※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
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はじめまして。
家紋を調べていてこちらのサイトにたどり着きました
是非ルーツを知りたいと思い投稿させていただきますのでよろしくお願いします。
家紋 丸に五瓜に唐花 浄土真宗
長崎県諫早市の旧竹崎街道に面しております街道を挟んで裏に市杵島神社があり
先祖が造営して十八代続いていると母から聞いておりました。
昭和44年に古い藁葺きの曲り屋を解き家するときに大黒柱の上の柱に組み込まれた木片に建築されたのが寛政十年と書かれたものがあります。
仏壇の床下からは壺に入った和銅開宝もたくさん出てまいりました刀剣もあります。
同じ町と隣町にも同姓がなくしかし集落の半分ぐらいが吉次姓で十数軒あります
家にある江戸時代の吉永の吉は土に口です
青木姓に繋がるのかもも知りたいのでどうかよろしくお願いいたします。
お便りありがとう御座います。
そうですか、筆者も間違って仕舞いましたね。
ですが、其の他の情報から武田氏系青木氏であると見られます。
母方実家丸山家のご先祖も大変ご苦労した事でしょう。武田氏滅亡後の家臣の難行は武田氏系青木氏に限らず歴史的に大変であった事が判っています。
この武田氏系青木氏には4つの流れがあります。
一つは本家筋、もう一つは分家養子筋の青木氏、もう一つは分家の青木氏、この分家青木氏の同族の柳沢氏があります。この柳沢氏も青木氏族です。 この柳沢氏はかの有名な柳沢吉保です。別名青木吉保とも云われています、お家は武蔵鉢形の青木氏ですので、この柳沢吉保とは母が同じの兄弟でした。
正定と豊定と豊勝の3人で、柳沢氏はこの青木豊定が祖と成ります この豊定が神奈川に出て家康の旗本と成ります。その息子が吉保です。その後の吉保は、兄方の正定家とは仲良く付き合いをしています。
吉保は、後にこの兄弟の一族を集めて自分の家臣団として結束を固めてので強かったのです。
お家の正定は、分家の本家の正定で鉢形に移動したのですが、移動後に生き方を3流に分かれます。
1流は藤原氏に、2流は家康に、3流は農民で庄屋地主に成ります。
お家は、この3流のどの流れに成るのか、それを物語るものが何か出てくるのか、興味が湧きますね。
お話のチョトして事でも、判る事がありますので、親族の集まりがある時にはよく聞かれるとよいですね。
では、又、お便りをお待ちしています。
>ご返答ありがとうございます。
1点修正があります。
母と父は同郷ではなく、父の上京により知り合った同士のため、下野の青木とは全く別です。
母の実家は丸山家と言って武田家滅亡後は、甲府を離れ後年の江戸時代は、品川宿の周辺東海道を守る役目をおっていたと聞いています。
紛らわしい表現になってしまい申し訳ありせん。
青木に関する情報であらたに得ることができましたら、また投稿させていただきます。
自分で調べてもなかなかわからないことだらけでしたので。わかりやすく、具体的にしることができ大変ありがたく思います。
色々な可能性があるので、次回親戚に会う時にヒントになるようなストーリー、情報を聞き出してこようかと思います。
栃木の青木さん 今日は。始めまして。
これからも宜しくお願いします。同じ青木氏族ですが、全国の青木さんが自由に集う青木サイトに今後とも御協力をお願いします。
サイトには青木氏に関する事の情報を研究して、過去の先祖に、未来の子孫に、その伝統を引き継いで、その「生き様」を考えてもらい、ロマンを注ごうとしています。
人は、現在と云う合理的で科学の進んだ中に生きていますが、人には時代がどんなに変化しようとしても、体の中には取りきれない何者かが潜んでいます。それは過去を知ろうとする心と、未来に馳せた心を取り除く事の出来ないものを持っています。それは、人は分身で繋いでいるからです。
さて、ご質問ですが、栃木は下野国です。下野は藤原秀郷一族一門の武蔵と共に領国のひとつです。
当然の下野にも秀郷一門の護衛団の青木氏が武蔵を螺旋状に取り巻く様に守っていました。
下野には秀郷一門の青木氏が特別に氏名を村名として使うことを許された青木村を形成していました。
R4付近とすると、この青木氏である可能性である事も云えますヶ、この秀郷流青木氏の特別四世族青木氏はその家柄から浄土宗或いは特別な場合は真宗に入信を許していました。
家紋は綜紋は下がり藤紋で116氏に広がっています。この中に家紋を抱き茗荷紋とする青木氏がいますが宗派が異なっています。
そこで、どの末裔であるかどうかは、提供頂きました家紋、宗派、地域、祖先の把握の他に、菩提寺、過去帳、維新戸籍簿、伝来品、史実などでも特定できます。
一寸したことでも良いですから当時の慣習で解りますので有りましたらお知らせください。
そこで、家紋は抱き茗荷、宗派は真言宗、江戸の先祖、江戸の定住地で、気に成る情報の母方は武田氏家臣から、考えられる事があります。
その範囲で推理してみます。
この下野国には、武田氏が信長に攻められて滅びましたが、この時、「諏訪族の青木氏」が神奈川の秀郷一門の青木氏を頼って逃亡してきました。その後、その一部が下野に移動定住して秀郷一門青木氏を背景に勢力を盛り返します。この信濃の「諏訪族青木氏」には「諏訪族青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」と「諏訪氏系武田氏族青木氏」の3氏の流れがあります。この3氏の内の諏訪族系が栃木下野に移動したのです。家紋は「抱き角紋」です。宗派は浄土宗です。
次ぎに、この時、「武田氏系青木氏」が甲斐山梨にいましたが、滅びて、徳川氏から武蔵埼玉の鉢形に一族全員が定住移動の命を受けて移ります。この一族末裔が北に伸張して埼玉北から下野栃木の北東よりに子孫を拡大しました。
この青木氏には支流系の家紋は数多くあります。宗派は最初は浄土宗 後には曹洞宗、最後には真言宗と宗派変えをしました。(戦国時代には信者獲得の為にこの3派の宗教戦争も起こした位です。)
下野栃木では、江戸時代には、この「秀郷流青木氏」と「諏訪族青木氏2氏」と「武田氏系青木氏」の3氏の「青木氏同士の融合血縁族」も起こっています。
そうすると、この「抱き茗荷紋」は最初は天台宗の摩多羅神の神紋でした。この家紋を用いたのは初代の近江二宮氏とその系列の江戸時代大名に成った鳥羽氏や稲垣氏が江戸初期に用いました。
この二宮氏は2流ありまして、近江系と下野系に別れています。
とすると、お家は江戸初期頃に嫡子に恵まれず、近江の流れを汲む下野栃木二宮氏と養子血縁をして、この時にも再び男系に恵まれず女系となり、男系の養子側の二宮氏系列に属する事に成り、「家紋掟」により家紋が「花菱紋」から「抱き茗荷紋」に変紋した事を意味します。
天台宗、浄土宗、真言宗の3派は3大密教系ですので、家紋の変紋の時に、宗派と共に養子の男系側の真言宗に変わった事に成ります。近江二宮氏の天台宗と共に関東で真言宗と曹洞宗との信者獲得合戦をしましたので、栃木二宮氏の真言宗は歴史的に充分に考えられる事です。
さて、この4つの提供して頂いた情報から観て、武田氏系青木氏の可能性が高く成ります。
ここで、母方が武田氏の家臣であったとすると、武蔵埼玉の鉢形に移動してきた武田氏系青木氏に付き従った青木氏の家臣の末裔であった事に成ります。
武田氏の直家臣は甲斐で滅び飛散して、多くは甲斐より北に逃亡し、信長の徹底した掃討作戦で滅亡の憂き目を受けていますので、栃木で過去に武田氏の家臣で生き延びたとすると、この場合しかありませんので、この事からも武田氏系青木氏であった事の可能性が高く成ります。
江戸当時は氏家制度の中で、同じ青木氏でも「住み分け」をしていましたが、”藤岡付近の渡良瀬川とR4”は納得の出来るところです。
この武田氏系青木氏を確定するには、上記した他の情報を御提供ください。
この武田氏系青木氏に関しては論文として、研究室に「甲斐の青木氏の研究」で論じていますので詳しくはそちらをお読みください。
参考として、武田氏系青木氏とは、「皇族青木氏」と呼ばれ、「嵯峨期の詔勅」で皇族の者が下俗する際に名乗る氏名として他に使用を禁じたのです。この「武田氏系青木氏」は、大化期に天智天皇の第6位皇子が臣下して天皇の護衛団となり「青木氏」と云う氏名を賜姓され、「朝臣族」として甲斐に配置された甲斐王の「皇族賜姓青木氏」と成りました。この後、平安期に源源光がこの跡目を引き継ぎますが、兄の時光は武田氏との血縁をし、「武田氏系青木氏」を発祥させたのです。
兄時光は、大化期からの由緒ある「甲斐の皇族賜姓青木氏」を引き継ぐ権利がありませんでしたので、「嵯峨期の詔勅」に従って源氏である事を理由に「青木氏」を名乗りました。
「皇族賜姓源氏」とは、「嵯峨天皇」から始まり11代続いた「第6位皇子の賜姓臣下族」で、大化期の天智天皇から5代続いた「第6位皇子の賜姓臣下族」の「皇族賜姓青木氏」とは同族です。
「諏訪族青木氏」とは、この大化期の「皇族賜姓青木氏の信濃王」が、土地の豪族の諏訪族との血縁をして発祥した「信濃の皇族賜姓諏訪族青木氏」です。「諏訪族」の始祖は、奈良期始め、中国後漢の国が滅びて阿多倍王に率いられて大和国に渡来した200万人の帰化人で、信濃のに配置された「馬部の職能集団の首魁」でした。日本書紀にも出て来る由緒ある諏訪族です。この諏訪族との皇族賜姓血縁族です。
では、ご質問が有りましたら、御遠慮なくお尋ねください。
ルーツ掲示板にお家の専用投稿欄を設けますので、そこからReでお便りください。
お待ちしています。
初投稿させて頂きます。
掲示板を一通り拝見させていただいたのですが、ピンとくるものがなかったので投稿させて頂きます。
もしお分かりでしたら、教えていて頂きたいと思います。
私自身は現在父の仕事の関係で神奈川県に住んでいますが、もともと父の出身は栃木県です。
栃木の藤岡付近の渡良瀬川はすぐそこ、国道4号線からも近い場所に現在でも父の実家はあります。
先祖代々すくなくとも江戸時代からはそこに住んでいたようです。
周辺の家もすべて青木姓なので、明治以降に名乗った可能性が高い様な気もしますが。
家紋は抱き茗荷
宗派は真言宗
です。
母方は武田家家臣の家系る事がはっきりしているので、父方のルーツも気になりますのでよろしくお願いします
。
長嶋さん 今日は。
さて、早速ですが、ご理解いただきありがとう御座います。
この様なサイトを運営するに関して最も注意を払わなくては成らない点で、取り分け長嶋氏は名門中の名門です。「氏の伝統」が消えつつある中でも秀郷一門の長嶋氏は宗家の内ではまだその「氏の伝統」は「慣習、仕来り、掟」の中で守られています。
「青木氏族」の「秀郷一門主要5氏」として、福岡、長崎、香川、広島、徳島、神奈川、埼玉、千葉、栃木、新潟、青森、茨城、では厳然として宗家筋が現存しています。鹿児島、熊本、宮崎も現存している事が判りましたので、青木氏としては特に注意を払っています。
これ等の宗家筋が系譜等に於いてもどの様な「歴史的な経緯」を持っているかを研究しています。
「慣習、仕来り、掟」を守ると云う事が現在に於いてどれだけ大変な事かも理解できます故に、その「ルーツの伝統」をあやふやにする事には心理的な抵抗を持っている筈です。
この感情は同じ立場にある青木氏としても理解できますので、より正等にルーツを明確にして行く事には吝かではありませんが、個人の思惑は自由としても、正確さと明確さをサイトとしては守りたいと考えます。
この点をご理解頂き今後ともに御投稿をお願いします。
追伸
よく判りました。
ご質問頂いた事にお答えして、それに伴う情報に確証があれば、本サイトとしても確証付けるものがある為にその範囲ではサイトでの公表は当然の事として問題ない訳であり、無い状況の中では自己判断の確定したような公表は前伸の通り問題を持ちます。
確定し得る情報を持ち合わせない場合のご質問は、そのご質問の範囲で留めて戴く事が筋目かと考えますので、その要領をお守り頂けるのであればサイトとしては何の問題も有りません。
福管理人さん、早速のお応え有り難うございます。
福管理人さんの仰るとおりですね。
軽率でした。宗家の方にもご迷惑ですね。
ルーツを確定していくためのヒントの資料として、提供していたのですからその通りだと思います。
静岡の長嶋ですが、薩摩から来たのは三河国川路なので、正確に言うと愛知となります。
東海道の吉田宿(豊橋)から伊那街道で北上していくと、川路という地区があります。
鳳来寺山(鳳来寺、東照宮)への巡礼・参拝の地、また飯田へと繋がる街道となっていたそうです。
そこに太吉に移り住んでいます。現在、その周辺で長嶋を名乗る物は内の一族のみというなります。
この地域では、菅谷、夏目、滝川、牧野と言った名前が目立つ地域です。
静岡県というよりも、愛知県に位置していますので、この点も訂正とさせて頂きます。
今後ともなにか質問の内容に注意して、行いますので宜しくお願いします。
御質問1
>長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
>そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。
>長嶋武右衛門貞国が、肝付兼樹、兼亮からの系統なのか、当家の次右衛門からの系統なのか分かりませんが…。
>また、大蔵氏系長嶋氏と言う事もあるのでしょうか?
御質問2
>大蔵氏系長嶋氏の長嶋種武は菊池氏と血縁を結んでしますし、その他にも大蔵氏と菊池氏の血縁も見受けられます。
>九州の長嶋氏で『違い鷹の羽紋』を持つ長嶋氏は菊池氏との血縁の関連からかなと推測し、岐阜、>
>三重などにも『違い鷹の羽紋』の長嶋氏があるので長嶋武右衛門貞国との関連性を推測したのですが。
>また、長嶋武右衛門貞国は安土桃山期の方なのでしょうか?それとも江戸初期の方なのでしょうか?
静岡の長嶋さん 今日は。
さて、この「武右衛門貞国」なる人物の詳細が掴めません。
結城永嶋氏は平安期1000年頃の発祥で、その後「関東屋形」としての大豪族として伊勢長島まで勢力を伸ばしたのは鎌倉期末期から少なくとも室町期の初期の頃で、この人物の末裔(2)と観られる一族が伊勢長島で「分家」(説2)を伊勢で興したのは推測として安政4年の前くらいと系譜からの変異で推測します。
この人物の伊勢長島の末裔(1)が岐阜と静岡に移動していますので、その時期は信長−秀吉の時代の少し前と経緯から計算されます。
その分家の末裔(2)の長嶋氏の末裔が、その後にこのルートを頼って移動して行く事に成ります。
この末裔(1)の移動経緯の原因は、「宗家の結城永嶋氏」の信長−秀吉の軋轢から、全国の永嶋一族一門が対抗する為に後方支援に廻った歴史的経緯があります。
この時に、「九州の永嶋一族」と「肝付氏の長嶋氏」も後方支援に廻ったものと考えられます。
この後方支援に廻った時の「肝付氏族長嶋氏」(説1)か「安政の頃の肝付氏族長嶋氏」(末裔2 説2)の何れかが、伊勢長島で「元祖貞国」の「分家」を興したかは不明なのです。
つまり、この結城を始めとする「永嶋氏の家」から鎌倉末期の「元寇の役」で九州に派遣され定住し、「大蔵氏系永嶋氏」から「大蔵氏系肝付氏族長嶋氏」(宮崎の永嶋氏、肝付の長嶋氏、阿多の長島氏)まで血縁を拡げますが、恐らくこの過程で「宮崎の永嶋氏」から「肝付の長嶋氏」に成った時に、「伊勢長嶋氏」からこの「肝付氏族長嶋氏」に「跡目」を入れた実家先が、「伊勢長嶋氏」のこの「武右衛門貞国」の家からであったと考えられます。
だから、一族でありながら「永嶋氏」から「長嶋氏」に変化しているのです。
そして、再び、武蔵で永嶋氏に変名しているのです。
故に、「初代」と記述しているところから、つまり、元祖は「武右衛門貞国」としているのであって九州の人物では無く、「肝付氏族長嶋氏」の伊勢長嶋氏の「元祖」、又は「実家先の先祖」を表現しているのです。決して「武右衛門貞国」が肝付氏から来たと云う事ではありません。
そして、「何かの理由」でこの実家先に「肝付氏族長嶋氏」の一部が戻って、この実家の分家の分家として表現しているのであってここで興したと観ています。(説1と説2)
筆者はこの両方が興って、説1で分家、説2でここを頼った。そして、末裔1の移動先の岐阜と静岡に子孫を遺し、そこを頼って末裔2が移動して行ったと推理しています。
その移動過程で、幕末安政の頃にその末裔2の一部が静岡に何らかの理由で留まったと見ています。
その移動理由は幕末の薩摩藩の「買い付け」にあったと考えられ、それ故に実家先の移動先の伊勢長島と岐阜と静岡の移動経路を再び辿った事に成ったと考えられます。
筆者は「貞国の分家」は「説1」が興したと考えます。
これを肝付から来た「末裔2」が頼ったし、移動したと見ています。その最終は矢張り末裔(1)の武蔵の平方に辿り着いたと考えられます。
仮に、お家がこの末裔(2)の者の一人であったとして、それが静岡で留まった末裔では無いかと見ているのです。
岐阜と静岡にも長嶋氏が存在するのは、元々の伊勢長島の本家長嶋氏と、末裔(1)の長嶋氏が存在している事に成り、この時に末裔(2)の一部の者が何らかの理由(木材買い付け)で残留した事に成ります。
故に、仮にお家の先祖が薩摩を出たとして静岡で留まってしまって、家紋も宗派も法名も家柄もルーツも姓も伝統も何もかも途絶えてしまったとも考えられます。
ところが筆者が書き記し出来る程度に、武蔵平方郷に辿り着いた末裔は厳然と必要な伝統を引き継いで現存しているのです。
以前の最初からのお答えからも、これらの情報を先ず調査して確認して、矛盾無かった場合に、肝付氏族長嶋氏の末裔であるとすべき事を提案し忠告しています。
以前これ等の情報は何度も申し上げていますが全く頂いていません。
初回から提供いたしました全ての資料と記録はお家を限定として申し上げている訳ではありません。
「一つの氏の経緯」を申し上げています。それがお家であるかは判りません。
ところが、この証拠を裏付けることも無しに、独自に先行してルーツとして決め付けて発言も「下記ご意見」の様に投稿されていますが、その事は自由ですが、根拠無くサイト発言とサイトの回答を利用される事は、サイト運営上好みません。念のために、筆者と青木氏氏サイトは確定はしていませんのでご留意してください。
実は、ところが、最近の筆者の調査では、この「肝付氏長嶋氏の末裔」と観られる家筋が肝付の付近に現存されていて存在が確認されています。この家の家紋や宗派や家柄や姓も伝統記録や法名や過去帳も全てが矛盾無く持ち合わせています。恐らくはこのお家が本家末裔と考えます。
この本家筋が見つかった以上は苦情が出ることも起こりますので、是非、提示する必要な情報を無視されること無く是非にご提供ください。
(以前提供しました系譜の下記の「ご意見」の系譜の部分に対しては、お家である事の証拠は何も有りません。更に本件もお答えすれば追認した事を意味しますので、お宅の常套手段のやり方に異議があります。)
今回も含めて、薩摩からはこの様な「長嶋氏の末裔」の定住移動が筆者の資料から分析すればあったとしているのです。上記の様な事柄を確認された上での「末裔2の残留者」と確定できるものです。
既にただ一つの戒名だけの提供がありましたが、この事からも上記の「末裔1」と「末裔2」の戒名がその相当な家柄等を示す伝統ものを完全に持っていますので、その意味からしてお家が「末裔2の残留者」の者とするには大きな疑問が残ります。その様に以前お答えいたしました。
従って、他の筆者が提示する情報を是非提供いただいた上でのお答えしたいと思います。恐らくは戒名からも大きな疑問がありますが答えが出ると思います。
因みに、この「末裔1」の平方での家紋は変名して「長嶋氏」ではなく「永嶋氏」で「立沢瀉紋」です。
この沢瀉の文様は三重東、愛知から静岡にかけて拡がった文様ですので、これが平方にある事はこの地域から移動してきた事を物語ります。
元は何であったかは不明で家紋掟に依って変紋したと観られます。
参考として大蔵氏系永嶋氏一門の「三雁金紋」から変紋しています。
肝付氏族長嶋氏にはいくつかの家紋群があります。この中にあるかの問題も含んでいます。
何度も申し上げていますが、上記の様な情報を確認していただければ、他に持ち合わす資料から「末裔2の残留者」のお家である事が確認出来るのです。
今回は元祖とその歴史的史実の経緯を提供いたしましたが、お家に確定している訳ではありません。
今のところではお家はその戒名からは疑問です。(末裔1と末裔2は疑問矛盾は少ないですよ)
質問2に付いては質問1でお答えはできていると考えます。
ご意見
> この伊勢国長島の長嶋一族で分家初代長嶋武衛門貞国成る者を祖としている未勘一族と当家の長嶋と関連する可能性はあるのかもしれないですね。
> 肝付(長嶋)兼道→肝付幸之丞兼継(肝付兼樹の養子)→肝付次右衛門兼弘(初代長嶋次右衛門兼弘)→次右衛門兼定→次右衛門兼勝→次右衛門兼忠→次右衛門兼光と続き、兼光の代で嫡子がいなく、長島勘左衛門兼直が養嗣子となり、そして勘左衛門兼直→勘右衛門兼次→勘右衛門兼吉(長嶌太吉)となります。養嗣子の勘左衛門兼直は助貞という名もあるようです。
> この『助貞』は気になります。
> 長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
> そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。
福管理人さん、お応え有り難うございます。
毎日忙しく、仕事をさせて頂かせてもらっています。体力だけはある様で、御先祖様に感謝という所です。
以前、下記の様に出てきた長嶋武右衛門貞国さんですね。
『確かに伊勢長嶋氏の中に長嶋武右衛門貞国なる人物が居ます。
そもそも、 この「・・右衛門」は関東の佐野氏系長嶋氏の世襲名にも多いのです。
実は念入りに調べて行くと、今回次ぎの様な事が判ったのです。
この貞国なる人物が途中を経由して関東武蔵国平方郷に移り住んだとあります。(子孫は現存している)
この者の一族の寛永の頃から続いた戒名には光を読み込んだ人物が5人も居ますし・・右衛門が3人も居ます。
そして幕末の頃の戒名には光以外に緑と林と木を読み込んだ故人は4人居ます。
前半は院殿居士の武士の戒名 江戸末期頃の戒名は武士出身のある程度大店の商人階級の居士です。太吉さんもこの戒名でしたですね。
ところが、幕末の太吉さんの頃の男子の戒名がありません。
安政4年の大姉の女性の戒名だけです。その前の男子は養子の長嶋銀蔵さんと成っています。何か変です。その後明治の中頃以降に飛んでいます。そして明治以降はこの一族は養子が多い事です。
この幕末に跡目の男子が死亡以外に一族から何かの理由で籍を抜いた事を意味し、墓には入れなかった事を意味します。
この貞国と云う者は鹿児島薩摩藩の意を得ての伊勢−静岡−埼玉の移動の遍歴を繰り返したと考えられます。この地域の共通点は「長嶋」と「材木」です。』
この伊勢国長島の長嶋一族で分家初代長嶋武衛門貞国成る者を祖としている未勘一族と当家の長嶋と関連する可能性はあるのかもしれないですね。
肝付(長嶋)兼道→肝付幸之丞兼継(肝付兼樹の養子)→肝付次右衛門兼弘(初代長嶋次右衛門兼弘)→次右衛門兼定→次右衛門兼勝→次右衛門兼忠→次右衛門兼光と続き、兼光の代で嫡子がいなく、長島勘左衛門兼直が養嗣子となり、そして勘左衛門兼直→勘右衛門兼次→勘右衛門兼吉(長嶌太吉)となります。養嗣子の勘左衛門兼直は助貞という名もあるようです。
この『助貞』は気になります。
長嶋次右衛門兼弘は寛永13(1636)年に、長島勘右衛門は文政4(1821)年に鹿児島城下の住居があります。
そこから推測すると養嗣子として入った勘左衛門兼直と長嶋武右衛門貞国との関連はあるのかもしれません。
長嶋武右衛門貞国が、肝付兼樹、兼亮からの系統なのか、当家の次右衛門からの系統なのか分かりませんが…。
また、大蔵氏系長嶋氏と言う事もあるのでしょうか?
大蔵氏系長嶋氏の長嶋種武は菊池氏と血縁を結んでしますし、その他にも大蔵氏と菊池氏の血縁も見受けられます。
九州の長嶋氏で『違い鷹の羽紋』を持つ長嶋氏は菊池氏との血縁の関連からかなと推測し、岐阜、三重などにも『違い鷹の羽紋』の長嶋氏があるので長嶋武右衛門貞国との関連性を推測したのですが。
また、長嶋武右衛門貞国は安土桃山期の方なのでしょうか?それとも江戸初期の方なのでしょうか?
また、上記の数点について教えて下さい。宜しくお願いします。
[3167]
> 何度も申し訳ありません
>品川です。
>2013/05/11 14:20 - パソコン
> 何度も申し訳ありません
>消去キー が作れず 何度も申し訳ないと思ったのですが こちらから失礼します。
>書き忘れてしまった事なのですが 宗派は日蓮宗との事です。
>家紋の事なのですが [藤に祠紋]は珍しい家紋なのでしょうか?
>恥ずかしい話ですがまだ家紋の確認ができてないのですが 上がり藤?に祠紋というのは 藤の中に祠が入ってるという感じでしょうか?
>上がり藤といってますが違う [藤に祠紋]もあるのでしょうか?
