。
勉強されているようですが、頑張ってください。なかなかルーツの歴史を辿ると云う事は難しいですよね。
知識の積み重ねが何かのヒントとして役立つので色々と広範囲に雑学を会得される事は良い事ですね。
さて、お尋ね頂きました事はなかなか範囲が広くてご説明が難しいですし、お答えする程の知識は無いと思います。しかし、楽しみの一つとして何とか知る範囲で書いて見ようと思いました。
それで、ご了解ください。
先ず、神明社は青木氏に大いに関係する事ですので、これから始めたいと思います。
「神明」とはそもそも、「天照大神」を祀る神社ですね。
この「天照大神」を祭祀したのは天皇家で、その最初に定めたのは大化改新の立役者の中大兄皇子です。後の天智天皇です。そして、この神明を伊勢国松阪の地に定めました。しかし、この時点では朝廷の皇位継承問題などで伸び伸びになり未だ正式な決定の形が取れていませんでした。その後天武天皇が正式に「伊勢神宮」を「皇祖神」として定めたのです。
(この時以来、5代の天皇の第6位皇子と19人の第4世族皇子は臣下して主要地の守護王と成りそこにこの皇祖神の支社を守護地に建立しました。これが各地に広まる原因となり、支社から更に各地に分社が広まりました。)
第4世皇子族の守護地
伊勢王、近江王、甲斐王、山部王、石川王、高坂王、雅狭王、美濃王、栗隅王、三野王(信濃王)、武家王、広瀬王、竹田王、桑田王、春日王、(難波王、宮処王、泊瀬王、弥努王) 以上19人/66国
これ等の地に神明神社が建立されました。
信仰の伝達手段が無いこの奈良平安期には、朝廷は政策としてこの地から神明信仰を広げるために先ず支社を建てたのです。そして、人民の安寧を図りました。
そして、この伊勢松阪の天領地を神明神社として重きを置くために天智天皇の皇子の施基皇子を第1位の守護王として配置させました。
この時には皇位継承制度の見直しで第4世王までを皇子とし守護王とすると定めました。
この第4世王までの内、第6位皇子以降は臣下させて賜姓し、各主要地の天領地の守護王とする事を定めたのです。この第6位皇子が5人の天皇から青木氏の賜姓を受けて配置されました。
(伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の5天領地)
天武天皇時には14の皇子の中の兄天智天皇の皇子の第6位皇子の施基皇子が守護王となり、この神明の皇祖神の伊勢神宮を護る役目を与えられましたが、それまでは、一代限りで中大兄皇子の政敵で叔父の孝徳天皇の子供が伊勢王と成っていました。
孝徳天皇の失脚と伊勢王の子供2人の突然の病死(政争)で天智天皇の施基皇子が勤める事に成りました。
この施基皇子は大変有能で天武天皇の相談役として働き草壁皇子の皇太子よりも2つも上位の身分となり多くの大化改新の改革に取り組みました。
(日本書紀にも最も多く出て来る人物でした。日本書紀と青木氏のレポト参照)
このために国司を送り「三宅連岩床」がこれを務めました。
この神明は「農耕儀礼」の神として信仰されました。
後に後漢の渡来人の帰化人阿多倍王らの子孫らの働きで各地(上記5国)で開墾に携わり著しく進み、この農耕の神明が伊勢神宮から各地に支社を作る事になりました。
上記19の守護王の国にも皇祖神の神明神社が建立されました。
これが全国各地にある神明神社の元と成ったものです。
現在は、約5000から小さいものを入れると15000もあるとされています。
この神明信仰にも後漢帰化人の阿多倍等の200万人の集団が次の観音信仰の伝導にも関わっているのです。
この神明神社の特長は、「神使」として「鶏」が定められましたが、この経緯から鶏の形に似せた鳥居があるのが特長です。そして、そこには地名として「鳥居」と云う地名が多く起こりました。
