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ルーツに興味があるのですが、
北海道以前のことがあまり分かりません。
サイト読ませていただいたのですが、
父の結婚以前の戸籍謄本位しか残っておらず
自分がどの系統なのかよくわかりませんでした。
祖父母の代に、北海道紋別市在住→昭和初期に北海道北見市に移転
先祖は福島の武士だったと伝え聞いた
家紋は三つ巴
少ない情報ですが、宜しくお願いします。
静岡の長嶋さん 今日は。
大変ご努力されている様ですね。
推理を働かして少しづつ前に進めて行くとほぐれた糸が解きほぐれてきます。
これが楽しいのですよね。推理が当った時の嬉しさはスポーツの勝利の楽しみと同じですね。
お家のルーツ解明の問題としては、今は不祥の誰が肝付氏と血縁したのか、何故不祥に成っているのか、この処を解明する必要が有りますね。
肝付氏は大蔵氏族ですから、大蔵氏側にヒントがあるのか、肝付氏側にヒントがあるのかと云う事の解明ですね。
何か事件性が感じるのです。肝付氏の長嶋氏の元祖が不詳に成っているのは何故か。後ははっきりと判っているのに。
何か問題を起して廃嫡処分等に成った事が考えられ、この時代は戦国時代でこの廃嫡が多く起っていたのです。
1継承者がこの時代を切り抜ける為の能力が無かった場合
2継承者が何かの理由で大蔵氏か肝付氏の何れかの人物にある場合
3事件を起して系譜から抹殺された場合
等が考えられます。
私は2の場合が強いと考えています。
この時代だけに背景に1と3も原因していたと観ています。
”兄兼重が大きすぎるためか”のお家の推理は当っていると観ます。
私と同じ考えです。
そこで、系譜の成り立ちを添書と良く見比べながら、この間ある推理説に付いて見直しで調べておりましたが、系譜に一箇所疑問のところを発見しました。それが次ぎの通りです。
次ぎの推理ではこの「不祥」とする点が解決します。
肝付氏側から見た場合
”「兼重」の1子の「周防守秋兼」を宗家の「肝付兼尚」の娘に養子に出し宗家の跡目とする”とあり、”この「兼重」の弟「兼成」の1子の「左衛門尉兼幸」を・「赤子」の時から養子に迎えて養い後に嗣子にした”としていますから、分家の自分の子供を、既に嫡子のある「兼尚」の宗家に出してその娘に養子とし同族血縁で跡目を継がし、跡目の無くなった自分は弟の部屋住みの「兼成」の「子」の「兼幸」を「子供」の頃から育てて養子にし自分の分家の跡取にしたと言う経緯があります。
上記の添書の”子供の頃から”と云う字句が問題です。
つまり、”始めの頃からこの宗家に対する戦略を練っていて実行した”と云う事を意味します。
それだけに「宗家に対する危機感」を有していて何とか「肝付氏」を護ろうとしていた事に成ります。
当然に現状の立場を保守しようとして宗家筋からは猛烈な反発が出る事は必定です。
その危機感は、「島津氏の台頭」と「宗家の無能」であったと観られます。
恐らくは、宗家筋から観た場合は分家筋からは「乗っ取り」と成るでしょう。かなりの内紛があった事に成ります。
故に「兼俊−兼重」側からは「系譜の不祥処置」や「長嶋氏(永嶋氏)の出自」で事態を納めようとしたと考えられます。現実に確固たる人物の跡目を据える事で”事態は一時納まった”と成ります。
但し、もう一つの危機の「島津氏台頭の件」は保守派と強行派との対立が再燃し、「高山城の戦い」で強行派の通りに火蓋は切られます。結局は「親子対立」の様相を呈する事に成ってしまったのです。
これでは、この時点で「兼俊−兼重」の立場は「悪者」「裏切り者」として扱われて無くなってしまう事に成ります。”系譜を消される”とは成らないが「不祥処置]は免れないでしょう。
後の肝付氏の一族一門からは逆恨みが「口伝」として伝えられていた事を物語ります。
事前に「兼俊−兼重」は島津氏との間で「裏工作」をしていた事が覗えます。
その証拠に「肝付氏敗退」では島津氏は肝付氏を阿多地域と肝付の領国を与え家老に抜擢したのです。そして、血縁関係を結んだのです。
これは島津氏が明らかに初期の「兼俊−兼重」の「血縁関係などの裏工作」を信じていた事に他成りません。下記に記す戦いの経緯でも兼久の高山の初戦から兼続26まで勢力を戻していますから島津氏は手を引いていた事に成ります。結局、29代で決着を就けて敗退するのです。
「兼尚」には妾子の嗣子が一人居た事が判っていますが系譜には「某」(不祥)としか出てきません。
添書には”若年にて早世”とあります。
恐らくはこの時代の厳しい武家の慣わしから「亜子」であった可能性があり、または「亜子」として扱われた場合や、廃嫡され場合に依っては充分に抹殺された可能性が高い事が考えられます。
「亜子」で無くても嫡子に価しないと観られた場合、或いは困難と観られた場合には抹殺されるのがこの時代の名門宗家の仕来りですから、当然にこの系譜の様に系譜上には「某」として扱われ「若年早世」とか書かれるのが「慣わし」です。
恐らくは545年以上も長期間一族を維持して来た事には、乱世に置いては並大抵の事では維持できません。同族結婚を主体とした「民族氏」の大蔵氏族ですから隔世遺伝で必ず「弊害子」が出てくる事は間違いは無く、その為に「妾子」を多く作るようにしている訳ですから、同族結婚からの弊害(亜子)が起っていた事が考えられます。
この宗家の「兼尚」も多少其の傾向を持っていた事が考えられ、宗家跡目としての力量に疑問が有って、分家本家の「兼俊−兼重」が一族の実権を握っていた事でそれを物語ります。
つまり、宗家の「兼尚」の存在が完全に無視されています。
此処では「兼俊−兼重」の宗家の代理として実権を振るっています。
それならば戦国の世の慣わしからすれば自分「兼俊−兼重」が宗家の跡目と成るのが当り前の慣わしです。然し、分家の侭に実権を握っているのです。
だから、此処が重要なポイントで、故に肝付氏ではなく「永嶋氏−長嶋氏」を名乗ったのであり、そうする事に依って、”一族一門の反発や不満を押さえ込んだ”と観られます。
”分家が本家を乗っ取った”とする本家側の勢力を交したのではないでしょうか。
重要なのは、「兼重」と「兼尚」の関係と、「兼成」−「兼幸」の養子の問題の事件性です。
この系譜が変です。
何故、「兼俊−兼重」は宗家を思うままにこれ程の実権を握っていたのかが先ず疑問です。
この4人の何れかが大蔵氏との長嶋氏(永嶋氏)の名籍を継いだ血縁者である可能性があります。
もしそうだとすると、「継承者不祥」の問題は解けます。
その4人の中で”最も可能性の高い人物は誰か”と成ります。
実権的には「兼重−兼成−兼尚−兼幸」と成るのではないでしょうか。
それに「秋兼」は妾子ですが、宗家の跡目にした事も変です。
本来であれば宗家の跡目となると正妻の嫡子と成ります。
恐らくは弊害子の出ない妾子で総宗本家を立て直す戦略に出たと考えられます。
故に「秋兼」は妾子でありながら、且つ分家でありながら、”周防守の職位”を得ており、「兼幸」は”左衛門尉の官位”と、本流宗家が継ぐ官位官職を持っています。既に宗家分家は逆転していた事と、「兼尚」に官職が無い事はそれ相当の宗家の能力が無い事を認めていて朝廷や幕府は認めていないことを物語ります。
実権は明らかに分家側にあり朝廷と幕府はこの状態を認めていた事を意味します。つまり本家にしか与えられないものが分家筋に与えられていた事から既に本家としての機能を果たしていた事に成ります。
更に、「兼俊と兼重」にも与えていない所からこの二人は別扱いとして分家であり、肝付氏とは異なる立場、つまり長嶋氏(永嶋氏)であった事に成ります。
子供の2人が与えられている事はこの二人は長嶋氏(永嶋氏)の出自でありながらも上記した宗家の跡目に入り肝付氏の宗家の身分と成った事で官位官職を得た事を意味します。
更には単純には官位官職は与えませんから、宗家としての実力能力が認められての事ですから、この実権を握れるには「兼尚」を抑えられる同族の中でも身分家柄で上位にある者と大蔵氏の背景を強く持っている物と2つと成ります。
もちろん実力も備わっての事ですから、「兼重」かその親である「兼俊」の「兼俊−兼重」の背景があります。
さすれば総宗本家の大蔵氏の背景があり何よりの宗家を牛耳るだけの実力の背景と成りますと「兼俊」か「兼重」と成ります。
もしこの2人とすれば説明がついている事ですから「系譜不祥」は解決します。
この系譜の添書に書き入れる必要が無い事に成ります。十分に「読み取れる人物」として考えられるに依って、後日”系譜を作った時に編者は書き入れなかった”と云う事に成ります。
「兼俊」か「兼重」かの問題ですが、年代数から観ると親の「兼俊」と考えられます。
実力を出せるのは「兼尚」の年代にあわせると「兼俊」の子供の「兼重」と成るでしょう。
兎も角も「兼俊−兼重」が長嶋氏(永嶋氏)の継承者と考えます。
もしこの肝付氏の中にもう一人の人物を入れるとすると、当時の平均年齢から見ると年数的に多少無理と成ります。
また、「兼俊」が長嶋氏(永嶋氏)の名籍を継ぎ肝付氏一族の中で発言力と実力を発揮するには先ず基盤を構築せねば成りません。直ぐに分家「部屋住み」の者が肝付氏宗家に発言するには一族一門は黙っていません。
そうなるとその基盤を基に何時の世も優秀であれば2代目の分家筋が強く成るのが必然で条理です。
一族一門を束ねる度量と器の人物が招き入れられるが戦国の名籍の条理ですから、そうなると「兼重」がその道を歩んでいますから考えられるシナリオですので矛盾は少ないし、「兼重」が分家である事から一致します。
仮に、ある人物が長嶋氏(永嶋氏)を継承したとして、系譜上に乗らない添書に乗らない人物とは戦国の時代での考えられるのはただ一つは一族一門の裏切りによる廃嫡です。
当然に系譜からはその系譜の編集者の個人的考えで名誉ある名籍の系譜から抹殺する事が起こるのがこの戦国の武家の系譜です。
では、「部屋住み」が長嶋氏(永嶋氏)の名籍の分家を興したのに裏切り行為で系譜末梢と成ると、当時、争いの火種に成っていて台頭して来た島津氏との関係です。
現実に其の後(兼久)に高山城で火蓋が切られています。
島津氏と政略結婚で平和裏に進めようとする派閥と戦いで決着を就けようとする派閥との争いと成ります。
迫り来る島津氏の勢いに対して、一族一門は協議を重ね戦略を如何するかの激論を交されていたと考えられます。
この時の兼尚の押さえ込みと兼重らの宗家の跡目問題等はこの時に起こっていた事件ではないかと考えられます。
そして、推理の域を越えませんが、「兼俊−兼重」派は平和裏に政略結婚を勧めて収めようとする派に成り、宗家に跡目に入れた子供の秋兼との間で意見の対立が起ったのでは無いでしょうか。
結果は宗家の戦い派が主導して行った事に成ります。
そのために肝付氏の系譜には長嶋氏(永嶋氏)の継承者が不詳扱いにされたのではないでしょうか。
然し、「不祥」扱いにしても添書から観れば”継承者は誰であるかは一目瞭然に判る様にしていた”と考えられます。編集者は引き継がれて来た「事件性のある口伝」をこの様に”工夫して系譜上に遺した”と考えられます。
恐らくは、545年もの続く名籍であり大蔵氏や藤原氏からすればからすれば800年くらいの超名籍ですから平和裏は少数派に成ると考えられます。
然し、実際はこの戦いから肝付氏は衰退を起します。
文書ではこの後にすぐに、”永正3年八月、島津忠昌(忠久より11代)当城(高山城 山元城)を抜かむとして攻め来る。城主肝付河内守兼久(長嶋氏の元祖)は密に志布志城主新納忠武に援を乞う。忠武不意に島津の営を襲う。忠昌利あらず、同十二月兵を収めて鹿児島に退く、・・・云々。と有ります。
又、二十六代の河内守兼続は「日向」(諸邑・諸県)を併せて兵勢盛なり。二十九代の左馬助兼道に至り、徐々に勢い衰え僅かに高山(一邑)のみを保つ至り、天正八年遂に島津氏に属して薩摩阿多に移る。その後・・・云々。”と有ります。
”邑”は村の意 「邑、村、郡、県」 長嶋氏(永嶋氏)の親族が集まって集団を形成していた証拠の地名が明記されていて、その地名は何と”一”と”諸”で一族の家柄を物語る地名にしています。”一つ”と”全て”ですから「分家」と「本家」か、「裔」と「祖」か等の意味として取れます。この意味からすると、日向は現在の地名が”諸県”で昔は”諸邑”なので「祖」であるとして「永嶋氏」で、高山の一邑は「末裔」(分家)の「長嶋氏」と読み取れます。現実に史実はその様に成っていますので、上記した異変の様子を明らかに物語ります。
この戦いでも新納氏は島津氏を裏切り攻めています。この様に肝付氏は大変な時期に成っていたのです。
この事から一族一門の意思を統一する為に長嶋氏(永嶋氏)の継承者は抹殺された事も考えられます。
むしろ、「長嶋氏(永嶋氏)の継承」も肝付氏を名乗る事を拒まれて自ら大蔵氏系永嶋氏から伊勢族の長嶋氏(永嶋氏)の名籍を後に名乗った事も考えられます。
故に、廃嫡で生き延びた末裔が長島氏、長嶋氏、永嶋氏、長嶌等の名乗りが興ったとも考えられます。
第3氏でない限り「氏の呼称」の乱れは何かを物語って見逃す事の出来ない要素と云えます。
中でも阿多では長島氏、肝付では長嶋氏、肝付との国境の大口付近から日向までは永嶋氏と成ります、
お家の静岡に移動した人は長嶌氏を名乗っているのも、後に本来の長嶋氏に戻したのもこの経緯から来ているのかもしれません。
鹿児島を離れ愛知に移動した事と商いに従事した事で「長嶌氏」とした可能性がありますね。
それを次ぎのお家の養子の方の時に明治維新にも成った事なので肝属の長嶋氏に戻したと考えられますね。上記する鹿児島の肝付氏の厳しい慣習が外れた事で戻したのではないでしょうか。
戦国時代に伝統あり超名籍の「氏呼称」の字句を変えるのはこの様な異変によくある事象なのです。
ただ名籍が歴然として永嶋氏から継承されて肝付氏の膝元に遺されている訳ですから、この場合は誰かを廃嫡された継承者の人物に代わって跡目を肝付氏一族一門は継承させている筈です。
これが、「兼俊」か「兼重」に成ると観ている訳です。
この2つの推理説の何れにしても「不祥」であって「不明」ではないのです。
何れにも、「兼俊」か「兼重」が無理なくマッチングします。
つまり後勘から観ての前者説や後者説にしても系譜編纂時の編者の思惑が働いていることを意味します。
実は、系譜偏集者不明です。 普通は書き記しとして”編集者”と ”後勘に問う”とか”後勘に備う”のが系編集の際の最後の字句が決まり事です。 手紙で「長嶋・・」と書き「敬具」とか「草々」と記す様に。
この決まりの印が無いのも変ですし、編集者が書き記し難かったと観られ、この事からも長嶋氏に「氏呼称」の乱れがあった事が明らかに覗えます。
事件性として「氏呼称」に最後まで尾を引いていた事が判ります。
そこでこの2つの推理説の確証的なものを探すために大蔵氏から検証したのですが、「種武」ですがこの「種武」周辺に何か疑問に成る点が出てこないか探っていましたが出てきません。
と云うのは、大蔵氏は南の一族の宗家が弱体して島津氏に侵蝕される事は戦略上好ましく無い事から種武の永嶋氏を分家側の跡目に入れて肝付氏の宗家の建て直しに差し向けた事が強く考えられます。
だとすると大蔵氏に何かの痕跡が残っている筈です。
案の定、有ったのは矢張り北と東の一族の強化策に出ているのです。
むしろ、大蔵氏は末裔の北九州の大豪族の菊地氏との関係に重点を置いている傾向が添書から読み取れます。
大蔵氏は南の同族の肝付氏と北の同族の菊池氏との戦略的な強い血縁関係を築こうとしていた事が読み取れます。当然に南の肝付氏も問題を持っていたのですから強化策を取ったと観るのが自然です。
そのキーの氏と成ったのが長嶋氏(永嶋氏)と菊地氏で有った事が読み取れますが、中には中部地域の佐伯氏や佐竹氏等とも血縁関係を深めています。
長嶋氏(永嶋氏)継承に関する人物は「種武」のみしか出てきません。
恐らくは肝付氏の中でも宗家(兼尚)より分家筋の「兼俊−兼重」の実力者を選んでいる筈です。
菊地氏も添書で観ると戦略的には何かある様で宗家筋は選ばず同様のようで実力者を選んでいるのです。
前回のお答え
種武の子(不祥)が肝付氏と血縁 1400年頃
兼行−兼貞−兼俊−兼重−秋兼−兼尚(−肝付氏)
兼重の弟の兼成−兼幸−「兼久」・・兼続26・・兼道29 1581年島津氏に敗北
兼成は大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と血縁 1410年頃
兼久が長嶋氏を継承し発祥 1507年頃 永嶋氏から長嶋と変名
種武の子=兼俊→分家肝付氏の跡目 肝付氏の通名名乗る
兼俊→永嶋氏 肝付氏系永嶋氏の祖
兼俊−兼重−秋兼→肝付氏の跡目宗家
−兼成−兼幸→肝付氏系永嶋氏の跡目
−兼重−兼幸−兼久→肝付氏系長嶋氏の祖
以上の跡目劇があった事に成ります。
次ぎに長嶋氏と肝付氏の名乗りの件ですが、長嶋氏は肝付氏から母方筋または養子先筋の名籍を部屋住みが名乗ったのですから、要は肝付氏なのです。何れを名乗るかはその場の状況に依ります。
兼久が肝付氏で名乗っている場合と、永嶋氏で名乗っている場合とがあります永嶋氏からすれば長嶋氏ですし、肝付氏を論じている資料では肝付氏を名乗る事に成るでしょう。
但し、本流筋のみの事です。傍系筋は出来ない慣習です。
例えば、藤原秀郷一門の長嶋氏や永嶋氏は例えば「長嶋・・」と名乗りますと、それは正式には「藤原・・」と名乗るのです。「藤原朝臣長嶋の・・」「藤原朝臣斎藤の・・」と名乗ることにも成ります。
肝付氏系長嶋氏であれば「長嶋・・」は「肝付・・」と名乗る事が許されているのです。
しかしこれも支流一族傍系は名乗れません。あくまでも本流の総宗本家−宗家−本家−分家の範囲での名乗りです。ですから、長嶋氏は肝付氏の宗家に跡目を入れる本流ですから、「肝付氏第・・代長嶋の・・」と成ります。ただ藤原氏を名乗る事が出来るかですが、九州長嶋氏の前に大蔵氏永嶋氏があり更には大蔵氏がありますので、藤原氏からは本流ではなく傍系と成りますので無理と成ります。
前回のお答えにも長嶋氏と書かずに肝付氏の代数を書き記しましたのはこの意味を持たすためです。
今回は以上の様に「不祥」としているのところの検証で更に見直しの調査をしていましたが、矢張り上記の「2つの推理説」しか出て来ませんが、自信はあるのですが「兼俊−兼重」の私説は超えませんでした。
これからの確証資料の発見が期待したいのですが、長嶋氏からは資料の遺産が少ない為に難しいかも知れませんね。
家紋分析からも試みましたが無理でした。
後は島津氏からの考察以外には無いと考えられますね。
ではまた何か有りましたらお尋ねください。
福管理人さん、有り難うございます。
お礼のお返事が遅れて済みません。
ネット、高山郷土史、喜入郷土史を見て色々と調べていました。
福管理人さんのお答えには心躍るばかりです。
種武の子(不祥)が誰で、1400年頃肝付氏と血縁これが、誰なのか、興味を引くところです。
大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と1410年頃、血縁している兼重の弟、兼経(兼成)(五郎九郎)
については、兄兼重が大きすぎるためか余り記載がなく、今後更に調べて行行ければと思いました。
長嶋兼道では、記載はないが、肝付兼道(兼護)として関ヶ原の戦いで亡くなっているとの記載があり、良兼が肝付本家を継ぎ、兼道自体は長嶋を名乗ったが、良兼の後、肝付本家を継ぐこととなったため、名前が出てこなかったのかなと推測しました。
兼久も肝付本家をついでおり、後継に譲り、長嶋を名乗ったのでは、とか勝手に想像を巡らせていました。
しかし、ひとつの結論としては、肝付本家の継いでいる人物が、長嶋を名乗っていると言うことから、肝付家と長嶋家は同等に近い位置にあると確信しました。
喜入郷土史より関ヶ原後、肝付家は本家継承ができなくなり、初代は伊集院家より、養嗣子として入った兼三以降は、本家継承に関わってこない分家兼連の兄弟兼光子孫が再興し現在に至っていることが分かりました。
問い掛けして頂いた謄本ですが、現在こちらで愛知に移住してから長嶌太吉から繋がる本屋から入手できた物で、戸主を太吉から養嗣子長嶋源吉に変更した時のものです。長嶌太吉についての記載は前戸主の欄にしか記載がものです。
詳しいお話を、ありがとうございます。
そんな事があったのですね。
愛知から先祖は来たそうですが、
我が家は江戸末期には、四国におりました。
解らない事ばかりですが、気長に頑張ってみます。
ありがとうございます♪
福岡に住んでおられる青木さん 今日は。始めまして。
お便り頂きましてありがとうございました。
ご先祖が古くから鳥取に住んでおられた様ですね。
実はお便りで直ぐに判りました。
鳥取の青木さんからのお便り沢山頂いていますよ。
恐らくは元はご親族ですね。
青木ルーツ掲示板の検索で米子や八頭や鳥取や亀甲紋で検索してください。
お家のルーツが判りますよ。
実は亀甲紋がお家のご家紋ですね。これは出雲大社氏子衆が一族を守るために「亀甲衆」と云う集団を結成して周囲の豪族から一族衆を守った家紋群なのです。
そして其の中に青木氏一族がリーダー役で居ました。
この青木氏は米子と八頭に定住していました。
実はこの青木氏は信濃の皇族賜姓青木氏の末裔で信濃の最大豪族足利氏と血縁した信濃足利氏系青木氏です。
この信濃足利氏系青木氏は信濃足利氏が藤原秀郷一門と家継相続で争いました。
武蔵の藤原秀郷一門がこの信濃の守護として赴任した時に信濃足利氏が藤原氏の云う事に従いませんでした。それで秀郷一門は信濃足利氏の本家と争いとなり、秀郷一門は信濃足利氏の分家で跡目を無くした分家を探し出しこの分家に秀郷一門の者を入れて再興しました。そしてこの再興した分家を本家として立てて、元の本家を追い出しに掛かりました。結局、戦いに成り、元の信濃足利氏は負けて越中、越前、若狭を経由して八頭に到達したのです。この時、この元本家の信濃足利氏と血縁した信濃皇族賜姓青木氏の一部が元本家と共に八頭まで逃亡したのです。
この時、土地に受け入れられたこの信濃皇族賜姓青木氏の血筋を持つ信濃足利氏系青木氏は一族を二手に分けて米子移動し定住しました。この一族が勢力を広げて宍道湖の東まで定住地を広げ土地の豪族と成りました。
江戸末期から土地の地主となり支配地の庄屋を務めました。
其の子孫は出雲大社の氏子と成り、周囲の氏子衆を結集して出雲大社の神紋の亀甲紋を家紋とする大集団が結成されたのです。
この青木氏の元の家紋は皇族賜姓5家5流の青木氏と11家11流の源氏の綜紋である笹竜胆紋です。
宍道湖の西域には四国讃岐籐氏の藤原秀郷流青木氏が瀬戸内を勢力圏として勢力を持ち、対岸の美作から安芸にかけて勢力を伸ばしました。この讃岐青木氏は後に大廻船問屋を営み石見に廻船問屋の支店を出しました。この支店に定住した秀郷流讃岐青木氏が出雲の宍道湖西域までのところに勢力を固めました。
この讃岐青木氏は本家が「下がり藤に雁金紋」や「剣片喰紋」の家紋群を持っています。
この讃岐青木氏は亀甲族とも血縁をしています。
お家のご家紋の亀甲紋の「二重亀甲に三つ銀杏」は米子に移動後に出雲大社氏子衆との血縁関係を繰り返し家紋掟により変紋となりこのご家紋に成っていると考えます。ご家紋の構成が副紋方式を採用していますので青木氏の慣習を引き継いでいることが判ります。
しかし、元を正せば綜紋は笹竜胆紋と成ります。恐らく室町期に入っての家紋と思います。
お家の青木さんの米子か八頭の宗家に辿り着くと笹竜胆紋の青木さんにたどり着きます。其処がお家の元祖です。
更に辿りますと信濃と越前の国境に足利氏系青木氏に辿り付き、更に信濃の国府の賜姓族の青木さんの始祖家にたどり着けます。信濃国府には笹竜胆紋の青木さんが現存しています。
鳥取の総宗本家の宗家筋は米子か八頭にあると思います。此処はお家のご先祖の大変青木氏の多い所です。
依って、更にルーツを辿ればお家の元祖は、元は由緒ある平安期から続く信濃の皇族賜姓青木氏で、その系列の信濃足利氏系青木氏です。古い親族となれば信濃国府に定住する信濃賜姓青木氏です。
日本書紀にも出てくる信濃青木氏ですよ。
これ等の事はルーツ掲示板と研究室に詳細にレポートしていますのでもう一度ゆっくりと読んでください。
検索モードを使われると便利ですよ。
読まれましてご質問なり有りましたらReでお尋ねください。
また出雲米子などにご訪問されたらその旅のお話など出雲の青木さんに付いてなど面白いお話を聞かせてください。全国の青木さんが楽しみに待っていますのでお便りください。お待ちしています。
はじめまして。福岡に住む青木です。
福岡に住んでいるといいましても、出身は山口です。
さらに、出身は山口ですが、祖父、祖母共に、戦後、鳥取から山口に引っ越してきたので、
元々は「鳥取の青木」ということになります。
(祖父は長男でなかったため、出て行かざるを得なかったようです。)
家紋は、「二重亀甲に三つ銀杏」です。
親からは、うちの先祖は庄屋だったというようなことを小さいころに聞いたことがあります。
今でも、鳥取には本家(?)が住んでいると思います。
私の父に言わせれば、出ははっきりしているとのことです。
当サイトは数年前より見させていただいております。
私が読んだ限りでは、私の家系は詳細が不明、もしくはそんなに古い家系ではないようですが、
ご参考になればと思い、投稿させて頂きました。
将来的に、時間ができれば、私も鳥取に出向き、色々調べてみたいと思っています。
とりあえず、ご挨拶まで。
お便りのお答えお判り頂けましたか。
これでお家の長嶋氏のご先祖の生き様がより鮮明に成って来ましたね。
何よりで九州旅行は意味がありましたね。
私も青木氏の研究で色々と経験をしましたが、この様な積み重ねでデーターを集め推理し解析して少づつ前に進めて来ました。
貴方様の推理も要点を突いてなかなかの推理と感じ入りました。
さて、そこで更にお尋ねに成られましたのでこちら一層熱が入ります。
先ず、資料の件ですが、この史料関係は、筆者の南九州の歴史調査資料、大蔵氏の研究として個人提供された資料等であり、添書は完全な個人情報であり公開は出来ませんので特に大蔵氏と肝付氏関係は法に基づき公開する事は出来ません。
大蔵氏と肝付氏側が全面公開していませんので無理です。残念ですが信じて頂く以外にありません。
そこはお任せいたします。
さて、そこで、1から6のご質問ですが、応えられる範囲でお答えいたしましょう。
1の質問
前置き
青木氏の研究室の阿多倍に関するレポートにこれらの事は散在して記述していますのでそれをお読みになると大蔵氏の事が掴めます。散在して記述しているのは本サイトは青木氏である事と一括してまとめてレポートしますと法に抵触しますので、散在方式を採用しています。
もしネット上でも大蔵氏のレポートがあると思いますのでそちらをご利用ください。
ただ本目的の為に纏められた研究資料では阿多倍から大蔵氏までのレポートはないと考えられます。青木氏ならではの研究だと思います。
参考 研究室に本お答え内容は各所に記述していますのでお読みください。
主なレポート
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係
大蔵氏系譜の添書に書かれている内容から判明します。
大蔵氏の系譜で阿多倍より15代目に当る人物で長門権守で太宰大監で岩門少卿の「種輔」なる人物から種貞−種有−種資−種秀と来ます。この「種秀」が大蔵氏より母筋方実家先の永嶋氏(長嶋氏)の跡目を興しています。この人物が始祖と成ります。
そして、種秀−頼種から種有の弟の種嗣−義種−種親と来まして種親が頼種の跡目を引き継ぎます。
つまり、親戚筋より跡目を継がしたのです。
種親−種武より永嶋氏(長嶋氏)は継承されて行きます。
種有で大蔵氏と血縁 元寇の役後 1285年頃
種秀で永嶋氏(長嶋氏)を相伝 大蔵氏系長嶋氏 1335年頃
種武で永嶋(長嶋)太郎を継承 北九州菊地氏と血縁 1365年頃(確認)
種親−種武(1330−1385) 室町初期 大隈国と前回に記しましたが更に確認して1365年頃が正しいと観ました。
此処より肝付氏系譜に繋がる。
種武の子(不祥)が肝付氏と血縁 1400年頃
兼行−兼貞−兼俊−兼重−秋兼−兼尚−肝付氏
兼重の弟の兼成−兼幸−「兼久」・・兼続26・・兼道29 1581年島津氏に敗北
兼成は大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と血縁 1410年頃
兼久が長嶋氏を継承し発祥 1507年頃 永嶋氏から長嶋と変名
兼道29が「関が原の戦い」にて死亡 1600年 (29は肝付氏代数)
以上が大蔵氏系譜と添書の年代、肝付氏系譜と添書の年代から繋ぎ合わせて検証するとこの時系列が出来ます。ただ大蔵氏の1400年頃と肝付氏の1410年頃は一致しないが添書のずれがあるとは観られますが不明です。(秀郷一門の資料より内容から観て関係する血縁内容が配慮されるので一部菊地氏の系譜添書を検証の為に参考にした)
23456は2つ系譜添書に書かれていて年代等は他の資料県史などと考察して検証したものです。
添書は出せませんのでご不信な時は県史などで確認してください。
5に付いても同様ですが、折角ですからその一族12氏を記述します。
この12氏は肝付氏と同族ですので、長嶋氏と幾つかの氏との血縁関係にある可能性があります。
長嶋氏を更に調査するには12氏からこの血縁氏を割り出しその氏のデータを採取すれば更に詳細に掴めると思います。長嶋氏は青木氏族の1氏ですがこの領域までは青木氏では困難です。
肝付氏の同族12氏
長嶋氏、薬丸氏、波見氏、小城氏、内之浦氏、榎屋氏、窪田氏、慶田氏、富山氏、二方氏、中村氏、山口氏(第2の枝葉氏は更に広がっていると観られます)
この内、幾つかは長嶋氏から母方筋の名籍を継ぎ「姓氏」が発祥したと考えられます。
丁度、大蔵氏の永嶋氏や肝付氏の長嶋氏の様に同じ継承で「部屋住み」が母方筋の名籍を継いだと同じ様にです。
詳しく調べてみないと判りませんが、この同族は家紋分析から長嶋氏の支流一族ではないかと観られます。
大蔵氏は「三撫子紋」が主紋ですが、撫子の変紋と雁金紋(九州)の変紋はもとより関東の永嶋氏の主要紋類の「丸に桔梗紋」、「扇紋」が第2枝葉まで極めて多い事から考察できるのです。
(長嶋氏の主家は三雁金紋)
本来、美濃、尾張、三河、遠江地域一帯に分布する家紋群であります。
秀郷一門の特に室町期の永嶋氏の家紋群が分布する地域のこの家紋群が日本南端の南九州にある事は如何に大蔵氏系一族一門との血縁が強く勢いあった事が判ります。
主に永嶋氏と長嶋氏がこれ等の名籍を嫡子外の嗣子の「部屋住み」に興させて行ったかが判ります。
6に付いてのご意見ですが、謄本と云うのは愛知の事ですか。
鹿児島大隈での現存と成っていますので、愛知ではないのです。
上記12氏にも成る長嶋氏がお家のご先祖の本家の勘右衛門さんだけの家だけでは無い筈で分家分流分派の傍系の支流一族も存在している筈です。
添書には”肝付の長嶋兼道なる者が島津義弘に従い朝鮮に赴き、軍功ありしが、慶長5年に遂に戦死しその本承は亡する”とあり、其の跡目は今尚ほ承襲して鹿児島にあり”と記されています。
別のところに添書には”その肝付氏族長嶋氏は他の諸氏同様に鹿児島にその系譜を伝えている”とあります。
本家筋の一部が愛知に移動したか、本家が愛知に移動したか、傍系支流が残ったかの何れかですね。
本家筋には鹿児島に戸籍を残したという事に成りますね。
上記の何れかが3つの資料から残っている事は確かです。
そもそも545年もの経歴を持ち官僚の血筋も持つ家柄にありながら肝付氏は資料が少ない事が検証探求が難しく成っています。恐らくこれは「廃仏毀釈」や「寺請制度の令」や「寺社上知令」で寺に保管していた資料が無くなったのではと考えられます。
長嶋さんの1から6までの様な纏められた資料は日本全国に於いてもありません。何れの氏にしてもこの範囲は全て研究領域です。添書内容などに関わる研究領域は法に基づきますますし公的に成っているものはめったにありません。そもそも長嶋氏自身の事に付いて青木氏の様にまとめられていないのですよ。
本お答え内容は添書や系譜や其の他の資料等の個人資料などを提供して頂き関係族として筆者を含む青木氏の関係者と極めて著名な数人の歴史研究家が長年にて研究したもので青木氏外には無い筈です。「青木氏族」に提供する目的と前提で管理人さんが本サイトを立ち上げられて公開しているものです。
以上、今までのお答えから資料を求められるのであれば、鹿児島の遺された「県史」や「地理考」等を求められて推理を働かせて調査をお願いします。
その際に調査方法や調査した内容に付いてのご質問にはお答えいたします。ご遠慮なくお尋ねください。
> お久しぶりです
> あれから調べる気力が失せて、今になってしまいました。
> 除籍謄本を調べましたら、江戸末期までしか残ってなくて
> 結局の詳しい事は解りませんでした。
> 私からさかのぼる事、四代前のご先祖様が何故かしら家紋も、お寺も、奥さん方の物を使用してしまったという事実です
> 五代前のご先祖様は、昔からの家紋とお寺だったようですが
> それが今は解らず…
>
> また気長に調べてみます。
>
> とりあえず、報告です♪
お久しぶりです。お元気ですか。
青木氏のサイトにお越しいただき感謝します。
調べられましたか。
さて、4代前の事ですが、家紋掟により、次ぎの様な時に起こります。
5代前の方が「婿養子」であったが、男系嫡子に恵まれず一時養子先の家紋にしていたが再び4代目にも婿養子を取ったが嫡子に恵まれて妻方の元の家紋に戻した。
当然に、嫡子が出来ましたので元の寺を檀家寺として戻したことに成ります。
普通の場合は養子縁組で嫡子がない場合は一時的に家紋のみ変紋と成り檀家寺は変わりませんが、檀家寺が変わるには2代続きの養子縁組があった時か、「跡目養子」を入れてそれに嫁を取った時に起こり、この時にも嫡子に恵まれなかった時に起こります。
恐らくは、お話ではこの時にある事情(下記)から考えて仕来りに従い嫁側の家紋と寺を選択したことに成り現在に至ると成りますね。
つまり4代前から6代前までに養子縁組と跡目養子縁組が連続して起こった事を意味します。
4代前から6代前は江戸末期から明治維新ですので、この時に実は2つの宗教改革の令が発せられてたのです。
江戸末期にはキリシタン禁令により、全国民は寺の檀家である事を証明してもらいキリシタンでは無い事を証明する義務を負いました。
国を移動する時とか旅する時にはこの証明書と奉行所の国を離れる許可書の発行が必要に成ったのです。この時に地理的な問題とか、上記した跡目の問題があると、檀家寺を変える必要に迫られる現象が起こりました。これを「寺請制度の令」と云います。
明治維新に「廃仏毀釈」と云って寺を潰し神社に統一する運動が起こったのです。
国を神社の神道に統一すべきだとする全国的な運動です。殆ど全国では小さい寺は壊されてしまいました。その理由は仏教やキリスト教は欧州、中国、インドの外国宗教だとする排斥運動です。
更に、「寺社領上知令」が発せられたのです。つまり寺や神社の持っている広大な領地を国に没収する法令です。これにより寺社が運営が困難になり廃寺や廃社が全国各地で起こったのです。
この為に、丁度、その時に上の様な後継ぎ等の問題がお家に出たと考えられて、家紋と檀家寺の変更を余儀なくされたのです。何も無ければそのままでも何とか成ったのですが。
以上の事が原因と見られます。
この様に一寸したことがお家のご先祖の生き様が蘇って来るのです。
本当に仰られる通り気長に一つ一つ進める事が必要ですね。
又何か他に判りましたらお便りください。ご協力いたします。
福管理人さん、お返事ありがとうございます。
※芽渟王の女についての質問に対する分かりやすいお答え有り難うございました。
※大蔵氏に繋がる次男山本直については、ネットを見ていると山本、山本ではなく山木、爾波伎 と様々な記載があり、どれが本当なんだろうと疑問に思っていたので良かったです。
鹿児島での収穫からそこまで分かるのかと思い感動しました。また、
自分の推測が福管理人さんに賛同されたことも嬉しかったです。
長嶋家についてのお答えをドキドキしながら読ませていただきました。
その中で6点について個人情報的に問題なければ史料を教えていただけることは可能でしょうか?無理なお願いで済みません。
1.永嶋氏が南九州を統括していた大蔵氏系肝付氏と室町期中期頃1400年前頃に血縁してい て九州薩摩大隈の長嶋氏(長島氏)が誕生についての経過。