>こちらからおじゃました事を深くお詫びいたします。
品川さん 今日は。
早速ですが、追伸に対してお応えします。
「藤に祠紋」は大変珍しい家紋です。前のお答え通り、日本には凡そ家紋は8000程度あります中では、極めて珍しい家紋類です。
次ぎのご質問ですが、手を上に向けて丸を作ります。その中に祠を図案化したものを中に入れます。
この方式は、藤原氏が用いた文様方式で、祠紋を家紋とする氏が居て、その氏の血筋の流れを汲む藤紋の一族である事を意味します。
この副紋方式を真似して造った家紋が沢山あります。
本当は藤原氏一族が使う方式なのですが、藤原氏以外の氏も何らかの理由でこの方式を真似したのです。
例えば、血筋は無いのですが、遠縁に当る為に許可を得て用いた等もあります。
中には藤の花では無いものに別の家紋を入れて完全な偽紋を造ったのもあります。
一見して、見分けが着きません。
藤紋144紋中、20紋程度がこの方式を使っています。
さて、お家の家紋が、この藤紋の上がり藤紋の藤原氏の藤の花の紋様かの確認が必要です。
次に、そもそもこの祠紋が珍しいのです。それにこの藤紋?の中にこの祠紋が入る文様と成ると更に極めて珍しい文様です。
この家紋の上がり藤を使う家紋は家紋の中では実は新しいのです。
江戸初期に多くの下級武士も家紋を持つ様になりました。それまでは土地をもつ中級以上の武士階級が家紋を持っていたのですが、この時にこの上り藤紋に似せた家紋を沢山作ったのです。
その上り藤紋の中にこれまた珍しい祠紋を組み込んだ文様と成ったのです。
従って、江戸末期か明治初期の家紋類と成ります。
藤紋の藤原氏は「四家」と呼ばれ、北家、式家、南家、京家がありましたが、同族争いの結果、北家を除き殆どが滅亡しました。
この上がり藤紋は、北家の一部とあとの3家の家紋類です。3家は滅亡していませんので、北家の一部の摂関家が使用する家紋と成ります。摂関家も公家衆となって一部残ります。
元々は藤原氏は下がり藤紋です。
従って、江戸初期と明治初期には類似紋を使っても子孫が居ないので文句が出ない上がり藤紋を使ったのです。
更に元々「下がり藤紋に副紋方式」なのですが、これに似せて「上がり藤紋に副紋方式」を用いたのです。
そもそもの「上かり藤紋」は公家衆で武門ではありませんので、この「副紋方式」そのものがないのです。
「公家」の家紋はそもそも「武家の家紋」では無く、「象徴紋」を前提としているのです。
つまり、文句が出ないように中に更に副紋の文様を入れると云う事が起ったのです。
そもそも、「下がり藤紋」にしろ「上がり藤紋」にしろこの紋は「藤原氏の綜紋」で、個人の家の家紋ではありません。この綜紋を引き継ぐ事ができるのは極めて限られた数の宗家筋一門だけです。
「上がり藤紋」を使う云う事態が搾取なのです。そこに「副紋」を使い、更に、「祠紋」となるとその使用そのものと、時期を限定する事が出来るのです。
本来通常使わない紋を通常紋として使っているのですから、議論の余地はありません。
さて、宗派が日蓮宗との事ですので、家柄も絞られます。
農工商の身分の者と下級武士が入信する宗派です。
この日蓮宗で、家紋を持っている事、新しい家紋類である事、珍しい家紋である事、類似紋である事、から答えは限られてきます。後は「藤の花」が藤原氏の藤の花の文様を使っているか否かで答えは決まります。
然し、更に、問題なのは、藤原氏は日本一最高の身分と家柄を誇る氏です。この氏は同族血縁を主体としながらも、江戸期には高級武士との血縁をしました。「祠紋」は珍しい文様である様に、子孫が少ないことを意味しますので、この藤原氏と血縁できる身分と階級ではありません。
つまり、血縁関係を江戸末期まで結ぶ事はまずありません。従って、藤原氏の正規の「上がり藤に祠紋」はあり得ない事に成ります。更に、秀郷一門の「下がり藤紋に副紋」はありますが、公家衆の「上り藤紋に副紋」は先ずあり得ない事を意味します。そもそも公家衆には自らの氏を武力の護衛軍で守る慣習がありませんでしたので副紋方式は必要ありません。
と成ると、明治期の家紋類と成り得ます。更には、全国家紋8000の中にも無い家紋類ですので、明治の時に財をなして家紋を作った、姓を持ったと云う事に成ります。この搾取偏纂の現象は明治期にブームのように起ったのです。むしろ、明治維新政府が今までになかった苗字などの伝統概念のながで、庶民に苗字を持たす為に積極的に周囲の武士の氏名を使用させるように指導したのです。
一夜にして、郡全体が同じ姓名の家が増えたのです。国民全員が姓名を持つのに約く8年もかかったのです。なかなか諸民は持たなかったのです。そこで政府は強引に持たしたのです。
特に藤原氏の氏名は関東東北北陸では一夜にして県郡に興りました。
藤原氏そのものが宗家以外は藤原の氏名を名乗る習慣がなく、例えは、伊勢の藤原氏であれば伊藤氏の様に名乗る習慣でした。この後ろに「・・藤」が付かない氏名をもつのは秀郷一門主要5氏あるいは8氏しかありません。後は全て「未勘氏族」(藤原氏を装った氏)と呼ばれる姓です。
祖父の段階までしか現在でも解らないと云う事は、この事を意味しています。
何故ならば武士であれば、少なくとも菩提寺があり、「伝統」を守りますので、最低でも4代-5代前くらいまでは完全に判っています。「永代供養」と云う習慣が武士にはありましたので、最低でも先祖の「曼荼羅」がある筈です。
「本家の墓」に行けば法名も書いているし、判らないと云う事はありえません。法名の形でも身分家柄は直ぐに判ります。
藤紋の確認とともに、一度本家や法名もお調べに成ると直ぐに判りますよ。江戸期のご先祖が判るとしてそのお住まいに成っていた村の名前でも判ります。
武士はお城の家臣長屋か与えられた城屋敷で住まいしますので、村名でもわかりますよ。
その前に、先ず日蓮宗ですので、もとより過去帳はありません。人別帳ですので、ご先祖の法名も解らない筈です。先祖も辿れません。(西関東と日蓮宗は地域的にも一致しています。)
つまり、だから解らな無く成っているのです。そうなれば、江戸初期か明治初期かの答えは先に出ます。
万が一のこともありますので、藤紋と本家筋と法名と出自地を確認が必要です。
ではまたお便りを下さい。
3166] 無題
品川です
2013/05/10 14:49 - パソコン
申し訳ありません
品川です
専用のReで 何度もエラー がでてしまった為
大変申し訳ありませんが 再度こちらから失礼いたします。
丁寧で解りやすいお答えありがとうございます
母親から聞いた話なのですが 子供の頃 [刀]を飾ってある部屋があったそうです
母親のお爺さんは もとは青森県の出身ではないらしいです その場所は調べてみないとわからないとの事ですが…
あと疑問に思ったのですが [ふじえにほこら紋]というのは あるのですか? 探してもわかりませんでした 実在する家紋なのでしょうか?
これだけでは何もわからないと思いますがよろしくお願いいたします
こちらにおじゃましまして大変申し訳ありませんでした
> 品川さん 今日は。
>
> さて、Reの件ですが、Reで投稿してゆく場合は、前の文をまず消して、そこに次ぎの文を書き込む事と、上のお名前とタイトルと、合言葉の あおきさん を書き込んで、更に自分の削除キーを作って、更に指定する投稿キーを入力してください。最後に 返信投稿する をクリックして下さい。
> そうすると、投稿の待機状態に成ります。
> ここからは、私が投稿許可を出すように成っています。
家紋の件ですが、全国8000以上の家紋がありますが、西関東の付近に希に見る事が出来ます。
「上り藤に祠」の藤の花の形の文様が藤原氏の「上り藤」の文様と成っているかの違いが問題です。
一度藤の花の違いを先ずはお調べください。
藤原氏北家の秀郷一門はもともとの「下がり藤」で、”下がる”を嫌った他の藤原氏はこの「上り藤」に変更したのです。上り藤紋?に祠の文様には、神社系の何かを物語たせています。
其の他の藤紋は藤原氏の藤紋とは違っています。多くは未勘氏族の家紋と成ります。
未勘氏族とは藤原氏を名乗っているが確証が無い氏のことです。室町期末期から江戸初期と明治初期に多く造られました。恐らくは、藤原氏に味方した土豪か、家臣か、遠縁か、全くの偽装搾取か、のことで造ったと見られます。
”母の時代に刀が飾ってあった”とされていますが、明治以降の方と観られますので、法律上、刀剣は許可が必要で、飾る事は管理上出来ません。ミニチュアであった可能性があります。可能なのは江戸末期までです。昭和初期には刀剣は戦争で鉄不足で全て没収ですので、ある事事態が問題です。
見つかれば大変な事に成ります。
では、またご遠慮なくお便りください。
静岡の長嶋さん 今日は。お久しぶりです。
お変わりありませんか。
さて、お尋ねの件ですが、お尋ねの内容は削除しますので。
お応えとは何とも云い難いですが、強いて云えば、以前に類似するルーツ長嶋氏がいるとのお応えをしました。
そのお応えに史実が若干類似するところもあります。
伊勢国長島の長嶋一族で分家初代長嶋武衛門貞国成る者を祖としている一族がいます。
ただし、この貞国の一族は未勘氏族と言われている族で、後に、岐阜、静岡を経由して武蔵国の平方郷に移住したとされる一族で、この平方郷で子孫を広げます。ただこの一族は養子縁組が多く男系継承は傾向的に難しかった様で系譜を観ると、完全な女系の系譜と成っています。
この系譜のある途中で、岐阜か静岡のどちらかに男子を何らかの理由で遺して来た為に、この男系のルーツが出来なくなって行ったような系譜を持っていたようです。
全て院殿居士の法名からかなりの高い相当な財力のある身分の家柄であった事が判ります。
女子も院殿の最高の法名を持っています。何かを物語っています。
ところが、この伊勢長島の長嶋氏の分家と成っている初代貞国の時代が、初代にしては伊勢長嶋氏とは時代が違いすぎています。
どこからか移動して来たしっかりした伊勢で分家を興すくらいの「長嶋族」では無いかと推理出来ます。そうなると伊勢長島の長島ではなく、戒名から観て正規の長嶋を名乗っているので薩摩肝付からと成ります。
恐らくは何らかの理由で薩摩から、この宗家筋を頼ってやって来た一族で、伊勢長島に定住出来たと考えられます。先ず何処の馬の骨か解らない者に長島に勝手に住まわせ、分家を作らせる事はしない筈です。
そして、新たに分家を興させています。普通は新たに分家を興させる事は先ず氏家制度の中ではありませんので、伊勢に薩摩長嶋の別のルーツを持つ一族として分家を許可したものでなければ分家を興すことは出来ません。(関西と関東の永嶋族の危機に陥った宗家結城の後方支援か、又は経済的な交流、買い付けか)
ここから枝葉を多少拡げた後に、何らかの理由で他の長嶋族が定住している地域に、この一門が岐阜−静岡−武蔵と移動定住したと成ります。(その理由下記)
この移動定住は、結城の結城一族永嶋氏と陸奥の結城永嶋氏を室町の信長-秀吉の時代に一族を後方支援する為に、伊勢長島から夫々の永嶋氏が居る地域の援護をしながら派遣された一門ではないかと考えられます。結局は、領国の武蔵平方で最終留まったと見られます。
この伊勢から派遣された後方支援は陸奥まで派遣されています。本隊は敗退して最終伊勢に戻っています。(後にいせ永嶋氏も信長−秀吉に潰される 陸奥の結城永嶋氏と結城の永嶋氏宗家も負ける。)
この平方郷には大きな墓所3基が残されています。この女系に成った長嶋の平方の裔は現存するが、岐阜と静岡の末裔は不明です。
この貞国で始まった伊勢長島の長嶋氏は本来は長嶋氏でありながら、途中から平方郷では宗家筋の永嶋氏を名乗っています。名乗るには宗家から跡目を入れた事以外には考えにくく、ここにも何か理由があります。
この一族の長嶋氏がお話の内容と似ている処があります。
では又何か有りましたらお便りください。
ようこそ御越し頂きました。
本サイトは、青木氏に関わるルーツに付いて研究を進めています。
さりとて、お尋ね頂きましたので、出来るだけの事をお応えします。
先ず提供いただきました情報は江戸末期以前の情報でなければルーツを辿る事は出来ません。
明治期以降のことは維新の新戸籍簿がありますので、容易にルーツを辿る事は可能です。
先ず、提供いただきました情報は御尊祖父ですので、明治期ですから、ルーツは戸籍簿で判ります。
維新の戸籍簿には明治3年と8年の苗字令により全国民が苗字を持ちました。
この時、この維新簿にはお家の家柄が書かれています。武士であれば、「士分」と書かれていますのでその出身地が明記されています。
江戸期以前は農工商の場合はルーツを系統的に記録する概念がありませんでした。そもそも苗字を持っていなかったのですから無理です。
家紋は何時の時代からのものでしょうか。藤えにほこら紋は秀郷一門や今川氏にはありません。
そもそも藤は葉ではなく花です。3尺藤の花を家紋としています。ただしこの藤の紋を使える藤原氏には家紋の掟があり、下がり藤の藤紋を使えるのは主要16氏(秀郷9氏)だけで、他の一族一門は家紋としては使えません。まして藤紋は綜紋ですので通常本家筋しか使いません。又秀郷一門は上がり藤紋ではありません。藤紋144紋中にはお家の家紋類はありません。
家紋から観て、藤原秀郷一門では無い事が判ります。
この事から明治期3年と8年の苗字令に基づく九割近い農工商の苗字と観られます。
ただし、上記の祖父以前の方(祖祖父)をみつけ、その方が住んでいた土地を探し出す事が必要です。
明治のころに青森県の田舎館の十二川原出身との事ですが、確かにこの青森は藤原秀郷一門の血筋を引いた土豪が多いところですが、秀郷一門はその土地柄がはっきりしていますので、この土地がらは疑問です。
武士であったとした場合は菩提寺がこの土地にある筈です。そして、そこの寺に品川氏の「過去帳」がある筈です。人別帳ではありません。その過去帳があればルーツを確定できます。
今川氏の件ですが、武士であるのなら遺す事が義務でしたので何がしかの伝統が残っている筈です。
その伝統は多くは宗派に関係して遺されていますので宗派は何宗ですか。宗派で大体の事はわかります。士農工商は身分制度の戒律があって大方はそのかいりつに従っていましたので宗派で判りますよ
念のために、明治前は人の定住移動は禁止ですよ。国抜けで打ち首ですょ。
江戸期前は氏家制度の時代ですからその制度から出ると無宿者に成ります。
祖父の代で移動していると成ると明治期ですので、ルーツが判らなくなっている事は農工商の人であった事に成ります。
兎に角、江戸時代か明治維新簿を見てください。宗派でも判りますよ。
以下の内容で品川さんから雑談掲示板に投稿がありましたので、こちらに代理で移します。
尚、品川さんに付いてはこの投稿欄を専用Reでお使いください。
[3165] 初めましておじゃまします
品川です
2013/05/09 10:56 - パソコン
初めまして 品川と申します
母方の名前なのですが 今 現在は神奈川県在住ですが 母親の父親 私からするとお爺さんになるのですが お爺さんは青森県の田舎館の十二川原出身 で 北海道で家庭をもち 家庭をもち 母親たち 兄弟が生まれ育ったらしいのですが 品川という名前は今川氏関係の品川なのでしょうか?
家紋は定かでは ないのですが ふじえにほこら? もしくは 上がり藤 藤の葉っぱを使ってのは間違いないとの事なのですが…
そうなると 藤原氏と関係のある品川氏なのでしょうか?
わかる範囲で教えていただけますと嬉しいです
突然 おじゃまして申し訳ありません。
> > 初めまして。私は台湾に渡った青木恵範のひ孫にあたり、二郎とトヨの孫です。
> > 以前に「真言宗の青木」を投稿された貴子さんとは親戚にあたると思います。なんだか嬉しくなり投稿させて頂きました。
> > 母が二郎の娘ですので、現在は父方の姓なので青木ではありません。
> > 昨年、青木恵範がいたという京都天橋立の成相寺に行ってきました。ご住職とお話させて頂きましたが、時代的に混乱していた時期があり、過去帳が残っていないとの事でした。家紋は母に聞けば分かると思うのですが。。
> > 新しい情報でなく申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。
>
> 志織さん
> こんにちは。貴子です。久しぶりにこのサイトを見たところ、今気づきました。そうですね、遠縁ですが、
> 親戚だと思います。そー、明治期に台湾に渡り激動の時代を生き抜いた青木家の子孫でもあります。
> 昨年は、びっくりしました。福島は今たいへんなことになっていて。。。お見舞い申し上げます。
> でも、福島の桃もなんとか輸出できるようになってきたし、少しずつ回復へ向かっているようですね。
> なんだか不思議です。現在私はフィリピンに夫と在住していて9年目を向かえます。
> このサイトもおもしろいですよね。どうぞお元気で、またいつの日かお目にかかれるといいですね。
貴子さん
こんにちは。志織です。私も久しぶりにこちらを見て気づきました。
コメント頂けて嬉しいです。ありがとうございます!
フィリピンにいらっしゃるんですね。私は千葉県松戸市におります。
青木二郎の妻、私の祖母トヨは、2011年11月11日に97歳で永眠致しました。大往生でした。
今は貴子さんも行かれた福島の医王寺に眠っております。
管理人様にアドバイス頂いたのち新しく分かった事はないのですが、このサイトがご縁でお話ができて、管理人様に感謝です。
貴子さんもどうぞお元気で。私もいつの日かお目にかかりたいです。
永嶋さん 今日は。
さて、早速ですが、お家の永嶋さんの7祖のご先祖、又はルーツと成る方の戒名の件ですが、菩提寺があると云われる地域が何処の事を仰っているのかが判りません。(7祖とは何ですか)
何度も申し上げている様に「菩提寺」の定義が違っている様ですね。
「菩提寺」は結城にしかありませんよ。先日提供されていたお寺は菩提寺ではありません。ただの浄土宗寺です。御家とは何の関係もありませんよ。
何度も云いますが、檀家寺は越前の真宗にしか無く、現在のお住まいの地域の寺は浄土宗にしろ真宗にしろ檀家寺ですよ。
どうも何度もお答えしましたが筆者のお答えを読んで頂いていない様に思います。
越前域を云われるのか、現在の地域を云われるのか、昔の下総結城を云われるのかが良く判りません。そもそもお家の菩提寺(結城)は一つしかありません。結城です。
この菩提寺は永嶋氏の浄土宗の菩提寺にしかありません。それは永嶋氏の発祥地と成るところですが、永嶋氏の本来の菩提寺は現在の茨城県の結城地域にある筈です。
それ以外の浄土宗寺には7祖と云われる人の戒名はありませんよ。
前回のお便りからすると、越前の地域で、その「7祖」と云われる方が江戸時代に住まわれていたとの事ですので、それをベースにお答えします。
その時の宗派は越前の浄土真宗との事ですので、その7祖の戒名は越前域にしかありません。
従って、菩提寺ではありませんし、真宗ですので、「人別帳」の可能性がありますので、果たして戒名の存在はあるかは確かではありません。
真宗の場合は菩提寺ではありませんので、戒名は必ずしもあるとは限りません。
戒名はこれは有料で、より高い布施をすれば、より高い「院殿居士」の付いた戒名に成ります。
真宗では何もしなければ「俗名の上にシャク」のものを附けてくれます。
(先日のお便りの様にあった方の様に俗名の上にシャクが附けられています。)
越前域の真宗寺の檀家寺に無いとすると、それは戒名は無い事に成ります。
現在のお住まいの地域は明治3年以降ですので、そして現在も真宗との事ですが、そこには菩提寺はもとより戒名もありませんが、これも戒名を附けてもらうお布施の如何と思います。
ここでは「7祖」の方のものはありません。
ただ「7祖」より遡った方のルーツは結城と成りますので、そのご先祖の方の菩提寺は前回お答えしたお寺にある可能性があります。然し、記録は焼失している可能性が高いと思います。
越前での「7祖」の方は浄土真宗であったとの事ですから、其処にそのお寺から貰った何らかの形の戒名がある筈です。それ以前のご先祖は恐らくは前回のお答え通り結城地域に成りますが、結城の永嶋氏は当然に38の枝葉に分家と分流をしていますので、これにはお家からの何の情報も有りませんで判りません。
(分家と大工と家紋と真宗と越前と氏名だけの情報で、 戒名は永嶋氏の中で更に個人域の事ですので到底この情報では青木氏族とは言えど青木氏の青木氏サイトでは判りません。永嶋氏の38氏もある中で戒名とその寺の確定はこの情報では個人情報を大変気にしておられるので無理です。38氏の浄土宗の菩提寺があると云う事です。)
その大元のルーツの結城では前回お答えしました。
お答えは、依ってお家の7祖の戒名は越前の浄土宗にはありません。
お家からの何の情報提供も有りませんので、地域の浄土宗のご紹介は不可能ですし、戒名の探求の意味がありません。
何はともあれ、結城以外は浄土宗では無理ですよ。
以上です。
現在の浄土宗寺はインターネットでも判るはずですよ。
では、又、お便りください。
福管理人さん、
先日提供した菩提寺についてですが、
本来の七祖の戒名を探したいので、
もし、当該の地で関係する本来の浄土宗をご存知でしたらお知らせ下さい。
永島(永嶋)
福管理人さん、
菩提寺情報です。
本来の宗派が浄土宗ならば、首都圏であれば、芝の増上寺もあるので、
本来の宗派を戻してもよいと思います。
論文はあたったところをを読んでいるので、実際はつまみぐい状態です。
1冊の本にまとまるとよいのですが。。。
永島(永嶋)
P.S 非公開部分を削除しました。
永嶋さん 今日は。
早速、お答えを読んで頂きましたか。
何とか ”永嶋さん”を正しくご理解頂く為に、熱が入りました。
又、改めてゆっくりと、お読みください。先祖の深意も読み取れる事になりますので、其処で、先祖の生き様が読み取れます。
青木氏族としても良く似た生き様であった筈ですから、青木氏の論文をお読みください。
矢張り、お答えの通りの検証結果でしたね。
お便りのご推察の通りです。
お家のご先祖の地は間違い無く結城です。ご先祖の結城の歴史は、一度、京平家に奪われますが、平安末期ギリギリに秀郷宗家を荷っていた第5代目朝光と云うご先祖が奪い返します。
その後に出来た頼朝の鎌倉幕府に合力し、この秀郷一門の藤原氏の旧領地を本領安堵して正式に下総結城も戻りました。
ここは秀郷の一門の下総の領地で永嶋氏の故郷です。
ところが、この先祖伝来の旧領の結城に戻った藤原秀郷の一門の「朝光」は、氏名を「結城氏」として名乗りますが、途中の13代目の「行長」の代の間に「酒井氏」を名乗ります。
ところが、何故、この「酒井氏」を名乗ったのか理由が歴史上でこれを物語る記録は無いのです。
更に、ところが、秀郷13代目になって今度は「永嶋氏」を名乗ったのです。
この時、この永嶋氏の主流は次ぎの2流から成っています。
佐野氏族永嶋氏と結城氏族永嶋氏の2つに分流しているのです。
佐野氏族の永嶋氏は下野国の佐野庄の出自です。
結城氏族の永嶋氏は下総国の結城庄と成ります。
そもそも、一門の佐野氏は藤原氏の中でも古く、先ず秀郷一門の末裔は、4代目で2流に分流し「兼光」と「文行」に分かれます。
青木氏族はこの兼光系です。この兼光流は更に「兼行」と「行尊」との2つに分流します。
この「兼行」の秀郷8代目の「成俊」が佐野氏の元祖です。
「行尊ルーツ」の秀郷8代目の朝光が平家より取り戻して先ず結城を名乗ります。
そして、この結城氏の末裔が「兼光」の佐野氏の跡目に入ります。
その後に、その末裔が故郷の結城の永嶋氏の氏名を採って「佐野族永嶋氏」を名乗った事に成ります。
これが後に永嶋−長嶋氏を名乗ったと観られます。
(記録が永嶋氏と長嶋氏とが混乱している様子です。)
次ぎは、結城の本領にいた結城氏はその後に「酒井氏」と名乗り、その後に永嶋氏を名乗りました。
ところが、上記した様にこの結城は京平家に下総全体を奪われましたので、この時、秀郷一門は下総から伝来の結城からも追い出されたます。
この結城氏は、茨城に移動して酒井氏を一時名乗りますが、再び平安末期に朝光が京平家を追い出してこの結城を奪い返したのです。
その後に、結城に戻った秀郷13代目の「行長」が始めて永嶋氏を名乗ったのです。
同じ兼行のルーツで秀郷8代目で「成俊」と「有綱」に分流します。
「有綱流」が永嶋氏の13代目の「行長」です。
「成俊流」で秀郷16代目の「行久」が青木氏の跡目に入ります。
(ここで、相互に同族の跡目血縁する)
参考に「兼行」の子の「考綱」が青木氏族の「長沼氏」を継承します。
ここから、2流の結城永嶋氏が発祥したのです。
然し、何故に永嶋氏なのかは判っていません。
他の主要氏「佐野」と「長沼」は全て地名からですが、「永嶋氏」も地名と考えられるのですが。
「結城−酒井−永嶋」の経緯が解らないのです。この間の一切の資料が不思議に無いのです。
「京平氏」との争いで無くした可能性があり、それだけに戦いが激しかった事が云えます。
従って、結城にある菩提寺も焼失の可能性があります。
結城を奪われたのですから、結城氏の菩提寺を京平氏が遺す事は無い筈です。
(京平家がこの下総と上総を奪い、更に奪い返される事に特に留意して置いてください。お家の家紋と京平氏の末裔の織田氏の家紋との類似の由来の原因が判るのです。)
つまり、お家の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」の流れは、この本流の結城氏族永嶋氏であるのですが、佐野氏族にはこの家紋はありません。
従って、間違い無く、菩提寺はこの結城付近の浄土宗寺に必ずあります。或いはあった筈です。
(下総結城は現在は茨城県の西域で埼玉東と千葉北域の3県に挟まれた地域で、下総結城と常陸結城がありましたが、下総結城が奪われた時に常陸に一部移したのです。常陸結城は海よりにあった。)
其処で調査しました以前の結果では幾つかあるのですが、その中でも、この経緯と家紋から観て最も古い寺(1185年から1285年)と成る筈です。この寺に該当する寺は2寺になります。
そもそも、浄土宗は「知恩院系」(法然)と「清水寺系」)(坂上田村麻呂)があります。
この内、密教系は知恩院(開祖 法然)系です。
この条件に合致するのは茨城県の現在の「境町」の「西光寺」(全国にある秀郷一門の定住地に多くある寺 各地に菩提寺を建立)と、結城市の隣域東にある「報告寺」です。
然し、情報の当時の確認が取れません。筆者はこの「西光寺」ではと見ています。
これには、根拠があります。
この秀郷一門の定住地の寺「西光寺」(菩提寺らしい)と同じであるのですが、この全国にある「西光寺グループ」のリストの中にこの「結城境町の西光寺」は無いのです。
そしてこの寺にHPも無いのは不思議です。
つまり、「結城−酒井−永嶋」の記録が無い事に原因している事に成ります。
「京平氏」との戦いで「結城の西光寺」は焼失して、暫くの間、リストから末梢されていたと考えられます。
その後に、永嶋氏に依って再び再興されたものではないかと観られます。
この間に結城より東域の離れた地域に1281年に「報告寺」が建立されているのです。
結城の「境町の西光寺」は詳細は解らないのです。
(朝光が結城を奪い返した時期は1180年から1185年)
この「報告寺」の創建年代と寺名が気に成ります。
この結城の現在の「境」と「酒井氏」の酒井は同じではないかと推測されます。
この結城の「境町の西光寺」は、酒井氏の時に建立し、「報告寺」は、結城奪還から約100年後に創建ですから、明らかに永嶋氏が建立した事に成ります。
この永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれる様に大勢力をもったのは、このほぼ100年後でありますから、この「西光寺と報告寺」は酒井氏と永嶋氏の建立と成ります。
「酒井氏が西光寺」、「永嶋氏が報告寺」の使い分けをしていたかは判りませんが、「西光寺−報告寺」との間に、「関東屋形」の呼称に成る前には少し時間(50年程度)が掛かっていますから、この間に「永嶋氏の呼称変更」があった事に成ります。
とすると、何れもが「結城永嶋氏の寺」と成ります。
つまり、1180年から1380年の事と成りますので時代考証は問題ない事に成ります。
(この「西光寺」の呼称は青木氏族のある慣習から来ている事が判るのです。)
実は、この永嶋氏に成った時に2流(10代目−11代目)に分流しているのです。
後に、この分家(祐広)が秀郷一門の旧領の陸奥に移動して勢力を拡大します。(陸奥結城氏)
丁度、中間ですので「本家」(広綱)筋と「分家」筋(結城を護っていた筈)の使い分けをしていた可能性があるのです。
お家の家紋から本家側の流れの永嶋氏です。
本所の結城の境町の「西光寺」は本家流、「報告寺」は分家流と成る筈です。
(その後に、この分家は陸奥に移動して旧来の地である事から陸奥結城氏を名乗ります。)
依って、筆者はこの経緯から最終は何れも、「西光寺」と「報告寺」が永嶋氏本流の管理下に成ったと見られ、何れも正しい事として検証しています。(結城は陸奥に移動したから)
(他氏が永嶋氏の領地の中に勝手に他氏の寺を建てる事は無い。江戸期まで。)
資料が遺されていないので、この「2つの寺」に遺されてあるかは疑問です。
この寺にも無いから資料が無いのでしょうし、「西光寺グループ」にも記載されていないのはこのグループに入れる証拠がこの寺に無い事を意味していると観ます。
(此処までが青木氏からの限界の研究結果でした。これ以後は永嶋氏の詳細履歴の焼失で判りません。)
先ず、その時の為に、文政9年のご先祖の「通名」が何であるかを把握してください。
(この間に追伸が有りましたが、真宗は密教ではありませんので、過去帳はありません。
人別帳ですから、戒名で記載して居る可能性は少ないのです。人別帳はその時の信者の事しか記載が無いのです。文政では最早、お家には永嶋氏の「通名」は無かったようですね)
俗名(戒名に読み込んでいる筈)の前か後ろに付けられた漢字、例えば、行か綱か政か公か秀などの漢字ですが、結城の菩提寺頼みに成りますね。
(今後の確認 参考この漢字のご先祖が居る事で大方は結城地域の浄土宗の菩提寺かの把握出来ます。先ず、密教系かの確認、この寺の創建年代の確認、長嶋氏の過去帳の有無(現在は密教では無く成って居るので他氏のも檀家寺と成っている)で比較的に簡単に判ると思います。
古ければ古いほど良いのですが。最低で取り戻した時に立て直して居る事から1100年から1380年前後の建立期と成ります。)
筆者は、落ちの越前の移動経緯は、この室町期1380年頃に秀郷流青木氏の指示の元に結城永嶋氏に対して越前の浄土宗か神明系社の建設、維持管理に長期出向を依頼したと考えています。
そして、その後に血縁して定住したお家の永嶋氏はこの域の青木氏の寺社の維持管理を務めたと観ています。
この「越前の3県」に青木氏は奈良期から戦乱などで一族が逃げ込む退避地を作って保護していたのです。この為にこの保護する寺社を建立していた地域なのです。
そして、この一族を立ち直る為に商いをさせていたのです。
実は、青木氏は1025年頃から「2足の草鞋策」で紙等を製造から販売をしていた大豪商です。
今で云う「総合商社」です。この商いを通して越前の逃避した青木氏の生活の面倒を観ていたのです。
ここには商いの青木氏が多いのです。
この「総合商社」が武力を使わずに信長に丸山の戦いで勝利します。(信長の唯一の実質敗戦)
”徳川時代の檀家制度以前の宗派はどこで、古い人たちの系図はどこにあるのか?”