この神明神社の主要神社の地には皇族賜姓青木氏や藤原秀郷流青木氏や嵯峨期の詔による皇族青木氏が存在します。これは皇族守護神である為に守護王が支社を移設した事から始まっているのです。
平安時代は伊勢神宮の神明信仰が始まり、後半では熊野神社の熊野信仰へと信仰対象は移って行きました。どちらも同じ時期に建立されているのです。(熊野三山信仰から見るとやや熊野神社の方が早い)
天皇自らが伊勢神宮から熊野神社へと信仰の対象を変えて行く程の経緯が起こりました。
後に鎌倉、室町時代を通じて五穀豊穣を願って多く建立されたものなのです。
神明信仰は「鶏」が「神使」で五穀豊穣の信仰対象、熊野神社は「やたからす」を「神使」とし人の癒しを信仰対象と成っていました。
伊勢青木氏が主となり5家5流青木氏の護る伊勢神宮はこの神明神社の総本社です。
この伊勢神宮は朝廷より「不入不倫の権」が与えられて以後、神明神社はもちろんのこと、観音信仰の仏教寺院も打ち壊した織田信長に侵入されるまで護られました。
その信長の徹底した既成勢力の排除で観音信仰の総本山の比叡山は焼き討ちされ、もう少しで神明信仰の総本山の伊勢神宮も焼き討ちに合うところ、信長はその基点とする処の丸山城の建設を行います。「皇祖神の神明の地」のこれを守る為に伊勢青木氏、伊賀氏、北畠氏の3氏等が信長に挑みます。
伊勢青木氏は「2足の草鞋策」の経済力と伊勢シンジケートを背景に戦います。
そして、次男信雄を差し向けて全力をあげての戦いでしたが、信長の戦跡で只一つの有名な敗戦をします。この後、再び戦が始まりますが本能寺の変で信長は落命します。これで伊勢神宮は助かります。
この後、秀吉に命じられた藤原秀郷一門の蒲生氏郷は伊勢神宮と守護氏の伊勢青木氏を護り保護しました。その後、徳川氏に成って元に戻りました。
家康はこの「農耕の神」として「神明神社」を奨励します。
そして、伊勢神宮を保護し、伊勢松阪を紀州徳川氏の飛び地領とし伊勢青木氏を保護します。
それと同時に、浄土宗の督励令をわざわざ出して保護します。
そのために「神明神社」が各地に建てられ、下記に述べる観音信仰や阿弥陀信仰の著しい発展が起こりました。
平安時代の「熊野信仰」の「蟻の熊野詣」から、再び江戸に入り「神明信仰」の「お伊勢参り」へと移って行ったのです。
次ぎは「観音堂」ですね。
618年頃に後漢が滅びそのときから後漢の人たちは渡来人として帰化人としてきました。その第1陣に渡来した鞍造部の首魁の「司馬達等」(司馬氏の始祖)により私伝導された仏教が広まり、その後漢の配下の者達はその信仰の対象として釈迦観音像を彫りこれを祀りました。
これが始まりです。
その後、この後勘の帰化人を率いて来た後漢光武帝より21代の末帝の献帝の子供の阿智使王とその孫の阿多倍王がこれらの渡来人をまとめ日本66国中関西以西32国を無戦の状態で制圧し配下にしました。
この首魁の阿多倍王は南九州の大隈地方に住み着きました。帰化後朝廷よりこの大隈地方を薩摩国を半割譲して正式に与えられました。
更に朝廷から呼び出されその200万人の集団を率いる阿多倍に対して伊勢の北部伊賀地方をも半割譲して与えられました。
この時、阿多倍王は敏達天皇の孫の芽淳王の末孫の娘を娶り准大臣に任じられました。
そして、3人の子供を生みましたが、長男は阿多倍王が後漢から率いてきた軍を元に朝廷軍を任されて坂上氏を賜姓され、初代の征夷大将軍となり日本全土を制圧させました。
次男は後漢から引き連れてきた事務官僚集団を元に朝廷の財務を任されたのです。そして賜姓を受けて大蔵氏を名乗りました。三男は天皇家の財務を任され内蔵氏の賜姓を受けました。