2.永正3年1507年頃島津氏と長嶋氏が高山城で先ず戦い始めたということ。
3.敗戦後肝付氏と永嶋氏の長嶋氏はその直後に始祖の故郷の薩摩国阿多に移動したこと。
4.慶長5年1600年の関が原の戦いで本家筋は戦死し衰退したことについて。
5.長嶋氏が肝付氏一族の出自を分類で、同族の出自である氏族12氏について。
6.九州長島氏の大正時代まで永承していると成っていることに関する資料について。
6.についてですが、愛知県新城市川路に移った長嶌太吉高祖父は明治5年に亡くなられていて、本家に残る謄本は太吉から長嶋(旧姓杉浦)源吉への戸主変更として旧戸主への記載のみです。多分、謄本作成時には亡くなっており、鹿児島から籍も移されていないため、大正時代まで現存していたのではないのでしょうか。
お久しぶりです
あれから調べる気力が失せて、今になってしまいました。
除籍謄本を調べましたら、江戸末期までしか残ってなくて
結局の詳しい事は解りませんでした。
私からさかのぼる事、四代前のご先祖様が何故かしら家紋も、お寺も、奥さん方の物を使用してしまったという事実です
五代前のご先祖様は、昔からの家紋とお寺だったようですが
それが今は解らず…
また気長に調べてみます。
とりあえず、報告です♪
長嶋さん 今日は
さて、鹿児島にご訪問されたのですね。
鹿児島はなかなか歴史資料が見つからないですよね。
でも大変な情報を掴みましたよ。
私の妻の実家の調査の時にも感じました。恐らく江戸初期前後と末期の薩摩藩に対する軋轢が強くあって歴史的な物に対する資料文献を隠蔽抹殺したと考えられます。言葉までも変えたくらいですからね。
そこで次ぎの事の推理は私も賛成です。
浄土宗の玄忠寺(旧内之浦町)、不断光寺(鹿児島市)
廃仏毀釈で浄土宗寺は廃寺、不断光寺の末寺
運誉上人により、1590年代に創建、
不断光寺に集められた。
そして、1234の事から「長島勘右衛門」がルーツ源であろうとする説も納得します。
と言うのは、長嶋氏(長島氏)は他氏と異なり中部以北では「関東屋形」と呼ばれ、秀郷一門の中でも最も勢力を高めた藤原一門361氏の中でも名門中の名門で江戸末期まで名籍族でした。
従って、九州大蔵氏系肝付氏族長島氏は薩摩に於いても別格の名籍であった事は間違いありません。
本家分家で構成されていて江戸末期まではある程度はっきりしていたと観られます。
ですから、あちらこちらに未勘氏族や第3氏族の長島氏が居たとは考えられません。特に奈良期から保守性の強い国で護られて来たのですから、先ずこの環境は存在したと見られます。
また薩摩には、保守環境からこの名籍を勝手に名乗る未勘氏族と第3氏族が生まれない環境でもあった事から極めて少ないのです。
依って本家分家は別としても、ルーツの可能性は極めて高いと考えられ、先ずご先祖であったと観られます。年代的にも納得できます。次ぎの長嶋氏の経緯からも納得できます。
九州長嶋氏の経緯
薩摩の長島氏の位置付けから考えて、寛永13年(1637年頃)の新堀の長嶋次右衛門、文政4年(1821)の西田橋通の長島勘右衛門は本家分家は別としてもルーツ源である考えます。
そもそも関東の長嶋氏は”「元寇の役後」”と記されているので1285年頃に九州大蔵氏と血縁し、大蔵氏系永嶋氏が発祥しています。
その後、青木氏の資料と家紋分析からこの永嶋氏が南九州を統括していた大蔵氏系肝付氏と室町期中期頃1400年前頃に血縁していて九州薩摩大隈の長嶋氏(長島氏)が誕生したとされています。
そして永正3年1507年頃に勢力を高めてきた島津氏と先ず長嶋氏が前線の高山城で先ず戦い始め、天正8年1581年頃に545年間を通した肝付氏と共に南九州を支配していたが敗退します。
この後、肝付氏と永嶋氏の長嶋氏はその直後に始祖の故郷の薩摩国阿多に移動し、阿多地方と大隈地方を与えられ島津氏の家臣となります。
尚、その後の慶長5年1600年の関が原の戦いで本家筋は戦死し衰退したと記されています。その後に末裔を承襲するとありますので、分家筋が残ったことを意味します。
「1590年代に創建」は島津氏の家臣と成った直後に建立した事に成りますので浄土宗の菩提寺を統一した事に成ります。その後に関が原が起こって本家筋が衰退し、1637年の分家筋の長嶋次右衛門が宗家を引き継いだことに成ります。
つまり、恐らくは長嶋氏は国を阿多と大隈に成った事から改めて肝付氏とは別に菩提寺を建立したことに成ります。そして新堀の長嶋次右衛門の分家筋が本家と成った事に成ります。
そこで1637年から1821年の間、つまり1と2の間の期間(184年間)の検証が必要に成ります。
この年数は長嶋氏の代数から考えて4乃至6代と成りますが、この時代は江戸末期までですから戦いもありませんので4代と観ますと、長嶋次右衛門から長島勘右衛門までの間には本家を継いだ分家筋に大きな変化は無かったと観られます。
又、一門の「右衛門」の「襲名」が継承されているところを見ると当時の慣習から同家と見られます。
分家の分家、分流、分派が「襲名」を名乗る事は出来ませんので同家の本家筋と成ります。
更に長嶋次右衛門の”次”の意味は本家筋を継承した時に使われる当時の慣習で”継ぐ”の意味を持っています。例えば本家の嫡子の長男が亡くなり次男などが本家の後を襲名した時に使われるものです。
筆者の家も本家筋の嫡子が亡くなり本家を次男が継いだのですが、”作次左衛門”名乗っています。これは当時の慣習です。”次男”の意味も長男が無く成った時に継ぐ者の意味なのです。
最近は本家分家の仕来りが無くなったために”二男”と書きますが本来は”次男”なのです。
関が原の戦いで本家の嫡子嗣子が亡くなり、結局、次ぎの分家の者が本家筋を継いだ時に使われる襲名形式の武家の法掟です。
この形式を使っている事から相当な武家の名籍の家柄を意味します。
次に長島勘右衛門の”勘”の字ですが、これも一つの意味を持っています。
未勘とか後勘とか使いますが、この”勘”は”後の定められた人”または”長男や嫡子の後継ぎ”の意味があります、
例えば「勘介」と云う名は「介」は「長官」に対して次に継ぐ者で「次官」を意味します。
平安時代の官僚の官位4段階(守、介、擾、目)のトップの「国司」の次ぎの代行して実際に政治を執り行う者を「・・介」と云います。国司の上が守護王ですが、守護は朝廷の仕事がある為に領国の管理を国司に委ねるのです。国司は2乃至4年程度で別のところに赴任するので不在時の実務はこの「・・介」が執り行う仕組みです。その官僚組織の呼び名のひとつです。現在でも同じ意味で使われていますね。
つまり勘介は家の主人の親に対して次に家を継ぐ嫡子だとしてこれを明確にしていた慣習名です。
と云う事は、長島勘右衛門は本家に成った分家が何代か後に、例えば4代として本家を継いだ長嶋次右衛門から観ると、先ず2、3とあって”4代目を夜叉孫の直系の”嫡男”が継ぎましたよ、本流の者が継ぎましたよ”と云う事を意味しています。「次」と使えばそれが本流と成った時に何時か「勘」と応えるのが慣習です。”最早本流ですよ”と世に宣言するのが慣わしです。
この事からも長島勘右衛門と長嶋次右衛門は同家の後継ぎ者である事が判ります。
尚、依って長嶋次右衛門から長島勘右衛門までは養子縁組などの変化は無く直系による男系跡目で引き継いできたことを意味します。
当時の武家筋の慣習雑学からこの様に判断が付きます。
さて、長嶋氏または長島氏は南九州を支配していた肝付氏一族の出自を分類すると3つに分けられます。
1 出自は明らかで本宗から排出した氏族 17氏
2 支流庶流に属しているがその出自は明確ではない氏族 5氏
3 同族の出自である氏族 12氏
4 不明な氏族 8氏
お家の長島氏または長嶋氏は3の12氏のトップに位置しています。
通名は一般に「兼・・」を使う慣習に成っています。室町期
この通名の「兼」は平安時代の5大官僚の一つ「伴氏」の通名で伴兼貞の子供の兼俊が大隈国肝属郡の「弁済使」(税などの管理管轄を取り扱う高級官僚)となって赴任し大蔵氏と肝付氏とも血縁をした事から、この一族は「通名」として兼を使う様に成ったのです。
家紋は三雁金紋が多い。
解明を進めなければ成らない問題は1842年から1859年までの長島氏の記録がない事に付いてどのように観るかと成りますね。
幕末ですが、これはお家の静岡の移動と関連するのではないでしょうか。
幕末に商いをしていたが静岡の移動は前回の推理に一致するのではないでしょうか。
静岡の移動で長嶋氏の記録は商いを中心とした家系になったことから消えているのではないでしょうか。九州長島氏は筆者の資料からは永承していると成っています。
この研究した資料は大正の初期の頃ですので大正時代までは現存している事を証明します。明治期には鹿児島には維新戸籍簿から確認出来ていたのではと考えます。維新戸籍簿は長島勘右衛門の本家筋のものに成ります。
と云う事は静岡の移動は本家筋の誰かが移動したことを意味します。
幕末の薩摩藩の事情を考えた場合は前回の筆者の推理になるのではないでしょうか。
このことを物語る何かの情報を掴む事で解決するのではないでしょうか。
一寸した事でも意外に繋がりますよ。雑学で。
次ぎのご質問ですが、
奈良時代から大化期に掛けて天皇家には「純血」を前提として現在から観ると「近親婚血縁」を繰り返していました。当時は天皇家の中では異母兄弟は姉妹は他人として考えられていました。
従って、この範囲での近親婚は当時の慣習としては当り前でした。
ただ、近親婚には遺伝的な「免疫性低下」とか「劣亜子」「優子」が隔世遺伝で産まれ子孫を遺す事には問題がありました。その為に、妻を4段階に分けて上位2位(后:きさき、妃:ひめ)までは近親婚とし、良い子孫を遺す事ができなかった場合に備え、同族の第3位の妻(嬪:みめ)の子供から皇族身分を継承させる仕来りです。更に、駄目な場合は別枠の第4位の「采女」(うねめ)つまり、妾子ですが、この子供から皇子順位を上げて行く仕組みです。
妥女は地方小豪族の娘を人質に女官隷として取りますので近親婚の弊害は無く成ります。
同族の第3位の妻(嬪:みめ)は大豪族の娘を第3位妻として取り入れますので同族ながらも血縁性では低く成ります。
そして、この上位3位までの子供は天皇家から外れてその母方にて育てられます。
妥女の子供も母方にて育てられますが、男子の場合は一定年齢に成ると天皇家に引き取られて皇子として育てられます。そこで皇子順位は母の身分の順にて決められます。
皇子順位が第4世内で第6位皇子に成った場合は臣下するか門跡の僧侶と成ります。第5世以下の皇子となった場合は侍として関東の守護警護として配置されます。第4世内の皇子は天領地の守護王として配置されます。
女子の場合は母方に預けられますが、上位2位までは皇女として扱われ天皇家外に血縁する事はできません。近親婚乃至は同族婚と成ります。血縁出来ない場合は斎王に成ります。
第3位と第4位と成った女娘は皇女が無い場合は皇女の列に加えられますが、そうでない場合は皇女外として扱われ皇族外と成ります。
この様に皇女と決められた以上は皇族外の者との血縁は純血範囲を守る為に皇族外の者との血縁は出来ません。
依って、ご質問は阿多倍一族は帰化人ですので、皇女との血縁は出来ないです。
ですから、”芽淳王の「女」”と成っているのです。「・・の皇女」とは記されていないのです。
つまり、第4位の妥女の子供を娶った事になり系譜上に現れない皇女では無い事を意味します。
次ぎに阿多倍に付いての事ですが、ご説明すると本一冊文にもなると思います。
そこで青木ルーツ掲示板や青木氏氏研究室の検索を使ってお調べください。
詳しくレポートしていますので、そちらをお読みください。
そこで 長男の「忘?直」(?は奴の下に手の漢字)で坂上氏で「阪上田村麻呂」が初代で朝廷軍の長官です。後漢から引き連れてきた阿多倍の職能武装集団の(漢氏や東漢氏の)自前の軍を持って陸奥を征討した初代の征夷大将軍です。これに対して天皇の親衛軍の六衛府軍を指揮していたのが青木氏です。皇族賜姓青木氏5家5流と秀郷一門の特別賜姓青木氏116氏がこれを務めました。
(「・・直」の直:”あたい”は官位身分です。)
次男の大蔵氏は「山本直」で朝廷の財政を担当していたもので九州の大蔵氏です。
三男が「波木直」で内蔵氏で天皇家の財政を担当していたのです。この一族は東北北陸奥州一帯に定住した豪族で末裔には阿倍氏や安部氏や清原氏等が末裔として有名です。
この阿多倍の子孫には「たいら族」で平清盛の太政大臣があります。
この阿多倍は伊勢国北部伊賀地方を伊勢青木氏(筆者の祖)より半国割譲して住んでいた。
ここが「たいら族」の故郷です。この阿多倍の孫娘の「高野新人」が伊勢青木氏の始祖の施基皇子の長男の光仁天皇の妻で桓武天皇の母親です。
阿多倍の事で読まれて判らないところはお尋ねください。
以上がご質問のお答えですが、お便りの情報は大変にルーツ解明が進んだと思います。
ルーツ解明はちょっとした事が当時の慣習などの雑学で判明します。
福管理人さん、お久しぶりです。
地道ですが、ご先祖探し継続しています。
9月中旬鹿児島に足を運び、旅行を兼ね調べてきました。
3日間ということで、肝付町、鹿児島市、姶良市と訪ねることとしました。
菩提寺は浄土宗の玄忠寺(旧内之浦町)、不断光寺(鹿児島市)を当たることとしました。
鹿児島県は廃仏毀釈が激しく、殆ど浄土宗の寺は、廃寺となっていましたが、ほとんどが不断光寺の末寺で運誉上人により、1590年代に創建されており、廃仏毀釈の時、不断光寺に集められたのではと考えたからです。
しかし、玄忠寺は、住職不在の代行で、不断光寺は空襲等で市内の資料は残ってないとのことでした。
結局、収穫としては、
1.鹿児島市史3の寛永13年 薩州鹿児嶋衆中屋敷御検地帳より、長嶋次右衛門が新堀より上に住ん でいたこと。
2.鹿児島御城下明細図 文政4年(1821)より、長島勘右衛門が西田橋通りの南に住んでいたこと。
3.鹿児島絵図(文政前後) 天保13年(1842)より、長島姓はなく、勘右衛門が
4.旧薩藩御城下絵図 安政6年(1859)より、長島姓は存在しなかった。
ということでした。
ここから、長嶌太吉は妻りわが1815年生まれであることから、1800から181数年の生まれと推測でき、天保12年にりわと結婚しているため、3.のときはすでに愛知県新城市川路にきている。
このようなことから父親が20歳で太吉が生まれたとすると3.のときは年齢は50〜60代、4.のときは70〜80となり、この流れから、もしかしたら長島勘右衛門が父の可能性があるかもしれない。
ということで何も進んでない状態です。でも、これが積分変化であり、この繰り返しで何か変化が起きてくるかもと前向きに考えています。
ところで、阿多倍と敏達天皇のひ孫(芽渟王の娘)が結婚して、長男筋が坂上、次男筋が大蔵、三男筋が内蔵ということでしたが、
1.阿多倍の妻の具体名は、判っているのでしょうか?
続群書類従第5上の皇胤系図で芽渟王から繋がる娘は皇極(齋明)天皇で、他にはないのですが、阿多 倍王と結婚したのは、系図に出てこない娘なのでしょうか?
2.阿多倍の3兄弟のことも色々書かれていて、志努(坂上)、爾波伎(大蔵)、山木(山猪)(続群書類従第7の大蔵氏系図には山本)これらについてもご存じでしたら教えていただけますか?
よろしくお願いします。
日高さん 今日は。 始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。
さて、本サイトは青木氏に関することに付いて研究している所です。青木氏と日高氏は血縁的な関係がありませんので、詳しい事は判りません。ただ私の趣味の範囲で鈴木氏を研究している為に日高氏との関連を調べた範囲です。折角ですので知る範囲に於いてお答えいたします。
先ず、第1番目のご質問ですが、熊野神社と熊野古道は世界遺産ですので、和歌山県史にも出て来ますし、熊野神社史にも出て来ますし、熊野神社第一社の藤白神社史にも出て来ますし、和歌山県日高地方史にも出てきますし、海南市史にも出てきます。鈴木氏史にも出てきます。弁慶ルーツでも出て来ます。
この辺の所にお尋ね下さい。
以上公に成っている資料をご紹介いたしましたが、其の他の資料に関しては法に基づき抵触する事も考えられ迷惑の及ぶ範囲と成りますので青木氏からはご紹介する事は出来ません。和歌山一帯では日高氏と言えば有名で資料は和歌山には沢山ありますし、日高地方には日高氏は多く現存する地域です。また義経の家来武蔵坊弁慶のルーツとしても有名で太平記にも出て来ます。
本投稿内容の通りの鈴木氏はもとは日高氏です。
第2番目のご質問ですが、先ず源氏であるかは11家11流の源氏は青木氏と同族ですので詳細に把握していますが、日高氏は源氏であるかは、また清和源氏の経基の子満仲の末裔であるかは検証の余地が大いにあります。末裔と呼称するには次ぎの3つの根拠に依って歴史的に呼称した慣習がありまして殆ど搾取偏纂であります。
先ず一つ目は「未勘氏」と呼ばれる氏の呼称です。
当時、荘園制度により源氏の名義を借りて荘園を護り税の減免を受けられると云う制度を利用し、その代わりに「イザ戦い」と成ると源氏に合力する事、見返りに源氏グループに参画し血縁性の無い源氏を名乗る事が出来る荘園制の仕組みです。この源氏グループに入り源氏を名乗った無血縁の土豪を「未勘氏族」と呼ばれます。殆ど源氏を名乗る氏は99%がこの「未勘氏」です。
この「未勘氏族」が最も多いのが源氏の中で最大勢力を誇った清和源氏です。上記した荘園制を利用して勢力を拡大したもので清和源氏の満仲の子供の3男の頼信系の分家一門(義家や頼朝)に多いのです。余りにこの「未勘氏族」を作り上げて勢力を拡大し皇族に似合わぬ行動を勝手に採った為に天皇から”皇族第6位皇子らしくない”として疎んじられて排斥され最終的に衰退します。
源氏と源氏の前身の5家5流一門の青木氏は皇族第6位皇子が賜姓を受けて臣下し天皇を護る六衛府軍親衛隊と成りましたが、これ等は家紋掟により皇族であるために家紋は笹竜胆紋以外は使用していません。従って、この家紋以外で源氏を名乗っている場合は全て傍系か「未勘氏」です。
この源氏を名乗っている氏は万を超えます。源平の戦いで殆ど滅亡してますので、万を超えるほどに子孫を遺していません。平安期には地方の土豪は全て漏れなくこの名義荘園主に組み込まれたのです。
次ぎに、「第3氏」と呼ばれる氏の呼称です。
室町末期、江戸初期、明治初期の3期の混乱期に出世は家柄身分を良くしないと出来ない風潮が起りました。そこで自己の家柄身分を誇張する為に搾取して源氏一門を勝手に第3者が名乗った時期がありました。
特に江戸初期に多く起りました。青木氏には「嵯峨期の詔勅」により青木氏を皇族以外の者が名乗っては成らないと云う禁令を発した為に比較的に青木氏を名乗る者は出なかったのですが、同族の源氏11家にはこの禁令を出しませんでした。そこで農民から身を興した者や農兵であった下級武士はこの源氏一門であるかの様に名乗ったのです。これを江戸期から「第3氏族」と呼ばれていました。
11家源氏には宗派や家紋等の慣習や掟事が皇族である為にあり、依ってこれにこの「未勘氏族」や「第3氏族」の宗派や家紋などが一致しないので判別が直ぐに可能に成るのです。
次ぎに、「一統氏族」(母方血縁族)があります。
つまり、直接の血縁性がない族で「遠縁族」で「母方血縁族」とも呼ばれる源氏族があります。
この氏は多くはありませんが、源氏11家が定住していた限定した地域の近隣に存在しています。
一応は源氏一門である事には間違いないのですが、間接血縁である為に笹竜胆紋は使えず綜紋として使える事に成ります。現在源氏を正等に名乗ることができたとしてもこの一族以外にはありません。
限定されていて各地には多く存在していませんし分布もしていません。
そもそも現実の史実は、源氏は11流11家の中で生き残ったのは室町期まででは四家のみで、鎌倉期に頼朝の子供が抹殺された時期で完全滅亡しています。
鎌倉幕府の実権を握り主導した「坂東八平氏」の北条氏等により大掃討作戦が実施されて源氏末端まで事如く抹殺されて根絶やしているのです。
紀州に於いては源氏の「新宮五郎」が鎌倉幕府に反発した為に紀州の支流源氏一統末端まで完全抹殺されました。
但し、最終、摂津を拠点としていた清和源氏宗家頼光系四家のみは末裔を遺す為に以仁王の乱の時に源氏の前身の同族5家5流賜姓青木氏の内の伊勢、信濃、甲斐の賜姓青木氏に末裔を跡目に入れて遺したのです。後は近江佐々木氏に跡目相続させています。依って源氏が青木氏と佐々木氏以外に基本的に末裔は遺されている事はないのです。残るは何とか逃亡して生き延びた母方血縁族の傍系一族ですが詳細不明で確証は採れず先ずはないと考えられます。
通説ではこれ等傍系を源氏として呼ばれていますが、全て搾取偏纂が通説化したものです。
まして、薩摩を含む全九州は太宰大監として大蔵氏の自治地盤域で、特に南九州は大蔵氏系肝付氏の領域で平安初期から朝廷に戦いを起すほどに反発していて排他的地域で明治維新まで薩摩藩のこの排他性は続きます。
(大蔵氏は日本66ケ国中32ケ国を領する氏で朝廷の政治機構の3蔵の内2蔵を担当し、朝廷軍を統括し、官僚機構の6割を彼等が占め、九州は「遠の朝廷」と呼ばれ歴史上「錦の御旗」を与えられた唯一の氏族です。 中国後漢の民族の首魁阿多倍一族の次男の末裔です。詳しい事は研究室のレポートをお読みください。たいら族と血縁遠戚です)
この敵地と観られる九州の地域には源氏一族はまったく地盤域はありません。源氏の定住地は明確に判明しています。あり得ませんし、まして清和源氏の租の「経基−満仲」です。歴史的な行動は明確に成っていますこられの人物の末裔とは驚きます。もしそうだとしたら歴史は変わっています。
ただ2つの源氏が配流している史実があり、一つは以仁王の乱の時に主謀者の清和源氏宗家の頼光系第4代目の頼政の3人の孫の内宗綱と有綱と伯父の高綱が伊勢青木氏の助命嘆願にて清盛に助けられて日向廻村に配流と成ります。清盛と同族の大蔵氏の自治基盤に配流されて、後に廻氏との間に出来た配流孫が掃討作戦にて平家に追われて薩摩大口村に逃げ延びて生き延びます。この子孫が後に嵯峨期の詔勅にて青木氏を名乗ります。この子孫は現存していまして超有名なアスリートが居られます。
もう一つは清和源氏満仲の三男の頼信の子孫の為朝が平家に追われて薩摩に逃げ延び更に沖縄に逃げ、舞い戻って伊豆の大島に隠れ住み、後に京に出てきて捉えられて死にますが、薩摩に移動したときに「逃亡孫」を遺したとする説がありますが現在も確認されていません。
南九州では源氏はこの2件しかありません。
尚、念のために、満仲の子の妾子で末子(三男とありますが10男)の源賢は僧名で比叡山僧ですし、子孫を遺していません。満仲の子10人の中に日高氏の租と成ったとする人物は正式には存在しません。「嵯峨期の詔勅」の掟で当時の慣習から3人の正妻の嗣子以外は原則的に皇族系であるために比叡山の僧に成り終わります。正子の子供の頼光の弟頼信も僧になる所を何とか兄に引き上げられて信濃−伊豆に拠点を築き侍として生きることが出来た位の社会慣習です。(分家頼信系義家の租)
この様な慣習から嵯峨期より皇族系で青木氏か源氏を名乗れる人物は現実には男女合わせてたった25人しかいなかったのです。実際は万を超える様な数え切れない数で名乗っている始末なのです。
満仲の子は「通名」は「頼・・」を使う事に成っています。(源賢は若くして僧になったので僧名)それ以外は上記した「未勘氏」の採った「名義借り」の偽名手段です。まして、皇族系であるために分家を興すかは財政的な問題が生まれ、朝廷の許可が必要なのです。
兄の頼光は上司の藤原道長に頼んで何とか嗣子の頼信の分家を興させたくらいで、その頼信系の通名の「義・・」を使っている処を観ると、宗家長男の頼光系の「頼・・」の通名ではなく、伊豆で分家を興した頼信系の通名に成っています。提供された情報は明らかに「後付」で混同していますので「未勘氏」の当時の手段の「名義借り」を物語ります。
そうすると、この「後付」は平安末期の日高氏発祥後の更に後の源氏滅亡後の室町期末期頃と成ります。
平安末期には頼信系の義経はこの日高氏の藤白神社で弁慶の帰りを待って暮らしていますので時代性、通名、嗣子関係、跡目慣習、門跡慣習、還俗慣習、末裔系譜の有無等全て矛盾しています。
以上の3つの源氏の呼称の説明の通りです。日高氏は源氏であるかの事は検証しなおされる事をお勧め致します。
そうすると、日高氏は紀州が発祥である事は歴史的な年代から観ても間違いないのですが、何故に平安初期に薩摩に移住したかは疑問です。当時の政治機構や社会体制が自由に移動を許されるものではなく、勝手に国を抜け出すと「国抜け」と云って一族郎党全て斬罪になります。
紀州の一地方の土豪が南九州に移動する事は先ず正式にはあり得ません。紀州は平安期は藤原北家一門の領国で藤原脩行の支配下にありました。この藤原脩行は南九州に移動していません。
主家のそれを飛び越えて紀州の一土豪のそれも無位無官で熊野神官族が主君の藤原氏を超えて移動する事、まして定住する事等あり得ません。
”下向”と表現する以上朝廷より赴任を命じられた事を意味しますが、藤原氏を超えての赴任命令はありえませんし、更に赴任を命じられる身分家柄では到底ありません。
「有品の令」(蔭位の制)の従5位下の身分でやっと下向を命じられるのに無官無位のまして土豪が命じられる事は全くありません。
また鎌倉期以降にしても紀州の神官職や農業を営んでいた一土豪日高氏が守護、地頭等になって薩摩に移動する事はありません。又薩摩には42氏の豪族が居て全て大蔵氏一族一門です。其処に紀州の土豪が入る事は不可能です。もし入ればそれこそ戦いです。当時の定められた社会慣習を無視しています。
平安期から社会は「氏族」が、鎌倉期からの多く生まれた「姓族」とに2つに分類出来て「姓族」は身分家柄が低い為に「4つの令」があり官職には就けませんし、鎌倉期もこの慣習をほぼ踏襲しました。
ただ一つ可能性として、熊野神社の布教の為に神官職として移動した事は考えられますが、この場合は江戸期に入っての事であります。確かに南九州に熊野神社の建立は2社認められます。
江戸中期以降に三島村と出水村とに建立されています。しかし明治維新の廃仏毀釈により全て消失していることも考えられます。
その一族で在れば結局は明治初期の定住者と成ります。明治前は神官職の定住は2−4年程度で戻る仕組みに成っていますので、定住が自由になったのは明治維新期の事に成ります。
とすると日高氏の九州の系譜は時代性が大きく異なりますので、江戸初期頃か遅くても明治初期頃に作成した搾取偏纂系譜を意味します。最も多いパターンです。
明治維新の政策により「自由契約社会」と社会構造がすっかり変わりましたので、明治3年に苗字令、8年に督促令を出し全国民の90%以上の者が苗字を持つ事に成りました。この庶民は苗字と氏と姓を形成する慣習がありませんでしたのでルーツを持ち得ませんし、依って檀家寺も持ち得ません。全て河原の路傍の石を積み上げての墓形式で、まして土葬でありますので土に帰るという仏教の教えに従い墓所は庶民や下級武士は持ち得ませんでした。
これは良悪の問題では無く氏家制度の中での社会慣習の宗教的な仕来りでした。
そこで先ず、お家の日高氏を明治維新の戸籍簿をご覧になって観られると、維新戸籍簿に過去の身分家柄も追記されていて、どこから移動してきたかも記載されていますのでご確認ください。
次ぎにお家の菩提寺の有無を確認されて、菩提寺が存在するのであれば菩提寺に過去帳と云う物が存在し、お家の累代のご先祖の俗名と戒名と共に記録されています。恐らくは日高氏には菩提寺はないと考えられますので、次ぎは本家の檀家寺を探し出しそこに由来書または人別帳、または過去帳がありますのでお調べください。人別帳の場合は明治3年の苗字令による姓と成ります。
菩提寺が無い事は源氏ではありませんし、南九州に根を張った氏と姓では無い事を意味します。戒名が明治以降のものしかない場合は明治3年の苗字令に基づく日高氏と成ります。
村人全員が一夜にして何らかの縁により日高の姓を選んだことも考えられ、当時明治維新は政府は苗字令がなかなか進まず半強制的に名乗らせるという事が全国各地で起こったのです。
この時、近くに熊野神社が在ってそこの神官名を名乗らせたと云う事も起こったのでは無いでしょうか。殆どはこの様な経緯を辿りました。
関東では郡全体で一夜にして藤原氏を名乗り家紋も同じにしたと言うことも珍しくないのです。それでなくては4500万の内の九割方の国民の苗字など決められる事は当時としてはあり得ませんでした。中には金品を払って神社や寺にお願いをして名籍の姓と偽系譜を付けてもらうことも起こりました。
明治維新の戸籍簿に平民士分の区別が書かれていますのでそれでも確認出来ます。その場合、もし移動であるのなら紀州から移動してきた事が書かれています。書かれていなければ明治の苗字令に基づく姓です。
問題は紀州日高氏となれば神道ですので、菩提寺、檀家寺、戒名などはありませんし、あるとしては紀州日高氏の末裔では無い事に成ります。
紀州日高氏は熊野神社ですが、九州の日高氏は仮に源氏としているならば祖先神の八幡神社が守護神です。完全に矛盾しています。上記しました様に源氏の敵の大蔵氏の根拠地で南九州の其処には源氏の根拠地がある事はありませんので源氏では無い事は明らかで矛盾です。依って日高氏の発祥地の紀州の日高氏は九州の日高氏ではないことに成りどこを捉えても成り立ちません。
そもそも九州の日高氏の姓には何か姓氏に疑問そのものを感じます。日高氏そのものに矛盾がありすぎます。”源氏云々”などの説は歴史の社会慣習をあまりにも無視していますので比較的新しい時期の家柄誇張の搾取偏纂と観られます。
ところでお家の宗派は何宗ですか。神道派ですので宗派は無い事に成りますので、これでも判別が付きます。お家の調べた系譜の云う通りとすると浄土宗の筈ですがお調べください。その日高氏の宗派で全て判明します。
ところが南九州には浄土宗派は密教である為に極めて少なく、江戸期前には先ずありません。江戸初期に浄土宗督奨令で九州にも密教ではない浄土宗寺の建立(2寺)がやっと認められましたのでそれ以降の氏と成りますが、この場合は薩摩の上級武士の入信と成ります。
浄土宗は江戸初期前は密教方式の寺ですので一氏の排他的独善独自のみの菩提寺と成ります。
神道で無く且つ浄土宗でなければ大方明治3年の姓氏と成ります。
紀州の日高氏と薩摩の日高氏との関連は考え難いことをこの様に歴史史実が物語ります。
次ぎは家紋のご質問ですが、上記の事を証明する事に成ります。これは神道では無い事を意味します。つまり、平安期からの紀州日高氏の末裔では無い事をも意味します。
そこで家紋ですが。「丸に片喰紋」ですが、この片喰の家紋の出自は駿河三河地方の一族です。この家紋の分布は限定されていて、ある特定の氏、つまり、藤原秀郷一門の主要家紋8氏の一つです。その氏の赴任先にのみ分布しています。主に四国阿波一帯と武蔵一帯の西より域に分布しています。
南九州にはこの一門は江戸期まで移動していませんので明治期の家紋保持と成ります。
更に、それを証明する一つとして「丸付き紋」ですが、これには6つのパターンがありますが、この「丸付き紋」から考えると、江戸中期以降の事と成りますが、普通は「丸付き紋」は明治期に一挙に増えた家紋です。上記した苗字令等に依り家紋を持つ氏の家紋を使うのはおこがましいので丸付きにしたと言うことが起りました。
藤原秀郷一門は家紋掟により「丸付き紋」は原則使用しませんので藤原一紋とも考え難いのです。
ただ、家紋掟により2代続きで男系跡目が得られなかった場合には女系となり、第1の養子先の家紋と成りますし、その一族の系列に入ります。養子先が「丸に片喰紋」であった場合に起こります。
もう一つはお家のご先祖が妾子の場合、本家から片喰紋使用を認められなかった場合に止む無く「丸付き紋」の片喰紋と成る事も起こります。(研究室の「家紋掟」のレポートをお読みください)
この2つの場合として元の家紋が何であったかは上記した過去帳をお調べに成れば判ります。
4番目のご質問ですが、1から3番までのことをお調べになる事でお判りになると思います。
先ずは「ご本家」の維新戸籍簿とご本家の過去帳または人別帳をお調べになればお判りに成るかと思います。ルーツ探求は其処から入る必要があります。過去帳が存在するのであればルーツの探求は可能です。
6代目とされています事から明治維新前後か江戸中期後と成りますので、上記の矛盾と合わせて特別な場合を除いて江戸期の過去帳は存在しないのではないかとも予想できます。
(中級武士以上は江戸期前の戸籍簿は寺と神社が行っていた。庶民は姓を持ちませんので累代戸籍の慣習はなく、村の庄屋が人別帳で現状を管理していた。)
紀州の日高氏の片喰紋に関しては熊野神社系である事と片喰紋は藤原秀郷一門の家紋群の一つである事と丸付き紋である事から判断して江戸期中期前半以前にはないのではないと観られます。
日高氏は紀州の一地方の土豪である事から極めて限定された狭い範囲であり公的な詳細な資料関係もないと観られます。日高氏は「氏族」ではなく「姓族」で日高地方の「郷士」ですので其処まで調べられる事はかなり難しいと考えられ個人資料の発掘領域かと考えられます。
歌舞伎で有名な「安珍と清姫」物語の道成寺の里です。
ルーツ探求は上記した様に和歌山の歴史のその辺の基本的なところから調べに入る事が必要ですよ。
その前に”ルーツを持っているか”の「維新戸籍簿」と「過去帳または人別帳」をお調べになる事をお勧めします。日高氏の場合はここから入らないと正しいルーツの判別は無理だと思います。
以上ですが、念のためにマスメディアに出ている資料の説は多くは江戸期の搾取偏纂の資料や系譜などを正としてそれに基づいて論処を立てているものが多くあり、それを信じるかは自由ですが先ずは疑う事から検証し利用に値するかを決められる事が必要です。コンピーター社会等の現代社会の宿命です。
これ等の歴史の事は地方の観光資源としても実に効果的である事から最近では富に恣意的に疑問や矛盾をある事を知りながらも訂正や前置きをせずにいかにも史実であるかの搾取誇大宣伝をしている公的な関係機関もあるくらいであります。最近の歴史ブームでのマスメディアも然りであります。
仮に正しさの史実を知るのであれば、その検証には矢張り歴史雑学が必要に成ります。その雑学に合していれば信じるに値します。先ずその雑学を先ず把握される事をお勧めします。
これ等の疑問や矛盾をクリャーする何かがあるのかは不明ですが、.ルーツ探求はこの矛盾や疑問を解きほぐして行かなければ正しい答えは出てこない筈です。それには雑学を駆使する必要があります。そもそも過去の社会が末端のルーツまでを簡単に探求できる社会構造ではなかった筈です。今回はその雑学の一端でお答えいたしましたのでご了承ください。
もし、その雑学は直ぐには取得は困難な場合には青木氏の本サイトがご協力申し上げます。
自由にお問い合わせください。その場合は、トップページの左メニューのルーツ掲示板からご投稿ください。雑談掲示板はメモリーが小さいので困難と成ります。今回のご投稿によりルーツ掲示板にお家の専用投稿欄を設けますのでそこからReでお尋ねいただければと思います。
日高氏に限りらず多くの他氏の方からのお便りが多くありますよ。
[2290] 鈴木氏と日高氏の記事について
日高康博
2011/11/02 19:54 - パソコン
初めまして。神戸市在住の日高康博(46歳)と申します。日高という苗字の由来についてネット検索しているうちにたどり着きました。青木氏の話題ではなくて申し訳ないですが、当ブログの「鈴木氏のルーツと青木氏 」という記事に日高氏について、かなり詳しく言及されていましたので、お尋ねする次第です。
1 参考文献について:「日高氏は南紀(和歌山の南地域)にある日高川の付近の土豪で熊野神宮の宮司の一族である」、「熊野神官5氏の一つ日高氏が宮司」と記述なさっていますが、これらの事実の基となった参考文献をお教えください。
2 源氏後裔の日高氏との関連:これまでの調査で、日高氏は、「源満仲の三男源賢に始まり、二男義正は紀伊国日高郡に750町歩を領して日高氏を称した。後裔の義宗は大隅に下向、親成は薩摩に下向、現在日高一族は薩隅日に多く分布する。」ということはわかっています。熊野神社の宮司となった日高氏は、「紀伊国日高郡に750町歩を領して日高氏を称した」一族と関連があるかどうかご存知でしょうか?