上記の通りですが、この疑問は、宗派秀郷一門であるので、宗派は氏家制度の中での決り事ですので、一家が勝手な事は出来ません。浄土宗以外にはありませんし、密教系の浄土宗寺と限定されます。永嶋氏の大系図は筆者が把握していますが菩提寺が見付かれば判ります。
結城の永島氏一族独善の菩提寺にあります。
前回のお答え通りで奈良期からの由緒ある密教の氏である限りは宗家の慣習に従う以外に生きて行く道はありません。依って、地域と浄土宗と密教以外に選択の余地はありません。
一つあるこの様な事件がありました。中部地方のある青木氏族がこの禁令を破り、勝手に曹洞宗に改宗して仕舞ったのです。歴史ある菩提寺まで改宗すると云う破天荒な行動を採った者がいます。
この者は直に本家でありながら一族一門から排斥され潰されて仕舞いました。
「氏家制度」である限りその伝統を本家の者であったとしても潰される仕組みなのです。
宗派の選択の自由はありません。密教系浄土宗で結城に無ければ成らないのです。
依って、古い人達の系図の疑問は、この寺にしかありません。
「氏」である限りは個人が系図系譜を維持管理していません。全て密教のこの寺か守護神の神社かに保管維持管理されて入るのです。
昔は全ての氏の事件性も含む記録は菩提寺の寺が主体として維持管理していたのです。
姓族は菩提寺と密教のこの仕組みがありませんので本来は系譜と系図関係の記録は無いのです。
ですから、系譜を敢えて作ろうとすると自作の搾取の系譜以外には手段が無いのです。
元々、過去に遡ると「姓」を持って居なかったし、その概念も姓族には無かったのです。
独自の寺もなかったのですから原則作れないのです。
況して其処まで情報のある社会ではありませんでした。依って、姓族の系譜類の記録は100%搾取なのです。その「氏か姓」かが判れば直ぐに判断が付きます。
お家は、秀郷一門永嶋氏です。況して、慣習、仕来り、掟に縛られた青木氏族です。勝手な事は出来ません。その氏には膨大な配下を民の段階まで抱えた組織の氏の長であるのです。
勝手な事は出来ません。すれば組織から直に追放です。むしろ、伝統を護らせる立場にあったのです。
況して、五つ木瓜唐花紋です。ゼネコン関係の組織を配下にした日本一の由緒ある大氏なのです。
勝手に、あちらこちらに自分勝手な宗派、寺、神社などを作る事はできる訳が無いのです。
許可がいるのです。、朝廷か幕府の許可が必要です。
そもそも寺社の建設は特定の氏にしか認められていませんでした。
これは江戸時代末期まで護られました。江戸時代は氏の確定では無く、届け出ての認可でしたが、室町期中期までは朝臣族系と宿禰族系の特定の氏にしか認めていませんでした。
青木氏族は朝臣族ですのでこの権利を有していたのです。
ですから、あちらこちらでは無く、誰でも出は無く、結城で、密教系の浄土宗寺であるのです。
故に、「五つ木瓜唐花紋」の氏の菩提寺は必ず結城付近にある筈です。
(第2次大戦で焼失の可能性もある)
結城付近の浄土宗寺と成れば限られてきます。何故ならば、ゼネコンの大組織を配下に治めて居るのです。配下の者が存在した地域になくては成らないのです。
氏上の寺が配下の者の寺でもあるのですから。12家紋/38の組織を率いている五つ木瓜唐花紋族なのです。
前回のお答えにも書きました「結城」の意味からも此処にしかない筈です。
お家の藤原一門の秀郷から13代目の行長が元祖として永嶋氏を名乗りますが、幼名は小四郎で伊予守を拝命していました。
永嶋と長嶋はその各地5地域に分布した末裔永嶋氏の違いで区別しています。おおまかには三重までの西域は長嶋氏、東域は永嶋氏です。どちらも同族です。系譜の区別はありません。
従って、お家は文政期の過去帳をお持ちとすると、間違い無く関東の結城の永嶋氏である事が判ります。兎も角も、”氏家制度の社会で氏族だ”と云う事を認識ください。
後継ぎの件では、お家は絶えると云う前提ではまだありませんよ。
娘に養子を採り養子に一代で子供が生まれれば、その子供が跡目に入り、お家の永嶋氏は元の状態で継承して行く事は可能です。真宗での文政期の過去帳が遺されている事は必ず越前の3県を中心に越後付近にもお家の越後の末裔はある事を意味しています。恐らくは歴史的経緯から越後か越後より付近にあると思います。家紋通りの「大工の棟梁」と「真宗」の事ですので、あると思います。
大元は「結城と浄土宗」(青木氏からの研究結果の情報は下記)と成りますね。
さて、伊勢神宮や神明社のところまでお読みに成ったのですね。
ご先祖を理解する上では、歴史雑学が必要です。特に、我々青木氏族はその慣習や仕来りや掟を以って生きて来ていますので、先祖の生き様は他氏の「姓族」とは大きく異なる処です。
それだけに面白いですよ。信頼できる歴史記録もそれだけに遺されて居ますからね。
本当の「先祖の生き様」が目に映る様に観えるのですからね。
恐らくは、「青木氏の守護神(神明社)」の論文の中で、この神明社の建設には「特別賜姓族青木氏の職能集団」とは、お家の「永嶋氏の五つ木瓜唐花族」とその「配下の集団」とが関わっていた事は明白です。「秀郷流青木氏特別賜姓族の青木氏」にもこの「五つ木瓜唐花紋の青木氏」があります。あると云う事は同族重複血縁していた事を意味します。
これは職能に依る永嶋氏との同族血縁をしていた事を示します。
(同族血縁はこの時代の朝臣族の常識的慣習)
「皇族賜姓族青木氏の職能集団」もはっきりと遺されていますので、この「2つの職能集団」が関っていた事に成るのです。
それだけに、この論文を投稿終了した直後にお家のお便りがあったのは何かの縁です。驚きました。
実は、この事は既にこの論文、「青木氏の守護神(神明社)」にも論じていたのですが、タイミングが良すぎますね。
この論文の越前の3県には奈良期から「青木氏の戦略的退避地」があり、寺と神社を一番多く建設して一族の保護をする組織があったのです。それを構築した建設に関わった青木氏と青木氏族が必ず居ると研究調査で判っていました。
その証拠があるのですが、現存する「青木氏族」の「五つ木瓜唐花紋族の永嶋氏」の確認が出来て居なかったのです。その事が真に偶然にもお便りを頂きました。
お便りを頂いた時は、”もしかして”と思いました。
そして、お家が越前の大工さんの家系である事のお便りを頂きました。
故に、熱が特別に入りました。
さて、その研究論文の内容の一部が、実は織田木瓜とお家の五つ木瓜唐花紋が類似する所以がここにあるのです。
「青木氏の守護神(神明社)」の論文ではこの関係に於いて論文が余り長すぎる事に成り、削除を余儀なくされた部分なのです。
簡単には述べて居るのですが、何の縁か判りませんが投稿完了の1月後にお家のお便りがありました。お家では ”何にかの拍子で繋がった”と書かれていましたが、ヤフーHPサイト側に正式投稿が完了した途端に、偶然にも関係族の今回のお家のお便りを頂きました。
何かの縁ですので、早速その部分をここに一部を戻します。
そもそも、織田氏の経緯とそのルーツに関する事は論文に論じていますが、先ずは概容を述べます。
「織田氏」は「京平氏」、又は、「桓武平氏」、又は「伊勢平氏」と呼ばれる末裔です。その証拠は最近一民家から発見された織田氏の平安期末期までのルーツ資料を辿れば判ります。
この末裔の京平氏は関東の下総、上総、常陸付近を勢力基盤として移動定住していた勢力です。
然し、平安末期ころからこの平氏も衰弱して戦いが弱くなりました。其処で、この下総、上総、常陸を勢力の基盤としていた藤原秀郷一門は奪われた旧来の土地の奪回に掛かります。
そして、次第に取り戻します。この時、結城も京平氏から奪い変えしたのです。
「京平氏」は東関東では結局は堪え切れなくなり、又、争いの事件を各地で起した事から訴えられ朝廷よりこの一体の管理権を剥奪されて、京の地元域に戻る様に命じられて仕舞います。
其処で、この「京平氏」は勢力圏の際端の東域(岐阜・愛知)まで引き上げます。
此処が昔は「勢力の緩衝地帯」として呼ばれ、源氏一門の中央域、藤原秀郷一門の際西域、京平家の東端域で「勢力の坩堝」と呼称されていた地域であります。
非常に一触即発の微妙な緩衝地帯であったのです。其処に「下総の京平氏勢力」が戦略を何とか維持する為に此処に留まったのです。
後の上総や常陸の勢力は関西以西に退きました。
当然に、微妙な勢力のバランスが狂い始め、遂に源平の戦いの口火がここで切られたのです。
初戦と初期の形勢の戦いは「京平氏」が勝利し、この時、近江源氏、美濃源氏、尾張源氏、駿河源氏のこの一帯の源氏は完全に滅亡します。
しかし、未だこの地域には藤原一門が無傷で残っています。
ところが、京平家側の形勢が次第に狂い始め、源平の戦いの初期戦はこの美濃の「富士見川の戦い」と成ります。各地の源平勢力がこの美濃に集結します。そして、京平氏は惨敗します。
この時、この京平氏の敗残兵は美濃の山岳地帯に逃げ延びます。
源平は「以仁王の乱」(1180年)を境に源氏の頼朝側が無傷の関東の藤原勢力を背景に戦いを挑みます。
この「京平氏の敗残兵」は、美濃山岳地帯で「農民」をし、物を造りの「職能民」、時には「農兵」と成り戦いを請け負いながら生き延びます。
其処で、この末裔は、下総にいた平氏の支配下にあった一族の農民や職農民で、元は瀬戸内に居た「職農民」の者達でした。この者達も主家に従って美濃に来ていたのです。
この時、下総でこの「職農民」と「京平家の下級武士」は結城の藤原氏の土木建設等の仕事を通じて技量を高めて土木建設の「物造り」を覚えました。
この糧を通じて美濃の山岳部で生き延びたのです。
ところが、各地にこの者達は時には「農兵」となって「戦いの兵力」として請け負いながら、この京平氏の生き延びた庶流末裔は仕官先を探していたのです。
そして、遂に陸奥斯波氏の足利氏が勢力を得てこの京平氏の庶流末裔を家臣とします。
この時には同時に「浅井氏」と「朝倉氏」なども仕官したのです。
(朝倉氏もこの「朝倉木瓜」と呼ばれる家紋です。 朝倉氏と浅井氏も斯波氏足利氏に織田氏より早く仕官し出世した。)
この斯波氏の家臣仕官と成った「下級武士と職農民」から成る京平氏の所流末裔は出世して家紋を持ちます。
この時に、この京平氏の庶流末裔の織田氏は、2流に分流して勢力争いを起こします。
遂には、「本流側」が負けて「職農民」の武士と成った側が生き残るのです。
そして、上記で書いた様に、下総で世話に成った結城の「五つ木瓜唐花紋」に似せた紋を家紋と定めたのです。
(家紋が定まる経緯は判っているのですが、安土城焼失で家紋決定の正式記録は発見されていない。藤原秀郷一門の永嶋氏の五つ木瓜唐花紋の方が250年程度前 一説では結城永嶋氏の分家筋が本家の足利氏の家臣に成った事があるが、この時の永嶋氏の五つ木瓜唐花紋の類似家紋を織田氏の職能種から斯波氏が与えたとする説で、だから、朝倉氏にも類似木瓜紋を与えたとする説です。)
この家紋決定に及ぶ前に別の家紋を使われていたと観られる形跡があるのですが、出世して尾張守護代に成った直前に定められた形跡があります。
つまり、同じでは藤原氏と成るのでは、苦手な藤原氏と問題が起るので、そこで「唐花の先端部」を変更したのです。
これが更に出世して尾張代官と成り遂に斯波氏を潰し守護代と成って出世します。
これが織田木瓜の家紋の由来なのです。
だから、その後、信長に成った時に配下に元からの優秀な職能武士(職農民)とその配下が居た事から「城造りの名人」と言われた所以となったのです。
これ等の事は発見された記録から判ったのです。
もとより、此処は美濃域伊勢よりには伊勢長嶋氏が定住しているところです。
この永嶋氏の五つ木瓜唐花紋と織田木瓜紋には歴史的にこの様な家紋関係があったのです。
以上の雑学も参考にして下さい。
追伸を頂きましたので、お便りを追記します。
> 昨年放送されたNHK「さかのぼり日本史」、平安藤原氏。よくよく考えてみると、
> 鎌倉幕府も、結局、藤原北家にのっとられたんですね。
現地の神明社の変遷ですね。
ありがとう御座います。
承知しています。
「青木氏の守護神(神明社)」でも詳しく論じています。
青木氏族ですが、秀郷一門のお家は永嶋氏ですので、春日社ですよ。
何はともあれ、主要5氏の内青木氏族の永嶋氏は青木氏と最も同族血縁関係を持っています。
青木氏=永嶋氏とも云っても過言ではありません。家紋類を見れば良く判ります。
それ故に、お家の事は青木氏を理解する事で大方は判る筈ですよ。
残念ながら、永嶋サイトの歴史カテゴリーがありませんが、青木サイトで充分ですね。
記録が多く遺されている筈ですが、研究した論文はありませんね。
不思議ですね。
NHKの放送は承知しています。
秀郷一門361氏とその配下組織は、平安期の朝廷も鎌倉幕府も実権は握っていませんでしたが、この勢力を無視する事は出来なかったのです。幕府も微妙な上に経っていたのです。
足利幕府もこの勢力基盤の上に成り立っていたのです。(庶流を名乗る藤原氏は殆ど未勘氏族です)
そして、信長と豊臣政権は関東に全く手が出ず、徳川氏をその地に送り込んだ事が命とりに成ったのです。
徳川氏はこの秀郷一門を最大家臣団にした事から全国24地方に秀郷一門の勢力を持っている一門を利用して大名の周囲を包囲する戦略を採ったのです。これでは謀反が起こりません。
藤原一門を取り込んだ為政者が安定政権を造り上げられたのです。
夫々の歴史の幕府はこの秀郷一門の勢力との関り具合が弱かったのです。
然し、この事を地元で知って居る家康はこのポイントを見逃さなかったのです。
実は、九州にも永嶋氏と長嶋氏と長島氏の末裔が広がっているのですよ。
大蔵氏系永嶋氏、大蔵氏系肝付氏族永嶋氏と長嶋氏、肝付氏系長島氏があるのです。
掲示板にはお便りも頂いていますよ。一度お読みください。
藤原秀郷一門の中でも青木氏族の歴史を知らないと正しく歴史を観る事は出来ません。
実は筆者はNHKに3度、時代考証が間違って居るので投書して一つは、”その時歴史が動いた”で作家が訂正し直すなどの事がありました。
江戸時代の時代劇の中で、家臣の羽織の家紋を良く観ていてください。お家の家紋が良く出てきますよ。
若干、ドラマの中の家紋などの考証が良く間違っていますが。特に丸付き紋の使い方が間違っていますね。
続けて、追伸がありました。
永島氏の調査は電話帳ではありませんで室町期中期の資料から研究しています。
電話帳は現在ですので、ルーツは辿れません。明治期の苗字令のものしかありません。
歴史的には信頼できません。ルーツは「江戸中期前」で無いと無理です。
浄土真宗に付いても前回に説明していますが過去帳はありませんよ。人別帳のその時点での記録です。
前回のお答えの通り密教系の浄土宗で無ければ無理です。
上記にお家の菩提寺と観られるお寺を紹介しましたので参考にしてください。
浄土真宗は菩提寺ではありません。檀家寺です。菩提寺の定義は前回に詳しくお答えしていますのでもう一度お読みください。
では、又お便りをお待ちしています。
昨年放送されたNHK「さかのぼり日本史」、平安藤原氏。よくよく考えてみると、
鎌倉幕府も、結局、藤原北家にのっとられたんですね。
永島(永嶋)
P.S. 非公開部分が公開されていましたので、削除しました
管理人さん、詳しい内容で、読むのが大変です。
まずは、今更ながら、「氏(うじ)」の意味が分かりました。
福管理人さんの言われるように、本来の宗派は真宗でないことは明白ですね。
宗派についてですが、北陸三県はご存知のように浄土真宗王国です。
現存する戸籍で家系図をおこしましたが、文政9年(1825)年以降の戸主まで
あり、戒名(真宗は法名)は真宗形式になっています。それ以前の戒名がお寺にないのは、
そういうことが理由かもしれません。では、徳川時代の檀家制度以前の宗派はどこで、
古い人たちの系図はどこにあるのか?というのが興味あるところです。
真宗の墓は「南無阿弥陀仏」の為、当地では家紋を墓石に入れないようですので、
家紋の持つ意味が薄れているのも事実です。
しかし、家紋の掟を読んでいたら、跡継ぎのいない家や女子だけ残った家についても
あったので、当時、本当によく考えられていたのも驚きです。
こう史実がわかると、、
伊勢神宮、神明社、新橋烏丸神社、西早稲田にあるお寺も藤原秀郷が関係していたようなので
古いご先祖様達尽力されたところが大きいところで、神頼みできるところがあることは、
この大派閥の「青木氏」グループのいいことですね。
サイトにあるお誕生日な青木さんには入れないので、
青木氏主要五氏のグループもあったらいいなぁ〜と思います。
永島(永嶋)
永嶋さん 今日は。
お答えをお読みいただけましたか。ありがとう御座います。
そうですか、20年も掛かりましたか。それは大変でしたね。
然し、もう大丈夫です。どんな事でも永嶋氏の事は青木氏族ですから、全国の青木さんが集う青木氏のサイトでバックアップしますよ。
”888”は本当にいいですね。
然し、”変な検索ワード”では、何かの奇遇で青木氏が迷う「青木氏族の永嶋さん」をこの親族が集う古巣に呼び寄せたのですね。そう云う事はありますよね。
さて、先ずは、ご先祖は”越前”との事ですが、実はこれはお家のルーツを物語る大変な情報なのです。
越後を基点として越前の北側域までこの秀郷一門がこの地域を勢力圏として抑えていたのです。
特に越後には秀郷流特別賜姓族の青木氏が、根拠地あり、ここで ”おーい 青木さん”と叫んだら、周囲で ”はーい”と一斉に応える程に多いところで青木村があるのです。
(青木氏は「氏名」村名に付けて「青木村」を形成できる特別の権利を有する氏で、 永嶋氏も役職名を村名として着ける事を許された氏です。普通は地名以外に奈良期から村名を付けては成らない慣習令と成っているのです。)
当然にお家も一族ですから越前を江戸期頃の定住地として見ますと、永嶋氏も関東の千葉の「結城」から赴任して来ている事は充分に考えられます。
普通は定着し続けると「国抜けの大罪」に成りますので、2から4年の一定の期間を経ると領国に帰ります。然し、現地の土豪との血縁関係を結んだ場合はその者の末裔はその地に残る事が許されます。
(秀郷一門の戦略として24の赴任地の地域に現地との血縁族を積極的に作り赴任地に末裔を遺して勢力圏を広げる正式な戦略を採っていたのです。中には「戦地妻」と云う高級武家の仕来りで子孫を現地に残す正式な慣習があったのです。)
江戸末期までは「国抜け」と云って許可無く勝手に移動できず、これを犯した場合は一族全員が内首の刑に処せられるのです。武家が赴任地の当地の土豪などと血縁した場合はその血縁した者の末裔は定住を届ける事により許されるシステムであったのです。
恐らくは、お家が江戸期からこの越前地域に定住していたとするならば、この地に残留した永嶋氏である事に成ります。秀郷一門の主要5氏と家紋群主要8氏はこの方式を積極的に採ったのです。
むしろ義務の様な「慣習、仕来り、掟」であったのです。
故に、「永嶋氏の五つ木瓜唐花紋」の永嶋氏(青木氏の「五つ木瓜唐花紋」もある)が越前に存在するのです。ですから、親族である「青木氏族」の「青木氏の五つ木瓜唐花紋」もこの越前より北域越後よりに定住しているのです。現在も多くこれが何よりの証拠です。
ですから、越前には「五つ木瓜唐花紋」の名門中の名門の永嶋さんは少ないのであって、主要5氏の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」が越前に何処でも観られる事そのものの事態がおかしい事なのです。
結城から越前に移動定住した永嶋氏である事が「越前」と云う特定の定住地の地名でも判ります。
秀郷一門の定住地24地域外であれば疑問なのですが、地域としては一致しています。
だから、丸付き紋なのです。
何故ならば、「五つ木瓜唐花紋」では本家筋ですが、現地に残す子孫は主に分家筋の役目であったのです。嫡男が本領の跡目を継ぐ必要から赴任地に残る訳には成らないからです。
従って、現地に末裔を遺す役目は嫡男外の者の積極的な務めであったのです。
この時は、赴任地には仮に「五つ木瓜唐花紋」の本家筋の者であっても、現地に残る者の末裔は「丸付きの家紋」とするのが「家紋掟の仕来り」であったのです。
もし、「丸付き紋」で無かったとすると本家筋の嫡子系の者が残った事を意味しますから、氏家制度の中での「家紋掟」から観ておかしいのです。
氏を絶やさない事が最大の「武家の役目」ですから、よほどの理由が無ければ現地に残すのは嫡子外の嗣子となるのです。
もし、あるとすると、この場合は本家から特別に「五つ木瓜唐花紋」の使用を何らかの理由で許されてた事を意味します。家紋は武家の象徴で氏家制度の家柄身分を物語る最大の手段であったのです。家紋使用は勝手には嗣子であるからと云って本家の許可が必要であったのです。
この「家紋と氏名」を観る事で身分、家柄、官位、官職、上下の事を即座に観て自分と比べて礼儀の作法を即座に採る仕組みであったのです。
”秀郷一門主要5氏の「永嶋氏の五つ木瓜唐花紋」”と成れば、大抵の他氏の武士は即座に礼の儀を尽くします。それだけの名門の家柄でした。当然に勢力も「関東屋形」と呼ばれる筆頭の永嶋氏ですから尚更であります。
次ぎに、織田氏家臣の件ですが、これはあり得ません。
何故ならば、秀郷一門は関東一円から中部地方伊勢地域までその勢力圏を伸ばしていたのです。
織田氏は京平家の名古屋付近の滅亡した平家の僅かに残された末裔末孫です。
「織田氏の勃興の経緯」から、関東を中心に勢力を張っていた藤原一門と対峙していて、その秀郷一紋の主要5氏の永嶋氏が織田氏の家臣に成る可能性は低いと観られます。
そもそも織田氏は室町期の勃興でこの時期は秀郷一門の中でも永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれる位に勢力を張っていたのです。もしこの時期に織田氏の家臣と成ったとして氏名と家紋の使用は一門から剥奪されて武士としての存在は否定されます。絶対的に「大きい氏」が「小さい姓」の家臣に成る根拠がありません。あったとしてもその時点で宗家より一族事如く抹殺で潰されます。それが氏家制度です。
先ず、家臣に成っても一族が食べて生きて行けません。
そして、そもそも、織田氏は史実この関東の主の秀郷一門に手が出せなかったのです。
幾ら織田氏でも先ず無理であったと考えられます。故に、信長に倒された武田氏の諏訪族青木氏や武田氏系青木氏等はこの秀郷一門の青木氏を頼って神奈川に庇護を求めて逃げ込んだのです。
全く信長はこの時も手を出せなかったのです。
その後はこの秀郷一門は徳川氏(松平氏 同じ地域の武士団)と手を組んで終局、徳川氏家臣団の上級家臣団としてそっくりと加わります。
この後は秀吉と徳川氏(背後に秀郷一門の軍団が関東に控えていた)との対抗と成りますが、秀吉が関東に手を出せ無かった理由の一つはこの「藤原氏の家臣団の存在」であったのです。
この中には「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」が控えていたのです。これは全国各地24地域に末孫が勢力を維持していた事から、この秀郷一門を敵に廻す事は全国各地から周囲と背後からの襲撃を食う恐れが強かったからなのです。
鎌倉期の時も、この秀郷一門を頼朝と北条氏は味方に引き入れたから10万の軍に成ったのです。
同じ戦略的な藤原一紋の存在から平家側は周囲からの脅威で動けなかったのです。
まして、越前の永嶋氏は尾張の織田氏では家臣の説は成り立ちません。未だ織田氏はこの時期、越前越後は秀郷一門の勢力下にあり上記の移動慣習からも成立ちません。
越前を制したのは秀吉の時期です。この時は越前域は青木紀伊守の青木伊賀守が秀吉に任されてこの地を抑えていたのです。
故に、家臣説は時代の経緯錯誤の説と成るのです。秀郷一門は徳川氏に味方したのです。だから家康は簡単に秀吉の配置換えの命令を受け入れたのです。むしろ、秀郷一門に護られる事の方が安全で秀吉から攻められる事は無かったからです。
”藤原北家(きたけ?)も歴史的に出てくるメジャーな人たちよりも早い時期の人のようですし”
このお考えかは少し違います。
藤原氏は北家(ほっけ)京家、式家、南家と云う流れがありまして、その中でも北家が他の家を倒して藤原氏を制したのです。その筆頭が秀郷一門です。
その勢力は衰える事無く江戸期末期まで続きます。
メジャーとする定義はどの範囲とするかは判りませんが、江戸末期までメジャー中のメジャーでありました。秀郷は960年代の人物ですが、その後には有名な人物が出てきます。平泉の栄華を誇った藤原氏はこの末裔ですよ。メジャーと呼ばれる歴史上の人物は全て室町期末期からの勃興氏ですから、同じメジャーとしても藤原氏北家筋の末裔は奈良期からの朝廷より氏として認められた1400年程度の悠久の歴史を持つ朝臣族なのです。「勃興氏の姓族」と「朝臣族の氏族」との違いを持っています。表に事件として出るを以ってメジャーとするのか、表に出ないかは何時の時代でも大した差ではありません。”現在は表に出る”がどんな事であろうと、メジャーとする論調には疑問です。
