※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
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> 初めまして。私は台湾に渡った青木恵範のひ孫にあたり、二郎とトヨの孫です。
> 以前に「真言宗の青木」を投稿された貴子さんとは親戚にあたると思います。なんだか嬉しくなり投稿させて頂きました。
> 母が二郎の娘ですので、現在は父方の姓なので青木ではありません。
> 昨年、青木恵範がいたという京都天橋立の成相寺に行ってきました。ご住職とお話させて頂きましたが、時代的に混乱していた時期があり、過去帳が残っていないとの事でした。家紋は母に聞けば分かると思うのですが。。
> 新しい情報でなく申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。
志織さん
こんにちは。貴子です。久しぶりにこのサイトを見たところ、今気づきました。そうですね、遠縁ですが、
親戚だと思います。そー、明治期に台湾に渡り激動の時代を生き抜いた青木家の子孫でもあります。
昨年は、びっくりしました。福島は今たいへんなことになっていて。。。お見舞い申し上げます。
でも、福島の桃もなんとか輸出できるようになってきたし、少しずつ回復へ向かっているようですね。
なんだか不思議です。現在私はフィリピンに夫と在住していて9年目を向かえます。
このサイトもおもしろいですよね。どうぞお元気で、またいつの日かお目にかかれるといいですね。
>・代々、男子の名前に重の一字を付けるならわしになっていること
>・昔、「長崎」というところから来て上記住所に居を構えたこと
>・こちらに来た祖先は「長崎屋 重三郎」と名乗っていたこと
>・祖先が自ら土地に「金沢」という名前を付けたこと
>・以前、秀吉に仕えたらしいこと
>私の仮説ですが、長崎は長崎県ではなく、石川県七尾市(能登島)の長崎ではないか、金沢の地名は石川県金沢市にちなんで付けたのではないか、昭和40年代に七尾市長だった青木重治氏が青木家文書(七尾市古文書一覧より)を所有しているとのことですが、血筋として何らかの関係があるのではないか、と推測しています。
>家紋は「木瓜紋」か「横木瓜紋」か「丸に木瓜紋」だったかと思います
新潟の青木さん 今日は。 始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。
このサイトは全国の青木さんが集うサイトです。青木氏に関する資料を記録してあります。
この記録をお読みに成ると青木氏の先祖の事が詳しく判りますよ。膨大な資料ですのでゆっくりと少しづつお読みください。毎日全国の青木さんと青木氏族の方々や青木氏外の方々が3000人から5000人も訪問しています。
「ヤフーHPサイト」の「認可投稿サイト」としての歴史カテゴリーで日本一段突トップの情報量を毎年獲得しています。
これからも「青木サイト」を宜しくお願いします。青木氏掲示板には多くの青木さん等からお便りを頂いております。研究室などのメニューにも資料もありますし、有名な歌手の青木隆治さんが歌っている青木氏テーマソングもあるのです。一度お聴きください。左メニューの下側にあります。
さて、本題に入ります。
ご質問には、確実な口伝情報をお持ちでした。良かったですね。直ぐにお家のルーツが判りましたよ。ではそのお答えを致します。
現在新潟にお住まいとの事ですが、この新潟は全国青木氏が定住する地域では最大の地域です。
ここには、「藤原秀郷流青木氏」と「信濃諏訪族系青木氏」の2流が定住しています。
その経緯は研究資料に詳しく掲載していますのでそれをお読みください。
とすると、この末裔かと思われますが、ところが違うのです。
情報による内容とお家の仮説と見事に一致しています。
すごい推察力です。
実は、お答えから致します。
「摂州麻田藩主青木一重」の末裔です。
この青木氏は、武蔵の国に武蔵7党」と呼ばれる地域の豪族がいてその一つの丹党の系列の「丹治氏系青木氏」と云う氏です。
その始祖は、平安初期の皇族の「多治彦王」と云うものが罪を犯し罰せられて、この地に「配流王」として流されて、暫く土豪「丹治氏」に預けられて定住しました。
この時、この「武蔵7党」の「丹治氏」との間に子供が生まれます。
この後、この子供が成人して、「嵯峨期の詔勅」に基づき朝廷の許可を得て「皇族青木氏」を名乗ります。この「多治彦王」は罪を許されて都に戻ります。
「青木氏」には「皇族朝臣族」のみが名乗る事が許された皇子の「第6位皇子」が対象となり累代天皇がこの青木氏を賜姓し臣下させました。この「賜姓青木氏」もあります。天皇を護る「親衛隊」が役目です。
この「皇族賜姓青木氏」は「天智天皇の施基皇子」からこの「賜姓青木氏」が発祥しています。光仁天皇まで5代続けられます。
その後に、平安初期にお家は、賜姓ではない「嵯峨期の詔勅」で名乗った方の「皇族青木氏」なのです。
その皇族皇子の対象者が18人いましたが子孫を遺したのは4氏と成ります。
その内の一つがおうちのルーツです。
光仁天皇の2代後の「嵯峨天皇」は「第6位皇子の賜姓」を「賜姓青木氏」に変えて「賜姓源氏」としました。
これが有名な源氏です。中では源氏九代目の「清和源氏」が有名です。「義経」や「頼朝」です。
この「賜姓源氏」は花山天皇までの累代11代続きます。賜姓青木氏と合せて16代の賜姓族が誕生した事に成ります。
この「嵯峨天皇」は、この時、元の「青木氏の氏名」は「皇族の者」以外に使用を禁じます。
そして皇族の者が下俗した時に使う氏名としたのです。
それがお家の元祖に成ります。
ところがこの武蔵の此処には、もう一つの「青木氏」が定住しているのです。
此処には「藤原秀郷一門」が領国として定住しています。
その秀郷は「平の将門の乱」を平定した勲功でこの地を領国として公家の地位を与えられます。
この秀郷の第3子の「千国」という者が、朝廷の特別の許可を得て「特別賜姓族」として「青木氏」を名乗る事を許されます。公家と成った以上は秀郷一門は武力を持てません。
そこで子供の「千国」に一門を護る「武力護衛集団」を形成させます。これが「特別賜姓族青木氏」です。
大勢力を持ちます。
従って、此処関東一円には「土豪の丹治氏系青木氏」と日本一の最大豪族の公家の秀郷流一門の「特別賜姓族青木氏」の2氏が定住していたのです。お家はルーツはその一方です。
つまり、お家のルーツの「多治彦王」を始祖とする青木氏が、上記の「嵯峨期の詔勅」により青木氏を名乗ります。これが「皇族青木氏」です。4氏の皇族青木氏があり、お家は関東出自の「丹治氏系青木氏」です。
これがお家のルーツと成るのですが、その後、時代を経てその末裔は幾つかの地に仕官し移動分布して子孫を拡大させます。(11地域)
そこで、お家のルーツの「丹治氏系青木氏」の分家は、室町末期に秀吉に味方して奈良の一部の土地4000石を与えられて、ここにこの「関東の丹治氏系青木氏の分家」が移り住みます。
この関東の宗家の流れを汲む「丹治氏系青木氏」には11程度の流れを持つ他の支流族が各地に移り住んでいます。その内の一つが奈良に移り住んだお家なのです。
ところが、この奈良の東の名張から伊勢一体に掛けて上記の「皇族賜姓伊勢青木氏」が定住しています。
上記の「天智天皇の第6位皇子」として初代の「皇族賜姓青木氏」の「賜姓」を受けて「伊勢守護王」として先ず松阪に定住していました。
そして、この「伊勢」にはもう一つ上記した「藤原秀郷流の特別賜姓族の青木氏」が「皇族賜姓族の青木氏」を補佐する為に武蔵から差し向けられて平安期から分家が定住していたのです。
この「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓族の藤原氏の青木氏」とは血縁関係を結んでいます。
お家のルーツの「奈良の丹治氏系青木氏」と、「皇族賜姓族の青木氏」と、「藤原秀郷流の特別賜姓族の青木氏」の3つ氏の青木氏がこの地域奈良付近に定住していた事に成ります。
そして、徳川氏と豊臣氏の「夏冬の戦い」が起こります。
この時、お家の奈良に移り住んだご先祖は、最初に豊臣家の方に味方し、奈良に4000石を与えられています。
しかし、戦況が徳川氏に形成不利と成った時、徳川家康は、このお家の本家が同じ武蔵にいた事からこれを理由に豊臣氏に味方している奈良の分家に対し徳川氏に味方する様に説得します。
本家が関東にいますので敵対すれば本家が潰されます。そこで、戦況ぎりぎりのところで徳川氏に味方するのです。事前に徳川側に味方すると、大阪の隣ですので潰されます。
この時、「伊勢の二つの青木氏」も中立を保っていましたが、徳川氏に味方する事に成ります。
この結果、豊臣側は伊勢奈良の境界のところで防御壁が崩れ始めます。
結局、この調略が元で徳川氏が勝利して、この勲功から本家の本領安堵と、奈良分家に摂津の麻田藩1万石を与えます。
この時、この摂津藩と成った兄は、弟に「奈良と河内」に一部土地を分け与えて計4000石を与えました。
そして、この「丹治氏系青木氏」は「本領の関東の足立」と「分家の関西の河内名張の一部」と「新潟上田」と「南佐久郡」と「一部に小県郡」と「石川県と富山県」等の地域に末裔が移動します。
この時、「石川−富山−福井」の地域に移動した「丹治氏系青木氏」は「麻田藩分家の弟の末裔」が定住したところです。
つまり、お家は「石川−富山−福井」の地域に定住したこの分家の末裔の青木氏と成ります。
分家の分家と成ります。
この関東の「丹治氏系青木氏」の本家一族は他にも長野と山梨にも末裔(関東の本家末裔)が徳川氏から郷や村程度の土地を与えられて一部が移動定住しています。(その後配置換えが起り他の地に移動した)
現在、新潟にお住まいとの事ですが、この新潟の小県を含む富山までに隣接する全域には上記の「特別賜姓族の秀郷流青木氏」が定住しているところです。
この勢力の北は青森までこの秀郷流青木氏の「特別賜姓族」が分布しています。
ここには新潟の「特別賜姓族」を頼って武田氏が滅んだ時に逃げ込んだ「諏訪族系青木氏」の2氏も定住している所です。
「石川と富山と福井」の3県にも、「皇族賜姓族青木氏」の末裔の5家5流の青木氏が移動定住しています。(一時の退避地であったが一部の末裔が残り子孫を遺した)
お家のご先祖の土地の石川と富山と福井と新潟にはこの様に別の氏の青木氏定住している地域です。
つまりは、お家は「石川、富山、福井」に退避定住した関東の埼玉に隣接する東京足立郡の「丹治氏系青木氏」の「麻田藩の分家」の青木氏に当ります。
お家の青木氏のお名前の部分はお説の通りに分家も含めて全て「重」が付く通名です。
その元は青木一重ですが、その元祖は現在でも総宗本家は東京足立に定住しています。
お家の家紋は木瓜紋類との事ですが、この家紋群は愛知から奈良域までに分布する家紋群です。
恐らくは、奈良に定住した麻田藩の分家がこの地域の木瓜紋類との血縁をした青木氏です。
お家の関東のご本家は「富士山に霧紋」が主流です。
一族には12程度の異なる家紋がありますが、「綜紋」は「富士山に霧紋」です。
この分家の麻田藩の家紋は同じ「富士山に霧紋」を使っていますので、本家の直系の流れを汲んでいる分家である事が判ります。
そこで、お家はこの分家の分家ですが、家紋が「木瓜紋類」とすると、関東の「丹治氏系青木氏総宗本家」の中に「木瓜紋類」の流れが一つあります。
従って、お家はこの流れをも強く引いた分家と云う事に成ります。
つまり、関東の「木瓜紋類の丹治氏系青木氏」は、奈良の分家の者が本家筋の「丹治氏系青木氏の跡目養子」に入った可能性があります。
もとより、この家紋類は織田信長も使用する家紋ですが、この家紋は尾張から奈良の東側まで分布する京平家「平の清盛一族」の家紋群でもあります。
「織田信長」は「平家の末裔」ですので、お家は、関東の木瓜紋の平家の流れも持つ「丹治氏系青木氏」の流れも引き継いでいる丹治氏族である事が判ります。
この「関東の木瓜紋の青木氏」は、この「京平家」の流れを引いていて「副紋」は京平家の家紋「揚羽蝶紋」です。従って、お家は一部一時関東に役目で定住した京平家の流れも引いている事に成ります。
そうなると、「麻田藩の兄」は本流紋となり、お家の弟の流れは母方で違う事に成りますので、お家は第2夫人以降の母からの子供である事が判ります。本流系ではありますが、母が違う事が判ります。
この弟に兄はその勲功から4000石を分け与えたのですから本流系の母が違う事が判ります。
では、お家の関東のご本家の系譜を先ずはご紹介します。
この「丹治氏」は、「丹党」から分岐します。この氏は武蔵守の「多治比氏」の末裔で、「秩父別当」となり其処から「丹治氏」と名乗ります。関東の児玉、入間、秩父、足立に分布しています。
その始祖の経緯は、平安期の左大臣島氏 ” 「真人族」を賜う”とあります。「真人族」は「第4位皇子で4世王以内の皇子」を云います。天皇に成る資格を有します。
ところが、「第4世族内の第6位皇子」は「朝臣族」と呼び、天皇には成れません。
臣下して「武家」を形成します。これが「武家の発祥源」の「皇族賜姓青木氏」です。5家5流あります。
この「皇族賜姓青木」は、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の5国の「守護王」に成ります。
「真人族」の正式名で云うと、「 ・・島」の子「広成」の孫の「武信」は武蔵に配流されますが、孫の「峯時」の時に戻されます。更にその孫の関東に残った「繁行」が「丹党」を結成します。
この枝葉末裔の「基房」の曾孫の「直時」が青木氏を名乗る、と成ります。
島左大臣 家範 家広 家綱 頼景 家景 家義 家信 武信 峯信 ・峯時 峯房 武綱 武時 ・武平(武峯) 基房 直時 直兼 ・直時(青木氏)・・・実近・・・
・峯時は関東に住する。
・武峯は関東に配流される。
・二人目の直時は青木を名乗る。
・青木実近は高麗郡の山切り開き城築く、周囲畑と成す。ここから土豪と成す。
とあります。
次ぎに、お家のルーツの「摂津麻田藩の系譜」は研究室の「麻田藩の系譜」の論文を参照して下さい。詳しく記録しています。
そこで、何故に分家の分家の末裔が石川に移動したかの疑問ですが、ご説明します。
「徳川−豊臣の戦い」の時、当初、豊臣に味方し、後に徳川側に味方した為に、徳川が負けた時には本家ともに滅亡します。
そこで、「子孫生き残り策」の為に兄の子孫を残すと疑われますので、「弟の子孫」に富山、石川、福井の3県に移して、負けた時の「子孫存続策」を構じたのです。記録から読み取るとこの様に成ります。
その為に、弟に奈良と河内の土地4000石を見返りに分け与えて、石川に移した「食い扶持生活量」としても河内分を与えたのです。
これ等の事は全ての氏が行う当時の常道作戦の対策です。
例えば、この時に「真田氏」も同じ作戦を実行します。有名な「豪傑の真田幸村」の兄を徳川方に味方させて遺します。
次ぎは、何故、石川他3県と云う事ですが、ここは、上記した「皇族賜姓族5家5流の青木氏」とその「支流一族25氏」が逃げ込む地域として「伊勢青木氏と信濃青木氏」が、経済的に、軍事的に対策を構じて、正式には平安期初期頃からの「戦乱のその退避拠点」として構築していた地域なのです。
其処にお家のご先祖は、族がまったく違いますが、基を質せば、同じ皇族の出自の青木氏としてここに逃げ込めば助かるとの見込みがあるとして、利用し退避させたのです。
周りが「皇族系の青木氏」ばかりですので見分けが付きませんし、生活も伊勢青木氏から援助を受けて安定しますのでここに退避させたのです。
実は、奈良期の天智天皇は、この「5家5流の皇族賜姓青木氏」に対して、「天皇の詔勅」を発して「不入の権と不倫の権」を与えて一切の難から子孫を護ったのです。
従って、この「賜姓族の青木氏」に対して一切他の豪族は手を出せなかったのです。手を出すと朝廷の逆族の汚名を受けます。この事はその氏が潰れ事です。
この為に「皇族賜姓族25氏」は、万が一の事を配慮して、この3県を指定してここに退避地域を構築して、経済的、軍事的に護って保護したのです。
長い歴史の中では、現実に周囲の戦いの”トバッチリ”で、万が一の事が5家5流の各地で度々に起ったのです。
然し、この地域を護り安全に送り届けその地での生活を保障しなくてはなりません。
実は、此処には「伊勢−信濃」の「強力なシンジケート」(影の防衛集団)を構築していたのです。
詳しい事は研究室に論文として各所にこの事に付いて詳しく説明をしています。
この「伊勢−信濃シンジケート」は「織田信長」にも「丸山城の戦い」で勝つほどの強力な力を持っていたのです。
例えば、有名な10万の軍を相手に戦って勝った「楠木正成」の「南北朝の戦い」も、「信長との伊賀の戦い」も、「信長と北畠の戦い」も、「徳川家康の豊臣家との最後の戦い」にも、「伊勢青木氏」が頼まれてこのシンジケートを動かしたのです。
この「夏冬の陣」に戦った伊勢から大阪までの間の前哨戦は、このシンジケートが戦い掃討して家康が安全に大阪に辿り付けたのです。
この様にすべて勝利しています。関西の絶大な「影の力」を持っていたのです。
「伊勢青木氏と信濃青木氏」は平安期から「古代和紙」を商いとして「2足の草鞋策」を採っていたのです。
この商いは明治35年まで続きます。
「皇族賜姓族」の「裏の顔」として「大商い」をしていて、歴史上の記録として、NHKの大河ドラマに3つのテーマに出て来ます。これが大豪商「紙屋長兵衛」なのです。最初は58万石程度の力を持っていました。
ですから、信長に3度勝っているのです。
信長はこの戦い以外は敗戦していないのです。この事は歌舞伎にも成っていて、信長はこの負けた事に対して烈火の如く怒り、息子の信雄と滝川一益を罰して全ての領地を取り上げて仕舞うと云う有名な事件が起ったのです。それ程にこの「影の力」は強かったのです。
実は、何故この3県を退避地としたのかも疑問ですね。
実は、ここは「伊勢青木氏の大化期の始祖 施基皇子」の母方の土地なのです。
「越の国」「越の道君」と云う青森から石川県に掛けての越の国の奈良期の大豪族の地なのです。
この3県には、「皇族賜姓族青木氏の守護神」があります。それは「祖先神−神明社」ですが、この「神明社」または「神明神宮」は「皇祖神」の唯一の「子神」です。
この「神明系社」を42社もこの3県に多く建立されていて、ここを拠点に「伊勢との連絡網」として「3県の子孫」を護る拠点を構築していたのです。
(「皇祖神」とは{伊勢神宮]の事で、 「伊勢青木氏」が護っていた。 「神明系社」は「2つの賜姓族地」に建立する仕来りがありますが、この3県は賜姓族地ではありません。然し、一族の退避地として特別に42社も建立した。)
「青木氏の守護神」の「神明系社」は29地域566社も全国にあります。
この内の1割をここ3県に集中させて「社」を建立して「戦略的に護る子孫の退避地」としていたのです。
上記した様に、更にこれに日本一の超大豪族の「藤原秀郷の一門の護衛集団」の「特別賜姓族の青木氏」がこの「皇族賜姓青木氏」を「円融天皇の詔勅」により護る事を命じられていたのです。
当然に血縁関係も深く、特に母方が同じ代々藤原氏と云う同族血縁を繰り返していたのです。
これでは、他の氏はめったに手も出せません。
(同族血縁は純潔性を守る為に当時の皇族氏の仕来りであった。)
この「特別賜姓族の青木氏」は「皇族賜姓族」を助けて「418社」も「神明系社」を建立しているのです。
この3県はこの様に護られていたのです。全青木氏に執っては真に「安全地帯」なのです。
ここに「基ルーツ」を同じくすると云う事でお家のご先祖が此処に退避したのです。
そこで、情報によると、「長崎屋」と云う商号を提示されていますが、これは重要な情報です。
上記しました様に、「皇族賜姓青木氏」の「伊勢と信濃の青木氏」は、ともに「古代和紙」を殖産し取り扱う大商いをしていましたが、実質は「総合商社」で、堺と摂津と松阪の6店舗では大船を出して貿易もしていました。
(因みに、忠臣蔵の「浅野家取り潰し」の「城引渡し」の際に、「浅野家の財産」を買い取ったのは「伊勢青木氏−信濃青木氏」の「総合商社」であった事が記録で遺されています。)
恐らくはお家の長崎屋も上記の経緯から「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と取引関係をしていた可能性があります。
退避した時に「伊勢青木氏」はお家に「商い」で身を立てる事を指導している筈です。
現実に、この3県の他の「皇族賜姓族の退避族」は全て商いをしているのです。
これは「伊勢青木氏」が指導していた証拠です。
そもそも退避しての時には資金も得意先も全くありません。
これを「伊勢青木氏」の「総合商社」の支店的な働きで店を動かすことで成り立ちます。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、この様に各地に支店を置いて各地の殖産物を伊勢に廻して、それを売り裁き、又、貿易をすれば両者は潤います。これには「港と船」が必要です。
「退避地の3県」は大きな日本海の港です。
千石船の大船は「伊勢青木氏」と「特別賜姓族の讃岐青木氏」が大船団として持っていました。
(「特別賜姓族」の「讃岐青木氏」は武蔵の宗家に匹敵する位の古くから「瀬戸内の海族」を支配下にいれた大豪族で「大廻船問屋」です。昭和20年まで続きます。)
この様にして「取引関係」を構築して子孫を護ったのです。
ですから、お家とも何らかの関係を保持していた事に成ります。
先ず、皇族の一族を放置しておく事はないと思います。放置するほうが不利です。
3県に導いたのであれば少なくとも身の立てる方策の援助もしなくては意味が無い筈です。
だから「金沢」と名づけるほどの力を持ったと考えます。
要するに、「退避後のベース」になるものが必要です。
どの様な商いをしていたが判れば確定は出来ます。是非お調べください。
現在、「青木氏と守護神」のシリーズの研究論文を20まで投稿していますが、来月の始めにはこの様な関係論文21を投稿する予定に成っていますのでお読みください。この3県のことも詳しく論じています。
そして、これがお家の経緯と系譜関係の情報です。
突然に「専門的な歴史情報」を書きましたが、少しづつでも良いですから、左メニューから選んで雑学を増やしてください。そうすればお家のルーツの全てを納得する筈です。
御主人と楽しんでお読みください。
お家の古いご親戚の方から沢山お便りを頂いて居りますので、これも青木氏掲示板や家紋掲示板や地名地形デー掲示板等も一度観てください。青木氏の検索モードでチェック出来ますよ。
では、何かご質問や御不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
ではお便りやご感想をお待ちしています。
こんにちは。
私の主人のルーツをどうしても知りたいと思っています。
主人の実家は新潟県長岡市寺泊町野積金沢にあるのですが、何代か前に古文書が焼失したらしく、口伝えが多少残っているだけになっています。
聞いたところ、
・代々、男子の名前に重の一字を付けるならわしになっていること
・昔、「長崎」というところから来て上記住所に居を構えたこと
・こちらに来た祖先は「長崎屋 重三郎」と名乗っていたこと
・祖先が自ら土地に「金沢」という名前を付けたこと
・以前、秀吉に仕えたらしいこと
私の仮説ですが、長崎は長崎県ではなく、石川県七尾市(能登島)の長崎ではないか、金沢の地名は石川県金沢市にちなんで付けたのではないか、昭和40年代に七尾市長だった青木重治氏が青木家文書(七尾市古文書一覧より)を所有しているとのことですが、血筋として何らかの関係があるのではないか、と推測しています。
主人は181センチありますが、兄弟や父、祖父、従兄弟も皆身長が高く、親戚が集まると大きくて異様な雰囲気です。武士っぽいんです。
もし主人のルーツについて、分かることがありましたら、是非教えて頂けると幸いです。
家紋は「木瓜紋」か「横木瓜紋」か「丸に木瓜紋」だったかと思います。
静岡の長嶋さん 今日は。お元気ですか。
暑くなって、原稿の整理もなかなか進みません。
暑いのが弱いタイプですので、頭が都合良く回転しません。
何とかそのルーズに成った頭を働かして、少しづつで整理を進めています。
さて、そんな中でお便りありがとう御座いました。
私見にご理解いただきありがとう御座います。
日本が或いは社会が近代化が進めば進む程に、社会が個人に与える責任はよりシビヤーに成り、より個人の能力を要求されます。それは私たち年代の者よりお家の様な年代の方、さらには現在の若者とその近代の進んだ高い能力で維持していく国は社会は人間の限界に近い能力を要求して来ます。
そうでないと、社会も個人も生きて行く訳には行きません。
当然そうなると、個人はその与えられた限界の能力を発揮しようとしてより個人資質を追及し無ければならなく成ります。そうなると、必然的に「個人性」が強く成るのは人間の脳の性です。
その端的に表していて原因の一つとしてあるのがコンピータです。(情報量の整理分析能力の負担)
私達の時代ではなかったのですから、より「近代の能力」を要求されているかが判ります。
かなりの負担増と成っている筈です。
従って、現代の個人性、利己的な態度は個人の意思や資質に関わらず等しく出てくるのも仕方のない事だと思い一理あります。現在の社会現象にこの事が出て来ます。
私は社会が要求している結果であってその「必然的な歪み」として社会現象にあらわれているのであって、日本人の根底にある潜在的な資質まで変化させたものではないと考えています。
当然に、「伝統」等が位の一番に無視されてくる筈です。
潜在的に変化していないのであれば、今は伝統に理解を示されなくても何時か過去のその伝統に目を向けてくる筈だと考えています。(この世は輪廻)
現に我々現在の者が過去の人から観ればより個人性が強くなったと観られている筈ですから、今、理解が示されなくても今その「伝統の記録」を遺しておく責任があるのだと考えています。
歴史を見れば、同じ様にその事を繰り返しています。ただ、「伝統の記録」が少ない所を観れば、今から観れば「伝統の記録」を残す努力を過去は少し怠っていたとも観られます。
お家にしても、私にしてもその努力を今していると見ています。(幸いCpがあります)
潜在的な資質が余り変化していない証拠に東北の震災の時の日本人のとった態度です。
日本人には脳に大きな衝撃を与え遺伝子的な資質を引き出したのだと観ています。
今のオリンピックの日本人の興奮度でも見ると良く判ります。
「伝統」に目を向ける余裕が全てに少なくなった、又はないのだと思います。
私は、[青木氏と守護神(神明社)]のところでも論じましたが、明治から150年の身分階級が無くなり、「自由な血縁融合」が起こっている100年以上経った今が、日本人の融合が完全に興った時期で、新しい日本人が生まれて来て、「雑種融合」の利点の「優秀性」が今の若者に出てくる時期だと観ているのです。
個人性と自由性を大いに発揮し、その裏では民族性の高い態度を示している事として、オリンピックがそれを物語っています。私たちの時代には何か一つの事に拘り頑なところがありました。
それが取れて開放されたと見ていますので、これからは局所的にではなく日本人と日本が広い意味での進化を遂げる時期と観ています。確かに伝統のようなものが無く成っていて寂しい気がしますが、これは一時期仕方がないとも思えます。兎に角は反面で昔に比べ相対的に今が”柔軟性が生み出され民族が優秀に成っている”と観ているのです。
それだけに記録を遺したいと考えます。
さて、本題のご質問やご意見に入ります。
後漢の件ですが、お答えご理解頂けて幸いです。
確かにこの件では諸説がありますが、本説は研究が進んで2つくらいだと中国や韓国は観ています。
私はその内の一つだと観ています。
諸説には、夫々の利害や思惑がこめられた説や小説性をこめた面白半分の説が多く、歴史の経緯性から納得し兼ねる説が多いのです。これは中国も日本も同じですが、特に共産国は個人性は学説の決定には個人性は認められませんので特に別です。政治性が働きます。
また、その様なわざとらしい学説が政府筋の御用学者から出るのです。これは日本も有り得ます。
特に国を跨る内容には思想的、国益的な思惑が挿入された説が多く排除しなければ成りません。
この後漢も中国を中心に韓国そして日本と絡んでいます。
以前に韓国と日本の歴史認識の問題が出て話し合いましたが物別れに終わりました。
実はこれに絡む事として、最近、韓国で大変な発見がありまして、日本の天智天皇と天武天皇の秘書をしていた百済の僧で学者の者が毎日の日記を書いていたものが見つかったのです。
きわめて詳細にきっちりと朝廷の出来事や行事仔細を詳しく書き記した物です。
これには天智天皇の皇子の賜姓や臣下時の事も記載されていて象徴として仏像を送ったこと(青木氏に関わる事等)や日本書紀に書かれている事等が記載されていたのです。
これにより「日本書紀」に書かれている事の信憑性が見直され、かなり史実である事が証明されたのです。書籍の題名は「日本世記」と呼ばれていまして、百済に帰ったこの秘書が持ち帰ったのです。それがこの子孫が見付かりその家から発見されたのです。
この内容から武寧王と阿多倍らの関係がある程度判明していまして、末裔親族を含めて親交は考えられるとしても血縁的な関係は無かったものと解釈されています。
特に「武寧王」の日本での行動は比較的はっきりしていて、その末裔は日本人に成っています。
この当時の帰化人の首魁や亡命者は一定の所に住まわせる事になって居ました。一つは近江と伊勢西北部に住まわせました。「武寧王」と「阿多倍王」とは近隣に居た事は史実ですが、阿多倍王は「高尊王」や「高望王」(朝廷では「平望王」とした)と呼ばれていてその行動ははっきりしていますので、「武寧王」とのラップは不可能です。
阿多倍王はかなり高齢(100歳位)であった事が記録から判っています。
この阿多倍の末裔の次男系列の大蔵氏の太宰大監の大蔵種直(原田の次郎太夫種成 平安末期)が半国領の伊賀北部の名目上の主権を平族と共に朝廷に返上しています。(納税の義務を果す)
この事からのも「武寧王」の関係説は消えます。
特に阿多倍の父の「阿智使王」は朝廷の「史部」(ふみべ)の首魁を司っていて、朝廷の出来事の全ての記録を管理していたので、「武寧王」との関係にもこれ等の記録から作った日本書紀には記載されているのです。大蔵氏の添書にも史部の首魁であったのですから必ず記録として、もし関係があれば出てくる筈です。
日本書紀編集には舎人親王がこれ等の後漢帰化人の史部の官僚50人ほどを指揮して作った事がわかっています。そして、この状況を天武天皇と妻の持統天皇はこの事を嘆いて、”日本人の官僚をこれ等に付けて勉強させて育てる様に”と命令している事が日本書紀等にも記されています。
この事が確かに上記した様に、阿智使王と阿多倍王は大隈の半国割譲と伊勢の半国割譲を受けて伊勢北部伊賀地方に住んだ事が判っていて、阿智使王は高齢に成って退き、薩摩大隈に帰り、後に西鹿児島と熊本の県境の「阿倍」と云うところに移動しています。
ここはお家の3家流の一つ「長島地区」の直ぐ隣です。
(ご質問の件)
この様な事から、「武寧王」と「高野新笠」の関係説は難しいと考えらけれますし、後漢と三韓の馬韓の百済の関係も発見された韓国や中国の歴史史実からこれを覆す事は困難と観られます。
確かに、考えると面白い推理と思いますが。この様な歴史的根拠に基づく事が必要です。
大事な事は推理して頭に締まって置く事です。歴史に関わらず。根拠に基づけば、何か時にひょっと気がつき頭から出てくるものです。不思議です。それを一つづつ潰してゆく事が大事なことだと思います。
私も歴史のみならず論理的根拠に基づき仕事の事でもこの事に徹しました。
次ぎは陣笠の件ですが、書籍は敢えて判りません。この様な雑学は書籍ではなかなか得られません。
例えば、郷士や郷氏で、庄屋や名主等が苗字帯刀と羽織袴を許された者は昇城でできる事に成っています。中には歴史の記録から百姓でも家紋を許された者は昇城が許された事が記録に載っています。