3 家紋:我が家の家紋は「丸にカタバミ」です。しかし、薩摩や大隅の日高氏の家紋とは異なります。熊野宮司としての日高氏に、「丸にカタバミ」の家紋を有する系統があるかどうかご存知でしょうか?
4 最後に、先祖調査にお力添えを頂けるような、熊野の日高氏にお心当たりはないでしょうか? ちなみに私の両親は熊本出身、6代前の祖父は阿蘇に住んでいたことがわかっています。
いきなり、いろいろと質問して恐縮ですが、何かおわかりでしたら、よろしくお願いいたします。
福管理人様
ご返事有り難うございました。
先ず貴サイトへの認識不足に対して深くお詫び申し上げます。
また迅速且つ丁寧なご対応に心よりお礼申し上げます。
さて、ご説明には驚く様な情報が含まれており、再度貴レポート等を読み直して理解を進めたいと思って
おります。
また、ご指摘・ご質問頂いた事項については、これから実家の周辺の調査や確認を進めたいと思います。
また、当方関係者への説明と合意を経て対応を進める必要がありますので、しばらく時間がかかる
ものと思います。
状況が整った際には再度ご助言をお願いする事があるかと思いますので、其の際はよろしくお願い
致します。ここまでの懇切丁寧なご対応誠に有り難うございました。
福管理人様
早速のご回答有り難うございました。
こちらの質問以上のご説明を頂き大変恐縮しております。
また、引き続きご協力頂けるとのことありがたく思います。
さて、
1.質問1に対して、系図史料入手は難しいとの事ですが、これは福管理人様の個人ルートによる情報入
手であり、所在が公になっている例えば丸山浩一「系図文献資料総覧」等にない情報ということでしょうか。今後公になることはあるでしょうか。
福管理人様の論文はWeb上の論文なので引用できるかどうか困っております。研究雑誌等に発表して頂
ければありがたいのですが考えておられないでしょうか。
2.質問2について、詳しいご説明有り難うございました。青木-柳沢系図に関しては、寛政譜はほとんど信
用できないということですね。寛永譜の編纂は柳沢吉保の出世直前ですから、これは信用して良いとい
うことでしょうか。ご説明を元に検討を進めたいと思います。
3.質問3のご回答について了解致しました。ネットで以前から検索していますが探し当てる事が出来て
おりません。「源空寺」、「甲斐」、「浄土宗」、「廃寺」、「石灯籠」を組み合わせていますが、何か欠いているようです。
4.質問4のご回答よく分かりました。柳沢郡が北にあったことは始めて知りました。
有り難うございました。
5.当方調査の内容とご助言のお願い
私は現在宮城県在住ですが実家の青森県柳沢家について調べております。
(1)実家は山村で農家です。先祖から5代の某は1848年南部藩系図御用掛りに由緒書を提出してい
ます。
これに先祖「○○保忠」、遠祖「小右衛門」とあります。先祖は1704年藩から官牧の管理の役目を仰せ
付かり微禄を賜い、代々役目を継いでおります。先祖の没年は1730年です。家紋は丸に花菱です。
(2)青森県にも柳沢の地名は多く、姓も多くあります。しかし当県のA市、隣県のB市の柳沢氏も家紋
は花菱と異なっております。2市とも近くに地名がありそこに興ったものと思われます。実家の近くに
柳沢の地名はありません。
(3)寛政譜で遠祖名「小右衛門」を検索しました。その結果29家64人が該当しました。このうち花菱紋
は3家4名です(卷162青木正定、青木信久、卷166折井門次、卷1084武者安貞)。この結果遠祖に青木正定が有力と考えられました。
(4)貴論文からは青木正定から柳沢は出ないと解釈しましたが、今回のご回答によると出る可能性
があると理解しました。貴見をを伺いたくお願い致します。
質問に丁寧にお答え頂き、またご協力頂き誠に有り難うございました。
どうかよろしくお願い致します。
> 1.青木豊定が柳沢氏を発祥させたとする青木系図の史料を入手したい。所在をお教え願いたく。
> 2.青木豊定、柳沢信俊が関連づけられている史料(豊定-信立-信俊-?)の所在。
> 3.柳沢吉保が石灯籠を贈った源空寺・松源寺の廃寺の現在地。(訪問致したい)
> 4.論文で書かれている北巨摩郡青木村(韮崎市清哲か?)、南巨摩郡青木村、巨摩郡青木村、柳沢郡
> 青木氏、柳沢郡柳沢氏の本拠地は現在地名でいうとどこか?土地勘が無くお教え願いたく。
>
> 以上よろしくお願い致します。
柳沢さん 今日は。
青木サイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、柳沢氏は武田氏系青木氏族柳沢氏ですが、「嵯峨期の詔勅」に基づき清和源氏末裔を理由に皇族青木氏を名乗ったもので時光系青木氏です。
甲斐の皇族賜姓青木氏は清和源氏分家頼信系の源の源光系から「青木別当蔵人」として正式に認可されて出自していますが、特別に源光の兄の時光が無冠で甲斐武田氏系青木氏を名乗ったものです。
この青木氏の末裔で信正−信定(信種)の子の正定の弟の豊定が柳沢郡青木村に住し青木氏を名乗らず柳沢の郡の地名を採って柳沢氏を始めて発祥させたものです。
ご質問1の件ですが、この青木氏に関する資料は個人が所有する資料を研究目的で纏められたもので非売品ですので、入手は困難だと思います。
資料詳細は青木氏の資料の中に記録されているものです。
柳沢氏の系譜等は論文にも記述していますが、都合よく搾取偏纂されています。この資料はインターネットでも検索する事は出来ますが、青木氏からの柳沢氏の系譜は青木氏を中心とした資料に成っていますので柳沢氏だけを引き出す事は困難です。
判るものの内容は論文に整理して記述しています。
然しながら、真偽の程は別として江戸時代の「寛政系譜」と云う書物の中に「柳沢曲渕の譜」として次ぎの様に記載されていますので参考にして下さい。
「寛政系図」の記述内容(漢文資料より)
「武田信虎に仕える。某年死す。法名深見。「寛永青木第三の系図」に記載する処の信種、及び同書柳沢曲渕の譜に見ゆる信定と共に尾張守と称し、法名浄見という。その事跡同じければこの信定疑うらくは同人ならん。これ寛永の時呈するところの譜、家々に伝うるところを誤り、或いはその名を異にし、或いは別人のごとくせしものか。しかれどもその子に至りては、いずれ兄いずれ弟たる事を詳にせず。よりておのおのその見ゆるところを記して後勘に備える。」
現在もこのルーツの柳沢氏宗家は現存されていますので、個人情報の法的範囲に入りますので青木氏から全てを網羅させる事は困難です。
ただ、折角ですので、支障の無い範囲で本文に記述します。
信親(信立)−信時−信安−信就−・・
信安の義兄弟として信時の養子として信生が入ります。
その養子の信生の系譜は次のように成っています。
信親−信時−信生(養子)−某(信正)−信定−信之−・・と続き、信正−信定−正定・豊定・豊勝となり、豊定から花菱紋の柳沢氏が発祥します。
これ以降は青木氏ではなく柳沢氏の範疇ですので青木氏に関するあるところまでは把握していますが、それ以降は真偽の程が判りませんので回答出来ません。
2番目のご質問ですが、青木氏から見た柳沢氏は1と同じです。
信種は信親の父親
信種は信定の事 (信正−信定系列の信定と同名で別人)
信立は信親の事です。
信親には信時と信国と・信俊の3人の男子がいます。
信時の子供は信安の実子と養子の信生がいます。
信生は落合信資の子供です (信時に養われる。)
信生は信正−信定−信之−信茂・・・と続きます。(青木氏の養子系列 将来大きな力を持つ)
この信定(藤九郎)から上記した3人の子供の次男の豊定が花菱紋の柳沢氏を発祥させます。
(通名の「信定」は幼名では、八十郎と藤九郎と信種(幼名不明)の3人がいる 別人)
信俊の兄の信時の養子の信生の系列の末裔の豊定の柳沢氏の名跡を、勲功にて信親の三男・青木信俊が引き継いだのです。
この青木氏の信時の養子系列の青木信生−青木信正ー青木信定(割り菱紋)−豊定(花菱紋・柳沢氏の元祖)のルーツより分家の花菱紋の柳沢氏が発祥したのです。(長男の青木正定が花菱紋本家 武川12人衆)
この信定が問題の人物で宗派を浄土宗から曹洞宗に宗派変えする、養子系列を嫡子がありながら割り菱紋の青木氏を継承させようとする、菩提寺常光寺を変えるなど等の問題で親子争いが起こります。
そこで実子の正定・豊定・豊勝の3人の子供は割り菱紋を継承できずに花菱紋の青木氏を発祥させます。
嫡子本家の正定は花菱紋の青木氏を、次男の弟は青木村のある郡の地名から花菱紋の柳沢氏を、三男の豊勝は花菱紋の分家青木氏を発祥させ2代で絶えますが、本家の正定の子供の次男の昌輝を豊勝の3代目の跡目に入れて継承します。
豊定と信俊と吉保までは青木氏から見ると花菱紋の柳沢氏は次ぎの様に繋がって行きます。
源時光(武田系甲斐青木氏の元祖)−・・・−義虎−信種−信親−・信時(長男 嫡子)−青木信生(養子)−青木信正ー青木信定(割り菱紋)−豊定(花菱紋・柳沢氏の元祖 妾子)
信種−信親−・信俊(三男 妾子)
豊定−・(信兼)−・信俊(長俊 :通名の信の継承がない妾子)−安忠−吉保−・・
(柳沢氏を継承した事により通名の信を使って正式に一族と見なされて信俊とします。)
3番目の件ですが、誠に済みませんが以前この件で問題が起こり所在地をお伝えする事は又クレームが着く事もありますので、先ずはインターネットでお調べください。現在荒れ寺に成っていますが源空寺の灯篭は現存します。インターネットからも判ります。
4番の件ですが、論文に記載しています通りです。巨摩郡を中央と南北に分け北は清哲です。現在と同じです。昔の柳沢郡は現在は長野と山梨の県境に位置し現在の長野の諏訪郡柳沢付近と県境付近です。
村は青木氏と左が柳沢氏と二分しています。もともとは青木村から柳沢氏が発祥したために多少の住み分けをしたのです。
宮城の加美の柳沢ではありません。
全国柳沢の所以のあるところは奈良、長野、山梨、東京、埼玉、青森、宮城、新潟、の8所ですが、花菱紋の青木豊定系の柳沢氏は移動経路から前5つであると思いますが更に詳しく調べないと判りません。
割り菱紋の柳沢氏も信種の伯父の青木信興から発祥し、途中で途絶えますが、後に青木氏から跡目を入れて再び発祥していますので青森、宮城、新潟はこの柳沢氏であるのかも知れません。
お家の柳沢氏がどの様な由緒の柳沢氏であるかは情報を得ていませんのでなんともし難く判りませんのでご質問のみのお答えと致します。他に未勘氏と第3氏の2つの柳沢氏があります。
そもそも青木氏と柳沢氏を含む武田氏の系譜は大変入り組んでいて判別が困難なほどに成っています。
これは武田氏の由緒が河内源氏の末裔としていますが、明らかに傍系なのですが、系譜の正統性を見破られないように各所に同人物、同名等が使われたり、またある流れの系譜に別の系譜が組み込まれていたり、同じ人物でありながら別の名前が使われていたりし、それも何度も同じ手を各所に使っているのです。中には時代的に矛盾もあります。明らかに故意的、恣意的にしている事が判ります。
これは武田氏が唱える家柄の搾取を隠す目的からでこの様に成っています。
それを紐解くのは大変なのです。今は研究が進んで大方は判っています。
武田氏系青木氏は解明されていますが、花菱紋の武田氏系青木氏族柳沢氏の系譜もなかなか面倒なのです。確か4つの柳沢氏に広がっていたと思います。
甲斐から吉保の移封により奈良に移動していますので奈良が吉保の本家筋、長野が古い柳沢氏宗家筋、東京は吉保の残留支流筋、埼玉は吉保の残留支流筋、山梨が吉保の分家筋と成ります。
花菱紋の青木氏族柳沢氏に付いては論文に網羅していますが、大変に複雑です。名前が違うが同人物とか、系譜も武田氏を含む3つの系譜が網の目の様に組み込まれています。
これは本来青木氏である柳沢氏が武田氏の中で論文にも網羅しましたが低く扱われたためで代々の禄高を観ると生活が出来るかどうかの困窮の中にありました。
(花菱紋の本家青木正定一族も武田氏の中で勢力争いが起こり青木氏の傍流として低く扱われ、禄高も低く最後には甲斐の山奥の隣国からの守備隊にまで追い遣られる始末です。最終、家康に依って救われ武蔵国鉢形に一族一門は移動します。徳川軍団の北の防衛軍団としてその武力を見込まれて配置されます。この時一部の柳沢氏も移動します。この時の柳沢氏「?信兼」が隣の宮城の柳沢氏になった可能性もあります。信興流か正定流か不明)
この様に武田氏が滅亡し徳川軍団に組み入れられますが、この時も極めて低い禄高で困窮します。吉保から一度に高く成るのです。
このため菩提寺は無くなり系譜管理どころの話では無く吉保の祖父にあたるところまでしか判らない状況でした。
これを武田氏系青木氏からの資料で繋げることで判るのです。
割り菱紋の青木信興は柳沢氏を名乗ります。家康に厚遇されますが、この信興のルーツが解明できません。この柳沢氏が江戸期に宮城等の他の地に広がったかも知れません。
青木氏の専門外ですが、宮城の柳沢氏と成りますと先ずは上記の未勘氏や明治の苗字令の柳沢氏の判別も出てきますので此処から始める必要が出てきますね。
先ずはお家の宗派、ご先祖本家の菩提寺(檀家寺ではない)の有無と場所、家紋、過去帳、仏壇、ご先祖の一番古い人などからで大方の判別か着きますので。
以上の複雑な系譜からお家のルーツをお調べに成るにはかなりの研究が必要で大変だと思います。
ただ、ご質問の資料があってルーツが判る程に甘くなく、それを幾つかの資料を考察して検証して考証して始めて判ってくるものです。これには正しい判断をする為にかなりの歴史雑学が必要に成ります。
上記する内容もこの過程を経ての結果であります。
まして、1個人のルーツを網羅するほどに昔には整ったまともな資料などある筈はありません。まして、下克上、戦国時代の混乱期です。殆ど消失しています。まして江戸期直前の柳沢氏です。
現在と比べて昔も同じとするほどに資料などありませんしその様な整備された社会慣習ではなかったのです。
有ったとしても上記しました様に100%搾取偏纂です。
これを信じるか信じないかは個人の思考の範疇ですが、此処青木氏にある資料はこれ等を精査して整理してレポートされているものです。
向後ルーツを解明される努力を成されて成功に導かれる事を願ってご忠告申し上げます。
以上ですが、多分、柳沢氏からの正しい資料はないと思います。
他にお調べになられて判らない時は歴史雑学上の判断としては青木氏がご協力いたします。ご遠慮なくお尋ねください。
青木氏氏研究室 福管理人様
「甲斐青木氏の研究(花菱紋)」について質問させて頂きます。
宮城県の柳沢と申します。自分の家系を調べております。
本論文を興味深く読ませて頂きました。
しかし大冊且つ複雑で十分な理解が出来ずにおります。
そこで、以下の4点についてご教示賜りたくお願い致します。
1.青木豊定が柳沢氏を発祥させたとする青木系図の史料を入手したい。所在をお教え願いたく。
2.青木豊定、柳沢信俊が関連づけられている史料(豊定-信立-信俊-?)の所在。
3.柳沢吉保が石灯籠を贈った源空寺・松源寺の廃寺の現在地。(訪問致したい)
4.論文で書かれている北巨摩郡青木村(韮崎市清哲か?)、南巨摩郡青木村、巨摩郡青木村、柳沢郡
青木氏、柳沢郡柳沢氏の本拠地は現在地名でいうとどこか?土地勘が無くお教え願いたく。
以上よろしくお願い致します。
今日は 静岡の長嶋さん
毎日、暑いですね。
さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、この家紋に付いては判りません。
この雁金文様は鎌倉時代に頼朝より土佐坊昌俊が授かったものですが、その後多くの武士がこの文様の変紋を使うように成りました。凡そ53の文様があります。
その多くは江戸初期に農民などが戦国時代に武士を志して立身出世して江戸期に正式な家臣として取り立てられた者が、「姓」を形成する事になり苗字と家紋を慌てて持つ様に成りました。
この53の家紋の多くは江戸初期のもので「姓氏」の使用する家紋群です。中には有名な信濃真田氏の支流も使っているようですが、この月輪に豆雁金紋はこの時期のものです。雁金紋は主に四国と中部地方に分布する文様です。
依って、秀郷一門の名跡の長嶋氏の末裔がこの家紋を使う事は論理的に有り得ません。
藤原氏系長嶋一門の家紋は34から成り立ちますが、これに九州大蔵氏系長嶋氏の家紋を入れると38から40程度と成ります。34の長嶋氏の文様はサイト研究室の中ほどにあるに「 藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−永嶋氏との関係」のところにレポートしています。ご覧下さい。
江戸期に使用したこの家紋とは時期が異なる為にルーツが異なっています。従って無関係です。
仮に有るとして、苗字と家紋を江戸期に勝手に使ったものですから恐らく「第3氏」の「姓氏」(かばねうじ)と成りますので、長嶋氏の「氏」(うじ)とはそもそもその出自出所が異なっています。
歴史の雑学として、「氏」と「姓」との2つがある事をご承知ください。氏名と姓名です。
長嶋は氏名の方です。この判断を観てすればこの月の輪は長嶋氏とは異なる事が直ぐに判ります。
氏家制度の中では血縁の慣習は「家柄」「身分」と「吊り合い」を前提として原則進められましたので、長嶋氏にとってはこの文様は、少なくとも江戸中期のころにこの氏家制度が後退しましたが、この頃までには無いと考えます。江戸初期からしますと150年程度と成りますので3代か4代程度の姓氏に成っている程度ですのでまだ到底長嶋氏との血縁までの子孫数はないと考えられます。
まして、九州の長嶋氏となると先ずは無いと成ります。
現在家紋は8000程度ですが、氏としての家紋は凡そ1200程度でその中でも「家紋200選」と云うものがありまして、その中にある家紋は主要家紋と成ります。サイト研究室にレポートしています。
九州長嶋氏の三雁金紋はこの中に有ります。
前回レポートの内容も踏まえて少しづつ歴史の雑学をお持ちになられればより判断が着き易くなると思います。サイトにはこの雑学がたくさんありますので是非お読みください。
また何なりとご質問ください。以上です。
福管理人さん、今日は。
家紋について教えていただきたいのですが、月輪に豆雁金を持つ長嶋氏は存在するのでしょうか。
自分の友人で色々見える人がいて、長嶌太吉という字を見ていたら、『月に囲まれた噴水のような形をした鳥の絵が見え、その絵(紋)が描かれた陣笠を被った人が見えてきた』とのことでした。この人は家紋に関する知識はほとんどありません。
僕も長嶋家のことを調べていて、このサイトで肝付系長嶋家が三雁金紋であることを教えていただき、雁金紋を調べるようになり、最近インターネットで月輪に豆雁金を見たのですが。
こんな変な質問で、お気を悪くされたら済みません。
福管理人さん。
貴重な情報ありがとうございます。
また、更に貴重な追加情報ありがとうございます。どのように表現して良いか分からないぐらいです。
感謝しております。
週末、サイトを見て、凄く感動し、自分もインターネットを見て浄土宗、曹洞宗のサイトから天草、長島、出水、鹿児島市内、肝属を検索してみました。
沢山のお寺がヒットし、これを元に探してみようと思い、とりあえず、お礼のメールを思いメールしました。
『旧薩摩藩領では、明治初めの廃仏毀釈のやり過ぎのため、藩主菩提寺も含めて領内の寺が一時期は1つも残らず全滅した』とのこともあり、なかなか道のりは、長そうですね。
でも、自分の先祖のルーツが重要であることを感じ頑張らなければと思っています。
夏休みを利用し、鹿児島へ行こうと思っていますので、この情報を生かして何かつかめればと思っています。黎明館でも色々と情報が得られたらと思い立ちよろうと思っています。
良い経過が、報告できれば幸いです。
また、色々と相談を致しますがよろしくお願いします。
長嶋さん 今日は。お久しぶりです。
色々とルーツの事をお調べに成っている様ですね。なかなか上手く行きませんよね。
ルーツ探求は歴史雑学を極めて必要とする作業です。
現在の感覚では絶対に出て来ません。それは氏家制度と身分制度の社会であった事からで、現在感覚では矛盾が生まれ、その結果、間違えた方向へと探求の道を選んでしまうと言う事が起こるからなのです。
さて、勝楽寺の「人別帳」には ”江戸中期までには、太吉、妻たいの名前が出て来なかった”と云う事ですが、これには次ぎの3つの疑問または雑学上の間違いを起しているようです。
1 先ず「人別帳」は通常、庶民、平民の戸籍簿に当るもので、武士はこの「人別帳」には載りません。庄屋が村毎や郡毎に居る農工商の民を税を統治管理する事から書き記したもので、主に庄屋が管理し村の寺等に保管して管理していました。「人別帳」は「戸籍簿」としてはその役割の中の「系統性」がありません。
代々の氏の系統性を主体として管理されたものではないのです。そもそも庶民は姓や氏を構成していませんので、つまり「姓名」や「氏名」は持っていませんので元々系統性のある物は出来ません。
武士と庄屋、名主、豪商、豪農は元は武士であった事から苗字帯刀を許されて「姓名」や「氏名」を持っていますので「過去帳」でも戸籍管理されていたのです。(庄屋は人別帳にも記載する慣習)
お家は先ず長嶋氏で武士ですので「人別帳」の方には記載されません。
2 お家は鹿児島が管理地に成りますのでこの川路村にはありません。
明治前は”人は土地に拘束されます””その土地と領民は領主が統括しますので、鹿児島の人は鹿児島に過去帳があるのであって、明治前60年前に移転してきたとしても此処のお寺には「過去帳」として記載する事は出来ません。当然に「人別帳」も。
明治3年以降であれば体制が変わりましたので川路村の役場の戸籍簿に記載されます。
しかし、お家の場合は載せるには鹿児島から移さなくては成りません。急に川路村に降って沸いたようには戸籍を作る事が出来ません。
つまり、明治3年以降にお家の戸籍を鹿児島から移していない事を意味します。移していれば明治の戸籍簿に”何処から移転”と記載されている筈です。
特に明治初期のものには、寺から役場に管理が移りましたが、この事の経緯が詳しく記載されているのが特徴なのです。士分、平民の別も記載しています。
3 次ぎに”太吉、妻たいの名前”ですが、武士である事から幼名と俗名では管理されないのが普通です。武士は年齢に応じて、成人になるに従い幼名から俗名が付き、成人すると武士名の・・左衛門頼光とかに変わります。「過去帳」にはこの武士名が記載されます。
武士は基本的に4つの名を持つのです。後は戒名です「・・院・・殿・・左衛門居士」。・・院は官職が、・・殿には氏名が読み込まれます。この様に過去帳は武士名と戒名を記載します。
”妻たい”の名は武士の身分、つまり名家か上級武士に依っては別のものに記載されます。
お家の長嶋氏は鹿児島では女墓制度の慣習を引き継いでいたかは判りませんので何とも居えませんが、「院殿居士」を持つ家柄であったなら過去帳にも女過去帳にも記載されている筈です。いずれにしても川路村には無い筈です。
4 60年と云う年数から此処に移転してきた時の理由です。
薩摩藩の仕事から移転して来たとすると、赴任移動に伴なう「手形」しかありませんので、川路には戸籍、人別、過去帳等もありません。明治3年に成っていませんので鹿児島以外に人別にしても過去帳にしても無い事に成ります。
そこで”本家菩提寺・・”としている事なのですが、お家は薩摩の長嶋氏です。武士です。菩提寺が川路にある事は絶対にありません。
そもそも「菩提寺」の意味を間違えられていると思います。
恐らくは「檀家寺」と勘違いされている様です。
「菩提寺」は薩摩長嶋氏だけを祀る寺で氏の本家、分家、分流、分派、中には縁戚の全体で長嶋氏の管理運営する専属の寺の事です。
江戸末期には管理運営に大変な経費がかかりますので、相当な身分つまり大大名等が持つ事ができました。従って菩提寺運営をするには宗派が同じとか氏は異なるが流れが同じとかで他氏と共用する寺も多く殆どでありました。場合に依っては肝付氏や大蔵氏や廻氏や前記した40族に連なる氏との共用で菩提寺を運営していたのです。
依って、薩摩以外の所には「菩提寺」はありません。「移転」そのものが「菩提寺」では無い事に成ります。
お家の様に60年前に移転したとすると間違いなく「檀家寺」となり、この場合、長嶋氏が何宗かに依りますがその宗派が川路になければやむなく他宗の檀家寺に「仮寺」として済ませ、「本寺」は鹿児島薩摩と言う事になります。藤原秀郷一族は全てこの方式を採りました。それが真宗でした。
兎も角も大蔵氏系肝付氏族長嶋氏と成りますので過去帳などがあるところは、主に肝付氏の大隈地方のその本宗派の寺に成ると思います。或いは天草市に成るかも知れませんが。
「2足の草鞋」はあくまでも武士であって身分の高い方を選定する習慣です。
この場合は戒名などもその宗派に依って作り方が異なりますので、先ず少なくとも薩摩長嶋氏の総宗本家の宗派の確認が必要です。
普通で考えれば曹洞宗か浄土宗かに成ります。お家のご本家の仏壇の形式からでも大方は判ります。
というのは宗派が異なれば祭祀する仏様が異なるからで、その仏様の構成が宗派で異なるために仏壇の形も異なってくるのです。
お家の常陸・下総の長嶋氏の宗派は元は古代密教の浄土宗であります。大蔵氏と血縁し大蔵氏系となった長嶋氏が大蔵氏ではなく長嶋氏を継承している限り、長嶋氏の宗派を継承しますので古代密教と成ります。
ご質問1
そこで、武家商人として『2足のわらじ』で愛知の新城という土地に来ていたとすると、菩提寺は薩摩と言うことになり、川路地区『宗門人別御改帳』なかったのでしょうか。
このご質問ですが、上記しました通り、「菩提寺」は薩摩にある事は間違いありません。
川路地区は「本寺」ではなく「移動の便宜上の仮宗派の仮寺」で、その後、明治になった事から「檀家寺」として続け、その土地でのご本家が出来た事からそのままに檀家寺をつないできたものです。
依ってこの川路の「本家」では無く「宗家」の方にある事を意味します。更にその上を「総宗本家」と呼びます。
川路に移動後ご本家が出来たのですから、川路に戸籍が無い事から薩摩が「宗家」となります。
つまり、何らかの理由で明治初期の3年の苗字令の時に川路に本籍を移さなかった事を意味しますので薩摩のどこかに戸籍がある事に成ります。
その後に現在地のどこかに移したことも考えられます。ですから先ずは薩摩の長嶋氏の宗家(薩摩の本家)をお探しに成ると良い事に成ります。
ルーツはこの「本家」で調べなくては成りません。お家は江戸末期で、且つ、移動して来ていますので、薩摩の「宗家」の本家筋が何処にあるのかを先ずは調べなくては成りませんが、大切な事はルーツ探求には下から上へ調べ上げて行く事は枝葉に成っていますので不可能です。ですから、出来る限り上から下に探す事が必要です。先ずは薩摩からと成ります。
そのためには現在の宗派ではなく元の宗派をご確認ください。浄土宗で古いお寺である筈です。
薩摩の肝付氏族長嶋氏を名乗っていますので、大蔵氏の一族が元の長嶋氏を誰かが引き継いだことに成りますので、元の宗家の宗派は古代密教の浄土宗と言う事に成ります。
薩摩に於いて古代密教の浄土宗の出来る限り古いお寺をお調べに成る事です。
その時代は鎌倉時代の末期の元寇の役(1280年−1285年)の前後に、常陸−下総の長嶋氏系一族と血縁していますので、その50年から100年後(1330年−1385年)の前後に薩摩長嶋氏が発祥していることに成ります。(この時同じ一門の長谷川氏や青木氏や進藤氏も大蔵氏と血縁している。)
その後、1495年−1510年にこの長嶋氏は肝付氏と共に薩摩の配下に入ります。その直前には長嶋氏は「天草市新和町」付近を支配する五氏の豪族となり次第に勢力を拡大して行きますので、その支族(分家 長島氏)として天草の豪族の宮路氏と共に肝付氏を背景に長島氏が薩摩長島まで勢力を張って行ったのです。
この長島氏姓を呼称する(長嶋氏)は肝付氏と共に今の鹿児島県の長島地方を領有する様に成ります。
しかし、結局、勢力拡大で島津氏と長い間争う事に成り衰退し敗退します。この時、一部の長嶋氏は長島の近くの「阿多」にも移り住みます。
(地名の「阿多」は大蔵氏の始祖の大隈の首魁阿多倍王の阿多 伊勢北部伊賀地方も伊勢青木氏より半国割譲して阿多倍王に与える)
つまり、分家の長島氏は天草−出水の長島から阿多付近まで 本家筋長嶋氏は大隈から阿多までの勢力図であった事になります。
(「長島氏」は元は常陸下総の「長嶋氏」の系列で「伊勢長島一門」の長嶋氏ルーツ系です。
永嶋−長嶋−長島とこの「3つで永嶋族」を地理的にも判別する様にしていました)
この事から薩摩長嶋氏のお家のルーツの宗家は、第3番目の鹿児島県の天草に近い長島と、近くの阿多にも子孫はある事にも成りますが、菩提寺も同じ事が云えます。
(出水長島、薩摩阿多、薩摩大隈、薩摩肝付の何れかに。 天草出水長島は考え難い)
依って次ぎの何れかになるのかを確定する必要があります。
1 元々の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の総宗本家筋なのか
2 元の長嶋氏から長島氏にしたのか、
3 長島氏から長嶋氏に戻したのか、
4 伊勢長島系(長嶋氏族)の長島氏を本家はそのままに継承しているのか
注 大蔵氏との血縁時は長嶋氏です。始祖は「大蔵種秀」(1280−1285)で、その子の「頼種」の長嶋弥六が引継ぎ大隈に移動し、その祖祖父大蔵種有の弟大蔵種嗣系の大蔵氏から大隈長嶋氏に跡目に入った種嗣の孫の種親−曾孫の種武と引き継がれた事に成る。
ですから、お家の長嶋氏は正式にはこの種親−種武(1330−1385 室町初期 大隈国)から引き継がれているのですが、伊勢長島の長島氏の名跡を分家が引継いだと見られここから天草出水長島に広がっています。
ここから菩提寺の過去帳で江戸末期までお調べになるとルーツが判明することに成ります。
(青木氏との関係で研究したところここまででこれ以降の資料は持ち合わず困難です。)
推測
大蔵氏との血縁時は伊勢の長島氏は高位の大蔵氏が血縁先である事から家柄身分をあわす事から長嶋氏を名乗った。そしてその後、伊勢の長島の名跡を分家等が引き継いだ。
この時、長嶋氏流と長島氏流が拡がった。長嶋氏は大蔵氏系肝付氏族として大隈に、この後、長島氏は長嶋族として天草隣の長島に勢力を拡大した。(大隈長嶋氏も隣の阿多まで広げた)
此処までは史実です。
その後、大隈の宗家の長嶋氏に跡目が欠けて長島から人を入れ跡目を継承したか。長島の分家筋の本家の者が島津氏の御用達に成った事から身分をあわすために分家筋の長島の名乗りを宗家の長嶋に戻したか。大隈長島本家が御用達を務めたか。
従って、大隈の長嶋氏が総宗本家筋、天草長島の長島氏が分家本家筋に枝葉が拡大したのでルーツはこの2つにある事になります。
(肝付氏の方からも下総結城の宗家名跡を継ぎ永嶋氏を名乗った一族が居る)。
さて、この何れに菩提寺があるかの問題ですが、天草長島氏には菩提寺を運営する能力に疑問があり、且つ、総宗本家ではないので菩提寺を作る事は立場上で困難であったと考えられます。
支所的なものはあったと考えられます。或いは伊勢長島の伊勢神社を祭祀する事はあるかも知れませんが宗家菩提寺は仕来りから大隈にある事に成ります。
当然、そうなると菩提寺宗派は浄土宗密教と成ります。守護神は一族一門の総宗本家の肝付氏は「産土神」ですが、長嶋氏を名乗っていますので「鎮守神」と成ります。菩提寺のあるところに必ず「鎮守神」がある事に成ります。この2つの条件が備わっている事に成ります。
この付近に上記年代の一番古い浄土宗寺にあると思います。
場合に依っては天草にある事も考えられますのでここからお調べになられることをお勧めします。
古い天草の長島氏か島津時代の薩摩の長島氏か長嶋氏に成る事も考えられます。
或いは大隈に。長島氏の中で常陸の名家の長嶋氏の氏名を継承した可能性が大でありますが、又は、常陸の総宗本家の名家の長嶋氏の氏名を継承して島津藩の「こけら屋」(長島氏は過去に敵対した事があるので御用達に成るのには問題がある)を務めた事も考えられます。
この場合は後者か肝付氏の大隈の土地のお寺の可能性があると思います。
当時の氏家制度と身分慣習と一般の義理の慣習から私はこの説も高いと見ます。
つまり、島津氏の身分に合わせて元の名跡の長嶋氏を名乗る事は当時の身分制度からよくある事です。
当然に氏家制度の中では分家が本家や宗家に対して許可無くこの様な行為に出る事はありませんので、名乗ると成ると本家筋或いは宗家筋がある事ですし先ず許さないと思いますので名乗れません、そうなれば総宗本家の許可が必要と成ります。
依って、名跡の長嶋氏を名乗る以上は本家筋、宗家筋の枝葉と成る筈です。
この天草の土豪の長島氏一門では菩提寺は運営管理する力は無い可能性もあるので、同時に氏神社も合わせて寺社2つの存在を確認する必要があります。
そもそも川路に”何故ルーツの後が無いのか、何故戸籍を移さなかったのか”の疑問が生まれます。
それはもう次ぎの様に答えが出ています。
菩提寺が薩摩にあると云う事、
菩提寺を一門で管理運営する力があった事、
その力は「こけら屋」であった事、「2足の草鞋」を持つ事はその経済力が十分にあり、島津藩「御用達」であるほどの豪商であった事、
島津家に負けじと劣らずの有力名門氏であった事、
江戸期に長嶋氏を名乗れるほどの本家筋であった事。
九州一の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の名門中の名門である事。
伊勢長島の系列の長島氏でありながら常陸の名跡長嶋氏を名乗っている事
平安末期から鎌倉期と室町期を経て江戸期まで一貫して日本有数の血筋を引き継いで来たのです。
天皇家の血筋を引く大蔵氏と藤原氏の両方の氏です。姓ではありません。
これだけの条件が揃っているのも氏も珍しいもので、「菩提寺」を有している事は間違いありません。
だから、移さなかったのです。だからもとより川路地域一帯にはないのです。
移す事の事態がおかしいのです。
ですから、お調べに成る時は宗家筋から下へと進められるようにしてください。
かなり宗家に近い筈です。それは宗家そのものが他国に移動する事は絶対に氏家制度からありえませんから。菩提寺があるとすると、当然に当時の慣習から一族一門の「氏の守護神」を持っている筈です。
大蔵氏と肝付氏は「産土神」を「主神」とし、長嶋氏は「鎮守神」を「主神」としています。
このどちらか或いは両方の「守神」を持っていますので菩提寺と共にお調べに成るとどちらかから糸口が出てくる筈です。
ご質問2
他の藩から来て、住んでいた人は『宗門人別御改帳』には載らないものなのでしょうか?