このころの政治体制は3蔵と云い、朝廷の祭祀一切を執り行う「斎蔵」(藤原氏)と「大蔵」と「内蔵」とで構成されていました。阿多倍子王の子孫は軍と2つの権力を握ったのです。
これ等の200万人とそれに慕う倭人とがこの仏教に信心をしていたのです。
これを祀るところに堂を作りそこに観音様の像を彫って観音信仰が始まったのです。
神明信仰とほぼ同時期に仏教の観音信仰も始まったのです。
関西以西32国以外にも上記する5天領地の開墾も行いますが、この地にも当然に観音信仰は広まります。そして、観音信仰と神明信仰は彼らに依って同時に伝導されたのです。
これが、奈良時代の大化の改新の前の物部氏の神明信仰と蘇我氏の観音信仰とで国の信仰対象をどうするかで争いを起こしました。(聖徳太子の時)
結局、蘇我氏の観音信仰が勝ち、その観音信仰の人々を背景につけて勢力を伸ばしたのが蘇我氏なのですが、その後この事を苦々しく思っていた中大兄皇子は蘇我氏を打ち倒して歴史ある神明信仰を再び呼び起こして、伊勢にその拠点を作りそれを「皇祖神」として定めたのです。
しかし、観音信仰も朝廷は取り入れて神仏融合の策を取り入れて共に発展したのです。
農耕民族の所以ですね。従って、朝廷は「神明信仰」は「皇祖神」としながらも農耕の神として位置付けて融合を図ったのです。
物部氏(高句麗)、蘇我氏(百済)はともに450年代の初期の帰化人で勢力争いをしていました。
(飛鳥時代の大和政権の主要5族 紀氏、巨勢氏、葛城氏、平群氏、物部氏 物部氏は兵の集団)
実は観音信仰の仏教をもたらした阿多倍王に付いてこれがもう一つの毘沙門天の解説に繋がるのです。
この像を最初に彫った後漢の帰化人「司馬達等」の孫の「鞍造部止利」が飛鳥時代の殆どの観音様の像などを彫ったのです。実は伊勢青木氏の賜姓時に天智天皇から与えられた現有する護本尊の「大日如来坐像」はこの鞍造部止利の作です。
恐らくは、朝廷と後漢の帰化人200万人とそれを慕う大和人の何百万という人を心の救いとしてこの観音信仰をも国家安寧の為に推し進めたのではないかと見られます。
それを観音仏像を彫る事の出来る鞍造部の首魁の司馬氏に委ねたと見られます。
多分、「司馬達等」(歴史作家の司馬遼太郎氏の始祖)なる人物はそれを成すその様な大きな人物であったのでしょう。
そして、後に遂にこの阿多倍王の末裔9代目に観音信仰の神として神格化されるほどの大人物が生まれるのです。
観音信仰の観音菩薩を祭祀する礼堂として、奈良時代から平安時代にかけて六堂伽藍方式として中央本堂に安置される仏像です。この本堂を護る神として毘沙門天などを祀る四天王の堂があるのです。
六堂伽藍方式には飛鳥寺方式、四天王寺方式、法隆寺方式、東大寺方式があります。
観音堂を祀る本堂と左右に金堂、中央に観音様の骨を安置する舎利塔が配置され、後ろには毘沙門天などを祭り配置する方式で、中には四天王全てではなく毘沙門天だけを祭る堂が配置される形式もあります。
次は毘沙門天です。
「毘沙門天」は「多聞天」ともいいますが、四天王の一つで、後には「増長天」、「持国天」、「高目天」があります。東大寺や興福寺にはこの四天王が祭られています。
毘沙門天、つまり、多聞天は吉祥天の夫とされています。
多聞天は財宝、福徳の神でもあります。七福神の中の一人でもあります。
伽藍最前線には南大門を配置し「仁王様」が守護神として祭祀されて祭られます。方式により中門があります。中央塔の左右には東西の金堂が配置されます。そして、南大門より最も後ろの北側の中央に位置する講堂が配置されます。
「六堂伽藍方式」です。
菩薩様、如来様、天神様を左からの順序で格がつけられてこれを「3神格」と云います。
そこで、上記したこの四天王の仏像のモデルになった人物が居るのです。