この場合の多くはその手形や許可書のようなものとして、代表的なものとして特定の「家紋使用」が許可され、その場合の家紋の多くは「七三の桐紋」の使用を許されます。
その城主そのものも将軍や関白等からこれを与えられ、これを城主は更には家臣や農民や豪商に与えて特別の権利を付与する一つの仕組みです。上から与えられない城主は自分で自分の家紋に似せたものを与える事をしますが、他の藩には適用しないのです。その様に扱われないのです。
城主も同じの仕組みの中にありますので、将軍などの上位の身分の人に会う時はこの家紋が効を奏します。(この桐紋を与えられた農民は墓も作る事が出来ました)
因みに、筆者の先祖の祖父の代まで紀州藩の殿様の座る位置より上座に座りましたし、座布団の仕様も許されました。「武家発祥源」の扱いでこの様な作法があり、この場合は青木の者が座るまで殿様は座らない事等の「武家作法掟」がありました。(お茶の出し方などの全ての所作を定めたもの)
筆者の先祖は紀州藩の5代藩主で8代将軍と成った吉宗を伊勢で育てたことから、もう一人の本育親の伊勢加納氏(伊勢青木氏と血縁関係)で紀州藩の家老(将軍家の吉宗御側用人)であった者と共に直接会える事が出来ました。
青木氏の本家筋は家紋の綜紋が「笹竜胆紋」ですので、将軍よりも上位の家柄ですので、上位の座に座る事が出来たのです。天皇家と青木氏だけです。この事が歌舞伎にも成っています。信濃青木氏の事が歌舞伎にも成っていますし、同じ様な事件として、他に特に信長の事件と4代徳川将軍との事件が在ります。3事件ともにこの「高位武家の仕来り」を知らなかったのです。
例えば、高位の人を迎える場合、白馬に乗ったままで白の紋付袴の礼服で迎える等、出陣などの場合は馬の上で出陣酒を武将と酌み交わす仕来りがあり、「馬上盃」と云う特別な盃で行う等、高位来客時は高瓶でそのまま差し出す等の所作が決められていたのです。
更には、この青木氏の分家子孫には「布衣着用」で大大名扱いと成り、将軍と言葉を交わすことが出来ました。この様な仕来りがありました。(武家諸法度・公家諸法度等)
例えば、青木氏の末裔や縁者の場合はその藩に届けておけば昇殿や昇城の登城許可が下りました。
そもそも「五三の桐紋」は天皇家の祭祀式紋で、天皇家は財政難からこの祭祀紋の使用の許可を出したのです。鎌倉期から続いていたもので、因って直接「五三の桐紋」を使う事は避けて、これに似せて「七三の桐紋」として権威を持たせたのです。特に秀吉は大いにこの仕来りを使いました。
ですから、青木氏等の事は別として、「郷士」や「郷氏」や「名主」や「庄屋」や「下級武士」や「農民」や「豪商人」等は、先ず一つはこの「七三の桐紋」を持つかどうかです。
次ぎに、藩には「・・組」で構成されています。この組頭は組の代弁者として昇城が可能です。
問題は殿様にお目見え出来るかは別です。(家老職と側用人だけであとは取り次ぎによる)
念の為に、朝廷では従四位から昇殿出来ますが、天皇に会えるのは、発言するには正三位からです。
将軍以外は昇殿や天皇に会える事さえもできません。
後は、武家の社会では大名の大小にもよりますが、「半農武士階級」では戦いで大きな手柄を立てた者で特別に姓を与えられた者には昇城が許されていました。
さて、この様な記録をまとめ上げた書籍はあるのでしょうかのご質問ですが、私は全て色々な記録から得た知識です。書籍にしても売れないのでは。その専門協会の論文や研究資料ではあると思いますが。
これ等を雑誌や単行本や雑談形式での書物にしているものは中にはありましたが限定販売や非売品です。殆どはこの類です。(上記の事は研究室などに全て記載)
そもそも、昔は、書籍に依ってその「規則等の伝承」が行われたのではなく、つまり、マニアルのように者が無かったのです。ではどの様にして伝承したのかと云うと、それはその専門の者或いは氏や家があってその氏や家が極秘に親から子、子から孫へと代々「口伝」で教え込み伝承してその職責を果していたのです。ですから、マニアルのような物があってもそれが「氏や家の生活の糧」に成るのですから外には決して出しません。門外不出なのです。
例えば、忠臣蔵の吉良家です。吉良家はこの役目を担った家であってこの事が原因で浅野家は揺さぶられて失敗してしまったのです。
従って、大名に成るとこの様な専門の者を探し出して何とか抱えるのです。見つけられないと浅野家のようになって仕舞います。このシステムは奈良期から始まったのです。その元は阿多倍一門が率いるこれが「部制度」です。180位の組織で成り立っていました。江戸の末期まで維持されました。
青木氏や藤原氏等の古い氏は自らの家には幾つもの部の組織を置いていたのです。今回ご質問の阿多倍の父の阿智使王は真にこの「史部」の首魁でした。
「青木氏と守護神(神明社)」等の論文にはこの事が詳しく記載しています。是非、全体的に少しづつでも良いですからお読みに成ってください。そうしないと、ルーツ探求などには正しい答えは出ませんよ。
本サイトは100%営利ではありません。ヤフーより歴史カイゴリーではお墨付きを貰いその情報量は日本一段突との事です。否営利な為に某公的な放送機関からも特別に管理人室に情報集めに毎日来ています。そこから情報を得て既に4度関連放送がありました。時代考証などのための知識集めとしても利用されています。ディレクターの方が多い様ですね。ご質問の問い合わせも一度ありました。
実は管理人室にはカウンターが幾つか付いているのです。
恐らくはお家のご質問のこの文章も見ていると思います。
現在感覚で”何でも書籍”は歴史には間違っていると思います。そして、仮に有ったとしても上記で書いた様に全てをその書籍に根拠を置く事は危険です。読み取る事は是とします。然し、「現在書籍本」には其処には「色々な思惑」が介在しているからです。少ないのは純粋な研究書や営利に走らない雑誌から出来る限り取捨選択して雑学を広げる事です。
この極秘の門外不出の書き記したものを集めて本にするにはなかなか難しいのです。発掘と経済的なことから書籍にはなり難いのです。
次ぎのご質問ですが、『温故に身を寄せずんば、身を徹し償い奉り、次右衛門ここ二代、三代とめい(名?命?)を尽くす』の件ですが、「温故知新」”古を温め、新しきを知る。”温故、即ち「伝統」や「先祖」の御蔭を受け生かされている自分、つまり「氏家制度」の中で「一族一門」に支えられて助けられ、又、助けする一族の共助社会の御蔭で自分が生かされている。その社会の中で、一生懸命に働き尽くし「氏」を支えて来た。その中でも、「一族の長」としてその伝統、功績、名誉、家を引き継ぎ、累代にその責務を滞りなく果たして来た。と云う事だと思います。
つまり、真意は”「次右衛門」と云う「重い世襲名」を代々長い歴史の下に大変に苦労して引き継いでここに至った自分。”要するに「次右衛門」に全てを物語る大きな意味を持たしています。
大蔵氏系肝付氏族の藤原氏長嶋氏の悠久の家柄、身分、名籍、伝統、習慣を汚れなく護ってきた満足感をこの一説の文章に表現しています。
この文章を知るか知らずか、「次」に対して後にこの文章を末裔は捉えて「勘」と応えたと観ています。
これ以後に直系が続くと「次」と「勘」を含めて、長男の「長」や三男の「三」等その時の状況に相応しい字を世襲名の先頭に付ける事にして選びます。総宗本家筋である事を意味しています。
「縁者養子」や「婿養子」や「跡目養子」等の場合は、その都度、清とか嘉とかその人物の最もたくみにした字を選びます。主に俗名のものが多い様です。
この文章は「身を徹し」と「償い奉り」に大変な意味を持たせています。
大変に苦労した事を表現しています。
昔の文章は、現在の直接表現と異なり、奥ゆかしさを主としてその意を如何にして持たせるかによる間接表現です。歌、短歌、俳句はその表現方法の手段です。
従って、この意味からも、温故、身、寄せる、徹し、償い、次右衛門、ニ代三代の言葉を上手く選び真意を悟らせる方法ですので、上記の様な事に成ると思います。
昔の文章は決して直接表現は採っていません。それは奈良期の昔からある「4と6の規則」に基づいています。5は何れにあるのかはその者の知る範囲だとする考え方です。
日本人に根深くある今でも時には出てくる考え方です。
歌舞伎などで〇代目中村、史料などで系図を見ていると肝付甚右衛門→肝付甚右衛門と云ったように、何代か、名を受け継ぐことがありますが、これを受け継ぐ理由とか、何代続けるとか制度では規則があるのでしょうか。
さて、歌舞伎や落語の様な世襲芸名とは根本的に違います。
それは、人気家業との違いです。人気家業だから昔の芸人の名を継ぐ事はありますが、それは芸と人気の前提にあります。別の氏のものでもその世襲は引き継ぐ事がありますので別のものですね。
武家の世襲名は家柄、身分、名籍など、又財産などの物を引き継ぐ為の一つの世間への宣言手法です。
根本的に意味が違っています。手形みたいな物です。
その代数はその「世襲」が続く限りです。理由は家柄、身分、名籍など、又財産などの物を引き継ぐ理由がなく成った時に辞めるのです。筆者の家も明治35年の祖父の代で辞めました。
因みに、945年も続いた家業と1365年も続いた名籍もこの時点で社会的にも困難と成った事に因ります。松阪の大火の火元でした。社会に対して大変な迷惑を掛けた事から1365年の名籍を名乗る事を中止したのです。5万石程度の土地等の全財産を賠償に当てたのです。
それまでは、長兵衛でした。正式な世襲名は代々「正三位青木民部上尉長兵衛信定」でした。中には「上尉」のところが「上佐」の人もありましたが、全体としてこの世襲名でした。(信定のところは代々別の名と成る。)
私には、この場合から観て、実質は名籍など残ったとしてもその「財産」が裏打ちされていると考えています。人気手形と財産手形の差と云う所でしょうね。
次ぎのご質問です。
”長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→(長嶋次右衛門→)長島勘右衛門
って事も考えられるのかなと思いましたので。”
の件ですが、真にこの通りです。
この為には先ずこの「勘右衛門」の次ぎがどの様に成っているかを調べる必要がありますね。
長嶋と長島の違いは3家3流の何れかの縁者養子があって長島系の中に組み込まれた事も有り得ます。つまり、血を絶やさない為にも縁者養子を向かえたが嫡子が生まれず遠戚別家の長島家系の中に組み込まれたが、その後に嫡子が産まれたが、ルーツはそのままにあっても長島家の「勘」であるので勘右衛門とした事に成ります。
日向の永嶋氏、肝付の長嶋氏、長島の長島氏の3家の間の家名の変化を起したことを意味します。
この場合は肝付と長島との間の呼称の問題で、その長島勘右衛門の子供が嫡子の継承があれば長嶋氏に戻す事は可能です。元は長嶋氏なのですから。「家紋掟」でその様に成ります。
この時に家紋の変化が一時興っていて嫡子が出来た時点で戻した筈です。
次ぎの「勘右衛門」の後の事がどの様に成ったのかで決りますのでお調べに成ると良いと思います。
この場合、問題は明治以降の新体制でどのように扱ったのか、それには上記した様に裏打ちの財産の有無も働いてきますね。無く成っていれば長島で続けたことも有り得ますし、明治以降で維新戸籍簿で変更が出来なかったことも有り得ます。
人気芸人の世襲名とは違いますので、武家の「家紋掟」に従っています。
この点に絞ってお調べに成ると良いのではないでしょうか。以前の情報から察するに財産の裏打ちと明治維新の後者の説になるのではないでしょうか。
阿多倍と安倍氏のレポートでところが、『この阿倍氏には九州の大隈と熊本との境あたりに阿倍という地名があります。多分ここら付近に阿多倍の館か何らかのものがあつたと考えられています。』の記載があります。この阿倍という地名が現在のどの辺りですか
このご質問ですが、西鹿児島の熊本の県境付近で出水郡長島の直ぐ南下側の中ほどにありました。
昨年来の全国的な総合市町村合併に因って消えた様です。鹿児島大口村の九州唯一の青木村は何とか残った様ですが、全国の青木村も無くなったものが観られます。歴史的な意味の持つ村名が消えるのは寂しい限りです。現在の阿久根市と出水市と薩摩郡さつま町の中間の所にありました。
出水郡の島の長島町の長島は残っていますが、島隣の長島も無く成っています。
確かに合併に成りやすい地域所です。他の全国の阿倍氏と安倍氏に関わる阿倍村も多く無く成っています。「青木村」もそのために地名地形データとして遺しています。私が研究し始めた時から観るとかなり無く成っているのです。
以上です。
兎にも角にも、以前の情報からも大方の推測は尽きますが、「勘右衛門」の次ぎの人の成り立ちをお調べに成る事をお勧め致します。
では又、判らない時はご遠慮なくお尋ねください。
副管理人さん、有り難うございます。
副管理人さんの仰る通りです。僕は、東京オリンピックの辺りの生まれなので、古き良き日本は語れませんが、寂しい世の中と感じます。主観的に物事を考えるのは良いのですが、それが、過剰となり、自己中心となりすぎているように感じます。相手を思いやったりする心が欠落してきている人が多いように思えます。残念なことです。
『仁』、『義』、『忠』の心を自分に時々問いけて、自分を確認しなければと思うこともあります。
『後漢=高句麗』、高野新笠と武寧王のお答えよく分かりました。
献帝または霊帝から阿智王へと続く系図を見ていると諸説があり、
霊帝→延王→石秋王→阿智王・・・
献帝→石秋王→阿智王・・・
漢高祖→石秋王→康王→阿智王・・など
僕なりの素人的推測で、献帝から後漢王朝嫡流は、永嘉の乱309年劉秋が家族共々匈奴の将軍に殺害され途絶えたと言われているが、難を逃れ、朝鮮半島(帯方郡あたり)に渡り、国を立ち上げた。そして玄孫である阿智王の代で、618年頃、息子阿多倍王、17県の民とともに、日本へ渡ったのではと考えたのです。
そこで、309年から618年が問題となり、国を立ち上げは多くの国の集合体である馬韓で、後に百済となり、百済王族との血縁もあり、百済衰退と共に、先験的に日本に退避した。そうすると、阿多倍王の子孫高野新笠と百済王族武寧王との遠戚も繋がるという推測し、質問させて頂いたのです。
献帝→不詳の太子(延王?)→劉康(康王?)→劉瑾→劉秋(石秋王?)・・→阿智王→阿多倍王
あくまでも、推測でこれから何か分かっていければと考えています。
また、追伸して頂いた大蔵氏族肝付系長嶋氏の『右衛門』の世襲名が、一代限りか永代かについて、なるほどと感動してしまいました。やはり、その一部の狭い視野で物を見るのではなく、「人」「場所」「時」の手法、その時代の背景をもとにした手法、今後、ルーツを紐解いていく中で凄く参考となりました。それに、仕事をしていく中での、ものの考え方にも応用していけることであり、その点においても感謝いたします。
インターネットの情報については、鵜呑みにせず、バイアスの確認も行い、上手くフィルターにかけ、参考にしていくようにしていきます。有り難うございます。
また、4つの質問をお願いします。
1.篤姫の小松帯刀(肝付尚五郎)が被っていたような陣笠とは違い、もっと平らな形の陣笠を被り、城に入る事のできるような人は、藩に於いてどのぐらいの地位にあるのかを調べようと思ったのですが、あまり良い資料が見つからなく、詳しく分かる書籍、図鑑をご存じですか。
2.『温故に身を寄せずんば、身を徹し償い奉り、次右衛門ここ二代、三代とめい(名?命?)を尽くす』を副管理人さんでしたら、どう理解致しますか?
3.例えば、2.から感じたのですが、歌舞伎などで〇代目中村、史料などで系図を見ていると肝付甚右衛門→肝付甚右衛門と云ったように、何代か、名を受け継ぐことがありますが、これを受け継ぐ理由とか、何代続けるとか制度では規則があるのでしょうか。
以前、長嶋次右衛門→長島勘右衛門について
『分家の分家、分流、分派が「襲名」を名乗る事は出来ませんので同家の本家筋。
長嶋次右衛門の”次”の意味は本家筋を継承した時に使われる当時の慣習で”継ぐ”の意味を持っています。
次に長島勘右衛門の”勘”の字ですが、これも一つの意味を持っています。
未勘とか後勘とか使いますが、この”勘”は”後の定められた人”または”長男や嫡子の後継ぎ”の意味があります。
つまり勘介は家の主人の親に対して次に家を継ぐ嫡子だとしてこれを明確にしていた慣習名です。
と云う事は、長島勘右衛門は本家に成った分家が何代か後に、例えば4代として本家を継いだ長嶋次右衛門から観ると、先ず2、3とあって”4代目を夜叉孫の直系の”嫡男”が継ぎましたよ、本流の者が継ぎましたよ”と云う事を意味しています。「次」と使えばそれが本流と成った時に何時か「勘」と応えるのが慣習です。”最早本流ですよ”と世に宣言するのが慣わしです。
この事からも長島勘右衛門と長嶋次右衛門は同家の後継ぎ者である事が判ります。
尚、依って長嶋次右衛門から長島勘右衛門までは養子縁組などの変化は無く直系による男系跡目で引き継いできたことを意味します。』のお答えを頂いたのですが、
長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→長嶋次右衛門→(長嶋次右衛門→)長島勘右衛門
って事も考えられるのかなと思いましたので。
4.阿多倍と安部氏のレポートでところが、『この阿倍氏には九州の大隈と熊本との境あたりに阿倍という地名があります。多分ここら付近に阿多倍の館か何らかのものがあつたと考えられています。』の記載があります。この阿倍という地名が現在のどの辺りか分かれば
今回、の鹿児島旅行では、肝付町と霧島連山周辺へ行こうと考えている為、その辺りにも足を運ぼうと思います。自分で調べてみましたが、探すことができませんでした。宜しければ教えて頂けますか。
いつも質問ばかりで申し訳ありませんが、また宜しくお願いします。
小平の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトです。サイトには青木氏に関わる資料が沢山用意されていますよ。
ご心配なくお気軽にどうぞ。
さて、お便り遅れました。時間オバーのエラーと成っていました。
毎日暑いですね。昔に比べて2-4度くらい気温が上昇していますね。
関東も昔は関西より低い印象もありましたが、今や関西より高い位ですよね。
御祖母が亡くなられたとの事ですが誠にお悔やみ申し上げます。
早速ですが、小平の青木さん お家のルーツのお答えですが、”「蒙古班」漢民族”のカンが当っていますよ。
お家のルーツはお便りの情報で直ぐに判りますよ。はつきりしています。
「抱き角紋」と「青梅街道」と「小平」と「蒙古班」と「磯右衛門」と「地主」、「豪農」と「神明宮」と「お寺」と「家主」でお家のルーツが読み取れます。情報が揃っていて比較的珍しいですね。
他にルーツに関する何か気のついた事が有りましたらお知らせください。
さて、ではそのお答えから先に述べますと、「信濃諏訪族系青木氏」の名籍名家です。
上記の情報は繋がっています。
この「信濃諏訪族系青木氏」は歴史の遍歴で次ぎの3つのルーツに分かれます。
先ず、本流の「諏訪族系青木氏」です。
信濃には「皇族賜姓信濃青木氏」が奈良期末期から皇族として信濃守護王として定住していました。
この「皇族賜姓信濃青木氏」が、奈良期の末期からここに定住した後漢民の職能集団の首魁(諏訪族)一族と血縁をしました。
つまり、中国の後漢が、隋と唐に滅ぼされて「漢民族」が潰れ、この結果、「200万人の職能集団の17県民」が難民として阿多倍王に率いられて渡来し日本に帰化して来ていました。
この大職能集団は「部」と云う組織で構成されていました。そして九州全土を瞬く間に征圧し、次には中国地方まで無戦制圧して66国中32国を支配下に入れました。
むしろ在来民はその「部の技能」を享受して豊かに成り、進んで配下に入って行ったのです。(日本の第一次産業の全ての礎を築く)
そして、この次から次へと押し寄せてくる組織の後漢民の民の一部が奈良期の末期に中国地方から中部地方に移されて其処で開墾を命ぜられました。
主に背の高い馬(大型馬)を飼育する「馬部」等が牧畜放牧を中心にして定住しました。その為、未開の信濃は瞬く間に著しく富み、それを背景に平安期には信濃には豪族が出来たのです。
これが有名な諏訪神社の諏訪族です。
日本書紀にもこれ等の諏訪族の開拓民の事は詳しく出てきます。
蒙古班の情報はこの事です。元は後漢の漢民族です。
そもそも日本人は「7つの民族」の「融合民族」で出来た大変に珍しい「融合単一民族」です。
(研究室に詳しくレポートしています)
そこで、朝廷は「大化改新」の「天智天皇」から始めた仕来りで、天皇の「第6位皇子」を臣下させて賜姓する仕来りがありました。蘇我氏に天皇家が脅かされた経緯もあり、この反省から天皇家の身内から一族を護る親衛隊を創ったのです。
(青木氏の5代と11代の源氏の合わせて16代はこの仕来りで発祥)
この第6位皇子の「皇族賜姓青木氏」は、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の5家5流あるのですが、伊勢が施基皇子でその始祖と成ります。
天智天皇から光仁天皇までの男子の5代の天皇が天皇の第6位皇子を青木氏として賜姓して、臣下させて武家(侍の発祥源)とし、「天皇を護る親衛隊」を組織しました。
この上記の内の信濃と甲斐の「開拓地の守護王」に送り込みました。(伊勢、近江、美濃は元々主要国であった)
これが「皇族賜姓信濃青木氏」(A)の先祖で、この「信濃青木氏」と上記した豪族と成った「信濃諏訪族」の首魁族と血縁をしたのです。
この時、この「皇族賜姓青木氏」の分家は、諏訪族から「跡目養子」を迎えたのですが、2代続きで男系跡目が出来ず結局は女系と成り、養子先の系列の中に入り「諏訪族系青木氏」(B)と成りました。
昔の社会体制は氏家制度ですのでこの様に成ります。
この賜姓族の「諏訪族系青木氏」は室町期には、後に武田氏と血縁し、矢張り、男系跡目が叶わず「武田氏系諏訪族青木氏」(C)が発祥しました。
更に、この(C)が「諏訪族系武田氏族青木氏」(D)と成り(A)を元にこの3氏が発祥したのです。
従って、丸付きではない「抱き角紋」ですので、お家はこの(B)の「皇族賜姓諏訪族系青木氏」です。
「丸付き抱き角紋」はこれ等の支流一族です。
ところが、これらBCDの青木氏は、武田氏に味方し武田氏が信長に滅ぼされて、神奈川横浜等に逃げ延びました。(越後にも秀郷流青木氏をたより逃亡)
この時、母方の遠戚関係にあった特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」(116氏で構成する日本最大の最高の名籍氏族 朝臣族)に保護されてこの地に定住します。
(嵯峨期の詔勅により特別に皇族外から藤原秀郷の第3子の千国に一門の一族一門の護衛隊の任務を持たせ、天皇は特別に皇族外から青木氏を賜姓します。
秀郷は「平将門の乱」を平定した特別功労者でそれに対する論功行賞 母方一族の皇族賜姓青木氏を補佐する目的で賜姓した。藤原氏北家の摂関家筋の公家や貴族は武力を持たない原則なのですが、秀郷一門は特別に青木氏として武力を持つ事を許された。日本最大の武力集団)
しかし、この後、一部は神奈川横浜地区から離れ、勢力を盛り返すために藤原秀郷一族一門の手薄と成っている北域に移動します。矢張り、栃木の秀郷一門の「藤原秀郷流青木氏」を頼り移動します。
ここで、「藤原秀郷流青木氏」の北域の勢力拡大に大貢献し豪族と成ります。そして勢力を広げた地域には諏訪神社を多く建立しています。
この栃木の「諏訪族系青木氏」等の一族は「藤原秀郷流青木氏」を背景に仙台の直ぐ手前まで勢力を伸ばします。
そして、そこで、甲斐に定住した賜姓族ではない別の流れの皇族の「武田氏系青木氏」があって、徳川家康の家来となり武田氏滅亡で一族全員が埼玉鉢形に集団移転させられます。
(皇族青木氏は「嵯峨期の詔勅」で皇族の者が下俗する際に名乗る氏名と指定され他に使用を禁ずる。甲斐には賜姓族でないその一つの「皇族青木氏」と、守護王として定住した上記の第6位皇子の「皇族賜姓青木氏」も存在する。2つの流れの青木氏が甲斐に存在した)
江戸期にはこの徳川氏の家来と成ったこの埼玉鉢形の「武田氏系青木氏」(有名な柳沢吉保もこの青木氏)と、同じく上記の「藤原秀郷流青木氏(徳川氏家来)」の家臣と成り、その勢力を北関東一円の八王子手前まで伸ばしました。
その栃木の「諏訪族系青木氏」等3氏の一部が、徳川幕府の江戸の周囲を護る旗本御家人として「関東1000人衆」を組織します。この中の一つが有名な「八王子衆」です。
この「八王子衆」に「諏訪族系青木氏」は組み込まれましたが、大変に強く有名で豪農や名主や庄屋等の「半農武士」として生き延びて来たのです。歴史的経緯から観ると大変に苦労しました。
例えば、青木氏ではありませんが新撰組の近藤勇もこの地区の郷士組です。
これ等の人たちを江戸期では古い地元の武士団の「郷士、郷氏」と呼びました。
この郷氏と成った青木氏の「半農武士集団」を率いる郷士組護衛隊の主軸が「抱き角紋の諏訪族系青木氏」なのです。
青梅街道の情報はこの事なのです。
次ぎは「磯右衛門」の「・・右衛門」「・・左衛門」「・・兵衛」の「世襲名」は、この天皇を護る親衛隊に付けられた官職名で、宮廷の三門を護る役目があり、「武家の発祥源」である「賜姓青木氏」(朝臣族)にのみ許された永代世襲名です。(江戸期には無秩序に使用される事と成った)
平安期にはこれを彼の有名な「北面武士」と呼ばれました。
上記の「皇族賜姓青木氏」と、「藤原秀郷流青木氏」(武蔵入間を中心に半径横浜神奈川の円状の中に特別賜姓族の遠戚の青木氏がいる)のこの「2つの青木氏」にのみに許された家柄身分を表す呼称です。
次に、「神明社」はこの「2つの血縁青木氏」とその古くからの家臣団の「2つの絆青木氏」の守護神で、その「祖先神の神明社」が「青木氏のみの守護神」です。
「祖先神」は「天皇の皇祖神」(伊勢神宮)を引き継ぐ唯一の子神です。
ですから、青木氏が定住する処には必ず「皇祖神の伊勢神宮」の分霊があり、「祖先神の神明社」が建立されています。
つまり、お家の「信濃諏訪族系青木氏」の守護神の主神は「祖先神の神明社」なのです。
次に「武家の発祥源」である「2つの賜姓と特別賜姓の青木氏」は、古代密教の「浄土宗」を「菩提寺」としています。(檀家寺と異なる)
室町期中期までは「皇位の者」(朝臣族)のみが入信出来る宗派で、自らの氏の者を祭祀する独善の浄土宗派寺を持っていました。浄土宗に一般の者が入信出来る様に成ったのは江戸初期に徳川家康が特令を出して許可した事から始まります。それでも上級武士階級の範囲でした。
ですから、お家の皇族賜姓の「諏訪族系青木氏」は、この神明社を主神とし、諏訪社を副神とする2つを守護神とする諏訪族の青木さんです。
そして、菩提寺は元は古代密教浄土宗寺であった筈です。多分、信濃諏訪地方にある事に成ります。
関東にも古代密教の古いお寺が5つ程度あった筈です。この内の栃木よりのお寺が諏訪族系青木氏の菩提寺を勢力を関東で保持した時に神明社と諏訪社と共に建立したのです。
ですから、信濃には有名な諏訪神社と共に、元のこの青木氏の浄土宗菩提寺と、お家の守護神の「神明社」が栃木のどこかにありますよ。
然し、お家の大元の守護神は伊勢神宮です。ですから、この「2つの賜姓族・特別賜姓族青木氏」だけに許された主神です。(ですから、賜姓青木氏だけに「不入不倫の権」が与えられ本領は原則永久的に護られたのです)
一度、何時か「お伊勢詣で」を兼ねて青木氏の主神と、「諏訪詣で」として信濃諏訪社に詣でてはどうですか。
伊勢神宮の街燈灯篭には4つも大きな青木氏寄進の街燈灯篭がありますよ。
西諏訪地方には青木氏にまつわる色々な物が残っています。
つまり、伊勢神宮の皇祖神の下に皇族系の者の守護神として「祖先神の神明社」が子神と成っています。青木氏=神明社なのです。
信濃諏訪には、現在でもお家のルーツの諏訪(特に西諏訪地方)には青木さんが大勢いますよ。
おーい 青木さん と呼べばハーイと応える位ですよ。
埼玉の入間や八王子なども同じですね。
(青木氏の地名地形データーベースを参照)
これ等の青木氏は江戸期までは200から500人位の家臣を持ち、土地や家屋敷を与え地主や家主であったのです。
又、特に信濃と伊勢の青木氏には大きな影の「大シンジケート」を持ち、裏では「2足の草鞋策」として大商いや大地主などを営んでいました。
信長と伊勢丸山城の戦いで青木氏(伊勢−信濃)は勝利しました。信長の唯一の有名な敗戦です。
余談ですが、筆者の先祖は伊勢神宮を護る「伊勢の青木氏」で、明治35年まで950年も「紙問屋」をも片方で営んでいまして、大河ドラマにも3度も登場しましたよ。
お家等の「信濃青木氏」とは明治の頃まで親族として深い付き合いがありました。
お家の「信濃諏訪族系青木氏」ももちろんの事として、賜姓青木氏の5家5流は和紙の一連の殖産までを兼ねて全て「紙問屋」を裏業の「2足の草鞋策」として互いに連携し営んでいました。この5地方は5大古代和紙の生産地です。
お家の青木さんが農業をご先祖から営んでいた事から、昔は恐らくは生産から商いまでの古代和紙生産に関わっていた事(殖産農業)が考えられます。
上記した事は全て研究室に論文が在りますし、ルーツ掲示板のお便りや家紋掲示板や地名地形データベースなどに詳しく掲載されています。大変苦労して生き延びてこられた「青木氏の生き様」が見えてきますよ。
ご質問等有りましたら、このお便りを専用投稿欄としますのでReで何なりとお尋ねください。
掲示板には昔ご親類であった方からのお便りも多いですよ。諏訪族で検索してください
是非、膨大な論文に成りますので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。3年くらいは掛かりますよ。10年位前からヤフーの25倍の審査に合格し、歴史カテゴリーの段突日本一トップの情報量を誇っていますよ。ブログも含めますと一日に3000人から5000人が訪れてきます。
最近は青木氏外の人もご質問が多いのです。
(青木氏族には 青木氏の他に、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏 佐々木氏があります。これ等6氏を青木氏族と呼びます。)
HPの左メニューには物真似で有名な青木族の青木隆治さんが歌っている「青木氏の歌」もありますよ。
一度聞いてください。左メニューにあります。
因みに、おばあさんが丸付き紋に変更したとの事ですが、養子を迎えられたのでしょうか。
もし、養子であれば一次的に養子さんは丸付き紋か実家の紋を使います。本当は、”固い”と云う理由では無かったと思いますよ。日本一の名籍名家の家紋ですからね。
お家の場合は、形上は養子さんを迎えられたと観られますので、本来であればご主人は「丸付き紋」を一次的に使う事に成りますが、男子の子供さんがお生まれに成っていた場合は、元の丸付き紋の無い「抱き角紋」に戻ります。
「家紋掟」(研究室に掲載)と云うものがありまして、武家はそれに必ず従います。
江戸期まで守られていましたが、庶民も明治には苗字や家紋を使う様に成りましたので守られなく成りました。
お家に嫡子が生まれていた場合は家紋は、大化期からの1000年以上の悠久の歴史を持つ旧家中の超旧家名籍のお家ですので、「諏訪族系青木氏」の「抱き角紋」にお戻しくださる事をご検討ください。
では、ご質問や又お便りをお待ちしています。
始めまして、失礼いたします。
東京、小平の青木です。
私の家は昔から小平に住み今はかなり小さくなりましたが、農家をしています。
昔から土地持ちで、御大臣というアダ名がついていた時代もあったようです。
青梅街道沿いに小平が出来た時にどこかから移住してきたようです。神明宮とお寺と何軒かの家が青梅街道沿いに土地を縦に持ち暮らしはじめたようです。が、祖父は少し詳しかったようですが、私は最近結婚し、やっと家の行事や仕事を覚えようとしている所です。
小平が出来た頃からある、昔はとても大きく頑張って続けてきたお家なのだからと言われ。父や母はあまり執着はしていなかったのですが、私はひとりっ子の女ですがなんとしても青木を継いでいきたいと、結婚する時長男の相手に変わってもらいました。