江戸期以前では上記の通り住む住まないでは無く「人別帳」には武士は乗りませんし勿論他国者は乗りません。
鹿児島の宗家を確認して其処の長島氏か長嶋氏の菩提寺を定め其処から下ってください。
先ず天草市から潰して行ってください。そして大隈市へと確認してください。
宗派は浄土宗で、或いは次ぎに曹洞宗か真宗でお調べください。
お寺が決ればあとはルーツが開けてきます。この時は長嶋氏の守護神もある筈です。
参考
兎も角も、ルーツ探求には、”推理推測を立て、それを調べて推理推測に辿り付けるか”が面白いところです。辿り付けた時の喜びが忘れられません。
先ずは上記末尾に記しました推理推測が必要で、これなくして先ず辿り付けないでしょう。
それ程に歴史資料が整っていなく忘れ去られてしまっているのです。一度忘れ去られると大変な努力が必要です。先ず個人の領域までたどり着ける程に遺されていないので不可能です。
遺跡を推理し掘り起こすと同じです。今回のご努力も一つの前進ですね。
参考
鎌倉期から江戸時代は難しい為に100%に近い状態で系図や系譜を搾取偏纂をしてルーツを作り上げています。昔は今ほどに資料文献が進んでいなく社会がそれ程系譜が遺されるほどに進んでいないのに系図や系譜があるのがおかしいのです。余程の氏でなくては個人の領域間での資料を残せる訳はありません。とりわけ鎌倉期から江戸期初期までは下克上と戦国時代ですので、100%に神社や寺社等も消失しているのです。残せる氏も下克上で潰されているのです。
系図や系譜を後生大事に盾にしている氏も居るようですが1465年間一人で生き抜いた人でもいるのでしょうかね。どのようにして系図を書いたのでしょうか。一人の人が誰かに頼んで書いて貰う以外にありませんよね。その書いた人個人のルーツ何で知っているのでしょうかね。個人でなくても判らないのが普通なのに。誰かが勝手に家柄を良く見せるために搾取偏纂したもので歴史が経つと本物に見えてくるのがこの世の不思議。
お家の件でも未だ100年も経つか経たないかでもう判らなくなっているのですよね。
信用できる系図系譜資料は必ず”・・年代に誰々記する”と書き、”真偽は後勘に問う”と書いています。
ですから、薩摩の長嶋氏に付いてもこの資料に騙されないように充分に注意してください。
先祖が没する度に寺が客観的に書き足して行くために信頼性が高く「過去帳」が最も信用が出来るのです。その中に戒名がありこの戒名が真偽を物語る資料なのです。寺が3つの要素が読み込まれているのです。真実を保つためにです。その過去帳は菩提寺を有する氏の寺と成ります。あるいは氏の神社にも遺されているのです。この2つが噛合えば間違いはありません。
薩摩長嶋氏の資料が何処に残されているかは歴史的発見です。まだ誰も長嶋さん全体を調べてはいないようですが。
青木氏はその立場上から掘り起こせばまだ遺されていて、筆者や縁戚の佐々木氏と藤原秀郷の宗家が調べていましたので両方から探求する事で全体像が判ってきました。45年間苦労しました。
一番苦労して無駄な時間を費やしたのは搾取偏纂の資料でした。
ヤフーのブログ審査によれば個人では最大にルーツ解明が進みその資料の膨大さとその真偽は日本一であると云う話も伝えられています。ヤフー登録審査では日本の歴史研究学者5人の審査を受け25倍の厳選で歴史部門の登録が叶いました。
今のところ長嶋氏の件では縁戚としての青木氏が一番に情報把握していると見ていますが。
兎も角も頑張ってください。そのためにも何でもご協力いたします。
最近テレビでも最近富に歴史番組が多いですが俗説通説を使っていますので極めて間違いが多いですよ。
参考
そこで上記の説明の推理からこの条件が成り立つのかを調べました。
インターネット情報
出水郡長島
浄土宗 寺なし
真宗 発願寺、善照寺、真楽寺、光蓮寺
曹洞宗 善門寺、長光寺、広昭寺
大隅町
真宗 妙円寺、称讃寺、浄光寺
肝付町
浄土宗 玄忠寺
真宗 西岸寺、西方寺、円通寺
以上菩提寺があると思われる場所の寺ですが、この中にあるのではないでしょうか。
寺の由緒と建立時期を菩提寺の有無を個別に電話で調べる必要がありますね。
しかし、傾向としてなかなか寺は由緒と建立時期を明かしません。
傾向としては真宗が多いのは菩提寺の可能性も、ただ一つの肝付町に浄土宗寺がありますね。ここ気に成りますね。
重要
九州には実はそもそも浄土宗が氏の構成から極めて少ないのです。
浄土宗はある特定の身分家柄の入信する密教である為に九州にはその特定の家柄身分の氏がないに近い状況なのです。
主に真宗か曹洞宗が主です。
長嶋氏と清和源氏頼光系宗家頼政の配流孫日向廻村と薩摩大口村に分布した青木氏の古代密教浄土宗の菩提寺がある程度です。
あるとしても江戸初期家康が出した浄土宗の督励推奨令により大名クラスが曹洞宗や真宗から浄土宗に宗派変えした姓氏が殆どの土地柄なのです。
氏としては大蔵氏系一族一門が主体で後は室町末期から「姓氏」が立身出世した武士階級なのです。
ですから平安末期から室町中期までは大蔵氏と血縁した長嶋氏以外の藤原秀郷一門と青木氏くらいなのです。
特に南九州は特に少ないのです。あるのは江戸初期以降の寺と言う事に成るのです。
中でも大蔵氏系の一族が住む肝付を含む大隈国にあるのは特異で不思議なくらいなのです
(理由は青木氏のレポートの中に詳しく記述)
なぜかと云いますと、天皇家と血縁した大蔵氏は中国後漢の民で阿多倍王に率いられて入国帰化した200万人の首魁が定住していたところなのです。
有名な坂上田村麻呂はこの阿多倍王の長男で大蔵氏は次男です。
ですから恐らくは大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の菩提寺である可能性が高いと成ります。
注意
長嶋氏の菩提寺であっても記録は消えている可能性があります。
最近各地で消えている現象が起こっているのです。資料が無くなったり菩提寺の氏の墓が核家族化して分散して無くなったりして判らなくなっているのです。当然に核家族化で一族の墓も移してしまいます。
宗家本家支流分派の制度も全く無く成っていますので伝統が消えているのです。
また住職は世襲制から配属制に変わりましたので伝統の継承が無くなりました。
また、江戸期の督励推奨令が密教方式から檀家寺としたため菩提寺の意味合いは全ての寺にはありません。過去帳もその目的が全く無くなりましたので菩提寺の氏であるなどの意味合いも無く成っています。
過去帳も戦いでほとんどが消失しているのが現状です。
この事が影響しているのです。
この確認には上記した「由来と創建時期」です。後は過去帳と墓所から長嶋氏を見つけ出す事ですね。
大隈の役所と長島の役場に資料がある可能性もありますね。
兎も角も神社も調べれば共通する何かが出てくるかも知れません。
出水長島には伊勢神社が4社もありますね。伊勢長島 矢張り長島氏の三重県のルーツの場所ですね
大隈国の大隈にはただ一つ「鎮守神社」がありますから長嶋氏の守護神の神社の可能性があります。
(藤原氏は春日大社ですが、大蔵氏系肝付氏族長嶋氏は春日大社ではなく元の鎮守神を祭ることに成ります。)これは「浄土宗」と一致していますし、「大隈国の肝付」には矢張り「伊勢神社」がありました。
3つの条件が真に一致していますので上記の推理に何かあたりそうですね。
では、何かお判りに成った時、または判らない時やご質問がある時には是非お便りを下さい。
> お久しぶりです。
このサイトで教えていただいたことを参考にして、されにルーツ探しを行っていました。
なかなか、難しいですね。
本家菩提寺勝楽寺のある川路地区『宗門人別御改帳』の明治以前から江戸時代中期まで遡りの調べたのですが、太吉、妻たいの名前が見あたりませんでした。
その時一緒に調べるのを手伝っていただいたお年寄りの方の先祖がその土地で庄屋をしていたそうなんですが、そう言えば長嶋家はどっかから来たというのを聞いたことがあると言ってました。
川路村戸籍簿(明治9年記録)も見たのですが、それにも長嶋姓はありませんでした。この地区には、夏目、滝川、菅谷姓が多い地区でした。
そこで、武家商人として『2足のわらじ』で愛知の新城という土地に来ていたとすると、菩提寺は薩摩と言うことになり、川路地区『宗門人別御改帳』なかったのでしょうか。
勝楽寺にある本家の現在確認した一番古いお墓が、太吉さんのものでした。
他の藩から来て、住んでいた人は『宗門人別御改帳』には載らないものなのでしょうか?
基本的なことですみません。
中国列車事故に関してレポート
福管理人
2011/07/28 13:59 - パソコン
中国の新幹線脱線事故
(潜在的欠陥)
序文
現在、以前より強気の発言が話題に成っていましたが、中国の表向きの威信を掛けての事だっただけに衝撃的な問題と成っています。筆者は当初よりこの問題には危険なものが潜んでいると技術者として疑念を抱いていました。図らずも中国が何と”日本に進んだ新幹線の技術供与をしますよ”と虚勢と威しを掛けてきたその直ぐ後にこの事件が起こりました。真実味の無い無知な国民を騙す共産党の国威高揚が招いた事件です。恐らくは真因をぼやかした原因説を出す事は判っていますので、そこで筆者の前からの疑念を敢えてこの際に披露しようと考えました。なかなか特別な領域の技術問題ですのでこの様な真因を判断出来る技術情報を把握している人は少ないと考えて投稿します。
多少、専門的内容を記述せさることに成りますが「潜在的欠陥」をより詳しく網羅させる必要からとご理解ください。
本件は今投稿中の「青木氏と神明社」のレポートに記述した「物造り」に真に関係する内容の決定的な例としても取り上げられるものですので敢えて論じます。
実はこの問題は歴史的な専門的立場からも観ると、明らかに「石は薬」「法より人」の中国の思考規準に影響した「潜在的な事故発生要因」が大きく潜んでいるのです。
「事故の相関性」
そもそも車や列車の高速化は常時ブレーキの制動力と相関していて命です。
後のパーツは常時の直結の人命の事故には繋がる可能性は有りません。せいぜい複合要因にての結果と成るでしょう。しかし、この事故は明らかに高速化=ブレーキ制動力=命の関係にあります。
それだけにこの事故には幾つかの要因がある中で、主に中国の「潜在的欠陥」の体質が働いた「ブレーキ制動力の事故」と云ってよいものです。
従って、真因を解析して判断するにはかなり専門的な工学領域の高度な幅広い綜合技術知識が必要と成ります。それも開発担当域の限られた技術者のノウハウの領域と成ります。
つまり、技術的に政治的に真因が解明され難い事故ともなり、且つ中国の置かれている立場と国民性が更に左右してしまう事故と成ります。
そこで、「青木氏と神明社」の論文に「物造り」の事として記述している事が真に一つの事例として現れてしまいましたが、当初より何か起こると気にしていた事なのです。
「高速化制御システム」
さて、上記した様に、それは高速化を制御する「列車管理システム」と「高速列車のブレーキ制動力」との相関問題にあるのです。中国はこの領域までの知識は到底ないと考えますが、全体として外国技術を習得し切れていない「付け焼刃的な現状」にあると考えられます。
中国はこの高速列車を主にドイツ、カナダ、日本の3国の列車技術の殆どの部分で導入しています。
外国技術は高度であり、且つ寄せ集めの先端技術である為に余計に複雑化して充分に短期間(4年)では習得は出来ていないと考えられます。列車の操作力は勿論の事、列車生産に関わる3国の異なる技術的ノウハウ等の取得は皆無に等しいと考えられます。そもそも教える方もこの短期間では困難です。
それだけの基礎力が元々無かったのですから、この短期間で扱いこなすにはこの複雑化した現場では習得し難いものと成り得ている筈です。「四苦八苦」が正しいのではないでしょうか。
中でも本文の「列車管理システム」のノウハウと「ブレーキ制動力」のノウハウの2つは最も命に関わる事でありながら、それだけに理解し習得に至るまでには最高度の難しいノウハウと成る筈です。
先ず無理であろう事が判ります。
中国当局がどんなに「虚勢」を張って国内向けに発言しても我々技術部門に直接携わった者から見れば「空虚」そのものであります。
先ずは、中国の「列車管理システム」はヨーロッパ統一の「ETC管理システム」を導入していますが、日本の列車(川崎重工)は異なる「ATC管理システム」で出来ています。
何れも「自国製」と発言していますが、この「虚偽の発言」そのものが無形の「潜在的欠陥」ではないでしょうか。
「高速化ブレーキ制動システム」
次ぎに、事故の追突された列車はカナダ製です。後ろの追突列車は日本の川崎重工の列車です。
ここでこの2つの列車には運用具合に依っては決定的な命に関わる違いがあるのです。
それはカナダ製のブレーキの制動力は山形制動の方式です。日本の列車は全て楔鍵形制動です。( 〕印を左横に倒した楔形の制御)
同じ線路上で、同じ列車管理システム上で、2つの列車の高速時のブレーキ制動力が著しく異なり、且つ、その制動方式も全く異なるシステムと云う極めて危険な運行状況です。考え難い組み合わせと成ります。
今だヨーロッパも日本も開発しきれていない相当な極めて最先端の「列車管理システム」でなくては安全運行は出来ないのではないでしょうか。
まして、この「2つの方式」の制動力の持つ中で、且つ外国から購入したこの混成列車の中国では、それまでは列車の管理は殆ど人為的に行われていたのですから、この複雑な条件をこなすシステムの開発は到底無理である事は云うまでもありません。
そもそも、つまり高速に成るほどブレーキは制動力が落ちますが、「2つの方式」の制動力が同じと言うことで有れば問題ありませんが、諸外国製のブレーキは高速に於いてはそもそも効き(制動力)が悪いのです。その為によほど手前からスピードを落としながら制動しないと停車位置に止まらないのです。
次第に速度を上げ最高速度に到達すると今度は次第に問題の起こらない速度まで落としてブレーキを制動して停める山形制動です。
日本はすぐに速度をピークに上げてそのままに維持し停車直前でブレーキを制動して定位置に停める楔鍵型です。(くさびかぎ形)
これは「方式」が違う、「制動力」が違うの話では無く、「技術力の差」なのです。
これはブレーキの技術力の開発差から来ています。つまり、殆どは金属冶金工学の技術力の差で日本は段突に進んでいます。
「摩擦熱400度と350K/Hの関係」
そこで上記した「問題の起こらない制動ポイント」とは、技術的に「摩擦熱が400度」のところを限界としています。これは大変に重要な要素なのです。
高速での制動は摩擦熱などによりかなり高温(日本は400度限界)に成りますので、普通の冶金学と機械工学の範疇では本来はブレーキそのものが造れないのです。ところが日本のブレーキはこれを解決していてこの相当な企業秘密ノウハウを占めています。
ところでこの「400度と云う温度」が金属にとって非常に厄介で問題の多い温度域で、金属の結晶に大きく質的変化を与える温度域なのです。
更に高速でブレーキを制動するとしますと当然に低速のものより摩擦熱が数倍に上がりますので、その400度の薄赤くなった金属には、溶接やボルト締め等の普通の機械的な処置が強度的に低下してしまい、使えないし加工は出来ない事になります。
ではどの様にしてブレーキの「焼結パット」を取り付けるか、又列車本体に取り付け固定するか普通の既存の技術的な方法では通用出来ない範囲なのです。
金属が温度が上がれば柔らかくなるのは当り前ですから普通の固定方式では成り立ちません。
この400度と云う温度は、鉄系の金属にとっては金属の性質(特性)が変わる限界点で、これ以上高く成ると金属の結晶構造が変わるので、普通の金属では機械的強度は絶えられません
鉄系の金属では500−650度の範囲までは「特性温度域(再結晶温度域)」と呼ばれ鉄系の中に含まれる炭素と融合(溶融結合)して「結晶構造」も変わり、それに伴ない更に別の性質(特性)に変わって行きます。この中間温度域(特性温度域)はそれなりに熱処理として多くの使い道があるのですが、ブレーキには柔らかくなる事も然りながら、絶対的に好ましくない「臨界的な温度域」であります。
逆説的に云えば、「摩擦熱」などにより上昇するこの直前の「400度と云う温度」が「ブレーキ構造方式の限界域」で、これ以上に摩擦熱が上がりますと「臨界的温度域」(特性温度域)に達する為に、リニヤーなどの列車の走行方式等の別の方式に変えなければならない温度域と云う事に成ります。
この「400度と云う温度」に達する速度とすれば350K/Hを限界としているのです。
これ以上の速度でブレーキ制動するとブレーキは破壊する温度域なのです。たとえ350K/H以上出せたとしてもです。400度=320K/Hを順守する必要があるのです。
ですから世界の先進国はより高速制動にする為には500K/Hのリニヤーの開発と成っているのです。
「400度の問題点と解決技術」
そこで開発の限界点とも云える高速350K/H以上の列車を開発するのは摩擦熱が上昇し著しい欠陥が露出する為に物理的(冶金学的)に困難ですが、この限界の手前の400度の温度域(高速320K/H以下)でブレーキ構造方式とするには次ぎの特別な解決手法の開発が必要となります。
解決手法
主に4つの部品に研究を加えなくては成りません。焼結金属のパッド、パッドを取り付けるプレート、このプレートを摺動移動させる案内プレート、この案内板を固定するプレートです。
この「焼結金属の組成配合」と「3つのプレート」に「400度」の上下の熱影響を繰り返し受ける事に成りますので、この「4つの部品」を先ずはどの様にして固定するかとなります。「固定の問題」です。
それと「金属的に、組成的に、機械的」にも解決する必要が出て来ます。
溶接やボルト締めでは熱で軟らかくなり使えないと共に、且つ繰り返しの「高温の熱疲労」で直ぐに金属疲労破壊してしまう欠点を持っています。
まして「400度」なので最も厄介な難問の「低温の脆性破壊」も起こります。
(脆性の怖さ)
鉄系の金属の脆性破壊には次ぎの3種類があります。
A:−20〜−80℃の「臨界域脆性」、B:300〜400℃の「低温脆性」、C:850〜900℃の「高温脆性」
Aは寒冷地で起こります。Bは本論 Cはこの温度域で加工して常温、低温域に戻した時に起こります。
Cは「鍛造」や「鋳造」や「熱処理」や「圧延」の加工の時に起こります。
Cはこの脆性をなくす為に上記した「特性温度域」(再結晶温度域)で熱処理を施してなくす事が出来ます。
A〜Cは常温と発生温度域を繰り返し上下すると著しく脆性現象が強くなります。
従って、「熱の繰り返し疲労破壊」と「脆性破壊」が同時にダブル発生してしまうのです。
高速列車の「ブレーキ部品」はこの「3つの脆性域」に関わっているのです。(Cは処理済)
「取り付け方」と「熱の繰り返し疲労破壊」と「低温域の脆性破壊」(A、B)の「3つの問題点」が露出して来ますのでこれを解決しなくては成りません。
(「3つの問題点」と「3つの脆性域」)
この「低温脆性」の温度の上限が400度(下限300度)ですが、制動していない時の低温の温度域が何度に成るのかは列車の「操作のノウハウ」に大きく関わることなのです。
当然に操作が未熟であれば400度を超える場合が有ります。この温度を超えると云う事、「操作が未熟」と云う事はそれは単純な話ではありません。
何度か走行中に常習的に繰り返すと上記の「3つの問題点」が露出して即「ブレーキ制動力の低下」のみならず「ブレーキ破壊」へと繋がるのです。
今回この事が確実に起こっていて大事故と成った事も考えられます。
例えば、「未熟」とは車で長い下り坂道でブレーキを踏み続けると熱を持ちブレーキが効かなく成ります。その為に上手くエンジンブレーキを加えながらスピードを落としてカバーします。この概してこの操作ノウハウと同じ理屈です。
中国は未だこの「未熟の領域」にあると考えられます。
場合に依っては「中国の国民性」が影響してここにも「潜在的な欠陥」とも成り得ている可能性も有り得ます。筆者はこの説を採っています。
「3つの問題点」と「速度超過」
当然に上記「3つの問題点」と同じ現象を示す「320K/H以上の速度」を超えての操作を繰り返し摩擦熱が400度以上を超えて上昇し過ぎた事でも起こる訳ですから、この「操作の未熟さ」と「限界速度オーバー」は同時に起こる事に成りますので両方から痛めつけられて「極めて危険な状態」が起こっていた事に成ります。
(この「3つの問題点」は専門的な立場からすると金属面に特徴ある破面が出ていますので比較的簡単に目視でも解析できます。誰でも判る事では有りませんが専門の「破面工学」を取得した技術者であれば観れば直ぐに判ります。)
中国は”常速 350K/H以上で走行する世界一の新幹線”と虚勢を張りと鼓舞していましたから列車のブレーキに「3つの問題点」のダメージを確実に与えていた事に成ります。証拠の事実です。
中国のこの発言は、専門的に見ると”何時大事故が起こっても不思議でない状況である”と発言している事と同じなのです。
「寒冷地仕様の欠陥」
この摩擦熱の400度に加えもう一つ問題があるのです。
それは自然環境です。中国は冬は極寒の地(−50度)がありますので、この400度との「温度差域」が500度以上に成ると技術的に耐えられない領域と成る特性問題を持っています。
勿論、極寒温度でも上記したAの問題でもこの「温度差500」と並行してがダブルで起こる事に成ります。
金属の組成上からの臨界点(−80度)に近くなり、この「熱差」と「繰り返し」による「金属疲労の発生率」が極めて高く成るのです。先ず本件の対策を加えないと全く使えないのが普通です。
ところが全く鉄系の金属は、ある限界の範囲で「特殊金属」を加えないと使えないのですが、この特殊金属の添加が逆効果になるのがこの「寒冷地仕様」なのです。極めて難解なのです。先ず”諦める”が常識です。今は未だ発生していませんが、日本の環境とは違うために中国国内では事故の発生率は明らかに高い筈です。(日本では高速化の東北地域は−20前後ですから一応の対策は可能)
この問題(高速化寒冷地仕様)も中国では到底解決していませんし、その開発手法と能力は中国には基よりないのですから確実な「潜在的な欠陥」と成っています。
まして日本でさえも何ともし難い技術問題の「潜在的欠陥」が潜んでいるくらいなのです。
日本では輸出用には自動車や生産機械でも「寒冷地仕様」として開発していますが、精度問題は別として、高速列車では中国では現在この「寒冷地仕様」の問題は未だ起こっていませんが、必ず冬には起こる筈です。その証拠に自動車は必ず起こっている現状なのです。
この「寒冷地仕様」では、高速のみならず「ブレーキ制動前の時の寒冷地温度」から「ブレーキ制動後の温度差」が「500度差域」に成ると、鉄系金属では金属内の結晶構造が変化する為に応力差が生まれる為に、更に重複して避けられない欠陥に成るのです。
車のブレーキの制動でも起こりますが、これと異なり高速列車の場合は温度差が余りにも大きくなるので必ず起こる問題なのです。
そこに「未熟度のエラー」が加わると「寒冷地の欠陥」のみならず通常の「500温度差域による欠陥」も重複して平行して起こりますので事故に繋がる事は必定と成ります。
(日本側は所定の期間1年の講習を要求したがたった10日間で打ち切ってしまったと発言していますので、習熟度は先ず「無い」事に成ります。つまり「未熟度エラー」は確実に起こっている事を意味します。)
依って、詳記した「500温度差欠陥」、「400℃欠陥」、「350K/H欠陥」、「寒冷地欠陥」、「脆性欠陥」、「3つの問題点」「高速化ブレーキ制動システム」「サージ欠陥」等の充分な習得はまず無い筈ですからこれらの欠陥は必ず起こっている事は間違いありません。
これに「高速化の習熟度によるエラー」が加わりますので疑う余地はありません。
高速化に依って高温差化するとこれを繰り返すと「熱疲労と脆性の疲労破壊」が避けられないほどに極めて高くなるのです(逆に熱暑地仕様もあるが中国では問題ない)。
自動車の領域で起こる問題と比べられない程に極めて危険な問題となるのです。
因みにロシアの自動車が、あれだけ進んだロケットや人工衛星など高度なものを造れる国が自動車がまともに開発製造販売が出来ていないのです。
中古を含む日本車90%に頼っている現状ですから、それは「寒冷地仕様」の対策が極めて高度な技術力を駆使しなければ成らないからで、それを充分に解決し得るノウハウの開発が出来ていないからなのです。「寒冷地仕様」は基より物理的に難しいのです。
中国も奥地はこの「寒冷地仕様」に準じます。
高速列車の「寒冷地仕様」は、今までに輸出と云う形態までに至っていなかった事から中国に輸出する分に対しては、日本での寒冷地仕様の範囲である筈で、明らかに「未開発の部分」では無いかと考えられます。やろうとすれば日本の輸出自動車は完全に「寒冷地仕様」は完成していますので直ぐに応用する事は可能ですが、中国用のものには未だ開発し適用していないと考えられます。
(開発メーカーは列車メーカーではないし、開発と試験が難解で短期間である為に現在では困難)
この「寒冷地仕様」が施されていない高速列車では冶金・金属工学上から観てブレーキ関係は云うまでも無く、本体そのものの鉄系車軸や伝道軸や鋳物や鍛造等の熱処理部品に対して上記の「3つの問題点」が顕著に現れることは必定です。少なくとも軸が折れるか変形する等の問題が出てくる筈です。
これからは寒冷地の「潜在的欠陥」の露出として出てくる事が考えられます。
より「潜在的欠陥」に対して厳しさが増します。
この「寒冷地の欠陥」は冬場に部品に破壊が起こり潜在して、これを過ぎて気温が高く成る直前で事故に繋がる欠陥が露出して来る傾向があります。
高速ブレーキ制動の分野に限らず全体で起こると考えられます。つまりこれも恐ろしい中国の「潜在的欠陥」であります。
恐らくは、日本の寒冷地仕様より−30度程に厳しい環境にある事を承知していますから、日本側は何らかの条件を付加して「列車運行の条件」として伝えている可能性が考えられます。
問題はそれを理解して護るかによると考えられ、国民性や国威高揚などの政治状況から観て疑問を感じます。
しかし、もとよりこの「寒冷地仕様」によって起こる欠陥を見抜き解析して対策まで持ち込むノウハウが中国にあるかは大いに疑問です。
確かに”日本の東北で走る列車仕様の前形式を技術移転した”と伝えられていますから、ある程度の寒冷地仕様が施されていた仕様になっているかも知れません。
ただ問題は上記した「未熟操作」が更に「3つの問題点」の危険性を著しく高めますので安心できる範囲ではありません。
又、何れにしても寒冷地による「脆性疲労破壊」がブレーキは元より列車本体までにも働く可能性が有りますので、それがブレーキ制動力にどれだけの影響力を与えるかの問題もあるのです。
恐らくはこの現象は「激しい振動」と云う形で露見してくる筈で、それがブレーキの制動力とその部品構造に特化されてくる筈です。
現象としては、主に「振動疲労」による「ミクロクラック」が発生して、最後には「疲労破壊」に繋がることが考えられるのです。
(この欠陥は特長ある破壊破面を呈し目視でも確認出来る。日本の専門家に見せれば一目瞭然で判定できるので見せないでしょう。)
それを防ぐ「高速化の管理保全」が出来ているかによりますが、短期間の間に成せる保全問題ではありませんから無いと考えます。
「寒冷地の現象と欠陥」
寒冷地は金属の分子運動が止まるか緩やかに成る為に金属の弾性力が低下して破壊に直接繋がるのです。最も怖い欠陥で、幾つかの技術的な方法が専門的にはあるのですが、何せ分子運動が止まるとなる事は金属の仮死状態を意味しますので、処置の施し様が暖めると云う方法以外に有効的な方法は無い事を意味します。
(過剰にすると逆に成りますが、ニッケルを加えて結晶を細分化する方法や、500度から650度で熱処理を施して結晶を均一にして細かくする方法で加工して使う方法もありますが、完璧な方法とは云えず暖めて400温度差に保つ事が最も簡単で効果的なのです)
この対策が中国に於いて成されているかは問題で先ず無いと考えられます。
そもそも特に上記の高速の対策として用いた「特殊金属」は寒冷地に対しては金属の仮死状態が起こって「弾性力の低下」が起こりますので、「特殊金属の弾性力の低下」と合わさって逆の現象を引き起こすのです。従って高速列車のブレーキ制動力に主眼を置いているので「寒冷地仕様」は完全ではない筈です。
日本に於いては寒冷地対策は車、列車、工作機械、等には施されています。東北新幹線と山陽新幹線の走っている列車が混在させずに異なるのはこの事から来ているのです。
日本などでは一定率の「列車管理システム」を保つ為に「寒冷地の列車」には充分な仕様で設計されて管理されているのです。
「部品の固定方式の開発」
兎も角も、寒冷地に於いてでさえもブレーキ制動ではその最たる影響を受けますが、先ずは日本環境の範囲として「普通仕様」で考察すると、そうすると後は機械的、物理的に考えられるのは「圧入方式」か「焼バメ方式」ですが、「焼バメ方式」はもとより同じ400度ですので締まらず使えません。
(温度差は500度以内が仕様限界)
残るは「圧入方式」だけですが400度の温度に上がっては圧入は緩み効きません。
この2つの加工技術の使用温度がこの400度であるのはこの領域を超えて加工すると金属の組成上(パーライト)の強度的問題が冶金学上で出るからなのです。
この制動で発生する摩擦熱も偶然にも400度です。従って、高速350K/H以上でのブレーキの掛け方如何ではこの400℃は更に上がりますので、限界の制動領域を超え開発能力以上の限界を超えますので、著しい制動欠陥を露出する事に成ります。
果たして中国の「未修得の操作能力」が低い場合はここでも「潜在的欠陥」を潜んでいるのです。
実質1年程度のトレーニングという事で計画されていたすのですが、それを”10日程度で切り上げた”との情報を考えると、此処暫くは「未修得」が「潜在的欠陥」と成り得ます。
(350K/Hの意味)
日本の新幹線は350K/Hの下の320K/Hとしている一つの根拠はここにあるのです。
何も350K/H以上を出せないとする訳ではなく、ブレーキ制動の限界点だからなのです。
”350K/H以上の高速で走った”として自慢下に誇示していましたが、この事の技術問題を知らない事を自ら露呈したのです。全体のノウハウの未熟度を自ら認めた見苦しい虚勢です。
確かこの限界を超えた速度で走行して本体が耐えられない激しい振動に見舞われ列車に亀裂が入りなどして指定の速度に下げたとしているのです。
まだまだ上記した「潜在的欠陥」が露出してくる事は間違いは有りません。日本からの早期に技術指導を受けない限りは大事故と成るでしょう。
恐らくはこの振動の原因の一つはブレーキの制動を超えたところで摩擦熱が400度を超えて限界温度500度に達してブレーキ制動が空効きになり、その振動のパラセーションがタイヤ(車輪)に加わり車体本体を激しく刺激したと考えられます。
恐らく、この時、摩擦熱500度以上に達して後続のブレーキ制動力が破壊するか等を起し効かなく成っていた可能性があります。
謳い文句の350K/Hを取り下げてその高速をその事故の為に運行走行速度を250−300K/Hに下げたとしています。ブレーキ制動における設計限界である事を知らずに。とりあえずは一時的速度では欠陥を出さずに成った事に成りますがブレーキ制動のノウハウの未修得で起こる問題は解決していません。
これは上記する高度な基本設計の冶金的知識の習得は先ず無く、感覚的に激しい振動が何かを引き起こすと考えたものと観られ、変更を余儀なくされたものであろう事が判ります。
この行動は真に知識の底を露呈した愚かな醜態に他なりません。
速度を上げれば何でも上げられると云う「石は薬」「法より人」の感覚から出た中国人らしい論理性のない発想です。
恐らく、日本人から観ればこの雑な感覚は、直ぐには直らず今後も続くだろう事から、これからもこの様な国民性に潜む「潜在的な欠陥」の醜態を示す事に成ると観られます。
兎も角も、ですから「潜在的欠陥」に関しては中国は「事故の情報」のそのものを隠す以外に方法が無い事を物語ります。
「技術開発点」
そこで、中国の怠惰な実情を気にかけながらも、兎も角も日本の技術開発の努力とその経緯から考察して観ます。
中国に日本の次のような開発努力を知るまともな技術者が少ないのかも知れないけれど居た筈です。
(筆者も冶金に関する実習留学生を承知しているが、小さい力のために基本の技術習得が無視され「政治力」が優先されたのではないか)
上記する「3つの問題点」を解決するには次のような開発をしたのです。
日本の開発はそれはこの400度の限界を超えない範囲で要は温度がどんなに上がっても緩まずむしろ締まるようになり、且つ金属に関する疲労、脆性等の問題を起こさない様にしなくては成りません。
上記する金属的に起こる問題を色々な「特殊金属」(下記)を組成に加えて特殊金属板を造り熱に対する欠点を解決して、且つその加えた「特殊金属」によって逆に熱が掛かると一定以上の圧入力(取付力)が増加する様にしなくては成りません。この領域は真に自然物理の矛盾です。
「特殊金属」の「種類とその配合率」と、「圧入代」と、「熱膨張係数の差」と、「耐熱性の向上」とこれ等処置による「組成上の競合欠陥の防止」を解決して、丁度良いポイントの探求が必要に成ります。途方も無い総合知識の研究です。
その難しさはこの「競合欠陥」です。
「特殊金属」はある種の特性を引き出す手段によく用いますが、この金属を加える事に依って「鉄系金属」には、同時に逆の事も起こる特質を持っています。
この「鉄系金属」にはこの種の「特殊金属」は「人間の拒絶反応」と同じ現象を起す性質を持っていて、ある一定の範囲までしか受け付けないのです。一定を超えるとあらゆる機械的な強度や特性の低下を引き起すのです。
(「特殊金属」とはマンガン、モリブデン、クローム、コバルト、マグネシューム、タングステン等でこれに対応してニッケルを補填して「特殊金属」の弊害を少なくする為に同時に適量を加えます。
例えば、18−8ステンレスにクロームを加えて強く錆びなくしていますが、これに対してニッケルを加えて弊害を抑えているのはこの為です。この特殊金属は夫々特徴を持っているのです。)
この「特殊金属」を適材適量に加えるだけでは解決しません。
実はこの世の全ての物質には温度を上げ再び下げて来ると「スパークーリング現象」と云う特殊な現象を起す特質を持っています。同じ上昇したライン上を温度を下げると別のライン上で下がって来るのです。
その為に「ズレ」が2ポイント発生します。この2つのポイントの一定の温度間隔域に金属の組成を納められれば下記の「研究課題」を解決する事が出来る事に成ります。
(現象の発生メカニズム)
この現象は”何故起こるのか”と云うと次ぎの様に成ります。
温度が上昇するとある温度域で結晶構造が変化します。この為にその変化のために必要とするエネルギーが奪われて一時温度が下がります(ポイントA)。 そして変化が終わると又上昇します。