それは、阿多倍王の次男の末裔の9代目の「大蔵種材」と云う人物です。
この者は朝廷の官僚として働き、九州全土の治世を任されます。朝廷より始めて「錦の御旗」を与えられた人物で以来正式にこの御旗を与えられた人物はいません。個人に与えられたのです。
阿多倍王が征圧した九州全土の政治軍事の一切を任された人物です。「遠の朝廷」と呼ばれていました。
官僚でありながら、日本一の武勇を持ち、平安時代当時、中国、朝鮮半島から九州に武力を使っての侵略、略奪やボートピープルが頻発しましたが全てを完全に制圧した実績を持っています。
日本の彼等が成した豊かさの為に津波の様に押し寄せたのですが、彼と朝廷は治安の維持のために最早帰化を許さなかったのです。
又経済でも、阿多倍らが引き連れてきた200万人に及ぶ技能集団をよく統率し、その技能を九州全土や関西以西の中国地方にも拡げて経済は著しく良くした事でも有名な政治家の人物です。
現在の第1次産業の殆どはこの後漢の技能集団の帰化人の末裔で発展したのです。
ですから九州には瀬戸物や製鉄などの一時産業が多いのです。
経済も含めて貧困から大富をもたらした万能人で、当時は平安の「万能の神」とも崇められた人物です。
この神格化して当てたのが毘沙門天なのです。
実際の毘沙門天等の姿のモデルにも成っているのです。
この彼は平安の日本一豪傑でありその代名詞に成っている大蔵氏の末裔です。後にこの人物は余りに資質剛健であったので神を護る者として神格化されたのです。
毘沙門天はこの「大蔵種材」の勇士姿を後に崇めたのです。
恐らくは、妻の吉祥天は大蔵種材の妻をその功を証し崇めたのではないかと思われます。
その為に、鎌倉時代から室町時代にかけてこの毘沙門天を「侍の鏡」として崇められ、「毘沙門天信仰」が武門の間で起こったのです。
仏教は飛鳥奈良時代からの観音菩薩の「観音信仰」から始まり、平安時代からは浄土宗の阿弥陀如来信仰が起こり、鎌倉時代からは毘沙門天信仰(四天王信仰)が時代の状況に合わせて起こります。
そこで、この後漢の渡来人の帰化人の阿多倍王は伊勢伊賀地方に領国を与えられ定住していましたが、阿多倍(後に高尊王と呼ばれていた 朝廷の記録では平望王と呼ばれていた)の孫娘の「高野新笠」が光仁天皇と結婚しその子供が桓武天皇となりました。
桓武天皇の子供に平城天皇と弟の嵯峨天皇があります。
この光仁天皇は施基皇子の子供で長子の皇子で、第5位までの皇位継承者がなく第6位皇子の施基皇子の末裔が天皇を継承しました。伊勢青木氏は光仁天皇、桓武天皇、嵯峨天皇まで血縁族と成ります。
そこで、この阿多倍王の2代目後の末裔の貞盛が独立国を作るとして反乱した「平の将門乱」を藤原秀郷とともに鎮圧しました。藤原秀郷は藤原秀郷流青木氏の始祖です。
平貞盛より5代後が太政大臣平清盛です。清盛は敏達天皇の末裔にして桓武天皇の末裔でもあります。
当然、阿多倍王の子孫とも成ります
桓武平氏と呼ばれ、桓武天皇より青木氏の賜姓を中止し、皇族7世族の「ひら族」の坂東八平氏に似せて「たいら族」として母方の一族を賜姓したのです。その末裔が平の清盛です。
大蔵氏や内蔵氏や坂上氏や内蔵氏やそこから出た阿倍氏は血縁族です。
その祖先の毘沙門天のモデルとなったのもこの一族です。
余計談ですが、伊賀忍者は阿多倍一族のこの末裔です。
伊勢青木氏は天正の乱の時にこの伊賀人が信長から攻められた時に奈良時代からの付き合いのある彼等を救い信長と戦い勝利します。信長の只一つの敗戦です。歌舞伎にも成っています。
伊勢には松阪の神明信仰と、隣の伊賀地方には観音信仰が共存し、伊勢青木氏には神明信仰と古代密教の観音信仰(平安期には青木氏は阿弥陀如来の浄土信仰)が共存していた事になります。