が、青木についてよく知らないのは良くないと思い、ふと江戸時代以前小平に来る前はどこにいたのだろうか?と青木の小平以前のルーツが気になっていました。純粋にどこかの豪農の分家なのかと思っていました。
また、赤ちゃんが生まれ、私も母もそうだったのですが、蒙古斑が三世代ありません。うちの母の姉妹の子も1人を除き蒙古斑が無かったようです。漢民族には蒙古斑が無いとかネットで見たのですが。今回以前は江戸時代より前に西洋系の血筋が混じったのかな?とか思っていました。
いそ右衛門だったかからの戸籍しか、戸籍が作られたのが最近なので、小平以前がわかりませんでした。改正原戸籍を以前とったのですが、実家にあるのでまたお盆に調べてみようと思います。
家紋は抱き角で、正直なんでこんな家紋つけたんだろうと思っていました。お婆ちゃんにいたっては、女性にはゴツいからと抱き角に丸を勝手につけてしまいました。なので結婚式では母の着物はあまり考えず、丸に抱き角でした。
また、今後色々と調べてみようと思います。
今、この文章を記入している間に100歳に近い祖母の訃報の連絡が来ました。相続などでまた忙しくなりそうなので、ゆっくり青木のルーツを学んでいきたいです。
私が出産して、次の年に亡くなるなんて‥とても不思議な気分です。
それから、HPで質問が公開されてしまうと、特定されてしまうような言葉、住所、名前が晒されているのが少し怖いです。
今日は。静岡の長嶋さん
歴史を知る事は伝統を知る事であり、伝統を知る事は先祖を知る事であり、先祖を知る事は我を知る事の現れだと思います。
現在はこの伝統が薄らいでいる事が気に成ります。
余りにも喜怒哀楽に人生の目的を求め過ぎたことだと思います。
その為に仏教では厳しく誡めている「刹那主義」が蔓延り、恥も外聞も無く”その日その日の生活を楽しめばよい”等と実しやかに発言する人が多く成りました。
その日その日を楽しむ事は継続性のある「伝統」を軽視する事に成り、当然に先祖を軽視する事に繋がり何時しか自らを否定しなくてはならないことに成り付きます。
その為に若者の自殺行為が多くなるのですし、行き詰まると犯罪に走る事にも成ります。
次回の論文は家訓の9番目の論文に入りますが真にこの事について戒めているのです。
と云う事は、青木氏族にもこの様な刹那思考の蔓延った時期があった事を物語ります。
恐らくは、生きる事も侭成らなかった平安中期から室町期の下克上と戦国時代の時期に生きることの難しさが起りこの刹那思考が蔓延った事を意味しています。
弱い人間として観ると、色々な方法があると思いますが、私は、一番に自然に、自らを律し自らを保つには歴史を知る事から始まると考えています。
この様な事を考えて歴史探訪をされるとより一層深いところの先祖を知る事に成ります。
それが歴史の羅列だけでは無く「真の伝統」を知る事に成るのではと考えます。
さて、余談は過ぎましたが、前回のお答えにご理解いただきましたか。ありがとう御座います。
では、今回の2つのご質問にお答えいたします。
先ずは最初のお尋ねですが、
後漢=高句麗の件ですが、この検証には次ぎの「3つの要素」で考えなくては成りません。
一つは「人」の括りです。
二つは「場所」の括りです。
三つは「時」の括りです。
一つ目の「人」の括りではここでは「人種」或いは「民族」と云う事に成ります。
「後漢」の人種は「漢民族」と成ります。
高句麗は「漢民族」なのかという事に成りますが、明らか正確には違います。
純粋な漢民族ではありません。光武帝が征圧して興した東国の中には朝鮮族まで含みますが、統治時代に血縁して融合民族が生まれましたが、三国志に書かれている純粋な漢民族ではありません。
この「後漢」と云う括りに歴史的な経緯から判断に難しさがあります。
筆者はむしろこの「後漢」に付いては「後漢国」と云うよりは「後漢人」と捉えて論じる必要があると考えています。
国として考えるとこの歴史的な経緯が複雑で間違いが起りやすいのです。
確かに、高句麗は中国系朝鮮人の括りに入りますので、歴史的な経緯からすると後漢人との血縁族と成ると思いますが、光武帝から21代目末帝の献帝まで石秋王の子供の阿智使王と孫の阿多倍王は東国域に分布した後漢人であります。しかし、この時には最早、国としての括りではありませんでした。
漢人の三国志の中に住む後漢人です。この中国の東域には後漢人の三国志の通り小国が乱立し遂には統一して献帝の傀儡政権の魏が起こります。阿智使王や阿多倍王はその乱立した民族の王朝族の末裔として扱われていたのです。(900年代の後漢・こうかんと間違う)
故に後漢人として括るのであれば東国の西よりの域に定住した人種と見るべきです。
依って、純粋な「高句麗国」又は「高句麗人」という事ではありません。
論文中の「後漢」の表現は全て「人」の括りでご理解して頂きたいのです。必ずしも国としての括りではありません。
二つの「場所」として、論じれば、国として括れば「高句麗」はその西域の一部である事に成ります。
上記の通り「人」を括りとして論じていますので厳密な「場所」を特定した国の括りではありません。
後漢の場合は三国志から観ても「国」の括りでは論じる事は歴史的経緯より誤解を生み且つ論じる事はかなり難しいと考えます。(後漢難民17県民を配慮して目安として表記したものです。)
三つ目の「時」の括りとしては光武帝より献帝−石秋王−阿智使王−阿多倍王までは「国」と同じく「時」も論じるには同じ危険を潜んでいます。
以上の様に、「歴史的経緯」、つまり、「三国志の内容」から「人」の括りで論じる事が大切で必要であると考えます。
全て、歴史に限らず仏教や禅宗の教えにもある様にこの世の森羅万象はこの「3つの要素の如何」(三相)を考慮して初めて正しい結論を導き出す事が出来ると解いていますし、又、私も全く同じ考え方を持っていますし、この考え方が「青木氏家訓10訓」にも成っていますので正しい判断要素だと信じています。
「後漢国」、「後漢人」、「後漢期」と限定すればその限定した括りで思考判断すれば良い事に成りますが、「後漢」とした場合は、この「3つの要素」を幾らかの比率での意味あいを以って表現している事に成ります。依って「阿多倍」のことを論じる場合は「後漢」として表記し「人」に重点を置いた意味あいの表現方法と成ります。
当然に、「後漢国」「後漢人」とする場合は、「後漢国」は光武帝から献帝前の期間での国として明らかに存在した状況をさす事に成ります。「後漢人」は光武帝から阿多倍までの人の状況をさす事に成ります。
これ等の事を理解して頂く為に、青木氏の研究室には個々に分離して論文を記載しています。それをご理解頂いた上での「後漢」の表現と成っています。青木氏に関わる事としてこれ等の説明を一つにまとめた中でして表現し論じる事は物理的に困難ですので、全て「後漢」としています。
(注釈 実は、科学系の論文と違い文系の論文はこの様な微妙な表現があり、筆者の苦手とする処でサイトの全ての論文ではいつも何回も見直して修正編集を繰り返す始末です。つい”判っているだろう”と頭の中で無意識に思ってしまって不祥に成ってしまうのですが、一般の人として”後で読み直すと何を書いているのか判らない”と云う事が異たる処で起こり修正編集する始末です。技術系論文はわかっているだろうとする基本的な事は省くが常道で、判らない人は調べて技術力を高めるが論文の目的ですので癖が付いてしまっているのです。上記、下記のご質問のお答えも「三国志」の事が関わりますので、済みませんが書き込むと大変な長分に成って仕舞いますので、時期を見てお読みください。)
さて次ぎは二つ目のご質問ですが、上記の論調手法に従っています。
敢えて大まかには日本の帰化人は「7つの民族」の「融合の比率」から判断して大きく国に関わった帰化人は3つになると考えます。(詳しくは研究室に)
その内の二つはこの後漢と朝鮮の地域からの帰化人と成ります。
後漢は2期に渡ります。
朝鮮も2期に渡ります。
この二つの帰化人が良く同じとして間違われるのですが、別なのです。
朝鮮系は主に南朝鮮半島域の百済国の崩壊によるものですが、第1期は応神王(応仁王)が大阪湾に5世紀はじめに大船団で入国し岸和田の泊まりから上陸して、当時、関西の国を5族でのヤマト連合国家を形成していましたが、先ずその一つの「紀族」と「巨勢族」を攻め滅ぼし、紀伊半島の新宮から奈良盆地に入りました。そこで盆地の状況から補給路が絶え、他の3つの族との戦いで苦戦します。
そこでそのままでは全滅する恐れから休戦を実施し、この5つの族との話し合いを行い、結論としてこの朝鮮族を含めた6つの族に大王を定め、これに朝鮮族の応神王が初代連合国家の大王と成ってヤマト王権を樹立させます。
そしてこの応神大王がこの5族との血縁族を造りヤマト王族が成立したのです。
これが正式な天皇家の初代の王であり後に天皇と呼称した人物です。
この時に、正確には判明していませんが全難民は50万人程度(1018年頃まで)ではなかったかと言われています。
ボートピープルとして入国した難民の朝鮮人には第1期と第2期の帰化人が入国しています。
この第1期とも云われている物部氏や蘇我氏部等氏が王権内で後に力を持ちます。
間違いを起している問題はこの第2期の入国期と後漢の第1期の入国期がある程度の範囲で重なっていた事にあると判ります。
ただ問題は入国主な地域です。朝鮮族は一つは船で下関に渡りまた船で瀬戸内を通り大阪湾に入り、そこから関西に移動して来て定住しています。
しかし、後漢は福岡に入り其処から先ず南下し九州全土に流れ定住し、その後に中国地方域までで止まっています。一部は信濃甲斐に移動させられていますが、先ず地域が異なっています。
次に朝鮮族は上記の様な経緯から関西に大和に3世紀頃の元より繋がりや所縁のある所に移動定住しています。又、後漢の帰化人の様に正式な帰化の申請をしたと云う経緯が見付かりません。
つまり、「時人場所の経緯」が全く異なっているのです。他にも組織で入国した後漢族と無組織で入国した朝鮮族との大まかな違いなど沢山ありますので、その判別は簡単です。
この事からも下記のご質問のお答えの一部と成ります。(「武寧王」の件は余りにも時代考証の稚拙説)
無秩序で入国し帰化した人種は1018年頃を境に一挙に無くなりますが、大蔵種材による九州自治(「遠の朝廷」と云う称号を与えられ「錦の御旗」を個人として受ける)の大宰府の太宰大監の時から武力によってこれ等の海族のような行動を採る無法入国者をブロックします。ここで徐々散発的に発生していた後漢と朝鮮人の入国は終わります。
さて、ヤマトの国に大いに関わる有名な「武寧王」は「百済国」の第25代の王(在位:502年 - 523年)ですが、「武寧王」は若い頃大和に長く人質として滞在して、その時に生まれた子供が「淳陀」と云いますが、日本の古い書籍には良く出てくる人物で、そのまま定住したこの末裔子孫が「高野新笠」だとする説があるのですが、これは阿多倍が勲功として青木氏が支配する伊勢北部伊賀地方を半国割譲して薩摩大隈の隼人(大隈も半国割譲)からここ伊勢に住み着きます。この子孫と淳陀子孫だとして混同している説ですが、何の証拠もありません。百済と後漢の違いです。
百済は新羅・高句麗に圧迫、後漢は隋・唐に圧迫ですが、これらの経緯の違いがよく間違われています。
結論は現在では全く別で、上記した現在確定している帰化人の内容から別のものである事か判っています。この「武寧王説」を主張している事にはある種の思惑が介在しています。
又、日本書紀などに記載されている資料と伊勢の地理的な事や阿多倍がここに住み着いて「大蔵氏」や「たいら族」(国香−清盛の5代)を発祥させた事の史実として確定していますので明らかに異なっています。桓武天皇期にはこの阿多倍王の別名の高望王(高尊王 朝廷命は平望王)に勲功を与えた史実もありますし、「高」の字句の使い方からも「高野新笠」は孫娘と成っています。この「高野新笠」は伊勢に住んでいた事も判っていますので、それと伊勢青木氏の始祖の施基皇子の長子の光仁天皇と同じ隣の伊賀北部に住む「高野新笠」が血縁して桓武天皇が生まれていますので、まだこの様な史実が判明しない頃の造り上げた推測説で現在では間違い無く「淳陀」の末裔とは成りません。「淳陀」は飛鳥と成っていますので地理的にも違っています。
(桓武天皇は平安遷都 伊勢は天智天皇期の皇祖神遷座決定地 光仁天皇は桓武天皇の父で伊勢の住人 桓武天皇の母は高野新笠 高野新笠は伊勢の高望王の孫娘 歴史経緯も明らかに違います)
この様に上記の「3つの要素」を明らかにして行くと「・・説」がどの様な説であるか、またどの様な思惑と背景で説が出来ているかは判って来ます。
青木氏と阿多倍子孫とは伊賀古代和紙でも繋がっていますし、源平の初戦の「以仁王の乱」の時にもこの縁続きの所縁で主謀者の源頼政の孫の2名(宗綱と有綱)の助命嘆願がかなえられ日向に配流しています。(頼政の孫の三男京綱は伊勢青木氏に跡目相続として入る 宗綱子孫が日向青木氏)
歴史的な事は現在判明していてこの「武寧王の説」は上記の2つの帰化の史実の不祥期に論じたもので思惑は別にしても古過ぎます。
「高野新笠」の事は青木氏と大いに関わりのある人物として青木氏のみならず、血縁族の他氏でも研究されていて「高野新笠」の事も研究が尽いています。
(研究室の個別の論文を参照 「晋から唐代の後漢と高句麗の関係」に付いては「三国志」と「後漢書」をお読み成れば良くわかります。)
恐らくはお家はインターネットのところでこの珍しい古説を観たものと考えますが、インターネットでの歴史解説の説には過去の資料の良悪は別としてそれを根拠に論じていますし、思惑背景が介在させています。そして室町期中期以降の資料には時代背景から、これらの資料にはこの良悪の思惑如何が挿入されていますので先ず用いる際には注意が必要です。
氏や団体が遺した思惑の入ったこの時期の資料を正として殆ど論じています。その為にはこの「3つの要素」と「3つの手段」で充分に検証して用いる事と又信じられる事をお勧め致します。
追伸
さて、前回のお答えに書き込まなかった事があります。それは大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の右衛門、左衛門の世襲名を一代限りか永代かを調べるには、上記の「3つの要素」を基本でお調べに成ると良いと思います。
と云うのは、一代限りの世襲名であるとしても長嶋氏には永代として使用できるある時期である特別な根拠があるのです。
前回のお答えで述べると誤解を招く事になるとして記述しませんでしたが、先ず一番最初にこれを名乗った人物は誰なのか、何時なのか、何処で名乗ったのか、そしてそれがどの様な理由、目的、手段の3つの要素の何故なのかを確認する必要が出て来ます。
そこで前回には敢えて記述しませんでしたが、先ず世襲名の基本をご理解頂いたので、そこで私は、この手法で以前に調べた事として次ぎの事を改めて今回記述します。
「九州永嶋氏の発祥出自の環境」
先ず最初に名乗った人物には、大蔵氏から母方の跡目の永嶋氏を名乗った時、つまり、永嶋氏を名乗る以上は関東の藤原氏の北家の名籍で、且つ「関東屋形」と呼ばれた氏に相応しい家柄を示す官職を付ける必要が出てくる筈です。ただ名乗れば良いと言う訳には氏家制度の中では行きません。名乗る以上はこの行為が絶対に必要です。名乗る特別な理由が必要で在った筈です。
昔の人が大事にした人間としての行為の「大儀明文」です。その場合は「家柄身分の誇張」が氏に執っては絶対に必要です。特に九州全土を統治している大蔵氏には欠かせない事であります。
日本最大名籍で日本最大最古の大豪族の大蔵氏から氏を興すのですからそう簡単ではありません。
それに相応しい身分と家柄が必要です。それには母方の永嶋氏にも勝るとも劣らずの永嶋氏と長嶋氏が持つ最大官職を名乗る事が必要です。大儀を作る以上は取って付ける訳には生きませんし、その名乗る理由と目的とそれに相応しい手段がはっきりしなくてはならない筈です。
つまり、まずは”この名籍の大蔵氏に執ってもそれに見合うものは何か”です。
朝廷が承認した正式な名籍の皇族の血筋を引く大蔵氏族にも欠けているもので「武家」としてただ一つありました。それは、「六衛府軍大将・近衛将軍」です。それは天皇に継ぐ最大権力者です。
前回のお答えの三門を守る「近衛軍の長官」です。十二階の階級に分けられた「北面武士の長官」です。
平安中期前は「武家」の長の「3つの発祥源の青木氏」の最高官職であったものが、平安後期の後に武家では無く、一時、公家の藤原氏北家摂関家に引き継がれたのですが、これが武家にとって何物にも代えられない最大の権威です。(「たいら族」が台頭して来た時期)
ここから「征夷大将軍」や「鎮守府将軍」や「鎮西将軍」(征西将軍)などが任命される仕組みでしたが、長嶋氏・永嶋氏は永代のこの「鎮守府将軍」の家柄です。又阿多倍の次男の大蔵氏の兄の長男坂上氏は「征夷大将軍」の家柄でもあります。当然に大蔵氏から何等かな理由で永嶋氏を継承する以上はこの二つのどちらかに近い官職を継承する必要があります。そして且つ大蔵にとって名誉である事が必要です。
然し、どんな場合でも「朝廷の勲功」による「任命」が無くては勝手に官職やそもそも氏までも名乗る事は出来ません。
そして、「朝廷」も任命する特別な根拠無しには出来ません。ではこの時期にどの様な根拠があったのでしょうか。
何かが在った筈です。大きな理由が在った筈です。(大蔵氏に大事件がありました)
当然に従って、秀郷一門からの任命は、本来無い筈の大蔵氏支流一門の形と成りますが、そこに本家筋の「永嶋氏」を名乗る以上はそれにふさわしい世襲名の官職を名乗る必要が出て来ます。
「氏家制度」の社会の中で「八色姓制度」の縛りがある以上は名乗る根拠が必要で、勝手に大蔵氏が朝廷の認可なしでは氏もこれに伴なう官職も名乗る事は絶対に出来ません。
しかし、では史実は名乗っている訳ですから、それが誰で、何時であったのか、どんな理由で、どんな目的で、どの様なやり方かで大きく変わってきます。
この時期は平安末期−鎌倉期に重なる複雑な時期とも成ります。
恐らくは支流であった事から一代限りの世襲名を朝廷に申し込んだ筈です。或いは朝廷側から任命した筈です。この事で当然に名籍の出来事ですので、朝廷の中で激しい政治的な駆け引きがあったと考えられます。然しながら、朝廷も大蔵氏もその申請認可には拒絶する根拠はありません。
朝廷は、「官僚の首魁の大蔵氏」−「斎蔵の首魁の永嶋氏」の関係の事は承知している筈ですので、認める必要が出て来ます。
(この時期は江戸期の誰でも金のある者が幕府に申請して後に朝廷からもらえるものではなかった。)
そうすると系譜・添書から絞り込むと、「種秀」か「種親」か「種武」かの3人の誰かと成ります。
そうするとここで、「種輔」より3代目の「種直」(大蔵氏族原田姓を名乗った)が太宰大監であった時に、阿多倍の末裔の同族の「たいら族」の「清盛」にその立場を奪われた大事件がここで起っています。
その直後の「種秀」ですので、朝廷は代々九州全土の自治を治めていた名籍の大蔵氏を怒らす訳には済まなく成ります。恐らくは、怒らせると朝廷は成り行かなくなります。
なぜならば、九州全土と陸奥域を相手に戦いとなる事は必定です。両方から最大勢力に挟撃されては太刀打ちできませんし、この時期、藤原氏、源氏、平家はこれに対抗する勢力は全くありませんでした。
後白河天皇(この事件の後すぐに譲位する)と朝廷は「たいら族」を引き上げ、且つ大蔵氏の財力の一部を吸い上げる為にこの様な裁定を清盛に強引に命じたのです。(清盛も武家の勢力を高めるには瀬戸内の権利を大蔵氏の後押しで掌握した時からこの事は期待していたのです)
(その同族の大蔵氏は税を全九州自治を名目に殆ど納めていなかった。記録から主要国1国の1/5程度 この有名な事件で「たいら族の清盛」は「宗貿易」を始め財力を蓄えたのです。その太政大臣まで上り詰めた最大のきっかけでした。)
この事件を朝廷が納めるには、犯罪も犯していないで奪われた大蔵氏の官職「太宰大弐・太宰大監」に匹敵する官職を与える必要に迫られたと観られます。
藤原北家一門の中から藤原氏北家筋の秀郷一門の永嶋氏を名乗らせる事と、太宰大監に匹敵する官職を例外的に支流一門として与えて治めようとしたと考えられます。
同族ではある「たいら族」の清盛もこの時期まだ大蔵氏の反乱は清盛の勢力(国数、石高、貿易財力の全てに1/10位の勢力)の及ぶ範囲ではありませんから戦いだけは何とか避けようとして動いた筈です。
然し、九州の「太宰大弐」の官職が「たいら族」発展の為に絶対的に必要に迫られていたのです。
(史実から現実に動いた 現実に同族の衰退事も嫌った史実あり)
それに見合うものとして「六衛府軍」の長の「3つの将軍」に継ぐ「右・左衛門佐上」を与えたと考えられます。
これを直接大蔵氏には与える事は仕来りにより出来ず「朝臣族の身分」の賜姓青木氏か秀郷流青木氏の藤原氏ではなければ成りません。その手段が名籍の筆頭の「永嶋氏」の氏の血縁授与なのです。
これが秀郷一門の支流(宗家の永嶋氏系譜添書より政略血縁あった)である為に仮に一代限りであったとしても家柄身分の系列として永代を名乗る事は「蔭位の令」に従い可能と成り不思議ではありません。
上記の事件の経緯から永代を天皇家の仕来りから正式には困難であっても暗黙で認めたと考えられます。暗黙で認める根拠は充分にあります。
これが大蔵氏宗家から別の氏を興して名籍の永嶋氏を名乗った経緯でもあります。
(これは平安末期の朝廷内での大蔵氏−藤原氏の関係での政略血縁と観られる。「跡目養子」か「嫁入り」かは現在不明だが一般的仕来りからは永嶋氏からの「跡目婿入り」が原則です。このどちらかで意味合いは異なるが 大蔵氏系の意味合いが強い事から「嫁入り」ではないかと考えている。 鎌倉期に興った永嶋氏から長嶋氏の継承は伊勢長嶋氏からの「跡目婿入りで継承」である事は状況判断から判る事から平安期のこの件では宗家永嶋氏からの「嫁入り」ではないかと観ています。)
では、”この3人の内の誰か” 事件性から観て添書から読み取れる人物は「相伝の種秀」>「太郎兵衛の種親」>「種武」となりますが、「種武」は菊地氏と血縁しているので低いと成ります。
添書より明らかに「兵衛」を最初に名乗ったのは「種親」です。
しかし、添書では「種秀」は「相伝」とありますので、「種秀」の子供の妾子の「頼種」は僧侶となり世継ぎの子供が居ませんので、「兵衛」の祖父の弟「種嗣」のその孫の「種親」に「永嶋氏の跡目」を継がせていますし、添書からその「兵衛」を名乗った最初の人物と成ります。
そしてこの時期は平安末期で平家全盛期と完全に時代考証は一致します。
これ以後は鎌倉期の「肝付氏−長嶋氏の発祥」に繋がる境目です。
この間65-80年の3代から4代以内の間です
(別のレポートで論じている朝廷外の関係から再び平安末期の「大蔵氏−永嶋氏」の関係から鎌倉期の「永嶋氏−長嶋氏」を名乗る時にも繋がる根拠は存在した。)
つまり、それ以外には大蔵氏と九州永嶋氏の系譜添書には「兵衛」は居ません。(九州大蔵氏にも)
これでお判りに成ると思いますが、本来、世襲名の無い筈の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の世襲名の名乗りの元継承は大蔵氏系日向永嶋氏の「相伝の種秀」と「兵衛の種親」との2人と成ります。
その後は以前のレポートの通りの世襲した直系氏孫(肝付氏族の長嶋氏)がこの「兵衛の官職」(「左衛門佐上」)を引き継いだと観られます。この引継ぎには従って上記の「永嶋氏継承の経緯」より問題は無い事を意味します。
念の為に「種秀」の父「種有」と祖父「種貞」は「右馬允」の官職を引き継いでいました。
突然に父や祖父の官職より数段の上の名誉ある官職に成っています。これには何かあったことを意味するのです。
更には大蔵氏は代々「従5位下」で、永嶋氏は代々「従四位下」の有品の身分差があり、四位以上が公家貴族に成れる仕来りですから永嶋氏の方が上です。(この2回の身分立場の差の扱いは実に大きい)
ですから、本来は大蔵氏族は「官僚族」の「五位」ですので「右・左衛門佐上」には成り得ない身分です。
其処に永嶋氏を血縁で継承させる事で実質大蔵氏を引き上げたのです。
曽祖父の「種輔」は最高の官僚職の太宰大監、長門権守、岩門少卿の官職を持っていましたが、曾孫が更に武家の最高の名誉を得た事を意味するのです。
これは「公家貴族族の摂関家藤原氏北家」に対して「官僚族の大蔵氏」が身分的に並ぶ立場と身分を朝廷内に得た事を意味します。
「太宰大弐」等の立場は失ったが、この直ぐ後(大蔵氏系永嶋氏発祥後 「右・左衛門佐上」任命)に官職を清盛に奪われた前任の「大蔵種直」(原田氏)の弟の「大蔵種俊」(三原氏)に「太宰大監」(長門権守、岩門少卿も)の立場を再び本領と共に安堵されます。
これはつまり、「右・左衛門佐上」の武家としての「官僚族の大蔵氏」は「最高権威を獲得した事」で「貴族公家の藤原北家筋と並ぶ位置」まで上昇したし、「藤原氏と縁続き」に成り”「失った物無し」”の結果が残ったのです。
これらの対応策は、恐らくはこれは同族(阿多倍一門−清盛5代前同族)の大蔵氏を護る「たいら族」清盛の一連の策略であったと考えられます。
「宗貿易」をするにしても九州域の協力を得なければ貿易する品物も調達する事は出来ません。
何しろ阿多倍一門の組織は「物造りの部組織」であり、つまり、「品部の協力」無しでは成り立ちません。
まして、先祖の大蔵春実の時に「純友の乱」(海族問題)が起こりますが、この時に大蔵氏は瀬戸内全域と九州海域の警察権(瀬戸内令外官追捕使)を正式に獲得しています。そして同時に「大蔵春実」は同族「たいら族」をこの瀬戸内海域に導いていて安芸−播磨守護にして、且つこの域の問題の海族を配下にもしてもらっているのでこの恩義が清盛にあります。”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われる程のこの海域の警察権を持つ大蔵氏を敵に廻しては「たいら族」発展の基礎となる「宗貿易」どころか「太宰大弐」等の官職さえも名前だけのものと成り得ます。大蔵氏族の協力無しでは成り立たないのです。
だから、大蔵氏の永嶋氏継承策が完了すると同時に「大蔵種俊」に本領安堵したのです。
当然役職上、この指名権利は「太宰大弐」の清盛にあります。朝廷は当然に清盛の指名ですから任命せざるを得ません。清盛(たいら族)は「瀬戸内の一連の恩義」がこの同族の大蔵氏にあります。
つまり、これは明らかに「たいら族」の「清盛の一連の策謀」だったのです。
そして同族の大蔵氏の反発も避けて、大蔵氏の身分を引き上げて大蔵氏の九州一帯の勢力を高め、藤原氏北家筋と縁続きに成り一族の安定を図り、且つ一族一門の争いも避け、更に互いに両立する為にも「宗貿易」からの利益を共有したのです。同族2氏が共に発展する道を選んだのです
確かに「種俊」にこの戻す本領安堵の権力は、この時、既に朝廷内では清盛だけにあって、「(保元)−平治の乱」の「信西」(藤原氏南家)の死亡後(1160)に藤原氏摂関家から「たいら族」清盛に朝廷内の実権(後白河院政)は完全に移っているのです。
「大蔵氏系永嶋氏発祥」(1155−1159)にはこの様な経緯があったのです。そしてそれをある歴史的経緯の引き継ぎで大蔵氏系肝付氏族長嶋氏が発祥したのです。それが「・右衛門・・」なのです。
(この時の摂関家の長は有名な凡庸人物 上記した一時期の異例の公家の「近衛大将」に祀り挙げて飾り物になった人物でここから政治を推し進める能力が低下して摂関家は衰退した。変わりに清盛の実権は高まった。)
(「青木氏と守護神(神明社)]の論文にも詳しく論じています。)
この「3つの要素(人時場)」と「3つの手段(理由目的手段)」を組み合わせてそれで答えを導き出して行く方法で調べ上げて行くとこの様にこの時期の「永嶋氏の生き様」が見えて来て結論が出てきます。
お家のご先祖の本当の生き様がプロネタリュウムの様に映し出され見えて来るのです。
筆者が思う大事な事とは、この「生き様」を描きあぶり出す事ではないでしょうか。その上でお家の独自の系譜が出来上がるべきと考えますが。
他の青木氏に関わる論文も青木氏族としてもあわせてお読みください。
そうすると色々な事が見えてきますよ。
これが前回のお答えです。
この様に「3つの要素」と3つの手段」を以って、インターネットなどの一つの資料だけに余りに頼らず、「歴史的経緯」とあわせて調べてルーツを割り出してください。注意する事はインターネットの資料には必ずエラーとバイアスを持っています。このエラーとバイアスをどのように扱うかは個人の自由ですが、老婆心ながらご注意申し上げます。
要するに、「3つの要素」と「3つの手段」でエラーとバイアスを小さくして、その事の「繋がり」を導き出す事が大切です。
ネット上等の情報はあくまでも相対的な短編的な情報で必ずしもお家の情報とは絶対に成り得ません。そんな個人事はネット上等では表現と論じる事は現在では法的に不可能だからです。
ましてエラーとバイアスを持っているのですからね。ネット上等では陥りやすい欠点です。
あくまでもデータの一つです。まして現在では個人情報保護で個人事と氏の事を書く事は違法と成っていますから余計に無理と成ります。
大蔵氏と永嶋氏の添書や特別な系譜を調べたから出来た個人事で、今回の筆者のお答えもお家のものとなっていますが、ネット上等では不可能なのです。より個人事に近づけるには「3つの要素」と「3つの手段」の組み合わせで個人事になる筈です。
実はこれも科学系の間違いを起さない論文の絞込みの手法です。(このことも詳細は研究室に記載しています)
では又判らない事が有りましたらお尋ねください。
福管理人さん、有り難うございます。
鹿児島旅行お疲れ様です。羨ましい限りです。
私も、9月の初めに計画しています。今回は、初日は阿多倍王、阿智王ゆかりの物に出会えるかなと考え、湧水町から韓国岳周辺、旧隼人町を廻り、2日目は肝付町を訪れ、肝付氏代々の墓と高山城、3日目に鹿児島県立図書館で書籍を読みあさろうかと思っています。
運の良いことに、旅行の前の週は、奈良で講習会を受けることになり、足を伸ばし明日香村を散策し、於美阿志神社等も訪れる事としています。
『右衛門』件、非常によく分かりました。
江戸初期の長嶋次右衛門、江戸末期の長島勘右衛門どちらとも『右衛門』を名乗っていたので、この間の方々を繋ぐキーポイントになるかなと思い、伺った次第です。
結論としては、この間の方々が『右衛門』であったとしても偶然と考えるのが、自然で、可能性としては、代々ある程度の地位についており、武士階級でお金があれば名乗れる「一代限りの世襲名」か、一代限りなのに無視して名乗り続けたと言うことで理解しました。
『通り名』の「前付」と「後付」も理解できました。親族間の協議と思惑(本家の意向)については、現在から考えると少し驚かされますが、家を守る重要性を感じました。鹿児島県史料の系図を見ていても、様々な想像ができ、楽しく見ています。
ところで、『青木氏と日本書紀』を拝見していまして、気になる部分があり、下記に示させて頂きます。
<抜 粋>
入国経緯
第1次(前期)としては、隋が後漢を含む朝鮮半島を征圧する為に東征したが失敗し、そのために隋は弱体化して、結局、後漢と共に唐に618年に滅ぼされる。この時の2度の圧迫(隋唐)で難民が生まれ、その時、第1次(前期)は、先行して、後漢(高句麗)の漢氏(東漢氏)、司馬氏、秦氏、陶部氏、鍛冶部氏、等が先ず入国(582年頃前後)したとあり、渡来人の秦人、秦人部、秦部等(弓月君始祖)の秦氏の一部族だけでは約7053人居たと記録(宣化、欽明天皇期頃の記録:570-580年)にある。
この数字から観ると、従って、新羅百済の朝鮮系の渡来人を入れると、「部」の技能組織は、記録から調べると40−50程度と観られ、590−630年の間には40−50万人は入国していたと見られる。
第2次(後期:最盛期)としては、次に唐に圧迫(616-618頃)された後漢も滅亡し、618年前後頃か難民で入国、孝徳天皇期(650頃)が頂点となり、以後下降(670年頃)となり、後漢民の終わりは710年頃で200万人とある。(全難民は250-280万)
の部分です。この『後漢(高句麗)』は、後漢=高句麗と理解して良いのでしょうか?