今度は上昇したラインに沿って温度が下がって来ると元の上昇して変化した「ポイントA」で同じ現象が起こる筈ですが、ところが起こらずある温度範囲がズレて「ポイントB」で変化が起こるのです。
そしてその変化が終わると再び元の上昇のラインに沿って下がって来ます。
このポイントAとポイントBには一定の温度差域が出来ます。この温度差の領域を上手く使えば温度上昇に依って緩むものが締まる事にも成ります。
本来は論理的にポイントA=ポイントBである筈ですが、このポイントが物質に依って顕著に出るものとそうで無いものがあります。
且つ、この温度域にも大小のものがあります。特に金属には顕著に表れるのですが、この特性に着目してその「温度域の巾」を大きくすれば使えることに成ります。
特殊金属(ニッケル等)を投入して結晶を微細化させるとそれが顕著に表れるように成りますので、そのポイント域(A−B)を上手く使えば上記した研究課題が成功するのです。(現場ではノックピン方式と呼称)
このポイント域(A−B)では、上記した別の変化、つまり、その「金属の特性変化」でも「結晶の中間域」(特性の中間域)が発生しますので、金属は安定し変質化しないのです。
この「ポイント域(A−B)」即ち「中間域」では上記した特殊金属の特性が効果的に働きます。そして「拒絶反応的な事」が起こり難いのです。
つまり、「ブレーキ制動」に依って摩擦熱で温度が上昇し、又下降すると云う現象を繰り返しますので、この「スーパークーリング現象」が常に起こる事に成ります。
鉄系で云えば普通はポイントAは500度付近で起こります。そしてポイントBは400度にズレます。
ところが上記の特殊金属等を入れますとこのポイントが変わるのです。
この特殊金属は鉄より溶融点が高い事等の理由の為にポイントAが下に下がり合わせてポイントBも下がります。
そうするとポイントAを400度にし、ポイントBが300度の付近に持ち込めばこの研究課題は成功する基本に成ります。
この熱エネルギーの「温度の変化の中間域B」と共に、上記した結晶構造が変化する過程でも「特性の変化の中間域A」が起こります。
この「中間域A」でも特性変化する為に多少変化のタイムラグ域が起こります。このタイムラグ域も含めて「2つの中間域A,B」はほぼ同様の温度域で起こりますのでポイントAとポイントBを解決する事で「2つの中間域の活用」は解決する事に成ります。
以上の様にかなり特域の専門的な冶金金属の技術です。
(現在では、この「中間域A、B」の領域の特性を精密機器の部品によく用いられる様に成っていますが、「特殊合金鋼」として当時は未だ開発に依って「企業内規格化」される程度でしたが、現在は細分化して一般規格化されています。 故に、これによりブレーキに限らず今やこの合金鋼板を使って日本の全ての精密機器や工作機械は超高精度の品質や高速化や寒冷地の対策用として作り出せるのです。)
(中国の国家戦略)
何時、中国がこの「技術ノウハウ」等を盗み出して獲得できるかに掛かっています。
つまり、自ら研究する事では無く他国のノウハウの盗作で日本や先進国に追いつこうとしている「中国の国家戦略」と成っているのです。
真に「自国製」と言われるものは今だ少なく、列車やジェット機を始めとする超高度な綜合先端技術のものは事ごとく失敗をしている中で、本論の「新幹線」は盗用の成功例と思ったのではないか。 その意味での挫折は”又か”で大きかったのではないか。”いざ”と成って見れば原因追求の技術さえも無い事を知り焦った行為であったと観られます。
要は「中国の狙い」は、この総合力の研究では、現在は未だ中国では明らかに無理でありますが、高速−制動力の関係を知っていて何時かノウハウを盗み出し自国の物にする事にあり、そのためにも故に優れている日本を代表する川崎重工のこの「制動ノウハウ」のある列車が中国には絶対に国家戦略上必要なのです。
ところが、共産国には「貿易管理令」により「高度な電子部品機器」や「高度な精密機器」の輸出は禁止されていて、悪質と観られる様な裏ルートの方法で機器を入手して分解してノウハウを盗み出そうとしているのです。分解して解析して何かを見つけ把握しようとする為にも国家的課題としてもこの列車は国家戦略上で代表的なものとして必要なのです。
その為には、中には日本の中小企業の倒産先からスクラップとして精密機器を頻繁に入手して持ち帰り研究しているとの情報もあり、又、中国に生産拠点を移転した中小企業が契約期間が過ぎると別の場所に移転させて生産設備を強引に奪い取り、言う事を聞かない時は移転先を認めないと云う荒手の裏手を使うと云う事まで起こっているのです。(経験談) ニュースに成っている”中古の空母をベースに自国製の空母を製作している”との情報もある位に、 「石は薬」「法より人」の思考規準に沿って、”何事何物も利用した者が勝ち”、”模倣や盗用はした者が勝ち”の考え方が徹底しているのです。
これ程に況や”喉から手が出るほど”の中国の「国家戦略」は実行されているのです。
先進国に追いつこうとすれば、韓国が日本のプラント輸出を受け、後に激しい労働争議で追い出し日本の三菱の車や家電製品のノウハウを盗み出したと同じ様にです。
韓国には、同じ儒教でありながら、違うところは「石は薬」「法より人」の思考規準が無い事です。
だから韓国の手法は成功しているのです。
「研究課題」
戦後から始まった新たな日本の成長は中国の「石は薬」「法より人」の思考規準と異なり「雑種の優秀性」を基に「研究開発」から始まった「物造り」であります。
当初戦後10年程度は「安かろう 悪かろう」でありましたが「模倣」をベースにしてはいなかったのです。。
「模倣」の裏には必ず「研究」が伴なっていたのです。ここが中国と異なる処です。
それは、日本の「国民性」が大きく働いたこの金属の「質的変化と機械的な処置の探求」(2つのノウハウ)であり、「3つの問題点」(「3つの新たな研究課題」)を解決する事に動いた結果であり、本論を理解する上ではその認識が必要であります。
これ等の「研究開発の積み重ね」の結果で掴んだ「最先端の総合的技術力の駆使」が必要であったのです。
この開発経緯は、丁度戦後20年後から始まったものでその5年後には何と成功しているのです。
戦後の「安かろう 悪かろう」の時代が10年間で、残りの10年間は「自国製」の開発研究段階に入っていた事に成ります。
ブレーキに関してはアメリカのベンディクスがトップメーカーでありましたが、戦後25年後には早くもベンディクスを追い越して日本のメーカーの方が品質的に優れていた事に成ります。
この時期20年後に高難易度の新幹線ブレーキの開発に入っていた事に成るのです。
当時はブレーキ部品に使う鉄鋼板には特殊金属を組み込んだ規格品は未だ少なく、新幹線ブレーキに耐えられる上記に記する規格品は無かったのです。
この高度な研究開発は列車のみならず自動車や他の高精度の生産機器などにも使える研究開発だっただけに「新幹線」の国家プロジェクトとして鉄鋼メーカの積極的な協力を得て進め成功裏に納めたのです。
これ以後、この研究成果は専用鋼板として準規格化され、後半には順次細分化されて規格化されましたが、この開発の効果は瞬く間に他の産業にも広がりを見せこの開発の特長を生かした日本の高精度の高能力の製品が生み出されて行きました。
(開発技術とその加工技術)
中国は現在 ”どの鋼板をどの様に使えば良いか”の上記した専門的技術が無い為に規格品の選定の判断までにも至っていないのが現状では無いかと判断されます。
選定できれば専用鋼板としてだけは日本から輸入で入手する事が可能です。しかし、現実に適切な鋼板を選べばそれで済む簡単な話ではありません。
この鋼板を加工する技術(プレス技術や熱処理技術や生産加工技術)等のノウハウは中国にはありません。
そもそも特殊金属が含有する鋼板は普通の加工技術では難易度が高く「加工ノウハウ」も大きく伴なうのです。
概して云うと、含有する上記した特殊金属は加工する刃物先よりそれ以上の硬さや強靭性を有しているか、或いは同じ程度の硬さ程度である為に加工の刃物先が耐えられないのです。まともな品質では加工出来ないのです。(全ての刃物先にはこの同じ特殊金属の「タングステン」が焼き付けられている)
依って、研究は次ぎに刃先角度や加工速度や加工温度を研究して見つけ出して、量産できるものに開発したのです。この開発にはトップ技術を駆使したのです。
又、難加工の精度を上げるにはそれを0.01ミクロンまで測定出来て、且つ、加工面の画像解析出来る超高度の「三次元測定機」を使い加工面を画像にして解析して特長のある部分を特定し修正する技術も必要とするのです。
この「三次元測定機」は日本の独断場で、よく違反問題になっている物で「貿易管理令」に触れて共産国は入手出来無いのです。
鋼板を選定でき輸入する事が出来ても、この多くの「加工ノウハウ」はブレーキメーカー側のノウハウですので入手する事は不可能です。つまり「中国の戦略方式」では要するに不可能なのです。
依って、知らない人や庶民を相手に虚勢発言を張っていますが、厳密に云えば「中国製のアセンブリー列車」の域を越えないのです。
手芸品等の類似品や模倣品を作る事が出来ても、工業品を越えない範囲では類似品や模倣品は中国では未だ不可能なのです。まして、「高速化や寒冷地」などの難易度の高いものは「技術ノウハウ」と「加工ノウハウ」の2つのノウハウから類似品や模倣品は無理であります。
重要参考 此処には「加工ノウハウ」等の上記「2つのノウハウ」とは別に、決定的な冶金技術のもう一つの無理があるのです。
それは自動車(高速列車等にも)に使用する鋼板は「自動車専用薄板鋼板」(ラミネーション)と云って世界の自動車に使用されていますが、この「ラミネーション」は日本の独断場で外国では現在でも造れないのです。
それは精錬過程で鋼板を圧延で薄くすると、鋼板の板圧の中央部分に「不純物の帯」即ち「バンドストラクチャー」と呼ばれる「ゴースト」現象が必ず出来るのです。
それは鋼板に含まれる極少ない分散した不純物や攪拌され難かった炭素やイオウやリンやシリコンが薄板にする為に圧延しますが、この圧延の振動エネルギー(リミングアクション)で板圧の中央部に帯状と成って必ず集まる現象なのです。
日本の自動車の発達や高精度の精密機器や列車の高速化等の必要性に迫られて苦労して同時に他のプロジェクトがこれを解決したのです。
普通の材料として使う分には問題はありませんが、上記した本論の「高速化や寒冷地」などの仕様では破壊に繋がる振動や加速度のエネルギーが大きい為に影響してしまうのです。
これが存在するとこの破壊エネルギーが欠陥となって働き始め、突然に自動車の鋼板が2枚に「剥離分解」して破壊したり、部分的に起こる「局所疲労破壊」に繋がる亀裂が多数発生するのです。
(当然に高速列車でも使用されているので起こる)
特には箱型の車体などでは別として、プレス加工の多い「流線型の形状」の自動車などに現れて「高速化や寒冷地」では大事故に成ります。(曲げたり絞ったりしたコーナー部分に出現する)
この欠陥を解決したのが世界に冠たる日本の冶金技術なのです。
このゴースト現象は精錬中に炭酸ガスなどを入れて溶融した金属の攪拌を行うのですが、この攪拌不良が主な原因で中にある炭素との反応で連動して起こります。大変に難しい精錬技術です。
外国鋼板では自動車や高速列車に使用する薄板のものにはこの欠陥の無い鋼板を作り出す事が必要があるのですが、今だ難しくて出来ないのです。(日本製を使っている)
一部では自動車や高速列車の「車体内部の鋼板」にもプレス加工して利用されています。
ブレーキ部品も車体内部にも使用されている事で、もし欠陥と成って出た場合にはブレーキ部品にもその影響が出てくることにも成りますので、車体や外板にもこの日本のラミネーションを使う以外には本来はないのです。しかし、中国のものはこれを使っているかは技術知識が無い為に疑問であります。
情報によれば”車体に「大きな振動」と共に「大きな亀裂」が発生した”と伝えられていますので、上記したブレーキ制動の欠陥が露出して起こったと考えますが、このラミネーションを使わなかった事から起こっていることも考えられます。兎角起こりがちな現象ですが、両方が「競合欠陥」を引き起こしたかも知れません。(破面工学で判定が出来る)
(「2つのノウハウ」)
この参考例でも、これで「日本の技術力」がどれほどのものであるか判り、逆に「中国の虚勢の発言」の意味合いがどの程度の虚勢かがよく判ります。
勿論、中国の基礎技術力の無さの程度もこの発言や情報からも判るものです。
これは日本の冶金金属工学の優れている程度の証とも成ります。
これは決して「技術ノウハウ」のみならず日本の「加工ノウハウ」も同時解決して「高速化の列車ブレーキ制動」は始めて可能に成るのです。この「2つのノウハウ」は連動しているのです。
兎角、「技術ノウハウ」だけで論じられている様ですが、中国が模倣するとしても「2つのノウハウ」を解決しなければ物にはならないのです。中国の事毎くの「模倣の失敗」は此処に原因があるのです。
「2つのノウハウ」が絡む高速列車やジェットや自動車の様な高度なものには基礎力の無いままに簡単な期間や設備では元々が無理なのです。
”普通列車の延長が高速列車である”とする認識はそもそも間違いなのです。
ここには論じている高い「2つのノウハウ」の溝が厳然として存在しているのです。
高速列車は同じではなく別物なのです。
高速列車は「レール」と「莫大な重量物」によって比較にならない「莫大な加速度」が働くからなのです。
この加速度は”重量に対して2乗に比例する”のです。例えば50Kの物が加速度が働くと2500Kのダメージを受ける計算に成ります。
列車の車体重量を考えてください。これに高速が働きますので、考えられないエネルギーであり、このエネルギーが悪い方向に働けば「一点のミスや欠点」も「時間の間隔」なしに瞬時に「拡大破壊」を起す要素を持っているのです。「破壊」ではない「爆発」に近いと云えるでしょう。
ですから上記した金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいると破壊・爆発に成ってしまうのです。
高速300K/Hは本当は怖いのです。
日本は「怖い」は「品質の良さ」に裏打ちされて安心して乗っています。中国は「怖い」は「知らない」で裏打ちされて安心して乗っています。これそのものが「潜在的国家欠陥」では。
「知らない」「知らせない」は本来あるべき姿ではありません。中国は「知らない」「知らせない」は「品質の良さ」に特化させるべきです。
この事無くして中国の高速新幹線はまた大事故を招きます。本論の危険性を悟ら無ければ今その上記した欠陥が進んで行く事になります
そもそも自動車の場合は、普通であり高速であり一帯で一連化していますが、しかし、現実にはありませんが自動車もレールの上を走り連結すると同じ事が起こるのです。
中国にはこの自動車の延長・普通列車の延長の認識にあったと考えられます。
そこにこれまた「認識不足」の中国の「潜在的欠陥」が存在するのです。
つまり、「国家戦略の政治ミス」(政治環境)が事故を誘発させているのです。
「開発技術の姿勢と方針」
これ等の認識の基に、正しい政治環境下の基で、これを解決する為に柔軟な発想と思考が確保されて、次のような学問的に「極めの発想と思考判断」での技術が確保されたのです。これは日本ならではの仕事なのです。(中国では現政治体制下では無理であり模倣も困難と成ります。)
日本のブレーキは急速に速度が上がり停車位置のかなり直前で高速で制動しても停車ポイントに5ミリとずれないのです。良く効くと云う事なのです。約400度くらいに成りますのでどんな機械的なブレーキの取り付け構造にしてもこの温度には耐えられません。
これを日本はこだまの初期の新幹線開発の時にこれを金属的に冶金学的に解決したのです。(開発経験)この「特殊金属」には夫々特徴を持っていてそれを如何に使いこなすか、先ずその特長を作り出す金属の結晶の組成形状をどの様にするかの研究と、中に入れる特長を持っている「特殊金属」の選定とその配合割合をどの様にするかの研究で、この400度と云う難しい難題を解決したのです。
因みにとりわけこの温度域には低温脆性現象(ステッドブリットネス)と云う厄介な問題が発生するのです。
金属が中に含まれる僅かな不純物(セグレゲーション)とP(リン)やS(イオウ)と結合してそれに依って脆く成ると云う温度域なのです。
これ等は普通の発想では出て来ないものでありますし、それを実現しょうとする気力も芽生えない筈です。
(300度以下では分子運動、結晶運動が低い為にその変化するエネルギーが無く起こらない)
この状態のものにブレーキを掛けるとその「繰り返しの動作」で「脆性破壊」と「熱疲労破壊」が顕著に発生します。先ず機械的な取り付け方法とは別にこの必ず起こる欠点を上の2つの研究で克服する必要があるのです。)
(未熟な操作技術で劣悪な線路状態では不定期振動とそれによる加熱現象が倍加する為にこの物理的な破壊現象は数倍と言う形で起こる危険性が潜んでいます。最終、破壊して”ブレーキが効かない”と云う現象と成ります。恐らくはこの極めて危険であるとする知識もないと考えられます。)
「技術課題の難問と国民性」
上記の”金属や冶金的な欠陥が少しでも潜んでいる”とする「怖い事」を続けます。
最大の難関はこの欠点と研究課題は相反する矛盾する特質を持っているのです。
つまり対策を講ずれば反対のこの欠点が増幅するというジレンマにあるのです。
普通で考えれば「絶対無理」の答えなのですが、その何れにも入らない中間のところを見つけると云う根気のいる研究開発です。
どんな金属にも必ずこの特性域の中に「中間域」の発生する「小さい域」(ポケットゾーン)を持っています。上記した「スパークーリング現象」の2ポイントと共にこれを見つけ出す事なのです。恐らくは共に自然現象の為に同じ「小さい領域」付近に出て来る事に成ります。
これは日本人ならではの根気の要る研究です。脆くなれば逆にブレーキどころの話でなくなりますから、欧米は合理的思考が強いので危険性から観て”この領域に入らない方がベストだ”とする考えに到達するのです。納得出来るし一理はあります。
要は上記した様にブレーキ制動の限界に立ち居るか否かの問題です。
しかし、これは上記した中国人の国民性と異なる日本人のかなしきかな国民性のさが(性)です。
この性の違いで何から起こるかは「青木氏と神明社」の中で詳しく論じている事です。
本来、「物造り」の技術とその精神は6世紀始め頃から6世紀中頃に掛けて後漢の漢民の阿多倍王等の技能集団がもたらしたものでありながら、今やその立場は逆転しているのです。
「石は薬」「法より人」の思考規準とそれを構築した「民族性結合」の継続の所以がこの差と成って現れているのです。
「開発の判断可否」
現在はこのブレーキ制動は当初の新幹線はMAX250K/HであったものがMAX320K/Hに常時制動できる様になっていますから、更に超限界に挑戦して改善され、技術開発されて完全に確立して無事故の35年は経過していますが、まだ諸外国は高度な総合力の為にこれに全く追いついていません。
ョーロッパ諸国では多分無理でその内に問題を起こすのではないかと考えていた節があります。
しかし、限界のブレーキ制動と高速化の2つを連動させて成功したのです。
と云うのも、この時フランスは高速化のギリギリのところの500のK/H試験走行を成功させたと発表したのです。もちろん、ブレーキは普通の制動力の範囲です。ですから、高速後100K/H程度にスピードを落としての山形方式の制動です。
この事から考えると、むしろ35年の経過でも、この領域の高速化の制動技術を合理的な判断として採用しないとしている可能性も確かにあります。それ程に難題なのです。判断の分かれる技術開発だったのです。
当然にその根拠は列車や自動車はブレーキ制動力が命ですから、高速になれば成るほどに危険は増します。しかし列車が”1時間程度遅れても何の問題もない、安全であれば問題なし”とするヨーロッパ系の国民性からすれば”そんなに急いで何処へ行く。 その間、速いのだから問題なし”と成るでしょう。
これの探究心は「良悪の問題」、「優劣の問題」から離れた日本人の「融合単一民族」の「雑種の優秀性」とその「性」から起こる「国民性」から来ているものであります。「究極を求める性」であります。
ヨーロッパ諸国の列車の運用については「判断の違い」であると観ていますが、では中国人は何れにある国民性なのでしょうか。それに依ってもこの「潜在的欠陥」がどのような形で顕著に出てくるかはこれから見るべき問題です。
筆者はこれまでの史実に基づかない中国の虚勢と国威高揚の発言から観ても、又伝統の思考規準の「石は薬」「法より人」からしても「潜在的欠陥」に成るとみているのです。
因みに韓国は日本人の全体の3割を占めている縁戚の民族ですから、儒教の宗教観は異なりますが、全体として酷似していますから、この「ノウハウ」を吸収する方式で克服したと見られます。
中国も韓国と同じく「ノウハウの吸収と克服」は可能と観ているのでしょうか。観ていると考えます。
そして、その時期を”この新幹線で出来た”と見ていてそこで一挙に喜び勇んで「虚勢」を張り世界に「鼓舞」した節があります。それが脆くも崩れたのです。”そんなに甘くは無かった”と反省しているのでは。
今回の事故の原因の出し方で判断できます。
「雷と信号」で逃げれば原因究明どころか対策もままならない立場にあることを知り、”韓国の様には行かない”と悟った事の発言と成ります。この「雷と信号」の根拠を明らかにしないままに終わると観られます。
だとすると、中国はこれを機会に多くの上記する「有形無形の潜在的欠陥」を持って居る事に成りその事に気が着き始めたのかも知れません。
しかし、「中国の国民性と政治体制とその体質」がどの様に作用するかが疑問です
そもそも韓国は日本の三菱グループから「製造プラント輸出」して獲得したものでありますが、このブレーキは列車メーカーではなくブレーキメーカーの領域ですので、韓国始めとして中国には当然にこのノウハウは渡っていませんし、中国自身この間これほどに難しい総合技術力の把握と操作技術は専門的に観て開発とそのノウハウの取得は到底に無理と成ります。そもそも部品調達のアセンブリー生産しかないのです。
これは高速列車を走らせるという事とを考えると、ブレーキと云う事からするとそれは恐ろしい事になり、特に日本の高速列車を走らせるという事は「潜在的な欠陥」と成り、「基礎的な技術力不足」と成り得ます。
ヨーロッパの形式も別の意味ではそれなりにブレーキ制動域のノウハウもそれなりに難しいことに成ります。この異なる二つの技術の習得は専門的な立場から見ても短期間で成し得るものでは決してありません。
「人為的操作の必然性」
さて、そうするとこの様な「劣悪な未熟の環境」の中であるとすると、戻して事故を検証すると、本来前方を走るべき列車が後方を走る管理システムはどこから生まれたのかと言う疑問が生まれます。
実はこれが上記するブレーキ制動力に起因しているのです。
全くの制動力の精度の違う高速の列車を走らせると成ると、何処かの駅のポイントでその違いを吸収させる為に、混成の為にかなり複雑な「入れ違い」を列車管理上で「人為的」に頻繁に起させる必要性が起こります。
混成であるが為に完成された追加管理ソフトが改良されて持っているとは考えらず、ヨーロッパ方式でもヨーロッパでは充分に出来ていないという現状を考えると、多くは中国人の「人為的な操作」に委ねている事である筈です。
本来前に走るべき川崎重工の列車が前を高速で走ると後ろのカナダの制動力の悪い列車との間に大きな間隔が発生してしまい、列車管理システムに大きな「タイムラグ」が起こりすぎて、追突の危険で運用できません。
そこで、この危険な間隔を解決させる為にある駅の手前で後続の列車がスピードを落として次ぎの駅に向かいます。後ろにした制動力のよい高速の川崎重工の列車をこの駅でやり過ごしますと管理は可能に成ります。
(日本の在来線に特急列車が走ると普通列車は最寄の駅で停車して「やり過ごし」をします。ブレーキ制動力による走行の速度変化の差ですが大まかにはこれと同じです)
前方にいた列車はより正しく早く次ぎの切り替え駅まで到達しておく必要が起こりますが、何らかの理由で(雷か人為操作ミス)低速40キロであったとしていますから追突の危険性は最大に成った事に成ります。
この直前で事故が起こった事に成ります。恐らくこの時にブレーキ制動の限界を超える「未熟な操作」が重なっていた可能性があります。
「混成システムの矛盾欠陥」
ところが、更に問題が生まれます。ここでETCヨーロッパシステムは「制動力の悪い列車群」と「異なる形式の各国列車」を一定としてこれを前提としていますので、川崎重工の制動力のよい列車が介在する事はこの「やり過ごし」方式には矛盾が生じることに成ります。
事故が起こったとして後方にブレーキをかけますが、後ろは制動力のよい川崎重工の列車です。管理システムで後方に制動をかけても最早間に合いません。その管理システムの速度管理では走っていないのですから。この矛盾を避けるべき手立てとしての其処に「やり過ごし」現象のポイントが差し掛かったのです。二重の矛盾点が重なるべきポイントと成ります。
「雷、サージ対策の欠陥」
更に、3重の自然災害がここに加わったのです。雷です。雷により停止する可能性もある為に前方を走るカナダの列車は制動力が悪いので速度を落とす事になってしまったのです。
ところが後ろは制動力のよい川崎の列車ですので、然程に速度は落とさずに走っていた事に成りますのでより追突の危険性が余計に増したことなります。
更に雷対策(サージ対策)も諸外国に比べて日本は段突に良く出来ていますので速度を落とさずに走らせます。ところが、ここでも技術力の差が出たのです。
実は日本製の列車は「サージテスト」と云う大変厳しいテストを課せられているのです。
気象変動の多い環境のために外国列車と段違いのテストを通過させなければ成りません。
これに更にメーカー独自の「過酷テスト」(パーチェイステスト)が掛けられますので、まず、サージつまり雷では信号や制御に問題は起こらなくなっているのです。
”雷で事故が起こる事は考えられない”との日本側の関係者の発言は此処から来ています。
相当なサージに対するノウハウなのです。先ず回路上のノウハウですから中国では真似は困難でしょう。
ただその分CPU回路等を強くする為に安全回路を幾つもの回路ラインに組み込む事に成りますので値段が多少高く成ります。
半導体の耐力アップや、コンデンサーCの追加と、抵抗Rと、電磁コアーやサージチップ等の組み込みを行います。
ところがヨーロッパの列車と列車管理システムは平地の多い比較的環境の良い所を走りますので、サージテストには比較的緩いのです。
サージテストでは普通の弱いサージ対策なら列車には管理CPUソフト基盤が入っていますのでこれがやられてしまう懸念があるのですが、ところがこれでは基盤そのものが壊れてしまいますので制御回路が無くなりそれこそ列車は暴走しますので大変な事に成ります。
そのためにサージ対策は主にこの回路入口にセットして内部の回路の中に入らなくするように設計しますし、仮に入っても内部にもサージチップ等の対策を施して最悪の状態が起こらないように基本的な設計がなされます。故に内部までサージのカレントの電流が入る事は有りませんが、仮に中に入ると回路が壊される前に基盤そのものがサージの電流が強い為に焼けてしまいます。
事故を起こったものを見れば一目瞭然で基盤を観ればすくに判ります。そもそも基盤がバーンアウトする事の事態がおかしいのですから、中国はそれを見せる事さえもしない筈です。
サージ対策とは主な方法としては、カレント電流を上記のサージ対策部品で主に電磁コアーを通して熱に変えてしまう仕組みに成っています。要するに判りやすく説明すると電子レンジの原理と同じなのです。
サージが鍋と考えればよい事に成ります。磁場の中に電流を含む異物が入ろうとするそれを拒む形で異物に誘導起電流が流れて熱に代わる原理です。
雷は電流ですのでこれを熱に変えるか、途中でコンデンサーに溜めてしまうか、別の非難回路に流してしまうか3つの方法の何れかを採れば問題はなく成ります。
この原理を回路の色々なポイントに問題が起こらないようにセットする事なのです。この3つの方法の使用は回路の内容に依っても異なります。
ですから、そもそもサージに依って信号が赤から青になるなどの内部の回路の変化の問題ではないのです。
先ずCPU回路の入り口の問題で厳しいサージであれば殆ど手前の電源回路でOFFさせる事に成ります。当然にこのサージ対策にも高度なノウハウが伴なっているのです。何故ならばサージ対策をする事に依って逆にその弊害(バグ)が起こるので、セットする場所やその部品の選択などの極めて高度な電気設計のノウハウが必要なのです。
中国がこの高度のトップクラスの設計能力をもった技術者が先ずいないと考えられます。
中国としても仮にこれが原因であったとしても何ともし難いことに成ります。
サージテストする専用の高度なテスター設備が必要なのです。このテスターに基のプリント基板を覚えさせ対策した回路をセットすると其処に問題点が検出させそれを解析しながら進めて行くのです。そしてそのテストをする専門の試験環境室チャンバーが必要と成ります。
中国にそれがあるかの問題ですし、そのチャンバーとテスターの専門メーカーは日本が独占的に段突なのです。
(高速化は始めて間もない時期ですからこのサージテストの高度なチェックシステムとノウハウは無い筈です。)
そもそも大抵は電磁コアーかサージチップで熱に変えられますので問題は起こる事はありません。
日本の全てのものはこの国の規格テストに合格していますので全く考えられないのです。
(参考 4K程度から14K程度の差 外国のものは確定は出来ませんが4−6K程度か 日本は8K−12K程度)
雷の中で前方のカナダの列車は「横ハシリの雷」のこのかなりきついサージに耐えられなかったとも考えられますが、しかし、サージ説はこれ以外にも考え難い事があるのです。つまり仮に入り口で耐えられなかったとしたら、当然に前方のカナダ製列車のCPUと列車内の搭載管理システムのCPUが破壊された事が考えられるのですが、ところが、しかし、列車は避雷針を保持し、且つ電線と線路の両方に上下並行に避雷針に成り得る伝導体が走っている構造と成っていますので、元々ヨーロッパの管理システムの回路でも殆どカレントの過電流を抑える事が出来る構造に成っています。
仮にカレント電流が流れても上記のサージに対するある程度の保護回路があればこれをブロックする事に成りますのでヨーロッパのものにしろ日本のATCのCPUは破壊しません。
諸外国のものも線路と電線ケーブルと列車は元々耐えられる構造ですが、中国が勝手に変えてしまったとすると別問題で耐えられるかのきわどい危険性が高まります。
ところが回路上の変更はプリント基板で出来ていますので回路変更はまず出来ないと考えます。
変更するとなると、上記のサージテストを繰り返して変更によるバクの問題が出ないか調べなくては成りませんし、プリント基板の回路内部まで把握できるかの問題が出ます。
量産システムでプリント基盤は造られ手作りではありませんので変更は先ず無理です。中国が部品調達していることから考えると回路変更は無理であります。
先ず、変更が出来得るハード回路ではありませんので、先ずその基盤の設計者程度の技術者でなくては専門的に観て無理です。依って変更は先ずは無理と判断できます。
この3重の技術的矛盾が引き起こした事故と成ります。
サージにたいするソフトに組み込む高い技術力も到底中国には無いと考えられますので、恐らくは中国で出来る範囲としては色々なCPUとCPUの間をソフトに依って繋ぐ回路程度の基盤程度と成ります。
これを「中継基盤」といいますがこの程度でしょう。
恐らくは、この少なくとも前記2つの矛盾は各所に必然的に起こる筈です。避けられない必然性のあるシステムと成ります。
少なくとも異なる制動力とスペックの川崎重工の列車が2つのメーカーの列車の中で走る限りに於いて起こる事に成ります。
現在の混成列車を編成する選択を採った中国に於いてこの4つの矛盾を解決するほどの技術力は専門的に観て有り得ない事でありますので潜在的に持つ欠陥と成ります。
ましてヨーロッパでも日本並のものが出来ていないのですから。
結論的には対策は「混成の列車システム」である限りは無い事を意味します。
日本を除いて世界の技術力ましてや中国に於いては「無い」と成ります。
ですから、終局は「雷」に原因を押し付けて対策が出来ない欠陥列車システムであるので慌てて証拠隠滅のために「埋める」と云う行動に出てしまったのです。と云う事は自らその原因究明と対策立案の能力が無い事を暗に認めている事に成ります。しかし、かといって日本などにその協力を求める事は虚勢を張っている以上は求める事は立場上出来ない事を物語ります。
まして証拠が出る事がこの「4つの潜在的欠陥」が露出する事に成り、外国のメーカーに「おんぶに抱っこ」の何も出来ない姿を露見させてしまいますので、虚勢を張っている手前それこそ中国にとっては「恥じの上塗り」の国難で有ります。
技術問題の解決というよりは最早一連の経緯から政治的な問題としての重要度がましている事に成っています。日本とヨーロッパの力を借りない限り「原因追求と対策」をも出来ない立場にあることが判ります。
「真因対策の解決策の検証」
そこで、では、本気で解決しようとすれば、中国に方法が無いのかと言う事ですが、論理的には問題の優秀な川崎重工の列車をラインから外す事で解決する可能性があり、列車種を統一する事で論理的に危険率は低くなる筈です。
ヨーロッパの列車管理システムの良悪の中で起こる事故の可能性の範囲で留まりますが、しかし、このヨーロッパ(EU)の混成式の列車管理システムはヨーロッパでは現実に不完全なシステムとして上記した様にまだ管理しきれない混成の欠点が出て現実にはあまり採用されていないのです。
そこで、では”川崎重工の列車を外す事が出来るか”の問題です。
出来ない筈です。この性能の良い列車を以って高速としての中国の”鼻息ばかりの謳い文句”にしているからです。国威高揚の為に。
川崎重工の列車を走らせるには本来は列車管理システムを日本のATCにする事と、列車主体を川崎重工を始めとする日本製の列車にする事で事故の起こる確率は極めて低くなり、制動力の悪い列車は早い日本製の列車を「やり過ごし」の方式でプールするソウトを日本製で組めばクリヤーする事が出来ます。
第1は制動力の悪い諸外国の列車を主体とするから良い列車が原因してシステムに矛盾が生まれるのです。
第2は制動力の悪い列車は時間帯に応じてある駅で「やり過ごし」の方式でカバーできますが、この逆は論理的に困難です。そもそもこの世の構成は第2の構成で成り立っています。この世に限らず分子構造の中までこの第1の構成で成り立っていますからこれは最早この世の自然の摂理です。
第1と第2を混在させるから問題が起こるのです。