しかし、奇しくも5家5流の賜姓青木氏はこの同族の桓武天皇と隣の伊賀の観音信仰を推し進めた阿多倍子孫に圧迫されて一時衰退します。
この時期、恐らくは同じ仏教でも司馬達等による後漢伝来の古代仏教の観音信仰と、古代浄土密教の阿弥陀如来信仰が対立したとも考えられます。
現に、平安時代に法然上人の浄土宗密教、弘法大師の真言宗密教、最澄上人の天台宗密教の3密教による激しい宗教論争が起起こっています。
それぞれの立場と考え方と信者層が異なっていた為に、観音菩薩信仰、阿弥陀如来信仰の密教の位置づけについて論争が起こりました。
桓武天皇の子供の嵯峨天皇はこの桓武天皇の賜姓に対して反発して再び第6位皇子を源氏として変名して賜姓源氏として戻したのが嵯峨源氏です。これより花山天皇まで11代続きます。この時青木氏は皇族の者が下族する際に使用する氏名として使用を禁じたのです。この青木氏が皇族青木氏です。
これらの青木氏が自ら神明信仰と古代密教を下に伝導の手段の少ない時代の各地に神明神社と浄土寺を建立し観音信仰等を広げた核とも云えるのです。
観音信仰の下に四天王の天神様のみを信仰する事も広がりました。大阪にある四天王寺はこの対象です。
さて、青木氏に関わる歴史的なこととして記述しましたが、学問的で仏教的な事は書籍やインターネットなどをご利用ください。
ご質問など有りましたらまたお便りください。
函館の青木です。 楽しくみています。
教えて戴きたい事があります。
神明社、観音堂、毘沙門堂について由来、歴史など。
簡単には無理でしょうが、お願いします。
青森の青木さん
函館の青木です。
私も同感です.
北海道に暮らせて良かったと思っています。
私も自分のルーツに興味を持ち調べていた所、青木さんサイトがある事を知り投稿しました。
「函館の青木」欄を見てください。
年に1、2度 昨年、今年と青森の図書館などに通って資料など読んでいます。
そう簡単には先につながる手掛かりは見つかりませんが。
青森に行くのも楽しく、行く時にはワクワクしながら通っています。
お互い気楽に生きましょう。
始めまして
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
青木氏氏のサイトは全国の青木さんが集うサイトで歴史に付いて青木氏に関する事を研究しているサイトです。
膨大な資料を研究室などにありますし、家紋のことなども家紋掲示板や研究室の「青木氏の血縁族」(家紋)等にもレポートしています。この中には橘紋の青木氏も有りますので、ご覧下さい。
さて、お尋ねですが、井上氏と青木氏との繋がり判りませんが、色々と疑問点が有ります。
先ず、御祖父の祖祖父の方が彦根藩城主の姫様と結婚したとの事ですが、御祖父の方は明治の手前の慶応の頃、その祖祖父で在れば江戸末期で明治前60−80年前頃の人と見られます。
彦根は井伊直弼の居城、井伊直弼は「井伊橘紋」を使用したのですが、この時代の人である事を意味しています。時代は井伊直弼は1815年から1860年ですから1815年前後15年と成ります。
従って、封建社会で氏家制度の慣習の中で、身分制度が確立している江戸時代、お家の御職業は刀鍛冶の職人であるとすると、この武家の藩主の井伊氏の最も栄えた頃の姫様と血縁する事は家柄吊り合いから有り得ません。
この井伊家は「丸に橘紋」の「井伊橘紋」と云う紋ですから、「菊座橘紋」とは異なります。
文様は橘の実のところに菊を用いた紋ですが、当時は天皇家の紋所の菊を家紋に使用する事は禁じられています。
しかし、ここで、ただ一つ可能性があります。
刀鍛冶は良い刀を作る事が出来る職人であると、藩主から「姓」と「・・の守」を与えられる慣習が有りました。
一代限りの「青木姓」と「筑之守」等の官職の称号が与えられたのです。多分それと見られます。