高野新笠が武寧王の子孫とか遠戚と云うこともヴィキペリアなどにも記載があり、青木氏サイトでは、高野新笠は阿多倍の子孫の記載もあり、阿智王、阿多倍王は百済王朝と関連があるのかな?と素人考えを持ったのですが。
晋から唐代の後漢と高句麗の関係を教えて頂けますか。宜しくお願いします。
静岡の長嶋さん 今日は。お元気ですか。
お便り遅れました。申し訳ありません。
実は鹿児島に旅していましたのでお便りが出来ませんでした。
矢張り薩摩の雰囲気と人の顔かたちと人柄と伝統的な習慣が違う事が強く感じました。
それは関西付近との比較ですが、その事からすると”薩摩のルーツ探求は難しいな”と思います。
何か感性が働かないと云うかピンと来ない気がします。
以前にも研究している時に感じていたことなのですが、矢張りこれは自然環境から来るものだと感じました。人間の感性はその長く住む自然環境に大きく左右されていると云う事だと思います。
丁度、桜島が噴火して火山灰が毎日10センチも積もる様な環境では温暖な関西の様には往かないなと思います。
>肝付(長嶋)兼道−娘(新納忠秀長子養子:肝付兼康)−長男:肝付兼親、次男:長嶋次右衛門
>という推測です。
>可能性としてはあるのでしょうか。
>あと、2つ伺いたいのですが、
>1つ目は、通り名についてで、例えば、肝付兼続と肝付秋兼、大蔵義種と大蔵種親の様に後に来る場合、先に来る場合がありますが、規則というのがあるのでしょうか。
>2つ目は、例えば江戸期で名前に〇〇右衛門とつく家は、代々〇〇右衛門と考えて良いのでしょうか
さて、先ず、第1のお尋ねですが、可能性は高いと思います。
薩摩域には他の県と一つ違う習慣があるのです。
それは世襲または後継ぎの件です。
それは江戸期から”嫡子は長男”と家康が徳川氏の家光の世継ぎ事件の事で決めた事から以後そうなったのですが、薩摩は矢張り反骨の精神が強く、713年の朝廷に反骨した事件から江戸期までの歴史経緯から見てもでも判る様にまたもや違うのです。
嫡子は一応は長男としますが、実際は末子が多い事なのです。
肝付氏の氏の波乱に満ちた歴史的な経緯からして、前のお説のように 次男:長嶋次右衛門の扱いが違っていたと考えます。むしろ薩摩と云う地理性と環境性と古来の民族融合性からして合理的であると考えられます。特に産土神を主神としていた阿多倍一門大蔵氏系の子孫とすると、この末子の継承は納得出来ます。
太平洋民族とベトナム系民族と後漢民族と土着縄文民族の主要4融合民族の遺伝子が織り成す個性は”嫡子は末子”は”なるほど”と頷けます。
未だこの気風が色濃く残されていた江戸期では 次男:長嶋次右衛門の扱いは違っていたと考えます。
次ぎの第2のお尋ねの一つ目ですが、「通名」ですが、これには若干の決まりがあります。
それは「前付」の場合は、原則は「前付」です。
但し、世襲が働く場合で、妾子の場合で、跡目を受ける場合には原則は「後付」と成ります。
跡目を受けない場合は「後付」か別名を受けます。この様に嗣子の順序の仕来りは働きます。
但し、鹿児島の様に上記の「末子の扱い」が起った場合は「前付」と成ります。
跡目が養子や遠戚から跡目を入れた場合は、養子の場合は「後付」、遠戚の場合は「前付」と「後付」の両方の何れかに成っています。
つまり、世襲時の状況が違う場合で、氏家制度ですので、親族間の協議と思惑(本家の意向)に依っても変わる事に成ります。
普通は「前付」であったのに次ぎの跡目が「後付」に成っていた場合は先ずは妾子か養子か親族間協議・思惑(評価が低かった)事の意味と成ります。
ですから、幼名を使うのですが、成人に成った時の状況を配慮した跡目と非跡目、正子と妾子、長子と末子、婿養子と跡目養子、本家と分家で通名をかえることを考えます。
鹿児島の場合はこの長子と末子の変化が他県と異なる事が起こります。
次ぎの二つ目のお尋ねですが、これには2つのものがあります。
一つは江戸期中期から明治期に起ったもので、この官職名の世襲名は高額の金品を天皇家に納めてもらうものとがあり、武士階級でお金があれば名乗れる「一代限りの世襲名」です。
天皇家の収入源と成っていました。
江戸時代の奉行クラスか大名かは自分に箔を付ける為に、この一代世襲名を名乗りました。
歌舞伎で有名な遠山の金さんがそれに当ります。遠山左衛門尉下時定・・。
次ぎはこの慣習が無視されて終いには江戸末期から明治期に掛けて庶民が通常の名前として勝手に名乗ってしまったものです。右衛門や左衛門などで勝手に名乗った習慣名です。これで天皇家の収入源は激減します。その様に江戸幕府の末期で仕組んだと考えます
この3つの判別が必要です。殆どは青木氏一門と藤原氏一門以外の武士であれば一代限りの官職名です。
この場合に印鑑などを作った場合には仕来りとして返却する義務がありますが、あまり護られませんでした。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一門の長嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏等の青木氏族には、奈良時代−平安時代から天皇の親衛隊としての役柄(六衛府軍の指揮官)としての天皇を護る親衛隊の朝臣族の家柄であるのです。
藤原氏は外戚朝臣族ですので、永代の従四位の有品の位を持っています。青木氏は朝臣族であるので有品の位は最高位は宗家で永代の正三位ですが多くは従三位か従四位と成っています。
つまり宮廷の3門を守護する役目であり、その役目柄の官職が、左衛門、右衛門、正衛門に「佐」に上下の2階級、「尉」の上下の2階級に割り振られていて合わせて十二階に成っています。
この官職名を名乗れるのは世襲制で永代と成ります。
この官職を名乗れるにはその家柄が従四位以上の貴族階級並の身分である事に成ります。
従って、この条件に合致する家柄であれば跡目を受けた者が永代に名乗れる事に成ります。
これを永代で名乗れるのは極めて限られてきますが、青木氏系と藤原氏系と特別指定公家と成ります。
平安時代に北面武士、西面武士と呼ばれたものです。
後三条天皇時代とその後に政治の大改革(荘園制の廃止)を実行したので天皇の身の危険が高まって北面武士を隣室に置いた事で更に増えました。
元は大化期から天智天皇を護衛する役として皇族賜姓青木氏が臣下して武家を構成して侍と成って担ったのが最初の役目です。
これ等の事は青木氏の神明社の所に詳しく論じていますのでお読み下さい。
これらは「有品の制」又は「蔭位の令」によって定められています。
さて、お家がこの従四位上下以上の官職を永代で受けている長嶋氏であれば「・・右衛門」は正規の右衛門と成りますが、そうでない場合は一代限りか勝手に江戸中期以降に名乗った官職である事に成ります。
長嶋氏は青木一族ですので本来は名乗れる家柄と成りますが、宗家筋か跡目筋かで従四位上下以上の官職を得ている家柄であれば名乗れる筈です。
江戸期のものと成りますとこの処を調べる必要があります。
因みに結城長嶋氏一族本家は直系ですので名乗れますが、大蔵氏系と成りますと調査が必要です。
そうでなければ正規外の右衛門と成りますね。殆どはこの名乗りと成ります。
一代限りなのに無視して名乗り続けた事が起りました。然し、これは上記の事から簡単に判別が出来ます。系譜から何時から名乗っているのかでも判ります。
江戸期以上は正規外と見て間違いありません。
江戸期には朝廷の機能は全くなくなりましたし、天皇家を経済的に押さえ込みましたので、六衛府軍の組織は全くありませんので正規外です。室町期までは細々と保たれていましたのでありましたが。
ただ阿多倍一門の大蔵氏宗家筋は敏達天皇系の賜姓族ですので、親衛隊ではありませんし外戚筋に当りますので朝臣族ではありません。但し、従四位か従5位の有品の位はありましたが、大蔵氏宗家ではその可能性はありますが、その更に永嶋氏系の肝付氏の長嶋氏ですので本来は無い筈です。
逆につける事でその家柄の程度と虚偽の姿勢が読み取れます。
以上と成りますが、これらの詳細な事は本サイトの青木氏の論文の各所に論じていますので検索を使ってお読みください。
「有品の制」又は「蔭位の令」か「右衛門か左衛門」でルーツ掲示板か研究室の検索でお願いします。
更に調べる事が増えましたね。ゆっくりと少しづつで頑張って下さい。
では、又お便りください。お待ちしています。
福管理人さん、お久しぶりです。
なかなか進みませんが、ご先祖捜し継続しています。
肝付兼久から長嶋次右衛門(肝付次右衛門?)への繋がりを調べています。
※次右衛門と繋がりあり→〇、繋がりなし→×と記載する。
1.兼久の子
長男:肝付兼興→兼続… →〇
次男:肝付兼親(兼執)叔父兼親に謀反の兆しがあったため、兼続は兼親及び其の妻、
二男子、兼親の母を誅した。との記載あり。→×
三男:肝付兼洪 頴娃家の養子となる。→×
女:八代名和伯耆守武興妻→×
女:不明
2.兼興の子
長男:肝付兼続→良兼・兼長・兼吉・兼勝・兼樹・兼亮・玄宅・兼道(兼護・兼盛)・女3人
→〇
女:入来院重続妻→×
女:島津貴久初室→×
3.兼続の子
長男:肝付良兼→女2人:伊地知縫殿介重昌妻→×、左馬頭兼道妻→×(兼道を参照)
次男:兼長→12歳早世→×
三男:兼吉(山城入道永秀)→〇
四男:兼勝→〇
五男:兼樹→兼〇→兼弘 妻:薬丸孤雲の娘、鹿児島・佐土原両島津家家臣→〇
六男:兼亮 此子孫長崎江有之由候→×
七男:玄宅 大慈寺僧→×
八男:兼道→兼幸→兼康(新納忠秀の長子を養子)甚右衛門→兼親(甚右衛門)→
…経兼→兼幸→兼峯(肝付十右衛門:円山良覚居士 江戸死去)、治兼→…
→×
女:祢寝重長室→×
女:肝付刑部入道江月室
女:頴娃九郎兼有室→×
以上より、肝付兼亮は、子孫長崎のため除外し、肝付兼樹を有力とし、兼吉、兼勝に絞り、調べています。悪戦苦闘していますが、ついつい夢中になってしまいます。
福管理人さん、お久しぶりです。
はじめに、青木氏家訓のレポート完成を楽しみにしております。また、青木氏と守護神のレポートについても、阿多倍について触れられているので楽しく読ませて頂かせています。
今回も個人名探求から始まっており、時代の経緯と生活の背景も合わせて考える必要性についてアドバイス頂いている事もあり、進歩のなさをさらけ出してしまっているのですが…
現在の課題となっている1つ、関ヶ原の戦いで戦死した肝付(長嶋)兼道から鹿児島県史3の『薩州鹿児嶋衆中屋敷御検地帳』に記載のあった長嶋次右衛門への繋がり、そして長嶋次右衛門から『鹿児島城下明細図』文政期にある長島勘右衛門までの繋がり、つまり江戸期の大蔵氏族肝付系長嶋氏の検証でした。手がかりとなるものが揃ってきたので推測をしてみました。
以前、鹿児島県史料 旧記雑録追録1〜8などからしらみ潰し捜し、関連があるのではと考えた人物を下記にしまします。
・鹿児島県史料集 薩陽過去帳 P32 元禄11年7月卒 戒名露巌良体居士:肝付次右衛門
・追録1 P224 慶安5年 御犬之従馬場材木衆次第不同 :肝付早右衛門
・追録1 P392 万治2年 鹿府万治高帳 高弐百三拾八石七斗 :肝付甚右衛門
・追録2 P796 宝永5年 :肝付三右衛門
・追録6 P476 安永4年 御代初犬追物稽古:組手之事 次手組 :肝付郷右衛門
・奄美大島在島役人一覧 万治2年 喜界島・大島検地奉行となり、万治3年上国:肝付三郎兵衛
・奄美大島代官記集 元禄2年 附役 :肝付三右衛門
最近、高山郷土史を見ていたら
P165に兼護以降の肝付氏の系図を掲げる事にするとあり、
18兼護(兼道)−19兼幸(早死19歳)−20兼康(甚右衛門:新納忠秀長子)−21兼親(三郎兵衛、甚右衛門)−22年兼−23経兼−24治兼−25兼群−26兼命−27兼明−28兼施−29兼寛−30兼亮−31兼冬
長嶋次右衛門=肝付次右衛門(1615?〜1698)
肝付甚右衛門兼康(1597〜1673)
肝付甚右衛門兼親(1613〜1693)
肝付(長嶋)兼道−娘(新納忠秀長子養子:肝付兼康)−長男:肝付兼親、次男:長嶋次右衛門
という推測です。
可能性としてはあるのでしょうか。
あと、2つ伺いたいのですが、
1つ目は、通り名についてで、例えば、肝付兼続と肝付秋兼、大蔵義種と大蔵種親の様に後に来る場合、先に来る場合がありますが、規則というのがあるのでしょうか。
2つ目は、例えば江戸期で名前に〇〇右衛門とつく家は、代々〇〇右衛門と考えて良いのでしょうか。
宜しくお願いします。
お返事ありがとうございます。えっと、風穴は菱町にあります。
>家紋は丸に抱き角。
群馬の青木さん 今日は。始めまして。
ようこそ全国の青木さんが集う青木氏氏のサイトにお越し頂きました。
これからも本サイトをよろしくお願いいたします。
青木氏に関する研究を続けています。サイトには青木氏に関する膨大な資料が用意されていますのでゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。
サイトは世界的なサイト運営をしています。外国向けにも配信していますし、ヤフーにも歴史カテゴリーのブログを持っていまして情報量では段突トップの日本一のお墨付きももらっています。
全てのサイト運営では1万人/日は超えています。これからもサイト運営には共にご協力をお願いします。
さて、お尋ねですが、提供された情報では”群馬の「丸に抱き角紋」”ですが、ルーツは判りますよ。
お答えから先に、信濃諏訪族青木氏で、皇族賜姓族の信濃青木氏系の青木さんです。
そのルーツのご先祖の歴史は古いですよ。日本書紀にも出てくるご先祖です。
(研究室に日本書紀のレポートがありますのでお読みください。)
そのルーツの経緯は大まかに次ぎの通りですが、詳しい事は多くの昔ご親戚の方からお便りが青木ルーツ掲示板に保存されていますので”諏訪族青木氏”で検索してお読みください。
そもそもおうちのご先祖は、織田信長と甲斐の武田氏との戦いで武田氏が滅びますが、この時に藤原秀郷流青木氏を頼って越後と神奈川と栃木と土佐に逃げ延びます。
信濃諏訪族は武田氏と戦い敗退しますが、この時に諏訪族青木氏は、諏訪族の「ゆう姫」が武田氏に嫁ぎますがこの時に諏訪族の青木氏は3つの支流が生まれます。
先ず信濃には信濃王の皇族賜姓の信濃青木氏(0)が存在して、この信濃青木氏と諏訪族が血縁して皇族賜姓諏訪族系信濃青木氏(1)が発祥します。
皇族賜姓信濃青木氏は武田氏と血縁して武田氏系青木氏(4)が発祥します。
武田氏と皇族賜姓の諏訪族系信濃青木氏(1)と血縁して武田氏系諏訪族青木氏(2)が発祥します。
武田氏系青木氏(4)と(1)が血縁して武田氏系諏訪族賜姓信濃青木氏(3)が発祥します。
諏訪族系青木氏は以上の3つの氏が生まれます。
この一族が織田氏と戦い敗退して多くは神奈川の藤原秀郷流青木氏(A)を頼って逃げ延びます。
この一部が更に栃木(B)に逃げます。この多くは(1)の一族です。
次ぎに(3)の一族は越後の藤原秀郷流青木氏を頼って逃げ延びます。
(2)の武田氏系諏訪族青木氏は武田一族ですので多くは滅びますが、四国の讃岐の藤原秀郷流青木氏を頼って土佐と安芸に逃げ延びます。
さて、この3つの諏訪族系の青木氏の内、お家のご先祖は神奈川に逃げ延びて栃木に移動した(B)の(0)系の皇族賜姓族の諏訪族系信濃青木氏です。
この(B)は栃木で藤原秀郷流青木氏の庇護の下に勢力を盛り返し、秀郷流青木氏が武蔵から下野、上野と勢力を拡大するに連れて(B)も北上続け移動して仙台の手前まで子孫を伸ばしました。
この上野の一族がお家のご先祖です。
そこで、家紋ですが、(1)は元は皇族賜姓族ですので笹竜胆紋ですが男系継承が出来ずに女系と成り養子実家先の諏訪族の抱き角紋に変紋します。(諏訪族は三つ立梶紋で諏訪族青木氏は抱き角紋)
お家は丸付き紋ですので、(1)の(B)の上野に伸張して定住した一族の末裔の支流と成ります。つまり、分家一族です。
これ等の事は研究室と青木ルーツ掲示板と家紋掲示板と地名地形データに詳しくレポートしていますのでお読みください。
お家は元をただせば、光仁天皇まで5代(天智天皇、天武天皇、文武天皇、聖武天皇、光仁天皇)の天皇の皇族の第6位皇子(皇子の内の第6番目の順位の皇子の事)が臣下して侍と成り、天皇を護る親衛隊として働きます。その天皇からその際に「青木氏」と賜姓を受けます。
これらの皇子は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王として赴任しました。
その信濃に配置された「信濃王」の「青木氏の末裔」に当り、この末裔が信濃の諏訪族と血縁して男系継承の跡目が叶わず女系となり養子先の諏訪族系列に入った皇族賜姓族の青木氏と成ります。
この一族が武田氏の敗退と共に諏訪族は武田氏に味方した為に神奈川に逃げ延びたのです。
そもそも諏訪族とは、大化期の645年頃に後漢の民が大和に200万人17県民が阿智使王と阿多倍王の首魁にに率いられた職能集団が日本に上陸しますが、この帰化した民でその一部の馬部や鞍造部等が信濃の開拓に配置された後漢の民を先祖としています。(部とは職能集団の事)
その信濃の地の開拓の責任者が信濃王で、この信濃王の青木氏が後漢の民の首魁と血縁して発祥したのが(1)の青木氏です。
そして、この信濃王の青木氏(0と1)と諏訪族の首魁とが天武天皇に直接面会してそこで信濃の開拓地の状況を報告し、その報告の中でもう少し年貢の減額を願い出ると言う大変な発言をした事が日本書紀に書かれています。その一部の諏訪族の血が流れているのが(1)の青木氏です。
青木氏は(0)の皇族賜姓青木氏5家5流の他に、特別賜姓族で母方血縁族の藤原氏の北家の「平の将門の乱」を鎮めた藤原秀郷の3男(千国)が朝廷から皇族ではありませんが特別に賜姓を受けて(0)と同じ扱い身分家柄官職冠位官位など一切を同じ扱いと成った藤原秀郷流青木氏があります。
この青木氏は116氏にも拡がった日本の最大勢力を誇った一族です。藤原氏の「護衛団の任務」と「第2の宗家」を担っていました。全国24地方に分布しています。
この他に第6位皇子以外に賜姓を受けずに青木氏として皇族が下族した場合に名乗る氏として嵯峨天皇の詔勅で決められました。
この「皇族青木氏」は丹治氏系青木氏と武田氏系青木氏とその他に3氏存在します。
歴代18人の適合者が居ましたが子孫を遺せたのはこの5つの氏で中でも丹治氏系青木氏が多く遺しています。
因みに筆者は伊勢の青木氏で天智天皇の皇子の伊勢王の直系の宗家末裔で家紋は笹竜胆紋です。
後に清和源氏の宗家の源頼光-源頼政(以仁王の乱の首謀者)の孫の京綱が1180年前直前に伊勢青木氏の跡目に入っています。お家もそのルーツの基は皇族賜姓信濃青木氏で元は笹竜胆紋と成ります。
風穴の件は詳しい場所や時期等が判りませんのでなんともお答えできません。
兎も角もサイトに詳しい資料が用意していますのでゆっくりと楽しんでお読みください。
判らない事質問等有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
その際には、このルーツ掲示板にその専用の欄を設けますので其処からReでお尋ねください。
では、また楽しいお便りなどお待ちしています。学生さんですね。学業の事若き悩み事やどんな事でもルーツのこと以外でも青木氏の人のためにもお答えしますよ。
筆者は元は物理系の技術者でしたので特にこの方面も得意としますし、人生論も年寄りですから受け付けますよ。
では又。
はじめまして。
最近家のことが気になって調べていたらここに辿り着きました。
私はまだ学生で今は群馬県外に住んでいるのでなかなか調べられないんです。
わかっていることは、
・家の裏山に「風穴」という大きな穴があった。(今は小さくて、昔その穴のおかげで火事を逃れたという話があります。)
・家紋は丸に抱き角。
これぐらいなんです。これだけでもルーツがわかるでしょうか?
よろしくお願いいたします。
>一つお願いがあるのですが、青木氏氏研究室の青木氏家訓を読ませて頂いているのですが、
>ご迷惑でなければ、原文をお教え頂けたら、表装して残し、当家でも子孫のために伝えていければと考えています。宜しくお願いします。
静岡の長嶋さん 今日は。
本サイトでは青木氏のご先祖の生き様を掘り起こしそれを理解し先祖への尊敬とその生き様の伝統をより後世に残そうとしています。管理人さんの尊いご好意により世界的なサイト運営をしてもらっています。
世界の青木さんからもお便りが届いています。中には世界的な歌手で俳優の方からも海外から届いています。またブラジルなどに移住された方からもお頼りも頂いている状況です。
平安期には同族であった長嶋さんのルーツ探求にお役になれて良かったと思っています。
さて、ご依頼の件ですが、現在「青木家 家訓10訓」はこの家訓には「添書」がありましてそれをより掘り下げて解りやすく現在風に編集して家訓8まで添書解説の投稿が出来ています。
この添書解説の原稿は既に若い時に編集して出来上がっているのですが現在風に見直して更に9、10も投稿したいと計画しているのですが忙しくてまだ出来ていません。
現在は、青木氏と神明社との関係の投稿に力を注いでいますのでもう少しお待ちください。
そこで、この家訓10訓の原文をお出しすることは出来ません。
それには青木氏のステイタスの”生仏像様”と同じく、”世にさらす事なかれ”の「戒め」がありまして「生仏像様」は写真で、「家訓」は現在風にしてこの「戒め」を何とか守っています。
この家訓の原文は「漢文」で、それを江戸初期位に「口伝の形」したものを更に「現在風」に判りやすくしたものです。
特にこの家訓には一族のものが統一して同じ理解の下にする為に又解りにくい言葉での「添書」がありまして、それを更に編集して現代風にして投稿しています。
原文そのものを投稿しても誤解を招くだけですので、室町期風の「口伝の形」を現在風形の「口伝の形」ままに{家訓10訓}として投稿しています。
よって現代風の「口伝形」でお使いください。その際は是非後世の者が間違いなく理解できる為にも添書もお付けください。私はこの添書が大事な事と考えています。
現在、「青木氏と神明社の関係」も投稿していますが、これも若いときに研究したものを編集しなおして投稿していますので、これが終われば次ぎに9と10の家訓の添書解説を投稿する予定です。
年末頃になると思います。
ご依頼に添える事ができませんで申し訳ありませんがご理解ください。
では、またお便りをお待ちしています。
福管理人さん、ありがとうございます。
早速、実家へ帰り、お墓参りをしてきました。
自分は、お褒め頂くほどの人間ではなく、この様にご先祖様、ルーツ探しへとこれほどまでに向かわせて頂けたのは、この青木氏氏サイトの福管理人さんの史実、時代背景を加味した雑学からの論理的な回答のおかげです。このサイトに出会えたことを感謝しています。
また、先祖供養を進めて頂いた方にも感謝しております。
自分が今生きているのは、ご先祖様が後生へと子孫を残してきたなので、できる限り、掘り起こせて行ければと考えていますので、今後とも御教授宜しくお願いいたします。
一つお願いがあるのですが、青木氏氏研究室の青木氏家訓を読ませて頂いているのですが、
ご迷惑でなければ、原文をお教え頂けたら、表装して残し、当家でも子孫のために伝えていければと考えています。宜しくお願いします。
>提供情報
>長嶌太吉:1800初頭(文化?)生妻りわより推測、1872(明治5)年卒
>妻) りわ:1815(文化15)年生(牧野喜平長女)、1898(明治31)年卒
>1841(天保12)年に結婚。りわ26歳。(江戸時代の結婚適齢期14〜17からするとかな>りの晩婚)
>長女)長嶌とめ:1849(嘉永2)年生、1899(明治32)年卒
>養嗣子) 源吉:1844(弘化元)年生(杉浦幾次郎次男)、1914(大正3年)卒
> →幕末寄合格に(岡崎市史より)
>1870(明治3)年に結婚。源吉26歳、とめ21歳。長嶌→長嶋に変名。母りわ55歳より太>>吉50〜60歳。
>1872(明治5)とめ結婚2年後、太吉亡くなる。
>杉浦幾次郎:1876(明治9)年卒、妻:1880(明治13)年卒
今日は。
早速、お便り頂きました。
さて、今回お便り頂きました情報は前回までの私の推理の範囲に全て入り年代考証は完全に成立します。
恐らくは明治15年頃までのことであると観て情報がその範囲の中に来れば先ず間違いないと考えていましたが完璧です。
幕末から明治かけて戦後処理といいますか維新整理といいますか社会の中には大きな変化が起こりました。維新一揆や社会慣習の変化や幕末整理や契約社会の庶民の手続きや宗教改革や苗字令や督促令やもろもろの事がこの頃を境にして一度に変化します。特に家と云う概念が氏家制度崩壊で大きく変わろうとしている時代ですが未だ武家社会の中ではこの慣習が一辺になくなるのではなく苗字令がきっかけで片方では変革が押し寄せ片方では依然慣習を護ろうとする傾向にありました。
ですから、その一度に立場がなくなった揺れ動く武家社会で密命を持つ太吉さんの2足の草鞋の中ではどの様にすれば良いのか判断に困る状況であった筈です。この範囲での太吉さんと源吉さんとその家族や縁戚関係者の行動があれば前回までの推理が成立する筈と観ていました。
それと源吉さんには男子が居られた様ですね。男系継承できているのですから跡目がなく変紋とする根笹紋の変更は必要無かった事に成りますので、しかし、墓の紋所の問題など情報でも明治3年頃に根笹紋・長嶋氏に変更した事は前回のお答えの事になってしまいます。これも推理が成立しています。
杉浦氏の影響力もまだ充分にあった事等も納得できます。時代考証も維新を中心にして前後20年に全て納まることに成っています。極めて短期間の中で考証されています。
次ぎに薩摩から静岡までの経緯の推理も無理がなくなりますし、今回、お家が推理された内容も全く同意します。その通りだと思いますしそれしかないのではないかと観られます。
お家のご先祖の生き様が手に取るように私には観えて来ます。かなり時代に翻弄されてご苦労されたと見られます。
次ぎに維新戸籍簿に関してですが、先ず「平民」と書かれていましたがこれも今までの推理を実証します。それは江戸時代にご先祖の戸籍をお持ちでありますから武士でありながらも士族と成らずに平民と記されている事は「2足の草鞋」を証明する最もなものです。この時代は多くの商人は殆どが元は武士か「2足の草鞋策」でした。武士では食べてゆけないという事が幕末から維新後に起こっていたからなのです。そこで維新3年の苗字令8年の督促令の時にこの武士の2足の草鞋を採っている家は届けとして平民として届けたのです。「こけら屋」は大変重要な意味を持っています。
それは杉浦家と長嶋家も同じですので、この事も両家が商いで繋がった何よりの証拠に成ります。
これほどに推理が無理・矛盾・疑問なく填まる事はなかなか少ないですね。
次ぎに大蔵氏系薩摩肝付氏族長嶋氏の件ですが、島津氏の表現は採っていませんで薩摩と表現しています。
肝付氏族の長嶋氏は以前回答いたしました様に最終は日向(永嶋氏)と大隈(長嶋氏)と長島(長島氏)の3つの家に分流していますので、この中の大隈地区の肝付氏の地元の長嶋氏である事を意味しています。
肝付氏が島津氏の配下に入り血縁関係を持ちましたので、島津氏族としても問題はないと思いますが、島津氏とするとこの3つの全体をさす事に成りますね。島津氏の配下に入った時代の表現は後期の表現となりますね。
今回のルーツ探求でお家のご先祖の生き様が手に取る様に観えて来ますね。
これもご先祖の供養ですね。丁度お彼岸でもありますからご先祖のお導きかも知れませんね
人として産まれて長嶋氏に縁があって育ち、そして本来あるべき人としての本質の行動を今採られているいるのだと思います。喜怒哀楽に惑わされずに静かな心根に敬服します。
これからも大いに伝統を掘り起こしてください。
その為には平安期中期には元同族であった青木氏サイトはご協力いたします。
福管理人さん、こんにちは。
当家の家紋が、なぜ丸に根笹かということについて、解決することができ、本当に感謝いたします。
後は、大蔵氏族肝付氏系長嶋氏に関わる書き物があれば、最高なのですが、難しそうですね。
でも、諦めず色々と調査してみます。
自分に情報について、伝達不足の部分もあり、申し訳ありません。
謄本等で分かる範囲について、再度お伝えさせて頂きます。
長嶌太吉:1800初頭(文化?)生妻りわより推測、1872(明治5)年卒
妻) りわ:1815(文化15)年生(牧野喜平長女)、1898(明治31)年卒
1841(天保12)年に結婚。りわ26歳。(江戸時代の結婚適齢期14〜17からするとかなりの晩婚)
長女)長嶌とめ:1849(嘉永2)年生、1899(明治32)年卒
養嗣子) 源吉:1844(弘化元)年生(杉浦幾次郎次男)、1914(大正3年)卒
→幕末寄合格に(岡崎市史より)
1870(明治3)年に結婚。源吉26歳、とめ21歳。長嶌→長嶋に変名。母りわ55歳より太吉50〜60歳。
1872(明治5)とめ結婚2年後、太吉亡くなる。
杉浦幾次郎:1876(明治9)年卒、妻:1880(明治13)年卒
墓石
杉浦幾次郎、妻:戒名のみ家紋無し(墓石は御影石で、立て直した可能性、杉浦源吉の名あり)
長嶌太吉、りわ、禅定尼:戒名のみ家紋無し(砂岩)
長嶋源吉、とめ:戒名のみ家紋無し(砂岩)
長嶌太吉→長女:とめ
| 長男(夭逝) (長男・次男戦死)
養嗣子:源吉→長男 →次男 →三男 → 長男 (川路に移住後の本家)
|
→三男:(1900生)→長男(1938生)→長男:自分
→「氏の仕来り」や「社会慣習」や「国抜けの制度」や「移動制度」などの諸々の制度が絡む。
特に、江戸末期の幕府は騒乱を抑える為に移動や定住や住民証明(血縁など)には3重の許可が必要で「役所」と「所属の寺」の証明と「氏の本家」のお墨付きが必要に成っていたのです。
もっと細かく言うと庄屋や村役の届けも必要で任別帳に関わることもあり簡単な事ではなかったのです。
それだけに騒乱の基となる「国抜け」に対しては幕末は宗教改革や一揆や倒幕と相まって極めて厳しく取り締まったのです。
この条件をクリヤーするには源吉さんの苦労は杉浦家と云うものを背負っていてその苦労は目に見えています。
これは、あくまで僕の推測なのですが、
この縁談については、商売関係で知り合いより、太吉さんが幾次郎さんに持って行ったのではと推測しました。
太吉さんは『太』が付いていることから、仮の名前であるとしても、嫡男であり、長嶋家を後生に繋いでいかなければと云う義務感を持っていたと考えたからです。
上記の国を跨いだ間での結婚に太吉さんが、『二足の草鞋』として薩摩藩の裏の仕事をしていたとするのであれば、太吉さんの仕事自体が、福管理人さんがご指摘した危険を伴うものに関わっていると考えられますので、太吉さんからのアドバイスがあったのではと考えました。
そして、そういう仕事をしていたのであれば、時代の流れに対しては敏感であったでしょうし、幕府崩壊、明治政府の設立に関して、また政策についても太吉さん薩摩藩の所属であることからある程度も情報を持っていたのではと推測しました。
そして、、結婚については、明治以前にある程度決まっており、様子を伺いつつ、明治になってから行ったのでは、それは、結婚時源吉26歳、とめ21歳にも現れているのかのと推測しました。
太吉さんから源吉さんへの戸主変更の謄本には以下の記載もあり、
源吉の欄:明治・・・當町字新城平民杉浦幾次郎二男養嗣子
太吉妻りわの欄:天保・・・當町字新城平民牧野喜平○亡父喜平長女・・・
福管理人さんが指摘していた対策なのかなとも考えました。
今日は。
今回も貴重な情報が提供されましたね。
ご推理はあたっていると思います。
そこで、ご質問にお答えします。
巫女さんの言い分も以外にその傾向があったと考えられますね。
問題は太吉さんの立場がどの様に源吉さんにまたは杉浦氏に評価されていたかですね。
これには当事の慣習が大きく影響するので家紋や姓などの事には変わってきます。
>源吉さんの父幾次郎さんは『次』あるところから,次男で、丸に根笹となった可能性も考えられますね。杉浦幾次郎さんと長嶌太吉さんが、材木関連の仕事で知り合い、次男である源吉さんが太吉さんの長女とめと結婚し、長嶋家に養嗣子に入ったのですかね。
先ず、間違いないと考えます。
「丸に根笹紋」の杉浦氏は前回のお答え通りにほぼ確定出来ていると考えますので、当事の慣習から次男は殆どが婿養子に入ります。
太吉さんに男女の子供が居なくて跡目養子を取りそれに嫁を取ったとするのではなく、太吉さんの長女の”とめさん”に婿養子を取ったとすると家紋は源吉さんに子供が出来なかった場合は家紋は一時源吉さんの実家の家紋を一時採用します。しかし男子の子供が産まれると元の家紋に戻りますが男子が出来なかった事から一時採用の家紋が常紋となり「丸に根笹紋」の杉浦家の氏の系列に入ります。
この時、姓は太吉さんの長嶌氏には戻さず杉浦氏系列の氏と成った事もあり、苗字令の時期の事もあり杉浦氏系列の長嶋氏か枝葉の伊勢長嶋氏系列かに変名したと観られます。
この長嶋氏は薩摩の長嶋氏なのか杉浦氏系列の枝葉の中の長嶋氏を名乗ったのかは判りませんが、何れにしてもどちらも伊勢長嶋氏系列である事から、源吉さんは周囲の杉浦氏の縁戚関係者の納得と了解を得るにはこの方法しかないと考えて長嶋氏にしたと考えられます。
当事は未だ家柄の吊り合いが大変重視される時代で杉浦氏の中に入るには本家宗家の事前了解が必要であったのです。松平氏枝葉の杉浦氏の様な名家の家筋であればこの位の慣習は護られていた筈でその代わり仕事や生活の生業などの便宜も受けていた時代です。
勝手に系列の中に入る訳には行かない慣習制度でした。まして、太吉さん-源吉さんの”商いの関わり”があり杉浦氏との大きな繋がりの中にあって仕事が出来ていたと考えられますので、丸く両氏の間を収めるにはこの方法しか無かったと考えられます。今と違い社会に大きく縛られていたのです。
現実に前回のお答え通りに伊勢長嶋氏と美濃尾張の杉浦氏との血縁族の丸に根笹紋の伊勢長嶋氏系列の姓が美濃-員弁-桑名-長島に繋がる地域には分布しているのです。
私は杉浦幾次郎さんの「丸に根笹紋」は松平氏族杉浦氏系列の中でこの分布域の血縁を受けているのではないかと観ています。その根拠は支流を意味する丸付き紋なのです。
杉浦氏本家筋は丸なしの根笹紋が三河より東より付近に分布し、丸付き紋は伊勢よりの西付近に分布しているからなのです。長嶋氏の本流族34氏には根笹紋と丸に根笹紋はありませんが、長嶋氏の枝葉支流や分流に存在します。
当事は勝手に国を超えての血縁は難しく相当な氏姓でなくては出来ませんでした。それは「国抜け」の制度に縛られていたからです。それぞれの各国の人口のバランスを採り石高を安定させる為にも必要な制度であったのです。勝手に移動や血縁を許してはいなかったのです。維新までは。
その事を考慮すると太吉さんと源吉さんの定住地から考えるとこの制度の中でやりくりをする必要があった筈です。太吉さんは薩摩人で源吉さんは地元の者とするとこの養子縁組の中には上記した「氏の仕来り」や「社会慣習」や「国抜けの制度」や「移動制度」などの諸々の制度が絡んでくるのです。
特に、江戸末期の幕府は騒乱を抑える為に移動や定住や住民証明(血縁など)には3重の許可が必要で「役所」と「所属の寺」の証明と「氏の本家」のお墨付きが必要に成っていたのです。
もっと細かく言うと庄屋や村役の届けも必要で任別帳に関わることもあり簡単な事ではなかったのです。
それだけに騒乱の基となる「国抜け」に対しては幕末は宗教改革や一揆や倒幕と相まって極めて厳しく取り締まったのです。この事は有名な事です。
この条件をクリヤーするには源吉さんの苦労は杉浦家と云うものを背負っていてその苦労は目に見えています。納得できる届けや許可や話し合いが必要であったのです。現在の自由社会ではありません。
そういう事から源吉さんの配偶者のとめさんが養女と観ていましたので、離婚かと判断していたのですが違っていたようですね。済みませんでした。
実は源吉さんが長嶋氏を名乗る背景には”とめさん”が養女である可能性がある訳ですが、実子であるとすると婿養子の源吉さんは長嶌氏を名乗る必要が出ます。
しかし、婿養子の源吉さんが太吉さんが亡くなられた後に嫡子がいない訳ですから杉浦氏の系列の家紋を使った事は杉浦氏に戻る事は選択肢の一つに成っていたのです。
江戸期の慣習では、養子が義父母がなくなった時点で姓を杉浦氏に戻す事が許されるのが普通ですので、現実に杉浦氏の家紋に変えているのですからその行動は採った事は事実ですので慣習から観て少し変です。しかし、それをしなくて本来の長嶌氏ではなく長嶋氏にしたところに意味があります。
前回のお答えの通り中間を採ったと云う事に成ります。
(家柄吊り合いを採る為には実子であるとすると”とめさん”を一度他家に養女に出し、又戻す事が必要。 実子のままであれば太吉さんが亡くなった後で源吉さんが杉浦氏を名乗ることが出来る。そうしないと杉浦氏側は桜井氏系の名籍の家柄立場上世間に対して家柄を下げた事に成り納得しないから、普通は婚姻は認めない筈 幾次郎さんの戒名からでも家柄を誇示している 太吉さんとの戒名の違いの差も物語りますので家柄の吊り合いの差は杉浦氏との間で現実に間違いなく起こっていた事を示す。)
養女とすると長嶌氏に縛られる事なく長嶋氏か杉浦氏にする事に別に問題はない事に成ります。
だから家紋は「三つ雁金紋」ではなく杉浦氏の「丸に根笹紋」としていて、その代わりに姓は長嶌氏ではなく長嶋氏にして源吉さんの”新しい家”を作り上げた事を意味します。これで杉浦氏を納得させられます。
現実に太吉さんの家紋は「三つ雁金紋」では無かったか判らなくなっていたかを意味します。
「三つ雁金紋」で長嶋氏であれば直ぐに大蔵氏系薩摩肝付氏族長嶋氏と判り、根笹紋の杉浦氏とは家柄の吊り合いは取れていますので、むしろ「丸付き紋」である事から太吉さんの方が上と成ります。
しかし、太吉さんは長嶋氏ではなく長嶌氏であった事と家紋も不明な状況であった事を意味します。
源吉さんが丸に根笹紋に変え、長嶋氏に姓を変え、墓石に家紋を刻まなかった事から杉浦氏の方が格上と判断されていた証拠です。戒名からも判断できます。
そもそも、江戸期の武家の慣習では婿養子は先代が亡くなると養子先か実家先かの姓を名乗るかは選択の一つですが、この場合は養女と実子とで異なる事に成ります。
江戸期以前では他家の娘をどこか家筋の良いところに先ず養女に出しそこから別の氏のところに出すのが慣習です。これは血縁は家の吊り合い、つまり家柄や家筋を重視してバランスを採るのが目的で必要条件でした。低い家と高い家との血縁をする場合は先ずこの作業の手続きを踏みます。これは男女同じです。つまり、長嶌氏と杉浦氏はこの地域では杉浦氏が家柄は数段上にあります。
薩摩ではないのですし長嶌氏で長嶋氏では無い事から源吉さんの杉浦氏が上と成ります。
そうすると太吉さん側は娘のとめさんを杉浦氏側に家柄を合わす事から何らかの手立てが必要です。
手立てなしでは源吉さんは婿養子であっても実家先の発言力が増し替わってきますし、太吉さんが亡くなられた後には何らかの杉浦氏側に合わした変更をする権利が生まれます。
それが今回の家紋と姓の変更と墓所の家紋なしの処置をしたものと考えられます。
慣習ではこれが普通で問題は無いわけですから、それを家紋も姓も杉浦氏のものにしなかったのは源吉さんの配慮であったと考えます。
長嶌氏から長嶋氏にしたのはこの吊り合いを重んじた普通の行為であったと考えられます。
薩摩ではこの様には行かなかった筈です。それは長嶌氏にあったと考えられます。
薩摩の大蔵氏系肝付氏族の長嶋氏の家柄はここでは証明する事が出来なかった事を意味します。
源吉さんはそれを太吉さんが亡くなられた後にこの事を実行したと観られます。
この時に薩摩の三つ雁金紋の長嶋氏なのか伊勢の丸に根笹紋の長嶋氏なのかは判別が情報が無いので付きませんが、それは太吉さんの妻りわさんの牧野氏に関わってくる事で義母のりわさんの知識が左右している事に成ります。
どうも情報では美濃の牧野氏ではなく薩摩の牧野氏である事からの流れから観て、源吉さんはその事を義母から聞いていて薩摩の長嶋氏に戻したとも考えられます。この事から吊り合いが取れて姓は長嶋氏、家紋は杉浦氏の丸に根笹紋としたのでは無いでしょうか。ただ当事としては武家筋の墓には家紋を入れるのが普通で入れない方が士族としては変ですが、本来であれば杉浦氏に戻しても問題はなかった筈ですから、長嶌氏から長嶋氏にしたことから家紋だけ杉浦氏ものは避けた又は配慮したと考えられます。
太吉さん・源吉さん、杉浦氏、りわさん、とめさん、の関係者に取って不満の無い解決をした事を意味します。前回にご指摘しました様に、当事としては「慣習」とはこの様に結果を大きく左右させるものであったのです。慣習雑学は歴史には絶対条件です。結果は全て変わりますよ。
青木氏のレポートにはこの様な雑学が多く書き込んでいますので是非お読みください。
雑学をまとめた書籍はのものは少ないのでルーツの探求には苦労しますよ。
ではまたお便りください。いつでも雑学でもご協力を致します。
福管理人さん、今晩は。
源吉さんの離婚はしてないと思いますという曖昧な返事をいたしましたが、謄本上、離婚はしておらず、
大正2年に隠居ときさいされたました。また、墓石には大正3年に亡くなっていることが刻まれていました。
追加情報としてお伝えいたします。。
ところで、お便りを拝見していて、少し気になったのですが、以前のお便りには、大蔵氏族肝付氏系長嶋氏ということでしたが、今回は島津氏系長嶋氏とありました。同じと考えてもよろしいのでしょうか。
福管理人さん、どうお礼を言ったら良いかわかりません。
また根笹の杉浦家とご縁がある方が、福管理人さんの菩提寺の御住職さんとして赴任されるなんて、
不思議なことです。また、ご先祖様にも感謝です。
副管理にさんの言うように、もっと時代背景、その時代、地域の生活などについても知識を今後増やしていくよう努力していきます。アドバイスありがとう御座います。
豊川市中央図書館で『三河』という書籍より以下の記載がありました。
額田郡
杉浦氏:和田八郎五郎政重、延徳年中、信忠(安祥松平家長親嫡男、三男信定が桜井松平祖)に仕え、杉浦と改む。父大八郎五郎政次、信忠、清康(信忠嫡男)に仕え、参州六名の内、入吉郷を賜うと云う。
この杉浦氏の子孫が、根笹紋の桜井松平氏と養子を迎え入れ、根笹紋の杉浦氏が生まれたのですね。
源吉さんの父幾次郎さんは『次』あるところから,次男で、丸に根笹となった可能性も考えられますね。
杉浦幾次郎さんと長嶌太吉さんが、材木関連の仕事で知り合い、次男である源吉さんが太吉さんの長女とめと結婚し、長嶋家に養嗣子に入ったのですかね。
巫女さんの話では、太吉さんは宮大工としての腕もあったとのことです。
新城市川路の近くには、徳川家の東照宮がある鳳来寺山、豊川市には豊川稲荷、宝飯郡一宮町には砥鹿神社があり、藩からの仕事とは別に、その寺院の修復等にも太吉さんは携わっていたのではと思ったりもします。
源吉さんは、とめさんと一緒のお墓に入っているので、離婚はしてないと思います。
太吉さんのことでは、でも離婚はしてないと思います。
太吉さんは、墓石に三名の禅定尼さん、太吉さん、りわさんの戒名が刻まれていて、禅定尼さん供養を巫女さんにしてもらったときに、御簾越しでの対面する位の女性で、太吉さんは殿様より奥方のところに出入りしており、そこで知り合ったとのこと。
身分が違いすぎるため一緒にはなれないため、太吉さんのもとへ来たく、家を飛び出して、こちらに来たとのことです。
女性の位が高いため、太吉さんには藩の上のものから情報は来てきたと思われます。そんな世間知らずの人が、一人で旅などできるはずがないと思うので。
その後、太吉さんのお店で女将をしていたが、髪の抜ける病気となり、尼(坊主ではなく、白い布を被っている)となり、身を引き、天保12年(墓石の記載)なくなったそうです。
太吉さんもその方と一緒になるつもりであったそうです。
その方が、亡くなる年(天保12年)に、牧野りわ(牧野喜平の長女)と結婚しています。
巫女さんは、『太吉さんは、氏を残すためりわさんとは一緒になったねと』言ってました。
牧野喜平次 情報としては、
1. 琉球關係文書
天保三年 一七 島津家編輯所圖書 中小姓 牧野喜平次 足輕
2. 旧薩藩御城下絵図 安政六年
住居:上之平馬場の北 島津伯耆(佐多島津家)の西 160坪
なので、この方は下級武士の出のようです。その後160坪の家に住んでいるため出世しているのかなと考えました。
喜平さんと喜平次さんが同一であれば、りわさんは,上記の位のある女性の御付として、来たのかななんて想像もしました。
また、牧野氏は三河地区に多い氏名であり、りわさんの戒名が、南延妙善信女の『南』にも三河ではなく薩摩から来たよという意味があるのかなとも思いました。
だらだらと、空想をしてしまいすみません。
伊勢長嶋氏も根笹紋のお家が多いのですね。
静岡の長嶋さん 今日は。
お忙しい中でルーツの探求を熱心にされている事に敬服します。
さて、早速ですが、次ぎのお尋ねに付いてお答えします。
>源吉さんの父親:杉浦幾次郎(紫金院釋清光淨智居士)が、仁木氏か桜井氏からの養子で『丸に根笹』に変紋したと云う可能性もあるのかなと考えていました
この件に付いては以前のお便りで推測としてお答えしましたが、この可能性が非常に高いと観ています。
実は、先日、筆者の地域の寺の住職が代わり新しい住職が浄土宗知恩院から赴任してきました。
この方は、元はサラリーマンでリタイヤーして僧侶となり郷土の愛知と静岡の寺を担当して経験があり、70歳くらいの方で、この方の話によると愛知と静岡共に檀家の中に杉浦氏と云う方が大変多く家紋が根笹紋類の杉浦さんであったと云う事でした。
実はこの住職も家の家紋も「丸に根笹紋」で某氏と云う方なのですが、桜井氏の末裔に当たるとの事で印象に残っていて杉浦氏と親しくお話した事があるとの事でした。
その杉浦氏は旧家で森林を所有する土地の地主で大きな門構えのお家で元は庄屋で武士であったとの事でした。恐らくは住職に詳しく聞きましたところではこの杉浦氏は郷士であったと思います。
住職のご先祖も三河松平氏系桜井氏に辿り着くとの事で杉浦氏も同じ先祖ではとのお話でした。
源吉さんの父親杉浦幾次郎さんのルーツの祖先に当たると観られます。
戒名の「紫金院釋清光淨智居士」は相当な家柄でないと江戸期末期頃では付けて貰えない筈で又一般の人が付ける習慣が未だ無かったし相当な金額を積まないとこの戒名は持てません。
特に、住職にもお聞きしたところ同じ意見で、紫、金、清光、浄智は仏教的な位置づけが高く最高の家柄の者でないと使わないとの事で、紫は色では最高位で家柄・立場が上位であった事、金は主に経済的に恵まれていた事、清光は仏教では最高位の清廉潔白を意味し優れた人物や家筋に成る事、浄智は平安時代にはこの浄は「八色の姓制度」では最高位の品位を示しますので、上記の愛知の根笹紋の杉浦氏の立場に相当する位の戒名です。
恐らくはこの愛知の杉浦氏は丸付き紋ではない根笹紋であるところから宗家かどうかはわかりませんが本家筋の枝葉の杉浦氏であると観られます。
幾次郎さんは丸付き紋の根笹紋ですので分家筋の系列に成る杉浦氏であると思います。
住職も丸に根笹紋でしたので、同じルーツの杉浦氏の枝葉に当たるのでしょう。
太吉さんの婿の源吉さんは実家先の家紋の根笹紋に跡目の男系嫡子が生まれなかったことから家紋の変紋を余儀なくされ「地元の根笹紋」にした事に成るのでしょう。
しかし、氏名は長嶋氏に明治の苗字令を利用して長嶋に変名届けをした事を意味すると観られます。
ここには、三雁金紋と長嶌氏の2つを消し去った何かの経緯が潜んで居るようです。
松平氏系桜井氏と島津氏系長嶋氏、雁金紋と根笹紋、薩摩と地元美濃、の中で源吉さんは選択を迫られたと観られます。何れも家紋200選に選ばれる程の家筋です。難しい選択です。
明治維新、跡目問題から養子でもあり源吉さん親族の多い地域の選択をしたのでしょう。
故に新たに作った墓所には家紋を刻まなかったです。普通武家では刻みますが敢えて避けたのです。
その為には周囲に多い伊勢長嶋氏の長嶋姓(元々は太吉さんは伊勢長嶋氏系の九州の大蔵氏系永嶋族長嶋氏である事も含めて)にすることが適切と判断したのでしょうが、その代わりに家紋は家紋掟の慣習に従い地元の実家先の家筋の家紋にしたのでしょう。
故に杉浦氏のではなく長嶋氏の墓所には根笹紋を遠慮したのでしょう。
そしてバランスを取ったのでしょう。
又、長嶌氏から長嶋氏に変えた事により墓所は新規の別のものとの考えもあったとも考えられます。
根笹紋の伊勢長嶋氏が同じ地理的要素により武士の血縁の釣り合いが取れますので伊勢美濃よりに多く住んでいた事も考えられます。
>時代背景的には一致するのですが、喜平次と喜平で一文字足らないのですが、同一の可能性も考えられすのでしょうか?