第1を導入する以上は第1を主体として行えばそれはそれで第2と成る事に成りますから問題は無く成る筈なのですが、第1も第2も混成の主体は何れにも着かず問題を起すのです。
中国の大きな判断ミスでありこれを続ける限り「潜在的欠陥」に結びつくものです。
「時刻表のタイムラグ欠陥」
ここで、更に問題が出てくるのです。列車の制動力の良悪の問題ですが、制動力が良いと云う事は「時刻表」をより正しく守れることを意味します。
停車位置も定位置で停車する事が可能となりそれだけに「事故の確率」は低く成ります。
ヨーロッパの列車の制動力であれば山形∧ですのでかなり手前から速度を落としてブレーキを掛けながら停車位置に止まろうとしますから「時間ロス」が起こり「時刻表」が正確に守れなくなります。
これが走っている幾つかの列車群に起こりますので其処に起こる「時間のズレ」が重なると最悪「衝突と接近の危険性」が高まる事に成ります。
(ヨーロッパのようにゆったりとした大きい「時間ロス」が発生してもそれを吸収し得る余裕ある「時間表」を作ればよいことに成ります。)
更に其処に制動力の良い日本の列車が介在すると余計に「衝突と接近の危険性」は高く成ります。
この現象が各区間で起こる事に成ります。依って、「時刻表」にも列車の前後が逆になるなどの問題が起こってくる事に成るのです。其処に過密が重なれば「衝突と接近の危険性」は更に増します。
そうすると列車管理システムの信号の精度良い管理ソフトが必要に成りますが、これは混成システムですので、確実にしようとすれば列車の「完全な固体認識」が必要と成ります。
しかし、先ず相当にこの「固体認識」はソフトと機械的に困難です。
依って中国の現場では此処の部分を「人為的操作」で逃げる以外に有りまんので「衝突と接近の危険性」のズレが常に発生していたと考えられます。「人為的な潜在的欠陥」となります。
依って、この技術力が無いがためにもともと人為的にする為により早く「やり過ごし」のポイントまで行かせる為に「青信号」であったのであって、「固体認識」の無さと「サージ対策」で赤に変え得るノウハウが無かった事を意味しますので、上記した「衝突と接近の危険性」の矛盾から衝突が起こったのです。
日本の新幹線の様にくさび鍵形〔印の制動能力であると、直前でブレーキを掛けて停車できる同じ制動力と同じ速度と同じ時間帯が守られて初めて高速鉄道は維持出来るのです。高速化=ブレーキ制動の前提に於いて。
この事も加えると中国の混成列車システムであると最終4重の矛盾を持つ事に成りますから、衝突を含む事故は”必ず起こるシステム”と云えるのです。
ところがこの4重の矛盾の解消策は、中国では上記のこの解決案を実行する事は政治的に国民高揚を図る目的があり、且つと技術的に低く混成である限り無理であります。
因みに、ところが、韓国の高速列車もフランスの方式ですので混生システムではない為にこの様な3つの矛盾の事故は起こらないのですが、もとより列車管理システムと制動力はヨーロッパ方式で走らせている限りは「時間のロス」と「小さい事故」は現在も起こっています。これを証明しています。
ところが、これを補う為に韓国は三菱系の新幹線の列車を別に三菱OEM方式で製造して韓国製として輸出しようとしているのです。日本の三菱の製造単価を下げる目的です。
何時か韓国は日本のシステムに変わる事を意味しています。車や家電の三菱プラント生産方式で日本のノウハウを模倣で獲得した時と同じ様に、又、三菱系のものを韓国製とするでしょう。
因みに台湾は全て日本の新幹線ですので問題は起こっていません。
しかし、この様に中国がどの様な列車を自国の物として喧伝しても絶対的に技術的に造り出す事が出来ないのです。
「アセンブリー生産の弱みと欠陥」
上記した様に現在技術力が進んだヨーロッパ諸国でも日本のシステムと金属関係の2つの技術力には追いついていないのです。ましてや中国にはこれを実行できる全てを賄えるだけの総合の基礎力の技術力と生産力はないのですから、部品は全て外国から買取調達する事に成ります。要するにアセンブリー生産です。
その意味で列車一つを売るよりは部品単位で売却する方が欧米と日本のメーカーはより利益率は上がります。ですから、日本を含む先進技術の諸外国は損はしないのです。
戦略的にも政治的な問題が起これば部品の供給をとめる事で「首根っ子」を抑える戦略が採れることに成ります。
日本を含む諸外国は当初からこの「潜在的欠陥」を承知していて戦略的優位がある為に落ち着いて今回の問題に対処出来ます。
この事は政治的に承知している中国は、つまり、国威高揚の切迫条件に迫られて慌てる余り中国は言葉で国民向けに大きなことを言っていますが、実は「首根っ子」を抑えられているのです。
これを外国に輸出するも日本に執っては部品売却益が増える事を意味します。問題が起これば解決する能力の無いままに中国が責任を負う事に成ります。
責任はまともには負えないでしょう。上記した様に対策力がそもそも無いのですから。中国の事ですから政治的にどの様な難癖を付けて来るかの危険はありますが、「首根っ子」の事から”事を荒立てる事”は決して出来ない筈です。
専門的に観ればこれだけの決定的潜在欠陥を持っていれば導入する国は限られてきます。
価格を落としての販売と成りますが、部品が先進技術国から購入する生産体制そのものが変わらなければ大きく価格を下げる事は困難です。況して売却先にこの欠陥システムの列車を運用する能力がある事が疑問視されます。あくまで「国威高揚の道具」に使う目的でしょうが、今回はその問題点をさらけ出してしまった事から難しく成ったと考えられます。
そこで、中国らしく「雷」と「埋める」で「臭い物には蓋」で逃げようとしたのです。
技術問題点を解明してもこの4つの矛盾をさらけ出す事に成り余計に中国としては問題を大きく広げてしまう事に成ります。
仮に技術的問題として原因が解明されても中国では解決で出来ないのですから。下手をすると拗れて購入先と政治問題化して「部品の供給」が止まる事も充分に予想できます。それこそ中国にとっては基も子もありません。
「過去の開発失敗の経緯」
そもそも中国は国威高揚の為に1990年頃から10年間ほど独自の列車を開発し始めたのですが、結局、無理である事が判り4年間で今回の外国から購入しての混成システムと成ったのです。
この事からでも潜在的な問題がある事が判ります
ロシアの技術導入を基本にロケットや戦闘機開発も行いましたが全て失敗に終わっているのです。
話題に成ったジェツト戦闘機はロシア式のもので19機作りましたが上空で激しい振動を起こして飛んでいられない有様で即時開発は中止したのです。表向きは成功したように国民に見せていますが。
人工衛星のロケットもロシアのものを基本にして2段目を類似の自己開発をしたのですがこれも2段目爆発で失敗に終わっています。それだけにこの高速列車は後に引けない国威のものと成っていて何とか混成でもよいから成功したかに受け取り、喜び勇んで必要以上の虚勢を張り国民に鼓舞したのですが1月もしない内に上気する「潜在的欠陥」から決定的な失敗を招いてしまったのです。
幸いに国民にはこの「潜在的欠陥」を見抜くだけの知識と理解力の不足と情報の不足があるから技術問題として発展しない事が伺えますし、補償と関係者への不満だけに収まると考えられます。
まして、一般の中国人の「石は薬」「法より人」の思考規準から真因追究の要求までに発展しないと考えられます。
上記の通り中国当局は真の原因追求は政治的に戦略的にもとより技術的に外国の力を借りない限り出来ない筈で見せ掛けの行為に終わると見られます。
現に、そもそもこの様な列車事故の矛盾を指摘し解明できる国民が居ないことそのものが問題なのです。ここでもその技術力の無さが露見しているのです。日本では何もかも考えられない事です。
日本では国民がメーカーと相当する以上に技術力を保持しているのです。それだからこの様な優秀な制動力とATCとが生み出されているのです。専門的な立場から見て中国にはこの「潜在的欠陥」の改善は急激に成される技術力ではありません。
混生システムのアセンブリー列車です。原因が判っても対策を採る能力が備わっているかは疑問で、結局は原因究明は関係国の協力なしでは現実には無理と成る筈です。
依って中国は戦略的に原因を雷説か信号説にする事以外に無い事に成ります。
「サージテスト」の事実を無視して。しかし、混成システムは4つの矛盾を潜ませたままで。
「今後の中国」
現実問題として政治的に国民の知識力を高める事は現体制の共産党の言論統制や格差等に対する批判に繋がり、政府の不安定さに繋がっていく事に成り痛し痒しの問題となります。
韓国の様に技術力を吸収して経済力につなげる事は喉から手が出るほどでしょう。しかし、急激に経済力を上げる事は「民度」が上がり国民意識も高く成りますので政府の倒壊にも繋がるのです。
だからある意味で戦略的に混成にする必要に迫られた事も有り得ます。
日本製の物に統一させる事は国家防衛に対する戦略的な意味で日本に技術支配される事にも成りますので、せめて数カ国にその支配性を分散させる事も必要です。この判断のミスが招いた事故といえます。
何にしても他国の基本をベースにして自国製として見せつけ国威を高揚させねば成らない国情に至っているのです。今後も著作権の盗用問題に見られる様にこの様な状態が続くと見られます。
しかし、それでもロシアの戦闘機や人工衛星を始めとしてベースにしてでも失敗している技術力の無さですから、その基礎力の範囲は見えています。
故に原因追求はおろか対策までも成し得ず、たとえ成し得たとしても仕様内容が異なっていますので部品へのフィードバックは論理的に不可能ですし、また、下手をすれば部品の停止ともなれば国難と成ります。
先ずは、専門家でなくては判らない「雷か信号」でお茶を濁す事の程度で真因の証拠を見せずに終わらせるつもりで有ろう事がよく判ります。
その様な列車に乗らなくてはならない中国の人々の心境はいかばかりか。同情に耐えません。
実情や真因を”知らない知らせない”の中ではその怖さも半分では何か矛盾を感じ割り切れないものがあります。
共産主義の一党独裁の計画的市場経済の「潜在的欠陥」の一端を露見した事に成ります。
本事故の一連の列車計画もバブル破綻経済を恣意的に起こしている延長線上にあるのです。
中国経済全体がそうであるようにオリンピック以降の経済は「恣意的バブル経済」にして維持しています。
政治も何もかもが共産党の一党独裁が「潜在的矛盾」を引き伸ばしている事に過ぎない事に気が付きます。
兎にも角にも、それらを解決するには中国は先進国を見習ながら国民の民度を上げなくては成りません。これは中国の伝統的な思考規準の「石は薬」「法より人」の考え方が無く成るかに掛かっています。
どの様に無くすのでしょうか。「知らない知らせない」の範囲では中国国民には事の問題意識も無いかも知れません。
つまり、中国の「他民族性の国情」から日本の様な「融合民族性」の国情により近づく事、近づかせる事が「雑種の優秀性」を発揮させ、「石は薬」「法より人」の考え方が変える事に成ります。そしてそれが世界に通ずる認識力と物造りの国が生まれるものと考えます。
しかし、反面それは現体制の崩壊に繋がる最大要因とも成り得ます。このシーソウの原理の中にある事が判ります。
これからも「この種の事故」と「事故の処理」と「中国の国民への虚勢」がしばらく続く事が予想できます。
要するに技術も然ることながらこの国情も「潜在的欠陥」を持っている事に成ります。
今回の処置もこの思考規準と国情が根底にありそれが大きく左右されていると観られます。
(中国の技術的な物造りの現状のレポートは「青木氏と神明社」の関連レポートとしてそれに基づき詳細を記述していますので不明なところは「青木氏と神明社」を参照してください。)
早速の返信ありがとうございます。
なるほど、なるほどと読み、感謝をしている次第です。
このサイトをもう少し読み込み、父が残した備忘録を参考にして、いずれ家系図などの作成も
と考えています。
取り急ぎお礼まで。
青木 毅さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集う青木氏氏サイトにお越し頂きありがとう御座います。
これからもサイトの繁栄によろしくご協力の程お願いします。
研究室やルーツ掲示板や家紋掲示板などに青木氏の資料を用意していますので少しづつゆっくりと楽しんでお読みください。膨大な資料ですので、ご質問等有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
さて、ご先祖に対する思いが深くなられたとの事ですが、結婚をし、子供を持ちしますと何か心の奥の方で応え湧き出てくるものが不思議にありますよね。
矢張り、人間は不思議な目に見えない心の糸で先祖と繋がっているのだなぁーと思いますね。
身の回りで理屈つけない不思議な事が起こります。
さて、早速ですが、ご質問の件ですが、先に結論からお答えします。
藤原氏北家筋の藤原秀郷流青木氏です。
その青木氏は藤原秀郷一門361氏中「第2の宗家」と呼ばれ一門を宗家に代わって取りまとめ指揮していた一族です。
藤原秀郷宗家は「平将門の乱」の鎮圧の功績にて貴族となりましたから武力を使う事ができません。
そこで、秀郷第3子の千国を侍にして護衛の役目を与えました。
そして、朝廷に対して、青木氏を名乗る事を申請して特別に認可されます。
青木氏は天智天皇期の第6位皇子を臣下させて天皇を護る近衛軍としました。この青木氏を皇族賜姓青木氏と云います。5代の天皇から5家5流出ています。
この後、嵯峨天皇はこの青木氏から源氏と変名して第6位皇子に源氏を賜姓する様になりました。
この時、元の青木氏を皇族の皇子が下族する際に名乗る氏名として使用を永代禁止しました。原則3期を除き明治まで護られました
しかし、この藤原秀郷の千国に対して母方が賜姓青木氏とつながっている事を前提に特別に藤原秀郷に対して青木氏を賜姓する事を許可します。そして賜姓青木氏と同じ官職と官位と家柄身分を与えます。これが御家のルーツの青木氏です。
その青木氏は116氏ありますが、その内の次ぎのルーツの青木氏と成ります。
州浜紋は陸奥の小田氏の家紋です。
秀郷一門は朝廷より「鎮守府将軍」を与えられ、陸奥の国の平定を命じられます。この時、この陸奥小田の土豪と護衛軍として参加していた秀郷流青木氏と血縁をします。この青木氏が任が解けて武蔵に戻る事に成りますがこの小田氏と血縁した青木氏も戻ります。
そして、その後、この小田氏と血縁したこの青木氏は甲斐に赴任移動して定住します。
この青木氏は一部武蔵に戻りますが、その青木氏の末裔に血縁先の陸奥小田氏を名乗らせ常陸に定住させます。これが関東最大豪族4氏の「関東屋形」と呼ばれる常陸小田氏に成ります。
秀郷流青木氏は領国の武蔵入間を中心に横浜神奈川を半径とする円状の中を螺旋状に中心より青木氏宗家筋を先頭に116氏の本家筋が取り囲み護っていました。
この116氏の青木氏は全国24地方に移動して現地の豪族と血縁した末裔子孫を遺して来ています。
とりわけ、美濃、尾張、三河、駿府の4国にはこの116氏の青木氏の縮図の様に定住しています。
御家の小田氏の血縁を受けた青木氏は甲斐か常陸から移動命令にてこの愛知に定住した青木氏です。
家紋が州浜紋に成っているのは、本来は「秀郷一門」綜紋「下がり藤紋」が御家のご先祖の家紋でしたが小田氏と血縁して男系継承が2代続けて叶わず家紋掟により第1の養子先の家紋と成ったものです。
恐らくは宗派から判断すると甲斐から愛知に移動してきたものと考えます。
本来秀郷一門は宗派についてその身分家柄から、古代密教の浄土宗か或いは赴任地にて浄土宗が無い事から浄土真宗と成っています。
ところが室町期のある時期に甲斐に真言宗密教の風が吹いて多くの武士が真言宗に宗派変えを起すという事件が起こりました。この時甲斐の小田氏系の青木氏の一部が入信しているのです。
そもそも甲斐の武田氏はこの秀郷一門青木氏に同行してきた陸奥小田氏が陸奥から移動して来て甲斐で土豪となり勢力を付けた豪族で後に地名から武田氏を名乗ったものなのです。
この地域に一時定住していた小田氏との血縁をした小田氏系青木氏ですから末裔一部が真言宗に入信している可能性があります。
この一部は常陸に移動して小田氏を継承して常陸の小田氏を名乗ったものですが、この常陸青木氏系小田氏と甲斐小田氏系青木氏は116氏の青木氏の中でも主要氏です。
高野山に江戸期の過去帳をお持ちとすると、この甲斐の小田氏系青木氏と観られます。
ですから、お家のルーツは秀郷流青木氏で美濃−常陸−甲斐−陸奥−安倍氏(阿倍氏)−阿多倍王一族(奈良期 後漢)に繋がるルーツを持っている事に成ります。
(甲斐は上野よりの地域 後に一部は真田氏の家臣になっている この一部は真田氏が配流先高野山麓の九度山に移動定住している 高野山との関係はここにもあります。)
概略を記しましたが、これ等の事柄に付いて全て生き様を含むあらゆる事柄に付いて詳しくは研究室にレポートしていますのでこれ先ずお読みください。
青木氏ルーツ掲示板にも多くの全国各地からの青木氏さんからのお便りがありますのでお読みください。掲示板の検索を使われると良いと思います。
リタイヤーの時の楽しみとして少しづつお読みに成っては如何ですか。
ご質問等ありましたらご遠慮なくお便り頂きます様に。お待ちしております。
読み終わるには1年は掛かるかも知れませんよ。
家紋は「青木氏と血縁族」(家紋)10のところに記載しています。
縁あって久し振りに酒を酌み交わした友人との話題がきっかけで、またこのサイトを見ています。
自分がこの世に存在させてもらっている数々の祖先について知りたいと思う気持ちは歳とともに強くなっています。リタイアしたら本格的に検証してみたいと考えるこの頃です。
さて、分かっている概略は
1.江戸時代より愛知県中島郡祖父江町神明津に住んでいること(墓石等で確認)
2.家紋は州浜紋
3.真言宗(亡くなった父は高野山で過去帳を見てもらったとのこと)
以上から江戸時代以前のルーツの可能性を教えていただきたく投稿します。
よろしくお願いいたします。
長嶋さん 今日は。
さて、だんだんとルーツのご理解が進んできましたね。
研究室のレポートをお読みいただけると更に深く専門的な雑学が得られてテレビのドキュメントやドラマ等に対して又違った興味が湧いてきますよ。”いやこの時代考証や設定に矛盾があるな”とか”嘘だな”とか観えて来ます。”この時代考証よく描けているな”とか違った面白みが出てきます。
是非お読みください。今回のご質問もより深くご理解頂けると思います。
そうする事で今回のご質問もお判りになると思います。
前回にもお答えしましたが、お家の大元は大蔵氏ですが、この「大蔵」平安期の政治機構「三蔵」の一つで朝廷の財政全般を取り仕切る役職です。だから日本政府の10年ほど前までは「大蔵省」といいましたね。これはこの「大蔵」から来ているのです。
この大蔵の氏は後漢の阿多倍王の次男が務めていた役職で、それで「大蔵」と云う氏名を天皇から賜姓を受けた氏です。参考に三男は「内蔵氏」の賜姓を受けましたが、「内蔵」とは天皇家の財政全般の運営を任された役職です。
念の為に「斎蔵」とは朝廷と天皇家の祭祀全般を司る役職で藤原氏が務めます。「斎蔵」は政治もその一つとして、だから摂関家は藤原氏なのです。政治とは”正しい形に取りまとめ納める”と云う語源があり、これを「政所」(まんどころ)と云い、家庭の台所の細々した色々な「しがらみ」のある中で、より正しい姿に取りまとめる事が家庭の仕事で女房が勤めていたところから「政治」と云う言葉が生まれたのです。
「斎蔵」はその様な事から「祭り事」と云われるようになったのです。
この語源の意味からすると、常識として「正しい」とするのが「政治」ではなく、「しがらみ」を「解きほぐす事」が政治なので、それが常識とする事と違っていても政治の場では正しいのですがね、現在の政治家は少し違っている気がしますよね。
現実の世の中、常識的に正しい事ばかりでは納まりませんよね。そうあっては欲しいですが、そう甘くありませんよね。
さて、余談は別として、この「財政運営知識」を持つ「大蔵氏」は後漢から連れてきた17県民の配下の職能集団200万人(180の部)の中の「経済知識」に強い専門的な人材の集団を抱えていて、この「後漢の民」が「朝廷の経済運営全般域」を専門家としてこれを担当していたのです。
当時の官僚の6割以上はこの帰化した「後漢の民」の専門職能技能集団でした。
この「部制度」といいますが職能技能集団を180のグループに分かれていてこれを「・・部」と呼んだのです。総称して民部・部曲(かきべ)と呼びます。
ですから、朝廷の経済運営を取り仕切っている大蔵氏は前回のお答え通り九州の「太宰大監」として全ての「自治政治」を任されたのです。
任された初代で「大蔵種材」と云う人物がいましたが、「仁王さま」のモデルにもなった人物で、「武術全般」にも長じ、「政治と経済知識」にも長じ、「学問」にも長じ、人間的にも「錦の御旗」を天皇から受けるくらいの人物で、九州全域からの民にも慕われた超実在人物でした。この配下に代々経済的な専門職脳集団の「済部」と「史部」等が控えていたのです。
大蔵氏の氏上の首魁本人がそうでなくても家臣配下に専門家集団を控えていたのです。
奈良時代から平安時代の「経済運営」は全てこの大蔵氏支配下の帰化人の「後漢の民」が行っていたのです。他の職能集団180部も日本の第1次産業を起こしたのはこの「後漢の民」なのです。
特に北九州は最初の上陸地でもあり、この第1次産業の「鉄や陶器」などが多いのはこの事から来ているのです。「鍛冶部」「陶部」と呼ばれます。(部制度については研究室にレポートしています。)
つまり、「大蔵氏の本拠地」にです。ですから、お家は「後漢の民」の首魁の血筋が流れているのです。
中国民族の中で、中国の文化・経済を作り上げた最も「優秀な漢民族」の血が流れているのですよ。
そして、その末裔の宗家大蔵氏から中部から南九州を任された一族の「肝付氏」は同じく大蔵の中の実務の一つ「弁済使」が専門なのです。
「弁済使」とは朝廷の「税」の実務全般を担う役職で「大蔵」の根幹を占めているのです。
現在では商務担当ですね。
「税」とは「農税、商税」の管理運営です。真に商業です。商業の振興を図る仕事です。
その大蔵氏と肝付氏の居た永嶋氏と長嶋氏なのです。お家の先祖はその氏名の通りその商税のプロ集団なのです。この経済商務専門家を多く家臣に抱えていたのです。
そもそもこの「大蔵」は財政全域の意味を成し、「肝付」とは「肝」は人間を構成する工場を指しますが、国で云えば「税」は国の運営の工場域ですし、「付」の語源はその位置や役目を指しますから語源からもその職務を意味しているのです。
「大蔵」の中の「税」の氏からその氏名としたのです。後にこれが地名にもなったのです。真に肝付氏の氏名がそのものが体を現しているのです。40の末裔の多くは主家の下にこの税に関する仕事をしていました。
筆者の妻の先祖はこの税の取り立て役をしていたのですが、その地には必ず、「別府」、「別所」と云う地名があります。この「別府」、「別所」はこの「現地の事務所」があったところなのです。
北九州の別府温泉はこの朝廷の税等の管理事務所があったところで九州各地にこの名が残っています。
現在で云うと大蔵省-財務省の各地の税務署の事です。
当然に「税」だけでは成り立ちませんからそれをより効率よく捌かなくては意味を成しません。
ですから、片方で「税の管理運営」ともう片方では「商の管理運営」が必要です。
これには簡単には行きませんね、上記した「政所のしがらみ」がありますからね。
商ともなれば「経済の知識」も必要ですし、「横の繋がり」、・・等専門家で無くては到底無理ですね。
ですから、島津氏は肝付氏がこの貴重な知識の「有能な集団」を抱えていた事を見逃さなかったのです。
肝付氏は帰化から1000年以上も繁栄して生き延びてきたのですから、島津氏は国を富ますには「武力」より肝付氏の「商力」を重視していたのです。
その後、島津氏は明治期までのこの伝統的な方針に切り替えたのです。ですから、幕末まで幕府を倒す力があったのです。工場を立て、密貿易をしていたくらいですよ。
これ全て肝付氏の「商」、「弁済使」の職能集団によって支えられていたのです。
だから敵であった肝付氏一族を家老職のトップにしたのですよ。本来常識なら有り得ない事ですがこれも「政治の政所」です。
前記しました様に朝廷の藤原氏が行う「斎蔵」の「経済運営」と、「経済の政治政策運営」に反対して8世紀前半頃に朝廷軍と大隈で戦うくらいの肝付氏の根っこからの経済専門家集団なのですよ。
その肝付氏40の姓の中で長嶋氏は私の持つ研究資料から肝付氏の商業分野(交渉役・営業役)を担っていたとされています。その中の建築業関係の総合商社を担っていたのです。
実は種を明かしますと、この事について何故建築業関係の商いを担っていたかと言う事ですが、その元はお家の片方のルーツの常陸下総の秀郷一門永嶋氏にあるのです。
血縁した秀郷一門の永嶋氏は元は「結城氏」を名乗っていたのです。もうお判りに成ると思いますが、秀郷一門の中で永嶋氏の官職の役目は「土木建設業役」(木工寮・木工頭 こだくみのかみ・むくみのかみ)なのです。名は体を現すの如くです。
その専門的な知識をもった指揮官のお家の家柄なのです。
昔は今のように民間がそのノウハウを持っていて工事をすると云うのではなく、その様な特徴を持ったノウハウの持った家臣団の氏がいてその氏主がその配下家臣の指揮をすると云う社会形態でした。
例えば、大化期に天智天皇は大土木工事(例えば道路)を行いましたが、そのノウハウは現在でも驚くべき技術が駆使されているのです。これはそれを行う役職の氏が継承し研究していたのです。
恐らく血縁の際に家臣団の中にこの集団の末裔が付き従ったのです。だから最後まで「2足の草鞋策」を採るほどに「こけら屋」(土木建築関係の総合商社)さんの「家の伝統」を護ったのです。
お家は根っこからの700年くらい続いた伝統と由緒ある「土木建築業」の家柄なのですよ。
島津氏の家臣の範囲ではないのです。氏家制度の中では家柄からすると両方の氏からも島津氏より数段上です。大蔵氏、肝付氏、永嶋氏どちらも上で永嶋氏は第2番目朝臣族、大蔵氏と肝付氏は第4番目の連族です。島津氏は姓氏族ですのでありません。
では"何故伝統ある「結城氏」を名乗り続けなかったのか"です。
下総結城は「たいら族」に奪い取られてしまったのです。平清盛の5代前に奪われたので地名とも成っていた由緒ある家柄を示す「結城」を名乗る事が出来なくなったのです。そこで移動先の地名から永嶋と名乗ったのです。何としても結城を遺したいとして常陸にも「常陸結城」の地名を残したのです。
しかし、この「結城」を1192年に鎌倉幕府の時に藤原秀郷の宗家筋の朝光は頼朝に合力した勲功で先祖伝来の「下総結城」を本領安堵され取り戻したのです。
そして永嶋氏の宗家から「結城氏」を再び立てて名乗ります。この結城氏は永嶋氏と共に勢力を拡大し陸奥にも結城氏の末裔を送り陸奥の結城氏となり室町期の大豪族に成ります。
肝付氏の40の中でも常陸の藤原秀郷一門の主要5氏の一つで「関東屋形」と呼ばれた大豪族ですから、長嶋氏は肝付氏の中でも上位の位置にいた事は判りますし、天下の大蔵氏の永嶋氏と親族でもありますから、推して知るべしで肝付氏=長嶋氏の経済専門集団と建築専門集団とが結び付き「2足の草鞋策」をを営んだのです。むしろこの二つが結びつけば「商い」をしない方がおかしいのです。「こけら屋」はこの事を意味していたと考えます。氏家制度の中ですから。
上記した由来などのこれらの事は他にも多くの資料から読み取れるのです。
もそも、「氏家制度」の社会の中ではこの様にその「氏」にはそれぞれの特徴を持っていたのです。
平安期末期では「氏」、つまり、「融合氏」は80程度から200程度へと広がりましたが、その「氏」の発祥はその特徴の基に生まれているのです。大蔵氏も上記しました様に「大蔵」という特徴を持っています。
この「大蔵氏」は元は「民族氏」なのです。そしてその信じる神は「産土神」(うぶすなかみ)です。
青木氏や藤原一門は「融合氏」で「祖先神」が神なのです。これは「氏」です。
しかし、日本には「姓氏」という「氏家制度」の社会の中では一段氏より下の集団なのです。
平安時代に「氏」として認められた「融合氏」「民族氏」の配下・家臣であった者が室町期の下克上や戦国時代に立身出世して主家の「氏」を倒して発祥した一族を「姓族」と称し集団を「姓氏」と称したのです。
(研究室にレポートしています。)そしてこの奈良期-平安期に承認された「氏」は全て職能域を保持していて、承認されていない「姓氏」にはその特徴を持っていません。
藤原秀郷一門の361氏は全てその「氏名」と「永代襲名」と「永代官職名」でその「氏」の職能の判断が付くのです。例えば氏名では斎藤氏は斎蔵つまり祭祀を専門とする家柄、右衛門佐と官職が付けば天皇家を護る近衛軍(六衛府軍)の長官、「民部」と付けば職能集団を管理監督する民の警察軍という風にわかるのです。しかし、1000もの姓族には当然に主家ではありませんのでこの特徴を持ちません。
「大蔵氏」や「肝付氏」の一族一門はこの「氏」に当たり、その氏でも「民族氏」の集団に属します。
藤原氏は「融合氏」です。
お家は「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」なのでこの両方の氏の立場を持っている事に成ります。
日本には「氏」は200程度(下克上で80程度に)、「姓氏」は1000程度以上もあるのです。他7000は明治期の苗字例に基づく姓の人々です。
「氏名」と「姓名」とがあるのはこの事から来ています。
肝付氏は「民族氏」ですが「融合氏」の永嶋氏が血縁しています。「姓氏」ではないのです。全ての事柄に特徴を持っているのです。
「氏家制度」の中での「氏」の集団で上記した特徴を持っていて後から付けたものではないのです。
後付は「姓氏」と成りますが、ご質問は現在思考の姓氏からの発想思考であり、「氏家制度」を理解する発想思考では無いのです。大蔵氏族肝付氏系長嶋氏は「氏」なのですから元からそのその才を特徴としていて専門家臣団を控えているのです。記録有無の話ではないのです。
氏家制度では「氏」は8つの身分に分けられ、姓氏は1つ、これ以外に庶民は4つに分けられ、庶民ではない賎民も4つに分けられます。1023年以降は賎民は無くなります。
この中で社会が構成されます。
今論じているのは上位から2から3つ目位のところの氏の事を論じています。
「2足の草鞋策」の「こけら屋」の意味もここにもあると思います。
その一つとして前回のお答えした日本書紀にもその肝付氏の行動が記述されています。江戸末期、幕末の薩摩藩の活動の中にも読み取れます。
前回書きましたが一度あつ姫の小説をお読みください。活躍ぶりから読み取れますよ。
藩主に肝付氏が経済のことで進言した事などが書かれています。
島津藩については専門外ですので詳しくは分かりませんし、その資料は前々回にお答えしたとおり少なく研究は進んでいないと思いますが。
しかし、肝付氏の長嶋氏までの範囲は大蔵氏に関係する資料から判ります。
少なくとも長嶋氏までは商業の専門集団であったことは判っています。だから何度も云いますが、「こけら屋」なのですよ。さすがにあらわに「商業屋」とは云えませんね。
ご先祖の屋号の「こけら屋」の意味がまだご理解されていないようですね。
筆者の先祖は「紙屋」ですが、「紙屋」であって「紙屋」ではないのです。
前回にお答えしましたが、商業には政治つまり政所が関わっているのです。
小売業ではいざ知らず国の財政を動かす政治・政所商業なのです。だから「こけら屋」だと思いますよ。「氏家制度」の「武家社会」の中での「商いの位置づけ等」を思考される必要が「こけら屋」にはあると考えます。
「こけら屋」でのキーワードはこの場合は島津氏或いは肝付氏の中の資料に成ります。あるかどうか判りません。
念の為に、肝付氏の主人が何も経済の専門家でなくても家臣団にその様な多くの専門家がいれば肝付氏はそのプロ集団なのです。「氏家制度」の社会です。現在の様な「自由契約社会」ではありません。
つい現在社会の思考で氏家制度の社会の「有り様」を思考してしまいがちですが、明治前の社会機構の「有り様」は「氏家制度」の歴史雑学で観察思考する必要があります。
さて、家紋の件ですが、研究室のレポートをお読み頂けると「歴史雑学の観察思考」が深まり恐らくはご判断が付くと思います。室町以降の「家紋の位置づけ」はその「氏の伝統」を意味するものです。ですから簡単に変えるなどの事は先ず簡単に起こりません。
そうすると現実に変わっているのですから、氏家制度の中では掟があったのですから、その歴史雑学の思考の範囲で考察する必要がありますね。
8つある事に成りますから、お家の場合はこの8つの事の内どれかが江戸末期60年前に何かが起こっている筈なのです。絶対に当時の慣習の中で。
それは、絶対に桜井氏-仁木氏に関わる筈だという事です。
杉浦氏が江戸末期の60年の氏なのですか。
前回末尾で書きましたお家の伝統に関する過去帳や明治維新の戸籍簿や戒名などから変紋に関わったことが出てきますよ。”養子を迎えれば氏の中はどの様に変わるか”を雑学として読み取りそれを一つ一つ潰す事で観えて来ますよ。要するに「政所」なのですよ。
例えば、ご先祖の戒名などは大きく変わりますよ。「政所の仕来り」がありますので。例えば更に杉浦氏が根笹紋でなくても8つのうちの一つ養子に継承させてくる事もありますよ。家の釣り合いとかで。
一度その伝統の可能性の中でお調べください。
その際に雑学でもご質問がありましたらお尋ねください。
(ただ島津氏の中の事は青木氏外ですので)
明確なお答え、ありがとうございます。
1.薩摩藩に出入り、或いは御用達の商人は全て武士で商人の「2足の草鞋」で、 そのため薩摩藩に出 入りしていたとする長嶋さんも、典型的な薩摩藩の武家商人であり、紋付袴姿の武家で家臣であるか らこそ出入りが許されていたこと。
2.島津藩から何らかの目的で愛知東三河に移動を命じられそこで商業活動をし、そして60年後明治維 新に成ってしまったという推測。
3.島津家御用達「こけら屋」と静岡と根笹紋と商人となれば繋がるキーワードは材木と徳川氏の膝元であ れば情報収集と成りますね。
非常に分かりやすく納得し、ちょっとドキドキしてしまうお答えでした。
長嶋氏の家紋は肝付氏と同様に「三雁金紋」であり、養子などの血縁にて根笹紋に変紋したのではと云うことですが、静岡県浜松、また長野にも近い愛知県東三河新城に移り住んでからは、同じ町の杉浦氏から養嗣子を向かえているくらいです。
杉浦氏は、桓武平氏三浦氏流らしく、三河にも移り住んでいるようです。この杉浦氏が、松平氏系桜井氏と仁木氏と血縁があり、養子を取る前の家紋があることが判明すると良いのですが、今後の課題です。
質問ばかりですみません、『肝付氏を40近い姓氏の一族一門が経済的に裏で支、その中の一つの長嶋氏が、この一門は商才に長けていたと云われます。』とのことですが、長嶋氏は薩摩史等で名前が出てき、商才に長けていたことも解っていた事実のでしょうか?