特に室町期末期までは永嶋氏が一門の最大勢力を張り、結局、秀吉との決戦に及び陸奥域から伊勢、愛知域の永嶋氏は滅亡し、関東域だけは一門に護られて残りました。歴史上の人物が永嶋氏からも出ていますよ。ただ外部性を前提として観ているから一般には知られていないだけの事です。
越前を制したのは秀吉ですが、この時に越前は破られましたが、幸い皇族賜姓族(秀郷一門と血縁関係にある青木氏)の青木氏がこの越前を任されましたので越前永嶋氏は無事であったのです。
そもそもこの皇族賜姓青木氏とは母方血縁族で縁者関係にあったからです。
そもそも「皇族賜姓族」とは、累代天皇第6位皇子が臣下して天皇を護る護衛集団で天皇から賜姓を受けた青木氏です。 この青木氏と特別にこの賜姓族と母方血縁族の秀郷一門の青木氏(始祖 千国)は天皇から青木氏の賜姓を受けた青木氏で「特別賜姓族青木氏」と呼ばれます。116氏あります。身分、家柄、官位官職の一切が最高位として同じに扱われました。
この青木氏は秀郷一門の全体を指揮していた「第2の宗家」と呼ばれます。この青木氏の血縁氏が38に氏に拡がった永嶋氏なのです。
「皇族賜姓族青木氏」との繋がりを持った永嶋氏で「青木氏族」と呼ばれる氏名の所以なのです。
その身分は「永代従四位下左衛門上尉」と云う最高身分で、これは公家と相当の身分で貴族に類する家柄身分なのです。
藤原氏は公家身分ですが、公家身分が全ての藤原氏に与えられるものではありません。
主に宗家筋に与えられますから、宗家外の場合は武家で通すしかないのです。秀郷はその意味で最初は「押領使の武家」(警察軍)であったのです。
そして、「平の将門の乱」は5年も続き誰も鎮める事が出来なかった時に、秀郷が乱を鎮める条件として「武蔵国の領国と公家貴族の身分」を条件として朝廷に出したのです。これが認められて後に武蔵と下野が与えられます。この時に貴族に成りましたので、「朝廷の決り」により武力は仕えませんので藤原氏を護る為に一族宗家の第3子がこの役目を担ったのです。
これが千国と云う秀郷の第3子が、天皇より青木氏の特別の賜姓を受けます。
青木氏は「嵯峨期の詔勅」で青木氏を如何なる他氏も使っては成らないとする禁令を発し、この2つの青木氏を犯しては成らないとする「不入不倫の権」を与えたのです。
これが明治初期まで護られます。依って藤原秀郷一門は最初は朝臣族の武家、朝臣族の貴族、朝臣族の公家と武家、この公家が衰退し最終はお家の様な朝臣族の武家が残ったのです。
特にこの永嶋氏は今で云えば、「日本一の総合ゼネコン企業」の職を持った氏で、奈良期からの「工頭」の職位を持っていたのです。その中でも、平安期の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」はこの首魁であったのです。
前回にもお答えしましたが、この家紋は唐の官吏の官位官職を示す紋と説明致しましたが、これが「工頭」(たくみのかみ)の家柄を示す家紋なのです。「五つ木瓜」の物を切り開いて作った形を断面にした文様の”切り開く”の語意から「工」(たくみ)の記しとし、それを司る官吏の「唐花の役職文様」とにしているのです。
そして、その先祖が生き続けた領国の千葉県の「結城地域の村名」の通り、”城を作る(結]”としているのです。これは「結城族」と呼ばれる「工族関係族」の呼称なのです。
そして、朝廷と幕府からその職位を奈良期から村名とする事の許可を得て「結城」と云う歴史ある由緒ある呼称と成っているのです。
もっと云えば、天智天皇と共に始祖の藤原鎌足は九州から飛鳥まで広域の一本直線道路を作り(現在の山陽幹線道路)、その道路に沿って情報信号と防護の城を築城したのがこの鎌足の子孫なのです。
現在この道路の発掘が成され、その技術の高さは現在の土木工学の原理を踏襲する技術の高さであった事が判っています。
それを受け継いだのが藤原氏の中でもその家紋が示す様に「永嶋氏」と成る流れの末裔であったのです。そして、その末裔と成るのが「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」なのです。江戸期までその職を引き継いだとされてます。
因みに、「永嶋氏38氏」の家紋にはこの工事関係族を示す家紋が他の藤原秀郷一門と違って沢山あるのです。12氏/38で全体の1/3に及びます。これらを永嶋氏は束ねていたのです。中でも唐花紋ですのでその総支配の立場にあった事が判ります。12氏は直接その仕事関係を文様にしています。故に、永嶋氏はその氏の仕事の財力で勢力を伸ばし生き残ったのです。
だから、むしろメジャー中のメジャーの氏なのです。
この永嶋氏の職種から観て、越前にはこの仕事で赴任して当地に定住した事が判ります。
何かの城か道路か堤防か池か家かの工事関係者の支配として赴任したと考えられるのです。
次ぎに永嶋氏と永島氏との違いを述べますと、「永嶋氏」の氏名は上記の通りですが、永島氏は明治3年の苗字令と8年の督奨励で国民の一般の8割の者が苗字を持っていませんでしたが、この時に使われた姓です。苗字は江戸末期まで武士階級だけに許された慣習ですが、この時にお家の永嶋氏の村民と成っていた配下の大工や農民や商人などの一般庶民が、領主や庄屋や名主や豪農や郷氏や郷士に肖って、この明治の苗字令の時に付けた姓です。遠慮して主家に憚って永嶋を永島としたのです。
むしろ、その支配者がその様にせよと命じた事も考えられます。
多くはこの様な工事関係者はこの支配の武家(主家・氏上)の指導に基づいて姓としたのです。
従って、秀郷一門の領民の殆どは一夜にして藤原姓や永島姓が出来たのです。特に関東域ではこの現象が起こりました。政府が故意的に指導して苗字促進を図ったのです。
然し、家紋だけはおこがましいので別のものにしたのです。庶民には当然に苗字が無い事から氏の履歴は作れませんので、依って寺の慣習は無かった事から宗派も違うものに成ったのです。
従って、庶民は菩提寺では無く、檀家寺の人別帳となりますが、永嶋氏は氏名がありますので系譜ができますので過去帳と成るのです。
ですから、「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」は「姓名」では無く「氏名」としては「永嶋氏」が正しい事に成ります。
先祖の上記に書いた意味がこれで異なってくる事に成りますね。戸籍が正しい氏の経緯を示しているのです。氏名と家紋はその意味でその「先祖の伝統の概容」を引き継いでいるものなのです。
伝統の無い「姓名」とは違うところです。
だから、現在でも「氏名」と「姓名」との二つの呼称が現在も残っているのです。
そして「庶民の永島」は「氏名」では無く、「姓名」と成りますのでもとより本質が違います。
氏と姓はここに違いがあるのです。もし、永島をお使いに成っている事は先祖の伝統を留めている事を意味します。
平安期からの永嶋氏は、たった全国に認定された40程度/8000しかなかった由緒氏の一つとして朝廷より認められた由緒ある「氏名」ですよ。「姓名」ではありません。
次ぎにこの家紋が余りに見かけないと書かれていますが、逆ですよ。
武家階級の多い地域、特に関東ではこの家紋は大変多い家紋ですよ。
江戸の時代劇をよーく見ていてください。羽織の両袖と背中に武士のこの紋どころが多いのです。
次ぎに家紋は平安末期から始まった習慣でして、もとは公家や高級武家 青木氏や藤原氏等の氏にしか使用は許されていませんでした。この時は家紋では無く象徴紋であったのです。
家紋になったのは、もっと後の鎌倉期から室町期に入って一挙に武士が増えて200程度の氏から室町期には800程度に増えて家紋としての慣習と成ったのです。
この室町期の末期頃から徐々に力の持った庶民が、武士と成って「姓」が増えて家紋が上級武士の間で流行したのです。殆どは江戸初期に家紋と姓を持った武士でした。
お家のこの「五つ木瓜唐花紋」は伝統ある由緒ある「象徴紋」からの物なのです。
だから、越前にはこの様な上級武家の少なかった地域であるから少ないのです。
次ぎは、織田氏と比較しての事ですが、織田氏は「姓氏」ですが、永嶋氏は「氏」です。
織田氏には永代の官位官職は全く先祖からありません。だから、信長はこの様な象徴や官位官職の権威を破壊したのです。
青木氏と青木氏族はその象徴中の象徴ですなので信長に攻められましたが、青木氏は信長の歴史の中でただ一つ戦いで破れたのは歴史上この青木氏だけなのです。
この事件は歴史上有名な事と成っていて、歌舞伎にも成っていますよ。だから関東には攻められなかったのです。信長は永嶋氏を勢力の筆頭とする藤原秀郷一門には。比べられない当時であれば拝謁出来ない位の身分家柄差であったのです。
そして、”旧家”では無く、”名籍・名跡”で意味をもっています。ただ古いだけではありません。
”本来の宗派も浄土宗だとか。(石〇県は真宗:私は納得してませんが)”の件ですが、本来は浄土宗ですがお答えは納得するべきです。
何故ならば、お家は「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」ですから、関東の本家筋に帰参すれば、間違い無く「密教浄土宗」ですが、ただここにも、「お家の仕来り」があったのです。
それは、お家の上記した永嶋氏の歴史から、「浄土宗」ではなく「浄土宗密教」の家柄なのです。
そもそも、「浄土宗」は次ぎの経緯を辿っています。
「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」−「密教浄土宗」−「浄土宗」−別部派「浄土真宗」の経緯を辿っています。
従って、藤原氏は青木氏とおなじく天智天皇期からの賜姓族ですから、浄土宗でもこの経緯を氏の教義として維持していたのです。
つまり、普通の浄土宗では無く「密教」なのです。
自分の氏だけの自分で建てて、維持管理する氏だけを祭る独善的な寺、即ち、「菩提寺」なのです。従って、一門が少ない越前には江戸期からいたとして、この「密教」とする永嶋氏の菩提寺の寺は越前には原則無い筈なのです。
あるとすると、それだけにお家の永嶋氏菩提寺を作るほどに多かった事を意味します。この様な時には周囲に永嶋さんがオーイと呼べばハーイと応える程長嶋さんが周囲にいて子孫を大きく広がっていた筈である事に成るのです。
秀郷一門の定住地は24地方とはっきりしていますので菩提寺はもとより密教派寺はお家の越前とする所には無いのです。
”そうするとどうするか”と云う事に成ります。
其処で藤原一門は24の地域に赴任していますが、其処には戦略的に子孫を遺しますから、菩提寺が無いと困ります。その為にこの時、別部派の「浄土真宗」に「仮入信」する方式を採ったのです。
この為に各地に藤原氏の一門が定住した地域には浄土真宗の藤原氏が存在するのです。
越前のどの付近かは判りませんが、越後の県境付近ではないとすると、真宗にしか入る事が出来なかったのです。宗家一門はこれを認めたのです。
だから、越前の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」としては先ず間違い無くこの真宗に成る事が考えられのです。むしろ、越前の西域では皇族賜姓族の青木氏が逃避地として定住していましたので浄土宗も考えられますが、永嶋氏の密教の菩提寺は無いと考えられます。
同時に、お住まいに周囲には「守護神の春日社」も無かった筈です。(越後よりにはあるが)
故に、時代考証からして、「浄土宗」では無く「真宗」がむしろ正しいのです。
領国に帰れば結城の浄土宗の密教菩提寺がありますよ。
そもそも、密教で無い「浄土宗」としたのは家康で、「浄土宗督奨令」を発して密教方式を外し、中級武士まで入信出来る浄土宗としたのです。明治以降は庶民も入信する宗派と成ります。
もし元に複するのであれば、浄土宗ですが、真宗でも問題は、別部派ですので、無い事に成ります。
むしろ、お便りの情報がお家の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」を証明する情報と成ります。
次ぎは神社の件ですが、菩提寺の密教と共に、藤原一門は春日神社が藤原氏の独自の守護神です。
越前の周囲に永嶋氏が多く住んでいたとするのであれば、定住していた地域には必ず春日神社がある筈です。そこがお家等の独自の守護神です。
これも藤原氏一門の特長です。多分、無いと思いますがお探しください。
あるとした場合に、周囲に他の秀郷一門の氏がある事に成りますが、事に依ってはその神社にお家の記録がのこっている可能性があります。真宗にはお家の記録がある事には、密教で無かった事からかなり古い人別帳があるとするならば別ですが、年数から焼失している可能性があり無理があると思います。
藤原秀郷一門の氏は全部で庶流を除いて361氏に成りますが、直ぐにその氏名で判ります。
ある一定の決りを付けて氏名を付けているのです。この氏名の決りに従っていた場合の一門の氏名が多ければ春日社はある事に成ります。密教菩提寺が無くてもそこがお家の守護紳の春日社です。
次ぎに、伝統に付いてのご意見ですが、本当にそうですね。これは本サイトの趣旨でもありますが、今やこの伝統には意味を持ちません。
然し、後世に「先祖の生き様」を伝える事には時代とは別に意味を持ちます。
そして、「分身である末裔」が何時かこの伝統の記録を読んでもらえるところにロマンが生まれます。
そのロマンの想起さえあれば、今自分の生きている「立ち所」が判り生きる意味も判ってもらえると考えられます。それが出来れば「先祖の役目」としては「分身の末裔」に伝えられます。
それで良いと私は考えます。時代はこの様に合理化し近代的に成れば成るほどにあらゆる「伝統」は消え去ります。これも必然です。然し、記録は遺すべきです。
青木氏のこのサイトの情報は膨大に成っているのは、奈良期からの先祖の生き様を遺して伝えるために管理人さんと共に運営しているものなのです。問題はこの記録が今までの時代にその努力が無かった事が問題であると考えます。
現在、歴史の少ないアメリカでも”先祖、ルーツの記録運動”が起こっているのです。
管理人さんは更に掘り下げて戦国時代の先祖の生き様をスポットして数サイトの別サイトでも運営して、記録を遺す為に頑張っています。青木氏とともに英語版のHPもあります。
青木氏テーマソングも歌手の青木隆治さんの歌でありますよ。
超アスリートで有名な渡米中の青木さんのそのご家族もこのサイトにお便りを頂きました。
日高青木氏で筆者とは先祖を同じくしています。
以上ですが、先ずはお家のご先祖の基本的なルーツ基盤をお話しました。ルーツを探求するにはこの様な雑学が必ず必要です。何なりとご質問ください。青木氏としてご協力致します。
以上の事の全ての雑学は論じていますので、ゆっくりとお読みください。
幸いに青木氏はその立場から多くの正しい資料が遺されていますので、研究する事でこの様な情報量と成っています。全部をお読みに成れば、最早、青木氏族の歴史マニアです。
此処まで一つ前のご質問のお答えです。
次ぎは本日のご質問のお答えです。
ご質問は次ぎの通りですね。
>質問です!
>綜紋は「下がり藤」とありますが、青木氏としての綜紋はあるのですか?
>当時は、「丸に五つ瓜に唐花」ならば、藤原北家の青木氏の「永嶋」となるのでしょうか?
>正式な紋に変えて、せっかくなので、両方つけてあつらえてしまおうかと。
>家紋のところを読みましたが、織田瓜と唐花との違いは唐花のほうが充填率が高いようで、
>家紋帳も植物等の分類ではなく、戦国時代以降に出来た家紋、鎌倉時代に出来た家紋、平安時代からの存在していて藤原北家のグループ等として分類し、索引に植物等の分類にしておけば分かりやすいと思うのですが
青木氏には、上記しています様に、「皇族賜姓青木氏 25氏」と、この青木氏5家5流の「母方血縁族」で、「特別賜姓族青木氏 116氏」があり「2つの血縁族青木氏」で、この両氏には「2つの絆青木氏」(家臣団と職能集団で宗家がその「家臣の長」や「職能の長や「村民の長」に「青木氏の姓」を特別に名乗る事を許可した集団とその配下)とを持っています。
この「絆青木氏」は上記する様に、ある特殊な主従関係を保持した「青木氏」ですが、これらに付いて詳しくは論文をお読みに成ればその関係が判ります。
これ以外に、「嵯峨期の詔勅」により皇族出身者である場合は、青木氏を名乗れると云う「嵯峨期の詔勅」があり、これに基づいて名乗った「真人族と朝臣族の青木氏」があり、この青木氏を「皇族青木氏 4氏」と云います。
更に、明治初期の苗字令に基づき、これ等の青木氏の「一般の民」が主家の氏名を姓名として名乗った「第3の青木氏」と、室町期末期に青木氏の農兵として青木氏に仕えて後に力を持った者が主家の青木氏を名乗った「第3の青木氏」の6つがあります。
そして、今、お答えしている藤原秀郷一門の青木氏は「特別賜姓族青木氏」の事です。
秀郷一門の青木氏の綜紋は秀郷一門ですので、「下がり藤紋」です。
「皇族賜姓族青木氏」は「近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏」の5家5流の青木氏があり、累代天皇り第6位皇子の皇族で各々は同族血縁に依る親族関係にあります。
綜紋は「笹竜胆紋」ですが、この青木氏は皇族慣例上、本家分家の仕来りを採っていませんので、全て「笹竜胆紋」です。
ところが、この皇族賜姓族と特別賜姓族の二つの青木氏は上記の5つの国で互いの同族血縁関係を維持しています。母方族との同族血縁です。この「2つの血縁青木氏」の「融合の青木氏」が発祥しています。この青木氏は両方の綜紋を持っている事に成ります。
後の「絆青木氏」と「第3青木氏」の2つの時期の青木氏は家紋は別に成ります。当然にイザ鎌倉と云う時は上下関係にありますので、この綜紋の下に入ります。
「皇族青木氏」は別に家紋を持っています。綜紋はありませんし、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」との血縁関係は全くありません。
依って、ご質問のお答えは、秀郷一門の特別賜姓族の青木氏の綜紋は「下がり藤紋」ですが、その中には上記した様に青木氏同士の同族血縁氏の「笹竜胆紋」を綜紋とする「青木氏」もある事に成ります。
次ぎは、「青木氏族」の永嶋氏の事ですね。
古来より分け方がありまして、「族」と「系」です。
これは江戸時代末期までは「氏家制度」によって社会は全て構成されていました。全ての民はこの「氏家制度」の上下の中に置かれていました。
先ず、「系」はその一族に組み込まれた「氏」を云います。「縦並びの関係」の中にあります。
例えば、「青木氏系永嶋氏」と成れば、青木氏の中にある永嶋氏と成ります。
然し、「族」は「横並びの関係」にあります。当然に血縁関係がありますが、絶対的組織の中の上下関係にはありませんで、「青木氏族永嶋氏」は、血縁関係があるにしても、命令的な上下関係にはありません。
「氏歴、家柄、身分、官位、官職、有品制と賜姓の有無」等が一切上位である「青木氏」がリーダーとして一門の組織を采配している事を意味します。これが「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」と呼ばれる所以です。つまり、武蔵国の入間にある「秀郷宗家」の下にある「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」は、宗家の全ての格式より上位とする逆転現象が起こって入るのです。
青木氏は青木氏 永嶋氏は永嶋氏 一門として動かす時は青木氏族として指揮下に入る事を意味する分け方でした。
ただ、一門としては氏家制度の中にある訳ですから、礼儀は青木氏の方にある事に成ります。116氏と38氏の違いの勢力も左右して来ますから、この同族血縁族であっても格式外にも礼を採る事に成ります。
故に、北家筋の青木氏の永嶋氏ではありません。青木氏族の永嶋氏です。青木氏は所謂、リーダーです。
次ぎは、前回のお答えの中にあります通り、両方の家紋をつける事は「完全な家紋の矛盾」が起こります。少し家紋の事で知る人が居れば、”これはおかしい”とお宅の家紋に対して疑問を持たれます。
何故なら、あり得ない事ですから。つまり、家紋学から観て笑止します。
つまり、矛盾ですから”「第3氏」だ”と観られて仕舞います。織田氏は京平家の末裔の庶流で綜紋は「揚羽蝶紋」です。
「揚羽蝶紋≠下がり藤紋」と成り何事もこの関係にあります。但し、「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」の母方が「嶋崎氏」と呼ばれこの京平家の庶流の末裔の娘が千国の母と成ります。
矛盾を敢えて伴なわせるかは先祖の意思に反していると思いますが、どうするかは、お家の選択ですが。
自分の家の家紋を「織田木瓜」と「五つ木瓜唐花紋」とは、そもそも、上記した氏歴、家柄、身分、官位、官職の示す家紋の家柄が違っているのです。家紋=家紋の数式は成立ちません。それかを分けているのが家紋の昔の役目・目的なのですから。
次ぎは、「分類」のご提案ですが、本サイトの目的は「青木氏」にあるのです。「全氏の家紋研究」ではないのですから、分類は不可能です。上記した皇族賜姓族と特別賜姓族の家紋を持っていた「青木氏の家紋」の分類なのです。家紋の持っていなかった明治期の「第3の青木さん」の場合は、8000ものある家紋分類のどれかに成りますのでそんな事は不可能ですし、この青木氏は元は姓を持って無いので家系譜を持っていません。室町期の第3の青木さんも下級武士であったので家紋と宗派等は本来は持っていなく正式に姓とか紋などを持ったのは明治期なのです。一致しませんので追求が出来ないのです。その目的の中にはありません。
下級武士の全てが姓と家紋などを持つのは明治期前後なのです。記録を保存する当時の役目をしていた寺や神社などは正式に持っていなかったのです。墓や家紋などを含めてその様な概念が元々無かったのです。
故に、関係する青木氏族の家紋も論文としては論じていますが、この様な習慣が無い青木さんの家紋は調査する事が出来ないので家紋掲示板の中には入れていません。
従って、家紋掲示板の中にある青木さんは何らかの履歴を持つので第3氏の青木さんでは無い事を意味します。つまり、ルーツなどを明確にする事が出来る青木さんは室町期中期以前の最低でも平安期末期の発祥の青木さんで、青木さんは第3氏以外は発祥していないのです。
上記した様に嵯峨期詔勅にて名乗っては成らない氏名なのであり、明治期まで原則守られました。
この第3の青木さんも江戸中期頃の定住地の地域が何処かでも判ります。殆どは上記する青木氏の村民や支配下にあった職能集団の関係者であったのです。
(同じ様に同じ氏の仕来りを持っていた永嶋氏にもこの第3氏の永嶋さんがいます。直ぐに見分けが付きます。)つまり、はっきり云えば時代毎に分ける必要が無いし出来ないのです。
”青木氏族は姓ではない”と記述しました事でお判りだと思います。
この様な事はサイトの論文をお読みに成れば全てより詳しく網羅しています。
長沼氏や永嶋氏は同じ族として同じ慣習仕来りの中にいましたので青木氏の論文とほぼ同じ考え方して判断が出来ます。
実は、その計画もあって既にそれが検索に依って出来るようにと管理人さんが特別な掲示板を用意してもらっているのですが、未だ其処までの計画と研究には至っていません。
管理人室と云うところにはそのソフトが入っていますが計画途中の段階で終わっています。
その代わりに、既に管理人さんが特別にその様にする為の研究情報を集める為の掲示板(クワンプネット)が用意してくれています。然し、その様なデータのお持ちの訪問者が全く居ないのが現状です。
だから、青木氏の家紋掲示板には他氏が多く訪問があり質問が来るのです。
管理人さんが ”戦国サイト”の幾つかの研究サイトを運営しています。その時はそちらにリンクされると良いのではと考えます。
ヤフーの話だと、1氏がこの様な氏の家紋等を統計的に集めているのは青木氏だけとの事です。
兎も角も、青木氏には伝統としてある慣習がありまして、分ける事は青木氏の教示の別の意味を持つ事に成ります。この事らはお読みに成れば論じていますので次第にお判り頂けると思います。
では、又、お便りをお待ちしています。
福管理人さん、だんだん理解できてきました。
"永嶋氏 belongs to 青木氏 that belongs to 藤原北家の秀郷." なんですね。
さて、質問です!
綜紋は「下がり藤」とありますが、青木氏としての綜紋はあるのですか?
当時は、「丸に五つ瓜に唐花」ならば、藤原北家の青木氏の「永嶋」となるのでしょうか?