徳川時代には家康は武家の家の嫡子は長男とすると決めましたが、この事から、長男と次男の差は大きくなり扱いも極めて異なり部屋住みの言葉まで生まれました。
この時の習慣により、「次」は名の後ろに「次」を付けて名乗る習慣が生まれました。この習慣は平安時代から室町期まで氏の家柄の中では持ちられて来ましたが江戸期には一般の武士も家康の令で一般化したのです。そして江戸末期から明治にかけて「・・次」「次・・」として一つの名として庶民まで位置づけとして用いられるようになったのです。
長男の場合は「太郎の太」、次男の場合は「次郎の次」として使われました。
平安時代は「八幡太郎源義家」「鎮西八郎源為朝」「九郎判官源義経」などの様に名乗る場合は特別に位置づけを明確にしていたのです。それが「太」「次」と省略して行ったのです。
「太」「次」は名の前後にどちらに付けるかは原則自由で、源太郎とか太吉、太郎兵衛の様に。
「喜平次」と「喜平」とはこの慣習の意味で同じです。武士には特に氏や姓を継承する習慣がありましたのでこの慣習は大事なので、これと対比して武士外の名とは氏継承の慣習がありませんのでたいした意味は無く、名そのものとして使われていました。
喜平さんは武士の出であれば「次」は立場の意味は持ちます。武士であれば喜平次も喜平も同じです。「後付」と云うつけ方です。「前付」と「後付」との違いは主に家柄で決めます。「氏族」は「前付」と「姓族」は「後付」の違いです。(長嶋氏は「氏族」)
次を付けるかどうかは記録する人か編集する人の差によるものと考えられます。
他に長男の場合は「大」「長」「衛門」「兵衛」「右」「嫡」、次男では「介」「助」「継」「捨」などが使われました。
ただ牧野氏の件は女系に成りますので家紋と姓の関係の変化は無関係です。
ルーツには余り関係しませんが太吉さんの妻は鹿児島である事には間違いありませんね。
問題は養子にも色々な形がありますが源吉さんの養子の形がどんな形かによりますね。
源吉さんが後に離婚されたとの事を伺いましたがそれと養子の形が「長嶋氏と根笹紋」に影響しているのでせはありませんか。
それにより杉浦氏の家紋の根笹紋の根拠となるのではと考えます。
太吉さんは元杉浦氏の源吉さんとは材木関係で知り合った可能性が高いと考えます。
以前のお答えの繰り返しになりますが、個人名探求だけではなく時代の経緯と生活の背景も合わせて考える必要があると思います。
一度お調べになる必要がありますね。
では又お便りをお待ちしています。
福管理人さん、今日は。
お久しぶりです。
仕事が忙しくなり、なかなかその地に足を運び調べることができず、杉浦家本家からの長嶋家の紐解きは難航しています。
長嶋(旧姓杉浦)源吉さんが立て直した墓地には戒名のみで家紋がなく、鍛冶屋地区の杉浦家墓石の家紋は、現時点で九曜:4、丸に橘:1でした。
源吉さんの父親:杉浦幾次郎(紫金院釋清光淨智居士)が、仁木氏か桜井氏からの養子で『丸に根笹』に変紋したと云う可能性もあるのかなと考えていました。
しかし、日本家紋協会から発行している家紋と姓氏(愛知県版)杉浦家の項に、家紋『丸に根笹』、出自『桓武平氏三浦氏族』→『坂東八平氏三浦氏族』がありました。ここから、源吉さんの養嗣子による長嶋家の変紋の可能性も出てきました。
また、太吉さんの妻りわの牧野家についても調べてみました。
家紋と姓氏(愛知県版)で牧野家は、家紋『五段梯子』、『丸に蔓柏』、『丸に三つ柏』、出自は、全て『三河・清和源氏族』で、家紋『丸に根笹』はありませんでした。
しかし、思わぬ副産物が出てきました。
それは、牧野りわさんはもしかしたら薩摩から来たのではないかと推測し、家紋と姓氏(鹿児島県版)をみると牧野の項があり、残念ながら家紋『丸に蔓柏』、『丸に三つ柏』、出自は、藤原氏族と家紋『丸に根笹』はありませんでした。
ここからなのですが、鹿児島士人名抄録を調べたところ、牧野(対馬介)維という人物が記載されており、子孫に牧野喜平次という人物が出てきたのです。
その方でネット検索すると
大久保利通年(1830(文政13).9.26)の日記に下記記載あり。
「八ツ前牧野氏被訪碁打相企三番打、拙者勝負マケいたし候」
嘉永元(1848)年正月4日午後二時前に牧野喜平次(50歳代)が大久保宅を訪れ、
囲碁を打ち、大久保(17歳)が負けた。出典:重要文化財 大久保利通関係資料
ということでした。
戸主:長嶌太吉から長嶋源吉に変更となる謄本の養母:長嶌りわの項目に下記の様に記載されているのです。
天保十二年三月廿日 牧野喜平○亡父喜平長女入籍スル
時代背景的には一致するのですが、喜平次と喜平で一文字足らないのですが、同一の可能性も考えられすのでしょうか?
福管理人さんのご意見をお伺いしたいので、宜しくお願いします。
新潟の青木さん 今日は。
昨年の自然災害の被害に今年も豪雪で大変ですね。お見舞い申し上げます。
私は暖かいところに住んでいますのであまり自然災害の被害には疎いところがあります。
特に、テレビで豪雪を見ていると何時も疑問を感じるのです。
というのは、毎年あれだけの雪の被害がありながら、屋根に積もった雪が落ちて色々と被害が出ている事に”もう少し何とか成らないものかな”と感じます。
たとえば屋根の傾斜をきつくして雪が滑雪する様にしたらどうかとか、屋根に酸化チタンの液を塗布して雪が付着し難くすればどうか、屋根の尾根に水或いは風呂の残り湯などをポンプとパイプを組み合わせて散布して雪と屋根の間に表層雪崩が起こる様な道具を取り付けてはどうか等何時も思うのです。難しいことではないし金額もかかりません。植木鉢に自動で水やりする装置(市販)を屋根に取り付ける事で済みますが。
暖かい地方では除雪と同じ様に夏の植木鉢や植木の水遣りも大変ですがこの様な装置を作って枯れないようにしています。
さて、私の質問に対してお便りありがとうございます。
判りました。
越後には幾つかの青木さんの住み分け分布がありますが、信濃県境から陸奥の県境までに日本海に沿ってライン上に住み分けています。
お家のご本家の位置がどの青木氏の影響を受けているかの確認をしたかったのです。特に信濃との関係がどの様にあったかの可能性を確認いたしました。
お便りから無かったと考えられます。矢張り亀田郷ですので、前回お答えした事に尽きると考えます。
前回のお答え
>越後において諏訪族青木氏との血縁を含む絆が有ったのではないかと考えます。
>藤原氏の春日社、青木氏の神明社を選ばず(第1回目のお便りでは?ですが選んだとすると問題はない)、諏訪族青木氏との血縁を重視した事に成ったのではと考えます。これを証明する資料と情報は有りませんが私はかなり確率が高いと見ているのです。
>氏家制度は血縁は家柄身分のつりあいを前提にしますので充分に有りうる事と思います。
>推測の域を越えませんが、同じ青木氏であるので、そこで「神社」は諏訪族側の諏訪社を、「寺社」は秀郷側の真宗とし、「家紋」は抱き角紋より男子側の片喰紋の家紋を、「墓所の形式」は諏訪族は神道であるので元の浄土宗密教の仕来りを引き継ぐとした取り決めをしたのではないかと考えているのです。
>つまり、この事から秀郷流青木氏と云う事に成りますが、この様な事が起こったのでは。
現在投稿中の神明社の論文で東北北陸域の処にもこの地域の特徴を論じています。
次ぎは「屋号」の件ですが、本家筋の末裔、分家筋の末裔などを見極める為に昔は用いたものです。
”屋号を持つ”と云う事はかなりの「枝葉の家系」を維持している事を意味しますが、一般の農民は家系は維持する習慣が無かったのです。寺においても過去帳を持ちませんし人別帳のみですから「屋号」は持つ事は不可能でした。
お家は庄屋、名主、豪農、郷士などの農業に従事した家柄で元は武士を先祖に持つ家柄か郷士身分であった事を意味します。
枝葉の多い家系では「屋号」は同じ一族の青木さんですので本家分家等の位置づけをはっきりとさせる手段の呼び分け方法でした。
特に越後においては4つの青木さんとこの「青木さん同士の血縁族」が存在したので、余計にその「屋号」での呼び分けは重要さを帯びていた事が伺えます。「屋号」でどの青木さんの本家分家筋かが判る様にしていた筈です。
例えば、筆者の伊勢青木氏は伊勢青木氏は伊勢青木氏ですが、主2つの伊勢青木氏があって一つは皇族賜姓青木氏と特別賜姓青木氏とこの二つの青木氏の血縁族の青木氏の3つがあってそれぞれ伊勢の各地に住み分けしていました。そして、これ等には総宗本家、本家、分家、の枝葉が出来上がっていてこれをどの様に呼び分けるかで襲名、通名、屋号、商号、(2速の草鞋策)、地名で呼び分けてこの3つの青木氏のどの家筋の者かを判る様にしていました。
この「屋号」の事から信濃と陸奥と甲斐との関連は少ないと考えられます。
恐らくはこの屋号には「襲名」と「通名」と「地名」(氏の区別)も併用されていたと思いますが現在ではそれが完全に消えてしまっているのです。
もう少し「屋号関係」をお調べに成って復元されると完璧と思います。
襲名、通名、屋号、地名(村より小さい地名)の呼び分けが必ずあった筈です。
前回のお答えが更にこの事で確認される可能性があると観ています。
「屋号」があると云う事は「違う」と云う事の判別方法ですからね。
「諏訪社の事」、「宗派の事」はこの屋号ごとに少し違っていたのではないでしょうか。
特に「諏訪社」と「真宗寺」の事に付いて何か「屋号」から出てくる事が考えられます。
と云うのも、慣習として神社や寺社では寄進するとその石碑や灯篭や寄進札や道灯篭が遺されているのです。
仮に諏訪社や真宗寺との関係があるとするならば必ずこの石碑や灯篭や寄進札や道灯篭がある筈です。(寄進帳等は長い間に消滅している事がありますので難しいかも知れません。)
”地所の移動も真宗寺の移動”としてお答えですが、真宗寺の移動をお家のルーツに関わっているとすることの根拠もこの方法で判る筈です。
この石碑では「境内の周囲の垣」として並んで建てられたり又「道路標識」としても立てられています。
この時に氏名か屋号や襲名や通名などの形で記録がある筈です。
これは石ですので消滅することはありません。
因みに筆者の場合は、伊勢神宮には4つの大標識燈籠があり現在もあります。また青木氏菩提寺にもありますし、神明社の守護神にもあります。恐らく1000年以上の歴史が在るようです。
無ければあまり関係を口伝で伝えられていても無かった事を物語ります。
これはルーツを探る為には大変に重要な証明手段物になるのです。
「屋号」がある事はこのようなものがある事を示しています。
兎も角も、越後の亀田郷の中沢氏系秀郷流青木氏さん-祖先の愛知中沢地区の秀郷流青木氏 と云う事になると思います。
では、またお便りお待ちしています。
管理人さん 今日は。
しばらくご無沙汰しておりました。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
早速ですが、前回の管理人さんのご質問にあった諏訪族の青木さんの件ですが、残念ながら近所には見つかりませんでした。
また、地所の移動は真宗寺の経緯です。本家のある地域は亀田郷と言われています。
最後に、新しい情報をお伝えいたします。
我が家を含め、一帯の農家を営むお家には昔からの屋号があります。すべて人名で世襲制のため、おそらくは夫々の家の初代の方の名だろうと推測しています。
以上、今回は目立った情報はありませんが、よろしくお願いいたします。
越後の青木さん 今日は。始めまして。
これからもどうぞ宜しくお願いします。
”始めまして”ではない様ですね。
先日お便り頂きました越後の青木さんでした。
昨日判りました。
その後お体が回復に向かっているとの事ですが、よかったですね。
春爛漫と云った感じで穏やかな日が続いていますね。桜も満開、雪柳、椿、すももの花、草花に付いては数え切れないですね。
ところが、東北の方々は苦しい状況で耐えておられるのですね。
何か、割り切れません。
新潟は如何でしたか。充分にお気をお付けください。
さて、お便りに入らせて頂きますが、神明社の論文をお読み頂いているとの事ですが、ありがとう御座います。
青木氏を根底から掘り下げて研究しているものですが、先祖の生き様を浮き彫りにしたいとして投稿しています。何か不明点やご質問が有りましたらお尋ねください。
自分では判っているつもりで書いてしまっていますので、後で読み直し見ると不詳の部分に気づく始末です。随時訂正を繰り返しています。
さて、お尋ねの件ですが、なかなか個人ではルーツの解明は難しいですよね。神明社のところでも書いていますが、納得出来るほどには世間には資料がありませんしね。かなり専門的な研究が必要です。
しかし、青木氏に付いては日本でも最古の位置を争う位に歴史が古い氏であり、宗派は古代密教であった事や神明社の様に祖先神の守護神であった事からその筋の資料が遺されていて、それを調べることで他氏とは違いルーツを解明でき易いところがあります。他氏では資料があったとしても殆ど信頼性に欠け使用できないのが現実です。
お家は情報として「丸に片喰紋」である事、ご先祖が越後国、菩提寺は正副寺、氏神は諏訪宮、宗派は浄土真宗で検証しますと、次ぎの様になると思います。
先ず、結論は藤原秀郷流青木氏で中沢氏系青木氏と成ります。
これらの情報には一連性が存在しますので、次ぎの様に成ると思います。
そもそも「中沢氏」は「長沼氏」の支流一族で長沼氏は秀郷主要5氏の一つで永嶋氏と長沼氏と青木氏は秀郷4代目兼光系の一族です。その同族の支流の中沢氏との同族血縁した青木氏です。
この長沼氏は実に多くの姓氏族を有していて秀郷一門の中ではトップクラスです。
しかし中沢氏はこの中でも上位の位置に居ますし有名ですが、この分家筋から養子を迎えた事に成ります。長沼氏系中沢氏は家紋200選にも出てくる有名氏です。
丸付き紋は家紋掟により幾つかの判断ができますが、この中沢氏の分家と判断します。
この中沢氏分家と秀郷流青木氏との養子血縁と観られます。
丸付き紋は青木氏の分家とする考え方もあるのですが、藤原秀郷一門は原則丸付き紋は使用しない掟に成っていて、更に青木氏は皇族賜姓青木氏に習って使用していません。
依って、中沢氏の分家と判断するところです。
秀郷流青木氏は秀郷の子の第3子で千国を始祖としています。詳しくは秀郷関係のレポートを沢山用意していますのでお読みください。
御家紋の片喰紋は秀郷主要家紋8氏の一つです。
恐らくは、本来は秀郷流青木氏は秀郷一門の綜紋で「下がり藤紋」ですが、お家のご先祖がある年代で跡目の男子継承が出来ずに同族の長沼氏の支流中沢氏から養子を迎え、更に2代続きで男系に恵まれずに家紋掟により養子先の家紋の片喰紋に変紋したものです。「下がり藤紋」は綜紋と成ります。
この片喰紋は秀郷流青木氏と同族血縁をした中沢氏と秀郷一門の主要5氏の長谷川氏が使用しています。長谷川氏と血縁したとも考えられますが、長谷川氏の分布とやや異なりますので違うと考えます。
依って、しかし、同紋である事から長谷川氏とも何らかの形で同族血縁関係を持っている事に成ります。仮に長谷川氏であると丸付き紋をどう考えるかが問題に成ります。(主家本家は丸は原則使用しない)
この秀郷流青木氏116氏は24国に定住分布していますが、片喰紋の中沢氏系の青木氏は主に越後に多く定住しています。これは長沼氏系は進藤氏と供に新潟に勢力を持っていた藤原利仁流と連携して新潟方面を護っていたのです。
この越後は北に阿倍氏、東に内蔵氏、等阿多倍一族一門の勢力に挟まれて藤原氏とりわけ北家筋の秀郷一門に取っては大変に厳しいところでありました。そこで全北家筋が勢力を傾けて守っていたところですが、中でも秀郷一門の青木氏と長沼氏一族が当っていました。
従って、越後には”おーいと呼べははいと答えるくらい”に秀郷流青木氏が大変多い地域ですが、その中の長沼氏系支流中沢氏の一族が多いのです。
この様に越後の中沢氏は越後との関係の強い長沼氏の関係から説明できます。
藤原秀郷一門主要5氏は(兼光系)青木氏、永嶋氏、長沼氏、(文行系)進藤氏、長谷川氏と成っています。
次に宗派ですが、これには特別な事情がありまして、恐らく、宗派は浄土宗であった筈ですが、古代密教であった事から経済的負担から宗派変えをしたか、中沢氏の地域には浄土宗寺が無かったかによります。秀郷一門は地域に赴任定住しているために、浄土宗が古代密教であったために地域が限定され、一時的に真宗に便宜的に入信したのです。従って、一門の3割程度は引き続き真宗を宗派としているのです。
この為に平安末期から室町期前半頃に秀郷一門の青木氏には真宗を宗派としている事が多いのです。
中でも領国の武蔵国から離れて赴任した為に地方に居た青木氏は真宗に入り、中でも長沼氏系中沢氏の様な支流一族は勤め上で外郭域を担当し赴任している事から広範囲にある密教でない系列の真宗に入信したのです。外郭域には古代浄土密教はない故に、中沢氏、越後域とすると真宗しかない事に成ります。
特に一門の中でも、青木氏には領国武蔵に戻れば浄土宗に戻すと云う事をしました。
特に本家筋は伝統を護る為にも、又「青木氏」と云う厳しい「仕来り」がありこれを護る必要が有ったのです。従って本家筋は赴任地から任務が終わると武蔵に戻る仕来りでした。
(浄土宗は特別な身分家柄の氏のみが入信出来る宗派で、古代密教の3宗派の一つです。自らの力で職人を育て寺を建て、自らの氏から住職を選び、自らの力で管理運営修復をし、自らの氏のみを祭祀する宗派でした。大変経済的な負担を要するものでした。反面、軍事的な要塞としての役目も負っていたのです。)
秀郷流青木氏は嵯峨期の詔により特別に皇族の母方族であり、且つ皇族賜姓青木氏とは母方で血縁が一致する事から青木氏を名乗る事を許された特別一族ですので、神明社の論文でも論じています「3つの発祥源」の立場と仕来りを護る必要が有ったのです。
秀郷宗家と比べても有品の位は4位か5位ですので宗家よりも立場は上の位置にあったのです。これが「第2の宗家」と呼ばれる所以です。依って、古代密教の浄土宗に戻すことが必要であったし変える事は出来なかったのです。
そこで、秀郷一門の片喰紋の中沢氏系青木氏は支流一門でしたので領国に帰らず越後に定住して護る事に成ったのです。24地方の青木氏は全て分家筋か支流一門が残る藤原氏の掟に成っていたのです。
農民であったのは、鎌倉幕府期以後に秀郷一門は全て職を失いましたので、それ以後庄屋や名主などの農民に成ったのです。関東とりわけ武蔵、常陸などの領国では鎌倉幕府の家臣団になったりしましたが新潟にいた分家・支流の青木氏の多くはやむなく農民と成りました。
ご本家が地主などになっている事からも納得できます。これは重要な判断情報で氏家制度の中では当時ではだれでもが地主になれることはありませんので、藤原氏の様な限定された身分の家柄でなくて成れません。大きな確定要素に成ります。
失職後、元の立場と力を基にして名主、庄屋、豪農、郷士、郷氏、豪商などに成りました。
恐らくは、地主とありますので、この6つのどれかに成っていた事に成ります。
地主や庄屋を務める「郷氏」であったと観られます。
つまり、武家でありながら土地の土豪として暮らし農業も小作人を雇い営む立場で、6つの中では最も立場の高い家柄であった筈で、藤原秀郷流青木氏は鎌倉幕府に仕えない武家はこの「郷氏」に成ったのです。
この為に元々から居た土地に根付いた土豪の「郷士」と分けるために「郷氏」と呼ばれていました。
神明社でも論じている「融合氏の氏」なのです。士の姓ではないのです。
氏神に付いては、鎌倉・室町期以降に農民になった後のことで、これは「諏訪宮」であるとのことですので判ります。
本来は秀郷一門は藤原氏の守護神の春日神社の氏神社で有ったのですが、これも鎌倉期以降は失職により越後では菩提寺と同様に経済的負担から維持が困難と成り、地元の社としたのではと見られます。
ただ秀郷流青木氏は、神明社の論文でも論じていますが、鎮守神の春日社とは別に祖先神の神明社も守護神とする立場にありました。
新潟には青木氏が多いために大変に「祖先神の神明社」が多いところで全国でもトップクラスなのです。
この中で、諏訪神であるとすると、ある特別な理由が生まれます。
諏訪神は神明社と同等に大変古い社で「祖先神」であり諏訪族の守護神なのです。
諏訪族青木氏は信濃の皇族賜姓青木氏との血縁族で祖先神を守護神としている事から、神明社を守護神とせずに独自の祖先神の諏訪神を建立したのです。
諏訪宮は信濃諏訪族の守護神で信濃諏訪族青木氏が信長に攻められ越後に逃亡移動して移り住んだ時に建立したものと見られます。諏訪族青木氏は関東各地にも逃亡してかならず諏訪社を建立しているのです。越後には少ないですが室町期末期に諏訪族青木氏が定住しています。
この事から、地主で郷氏であったお家は春日社、神明社、諏訪社のいずれかを守護神にできる立場にあります。そこで青木氏である事から、春日社よりは神明社か諏訪社にする事になりますが、長沼氏の支流中沢氏系青木氏である事から「祖先神」を選んで諏訪社としたのではないかと考えられます。
3社の何れもを守護神と出来る中間的な立場であった事になります。
春日社よりは祖先神を選んだ事に成ります。中でも神明社は青木氏の長沼氏中沢氏系支流一族と成ってしまったこともあり守護神としづらく鎌倉期に入って諏訪社としたと見られます。
恐らくは信濃から移動してきたとする口伝から諏訪族との関わりが何か一族の中に有ったのかも知れません。
片喰紋の青木氏は主要8氏の豪族であったので各氏と血縁をしています。
片喰紋の諏訪族はありませんので諏訪族との血縁性の有無に関しては検証は無理ですが、諏訪族青木氏は全て抱き角紋です。
諏訪族は大変に厳格な氏でありまして、抱き角紋だけでも判りますように他氏との血縁に慎重な氏でしたので秀郷流青木氏との血縁を推測させるだけのものはありません。
関東に逃げた諏訪族青木氏も秀郷流青木氏を頼って逃げていますが、ここでも血縁に依って家紋が増えていません。
片喰紋は同族の長谷川氏にもありますので、長谷川氏は中部から東北北陸地方を勢力圏としていましたので越後は多少はありますが決め付けられるほどのものではありません。
片喰族は特に阿波・四国・愛知西にも多く定住している一族ですが、丸付き紋ですので長沼氏の支流中沢氏の分家筋との血縁氏であるので越後であることが納得出来る大きな要素です。
多分、愛知西域には昔の総宗本家のご親類があると観られます。
藤原氏の仕来りにより中沢と云う愛知の地名から採った姓ですので、昔は”藤原の朝臣 長沼の中沢・・”と名乗ったところから最後は中沢氏としたことに成ります。
この中沢の地名は愛知に多く、この片喰草は酢将草と呼ばれハート型のピンク色の花を咲かせる野草でその花の軸をかじると酢の味がするのです。此の野草は新潟よりも暖かいところに育つ野草です。
恐らく、藤原一門の青木氏はこの愛知でも大変多い青木氏でこの事から家紋掟による現象が一族に発生して家紋を片喰草にしたのですが、この愛知の秀郷流青木氏が同族長沼氏の支流の中沢氏と血縁をしたと考えられ、その後、赴任地の越後に赴いたものです。
信濃に居たとする口伝はこの愛知と信濃の境界部分までこの青木氏が定住地を広げていましたので信濃とする口伝があったものと考えます。当時は「住み分け」としまして重なる事は無く特に青木氏に関しては在りませんでした。
信濃の青木氏は北側の越後に西の境界まで信濃皇族賜姓足利氏系青木氏、信濃の国府から南にかけては総宗本家の皇族賜姓信濃青木氏本家一族、西には本家一族と血縁した皇族賜姓族諏訪族青木氏、西南には皇族賜姓諏訪族系青木氏、東南の甲斐境界には諏訪族系武田氏系青木氏、東には皇族賜姓足利氏系青木氏等が住み分けていました。
従って、信濃の境界部より南愛知側には藤原秀郷流青木氏が大変多く定住していたのです。現在も。
昔は土地に人が拘束されていて「国抜け」と云って江戸末期まで禁止されていたのです。これを犯すと一族皆打ち首の斬罪と成ります。移動にはそれなりの赴任地移動などの理由が必要であったのです。
この氏家制度の掟は明治初期まで江戸期の終わりまで続きました。
殆ど武士以外は移動は不可能であったのです。無宿者以外にはありえませんでした。
信濃から越後に現在のように勝手に自由に移動したとする事は出来なかったのです。特に農民は不可能でした。村全体で連帯責任で「人別帳」を点けて管理されていたのです。
結局”信濃から”とするのは武士以外の赴任に無く、愛知と信濃の境界に居た事を示すことになるのですが、お家の青木氏は家紋から長沼氏から中沢氏から観てもこの事以外には有り得ません。
長期赴任移動して鎌倉期の混乱と失職で領国に帰らずに現地に定住した事になるのです。
24地方に定住した秀郷流青木氏はこの混乱と失職により定住したものです。
但し、これには抜け道があって藤原氏が採った戦略は、現地の豪族との血縁をしていますので現地の豪族の権利を踏襲してその地に戦略上残して勢力の拡大を図ったのです。
本家が赴任した場合は武蔵等の領国に帰ることに成るのです。
念のために、武士を除く民は明治初期3年の苗字令と8年の督促令まで戸籍を有する習慣がありませんでしたので、菩提寺はありませんし過去帳も墓所もありませんでした。
墓所は川原の路傍の石を積み上げたもので先祖墓なるものはありませんでその様な習慣でした。上記の庄屋などを除いては。
それは平安期の910年頃から戸籍法が廃止されて以来、百姓(昔は農・工・商の部曲や品部等全般を呼称)は氏や姓を構成しない慣習により持ちませんので仏法の仕来り管理が不可能なのです。
依って菩提寺は勿論過去帳もありませんでした。当然、氏姓を意味する家紋も明治以降に成りますので片喰紋の根拠も持ちません。
明治3年の苗字令か8年の督促令により武士以外の庶民は苗字を持つ事に成りましたが、 この時、庶民は周囲の世話に成っていた郷氏や庄屋や地主などの姓と家紋を名乗ることに成りました。
その様に維新政府から強く指導されたのです。特に青木氏は古来より青木村を形成する事を許可された氏であった事から村人たちとの長い悠久の歴史の付き合いがあり血縁は兎も角も「絆」で結ばれていたのです。よって明治期にはその絆を元に村人の村全体が青木氏を名乗った人が多かったのです。
これ以外にも村に関係のない金のある商人や職人らも家柄を良く見せる為に寺に金品を出して系図を作ってもらってそれを証明に維新の役所に届け名乗った人も居ました。(江戸時代は武士階級の戸籍簿の役を寺がしていた)
ただ、鎌倉期に農民に成ったとしても郷氏・郷士・庄屋などは姓や紋の伝統を引き継いでいる事に成りますので、辿れば見つける事が出来ます。この様な一族も名字帯刀が許されていて室町期からは農民であるけれど青木氏を儀式祭祀の時は名乗る事を許されたのです。又、普通の農民であっても郷士等でなくても平安期にルーツを持つ者等も明治期になって、再び昔の歴史を伝えられてい居た青木氏を限定された村・地域によっては村地域の一族が再び名乗った処もあるのです。(史実の裏づけがある)
他氏と異なり青木氏は明治期の令によりともに長年生活をして来た強い絆から村人や家人は青木氏を名乗ると云うことが起こりました。神明社の論文でも記述しています。
この事の確認はご本家か宗家のお寺の過去帳が明治以降にしか無い事や明治維新の戸籍簿の確認で判ります。
お家のお話であると、本家地主菩提寺の有無とか地主とかの明治以前のお話に成っているようですので、元は藤原秀郷流青木氏で長沼氏系の支流中沢氏系の青木さんで、鎌倉期以降は郷氏の青木さんであったと観られます。以上の内容と成ります。
この前提に於いてルーツ検証には史実と合理的な検証が出来て矛盾がありませんので先ずは確定は出来ませんが合っていると考えます。
どこの青木さんも同じに成りつつあるのですが、時代が進むとなくなってしまうのですが、何か確定するものがご本家やご親類に遺されていると思います。
お隣のご本家を辿りますと、この元の総宗本家にたどり着ける情報が得られるかも知れませんね。
ご本家が明治初期以前にも真宗であったとすると特にお寺の過去帳や戒名などから見つかるかも知れません。菩提寺とは別に明治初期以前のものを証明するものがあれば確定です。
ご本家筋を辿れば愛知−信濃の処までたどり着けると思います。
戒名には3つの要素を組み込んで着けられるものでご先祖がどの様な立場生活なども判ります。
お家の仏壇の形式も参考に成ります。
真宗の移動と移跡からは室町期末期の事に成りますので一寸難しいかも知れませんね。
確か、正副寺はテレビで観たと思いますが寺で音楽をするお寺では無かったですか。
以上、提供頂きました情報からは検証できる範囲はこの範囲と考えられます。
他に一寸したことでも大きな更に決め手になることがありますので判りましたらお便りください。
越後の青木さん 今日は。
さて、早速ですが、ご質問がかなり専門的に成ると考えられますので、お答えに入ります。
>1)愛知西域に昔の総宗本家があるということは本拠地は東海、では菩提寺の創立は鎌倉時代の関東の常陸国らしいのですがこれはどう解釈すべきでしょうか。なぜ常陸という地名が出てくるのでしょうか。さらに常陸から信濃、越後(越後に入ってまた2回)と移動した理由も不明です。
先ず家紋から前回の通り藤原秀郷流青木氏でありますが、その青木氏116氏の内の長沼氏系列の中沢氏系青木氏とお答えしました。ここで実は中沢氏は長沼氏の系列の中沼氏の支流に当たるのです。
これを更に詳しくルーツを拡大すると、この長沼氏は本流総宗本家長沼氏以外に次の9つの氏から出ています。
1 淵名氏族長沼氏 2 小山氏族長沼氏 3 秀行流長沼氏 4 土岐氏族長沼氏 5 西党流長沼氏 6 宇都宮氏族長沼氏 7 桓武平氏長沼氏 8 島津氏族長沼氏 9 織田氏族長沼氏
さて、この中の2の小山氏族長沼氏の第2枝葉支流の中沼氏系で、その更に第2枝葉の中沢氏と血縁をした同族秀郷一門の「第2の宗家」と呼ばれる青木氏の分家と成ります。
この小山氏は常陸の大豪族で「関東屋形」と呼ばれ3氏の一つです。