今日は。静岡の長嶋さん。
ご返事をお読みいただけましたか。ありがとうございます。
では、早速ですが、ご質問5つに付いてお答えいたします。
何れも歴史に興味をお持ちに成っている方の納得の行くご質問と思います。
先ず、1番目のお答えです。
お答えは、薩摩藩に出入り、或いは御用達の商人は全て武士で商人です。
つまり、「2足の草鞋」策です。
この当時の商人は100%と云って良いほどに武士の出身か武士なのです。特に薩摩藩では尚の事です。薩摩藩は交易を中心に経済的な財政基盤を作り上げていたから強かったのです。
この為には国内の産物を捌く者が必要です。家臣に商に長けたものに命じて商いをさせ認可を与えて商家を作らせてその利益から権益を上げる仕組みを作り上げていたのです。そうする事で国内の産物は他国に捌け、且つ、捌ければ造る者は潤い働き甲斐が出ます。この様にして経済活動のサイクルを作り上げていたのです。しかし、武をモットーとする武家では出来ません。その為に商いの長けた者にこの捌くと云う仕事をさせたのです。当然認可制にし御用達にし且つ家臣であれば藩は自由に商いの大小によっては更に開墾も手がけられ結果として特産物を作りだす事も出来る訳です。
他国に売りさばく、他国から生活必需品を仕入れる等の事が伴うわけですから、その商いの裏づけも必要と成ります。他国の藩主との繋がりも必要と成ります。
当時は国内の産物は藩が税の対象として利権を持ち取り仕切っていましたから、勝手気ままに他国に売り捌けません。売買を放置すれば国内の需要を賄えない事も起こり得ます。
これはどこの藩も同じ事ですから、藩の横の政治的関係も必要です。
要するに藩主が大株主であればオーナーで出資者であれば担保が成立します。
それに当時は大量の物品の搬送には海賊や山賊など横行していましたので、これに対応する能力が必要です。武家であればそれを守る武力を持つ事(家臣)が許されますし、藩も後押しする事が出来ます。
また、予めその様な集団に対してシンジケートを作り上げておけば別の他国のシンジケートとの繋がりも作り上げられます。北海道から鹿児島までの搬送となれば幾つもの国を超えてこなければ成りません。海でもその海のテリトリーがあり海賊が圏域を握っていましたからそれとの繋がりも持つことが必要です。海賊山賊と云っても手下は別にしてもその元締めは武士か元は武士です。
この様なシンジケートを作らせこれに経済的な支援を裏で行うには藩は表に出られませんので、家臣の商人にさせるのです。藩御用達の範囲の商人で豪商と呼ばれた商人を調べると全て武士か元武士です。
そして、その殆どはかなりの身分の重臣で有名な氏の末裔武家です。
これには、廻船業の商人等の多種多様な商いも作る必要があります。
本サイトの讃岐藤氏の青木さんも昭和20年頃まで続いた全国を駆け巡った古い歴史を持つ瀬戸内廻船業の青木さんも居りますよ。
青木氏にはこの24地方に青木氏がありますが、その主家の多くは豪商でもあります。
参考までに例として、実は、私の先祖も明治35年まで950年間続いた伊勢松阪の商家で「2速の草鞋」でした。NHK大河ドラマに3つのドラマに筆者の商家が出てきました。(伊勢松阪青木紙屋長兵衛)
織田信長の唯一の敗戦は次男信雄を総大将とする伊勢攻め丸山城の戦いで筆者先祖の青木氏はこの商家と言う立場と伊勢−信濃シンジケートを使って勝ったのです。
庶民の商人ではこの様に合理的で物理的な行動は無理がありますので出来ないのです。せいぜい可能な範囲としては小売程度の商いの範囲です。
2のご質問と重なりますが、薩摩藩に出入りしていたとする長嶋さんも、典型的な薩摩藩の武家商人であった筈です。紋付袴姿の武家で家臣であるからこそ出入りが許されていたのです。
時代考証の間違いの多いテレビドラマではありません。「武士の商人」と「シンジケート」と「藩の利権」は当時の現実の世界です。これら3つは良悪の問題ではなく「氏家制度の経済システム」です。これでは庶民の商人は入れ切れませんね。
問題は肝付氏の家臣か島津氏の家臣かの問題ですが、出入りが可能とすると島津氏の家臣であったのだと考えます。
まして肝付氏とも成れば島津家の筆頭家老で明治維新に西郷隆盛と一緒に歴史の舞台で筆頭指揮を執った家柄ですよ。その肝付氏の一族ですから当然にその背景とする裏付けを持っていなければ600年以上の家柄を保つことは出来なかった筈です。肝付氏を一族一門が経済的に裏で支えていたのです。
その肝付氏一門として家老職から認可も出せるし必要不可欠な業に対して「こけら屋」建設業を営んでいたと考えられます。命じていたとも云えるのです。
少なくとも肝付氏とは強く結びついていたと考えられます。昔の商人は「こけら屋」としていますが、主な商いは一応「こけら屋」であって、表向きで別に「広範囲な商い」を上記のような立場から必要に応じて臨機応変にしていたのです。
私の先祖は和紙を扱う主業でしたが現実には総合商社で有ったようで大船3隻を有していて外国貿易もしていたようです。私はお家は建材業を主に建築業、内装業を手がけていたと考えます。
藩から要求に応えて手広く商いをしていたと「こけら屋」の屋号から察する事が出来ます。
一種の建築関係の総合業であったと思います。昔は今の様に専門業的なものは少なかったのです。
肝付氏の事に付いては阿多倍一門一族のレポート関係を幾つも記載していますのでそこをお読みください。概略は大蔵氏系の肝付氏は島津氏よりは家柄、身分、歴史などは数段上の氏で618年頃中国後漢の民の国16国は隋が滅びて後漢は崩壊しますが、その頃より阿多倍王とその父阿智使王が北九州に17県民200万人を引き連れて日本に難民と成って帰化して来た一団で、瞬く間に九州全土と関西以西32/66国を無戦制圧してしまいます。645年頃には薩摩大隈にその集団の首魁阿多倍王と父阿智使王は移り住みます。その後、700年前頃に伊勢国伊賀地方を賜姓青木氏から割譲して国を与え半国司に任じて住まわせます。ここから全土32国に指揮を執ります。
(阿智使王は「史部」を司り朝廷の事務官僚の元締めをしていました)
この7代末裔が「たいら族」桓武平氏の平清盛です。
阿多倍王には敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘を娶り准大臣と成り、3人の子供が産まれ長男は有名な坂上田村麻呂で坂上氏、次男は大宰府の太宰大監の大蔵氏で1018年「錦の御旗」を歴史上唯一個人に与えられ「遠の朝廷」と命名された九州全土の自治を認められる。三男は内蔵氏で陸奥一帯の歴史上の豪族は殆どこの末裔で阿倍氏等があります。
奈良-平安期は朝廷の政治組織「三蔵」で成り立っていましたが、その内の「大蔵」と「内蔵」を担当、「斎蔵」は藤原氏、官僚の6割は阿多倍王のこれ等の子孫です。日本書紀にも何度も出てきます。
肝付氏は天皇の前で銀杏の木の下で相撲をして見せたとあります。それほどの氏です。
1018年に九州全土の自治を任された賜姓大蔵氏は肝付氏などの末裔を育て上げこの肝付氏は朝廷官僚豪族伴氏と血縁します。
そして南九州を主家から任されて働きます。この肝付氏は「弁済使」で力を発揮し「税」等の政治力に長けていたのです。資料に多く残る事なのです。
ですから、室町期の新興勢力の島津氏と戦って最終には負けますが島津氏はこの管理能力を認めて潰さずに一国元の大隈国を与えて家老に取り立てます。地元には住民との1000年程度の歴史と絆を持っていますから潰すと内乱に成りますので、むしろ前回にお答えした40近い姓氏を活用して一族一門を取り立てて薩摩の内乱を鎮めたのです。その中の一つが長嶋氏ですがこの一門は商才に長けていたと云われます。
主家の肝付氏が重臣筆頭家老に成ってから大いに島津氏の有名な経済的背景を築いたのですが、裏で長嶋氏が支えていたのです。
長嶋氏は肝付氏家老の縁戚であるので勘定方組頭程度であろうと考えますが、「お目見え程度」ではないでしょうか。其処まで詳しくは判りませんし其処までの詳しい資料は遺されていないと思います。
3のご質問ですが、ありましたよ。
西郷隆盛の血判事件です。この事件には肝付氏も間接的に連座しています。
大河ドラマで演じられていますがこの時の事だと思います。
サイトは島津氏の事は青木氏と長嶋氏外の事ですので「あつ姫」等のドラマをご覧ください。
”太吉さんが血判に関わっていた”と云うことがお判りに成るのであればその資となるものから調べられる筈ですね。まして、血判と云う尋常ならざる事を承知しておられるのであればその血判事件は知っている事に成りますが。意味が良く判りません。
4のご質問ですが、青木氏サイト外の専門外の事ですので十分にお答えする訳には行きません。
肝付氏もサイト外ですが、私の妻の実家は鹿児島で島津藩の下級武士であったところからも承知している内容なのです。大蔵氏系永嶋氏に関わる事は永嶋氏とは青木氏とは室町末期まで縁戚関係にありましたので研究して承知していることに成ります。残念ですがあまり他氏は青木氏の様に研究は進んでいないと思いますがインターネットなどで調べられる事をお勧めします。(真偽は別として搾取偏纂が多い)
5のご質問ですが、”地域の有力者との関係で根笹に変えざるを終えなかったと云う事でしょうか。また、薩摩にいたときの紋を出すとまずいこともあったのでしょうか。”のご質問ですが、
このお答えは明治維新前は奈良期まで氏家制度の中でありましたから、家紋を使用する様に成ったのは平安末期からで40氏程度の氏から徐々に用いられるように成りましたが本格的には鎌倉期に入ってからです。「氏家制度」を維持する上で社会の慣習としての仕来りをこの家紋と云うもので「氏家」を明確にして行ったのですがこれを取りまとめられたのが「家紋掟」であります。
この家紋掟に関して詳しくはレポートしていますのでお読みください。また氏家制度の内容の根幹の融合氏政策が天智天皇から取られて来ましたが現在これに関する論文を投稿中ですのでそれをお読みください。
ご質問はこれ等に大いに関係してくる歴史的な雑学の範疇に入りますので、青木氏サイトにはレポートしていますのでお読みください。
情報提供は前回のものを越えていませんので何とも言い難いのですが、判断するものがありません。
前回にもお答えしました様にこの「三雁金紋」は別に薩摩の長嶋氏の独自の家紋ではありません。
花房氏の家紋です。花房氏は陸奥の氏で藤原秀郷流青木氏と大いに関係する氏でありますので承知しているものです。後に信濃に定住し信濃足利氏の前身の氏と成ります。信濃足利氏は青木氏と血縁関係にありますので承知しているものですが、お尋ねのご質問は薩摩とは無関係です。長嶋氏の氏名はこの地域には元の藤原秀郷流永嶋氏が居ますので疑われる事は無いと思われます。
むしろ家紋氏名を出した方が信濃域の周囲にはこの家紋が多く存在しますので問題が少ないと思いますが。ただ青木氏とは四国の青木さんとはある事件から血縁していますので四国にも三雁金紋の姓氏は存在します。三雁金紋の存在する所には足利氏との内部事件が絡んで逃げ込んだ経緯があります。
根笹紋は雑学上では薩摩との関係は全くありません。
この根笹紋は前回のお答えにも書いています通り2氏の家紋です。これも薩摩とは問題ありません。
この根笹紋の出来た或いは用いた経緯は松竹梅の縁起から用いられたもので竹の笹はずい祥的文様として用いられたもので江戸の旗本や御家人が江戸初期に氏を証明する手段として家紋が必要に成ったので用いたものです。
特に松平氏系桜井氏と信濃から移動してきた仁木氏が駿府三河付近に子孫を残したので増えたものです。
家紋を変えたかどうかの判断も他の情報が無くては何とも言い切れません。
たとえば宗派等、檀家寺、あるのであれば菩提寺、寺にある過去帳、明治維新の戸籍簿、ご宗家か本家の土地柄や江戸期の静岡での職業や地理の静岡との関係性を見出す必要があります。
そこから、又ご先祖が分かって来ると思います。薩摩との繋がりも見えてきます。
推測の域を脱しませんが、島津藩から何らかの目的で静岡に移動を命じられそこで商業活動をしたのでは。そして60年後明治維新に成ってしまった。
明治維新前は氏家制度ですので全ての者は国に所属するものですから、勝手に移動定住は出来ません。国に縛られています。これを犯せば「国抜け」といって一族斬罪です。
何かの理由があって移動して来た事に成ります。「こけら屋」が大きく左右していると判断します。
恐らくは、島津藩の事情から静岡の建材に関わっているのではないでしょうか。移動して移動先で血縁出来ているのですから、移動に関する許可書が出ての事です。移動の認可理由が何であったかと成ります。
血縁する相手が無宿者では根笹紋の歴然した家柄ですから血縁はしないでしょう。
その為にはと成ると、上記した様に「政治と権力」に関わる必要があります。或いは桜井氏から情報収集を図った。その為に松平氏系の桜井氏に近づき血縁をして縁戚として使命を果たそうとしたと観ます。本家か分家に養子を桜井氏から入れたが男系継承が叶わず養子方の家紋の根笹紋と成ったと観ます。
仁木氏も同じ推測が成り立ちます。信濃檜杉の材木です。仁木氏はこの利権を持っていた可能性が家柄から考えられます。桜井氏と仁木氏とは駿府において血縁関係があります。
当時薩摩藩はガラス細工や工業製品等の藩独自の生産工場を作ろうとしていましたので材木が必要であった筈です。又、江戸幕府とも対立が始まった頃で情報収集も兼ねて島津藩は動いたと考えるのが普通ではないでしょうか。当時は情報収集は系列の商人から得る事が多く又その目的でも武家商人の役目を担っていました。その役目も太吉さんが担っていたと考えます。
島津家御用達「こけら屋」と静岡と根笹紋と商人となれば繋がるキーワードは材木と徳川氏の膝元であれば情報収集と成りますね。
ルーツはこの様な仮定をつくりそれを一つ一つ証明して潰して行くのですが、それには「情報」と氏家制度の「雑学」(歴史史実)を獲得することから始まります。
以上、青木氏サイトの知る範囲でお答えをしましたが、何か今回のお答えでご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。
お返事ありがとうございます。
福管理者さんの説得力のあるお答えに関心するばかりです。
現在は、青木氏研究は膨大な資料なので福管理者様のお答えと照らしながら、家紋の掟、藤原氏秀郷流永嶋氏から読ませて頂いてます。
また、5点ほど疑問が出てしまいまして、直接、ご先祖と関連してくるのかという所なんですが。
1.明治前60年くらいの文政の頃から「ナガシマ」の姓名を持っていたので武士であった事を示すとのこと でしたが、武士であってもこけら屋を営んだりすることがあるのでしょうか。
2.『江戸期までは肝付氏系長嶋氏は島津氏薩摩藩の家臣で有って明治には失職します』とのお答えがあ りましたが、肝付氏系長嶋氏は、どのような家格にあったのでしょうか。
3.薩摩から愛知に来たご先祖の長嶌太吉の15〜20歳前半のあたりに、薩摩藩の誰かが主導となって 血判のもと同士となり成し遂げようとしていた出来事があったのでしょうか?どうも、それに太吉さんは 関係しているようなんですが。
4.肝付氏、肝付系長嶋氏と備中高松城城主、岡山藩、高松藩と男女問わず関係している人物が存在す るしますか。
5. 『根笹紋は愛知尾張三河一帯の家紋群ですので、現在地に定住された時に家紋掟により変紋を余儀 なくされた可能性があります。』とのことですが、地域の有力者との関係で根笹に変えざる終えなかっ たということでしょうか。また、薩摩にいたときの紋を出すとまずいこともあったのでしょうか。
突拍子もない質問もありますが、よろしくお願いします。
長嶋さん 今日は。
ご返事お読み頂いたようですね。
さて、では早速ですが、今度のお尋ねにお答えします。
そもそも、九州の長嶋さんに関しては、お答えする資料が無いのです。
実は私の資料ではなく、”九州には遺されていない”という事が一つと、当然にもう一つはこれも研究されていないと云う事なのです。
この2つの事はある理由があって遺されていないのです。
端的にお答えすると江戸時代の薩摩藩と幕府の関係からなのです。
ご承知と思いますかが、徳川幕府は江戸初期から薩摩藩に対して極めて警戒していたのです。その為に薩摩には多くの隠密を送っていました。
薩摩藩としては何か弱みを握られないようにする為に色々な工夫をして守ろうとしました。
例えば、家計図は弱みを握られた場合芋蔓式に関係者を割り出されてしまいます。拠って必要以上に遺さないようにしたのです。
極端な例として薩摩弁には主語を出来るだけ無くして話す事や人称を逆にして話す事や言葉を判らない様に別の言葉に変えて話す事等を徹底して講じたのです。
特に、長嶋氏は肝付氏の血縁族で島津氏からも血縁を結んでいますから余計に警戒をしたのです。
大まかなところは遺されていますが、「出自」とするところは見つからないのです。
そこで判る範囲でお答えします。
先ず、家紋ですが、この肝付氏の永嶋氏、長嶋氏は家紋は主に「三雁金」紋です。通名は断定は出来ないですが「兼・」と「種・」です。
大まかに次ぎの三つに分けられます。
1 出自明確 本宗家筋 17氏とその支流
2 出自不明 支庶流筋 5氏とその支流
3 出自不明 同族明確筋 12氏とその支流
今回お尋ねの永嶋氏、長嶋氏又は長島氏に付いては次ぎの傾向を持っています。
1は永嶋氏、2は長嶋氏、3は長島氏として分類が概略出来ます。
1の永嶋氏は大蔵氏系列に見られます。通名は主に「種・」
2の長嶋氏は両方に見られます。「通名]は主に「兼・]
3の長島氏は肝付氏系列に見られます。「兼・」か無し
2の支流には「丸に桔梗紋」も観られる。
お尋ねの堂崎城の件は3の分類に入ります。
これは一族一門の家筋を明確にしていた仕来りであったと観られます。
関東の藤原秀郷流永嶋氏では永嶋と長嶋を仕来りとして採用しています。長島氏は未勘氏か第3氏です。関東結城の秀郷流永嶋氏の総宗本家は綜紋「下がり藤]紋で34氏とその家紋類があります。(家紋はレポート参照)
九州の永嶋氏は元はこの34文様の家紋群のどれかに成りますが不明です。
「三雁金]紋は信濃足利氏の元祖の陸奥花房氏の家紋です。
元寇の役で現地で血縁して後、男系継承が叶わず養子先(足利氏系列)の家紋が引き継がれた事に成ります。
御家のご家紋の根笹紋には辿り付けません。
根笹紋は愛知尾張三河一帯の家紋群ですので、現在地に定住された時に家紋掟により変紋を余儀なくされた可能性があります。大元は研究が届いていない為に不明ですが江戸期前後の元は「三雁金」紋であった可能性がありますが、現在では特定は出来ません。
以上ですが、何か有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
早速のお返事ありがとうございます。
肝付系の長嶋氏とは、驚きです。大蔵氏系肝付氏と藤原秀郷流永嶋氏に付いてはレポートをゆっくり読み楽しませていただきます。
自分なりに少し気になっている点が1つありまして、鎌倉時代から鹿児島県にある長島を支配し、堂崎城を居城としていた天草八氏の一に数えられていた長島氏のことです。
長島氏は大蔵氏の一族であったこと、室町時代末期になると肥後人吉の相良氏が長島に勢力を伸ばし始め、天文23年(1554年)7月、圧力に耐えかねた城主長島鎮真は当城を放棄、薩州島津家を頼って出水に逃れたというところです。この長島氏どういったルーツを辿り、どんな家紋だったのでしょうか。
情報をお持ちでしたら、教えていただけますか。
志賀さん 今日は。お久しぶりですね。
如何お過ごしですか。
お便り頂きましてありがとう御座います。
お便りを実はお待ちしていました。
最終のお便りの時に次ぎのお答えがあった時にお答えをしようと準備していたものが有りました。
恐らくは、志賀さんの調査が伊達藩にたどり着くのではと考えていました。
前回のお答えは藤原秀郷流文行系進藤氏であろうと致しました。
進藤氏にはこの氏は秀郷一門の中で「第2の宗家」の青木氏の指揮の下にその調整役を演じていた氏ですので、各同族との血縁族を作り、また土地の豪族との血縁も行って関東一円の藤原一門のバランスを保っていたのです。
その為に進藤氏の宗家は各氏に血縁の繋がりを持っていたのですが、その意味で進藤氏系列も多岐に及んでいるのです。
その系譜の中に、今回お知らせ頂いた進藤氏宗家の記録があり、伊達家から嫁取りの事も記録があるのです。書き方は違いますがほぼ進藤氏からの伊達家との繋がりが書かれています。
そこでお答えは、100%藤原秀郷流文行系進藤氏のその宗家の末裔と成ります。
準備していた通りのお便りが届きました。
進藤氏の系譜
秀郷−千常−脩行−行景−脩種−脩俊−好治−治卿−秀世−脩久−実理−・広之−・景広−脩忠−常嗣−実信−晴季−・晴秀−秀輔−為興−晴泰−季章−重章−・泰脩
12代目の広之がここで伊達家との繋がりを持ちます。伊達成宗の一族の重臣原田次郎兵衛種則の娘娶る。
13代目のその子の景広は伊達家の寵臣と成る。側役的な表現を添書に観られる。
19代目の晴秀は志賀氏を名乗る。志賀縫殿を名乗る。伊達家臣(志賀)原田左馬助娘婿と成り志賀氏を継いで発祥させる。
その子供は志賀右衛門平隆でお便りの人物です。原田氏と志賀氏が縁戚関係にある。
25代目泰脩は江府伊達黄門侍郎政宗の「千石家臣」と成る。その子孫代々下腸食録とある。
13代目から伊達家に関り19代目で初代の進藤氏から志賀氏を名乗り、以後25代目には政宗に寵愛されるお便りのような志賀氏の功績が多く書かれています。
進藤氏は志賀氏を跡目を入れているので発祥させた末裔として12、13、19、20、25代に付いて添書に関係を詳しく記述されています。
進藤氏は現存しますので個人情報として詳細は記載できませんが、間違いなく進藤氏です。
進藤氏側がこれだけ事を書残すのは異例に近い事です。
また色々お調べになった時にはお便り下さい。お待ちしています。
福管理人 様
大変ご無沙汰しております。あれから2年も経ちますが、その節は色々とご丁寧にお調べ下さりありがとうございました。大変感謝しております。
さて、今回は愛媛県宇和島市にある伊達博物館で我が志賀家の展示がされており、そのホームページに書かれていることから再びご先祖のことをお教え頂けないかと思い、投稿いたしました。
前回、ルーツが「藤原氏北家秀郷一門文行系進藤氏の末裔」ということをお教えいただきましたが、今回の情報によりそのことがより明確になったのか、また新しい発見があるのかを知りたいと思いました。
またまたご面倒をおかけいたしますが何卒お時間のある時にご教示の程よろしくお願い申し上げます。
以下、そのホームページからの抜粋です。(参考URL:http://datehaku.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html#more)
《宇和島伊達家初代伊達秀宗は、仙台伊達政宗の長男であるが仙台伊達家を継がず、宇和島藩主となった。元和元年(1615)、秀宗が宇和島に初入国した際に、秀宗につき従った侍たちは「五十七騎」と呼ばれているが、その中でも政宗が派遣させた「御家老役」として、重きをなしたのが志賀右(う)衛門(えもん)為(ため)貞(さだ)である(略系図参照)。
志賀家は元来、伊達家に仕える以前は、佐竹家に仕えた家であった。仙台伊達家に仕えていた右衛門は、宇和島において3年のみの勤務ということで入国したのであったが、宇和島藩から1500石の禄を受けることとなり、仙台に残っていた息子の平四郎は、仙台藩において1500石の禄を受けることになった。右衛門の甥にあたる志賀喜兵衛為(ため)清(きよ)は仙台にいたが、宇和島伊達家に仕えることになり、元和9年(1623)200石の知行となった。
以後、志賀家には加増が度々行われ、江戸末期の嘉永4年(1851)に記録されている500石の知行は、10万石の宇和島藩においては高禄であり、藩士の中では6番目に高い禄高となっている。
志賀家は代々、「九郎(くろ)兵衛(べえ)」を名乗る者が多く、目付、御使番、留守居役、御番頭、藩主の婚礼の御用掛、仙台藩への使者など藩の要職を務めており、役目を果たした褒美として、藩主からしばしば衣服等の拝領品を受けたという記録が宇和島伊達家には残っている。
また、志賀家と宇和島伊達家は、4代藩主村年の生母の甥が志賀家へ養子として入ったり、6代藩主村(むら)壽(なが)、8代藩主宗城(むねなり)の娘たちが嫁したりと縁が深く、藩主が志賀家を訪問することも度々あった。8代宗城の日記(公益財団法人宇和島伊達文化保存会所蔵『御手留(おてどめ)日記』)には、江戸から宇和島へ戻ってきた宗城のもとへ志賀九郎兵衛がマナガツオを持ってきたといったことなどが記載されており、藩主の側近くに仕えていたことがうかがえる。》
愛知の長嶋さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。
さて、長嶋氏又は永嶋氏は青木氏と大変関りのある氏で室町末期まで藤原秀郷流一門の主要5氏として末裔を大いに遺して来ました。元は親族です。これらの事は研究室の永嶋氏のレポートに詳しく記述していますのでお読みください。
そこで、提供頂きました情報から次ぎの事が云えると思います。
情報では、昔九州の薩摩地方の長嶋さんであって、祖父の祖母から明治初期の事と見られますが、愛知に移動したと推測します。薩摩地方で居た時は「こけら屋」を営んでいたとされていますが、今で云う建築業ですね。昔、新築改築した時に屋根や周囲の塵や埃や残材などをきれいにする職業で装飾や新築祝いなどの準備一切を手掛けていた様です。
さて、そのお家が明治前60年くらいの文政の頃から「ナガシマ」の姓名を持っていたと成っていますので、武士であった事を示しています。(江戸時代前は農工商は姓を持っていませんでしたので)
明治初期に長嶋さんに変えたと有ります。姓を変える事が出来るのは庶民の苗字を持ったのは明治3年から8年の苗字令と督促令の間で可能でした。一致していますので考証は江戸前は武士であったとして、ではそもそも長嶋氏永嶋氏は関東から三重長島までの間に分布する氏で「関東屋形」と呼ばれて鎌倉期から室町期に最大勢力を誇った氏です。
その永嶋氏が何故九州かと云いますと、鎌倉末期に元寇の役が起こります。九州に蒙古が攻めてきたのですが、この時、藤原一門北家の秀郷一族一門は九州に出陣します。
この時、九州の大豪族の大蔵氏とその末裔の肝付氏が勢力を張っていました。肝付氏は南九州を大蔵氏は全体の統治と北九州域を担当する九州を2分する大豪族が存在していました。
この一族ルーツは大化期に帰化した後漢の民で阿多倍王らに率いられた200万人の職能集団が帰化してきましたがその宗家一族です。後に天皇家と血縁します。そして発祥したのが賜姓坂上氏と賜姓大蔵氏と内蔵氏で、その大蔵氏から南九州を任された一族が後に朝廷の5大官僚の一族伴氏と血縁して肝付氏を発祥させたのです。詳しくは研究室にレポートしていますのでお読みください。
この2氏と出陣した永嶋氏が当地で血縁をして大蔵氏系永嶋氏と肝付氏系永嶋氏が生まれます。
肝付氏は最終室町期末に島津氏と戦い肝付氏は負けます。しかし、肝付氏は旧領の薩摩大隈隼人を貰い受けて島津氏の家臣となり代々家老を務めます。
もし、お家が永嶋氏か長嶋氏であればこの2つの内のどちらかの「ナガシマさん」の末裔と成ります。明治期に長嶋氏に変更したのはこの元の由緒ある氏名に戻したと観られます。
「長嶌」氏は数度の激しい有名な戦いの時に島津氏から追求を逃れる為に一時隠して変えたのではないでしょうか。それを明治初期に戻したと観られます。
江戸期までは肝付氏系長嶋氏は島津氏薩摩藩の家臣で有って明治には失職しますが、この時に「こけら屋」の建築業(今で云う内装業)を営んで明治前後から島津氏に出入りしていた事ではないでしょうか。
どちらかと云うと大蔵氏系永嶋氏よりは肝付氏系長嶋氏であると考えます。
肝付氏の大昔のお話一つ 713年に朝廷の云う事を聞かない肝付氏は朝廷軍と大隈で戦い勝って1018年まで自治を続けてきたすごい氏です。
永嶋氏も藤原北家筋秀郷一門で「関東屋形」と呼ばれたくらいの室町期の関東の最大豪族です。これ等の事はレポートとしていますのでお読みください。
お家は、阿多倍一門の大蔵氏(日本一の最大豪族)から出た肝付氏(一時中部九州から南九州に勢力基盤 島津氏に室町期中期から勢力拡大で押される)と、日本一の武蔵を拠点として藤原北家秀郷一門の永嶋氏との何れも大化期からの古い血筋を持つ家柄であります。
その家紋ですか゛、根笹紋は桜井氏と仁木氏が使用した家紋です。
桜井氏は松平の処流で明治期に三河桜井の地名から桜井氏を名乗る。
仁木氏は信濃足利氏の末裔が三河に住み着き地名から仁木氏を名乗る。
江戸期の新しい家紋です。どのような関係が有ったかは判りません。
長い歴史の中で御家の九州の長嶋氏は桜井氏か仁木氏の何れから養子を迎えたが男系嫡子に叶わず家紋掟の仕来りにより男系先の養子先の家紋に変紋した事に成ったと観られます。
大蔵氏系肝付氏と藤原秀郷流永嶋氏に付いてはレポートをお読みください。膨大な資料ですのでゆっくりと楽しんでお読み頂き判らないところなど有りましたらご質問ください。ルーツのことや先祖の生き様等が詳しく判りますよ。
提供されました情報から以上の事が読み取れます。更に詳しい事は情報をお探しになりお尋ねいただければお答えいたします。
では、お待ちしています。
はじめまして。
自分が、先祖のことに興味を持ったのは、父親からうちの先祖は、九州の出で、島津家(藩)の御用達の仕事をしていたと言うことを子供の時に聴いたときでした。
それから、数十年たち、流れで先祖供養をしてもらうことになり、その祈祷師の方が、因縁を払う前に、侍の先祖が見えるね。その人は鷹狩りが好きな方だった。お払いを始めるとき、『えっ、長嶋家。烏帽子(達烏帽子)を被った人見える』と言ってました。その後、見えてきた色々な話を聴き、色々調べてみようと思いました。
<先祖供養された時に見えたもの>
・中国か韓国の格好の人が山道を登っている光景(弁慶の様な格好にも見えた)
・立烏帽子を被った公家の先祖