和紙に家紋を入れるものがあり、家紋を扱う店が間違えたことを教えて織田瓜となっていたので、
正式な紋に変えて、せっかくなので、両方つけてあつらえてしまおうかと。
家紋のところを読みましたが、織田瓜と唐花との違いは唐花のほうが充填率が高いようで、
他のサイトに比較できる画像があったので、家紋を扱う店が間違えないようにwordで注意書きを作りました。
家紋帳も植物等の分類ではなく、戦国時代以降に出来た家紋、鎌倉時代に出来た家紋、平安時代からの存在していて藤原北家のグループ等として分類し、索引に植物等の分類にしておけば分かりやすいと思うのですが。。。。
新橋の烏森神社は藤原秀郷を祀っているとあったので、さほど時間がかからないので
行ってみようかと思っているところです。
膨大すぎるので、ワードにコピペをして印刷して読んでいます。
永島(「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋)
P.S. 当方の投稿の番号が888で末広がりでいいですね〜
ビックリの内容で。。。。
実は、織田の家臣といわれて調べていたのですが、丸に織田瓜の家臣をなく、
当家は石〇県からですが(私は首都圏生まれ)、ご存知だと思いますがほとんどない苗字でしたので、
へんだなぁと思つつ、家紋の起こりを調べていたのですが、たまたま変な検索ワードにしたら、
このサイトがひっかかりました。図書館やあらゆる使える方法で調べましたが、20年以上かかりました。
しかしながら、日本史を履修していないので、時代的な感覚はなく、「藤原秀郷って誰?」といった感じです。
藤原北家(きたけ?)も歴史的に出てくるメジャーな人たちよりも早い時期の人のようですし、苗字が「青木」と関係しているとは想像もできず、最終的なところまで辿り着くはずもありませんでした。
多分、「永嶋」の苗字の調査をされていると思いますが、
当家の場合、田舎でも戸籍は「永嶋」でも実際は「永島」で使っていたりしていたので、いちいちどの字を
書くのかを説明するのがめんどうなので、都会にいて田舎との関わりは薄いので「永島」に変名しました。
ですので、「永嶋」の比率はもう少し多くなると思われます。
石〇県〇〇〇ん市では「丸に五つ瓜に唐花」の「永嶋」は当家だけのはずです。
中国の官職の紋だったというのは驚きで、また織田瓜とは花弁が違うとのことですので、
家紋帳を見て、正式な家紋にしなおします。
この紋はあまりみかけることはないので、平安や中世の頃から入ってきた紋でしたら、
時代的に少数派にもなるので、仕方がないですし、家紋屋さんも間違えてるのも当然かと。
当家の元祖は織田よりも古い平安頃、しかも藤原は公家(最終的には公家から武家ですが)で、
日本に来た唐人は高級官僚でしたから、ある意味、織田よりも格が上なので、
「旧家?、いいジャン!」と誇れるところとなりました。
本来の宗派も浄土宗だとか。(石〇県は真宗:私は納得してませんが)
人頭税を取るために仏教という寺を使ったのが徳川の檀家制度。
本来の宗派に戻してもいいかなぁと思うところでもあります。
神明社との関係も興味深く、うちすぐ近くに神社(神明社)があり、
時々いきます。常々、神社との縁があると感じところです。
私の意見ですが。。。。。
今や葬式の時だけの家紋。
日本人がへんになってしまったのも、こういう日本が長年持ち続けている文化的な財産を
特に明治以降ほかしてしまったのも一因かと。
しかし、日本は家紋と苗字で分かりますね。
これは濃厚で面白いです。ボリュームがありすぎて、まだ全部は読んでいませんが、
ブックマークしたので、印刷をしながら、読みすすめます。
永島(永嶋)
今日は 始めまして。
ようこそ青木氏氏のサイトに起し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
青木氏のサイトには沢山の永嶋氏の資料がありますので、ゆっくりとお読みください。膨大な資料ですが永嶋氏の事は大方は判ると思います。
偶然のお立ち寄りですが、奇遇ですね。青木氏族が青木サイトに訪問されるのは、何かの縁ですのでこれからも宜しくお願いします。
実は、永嶋氏は北家の藤原秀郷一門の主要5氏の一つで、「第2の宗家」と呼ばれる藤原秀郷流青木氏があり、青木氏族と呼ばれ主要5氏の中でも、永嶋氏と長沼氏は特に血縁関係が青木氏とは強い一族です。
従って、青木氏族の永嶋氏は本サイトとの一族と成ります。
これからは全国青木さんで運営してる自由な青木サイトです。青木氏と同じくサイトにご協力ください。
ルーツ掲示板には沢山の永嶋さんと長嶋さんからのお便りがありますよ。
掲示板の検索を使ってお読みください。
さて、ご質問に入ります。
御家紋が「丸に五つ木瓜唐花紋」であると云う事ですが、この家紋は中国の官吏の官服の袖に着けた官職文様です。
この家紋は94の文様があります。この家紋は始めは平安末期の頃に公家徳大寺氏の牛車に着けられた象徴紋でしたが、鎌倉期に多くの武家が発祥してこの象徴紋を武家の家紋としたのです。
この中で、室町期に平家末裔の織田氏が勃興してこの文様を使いました。
ところで、ご質問の織田氏との関係ですが、全く関係がありません。
織田氏の家紋は94の中の一つで、区別して「織田木瓜」と呼ばれる家紋です。
お家の家紋は秀郷一門が使う「5つ木瓜唐花紋」で青木氏族の家紋類です。
そもそも、青木氏族とは秀郷一門は361氏ありますが、その中でも主要5氏があります。
この主要5氏は、青木氏、永嶋氏、長沼氏の兼光系 進藤氏と長谷川氏の文行系に成ります。
この主要5氏が青木氏族と云われるものなのです。何故呼ばれるかは論文をお読みください。
青木氏族に付いては秀郷一門の事を論文で資料として投稿していますのでそちらで詳しくお読みください。
特に、青木氏と永嶋氏は同じ兼光系として緊密な同族血縁を結んでいます。完全な親族です。
永嶋氏は「関東屋形」と呼ばれ、室町期には関東と東北域の最大豪族でした。
永嶋氏は38氏で構成されています。因みに青木氏は116氏で構成されています。
この38氏の永嶋氏の中に「丸に5つ木瓜唐花紋」があります。
「5つ木瓜唐花紋」の分家筋に当ります。
織田氏の織田木瓜紋とは類似しますが、元々のそのルーツが異なっています。京平家の末裔ですが、この家紋は真ん中の唐花紋の花弁の真ん中の先端部分が異なっているのです。
少数派とのご意見ですが、全く逆で日本最大豪族ですよ。
南九州までにその子孫を拡げています。
その勢力は西域は伊勢長嶋まで伸張していました。北域は陸奥まで伸ばしていた超大豪族です。
奈良期の大化の改新の最大功労者の中臣鎌足を始祖とする藤原氏で四家が有りましたが、その最大の北家筋の最大勢力を誇った藤原秀郷一門です。秀郷は平将門の独立の乱を鎮圧した功労者で武蔵国と氏も下野国を領国とする全国24地方にその子孫を遺したのです。
さて、家紋と氏の関係のご質問ですが、38氏の家紋類に広げた永嶋氏です。
藤原氏の秀郷一門の綜紋は「下がり藤紋」です。この永嶋氏は同門血縁族の青木氏116氏と長沼氏52氏と繋がっています。進藤氏と長谷川氏とも繋がっています。
”どの程度の家”とのご質問なのですが、意味が判りませんが、「5つ木瓜唐花紋」とその「丸付き紋」は永嶋氏の独自の家紋です。他氏が使う事はありません。
お家は千葉県の結城を拠点とする藤原宗家の藤原朝光を祖とする永嶋氏でそのルーツから枝葉として拡がった「5つ木瓜唐花紋」の一族で38氏の中でも主要一族です。
この家紋の永嶋一族は関東を拠点として静岡−愛知の東よりと千葉に多く分布しています。
長嶋氏と長島も血縁族で同族です。
お家の元の一族一門が共通して使う家紋の綜紋(共通紋)は「下がり藤紋」で藤原四家一門の内7氏がこの「下がり藤紋」を綜紋としています。
有名な「5つ木瓜唐花紋」は由緒ある家柄で、その永嶋氏です。
詳しくは研究室の関係論文をお読みに成って、判らない時は都度ご遠慮無くご質問下さい。
ルーツ掲示板の検索で永嶋氏と入力して頂けば、お家の親族の方のお便りが沢山ありますので其処からも情報を獲得する事ができます。情報は膨大です。1年は掛かるかもしれませんね。
楽しんで少しづつゆっくりとお読みください。
永嶋氏に関する情報はこの青木氏サイトにしかインターネットでは無いと思います。永嶋氏の独自に研究した書籍は無いと思いますので青木氏族として御遠慮無くご訪問ください。
最近では、完全な他氏の方のご質問も多く成りました。
ヤフーHPサイトの歴史カテゴリーに正式に登録されている段突日本一の情報を有するサイトとしてヤフーからお墨付きを貰っているサイトです。
ご質問は、お家の専用欄を設けますので、このお返事のReでお便りください。
では、ご質問を心よりお待ちしています。
日高さん 今日は。お久しぶりです。
お便りありがとう御座います。
そうですか、剣術をされていたのですね。
その新陰流の祖とされる人が「丸に片喰紋」でお家のご家紋と同じとの事ですね。
その祖の江戸時代の国、或いは地域が何処かと云う事を知るとそのルーツの流れがある程度の範囲で判り、その愛知と静岡付近の片喰家紋族が何らかの理由(仕官赴任)で移動した経路が判ります。
それが紀州発祥の地の日高氏とどのように繋がったのか、何故同じ家紋と成ったのかがある程度雑学で判ります。
前回にもお答えしました様に、日高氏は和歌山の豪族で熊野神社の神官職の家柄で、この地域は藤原一門の藤原脩行の一族が治めていました。
何らかの関係でこの脩行の家臣の中の丸の片喰紋の家紋を持つ族から養子をとり男系跡目が叶わず養子先の家紋と成り、その系列化に入った分家筋の日高氏は脩行の赴任終了に伴なって家臣の帰参と共に移動したとの筋道も立てられます。
その時に、”その家臣の里の一族に新陰流の祖の末裔が血縁族としていた”として、家紋が同じに成ったと云う推理が成立ちます。
片喰紋の丸付き紋は秀郷一門の大胡氏であるとすると、恐らくは庶流の庶流と成る事に成ります。
実は、藤原氏、中でも北家筋の綜紋「下がり藤紋」の秀郷一門はその一門の氏名は「一定の決り」を持って定めています。
一族一門の枝葉が余りにも多く成った事からこの決まりを決めて何処のどれほどの身分の藤原氏か判る様にしたのです。
「3通りの決まり」があり、一門の地名や官職や役目の官職役職名の前の字句を藤の前に付ける方法です。
例えば、役職の佐官階級の藤原氏は佐藤氏等、築城や工事などの責任者を務めている官職の「工」(たくみ)の工藤氏、地名では伊勢の藤原氏の伊藤氏等々の全てをこの要領で氏名の仮呼称としています。この要領で附けられているのが361氏あります。
特に、主要5氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)と主要8氏を除くと、この要領に沿っています。
この主要氏と361氏の中に大胡氏は確認出来ません。依って、この大胡氏は庶流である事であり、次ぎに藤原氏と北家の秀郷一門361氏は原則は「丸付き紋」を使用しない決まりに成っています。
「副紋方式」と云う仕来りに従っています。
従って、「藤原氏の厳しい慣習」の決りに従わなくても良い必要の無い氏と成りますので庶流の更に下の庶流と成ります。
この事から藤原脩行の家臣との筋書きが出来ます。
もう一つは、前回のお答えの中に弁慶の事を書きましたが、熊野神社5氏は源氏か平家に着くかで一族の中で争いが起こりました。
この結果、源氏側に着く事に成ったのです。
其処で、平安末期の時に平家側に着いた一族が熊野の新宮を去り、関東に北側域に逃げ込みました。この中に紀北よりの日高氏分家がいましたがのこの一族が関東に逃げて定住します。
この一族が地元の秀郷一門361氏の片喰紋と血縁したと考えられます。そして秀郷一門の中に上記の理由で庶流に組み込まれたとも考えられます。
そして、前回のお答えの鈴木氏の説ですが、弁慶が義経を伴なって鞍馬山を逃げ出し紀州熊野神社に庇護を求めます。この時、熊野神社の第1神社の藤白神社に立ち寄ります。この神社は日高氏です。
この藤白神社に熊野詣で後醍醐天皇らは33年間の内32回も訪れたものでその最初に泊まる神社です。
この神社で日高氏が鈴木と云う姓を貰います。
日高氏には子供が居なかった事から氏子から養子を取ります。この日高氏に成った養子が鈴木氏を引き継ぎます。この時に平家に追われた義経や弁慶等が一時親類のこの神社に逃げ込んだのです。この後、弁慶は神宮の熊野神社に交渉に出かけます。
この藤白神社で待つ義経の世話一切を看たのがこの鈴木姓を引き継いだ氏子(三郎)この養子でした。この時、三郎は源の義経との主従の関係を結びます。三郎の弟の六郎も家来に成り、亀井と云う姓を名乗ります。弁慶が熊野神社との交渉が決裂して、結局、鈴木と亀井の兄弟を伴なってひ平泉まで落延びたのです。この時、鈴木三郎は各地で源氏勢力を拡大させる為に「現地妻」を作り子孫を拡大させます。
これが鈴木氏と亀井氏と日高氏が全国に広まった原因です。この日高氏は鈴木姓の元の養子先の日高氏の姓を名乗った鈴木氏の末裔です。日本全国の鈴木さんはこの末裔です。
従って、この鈴木氏の末裔の鈴木氏の移動に伴い日高氏も全国に広まったのです。お便りの九州の説もこの説では成立ちます。
私はお家はこの3つの説の内、この鈴木氏系日高氏が高いと観ています。
平泉も陸奥に定住していた藤原秀郷一門ですので、片喰紋と鈴木氏系日高氏は当然に考えられます。
前回のお答えの調査内容の何れかの内容が判れば、この初期の筋書きに繋がる事が判ります。そうすれば九州の件も藤原氏のある事で前回の九州の事と繋がって来ます。
兎も角も、前回のお答えの何がしの情報がお判りに成られたら又お便りください。
著とした事でも雑学で大きく進展する事も起るのです。
少しづつでも進めて行く事が出来ます。
では、またお便りください。
ブログに書いてあった「永嶋」で、家紋も「丸に五つ瓜に唐花」なんですが。。。。
家紋と苗字の由来を検索していたら、検索にあがっていて、読みましたが
日本史を履修していないため、じっくりよまないと、といったところです。
家紋屋さんからは、「織田木瓜」で織田の家臣の紋だといわれましたが、
こちらのブログを呼んでいると、家紋屋さんから言われたこととは、どうも違っているようでした。
非常に少数派だと思いますが、
この家紋と名前の組み合わせはどの程度の家が使っているのでしょうか?
ブログ中に既述のある県も該当しており、情報を集めているようなので、投稿してみましたが、
こういう掲示板の投稿になれていないので、名前は〇〇としました。
青木さんには、私の質問に対して、たいへん詳しく丁寧なご回答をいただき心より御礼申し上げます。また、お礼を申し上げるのが1年3か月も遅れまして、本当に申し訳ありませんでした。無礼をお詫びいたします。
いただいたご回答につきましては、詳しく拝読してから改めて感想、及び質問の追加などをさせて頂きます。ただ、家紋についてのお答えについて、「片喰の家紋が藤原秀郷一門の主要家紋8氏の一つ」であると言及されていたことに、思い出されることがありましたので記述いたします。
私は、かつて古流剣術に関心があり、新陰流の稽古をしていた時期がありました。ある新陰流関連書籍を買った時、新陰流の流祖である上泉伊勢守信綱の家紋が「丸にカタバミ」で、我が日高家と全く同じ紋様であったので驚いたことがありました。
さらに上泉伊勢守信綱の来歴を書籍で読んだ時に、「藤原秀郷の庶流である大胡氏の出身で本姓は藤原」といったことが書いてあったことを思い出し、青木さんのご記述から推察しますと、上泉信綱の出身である大胡氏は藤原秀郷の庶流であったので、本家に配慮して丸付紋にしたのではないかと思われました。
それでは、また連絡いたします。丁寧なご回答をいただいたことに対しまして、重ねて御礼申し上げます。
こんばんは。
大変丁寧にお答え頂きありがとございます。
最初、青木家のルーツを知りたいと思いお便りさせて頂きました。
管理人さんには本当に申し訳ありません。
いろいろ教えて頂いてよかったです。ありがとうございました。
お便りありがとう御座います。
疑問が多く出てきました。その過去帳の添書にはルーツと書いているのかがはっきり判りません。
書いている以上はルーツであろうとして書いていると判断して次ぎにお答えさせて頂きます。
先ず、室町中期前までの家紋には氏家制度の中で大きな意味を持っています。
そこで、「抱き角紋」は丸が無ければ本家筋と成ります。
其処で、お家のルーツの前提は家紋の「抱き角紋」を前提としていますので、「信濃皇族賜姓足利系諏訪族青木氏」ですが、この中国地方では極めて少ないのです。
「青木氏の神職」は赴任する仕来りで任務が終われば元の地域故郷に戻る事に成ります。然し、何らかの理由で周防に定住したものです。(血縁が主)
丸があるか無いかに付いては、原則として分家であるか無いかの違いですが、本来は、丸付き紋は皇族賜姓族にはこの仕来りは無いのです。然し、室町期末期から江戸初期に掛けてどうしても上下の関係が起こり本家分家の違いが起こりました。この為に丸つき紋を用いましたが本来は賜姓族はこの方式は無いのです。ですから時代性が判るのです。
ところが、「皇族賜姓足利系諏訪族青木氏」は前回のお答え通り皇族ではない武家の「信濃足利氏」に組み込まれましたので、「武家の慣習」に基づき「丸付き紋」が用いられました。
「抱き角紋」とその丸付き紋は信濃は元より神奈川や栃木や越後にも多く存在します。
「神職の抱き角紋の青木さん」は「守護神−祖先神の神明社」の各地の建立により奈良期より各地に神職として移動したものですが、その移動域は神明系社の建立地としてはっきりしています。
前回のお答えに書きました様に室町期中期前にこの地域に神明系社を1社建立しています。その時に、「皇族賜姓足利系諏訪族青木氏」として派遣された「青木さん」と云う事に成ります。
つまり、神明系社を建立し維持管理するだけに、この地域には皇族賜姓族と特別賜姓族の青木一族が多かった事を意味します。更には、この地域の周辺には抱き角紋を始めとする皇族賜姓族と特別賜姓族の青木氏の2つの青木氏がいた事を意味します。
(現実にはいたのです。人、時、場所は史実として明確)
「抱き角紋」の中国地方への移動は「諏訪族」と云う特長ある青木氏の為に極めて珍しいのです。
それだけにこの「抱き角紋」の意味や重要度は何にもまして無視する訳にはいかない判断要素なのです。故に前回のお答えにも成っているのです。
さて、其処でこの史実を元にこの過去帳の添書の「和泉守」に付いては「・・守」の件は判っていました。
下記に平安期から江戸期中期までの青木氏が名乗った永代官職は次ぎの通りです。(末尾参照)
この中に、実は「和泉守」が有ります。但し、前回お答えした皇族賜姓族の中には無いのです。
然し、この「和泉守」は「藤原秀郷流青木氏(特別賜姓族青木氏)」が名乗った官職名なのです。人物も判っています。
因って、元々「皇族賜姓族足利氏系諏訪族青木氏」の「抱き角紋の和泉守」ではありません。
そもそも、「特別賜姓族の秀郷流青木氏116氏」と「皇族賜姓族青木氏24氏」に関らず、上記した様に諏訪族の「抱き角紋の和泉守」はその家筋より原則無いのです。
つまり、家紋と官職が一致しません。矛盾しています。
江戸期に作られた過去帳の添書編集の時の原因と明確に判ります。
更に、この間違いは、今回のお便りでも、下記の様に同じ矛盾の更なる間違いがあるのです。
お家の過去帳の添書の文書の中味の表現をよく精査して観て見ないとこの矛盾を解明出来ません。
周防で過去帳を作られた時期から観て、この添書文書の作成者の歴史認識に左右されています。
恐らく、時代考証からお便りから江戸期につくられている事に成りますから、個人が歴史書のような添書を「後付け」で作ろうとすると、現在の様に情報社会で無かった事から3つの有名な江戸期に作られた「姓の歴史書」を参考にするしかなかったと考えられます。
とすると、お家のご先祖が歴史家で無ければ、その歴史書の作成後にお家の添書が作られた事に成ります。「和泉守」と「肥後の守」の事が書かれている事から、早くて1650年、遅くて1810年頃と成ります。
特に青木氏の少ない中国地方の山口で、尚且つ、情報の少ない「抱き角紋」を元とすると尚の事であったと見られます。(抱き角紋の特長からお家の添書を作られたご先祖が歴史家とは考え難い)
当時の「時代の情報力」と「抱き角紋の情報」と「周防と云う地理性」から、普通に考えれば個人の正しい添書作成は先ず無理と考えられます。故に、この時に編集に矛盾を生じたと考えられます。
恐らくは、その矛盾は、”周防の周囲にある青木氏”と呼ばれている「和泉守」と「肥後守」とを、江戸期の「姓の歴書」から観て同じルーツと観て編集してしまったと観られます。ところが歴史の史実は違っていたのです。
「抱き角紋」の青木さんでは到底この歴史本書では作り得ない家筋と家紋なのです。
今回のお便りから丸付き紋の無い抱き角紋の家紋からすると益々疑問と成ります。
丸付き紋で有れば分家末裔筋なので丸付き紋の無い本家宗家筋と異なり長い歴史の中で何らかの変化慣習に基づかない変化が起こり得ます。
「氏家制度」の慣習の中で「神職」の「丸付き紋」の家筋ではその財力から観ても本家を超えて作成すると云う事は困難です。丸の有無に関らず神職赴任中の家筋と成れば尚の事、困難で何時か国許に帰るのですから造る事の意味も造る術も無い筈です。確実に相当後の「後付け」を意味しています。
そもそも武家社会の象徴である家筋を示す家紋と云うのは、一族の中である一つの家族の家が家紋を変えても他の親族関係が変えなければ変える事は出来ないし、その様な事を勝手にすれば氏家制度の封建社会の中では一族から締め出しをくい追放の憂き目を受けますし、そもそも生きて行く事は不可能です。(現実に甲斐の青木さんに起こっている。)
そう成ると現在と異なり昔は「移動の自由」は禁止されていて、勝手に国を抜ければ「国抜け」と言って、その一族全て惨罪の打ち首に合う事に成っていたのです。
まして武士で、名主的存在であれば論外です。氏家制度で縛られていたのです。
更には、「3つの発祥源」の皇族賜姓族であり、中でも戒律の厳しい諏訪族とも成れば論外です。
赴任中一族の神職青木氏とも成れば論外中の論外です。
従って、皇族賜姓族の青木氏ともなれば、家紋や宗派などの「家の象徴」と成るものを簡単に変更する事は出来なかったのです。丸付き紋で無い「抱き角紋」となると上記した様に尚更の事です。
故に、賜姓族の家紋の変化は「家紋掟」に依らない変更はあり得ないのであって、系図や添書などに比べて優先する判断材料なのです。
さて、次ぎは、「肥後守」の件ですが、青木氏の中にはこの「肥後守」は無いのです。
但し、周防大島と云う地方には”「肥後守」の末裔だ”とする青木さんが現実に存在します。
然し、この青木さんのルーツとその歴史的経緯ははっきりと史実で判っています。
この周防大島の青木さんは「三つ盛州浜紋」のお家です。
実は、この「肥後守」には、この史実の記録からある「謂れ」がありまして、実質の任官の「青木肥後守」では無いのです。
この青木さんは鎌倉幕府の時に「元寇の役」で幕府より命じられて肥後に出陣します。
この時にそのまま鎌倉幕府は倒壊して肥後に一部が地元の土豪との血縁により定住して、その後に「肥後の郷族」と成ります。
(「郷族」とは土地の土豪で郷氏や郷士で地侍に成った集団を云います。)
その後、この居残って「郷氏」に成った末裔が室町幕府に味方して仕官して、この肥後の一部のこの郷を本領安堵されました。
因って、「・・守」では無い、つまり任官された青木氏に関する「肥後守」では無く、この為に自らのルーツを良く見せるために名乗ったもので、朝廷より任官された「肥後の守」と勝手にその末裔が名乗っているだけで、はっきりした歴史的な記録の経緯から「肥後の本領として安堵された郷氏」なのです。
幕府から国では無く郷域を本領安堵された事を任官並に考えて名乗ったのです。
この一族が記録によれば後に周防大島に移り住んだと云う事に成っています。
この周防大島の末裔が肥後の郷氏のルーツを「肥後の守」と呼んだのです。
そもそもお家の添書に元亀元年の「肥後の守」をもルーツだとして併記で書いているとすれば、上記の通り「和泉守」と「肥後守」とがルーツであるとする説は矛盾するのです。
故に、前回のお答え通りに添書を書いた人の「歴史認識」に間違いがあった事に成るのです。
この肥後に定住した青木さんは、隣りの「周防大島」にも移動して其処に子孫を室町期末期ころに遺しました。
この青木さんは元は鎌倉幕府の時に合力した「皇族賜姓足利氏系青木氏」の末裔であり、前回の紀伊守とのルーツと同じです。この一部末裔には甲斐の「武田氏系皇族賜姓族青木氏」も含まれています。
(北九州域にもこの足利氏の分家が勢力を張っていた。九州域には元寇の役後関東域の豪族が子孫を残した。青木氏族に関係する豪族としては秀郷流青木氏は元より秀郷流永嶋氏、秀郷流進藤氏、秀郷流長谷川氏等があります。)
この青木さんは「三つ盛州浜紋」の家紋を持っています。このルーツの青木さんは薬師でした。
これにはある経緯がありまして、州浜紋は愛知−静岡付近一帯に分布する藤原秀郷流青木氏の家紋群です。
この氏と北隣の国境の信濃と甲斐の「皇族賜姓族青木氏」との血縁しています。
州浜紋に特に観られる現象です。故にこの様な血縁族が起っているのです。特定域の特定の諏訪族の「抱き角紋」とは違うところです。
「抱き角紋」の諏訪族には武田氏と血縁した経緯の通り諏訪族「由布姫」でも判る様に特に奈良期からの由緒ある家柄を保持する為に閉鎖的な傾向が強かったのです。
この「三つ盛州浜紋」の青木さんは肥後と大島に現存します。
然し、丸付き紋で無い「抱き角紋」では、この様な経緯からこの周防では「青木氏紀伊守一矩」のルーツと成ります。
況してや、明治期までの氏家制度の封建社会の慣習仕来りから「神職の抱き角紋」である限りこのルーツから外れる事は出来ません。
ところで、室町期末期の元亀1570年頃の時期は天皇家は貧していましたので、その為に金品を取って一代限りの官職名を多発に発行して財源にしていました。
実質の官職では無い金品授受の一代限りの名誉官職を与えて天皇家の大きな財源としていたのです。
皇族賜姓族の「和泉守や肥後守」等の呼称からもこの事が覗えます。
従って、「和泉守と肥後守」とするとすれば、「紀伊守一矩の永代官職」では無い様で大きな違いが出ています。ただ一代限りの官職名も幕府の推薦も入りますので大名や守護で無い限りは相当な財力を擁します。周防の神職では元より無理であります。
何時の時代か判りませんが、”御実家の周防の島”と成れば江戸期の事と観られますので、お便りの”周防のある島”とは、この”周防の大島”の事ではありませんか。
前回のお答えから外れませんが、仮に「周防の大島」と成れば、次ぎの問題を解決する必要があります。
1 家紋の「抱き角紋」と「三つ盛州浜紋」との違い(親族関係の家紋は 州浜紋が親族にあるか)
2 「和泉守の出自」の問題(添書の解読が必要 ルーツとしているのか)
3 永正8年の「青木紀伊守」の問題(永正8年のところに何を書いているのか)
4 元亀元年の「肥後守」との繋がりの問題(肥後守はルーツとしているのか)
5 ”周防のある島”の島名(大島とすると家紋に問題が出る)
6 神社名 神紋、神明系社、八幡社などの社種、創建期等の確認(この事で他の関係性が判明する)
7 浄土宗の寺名 創建期 寺の寺紋の確認 (人別帳では? これで判定できる)
8 永正8年の院殿居士の院殿部分の名(これが判れば確実に判る 家柄・立場を読み込んでいる)
9 「和泉守」とする永代官位と俗名の確認(ルーツとしているのか)
10 過去帳の添書の内容の解読と書いた時期(寺側でも判る筈です)
(注意 菩提寺と檀家寺とは違います。「総代」は檀家寺の時に使う呼称で菩提寺では住職も一族から出しますので「総・代」と呼ばないので「氏・上」(総・師)と成ります。)
(注意 家紋はそう簡単に変える事は累代で出来ませんからルーツの決めての基準と成るのです。特に中国地方の抱き角紋は出来ないのです。)
青木氏の守護職
摂津守、伊豆守、豊前守、甲斐守、尾張守、伊勢守、信濃守、近江守、美濃守、下野守、武蔵守、遠江守、駿河守、出羽守、美作守、和泉守、志摩守、紀伊守、伊賀守、以上18です。
(そもそも皇族賜姓族青木氏とはこの様な官位の「・・守」は官位を呼称しない家柄と身分が保障されていて、従四位(五位)上左衛門上(下)佐の最高官位。官職を永代に与えられているのです。
本来は名乗らない朝臣族の皇族賜姓族の仕来り慣習なのです。その様な家柄なのです。
従って、国司級の4階級の「守、介、掾(じょう)、目(さかん)」の官位官職よりそもそも数段上なのです。)
(「紀伊守」に付いては前回のお答え通り、特別に信長や秀吉より請われて受けた「・・守」なのです。
これには、理由がありまして、信長や秀吉は家柄が無位無冠であったのでこの皇族賜姓族足利氏系青木氏に対して遠戚を作り織田氏や豊臣氏の基ルーツは良い家柄であるのだとして利用したのです。特に秀吉は”腹違いの兄弟だ”と史実だとして喧伝したのです。そして、最終20万石の領地を与えたのです。)
前回のお答えをもう一度よく読まれて、過去帳の添書に矛盾が出て来ていますので、以上10項目の確認が必要ですね。
(提供される個人情報に触れる懸念の部分には筆者が編集しますのでご心配なく。)
兎も角も、家紋の「抱き角紋」を前提としてのルーツとするか、矛盾を多く含んだ「後付けの過去帳の添書」をルーツとするかは元よりお家の判断に因ります。
以上ですが、ご不明な点は何なりとご遠慮無くお尋ねください。
こんにちは。
返信ありがとうございます。
永代官職名をさがすのですが古くて読めません。
青木和泉守の少し後に青木肥後守というのがありました。
青木和泉守は属名は書いて無く幼名らしき名ならありました。
青木和泉守の名の横に元亀四正月という書き込みがあります。
死亡日ではなくて何かをした年のようです。
肥後守の戒名ならありました。前肥○○○○○居士
お寺の方に聞くと抱き角紋は珍しいとのことで、私は丸に抱き角だと思っていた丸は
ただの石の形家紋の丸ではない事を聞きました。
なので家紋はただの抱き角紋です。
青木の家は周防のある島にあります。
どこまでが個人情報になるのか分かりません。もし差支えがある場合は申し訳ありませんが
伏せていただけると助かります。
よろしくお願いいたします。
今日は。 お久しぶりです。
本年も宜しくお願いします。
過去帳をお調べに成りましたか。大変でしたでしょう。