この小山氏は元は陸奥の土豪の小山氏で、秀郷一門の宗家と護衛役の青木氏が鎮守府将軍として当地に赴きました。そこで秀郷宗家、及び青木氏はこの土豪との血縁をしますが、養子縁組にて青木氏と血縁をします。しかし、男系跡目が叶わず家紋掟により女系と成り家紋は男系の養子先の家紋と成りました。この小山氏系青木氏は任地が解けて領国に戻ります。この青木氏が常陸に小山氏を継がせて護らせます。そしてその後、青木氏の血縁の小山氏は常陸で大豪族に成ったのです。
そして、この小山氏と更に同族の長沼氏が同族血縁をして小山氏(同族青木氏)から養子を向え男系跡目により小山氏系長沼氏が生まれます。
この2の系列の支流に地名より長沼氏の中沼氏が生まれます。この中沼氏の支流に地名から中沢氏が生まれます。この中沢氏が更に青木氏116氏の一つの愛知の秀郷一門青木氏との血縁をします。
これで青木氏が2重に入った事に成ります。
この様にがちがちに各地24地域で同門固めを秀郷一門は戦略として行ったのです。
この中沢氏系青木氏が家紋掟により養子先の中沢氏の家紋の片喰紋系の青木氏となったのです。
つまり、長沼氏−小山氏−中沼氏−中沢氏−青木氏の流れを持っています。
小山氏には青木氏の血と中沢氏にも青木氏の血が持っていることに成ります。
この第2番目の元の小山氏が常陸なのです。
そこで、越後には宗家長沼氏が入りますが各地の同族の長沼氏系列の一門の護衛役の青木氏に越後に同行赴任を求めます。この時にこの中沢氏系列となった青木氏が赴任移動します。
この宗家長沼氏は秀郷より兼光系6代目考綱が越後の護衛を務めます。
そして、もう一人秀郷より考綱の直系9代目俊賢が越後の護衛を務めます。
小山氏系列の秀郷7代目の初代小山政光より初代中沼宗政を経て6代目長沼秀行が越後の護衛を務めます。(この宗政は淡路守初代、宗政は頼朝に合力した朝光の兄で千葉の結城氏)
この時の秀行の時に愛知の中沢の中沢氏系青木氏が越後の護衛に就いたと考えられます。
考綱の時より各地の秀郷流青木氏が護衛に就いたのですが、これは俊賢からは中沼氏系列の青木氏が務めて居た事を物語ります。
辿れば中沢氏系の枝葉の宗家は中沼氏で、更に上の宗家は小山氏系で青木氏と成り、ここに常陸と云うところが出て来ます。しかし、第5枝葉となりますので資料から中沢氏とその血縁氏の枝葉は不詳です。
>2)本家の宗派が明治初期以前にも真宗であったか否かですが、聞いた限りでは、真宗であり、また菩提寺も同じです。分家の我が家にある檀家過去帖(欄が埋まるとお寺で焼いて新調します)に江戸文政年間の記録がありました。過去帳原本にはさらに古い記録があったようですが、寺火災のため焼失してしまいました。
>本家の事柄で私が確認できるのはせいぜいお墓くらいのもので、姿形はよくある何々家墓などと彫られている長方形の石のかわりに、「丸、三角、正方形ふたつ分くらいの長方形、平たい四角、ひとまわり大きな平たい四角」の粗末な石材がのったお墓です。途中に何か挟まっていたらしいのですが、災害などでくずれた際なくなった、という話です。
次は2番目のご質問ですが、その前にお考え違いをしておりまして、この事を先に記述します。
先ず、「菩提寺」の定義ですが、これが違っているのです。
菩提寺とは密教方式にて氏自らの力で寺を建て、自らの氏の中から住職を選び、自らの職人で寺を造り管理運営をし、自らの氏の者を祭祀する独善的な寺の事を言います。これが古代密教の根本的方式です。これには天台宗密教方式、浄土宗密教方式、真言宗密教方式の3つがあります。
有名な密教のあり方を論じた「密教論争」です。これ以外は密教方式では有りませんでだれでもが入信出来る独善性のない宗派です。
ですから、浄土宗密教は2つの青木氏や皇族系に限られた宗派と成り、天台宗は公家・貴族などで構成されていて、真言宗は有品の大豪族などで構成されていました。
当然に浄土真宗はこの密教方式に反対しての宗派として分流の宗派ですので、菩提寺方式は元々ないのです。3密教以外は「檀家寺」と呼称します。
浄土宗密教にはそれなりの独特の仕来りと習慣とが有ります。
青木さんはこの檀家寺を菩提寺としての前提でルーツの模索検証を試みていられるのですが、真宗はルーツ探求には無関係です。地理性などが檀家寺として変化しても氏に関わるものではありません。
常陸、信濃、越後などの移動に関係が有りません。氏に着いて来ないのです。密教方式ではないからです。
しかし、この誤解は江戸の家康の採った奨励令により起こったものなのです。
この密教方式では江戸期の社会組織では、この3密教は経済的負担にも拡散する氏的にも成り立たなくなって寺が荒廃して無くなって行き、特に浄土宗は衰退してしまいました。
そこで家康は浄土宗の仕来りを廃止し誰でもが入信できる宗派に改めてやや高い布施費を求めることで維持復活させようとしたのですが、矢張り、大名や上級武士以外は無理でした。
この時より浄土宗寺は単一氏ではなく氏を限定する事無く数多い氏の出費で維持することに成りました。一般的になったのは明治初期です。それでも矢張り現在でも他宗よりはまだ高いのです。ここで密教性が無く成ったのです。
この江戸からの改修で菩提寺と檀家寺の差が無くなった為に混同されて過去の江戸期前の事も檀家寺を菩提寺と考えられてしまっているのです。
真宗の菩提寺とする事から観た常陸には無理があるのですが、常陸には上記する縁があるのです。
そこで、さりながら提供されましたこのご質問には大変な情報と成っているのです。
それは墓の形式なのです。
現在の長方形の墓はこれは明治初期からのもので、明治3年の苗字令と8年の督促令により国民すべて姓を持つことが義務付けられました。その時から、国民九割以上は氏では無く姓による戸籍簿が作られそれに依って墓も持つ様に成ったのです。檀家寺でも全ての姓の過去帳も作られる事に成りました。
それ以後、墓は長持ちし綺麗な状態で維持出来る大理石・御影石等で作られるように成ったのです。
土台の御影石の上に長方形の御影石を載せる簡単な方式で出来ているのは明治期のものなのです。
後に土葬から火葬に変わり墓形式と仕来りは変化して行ったのです。
ところが、江戸期の氏家制度の中では、武士以外は原則墓は持ちませんし菩提寺も過去帳もルーツも持ちません。農民以下(通称江戸期初期までは「百姓」と呼称していた 公家貴族有品武士の侍を除く民の事として呼ばれていた)は川原の路傍の石を積み上げた簡単な個人墓で済ませる仕来りで土葬であるので石の墓は原則無し風雨に晒されて無く成る等が起こりました。この自然変化が故人の仏になる過程と見なされていたのです。
農業を営む庄屋などの郷士、郷氏、豪農、名主と豪商は武士と同じで墓所と名字帯刀が許されて過去帳もを持つ事が出来ました。元々は平安期では武士でしたから。
ここでこれ等の事がその宗派により仕来りが違ってくるのでその氏の素姓が判るのです。
お便りより先ず丸・三角・四角の墓は「先祖墓」と云うもので、50−100年以上の数人の先祖を有する氏が立てる墓の形です。明治以後も宗派に依って同じ習慣があるのですが、浄土宗は密教方式の一つとしてこの形式を採ってきたのです。最近はこれを真似て御影石の「五十の塔」と呼称して一般にも採用するところがあります。
しかし、これを砂岩や泥岩でつくったものが密教の形式なのです。つまり、「土に戻る」の戒めから風雨に解けやすく苔むす砂岩や泥岩を使うのです。どんな大名や公家貴族でもこの石を使うのです。
先ず、越後の青木さんの墓所の内容は浄土密教の墓所の仕来りを護っていることなのです。
現在でも少ない仕来りで「先祖墓方式」と「粗末な石材」です。高野山や比叡山の古い墓を見てください。この形式を採っています。
さらにこれだけではないのです。この石材での「平たい四角の大きな石」は普通は見かけません。
これは「女墓」と云いまして、決定的な浄土密教の伝統的仕来りなのです。
その氏に関わった女御の人たちの墓で女御は普通の墓所には居れずに、隣にこの大きな石に戒名を書き記して遺して行く形式なのです。戒名は書き足されて行きます。中には辞世の句や家訓なども書き足すことがあります。これは先ずよほどの古い浄土寺の墓所でもなかなか観られない浄土宗密教の仕来りなのです。
浄土宗密教方式では「先祖墓」でない墓石は3代墓と云いまして、3代前つまり祖父までの単独墓を造ります。1年から数年程度の故人の場合は木塔婆を造ります。そして3年以内に石の墓を造ります。
これを繰り返して行くと祖父の墓石は50年以上を経過します。中には100年と云う事も起こります。
この50〜100年経った墓石は先祖墓に入ります。これを順に繰り返す仕来りです。
法事やお盆の場合の祭祀の仕来りは3代前まで先祖数の仏を主として祭祀し般若心経のお経はその3代前までの先祖数の分だけ唱えます。特に浄土宗密教のお盆の仕来りは他宗と随分と異なります。
この様に仏壇も含めて仕来りが厳格に決められているのです。
これは越後の青木さんの現在の宗派が真宗なのですが、墓は浄土宗密教の仕来りを護っていることなのです。経済的負担などから真宗に改宗しましたが伝統だけは護って居た事を意味するのです。
これは現在でも真似る宗派や人は居ないようです。
その女墓に書いている戒名も戒名そのものも記すことが出来る戒名墓である事なのです。
戒名は「院殿居士」と云ってこの戒名があるから石に記することが出来るので、真宗では書く程の戒名は密教でないために使用しません。その戒名には3つの生前の様子を盛り込むのですが、この戒名を見る事でもその氏の宗派と家柄は判ります。
墓は長い間には砂岩泥岩ですので消えて行きますがこれが宗教的に又よいのです。
越後の青木さんの墓所のものは長い年月で消えているようで、間に挟まっていたものがあったとされていますが、説明が難しいので避けますがこれがこの「女墓」の造り方なのです。
まさしく藤原秀郷流青木氏の伝統を物語るものです。
依って、”菩提寺と真宗に付いては違いますよ”と云う事なのです。
昔からの伝統は墓所に限らず恐らくは仏壇の形式やお盆などの祭祀方法が本家では多少護られているはずですよ。仏壇も浄土宗式仏壇であるかも知れません。
>3)氏神の諏訪宮についての質問です。
> 諏訪宮は信濃諏訪族の守護神で信濃諏訪族青木氏が信長に攻められ越後に逃亡移動して移り住んだ時に建立したものと見られます。
>この件で、我が家から嫁・婿養子を出すなど縁のある隣村の嘉木(かぎ)に創立が応徳三年(1086)と伝わる諏訪神社があります。我が家の氏神の諏訪宮は年代不詳ですが、あるいは同時期かとも思えるのです(しかしそうすると菩提寺との年代が合いません)。諏訪信仰はそれぞれの時代でいかにして広まって行ったのでしょうか。
実はこの諏訪神社の氏は大化期からの氏で諏訪族と呼ばれ「日本書紀」にも出てくる青木氏に負けないくらいに古い氏名です。そして、賜姓青木氏に付き添われて天皇の前で堂々と文句を言うくらいの気骨のある氏で、周りがハラハラしながらも”あれでよい 信頼が出来る”と天皇も褒めたくらいの氏なのです。
この先祖は中国後漢の民が阿多倍に率いられて17県民200万人と云う技能集団が北九州に帰化しますが、その内馬部と云う放牧と大型馬を育てる集団をこの未開の信濃に配置しました。これが諏訪族の先祖です。そしてこの開墾した信濃の国に信濃王として赴任し守護王としての第2世の第6位皇子の賜姓青木氏で、これが皇族賜姓信濃青木氏です。
この青木氏に諏訪族から跡目を入れて発祥したのが諏訪族青木氏です。
この抱き角紋の諏訪族青木氏と諏訪族の守護神が諏訪大社です。
この諏訪族青木氏は足利氏系青木氏と武田氏系青木氏2氏があります。この諏訪氏の守護神は1025年頃に創建されていますが年代を不祥にしています。これは主要な神社は年代を明確にしない仕来りがあるのです。それは霊験あらたかであることを狙いとしていて古いことが良いからです。この時期には氏にもこの様な風潮が起こりました。
諏訪大社の前身は当初「自然神」を主体としていて山や諏訪湖などを神と崇めていたのです。それが「産土神」と成り信仰の対象を祠の様なものを造り祭祀するように成ります。
次に、「祖先神」と云う信仰対象と成り伊勢神宮の様な「社」を造ります。これが社の始まりです。
最初は30程度の社しかありませんでしたが、朝廷が「皇祖神」と青木氏の「祖先神」としての「神明社」を作るに及び全国制圧するに連れて青木氏の神明社を建立することに成ります。
それが丁度、清和源氏征夷大将軍として全国を制圧してから神明社としての社がひろまり、各氏の社も勢力の及ぶ範囲にシンボルとして社を建てたのです。
この時が丁度、1025−50年で、諏訪社もこの時代に創建しました。
この事からすると、越後には諏訪族の勢力は全く及んでいませんので、この年代に藤原氏の勢力圏に氏家制度の中で立てられるわけはありません。結論としては分霊という方式で勢力の及ぶ各地に移しましたので、本霊の年代を表示しているのです。
諏訪社は次の5期の範囲で拡大しています。
第1期は平安期後期、第2期は室町期初期、第3期は室町期後期、第4期は江戸期初期、第5期は江戸期後期です。
色々特徴がありまして、越後には第3期のところで戦国時代信長に依って滅ぼされた武田氏の諏訪族武田氏系青木氏2氏が一部越後の藤原秀郷流青木氏・中沢氏系青木氏等を頼って逃げ延びています。
多くは関東の秀郷流青木氏を頼って横浜・神奈川・栃木に逃亡しますが、この越後の諏訪社はこの逃亡した氏らに依って創建され分霊されたものです。
越後には史実として諏訪社の本霊はありませんので創建理由から分霊と成ります。
勢力圏の及ぶところには本霊を、及ばないところには分霊を創建する仕来りです。
これは氏家制度の中にあるからでそこの氏に対して他氏の社の本霊は無礼極まり無しと成ります。
もしその様な事がありますと「戦い」です。なぜならば、当時は寺社や神社は戦いの拠点の役目も同時に持っていたのです。拠点になる様なものを領内に立てられてはまさしく戦いです。
この分霊は第3期以降に起こりました。その第3期の前は勢力圏の中に社を創建する慣習です。
第5期は伊勢詣で有名に成り神社競争が起こり諏訪社を始めとして幕府は各地に各社を立てる事を奨励します。第4期は未だ自由に立てる事は出来ませんでしたが大名が国変え移動するたびにその氏の社を守護地に競って建てたのです。これも拠点の意味が有ったのです。城を建てると騒がれるので領内の要衝に寺や神社を立て周囲を護り且つ戦いになるとそこが前線本部の役割を果したのです。
この様な意味で、お家がこの諏訪社を守護神にする主たる根拠は見つかりませんが、恐らく前回のお答えになると考えます。
そのお答えの内容としては、越後において諏訪族青木氏との血縁を含む絆が有ったのではないかと考えます。
藤原氏の春日社、青木氏の神明社を選ばず(第1回目のお便りでは?ですが選んだとすると問題はない)、諏訪族青木氏との血縁を重視した事に成ったのではと考えます。これを証明する資料と情報は有りませんが私はかなり確率が高いと見ているのです。
氏家制度は血縁は家柄身分のつりあいを前提にしますので充分に有りうる事と思います。
推測の域を越えませんが、同じ青木氏であるので、そこで「神社」は諏訪族側の諏訪社を、「寺社」は秀郷側の真宗とし、「家紋」は抱き角紋より男子側の片喰紋の家紋を、「墓所の形式」は諏訪族は神道であるので元の浄土宗密教の仕来りを引き継ぐとした取り決めをしたのではないかと考えているのです。
つまり、この事から秀郷流青木氏と云う事に成りますが、この様な事が起こったのでは。
何故ならば、氏家制度の中では諏訪社(神道)と真宗の組み合わせには有り得ないまぜこぜの無理が有るからです。
諏訪社であれば抱き角紋なのに片喰紋、神道なのに真宗、そして、墓は真宗なのに古代浄土宗密教の形式がある。それこそ有り得ない五目飯です。
実はこの様な事が起こることは下記に書いた各地で起こった同姓の融合の所以が起こった事を示しているのです。これが氏家制度と云う環境(「つりあい」の血縁慣習)の中で「2つの血縁青木氏」だけに観られる特徴なのです。
片方は皇族賜姓族の青木氏、お家は准賜姓族の藤原の青木氏で完全につりあいは取れています。
実は異なる同じ青木氏同士の血縁は珍しくなく、信濃や伊豆や鳥取や島根や高知でも起こっているのです
伊豆などでは5つの青木さんが融合しているのですよ。この大きくなった青木村があるのですよ
同じ青木さん同士であればどちらの青木さんか判りませんね。家紋もどちらにするかもめるところですね。
今の情報では何の決め手もありませんがある史実があってこの仮説は意外に有るのでは。
そこで念のために、一つ目の質問ですが、青木さんが多く住むお家のある程度大きい地域に「抱き角紋」の青木さんか「立ち三つ葉梶根付紋」の青木さんが居られませんか。
二つ目の確認ですが、或いはお家の「ご本家」は越後の信濃よりですか。
信濃国高井郡井上小坂郷和田村-越後国亀田村袋津−曽川村- 新潟市西堀通
これは御家の移動経緯ですか、菩提寺とする真宗寺の経緯ですか?を確認をしたいのですが。
江戸期前は武士の赴任地以外に原則長期の移動と定住は出来ませんので、赴任地移動と定住と成ります。とすると秀郷一門の赴任地から検証が進むのではと思います。
越後には昔の中頚城郡金谷村(現在は金屋)・青木村等他の2個所青木村を基点として青木氏は広がっています。
信濃には下諏訪地方と隣の小県郡青木村など前回の南北の分布の青木村が基点として広がっています。
そうすると信濃の高井郡とは信濃北右よりに位置していますので、此処での過去の史実とを考察してこの質問の事が判れば信濃の高井郡の検証が進み、愛知の中沢の秀郷流青木氏の国境とする説と上記の仮説の考察が出来るかもと考えられますが。この二つの事が確認できると仮説がより検証できると思いますが。
家柄の釣り合いから狭い限られた越後の地で「つりあい」を合わしての血縁は難しく同族血縁をすることが多かった戦国時代の背景がこの時期に起きています。
この諏訪族は武田氏に嫁いだゆう姫(諏訪社の斎王を務めていた)の如く誇りを抱き武田氏に溶け合うことは無かったはずです。諏訪族の方が武田氏に比べれば数段家柄が上でしたから。故に大変に厳格で排他的な思想を持ち他の氏との融合をあまりむやみにしなかったのです。これは祖先が「産土神」(うぶすなかみ)を主体としているところに有るのです。
この事は詳しく「青木氏と神明社」で論じますのでそれをお読みください。第12番目くらいが本論に成りますが5くらいから徐々に記述しています。
では、ご質問や他に情報がありましたら是非お便りください。お待ちしています。
管理人さん 今日は。
研究室の論文をいつも興味深く拝見しております。
同じ青木氏として縁あってお会いすることができましたが、
今後ともよろしくお願いいたします。
早速ですが、家の情報といくつかの質問を投稿させて頂きます。
素人のネット検索ではなかなか要領を得ず・・・
是非ともご教授賜りたくお願いいたします。
家紋 : 丸に片喰紋
先祖 : 越後国で代々農家、本家は昔地主でした。
菩提寺 : 浄土真宗大谷派 對嶽山正福寺
氏神社 : 諏訪宮(神明社を合祀)
口伝 : 信濃から来たとか、縁があるとか。
質問・1)藤原秀郷流青木氏の中沢氏系青木氏と推測すると、本拠地は東海。では、菩提寺の創立は鎌倉時代の関東の常陸国ですが、これはどう解釈すべきでしょうか。さらに常陸から信濃、越後へと移動した理由が不明です。
質問・2)本家共々宗派は明治初期以前から真宗です。本家の墓は我が家の一般的なそれとは違い、「丸、三角、長方形、平たい四角が2段」の粗末な石材ですが、どんな背景があるのでしょうか。
質問・3)隣村に創立が応徳三年(1086)と伝わる諏訪神社があり、我が家の氏神の諏訪宮は年代不詳ですが、あるいは同時期かとも思えるのです。諏訪信仰はそれぞれの時代でいかにして広まって行ったのでしょうか。
長嶋さん 今日は。
なるほど、面白い推理ですね。
私は前回のストリーから維新前から幕末にはこの静岡、愛知の松平氏の中では危険で難しかったのではと観ています。薩摩の者が敵地に居る事になりますからね。
まぁ いろいろとご質問等があれば遠慮なくお尋ねください。
福管理人さん ありがとう御座います。
禅定尼さんは太吉さん、妻りわさんとともに1つの墓石に戒名が刻まれています。
左:玄少雲如用禅定尼 中央:本庭英心信士 右:南延妙善信女とそして、
左側面に天保十二年十二月廿一日、
右側面に奥:明治五年四月十七(?)日、手前:明治三十一年八月廿六日
と掘られています。
説明不十分で申し訳ありませんでした。
これから少し、福管理にさんのご意見を参考に、「本庭」と「本性」、杉浦氏、牧野氏、根笹紋との関連について調べていきたいと思います。
とりあえず、檀家寺、岡崎を含む三河地区を中心に図書館で郷土史を見てみようと思います。
推測ですが、長嶌太吉さんの正式名を推測してみました。
長嶋太郎右衛門兼吉
長嶌→長嶋、『太』から長男何では、『太郎』、鹿児島市史に記載のあった『長嶋次右衛門』、鹿児島城下図(文政)に記載のあった『長島勘右衛門』に共通する『右衛門』、肝付氏の通り名『兼』を『吉』と合わせ
『兼吉』。
ホントに長嶋太郎右衛門兼吉なんて、出てきたらなんて期待し、色々探してみたいと思います。
色々調べた結果で、気になること、疑問な点がありましたら、質問させて頂きますので、
よろしくお願いします。
長嶋さん 今日は。
早速のお便りありがとう御座います。
さて、先ずは次ぎのお尋ねですが、
>太吉:本庭英心信士
>源吉:本性良源信士
>源吉さんの『本性』の部分が読み込んでいると言うことでよろしいでしょうか?
前回お答えいたしました様に この戒名に関しては ”「周囲の方」”が”どの様な経緯の情報”を持っているかによります。
仏教には長い間の慣習があって、且つ宗派がありその慣習に関する考え方が異なります。
とりわけ、密教3宗と其の他の宗派との間にはこの慣習の取り扱いが大きく異なります。
特に、禅宗系は異なっている様で「物事の解釈」に禅門的な判断を要求されます。
筆者には苦手な難しい宗派のひとつです。
そこで、第3者から観た場合の感想を述べたのですが、私は読み込んでいると観ます。
恐らくその当時の「周囲の方」は「本庭」と「本性」とで何かを理解する情報を持っていたと観ています。それは何であるかは第3者には判りません。
ただ、今までお伝え頂いた内容を咀嚼しますと、前回の一つのストーリーが出来上がるのではないでしょうか。(筆者であればこのストーリーの確証をより近づける為の調査をする事に成りますね。それには大庭氏や杉浦氏の家紋の繋がりを詰める事にしますが。 そこで出てくる答えが一つの方向が生まれ、その方向が「本庭」と「本性」の意味(仏教的な語意)が判らせてくれると観ています。それには一つ推理を立てています。)
禅宗である事から尚更ですね。禅問答的な要素が強いのでそれが何であるかは第3者の私には判りません。お家のご先祖の中で何かを意味していると観ます。この戒名が「院殿居士」であればそれだけ情報を読み込む事になり第3者でも何がしかの意味合いを読み込む事が出来ますがそうではありませんね。
つまり故人のより詳しい情報を読み込むとすれば必然的に「院殿居士」の方法と成って来る訳です。
戒名そのものはオープンな情報というよりは限定された範囲での情報です。
従って、太吉さん源吉さんの戒名はその情報がより周囲の方の範囲に委ねられる傾向が強く成ると云う事ですね。
ですから、「周囲の方」と前回よりお答えしています。然し、その周囲の方も最早故人と成られていると考えられますので難しい事かなとも思います。その様な事が起るために由来書や系譜添書や忘備禄や口伝や家訓などの方法を昔は使ったのですが、現在ではその慣習は殆ど無く成っていますね。
お家にも無いようですので。
青木氏のサイトも青木氏族に関する総括的な情報を掘り起こして遺そうとしているのですが。
長嶋氏にもあったらよいのですがね。
>などから、檀家寺勝楽寺が曹洞宗で、禅宗系であるため、墓石を見た時、成人女子と考えたのですが、未婚の子供・幼児の女子に使う『童女』を使わず、『禅定尼』も使われるのですか?
前記しましたお答えに繋がりますが、禅宗なのでかなり厳しく慣習を護る傾向がりますね。
前回お答えした前提は墓石が別にあると判断してのお答えでしたが、どうも違っている様ですね。
一つの墓石に刻まれている様ですね。
別の墓石の一つにこの様な本筋でない未婚などの故人をまとめて書き込んで行く方法です。
相当な家柄でなくては、長嶋さんが禅定・・の事に付いて書かれていますが、その内容に従うと成りますと、墓所の面積は、墓石の数はいくつあっても足りません。
庄屋や大地主などの家柄でこそ出来る事です。依って仏教が定める通りの慣習や決め事には普通は出来ません。
提供された戒名から観て、この様な人を別の墓石にしているのかと思いましたが、それもせずに全てを二つの墓石にせずにこの様な故人も一つの墓石にまとめて刻まれている様ですね。
普通は墓石はその家の本ルーツの「跡目の人」の墓石を3代まで3つの墓石(祖父の代)に分けます。その一つの墓石が50年経つと累代の墓石の5輪の墓石に移します。これ以外に「跡目の人」以外の故人に纏わる人は「別の墓石」を造り其処に葬ります。これを代々繰り返して行くのが普通の共通する仏教の慣習です。跡目以外の分家を興す人は別に墓所を設けますが、跡目の人でない人や分家を起せない人や起さない人は必ず出てきますからその家の墓所の何れかに納める必要が起こります。それが特に昔であれば未婚の人、未成人、幼児、水子までの多くの人が出来ますが、傾向として女性という事に成る傾向があります。この様な人を祭祀する墓石が必要に成ります。
中には「女御墓」を別にして祭祀する家柄もあります。大きな長い平たい墓石に全ての女御の戒名を書き足して行く方法もあります。歴史が長く成る宗家本家墓方式です。
お家はこれを無くして一つにしたと云う事ですね。今ではその方式が進み最早戒名も書かない「先祖代々の墓」として一つにまとめて全て納める方式ですがこれが殆どですね。
この世の何でもそうですが、決められた慣習通りにできる事等は滅多にありませんね。ネットなどで調べると通り一辺の答えとなり実態の慣習の内容どおりの事は書き記していませんね。
そこが僧侶やその種の人に直に聞く等すると実態は見えてくると思います。
「童女」や「禅定尼」等別にしていたら墓石ばかりになって仕舞いますよね。現実には無理です。
普通の実態は別の墓石を設けて跡目人以外は其処にまとめて祭祀するのです。然し、それをもしなかった墓所となっているのですね。源吉さんか次ぎの跡目の人が現代風に近い方式にしたのです。
この様に墓所の形式をどの様に反映しているかを知っている事でもどの様な筋目のお家かが判るのです。墓の構えでも判るのです。
従って、墓石の状況や戒名の状況 宗派などでも太吉さんの筋目が宗家や本家や分家や分流や支流や分派等や支流や傍系の違いまでが判ります。
今回のお答えは其処から導き出したお答えで ”これ以上は超えない”とお答えしたのです。
ルーツは宗家に本家にたどり着かないと無理です。宗家や本家が昔からの慣習を継承する義務を負っているのですから、故にそこに情報があり「周囲の人」もその関係者という事に成ります。
前回お答えしました様に契約社会と氏家社会の違いです。慣習や考え方は異なっているのです。
長嶋さんの鹿児島のルーツは「本庭」と「本性」を紐解く事で、何故静岡に着たのか、何故根笹紋なのか、何故長嶋氏に戻したのか、のこの「3つの事」が判ると思います。又は判らない事を理解する答えに成ると思います。半分は出ていると観ます。
筆者の範囲で考証したストーリーも併せてお考え下さい。
ではお調べになって不明な点などありましたら又お便りください。
福管理人さん、ありがとうございます。
坂東八平氏、資料の意味合いに依って何処の処を名とするかはその資料の目的による長嶋氏、肝付氏の表記の違いの解説、今後、御先祖様、ルーツを紐解いていく中で参考に行きます。
また、戒名によっても、宗家筋なのか、支流・傍家なのかということが解るのですね。
今回のお答えで2つ疑問に思ったのですが
→源吉さんは太吉さんの戒名には「庭」にし、自分の戒名にもそれを読み込んだとすると納得できます。
太吉:本庭英心信士
源吉:本性良源信士
源吉さんの『本性』の部分が読み込んでいると言うことでよろしいでしょうか?
→ 「・・禅定尼」とは主に未婚の子供・幼児の女子に付ける戒名の判別用語です。
つまり、生まれて間もなく死んだ、或いは死産や水子に付ける戒名です。一つの墓石を造りここにこの 様な人を集めて祀る墓石です。何処の氏にも設けるものです。最近はこの風習は無くなり全て「・・家先祖累代の墓」の一つの墓石に集めて弔う傾向があります。
「位号」の表わす意味は、以下の通りです。
成人男子:大居士・居士・大禅定門・禅定門・清信士(善士)・信士(清浄土)など
成人女子:清大姉・大姉・大禅定尼・禅定尼・清信女(善女)・信女(清浄女)など
男の子供(十五歳くらいまで): 童子・大童子・禅童子など
女の子供(十五歳くらいまで):童女・大童女・禅童女など
男の子供(四、五歳以下): 幼児・嬰児・孩児など
女の子供(四、五歳以下): 幼女・嬰女・孩女など
禅定門・禅定尼
仏門に入ったとの意味があり、禅定とは心静かに瞑想して、真理を見極めること、あるいは悟りの状況そのもの指す。戒名で禅定門がつけられるのは禅宗だけではなく、女性に対しては禅定尼がつけられる。また、禅門・禅尼、大禅定門、大禅定尼という呼称もある。
戒名のランクの中ではその位置付けは難しく、居士・大姉の下、さらに信士・信女の下にされることもある。特に禅宗系寺院以外ではこの傾向が強いようだが、禅宗系寺院でも禅定門・禅定尼が再下位になることもある。しかし、大禅定門・大禅定尼となると院殿号と併用されることが多い。
融通念仏完においては禅定門、禅定尼の位号がけられるのみで、戒名におけるランクは全くない。
禅定尼
在家のまま仏門に入り剃髪した女性。出家せずに、在俗のまま仏教に帰依した人。
などから、檀家寺勝楽寺が曹洞宗で、禅宗系であるため、墓石を見た時、成人女子と考えたのですが、未婚の子供・幼児の女子に使う『童女』を使わず、『禅定尼』も使われるのですか?