・牛若丸が弁慶と戦うときに被ってしたような布の付いた帽子(虫垂衣を付けた市女笠)を被った女性
・僧兵
・白い馬に乗った鷹狩りが好きな髭を生やした先祖
・代継問題により、不幸になった豪勢な簪をたくさんつけた側室、子(因縁の原因)
・城壁の前で頭を下げる家老風の上下姿の侍
・山並を望む城(愛知県や静岡県の風景ではない)
・自分にそっくりの丈の長い袴をはいて本を読み廊下を歩く侍(変わった丁髷)
<自分が現在調べたもの>
家紋:丸に根笹(丸に若根笹)本家も同じ。
現在の本家となる愛知県新城市にきたと思われる先祖:長嶌太吉。
この先祖の妻が文化11年生まれであることから、太吉は文化から文政生まれ?生年月日不詳。
祖父の祖母が、養子を迎える時、長嶌から長嶋となったこと。
この時の養子は、杉浦幾次郎の次男源吉であったこと。
本家は、こけら屋という仕事をしていたこと。
現実離れした情報と貧困な情報しかありませんが、分かる範囲で教えていただけますか。
早速、ご回答頂きありがとうございました。
青木りょうさん 今日は。お久しぶりですね。
確か2005年頃にお便り頂きました。ご機嫌いかがですか。
あれからサイトも随分とレポートが増え多くの青木さんが集うサイトに成りました。
これからもよろしくお願いします。
以前は次の様な回答をしたと思いますが、間違いありませんか。
以前のご質問の回答
>1つ目の土地ですが
>秀郷はこの身内の5氏の青木氏に武蔵国の入間郡を中心に配置しました。この内の支流4氏はこの土地より周囲に更に配置したとされています。上記した比企郡は郡堺ですので、支流の青木氏であります。
>次に家紋ですが、
>この家紋を保持している支流4氏中の一つに当ります。
>116家中に1氏あります。直流は主に「揚羽蝶紋」類です。
>藤原秀郷の兼光流の支流 青木正胤(1150-1200年頃発祥で、江戸時代の名を記する)なる者がこの末裔にあたります。
>この一族が「丸に梅鉢紋」を使用しています。
>秀郷より4代目の兼光流から直流と支流の青木氏が出ています。
>この家紋は全国の大豪族の名家を表す「家紋200選」のうちの一つです。鎌倉期には藤原氏の一族として働き、室町時代は戦国時代であつたので不詳ですが、江戸時代は、御家人で、代々御台所人で、後に綱吉期には組頭になります。
>3つの情報からはこの範囲のル-ツが判明します。これが正しいとして、貴方のル-ツはこの末裔に当るものと思います。
>もっと宗派などの詳しい情報があれば、更に確定します。
>何か質問があれば返信してください。
さて、今回は宗派のご確認がとれて真言宗との事ですが、先ずはお答えから致しましすと、秀郷流青木氏に間違いありません。
恐らくは、元は古代密教の浄土宗であったと考えます。
しかし、鎌倉期以降秀郷一門は平安期に失職しての勢力が維持できず苦労した時期があります。
その後鎌倉幕府などに仕官が叶い再び勢力を持ち返します。
後に、徳川氏に仕え将軍綱吉になった時にその家臣であったことから延宝8年(1681)に御家人に加えられます。後に役を得て御膳所の御台所人と成り代々務めます。
参考 直系の系譜 梅鉢紋の本家
正胤−正則−正理−正卿−正嘉−正時・・・
正卿から宝暦8年(1759) 御鷹匠を務め寛政6年(1795)まで続く。
一つの分家には学者が多くこれを下に幕府発行の書物を数多く手がけた人物がいます。又、菅原氏の血筋を証明していますね。中でも青木敦書が有名であります。
お家はこの何れかの枝葉から出自している事に成ります。
この間、古代密教の浄土宗を氏の力では全てを維持できなくなり浄土真宗に宗派変えをしました。
室町期に入り、密教形式が廃り宗教戦争なるものが起こり、各宗派は勢力拡大で各地に布教を進めます。この時、真言宗も主に関西域を主な布教範囲としていましたが、関東にも進出して甲斐の国や下野、上野、武蔵の一部に勢力基盤を築きます。
お家はこの時に真言宗に宗派変えをしたものと考えます。
ただ、この真言宗はもとは3大密教の一つでしたので秀郷一門中でも青木一門としては関東では浄土宗の分流の真宗かこの元密教の真言宗の何れかに入信することに成ります。
依ってお家は室町期に真言宗に入信した事に成ります。
藤原氏も例外なく室町期の下克上で下からの突き上げを受けて密教浄土宗は殆どが焼き討ちにあい衰退しましたので止む無く真宗などに変える等の経緯を辿っています。
後に、家康は浄土宗の奨励令を発して密教方式を解き復興を期しますがなかなか捗りませんでした。
また、依って豪族や大名の中でも多くは「第2の宗派」として真言宗を選びました。従って、高野山さんには多くの大名や豪族の墓が多いのです。又、藤原秀郷一門の青木氏としては賜姓青木氏とも母方で血縁していると云う背景もあり真言宗との関わりは否定できないのです。
特に、それは関西系の家紋の梅鉢紋の一族である事が起因しています。
梅鉢紋は関西近江付近の菅原一族の家紋ですが、室町期には美濃の豪族が多く使ったのですが、中でも菅公を崇拝した美濃の斉藤家も使いました。この支流前田家や堀家などが使っています。
何処でどの氏と血縁したかは判りませんが、関西に赴任中にこれ等の氏と血縁した事は間違いは無くこの流れを汲んだ藤原秀郷一門です。その後領国に戻った青木さんです。
平安期に関西に赴任しそこで養子縁組の血縁をして家紋掟により「下がり藤紋」から「梅鉢紋」系に成り変紋したものです。よって、秀郷一門では少ないのですが梅鉢紋の青木さんとしては真言宗とする事には矛盾はありません。
例えば、京都付近に赴任していた一門の中でこれも少ないのですが、天台宗密教に宗派変えしている青木氏も有ります。この真宗と真言宗と天台宗以外は氏家制度の中では有り得ないのです。但し明治期に成って宗派変えしたこともありますが、この室町期まではこの4つの宗派の中に限られています。
前回のお答え通りにお家のルーツは明確ですので検証は可能ですし、お家のルーツの本家も現存していますので、問題はありません。
むしろ、どちらかと云うと梅鉢紋とすると真言宗の方が自然であると考えます。
梅鉢紋の方からのお便りも沢山頂いていますよ。
一度検索で「梅鉢紋」でお読みください。
以上ですが、ご質問やご不明点 青木氏に関わる面白いお話などありましたらお便りください
ではお待ちしています。
以前、ご質問したものです。
宗派が間違ってました。
父が他界してわかりました。
出身は埼玉県比企郡
宗派は真言宗智山派
家紋は丸に梅鉢です
ルーツは秀郷流ですか?
兵庫の青木さん 今日は。
お便りありがとうございます。
さて、頂きました青木のデータは承知していますが、江戸期前と明治期以降では社会体制が異なっています。依って一概にはルーツ発祥地としてのデータとしては使う事は難しい事ですね。
江戸期前は氏家制度の社会でした。氏が集団化して住み互いに氏の宗家を中心にして助け合う社会でした。当然、移動禁止の社会です。従ってルーツはある特別な歴史的な縁ある地域に限定されてきます。
明治期は移動は自由の契約社会ですからそこに青木氏が多いからルーツの場所とは云い難いものがあります。明治から既に150年も経っていますので移動先で子孫が拡大している可能性があります。
この青木氏は先ず皇族賜姓族は奈良期から平安期までは少なくとも次ぎの国の「守護王」でしたので、伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の国に限定されます。村を形成する事を許可された氏です。
この5つの国以外には原則分布していません。原則外として伊豆と土佐と米子と摂津、神奈川、栃木以外には分布していません。
この原則外の地域は、この5家5流の青木氏が本領地とは別領国で子孫を遺した伊豆、摂津、
織田信長に攻められた甲斐青木氏の逃亡先で子孫を遺した神奈川、栃木、土佐
足利氏系列で同族争いで逃亡して定住した地域で子孫を遺した米子、八頭、出雲
この3つの青木一族が近隣に伸びて子孫を遺した地域の常陸、上野、越前
嵯峨期の詔勅により名乗った皇族出身者の末孫が分布する地域 甲斐、武蔵鉢形、日向、武蔵丹治、
嵯峨期の詔勅で名乗った甲斐の皇族青木氏
平安期に皇族の者が罪を得て配流先で子孫を遺したものが嵯峨期の詔勅で名乗ったものとです。
以上、皇族賜姓青木氏の奈良期からの分布地域と皇族青木氏の分布地域です。
この二つは他氏と違い皇族と云う身分家柄で氏家制度の中でも特別に血縁や定住地が制約されていたので分布が限定されているのです。この5つの地域は天領地でそこを護る王であったのです。
この5つの青木氏は天皇家直系子孫同族で源氏とも同族です。第6位皇子出身族氏です。天皇から直接青木と云う氏を与えられた天皇の第6番目の皇子です。
天智、天武、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇の第6位皇子です。
この皇族賜姓青木氏は天皇を直接護る身内の近衛親衛隊です。
藤原秀郷流青木氏では武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径とする円状に分布する藤原氏北家秀郷一門の主要5氏の一つで、一門の「第2の宗家」と呼ばれる嵯峨期の詔勅を直接朝廷に申請して特別に名乗る事を許された青木氏で、皇族賜姓青木氏とは母方で繋がる事から青木氏を名乗る事が許されたものです。この青木氏は秀郷第3子の千国が始祖と成ります。日本最大の氏で貴族公家の藤原氏を護衛する武士団です。全国24地方に赴任してその土地に子孫を遺してきました。
全国に特定地域に分布しています。
未勘氏、第3氏の青木氏は明治と室町末期に村の長の氏を絆で名乗った無血縁の氏で、これ等の地域に分布しています。
お便りの前半は青木氏とは無関係の密度問題です。
何れの青木氏も密度に依って氏が分布したものではなく身分家柄とそれにまつわる地理的な発祥源です。
昔は氏が集団となって村を形成する事は朝廷の許可なしでは勝手に出来なかったのです。
2つの青木氏を始めとする特定の数少ない氏にしか許可が下りませんでした。
(地名地形データーべースにある青木村をご覧ください。)
皇族賜姓青木氏5家5流は日本で最初の正式な「氏の発祥源」で、「侍の発祥源」で、「武家の発祥源」です。
そこで、後半の2つのお尋ねですが、
先ず前半の定住地の理由ですが、上記した事によります。
ただ、お家の摂津青木氏のその移動理由は一つは同族の川島皇子から発した近江佐々木氏系とその佐々木氏系青木氏との同族争いで平安期初期に天皇家の許可を得て滋賀に一族全てが移動したのです。その滋賀を赴任地の命を受けて平安期中期まで定住します。しかし、宇多天皇が第6位皇子を滋賀の佐々木氏を賜姓します。この為に、滋賀にいた近江青木氏は職を解かれて近江に戻りますが、当地域では定住は困難なために近江の南の天領地の摂津に移動と赴任を命じられます。
これが摂津青木氏です。
他氏と異なり、皇族である事より身分家柄の釣合で血縁をする氏家制度ですので、またできるだけ純潔を保つ原則からその相手となる氏が少なく平安中期から出た同族の賜姓源氏か藤原氏以外には血縁族がなかったのです。従って、摂津は嵯峨期から発祥した同族の賜姓源氏の清和源氏の宗家頼光系源氏との血縁しかなく、この摂津がこの賜姓源氏と賜姓青木氏が護る天領地です。その2つ賜姓族の根拠地であり、そこを護る賜姓青木氏と平安中期からは賜姓源氏の清和源氏が護ったのです。
摂津は天領地ですが、摂津青木氏は当然に頼光の一族とも同族血縁をしています。
5家5流の青木氏は全てこの摂津源氏の頼光系の清和源氏と同族血縁をしています。
この同族血縁が崩れたのは鎌倉幕府からです。
”青木一族がどうやってこれらの在来勢力に匹敵する勢力に成長”
このご質問は上記の通り逆なのです。
元からその土地の守護王であったのです。
在来勢力が摂津青木氏とその親族の清和源氏頼光系一族なのですよ。
書かれている姓氏はその家臣の中から立身した者が室町期に自分の姓氏をつくり名乗ったのです。
記入されている姓氏は恐らくは室町末期か江戸初期の立身出世の発祥氏です。
鎌倉期にはそれ程氏が多くなかったのです。平安末期までは氏の発祥は許可制です。
許可された氏はそのルーツが明確ですし全国には80−200程度しかなかったのです。
許可が取れて自由に氏名を名乗れるのは室町中期頃の混乱期下克上からです。
鎌倉期では分家頼信系の源頼朝により「旧領安堵策」「平家没官僚」策でこの5家5流の青木氏と源氏は平家などに奪われた土地がもどされたのです。
特に皇族賜姓青木氏は「不入不倫の件」が永代に保証されていて周囲の豪族から余り襲われ奪われる事はなかったのです。平家と信長を除いては。
摂津も一時その権力を平家に奪われますが、土地の利権は保持されました。
”武力闘争か新田開発か何か は判らないのですが・・・兵庫県氷上郡市島町で勢力を伸ばしてきたのではないかと”
この件は既に上でお答えをしています通りです。
”青木姓は近畿地方・・・特に北近畿・兵庫県内にもあまり 存在していないのですが”
摂津でどの程度の量で有無を表現されているかは判りませんが、
上記した皇族賜姓族のしがらみで他氏との歴史的な由来が異なりますので比較は難しいと思いますが。
しかし、この件ですが、そんな事はありません。伊勢神宮の伊勢の守護王 筆者伊勢青木氏で伊勢と共にその青木氏の総宗本家ですが、伊勢には員弁、桑田、松阪、四日市、名張に大きく分布しています。
近江や滋賀、米子、出雲鳥取、越前福井よりにも大集団の青木氏が村を形成して分布していますよ。
関東に行けば青木さんと言えば皆”はい”と言いますよ
ルーツ掲示板にも多くのお便りが寄せられていますので一度検索でお読みください。
皇族賜姓族に関してと江戸期前の社会体制の氏家制度に関して、お便りではご理解されていない様子ですので、研究室の関連レポートを先ずお読みください。詳しくレポートしています。
膨大な資料ですがゆっくりとお読みください。恐らく歴史マニアになると思いますよ。
これからも研究レポートを予定しています。
近々、青木氏と神明社(氏融合)の論文を投稿します。
お家のルーツは江戸期前にあるとすると摂津青木氏となります。
宗派は江戸期の「ご本家」の宗派を確認ください。分家では無理ですので。
浄土宗菩提寺は摂津にある筈です。
清和源氏の氏神社の付近にある筈では。
摂津青木さん ご不明な点やご質問などありましたらお尋ねください。
何か摂津で変わったことがありましたらお知らせください。
早速のご回答どうもありがとうございます
すいません ちょっと情報不足でした うちの青木家は江戸中期〜後期には確実に兵庫県氷上郡
市島町にいました 過去帳を見たこともあります 宗派は曹洞宗ですが、これはたまたま近隣に
曹洞宗の寺院があるからではないかと思います(兵庫県氷上郡市島町中竹田の石像寺 655年開基
慶安元年(1648)に曹洞宗として再興)
それでですね・・・
青木という名字の分布地図データ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~myouji/zukan/frame/f000040.htm
青木姓の密度
http://www5a.biglobe.ne.jp/~myouji/chizu/000040b5.gif
↑
このサイトに色々な苗字の分布状況が載っていまして、このデータはおそらく電話帳のデータが
元になっていると思われます それで、都市部に人口が集中している現在では、特に「密度」の
ほうが問題になると思いますが、現在、青木姓は近畿地方・・・特に北近畿・兵庫県内にもあまり
存在していないのですが、兵庫県氷上郡市島町のみ突出して青木姓の密度が高くなっています
同サイトに青木姓高密度21市町村が載っていますが、兵庫県氷上郡市島町は第19位になって
いまして、青木姓高密度地域になっております 北近畿の他地方と比べても世帯数も多いようです
ですので、いつの頃からか、うちの青木一族は、なんらかの事由・・・武力闘争か新田開発か何か
は判らないのですが・・・兵庫県氷上郡市島町で勢力を伸ばしてきたのではないかと思っているの
ですが・・・
この地域は荻野さんや余田さんや芦田さんなどの鎌倉〜戦国以来の在来勢力がいる地域でして、
市島町という狭い地域ながら、青木一族がどうやってこれらの在来勢力に匹敵する勢力に成長した
のか興味深いのですが・・・・力不足でして私にはこれらを調べる手がかりがありません(笑)
兵庫の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトです。これからもよろしくお願いします。
ルーツ掲示板やルーツ研究室など左メニューには青木氏に関する資料が沢山用意されていますので、お読みください。家紋掲示板や研究室の「青木氏と血縁族(家紋)]の木瓜紋のところにもレポートされています。地名地形データーにも兵庫摂津の青木氏のことも書いています。一度お読みください。
さて、お尋ねですが、ご提供頂きましたデータは兵庫丹波と家紋の横木瓜紋の二つですが、この二つでは確定は困難です。しかし、この2つから検証しますと、次ぎのようになります。
青木氏は大きく分けると4つになります。
血縁性の有る青木氏 2氏 皇族賜姓青木氏の5家5流29氏と藤原秀郷流青木氏116氏
血縁性の無い青木氏 2氏 室町末期、江戸初期発祥の未勘氏と明治初期の第3氏
この前の2氏は藤原氏北家の血縁で繋がっています。
皇族賜姓族は奈良期の大化期天智天皇より5代の天皇の第6位皇子が臣下した氏です。
伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の土地に守護王として定住し子孫を遺しました。
この皇族賜姓族と藤原氏の母方で血縁をしているのが藤原秀郷流青木氏です。
全国24の土地に分布しています。
それに皇族の者が下族する際に名乗る氏として青木氏が決められていてこの皇族青木があります。
そして、これ等の青木氏と生活圏を共にした「絆」で結びついてる青木氏があります。家臣や縁者などです。これには「家臣、遠縁の縁者」のグループと「青木村の農民」の二つのグループに分かれます。
「家臣、遠縁の縁者」は室町末期と江戸初期に立身出世により主家の氏名を乗りました。
「青木村の農民」は明治3年と8年の苗字令により全ての名字の持たない庶民が名乗った絆の青木氏です。
これら4氏は地理的な特徴を持っています。
そこで、お家が江戸時代半ば頃以前からはこの兵庫に住んでいたとします。
そうすると、近江の皇族賜姓青木氏と云う事に成ります。近江青木氏系摂津青木氏です。
近江の皇族賜姓青木氏は一度滋賀にある理由があって一族が移動します。後に再び一族が近江に戻ります。そこから、攝津に移動します。これ等は有る理由があって移動しているのですがお家はこの青木氏であると観られます。
藤原秀郷流青木氏は理由があって摂津には定住していません。昔は氏は争いを避けるために村を形成して住み分けていました。
丹波となりますと何時から丹波に住んでいるかによります。
丹波は滋賀の左隣です。
滋賀には別の青木氏が定住しています。元伊勢上山郷の農民であった者が立身出世して武士となり上山氏を名乗りますが、滋賀に皇族賜姓青木氏が移動した時に一部残った残留の絶えてしまった青木氏の名籍を奪い上山氏がこの青木氏を名乗り後にこの滋賀に大きく子孫を拡大しました。これが滋賀青木氏です。
この青木氏が明治期に丹波に移動したことも考えられます。(江戸期前は移動禁止社会)
摂津青木氏と滋賀青木氏には違う点があります。
それは、家紋と宗派です。
摂津青木氏は浄土宗です。家紋は限定されて木瓜紋などです。皇族賜姓青木氏は武士であり皇族賜姓族のその身分家柄から浄土宗に限定されています。
滋賀青木氏は他宗で曹洞宗などの当時庶民が入信する宗派で限定されていません。
宗派と時代性と地理がはっきりと判りませんが、家紋からは「摂津青木氏」です。上山氏の青木氏ではないと見られます。
この攝津青木氏はその始祖は天智天皇の第7位皇子「川島皇子」が佐々木氏の賜姓を受けて皇子から臣下します。
この佐々木氏の末裔の一部が天武期に青木氏の賜姓を受けて名乗りました。
兵庫と家紋からはこの様なルーツになります。
お家の本家の江戸時代半ばにこの攝津にいたのか、
ご先祖をお家のご本家の菩提寺はどこにあるのか、
そこの寺にある過去帳があるのか、
その過去帳が何処までの人がかかれているか、
江戸期からの宗派は何か
ご本家の明治維新初期戸籍簿に何が書かれているか、
未勘氏と明治期の第3氏かの判別が出来ていませんので、上記の調査のどれかで答えは出ます。
摂津は摂津源氏 清和源氏頼光系の根拠地でこの頼光系と青木氏は同族です。
摂津と云うのは昔から特別な家柄身分の氏が定住する土地柄でした。現在でも源氏の神社があります。
その意味で近江系青木氏の摂津青木氏は最終この摂津に定住したのです。
余計ですが、下がり藤紋は藤原秀郷一門一族が使う「綜紋」です。藤原秀郷流青木氏116氏の綜紋は下がり藤紋です。代表紋ですので秀郷一門の宗家本家の直系が使う紋で引き継ぐ紋です。
武蔵入間にこの綜紋を引き継ぐ青木さんが現存しています。
直系ではない分家分派分流支流はこの綜紋は使えません。
摂津にはこの一門は定住していません。24地方にこの副紋使用の藤原秀郷流青木氏が存在しています。
下がり藤紋は変紋禁止の掟があり副紋使用です。丸付き紋も禁止紋です。
そもそもこの綜紋である下がり藤紋を使うことが疑問です。
ご親族が使用になるこのことから明治期の第3氏の可能性もあります。
そうすると上の不明点は明治のところでとまります。過去帳はありませんし、江戸期にさかのぼれません。
庶民は明治期まで墓と戸籍を持つ概念がありませんでした。
恐らくは、本来は、「家紋掟」がありますので、横木瓜紋が家紋であり、分家筋がこの家紋を引き継ぐことをしなかったのでは。その代わり下がり藤紋の変紋で明治期に家紋としたことも考えられます。
横木瓜紋は青木氏が横木瓜紋の氏と血縁し、2代続きで養子縁組となり女系と成ったことから前の養子先の男系家紋が青木氏の家紋と成った事を意味しています。
横木瓜紋は青木氏の家紋群の一つですが。
この様に家紋は変わって行くのです。
総宗本家だけはあらゆる手段を使い変わりません。
ただ何れの藤紋もこの家紋掟の規則に一致していません。綜紋ですので。総宗本家が引き継ぐ紋です。
笹竜胆紋と藤紋は明治期まで庶民が使えない禁止紋の一つです。
皇族賜姓青木氏の綜紋は「笹竜胆紋」です。日本で最も古い正式な象徴紋で家紋です。
1365年の歴史があります。
笹竜胆紋から幾つかの家紋の変化を経て横木瓜紋に成った事を意味します。
このことは上記した7つの不明点のどれかを調べられれば判ります。
お判りに成ったときにはお尋ねください。
ご不明な点などがありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
研究室やルーツ掲示板などにも多くの資料や青木さんからのお尋ねやお便りがありますのでお読みください。
兵庫県氷上郡(現・丹波市)市島町中竹田の青木家のルーツについて教えてください
この周辺には青木さんが多くて一時期にそれなりの勢力を持った家だと思うのですが、
ルーツがさっぱりわかりません 家紋はうちの家に限っては横木瓜ですが、近所の
ほとんどの青木さんが藤紋を使っていまして、うちの家も元は藤紋であった可能性が
高いです(一族で上がり藤・下がり藤を色々変形して使っているようです)
このあたりは荻野・芦田・塩見・足立・大槻・余田さんなどの名字が多くて、この人たち
はれっきとした丹波の国人・土豪の子孫ですが、我が青木家はどこの馬の骨かさっぱり
判らず悔しい思いをしております(笑)
よろしくお願いいたします
福管理人様、詳しいご説明ありがとうございます。
どうやら本家も丸に下がり藤紋との事です。
本家については、これ以上知らないのか話してもらえません。(破門されているからか、話したくない感じです)
ただ、母から横浜に親戚(本家?)がいると教えてもらえました。
内緒で会いに行くつもりですので、何か分かりましたらまたご連絡致します。
何度もご返信して頂きありがとうございます。
静岡の青木さん 今日は。
早速ですが、2回目のご返信に書きました様に、ルーツはご本家から辿る事が必要ですが、ご本家が浄土宗とあれば、浄土宗の経緯から、そのご本家が明治前からお家で浄土宗であれば、藤原秀郷流青木氏であったと思われます。
しかし、江戸期では木工職人であっても、藤原秀郷流青木氏と云うことがあります。この藤原秀郷流青木氏は江戸期には「2足の草鞋策」を採用して一門の生計を立てると云う事していて、後にその一族の一部がこれを本職にしたと云う事が特に青木氏に起こっているのです。
農民であれば庄屋、名主なども勤めていたのです。青木氏の特徴です。
誰でもが自由に入信出来ない古代密教の浄土宗の持つ特徴から考えられるのです。
木工職人が江戸期からであれば、この経緯を辿っていると観られます。
「丸に下がり藤紋」から観れば前回のお答えから未勘氏と成りますが、ご本家の浄土宗が何時からですか。江戸期からであれば家紋より宗派の要素を優先して上記の経緯の可能性が高いと考えます。
ご本家も丸に下がり藤紋ですか。もしそうであれば明治以降の青木氏かの判定が難しくなりますね。
他に何か情報がありませんか。一寸した事でも判ります。
藤原秀郷流青木氏で上記した木工職での家紋もあるのです。
この一門かも知れませんので。
過去帳は分家としてはないと云うことでしょうか。ご本家の過去帳がありますか。
明治期から100年程度ですのでご本家としては直接の本家であると思いますが、更にその上のご本家がありますか。ご本家が江戸期からだと藤原一門です。
浄土宗が大きい検証の要素となっています。
何か情報が見つかり、何か判りましたら、お便りお待ちしています。
静岡の青木さん 今日は。
お便りありがとう御座います。
そうですか。元は浄土宗でしたか。つまり、ご本家が浄土宗と言う事ですね。
ご本家との間に何かあった事のようですが、清水市に移り住んだお家が藤原秀郷流青木一族であった事として家紋を薄ら覚えで「下がり藤紋」の綜紋そのものを家紋としたか、又は破門の扱いを受けた事からご本家の家紋を使えない事から止む無く綜紋を使ったと云う事に成ったかの何れかの事情が起こったかですね。
更に、過去帳がご本家の仕打ちで無く成ると言う事が起こったかも知れませんね。
清水市の前は判らないと云う事ですが、青木氏がもっとも多くすんでいる地域の武蔵の領国の埼玉か神奈川横浜付近の可能性が江戸期の歴史的な社会習慣から高いですね。
恐らくは、神奈川横浜地域であろう事が考えられます。
江戸末期から明治にかけて、神奈川横浜から隣の静岡付近にこの青木さんは多く移動しました。
実は、この事は「浄土宗」と云う宗派には大きな特徴があります。
浄土宗は古代密教です。
つまり、この宗派は特定の青木氏や藤原氏等の高位の限られた氏に依って「宗派の運営管理」がされていて、その代わり他の者の入信を拒みました。
当然に、住職は自前の氏の者から出す、寺の建立や運営費は自ら一族一門が出費、墓も一族一門だけを祭祀、等の密教の決まりがあります。
ですから、寺の運営にに出す個々の家の費用は大変な額になります。当然に本家分家支流分派分流に依ってその出費額は異なりますが、浄土宗である事自体大変な事なのです。
その為に、江戸に入って氏家制度の一門の力が弱まり宗派の維持が困難となり廃寺になる寺が多く成り江戸幕府の財政的な負担が莫大と成りました。
そこで、家康はまずこの建て直し策を打ち出しました。
限定した高位氏だけの密教方式を緩め、中級武士以上の者がだれでも入信できるものとしました。
しかし、矢張り寺に布施する維持費は高く全国的に普及入信する事も寺も特定地域から全国的に拡がると云う風には成りませんでした。
この状況は明治まで続きました。維新政府も力を入れて密教方式を止めて誰でもが入信出来る宗派としましたので大正時代までには全国的に普及しました。
現在でも、矢張り、浄土宗は他の宗派に比べて維持費や布施が高いのです。
ですから、浄土宗に入っていること自体が大きな要素に成ります。明治になって社会体制が変わりましたので氏家制度がなくなり浄土宗に入っていること自体が本家筋でなくては無理な状況でした。
現在でもかなり難しいですよ。
お家のご本家との関係が破門等により疎遠になれば当然に浄土宗には入っている事が困難になりますね。
今回のお家の情報に依って、「破門」や「ご本家が浄土宗」の事で、これでよく判りました。
この様な場合は、普通は未勘紋の「丸付き紋」を使用するのが慣例です。
未勘氏紋は、恐らくは一族一門か縁者かであろうが、先祖の確認が取れない場合とか、お家の様な場合とかは丸付き紋を使用する掟です。
お家の様な事が昔の氏家制度の中では茶飯事でしたので、普通は丸付き紋を使わない氏の家紋なのですが、この場合には「未勘氏」として「丸付き紋」を使用するのです。丸付き紋が多いのは明治期の青木氏を含むことでも多く成っているのです。
お家のご本家の家紋を使えないとしたら、向後の事として、この丸付き紋の「丸に下がり藤紋」とする事が妥当であると考えます。
この様な一寸した情報で当時の慣習や史実から検証する事が出来るのです。
お答えする事は青木本サイトの目的ですので、これからもお気遣いなくまた是非お尋ねください。
これからも何か面白い事やご質問やご不明な点が有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
お待ちしております。
大事な事を書き忘れていました。家紋は丸に下がり藤でした。大変失礼致しました。
福管理人様、詳しい内容を頂き誠にありがとうございます。
ルーツの話を祖母に伺った所、元は浄土宗でしたが曽祖父の代で(本家に破門?)清水市付近に移り住み、時宗に改宗したとの事です。詳しくは教えてもらえなかったのですが、清水市に移り住む以前の所在は分からないとの事です。菩提寺に過去帳は無いとの事です。
下がり藤に丸が有るか無いかでこれ程の違いがあるとは思いませんでした。大変失礼致しました。
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