この時、明治3年と8年に全ての庶民は苗字令により「名字と家紋」を持ちましたが、現在御実家などが青木姓であるならば、この時に青木氏を永代の姓として用いたものと考えられます。
正宗や村正などの多くの刀鍛冶の名人は、刀は武士の魂として藩主から藩の誉れとして、一代限りの「姓と官職」を与えられました。
そこで、では”何故青木氏が与えられたか”と云う疑問です。
実は、これには根拠があるのです。
滋賀には「滋賀青木氏」と云う氏の末裔が多く定住しているところなのです。
この滋賀青木氏には、元は平安末期から立身出世を夢見て、伊勢伊賀の西に「上田郷」と云う村が有りましたが、この村の若者が武士になり、それなりの勲功を挙げて上田氏を名乗りました。
鎌倉時代を経て室町末期の戦国時代に後にこの上田氏は織田氏の家来となり、やっと武功を上げて家来を持ち豪族となりました。
この時、上田の姓を名乗って居ましたが、上田郷の縁者と農民の若者を呼び寄せて一団を作りましたが、家柄が無い事から更に良い出世ができないと観て、滋賀に平安時代から定住していた地元の皇族賜姓近江青木氏の分家の断絶した家を探し出しこの家を乗っ取り、その分家青木氏の縁者娘と云う者を探し出し立てて養子縁組を作り出し結婚しました。強引に青木氏を興したのです。
上田姓から、奈良時代からある皇族賜姓青木氏の青木氏を名乗ったのです。
青木氏は嵯峨天皇が皇族の者が名乗る氏として「嵯峨期の詔」を発して使用禁令は明治3年まで原則守られました。しかし、この室町期の戦国時代末期の混乱期には護られなかったのです。
そこで、この近江の皇族賜姓青木氏は平安時代に赴任の為に一時一族が滋賀に移動します。
滋賀の守護職等(8つの赴任地)を多く歴任していましたが、平安末期より鎌倉幕府が出来て失職して元の近江に一族一門は戻ります。
この時一部の分家支流が滋賀に残りましたが室町時代初期に絶えてしまいます。
この絶えた皇族賜姓近江青木氏の分家支流を使って家柄を作り出しましたのが上田氏なのです。
そこで、この摂津に定住していた近江青木氏の本家がこのことを後に知り、怒り、この上田氏と2度戦いましたが、決着が就かず近江青木氏本家は秀吉に告訴しました。
この時、秀吉は”決戦して決着を就けよ”と命じました。
秀吉立会いの下で、結局、近江青木氏本家(摂津青木氏)は負けてしまったのです。
この元上田氏の青木氏の子孫が滋賀青木氏なのです。この青木氏は末裔を大きく広げました。
賜姓青木氏には橘紋の青木氏は有りますが、菊座橘紋はありません。
この家紋と青木姓は上記した職人紋と氏名なのです。
代々その刀鍛冶の頭領に成った血縁のない職人長の者が引き継ぐ氏名と家紋なのです。
青木氏には幾つかその集団があるのです。
他には画家などの芸術家や神職や住職や宮大工の青木氏伝統の一代限りの血縁のない職人集団の「継承氏名」なのです。
この青木氏には一部の研究の結果把握している所で2−3の家紋が確認されていますが、実は滋賀の菊座橘紋の青木氏は把握されていませんでした。
そこで、では、”何故、菊座紋なのか”と云う疑問ですが、もうお判りと思います。
彦根井伊氏の「井伊橘紋」に皇族青木氏の皇族菊紋を加えて変紋の家紋を作ったものです。
恐らくは禁令の菊文様を使っての事は井伊藩主から与えられた可能性があります。井伊藩には当時朝廷に伺いを立てずともその様な与えられる力を持っていました。
刀鍛冶や画家には各藩は藩の誉れとして競ってこの様な仕来りを持っていたのです。
皇族賜姓青木氏とは天皇の第6位の皇子で臣下する時に与えられる天皇自ら与える氏名なのです。
皇族賜姓青木氏には、近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏の5家5流があります。天智、天武、文武、聖武、光仁の5代の天皇の第6位皇子の末裔です。