長嶋さん 今日は。
さて、早速ですが、ご質問にお答えします。
>根笹紋は太吉さんの奥さんの実家先の家紋(大庭氏では?)かも知れませんね。』
>太吉高祖父の奥さんの旧姓は『牧野』といいます。なので、大庭氏との関わりは無いかと思われます。りわ高祖母の父は、戸籍には牧野喜平との記載がありました。
大庭氏の件ですが、少し歴史雑学から違っていますよ
「庭」には仏教用語としてほかにいろいろな意味を持ちますが、この場合は大庭氏の事を暗示しているのではと観ています。
そこで、大庭氏は奈良期から平安初期に掛けて発祥した数少ない珍しい「氏」の一つで、皇族は奈良期初期までは天皇が代わる度に広がる皇族を第6世までを皇族として制限していました。大化の改新で第4世族までとしました。従って、第7世族以降の元皇族は、臣下して「武家」を形成して坂東の守護に配置される慣習に成っていました。これらの「臣下族」に対して「ひら族」(平族)と賜姓して皇族から一挙に切り離したのです。
この「融合氏」(青木氏のレポート参照)は20−40くらいしか平安初期にはありませんでした。これが「坂東八平氏」(第7世族以降の賜姓の臣下した武家族の平族の事 桓武平氏の「たいら族」とは異なる)この「坂東八平氏」の一つが「大庭氏」の「氏」です。一段下の「姓氏」ではありません。
例えば、秀郷一門の「藤原氏」は361氏ありますが、佐藤氏や伊藤氏や工藤氏や斎藤氏等色々ありますが、これ等は「藤原氏」と云う「氏」で括られ、この下に「姓」が発祥して枝葉の末裔が広がります。
以前書きました様に肝付氏も42氏にも枝葉末裔は拡がっていますよ。
日本にはこの広がり方には幾つかのパターンがあります(研究室のレポート参照)
現在、「氏」と言っているのは殆どは「姓氏」の事です。氏名、姓名がある様に氏が大きくなると姓氏も生まれて来ます。
「姓氏」にも藤原氏の様な縁者の「姓氏」と阿多倍一門の様な配下の職能集団の「姓氏」もあります。(海部氏等)
「坂東八平氏」の様な「皇族血縁族」の「氏」の枝葉末裔の「姓氏」もあります。
因みに、その中でも本サイトの「青木氏」が「氏の発祥源」なのですが、「青木氏」は「第2世族」の「第6位皇子」の「賜姓臣下族」の「武家の発祥源」で、その為に「姓氏」を発祥させない唯一の「融合氏」の「基氏」なのです。
大庭氏はこの数少ない「氏」の「氏名」(姓名ではない)です。
この「大庭氏」から数多くの「姓氏」が鎌倉期以降に枝葉末裔が出ています。
お家が云う「牧野氏」もこの「大庭氏」の枝葉末裔の「姓氏」であるかも知れませんね。
牧野氏の枝葉を調べると判りますよ。例えば、鎌倉執権の北条氏もこの枝葉末裔です。
太吉さん関係者か源吉さん関係者がこの大庭氏に繋がる何かを持っていたとしたら、一つのストーリーが生まれる可能性があります。
それは幕末九州長島氏か長嶋氏か永嶋氏であって商人としてこの地域に島津藩の者として来て活動するには長嶋氏等を名乗る事は三河は松平氏の膝元で危険であり商人として来ているのですから名乗りは変える必要があり、「綜紋」の「三雁金の家紋」も危険です。この結果、70年近くの間に忘れ去られた可能性があり、そこで維新後その危険性が無くなり3年8年の「苗字令」によりもとに戻すことを源吉さんは決断したが、長嶋氏は元に戻せたが家紋は不明か消失したために源吉さんの実家先の家紋か太吉さんの奥さんの実家先の家紋を使用したと考えられます。その家紋先が地元名籍の大庭氏に繋がる家紋を採用した方が得策だと言う事に成ったのではないかと観られます。肝付氏一族一門長嶋氏の綜紋は三雁金紋ですが、お家の長嶋氏の家紋が果たして「綜紋」を引き継ぐ宗家筋であったか証明するものがなく判らなかったし、まして「商家」に成っている以上は「家紋消失」と考えて「根笹紋」にして源吉さんルーツか太吉さん奥さんのルーツの長嶋と根笹の2ルーツ名乗り変えをしたと考えられます。
いずれにしても戒名から長嶋氏宗家筋などを示すものは「菩提寺等」ではなく「院殿居士」も無い等戒名にはそれを超えるものは見当たりません。まだ時代の慣習は10年もたっていないこの時期にこの戒名ですので無理だと思います。宗家筋の者で祭られる過去管理をしていた菩提寺に戒名付けや分骨や永代供養などの作法習慣もしていない事になるので源吉さんが採った手続きは納得できる行為と見ます。
このためには源吉さんは太吉さんの戒名には「庭」にし、自分の戒名にもそれを読み込んだとすると納得できます。
>気になっているのは、 太吉さんを真ん中に右にりわさん、左に禅定尼さんが墓石に掘られているのですが、不明の戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年12月卒)です。
>太吉さんとりわさんは、亡くなる年、天保13年3月に結婚してます。(りわ27歳、娘とめを34歳で生んでいる)
「・・禅定尼」とは主に未婚の子供・幼児の女子に付ける戒名の判別用語です。「妙」と云う幼名の故人と見られます。
つまり、生まれて間もなく死んだ、或いは死産や水子に付ける戒名です。一つの墓石を造りここにこの様な人を集めて祀る墓石です。何処の氏にも設けるものです。最近はこの風習は無くなり全て「・・家先祖累代の墓」の一つの墓石に集めて弔う傾向があります。
以前は墓所の片隅にこの墓石を設けて分けて弔う習慣がありました。
>「坂東八平氏」の一つの「三浦氏」から「和田氏」→「杉本氏」→「杉浦氏」となっているのでそちらとの繋がりで、大庭氏と言うことはないでしょうか?
その可能性も否定出来ません。詳しい事はご本家の「周囲の人」が知っている筈です。
>鹿児島市史の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」寛永13(1636)年に長嶋次右衛門という方が、新堀より上に住んでいた記載について、以前触れましたが、鹿児島県史料集「薩陽過去帳」32頁、芝の皿子町にあった大円寺(江戸)のものに、肝付次右衛門(戒名:露巌良体居士)元禄11(1698)戌寅年七月卒がありました。やはり、長嶋姓ではないので、同一と考えるのは難しいですよね。
長嶋氏は肝付氏が基氏ですので、その人の肝付氏の本流の流れに近い人、本家筋の人の場合は長嶋氏を名乗らず、上格の肝付氏を名乗る事が慣習に成りますので、難しい判断と成ります。
まして前回で肝付氏は長嶋氏と同格に成るほどの家格ですので、基氏を名乗る事が強いと考えられます。何せ長嶋氏は藤原秀郷一門の関東の族ですからね。大蔵氏の民族氏の強い南九州では、実質血縁では同格に成っていても、氏から観たら関東から見たらトップの氏の格ですが、九州の大蔵氏の圏域では1段か2段も下に成る氏の格と観られます。
従って、名乗りは本家筋の者は肝付氏を名乗る事に成るのは必然です。
例えば、斎藤氏としますと齋藤氏は秀郷一門のトップクラスの家格ですが、イザ公の場で名乗るときは齋藤では迫力がありませんから、藤原氏を名乗る事に成ります。
従って、昔は「藤原の朝臣 齋藤の・・」で氏と身分官位官職家柄全部を名乗る事に成っていたのです。簡単に「藤原の・・ 斎藤の・・で御座る」と。
史料がどちらを選ぶかによると思います。上記した様に「氏」とするか「姓」とするかの扱いの問題ですので同一であるかを調べる必要があります。
青木氏の様に枝葉末裔がない氏もありますが、藤原氏や大蔵氏や肝付氏等の「氏」は大きな枝葉末裔の「姓」を持っていますので、注意が必要です。
資料の意味合いに依って何処の処を名とするかはその資料の目的に依ります。
検地帳では検地の目的からは戸籍と税の関係ですから長嶋氏と成りますね。
史料集だと逆に肝付氏と成りますね。
日本の歴史は氏などの慣習に関しては深く入り組んでいますから何時の場合も必ず歴史に関してはその資料の内容如何に依りますのでそこを考察される必要がありますね。
>鹿児島県史料集「薩陽過去帳」には、92頁に肝付十右衛門(戒名:円山了覚居士)明和6(1769)巳丑年9月卒、『右衛門』では亡いのですが、肝付吉兵衛(戒名:活獅龍騰居士)元文2(1737)年11月卒我の記載されていました。
>鹿児島城下絵図 文政4(1821)に長島勘右衛門とともに肝付五右衛門という方も住んでいるので、そちらの関係なのかななんて考えたりもします。肝付家の添書にはこの方々は存在しているのでしょうか?
添書では肝付氏の本流に関わった人が記載ありますが、この幕末の時代の所に関しては筆者は添書には詳しくはありません。
戒名が異なる事が一つの判別手段ですので、昔は上級武士以上は寺や神社が戸籍や経歴管理を担当していましたので法名や寺等から判別する事が必要です。
上記の2人の人物は戒名から観て肝付氏でも支流・傍系の枝葉末裔の人で別人ではないかと見られます。
歴史を紐解く事は丁度、クイズだと思います。周りにある要素と自分が持つ雑学を駆使してどの様にクイズを解くかを頭を働かせるものだと私は思います。
”「周りの要素」をより多く集め、「自分の雑学」を如何に広げるか”にかかって来ますね。
現在では氏も姓も同じものと観られていますが、昔の氏家制度の中でははっきりと社会習慣の中では区別されていたのです。契約社会の現在感覚で過去の社会を観る事は大した意味を持ちません。
「氏」には出所の違う色々な特長を持つ「氏」、「氏」では無く「姓」も出所や特長の違う「姓」があります。
これ等の雑学は青木氏のレポートに記述していますが、ルーツを紐解く場合に於いてはこの雑学の介添えや習得が無ければ殆ど紐解く事は困難です。
青木氏に関しての範囲からですが、この雑学は研究室等に記述していますので是非に参考にしてください。
今もシリーズで雑学の論文を投稿しています。
では又お便りください。
福管理人さん、ありがとうございます。
・杉浦氏の本家から何かつながりが読める事が判りますね。
・太吉さんの家紋は前記した根笹紋の2氏かこの大庭氏の根笹紋から来ている事もありますね。
からも調べてみます。
『根笹紋は太吉さんの奥さんの実家先の家紋(大庭氏では?)かも知れませんね。』
太吉高祖父の奥さんの旧姓は『牧野』といいます。なので、大庭氏との関わりは無いかと思われます。
りわ高祖母の父は、戸籍には牧野喜平との記載がありました。
気になっているのは、 太吉さんを真ん中に右にりわさん、左に禅定尼さんが墓石に掘られているのですが、不明の戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年12月卒)です。
巫女さんの話によると、この方が、御簾越しでは話すような、位の高い方で、太吉さんを慕い、飛び出してきたとのことでした。その巫女さんに対し『お主らとは、身分が違うのじゃ』をおっしゃられたそうです。太吉さんの店で女将をし、病気で身を引き尼となり、亡くなったとのことでした。
その店には、口を布で覆った錦糸の入った袴を着た武士が出入りする姿も見えたそうです。
りわさんとは、子を残すために結婚しているねとのことでした。
これをどう考えるかは、解りませんが、自分としては、糸口になればと思っています。
太吉さんとりわさんは、亡くなる年、天保13年3月に結婚してます。(りわ27歳、娘とめを34歳で生んでいる)
本家から数十メートルのところに智教院という尼寺があったそうです。明治に廃寺となっているのですが、昭和の初めまで、尼さんが守っていたそうです。
長嶋(旧姓杉浦)源吉は、本姓ではなく本性でした。すみません。
戒名:本性良源信士(弘化元年−大正2年卒)
「坂東八平氏」の一つの「三浦氏」から「和田氏」→「杉本氏」→「杉浦氏」となっているのでそちらとの繋がりで、大庭氏と言うことはないでしょうか?
鹿児島市史の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」寛永13(1636)年に長嶋次右衛門という方が、新堀より上に住んでいた記載について、以前触れましたが、鹿児島県史料集「薩陽過去帳」32頁、芝の皿子町にあった大円寺(江戸)のものに、肝付次右衛門(戒名:露巌良体居士)元禄11(1698)戌寅年七月卒がありました。やはり、長嶋姓ではないので、同一と考えるのは難しいですよね。
鹿児島県史料集「薩陽過去帳」には、92頁に肝付十右衛門(戒名:円山了覚居士)明和6(1769)巳丑年9月卒、『右衛門』では亡いのですが、肝付吉兵衛(戒名:活獅龍騰居士)元文2(1737)年11月卒我の記載されていました。
鹿児島城下絵図 文政4(1821)に長島勘右衛門とともに肝付五右衛門という方も住んでいるので、そちらの関係なのかななんて考えたりもします。肝付家の添書にはこの方々は存在しているのでしょうか?
よろしければ、教えてください。
>1.『戒名の中の法名でもその人の生き様が読み込まれていますのでお調べください。』
>とのことですが、なぜその文字を使ったかとか調べられる書籍、戒名の付けるための辞典>で良いものがありましたら教えて頂けますか?
>因みに、戒名を下記に示してみました。
> 妻 りわ 戒名:南延如善信女(文化15年−明治31年卒)
>長嶌太吉 戒名:本庭英心信士(?−明治5年卒)
> 不明 戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年卒)
><太吉高祖父の墓石には、右より3名の戒名が刻まれています。>
>長嶋(旧姓杉浦)源吉 戒名:本姓良源信士(弘化元年−大正2年卒)
> 妻(太吉娘) とめ 戒名:春嶺妙旭信女(嘉永2年生−明治32年卒)
>源吉父 戒名:紫金院釋清光淨智居士(?−明治9年卒)
>源吉母 戒名:最勝院釋希有妙昂大姉(?−明治13年卒)
長嶋さん 今日は。
さて、早速ですが、戒名の件ですが、戒名は俗世でのその人の「生き様」を表現したものが彼の世の名前となります。戒名は寺が付けてくれるものですが、檀家寺や菩提寺で「院殿居士」が最高の戒名で「院」が付きその「院」の中に「殿」が付き「居」が付き最後に全員に「士」が付きます。
例えば、源吉さんの父親の戒名は「院」が付いています。「院」はその人の「一つの世界」を築いた事を意味します。俗世で平たく言うとその「生き様」としてどんな職業にしても立場にしても"一つの道を究めた"事を意味します。源吉さんの父親は「紫」と「金」の道や世界を切り開いた事を意味します。
そうすると、この「紫」が持っている語意と成ります。「紫」は最高のその「道の階級」を意味します。
例えば、「紫綬褒章」の文化勲章がありますがその道を極めた人に授ける勲章ですね。
色では最も最高の色を言います。僧侶の袈裟の色では「紫衣」です。
次ぎに「金」です。「金鵄勲章」です。または金メダルです。
この「紫と金」で「地位と名誉」を修得した人ということに成ります。例えば政治家や高級官僚や実業家などであった事を意味しています。
そのような「院」につまり世界に俗世では生きていた事をこの3つの文字から分かります。
次ぎは「殿」の部分ですが「殿」は「院」の中の更に「小単位な世界観」を意味しています。
源吉さんの父親は「殿」がありませんが「殿」の部分には清、光、が書かれています。
これは「院」の内容をより具体的に説明したもので、その「生き様」の成した「地位と名誉」は清く照り輝くものであったとしています。
つまりあくどく「地位と名誉」を獲得したものではなく、つまり「資質剛健」の生き様であったとしています。
次ぎに「浄、智」ですが、その「資質剛健」の生き様は「浄」と言う字は奈良時代の階級の中の上から2番目の階級を意味します。この「浄」は貴族か皇族でも上位に位置するものが授かるもので「大」と「広」に分けられ更にそれぞれを2つに分けられます。
仏教では人として社会に対して「最高の功績」があった人が授かる「尊い字句」の意味合いを持っています。
源吉さんの資質剛健のレベルは最高のレベルであった事を説明しています。そして、「智」はその知能、知識の「智」であって、仏教での「智」は人としての「本来あるべき行い」の語意を持つ字句です。
"人格者(智)であった"と言っています。
このことから源吉さんの父親の寺は菩提寺であった可能性が極めて強い事が伺えます。
「資質剛健」と「浄智」の語の裏意は「立派な武士」であったと言っているのです。
"その武士は上級な「官僚」ではなかったか"と観られます。
つまり、「立場のある家柄」から婿を取った事を意味します。
長嶌太吉 戒名:「本庭英心信士」に付いては普通の戒名ですが菩提寺ではなく檀家寺であった事が判ります。
静岡の地元で昔は「庭」は豪族で奈良期の第7世族の皇族であった「坂東八平氏」の一つの「大庭氏」の事でその流れを汲む事を匂わしている戒名と観ます。
商いから何か関係を持っていたことが考えられますし、この戒名からこの源吉さんの実家との養子縁組に九州から出てきた太吉との間に「何か意味」がある事が分かります。
現在の戒名と違い昔はそのルーツがその人の彼の世のステイタスをも意味させていたのです。戒名にはその事を必ず読み込んでいた慣習がありましたのでそこに着目してもルーツを紐解くことが出来ます。
但しその人の履歴管理をしていた菩提寺と成ります。
太吉さんは詳しくは南九州の菩提寺がなくなっている事になりますからこの「庭」しかありませんね。
英と心はその人の「生き様」または「人となり」を主に表します。「英」の心を持った人言う事になります。
「活発な人」と言うことではないでしょうか。太吉さんの奥さんは"「善」の如くての人であった"「心根のよい人」であった事になると思います。
根笹紋は太吉さんの奥さんの実家先の家紋(大庭氏では?)かも知れませんね。
特に戒名の辞書でなくても広辞苑などからでも分かります。
その「字の語意」と「歴史雑学」と「仏教雑学」を組み合わせればその「周囲にいた人」が理解できる内容にして読み込んでいるのです。源吉さんの実家の本家に辿り着けば「周囲にいた人」の話が聞ける事もありますよ。墓石にこれだけの戒名がありながら家紋がない事から消えているかもしれませんが。外部の者から観てもこれだけの事が判りますからね。
これだけの寺での戒名があるところから観ても家紋もあった筈ですね。
>2.大蔵氏が女系の掟ではなく、長嶋氏を名乗らなければならなかった理由を教えていただけるでしょうか、また、嫡流として大蔵氏を名乗っている末裔も見えられるのでしょうか?
前回でも記述しましたが、大蔵氏が長嶋氏を名乗らなければならない理由は沢山ありますが、多くは部屋住みの者、つまり嗣子の中で嫡子外の者が「別分」がないときに宗道に入る必要がありますが、この時に「別分」があり大蔵氏外の家を興す必要に迫られた時、特に嗣子の中でも妾子の場合は大蔵氏を名乗れるかどうかは宗家の許可が必要になります。分家筋の妾子の場合は「別分」などに不利が多いので母方や養子実家先の縁の氏を実家先に頼んで後見人になってもらい援護を受けて名乗り興す事に成ります。その者が優秀でなければこのチャンスもなくなりますが。
恐らくは元は永嶋氏でその流れの中で長嶋氏-長島氏が発祥した事が判ります。
名乗る以上はその経済的、軍事的に裏づけが必然的に必要ですから大蔵氏から得られなければ実家先からの援助が必要となりますし、その力を借りて周囲を戦いで切り開く必要が出てきます。
いろいろなパターンがありますので一概には言えませんが前回のお答えしましたが、大蔵氏の場合は大蔵氏の九州での戦略的意味合いと永嶋氏の勢力伸張の背景から一族の中での分家筋の跡目の両方が絡んだことであると系譜添書から判ります。何もなければ分家筋では他氏の跡目の口もそうあるわけではないので宗道となるでしょう。宗道から戻ることだってありますからね。
大蔵氏の場合は同族の肝付氏との関係強化も大いにあった事と考えられます。島津氏の伸張からの背景が強かったと考えられます。添書から観ると菊池氏等との関係を同時期に更に行っていますからこの同族固めの背景があったと考えられます。特にこの時期は肝付氏は弱体化していましたからね。
大蔵氏は正常に枝葉を大きく今でも広げています。永嶋氏や長嶋氏や長島氏には大蔵氏を名乗っている事はありません。逆ルートですからね。よほどの事でなくてありませんね。大蔵氏の枝葉は大きいですからのこの中に跡目がなくなる事はありませんでしょうし、名乗る以上は経済的、軍事的な背景が必要になってくる訳だし大蔵氏の枝葉一門が黙っていませんね。
ルーツは1本ではありませんよ 枝葉で広がっているのですからね。永嶋氏、長嶋氏、長島氏でも同じですよ。
杉浦氏の本家から何かつながりが読める事が判りますね。
太吉さんの家紋は前記した根笹紋の2氏かこの大庭氏の根笹紋から来ている事もありますね。
太吉さんの父親か誰かかも知れませんが。
一度調べられたらお便りください。
福管理人さん、ありがとうございます。
福管理人さんのアドバイスを参考に少しずつですが糸をたぐっていこうと思います。
また、ネット情報は当時の時代背景を考え、しっかり見極めてみます。
すみません、また2点教えていただきたいのですが、
1.『戒名の中の法名でもその人の生き様が読み込まれていますのでお調べください。』
とのことですが、なぜその文字を使ったかとか調べられる書籍、戒名の付けるための辞典
で良いものがありましたら教えて頂けますか?
因みに、戒名を下記に示してみました。
妻 りわ 戒名:南延如善信女(文化15年−明治31年卒)
長嶌太吉 戒名:本庭英心信士(?−明治5年卒)
不明 戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年卒)
<太吉高祖父の墓石には、右より3名の戒名が刻まれています。>
長嶋(旧姓杉浦)源吉 戒名:本姓良源信士(弘化元年−大正2年卒)
妻(太吉娘) とめ 戒名:春嶺妙旭信女(嘉永2年生−明治32年卒)
源吉父 戒名:紫金院釋清光淨智居士(?−明治9年卒)
源吉母 戒名:最勝院釋希有妙昂大姉(?−明治13年卒)
2.大蔵氏が女系の掟ではなく、長嶋氏を名乗らなければならなかった理由を教えていただけるでしょうか、また、嫡流として大蔵氏を名乗っている末裔も見えられるのでしょうか?
よろしくお願いします。
>長嶋家に養嗣子に入った旧姓杉浦源吉高祖父について調べていますが、なかなか上手く進まないものですね。同じ『源』のつく方のものを訪ねたのですが、繋がりはありませんでした。しかし、杉浦姓の集まった集落なので、いろいろお話は伺えることができました。また、『杉浦源吉』の名が掘られたお墓も見つかりましたので、次に繋がる事ができました。お墓には2つの戒名〇〇院〇〇〇〇居士、〇〇院○〇〇〇大姉があり、明治初期の卒、御影石のものでした。家紋が掘られてなかったのが残念でした。
>本家に以前源吉の関係のものといって訪ねている事を聞いているので、そこからも何か解ってくるかもしれません。杉浦氏の関係、岡崎市渡町の長嶋氏、から伊勢長島家との繋がりも出てくるかもしれませんね。あと、松平久松長島家がネットにあり、そのお家も気になっています。
一つ判りました。それはお家の杉浦源吉さんの御先祖は武士であった事です。
それは明治の始め頃に戒名が「院殿居士・大姉」である事です。普通の武士でもこの「院殿居士」の戒名はなかなか付けられませんし相当に金を積まないと付けて貰えません。
特に女性の戒名が大姉と成っていますのでご先祖を読み取る事が出来ます。
戒名の中の法名でもその人の生き様が読み込まれていますのでお調べください。
墓石ですが御影石は明治後の風習で使われる様に成りました。
それまでは泥岩か砂岩の墓石でしたので立てられた方が大分後に成って立てられたことが判ります。
家紋が刻まれていないとの事ですが、普通は「院殿居士」を刻んでいるので家紋は刻みますが既に明治半ばには家紋の伝統が忘れられていた事が判りますね。
杉浦氏のご本家の家紋を調べられると良いと思います。源吉さんはご本家ではない様ですので。
ご本家の墓石の先祖累代の墓石の下に刻まれている筈です。
>ところで、前回のお話で、『兼久』辺りのところもしっかりと検証しておくことが重要であるとのアドバイスを頂いたのですが、
>1.ネットや高山郷土史をみていて、気づいたのですが、永嶋から長嶋に変名した『兼久』は1473年生〜1523年卒、『兼連』が1471卒と記載されており、親子ではないように思われたのですが、この辺りの情報は正しいのでしょうか?
この辺が難しいのですが、武家社会の本家筋では実子が子供と云う事にはならない場合が多いのです。本家を継ぐと云う事では実子が無ければ縁者や妾子から迎えて跡目を作ると云う努力が最大の勤めです。別の氏から養子を迎えれば家紋も変わりますからなんとしてもあの手この手を使って縁者遠縁から迎える努力をします。場合に依っては本家に子供を出しても分家に跡目が無く成ってでも本家筋を保ちます。ですから場合に依っては本家筋の跡目の問題では父親が2人も3人も居る事が起こります。現に兼重の時にはその現象が起こっています。嫡子が妾子では妾子の汚名を消す為に色々な細工もしますので父親が多く出てくる事に成ります。中には兄弟が親の位置に来る事もあります。
名籍であれば有るほどこの現象が起こります。永嶋氏−長嶋氏−長島氏−肝付氏と渡っていますから父親とする者が複数で出てくる事は充分に起こります。「兼連」なる人物がどの父親なのかを特定すると更にルーツが紐解けてきます。ルーツを探る場合は父親は一人と云う考え方は捨てるべきですね。出てきた父親を探る事でルーツは開けて行くのです。
従って、「兼連」をお調べに成る価値はありますね。
>2.また、長嶋を名乗っていた『兼道』が、関ヶ原の戦いで戦死し、嫡男『兼幸』は「慶長15年、島津家久が尚寧を連れ上洛、兼幸も家臣として同行する。ところが帰国途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は船と運命を共にし溺死した。享年20。兼幸は結婚しておらず、そのため子供もいなかった。また兄弟も他にいなかったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって完全に断絶してしまった。」とネットを見ていたら記載がありましたが、この辺りは如何なものなのでしょうか?
上記の通り、「断絶」の定義を何とするかですが、肝付氏は元々永嶋氏−長嶋氏から跡目を入れての物ですから、その後も幕末後も肝付氏は養子を取り継承されていますから「血筋」で絶えたする定義は名籍では難しいと考えます。そんな定義でくくれば全ての家は絶えていますよ。そのネットは現代感覚で過去を評価すると云う間違いを起していますね。過去の評価は過去の感覚で評価する必要があります。それが「歴史」なのです。ネットの評価はこの間違いを良く起しているのです。今から観た評価が殆どです。明治以降の契約社会と氏家制度の社会とは評価する基準がもともとが違うのです。
「過去の感覚」はそれなりの雑学勉強が必要ですそれで評価するべきです。
もう一つのネットの「歴史」の間違いは、”ある範囲の全体の「時系列の流れ」の中でその「事象」を観ていない”と云う間違いです。3つ目の間違いは「通説」を正として論評している所です。通説は常に正しいとする前提ではありません。この3つの事を念頭に「ネットの論評」を読む必要が有ります。
>3.そして、肝付系長嶋氏の『兼道』筋が途絶えたとしたら、寛永13年薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳にある『長嶋次右衛門』は、『兼久』の『兼興』以外の子、『兼親』、『兼洪』の筋、追放された『兼亮』の子の可能性も考えられるのでしょうか?
2の通り名籍は何処で途絶えたとするかは難しい判断です。長い間でこの様な跡目のやり取りをしているのですから完全に純潔を保って来たとする家は無いと考えます。天皇家でも平安中期まではこの「純潔方式」を採用してきましたが、結局は名籍の最高位でもやりくりで跡目を継承して来ています。
幕末の肝付氏は娘に長嶋氏外の縁者遠縁から養子を取って継承していますから血筋や実子で名籍を完全に繋いでいると云う感覚は違うと思います。名籍宗家では以外の子供であっても実子であるかは別の問題です。
>また、藤原秀郷主要5氏のレポートの長谷川氏のところで、大蔵氏と結城系長嶋氏の血縁についての仮説が報告されていましたが、
>1.大蔵種資の娘と『種秀=重房』が血縁し、『種頼』にも嫡男が無く、種頼の娘と大蔵種親を養嗣子として迎え、女系の掟で大蔵系長嶋氏が発生が有力なのでしょうか?
種資と種秀は兄弟ですが、種資に子供が居なく弟の種秀が跡目を継承し息子の頼種が先ず跡目を継承します。しかし頼種も僧侶と成った事から伯父の孫の種親に跡目を譲ったのです。
種親の父親の義種は塩頭氏に養子に入っています。その養子先から長嶋氏の跡目に入ったのです。
この場合系譜上からは父親は義種、頼種、種秀もいる事に成ります。
女系ではありません。
>2.結城系永嶋氏で、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
>『行光』以降に−房重−重忠−重国− 永嶋から長嶋となり、最初に長嶋とした『重行』の『重』を通り名となったのでしょうか?
少し違います
兄の「行重」が永嶋氏 弟の「重行」が長嶋氏 しかし「重行」はその後に秋山氏に養子に入ります。依って長嶋氏は兄の次男の「吉清」が継承します。その後に「豊重」(永嶋氏)−「重行」−「豊行」(長嶋氏)−「行勝」−「豊兼」−「豊信」(長嶋氏)
この「豊信」の弟が永嶋氏を継承します。・・・
「重」が通名ではありません。「豊」です。
長嶋氏の前に長島氏があります。長島氏を最初に名乗ったのは「行重」の父の「行長」です。
>3.また、伊勢に移住し、伊勢長嶋氏は何方からなのでしょうか?
伊勢の長嶋氏は元は長島氏で後に長嶋氏に戻します。
最初の「長島氏」は始祖は「・行長」です。・・その後、各地の同族から跡目に入っています。
長島弥五郎重正の子の重国−重宗が長嶋氏を名乗り、弟の「行重」が伊勢長島を継承します。
そもそも伊勢は秀郷第7世孫 「・成行」−家綱−有綱−有房(広高)−有長−有家−家高(・永嶋氏)−寛安−寛利−利武−・・
「成行」が始祖です。九州に長島と長嶋と永嶋の3つの名乗りがあるのは此処から来ています。
長島は伊勢から発祥しているのです。故に南九州では3つの長島氏の跡目の呼称があるのです。
以前にも記述しましたが、ご本家に遡ってお調べにならないと応えは出て来ません。杉浦氏はご本家の家紋です。戒名が見付かっていますからご本家に到達できる筈ですのでお調べください。伊勢の長島氏とは直接のつながりは無理だと思いますが何かある筈です。
ここからが推理を働かせて頑張ってください。家紋変更、氏名変更、何故静岡の土地の3つですね。
今日は、福管理人さん。
長嶋家に養嗣子に入った旧姓杉浦源吉高祖父について調べていますが、なかなか上手く進まないものですね。同じ『源』のつく方のものを訪ねたのですが、繋がりはありませんでした。しかし、杉浦姓の集まった集落なので、いろいろお話は伺えることができました。また、『杉浦源吉』の名が掘られたお墓も見つかりましたので、次に繋がる事ができました。お墓には2つの戒名〇〇院〇〇〇〇居士、〇〇院○〇〇〇大姉があり、明治初期の卒、御影石のものでした。家紋が掘られてなかったのが残念でした。
本家に以前源吉の関係のものといって訪ねている事を聞いているので、そこからも何か解ってくるかもしれません。杉浦氏の関係、岡崎市渡町の長嶋氏、から伊勢長島家との繋がりも出てくるかもしれませんね。あと、松平久松長島家がネットにあり、そのお家も気になっています。
ところで、前回のお話で、『兼久』辺りのところもしっかりと検証しておくことが重要であるとのアドバイスを頂いたのですが、
1.ネットや高山郷土史をみていて、気づいたのですが、永嶋から長嶋に変名した『兼久』は1473年生〜1523年卒、『兼連』が1471卒と記載されており、親子ではないように思われたのですが、この辺りの情報は正しいのでしょうか?
2.また、長嶋を名乗っていた『兼道』が、関ヶ原の戦いで戦死し、嫡男『兼幸』は「慶長15年、島津家久が尚寧を連れ上洛、兼幸も家臣として同行する。ところが帰国途中に乗船が暴風雨に遭い難破、兼幸は船と運命を共にし溺死した。享年20。兼幸は結婚しておらず、そのため子供もいなかった。また兄弟も他にいなかったため、肝付本家の血統は兼幸の死によって完全に断絶してしまった。」とネットを見ていたら記載がありましたが、この辺りは如何なものなのでしょうか?
3.そして、肝付系長嶋氏の『兼道』筋が途絶えたとしたら、寛永13年薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳にある『長嶋次右衛門』は、『兼久』の『兼興』以外の子、『兼親』、『兼洪』の筋、追放された『兼亮』の子の可能性も考えられるのでしょうか?
また、藤原秀郷主要5氏のレポートの長谷川氏のところで、大蔵氏と結城系長嶋氏の血縁についての仮説が報告されていましたが、
1.大蔵種資の娘と『種秀=重房』が血縁し、『種頼』にも嫡男が無く、種頼の娘と大蔵種親を養嗣子として迎え、女系の掟で大蔵系長嶋氏が発生が有力なのでしょうか?
2.結城系永嶋氏で、この長嶋氏を使った最初の人物は秀郷15代目「重行」である(1270-1285)
『行光』以降に−房重−重忠−重国− 永嶋から長嶋となり、最初に長嶋とした『重行』の『重』を通り名となったのでしょうか?
3.また、伊勢に移住し、伊勢長嶋氏は何方からなのでしょうか?
質問ばかりですみません。よろしく、お願いします。
長嶋さん 今日は。
お便りありがとう御座います。
さて、三河の長嶋氏の追記の件は判明しましたね。
見つける事も必要ですが、潰すことも歴史の検証には絶対必要ですね。
確か、伊勢の長嶋氏の調査の時に記憶ではありましたので追記いたしました。記憶が定かではありませんでしたが判って良かったです。熊野氏子衆の中で源平のどちらかに組むかで争いが起こりましたが、この時に平家側に味方する事を主張したグループが一門から何人かが外れました。
確か長嶋に移動した事は判っていまして鈴木氏のレポートにも書きました。
そうですか、長嶋から三河に移動していましたか。
然し、御家とは全く疎遠ではありません。お家は永嶋族の伊勢長嶋氏の名籍を引き継いでいることに成りますので、大蔵氏との血縁時は伊勢長嶋氏から入ったことに成りますからね。
”何故、お家が江戸末期に三河や愛知の移住なのか”の疑問1は現在のところ「商いの説」が有力と成っていますが、私にはそれたけではない気がするのです。
当時の慣習から青木氏も同じなのですが、矢張り伊勢の長嶋氏の「何かの所縁」があって移動定住していた事も考えられるからです。
永嶋氏は伊勢までその勢力を伸張してきましたので、九州で長嶋氏を名乗った以上は名籍の宗家筋を頼る事は充分にあり得た事だと思います。
青木氏も同じ事が起こっていますから。
まして、「長嶌氏」から「長嶋氏」にこちらで養子になられた方が変更していますよね。何故変更したのでしょうか。疑問2です。
養子には色々な養子の形があります。
お家の養子の形がどの形なのかが原因している気がします。
そこを解明すると元ルーツ名籍源の伊勢長嶋氏にたどり着くのではないでしょうか。
その意味で何か繋がっている気がしましたので前回のお便りとしました。
商い以外に移動した事と変名した事のこの2つの疑問1と2は何かで結び付いていると感じます。
突然に南九州から幕末から維新に掛けてに三河、静岡、愛知に移動するのは無謀であり何かの縁を頼ったと見るのが普通ではないでしょうか。
次に3つのルーツの件ですが前々回11/15にお答えしていますが、兼久です。
殆ど肝付氏の本家の長嶋氏にこの時は成っていますが、添書では兼久は突然に長嶋氏に1506年頃に変名しています。この流れです。最早、肝付氏そのものの長嶋氏と云うところですね。
(この時が最も肝付氏が弱体化して体をなしていなく完全に長嶋氏が代替して支えていたので兼久は長嶋氏を全面に押した時期であった。そしていよいよ島津氏との高山城の戦いに入った。この時は肝付氏では家臣は最早誰も付いてこない為に戦えなかったと観られる。史実、時系列的に最も弱くなっている。だから島津氏が攻めて来たのです。)
兼俊、兼成、兼久の3つのルーツが後に拡がった事に成りますね。
兼久の元の長嶋氏へ名乗り変えは前後経緯から凡その原因は判りますが、お家の由来としてこのあたりもはっきりとさせて後世に伝え置く必要がありますね。
宗家肝付氏に跡目を入れているので元を正せば同じルーツに成りますが。
実は、次ぎの様に考えているのです。
この事と前記の2つの疑問には何か伊勢長嶋氏の何かの意向の様なものがあったのではないでしょうか。商いを通じて繋がりを伊勢宗家と持っていた或いは持ったと考えているのです。
肝付氏=長嶋氏と成っている絶大な勢力事から島津氏の幕末の政治的駆け引き上から繋がっていたと観ています。小さい長嶋氏ではないのですからね。島津氏に執っては肝付氏=長嶋氏なのですからね。
つまり肝付氏は「名義の家老」、長嶋氏は「陰の家老」なのですからね。商人に成った経緯はこの辺にあると見ています。幕末の島津氏の状況を反映していると観ているのです。動きやすいですよね。
そして、伊勢長嶋氏は関西では実力者の家柄、その力を利用しない訳はありませんよね。
藩の代行の商人であれば。
意外に西郷隆盛と繋がっている事もありますね。彼はそのような仕事を肝付氏(長嶋氏)と相談しながら動いたのですからね。その肝付氏は長嶋氏ですからね。西郷隆盛は長嶋氏と相談していた事に成る筈です。彼は江戸と京でその面識を広めているのですからね。
お家も西郷隆盛と同じように幕末を暗躍していた事も考えられます。
だから、伊勢長嶋は見逃せないのです。
この根拠は2つありまして、一つは「長嶌氏の変名」と「100石の扶持米」です。
前回お便りの時のこの「扶持米」で納得できました。
”何故、長嶌氏に変えて活動していたのか”と云う疑問です。
薩摩の長嶋氏は、肝付氏=長嶋氏ですから、暗躍する時は”薩摩藩の「影の家老」が動いている”と目立ちますし、商人に成ったので変えたが維新に成り元に戻したと考えられます。
「100石の扶持米」はただ藩に関係すると云うだけでは貰えません。少なくとも元家臣である事です。
相当に藩との関わりが無くば受けられないものなのです。まして藩の財政は危急しているのですからね。
そしてその額は下級藩士200石以下の額とするのが、慣習でその関わり内容に依っても異なりますが100石は相当の関わりを持っている事を意味します。通常はあまり公表しないものなのです。
貰う方は100石の額には大した意味を持っていません。「扶持米」を受けていると言う事の意味があるのです。つまり、「扶持米」を受けていて100石も受けていたとすると、上記する様な「影の役目」を荷っていた事を意味します。大きな藩はこの「影の人物」を多く抱えて暗躍するのです。これが当時の兵法戦略なのです。「影の家老」として幕末には暗躍していたのです。
当然にこの「扶持米と偽名」は一対に成っています。お家はこれに「こけら屋」の呼称を使っているのです。
先ず間違いはないと考えます。
>明治3年に太吉長女とめと杉浦源吉が結婚しているため家紋の掟で三つ雁金紋から丸に根笹に変紋したその後、明治以降に嫡男ができているが、家紋の掟についての知識がなく、家紋を戻さなかったのではないかと・・。
この件ですが、お家の判断が正しいです。
実は明治維新後この家紋掟が緩くなったのです。
家紋掟は江戸期以前は武士の慣習でしたが、維新3年と8年の苗字令に基づき庶民は苗字と家紋と寺を持ちました。国民の九割がこの家紋を持ったために武士階級の仕来りは完全に崩れました。
現在でも家紋は変わらないと思っている人が殆どです。家紋に限らず寺の仕来りやお盆や正月や仏壇や墓の仕来り等も全て九割の家では守っていないようです。
この事は武士階級の仕来りでしたから当然の結果ですが、大体家紋で元が武士であるかは判りますが、私の知る範囲では武士の家であった家紋は厳格にこの仕来りを現在も守っているようです。昭和の初期まではこの習慣もある程度知られていました。
この事で元が武士であったかは判ります。
江戸期中期以前は色々な資料から観ても厳格に守られていたようです。崩れ始めたのが江戸中期後の幕末の頃からです。武士の力が弱くなって行った時代からです。
特に戒名を見ると一目瞭然です。これはお寺がこの仕来りを今でも厳格に守ってきたためにこの仕来りで判断出来るのです。いろいろと掲示板でお便り頂くとこの矛盾が見えますのでよく判りますよ。
家紋と宗派と土地で殆ど判別できます。
次ぎに根笹紋は以前の書きましたように仁木氏と桜井氏の家紋ですが、明治以降墓は泥岩から大理石に変わって行きましたので墓に家紋を刻む習慣が起りました。消えないと言う事からですが、杉浦氏の墓所を確認されたら如何ですか。墓でなくても杉浦氏の多く集まる村や地域の墓所でも良いと思います。
地域的に桜井氏の様に根笹紋の多い所ですから可能性は高いと考えられますね。
上記の2つの疑問と家紋の疑問の3つを解明するか或いはその可能性の高い推論をストリー性を持たして纏めて後世のルーツの根拠として書き記して置くと良いのではないでしょうか。後世の者にとってはこの様な雑学史実でもロマンに結び付き何か心温まる遺産に成るのではないでしょうか。
筆者は人間は「知恵」と云うものを持った以上「何がしかの伝統」を持たなくては心を安寧にし癒す事は出来ない動物であると信じています。持論の「知恵−知識−伝統」の理論として。
その為には青木氏氏のサイトはご協力を惜しみません。
では又お便りをお待ちしています。
福管理人さん、ありがとうございます。
種武の不詳の子が兼俊の推測の件、100石が扶持米である件よくわかりました。
『三河国珀海郡渡村に長島仁左衛門なる人物が江戸末期にいた事が判りましたが、お家のルーツ関係する人ではありませんか。』の提供情報ですが、調べてみました。
結論から言いますと私の家とは関わりなさそうです。
高祖父長嶌太吉の墓には、太吉、りわ、もう一人、戒名:玅雲如用禅定尼という女性が一つの墓跡に入っていて、その方は、天保13年12月21日卒であるためです。このときには、三河国南設楽郡信楽村川路(愛知県新城市川路)に住んでいることになります。
三河国碧海郡渡村は愛知県岡崎市渡町であり、渡城趾に長島氏家譜という石碑があります。
ネットで渡城を調べると
※「仁安二年に熊野新宮別富十九代行範は平氏を拝領し、鳥居法眼と呼ばれた。行忠の代に故あって三河に移り、名を渡里傳内忠氏と改めた。八世忠景は渡利新左衛門と称して新田義貞に仕えるも、新田氏衰運の後、渡利村に戻り、鳥居藤左衛門と名を改めた。忠景七世の重央には男子が無く、伊勢長島城主福島家の弟の忠則を養子とし、後、長島姓を名乗る」とありました。
※1167年「承久の乱」の後、平氏を祖とする鳥居中務が紀州熊野を追われ、移住して城を築いたことに始まる。天文年間(1532〜1554年)、17代忠吉は松平宗家7代清康、8代広忠に仕え、その子元忠は家康に仕え、1590年家康関東移封に伴い、下総国矢作城4万石へ移った。その後、鳥居氏は代々当地に残り、本家は〔途中、嫡子が無く、養子姓を名乗り〕長嶋氏に改め、分家〔隣宅〕は鳥居氏を名乗った。現在は長嶋氏宅に土塁が残り、入口に城址碑、隣宅には鳥居氏発祥地の石碑が立つ。
とありました。実際、その場所に行ってみましたが、家譜の内容は前者の通りでした。
ついでに岡崎図書館で、長嶋家に養嗣子に入った、長嶋源吉(旧姓杉浦)について調べていたところ、長嶋家御用日記という岡崎藩御用達の長嶋藤八という人物が見えましたが、文政の時に帯刀と名前を授かったとの記載があったためこれも関わりないことがわかりました。
源吉については岡崎市史に『幕末額田郡鍛冶屋村(現在の岡崎市鍛埜町)に杉浦源吉がいて、寄合格を与えられた。』との記載がありました。また、明治9年鍛埜村に杉浦源兵衛がいて源吉の兄と推測しています。子孫らしき方も定住しているような様子です。
もし、明治3年に太吉長女とめと杉浦源吉が結婚しているため家紋の掟で三つ雁金紋から丸に根笹に変紋したその後、明治以降に嫡男ができているが、家紋の掟についての知識がなく、家紋を戻さなかったのではないかと考えられないでしょうか?高祖父太吉は明治5年に亡くなっています。
そのためには、杉浦の家紋が根笹であればですが..
『肝付氏系長嶋氏派は3家に成って拡大』とのことですが、種武の不詳の子であろうと推測される兼俊の筋、大蔵氏系長嶋氏と血縁した兼成の筋、もう一筋は何方になるのですか?
追伸
ご親戚に会われたら次ぎの事をお調べに成ると良いと思いますが、
青木氏であられるので敢えて追伸致します。
その前に予備知識として。お尋ねの重要な事をこの際にお伝えします。
旗本は全部で”5200人”いました。
御家人は17000人いました。
5000石以上は112人です。
5000石程度は73人です。
その中で、青木氏は2人います。
残り8割は全て500石程度です。
3000石程度では歴史的に有名な小笠原氏等がいますが3000石以上では歴史に出てくる程度ですし、現在でもその末裔の存在は確認出来ています。
豊臣との戦いで功績のあったその一人は摂津麻田藩1万石の藩主弟の「可直」と云う人物で、後に取り立てられて旗本に成りましたが、兄から4千石と1千石を親からの遺産本領安堵されて5000石に成った人物がいます。
この家は「霧に富士紋」で「浄土宗」で「丹治氏系青木氏」です。(上杉家とは無関係です。)
領土は大阪の河内にありました。発祥地は関東の埼玉です。氏の出自は明確でして「武蔵7党」と呼ばれる土豪の一つの氏です。元は徳川氏の家臣ではなかったです。江戸初期過ぎに旗本に取り立てられます。
その由来は平安時代に皇族の「多治彦王」と云う者が罪を犯して関東に配流され、そこで土地の土豪「丹氏」との間に「配流孫」がうまれ、「嵯峨期の詔勅」にて青木氏を名乗った氏です。
後一人は筆者の遠戚で後に吉宗の代に特別にある事由から「布衣」の身分に成ります。大名大身旗本の扱いです。江戸は全国から多く集まってきた土地柄で青木氏に関しては全てこの様に「特定の国柄」を持っています。
以上の事から、5200石は”旗本 5200人”を口伝で間違え伝えられたのではありませんか。
ルーツを探る情報が何も無くなると云う事は5000石以上の旗本は現在でも判っている事から疑問です。多くの末裔がいるのですから、お説の強調する”戦争や災害”で無く成ると云う事は無いのです。
お説の”戦争や災害で戸籍謄本が無くなる事”はありません。枝葉の末裔親族が復帰させる仕組みに成っています。
ご先祖があるのであれば仏壇がありますよね。仏壇あればお寺がありますよね。お寺があれば宗派がありますよね。宗派が在れば過去帳などありますよね。
例え、”戦争や災害”があっても、再びご先祖のを祭る仏壇を買い揃えますよね。墓も戻しますよね。
親族が「枝葉」で広がっている限りは忘れる事は無い筈ですよ。「家紋や宗派」は無形で燃えませんからね。
「家紋と宗派」が無い事、又は判らない事の意味をご理解ください。
昔は「国抜け」と云いまして、旗本を除くと許可の一定期間が過ぎると「江戸の侍」は国に何時か帰らなければならないのですよ。そうしないと、一族郎党全ては惨罪ですよ。
前記した「2つの出自の青木氏」は後から徳川氏の旗本に成ったのです。根っからの旗本ではないのです。その経緯がどの青木氏もはっきりしています。つまり国があるのです。
江戸を国とする侍は太田氏以外は極めて少なく青木氏は全て国が決っています。旗本も国は三河が殆どで、後に旗本や御家人に成った者ばかりですよ。従って、家紋や宗派は国許にあるのです。
結局、”5200人の旗本”の中の青木氏ははっきりしていて特定できるのです。
だから「家紋・宗派」が判らないとする本家筋の青木氏は先ずないのです。
例え、明治期の第3氏の青木氏に於いてでさえもです。
ですから、「家紋と宗派」で「国許と出自」が特定できるのです。それが「6つ」あると説明しています。
第3氏の青木氏でない限りは、この中に必ずある筈です。”家紋と宗派”で判るのです。
これ等の以上の事は全て青木氏のレポートに詳しく記述されています。
江戸には「6つの青木氏」のルーツが移動定住してきています。
全てこのルーツは判っていますが、上杉家との遠戚の青木氏は資料の中には見当たりません。
(どの上杉家か判りませんが)
ご親戚と話される場合にはこの事を留意する事を進言します。
返信ありがとうございます。
直孝の子供までしか謄本が手に入らないのは、
先に書きましたが、第一次大戦・第二次大戦・関東大震災で燃えてしまったからです。
役所が燃えただけでなく、辺り一体がすべて(家も)、燃え、何も残っていなかったそうです。
戦争や大震災がなければ、もっと情報が手に入ったかと思いますが・・・
数年後に法事がありますので、その時にでも、親戚にも聞いてみます。
今日は。早速ご返事頂きました。
そこで、次ぎの事柄に疑問があります。
”謄本が入らない”と云う事は無い筈です。
国民契約社会の中で明治維新より全ての国民が等しく戸籍を有している筈で日本人であるならばある筈です。戸籍が無い事は日本人では無い事を意味しています。だとしたらルーツは日本にはありませんね。
問題は前回にも書きましたが、お家のご本家に戻らなければルーツは絶対に遡れませんよ。
先ず、ご本家かお家がご本家ならば宗家を見つけ出す事が必要です。それにはお家の宗家か本家の在住していた県と村を見つけ出さなくては成りません。
そのためには、前回にも書きましたが「家紋と宗派」が少なくともその解明する最低の情報なのです。
家紋と宗派は絶対に判る筈です。まして”5200石”と云う情報があるのですから少なくともこの二つはご本家が有している筈です。
江戸にあっても全て元は全国から出てきた者で元の定住地・国がある筈です。
旗本と云う限りは江戸初期の事ですから、その以前のご本家宗家の国の定住地が判る筈です。
但し、祖母系に拘っていられるようですが、前回にも書きましたが祖母からはご先祖を遡る事は絶対に出来ません。
過去の戸籍は中級武士以上が寺・菩提寺が男系で管理していたのです。女性は戸籍では管理されていないシステムです。
「女墓」と云いまして累代の女御の「戒名」を都度連ね書き記してるのが慣習で上級武士階級しか行っていませんでした。
”5200石が正しいとして”では女墓は御本家筋にある筈ですが系譜の繋がりは取れません。
その前に最低限「家紋と宗派」を。
到底、石高でルーツを調べるなどの難しさからすると極めて簡単ですよ。
この二つが判らない事の事態が現在社会でもおかしいのです。
5200石から判ったとしてもそれがお家であるかは別問題です。
”直孝から曾祖母”が正しいかの確証が取れませんね。
”直孝は離婚をしてるので”とありますが、菩提寺の過去帳は跡目継承は女御ではありませんので無関係ですよ。
過去帳か人別帳か、菩提寺か檀家寺かも確認出来ないのも変ですね。
それには先ずは「家紋や宗派」からほぼその口伝が正しいかが判るのです。
”家紋と宗派”が判らず”5200石や直孝から曾祖母”があると云うのも変な話です。
前回から何度も記していますが、女系からは無理ですよ。
”5200石の青木氏が見付かった”としてもお家であるかは別問題です。
それを確定するのが家紋宗派なのです。家紋宗派と5200石は矛盾していません。
江戸期以前の氏家制度の社会慣習の中では。
家紋宗派は搾取偏纂する事はできない社会慣習があったのです。
もう一度是非前回のお答えをお読みください。
家紋と宗派は災害で消えませんよ。
”災害消失云々”と云われている以上はご本家・宗家ではない事を意味していますね。
ご本家宗家であればこの二つは判る筈です。
青木氏は大きな子孫末裔の枝葉を持っていますから、伝統の情報は消えないのです。
一つの家の伝統が消えても周りの親戚は生きているのですよ。
その子孫が全部消えてしまったとするとルーツは消えた事に成りますよ。
5200石からは無理です 且つ、歴史家かマニアではないのですからね。歴史雑学が必要です。
先ずは、「家紋と宗派」⇒「土地・本家」⇒「菩提寺・檀家寺」⇒「過去帳−人別帳」⇒「5200石」⇒・
青木氏はそのルーツは全て判っていますので上記の事でルーツにたどり着けます。
但し明治期と室末期末期の「第3氏」を除いては。
兎に角、先ず実家先の「家紋と宗派」を。
では、お便りお待ちしています。
早速、ご回答いただき有難うございます。
我が家には何も残っていないのが現状です。
最後に残っていたのが母が赤ちゃんの時に破いてしまった家系図でした。
先日、戸籍をたどったのですが、私の曾祖父を筆頭とした除籍謄本でやっと「青木直孝(ゆう)」の漢字名が分かったところです。
そこから更に前にさかのぼろうと思ったのですが、第一次大戦・第二次大戦・関東大震災等で燃えてしまい、役所に行っても除籍謄本が手に入らない状況です。
後は、青木直孝から曾祖母や祖母が聞いた内容しか分かりません。
また、直孝は離婚をしてるので、お寺に行ってもさかのぼれない状況となっております。
参考までに教えてください。
5200石の青木家を探すにはどのようにしたら良いのでしょうか?
やはり、石高から探すのは難しいでしょうか?
宜しくお願いいたします。
山口さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木氏氏のサイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
サイトには実家先の青木氏に関する資料が取り揃えていますのでお読みください。
左メニューでお知りになりたい事からお調べに成ると良いと思います。
基本的な事は研究室やルーツ掲示板などからお読みください。膨大なレポートですので、ゆっくりと楽しんで少しづつお読みに成られると良いと思います。
さて、そこでお尋ねですが提供頂きました情報は次ぎの通りですが、
旗本、直孝、上杉、菩提寺の存在の4つですね。
これでは到底ルーツの糸口は無理ですね。
家紋、宗派、江戸以前の年代、男系のルーツ、仏壇形式やお墓の形式などの先祖を物語る情報が必要です。
先ずそこで、この4つの情報から概容を探り出しますが、情報が少ない為に正しいかは判りません。
先ず、「直孝」は祖祖母であるとの事ですが、江戸以前は男系が家系の基本と成って記録されていますのでルーツは辿れません。
と云いますのは、「菩提寺」があるとされていますが、江戸期以前の菩提寺ですか。先ず、この菩提寺は檀家寺ではありませんか。
菩提寺とはそもそも氏の単独で独善的に独自に管理運営されている寺の事で一族一門の者しか祭祀されない寺の事です。青木氏は古代密教の浄土宗か或いは便宜的に浄土真宗と成ります。
主に「密教」を主体とする寺で「3つの宗派」がありますが、この宗派に入信するには限られた青木氏等の氏と成ります。
旗本と書かれていますので、青木氏の菩提寺が江戸にはありません。
上杉と成っていますが、この上杉家は先ず判別が付かない程に各地に多く、本来上杉家は滅亡していてありません。極めて末端の長尾家が上杉家を引き継いだのです。その後も直径の上杉家はありません。
要するに一つではありませんので、どの上杉家は確定できないので無理で、謙信も子供はいませんでしたので上杉ではルーツは探れません。
「旗本」の情報で探りますと江戸に成りますが、江戸には各地の末裔の「6つの青木氏」が各地から移動して来て定住しています。然し、このどのルーツかは地理的な情報が無いので判断が出来ません。
「上杉」として仮に謙信の上杉として「越後」と成りますが、越後には青木氏は「4つの青木氏」が定住しています。元々からの藤原秀郷流青木氏の越後青木氏、信長に滅ぼされて逃亡して来た賜姓諏訪族青木氏と武田氏系青木氏、一部少ないですが秀郷流青木氏と血縁した藤原利仁流青木氏の越後青木氏です。
そこで、仮に上記する菩提寺として、菩提寺には「過去帳」なるものがあり、お家の累代のご先祖の方の名前が書かれています。これでルーツが判ります。
檀家寺として、江戸中期以後のご先祖の名前が「人別帳」と云うものに書かれています。
又、お家のご先祖のご本家が判れば其処には明治維新の戸籍簿があります。この中に何処から来たかは判ります。
兎も角もルーツは「男系」で「ご本家」を探し出しその情報からルーツが割り出させるシステムに過去の慣習には成っています。
青木氏は武家であるとして、皇族賜姓青木氏5家5流29氏と藤原秀郷流青木氏119氏から成り立っています。この2つの青木氏には「特定の特徴」を持っていますので、その特徴をつかめる情報があればルーツ解明は可能です。ただし念を押しますが男系です。
武家で無い青木氏としては、上記2つの青木氏に関係する情報があれば、その代の青木氏を探し出す事が出来ますがルーツは明治維新までです。
明治維新の3年と8年の苗字令に基づく青木氏か、室町期末期の「第3青木氏」に発祥した青木氏があります。家紋、宗派、土地でこの第3青木氏かどうか簡単に判ります。
先ずは男系の情報を把握してください。
旗本5200石とすると、家臣では大身ですので、他に情報や上記の情報が必ずある筈ですよ。
地主としてのお家ご本家の土地が必ずあります。
5200石とする何か証しがある筈です。大名に近い旗本で恐らくは「布衣」の身分に成っていますから証拠が残る筈ですしご本家筋に必ずたどり着ける筈です。仏壇とか墓は普通とは違います。
家紋でも判断が付きますし、本当に口伝ではなくとも5200石の青木氏かも判ります。
青木氏の中で5200石では極めて限られてきます。
ですからもう少し情報が有りましたらご提供ください。インターネッサイトからの情報では無くお家の直の情報です。其処から、少しづつ判ってきますよ。本来ではこの程度の大身ならば判るはずなのですが。
ちょっとした事で雑学で重要な事が判るのです。
青木氏ルーツ掲示板などにはこの様な事がわかりますよ。それらの努力で、失ったとするならばそこからルーツを紐解きましょう。
では情報とお便りをお待ちしています。
。
先祖について調べています。
私の先祖は旗本青木(5200石と聞いています)の出身です。
下記のURLに「直孝」とあったのですが、おそらく私のひいひいおばあさんで「直孝」とかき「ゆう」と読みます。菩提寺も先祖より聞いてるのと同じです。
「直孝」の母親の実家を知りたいです。
私のひいひいおばあさんの「直孝(ゆう)」の母は、上杉(武家)の出と聞いています。
「直孝(ゆう)」の母親の名前と、その上がどのように繋がっているか知りたいです。
生前、祖母がゆうより聞いた話によると、ゆうの母の実家(上杉)に、小林平八郎がいたという話も聞いています。
家系図は、母が赤ちゃんの時に破いてしまったので、今はありません。
「直孝(ゆう)」の実家の場所も知りたいです。
祖母からは、田沼家の隣にあったらしいと聞いています。
分かりましたら、教えて頂ければと思います。
早速ありがとうございました。
うちも関係のある青木だったみたいでよかったです。
今まで私の勝手な憶測で、
江戸期の保科家(松平家)の領地の転封(信濃高遠→山形→会津)とか
関係あるのかななんて思ってました。
これから機会があればルーツの情報もっと探ってみようと思います。
ありがとうございました。
北海道の元青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
青木氏に関する事がレポートされていますのでこれからもゆっくりとお読みください。
判らないところが有りましたらご遠慮なくお尋ねください。
さて、早速お尋ねの件ですが、次ぎの2つの情報と成りますね。
明治以降は社会体制が異なりますので参考にはなりませんし明治維新までは戸籍か過去帳により遡る事は間違いなく出来ます。問題はそれ以前のルーツの探求は専門的な雑学がなければ不可能です。
青木氏に関してはその情報を提供しています。うまく行けば平安初期までさかのぼる事も出来ます。
そこで、提供頂いた情報は家紋が唯一の手がかりです。
然し、レポートしていますように家紋分析から「三つ巴紋」の家紋の青木さんはありません。
但し、全くの無縁とまでは云えないのです。
実は、青木氏には2つの青木氏のルーツがありこの2つの青木氏は母方で繋がっています。
それは1つは皇族賜姓青木氏5家5流24氏です。
天智天皇の第6位皇子の伊勢王から5代後の光仁天皇までの第6位皇子の甲斐王までの青木氏です。
もう一つは藤原秀郷流青木氏119氏です。
この2つの青木氏には三つ巴紋の青木氏は発祥していません。
ところが、秀郷一族一門の室町時代に勢力を高めた関東一円の大豪族に結城氏、宇都宮氏、佐竹氏、等の支流一族がこの巴の家紋を使っている氏です。
三つ巴紋は2つの家紋があり右三つ巴と左三つ巴とかあります。この家紋は毛利家の家紋です。
何故毛利家の家紋を青木氏が使っているのかですが、これには一つの可能性があります。
それは、福島の情報です。
福島は青木氏の勢力圏外ですが、その直ぐとなりの下野(栃木県)上記した秀郷一門の勢力圏でこの秀郷流青木氏の分家筋が護衛団として護っていたところでここには秀郷流青木氏が村を形成して住んでいました。室町時代末期までにその勢力を高めて福島の県境の仙台の手前まで勢力を伸ばしたのです。
其処に現在でも秀郷流青木氏が定住しています。
そしてこの国境には皇族賜姓族の諏訪氏系青木氏が長野と甲斐から信長に追われて逃げこの秀郷流青木氏を頼って落延びてここに住み着き勢力を持ちました。
この2つの青木氏が住んでいる所です。
恐らくは武士であったとするとこの2つの青木氏のどちらかです。
江戸期前後の直後に男子の跡目に恵まれず三つ巴の家紋を持つ武家から養子を採り、この時一時的に家紋が養子先の家紋の三つ巴紋と成ります。しかしその養子にも男子の子供が出来ず、結局、元の家紋に戻す事が出来ずに家紋掟により女系となった事から養子先の家紋に成ったと考えられます
問題はこの山口県の三つ巴紋が何故関東にあるのかが問題です。
家臣として江戸詰に成りその後何等かな理由で長らく関東下野詰でそこで青木氏と縁があって養子に入ったと考えられます。江戸期初期から中期頃までには一般的に良く起ったパターンです。
明治前は基本的には国抜けで勝手な移動は出来ません。何らかの理由で2つの許可を得て厳しく移動する仕組みで最終は元の国に戻る必要が起こります。そうでない場合は無宿者と成ります。
お家のルーツはこの2つの情報から2つの青木氏の可能性を持っています。
家紋は江戸期に上記の理由で変紋したと江戸期の慣習から観て考えれば辻褄が合います。
他に宗派や過去帳の時期、明治維新の本家の戸籍簿、仏壇墓所、菩提寺、檀家寺何でも結構ですから明治前の情報から読み取る事ができてルーツの解明が前に進みます。
何か判りましたら又お便りをお待ちしています。
長嶋さん 今日は
さて、早速ですが、
1番目の問題ですが、兼俊-兼重と兼市−兼重に付いて
私の資料源は肝付氏宗家の系譜そのもので、これに添書が付いていまして其処から検証しながらその系譜の信憑性を確認しています。
世間に出ている系譜はこの添書なるものが普通は出ません。事件に発展しますので付かないのです。
郷土史はどの資料かが判りませんが、兼市なる人物が出てくる可能性は色々な事が考えられますが、先ずその前提は何なのかです。”何故永嶋氏を肝付氏に入れてきたか”と云う事が前提に成る筈です。要するにこの時代の背景です。
「島津氏の台頭」と「肝付氏の衰退弱体」と九州での「大蔵氏基盤の強化」です。
前回のお便りにも書きましたが、戦国時代の最優先の課題戦略です。
それには政略血縁が用いられるのがこの時代の常道です。この前提は崩せません。
そうなると肝付氏の宗家の兼尚が弱体であった事が添書から史実として判ります。
ここに永嶋氏を直に跡目に入れると肝付氏となり永嶋氏は消えてしまいます。
史実、肝付氏系長嶋氏派は3家に成って拡大しています。
仮に後で永嶋氏と長嶋氏の継承を末裔がするとして「時代性」が後ろにずれて一致しません。
結果として、戦略的に肝付氏の宗家・本家筋目の分家筋に入れて永嶋氏・長嶋氏を継承させる事に成ります。長嶋氏が残る前提では無理と考えます。
兼俊はこの肝付氏宗家筋の分家の跡目に入り、先ずは肝付氏の通名を名乗った事に成ります。
この時に兼市なる人物が存在していたとすると、
1 兼俊が実父 兼市は養父(或いはこの逆)
と成ります。
兼俊の実子の兼重を養子の形で宗家に育てさせていた。その後は前回の説に成ります。
兼市は肝付氏の宗家筋の系譜には出て来ませんので、同一人物の可能性もありますが、2つの通名を使う可能性は低いと考えられます。長嶋として跡目を継承するのですから。
兼重が子供の中でも優れていたので事実は肝付氏宗家を動かすに至った程の人物であったのですから、一時、長男ではない兼重を分家に養子に出していたが育ち方から観て宗家を動かせる人物として戻して跡目を取らした。そして肝付氏宗家を側面から動かして立て直した。それだけに宗家は弱体化していた。
2 宗家系譜の思惑と、宗家筋からの系譜の思惑の違い
この時の状況が前回でも書きましたが宗家との間にゴタゴタがあった。
よって2の系譜偏纂に違いが出た。
と観ます。要はその前提です。
次ぎに100石ですが、この石高では武家では生活は困難です。普通最低で農業をしながら200石前後です。この石高は扶持米と観ます。
宗家に血縁のある家が商人などに成り出入りする時はそれに対して扶持米を出します。恐らくはお家は長嶋氏で血縁族であり「出入許可」の「御用商人」で「元家臣」で「経済的な事」を荷っていた時に出す「礼扶持米」のものです。
この石高の事でお家がどの様な立場にあったかが良く判ります。
以前のお便りの「こけら屋」の役目が証明できています。
普通の「出入り商人」では無い事が判ります。5人扶持程度かと思います。
肝付氏宗家本家が島津氏の明治維新まで有名な家老ですし、島津氏の家臣と成った時は長島の阿多地域と大隈の肝属郡の元の領国を本領安堵されていますので、肝付氏系長嶋氏としての家臣にしては100石は間違いです。何かの理由があります。遠戚分家筋の長島氏か長嶋氏の間違いではありませんか。
そこで、郷土史に付いて、郷土をよりよく見せる為に搾取とまでは行きませんが郷土の為に偏纂が実に多いのです。それはその編集の前提が搾取偏纂した氏の資料を基に編集されている事から起る間違いなのです。100%と信頼を置くかは自由ですが都度検証する必要があります。
次ぎに江戸時代は石高をその人の家の身分家柄の前提と成っています。
武士は上記した様に200石程度以上でこの石高では極貧です。これ以下は足軽程度です。共に半農半漁の生活と成ります。これが武士の基準と成ります。
青木氏のレポートでも各所にこれ等の事に付いて記述していますが、当時の平侍のレベルです。
例えば、柳沢吉保は徳川氏に仕官した時の石高は150石でした。その実父らの生活の様子が記録されていますが極貧で内職と農業でカバーしないと生きていけないレベルです。
100石のお便りはその意味でここから「扶持米」である事が判ります。普通当時は100石が扶持米の石高の基準でした。この時代から「2足の草鞋策」の「こけら屋」を採っていた可能性もあります。
商人ですと家族5人分として5人礼扶持米程度を与えられます。その関係する内容にも依りますが。
例えば、藩の勘定方は武士には弱いので豪商などの指導を藩は依頼します。この時に家臣ではないので扶持米として顧問料として出します。
お家は「こけら屋」として長嶋族としてその呼称から藩の勘定方の相談役か藩の年貢の裁役の商人や経理の実務や雑務請負などその一切を荷っていた事が云えます。今で云うと経理士か税務士か財務士等のコンサルタントの役目として指導していたと考えられます。
大きな藩はこの様な商人の指導を受けて藩財政の切り詰めをしていたのです。
因みに、筆者の先祖は「2足の草鞋策」で伊勢松阪の紙問屋の豪商でしたが、8代将軍吉宗が伊勢松阪で紀州徳川家の家老の加納家で育てられ、この加納家と加納屋と筆者先祖とは何度も血縁関係にありそのために吉宗を育てたのです。そのために吉宗が将軍に成った時に依頼されて江戸に赴き享保改革を勘定方として実行し、紀州藩に於いても勘定奉行として采配を振るったのです。
この時に家臣ではないので礼米として「十二人扶持」を受けたと記録されています。
この様に礼扶持米の制度があったのです。御用商人は石高ではなく地位と利権が大きい事が云えます。
藩の御用商人や豪商はすべて元は武士、或いは「2足の草鞋策」を執っていました。
お家の「2足の草鞋策」の始めた時期を特定すると更にルーツの詳細が判って来ると考えます。
100石はその情報かと観ます。
追伸 三河国珀海郡渡村に長島仁左衛門なる人物が江戸末期にいた事が判りましたが、お家のルーツ関係する人ではありませんか。
ちょっとした事がこの様に細部までご先祖の様子が判って来ます。
また何か判りましたらお便りください。
福管理人さん、有り難うございます。
仰る通り推測し、少しづつ糸が解きほぐれ手来るたび、嬉しくなります。
これも、福管理人さんと出会う縁があったからと感謝しています。
自分の御先祖様が、漢王朝の皇帝を輩出し、渡来し、阿智王の子、阿多倍王は茅渟王の娘と血縁を持ち、次男山木の子孫が、大蔵を賜姓し、隅広が大蔵の祖となる。その後大蔵氏は九州に定着して行き、鎌倉時代の元寇後、藤原秀郷一門の長嶋氏と血縁し、大蔵氏系長嶋氏生まれ、長嶋種武の不詳の子が肝付本家と血縁を持ち、宗家に関わってきた。
こんな凄いことはないです。
長嶋兼道が、関ヶ原の戦いで戦死後、本家は100石の藩士となったとあるが、長嶋次右衛門ー○ー○ー○ー○ー長島勘右衛門と受け継いできたとすると感動します。
その時代背景、大蔵氏としての戦略、肝付氏、島津氏の勢力争い、様々な因子を考慮すると福管理人さんの推理、なるほどと思いました。
また、ご意見を伺いたいので、宜しくお願いします。
1.高山町郷土史の肝付氏の系図を見ますと兼重の父は兼市となっていますが、福管理人さんの文を読んでいると兼重の父が兼俊と取れたのですが、兼市が変名し兼俊となったのでしょうか?
2.大蔵種秀の不詳の子が肝付兼尚ということは考えられないのでしょうか?
これについては、最初にメールした時に『城壁の前で頭を下げる家老風の上下姿の侍』といった先祖供養時の情報を記載しましたが、何の因果か、さらに遡って、大蔵氏の供養をすることとなったのです。馬鹿なと思って、聴いて頂いて良いのですが、その供養をして下さった巫女さんはこんなことを言ってました。
・楼船に乗って、黒い服を着た皇帝と呼ばれる人座っており、傍に二人の女官が扇を持ち立っている姿。
・その子孫が皇族の妾の娘と血縁を持ち、大蔵氏となり、その子孫が長嶋だよ。
と驚いてました。
色々と話して下さった中に、福管理人さんの返信して下さった文章を読んでいて、ぞぞっと寒気がしたのです。
供養をする前から言っていたのですが、お城が見え、殿様とお姫様がいて、
その中で家老衆の中、筆頭家老的存在で、その人達に指示する家老がいて、その人、長嶋さんの先祖だよ。お姫様は、その人の娘だよ。と言ってたんです。これは、返信して頂く前の話です。
そこで、筆頭家老→肝付兼尚、殿様→肝付秋兼、お姫様→兼尚の娘、そして兼尚または父兼藤が肝付氏と血縁を持った長嶋種秀の不詳の子なのでは、と推測したのです。
兼藤の『藤』もきになりまして。
3.関ヶ原の戦いで、長嶋兼道が戦死して、その後肝付本家は衰退したが、実質的に兼幸で肝付本家は終焉を迎えた。その後肝付本家は100石取りの藩士として存続した。とネットを見ていると記載されているのですが、武家商人となったためと考えたらよいのでしょうか。
そして、世の中の安定した江戸時代でも石高をみて、すべて判断されてしまうのでしょうか?
よろしくお願いします。
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