さて、重要な情報がありましたね。
前回のお答えでは、「信濃諏訪族青木氏」の可能性が高いとしました。
今回のお答えと一致します。
実は、多少、先ず問題があるのですが、それは「青木和泉守」が過去帳では「一番古い人」と成っています。これは移動して現在のところで菩提寺を作られ、その時に過去帳を作られた時にご先祖が少しの口伝の記憶の間違いを起したと観られます。実は皇族賜姓族の信濃青木氏には和泉守は存在しません。
これは”間違い”と決め付ける程の事でも無いのですが。、恐らく、ルーツは「青木紀伊守」との間違いであったと観られます。和泉国は昔は紀伊国の北の域の郡郷でした。
(和泉国は江戸期のものです。従って、山口での過去帳は1520年代後の2から4世代後に作った事が判ります。思い違いをした事に成ります。「青木紀伊守」は越前福井没ですから、山口移動後、末裔が拡大して自らの氏の菩提寺と過去帳を作った時に、この祖の官職を間違えた事を意味します。)
何故かと云いますと、この「青木紀伊守一矩」は前回にお答えしました様に、「皇族賜姓族」の信濃青木氏の足利氏と血縁した「信濃足利氏系青木氏」です。(ニ引両紋)
この末裔の者が室町期に勢力を持ち直し足利幕府の重臣になり、室町末期に起った幕府倒壊に繋がるお便りの「天正8年の船岡山の戦い」が起こりました。(この時の人物は青木一矩)
(先祖のルーツを明確にする為に最も先祖を物語る重要なトピックスな事を「添書」として書き記したと観られます。よくある方法です。室町期末期の天正8年の事を書き記した事は過去帳は江戸期に成って後に書き記した事を意味します。)
この戦いは足利幕府の家臣団が2分して戦い、最終は幕府崩壊の「応仁の乱」へと発展します。この時の人物が「青木紀伊守一矩」と云います。この後、この人物は信長−秀吉に従い越前北の庄8万石を領します。
(この一族一門には同時期に越前国阪井郡丸岡4万6千石の青木伊賀守忠元なる人物も居る)
然し、何れも徳川氏との戦いで豊臣側が負け徳川氏から叙封されて、末裔は越前に本家一部を遺して其処から日本海側を通じて西に移動しました。この移動した末裔と成ります。現在その本家筋が福井に現存します。
(注意 信濃の土豪時代の足利氏の本家が藤原秀郷の指揮に従わなかったので、別に分家を引き上げて本家を作られて乗っ取られて、この為に立場が無く成ったこの土豪足利氏元本家筋は一門を引き連れて米子と八頭に移動逃亡して定住して生き延びた足利氏があります。
これに付き従った親族と成った上記の皇族賜姓族の足利氏系青木氏の一部も移動定住して、この青木氏は現在では宍道湖まで子孫を伸ばして居ます。然し、この一門には抱き角紋は無く血縁していません。御家とは別ルーツと成ります。)
足利幕府の重臣に成ったのは信濃足利氏(陸奥の斯波氏とも後に名乗った)で足利幕府を作った真の実力者であったのです。関東栃木域に勢力を持っていた足利尊氏とは親族関係(伯父)にあって、実際はこの「信濃足利氏」が全国を制覇したのです。11の国を領したこの足利氏の中では最大の勢力でした。
この「信濃足利氏」から養子を迎え「信濃皇族賜姓青木氏」と血縁をしましたが、2代続きで男系跡目が叶わず、結局、女系と成った事から家は養子先の「信濃足利氏筋」に組み込まれた「信濃皇族賜姓青木氏の末裔」なのがこの「青木紀伊守一矩」なのです。
因って、足利幕府の中では最高の家筋の一門であったのです。この一矩一門の中に「信濃諏訪族」と同じく血縁して2代続きで男系跡目が叶わず養子先の諏訪族に組みこまれた「信濃皇族賜姓族の足利氏系青木氏」なのです。
お家は、結局、「足利氏系諏訪族青木氏」と云う事に成ります。
詳細は研究室に記載しています。
「諏訪族系青木氏」にはお家を含めて3氏(内武田氏系2氏)あります。
(諏訪族に関しては前回お答えしましたが詳細は研究室で参照して下さい)
其処で、お家の過去帳がこの人物が最も古い人として地元に遺されているのですから、恐らくはこの人物の末裔で仮に「和泉守」が史実であるとして、それを「和泉守」としたとも考えられますが、つまり、一矩一族一門筋で知行地の一部の北域「和泉地域」を任されていた末裔とも観られますが、青木氏の記録には見付かりません。この判定は末尾の確認で明確にしています。」
前回の家紋が「信濃皇族賜姓族」の「諏訪族の抱き角紋」で「浄土宗の総代」も務め、「神社の神職」で地元の「庄屋的名主」でしたから、1512年前後にこの地に移動定住して来た事を意味します。
問題は移動定住の時期ですが、叙封された時の移動期なのか、その前に神職(神明社の神職)として移動して来たのかが判別が出来ません。
叙封期として検証しますと、「浄土宗の総代」、「神社の神職」、「庄屋的名主存在」から果たして江戸時代にこの様な実力を確保する事は安定した江戸期ですので無理と考えます。
然し、叙封期前とすると、この事は考えられます。
そうすると室町期中期以前と成ります。
実は、山口には、「神明系社」が古くから1社あります。
室町期中期直前頃のものとして、「柳井市阿目」と云う地域にありますが、ここに「神明宮社」があります。記録からここに信濃から神職の青木氏を配置しています。
研究室に「青木氏の守護神(神明社)」の研究論文がありますので詳しくは参照して下さい。
この事から、その後に大小の神明系社が拡がっている可能性がありますが、「諏訪族青木氏」の「抱き角紋」のこの地域への家紋分布と上記の3つの家柄から判断して、この室町期中期前に配置した神職では無いかと考えられます。
当初江戸初期までは、皇族賜姓族の青木氏の慣習により「神職」なので「神道」であった筈で、後に「神仏習合」の流れが起った時に末裔も広がり菩提寺も建立したと観られます。
この時に過去帳を作り祖とする人をこの青木紀伊守一矩とした事に成ります。この「神仏習合」の慣習では「神明系社」486社を独自に持つ青木氏に拡がり、「古代密教浄土宗」を独自に持っていたので神職青木氏に拡がったのです。
この「神仏習合」「神仏併呑」「神仏併合」「神仏合体」の流れは歴史上大きなもので4度起こっています。
平安末期と室町期中期と江戸初期と明治初期ですが、夫々の流れの特長が異なっています。
そもそも、皇族賜姓族と特別賜姓族の2つの青木氏は「伊勢神宮の皇祖神」の子神の「祖先神の神明系社の守護神」と奈良期からの「古代密教浄土宗」の「神仏の社」を独自に持ち自らの氏から神職と住職を輩出して維持管理する唯一の氏で朝臣族に許された「特別の権利」でした。
それだけに、「神道」でありながらも「菩提寺」を持つと云う慣習は青木氏にしか観られない奈良期からの元々の古い許された慣習であったのです。
これを「神仏習合の慣習」と呼ばれていました。
この慣習が後に各地の大豪族にも広がり、藤原氏や青木氏等の「朝臣族」に観られる「神仏習合」の他に時代毎の背景を受けて他の3つの流れが起ったのです。
(詳しくは、「青木氏の守護神]などの論文をお読みください)
恐らくは、お家の場合は、「青木紀伊守一矩」の頃は慣習上「神仏習合の状態」であった筈で、その後に山口に移動して神職を務めながらも「神道」をベースとしていましたが、子孫末裔が広がり本家筋からの経済的支援もあって、上記した本来の「守護神と菩提寺」の慣習に戻したのです。
因って、お便りの情報、「浄土宗の総代」、「神社の神職」、「庄屋的名主存在」は普通であれば矛盾するところなのですが青木氏に限っては当り前の慣習なのです。
この様に、「青木氏の雑学」からお家が「笹竜胆」を綜紋とする「信濃皇族賜姓族青木氏」の末裔で「二引き両紋」の血筋も持つ「抱き角紋」を家紋とする「青木紀伊守の末裔」である事が検証出来るのです。
この様にちょっとした何でも無い情報が青木氏には決めてに成るのです。
この口伝が現在まで伝えられていると云う事は、ご累代の御先祖がこの口伝の意味するところを認識していた事を示すものと考えます。
(この様なお家の口伝は子孫のロマンの為にも何らかの形で纏められて本文などの情報と共に何時か纏められて復元して是非引き継いでもらいたいと思います。ルーツ掲示板にはお家の昔の青木紀伊守一矩をルーツとする親戚の方のお便りもありますので掲示板の検索を使ってお読みください。)
中国地方には、比較的に浄土宗と神明社系神社は出雲大社の社領域から青木氏の定住地はすく無いのですが、5氏の青木氏が安芸、美作を中心に室町期中期前に増えて居ますのでこれに対応した建立であった事も考えられます。「皇族賜姓族の伊勢青木氏や信濃青木氏」や、「特別賜姓族の秀郷流青木氏」が「2足の草鞋策」の大商いを営み、これに伴なって増加するこの地域の一門の「青木氏の守護神」として、又、「2足の草鞋策」の「戦略的な根拠地」として建立された可能性があるのです。
それだけに、「国抜け制度」の中で、これだけの勢力確保とこの制度に掛からない立場となると神職(又は住職)の配置しかない筈です。普通は無い事なのに、故に「寺社の両方の力」(神仏習合)を持っていたのだと観られます。そして、その背後には「2足の草鞋策」の皇族賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の連携に基づく「2つの青木氏」の「莫大な経済力」が背景にあったのだと考えます。
江戸時代も含めてこの時代に地域の一青木氏の家がこの無縁の地域でこれだけの力を維持する事は不可能です。故にこれ等は符合一致します。
叙封後では大名や豪族が力を持つ事を極力嫌った徳川氏のチェックもあり不可能であり、室町期中期前の「信濃青木氏の神職移動」と成ります。
故に、過去帳の一番古い人が中国地方に移動した末裔でその始祖を「青木紀伊守」と成っているのだと考えます。本来で有れば、この中国地方では賜姓地ではないのですから、「過去帳」と成らない筈です。「人別帳」で「檀家寺」となる筈ですし、宗派も「浄土宗」とは成らない筈です。恐らくは普通ならば戒律から真宗か曹洞宗かになる筈です。
因って、お家のルーツは前回のお答えどおりの「信濃皇族賜姓青木氏の諏訪族形青木氏」で間違いないと観られます。室町中期前後を中心として信濃青木氏の再興を果した「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐)をルーツとする事には矛盾は無いと考えられます。
「従五位左衛門佐」のこの最高位の官職は「皇族賜姓族青木氏の朝臣族」にしか与えられない仕来りの永代官職です。この意味は実に大きいです。
室町中期前のお家のルーツは研究室に詳しく論じて居ますのでゆっくりとお読みください。
このお家の祖となる「青木紀伊守一矩」(笹竜胆の綜紋を宗家家紋)の遠戚の末裔の多くは越前地方3国に多く分布しています。お家の「家紋」は「抱き角紋」ですが、綜紋は「笹竜胆紋」と成ります。
以上ですが、因って、「氏神の守護神の神社名・地域等の詳細」や「菩提寺の浄土宗の寺名・地域等の詳細」の確認を、なかなか判らないと思いますが判る範囲で、創建の時代等が判れば完璧ですね。
念の為に、この和泉守、又は紀伊守の俗名をお調べください。
戒名が「院殿居士」ですとして、当然にこの人の永代官職名「従五位左衛門佐」等が書かれて居る筈ですので、これも合わせてお調べください。個人情報に関わる事でもありますので可能な範囲で結構です。当時の慣習雑学で判りますので。
尚、戒名にも本人が山口で没した場合は「院殿居士」の中にこの内容を読み込んでいる筈です。
読み込んでいなければ先祖名を記憶から後漬けで作った事に成ります。この時に誤った事に成ります。
実は江戸初期と明治初期に一時、過去帳に先祖のこの後付け慣習が起ったのです。
だから、上記した様に家紋の「抱き角紋」は維持しながらも、大化期からの信濃皇族賜姓族の正式な先祖ルーツを持つ筈の越前没の紀伊守(和泉守)まで止まりの途中の祖と成ったのです。
では、又お便りをお待ちしています。
こんばんは。先日はいろいろ教えて頂きありがとうございました。
田舎に行き過去帳を入手してきました。
過去帳で読める一番古い人は青木和泉守です。それより前、永正八年について書かれている事柄があるのですが、漢文のような文章がありどれが人物名かわかりません。
永正〜現在まで数ページに渡りいろいろな人が乗っています。
戒名はみんな居士か大姉です。
この他にどのような事をお伝えすればいいでしょうか。
よろしくお願いします。
長嶋さん 今日は。
おめでとう御座います。本年も宜しくお願いします。
さて、早速のご返事読ませて頂きました。
「個々のルーツ」をより正しく検証するのは、矢張り「菩提寺の確定」に尽きると思います。
ただ、一つアドバイスとして、この「菩提寺」の定義として、”自らの氏だけを祭祀する”としての「独善の自営寺」と成りますが、その家筋により室町期中期以後の場合に置いて、「下克上」が起こりましたので。この「菩提寺」を失ったとする氏がいて「下克上」で母体が弱体化して「菩提寺」を持て無く成った氏が起こりました。この場合は、その寺は近隣の「檀家寺」に定めますが、元より自営独善寺でしたから「浄土宗」の場合は「密教」でしたので周囲に浄土宗寺が無い場合があります。
其処で、「真宗」に切り替えた事が24地方等で起こっています。特に藤原一門の青木氏族にはこの「真宗」の氏が各地に多いのはこの事から来ています。当然に大蔵氏系肝付氏の長嶋氏は真にこの対象の氏に当ります。
九州鹿児島はこの「密教の浄土宗」が殆ど無く、もし浄土宗となればより「自営独善の寺」でなければなら無く成りますが、大化期からの悠久の歴史を持つ肝付氏は元は朝廷の五大官僚族の伴氏との血縁族ですので、慣習上は「古代密教の菩提寺」であった筈です。ところが島津氏との戦いで破れこの「古代密教の菩提寺」は先ず焼失した筈です。
当然に、島津氏は江戸初期の徳川家康の「浄土宗の禁令解除の督奨令」までは浄土宗ではありませんでしたから、肝付氏は浄土宗を維持する事は不可能になっていた筈です。家臣と成ったものが藩主以上の格式の浄土宗を維持し、又負けたのですからこの寺そのものを維持する事は慣習として困難であった筈です。まして家臣に成っていて密教の浄土宗を維持する能力あったかが疑問です。
そうすると、次には「真宗」とする慣習が秀郷一門の血筋を受け継いでいれば絶対的に出て来ます。
鹿児島には浄土宗派は4寺しかありません。高級武士や大名に許されたこの浄土宗寺での確認作業と真宗の確認が必要ですね。
室町中期以降の島津氏に敗退した以降の菩提寺として確認が必要です。
次ぎに、この島津氏に敗退前、即ち、室町期中期前の肝付氏の地元の日向域での浄土宗の菩提寺の確認が必要です。ここには室町期中期以降の肝付氏族永嶋氏3氏の一つの中ほどの永嶋氏と、元からの北よりの大蔵氏系永嶋氏と、日向南よりには肝付氏族長嶋氏が存在していましたので、この3地域の浄土宗と真宗の確認が必要です。南よりの地域の可能性があります。
もとよりこの地域の2つの宗派は少ない筈ですから、調べる事は可能です。
ではその検証の特長とは、「人、時、場」の何処にポイントを肝付氏族長嶋氏の場合は置くかという事に成ります。歴史的経緯から、その寺を菩提寺にするかは、「時>人>場の条件」が成立する事だと思います。前期と後期に別けて、「時」は長嶋氏の発祥期頃、「人」は初代か最大勢力の人物期頃の人、「場」は上記した様に前期と後期に別けてその時代の変革期の定住地と成ります。
これらが、3つ条件が良く矛盾がすく無く合った時に、可能性が最大と観るべきと考えます。
確定は歴史的経緯から鹿児島、宮崎は困難と見られます。可能性の確率ですね。
私は、室町期中期を境に宮崎から鹿児島に移した可能性があると考えます。(島津氏の影響)
そして、この時に浄土宗から真宗に宗派変えをしたと観ます。変えなければ無理な状況に追いやられたと観ます。以前の書きました永正3年頃で 兼重−兼成−兼幸の頃の前後の高山の頃で、天正8年に元の高山を領地として貰い宮崎から鹿児島に移りますので、この「2つの時代期、国の場所、当主の人物」の頃が寺を左右する事が起こっていますので可能性があると見ています。
このいずれかの前期は浄土宗か後期は真宗として観ます。三雁金紋を中心に。
元の勢力域を堅持していた兼成−兼幸の頃と 最大勢力は旧来の地の日向域を確保した兼続と、最低勢力は全てを失った兼道が境に成っています。この3ポイントか菩提寺を決める時期と見ます
兼幸のころか、兼続のころか、鹿児島の兼道かと成りますね。
お家の長嶋氏としては兼続の頃かなと思います。
兼幸は肝付氏の印象、兼道が長嶋氏の印象、兼続は肝付け長嶋氏の両方の期の印象となるでしょう。
菩提寺は氏に取って最も大事な事なので、この3期のところで決めていると考えます。
「真宗」を檀家寺として長く菩提寺役として使っている可能性がある筈です。
浄土宗は江戸期に島津氏の宗派変えをしていますので、4寺しかなけれは島津氏のものと考えられます。元は浄土宗族としても主君と同じと云う訳には行きません。兼道の時に真宗に変えている筈です。
尚、真宗と同じく浄土宗系の時宗もありますが、最後に見つからない時には調べられると良いと思います。
菩提寺は当時の慣習からどの様な時期に定めるかは時代が動いていますので上記の判断が必要です。
兎も角も、論理的に調べてください。
この様な調べた事を書きながら、その当時の時代の変異や経緯を添えながら添書として系譜を作り上げる事で物語が出来上がりますので、子孫として完全な由来で無くてもその生き様を求めると思いますので”より確率の高い論処で”主観を交えながら纏められると良いと思います。
完全な事は現在では特に肝付氏族長嶋氏の場合は困難ですね。
今までの事だけでも纏めれば子孫にとって面白い相当な由来書が出来ていると観ますよ。
最後は元のところの菩提寺の論処だと思いますよ。筆者のお家の論処も書き添えて造り上げれば、肝付氏族長嶋氏の始めての「平成由来書」が出来上がるのではないでしょうか。
そして、その場合、青木氏族として本サイトに投稿して下さい。
サイトもそれでこそ大化期から元は最大氏でしたから、「日本一の氏の最大サイト」と成ります。現在もヤフーによれば最大との話があります。努力はしていますが今だ永嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏の青木氏族まで充分に手が廻りません。
現在もお家のご質問で掲示板には長嶋氏の方もカウンターから観ても見て居るようですよ。
何時か物語風に纏められて投稿して戴くとありがたいですね。
それには青木氏本サイトがご協力致します。
追伸 前回のお答えの左衛門の階級が判りました。
兼重の弟の兼成の子供を養子として永代の左衛門尉兼幸です。
福管理人さん、明けまして、おめでとう御座います。
福管理人さんの仰る「7つの民族」の融合期で、優秀な人材が続々と現れ、今後の日本の復活に期待したいです。期待するだけでなく、自分もその一人として何らかの役に立てられる幸いなのですが。
矢張り、菩提寺が重要なのですね。
鹿児島に関しては、空襲、廃仏毀釈で菩提寺を見つけ出す事は、中々厳しいと思われるのですが、大蔵氏関連で天草、肝付氏の菩提寺、兼続の墓がある志布志市の大慈寺から洗うのも良いかもとは考えていました。
通り名の兼〇の〇の部分は、家の状況に応じているのですね。
家を受け継ぐため、名前に使命が託され、また戒名はその人の事が示され、歴史ある家柄であるほど、命名という物の重要性を福管理人さんのお答えを頂き感じました。
実は、今回のお答えをもらう前、自分なりに、勘左衛門兼直−勘右衛門兼次−勘右衛門兼吉の所を考えてみていたのですが、
以前勘右衛門の『勘』は、その系統を認められた時に付けられるという事を伺っていたので、養子なのに『勘』が付けられたので養子と言っても、何れかの次右衛門の子から男系で繋がっているため、『勘』を付け、また、兼直の『直』も直接の繋がりを持つという意味の『直』を付け、養子であるため、『右衛門』から『左衛門』に変えたのかなと自己流に推測していました。そして、兼直に嫡男が生まれたため、次に繋がるという意味で『次』を付け、兼次とし、次右衛門兼弘から継続されていた『左衛門』から『右衛門』に戻し、勘右衛門兼次としたのかなと想像していました。
『吉』については、長嶌太吉は『太』が付くので、長男で、『吉』は勘右衛門兼吉の『吉』から付けたのかなぐらいしか思い浮かびませんでした。
福管理人さんから、大きな使命を頂き、身も引き締まる思いですが、ある程度のめどが付いたら、青木氏サイトに長嶋氏について纏め投稿できればと思います。
藤原秀郷主要5氏と家紋の研究−長谷川氏との関係の部分でも説を読ませて頂いていますが、大蔵氏と藤原秀郷流結城系長嶋氏の血縁した部分が、これからの課題ですね。
長嶋さん今日は。
お久しぶりですね。今年もくれますが、お元気でしたか。
仰る通り色々ありましたね。少し国民は悲観的に成っている様ですが、何時の世も為政者の人柄や考え方が世情に影を落とします。何も仕事が出来る出来ない、と云うよりはその人間の人としての出来具合に左右されるようです。歴史の史実が物語っています。
青木氏を研究していると「長の資質」に左右されている様です。
でも、私は悲観していないのです。歴史的に観ると、現在明治初期より民が開放されて150年の今の日本人は「7つの民族」が本当に完全に融合した時期だと観ています。
諸外国は日本人ほどに「民族の融合」が進んだ国はないのです。必ず諸国の民族は「種の屯」を固守する習癖を持っていてそこから開放されないで進んでいます。ところが日本人は歴史を見ると一度「屯」を起こしますがある時期を過ぎると、この人族の「屯」を開放する不思議な癖を持っているのです。
その為に雑種化が起こり考え方などもこれに合せて融合させるのです。結局、雑種化が優秀な人種を造り上げます。
そして、今やっと江戸期の士農工商の身分制度で融合差別から開放されて明治期の維新に入り「7つの民族」が丁度今「屯の開放期」に入っているのです。これからは優秀な人材がどんどん出てくると思います。筆者の時代のころからを観ると、今の若者は優れていると観ています。
比較対照として、尖閣の中国人の態度や竹島の韓国人の態度を見ると良く判ります。日本国民の「民度」が極めて上がっていると見ています。中国系が20%程度、韓国系が35%程度も融合民族の日本人なのですよ。然し、彼等とは違っています。ノーベル賞でも中国、韓国と比べても歴然と違う事が判ります。
彼等には今だ「屯」−「融合」のサイクルが起こっていないのです。彼等には直ぐ理性を無くし野生動物と同じくカーとする性癖が残っています。
昭和の始め頃にはまだ日本人にはこの野生本能が未だ中国や韓国の様にあったから神風なぞという馬鹿げた考えに陶酔するという性癖から逃れられなくて第2次大戦という大失敗を起したのです。
然し、100年後の現在は逆に日本では更に融合化が起こっているのです。今が最大の融合期のピークだと観ています。だから民度が上がっているのです。
そして、人として優れた為政者に変わればこの融合力のファンダメンタルを持っているのですから、。必ず日本は蘇ります。安倍氏に代わる事で、景気が良くなると云うよりは、この「融合力」のファンダメンタルを蘇させる事が丁度今出来るかと言う事として観ています。彼もその様に云って論調の基盤としています。
全く賛成できます。
そうする事で景気を始めとして+サイクルのスパイラルが起ると観ているのです。
今、「青木氏と守護神(神明社)」で青木氏から観たその論調を展開しています。
8000もある氏姓の中で、この現象を歴史的に顕著に起こしてきた氏は長嶋氏や長沼氏等の「青木氏族」しか無いと見られます。
さて、話が長くなりましたが、ご質問に入ります。
その前に、総理の安倍氏は中国後漢の阿多倍一門の阿倍氏系安倍氏ですね。陸奥国豪族のあの安倍一族の出自で源の義家に滅ぼされ過酷な運命を辿ったあの有名な安倍氏です。ルーツを後漢にたどり着く安倍氏には必ず成し遂げてもらいたいと考えています。中国人知っているのでしょうかね。中国人も皮肉ですね。
ご質問の通名の件ですね。
実は、意味があるのです。
大蔵氏系肝付氏族長嶋氏も大化期には親族であったのですよね。
「兼・・」で繋いで行く場合、「・・」の部分には前の人の「・・」にある種の意味が繋がる字句を持ってくる事が慣習です。それはその時のその家の状況に応じて「・・」を選択する事に成ります。
古来より、仏教的な意味合いがあって、其処に願いを込めます。その為に「三相の理」がその家の発展に大きく左右されていると云う考えが仏教にはあるのです。
「三相の理」は禅問答でも良く使われていました。
「人の理」「時の理」「場の理」です。この何れかがその家の現状の継承しなければ成らない「理」であると説いています。特に古代密教の浄土宗はこの説で「・・」を選択します。これは確固たる情報手段がないころに用いられた古の慣習なのです。
元は賜姓族が用いたのが始まりです。大蔵氏も賜姓族ですが、これが後に分家方式が起こりこの通名が中級武士以上にも用いられる様に成ったのです。元は仏教的なお祓いの意味合いも強かったのです。
兼定−兼勝−兼忠−兼光−兼直−兼次−兼吉で観てみますと、通名は俗名や幼名と違い子供にそのものに期待する字句ではなく家の状況を託すものであるのです。
例えば、「定」があって「勝」が来ています。肝付氏の歴史の時系列・経緯を観て見ないと正確な事はいえませんが、「時の理」として安定していた状況をより拡大して戦いに勝利する様に、成る様にと、「願い」や「戒め」や「方針」として付けたものとも考えられます。
その「字」の語源や語意を用います。「勝」は「優れる」の語意もありますので「勝利」「勝つ事」は優れる事により「勝利」「勝つ事」になる訳ですから恐らくはこの様に付けたと考えられます。
次ぎの「忠」は前の「勝」に対して「人の理」を配慮して内部の混乱などが起こる事を予想してこれを沈静させるべく子供に託した「忠」と観る事も出来ます。
「直」「次」「吉」「勘」「介」「主」「守」「輔」「資」「工」「修」「理」「斎」とかの「跡目・世継ぎの状況」を指し示す字句でその字句一つに意味を持っています。
これらは、他にも沢山ありますが、「人の理」の官位、官職の字句です。
「人の理」を用いるか、「時の理」を用いるか、「場の理」を用いるかはその家の慣習状況に因って変わりますが、菩提寺の住職がその家の状況を観て客観的に寺の住職が付ける仕組みでした。
菩提寺はその氏の者が住職を務める仕来りでしたので氏の住職が名付け親の役目を果していたのです。そうしなければ氏家制度の氏の中で同じ通名が出来てしまうからで寺の親族の住職がこれを管理していたのです。
従って、当初は菩提寺を独自で持つ特定の氏の慣習でしたが、室町中期頃から上級武士、江戸期に入り中級武士、江戸中期では下級武士までも勝手に使う様に成ったのです。
昔は菩提寺が博学をベースとしていましたので、その氏の歴史関係や戸籍や系譜等を取り纏める役目と情報管理の保管等を果たしていたのです。
その氏の官位官職は全て把握していたので上記の字句をつけたのです。
因みに、「直」は”あたい”と呼ばれ官職で、例えば、古いところでは、後漢人の軍事職能集団の「東漢直」(やまとのあやあたい)があります。漢氏や東漢氏は蘇我氏の軍事職業軍事集団でした。
勿論、大蔵氏と坂上氏と内蔵氏と山本氏等の親族等はこの「直」の「永代官職位」を持っています。
これに肖って付けたと考えられますが、場合に依っては一代限りの官職を獲得したと云う事があります。
この場合は、「人の理」から「兼直」からは次、吉等の「一代限りの官職位」を獲得したとも考えられます。
この状況から観ると、「時の理」から「人の理」に途中から変わっています。
兎も角も、菩提寺や時代性や家の歴史経緯の関係を観て判断すると良いと思います。「官職の状況」を期待して付けたと観られます。
長嶋さんは今は表の情報を集められていると観ていますが、これからはこの様な裏の情報を研究される事をお勧めします。そうでないとこれ以上は進まないし正しいルーツにたどり着けないと考えます。
大蔵氏系はこの「直」と「輔」とかをよく使っています。「兼直」から氏が安定していた事からこの官職位を付けたことも考えられます。
一度この先祖の時の状況をお調べになるとその時の先祖の生き様がよく判ってきます。
筆者は研究の基礎は寺にその解明する糸口があると観て俗名や戒名や通名や世襲名や官位官職をベースに紐解く事をしました。(表に出ている情報には信用出来ない思惑が潜められています。)
それは特定の氏や家などの情報は「菩提寺」がその管理の役目を果たしていたからです。
インターネットや書籍などに記載されているのはあくまでも「氏の外枠のもの」であって直接の自分家の内容とは限りません。よほどの本筋としての資料や証拠が遺されていないと確定は困難です。
この様な揉め事が江戸期に起こって戦いと成った事が各地で多く起ったのです。あくまでも自分の直の家筋は菩提寺にしかないのです。その様な習慣だったのです。菩提寺が無ければそれで終りです。
檀家寺は人別帳ですから履歴は取りません。
そもそも氏を構成する室町期中期前の家筋以外にはこのルーツの概念がそのものが無かったのです。
凡そ200氏程度です。故に、江戸期の姓氏には本来ないのですが、なんとかルーツを造るために搾取が横行して系譜を強引に作り上げたのです。未勘氏族が多いのはこの為です。造り上げた物には当然に慣習からの矛盾が生まれるのです。
そして、その見分ける事が出来る一つがこの通名や世襲名です。
「人、時、場」の夫々3つに関わる「・・」が書ききれませんが沢山あります。「人の理」からでも上記の様に沢山あります。この「・・」と「氏家のその時の経緯」とでこの人物の大まかな事が判ってきます。「人」から来たのか、「時」から来たのか、「場」から来たのかはその経緯で判る筈です。その3相の何れであるかの事を判るだけでも生き様がわかってきます。この慣習は江戸期中ごろから誰でもが使って付ける慣習に成りましたが、本来はある一定の身分の者が宗教的な意味合いで用いていたもので、その慣習は今でもその慣習が遺されていて特定の人に戒名として院殿居士をつけてその人の生き様を読み込む風習が遺されています。
次ぎは世襲名ですが、これも上記と同じです。
左衛門や右衛門はある特定の氏しか世襲名として使えなかったのです。
朝廷より信頼される賜姓族で主に朝臣族や宿禰族がこの役目を果たしていました。
青木氏を第一として藤原氏、次ぎに源氏や橘氏や平氏の賜姓族でした。
阿多倍一門は近衛軍ではなくて自らの物部の兵の職能集団を率いた朝廷軍でした。
左衛門右衛門はこれは宮殿と皇族の身辺警護の近衛軍の官職名です。
普通は左衛門などの後ろにこの階級が付くのが本当の呼び名です。
青木左衛門上佐信定とかと成ります。この様に後ろに付いているのが本当の名です。
江戸初期では最初は幕府からの推薦で朝廷に金品を渡し一代限りの官職名をもらいましたが、中期以降は誰でも勝手に使う様に成りました。
大蔵氏は賜姓族でしたのですが、肝付氏がこの役にあったかは疑問ですが、本来は意味を持つものでした。兎も角も本家筋が使うこの世襲名の前に「次」と「勘」を使うのには意味があり、「次」とか「継」とかくると、婿養子や跡目養子や貰養子等が入るとこの状況を明確にする為に「次」又は「継」が附けられます。
ところがこの「次」から3代続きで養子がなければ、その時点で一応その男系血筋が整った事に成りますので、その時点で”血筋は整いましたよ”として世間に宣言として「勘」をつけるのです。
(昔は「勘」に対して整っていない場合は「未勘」と云う言葉を使われました。)
この様に、その状況に因って前にその状況を意味する字句を持って来るのが慣習です。
その字句でその時の世襲状況が判る様に成っているのです。「万」とか「作」とか「本」とか「継」とか「兵」とかです。
次ぎに左衛門と右衛門には大した意味がありません。
「左」を主として「右」の格式と成りますので、ここで継承に何か状況を下げる事があった筈です。
例えば、格式で下にある分家から跡目をいれた等の事です。
ご質問の2件はその時の家の状況を何らかの形で物語るものに成っているのです。
家の歴史の時系列と合せて観れば直ぐに判る様に成っていて、昔は菩提寺に行けばそれが判ったのです。従って、檀家寺ではなく菩提寺がないお家ではこの慣習は本来無い筈です。江戸中期以降の民の慣習と成りますので意味を持たなく成ります。
以前より、菩提寺を重点的にお調べになる様にお勧めしましたが、昔のルーツはこれ無では無理と考えます。そもそも菩提寺の役目はその氏等の関連する現在の市役所の役目をしていたのですから、其処に殆どの史料関係が遺されていたのです。
事程左様に、歴史的な事件などの経緯を時系列的に纏めて、それと菩提寺の資料等と付き合わせる事で何かが判って来ます。そのような努力無では生のルーツがでないと思います。
そして、それを文書や物語化して後世のロマンとして伝統として遺して上げれば後世の人の心の巾や深さが高く成ると考えます。
そうすれば、私達より優秀な融合で生まれた子供達に大きな心の影響を与えるのではないでしょうか。それが私たちに与えられた務めであると思います。
筆者はその意味で青木氏に限定してその務めを果たそうとして研究して投稿しています。
幸い中学生や高校生が本サイトの投稿を多く呼んで頂いている事がカウンターではっきりと判っています。
長嶋さんも纏められましたら是非物語風にしてでも青木氏サイトに投稿してください。室町期まで「青木氏族」として続いた長嶋氏ですからね。(青木氏と永嶋氏と長沼氏 進藤氏と長谷川氏の5氏の青木一族)
(青木氏より大きい氏の悠久の歴史を持つ永嶋氏が自らの氏書を纏めていないのが不思議ですね。青木氏と佐々木氏が長嶋氏の事を調べているのもこれまた不思議ですね)
では、又お便りください。お待ちしています。
福管理人さん、お久し振りです。
今年もあと僅かとなりました。世間は師走、日本の中で大移動が起きていますね。
このサイトと巡り会い、一人ではなかなか進まないルーツ探しが、福管理人さんの史実、考え方など、様々と貴重なご意見を頂き、感謝しています。
前回のお答えで、地名には意味があり、歴史を調べていく中で、重要な材料であることがよく分かりました。
安土桃山期から江戸期の大蔵氏族肝付系長嶋氏について、確定ではありませんが、進展しましたのでご意見を頂きたくメール致しました。
現在肝付宗家の残された系図として、
・・・兼続−良兼−兼道(兼護)−兼幸・・・
と兼道後妻の関連、税所家と新納家が宗家再興し、最終的に肝付系の検見崎家が養子に入り、現在に至ってり、肝付氏を受け継いでいます。
その、系図として、
肝付兼続の子として、追放された肝付兼亮、肝付兼樹がいます。
そして、
肝付兼樹−不詳の子−兼弘(鹿児島・佐土原両島津藩の家臣として仕える)
とあります。
肝付兼道に兼幸以外に子がいて、若くして、兼樹の所へ養嗣子となった。
これが不詳の子事、肝付幸之丞兼継であるようです。
兼樹、兼継は、同じ大蔵氏族いるの天草へ逃れ、そこで武家商人となった。
ここで、二足の鞋策が始まります。
そして、兼継の息子、肝付兼弘が、家老の地位にある肝付氏分家を頼り、薩摩・佐土原藩家臣となった。
この肝付兼弘が肝付次右衛門兼弘であり、初代長嶋次右衛門であったようです。
つまり、長嶋次右衛門兼弘となります。
そして、
長嶋次右衛門兼弘−次右衛門兼定−次右衛門兼勝−次右衛門兼忠−次右衛門兼光
−長島勘左衛門兼直−長島勘右衛門兼次−勘右衛門兼吉(長嶌太吉)と続いたようです。
勘左衛門兼直は養嗣子のようです。
そこで、伺いたいのが、
1.兼定−兼勝−兼忠−兼光−兼直−兼次−兼吉は、意味のある名なのでしょうか。
2.次右衛門−勘左衛門−勘右衛門の変化にも意味があるのでしょうか。
宜しくお願いします。
ありがとうございます。
早速母に話しました。
良い家なのは分かっていたけど、まさかそんなに歴史があるとは。と驚いていました。
お寺に行って過去帳を見てくるつもりです。
あと役所へ行って遡れるだけ戸籍を出してもらおうと思います。
山口の青木さん 今日は。始めまして。
ようこそ全国の青木さんが集うサイトに御越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
サイトには青木氏に関する膨大な研究資料を準備していますので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。ご質問やご不明な点や土地の青木氏に纏わる伝説などありましたら是非お便りください。
さて、ご質問の件ですが、頂きました情報は以下の通りですが、時代性が良く判りませんがお答えはルーツを確定する条件が揃っています。
山口県東部、浄土宗、土地の総代、江戸期には医者、家紋が「丸に抱き角紋」、親族が宮司、古代には同族血縁、白い羽二重着用、青木周蔵との関係
以上ですが、お家の母方ルーツは次ぎの通りです。
先ず地理的に検証します。
この山口県東部の日本海側から米子や八頭にかけて2つのルーツの青木さんが定住していました。
A 一つは信濃の「皇族賜姓族」の「足利氏系青木氏」
B 二つは讃岐の「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」
この2つの青木氏は宍道湖と美作を縦に東西を境に山口側、島根側と鳥取側とに定住していました
日本海の宍道湖から東側米子八頭まではAの足利氏系青木氏が定住しています。
宍道湖から西側は島根の日本海側と美作と安芸にはBの「藤原秀郷流青木氏」が定住しています。
そこで、地理的には「山口の東部」と成りますと、瀬戸内に勢力を張ったBのルーツの青木さんと成ります。Aの青木氏は北部宍道湖ギリギリまでしか延びていません。
そこで、次ぎに家紋から観て見ますと、「丸に抱き角紋」は「皇族賜姓族」の「信濃諏訪族系青木氏」と成ります。
ただ、この「諏訪族系青木氏」は武田氏に味方して3つの武田氏系青木氏に分流しています。
「諏訪族青木氏」と「諏訪族武田氏系青木氏」の「皇族賜姓族青木氏」の2氏と、「武田氏系諏訪族青木氏」の「武田氏系」の青木氏との3つに成ります。何れも親族ではあります。
身分家柄から、諏訪族青木氏>諏訪族武田氏系青木氏>武田氏系諏訪族青木氏と成ります。
この3つの内のどの氏であるかは、「浄土宗」と「白の羽二重」と「同族血縁」と「神職の宮司」の情報で確定します。
少なくともこの「4つの条件」に全てに完全に一致するのは「諏訪族青木氏」です。後の二つの氏はこの4つの条件のいずれかに昔の青木氏の慣習に一致しないのです。
この「信濃の諏訪族青木氏」付いては次ぎの通りです。
「信濃の皇族賜姓青木氏」は、天皇の「第6位皇子」が「信濃の守護王」として奈良期に信濃に定住していましたが、この「信濃の皇族賜姓青木氏」の一族が土地の「豪族の諏訪族」との跡目養子の血縁をします。この時、この「信濃皇族賜姓青木氏」には男系の嫡子に恵まれず諏訪族から跡目養子を採りますが、再び男系の跡目嫡子に恵まれず、当時の武家の慣習により「皇族賜姓族」ではありますが、女系と成った為に男子の養子先、つまり「諏訪族」の系列に組み込まれます。
これが「信濃皇族賜姓青木氏」の「諏訪族系青木氏」です。
前2つの「諏訪族青木氏」には「古代密教の浄土宗」に入信する事が許されます。
平安期から室町期までは「浄土宗」は「古代密教」ですので特定の限定した氏(皇族系)しか入信を許されませんでした。そして入信すると独自独善の青木氏だけの寺、つまり「菩提寺」を建立する仕組みでした。
昔は誰でもが自由に寺社を建立すると云う慣習ではなく、平安期の朝廷から特別に許された身分家柄の氏しか建立する事は出来なかったのです。
同じく、「皇族賜姓青木氏」は独自に「伊勢神宮の皇祖神」の「子神」として「祖先神の神明社」を建立する義務を負っていました。この「神職」には一族から選ばれた者が宮司を務める慣習でした。
「青木氏との守護神」(神明社)の投稿中の論文を参照して下さい。
当然に、「神明系5社の神社」も「皇族賜姓青木氏」が独自に建立する権利を持っていました。
この当時は他の氏が勝手に寺社を建立する権利を持っていなかったのです。
ごく限られた氏しか持っていませんでした。
浄土宗は入信が自由に成ったのは江戸初期からです。それでも上級の武士だけでした。
この事からすると「信濃の諏訪族青木氏」であり「神職」で「浄土宗の寺の総代」であった事はこのことに適合しています。
それに、少なくとも慣例により室町中期までは「白の羽二重」の着用は「皇族の朝臣族」(5家5流の皇族賜姓青木氏一族)にしか認められて居なかった慣習でした。儀式や目出度い時に着用する習慣でした。
「信濃諏訪族青木氏」は「皇族臣下族」ですのでこの権利を持っていました
この事で面白い事件が歴史にあります。
織田信長が甲斐に凱旋した時に、甲斐の「皇族賜姓族青木氏」の者が白馬に乗り白装束の儀礼の形で迎えたのです。ところが皇族賜姓族の皇族の慣習儀礼である事を信長が知らず、怒って馬から引き摺り下ろし殴る蹴るの仕打ちをして、後から失笑を受けたのです。歌舞伎にも成ったくらいの事件です。
「第6位皇子で朝臣族の臣下族の5家5流の皇族賜姓族の青木氏」にしか認められていない着衣です。
これは大変な家柄を示す「同族血縁の慣習」と共に「口伝」の重要な貴重な情報です。
余り知られていないこの様な昔の「朝臣族の伝統」の慣習を知っている事が「信濃の皇族賜姓族」の証しでもあります。
次ぎにこの「5家5流の皇族賜姓族青木氏」は奈良期から「皇族の血筋」を維持する為に、つまり、「純潔性を保持」する為にある一定のルールに従い同族間の血縁を繰り返したのです。
皇族第4世族の範囲の「真人族」と「朝臣族」の者に与えられた特別氏の慣習でした。
次ぎの「青木氏の守護神の−22」でも詳しく論じます。
「5家5流の皇族賜姓青木氏」は「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」に定住しています。
因みに、筆者は伊勢の青木氏です。お家はこの信濃青木氏です。この二つの皇族賜姓青木氏は同族血縁を含む「商い」でも深い関係にありこの状態は明治期まで続きます。
この二つの賜姓族の氏は「皇族武家」でありながら片方で「2足の草鞋策」を採用し、明治期まで「古代和紙」を扱う950年も続いた超大豪商の一面も持っていたのです。
1025年頃から守護としての租税の扱いを本格的に「商い」としても営みました。
お家は「神職」でもあった事と家紋に丸が付いている事から判断して総宗本家筋の分家であった事を物語ります。
つまり、この「4つの条件」を満足する氏は「5家5流の皇族賜姓青木氏」の一族一門しかありません。
さて、ではこの養子血縁先の「信濃諏訪族」とはどの様なルーツを持っているのかと云う事ですが、これもはっきりしています。
お家の「諏訪族」は、元は中国の漢の国があってこの漢の国も滅びますが、その時、その内の一人の光武帝と云う者が中国の東部と朝鮮半島北部にかけて征圧して「後漢」と言う国を再び造り上げます。
更に618年頃にこの国が完全滅びて、この国の全ての200万人の民は645年の頃に掛けて末帝の子供「阿智使王」と「阿多倍王」に率いられて日本の北九州に上陸し瞬く間に九州全土を無戦で制圧し播磨の手前まで勢力を広げます。日本の当時の国の32/66を占有します。
南九州の「阿多」と「隼人」と云う地域に居を構えていました。その後、朝廷から呼び出され首魁の阿多倍王は伊勢北部伊賀地方の半国割譲を与えられて住み着きます。
後にこの一族は敏達天皇の孫の芽淳王の娘を娶り皇族と血縁します。
大蔵氏、内蔵氏、坂上氏や阿倍氏や平清盛の先祖の伊勢平族を発祥させます。
大蔵氏は九州全土の最大豪族で自治を認められた氏です。
然し、この後、天智天皇の頃に戦わずに帰化します。
この帰化した内の200万人の「職能集団」の民の内、「大型馬」を飼育する「馬部」の職人等の集団が信濃や甲斐の土地を開墾させる為に移動させて配置します。奈良期末期です。
この職能集団の大型馬を放牧飼育する馬部の首魁がこの「諏訪族の長」なのです。
この集団が平安期には土地の大豪族に成ったのです。
この諏訪の土地の豪族と信濃皇族賜姓族との血縁よって上記した経緯から諏訪族青木氏と成ったのです。
この「信濃皇族賜姓青木氏」もその分家筋の「諏訪族青木氏」も1370年くらいの悠久の歴史を持つ氏なのです。何れも同時期にこの天領地の信濃の開拓民を治める為に配置されたのが「信濃皇族賜姓青木氏」なのです。日本書紀にもお家のこの二つのルーツのエピソードが出てきますよ。
つまり、お家はこの様な「重要な情報」を口伝として維持してきている証拠です。
お家はこの内の「信濃皇族賜姓族の分家の諏訪族青木氏」である事を強く物語っています。
お家のルーツの信濃の総宗本家は現存しています。この本家は綜紋の家紋は「笹竜胆」です。
「抱き角紋」の「諏訪族系青木氏」は元はこの皇族朝臣族の家紋と成る綜紋の「笹竜胆紋」を家紋としていましたが、跡目に欠けて女系と成った事で「諏訪族系」と成ったために家紋が諏訪族の家紋と成ったのです。しかし氏の綜紋は「皇族朝臣族の笹竜胆紋」なのです。
「丸付き紋」ですのでこの分家筋に当ります。
これ等の事は全て研究室に詳細に説明していますのでそれをお読みください。
ところで、何故、山口なのかと成ります。
検証を続けます。
この「諏訪族青木氏」には有名な信玄と諏訪族との関りがありますが、この「諏訪族青木氏」の一部が織田信長と武田勝頼との戦いで敗退して、「神奈川の藤原秀郷流青木氏」と「新潟の藤原秀郷流青木氏」を頼って逃げ延びます。ここ神奈川からまたその一部が栃木に移動して武蔵の本領の宗家の「秀郷流青木氏」の力を借りて、この「諏訪族青木氏」は栃木群馬の北部を獲得して復興させます。
そして、「藤原秀郷流青木氏」の家臣に成ります。
この神奈川と栃木の何れかの「諏訪族青木氏」が、「藤原秀郷宗家一門」が安芸と美作一帯の守護として赴任しますが、この時、この「諏訪族青木氏」の一部が家臣として「秀郷流青木氏」に従って安芸の赴任先に護衛団として同行して移動します。
この「諏訪族青木氏」の可能性が先ずあります。
次ぎに、武田氏が隆盛を極めた時期に「安芸の分家武田氏」がこの安芸の一部を獲得して安芸の武田氏が定住します。この時に武田氏の家臣と成った「諏訪族青木氏」が付き従います。
この時の「諏訪族青木氏」である可能性があります。しかし、この青木氏には上記の「4つの条件」の権利を持つの家柄ではありませんので異なると考えられます。
更に、室町期中期までに「青木氏の守護神」の「祖先神の神明系5社」の566社の内の神明系社の建立を広島に5社や山口に1社建立していますが、この時に派遣された信濃から派遣された諏訪族青木氏である可能性もあります。
実は、信濃の「皇族賜姓族青木氏」から各地に、特に陸奥域から安芸域にかけて神明社系の守護神の神職や青木氏が多く住む青木氏の浄土宗菩提寺の住職としても派遣されています。
(地名地形データーベース参照)
この山口か広島の神明社系住職であった可能性があります。これには、柏紋の住職と抱き角紋の家紋を持つ住職の青木氏が多いのです。
そもそも、諏訪族は「信濃諏訪大社」を産土神の守護神としています。
然し、お家は「純粋な諏訪族」ではなく、血縁による跡目の掟から諏訪族系に組み込まれた皇族賜姓族の青木氏ですが諏訪大社系の住職も考えられます。
然し、この場合は、普通は宗派は「神道」と成りますが、神職の住職でありながら「浄土宗」であるとするとこれは皇族賜姓族だけに認められた慣習ですので、諏訪大社の神職も考えにくい事に成ります。
米子の「信濃皇族賜姓族」の「足利氏系青木氏」が山口東部に移動した可能性がありますが、記録にはありませんし、「神職」と成ればのでこの青木さんでは無いと考えられます。
且つ、浄土宗の総代を務めたとすると「神職の家系」であり「浄土宗菩提寺の総代」と成りますと氏の特定は限られてきます。「皇族賜姓族青木氏」と限られます。
以上4つのルーツからの移動定住によるものと考えられますが、3番目の信濃から派遣された「信濃皇族賜姓族の諏訪族系青木氏」と成ります。丸付き紋ですのでその分家に当ります。
四つ鹿角文様の抱き角紋ですから本流の分家筋と成ります。
普通、本来は移動定住は、ある限られた「許可を得た者」の定住と「婿入りした者」と成りますので、普通の者は何れ元の国に戻る必要があります。勝手にその土地に定住する事は「国抜け」になり一族打ち首の罰を受けます。然し、これをクリャーする者として、それには「神職か住職かの者」と成りますのでお家はこの何れもの条件を備えています。
更に、江戸期には「医者」であったとする情報から、昔の慣習の傾向の一つとして、神職や住職の部屋住みの後継ぎ(嫡子外の者)が人を救うと云う立場から「医者」を志した傾向が江戸期までの当時の社会全般にあったのです。
誰にでもなれない医者に成る為の条件が神職や住職の氏には多く備わっていたのです。
情報が3番目の青木さんとしては全て雑学上から矛盾がありませんのでこのルーツかと考えられます。
養子の医者の青木周蔵に付いてはお家の情報からこのルーツではありませんので無関係と考えられます。
「信濃諏訪族青木氏」は現在も西諏訪地方に集中して定住しています。おーい青木さん!と呼べば周りからハーイと答えが来るくらいですよ。
諏訪はいいところですよ。
上記の「3番目の青木さん」を確定するには他にチョトしたことでも言伝えや口伝などがありましたらお便りください。それで意外に確定する事が多いのです。
故郷の実家に帰られたらその時には何か見付かるかもしれませんね。
菩提寺のお寺の過去帳に記載の有無や戒名や過去帳の最も古い人、仏壇の形式や明治維新の戸籍簿や町村の周囲の村の景色や神社の名前や社歴や神明社かその場所などで雑学を駆使すれば判ります。
「村の名」を「氏名」をそのまま使える許された氏は青木氏だけです。他は地名を付ける事が慣習です。
この付近には青木村が無いので、上記の第3番目のルーツに成ります。
藤原秀郷流青木氏は116氏の青木氏で全国の24の地域に分布しています。皇族賜姓青木氏は25氏で極めて限られています。(地名地形データと研究室参照)
賜姓族ではない皇族青木氏は4氏だけです。
お家はこの25氏の中の本家筋の分家に当ります。
この様に実家のルーツは何かの方法で伝統として伝えられれば良いですね。
子孫に与えられるロマンがありますよね。
研究室にはお家の先祖の生き様が詳しく論じられていますので楽しんでゆっくりとお読みください。
この掲示板にも色々な諏訪族の方のお便りがたくさんありますので掲示板検索でもお読みください。
そして諏訪族青木氏の事を集めて纏めて子孫に遺してください。
このHPの左メニューには青木氏のテーマソングがありますので一度聞いてください。歌の物真似で有名な「青木隆治」さんが歌っています。
では又お便りやご質問をお待ちしています。
こんばんは。
エラーになってしまい、連続投稿になっていたらすみません。
母方の実家が青木家で、あることから先祖やルーツについて調べています。
そしてこちらにたどり着きました。
早速なのですが
母方の実家は山口県東部で、かなり昔からそこに住んでいます。
菩提寺は浄土宗で、代々そこの総代をしているそうです。
江戸時代は医者の家系であったようです。
家紋は丸の中に四本抱き角です。
家紋は丸に抱き角です。角が5股に別れています。
母の叔父やそれ以前も青木家の人間がとある神社の神主をしているそうです。
青木周蔵とは遠縁になるとかならないとか。はっきり分かる世代はもう親戚にいません。
母より古い世代は青木同士が結婚していたらしいです。
母の祖父が時折、白い羽二重を着ていたのが不思議だったそうです。
以上くらいしか分からないのですが、よろしくお願いいたします。
今日は。
秋が深まってきました。
歴史探訪には最高の季節ですね。
これからの寺探訪には最高の季節です。
前もっての雑学で寺めぐりはより一層面白い探訪と成りますね。
さて、私も昨日まで鹿児島に滞在し帰ってきました。
前回のお便りの「阿多」と「阿倍」に付いても調べました。
「阿多」は現在も存在しますが、「阿倍」も今でも南薩摩のこの地区では「阿倍地域」として地名は無くなりましたが、小さい地区の年寄りの住民の中では、「4つ位の部落の総称」として人々の会話の中では使われている言葉で残っている様です。
「阿多」は残っていますのでマピオンか何かで確認してください。「阿多地区」の道路を通り土地の話を聞きましたが、一人の85歳の老人は”中国から来た先祖”と言う言葉を、昔は地区の年寄りの言葉に挙がっていた様ですが、今はその様な「言伝え」が消えているとの事でした。
阿多−阿倍の関係の話も村同士の所縁の話が昔はあった様で、阿多には「村主様」(すぐり様)が居た話があったとの事です。「阿倍」は現在は「阿部」と言う字に成って「阿部さん」が多い地域が未だある様です。「阿部」と「阿倍」と違うのですが、混同されて阿部に変わってしまった様です。
「阿部」は阿の職人で、「阿倍」の配下ですが同じ呼称なので何時しか間違われたのでしょう。
地名のもつ意味もこの様に消えて行くものですね。
次ぎの質問ですが、「伊勢長嶋殿」は桑名郡です。ただ注意しなくては成らない事は今の地形や地名や郡や県や国は大昔からその範囲等が大きく変化していますので、現在風に地名を追っても答えは出ません。
「伊勢丸山」の呼称にも、この「伊勢」の呼称の言葉には特別な意味を持っていて、朝廷より特別に禁令を発して使われていたので、現在風の地名呼称とは異なります。この事は論文で論じていますが、上記した様に「阿多」や「阿部」の様にいくつかの「総称」で使われている事もあるのです。
つまり、昔の歴史的経緯のある「地名」は「地名」そのものではなく、ある「意味」を持っているのもあるのです。
青木氏や藤原氏北家筋等を除く殆どの氏名は慣習や嵯峨期の禁令から地名から名乗るものとされて来ているもので、従って、其処の地名にはその「氏の歴史」が染み込み「地名の歴史」と成っているもので現在の地名とは違うのです。
と云う事で「歴史の地名」と「現在の無意味の地名」とは異なっている事をご承知ください。
最近、残念な事ですが「町村合併」によりこの「歴史のある意味のある地名」や「総称地名」が無く成っています。「総称地名」の慣習は殆ど消えています。
昔の地名呼称には「地名」そのものでは無く、「総称名の地名」もあるのです。
これは「氏家制度」から来る仕来りです。
歴史の「地名呼称」はその雑学でしてこれも歴史雑学として認識してください。
ですから、探しても無いと言う事、見付からないと云う事が起るのです。
その時は、地形や地名や郡や県や国 地名か総称地名かの確認が歴史の雑学として必要です。
お便りから観て、お家は地名に付いて「現在と古との慣習の違い」を混在している様に思われます。
昔の地形図の雑学が必要です。
「丸山」は従って、「伊勢丸山」が正しいのです。
「伊賀」は現在では伊勢国北部伊賀地方と成りますが、伊勢は大きく地形や地名や郡や県や国に歴史的変化を起こしていますので、広域伊賀の地名として考えてください。そして、この伊賀もその勢力図で時代で変化しています。呼称の「伊勢」も一時期3つに分かれて歴史が変化しています。
「総称の伊勢」と「地名の伊勢」とその「地名の伊勢領域」が時代で異なっていますのでこれを判別しながら地名を観る事が必要です。
特に「青木氏の守護神」の論文でも書いていますが、伊勢には「伊勢・・]と云う地名が現在でも多いのですが昔も多かったのですが、この呼称方法には意味を持っていたのです。
「丸山」はこの地形状から「津」と「松阪」と「伊賀」の三角州一帯の海側部を云います。
この州が昔は伊賀の近くまで三角州に伸びていた事から「伊勢丸山」と「伊賀の丸山」と成っていて、この州には長い広い松林があったのです。現在でもこの地域には地名の松の付いた地名が多くあります。
この名残ですが現在とは全く異なっています。
最初、信長は海側の「丸山」のところは失敗に終わりましたので、伊賀を攻めてお家のお便りの云う後の丸山城に成ったのです。
インターネットの全ての情報をよくご利用の様ですが、この辺の雑学の知識と説明はネットでは不足していますので注意してください。
それと前記にも書きましたが、「ある種の思惑 つまり、学説、主義の引導と洗脳」等を潜めていますのでこの点も考慮に入れてご利用される様にする必要があります。
特に地方機関のネット説明にはその前提と成る資料の「真偽の如何」と「土地の宣伝」を目途として書いている物が殆どで例外がない位です。それはそれとして信じて其れなりに使うことには反対する意思はありませんが、趣味でマニアで歴史をより正しく理解し楽しむとすると云う事ではこれ等を除外しての利用と成ります。青木氏での論文はこれらを取り除く努力を繰り返しています。
特に、「青木氏」も「藤原氏の長嶋氏」も「日本最大の歴史的な経緯」を保持し、他に悠久の歴史を持っている氏ですので、この「ある種の思惑」に左右されない探求が必要です。
この思惑が入れば何が何か判らなく成り、矛盾の多く孕んだストリーや生き様が出来て仕舞います。
次ぎは、”朝熊山の金剛證寺と丸山の金剛證寺の奥の院として建立された庫蔵寺・・”のご質問ですが、ここは歴史的に3氏に依って建立修復されて、名目「伊勢神宮の鬼門寺」として建立されたもので、伊勢に関係する寺としては承知していました。
然し、そもそも、上記の通りから考察すると、ここは最初は隣の高野山の弘法大師(空海)に関係する寺で、高野山の密教修業の修験場でした。ところが、真言宗から時代の変化の影響を受けて、その後に元は禅宗寺で、現在は臨済宗です。ですから前回のお答えとは全く無関係です。
この寺関係には、現在でも修験者や禅僧の歴史的な行事として残っています。
上記の通りですので全く意味合いが「伊勢丸山」とは違います。
そもそも、この「伊勢の鬼門寺」と言う説も建前論で、実際は「伊勢」の土地に皇祖神の伊勢神宮にこの様な寺を建てるには禁令に対して憚られ世間から非難されます。そこで、この様な建前を付けて「伊勢」を護る寺だとして「高野山金剛峰寺」に似せて「金剛・・」としたのです。この建立時期として1650年頃の年代ですので、この「伊勢」の仕来り慣習が弱まった時期に建立されているのです。
次ぎに「願澄寺」は信長に徹底した掃討作戦で焼き討ちに合いましたので無く成っています。
「2つの伊勢青木氏」を除く2つの平安期からの名籍の「伊勢長嶋氏」や「伊勢北畠氏」は滅亡し、衰退していますので、氏の「菩提寺の寺」を管理維持する力が無く成っていますので寺は元来無く成っているのです。
そもそも昔の「菩提寺」の寺の維持方法は、明治以降の現在の「檀家寺方式」ではありませんので其処のところの雑学が違っています。「菩提寺」と「檀家寺」との認識の混同が起こっていますよ。
その中でも特に「伊勢長嶋氏」は独自の「独善の菩提寺」を持った氏です。そして其処に菩提寺の一族の住職が世間から尊敬されていた人物であって「氏の長」でもあったのです。
平安期の昔は朝廷の許可を得て高位の特定の氏しか寺社を建立する権利を有していませんでした。この事でも誰でもが「菩提寺」を持つ事は出来ませんでした。
つまり一般の氏が勝手に寺社建立は出来ない慣習でした。
従って、その「菩提寺」などを持つ氏が滅亡し衰退すれば、必然的にこの菩提寺の「寺の維持」は殆ど無理と成ります。「廃寺」と成って消えて行くのみです。
従って、他の建立する権利を有していない出来ない氏は、後は何処からか廃寺に成った寺などを見つけて来ては、「修復」などの理由を前提として建立する以外には方法が無く、上記の「金剛證寺」等にしても現実に明確に3氏によるこの方法を使っています。
そもそも、寺を自由に建立する権利を誰にでも与える事は宗教集団とその信者の力が強く成る事を恐れる「政治的な禁令」でした。この「禁令」は内容を変えて明治期まで続きます。
この問題事件は頻発して平安期から起こっているのです。
現在でも同じで頻繁に「宗教事件」が起こっていますので法律で規制されています。
ご質問の根拠のこれ等に関してはこの雑学が欠けています。
ネット情報は、これ等の情報が書かれていず、また現在的な感覚で間違って説明しているものが殆どですので、この雑学を考慮すると話が逆転したり矛盾する事に成るのです。
青木氏の論文にはこの事を書いていますのでお読みください。現在、「青木氏と守護神」でその事を詳細に論じています。故に、藤原秀郷流青木氏族の一氏の九州大蔵氏系肝付族の伊勢長嶋流長嶋氏としてもこの事もルーツ探求の上で上記の事も含めて知っておく必要があると思います。
以上ですが、特に地名には「歴史の有無」の呼称、総称地名、地形や県や国等の区分けの違いがありますので注意が必要です。
特に「地形の変化」が興味がありますよ。この「地形の変化」が地名の変化に大きく繋がっています。
友人にこの「地形の変化と歴史の関係」を趣味として研究している人もいるくらいです。
話をよく聞きますが面白いですね。何か歴史方程式がある様ですよ。
では又お便りを下さい。
福管理人さん、早速のお答え有り難う御座います。
非常に参考になりました。
前回のお答えでは、伊勢長嶋様は桑名郡の方でしたね。
願澄寺というのは、今も存在しているのでしょうか?
メールした情報から、自分なりに調べ、朝熊山の金剛證寺と丸山の金剛證寺の奥の院として建立された庫蔵寺に焦点を絞ったのですが、伊勢丸山はその地域で宜しいのでしょうか?
丸山城をネットで見ると伊賀となっていたのですが。
そして、その庫蔵寺、または金剛證寺の住職となられた伊勢長嶋氏はいるのでしょうか?
実は、先週、休みが取れ、丸山の庫蔵寺を訪れてみました。住職さんが気さくな方で、色々とお話しをさせて頂きました。これといった、収穫は得られませんでしたが、自然にあふれ、猿、猪、狸を冬に備えた食糧調達のためか出会い、おまけの付いた旅でした。
静岡の長嶋さん 今日は。 お元気でしたか。お便り読まして頂きました。
ありがとう御座います。
さて、お便りの文面に付いては何とも云えませんが、肝付と伊勢とはつながりがある事は否定出来ませんが、「伊勢」と云う土地柄は全国66国の中では特別で京都と同じく雅な特長を持っています。
ですから、お便りのような事は環境から云っても有りうる絵柄ですね。
「伊勢長嶋殿」と呼ばれた人物も僧侶で信長の生き様に仏心から反発して全てを捨てて戦った人物です。伊勢長嶋氏は元来、悠久の歴史を持ちますが、基本的には青木氏と同じく戦いを排除した家柄でした。藤原秀郷流青木氏の伊勢青木氏と同じく一門の伊勢長嶋氏も同じ流れを持つ一族ですから同族血縁を主体とした氏家制度の中では血縁はしていると考えます。従って、その生き様は秀郷流伊勢青木氏と皇族賜姓伊勢青木氏とは血縁関係を持っていますので伊勢長嶋氏もこの三氏の血縁関係はあったと考えられます。
とすると、この伊勢長嶋氏も雅な絵柄の生き様をしていた筈です。伊勢に住まいすれば無骨な武士の生き様は不可能ですし、そのような家筋と血縁する事も出来ない筈です。
また、生きて行く事も排除されて出来ない筈です。
だから、僧侶の「伊勢長嶋殿」なのであり周囲から特別な呼称で尊敬されていたのです。人を導いていたのです。
この人物の生き様に酷似していますね。
さて次ぎは土地柄から、お説の場所に付いては、同じようなところが伊勢にありますよ。
有名な場所で古来から名跡でした。伊勢丸山と云う土地です。
ここは、そのような地形から、信長はここに伊勢征圧の海側から攻める前線城を築こうとして2つの伊勢青木氏と戦います。「丸山城の戦い」と云う有名な戦いで信長の戦歴中、実戦で負けた戦いは此処だけです。
2つの青木氏が勝ったのです。その有名な事件が歌舞伎にも成っている「信雄蟄居」と「滝川一益蟄居の事件」で信長烈火の如く怒り息子の信雄を家来の面前で殴り飛ばした事件です。この為に信雄は織田氏の中で唯一生き延びた織田氏です。
その有名な場所に酷似しています。
伊勢長嶋攻めで伊勢長嶋氏も信長に負けます。この一つが上記の「伊勢長嶋殿」の戦いなのです。
一連の3つの「伊勢攻め」です。
人物と場所と生き様とその映像がよく似ていますよ。
印象の領域ですの範囲でしかお答えできませんが、以上の通りです。
早速のご返事ありがとうございます。
その様にしてみます。
しかし、今年の暑さにはまいりました。
彼岸になりましたら、あの暑さが、無かったかの様に函館に秋がきました。
日本中、あちこちで色色な事が起こっております。
平凡な毎日が一番なのですが、なかなか、そうはいかないですね。
お体にきおつけて、お過ごし、ください。
講習会は、苦痛なのですが、京都いきが、愉しみになりました。
相談してよかったです、
また何か、報告させていただきます。
よろしく、おねがいします。、
新潟の青木さん 今日は。
さて、お答えがお役に立てて良かったです。
これからも色々な地元のお話など有りましたらお便りください。
この度、約400年前とのお便りに付いて、まさに時代年数が一致してますね。
石川付近に移り其処から新潟に移動されたとすると江戸初期前後の事ですので、先ず間違いはないと考えます。
次ぎに、商号がカギに十字紋との事ですが、このお便りも更に証明しています。
日本海沿岸には昔は港が多く、且つ、「山陽道」に繋がる「北陸道」とそれに平行に「商業港」が多くあったのです。 そしてこの沿岸沿いには陸奥現在の青森県まで商業港を繋ぐ「商業道」があったのです。
現在では「細い道路」として「古道」として消えていますが、あったのです。
そして、「カギ」は船の碇を示し、「十字」は当時の輸送用の「荷車の大八車」の車の縦横の輪を支える軸を示しています。つまり、「海陸の輸送業」であった事を物語っています。
新潟にお家が移動した理由が想像できます。
新潟は昔、北陸の経済の拠点でしたので、ここに支店を出した為に一族の一部が移転したと観られます。
最初の移動先の地理的環境から観て充分に納得出来ます。
財を成して地名の「金沢」を付けるくらいですので納得出来ます。
実は、昔は江戸期まで国を勝手に抜ける事は禁止されていて、「国抜け」として一族は「打ち首」に成るのです。「武士の任地の移動」と「商人の経済活動」の為に届ける事で許される時代でした。
移動して、その地に子孫を遺すのは「武士と商人」以外には原則無かったのです。
400年前に新潟に移動したと成ればこのどちらかですが、「長崎屋」と言う店を営んでいたとすると商人になっていて移動が出来たのです。
それ以外の者は「国抜者」としては財を成すこと、地名を付けるなどの事は出来ません。
それと石川から移動して来ていますので、過去帳や菩提寺が判らないと云う事も商人であった事を物語っています。実は武士以外は「人別帳」に移動者は書き込まれるのです。
人別帳は村では庄屋に、商人は寺等の「人別帳」に書き込まれますので「過去帳」と異なり系譜は無くなり自然に消えて行くのです。国抜けの制度に依って400年前に新潟に移動したとなれば商人と成ります。
当然に「過去帳」は「2足の草鞋策」を採用する武士であったとすれば、石川か奈良か埼玉足立にしか無い事を意味します。武士を捨てたとすれば当然に過去帳はありません。人別帳です。
遠い昔の先祖の過去帳は本家の過去帳に存在するのですが、分家が大きく成らない限りは過去帳はなく成ります。従って、武家で移動すると移動先では菩提寺は無く、江戸初期の丹治氏の菩提寺か麻田藩の菩提寺にしか過去帳はなくなります。
(檀家寺を建立するだけの力財力があった場合 丹治氏と麻田藩にはありました。)
普通は武士はその土地で骨を埋めたとした場合は檀家寺と成りますので、原則人別帳と成ります。菩提寺に遺そうとすると納骨して本家の菩提寺に埋葬してもらう事に成ります。
移動してその地に定住した武士の殆どは檀家寺と本家菩提寺にも納骨するのが慣習でした。
そうすれば系譜として過去帳に記載される事に成ります。
氏家制度の社会ですので、本家筋に断わられれば檀家寺と成ります。
この様に「人別帳」と「過去帳」とは異なります。現在使われている過去帳という言葉は明治以降の言葉で両方の意味を含んでいる言葉と成っていますが、江戸期以前は完全に分かれていたのです。
これ等の事から、本来移動定住できないのに400年前に移動していて定住していますのでお家の場合は無いのが正しいのです。つまり、石川では既に商人に成っていた事を物語るのです。
そもそも中級武士以下は過去帳がある事が当時の慣習では矛盾なのです。下級武士ではそのような財力はありません。
武家を構成する氏以外の一般の民は「過去帳」を持ちません。そもそも中級武士以外は墓そのものを設ける習慣が無かったのです。あっても「河原の石」か「泥岩」の「路傍の石」の墓で自然に消えて行く事を習慣としていたのです。仏教の慣習でした。一般の者の墓石などの現在の習慣は全て明治以降の事です。
「過去帳」はその「氏の菩提寺」のみに存在するものですので、「檀家寺」には原則ありませんでルーツの系譜を引き継がない人別帳です。現在の地域にいる人の存在のみ記録するシステムですので系譜はありません。
前回のお答え通り丹治氏系青木氏で麻田藩の分家で分家で石川に移動して更に新潟に移動定住していますので本家の菩提寺に納骨は困難と思いますので、檀家寺と成ります。
問題はお家の昔の宗派は何宗であったかをお調べに成ると「2足の草鞋策」ではなく「商人」になっていた事を確定できます。過去帳がない理由がはっきりしますよ。
商人となれば伊勢青木氏と信濃青木氏の大店との繋がりは充分に納得出来ます。
実は他の青木氏との繋がりでは廻船業との繋がりが多いのです。
特に他の青木氏の中でも瀬戸内の廻船業を「2足の草鞋策」としてのその繋がりは強かったのです。
筆者の予想通りでした。
この様に、ちょっとした事がルーツを物語る事が多いのです。
また何がちょっとした事でも判りましたらお便りください。
函館の青木さん 今日はお久しぶりですね。お変わりありませんか。
ご出張との事で京都に立ち寄られるとの事ですが、古の地ですね。
青木氏に取っても無関係ではありませんが、残念ながら京都は全てのルーツの青木氏の定住地でありません。左隣の滋賀には元上田氏の滋賀青木氏、南の兵庫には近江青木氏の末裔が定住しています。
この丹波、山城には青木氏はいないのです。
そもそも、京は伊勢青木氏の始祖の孫の桓武天皇による平安遷都の地ですが、青木氏の立場は特別賜姓族を含めてあくまで「3つの発祥源」を責務とする氏で、皇族賜姓族の青木氏は昔の天領地つまり当時の主要国の地を護る守護でしたし、特別賜姓族青木氏は主要国24地域の統治する官僚族でしたので、京を取り巻く周囲には定住している所です。従って、京には立場上で定住する官位ではなかったのです。
ただ、平安期には宮廷を護る官職の「北面武士」としての左衛門、右衛門、兵衛、民部等の宮廷を護る近衛軍の最高指揮官でしたので、勤めとして代々京にはいた事はあるのですが、子孫をこの地には遺す事は許されていませんでした。あくまでの出張の形で勤務していた事に成ります。
依って、残念ながら京は青木氏のルーツではありません。
ただ、強いて云うと次ぎの神社が青木氏に関わる所です。
京都 日向大神宮 山科区 東山神明社 この神明社は7大神明社の一つです。
朝日神明社 此花区
天照皇太神社 京都市左京区原地町
神明皇大神宮 宇治市神明宮西
今、[青木氏と守護神(神明社)]で研究論文を投稿していますが、−20の京都のところをお読み下さい。
この京は特令地でしたので特別にこの地に我々の青木氏の守護神を建立しています。
この4社ともに全国的に特に有名です。京都の中でも有名ですよ。特に上2つの社は有名です。
全ての青木氏の祖先を祭祀する特別の京の「神明社」です。
平安期に青木氏はここに定住はしませんでしたが、平安期の先祖の青木氏が官位官職の上で建立した社です。赴任勤務期間中は青木氏は独自の「祖先神-神明社」としの守護神としてこの社にお参りしていたのです。
神明社系は天皇家の「皇祖神(伊勢神宮)」の子神として「祖先神」を持ち、伊勢の本宮を基点としてその社として「神明系5社」を青木氏に関わる関係各地に566社も建立しています。
その代表的な社が伊勢神宮に継ぎ上記の社が有名です。
この566社の主要地のところには伊勢の神宮本宮の分霊社も建立しているのです。
その一つが後の二つです。神明系社の親神です。
京は従って、宿の事は残念ながら判りませんが、この全ての青木氏のご先祖が祭られている付近に宿を探されては如何ですか。もしかすると、お彼岸ですから心穏やかにしていると何か先祖の魂がひきつけるものがあるかも知れませんよ。守護神の社に寄るとよくあると聞いています。私も経験しています。
何か一瞬ですが、気がスーとする心地よい気がしました。
有名な神社ですからマピオンなどでこの社の近くの宿を見つけられると良いのではないでしょうか。
お参りするにしても一般の普通の神社ではなく”我々青木氏の伊勢神宮の子神の誇りある守護神の神社”ですからね。
お参り見学するのであればまずは何をおいてでもここにお参りするのが一番と思います。
では、季節も秋に成り涼しく成りましたし、先祖の霊がやって来る彼岸でもあります。心に染み入る良い旅をしてください。
旅のお話でも又お聞かせ下さい。
こんばんは。ご丁寧な解説を頂いていたのに、返信が遅くなりすみません。
義父に聞いたところ、以下のことが分かりました。
・約400年前から野積の地に住んでいるとの口伝え
・先祖が一族を連れて移住する際に、白山ひめ神社から分祀をして貰い、この地に一族の鎮守として祠をたて、義父の家が代々祭祀をしてきたこと
・家号の「重三郎」のしるしは¬(かぎ)に十で、何十組もの漆塗りの膳の揃えに記してあったとのこと
過去帳は失われており、先祖の商いのことも分かりませんでした。
それでもこのルーツの解説を頂いたことで、遠い昔の方々を偲び、皆でたのしい一時を過ごすことができました。
本当にありがとうございました。
お久しぶりです。
長らく、送信するような発見もありませんでした。
楽しく読ませて戴いておるだけでした。
ただ、1648年の弘前の藩政記録と絵図の中に青木屋なる先祖らしき。
記述を見つけたので、弘前に調べにいこうと思っております、
話はかわりますが、
11月の中過ぎに、郡上八幡で行われる講習会にいくのですが。仕事ですが。
その時に、約1日京都で過ごすことが、できるので。
あおき氏に関係する所を見たいとおもっています、
教えてください、
京都は修学旅行以来いっておりません。
それと、手ごろな宿もありましたら、
よろしくお願いします。
> 福管理人、お久しぶりです。
> 先週末から鹿児島旅行してきました。
> 韓国岳登山口にある六観音御池:六観音の像を祭る仏堂のあった豊受神社と岩屋霧島神社湧水町栗野:地蔵供養塔、
> 霧島市:隼人塚、韓国宇豆峯神社
> 志布志市:臨済宗大慈寺、肝付兼続之墓
長嶋さん 今日は。 お帰りなさい。
暑いですね。
鹿児島も大変暑い様で、大変でしたでしょう。
来週、法事で私も出かけます。
さて、「・・右衛門」に付いては太吉さんの鹿児島の事がもう少し判れば改名の経緯が判るのですがね。鹿児島の太吉さんが幼少の頃に住んでいた所がわかれば良いのですがね。その寺や神社から何か出て来る筈ですがね。
>伊勢長島氏に長島〇之進かねみつ(金光?)と云う方はいるのでしょうか?
>宜しくお願いします。
さて、伊勢長島には「2つのナガシマさん」の流れがありますがこの2つの中にはお尋ねの方は居ません。
伊勢は長嶋氏と永嶋氏ですが、桑名郡と多気郡と一志郡であります。
何れにも光の付く人は居ません
多気郡と一志郡は具(とも)が通名ですので、恐らくは近い親族と見られます。北畠氏との縁者系ですね。
桑名郡の長島の長嶋氏は代々伊勢長嶋殿と呼ばれ有名で僧侶で願澄寺の住職系です。何れも信長に抗したのですが滅びました。
この2氏ともに元は親族と成ります。
系譜と戒名からは「光」は出て来ません。お尋ねの人は存在しません。「光」を通名としている長嶋氏はありますが関東の佐野氏系長嶋氏です。
確かに伊勢長嶋氏の中に長嶋武右衛門貞国なる人物が居ます。
そもそも、 この「・・右衛門」は関東の佐野氏系長嶋氏の世襲名にも多いのです。
実は念入りに調べて行くと、今回次ぎの様な事が判ったのです。
この貞国なる人物が途中を経由して関東武蔵国平方郷に移り住んだとあります。(子孫は現存している)
この者の一族の寛永の頃から続いた戒名には光を読み込んだ人物が5人も居ますし・・右衛門が3人も居ます。
そして幕末の頃の戒名には光以外に緑と林と木を読み込んだ故人は4人居ます。
前半は院殿居士の武士の戒名 江戸末期頃の戒名は武士出身のある程度大店の商人階級の居士です。太吉さんもこの戒名でしたですね。
ところが、幕末の太吉さんの頃の男子の戒名がありません。
安政4年の大姉の女性の戒名だけです。その前の男子は養子の長嶋銀蔵さんと成っています。
何か変です。その後明治の中頃以降に飛んでいます。そして明治以降はこの一族は養子が多い事です。
この幕末に跡目の男子が死亡以外に一族から何かの理由で籍を抜いた事を意味し、墓には入れなかった事を意味します。
この人物にも気にかかりますね。
この一族と太吉さんとの繋がりです。時代は考察する中にあります。
太吉さんが来たという「鹿児島」と云う前提ですが、見方を変えて、伊勢長嶋系であるが為に、この者が江戸期に鹿児島から長島に来て住み、その後、静岡等の長嶋氏の定住地を経由して関東に移り住んだと記していますので、この様に考えられるのてすが。
その時に子孫の一人の太吉さんがこの静岡近辺に来た時にこの地に留まったと云う推理もありますね。留まる以上は一族との決別と言う事でその為に姓の字を変えたとする説です。
一族の意思に反し、何らかの商売(材木)をしていてそれを守る為に留まったとする説に成ります。
この貞国と云う者は鹿児島薩摩藩の意を得ての伊勢−静岡−埼玉の移動の遍歴を繰り返したと考えられます。この地域の共通点は「長嶋」と「材木」です。
伊勢の長嶋、駿河の分家筋の長嶋、武蔵の本家筋長嶋
伊勢の吉野杉、駿河の檜、そして武蔵上野の材木
遠戚を頼って、「材木の商い」で移動していった。鹿児島は火山帯である為に良い材木はない事からの買い付けで移動定住していったと推理出来ます。
またご質問が有りましたらお尋ねください。
福管理人、お久しぶりです。
先週末から鹿児島旅行してきました。
韓国岳登山口にある六観音御池:六観音の像を祭る仏堂のあった豊受神社と岩屋霧島神社湧水町栗野:地蔵供養塔、
霧島市:隼人塚、韓国宇豆峯神社
志布志市:臨済宗大慈寺、肝付兼続之墓
肝付町:高山城跡、大来目神社、臨済宗道觧榕、良清検ψ、盛検ヲ侘付代々福ヲbr>鹿屋市輝北町:加瀬田城跡(肝付兼隆供養塔)
ただ、訪れるだけでしたが、とても満足する旅でした。
福管理人さんから、教えて頂いた、阿倍には場所の確定ができず、今回は断念しました。
今回は,その時期ではなかったのかもしれません。
『次右衛門』の継承、阿多倍王、武寧王との血縁関係の有無について有り難うございました。長島勘右衛門の次の人つまり三河国川路村長嶌太吉の成り立ちが鍵を握っている人なんですね。ここが分かれば、何故『長嶋→長島→長嶌』となり、長女『長嶌とめ』と『杉浦源吉』が明治3年に入籍し、長嶋に改名した意味も見えてくるのですね。
今回旅行で、また、長嶋の名と出会うことができました。
『長嶋早右衛門尉』という方です。
鹿児島県史料 旧雑録拾遺伊地知季安著作史料2 46頁
『寛永軍徴巻十四ノ下』 寛永15(1638)年2月1日
此日蒲生衆廿八人出足して、先鹿児島に参越す。覚 ・・・長嶋早右衛門尉殿
また、
鹿児島県史料 旧記雑録追記1 224頁
神社仏閣調 慶安5(1652)年8月21日
御犬之従馬場材木運衆次第不同・・・・・肝付早右衛門殿
寛永13(1636)年 鹿児島衆御検地帳 新堀上:長嶋次右衛門
元禄11(1698)年 薩陽過去帳(32頁)肝付次右衛門(元禄十一戌寅年七月卒 露厳良体居士)
ここで、次右衛門と早右衛門が親子とすると
上記の長嶋次右衛門=肝付次右衛門か、長嶋早右衛門=肝付早右衛門=肝付次右衛門(家督継承にて改名)という可能性が出てきました。
福管理人さん、また質問なのですが、
伊勢長島氏に長島〇之進かねみつ(金光?)と云う方はいるのでしょうか?
宜しくお願いします。
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