この5氏は現在も末裔子孫を拡げています。
他にこの賜姓系列の青木氏には、摂津青木氏、日向青木氏、伊豆青木氏、諏訪青木氏、一部滋賀青木氏等があります。
他に皇族青木氏には丹治系青木氏等の5氏があります。(嵯峨期の詔の青木氏)
藤原秀郷流青木氏には116氏の青木氏があります。
滋賀青木氏には果たして青木氏分家の縁者娘に血縁性があるかは確認されていません。
恐らくは、お家が云う青木氏は職人氏名の「継承青木氏」で明治期に正式な氏名としたとものだと思います。
初代の長が滋賀青木氏で有ったかは不明ですが恐らく滋賀青木氏であったと考えます。
その根拠は、平安末期からの刀鍛冶は元は武士の出身の者が殆どなのです。
青木氏でない者が長になると血縁性が無くても養子縁組の形を採り青木氏を引き継いでいますので、
初代の青木さんとの血縁性があるかは疑問です。
刀鍛冶集団は世襲制では有りませんので。渡世制です。
先ず、次ぎの事を確認されると上記の事ははっきりとしますよ。
まず、お家のご本家の菩提寺に過去帳があるか、あるとしたら、その過去帳に載っている一番古い人の俗名と戒名が判ればその内容でもはっきりとします。
ご本家の明治初期の新戸籍簿に記載されている内容で更に検証が進みます。
お家のご本家の江戸時代の宗派が何であったかでも進みます。
一度お調べに成ってください。
橘の紋の橘氏は藤原氏に徹底的に潰されましたので、子孫末裔は極めて僅かに限られた場所にしか定住していません。近江、滋賀地方付近にしか無い氏で、衰退滅亡したとされる氏で僅かに遺された末裔でもこの家紋と氏名を名乗る事は憚られました。それは「衰退する」氏名と家紋として明治の始めまで忌み嫌われたのです。橘紋を使用する事は明治期末まで習慣として嫌われていました。
井伊橘紋は日蓮上人の末裔として日蓮上人が使っていた僧紋を用いたとされています。
この様な事からお家の家紋は上記の経緯から家紋と考えられます。
お家の付近にある青木さんは滋賀青木氏です。
お家が青木さんと関係あるとすると「継承氏名」の青木さんと成ります。
普通はこの継承氏名の職業集団の青木氏の家紋には集団性を示す為に家紋には「囲込み紋」と云う方式の家紋を使う事に成ります。
ですから、そこから観ると菊座橘紋は井伊家から拝領した家紋と観られます。
この近江賜姓青木氏は後に摂津青木氏に成りますが、この賜姓青木氏に付いては青木氏のレポートに詳しく記述してありますのでお読みください。
何かお判りになりましたらご遠慮なく又お尋ねください。ご協力いたします。
はじめまして 青木さん
私の姓は青木ではありませんが、家紋とルーツのことを調べていて
こちらにおじゃましました。
いままで家の家紋が彦根橘だと 思っていましたが
最近それが違うことに( 家紋は菊座橘だと判明 )
気づき色々と調べていると
青木の姓で行き詰ってしまいました
祖父の生まれた場所は 滋賀県甲賀郡石部町です
祖父から見て 刀鍛冶だった ひい爺さんが 彦根城の青木築之守の姫様と
結婚したと 聞いていましたが、彦根城には青木という藩主は居ないと言われました。
現在も滋賀県甲賀郡石部町に青木さんの姓の方は住んで いらっしゃいます。
実際に青木築之守といわれる方は存在してるのですか?
又 青木さんに 菊の家紋との関係は
あるのですか?
判明した家紋の菊座橘もとても珍しいらしいのですが
墓石も家紋の変更もしなくてはならないと思うと
はっきりしたルーツを解りたくて
お邪魔しました。
宜しくお願いいたします。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | |