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兵庫の青木さん 今日は。
さて、早速ご質問に入ります。
>「信濃青木氏の始祖」が、「信濃王」という役名というのは解るんですが、「伊勢王」の「施基皇子」という様に、「○○天皇の○○皇子」という特定まではできないという理解で良いのでしょうか?
お答えは、その通りです。
この「大化期の時代」の古書としては、殆ど「日本書紀」からの事で、後は韓国で発見された元天智天皇の秘書をしていた韓人の僧侶が書き遺した日記で、帰国後に遺した「日本世記」と呼ばれる資料しかありません。
後は、これを基にして研究された状況証拠の積み重ねの「幾つかの古書」に依ります。
「施基皇子」や「川島皇子」や「大友皇子」や「有間王子」の様に、明確に何度も日本書紀に登場する人物であれば、「皇子名」までを求められるのですが、施政上に置いて大きな業績の無い皇子や王位の身分の者はその内容の実態が判らないのです。
依って、存在した事は判るが、”どの様な動きをしたか”までは判らないのです。
正式な皇子名や王名までは判らないのが実態です。
しかし、ある程度の判断付きます。
それは、次ぎにの事に依ります。
「八色姓制度」等の大化期に採用した「身分官位制度」、「格式制度」等から、皇族の中では、「皇子身分」と「王位身分」とに先ず別れます。
更に、「皇子身分」も「真人族の皇子」と「朝臣族の皇子」とに別れます。
「真人族の皇子」の身分の者は「皇位継承権」を持っています。
「皇位継承権」で外れた者は、「門跡院の僧籍」に入るか、臣下して「青木氏の跡目」に入るかの選択に成りす。
この「朝臣族の皇子」の中でも、「第四位以上」ー「第六位以下」の二分類に分けられます。
この中間の「第五位」は何れにも属する者として、当代の天皇が決める仕組みです。
これらに所属する者は、当代天皇から、”「第四世族」”までとします。
つまり、天皇が変わる度に変化しますので「王位から外れる者」が必ず出てきます。
この場合は、「皇子」や「王位」であっても「無位無官族」で臣下します。
これも、「門跡院の僧籍」か、「青木氏の跡目」に入ります。
同じく、第五世族はこの何れにも属する者として扱われ、当代天皇の決定に委ねます。
この判断原則は、何れも「位階と世階」は、”「勲功の大小」”と”「皇子王位の数」”によって決められます。
皇族には、全てこの原則に従って「身分」が定まります。
更に、同じ身分と成った場合には、その「官位」が定められますので、この差で立場が決まります。
この場合、「朝臣族の皇子」でもこの官位が高い事で、「真人族の皇子」より上と云う事が起こります。
例えば、当代天皇の次ぎの天皇の後継者、真人族の「皇太子」が、「朝臣族の皇子」より下と云う事も起こるのです。
本来は絶対に上なのですが。
それは、朝廷に対して「勲功」が皇太子より上の時に起こります。
例えば、「天智天皇」の「施基皇子」と「川島皇子」は、「天武天皇」の時には、「施基皇子は浄大一位」(天皇より一段低い官位、)「川島皇子は浄大二位」です。
ところが、「皇太子」の「草壁皇子は浄高二位」でした。
二段階の下の差が在ります。
この様に、「皇子」と呼ばれる者と、「王位」で呼ばれる者が出来るのです。
「王位」は必ずしも「皇子」ではありません。
更に、この「王位」でも、「国名の着く王位」 「地名の着く王位」 「縁名」で呼ぶ「王位」に分けられます。
A 国名の王名は、そこの国の守護王 第二世族−(第一世族)
B 地名の王名は、そこの土地の王 第三世族−(第二世族)
C 縁名の王名は、国土地を持たない王 第四世族−(第三世族 第五世族)
以上が生まれます。
これは、全て「皇子数の大小」によって異なります。
皇子数が多い場合は、「第1世族」でもAに成る事も起こります。
皇子数が少ない場合は、「第四世族」でもA、或は、「賜姓」を受ける事が起こります。
これらは全て「上記の仕来り」に従って上位から決められます。
従って、「守護王」の場合だけは、元の地名の名か、縁名かの、二つを持つ事が起こる事に成ります。
これが「信濃王]が、[三野王」と呼ばれる所以です。
この”「三野」”には、故事による”「三つの野」”と云う意味を持っています。
ですから、「トツプクラスのA」の中の更に上位と成る「伊勢王の施基皇子」(青木氏)と 「近江王の川島皇子」(佐々木氏)があるのです。
「第四世族内の皇族者」が、どんなに居ても、上位6人までしか「皇子族」は生まれないのです。
後は、全て臣下させられますので、結局は、「臣下族」になり「皇族」から外れますので、原則は「王位」の身分は無く成る仕組みです。
しかし、ここで、「皇位継承権」を持つ「皇子数」が少ない場合は、AからCに位置していた者が第六位皇子内に成り得る事が出来得て、賜姓を受けて正規に「青木氏」を名乗る事が可能に成る事が起こります。
この事が、現実に、起こったのです。
女性の「持統天皇」以降、更には、遂には、「聖武天皇」には、”「直系の皇子数」”が無く成り、結局は、AからCに位置していた「信濃、美濃、甲斐の跡目」に成っていた「王位の者」が「第六位皇子内」に成ります。
そして「青木氏の賜姓」を受けて、叙位任官して「官位官職などの権威ある立場」、つまり、”朝廷が認めた「氏族」”に成ったのです。
但し、この場合は、「天皇の直系族」でありませんので、「天皇」、つまり、「継承権」を持たない事に成ります。
そもそも「皇子」とは、「天皇の子供の呼称」とする認識は違っているのです。
「数少ない皇子」もいれば「殆どの王」もいるのです。
「王」も名のある者と無い王もいる事になるのです。
「青木氏」には、この「第四世族内の王」が「跡目」に入る事に成り、賜姓を受ける事に成り得たのです。
そして、天智期から光仁期までの男系の「五代の天皇」に依って、「第六位皇子」の賜姓が起こり、「五家五流青木氏」の「福家」に「青木氏の賜姓」を受けて入った事に成ります。
大化期に発祥した「伊勢」を始めとして、近江、美濃、信濃、甲斐の順に「青木氏の賜姓」を受けたのです。
つまり、この「五家五流の守護王」が「五人の天皇」の間に、皇子数の大小の影響で、「第六位皇子内」に位置して「青木氏の賜姓」を受けて行ったことに成ります。
「聖武天皇」からは「皇位継承の親王」の「直系の皇子数」が、”無し”に成りましたから、順位から「五家五流の王位の者」が「賜姓青木氏」を名乗る事に成りました。
家柄が確立した事に成ります。
代々出る「第六世族」以降は、「坂東の地」に配置されて、「無位無官」で「臣下」して、「土地の侍」と成り定着したのです。
これが「坂東八平氏」、つまり「ひら族」と呼ばれる集団です。
(「平清盛」の「たいら族」とは異なる。)
しかし、原則としては、AからCの者は、皇位継承する前提の「直流の血液」を何らかの形で引き継ぐ者に成り得ませんので、「天皇」に成れない事に成ります。
そこで、「賜姓」を受け臣下した「施基皇子の青木氏の事」を考えると、子供の「白壁王」が「光仁天皇」に成りましたがこの事で良く判ります。
「施基皇子の立場」と、「白壁王」に嫁いだ聖武天皇の次女「井上内親王」が、「聖武天皇の直接の血筋」を引いています。
従って、「白壁王」との間に出来た子供の王は「聖武天皇の血筋」を引いている事に成りますから、「白壁王」は、「井上内親王」の事と「施基皇子」の事が根拠で、この「二つを根拠」にて天皇に引き出されたのです。
AからCの者は、第四世族の者で構成している賜姓族である事から、非常時の”准ずる者”に位置していますから、後は、「聖武天皇の直流の血筋」を五家五流の賜姓族になった青木氏内に入れる事で
「継承権」を獲得させる事に成ります。
そこで、「五家五流青木氏」と「佐々木氏」から、最も、これに近い身分の伊勢青木氏に白羽の矢が当てられたのです。その中でも、「57歳の白壁王」が最適として、「女系孝謙天皇」の妹の「井上内親王」が嫁したのです。その事で子供(他戸親王 751年 政争没)が生まれれば、「白壁王」は「後見人天皇」として即位(770年)が出来る条件が整って「光仁天皇」に成ったのです。
当に、「賜姓青木氏の立場」を顕著に物語る出来事が現実に起こって仕舞ったのです。
以上、「皇子」と「王」との「格式の違い」が厳然と引かれていて、王名だけのこの様な事が起こります。「名」を持つかどうかでは無く、持てるかどうかに関わっているのです。
誰でも持てると云う事では無いのです。
資料的に特定できるかどうかでは無く、その以前の仕来りが皇族にはあるのです。
従って、資料は先ず無いと考えられますが、いくら探しても「特定できる」と云う事では無いのです。
では、又、何なりとお便りください。お待ちしています。
いろいろ貴重な事を教えて頂き本当にありがとう御座います。これからもよく見させて貰います。
前田さん 今日は。早速のお便りありがとうございます。
さて、「射和商人の事」で研究されていて、「伊賀の乱の事」にも関わりに興味を持たれておられるようですね。
「青木氏」として参考になる事が在りますので、協力させていただきます。
実は、前回にも書きましたが、「射和組との関係」がある事は、充分に判っているのですが、消失による資料不足にてどうしても全体を明確にするところには辿り着けませんで、それを解明する確証は掴めません。
青木氏の研究の中の伊勢地区の研究を何としても十分にして置きたいと考えていますが、「伊勢衆」の事の資料が見つかりません。青木氏側ではある程度の繋がりの事は判るのですが郷士側の確かなものが見つかりません。
その原因の一つは、織田氏の「伊勢三乱」に依って、修羅の様な戦場と成った事から「伊勢衆」の基に遺された資料関係が少ない事から来ていると観ています。
そもそも、「織田氏」と「伊勢衆]との戦いは、両者ともに「村が6割全滅」「2万の織田軍が9割全滅」「伊勢寺の僧侶の7割が死亡」「村民6000人が死亡」する等の激しい戦いと成りました。
「ゲリラ戦」が主体と成っての戦いでしたので、それに対抗する為に織田軍側は、相手がはっきりしませんので徹底した「焼き払い戦法」を使ったのです。
この時、丁度、「石山本願寺の戦い」も同じ「紀州、河内、大和、伊勢地域」で、一揆とゲリラ戦が起こっていました。
織田軍側は、この二つの戦いの区別もつかなくなっていたのです。
伊勢では、多くの「農民」や「郷士衆」が滅亡しました。
その後、秀吉に依る「紀州征伐」が更に起こり、徹底して「郷士集団狩り」が起こりました。
「刀狩り」も行われ、「検地]も行われ「郷士衆」は、「武器」や「土地」を奪われ「丸裸」に成りました。
最早、これでは生きて行けないと成り、結局、「伊勢四衆」と呼ばれる「青木氏」等が援護して、土地のものを活かして殖産を進める事にしたのです。
これに、紀州藩の初代頼宣も援護の手を差し伸べて、伊勢を復活させるべく取り組みました。
そして、この殖産を生き残った「伊勢衆の郷士」にやらせました。
「青木氏」は、伊賀地区、脇坂地区、上田地区、名張地区、松坂地区、員弁地区、桑名地区、四日市地区、射和地区、玉城地区、長嶋地区、新宮地区、尾鷲地区等に青木氏が定住していますが、この地区毎に土地に適した殖産を進めたのです。
この射和地区は、櫛田川の水を利用した殖産を進めました。
それが、良質な水と川土に適する白粉花からの「白粉]、良質な水を活かした「醤油」、粘土質の土壌を活かした「陶器」、水車を生かした「粉の生産」、水分を多く含んだ土壌を好む「楮」で「和紙」を殖産し、それを興業にし販売するシステムを構築したのです。
これを「後押し」したのが「青木氏」で、その為に、「徳川氏」から「青木氏」が古来から持っていた上記した土地(地主)を本領安堵されたとする記録が在ります。
この土地を生かした殖産を、土地を失い遺された「伊勢衆」が行い、最終、紀州藩の勧めで江戸に店を出すまでになりました。
従って、この「職人と商人」を「射和地区の商人」と呼ばれ、「殖産の元」と成った「松坂商人」と、興した「射和商人」とに区別して、この地に「商いの組合組織」を作ったのです。
殖産を進めるには、「殖産の土地」が必要で、この土地の多くは青木氏が地主として持っていた土地を使い、上記とした様に「伊勢から南紀」に殖産は及んでいました。
何とか生き残った「3割程度の郷士衆」と「全国に飛散していた者」を先ずは集めて、生き残らせる為に、江戸初期には、「家康肝入れ」で、「青木氏」と共に、「紀州藩」と取り組んだのです。
この時の「紀州藩の官吏」は、伊勢の「秀郷流青木氏」の一族が大量に家臣として仕官したのです。
この「伊勢の秀郷流青木氏の家臣団」が、親族である「紙屋の伊勢青木氏」と共に取り組んだのです。
「伊勢から南紀までの職能集団」と、「射和にそれを取り扱う商人」を配置したのです。
これが、「射和商人」と後に呼ばれる様に成った由来です。
「青木氏」とは、生き残った「郷士衆」とは、シンジケートの関係で「古来から血縁」があった事が判っているのですが、女系の為に記録も辿り着けないのです。
遺された一部の系譜には、女系の嫁ぎ先の事は「添書」にしか書かれていませんので、単純に確証が採れないのです。
「青木氏」には、「四家制度」と云う組織が在りまして、この組織に依って血縁などが決められていました。
この「四家制度」では、「20家の青木氏」が定められていて、この家には一族の者が配置され、それを支える「伊勢シンジケート」と云う「互いに助け合う影の裏組織」や、「青木氏部と云う職能集団」には、「青木氏の嗣子」が立場を「家人」に移して、「跡目に入る組織」を古来より確立していました。
上記した「殖産」の「職能集団」に、「伊勢シンジケート」の「郷士集団」に、この「家人(家臣)」の形で入っているのです。
更には、上記した様に、「女系の形でも入るシステム」に成っていましたから、間違いなく繋がっている事は判っているのです。
「青木氏」で判っている「シンジケートの郷士」には、「18程度の郷士」の名が遺されています。
個人情報に関わるので匿名としますが、提供されました姓名は確認できています。
ただ、どの様に「譜」を持っているかは確定できないのです。
ただ、この内の郷士の4氏が、”伊勢青木氏の末裔郷士だ”と公的にも主張しています。
恐らくは、「伊勢衆の郷士」であると観られます。
その内の2氏は、玉城地区周辺と櫛田川沿い北域の住んでいたようです。
この事から、前者は「絆の青木氏」、後者は「射和の商人」ではと考えられます。
後の2氏は南紀地区ですので、「職能集団の郷士」ではと考えられます。
この事から、「青木氏族」だとを名乗っている郷士が居ることから、間違いなく繋がっていたと考えられます。
つまり、「伊勢青木氏」には、「血縁による二つの青木氏」と「絆に依る二つの青木氏」(玉城)が在ります。
この「絆に依る二つの青木氏」の譜の「郷士部」の方で関わっていた事に成り、「青木氏」を名乗っていなかった組織(主に女系)であったと観られます。
さて、「伊賀の乱」に付いてですが、この「伊賀氏」には、「二つの族」から成り立っていて複雑なのです。
一つは、家臣団の多くは、奈良期から住んでいた「後漢の帰化人(618年頃)」の「首魁阿多倍」に付き従って来た「職能集団の家臣団」の「郷士集団一部11氏(A)」
(「阿多倍王」の末裔の「平清盛」の里で、平安末期にこの伊賀地方を朝廷に返却して播磨に移動します。この時に、その家臣の一部が遺った職能集団の末裔で構成した家臣団の「忍者集団 A」がある。)
後から入った「藤原秀郷流宗家の朝光」(結城氏の祖の祖でもある)が、鎌倉期に伊賀守を務めるが、この朝光の末裔が「伊賀氏」を名乗り、鎌倉幕府と血縁して、晩年伊賀に住み着きます。
この各地の「秀郷一門から編成した家臣団B」があり、奈良期から残った「伊賀氏の家臣団A」とは、この様に二重構造に成っていました。
結局、織田氏に味方するか(家臣B)、独自路線(郷士A)を貫くかの内部分裂が起こります。
「伊勢衆」の内「11の郷士」が参戦しました。
結局は、味方する者(下山、山下)が織田側に通じて、これを知った「郷士家臣団A」と戦いに発展して行きます。
この中の「11郷士」の中にお家が云う「郷士」が入っていました。
「青木氏との繋がり」は、「伊賀の乱」に関わらず、奈良期からの「和紙の殖産」でこの「元の伊賀の郷士集団」とは繋がっていました。
因みに、この「元の伊賀」の「清盛の郷里の親許」に、「源平の戦い」の初戦の「以仁王の乱」が起こった時に、「清和源氏頼光系宗家四家」は負けますが、この時に「青木氏の跡目」に入っていた「源の頼光の孫の京綱」が、兄の宗綱と高綱と叔父有綱の助命嘆願をこの「伊賀の郷」にします。
清盛は、「親許の郷里」の「口添え」を聞き入れ、三人を日向廻村に配流する事に成りました。
この様に、「隣人」として「殖産の仲間」として「嘆願」を聞き入れてもらえる位に親交が古来からあったのです。
(伊賀は「青木氏の元本領地」で、朝廷が「半国割譲」して「平清盛の始祖」の「阿多倍王」に与えた。)
天正の「伊賀の乱」の時は、このお返しとして、「伊勢青木氏」は、中立を保っていましたが、「伊賀滅亡の寸前」で、「青木氏の居城」の「清蓮寺城」から「織田軍の側面」を不意に突いて、一夜で「11の郷士集団のA」を助け出したのです。
「11の郷士集団」を助け出したその後、土地を失った彼等を青木氏は「伊勢シンジケート」に入れて保護します。
この様な関係にありました。
つまり、この「経緯の延長」凡そ25年後に、この伊勢衆の「郷士集団A」を含む「伊勢シンジケートの内部改革」が起こり、この上記する「射和の事」(殖産)が起こったのです。
この時、「殖産」をより高める為に、興業にも拡大し、「運輸業」や「警備保障業」もこの「伊勢シンジケート」を形成している「郷士集団」に依って形成されたのです。
「総合商社」を営む「青木氏」は、この「伊勢シンジケート」の一員であった「郷士集団の殖産と興業」と共に当に「総合商社」は拡大して発展を遂げたのです。
では、もう一つ、参考に成る事が在ります。
それは、「元禄の赤穂浪士」の「浅野家取潰しの事件」です。
実は、この「浅野家取潰し」の際に、「浅野家の財産処分」をして家臣にそれを分ける必要が出ました。
この時、幕府から依頼されて、「伊勢青木氏の紙屋総合商社」が請け負ったのです。
「家財の値付け」と「支払い」と「金銭分配」等の一切の処理を請け負い、それを瀬戸内海から船で運搬して、伊勢に持ち込み、更に、それを売り捌き、買い主に搬送する「一連の商い」を請け負ったのです。
この時に、この城から運び出し等の手続き作業の一切を「伊勢シンジケート」のこの「郷士集団」が担いました。
この時に、「陸送の運輸」や「搬送中の警備」等が取り分け必要に成り、「青木氏」が商いの持つ能力を超えていたのです。
それをこの「郷士集団」の「伊勢シンジケート」が補ったのです。
この伊勢シンジケートは、室町期までは「氏」を護る「武力に対抗する防御の抑止力」で合ったものが、江戸期初期からは、今度は、「商いに対する協力体制」へと変化して行ったのです。
そり以後、「青木氏」に執っても「総合商社としての商い」を安定して拡大させられるし、「青木氏」の「後押し」で、これを「商い」にする「郷士達(郷士11氏含む)」が徐々に出てきました。
現在で云う「グループ化」が起こったのです。
つまり、「青木ホールディング」の「グループ商社」で、歴史上探しても、「シンジケート」を持つ氏と商家は他にはありません。これは日本で最初だと思います。
「射和組」とは、この一員で、この事を指していると考えています。
今回お家の情報の郷士もこの「11の郷士集団A」の中の郷士です。
(青木氏の資料にある18氏と、この11氏は許可を得ていない事と現地に現存する為に個人情報に依り匿名にする。)
この事等は他の「青木氏の論文」には詳しく既に論じていますが、この様な関わりの「歴史的な事」もあった事を参考にしてください。
福管理人さん、早速のご返信ありがとうございます。
また詳細にご教授頂き、恐れ入ります。
「信濃青木氏の始祖」が、「信濃王」という役名というのは解るんですが、「伊勢王」の「施基皇子」という様に、「○○天皇の○○皇子」という特定まではできないという理解で良いのでしょうか?
教えていただきありがとう御座います。私は伊賀の乱に射和に逃れた喜早家(木曽義仲末裔)森田家もいた事が何か繋りもと思いました。射和には青木家もありますので何等かの関係があると思うのですが?
私の血筋は実は越智河野氏流だそうです。
>前田さん寄りのお便り。
>初めまして。とても驚愕しております。私は伊勢商人とりわけ射和商人を知りたく射和商人にも青木氏が関係が有れば詳しく教えていただけたらと思います。宜しくお願いします。
前田さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
「松阪商人」の「紙問屋青木長兵衛(総合商社」)の処でお読みに成ったと思いますが、ありがとうございます。
さて、早速ですが、「射和」(いざわ)は{伊勢松阪の南域}に位置し、玉城との川を隔てた北側の処にある古い町並みですね。
筆者も伊勢松阪が出自で良く存じているところです。
筆者の先祖は、奈良期の古来よりの定住地で、室町期末期は伊勢松阪の武家屋敷町の9番地から11番地に住んでいて、主に「伊賀和紙等を扱う総合商社の紙屋」でした。
要するに、925年頃から「二足の草鞋策」で、{伊賀和紙関連の品}を奈良期から殖産し興業化して作り始め、正式には「朝廷よりの許可」にて「朝廷の余剰品の販売」を925年頃に「商い」を営み、更に、1025年頃には「豪商」と成り、歴史にも出て来る位の「商い」を営んでいました。
そして、室町期には「室町紙文化」に依りこれらの「殖産」から「巨万の富」を獲得しました。
この「流れ」に乗り、江戸期には、「紀州徳川藩」の「勘定方指導」をし、「吉宗」に同行しての「享保の改革」にも参加してその「伊勢商法」を活かしていました。
この江戸時代には、三重の伊勢き「紀州藩飛び地領」として、特に力を入れ「商人」が多く輩出されました。
伊勢の「御師制度」と云う「職能集団の組織制度」を幕府に吉宗はこれを採用しましたが、この制度は、元は「伊勢神宮の職能集団の制度」で、「伊勢神宮の皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」の「神職」などはこの「御師」(おし)により選ばれます。
「青木氏」はその「首魁の御師」で、この組織を「江戸幕府の職能集団」に適用して組織を纏めました。
これも「青木氏からの提案(江戸の伊勢屋出店)」に依るものでした。
特に、江戸時代には、この{伊勢松阪}は、「吉宗」が育った土地で「青木氏(吉宗育ての親 経済的背景)」と「加納氏(吉宗の付人役)」が「吉宗」のバックと成って将軍に育てました。
「青木氏の伊勢屋の紙屋」と共に、「加納氏の加納屋等」の豪商が出ました。
一方で、紀州藩は、「伊勢青木氏」が手掛ける「伊勢和紙」だけでは無く、「伊勢青木氏の指導」の下で、伊勢松阪地区から玉城地区に掛けて多くの殖産を進め、「伊勢焼きの陶器」や「白粉等の産物」等を作り出し、危機に陥っていた「紀州藩の財政」の立て直しに成功しました。
特に、「吉宗」はこの事に学び、そしてこれに「商法の力」を注ぎ、この商人等を江戸に店を構えさせるなどの便宜を図りました。
伊勢には、江戸期に紀州藩の指導の下で、「松坂組」と[射和組」とに編成させて経済を活性化に成功させたのです。
「松阪組」には、「青木氏や加納氏」、「射和組」には、「玉置氏や富山氏や国分氏」等が中心と成って繁栄させました。
櫛田川を挟んで、射和の南側の玉城(現在の玉城氏)の全域は、「青木氏」が地権を持つ地主で、その全域は「伊勢紙屋の蔵群」と「職人の住宅地」として成り立っていました。
この状態は、祖父の代の明治35年まで続きました。
ところが、明治35年に筆者の家から失火して「松阪の大火」に成って仕舞いました。
この時、折しも風が強く、その風向きの影響でこの川沿いの間近まで類焼したと聞いております。
この時、「射和地区」だけは免れたと聞いていますが、この為に現在も「古い商家の街並み」が遺されているのです。
「松阪の北側」は消失してしまいましたので、商家の街並みや作業長屋群は消えて仕舞いました。
この「射和地区」も含めて、本家の全財産を投げ売って賠償したと聞いています。
その為に、「本家筋の商い」は倒産をしました。
大阪にも堺と摂津にも店が在りましたので、ここを拠点として出直しました。
現在も、この松阪には親族が住んでいます。
そこで、「射和組」と「松阪組」の「青木氏との関係」「加納氏との関係」は直接的な血縁的関係には無いと聞いています。
唯、「射和組」には、「醤油」も手掛けていて、この「醤油」は、紀州湯浅地区が生産地で、この「醤油つくり」が「紀州藩の肝いり」で「松阪」にも移したと聞いていますので、この「湯浅醤油」の「玉置氏」とは、「筆者の家」とは二度も縁者関係にあった事は判っています。
この意味では、「青木氏とは繋がり」を持っているのですが、富山氏や国分氏との繋がりは伝え聞いていません。
恐らくは、「吉宗の御側用人の加納氏」が営む「加納屋」との関係が在った事が関係から判ります。
この「加納氏の加納屋」とは本家加納氏からの出であり、過去には何度も血縁関係を結んでいます。
筆者の父の祖母、つまり、筆者が曾孫に成りますが、加納氏本家から嫁いできています。
その意味で、間接的な関係にあった事は否めません。
「射和組」の商いは、「紀州藩」と「青木氏」や「加納氏」の肝いりで殖産したのですから、「女系」では確実に繋がっているとは充分に考えられます。
と云うのは、「松阪組」の「伊勢屋の紙屋」は「紙関係」は勿論の事、リサイクル骨董品などまでの「総合商社」を営んでいましたので、地元の「伊勢醤油」、「伊勢陶器」、「伊勢氏白粉」、「伊勢軽紛等」も扱っていた事は間違いはないと考えますし、その様に資料と共に証明できます。
何らかの資料記録関係のものが越されていれば良いのですが、今は充分とは言えず少なく成っているので、確実には辿る事が出来ないのです。
古く奈良末期から、土地の「郷士との関係」を持っていた事は確認できていますし、この「伊勢郷士」との血縁関係を掴めていますので、「青木氏」を背景にこの「郷士」が江戸初期に「商い」を始めた事も判っています。
「伊勢郷士集団」とは古くから親交が有って、「青木氏の末裔」が「家人」に成って、これらの「郷士族」と血縁していました。
依って、これらの「伊勢郷士」は「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していましたので、恐らくは、元は「伊勢郷士」であった「富山氏」とか「国分氏」とかは、状況証拠から鑑みて、「血縁の繋がり」を持っていた事は間違いはないと考えます。
「江戸期の商人」の元は殆どがこの伊勢の「郷士」でありました。
ところが、江戸初期にある事があって、「青木氏の伊勢シンジケート」を構成していた「郷士衆」、つまり、「伊勢衆」は「青木氏の援護」の下で、「商い」を始めた事が判っています。
その「商い」は、全て「青木氏の総合商社」が扱っていた事も判っています。
恐らくは、記録にあるこの時の事が「射和組」として編成されたものと観ていました。
この射和組には、「伊勢郷士衆」と、後から加わった「紀州門徒衆」の「二組の流れ」がありました。
「伊勢藤氏の伊藤氏」は、平安期の古来からの藤原氏で、この地に定住していた氏です。
その始祖は、「伊勢守」の「藤原の基景」で、「藤原秀郷の八代目」に当たります。
この「末裔の方」が書いた本には、この「射和商人の事」が書かれています。
実は、この伊勢の「伊藤氏本家」とは、筆者の「伊勢青木氏」とは血縁関係にあった事は承知していて、その末裔は従兄弟として承知しています。
この「伊藤氏」が「射和組」に関係していた事も承知しています。
ところが、如何せん、筆者の先祖の遺品にも確証とする証拠は見つかりません。
「陶器」等にも何か遺されている事もあるかも知れませんね。
依って、本サイトでは筆者も一切触れなかった事柄でした。
思いがけない御投稿でしたので、実の処は驚きました。
「伝統シリーズ」では、既に、一部ではこの事に触れてはいますが、もう少し研究してみたいと思います。
その結果を、「伝統シリーズ」に反映させたいと考えます。
お家の前田氏とは、どの様な関係にあるのでしょうか。
何か、お家にも情報が在りましたらお知らせください。
当方でも資料から割り出して観たいと思います。
残念ながら、系譜と添書が明治35年の出火で消失してしまいましたので、曾祖父や祖父の遺した忘備録での確認と成りますので、不充分で関係が現在では最早、掴め切れません。
現在これを復元中です。
では又、お便りください。
>それは、皇族賜姓族伊勢青木氏の始祖は、天智天皇の子供である施基皇子であり、天武天皇の時に第6位皇子として伊勢王になったという事でよく判るのですが、「皇族賜姓族信濃青木氏の始祖は誰だろうか?」という事です。
>信濃王=三野王だと思いますが、三野王を調べると、美濃王、御野王、弥努王、美努王など、いろんな書き方があり、全て同一人物だという人もいれば、そうでないという人もいるようです。
>敏達天皇の皇子に難波皇子がおり、その子に栗隈王、その子に美努王がいますが、その美努王が三野王(信濃王)とすると、県犬養美千代を妻とし、子供が葛城王(橘諸兄)となり、橘氏の始祖となるのではないか?と訳が解らなくなってしまいました。
>そのあたり、「信濃青木氏の始祖となるのは誰か?どう考えればいいのか?」ご教授頂ければ幸いです。どうぞ、よろしくお願いします。
兵庫の青木さん 今日は。
お久しぶりです。
このご質問は、研究室やルーツ掲示板に書いていますので、検索を使って詳しくはそちらをお読みください。
(「青木氏と守護神−14」等)
先ずは、一つ目のご質問の「栗隈王」の子供の「弥努王、美努王」は「美濃王」とは全く別人です。
「第四世族」まで「王位」を与えるとする改革を大化期に致しましたが、ところが「栗隈王」は「第五世族」に相当する事に成り、本来は王位を与えられない立場にあったのてすが、天皇は、その勲功に大なるものがあった事から、特別に「王位」を与える処置を執り、九州に配置しました。
その「栗隈王」には、二人の子供、つまり、「弥努王、美努王」と「武家王」が居て、大変に有能な人物で父を護ったのです。歴史上に出て来る人物です。
この当時、九州には未だ十分な「平定統治」は出来ておらず、この「栗隈王」で無ければ勤まらないとして、特別に配置した者でした。
その子供が「弥努王、美努王」と「武家王」で、父が「大友皇子の使者」との面会中に切られそうに成り、この二人の子供が護った記録が出てきます。
つまり、同じ「王位」でも、「信濃王」(三野王)とは一段下位の「王位」と成りますし、「朝臣族」ではありません。
この「美濃王」とは全く別人です。「信濃王」や「美濃王」は役名で、「施基皇子」の「伊勢王」と同じもので、「三野王」と呼ばれていました。(書物では、搾取偏纂で混在しています。)
「近江王(川島皇子)、伊勢王(施基皇子)、美濃王、信濃王、甲斐王」が在り、これが「五家五流」の始祖となります。
「近江王」と「伊勢王]は上位の「皇子位」、「美濃、信濃、甲斐」は「王位」
何でこの様に成ったかは、「近江と伊勢」は既に「主要な天領地」で、且つ、[遷宮地」でもあります。既に朝廷に執っては「重要な地域」で有ったのです。戦略上も”「要の地域」”として成り立っていたのです。
「美濃、信濃、甲斐」は新規の「三天領地」とした地域で、「主要開発地」と「主要戦略地」であった為に「青木氏」を送り込んで「開発の指揮」を執らせ、護らせましたが、つまり、この差に成って配置されました。この地域には、当時、後漢が潰れてその「17県民」の「200万の帰化人」の阿多倍王に率いられた職能集団がこの地に配置されました。
中でも、「馬部」と云う職能集団が信濃と甲斐の地域を牧草地に適しているとして、「大型馬の放牧地」として開発が進みました。
その開発の功績が顕著であるとして、天皇に呼び出され、信濃青木氏が伴って、直接、天皇に接見できる事に成りました。その席で、この職能集団の馬部の首領が、天皇に対して、税が高すぎるので下げてほしいと具申したと「日本書紀」に書かれています。
この時に同行したのがお家の始祖です。
「第4世族内の大化期の19守護王」(臣下族王)
「伊勢王」、「近江王」
「美濃王」、「三野王(信濃王)」、「甲斐王」、
・山部王、・石川王、・高坂王、・雅狭王
・栗隅王、・武家王 ・弥努王
・広瀬王、・竹田王、・桑田王、・春日王
・難波王、・宮処王、・泊瀬王、
以上19人/66国(朝廷が完全支配していた国数)
当時の「王位」には、「地名」と「縁名」で構成されていましたので、これで、何処の王か、どんな王かは判るのです。
その「地域の重要度」や「所縁の意味」からその「王の位」が判ります。
その様な事で名づけられていました。
しかし、この「王位」には「同姓」が多い事に注意してください。
この「19の王」には、この100年位後にも「5人もの同姓」があるのです。
何故、この様に成ったかと云いますと、当時の「皇族の慣習」として、その「王位の所縁」に因んで「王名」を付けるとする「高位の習慣」が在ったのです。
殆どの「王名」は、「地名」から来ていますが、その「地名」には”「ある意味」”を持っているのです。単純に地名を着けたのではないのです。
依って、後に、この地名の所縁に因んで王名を付ける慣習が王族の中に起こったのです。
この大化期の19の王名には、意味が在るのです。
「施基皇子」は「第四世族の朝臣族の第七位皇子」、一人の皇子に欠陥があり、実質は「第六位皇子」で「賜姓の対象者」と成り、臣下しての天皇を補佐する役目、つまり、「執政」を三代の天皇に仕えました。
この時点では、まだ「弥努王、美努王」は「王位」の立場でした。
この「五世族王位」は「皇位継承権」が在りませんので、「永代王位」ではありません。
従って、本来は、特別に「栗隈王」自身までの王位ですが、二代の範囲からは「王位」は消滅して名乗れません。
「弥努王、美努王」は、本来は王位が名乗れるかどうかの際どいところです。
九州配置時は王位を持っていた事から、王位をつけて呼んでいるのだと思いますが、本来は、外す事が原則に成ります。
大化期前は、「第六世族」まで、「王位」でした。これを「第四世族」までとしたのです。
栗隈王は「第五世族」ですが、特別に王位を名乗る事を許されます。
第四世族まで王位、第六世族からは臣下と成っていますから、では、第五世族はどちらに属するのかと云う問題がありますが、これもはっきりと決まっています。
その時の状況に合わせて、どちらにするかは天皇が決める事に成っていました。
栗隈王は天皇から特別に王位を指名されたのです。その子供は第六世族ですから、本来は王位外です。特別使命に依る為に永代権を保持してはいないのです。
この辺も間違いで王位をつけて歴史家が論じていますが、本来は間違いなのです。
実は、「伊勢青木氏の施基皇子」の「子供が7人」いましたが、「施基皇子の子供の白壁王」が天皇家に継承者が無く成り、これに「准ずる者」として、臣下族の「伊勢青木氏の施基皇子」の「子供の白壁王」が「光仁天皇」に成りました。例外が当に起こったのです。
この「光仁天皇」の子供の「山部王」(同姓)が「桓武天皇」に成ったのです。
孫域まで入れると21になりますが、「王位」が付いていますが、本来は王位には本来はありません。「白壁王」が天皇に成った事から「施基皇子の子供と孫」は「王位」と成ったのです。
依って、「五家五流の賜姓族」には最早、皇位の身には無く、まして「臣下族」であり成れない立場にありました。
しかし、歴史家は間違えて、「伊勢の青木氏」には王位を付けています。
歴史上では、「五家五流賜姓族」に合わせて、この「栗隈王」の「子孫」だと搾取編纂した者が実に九州に多く、ここでその「歴史家」が間違えたのです。
歴史的にはっきりしています。「搾取偏纂の行為」で「・・説」ではありません。
この当時の「第四世族の対象者」が、上記した様に19人いました。(筆者は23人説)
上位の王が「五家五流の青木氏」に配置されました。
その始祖には、皇位継承者(第四世族内の真人族と朝臣族」に相当する者)から「外れた皇族者」がこの「五家五流賜姓族青木氏」が構成する「氏の四家一族」の何れかの「家の跡目」に入る事に成る仕組みでした。
例えば、「伊勢や信濃青木氏」には、「四家制度」と云う組織があって、「20の家」まで家を拡げられます。それ以上には無限に広げる事は出来ないのです。
「純血性を保全する目的」です。
それは、「皇位継承者」が不足した場合、「第四世族第六位皇子」に相当する「五家五流賜姓族青木氏」が、これに「准ずる家柄」と定められていました。
その為に、他氏から血筋を入れる事が出来ず、皇族方から、「皇位継承者外に成った者」が、この20家×5で「100家の跡目」に入る事を定めていたのです。
これで、准ずる者で純血を護っていました。
現実に、施基皇子から伊勢青木氏から子供の白壁王が光仁天皇に、孫から桓武天皇に、「准ずる者」として天皇に成っているのです。
例外的に、「天智天皇」の「第八位皇子(実質 第七位皇子)」の「川島皇子の賜姓」をしましたが、これが地名を採って「佐々木氏」の賜姓を受けました。
この「佐々木氏」にも、「皇位継承外の皇子」や「王位の者」が、「四家制度」を敷く跡目に入る事が定められていました。
皇族でも皇子家を創設する事無く、財政的な負担が無く成り、全て「青木氏の跡目」に入れたのです。
代々、天皇には皇子が出来ますが、この「第四世族第六位皇子」を「青木氏の賜姓」して、この「五家五流賜姓族青木氏」の「福家」筋に入れる事に定められていました。
依って、「福家」(宗家・本家の事 主役)には、「青木氏の賜姓」を受けた皇子が、その「福家外の20家の跡目」(分家筋に相当 副役)には「皇位継承外の王」が入ります。
この様な「仕来り」が定められていて、「光仁天皇」まで続けられました。
これを「桓武天皇」が破棄しました。しかし、ここで子供の「嵯峨天皇」がこれに反発して、この方式を復帰させました。しかし、その時には、「第六位皇子の青木氏」は「源氏」として賜姓する事にし、その代わりに、「青木氏」は「皇族の皇位継承外の者」が「下族する場合」に、「名乗る氏名」としました。
「嵯峨天皇」の「源氏と青木氏」には、「一切の官位、官職、財力、権威」や「上記の仕来り」を適用しないと定めて「詔勅と禁令」を発したのです。
この「賜姓の源氏」は「花山天皇」まで11代続きました。
以上の様に、同名の王位が多い事も含んで、サイトの論説もお読みください。しかし、全て必ず正説とは限りません。意外に断定して仕舞った間違いが目立ちますよ。
では、ご質問やご不明な点がありましたら、お尋ねください。
初めまして。とても驚愕しております。私は伊勢商人とりわけ射和商人を知りたく射和商人にも青木氏が関係が有れば詳しく教えていただけたらと思います。宜しくお願いします。
> 福管理人様、青木氏研究室並びに青木ルーツ掲示板をいつも楽しく拝見させて頂き、
ありがとうございます。
早速ですが、初めに、前回福管理人様から、前回ご返信頂いた中で、「当家の一番古い墓所に1855年と記されている」とありましたが、正しくは、「1684年、貞享元年」でしたので、訂正させて頂きます。
で、本日返信させて頂いたのは、福管理人様から返信頂いたものを何度も読み返し、青木氏研究室並びに青木ルーツ掲示板を拝見させて頂いたり、自分なりに調べたりしているのですが、どうしてもわからない事がありましたので、返信させて頂きました。
それは、皇族賜姓族伊勢青木氏の始祖は、天智天皇の子供である施基皇子であり、天武天皇の時に第6位皇子として伊勢王になったという事でよく判るのですが、「皇族賜姓族信濃青木氏の始祖は誰だろうか?」という事です。
信濃王=三野王だと思いますが、三野王を調べると、美濃王、御野王、弥努王、美努王など、いろんな書き方があり、全て同一人物だという人もいれば、そうでないという人もいるようです。
敏達天皇の皇子に難波皇子がおり、その子に栗隈王、その子に美努王がいますが、その美努王が三野王(信濃王)とすると、県犬養美千代を妻とし、子供が葛城王(橘諸兄)となり、橘氏の始祖となるのではないか?と訳が解らなくなってしまいました。
そのあたり、「信濃青木氏の始祖となるのは誰か?どう考えればいいのか?」ご教授頂ければ幸いです。どうぞ、よろしくお願いします。
増田さん 今日は。
早速、お便りありがとうございます。
ルーツを探究する過程で、この様な「歴史観」に遭遇する事は良い事だと観ています。
下記のその典型的な疑問をお持ちに成る事が歴史を知る上で大切な事だと思います。
筆者の考えを披露しますと次ぎの様に成るかと思います。
長い間の歴史を探求して来たテーマでした。
>歴史とは何なのでしょうか。
平安期から室町期初期までは、この様な公的に成っている歴史の真面な書籍には、判ら無いところや、推測を交えて描いた処には、必ず、”後勘に問う。”と書いています。
つまり、今は確定出来ず判らないが、「未来の人」が必ず解き明かしてくれるだろうとする言葉です。
しかし、平安期の末期の源平の時代あたりから、世の中が、立身出世の人が多く成り、多くの階級の人々が生まれました。そこで必然的に、身分家柄制度が更に強く成り、社会が家柄身分を強く要求する様に成りました。
「朝廷の認可」が必要であった社会では、要求を叶えられない「出世族」は、結局、搾取して、或は、必要以上に誇張して、家を興そうとしました。
ここで、因みに、面白いお話をします。
この中には、無理やりに武力で、家柄のある家を襲い、一家全滅させ、娘一人を遺して、その娘に子供を産ませて、その家を継承すると云う現象が頻繁に起こったのです。
それを朝廷に金品を渡して、認めて貰い、その家柄身分から「官僚族」と成り、なんと10の地域を赴任した大出世の者までいました。
実は、青木氏にもいまして、元は伊勢の上田郷の農民で、立身出世を夢見て、都に出て、浮浪人を集めて、盗賊の様な事をしながら、勢力を高めていました。
そこに、遂には、滋賀に赴任していた青木氏が任期が終わり近江に戻りました。
しかし、この「青木氏の一部末裔」に、近江に帰らずに歳を得た家が在り、そこに娘が一人居て、この老夫婦の面倒を看ていました。
そこに、上田郷の者が襲い、この家の家柄そっくりと奪い取ったのです。
そして、この娘に子孫が出来たところで、「青木氏」を名乗らせて、届け出たのです。
結局は、上記の様な事が起こってしまったのです。
一方近江に帰った青木氏は、後に、平安期に朝廷に届け出たのですが、聞き入れられず、この事を承知していた「近江青木氏の末裔」は上田に対して「戦い」に挑みました。
ところが負けて仕舞って、青木氏としての「社会の信頼や人気」を落として、他の一族からも嫌われ、近江にも一族はいられなくなり、結局、摂津に逃げ延びました。
一方の滋賀の上田の青木氏に成った一族は、益々子孫を拡大して、「滋賀青木氏」と成りました。
ところが、この「青木氏」も息を吹き返した「摂津青木氏」と再び戦う事になり、「摂津の青木氏族」は勝利を得て、再び、「名誉」を回復して社会に出る事が出来ました。
ところが、「滋賀の青木氏」は、今度は身内で「一族争い」が起こり、結局は一族は本家筋が衰退し、昔赴任した千葉に落ち延びて行ったのです。
滋賀では「同族争いの分家筋」が、勢力拡大して滋賀に残りました。これが現在の滋賀青木氏です。
この様な事が、各地で頻繁に起こったのです。
その一つが、「下剋上」です。
「下剋上」と「戦乱」で、鎌倉期末期には認証を正式に受けた「氏族」が200以上、最大時は末端支流族まで入れると800もあった「氏族」が、80程度になり、江戸期には20にも満たない「氏族」と成って仕舞って、ルーツを持たない「姓族の社会」に成ったのです。
日本には、「8000姓」もある中で、「搾取偏纂」では無い「真面な正式な系譜」を持つ家は「20」も満たなく成って仕舞ったのです。
従って、「1%以下の系譜」が8000姓の中に居たのですから、そもそも1%には最早、意味を持ちません。それどころかこの1%に何とかルーツを繋げようとして、「搾取偏纂」が横行したのです。最早、戦って排除する事は1/8000では無理でした。
遣られるままに成っていました。
これが、初期の武力による「家柄搾取」の原因です。
ところが、室町期中頃からは、「室町文化の影響」もあり、今度は,「武力の連鎖」を呼び、結局は「搾取行為」が、失敗と成るケースが戦国時代の為に多く成り、今度は「武力」を避けて、「金品」を使っての「悠久の名家」との繋がりのある「系譜作り」で、社会を欺こうとしたのです。
社会が、文化の発展もあり、「金品の価値」が高まり、「100%に近い搾取偏纂の横行」が起こって、この状況は江戸初期まで続き、江戸初期前後がそのピークと成ったのです。
これは、認証の無い「裏の密かな搾取偏纂」であるので、時代が進むと、その真偽が判らずに信じて仕舞う「社会癖」で、「搾取偏纂」が真実化して仕舞った現象が起こったのです。
これを利用したのが、「徳川幕府の戦略」なのです。
そして、この徳川幕府が容認して出来た「搾取の系譜」のこの「江戸初期当たりの資料」を基に現在の「郷土史」が出来ているのです。
ところが、この「郷土史」は、今度は「地方の特色」を売り出す手段として利用されたのです。
”歴史のある街だ”として売り出し、誇張する現象が、明治期から起こったのです。
仕方のない現象とも考えられますが、搾取が真実化した事の現れです。
誰もこの「搾取の矛盾」を指摘する「歴史家」が出なかったのです。
むしろ、逆で、この事に加担して利益を得ようとする「歴史家」が出て来て、この「矛盾解決の後勘」が働かなくなっていきました。
更には、この様な、「裏仕事をする業者」が出て来ていたのです。
それが、「古来の歴史や故事」に強い「神社や寺社」が、生活の為に、「口止め料」を含む高額な金品を受け取り「裏稼業」で請け負っていたのです。
戦乱後に荒れて生活に困っていた「寺社の仕業」であったのです。
そこに、”社会に迎合した歴史家”とが組んで仕舞えば、異論を唱える方が異端児扱いを受ける仕儀と成って行ったのです。
そして、系譜などの「搾取偏纂業」のみならず、その証明をも寺社が自分ですると云う何とも上手くしたシステムが出来上がっていたのです。
寺社が証明するものを否定する学識や見識を持っている者が居なかった事が、この様な「搾取偏纂の社会」がまかり通る世の中にしたのでした。
それどころか江戸幕府自体が、承知の上で「黒印状の令」でこれを奨励させたのです。
これでは反論する者がいなくなります。
江戸末期の「株の買い取り制」を始め、明治初期にも、更に今度は庶民までもが3年と8年の苗字令で、このシステムを利用して、金品のある者が家柄を作り上げたのです。
当然に、この様に成ると、社会全体が「搾取偏纂の社会」と成って仕舞いますね。
しかし、それが当たり前とすると、誰もが疑問を持たなくなるのも社会の常です。
ですから、現在から、歴史を、伝統をと成ると、この事に突き当たってしまう事に成るのです。
「歴史」そのものに意味の無い事が起こり、「伝統」が廃れていったのです。
結局は、最早、「搾取(塵)無し」の正しいルーツに辿り着くことは殆ど不可能です。
その真偽を検証する事さえ、個人情報の鎖に遮られて、出来なくなりましたからね。
後は、遺されるのはこの「郷土史」と云う事に成りますね。
それは其れで良いと納得すれば、それ以上の事はありません。自己満足の領域です。
筆者は否定するつもりはありませんが、ただ、「青木氏」だけは、認めたくありません。
幸いに、奈良期からの「古来の事」が遺されている「青木氏」であり、それを「未来の後勘の資料源」とする為に遺そうとして頑張っています。
「青木氏」には、未だ、奈良期からの「歴史と伝統」が「搾取」が入り込めない「文書、口伝、遺品」に遺されています。
そして、その「悠久の青木氏」に遺された「古来の習慣や仕来りや掟」等を網羅して、「真偽の青木氏の判断資料」としています。
これは、”「塵」”を取り除いた事を望む他氏にも、読む事に依って「歴史観」が増して遡上し、「判断資料」と成り得ると考えています。
それに依って、「搾取の塵」を少しでも払おうとして研究を続けています。
結局は、「歴史」とは、この「事を解き明かして行く事」にあり、「歴」の意味「履」と、「史」の意味「伝統」と書きますからね。
「史」の語源には、「のり」(則)と、「ふみ」(文)の意味を持っています。
平安期には「史」の意味は、この「二つの言葉の意味」を持っていて使われていました。
つまり、「歴史」とは、社会の「履歴」を、”「のり」”の「規則」で、”「ふみ」”の「文章」にして、”「解き」”明かして ”「伝統」”にする事、即ち、”正しく伝える”事の意味を持っているのです。
社会とは、何時の世も「搾取偏纂」が起こる事を前提としての解釈で、それを水の中から「塵」(搾取偏纂)を取り除いて、「純粋な水」のものにする事を意味すると考えます。
其処に、「歴史を知る事の面白味」があるのかも知れませんね。
それが故に、平安期に良く使われた「後勘に問う」”後の人の勘に任す”となるのです。
平安期の人の方が、「事の深意」を悟っていたと痛感します。
しかし、それにしても、平安期の「搾取の占める割合の1%」が、江戸期には遂に、逆転して「1%の真実」と成って仕舞った事から来る現象です。
これでは「歴史」とは、「伝統」とは、と成りますよね。
簡単に云えば、「解き明かす事」が「後勘」になると考えます。
>疑問なのは、なぜ墓がお寺の境内になく、そんな古墳の場所にあるのかということです。そしてそこは増田家と書かれた古い墓石しかありません。
「古墳場所」の疑問なのですが、これが上記で云う「歴史観」を獲得する一つに成ります。
実は、「古墳場所」は、関西では大変多いところですが、現実には、この「古墳の周り」には多くの家が立ち並んでいます。
つまり、何が歴史的に起こったかと云う事です。
実は、歴史的に、次ぎの「二つの事」が起こってこの現象出ています。
一つは、その古墳を管理していたのは、「土地の村主」です。
ところが、戦乱で村が破壊され、その周辺を奪った土豪が村人を排除したと云う事が平安期から、頻繁に室町期まで起こりました。
”「戦乱の戦い」で村を奪うと云う事”は日常茶飯事で、頻繁に起こった事なのです。
これが戦乱の世の中ですが、この為に、追われた村人等は、逃げる処と云えば、この様な誰も近づかない「古墳群の様な土地」でした。
朝廷の管理下や古豪族の管理下にあったが、「朝廷の力」や「豪族の力」が戦乱で低下してこれを止める力は無く成り、結局は非常事態として、この墳墓のある処の周辺に住み着く事に成ったのです。
墳墓にも、朝廷の物から、奈良期の土地の豪族の物まであって、その豪族が戦乱で絶えてしまったりすると管理する者が居なくなり、結局は村の村主(名主や庄屋)は村人をここに避難させた事から、墳墓周辺に人が住むと云う現象が起こったのです。
中には小さい古豪族の墳墓自体を潰して、そこに村を形成したと云う事は当たり前の様に起こりました。”背に腹は代えられない”と云う事ですね。
二つは、平安期に豪族による「荘園制」が幅を利かせ、土地の豪族らが「朝廷の許可」を得て、朝廷の古墳とは関係の無い土豪らの小さい古墳を潰して荘園にするこ事を許可したのです。
その「荘園での税」と「裏金」で朝廷は潤っていたのです。
中には「名義貸し」と云って「公家や貴族や源氏や平家」の力のある者の「名義」を借りて「税」を免れて開発を進めたために、この様な古墳が無視されて開発されてしまうと云う事が起こったのです。
中には、その「名義を名乗る事」で、「名義の使用料」を取ると云う事でも、朝廷・公家・源氏などが利益を挙げていたのです。
ところが、この事が行き過ぎて、荘園造りや荘園での「働き手」が不足しました。
結局は、源氏等が、「戦い」で地方の豪族を攻め落として、その”「敗残兵」”を”[奴婢」”にして”荘園」”に連れて行き”「働き手」”とし利用すると云う現象が起こってしまったのです。
そして、古墳などの地を整地して、そこに”「働く者」”の住居を建てたのです。
これを観ていた心ある朝廷は、この「悪弊」を排除しようとしました。
ところが、激しいこれらの豪族から抵抗と攻撃を受けながらも、「天皇の命」も危ぶまれる程の危険を感じながらも、この「荘園制」をやっと禁止したのです。
そして、それに関わった者を罰し、「敗残兵等の「奴婢に成った者」や、「村を追われた者」等を開放して保護しました。
この最も「過激な事」をしたのが、清和源氏頼信系の「源義家」で、遂には、「悪の私闘」をしたとして、天皇から「財産没収」と「官位剥奪]と[蟄居閉門」を受け「源氏」の一族は衰退しました。
それが、時代を経て、室町期の初期頃には、「子孫]が拡大して、「人」が集まり、「村」が出来、「道」が出来、「宿」が出来て、管理する「武士」が集まり、その「武士の墓所」が出来る事になる事に成りました。
「庶民の墓所」は、遅れて、江戸末期からで、正式には墓所を持てるように成ったのは明治期からです。
この「禁止された荘園制」の影響は、直ぐには全てが解決せずに室町中期まで続きました。
そもそも、「土地」には、「地権」が、保証されていますが、必ず、”「余地」”と呼ばれる「所有権」が設定されない土地が在ります。
この様な土地は、多くは「斜面(のり面)」と呼ばれる土地で「平地」を構成する高台の一部です。
ここは法的根拠はありません。普通は、申請に依って、その「土地に連なる地権者の権利」と成ります。田畑に水を送り込む「池」や、本川であった「中洲の河原」等もこれに含みます。
現在でも、これらの「余地」の「のり面」を整地にしたものが申請すれば「使用権の許可」が得られるのです。
日本は、山岳地や海辺や河原が多い国ですから、この「のり面」が実に多いのです。
この様な「土地」を、上記の追われた人達は、埋めるか切り開くして平地にして住み着いたことに成ります。「登記権」はありませんが「使用権」が認められて、「定住地]にしていた「民」が多かったのです。放っておくと「荒れ地」に成り、崩れなどの災害を誘発しますので、「使用権」で管理させたのです。
時には、公的機関が、「道路」などで「使用権を解除」して「立ち退き」をして、分断する等の事が起こったのです。
この「二つの現象」から、古墳の上に、これらの民の「墓、家屋、田畑」が出来上がったのです。
この「古墳の上」に、未だ現在でも、関西では家が建っていたり、田畑が在ったりしています。
「古墳発掘」が良く行われて、家が立ち退き、田畑が撤去されて「古墳の保存」が進んでいます。
お家の墓所の分断が、上記の二つの事からからでこの現象と成っています。
この事から、「墓所」では無いところの「増田家の墓」が分断されているのです。
推して知るべしで、お家のルーツがこの事からも前回にお答えしました様に観えています。
>青木様がご指摘されるように幕末の頃、何らかでちょっとした財を成し、郷士株を買い、旗本の二男を養子に迎えた。そして偽の墓石を作ったか、誰かの古い墓石を持ってきて、自分の畑に墓石を設置した?可能性としては考えられますね。
上記の情報から、「偽の墓石」は考え難いですが、「郷士株」での「郷士の墓」を移したと観るのが正しいと考えます。それで、”お家が郷士に成った”とする事への「世間に対する宣言」を成し遂げる事が出来ます。この”「宣言」”は、”重要な当時の慣習”でした。
前回の「坂本龍馬の家」も、この「宣言]をして、関係者を呼び、宣言した事が記録されています。
それでこそ、正規の「血縁で繋ぐ家」から、無血縁の「株で繋ぐ家」と無血縁の「養子嫁で繋ぐ家」に変わっていったのです。
当時の墓の持つ意味は、現在とは違います。
「家=墓=先祖」の意味を持っていました。
従って、「郷士株」を買って「下士の武士」に成る以上は、「墓所」を放置したままで、知らない顔は出来ません。其れこそ「武士の務め」です。この「務め」を果たさずに”何が武士か”と成ります。
「武士」を買う以上は、「家墓先祖」を買う事に繋がりますから、「墓所の移設」は最大の「武士の宣言」でした。
武士と民の違いは、「祖を持つ事の差」で決まります。「民」には、そもそも、「ルーツの持つ概念と仕来り」は無かったのです。「無かった」と云うよりは認められていませんでした。
「墓所」の移動などの処置を行う事に依って、”武士に成りましたよ”と宣言する事が慣習と成っていたのです。
つまり、「経済的な低下」も含めて、「子孫拡大」が図れずに、「断絶家」が多く成った事で、江戸末期から変化して行ったのです。
恐らくは、この状況から、「郷士株」で「下士の武士」と成った上で、「武士の養子」を迎えたと観るべきですね。
その宣言として、「元からの武士」ではありませんから「寺の墓所」は無理と成りますから、「余地の使用権の持った畑地内」に「墓所」を移して宣言をしたのです。
その後に、「郷士株」で「下士の武士族」と成って、「養子」を迎えての「後の墓」が道路を隔てた地に設けたと観るのが「歴史観」に見合うものです。
参考
尚、墓石と墓の形は時代性で変わっています。これからもお家の事が読み取れますよ。
又、ご先祖の戒名でもお家の事を辿れますよ。
以上、御疑問は次ぎの様な歴史観が在ります。
今後の探究に役立ててください。
では、ご質問等ありましたら、御遠慮なくお尋ねください。
青木様
高度な知識を用いた論理展開に感服いたします。ありがとうございました。郷土誌が搾取の物語であるとは驚き
です。歴史家や学芸員は誤った材料を使い、自分にとって都合の良い解釈をし、仮説を立て、見かけの検証をし
たつもりでいるのでしょうか。歴史とは何なのでしょうか。
さて、最後のご指摘が私も気になります。現在の私の実家は栃木ですが、明治時代私の祖父が群馬から移り住み
ました。
栃木のお寺は真言宗です。しかし群馬の墓がどの宗派に属し、どこのお寺を菩提寺いや檀家寺としていたのかは
分かりません。というのは、私の祖父の代の明治中期に墓だけを残し栃木に移り住んでしまったため、親族も残
っておらず、尋ねる術がありませんでした。
その残された墓は、敷地内にあったと書きましたが、正確にはわかりません。というのは、現在その残された墓
の周りは民家が立ち並び、昔そのあたり周辺が私の先祖の敷地だったという確証はないからです。現在の墓の様
子をもう少し詳しく説明すると、その墓は宿という十字路から数十メートルはなれた道沿いにあります。そして
道の反対側には、昔親族だったと思われる他のお宅の増田家と書かれた墓石がいくつかあります。
そしてそこは宿東古墳跡だと言います。
疑問なのは、なぜ墓がお寺の境内になく、そんな古墳の場所にあるのかということです。そしてそこは増田家と
書かれた古い墓石しかありません。
青木様がご指摘されるように幕末の頃、何らかでちょっとした財を成し、郷士株を買い、旗本の二男を養子に迎
えた。そして偽の墓石を作ったか、誰かの古い墓石を持ってきて、自分の畑に墓石を設置した?可能性としては
考えられますね。
武士の家系なら、江戸時代にはお寺の境内に墓があるべきですよね。青木様のお話では、本当の郷士でさえ、江
戸時代にはお寺の境内に墓を持つことはできなかったということですね。
だんだん謎が解けてきました。ありがとうございました。
増田
増田さん 今日は、始めまして。
ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
さて、本サイトは、青木氏ですので、増田氏の事は全くわかりません。
しかし、折角ですから、判る事をお話しします。
先ずは、そのルーツ判定に重要な基に成る事は、先ずは「家紋」ですね。
次に、「上野国」と云う地域です。
それとお家が云う「秀郷流関係の情報」です。
そこで、この「家紋」から進めますと、次ぎの様な事が出てきます。
そもそも、この「家紋」は、「銀杏の葉紋」に似せて作ったとする説と、「仏教の冥加の言葉」に合わせて縁起を担いで作ったとする説とが在ります。
作られたこの「抱き茗荷」の文様は、戦国時代で、元は「比叡山天台宗」の「仏神の曼荼羅神」の「神紋」として用いられていました。
依って、この文様を最も早く使用したのは、「比叡山」の「お膝元の氏子衆」であった者が、戦国で立身出世して「武士」に成ったもので、それが「近江二宮氏」です。
この「一族一門」の関西地域では、江戸初期に大名と成った「稲垣氏」と、その一族の「鳥羽氏」「山下氏」等です。
関東では、この「二宮氏の支流」が、江戸初期に「相模」から「下野、上野の地域」に移動してその子孫を遺しました。その支流が「小沢氏」です。
(元々は、この「二宮氏」には他説が多くあり、この家柄を搾取した武士が多い姓名です。)
何れも比較的新しい武士と成った、要するに”「姓氏」”です。
この「家紋」から、押し出すと、お家は関東の「二宮氏の末裔」と云う事に成ります。
確かに、この北関東の「下野と上野」の地域には、「藤原秀郷流一門」として「秀郷流青木氏」の支流族がこの地域を押えていました。
この二宮氏と直接に江戸初期に血縁した「秀郷流青木氏」が確かに有ります。
そうすると、室町期末期から江戸初期に掛けて、この「抱き茗荷紋の増田氏」がどの様に生まれたかにかかります。其れと、秀郷流一門とどの様に繋がったのかに依ります。
頂きました下の情報を鑑みて、お答えから先に、「秀郷流一門との繋がりの可能性」は低いと考えられます。
そもそも、「秀郷流一門」は「日本一の超大豪族」で、平安中期の「古名跡の家柄」もこれに勝る家柄は先ず無いのです。
「江戸初期前後の血縁」の「武家」の「習慣仕来り掟」は、「純血性」を重視し考えながら「家柄の吊り合い」で行いました。
「秀郷一門」には「361氏」ありますが、この中に、「増田氏の姓名」が在りません。
「秀郷一門の361氏」はそもそも”「氏族」”です。
「二宮氏」は、室町期中期から興った”「姓族」”です。
一般に云う「武士」でも、江戸期前では、「氏族」の「武家族」と、「姓族」の「武士族」とがあったのです。
「秀郷一門」はこの「氏族」の「トップの位置」にある「武家族」です。
これに勝る氏族は「青木氏」か「佐々木氏」しかありません。「最高位の武家族」なのです。
藤原氏はそもそも四家あって、その中のトップの位置にある「北家筋」のその最高位にある藤原氏です。
従って、本来は、「姓族の武士族」が「秀郷一門の系列」を持つ事は、身分家からを社会の規準としていた”「氏家制度の社会」”の中では、先ず無いのが普通です。
そこで、あるとすれば、「藤原秀郷一門の分家支流傍系族」(遠縁筋)が血縁している事は確認できます。
この地域は「秀郷流青木氏の定住地」でしたから、「青木氏支流傍系族」が何らかの関係で「土地の二宮氏」と女系で血縁して、二代続きの養子と成りました。
この事で「女系」と成った事から「養子先の家紋」に変わってしまった「青木氏」で、この「青木氏」が、他の「秀郷流進藤氏、秀郷流永嶋氏、秀郷流長谷川氏、秀郷流長沼氏」と血縁して末裔が広がる事はあり得ます。
この血縁は、直系的には繋がってはいませんが、現実には起こっています。
氏家制度の仕来りが弱まった時期の江戸中期以降から江戸期末期までに起こっています。
この「二つの族」(氏族 姓族)には、何が根本的に違うかと云う事です。
「氏族」の「武家族」は”「ルーツ」を持つ”と云う事です。
「姓族」の「武士族」は”「ルーツ」を持たない”と云う違いです。
つまり、”室町期末期以前のルーツが無い事”、と、「朝廷が認定した氏」である事の差から来ています。
現実に、今でも、”「氏名」”と云う言葉と、”「姓名」”と云う言葉が二つ在りますが、この事を物語っています。
「二宮氏系のお家」は、少なくともこの「姓名」の「姓族の武士族」に相当します。
「藤原秀郷流の直系」の系列下に「増田氏」がある事は論理的に先ずありません。
「氏家制度の社会」の「封建制度身分制度」の中では、生きている社会と環境が異なり、そこから来る「血縁等の厳しい仕来り」があったのです。
この社会制度が続いた江戸中期までの社会の中では、この「二つの族」が直接繋がると云う事は先ず無いのです。
つまり、「氏族の藤原氏側」から観れば、身分家柄を落とした事に成りますし、増田氏側から観れば、身分家柄を挙げた事に成ります。
「姓族」の二宮氏側から観れば、喜ぶ事に成ります。態々下げる必要のない名誉財力も桁違いに有る藤原氏が、身分家柄を下げる事はありませんし、下げた場合の藤原氏の社会から受けるリスクは計り知れません。
そんな事を宗家本家が認める事は絶対にありません。即座に「追放の憂き目」を受ける社会です。
恋愛より見合い制度の社会の中では、特に、武家族社会の中では、あり得ない事で有ったのです。
そもそも、「氏家制度」とは、一族が「本家」の管理の下で生きていますので、「分家」や「支流や傍系族]が、宗家の許しなく勝手な事をして、この「慣習仕来り掟」からは著しくはみ出す様な事が在りますと、「本家の力」で潰されるか追放される事に成ります。
秀郷一族一門は、この仕来りを強く護っているこの宗家本家 総宗本家の日本一の最たる「氏族」です。
家康でも現実に頭が上がらなかった「氏族」です。
増田氏が徳川氏と血縁で繋がっていると思いますか、思わないですよね。其れよりも「上位の身分と家柄の氏族」です。
間接的に、何かで幕末頃に血縁として、繋がった事は起こり得た事も考えられますが、江戸初期頃は先ずあり得ません。
”「秀郷流系列」”と云う事は、この家紋が「抱き茗荷紋」である限りは、「氏家制度」が厳格に維持されていた時期の江戸中期前には先ず有りません。
もし、あったとすれば戦いに成ります。放置すれば、秀郷一門の名に傷がつく事にも成りかねません。
現実には室末末期から江戸初期にはこの「争い」が起こりました。
「青木氏」にも3件もあったのです。有名な事件で歴史的に記録が遺っています。
青木氏の場合、中には、「秀吉」が仲介に入り、250人の兵力で秀吉の目の前で戦いに依る決着を就けた事も起こりました。
確かに、ご先祖が、周囲に「秀郷流青木氏」らが”「青木村」”を創って土地を押えて定住していました。
そこで、これを使って後に緩んだ江戸中期以降に”「家柄誇張」の搾取”をしたと観られます。
この現象が、江戸初期前後と江戸中期と明治初期前後に大ブームと成って起こりました。
そもそも、この時代は、時の幕府が、社会全般に「一般の勃興氏」に成った社会に対して、「権威」が無く成り、無理にでも、この搾取行為を認めて「権威付け」として奨励したのです。
「権威の持たない者」が「立身出世」が大半を占めたこの時期には、政治を安定させるには、「権威」が必要と成ったからです。
そこで、江戸幕府は、そうしないと、幕臣のみならず各藩の「家臣」と成る者には、「黒印状」と云う「証明書」を発行しました。
この「国印状」が無ければ、幕府と藩主に認めて貰わないと「武士」として生きても行けない事が起こったのです。
藩主も同じ立場に置かれました。
江戸幕府の「徳川氏」が、自らが、幕僚の家臣の大半を占める”「藤原」”と血縁したかの様に搾取して、”「藤原氏」の「氏族」”を名乗ったくらいなのです。
当然に、各藩の藩主と家臣の「武士族」は、右へ習えです。
そして、何時しか江戸中期以降には、「経済的な原因」もあって、この事が過ぎて、各藩に「断絶家」が続々と増えました。
そこで困った幕府は、この「武士株」の「売り買い」を認めて、「武士」の「家柄の保全」の為に、減らさない為にも、「株方式」を認めたのです。
そこで成った家が全国的に、沢山発生したのです。
例えば、「坂本龍馬の実家」は、[土佐郷士の坂下家」が潰れ、「商家」であった実家が、この「武士株」の「郷士株」を買って「土佐郷士」に成ったのです。
「土佐藩の家臣」の下位に置かれました。これで大事件が起こり、龍馬は脱藩するのです。
この「株」には、この「郷士株」と「武士株」と「郷氏株」とが有って値段が違います。
「坂本龍馬の実家」は、土佐では有名な「相当な金持ち」であったので落札したのです。
「武士株」は、「藩主の家来」の家が「跡目断絶」で売りに出した株です。下級武士が買った傾向が在って、これで「家臣の身分の位置」を上に上げたのです。
「郷士株」は,藩主の元々の家来では無い土地の古くから「土豪の株」です。
「商家」がこの株を買い取りました。この株を買うと、「藩との商売」が出来る事に成るので、この株を買ったのです。
「郷氏株」は、「氏族の末裔」で「古来からの名家」で、「大地主」や「庄屋」や「名主」や「武士の豪農」の株です。
この「郷氏株」は、「藩の家臣」の「上級武士」が家柄を「姓族の武士族」から「氏族の武家族」に上げて家柄を高める為にこの株を買い取った株です。相当な高額でした。
さて、この「買い取り」の後に、お家の家紋が、”「丸付紋」”に成っていますので、次ぎの事が云えます。
二宮氏の家紋が、丸付き紋の「武家支流」が出来るまでには、宗家が丸付き紋の二宮氏を認めるまでには相当な年数が掛かります。
室町末期から江戸中期前の頃が、枝葉の出来具合から観て、「丸付き紋の抱き茗荷」が出来る頃です。
更に、ここから関東に出て来て、又、この「丸付き紋」がお家の「増田氏]に繋がるには、子孫を相当に増やして拡大しなければ出来ません。
そうすると、江戸中期後から末期頃と成ります。
結局は、「時代性」に無理が出ています。
その枝葉が、この丸付き紋に成るには、先ず一つは、「二宮氏系の家」と、お家の増田家とか血縁して、「二代続きの養子の家」と成って、「娘の女系」と成って「男系筋の家紋」の「養子先の家紋」と成った事が起こっていた事に成ります。
或は、「二宮氏」か「小沢氏」の末裔で、分家支流か縁者傍系で、「妾子」か何かで”地名の増田”を採って名乗った事に成ります。
妾子は低い身分であると云う事で、よほど嗣子が無い時以外は、家系を継ぐ事は少なかったのです。
「後者の可能性」が高いと観られますので、この事に成るには、江戸末期前頃に成って仕舞います。
そうする、この「時代性の矛盾」を解決する方法は、上記の郷士株」以外に、墓所を、家紋を、土地を、持つ事は論理的に不可能です。
さて、ここで「家紋」に関しては、江戸期に家紋の使用に対して、家康は勝手に使うような事は禁令を発したのです。
従って、可成りの「判定の要素力」を持っていますので、兎に角は、お家のご先祖の大元は、買い取り後に「近江の二宮氏」の「傍系支流族」に成った事は間違いはないと思います。
次に「地主」であったとする事を前提にしますと、江戸期に地主に成るには、「氏家制度」の中では、この「二宮氏系」でなくては無理であったと考えます。
従って、秀郷流であるかは、大いに疑問です。
「地主」と成る以上は、この「買い取りの郷士」でなくては不可能です。
そこで、次ぎに、”「益田」”の「地名」で「姓名」とする場合は、「社会の仕来り」により「後者の武士」が多いのです。
故に、「秀郷一門」とは、戦乱末期に「氏子の農民」から勃興したの「二宮氏」とは、そもそも「家柄」が根本的に先ず違い過ぎますので、直接血縁をする可能性は、江戸末期か明治初期以降しか殆どありません。
しかし、少し疑問が在りまして、下記の情報を分析しますと、お家の増田家に付いてかなりの矛盾が出来ます。
さて、下記のご質問にお答えします。
>・墓は江戸初期(一番古いもので寛文3年 1663年)から江戸末期。
>・江戸初期には住み着いていた
この二つからは、確かに「武士」であった事の証になります。
室町末期からの勃興氏の姓族である事は一応は認められます。
ただ、下級武士の姓族には、勃興したての時期には、この墓所は無いのです。
まだ、二宮氏の様に室町末期に勃興した様な武士が「墓所」を持つと云う習慣が無かったのです。
この江戸初期に既に墓所を持っていることが疑問の1です。
>・家紋は「丸に抱き茗荷」です。
二宮氏系一族で、支流傍系族である事に成ります。
この「丸付き紋の支流族」が江戸初期から墓所を持つ事は考え難いのです。
「氏家制度」ですから、本家の許可なく「独自の墓所」を持つ事は先ずありません。疑問の2です。
>・江戸末期江戸の旗本から養子を迎えている。身分は「士族」
丸付き紋が証明していている事と、一つ目と二つ目の疑問とこの情報から、可能性として「郷士株」を買った可能性がある事を示しています。
>・群馬の”「新川の場所」”は 城下町ではなく、郷士か
定住地地域の環境が「武士の家」らしく無く、確実に「郷士株」の可能性がある事を示しています。
前の質問と合わせても江戸末期に頻繁に行われた現象を物語っています。
つまり、これまでの情報から”墓を含む全ての財産を買い取った”とする可能性が有ります。
そうしなければねこれらの事が成り立ちません。
>・赤城南麓の広大な領地を支配。
>・南勢多郡新川村66、淵名荘と新田荘の境界 「早川」の川沿い西側(淵名荘側)
>・江戸時代からの墓は、増田家の敷地内に
秀郷流一門が支配する地域に、二宮氏系のお家の増田氏が、大地主にこの地で成れるかの疑問の3が在ります。
しかし、成れたとすると、「株の買い取り」しかありません。
況して、”敷地内に墓所がある”と云う事は、「姓族」「武士族」「郷士族」にも疑問が残ります。
本来、「郷士族」は、古くから土地に住み着いた土地の土豪族で、元は、多くは農民です。
その村全体の農民等が、金銭で請負って「戦乱」で「傭兵」として参加した事から、起こった「農民族」の「農兵団」です。
その農兵には墓を持つ概念が未だこの時期は元々なく、河原に路傍の石を積み上げた形で済ます習慣でした。
下級武士を含む農民等が墓を持ったのは明治初期からです。
これらの階級を除いたある程度の歴史を持つ「郷士族」は、一族を固めて一か所に墓所を設ける仕来りです。
家の中にある事は、農民の江戸末期からの現象です。其れも多少土地を持った農民の習慣でした。
「国境」とか「川沿い」とかは、普通の「武士族」では無い事を意味しています。
この様な「河処」に住む者は、昔は”「河原者」”と呼ばれる人たちが住み着いた場所です。
普通の武士族は、”屋敷町”と呼ばれ、一定の良い土地に一画を採って住み着いていたのです。
この様に散らばって、墓を自宅にあるとする事は郷士にとってもありません。
「郷士族」も古くからある程度の大きさの土地に力を持った「小地主」でしたので良いところに住み着いていました。
「国境」は、普通は、この時代は、村を形成しない農民族の住む地位として、「農民の山族」と呼ばれる者が住んでた土地でした。
この事から、ただの「郷士」では無く、農民か、且つ、農民系郷士と云う事しかありません。
最早、農民であったとする疑問を解決するには、江戸中期か末期に、「増田の姓」と「その財」の一切の「株買い取り」しか納得出来る事はありません。
「株買い取り」の出来る者として、普通は「商人」と云う事に成ります。
「普通の農民系」が、株を買う事はその買い取る為の「財」を何処から得たかの問題もあります。
「買い取る」だけの「経済力を持つ者」は「土地の物産」を販売して「財」を成した者が、「株買い取り」をして「家柄一切」を買い取ったとすれば全て解決します。
室町期には、鉱物資源等を開発した者が、この株を買い取って「郷士」に成り、勉学を心掛け一族を拡大せさ、最終には大軍を打ち破った「歴史上の人物」の「楠木正成」が居ます。
「養子」を江戸末期に迎えたとする事は「武士族」にしかありませんでしたので、この事を物語っています。
>・「天神山」
>・五輪塔の良質な材料
天神山の地域と花崗岩石から観て、江戸期での「大地主」に成れるには、「株買い取り」が裏付けています。
これは、上記の「株買い取りの能力」を証明する事でもあります。
恐らくは何らかの関係があった事が頷けます。それは、邸の中に墓がある事が物語ります。
恐らくは、この地に居て、この事で財を成したものが、「株買い取り」で身分を引き上げて、その上で「養子を迎えたとすれば成り立ちます。
>・「藤原姓益田(増田)氏家系略記」ルーツは藤原秀郷と・・
この情報には搾取の間違いを起こしています。搾取である事を証明しています。
それは、藤原北家秀郷一門は、上記しました様に、「姓」ではありません。
そして、住み着き場所もはっきりしていて、「秀郷流青木氏以外」に「藤原氏宗家筋」がここには住み着いていません。
「この事を知らない人」の「後付の搾取」です。
そもそも、「氏」と「姓]が逆転しています。歴史書を観てください。この知識の知らない人が書いたものであることが直ぐわかります。
普通は、族、氏、家、姓の順位です。
もし書くとすれば、「朝臣 藤原北家・・族・・氏・・系・・増田家・・姓・・略記」
氏と姓の順序の違いもありますが、更に、藤原の直ぐ後に系譜として増田氏が繋がっている事など100%ありません。
「藤原氏族」は日本一と書きましたが、「藤原氏族」の下には系譜として「4段の枝葉」があって、もし、「増田氏」の様な家が来るのであれば「6段か7段目」に来る筈です。
間違いも大間違いのもので、恐らく書いた人物は武士では無かったと考えられます。
「武士」であれば、この程度の事は充分に知っています。
更に、江戸時代は、未だ「氏と姓の使い分け」をはっきりして護られていました。
現在でも、氏の方が大きく、姓の方が小さい扱いなのです。氏と姓が逆転するなどははなはだしくて書く気がしませんね。
この系譜にはこの使い分けそのものがを出来ていません。
書き方もこの様な書き方はしていません。
日本でもこの様に、最大に搾取偏纂されている「氏族」は「藤原秀郷流」です。
そもそも、「秀郷流一門」は、「家柄から古来の仕来り」に従って、一族はそもそも、奈良期からの仕来りに従って「地名」を「氏名」にはしていません。
藤原一族一門、中でも秀郷一門は、この様な「搾取」を防ぐ為に、全て、次ぎの「仕来り」に従っています。
藤の字の前後の何れかに役職名 役職の階級等の「佐」で佐藤氏、匠の工の工藤氏・・全て藤付き名なのです。これを「・・藤氏」と呼ばれていました。
藤の前後の何れかに地名の頭文字 伊勢であれば藤原氏の伊藤氏・・国名の一時を付けて見分けられるようにしていました。藤原氏は24の地域に赴任にて定住していますので、各地域の藤原秀郷氏はこの様にしていました。
以上のこの二つに限られていました。
従って、秀郷一族一門下には、益田、増田、大胡などは本来ありません。「後付」の搾取です。
江戸期の禁令でしたが余り護られなかったのですが、これが酷い搾取偏纂を証明しています。
更に、社会は「氏家制度」ですから、この様に勝手に系譜を創る事は出来ません。
「本家筋の許可」を得て書かれるもので、正規の認証と認証印が藤原氏には有ります。
従って、書き方も統一していて、この様な幼稚で勝手に書いた様な間違いをする事は、100%あり得ません。
以上の様に、疑問だらけで、これを解決できるのは、江戸末期に「株買い取りによるお家」と云う事に成ります。
江戸中期前は、「相当の氏家筋の者」がはっきりとして、正規に届け出て、「武士」に成りました。
上記した「土佐の坂本家」も許可を得てこの「正規の仕来り」に従っていますし、他には「近藤勇の実家」などがあります。
>・「秀郷の流れ」を汲む「大胡氏」が築城されたとする大胡城、実は秀郷流藤原姓益田(増田)氏の先祖が築城したと記されている。
>・子孫が横瀬国繁の時代、大胡城を攻められ、岩松、横瀬氏支配する太田金山に引き取られた
”流れを汲む”で、中途半端に表現していますが、「361氏」全てはっきりしていますので、「流れを汲む」はあり得ません。
はっきりしていて知っていれば、普通は「藤原氏」の「氏族の仕来り倣い」で書き込む筈です。
全ての真面な記録には、この「仕来り倣い」に従っています。
如何にも家柄をよく見せようとする江戸期に興った搾取の典型的な社会現象が出ています。
>・家紋の「丸に抱き茗荷」では秀郷の流れを汲んでいる可能性が
実は、原則的には秀郷一門には、「丸付き紋」の仕来りが在りません。
直系族は「副紋方式」と云う形で「分家支流」を表現しています。
後から、別に勃興した二宮氏の様なものが秀郷一門と血縁しても秀郷流には入りません。
何度も一門と血縁を繰り返した上で起こる現象で、そこには秀郷一門から男系が降りて来なければ起こる事はありません。
秀郷一門から下位の家に降りて来る事はありません。
何度も何度も血縁して血筋を高めて、やっと関係筋の「傍系」と成るのです。
依って、秀郷一門ではありませんし、更に”「流れ」”の様な形で「子孫拡大」を認めていません。
この方法を採っていないのです。「氏族」と「姓族」の「仕来りの違い」を把握していませんね。
搾取である事ははっきりしています。
>・横瀬氏との関係では新田氏。
新田氏は清和源氏の支流族で、家紋は、本家であろうが分家であろうが変紋しません。
「笹竜胆紋」なのです。他の家紋を使っていますとそれは搾取の証拠なのです。
平安期からの氏族で、「抱き茗荷」の室町期末期の家紋とで時代性の違いが起こっています。
そもそも、笹竜胆紋と抱き茗荷紋とは紋が違いますよ。
上記しました様に、郷土史などはこの江戸期頃の搾取偏纂の資料を前提として、作り上げています。
江戸期の搾取偏纂の資料には上記する様な矛盾が多いのてす。
お便りには、宗派が書いておられませんが、「宗派」はどんなに搾取して家柄をよく見せようとしても、この宗派だけは変えられないのです。
宗教界はこの搾取を絶対に認めませんでしたので、その宗派に入信する事は出来ません。
取り分け、農民は、特定の顕教の宗派にしか入信が出来なかったのです。
墓所を持つことがそもそも、出来ず、その概念も農民には無く、明治期の3年と8年の苗字令の時から全て自由に成りました。
更に、お便りには、「菩提氏の過去帳」の件も在りませんが、上記の宗派と相まって、明治初期まではこれも下級武士以下は持っていなかったのです。
有ったとしても、”「菩提寺」の「過去帳」”では無く、”「檀家寺」の「人別帳」”です。
「人別帳」も無いが殆どでした。
念の為に「菩提寺」と「檀家寺」とは違いますよ。
この事で上記の事が全てがはっきりしますよ。
何故、最初に把握しなければならない情報で、現在でも調べなくても法事には使っていますよ。
知っている筈ですね。最初に書くべきことが何故に書かなかったのでしょうか。
先ず、ルーツをお調べに成る前に、この様な歴史に関する判別できる「知識の歴史観」を身に着けられる事が必要ではありませんか。
それでなくては無理ですよ。
では、ご不明な点やご質問が在りましたらReでお便りください、青木氏がご協力いたします。
一度、この事もお調べに成ってください。
増田と申します。私のルーツを調べているうちにこのHPに出会いました。
私の実家は明治初期まで群馬県桐生市新里町新川というところにありました。
明治維新で没落し、祖父の代で栃木に移ってしましましたが、先祖代々の墓は群馬にまだあります。
除籍謄本によれば、江戸末期江戸の旗本から養子をもらっており、身分には士族と書かれていました。
家系図等文書では残されておりませんが、父や叔父の話では、いつ頃の昔の話か分かりませんが、
赤城山南麓の広大な領地を支配していた聞きます。子供のころの話なので、大ぼらを吹いているのだなと
ほとんど関心はありませんでしたが、父が亡くなった今少しずつ調べはしめているのですが、下記のことが
分かりつつあります。
・先祖代々の墓は江戸初期(一番古いもので寛文3年 1663年)から江戸末期までのものが
現存しております。
・家紋は「丸に抱き茗荷」です。
・除籍謄本によれば、江戸末期江戸の旗本から養子を迎えている。身分は「士族」となっている。
・しかし群馬の新川という場所は城下町ではなく、武士が住んでいたとは思えないので、いわゆる
郷士だったのではないかと考えている。
・父や叔父の話では(言い伝えなので真偽は不明)、いつの時代か知らないが、赤城南麓の広大な
領地を支配していたと聞く。
・除籍謄本での住所は、南勢多郡新川村66であり、淵名荘と新田荘の境界争いをしていた「早川」
という川沿いの西側(淵名荘側)である。江戸時代からの墓は、お寺ではなく増田家の敷地内にあった。
場所は家と同じ早川沿いの西側で、住居の新川66から北に約2km行った早川沿いの西側。
・祖父の妹の話では、子供のころ(明治時代)家の近くの「天神山」というところでよく遊んでいた。
この山は中世期、五輪塔の良質な材料としてよく使われたいた。
・群馬県に太田市にお住いのある個人所有の家系図に「藤原姓益田(増田)氏家系略記」という
ものがあり、ルーツは藤原秀郷と書かれているようです。この家系図によれば、秀郷の流れを汲む
大胡氏が築城されたとする大胡城は、実は秀郷流藤原姓益田(増田)氏の先祖が築城したと記されて
いる。(もちろん真偽は不明)。彼の子孫が横瀬国繁の時代、大胡城を攻められ、岩松、横瀬氏が
支配する太田金山に引き取られたということらしいです。
ということで、家紋の「丸に抱き茗荷」では秀郷の流れを汲んでいる可能性があるような気がするのですが
、横瀬氏との関係では新田氏のような気もするし、よくわかりません。
いずれにしましてもいつの時代にあの地に住み着いたのか(少なくとも江戸初期には住み着いていた)
、私のルーツは誰なのか?知りたいですね。
是非とも青木さんのご見解をお聞かせ願えませんでしょうか。宜しくお願い致します。
増田
宮城の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトです。これからもよろしくお願いします。
雑談掲示板からこちらに移しました。
さて、お便りのご質問ですが、サイトメニューの地名地形データベースに記載しているものをコピーして、お答えします。
家紋だけの情報では、無理です。
一般路の加美郡の事でお話します。
お家の御先祖が住んでいたここは、昔は広域の「陸前国」と言う地名でした。
この国を始め、現在の東北6県には、「賜姓青木氏」及び、「藤原秀郷流青木氏」、並びに、「藤原一族」の者が、守護、又は、それに類する「官職」で赴任している事はありますが、ここにはありません。
この地は「奥州藤原氏(1200年頃まで)の勢力範囲」であったことも原因していると思われます。
従って、「何れかの青木氏」が、この地域(2地域)に定住したとしたとするならば、「寄進系荘園制」のものとも考えられますが、「奥州藤原氏の勢力圏内」に、ここにわざわざと「関東の藤原秀郷一族の管理の為の移動」とは考え難いのです。
鎌倉期前後に「藤原秀郷一族」が、「24の守護地」と、それに類する官職を全て失った結果、瓦解して、各地に定住していた「藤原秀郷一族」と、護衛をしていた多くの一門の「青木一族」は、故郷の「武蔵国」と「下野国」の北部の地方に戻ったことが史実として確認出来ます。
その時、「直流の青木氏一族」は、下野付近までで、「支流の青木一族」は下野北部方面に移動しています。
又、もう一つは、「武田氏と織田氏との戦い」にて「武田氏系の諏訪族青木氏」を始めとして、「3つの青木氏」が、藤原氏を頼って神奈川横浜から下野北部地方の宮城地方までに逃げ延びています。
(これが考えられる第1ルーツです。)
又、これ以外に考えられるのは、何らかの理由で源氏一族のものが逃げ込み、青木姓を名乗ったとも考えられるが、その史実がないのです。
更に、還俗僧が青木姓を名乗ったとする考えも対象人数が極めて低いので可能性はないのです。
恐らくは、赴任地の24地域の各地から戻ってきた「護衛役の秀郷流青木一族」であるとも考えられます。(第2のルーツです。)
その一族としては、東北地方に近いところに戻ってきた史実は、現在の所「二つの青木氏」が確認されています。
「四国地方」に赴任していた宗家の「宗政、時政親子」の「護衛役」として阿波地方に赴任していた「秀郷流青木氏」(A)と、「四国讃岐地方」に赴任していた宗家「文紀」の「護衛役」として赴任していた「秀郷流青木氏」(B)が、更に、「中国地方の安芸」に移動していた「秀郷流青木氏」(C)が、戻っています。
戻った定住先は、確定は出来ないが「下野北部」である事は確認出来ています。
前者(AとB)は、「片喰紋」、後者(C)は、「亀甲紋」の家紋が確認出来るので、後者とも考えられます。
さて、しかし、ここで、お家は「三階松紋」であるので、この文様は、四国讃岐ー土佐域から東部の徳島域まで分布しています。
四国に赴任していた「秀郷流青木氏」(三階松紋)が、「下野北部」に戻った事に成ります。
「讃岐土佐地方」として家紋200選にも出て来る「三階松紋(丸付き紋含む)」の「讃岐秀郷流青木氏」(D−1)の一族があります。
この一族は讃岐が定住地ですから戻る事はありません。
そうすると、「三階松紋」の「土地の豪族」と血縁した「讃岐秀郷流青木氏」の末裔で、この家紋の持つ「讃岐秀郷流青木氏一族」と、阿波に赴任していた(AかB)が、血縁して、その「三階松紋」となった者(D−2)の末裔が「下野北部域」に戻った可能性があります。
つまり、「現地の末裔」が、”「親郷」”を頼ってここに移動して定住したと考えられます。
依って、最も確立の高いところとしては、この二つのどちらかの「秀郷流青木一族」が戻ったところと考えられます。
(三階松紋の一族のD−2の可能性は非常に大)
「栗原郡」にも「青木の地名」がある事から、この地方には、前者(AB)も、(C)(D)も、(「抱き松紋の青木氏」も含む)が移動していたのではないかと見られます。
平安末期から鎌倉末期までの事と観られます。
これがお家のルーツと成ります。
情報が「家紋」と云うだけですから、ここまでが限度です。
追記
「来場記帳」に「曹洞宗」とありました。
福井の「永平寺の禅宗」ですが、「青木氏」は、浄土宗で、密教です。
宗派が異なっています。
ただ、この禅宗は、宗教概念の基教は、顕教の浄土宗に成ります。
この加美郡には、この時期には「浄土宗の青木氏の菩提寺」はありませんでした。
一時、この地域は平安期には、広域の”陸奥域”と呼ばれ、「秀郷一門の勢力圏」がこの域までありましたが、次第に撤退して、室町期には青森域までの勢力圏と成って仕舞いました。
最終、秀郷一門の結城氏と青木氏が小陸奥を勢力圏を護っていました。
この加美郡域は陸奥側と武蔵下野側から勢力境界地と成っていました。
加美郡は、その昔の勢力地であった事から境界一部が遺されていたのです。
しかし、菩提寺などは戦いで焼き払われて「浄土宗青木氏の菩提寺」(西光寺)は無く成りました。
依って、この事は、ここが「青木氏」の「元来の定住地」では無い事を意味します。
この事は、”「三階松紋の一族」の「D−2の可能性」は非常に大”を証明しています。
青木氏は、慣習で、普通は「浄土宗」で、地方の地域に赴任定住して現地末孫を増やした場合、仮に無ければ、「浄土真宗」を容認しています。
お家は、「現地末孫」の「三階松紋の秀郷流青木氏」ですので、この「加美郡」には、[秀郷流青木氏の菩提寺」は近隣には無かった事から、次ぎに、下級武士が入信する浄土宗系の「曹洞宗」に入ったと成ります。
依って、お家の本来の青木氏の”「菩提寺」”ではありません。顕教の「檀家寺」です。
この、「曹洞宗」が陸奥地方に広まったのは、比較的新しく、室町期中期に成ります。
三階松紋の四国での発祥期の暫く後の時期と成ります。
其処から、加美郡に移動定住したとすると、江戸初期前後頃に成ります。
室町期末期に秀吉に攻められると云う事が起こっていますので、陸奥の秀郷一門結城白河氏らも攻められて激戦と成った地域です。
秀吉が一番戦死者を出した激戦区でした。
その危険性から、四国の一門からこの地域の守備に配置した可能性が有ります。
栗原郡の青木氏と一致していますので、恐らくは親族であった事に成ります。
秀郷流青木氏の現地末孫である事から、直系で青木村を形成している「武蔵や24定住地」には住めません。
そこで、陸奥域の加美郡域には、青森より南域の勢力範囲の境界部の領地を護る為に、配置された一族です。
陸奥域の秀郷流青木氏は、赴任が終わる冬の時期は「武蔵域」に戻る「仕来り」で、「交代制」を採っていました。
お家は、現地末孫の支流族の移動でしたから、この境界部に守備留守居として配置定住の役目を担った青木氏に成ります。
情報が他にありましたらお知らせください。
代理投稿
雑談掲示板に投稿あり、ルーツ掲示板に移動します。
青木猛
2015/01/31 22:48 - パソコン
先祖が知りたいです
宮城県加美郡加美町に住む青木です。うちの先祖を調べて欲しいです。家紋は三階松です。
幕末までは、たどれるんですけど、できれば戦国時代もしくは、古い時代までたどりたいです。必要な情報があれば教えてください。
こんにちわ。
ご回答有難うございました!
お返事遅くなり申し訳ございません。
家のパソコンの調子が悪く上手く掲示板への
書き込みが出来ませんでした。
お返事の内容を一字づつ噛み締めながら拝読させて
頂きました。
私事ですが、ここの所、父親の体調が悪く、近く大きな手術を
するかもしれません。そんな中、我が家の成り立ちや歴史
の話をすると、大変喜んでもらえます。
父と私は長男同士ですので、立場が同じと言う事もあって
次第にお互いの絆が深まったように感じております。
これが、お返事の中にあった、「癒し」であるの
かと思っております。
また、親族にもこの掲示板で知った事を話しました。
但し、話した後に必ず、だからと言って
今の生活が変わる訳でもないし、何も変わる事は無く、
ただ、子々孫々に伝えてゆく義務だけはあると申し
あげました。
さて、さがり藤紋の件は良く理解出来ました。家紋定や嫡子や
氏姓制度の知識が不足していた為、誤解をしたままでした。
何とかして、この下がり藤紋を残して行きたいと思います。
(平信長、藤秀吉、藤原の家康⇒源家康と言う流れがあった
とは今回初めてりしました。本当に勉強不足を恥じ入る
ばかりです。)
また、別件でございますが、この掲示板を知って以来、
伊勢にお住まいの青木氏末裔に関心を持ち始めました。
私はある道場に通っておりますが、そこに青木さんが
いらっしゃいます。不思議と道場ではお見かけしませんが
忘年会や新年会には必ず顔を見せます。
もしかしたら遠いご親戚なのかと思うと親しみが
沸いて、つい馴れ馴れしくしてしまいます。
ご先祖様の件は持ち出さずに、この馴れ馴れしいお付き合いは
しばらく続きそうです。
まづは、お返事頂きまして誠に有難うございました。
また、更に情報が分かりましたら、ご相談させて下さい。
色々とお力になって頂き感謝いたしております。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
永嶋さん 今日は。
お久しぶりですね。お元気でしたでしょうか。
ご先祖の事が少しづつでも解明されて進んでいる様で良かったですね。
慌てずに、少しづつでも良いですから、解明して、忘れられた「伝統」を掘り起こし、末裔にロマンとして遺してください。
若い時は、その勢いから、伝統から来る心の癒しが感じないのは当然で、それは其れで良いと思いますが、必ず、何時か、「心と体の勢い」が一致する時が人には来ます。
その時の「心のお土産」として、残して上げて置く事は人の優しさでしょう。
その遺す内容の如何は問わないと思います。
”何か通ずる物が遺されている”と云う「感覚の癒し」だと思います。
そして、今、永嶋さんは、その末裔の「心の動き」に来ている時期ではないかと考えます。
「心と体のバランス」が取れ始めた時ではないかと心得ます。
その証拠に、ご本家の方々の動きや遺した事柄を思い出し、その”ご先祖の生き様の如何”を知ろうとしているのです。
この度、お便りの内容を観させて頂きましたが、具に、その事が出ています。
(お便りの信号は入っていましたが、文章が入っていませんでした。)
さて、お便りのお答えに入ります。
お答えの結論を先に述べます。
全く、問題はありません。
「お墓の家紋」が”「下がり藤紋」”である事には問題は無く、むしろ、斯くあるべき事です。
前回にもお答えいたしましたが、お家は「藤原秀郷流永嶋氏」で、「秀郷一族一門361氏」の中の、「主要8氏」を構成する「青木氏族の永嶋氏」です。
その流れを「主筋の範囲」で繋いでいる「千葉の永嶋氏」です。
”「関東屋形」”と呼ばれ、室町期には、「秀郷一門の宗家」よりその勢力を高め、西は伊勢域まで、北は陸奥域まで広げて子孫を拡大した「一族の末裔」で、その勢力は「信長−秀吉−家康」を震撼させたくらいのものでした。
結局は、この三人は、秀郷一門の力を恐れて潰す事が出来なかったのです。
家康などは、この恐ろしい勢力の中に転封で「秀吉」に追いやられたのですが、流石、「家康」、この勢力を逆に取り込んで自分の勢力の根幹にしてしまったのです。
江戸幕府開幕時は、主要官僚として御家人旗本の根幹に据えたのです。
そして、自らも「藤原姓」を名乗る事をしました。
その「千葉の永嶋氏」で広く庄屋をされていたのですから、全国にある永嶋氏、遠くは鹿児島市まである永嶋氏の宗家筋に当たるのです。
当然に、秀郷一門の「主要八氏の永嶋氏」は、「秀郷一門の総紋」の宗家筋が引き継ぐ「下がり藤紋」を「主紋」として、「墓所」や「氏を伝える伝統品」(幔幕等)には、この「総紋」の「下がり藤紋」を刻むのが「秀郷主要一門の慣習」で「仕来り」です。
しかし、長い間には、お家に「男系跡目」が出来ずに、「跡目養子」や「婿養子」を迎える事などが起こります。
この時、武家の「家紋掟」に依り、この「養子」にも「男系跡目」が出来ない場合は、再び次ぎの代の娘に「婿」を迎える「二代続きの事態」が起こります。
(但し、一代目の養子に嫡子が出来れば、「家紋」は、その「嫡子」が戻して、「元の家紋」は引き継ぐ事が出来ます。)
この時、結局、「女系」と成りますから、”男系先の第一番目の養子先の家紋”を引き継ぐ事に成って仕舞います。
「養子先」の系列に入ります。従って家紋も変わる事に成るのです。
この事がお家に起こった事を示しているのです。
そもそも、お家の「家紋(副紋)」が、「丸に抱き沢潟紋」に成っているのは、「抱き沢潟紋」の氏か、「丸に抱き沢潟紋」の氏から、「養子」を迎えられた事を示しています。
この「養子」にも「嫡子」が出来ずに、「元の家紋」を継承する事が出来なかった事に成ります。
ただ、ここで、未だ、「藤原秀郷一門」の中にありますし、それも「千葉の永嶋氏」と成りますので、「秀郷一門361氏」の「総紋」は引き継いでいて、「下り藤紋」である事には変わりはありません。
この時に、何時か状況に依っては、「婿も養子、娘も養女」と云う事は起こり得ます。
つまり、この状況は、「永嶋氏は断絶した」ことを意味します訳ですから、つまり、「秀郷一門の血筋」を引いていませんので、「総紋」も引き継ぐ事は、最早、出来ません。
そこで、初めて「総紋と家紋」は共に変化してしまいます。
この為にも、「名家断絶」は絶対に出来ませんので、「養子」は兎も角も、「養女」は血筋の引く縁者(「四親等内」)から求めますと、「総紋」だけは引き継ぐ事が出来ます。
そこで、より「血筋」を高いものにするには、矢張り、「養子」と成りますので、「養子」を親族縁者(四親等)内に求めて、血筋を高めようとしますが、一族一門の361氏は何処も同じ問題を抱えていますからそう簡単には行かずに、「養女」と云う形に成ります。
そこで、では、”「墓所」や「伝統品」に刻印されている家紋はどうするのか”と云う問題ですが、お家の様な名家で、「一門の血筋」を引き継いでいる場合は、「総紋」は変化しませんので、それは正しい慣習なのです。
これを、仮に、「副紋」にすると、お家が云われる様に、度々、変更しなくてはりませんね。
大変な事に成ります。(依って、「家紋」そのものが「特定の氏族」にしか用いれていませんでしたので、室町期前期の頃までは、未だ、墓所には家紋を刻むと云う習慣が在りませんでした。)
現実には、そんなことは出来ませんので、”「一門の血筋」を遺している場合”は、”「総紋」”で良い事に成ります。
さて、日本最大の「正規の氏族」の「藤原氏の秀郷一門」には、「総紋」は持っていますが、日本8000の氏姓の中でも、この”「総紋」”を持つ「氏族」は、鎌倉期では50程度、室町期では、20程度に成って仕舞っていました。
「下剋上」や「戦乱」で絶えてしまったのです。
恐らくは、江戸期の頃 お家では、曾祖父の頃までは、この知識が引き継がれて来ていて、「総紋の下り藤紋」を墓所に刻んだのです。
既に、お家の頃には、この「伝統の慣習知識」が消えて仕舞っている為なのです。
「総紋や副紋」と云った「特定氏の概念」そのものが消えていた事に成ります。
それは、「副紋の文様」が「丸付き抱き沢潟紋」に成っていた事から、”世間と同じ慣習(姓族の慣習)”と思って、お尋ねの疑問が生まれたのです。
それは、お家が、最早、周囲には珍しい”「総紋」を持つ家筋のお家である事”の「伝統」が消えて仕舞っていたからです。
”「総紋」を持っている氏”であるこの事を、子孫に添え書きで伝える事が必要です。
この時に、「丸に抱き沢潟紋」が、「副紋」である事も合わせて伝えられる必要があります。
何故ならば、お家の様に、周囲には「一族伝統の証」の「総紋」を引き継げる家は先ず無いと思いますから。
そこで、この「沢潟紋類」は、尾張の地域に群生していた野生の花から、家紋化が成されたものです。
(この尾張の周辺では、「州浜紋」、「片喰紋」、「沢潟紋」を家紋とする「土豪一族」と血縁して、その勢力伸ばした秀郷一門(青木氏を含む)が定住しています。)
この「沢潟文様」は、最初は、平安期から公家(久我氏)や高級武士の「車の紋章」に使われました。
特に江戸期には「100姓族」に使われています。
お便りの”「祖父の写真」には、「立沢潟紋」であった”とするお話は一概には否定できません。
むしろ、お家に執っては、このお話は「正しい事」なのです。
恐らくは、この様な知識が未だ親族や母上には残っていて、それを何とか子孫に遺そうとしたのでしょう。
ですから、今度は、お家が遺さねばなりませんね。
そこで、遺すものとして、「上記の総紋の事と、副紋の関係の事」は勿論ですが、もっと遺さねばならないルーツの事が在るのです。
実は、この度のお便りで重大なお家の情報が伝えられていたのです。
そもそも、「徳川氏の家臣」と成った尾張発祥の上総の「酒井氏」と「堀氏」が、この「抱き沢潟紋」と「立沢潟紋」を共に”「二紋併用方式」”を採用する習慣を持って使っていました。
「抱き沢潟紋」だけであった場合は、疑問を持ったところです。
何故ならば、尾張に生まれたこの家紋のこの「抱き沢潟紋」は、関東で、「藤原秀郷一門の氏」に関係した氏族(姓族では無い)としては、上記の二氏の家紋に成りますが、この二氏は「抱き沢潟紋」の単独使用はしていなかったのです。
そこで、何故、「二紋併用方式」が生まれるかの問題です。
この「酒井氏」の場合、尾張付近から鎌倉期頃に関東に移動して来て、秀郷一門の末裔と婚姻します。
そうすると、この「酒井氏」も関東で秀郷一門に囲まれて子孫を拡大して、何度も秀郷一門との血縁を繰り返しますので、何時か血筋が濃く成り、最早、秀郷一門に組み込まれます。
そして、子孫の「枝葉」を拡げる事に成ります。
そうすると、秀郷一門の「下がり藤紋」を「総紋」とし、「沢潟紋」を「副紋」とする事が起こります。
更に、この枝葉を拡げると、今度は「沢潟紋」を「総紋」として、「立沢潟紋」を「副紋」とする「枝葉の子孫」が起こります。
これを繰り返して行きますと、今度は、「立沢潟紋」を「総紋」として、「抱き沢潟紋」の「副紋」の「枝葉の子孫」が生まれる事に成ります。
そこで、横の関係のこの「間接系族の抱き沢潟紋」と「直系族の永嶋氏」の血縁が興ります。
依って、お家は、「下がり藤紋」を「総紋」とする「副紋」を「抱き沢潟紋」の「直系族の永嶋氏」です。
(永嶋氏は秀郷一門の元からの族ですから「下り藤紋」、酒井氏は血縁に依って間接的に一族に組み込まれた族ですから、枝葉は拡大すると自分の「総紋」を作る必要が起る。
戦いとなれば、「下がり藤紋」の旗下に組み込まれる仕組みです。)
「沢潟紋側(養子側)」から観ると、「二紋様用方式」を採っていますので、「立沢潟紋」も「第二の総紋」と成り得るのです。
だから、「祖父」の方が、「立沢潟紋」の「総紋」を「紋付」に付けていた事に成るのです。
これが、「二紋併用方式」を特別に「酒井氏の伝統」と成ってしているのです。
この事は、男系側として観れば、「抱き沢潟紋」系に組み込まれた「永嶋氏」ですから、「沢潟紋側」で行われる何らかの「冠婚葬祭」や「式典」の折には、お家は、「立沢潟紋」の「総紋」の「紋付」に付けての参加と成ります。
しかし、お家の「氏族」は、未だ「酒井氏」系では、元来無く、「直系の永嶋氏」として「氏名」を継承してきている限りは、本流の正式な氏の「総紋」は「下がり藤紋」と成るのです。
依って、「秀郷一門の永嶋氏」系の「冠婚葬祭や式典」には、「下り藤紋」を着ける事に成ります。
「酒井氏」系に成っている為に、使い分ける必要が出て来ているのです。
従って、お家の親族関係の中には、この「立沢潟紋」と「抱き沢潟紋」の「両紋併用の仕来り」が存在する事はあり得るのです。
むしろ、本来の伝統が継承されていれば、なくてはならない慣習なのです。
祖父の段階ではまでこの伝統が何とか継承されていた事をお便りは正確に物語っている事に成りります。
そこで、ルーツとしては、それが地理関係等から、堀氏より”「上総の酒井氏」”の方が合致していますので、可成りの信頼性が有ります。
その「酒井氏」系には、諸説が多いのですが、その中でも、上総の「藤原秀郷流波多野氏」の一族の氏族であるとする「流れ説」が、お家の家紋に符号一致しています。
尾張の土豪であった酒井氏の一部が、関東に出来て、秀郷一門の「波多野氏」と血縁し、関東の上総に「酒井氏」を興したのです。
つまり、この「波多野氏」は、大きな古い名門ですが、、何度も波多野氏と血縁を繰り返して、”「波多野氏系酒井氏」が出来上がった”と云う事に成ります。
お家は、「藤原氏」として、「吊り合いのとれた血縁」を前提としていましたので、一門と成ったこの「上総酒井氏」との同族血縁をした事に成ります。
この血縁関係が、恐らくは、江戸期に入っての事と思いますが、「酒井氏」の出自時期から観て、子孫拡大の時間を演算すれば、間違いはないと思います。
矛盾なく理屈に合っています。
お家の「丸付紋」は、その「分家筋」にあたる事と成りますが、お家の「永嶋氏」は、この組み合わせからの「酒井氏との養子縁組」の血縁をした可能性が非常に高いのです。
お家の一族の「お墓の家紋」や「伝統品の家紋付け」には、是非、日本全国他に観ない「悠久の歴史」を持つ「下り藤紋」を積極的にお使いに成られる様にお勧めします。
お答えは、そのままである事が正しいのです。是非、この事を御親族や御子孫にお伝えください。
そこで、附則ですが、「副紋」は、以上の理由から変化する可能性が有りますが、秀郷一門では、「副紋」の使い方は、「二通りの方法」を用いていました。
一つは、「下がり藤紋」の文様の左右の真ん中に、この「副紋」を入れる方式を使う方法と、「副紋」だけを別にして、二つで使い分ける方法とが在ります。
前者は、何時でも何処でもどんなものにも、「副紋入りの総紋」を使えます。
しかし、「副紋」が跡目の有無の事で変化する事も興るので、よほど子孫拡大があって、何処からでも同族の跡目を引っ張ってくることが出来る跡目の自信がないとこの方法は使えません。
逆に、後者は、「時場所人」によって使い分けなくてはならない事に成り、複雑で面倒と成ります。
何れも一長一短が在ります。
因みに、四国中国地方に子孫を拡大していて跡目に事は欠かない「讃岐藤氏」は、この「副紋入りの総紋」(下がり藤紋に雁金紋)を使っています。
お家の永嶋氏は、副紋併用の後者です。
お家は秀郷一門の定住地の武蔵下総の関東に居て、更には、「下総」と云う永嶋氏の居住地域の真ん中に居ましたので、周囲が一族一門とその家人と領民村民の中にいます。
従って、「副紋」を単独に使っても、周囲は全て、「総紋」の「下がり藤紋」である事から、むしろ、その「筋目の違い」を明確にするには「副紋」で示す事の方が都合が良かったのです。
ところが、時代が進むとこの周囲の伝統が消えてきます。
そうすると、今回の様な事に成って、「総紋」の有無さえも忘れて仕舞う事に成っているのだと思います。
次ぎは、系譜のお話ですが、上記しました様に、直近の系譜でも「養子の様な事」が矢張り起こっているようですね。
尚、同族結婚に近い事も起こって居る様にも見受けます。
矢張り、江戸時代以前には、秀郷一門主要八氏の「永嶋氏」などは、家紋や血筋維持の為に苦労して居た事が読み取れます。
江戸時代末期にも「庄屋」として、今回の様に、その婚姻先の氏名から、秀郷一門から血縁しているかのように見受けられます。
その理由の一つには、近隣に秀郷の曾祖父の同族系の親族の「伊勢の藤原氏」の「伊藤氏の墓」があるとしていますので、間違いはないと思います。
系譜で観ると、「北九州の発祥の菊池氏」も「秀郷一門との血縁」を何度もしていますので同様です。
ご先祖のご苦労が観える気がします。
「長嶌の姓」の件ですが、実は、明治初期の頃に、「永嶋氏」の様な特別な名跡の血筋が、社会で排斥されそうになる風土が蔓延しました。
廃仏毀釈等の平民化運動と連動して起こりました。
これは、明治期にお起こった「平民主義」の結果ですが、この時に、「永嶋氏」は、鹿児島を含む各地の「永嶋氏」の中で、この「永嶌」や「長嶌」等に一時変えてうるさい「平民主義」を避けた事が起こりました。
又、特に、「永嶋氏」は、全国各地で勢力を広め、江戸期に於いても名跡にあった事から、「永嶋氏」に所縁の有る者が、江戸初期の旗本等や明治初期の苗字令の時に合わせて、この「長嶌」や「永嶌」を便宜的に名乗ると云う現象も起こりました。
以上の通りで、一般の家紋の有り様とは異なり、「藤原氏」であるので、”お家の家紋の有り様”をご理解ください。
つまり、お墓の紋所は「下り藤門」で良いのです。
何らかの形で、母上のご努力の様に、「ルーツや家紋」に付いて遺される事をお勧めします。
ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
こんにちわ。
先日、自宅よりメール致しましたが、
もしかしたらメールが届いていないように
思いましたので、もう一度再送させて下さい。
もし、2重に届いてしまいましたらご容赦頂きたく
お願い申し上げます。
宜しくお願い申し上げます。
以下前回のメール内容********************
明けましておめでとうございます。
本年度も宜しくお願い申し上げます。
年末、年始に実家に帰って色々と調べて来ました。
思った程の収穫はありませんでしたが、少しは
前進したように思います。
まづ始めにお詫びがございます。
私のお墓に付いていた家紋は下がり藤では
ありませんでした。
『丸付き抱き沢瀉紋』でした。
私もうろ覚えでしたので現物を見て違う事に
気がつきました。
父親に聞いたら、そうそう下がり藤ってやつだと
言っていたので、すっかり信じてしまいました。
申し訳ございません。
また、叔母の家に新年の挨拶に行った折に
過去帳を見せてもらおうと思ったのですが
物置の奥に入ってしまっているので今は無理と
大変つれない返事で、見る事が出来ませんでした。
ところが、母が生前、叔母宛に手紙を出しており
そこに、墓石にまつわる事が調べられており
少しは状況が分りました。
まづ、家紋についてですが、母の手紙には
家紋一覧表が同封されており、そこに
『抱き沢瀉紋』の所にマーカーの記しが付いていました。
どうも母は、祖父の墓の家紋を紙に写し取った後、家紋一覧表
から『抱き沢瀉紋』を見つけたのだと思います。
しかし、何故墓石につけた家紋を、『丸付き抱き沢瀉紋』に
したのかは分かりません。家紋一覧表には、同じページの
少し離れた所に『丸付き抱き沢瀉紋』が掲載されているので
間違えたとは思えません。同じページの家紋一覧表の中から、
わざわざ『抱き沢瀉紋』にマークしてあったのですから
何か意図して、お墓の家紋の所を『丸付き抱き沢瀉紋』に変えたのだと思います。
私の祖父は次男だったから『丸付き』にしたのか、祖母が永嶋の籍を
離れたから『丸付き』にしたのかは分かりません。
当時の関係者の父に聞いても、藤紋と間違えるほど無頓着ですし、
叔母に聞くと、あ〜間違えちゃったんだね。後で墓石の方を直して
おくよと気軽に言っておりました。
墓石に直接家紋が彫られているのに、どーやって修正するのか
全く分かりませんが、父や叔母はあてになりませんので
この経緯はここまでしか分かりません。
また、家紋一覧表を見ていると、叔母の娘(私からは従姉妹にあたります)が
祖父の写真に写っている袴に『立ち沢瀉紋』がついていたような気がすると言いました。
祖父の写真を見た事が無いので私は確証は持てませんが、81歳の叔母より
は従姉妹の方が信頼できると思いますので、何か関係があるのかも知れません。
叔母のあやふやな話によると、父は近衛兵もしくは騎馬隊にいた。(第二次大戦で
騎馬隊があったのか疑問ですが)
祖父は、叔父と父に似てとてもイケメンだった。(遺伝子学的にそれは無いと思うのですが・・・)
永嶋家のお墓は大きかった。
血縁関係にある伊藤さんのお墓が近くにあった。
と言う事が分かりました。(とっても怪しい証言ですが・・・)
また、母の手紙には、何処から調べたのか千葉県袖ヶ浦市役所の
除籍の謄本の写しが同封されていました。
それによると、祖父の祖父の父からの記録が載っていましたので
簡単に以下記してみたいと思います。
地籍本 千葉県君津郡富岡村xxxxx
祖父の祖父の父 永嶋佐兵衛(天保拾弐年拾壱月弐拾九日生)
その妻 永嶋がく(天保拾四年九月拾日生、柴崎左エ門の四女上?国)
祖父の祖父 永嶋治郎次(出生日、出生地不明)
その妻 永嶋さだ(文久弐年拾壱月弐拾四日生、永嶋佐兵衛長女)
祖父の父 永嶋忠治(明治拾弐年九月拾九日生、千葉県君津郡)
その妻 永嶋るい(明治拾壱年九月拾日生、菊池伊八の四女千葉県君津郡)
祖父 永嶋伊之八*次男(明治四拾四年壱月壱日生、千葉県君津郡)
その妻 永嶋ユキミ(明治参拾九年拾弐月三拾日生、黒木茂吉の長女、宮崎県東臼杵郡)
そしてこの伊之八が私の祖父に当たり、父と叔母と叔父が生まれました。
私はこの祖父の長男の息子(長男)になります。
この戸籍から見ると、祖父の祖父である治郎次は永嶋家に婿養子に
来た人のようです。
また、気になる所では、私の祖父、伊之八の兄(長男)の嫁に
当たる方が、『永嶋』と掛かれずに『永嶌』と姓が書かれていました。
この女性も出生日、出生地が不明でした。)
この他にも母の手紙には、現在の永嶋家でご存命の方数名の
住所、氏名、電話番号が記されており、この方々へ手紙等で連絡をして
祖父のお墓の場所を教えてもらおうと思います。
(電話番号は分かりますが、電話をいきなりしたら怪しまれると思いますので・・・)
しかし、生前の母は当時インターネットも無い頃(平成8年)に
よくこれだけ調べたものだと我が母ながらたいしたものだと
思います。私の母方も旧姓武田と言い、昔は大地主で
家にはでかい槍が飾っており、祖母は人力車で
女学校へ通っていたが、戦後の農地解放にて土地を
失ったと言う経緯があるようで、いづれ調べて見ようと
思っております。
長々と書き大変恐縮ですが、上記から何か分かればお教え頂けましたら
大変幸いでございます。
お願いばかりで大変恐縮ですが、
宜しくお願い申し上げます。
>安土桃山期の島津氏との戦での敗退、江戸初期での肝付氏宗家の衰退により、初代兼俊の兄弟を祖とする萩原氏、安楽氏、和泉氏、梅北氏との繋がりがどうなったのか、また江戸期の肝付氏族を統括していた氏族は何処なのか疑問に残る所であり、各氏族本家での統括と移行していった・・・・
静岡の長嶋さん 今日は。
随分、お調べに成りましたね。
今回の投稿がエラーに成っていて、文章の中に、中国漢字と中国が多く入っていました。
また、ソフトに親番号を削除される現象や文章を途中削除されていました。
何らかの攻撃を受けた可能性が有ります。
取り敢えず、修正を試みました。
さて、お家の「大蔵氏族永嶋氏系長嶋氏」と観られる氏族の末裔は奈良期からの氏族と成りますので、その系譜や伝統が消えていると思います。
青木氏としては、日向青木氏の調査の関係から、永嶋氏や大蔵氏の関係を調べ上げた内容で資料を確保しています。
青木氏では、肝付氏の本家筋とその系譜と出自場所、更には、末裔の分布図と地名などの資料を持っています。
しかし、青木氏から観たもので、青木氏に関わる要素を調べる為に、その継承されている「伝統」等を調査する目的で研究し得たものです。
長嶋さんの様に、系譜を中心に成っているものではありませんので、肝付氏の中まで深く入り込む事は出来ていません。
又、その資料の基と成った処がどうも違っている様です。
ただ、感じる処は、その使われる資料の基が、江戸期の資料を前提と成っていますので、この期の資料には、搾取偏纂が殆どです
「搾取偏纂」でも良いから、江戸幕府が強制に近い形で強力に督励した経緯を持っています。
江戸期の武士は、殆どは、室町期の立身出世の下での姓族で系を持っていませんでした。
そこで、権威が無く成る事を恐れ社会が乱れる事を防止する為に、幕府は、「黒印状」なるものを発行してました。
その全ての「武士の家筋の根拠」を搾取偏纂でも良いから作らせたのです。
その「黒印状」を入手できなければ、「武士」「家」を認めなかったのです。
生きる糧を失います。
特に、大名にはこの家柄を良くする様に指導しました。
そこで、大名も家臣と成る者にもこの事を強制したのです。
それでなくては大名としては家臣の出自が無い者を家臣にしている事に成り、武士を雇っていない事に成ってしまって幕府から,大名の立場を疑われる事に成ったのです。
大名は、自らの系譜を出身地等何とか理屈に合う様に作り上げ、それを家臣にも藩主のルーツに合う様に強制をすると云う事が起こったのです。
さて、そうすると、大蔵氏族永嶋氏系肝付氏長嶋氏の肝付氏は、日向の奈良期からの由緒ある家柄でその出自が明確に成っている大蔵氏と共に、九州唯一の数少ない「氏族」です。
室町期に、遂に肝付氏は、何度も勃興して来た姓族の島津氏と戦い、遂に敗退して、一郡を与えられて島津氏の家臣と成って滅亡を免れて、伝統は遺せました。
しかし、この時、島津一族はこの華々しい伝統ある肝付氏を妬み、ひどい軋轢を受けて一時衰退をします。
九州では唯一と云って良い程のトップの家柄と藤原秀郷一門の永嶋氏の文句の附け様も無い家柄を、今度は、幕府の隠密から得た情報で「強い追求」を受けて、島津氏の家柄づくりに肝付氏の血筋を入れて取り込みました。
その時に、「家老」扱いにして、肝付一族は島津藩の中で再び勢力を勝ち得ます。
この時に、お家も共に、勢力を得たのです。
その衰退期の肝付氏の経緯はかなりひどくて宮城と薩摩の中間の山岳地にて生き延びた事が判っています。
この時の状況は隠されていて明確に成っていません。
この復興した地点からの肝付氏族の永嶋氏の出自元ははっきりします。
筆者も、持ち合わせていますが日向青木氏との関係からのものです。
日向青木氏は、薩摩大口村と薩摩青木村で黒田藩の傭兵として、郷士として2流に成って生き延びました。
この時に、同じ地域の山岳部の南域に肝付氏が入植した事が判っていて、何らかの関係を持ったと観られます。
お家の永嶋氏は、以前のお答えの通りです。
「ルーツ探究」には、「系譜」のみ成らず、「歴史観」を伴った探究が必要ではないかと思います。
何れにしても、探究の目的が違えば異なりますが。
兎も角も、地方などの「資料」を前提とする限りには「検証」をお勧めします。
今のままでは、「地方資料のコピーの寄せ集め範囲」で終わっている様に感じます。
以前からの繰り返しに成りますが、”お家のものである”とする前提は無く不足に成っていると思い気に成ります。
但し、前回にも述べましたが、それはそれで良いとしていれば問題はないと考えます。
では又、お便りください。
「親番号エラーの為に代理投稿」
投稿に中国の何らかの漢字エラーが入っていますので、修正しました。
又、このためか文章が途切れています。
福管理人さん、今日は。
肝付氏から分かれた氏族の家紋と初代肝付兼俊の兄弟の氏族の家紋を調べてきて、自分なりに考えてみました。これは、あくまでも鹿児島を訪れて得られた情報、インターネット、家紋に関する書籍にて調べた情報となります。
<対象氏族>
1)肝付氏:宗家、分家の区別無く肝付姓の家紋
2)肝付氏族:名前を変え、宗家より分かれた氏族の家紋
3)伴から分かれた初代兼俊の兄弟で肝付以外の名を名乗った氏族の家紋
<対象家紋>
鶴紋、雁金紋を対象とし、対象氏族3)の氏族に見られた鶴紋、雁金紋以外も含めました。
1)鶴紋
a:2羽、b:1羽、c:3羽
(a−1)対の鶴、(a−2)対い鶴喰若松、(a−3)丸に対の鶴
(b−1)鶴の丸、(b−2)降り鶴丸
(c−1)影糸輪に三つ光琳鶴
2)雁金紋
(d):三羽頭合わせ、(e):三羽尻合わせ、(f):三羽顔合わせ結び、(g):三羽尻合わせ結び
(h):三羽その他、(i):四羽尻合わせ結び、(j):二羽、(k):一羽、(l):一羽結び
(d−1)頭合わせ三つ雁金、(d−2)嘴合わせ三つ雁金、(d−3)中輪に嘴合わせ三つ雁金
(e−1)尻合わせ三つ雁金、(e−2)丸に尻合わせ三つ雁金
(f−1)頭合わせ三つ結び雁金、(f−2)嘴合わせ三つ結び雁金
(g−1)尻合わせ三つ結び雁金、(g−2)丸に尻合わせ三つ結び雁金
(g−3)太輪に尻合わせ三つ結び雁金、(g−4)三つ追い結び雁金
(h−1)三つ雁金、(h−2)三羽飛び雁金
(i−1)尻合わせ四つ結び雁金
(j−1)丸に向かい嘴合い雁金、(j−2)隅切り平角に二つ雁金
(k−1)丸に雁金、(k−2)石持ち地抜き雁金
(l−1)丸に結び雁金
3)梅・梅鉢紋
(m−1)丸に梅鉢、(m−2)丸に梅の花
4)木瓜紋
(n−1)丸に木瓜、(n−2)石持ち地抜き木瓜、(n−3)丸に四方木瓜
5)銀杏紋
(o−1)丸に三つ銀杏
6)梶紋
(p−1)丸に立ち梶の葉
<結果>
肝付氏:9種(a−1) ・(2)、(b−1) ・(2)、(d−1)、(e−1)、(g−2) ・4)(、i−1)
救仁郷氏、検見崎氏:対象家紋無し
北原氏:1種(d−1)
前田氏:1種(d−1)
岸良氏:1種(d−1)
野崎氏:3種(a−1)、(d−1)、(h−1)
津曲氏:8種(b−1)、(c−1)(d−1)、(e−1)、(f−1)、(g−1) ・3)、(h−2)
波見氏:1種(d−1)
河南氏:1種(n−3)
小野田氏:2種(f−1)、(k−1)
三俣氏:対象家紋無し
鹿屋氏:1種(l−1)
橋口氏:5種(d−1)、(j−1)、(k−1)、(l−1)、(m−1)
山下氏:1種(d−1)
河北氏:対象家紋無し
頴娃氏:対象家紋無し・(−3)、(k−1) ・(−2)、(f−2)
3)初代兼俊の兄弟
萩原氏:4種(d−2)、(e−2)、(j−2)、(m−1)
安楽氏:8種(a−1) ・(3)、(d−1)、(k−2)、(l−1)、(m−1)、(n−3)、(o−1)
和泉氏:2種(n−1) ・(2)
梅北氏:4種(b−1)、(m−1) ・(2)、(p−1)
<考察>
肝付氏の宗紋は、高山町史に記載されている向かい合わせの鶴紋が図形化され、肝付氏の守護神として郷土の産土神、また大隅一円の宗社として崇敬されている四十九所神社に対の鶴紋があることから、対の鶴紋と仮定し考察した。
今回の調査で鶴紋は肝付氏、野崎氏、津曲氏、橋口氏、長嶋氏、安楽氏、梅北氏で見られた。鶴紋のうち対の鶴紋は、肝付氏、野崎氏、津曲氏、橋口氏そして、伴兼貞の三男俊貞の安楽氏で見られた。この対の鶴紋の氏族は肝付氏から分かれた野崎氏、津曲氏、橋口氏の本家が現存すると考えられる。
肝付氏で対の鶴紋2種、鶴の丸紋2種であり、肝付を名乗った分家が宗紋の対の鶴紋から変紋し、鶴の丸紋、対い鶴喰若松紋となったのではと推測する。
当家の対の鶴若松紋について考察する。この紋は対の鶴紋からの変紋方式を取ったものであり、青木氏研究室の家紋の掟に「変紋方式は、宗家から同紋の使用が許されないので、一見同紋の様に見えるがよく見ると一部が異にしている文様に変更して一族性を表現した。特に、妾子の場合にこの方式を多く採用した。」とある。
当家長嶋氏は兼道と禰寝重長の娘の子(肝付幸之丞兼継)が肝付兼樹の養子となり、その子肝付次右衛門兼弘が長嶋を名乗っている。兼道は宗家を継いでいるため、対の鶴紋と考えられる。しかし兼継は兼道の正室の肝付良兼の次女、後妻税所篤弘女の子ではないため、変紋となる対象となり、対い鶴喰若松紋から発生した。または、兼樹は兼亮の兄にあたり、天正三年(五年とも)、兼亮と共に出奔となっているため、宗家から対の鶴紋の使用は許可されることはない。従って、兼樹から対い鶴喰若松紋が発生し、兼樹の養子となった兼継もこの紋を継承したと推測できる。
肝付氏の対い鶴喰若松紋は『戦国大名探究』サイトの肝付氏家紋より引用しており、
(参考資料:薩摩島津氏=三木 靖/三州諸家史・薩州満家院史/内之浦町史/吾平町誌ほか)と掲載されており、家紋引用資料が明確となれば、上記の立証の手がかりとなると思われる。
救仁郷氏、検見崎氏、三俣氏、河南氏、河北氏、頴娃氏では、鶴紋、雁金紋を現時点で探し出すことができなかった。
肝付氏を含む肝付氏族の12氏が三つ雁金紋で、うち9氏が顔合わせ三つ雁金であり、また、宗紋の対の鶴紋も顔を向かい合わせていることから、この紋が肝付氏族の基本紋ではないか、そして雁金紋を副紋として使用したのではと推測した。
肝付氏の雁金紋を見ると基本紋と仮定した顔合わせ三つ雁金以外は、尻合わせ三つ雁金、丸に尻合わせ三つ結び雁金、三つ追い結び雁金、尻合わせ四つ結び雁金と尻合わせであり、分家となり顔合わせから尻合わせとなったのではと考えた。
津曲氏にも尻合わせ三つ結び雁金、太輪に尻合わせ三つ結び雁金が見えるが、太輪に尻合わせ三つ結び雁金は、尻合わせ三つ結び雁金の津曲氏から囲い紋がついたと理解でき、尻合わせは分家肝付氏との血縁により発生したのではないでしょうか。
江戸期以前の肝付宗家は、萩原氏との二代兼経妻、兼経次男兼春が萩原氏の嗣子、兼石女が萩原兼世妻、兼元室に萩原兼綱娘、兼連簾中に萩原兼長娘の5名で血縁があった。また、 萩原氏は岸良氏、津曲氏、鹿屋氏、波見氏、救仁郷氏、剣見崎氏、河南氏との血縁もあり、萩原氏は肝付氏族を繋ぐ役割を果たしていると推定した。家紋から丸に梅鉢が見られることから、梅北氏との血縁も推測できる。
萩原氏から嘴合わせ三つ雁金、橋口氏から丸に嘴向かい雁金がみられ、永島氏の中輪(丸)に嘴合わせ三つ雁金、また、当家の嘴合わせ三つ結び雁金との位置づけを解明するヒントになるのかもしれない。また、宗家の対の鶴紋は顔、嘴を向け合っており、顔をお互いに向けていない顔合わせ三つ雁金より嘴合わせ三つ雁金の方が、大元の紋に近い印象を受けた。
肝付氏族における雁金紋は、雁金の数3>2>1と数が減るほど血の繋がりが薄くなり、加えて、顔合わせ>尻合わせの様な変紋、結びの有無の部分変紋、丸付き、石持ち地抜きの様な影紋などにより本家→分家→支流→分流→分派の位置づけを示したのではと考えた。
津曲氏は、鶴紋3種、雁金紋6種、橋口氏は、鶴紋1種、雁金紋4種、梅北氏との血縁と推測する丸に梅鉢紋が見え、大きな氏の拡がりを見せている。
津曲氏の雁金紋は雁金の数3羽の中で変紋しているおり、上記の推測が正しいとすると津曲氏は肝付氏族との血縁が濃い所で変紋していると推測できる。一方、橋口氏の雁金紋は、雁金の数2羽、1羽に変紋しており、肝付氏族との血縁が薄くなっていると推測できる。
鹿屋氏を見ると、調査した対象紋は丸に結び雁金のみで、主要肝付氏族ある三つ雁金から規則に基づき現在の家紋に変化したとすると肝付氏族としての血の繋がりは薄くなっていったのではと推測した。
次に初代兼俊の兄弟を祖とする萩原氏、安楽氏は、和泉氏、梅北氏について調査した家紋より考察する。なお萩原氏については、上記にも示しているため省略する。
安楽氏、梅北氏から鶴紋がみられ、これらの氏族は肝付氏と同様に鶴紋を宗紋としたのか、それとも鶴紋を持つ両家の分家が女系で、肝付氏、野崎氏、津曲氏、橋口氏の本家より養嗣子が入り、養子先の家紋に変紋したと推測する。
安楽氏は、大きな氏の拡がりを示した氏族であると考えられるが、拡がった氏族には女系で他家の家紋に変紋している血脈が多く感じた。もし、和泉氏が木瓜紋、梅北氏が梅紋または梅鉢紋であるとすれば、両家との血縁もあると推測できる。
安楽氏は、対に鶴紋、丸に対に鶴紋があり、鶴紋が本家の宗紋であれば、丸付きは本家から分かれた分家の紋とも考えられる。
梅北氏は名前からも梅紋、梅鉢紋が家紋または肝付氏での考察のように鶴紋が宗紋で副紋を梅、梅鉢紋と推測できる。
安土桃山期の島津氏との戦での敗退、江戸初期での肝付氏宗家の衰退により、初代兼俊の兄弟を祖とする萩原氏、安楽氏、和泉氏、梅北氏との繋がりがどうなったのか、また江戸期の肝付氏族を統括していた氏族は何処なのか疑問に残る所であり、各氏族本家での統括と移行していった・・・・
以上、エラーログより復帰させた。(福管理人)
福管理人様
早速のご返事、ありがとうございました。
すみません。私は、◆兵庫のの青木(No1000)で質問させて頂きました者です。
福管理人様のご返事で、本サイトの趣旨理解できました。
「公のサイト」という事で、運営の大変さも理解できました。
確かに、「青木氏のロマン」として、子孫に継承していきたいものですね。
また、今後ともよろしくお願いします。
兵庫の青木さん 今日は。
初めての方でしょうか。
これからも青木氏サイトをよろしくお願いします。
さて、早速ですが、青木氏に関する資料は沢山あります。
お探しの日本書紀の中には無かったとのお便りですが、青木氏の直接の記述はありませんが、その始祖と成る人の記述の経緯からも、又、平安期に遺された「他の歴史書」(8つの書物)と「江戸期の歴史書」(3つの書物)の「掛け合わせの検証」をしますと出てきます。
「日本書紀」にも伊勢の事は記されていますし、「第四世族王(朝臣族)の改革処置」についても書いて、これは「伊勢」と「第四世族王等」を一つの氏にしてまとめたと書かれ、別の書物にはこの「大化改新」の「氏族」を「青木氏」としたことが書かれています。
その事は研究室に論じています。
「平安期の氏姓の事」に付いて書いた書物にも出てきます。
更には、奈良期に「天智天皇の秘書」をしていた「韓の僧侶」が書いた韓国から発見された書物(日記タイプ)にも「日本書紀」より実に詳しく記載されています。
又、昭和の歴史小説家で歴史家でもあった3人の研究論文にも記述されています。
更には、青木氏と同族で奈良期に賜姓を受けたもう一つの「賜姓族佐々木氏」の研究論文にも極めて詳細に記述されていますし、「藤原秀郷流青木氏」の伊勢松阪と武蔵入間と青木氏の家にも資料として遺されています。
尚、「伊勢青木氏」の資料にも関係する事柄が多く遺されています。
又、伊勢の地名の由来からも「日本書紀との関連」でも出てきます。
青木氏は、大別すると二つに成りますが、その一つの内が更に二つに成りますが、その一つの処にも記述されていますし、嵯峨期の詔勅禁令にも出て来ます。
又、平安期の「他氏の由来書」(朝廷から承認された氏)の「家書」にも記述されています。
更には,源氏は「11家11流」が在りますが、その中の「5家の中の資料」にも記述されています。
「平安期の歴史書」の中にも、源氏から嵯峨期の詔勅を使って、「青木氏」を名乗った「3氏」の事も記述されています。
さて、これらの資料の書籍名は、ヤフーのHPの認可された「公のサイト」にも成っていますので、書籍名を書くことは著作権にも関わり、個人が所有する書籍は、その所在などの個人情報の法に依って許可なく記述できません。
又、「公の書籍」であっても、現在では、明確に記述する事に依って迷惑が掛かる事が起こり得ますので、注意をしなければ成りません。
現在では、インターネットでの記述には注意を払ってこその「正常なサイト」と考えていますので、最早、明かす事は難しいのです。
できるだけ記載はしていますが、あくまでも”「個人の知識」と云う前提”で成り立っています。
先ずは、一通りに研究室などの論文や、ルーツ掲示板のお便りの回答と云う中にもそれとなく記載していますので、それをお読みに成って、その上でご質問くだされば理解されると思います。
上記以外にも、「青木氏」等は、奈良期からの資料を個人として持っているのです。
「青木氏」は奈良期から「武家、侍、氏」の「三つの発祥源」であった事から、「嵯峨期の詔勅」に依って発祥した「源平藤橘」の様な「武士の立場」を取らなかった為に、歴史の表には出てきません。
但し、「嵯峨期の詔勅禁令」にも、それまでの「天智から光仁天皇」までに賜姓された「青木氏の呼称」は、「皇族の者」が「下族還俗」する際に「名乗る氏名」に変更すると記述されいて、一般の者は名乗ってはならないと定められて明治三年までこれは護られました。
その後、円融天皇の時に、この「青木氏」を補佐する為に、「藤原秀郷流の一門」が「青木氏」を名乗る事を特別に賜姓して許可しました。
「武力」をもって勢力を高めた「源平藤橘の氏」とは、その「家の格式」が全く異なっていますので、お家の個人で調べる範囲の資料では、この「青木氏の事」は絶対に出て来ないのです。
因みに、家柄格式は、「源平藤橘」は、せいぜい「従四位」「浄高二位」、「青木氏」は「正二位」、「浄大一位」で、四段階も上位の家柄で全く格式は違うのです。
これらの事を調べるは個人の領域では資料調達は無理です。
この「青木氏」には、その「八色の氏姓制度」での「朝臣族の立場」から、「氏是」が奈良期から在って、表に出す事出る事は禁じられていたのです。
管理人さんのご努力により約45年の歴史を持っていますので、これを何とか安全に未来に継承して未来の子孫に「青木氏のロマン」として伝えたいと考えています。
既に、不用意な投稿で2度の攻撃を受けてサイトが危うく成った事もあるのです。
管理人さんのご尽力で立ち直り現在に至っています。
本サイトは”歴史書を旨とするサイト”ではありませんので、「歴史書」を目的としてお調べに成る場合は別のサイトをご利用するかのご検討をください。
個人としては、現在ではお調べになるには、この様な公私ともに「資料の確保」は基本的に難しいと思います。
最近では、「地方再生]を旨として、地方自治体が競って、歴史資料を作り上げていますが、その根拠と成る資料は、江戸期に作られた信憑性に乏しいものを利用したり、個人の家の信憑性に疑問のあるものを表に出して歴史性を強調している傾向が在ります。
ですから、それを考察し、検証し、信憑性を高める能力がお家にあるかは疑問です。
「江戸期」の「個人の書籍」には、農民から立身出世した武士が殆どで、「江戸幕府の奨励」も在って、家柄をよく見せる為に、殆ど「搾取偏纂」があって信用できないのが現状なのです。
これらを見抜く事が出来るかは、先ずは個人では無理であります。
また、ヤフーの”公のサイト”にしている限り、「青木氏」には「歴史書」とは関わりのない「第三の青木氏」(江戸期の書籍に記載されている)の青木さんも大勢存在しますので、「青木氏」だから「記録]があるから、と云って歴史に出て来る「青木氏」であるかは別問題です。
恐らくは、本サイトは、「一つの氏」をこの様なデータを持って「公の氏サイト」にしている氏は無いと思います。
資料としてはダントツのサイトです。
(参考 全国に唯一青木氏に関する一部書籍の保存している大図書館が在りますが、個人は無理。
上記の11の古書を入手する以外には無いと思いますが、個人ではこの古書は無理だと思います。
上記した「歴史家の3つの単行本非売品」も在りますし、「歴史と写真」の特売雑誌にも記載があります。
更には、ある放送局の毎年行われる連続ドラマにも3度もドラマに青木氏が出てきました。)
兎も角も、本サイトの論文を一度通してお読み頂ければ判ると思います。
その上で、「ルーツ掲示板」等を通じて、江戸期以前の可能な範囲で遺された情報を提供されて、お尋ねくださればお答えを致します。
以上の事情の事をご理解ください。
兵庫の青木です。
いつも、興味深く青木ルーツ掲示板・研究室を拝見しております。
質問がありますので、よろしくお願いします。
今回、講談社学術文庫の全現代語訳日本書紀(宇治谷 孟著)を読んでみましたが、
天智・天武・文武・聖武天皇の第六位皇子が皇族が臣下する際、
青木という賜姓を頂いたという文書は、どこにも見当たりませんでした。
また、インターネットで検索しても、源氏、藤原氏、平氏、橘氏はよく出てきますが、
残念ながら、青木氏というのは見当たりません。
どういった書物・何ををみれば、確認できるのでしょうか?教えてください。
よろしく、お願いします。
今日は。
早速、お便りのお答えを読んで頂きありがとう御座います。
現在、伊勢に居られるようですが、伊勢は筆者のルーツで、伊勢の青木氏です。
又、この伊勢には、お家のご親族のルーツがあるところです。
伊勢の長嶋氏は、お家のご先祖が、中部までその威力を拡大し、ここに伊勢の永嶋氏(区別する為に長嶋氏を名乗った)が定住していまして、室町期末期までは永嶋氏の領国でした。
秀吉に依って、「伊勢長嶋攻め」で潰されて衰退しました。
この時、筆者の先祖が、この戦いに伊勢の「長嶋氏」に合力しました。
敗退して共に、一時、筆者の領地の和歌山の新宮に逃げ延びて、一年後に蒲生氏郷に許されて、末裔の方々と共に伊勢に戻りました。
この様な因縁の歴史が在ります。今は長島温泉の地域と成っています。
この地域には、「藤原秀郷流の青木氏」(四日市付近一帯)と、「藤原秀郷流の伊藤氏」(伊勢北部東域)が定住していた所で、今でも、この3氏が定住しているところです。
つまりは、昔、お家のご親族の方々が住んでいた所です。
論文を是非お読み頂いて、ご質問やご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
ルーツの解明には、一寸した事が解明の糸口に成る事が在るのです。
ですから、どんなお答えの方法でも構いませんから、お家の方法でお家の思う様にしてお便りをお書きに成るなりしてお尋ねください。
その言葉の中に意外に手がかりが潜んでいる事が多いのです。
さて、そこで、今回のお礼文を頂きましが、その中に大変大きな手掛かりが在ったのです。
実は、それは”「過去帳」”です。
この「過去帳」は、昔の慣習では、武士階級の上位の家柄、例えば、お家の永嶋氏の様に、関東ではトップの家柄が持つお寺のご先祖の累代の記録なのです。
一般には、「過去帳」では無く、「人別帳」と云う物に成ります。
それを「過去帳」としていますので、前回の千葉庄屋の情報のみならず、「藤原秀郷流永嶋氏」である事を物語る情報でして、ルーツの確定を更に進めた事に成ります。
後は、江戸期のご先祖が眠るそこのお寺の宗派が判れば確定します。
それには、「永嶋氏の末裔の宗派」は二つに限られます。この二つのどちらかに成る筈です。
江戸期の宗派か、更に進んで、室町期の宗派まで判れば完璧です。同じであれば問題はありません。
「江戸期の宗派」が、「永嶋氏の宗派」であれば室町期までさかのぼる必要はありません。
そして、「過去帳」が在ったとして、その最も古い御先祖の人の時代の年号、それに伴って、この古い人の戒名に「院殿居士」が付いているかが判れば、確定から進んで、お家の永嶋氏の本家分家筋のどの位置にあった家柄かも判る事に成ります。
更に、「戒名」には、その人の生前の生きた業績などの意を含ませていますので、どの様な人で在ったかも判りますよ。
この事に依っても、「家紋」も限定されてきますので、お調べに成ってください。
但し、昭和の大戦などの混乱で、千葉では大変でしたから、「副紋」を忘却または消失している可能性が有ります。
しかし、ご先祖のいた地域と宗派とが判れば、概ねこの「副紋の家紋」も判ってきます。
場合に依っては、「下がり藤紋」の真ん中にお家の副紋を挿入している事もあります。
秀郷一門は、多くは、「副紋]をこの「下り藤紋」の「挿入型」を採用しているのです。
その事に依って、何時しか末裔の方が、この事を解らずにこの「挿入の副紋」を消失してしまっている事が観られます。
お調べに成る時は、是非この点も合わせてご確認してください。
では、又、ゆっくりと知らべられてお便りください。お待ちしています。
こんにちわ。
早速のご返信有難うございました。
アドバイス頂きましたように、先は
祖父の埋められているお寺の宗派と
家紋に副紋がないのか調べてみたいと
思います。
家紋を祖父の墓石から写したのは母なので
母に聞けば早いのですが、それが出来ません。
5年前にこの世を去り、今は自ら写し取った
家紋のついた墓石の下に祖母と共に眠っております。
仕事の関係で今は伊勢市に住んでおりますので
お正月実家に帰り、調べてみます。
叔母の話では、過去帳なるものが有るらしく、
それには宗派などのっているようです。
(そんなのが有るなら早く言って欲しかった・・・)
また分かり次第ご連絡させて頂きます。
それまで、研究室のデータを勉強して見たいと思います。
色々とご助言頂けまして誠に有難うございました。
千葉の永嶋さん 始めまして。
ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
本サイトは、「青木氏氏」と呼称して「青木氏族」について「先祖の歴史」に付いて研究しているサイトです。
全国の青木さんが集って管理人さんの下でサイトを運営しています。
これからも青木氏に関するいろいろなお話や情報が在りましたらお気軽にお便りください。
お待ちしています。
さて,お便りによると、御親族は大変ご苦労されていたのですね。
世の中の人は、「御先祖の生き様」を知りたいと思うは、ご自分の「現世の生き様」に対して、「御先祖の生き様」を照らし合わせて、「今後の生きる力」にしようとする人間が持っている根本的な本能であると考えます。
”古を知る事”に依る事は、神仏が”人間に与えた最大の癒し”であると考えます。
その意味で、ご先祖の事に付いて知る事に、是非に「青木サイト」はご協力を致します。
今後ともに、”青木氏族のサイト”として御自由にご利用ください。
青木氏は歓迎いたします。
さて、「青木氏氏」とは、「青木氏族」と云うのが歴史的に在りまして、その「青木氏族」とは、青木氏、長沼氏、永嶋氏、進藤氏、長谷川氏の五氏を主に云います。
特に、永嶋氏は、青木氏の中でも、最も、「青木氏」に近い氏族でして、この「青木氏」は、大別すると二つの流れに分けられます。
一つは、「皇族系の青木氏」で、この青木氏には更に二つに分流しています。
「皇族賜姓族青木氏」と「皇族系青木氏」の29氏に別れます。奈良期からの氏族です。
二つは、「藤原秀郷流青木氏」で、この青木氏は116氏が在ります。平安初期からの氏族です。
この「藤原秀郷流青木氏」も一つ目の青木氏とは、母方で古くから平安初期からの血縁関係を持っています。
一つ目の「皇族賜姓青木氏」の職務を補佐する意味で、特別に天皇に賜姓されて発祥した「特別賜姓族青木氏」です。
「皇族賜姓青木氏」とは、天智天皇の第六位皇子(施基皇子)が臣下して成った氏族です。
この「賜姓族」とは天皇から直接に姓を与えられて、特別な権限と権威を与えられた氏の事を云います。
天皇の皇子は、第四位皇子までの「真人族」と、第六位皇子は「朝臣族」に分けられます。
第七位皇子からは「連族」に成り皇族から離れて、地方に配置されて侍と成ります。
第五位はその中間の身分で、欠員の有無によってどちらかに身分は所属します。
さて、この「特別賜姓族青木氏」が、藤原秀郷一門から出自しています。
藤原氏北家筋の秀郷一門は、母方が天皇家に嫁ぎ、この「皇族賜姓族青木氏」の母方にも嫁いでいます。
この藤原秀郷一門は361氏にもなる日本最大の氏族の集団です。
この中で、中心に成って「藤原氏秀郷一族一門」の「第二の宗家」と呼ばれ、一門を指揮してきたのが、この「特別賜姓族青木氏」の「秀郷流青木氏」なのです。
藤原氏の中でも最大に勢力を持ち、最大の家柄です。
その勢力は、関東の武蔵に領国を持ち、その周囲の下野、上野、下総、駿河を平安時は領国にし、陸奥域も勢力圏に収めていました。
関東以北と云っても良い程の超大豪族でした。
この中で、「藤原秀郷流永嶋氏」は、「藤原秀郷流長沼氏」と共に、この「藤原秀郷流青木氏」と最も血縁関係が深い親族の一族です。
そこで、お家の情報が極めて少ないので、確定するまでには行きませんが、”千葉”と”庄屋”の情報からすると、この「藤原秀郷流永嶋氏」の「末裔」である可能性が極めて高いと観られます。
実は、この「藤原秀郷流永嶋氏」は、千葉を中心に関東に拠点を置いて、各地に永嶋氏の子孫を拡大させているのです。
その中でも、本拠地の千葉に、ご先祖のお家が定住しているとなると、「結城」に拠点を置いていた”「関東屋形」”と呼ばれた室町期には「日本一の勢力」を誇った本流の「結城永嶋氏」の末裔である可能性が有ります。
室町期末期に秀吉に依って潰され、その勢力は低下したのですが、後に家康に依って引き上げられて、徳川幕府樹立の立役者と成って、幕府を明治期まで支えた氏族です。
明治期には、この勢力は無く成り、明治政府から土地の地主や庄屋や名主や豪農として認められて生き延びてきました。
その領国の永嶋氏の拠点を置いていた地域の庄屋さんであった事は大きな決め手です。
千葉のどの辺に、江戸時代のご先祖がお住いで在ったかが判れば、更に確定できる程にその可能性が高まります。
又、お家の宗派が判れば更に確実に成ります。
千葉地域の庄屋さんをされていた事は、その可能性が、80%程度に成っているのです。
そもそも、”庄屋さん”に成るには、だれでもと云う訳にはいかず、大抵は元の地主で土地の「郷氏」(土地地域の豪族)である特別な身分の者でなくては成れませんでした。
幕府も維新政府もこの方式は維持しました。
この地域の庄屋の殆どが、この「藤原秀郷流一門」の者(永嶋氏)が成っていたのです。
「藤原秀郷流一族一門」の中でも、その「永嶋氏」は、平安期には、この千葉の領主であった事、江戸期に成っても、徳川氏の特別な「御家人」と云う高い身分の家臣でしたので、千葉の全域を土地の地主としても、永嶋氏が庄屋を務めていたのです。
この”庄屋”は、お家の家柄を確定する最大の歴史的な事柄であるのです。
特に千葉と云う地域の庄屋であることが、最大の決定要素です。
出来得れば、その庄屋の地域と昔の宗派やお寺さんが判れば、最早、疑う余地はありません。
この地域は、この事がはっきりしていたのです。
更に、庄屋さんでしたから、昔の「家紋」を持っていたので、判ればこの「家紋」もお調べに成ってお知らせください。
家紋は「下がり藤紋」との事ですが、もし、この「藤原氏北家」の「総紋」を直にお使いに成っているとすると、宗家か本家筋の家筋と成ります。
この「総紋」は、宗家本家筋が、直接家紋として使え継承する家紋です。
宗家本家筋以外は、後の分家筋は「副紋」と云う別の紋を使います。
お家の「総紋」は、藤原氏北家一門の「下がり藤紋」である事は間違いないのですが、永嶋氏の本家筋はこの「下がり藤紋」を使います。
「副紋」が別にあった筈ですが、お調べください。
もし、無かったとすると、お家は、藤原氏の中でも本流の最古の血筋を繋いだ「結城永嶋氏の本家筋」であった事に成ります。
これを証明するのは、千葉の地域と宗派で決まります。
(永嶋氏の家紋群に付いても、資料が研究室にありますので、お家の家紋がどれかを御確認ください。)
そこで、この「藤原秀郷流永嶋氏」の詳細は、「ルーツ掲示板」と「研究室」に「青木氏族」として極めて詳しく論文を載せていますので、そこを先ずはお読みください。
家紋や出自や由来や経緯を詳しく述べています。
膨大な資料に成りますが、ゆっくりと少しずつ楽しんでお読みください。
その過程で、判らない事が出てきましたら、その都度、お尋ね頂き、お答えしながらそのお家のルーツを理解していただく事にしましょう。
その上でまとめて、御尊父や祖父母の方々にお教えする事が最も良いかと考えます。
その方法で、昔のお家のご親類の方々がルーツをご理解して頂いています。
この「ルーツ掲示板」では、掲示板検索で ”永嶋氏”と入力しますと、大変な数の永嶋さんの事が書かれていますので、お読みください。
長嶋さんもお家の分家や支流のご親族です。
「研究室」には、単独で”永嶋氏の事”を論じています。全ての永嶋氏や長嶋氏の事が判りますよ。
「ルーツ掲示板」には、お家の昔のご親戚の方のお便りが沢山あります。
これをお読みに成るとお家の全ての事がお判りに成れますよ。
ご親族は、ご先祖の事が判ってお喜びに成ると思います。
その上で、お読みに成っていて御質問や不明な事が在りましたらお便りを是非ください。
先ずは、お答えはここまでとしておいて、お読みに成ってからの事と致しましょう。
このお便りを、「お家の専用欄」としますので、Reでお便りください。
では、お便りをお待ちしています。
こんにちわ。はじめまして。 黒木と申します。
色々と悩んだ末にメールする事と致しました。
私の祖父は永嶋と申します。祖母と祖父の間に3人の子があり
そのうちの一人が私の父です。
祖父は千葉県の出身で、実家は庄屋を営んでおりました。
戦争中に祖父は若くして亡くなり、祖母は戦後の中やむなく
永嶋家を去り再婚を致しました。しかし、再婚相手に恵まれず
全財産を騙し取られた上、多大な借金を抱え離縁となったと
聞いております。
その後、祖母が他界してしまった為、残された3人の子供達は
(叔母が当時15歳、父親が13歳、叔父が10歳)
父親の実家を頼りに養子縁組をお願いしたのですが
一旦家を出たからと言う事で、永嶋家への養子にはなれなかった
ようです。その後、高度成長期もあり、3人の子供大変良く働き
借金返済も終わり、母親に墓を作る事に致しました。
墓石を作るときに、家紋が必要だと言う事になり、祖母の実家に
出かけ、家紋を次いで良いかと聞くと、これも遺産問題などがあり
実家の家紋も頂けない事になってしまいました。
仕方なく、私の母が、祖父のお墓に出かけ、墓石に紙を当て
鉛筆で型を取って、我が家の家紋とし、墓石に彫ってもらいました。
(無断で借用してしまったのです。)
私の、父親も高齢になり、お墓の話になった時に、どうも
祖父のお墓が移動されてしまい、何処にあるか分からなくなっていると言う事を
気にして、できれば祖母と同じ墓に生きているうちに入れてあげたい
と言われました。そこから、私が、祖父の生い立ちなり
先祖様の家系を知りたくなり、永嶋家について調べ始め、こちらの掲示板に
たどり着きました。
戦争のドサクサも有り、叔父も叔母も父も高齢ですし、出来れば
生きている内に祖父の家系が分かれば
是非知ってもらいたいと私は願っております。
小さい頃から叔母がよく話してくれた事に、子供3人で
祖母が無くなった後、永嶋家を頼ったのですが、面倒を見てもらえず
泣きながら夜の田んぼ道を兄弟3人で帰ったと言う話を聞いていましたので、
その後、永嶋家とは疎遠になっているのだと思います。
(情報が余りに少ないので)
長々と身の上話になってしまい誠に申し訳ございません。
現在私が分かっている事は、
1、祖父の姓名が『永嶋』である
2、実家は千葉県にある庄屋だったらしい。
3、家紋が下がり藤である。
と言う事ぐらいです。
また、叔母の話では、永嶋家は地元の有力者のようで
蔵が7つも建っており、家には火縄銃のようなものまで
あったと言う事です。(確か祖父の親か忘れましたが博打に
はまり、財産を失ったと聞いておりますが確かな事は
分かりません。)
こんな中途半端な情報しかありませんが、もし
青木氏に繋がる家系であるのであれば、是非
叔父、叔母、父に話をしてあげたいと思い至りました。
長々と要領を得ない文章で大変恐縮でございますが、もし何か情報がございましたら
お教え頂けましたら大変幸せに存じます。
突然の書き込みで大変失礼いたしますが
他にどのような挨拶をすべきか分からず、大変
お恥ずかしい事ですが、掲示板に書き込ませて頂きました。
宜しくお願い申し上げます。
お便りのご質問
1.肝付家の家紋を見ると『尻合わせ四つ結び雁金』、長島(長嶋)、肝付町永島氏は『顔を合わせ雁金』、そして宗家はもともと『対い鶴』と顔を合わせている。『結び』、『尻合わせ』、『雁金の数』には肝付氏族としての何かルールがあるのでしょうか。
2.伴氏から分かれた肝付氏以外の氏族も『鶴紋』が使われています。伴氏は『鶴紋』に関連はないのでしょうか。
3.『通名』についてですが、隠密の『総括(御師)』の立場であれば、規則を守りつつ、他者に対して分かりにくくする必要性もあるのでしょうか。
先ず[対鶴」にはそもそも7つの文様から成り立っています。
その内の一つは、全く別の系列の氏の家紋です。
その6つの「対鶴」文様は、「家紋構成」から観ると、4つが「一族紋」で、その基紋は、次ぎの通りです。
1「対鶴紋」で、宗家の家紋で一族の”「総紋]”です。この「総紋」は宗家しか継承出来ません。
2「喰い合い対鶴」は、本家と本流の分家筋紋で使えるものです。
3「対鶴に若松紋」は、「副紋」の形式で主紋として使用してその1の支流筋紋です。
4「糸輪に喰い合い対鶴」は2の更に分家筋文様と成ります。
元々、「対鶴文様」は、”「古来の慣習」”があって、これを組み込んだ「家紋構成」から観て、本来は、一つが、嘴を開き、一つは嘴を閉じる事が文様としては「慣習仕来り」と成っています。
従って、総宗本家が引き継ぐ「総紋」とは別に、この古来の「喰い合いの文様」の2つが正規の文様と成ります。
「対鶴」の基本文様の間に、「若松文様」が入ると云う事は、これは「副紋形式」の一つですが、本家分家筋の中で、「若松文様」の氏族の流れを持つ分家筋を示しています。
4の糸輪は、丸紋に類する文様で、この「丸付文様」は、「分家筋の表現方法」です。
従って、2の「対鶴」の分家筋と成ります。
そもそも、”「鶴の顔合わせ」”の文様が「対鶴」の基本形式です。
これを「嘴の位置関係」で、変化を付けて、本家ー分家のどの家筋のものかの判別をしています。
依って、お家の「対鶴紋」は、「顔合わせ文様」と、「嘴を合わせ文様」と、古来の「嘴の開閉文様」と、「丸付紋糸輪文様」の4つ使い分けているのです。
これがこの氏が持つ「慣習仕来り掟」の「統一概念」を滲ませたもので、この「家紋のルール」に成ります。
「総紋」を引き継ぐ宗家本家の「対鶴紋」は、この3つをもった文様と成ります。
この3つの何れかを変えて、「一族の位置関係」を判別できる仕組みに成っています。
そもそも、「結び」や「尻合わせ」は全く別氏の文様で、「鶴」にしても「雁」の文様にしても「数」も別氏の文様と成ります。
何れの「家紋」も、「家紋」というのは、その「家紋」の「宗家筋」が引き継ぐ「基紋」(「総紋」)を基本とするので、「基紋」から外れる内容の文様は、別氏の文様と成ります。
これは宗家本家が監視管理しています。
何れにも外れるものが一族から出ない様に監視していて、勝手に換える事や、勝手に作る事があった場合は、「追放の憂き目」を受ける事に成ります。
従って、宗家や本家に許可を求めて「基紋」から外れる事はありません。
別氏が、類似紋を使用した場合、廃止を求めて戦いに成った例が多くあるのです。
例えば、平安期末期に、「青木氏」では、「上田氏」が「滋賀青木氏」を、勝手に「青木氏の氏名」と「総紋」を使用して、戦いと成り、元の「近江青木氏」が負けると云う事が起こったのです。
(安土初期にも再燃するも、又、秀吉立ち合いの下でも負ける。)
但し、この例外の手法があって、そこで、血縁関係で他氏の血筋が入り、「純血」から薄れるような事が在った場合は、「副紋方式」を使います。
(但し、前回の”子供の定義”で、”「跡目」が変わらない範囲”で「純血方式」を採っている氏)
この「副紋方式」には、幾つかの方法が在りますが、「藤原北家秀郷一門」が良く使う手法は、「基紋」の中に、他氏の血縁状況の家紋を組み入れた家紋に変紋する事は許されています。
(参考、研究室の家紋掟等の詳細を参照)
藤原秀郷流一族はこの「副紋方式」を採用しているが、それでも長い間の跡目問題で361氏にも成っています。)
この場合は、藤原秀郷一門の24地域にも成る各地域の本家筋には、例えば、一族の氏の様な361氏にも成る大きい氏の場合に用いられます。
これで一族の同族血縁の弊害を無くす判別手段とも成り、一族の位置関係を判別手段と成ります。
小さい氏には、そこまでの、基紋以外の類似紋以外にルールはありません。
そこまでのルールにするには、藤原氏の様な超大氏族の枝葉末端を持つ一族一門でなくては「鶴紋全部」までも一族家紋とする事は不可能です。
そもそも、「鶴紋」は、室町期末期に公家の日野氏が、室町期末期に島津氏の副紋として使われたもので、その後に日野氏が独占的に使用する様に成ったものです。
その後に「家紋」と成ったもので、46文様も在り、この文様は、基紋としては 12紋に成ります。
つまり、氏としては12氏が用いていた事に成ります。
「鶴」は、平安期から、”延命長寿の吉兆”の図柄とされ、「古来の慣習」の内容を大きく含んでいます。
そこで「対鶴」文様には、この吉兆に”「仏教の阿吽」の意”が入っているのです。
この「家紋の作意」には、戦いで明け暮れていた室町期末期の時代に、一族が、”「延命長寿」”と”「一致団結」”とに恵まれ、且つ、それぞれの”「家の役目」”を果たして、”長く存続”が出来る様に願った意を持つ文様です。
これを「他の鶴の図柄」に変えると、その意味合いが変化してしまいます。
その意味でも、「類似紋」の範囲で留める仕来りなのです。
「鶴」の発祥紋の家紋は、「日野鶴の丸紋」(家紋)と「島津鶴の丸紋」「島津氏の副紋」で、何れも「戦旗紋」として使われました。
後は「後発の氏」の「類似紋類」(10)に成ります。
この中に「対鶴」があり,前回のお答えと成ります。
そこで、家紋にはある一定の構成を持っていて、「江戸初期の類似紋禁令」で、これを「ルールの基盤」として出来ているのです。
そもそも、「家紋」としての文様が、使われたのは室町期からの事で、元は藤原氏や青木氏の様に「高位の武家の象徴紋」から来ています。
室町末期からは、下剋上や戦乱に依って興った「勃興氏]が家紋化して、江戸期には、全ての武士が苗字と家紋とを用いて、「氏の一族性」を誇示する様に成ったものです。
「氏の一族性」を誇示するには、基本に成る「基紋」を定め、それを「総紋」とするのです。
「総紋」を持つ氏と成ると、相当に大きい「枝葉末孫」を持っている事に成ります。
当然に、「副紋」は、「枝葉末孫]を持つ更に大きい氏と成ります。
その基と成ったのが、江戸初期に発祥した「旗本と御家人」からで、これを真似て他の武士も苗字と共に「家紋」を持つ様に成ったのです。
この「家紋」の「ルール」と「判別方法」の規制は、主に「江戸初期の禁令」から来ています。
従って、上記した様に、「基紋」が構成した時点の”祖の氏の出自状況”が基本と成っていますから、なかなかその氏の出自や慣習事を知らないと、更に家紋に慣れないと判別は難しいものです。
これには「古来の慣習」、 例えば、「鶴文様」であれば、[嘴の開閉」等の知識(古来の文様の仏教知識」が基に成っています。
(古来の生活概念の歴史観の知識が必要)
例えば、「鶴」には、”昇り、降り、喰い、立つ、舞い”等の「基本形」があります。
それには、ある意味の持つ「古来の慣習や仕来りや掟」が、大きく宗教的で仏教的な意を含んでいるのです。
その基は、そもそも、「高位の身分の象徴紋」から来てる為に、その身分階級の中で生まれた「生活慣習」が家紋に反映されているのです。
多くは「神道や仏教」などの「日本の宗教的概念」から出たもので、昇、降りの意味、立つの意味、喰いの意味、舞いの意味などは、この「古来の生活慣習]のものから来ています。
従って、「悠久の歴史」と「高位の武家の身分」を持つ九州の豪族の「肝付氏」には、この「古来の生活慣習の意味」を一族の文様に大きく反映されているのです。
「島津氏等」は、室町期中期からの「勃興氏」であり、「戦時の氏の思惑」などの大した意味が在りませんが、「副紋や類似紋」のものは少ないのです。
比べものに成らない「氏の歴史」を持つ「肝付氏」に取っては、この「古来の慣習」では比べものに成りません。
当然に「氏族の基本ルール」として、その中の一族一門の氏族には、働いているのです。
その”動く象徴の文様”が、その「氏の伝統」となり、それを総括して表す「家紋」と成りますが、「肝付氏」には、この内容が多いのです。
当然に、後発の九州の超豪族大蔵氏の「雁金文様」にもある事に成ります。
依って、同様の考え方で、この「基紋]から外れる「雁金文様類」は全て肝付氏のものでは必ずしもありません。
地方の超豪族の肝付氏は「青木氏]と並ぶ位に奈良期からの氏族です。
そこに、「朝廷の五大官僚族」の藤原氏と並ぶ”「伴氏」の血筋”を「肝付氏」は持っているのですから、島津氏とは比べものに成らない「古来慣習」で縛られていたのです。
家紋を観れば、この氏の「古来慣習」、即ち、「伝統の内容」が判るのです。
前回にもお答えした様に、「地域の慣習」も含めて、それが「一族の象徴紋」であった家紋に反映されているのです。
更には、この「肝付氏」は,後漢の民族とその首魁の血筋と生活慣習も持ち合わせているのですから、夫々の文様の違いには大きな意味を持っていたのです。
この様に、その氏の「慣習仕来り掟」は、全国でもトップにある青木氏以上にあるかも知れません。
これを述べると「家紋学」に成ってしまいますので、ここまでとします。
雁紋の「結び」や「数の違い」に成っている事は、「基紋」から外れていますから、別氏の家紋です。
前回のお答え通り「雁文様類」は、「53文様」あり、多くは江戸初期に武士に成った者の家紋類と、明治初期の民衆が苗字に伴い家紋を持った時の文様類です。
明治期の家紋と江戸初期の家紋は、兎も角も、大きく分けると、室町期初期からの武家5氏に分けられます。
基紋の雁金紋類
三つ雁紋類
二つ雁紋類
結び雁紋類
雁の複合紋類
以上に分けられます。
この5つの氏の文様が、嘴や顔合わせや尻合わせ等の類似紋で判れます。
本家分家支流と別れ、20程度に「雁文様」が占めています。
この範囲で家紋にその「氏の意味」を持たせています。
全体の53文様から次ぎの様に分けられます。
基紋の雁文様は5文様
二つ紋類は8文様
三つ紋類は10文様
結び紋類は15文様
複合文様類は15文様
以上53文様に成ります。
次ぎは2のご質問ですが、先ず、”伴氏から別れた肝付氏”とするのは間違いです。
そもそも、「伴氏」は、奈良地域を基盤とする「古い氏族」です。
役目柄で、九州にその一族を差し向けたのであって,そのために地元の肝付氏との血縁をして、「現地の末裔」を遺したのであって、その一族は奈良に帰っています。
そもそも、「伴氏]は「奈良期の高級官僚」で、「弁済使」の役目(税務官僚)を専門とする官僚族で、恐らくは、その祖は「後漢の阿多倍」が引き連れて来た「職能集団の事務方の部」の氏族の筈です。
この頃は、未だ「家紋」はおろか、取り分け「象徴紋」そのものと云う概念は未だありませんでした。
その最初に持ったのが、「皇族賜姓族」で「朝臣族」で「臣下族」の「青木氏」ですが、天智天皇から「賜姓」と共に、初めての「朝臣族」の[賜姓族」を示すものとして、且つ、初めて「臣下族」を示すものとして、与えられたのが始まりです。
況や、初めての「象徴文様」で、皇族の出自族の「臣下族」(天皇を護る護衛侍)として「象徴物」としての「大日如来坐像」と、その「笹竜胆紋」が与えられたのです。
(笹竜胆紋には、「類似紋」は無く、奈良期からの禁令です。依って、本家分家方式は採用していません。福家方式です。前回のお答えの通り「同族血縁による子供の方式を採って家紋の変化を無くしている。)
それ以後に、「高位の氏族」は、「象徴紋」を与えられて持つ様に成りました。
この基は、後漢の帰化した朝廷の官僚と成った職能集団が、「官服の袖元」に、「中国の役人の役務慣例」に従って、その「職能の判別」と、「職能の位階」を示す文様として用いていました。
例えば、武田氏系青木氏の「唐花菱紋」などはこの流れの文様です。
「足利氏系青木氏」の「二引き両紋」もこの「職能の位階」を示す文様で在ったのです。
従って、「伴氏」には、始めから「鶴紋」が在った訳では無く、「鶴」とは別に成りますし、室町期の時のこの伴氏は既に衰退していましたので、正規の家紋は無いと思います。
その後の「伴氏」の血筋を引く現地の末孫の者が、何らかの文様(役目柄の唐文様)を仕立てたと観られます。
「鶴」には限らないと考えます。
「伴氏」は、元々は飛鳥ですので、現実に記録から役務が終われば飛鳥に帰っているのです。
関西の奈良を中心には、真偽は別として、その主流としてのその流れを組む氏族(役柄を示す唐文様)は多くあります。
九州では、その役務滞在の結果として、北九州にその現地末裔を遺したもので、その位置づけは「傍系族]と成ります。
その血筋を強く持ったのが、「日向の肝付氏」であると云う事で、その役目柄から、最も「伴氏の血筋」を引いている事に成ります。
関西の「伴氏の末裔」の家紋が、どの様な「系統性」を持っているかは、氏として大きく衰退したので、正確には判りませんので述べられません。
恐らくは、九州の現地の「遺流孫の末裔」ですので、本流ではありません。
依って、むしろ、「氏族」としての「伴氏」の生き残りは、九州では「肝付氏系」に所属する事に成りますので、肝付氏と同じ類似家紋となっていると考えるべきです。
(「大蔵氏」とも血縁をしている。)
平安時代の後期には、九州に「伴兼貞」の子の「伴兼俊」が末裔の血流の肝付氏を遺した事に関わります。
この「現地末孫の傍流」が「肝付氏」を通じて、ベースとして「雁金文様」を、中には古の祖の家を現地に興して「舞鶴文様」などの末裔が引き継いでいる事にも成るでしょう。
(お家の「兼」の大元の通名は、この「伴氏の兼」から肝付氏を介して長嶋氏に来ている事でも判るのです。)
3のご質問ですが、
「諜報活動」を主務とする場合は、総括の御師(おし)と云えども、家筋を明確にする事は先ずありません。消す事が基本です。
(江戸幕府では、隠密の御師の柳生氏などが”柳生忍者”として暗躍した。)
在ったとしても、”おし”の場合は、「二足の草鞋」の様に、同一人物が別人に成りすますと云う手口を使いました。配下は藩士も判らない様に完全に消します。
「忍者」の様に、飛び跳ねるの務めは無いにしても、人との付き合いの広い「商人」などに化けていた筈です。
もし、暴かれたとしても、藩に類を及ばない様にします。
西郷隆盛の若い時の様に、明確にする「調略の役目」もありましたが、主に調略を主務とする班と、情報を操る班の二つに分けられています。総括をしていた西郷は前者です。
この両者が連絡を取り合い、「調略役」からの指示命令を待つ事に成ります。
お家は後者の御師役であった可能性が高いと観られます。
大久保氏暗殺までの期間(明治11年まで)に、この「役目柄」として働いたのではないかと観られます。
これによりお家の生活環境は一変している筈ですから、お家のこの時期の明治11年頃の家の中での変化がこれを証明して居る筈です。
つまり、大きな変化のあった「太吉さんの頃」ではないでしょうか。
以上です。
可成り、歴史観が深く成ってきましたね。
この様な歴史の知識を深めて、お家流の推論を証拠立てる事が必要ですね。
今回も、お便りは秘匿とします。お答えだけのご返事ですが、また、ご質問があれば、お尋ねください。
静岡の永嶋さん お久しぶりでね。
良くお調べに成っていて、感心します。
現在は、伝統が消え失せ、個人情報の制限でなかなか調べられないのが現状です。
お調べに成る方法や方向は、その氏に依っても異なりますので、推論をたててそれを立証して行くことの効果は千差万別の結果と成ります。
その意味で、納得され理解が得られます。
それを補足する意味で、お尋ねの「歴史観」は絶対条件に成り、この「歴史観」に依っては、推論の問題点を解決し得る可能性が有ります。
そのより「高い歴史観」が、より「ルーツの確証」を高める結果と成り得ます。
静岡の永嶋さん特有の検証方法かと考えます。
或は、この様な検証方法も現代に於いてはあり得るかも知れませんね。
それには、この様な結果を整理して取りまとめて記録に保管する事が必要ではないかと思われます。
筆者は、ルーツとは、丁度、”壺の「化石」の再生品を作る工程と同じではないか”と考えています。
”壺の「化石」”の「破片」には、完全に複する事が出来るものと、出来ないものがあります。
出来ないものは,その”足りない部分の破片”を”推論付けて作り”それを”接着する事”に成ります。そして、その”推論漬けた破片”がより「現実の壺」に近く見えるものであれば,それは価値を作り出した「歴史的な壺」と成ります。
その壺の”複した破片”が多い壺と成れば、「歴史的な壺」の価値は低下してしまいます。
ルーツも同じで、当然に判らない解明できない部分が起こります。
しかし、この判らない足りない部分を、より”史実に基づいた高い歴史観”で推論付けて繋げは、それは其れで「ルーツ」と成り得ます。
その”繋げる部分の史実に基づいた歴史観”に基づいた”信頼度の如何”が左右する事に成ります。
その「左右」は、それを”観る者の納得度”に任される事であると思います。
そもそも「ルーツ」に限らず、この世の如何なるものも、この「摂理」に従っているのではありませんか。
その事に依って、将来、子孫が何時か、我が家の「ルーツ」に興味を持ち、その記録を読んだ時、そこに子孫の「先祖の歴史観」が蘇り、ルーツ記録の目的は達成されると考えます。
「ルーツ探究]は、必ずしも100%史実でなければならないと云う定義は成り立たないと考えます。
その割合は個人の判断の領域で有る筈です。10%なのか90%なのかは別としてです。
しかし、0%は小説の領域と成りますので、ここでは、ジャンルが異なりますので、これは否定される筈です。
何故ならば、現代の様に、記録が保存される時代ではなく、少ない記録資料の中から「ルーツの探究」が行われるのですから、”推論部分の領域”もあり得る訳ですから、この部分を整理して、この「歴史観の前提」を書き記し、記録されれば、それはそれなりの「先祖記録」と成り得ます。
そして、それが後の「子孫」が読んだ時に、それが何とも言えない”ルーツロマン”と成って記録に遺ると考えます。
筆者は、むしろ、この様な部分がある事が、「全体のルーツ記憶」として、「脳」に遺されるものと考えます。「脳の海馬」の「印象力」が強く起こる事に成るからだと思います。
ただ「若い子孫」が読んだ時に限りますがね。
その為には、「作者の推論部分」を”物語り風”に仕上げるのも一考かと思います。
筆者もこの様な形で、より「歴史観の背景」を論じて、その「推論の部分の信頼性」を高める様に「青木氏」を論じています。
後は読者の裁量の範疇です。100%では無くては読まない信用しないでは、読んで頂けなくてもよしとするところです。
さて、そこで、ご質問です。
極めて良いご質問と判断します。
1.史実的に上記の事(内容秘匿)をどう思われますか?
上記しました様に、全くの想像域とは云い難い事だと思います。
当時の社会性から観て、「史実」を基にした当時の「歴史観」からも、”あり得る事である”と考えます。
”史実的”には、その領域が100%とは云い難いにしても、筆者が経験を通して総合的に観る「歴史観」からは、当時の「薩摩の環境」からは、当時の「薩摩の永嶋氏の環境」から観ても、60%からのその程度の「史実性」を持っていると観ます。
つまり、”あり得る領域にある”と判断します。
と云うのは、そもそも、「薩摩」には、お家の始祖の一つと成った「伴氏」ー「肝付氏」ー「大蔵氏」ー「永嶋氏」ー「長嶋氏]ー「長島氏」から「島津氏」に移るまでの経緯と、室町期末期から江戸期にまでの経緯の中では、ある「特別な事情下」にありました。
この”「事情下」”が薩摩の持っている「特有の歴史観」で在ります。
これは”歴史を調べる者”に執っては、必ず知っておかなければならない「重要な歴史観」なのです。
それは、そもそも、歴史的に「薩摩」は、全体の豪族の大名の中でも、当時のどの政権からも、「特別な事情」によって、”特別に警戒されていた地域”であったのです。
この「警戒感」は、”長い歴史”を持っているのです。
それは「飛鳥時代にまで先ずは遡ります。
他の論文でも、論じています様に、九州は奈良時代に「後漢の帰化民族200万人」が九州に上陸した時から始まっています。無戦で制圧されます。
そして、その「後漢の帰化民族」の首魁(阿多倍王)は,大隅の隼人に定住し、その首魁の父親(阿智使王)は、「阿多」に定住して「九州全域の根拠地」とします。
この時、奈良期の朝廷は、この帰化民族の一団に対して、朝廷の命に従う様に命令を発しますが、云う事は長い間、聞かなかったのです。
そこで、朝廷は2度も大遠征軍を差し向けますが、敗退してしまいます。この戦いは713年から723年に繋がります。
そこで、勝ち目がないと判断した朝廷は妥協してこの一団と和睦します。
そして、官位と本領地と官職とを与えて飛鳥に出て来るように促します。
一団側も納得して、「薩摩大隅隼人」の半国割譲と、「伊勢国北部伊賀地方」に領国を半国割譲して与えられ、敏達天皇の芽准王の孫娘を娶らせます。
そして、准大臣とし、その生まれた3人の子供に賜姓して朝廷の3役処(3蔵)の内の2蔵の役処を与えて、「朝廷の官僚団」を構築させたのです。
これが、桓武天皇と兄弟の様に育った側近中の側近の「征夷大将軍の坂上田村麻呂」です。
次男は、朝廷の財政を担当した大蔵氏、天皇家の財政を担当した内蔵氏です。
この大蔵氏が九州全土の自治を任され、「錦の御旗」を与えられた「遠の朝廷」と呼ばれた「太宰府大監」です。
そして、伊賀に定住した阿多倍王の本家の子孫は、賜姓を受けて「桓武平氏」を名乗ったのです。
これが、5代後の太政大臣「平清盛」です。
これらの一族が九州に基盤を作り、一時は「独立騒動」が起こります。
朝廷は悩みますが、この一族は九州は愚か朝廷内部までも牛耳り、衰退するどころか益々勢力を増し云う事を聞かなくなってしまったのです。
その為に、この事があって、室町期まで薩摩域は警戒されていて諜報活動が盛んであったのです。
室町期には、遂に、肝付氏が薩摩氏に負けて、その勢力は島津氏に引き継がれますが、豊臣政権時に、秀吉はこれに警戒して特に薩摩に膨大な隠密を送り込みます。
徳川時代に成っても、この「隠密状況」は変わらず、益々、強化されたのです。
それに対抗した「薩摩藩」は、「逆の隠密」を送り出し幕府の動静を探ります。
「薩摩藩」は、この対策の一つとして、隠密に情報を読み取られない様にする為に、「言葉」に変化を与えたのです。
一つは、言葉の代名詞を出来る限りに云わない事、
二つは、言葉を”来る”の意は、”行く”と云う風に逆にする事にします。
三つは、親族の関係をはっきりさせない為に、全ての年上の男女には、”兄、姉”と呼んで特定を避ける言葉を作り上げたりしたのです。
更に、各地に”逆の隠密”を送り出したのです。
「士農工商の姿」に化けて「情報収集」を行ったのです。
このシステムは奈良期から明治維新の薩摩藩の衰退期まで続けられました。
この役目は、家臣の中でも信頼のおける者に委ねたのです。
お家の長嶋氏の幕末のご先祖は、「二足の草鞋」で「薩摩藩御用調達商家」を営んでいました事からも、筆者は以前のお便りで、その仮の姿を「材木商」と推論付けました。
恐らく、この「商い」を通じて、このこの”密命を帯びていた隠密”であったと観ているのです。
(下記にもその根拠明記)
この様に、他の藩にも沢山の密命を帯びた家臣としても入り込んでいた事が考えられます。
「家紋類」から観て、その「統括(御師)」を担っていたとも観られます。
ですから、この推理から説明のつく納得出来るご先祖と成ります。
幕末から明治の中頃までのご先祖は、静岡や戒名や長嶋氏の通名などの有無が判断材料と成ります。
他の事もこの推論の論理で検証すれば、説明出来る論調のルーツが出来る筈です。
つまり、お家の場合は、室町期までの事は史実で成立しますが、江戸中頃から明治中頃までの間の繋ぎの推論をたてる事が必要と思います
それは、判り易く言えば、「逆隠密の役目」を負っていた事から、ルーツの解明が出来なくなっていると観ていて、それで説明が付きます。
悠久の歴史を持ち、室町期まで史実で完全に説明が付いているのに、突然に消えると云う事は、当時の「武家の慣習」からも”おかしい”と観られます。
”消えた”と云うよりは”消した”と云った方が良いと観ます。
それは、”消した”の必要性は、「諜報活動」をする「逆隠密」であった筈です。
「西郷隆盛」も斉彬に命じられて京都と江戸でこの「諜報活動の役目」を果たしていたのは有名な事です。
斉彬後の”投獄の憂き目”は、この面倒な役柄を暴かれて、幕府に何ぐせを付けられたくなく、隠すために抑え込む為に投獄されたと観ています。
歴史マニアではこの事は定説です。
恐らくは、”幕府隠密”に依って調べられ、幕府から 睨まれて”暴かれていた”のです。
次期藩主はこの恐怖に耐えられなかったと観られます。
投獄理由は、”斉彬の名跡を継いだ弱腰の藩主を詰った事”に成っていますが、そんなことで「島流しの投獄」は無い筈です。
同じくお家の幕末から明治期に生きたご先祖の”太吉さんもこの役目を帯びていた”と観ています。
恐らくは、長嶋氏の中でも、ご商売をしていた親族のご先祖も含めて、お家のご先祖はこの役目を密かに代々帯びていた可能性が高いと観られます。
依って、お尋ねの「史実性」では、提供の情報から観て、全く無視できる範疇では無く、むしろ、信頼出来得る60%程度のものを持った推論と判断します。
次に、2のご質問です。
次右衛門兼弘が長寿の場合、次右衛門を継げず、早右衛門のままで終わることもあるのでしょうか?
お答えは、次ぎの二つの事の差違に依って変わりますが、普通にあり得ます。
先ず、その二つの事とは、一つは、「襲名」によるもの、二つは、「通名」によるものです。
そもそも、「襲名」とは、その「家」や「個人」が特別な格式、特別な身分、特別な階級、特別な名誉、特別な技能、特別な役目、等を持ち合わせている事。
これを継ぐ者もこれに値する場合に於いて、永代に継承する場合に於いて、世間に宣言する手段です。
「通名」とは、「氏の格式」を統一して継承する場合で、一族一門の中でその出自を明確にするための判断手段として用いるものです。
藤原秀郷一族一門等の361氏もある家柄では、どの藤原氏であるかの細部までの判別が必要で、この手段として用いられました。
この為に、[地名」と「身分」と「官位官職」と「家紋」と「副紋」と[通名」と「俗名」とで細部の細部まで判る手段を用いていました。
これには、「襲名」の様な「特別な宣言性」を持っていません。あくまでも「判別を目的」とするものです。
従って、このご質問は、あくまでも「通名」ですので、「右衛門」が継承されていますので、問題はありません。
「襲名」の場合は、別に既に「通名」等のものを持っています。
武家の名は、正式には、例えば、筆者の家であれば、平安時代であれば、「浄大一位正二位青木朝臣左衛門上佐信定実千代」と名乗る事に成ります。
代々の「襲名」は「青木長兵衛」でした。これで、世間は、豪商で皇族名跡の「伊勢青木氏」の当主だなと一括して総じて判る事に成ります。
(民部上佐:警察をも兼務して 左衛門の中でも上席責任者であった事を示す。)
さて、お家が云うのは、「襲名」を意味しているのか、「通名」を意味しているのかは判りませんが、「通名」であれば問題はありません。
「襲名」で在ったとすれば、上記した役目柄を暗に藩中に宣言した事にも成ります。
ただ,ここで、付け加えて、一つ間違いを起こしています。
「・・右衛門」は名ではありません。
本来は、”高位の武家”(公家に対して武家の意)であれば、これは「官職名」(役職名)で、俗名の名ではありません。
江戸初期頃から、官職の持ち得ない多くの武士は、これを名乗り、遂には庶民までもが”「名」”として名乗る慣習が生まれる様に成ってしまったのです。
お家はこれを「名」として理解していますが、本来、「永嶋氏」であれば、「名」ではありません。
名跡の家柄を示す氏名の官職位です。
次に、この「右衛門」「左衛門」には、永代に名乗る事が出来る「右衛門」「左衛門」なのですが、江戸期から金品を朝廷に献納して、一代限りでの「朝廷の官職名」の「右衛門」を授かり名乗る事が出来る「右衛門」「左衛門」も在りました。
しかし、次第に誰でもが、何時しか庶民までもが勝手に名乗る事が起こってしまったのです。
お家の「右衛門」は、この永代なのか、一代限りなのか、勝手に名乗ったものなのかは判りません。
九州の長嶋氏は、関東永嶋氏とは違って、永代ではない事は判りますが、お便りの経緯から江戸期の一代限りでもなさそうなので、本来の右衛門ではないと観られます。
つまり、”継承事”の云々ではないと思います。
尚、この官職位に、”次”とか”早”とか”正”とか”宋”とか”総”とか「覚」とか添られている事は、”正規の「右衛門」”では無く、江戸期のものの一般化した慣習です。
朝廷から正規に付与される「右衛門」を名乗るには、憚られおこがましく恐縮するところから、正規の「右衛門」に、次ぐものとして「次右衛門」「総右衛門」とか「正右衛門]とか「早右衛門]とか「覚右衛門」とかとして、「・・右衛門」として、違うもの、別のものとして、名乗り始めた物なのです。
また、藤原秀郷一門の「氏の仕来り」では、全て例外なく俗名の前の部分を変更して、「通名」としています。
後ろの部分の場合は、支流分家筋の一部の場合に起こっています。
この場合、身分では色々なものがありますので、「妾子」ではと観られます。
秀郷一族一門には、官職位の部分の変更は資料から確認できません。
お家の場合は、既に、「通名]として、「兼」が使用されています。
従って、正規かそうでないかは別として、後は世襲氏の[襲名」と成りますが,既に「右衛門」が継承されています。
「次右衛門」でなくても、「早右衛門」として名乗っています。
つまり、「襲名」と[通名」を名乗っていますから、懸念の事は、既に成立しています。
つまり、上記した様に、”次”とか”早”には、「襲名的な意味」を持っていません。
参考に、この「右衛門」と[左衛門」と「民部」とかは、皇居警備軍の近衛軍の役職位で、これを更に、佐と尉とに分け、更に、これを上と下に分けて官職位の組織を作り上げています。
これに、「兵衛」の官職位が付きます。
これには,「青木氏」や[藤原氏]や[源氏」の[朝臣族」の家筋が当たります。
つまり、「賜姓族」です。従って、本来は、この氏以外にはこの官職を使う事は禁令なのです。
皇居は、正面は三門、裏は二門とし,正面の真ん中を高位の順に正門として、左門、そして、右門とします。
ここを護る者が獲得する官職で、この中から、天皇の隣の部屋に24時間で詰める詰所が在って、24時間の身辺警護の護衛官を交代で務めます。
最高の身分の者で豪傑の者が務めます。現実に歴史的な豪傑の人物が成っていた事が判っています。
この身辺護衛官は、護衛に限らず、天皇の相談役も非公式で務めます。
これを”「北面武士」”と呼ばれ「最高の名誉の職」です。
(「西面武士」として、皇族系外の「桓武賜姓平家」が務めた事が在ります。)
これらの氏の家には「永代権」が天皇から授与されているのです。
次ぎのご質問です。
3.本家、分家により血、家を繋ぐために、男女共、養子、養女となることは封建の世の中では普通の事なのでしょうか
お答えから、”極めて普通”です。
むしろ、これ無くして、「武家」の家や血筋は保てませんでした。
但し、これにも「高位の家筋」が継承する「慣習仕来り掟」から来る条件が在りました。
このご質問では、その定められた「氏の慣習仕来り掟」により異なりますが、「賜姓族」では、ほぼ同じ「慣習仕来り掟」を用いています。
特に、「青木氏」と「藤原氏北家秀郷一門」には、次ぎの様な「慣習仕来り掟」を持っています。
特別な血族維持の概念です。
従って、各地の秀郷一門の関東の永嶋氏一門もこれに従っています。
この根本的な考え方は、次ぎの通りです。
一族の子供は、「孫の領域」までを、”「子供」”として扱います。
区別して「孫」を敢えて「孫」とはしません。
祖父の親から観て、「孫」は、純然として「子供」として扱われます。
従って、祖父の者は、「孫の領域」までの養育の総括責任を持つ事に成ります。
つまり、”息子と孫までを子供”としての位置づけをして、”息子である子供”は、成人期までを祖父の親が育て、成人後の”息子の子”は、その”息子の嫁”が育てるとする概念の”特別な仕来り”を持っています。
”「息子の養育」は、結婚の段階を経て、「嫁」に引き渡す”と云う考え方を採ります。
従って、「嫁」は、「自分の子供」と、さらに「夫に成った息子」の「子」を育てる訳ですから、「嫁」は「嫁」では無く、「実娘」に相当する「娘」としての位置づけられます。
その「娘」と成った「嫁」は、”「息子の親」に育てられる”とする考え方を採ります。
つまり、”孫域までの子供”は、”区別のない「嗣子」”と成り得るのです。
本家分家に関わらず、氏の中に生まれた”「子」”は、「氏の全体の子」として捉えられ、分家の”「子」”は、「本家の跡目」を継承すると云う事にも成るのです。
又、当然に逆の事も起こります。
継承としては、「嫡子」は、この”「子」”の中から、その任に見合った者を選ぶ仕組みです。
これを宗家筋が、決定し、行う仕組みです。
結局、「孫」に位置する者が、「子」に位置する者を飛び越えて、「嫡子」に選ばれる事が起こるのです。
時には、この事に依って、其処に「争いの種」が起こります。
これを乗り越えての「氏家制度」の「嫡子」であり、一族一門の「頭領」と成り得るのです。
乗り越えなければ、それは「嫡子]では無い事に成ります。
それには、「嗣子」と「嫡子の子」は、お付きの良い家臣を持つ事が必要に成るのです。
何故、この様な慣習仕来り掟に成るかと云うと、これは「賜姓族」とする特別な立場にあったのです。
「賜姓族」である限りは、賜姓族を護り続ける為には、「純血」を保ち、如何なる事が在っても永代に「氏の保全(象徴紋の維持)」を保つ責務、宿命を負っていたのです。
この争いを無くすために、家康は江戸初期に、”長男を嫡子”とする様に改めて争いの無い様に決めました。
一般武士はこれに従いましたが、しかし、現実には、高位の武家では、あまり護られなかったのです。
この時より、一般武士の家では、上記する「慣習仕来り掟」に依る感覚は薄れ、又は無く成りました。
例えば、吉宗は、地元郷士の「紀州巨勢氏」の娘の子で,「湯殿女」の身分の子供です。
「妾子」より更に、下の子供で本来は継承権は無かったのです。
しかし、吉宗はその頭領としての器に育てた事から、他の公家の子供らの「嗣子」を押しのけて紀州藩主になり、遂には将軍に成ったのです。
この吉宗を密かに育て、政治や経済の専門教育を施した器にしたのは、「伊勢青木氏」と[信濃青木氏」と「伊勢加納氏」(紀州藩下級家臣でお付きの家臣 後に「二足の草鞋策」を青木氏から受けて加納屋を営む)です。
何れも「二足草鞋の豪商」でした。この財力で藩主ー将軍に押し上げたのです。
「伊勢青木氏」は「伊勢加納家」と共に江戸に出て、「青木氏」は勘定方に、「加納氏」は側用人と成って吉宗を支えました。
この様な例がある様に、この跡目の継承手段の領域の中では、「養子,養女」は最大の手段として扱われました。
特に、「女子」の場合は、他氏に嫁いだ「実娘」の「子」 つまり「外孫」までは「子供」として扱われます。
この様に、”嫁ぎ先での子供”までを跡目とするには、男子だけでは戦いなどによって継承しきれない事が起こるからです。
それと、「浄土宗の密教概念」に従っている事に依ります。
本来、”人は女性によって引き継がれる”とする「密教概念」から来ています。
(現実に人遺伝子は女性に依って引き継がれている。)
この「二つの理由」から、”本来は「娘の子」が「実子」である”とする考え方を概念として持っていたのです。
「武家社会」が強く成った事から、「男性化」にますます成ったのです。
つまり、実家一門に「男子の跡目」が無く成った時、「外孫]の[孫息子」と[孫娘」までを「氏の子供」として跡目を継げる事に成ります。
今で云えば、従兄弟は、「氏の子供」で嗣子に成り得て、分家本家を問わず跡目にする事が出来るのです。
故に、「曾孫」は、従って「対象外]で、仮に迎える場合は、仕来り上は「養女形式」を採る以外にありません。
この場合は、従兄弟の範囲では「養女」としての扱いでは形式上採用しません。
これは、「孫」までを「氏の子供」としているからです。
この何とか”血筋のある者”としての「曾孫」の「養女」ですから、「養子]を他氏から迎える事に成るのが殆どですが、中には、上記の従兄弟までの嗣子に、この「養女」を嫁がせる事にも成ります。
他氏の血筋を入れて、「同族血縁の弊害」をなくしたのです。
態々この様な事をしてでも、幼少の頃から先に積極的に家にこの「養女」を採る事をしました。
全く、血縁関係の無い家筋からは、一般武士と異なり、養女として採る事はまずはありません。
これは「純潔」を守る事を前提にしていて、紋が変わる事を極力避けたのです。
(特に青木氏や秀郷一門は「賜姓族」と云う立場であった事から、この立場を止める事は氏の最大の命題として出来なかった。)
「縁者・遠縁の養子」は、「三世内の濃い血縁」と成りますので、出来る限りは他氏の血を入れる事が必要ですが、この場合は、逆に[家紋」が、「氏の系列」が変わる懸念を持つ事に成ります。
この様に、家保全の安全策として、「嗣子」に幼女のころから他家から「養女」として、先ず入れて、後に嫁(娘)にすると云う事も盛んに行われました。
そうする事で、[家紋・系列の懸念」を何とか外そうとしたのです。
但し、この関係は、”上位の家筋からの発想”に従います。
江戸初期からは、一般武士の家では、孫は孫ですし、養子養女は血縁性の無い考え方となりました。
この「仕来り」より外れた場合は、「曾孫]からは「子供の定義」の「仕来り」を外れますので、男女に関係なく「養子」としての扱いに成ります。
特に、女子の「養女」とする場合は、直系から外れた支流族や縁者族や遠縁族からの迎え入れには、明らかに「子供の定義」から外れますので「養女」と成ります。
この養女方法が積極的に行われたのです。
この場合、迎え入れた「養女」の「嫁」は、[嫁」としてでは無く、「実娘」に相当する「娘」として組み入れられます。
「養女」の「嫁」は、もとは「養女」なので、上記した「慣習仕来り掟」から「実子の子供」の扱いなのですから、この「娘の定義」から、上記の子供定義が成り立つのです。
「嫁」とする場合は、他人定義に成りますのでこの定義は成り立ちません。
嫁いだ娘の子供が男子の場合は、嫁ぎ先の氏との関係が関わってきます。
(「嫁ぎ先」にとっても「嗣子」に成るので難しい問題に成る。)
しかし、嫁ぎ先では、嫡子外では、問題ない事から、現在で云う「孫」までを「跡目」に入れる事が出来ます。
嫡子外の多くは、「部屋住み」と成り、上記の様な縁組が無ければ「僧侶」などに成る以外に無かったのてす。
しかし、嫁いだ娘の男子の子供を跡目に入れられる場合は、嫁ぎ先の跡目の問題も在って、実家先が家柄身分で上位にある事が必要です。
何故ならば、嫁ぎ先の下位の家筋は、上位の嫁の息子の子供が、上位の家筋の当主に成るのですから、結局は、下位の家筋が、上位の家筋の血筋の基に成る訳ですから、願っても叶っても無い事に成ります。
結果としては、嫁ぎ先の氏が、上位の氏の「発言権」が増す事に成ります。
場合に依っては、その家を牛耳る事にも成ります。
従って、積極的に、嗣子を嫁の実家先に送り込んだのです。
この「慣習仕来り掟」は「純潔」「家柄」「身分」を護る為に、つり合いが取れる様に一族一門の「同族血縁」の中での血縁関係が前提と成っています。
従って、「第4世族の遠縁」までの血縁に留める様にして、外の血を入れて「同族の弊害」を何とかします。 多くはこの範囲で高位の上級武士は血縁関係を結びました。
従って、「家紋」はこの定義の中で変化します。
上記の子供の範囲で血縁関係が行われれば、家紋は変化しませんが、この範囲からは外れた場合は一時的にその代だけは変紋を余儀なくされ、養子に男子が生まれた場合は、その子供の男子に元の家紋が引き継がれます。
再び、又、女子だの子供となった場合は、「女系」と成りますので、「男系の原則」から、系列は「養子先の系列」に入ります。従って、家紋も全く別の養子先のものと成ります。
全く、別の家筋から、要するに「養子」を迎えた場合はこの定義で処理されます。
「養子先の家紋」になり男子が生まれなければ、「養子先の家筋」に組み入れられて、「元の家紋」は引き継げません。血筋が切れて仕舞った事に成る訳です。
例えば、「武田氏系青木氏」と呼ばれるのは、この事から起こっている訳です。
甲斐の「賜姓族の青木氏」の分家の者が、上記の範囲の男子の跡目が切れて、地元の豪族の武田氏からやむなく、「青木氏外の血筋」の縁外から「他氏の養子」を迎えたのですから、この「養子」に男子が生まれなければ、この時、一時、「養子先の家紋」に成ってしまいます。
そして、続けて、養子を迎えたとなると、これで、家筋を基に戻せなかったので、「武田氏系の青木氏」が生まれた事に成ります。
藤原秀郷流青木氏には「116氏」に成っているのはこの事から起こったのです。
この事は、「氏家制度」の中での事での事で、「封建制度」は無関係です。
本家が一族の血縁関係を護る為に、監視し管理しているので、本家筋の云う事に従わなくては成りません。
この一族一門が作っている「慣習仕来り掟」の中でしか生きる事しか出来ません。
この中から外れる事をすれば一族から外されますから、経済的基盤が根底から無く成り、周囲の社会慣習から外されますので生きて行くことは出来ません。
この奈良期から続いた「氏家制度」は、上記の「慣習仕来り掟」の中で図られます。
お家の長嶋氏が、この「慣習仕来り掟」に従ったかは検証する必要があります。
家紋の変化から観て、この「慣習仕来り掟」は無かったと観られます。
資料からは、関東の長嶋氏、永嶋氏はこの「慣習仕来り掟」の中で家筋が維持されています。
(藤原秀郷一門の青木氏の場合、皇族賜姓族を補佐する為に、「特別賜姓族」と成った時点で、朝廷に対して、一門の総宗本家の第三子を青木氏の跡目に入れてこれを絶対的に継承する事を宣言しています。)
そこで、次ぎのご質問ですが、3のご質問を物語る事に成ります。
4.当家の家紋については兼光までは『対鶴に若松』で勘左衛門から、当家の家紋は『顔合わせ三つ結び雁金』のようです。肝付町永島家の家紋『中輪に三つ口合せ雁金』も少し気になると言っていましたが…。『顔合わせ三つ口合せ結び雁金』と言うのもあるのでしょうか?
このご質問のお答えは、”在ります”です。
この「家紋の変化」は、上記した事から「跡目」が「養子先の家紋」と成り、変化して行ったのです。
上記に記した様に、一族の「慣習仕来り掟」の範囲では、血縁関係は保てなかった事を意味します。
可成りの「他氏の血筋」が入っていて、「同族血縁の範囲」から間違いなく外れています。
そもそも、「家紋」には、主要紋として「家紋200選」と云うのが在ります。
この家紋が、この中には無いのですが、しかし、「顔合わせ三つ結び雁金」は、「雁紋53紋」の中にあります。
ところが「顔合わせ三つ口合せ結び雁金」はありません。
又、「対鶴に若松」も54紋の中にはあります。
しかし、この”むかいの鶴に若松紋”から、「結び雁金紋類」に変化した事は、上記した血縁の「血筋の変化」が起こった事に成ります。
従って、この事から、この段階で「正統の長嶋氏の血筋」が先ず無く成った事が云えます。
この「対鶴に若松紋」は、つまり、「舞鶴文様」は、53紋の中の主要紋ですが、「顔合わせ紋」は主要紋ではありません。
従って、九州の「大蔵氏族」に関係する地域の「土豪の家紋群」です。
「舞鶴紋」は大蔵氏に関係ありませんが、しかし、「顔合わせ三つ口合せ結び雁金」は「類似紋」の変紋です。
そして、恐らくは、縁者、妾子、本家が本家筋から、「家紋引継ぎ]を許されなくて、つまり、正統の「顔合わせ三つ結び雁金」を継ぐことが出来なくて、この「類似紋」を作り上げたと考えられます。
そもそも、”「口合わせ」”と云う文様は、「三つ雁金紋」の他の文様に、この図柄が使われていますから、これを「顔合わせ文様」に用いて「類似紋」を作り上げと思います。
そこで、「顔合わせ三つ口合わせ結び雁金」(口=嘴)は、調べたところによると、特定の限定地域に僅かに存在する事は判りました。
恐らくは、正統の「顔合わせ三つ結び雁金」との間に何かが在ったのでしょう。
よく、分家筋や縁者や遠縁の者がこの様な「類似紋」を使いました。
また、地域の一族の判別をする為に、「類似紋」を作りました。
しかし、江戸初期に「家紋200選」に対して、判別がつかない様な「類似紋」を厳しく禁止しています。
この事から、家紋群の中に無い事は、つまり、”雁の嘴を合わせる紋は違う紋だ”として、この禁止令を潜り抜けた可能性が有ります。
恐らくは、上記した何らかのお家の血筋関係の跡目の問題に何かあった事が考えられます。
「顔合わせ三つ結び雁金」が元紋ですが、そもそも、「雁紋」の元は土佐の「土佐ノ坊昌俊]が「源頼朝」から治承の乱の時に送られた家紋が始まりです。
多くの旗本や大名が使って53紋に成っていますが、元の「三つ雁金紋」は基紋は「花房氏」(陸奥から秀郷一門の縁者として足利に定住して豪族と成った花房氏で信濃足利氏の本家始祖と成ります。後に潰される。)が使った文様です。
「三つ雁金紋」は、「大蔵氏」を始めとして北九州に分布する家紋群です。
当然にお家は、「大蔵氏族永嶋氏系長嶋氏」ですので、「三つ雁金紋」の変紋の「顔合わせ三つ結び雁金」は少なくとも無関係で無い事に成ります。
「対鶴に若松紋」よりも、「三つ雁金紋」類の「変紋」の方が、九州薩摩の長嶋氏に関係する家紋類として納得できます。
ですから、本来であれば、”逆の変化”を起こす筈です。
つまり、「兼光」さんの処で何か起こっている筈です。
何故、逆なのかです。
ここに何かお家の家筋に大きく影響した事が起こった事を示しています。
「顔合わせ」は「類似文様」ですが、基本紋の「三つ雁金紋」「対鶴」「若松」では、次ぎの事に成ります。
基紋の「雁金文様」は「海野氏」 (瀬戸内 讃岐青木氏の副紋)
「三つ雁金文様」は「大蔵氏系」 (北九州 肥前青木氏の副紋)
「結び雁金文様」は「寺田氏系」 (関西以西 真田氏副紋))
「若松文様」は「松尾氏系」 (讃岐藤氏 江戸期の全国的分布)
「対鶴文様」は「日野氏系」 (中部以西 旗本代表家紋 江戸期初期)
以上と成ります。
この事から、上記の”逆の変紋事も含めて、次ぎの事が云えます。
先ず、「広範囲の地理性」を大きく持っている事が判ります。
且つ、「広範囲性の氏性」を持っている事が判ります。
家筋、血筋としては、名跡「長嶋氏」を外れて、「一般武士の範囲」にあります。
何故,この様な中部域の家紋群が九州南端の長嶋氏に家紋として用いられてる事が納得が行きません。
武士には、「国抜け」と云う「国策禁掟」が在ります。
何かの繋がり無くして、この様な家紋に成る事は先ずはありませんし、家紋が変化するのですから、氏家制度の中では「長嶋氏の宗家」が許さないと起こり得ません。
上記で論じた様に、何とか、必死に家紋を維持しようとする慣習であるのに、余りに変化が大き過ぎます。
それも逆です。(壺の化石の再生品の形成に不適合の何か矛盾の様なものがある。)
これらの文様が何らかの関係で合して出来た家紋ですが、依って、お家の長嶋氏の家筋の変化が極めて大きかったかを示しています。
凡そは”どの程度の家柄”であったかも判断が付きますが、これは何なのでしょうか。
(仮説として、仮姿に変えて「藩命」で外に出る以外にはこの様な事は起こらない筈です。)
明治期には、その特命の継続の範囲で、太吉さんは「西郷隆盛」か「大久保利通の配下」にあって、諜報活動をしていた事が考えられますね)
考えられる事として、これらが示す一つとして、”何らかの役目”或は、「特命」を持っていた事の証でしょう。
故に、一般武家とは異なった移動の行動の「静岡」ではないかと考えます。
以上です。
では、秘匿をご要望でしたが、又お便りください。
この事からも、上記のご質問のお答えの根拠に成ると思います。
以上の事柄の歴史観を参考にしてください。
今日は.お久しぶりですね。
お元気でしたか。
ルーツの調査を根気よく続けられている様ですね。
「ルーツ探索」は、本当に”根気”が必要で、その根気を続けるには、「雑学の歴史観」が大きく占めていると思います。
この「歴史観」が無ければ、なかなか前には進みませんし、本当の答えに突き当たりません。
ですから、嫌気がさして、止めて仕舞う人が殆どです。
しかし、この「歴史観」を会得すると逆に「歴史の紐解き」が出来て、更にヤル気が出て来るものです。
さて、この度の”お便り”には,この「歴史観」が是非必要と思います。
特に、武家のルーツには、是非知っておいた方が良い「歴史観」です。
特に、「秀郷流青木氏」には、是非知っておかねばならない知識です。
その「歴史観」とは、当にこの”巴紋”の事です。
では、控えていましたが、その説明の意味合いが出てきましたので、ここで敢えて「巴紋」についてより詳しくご説明する事にします。
恐らくは、この情報で、今回のお便りの紐解きに成ると思いますし、又、お父上の疑問も解けるものと思います。
では、その「”巴紋”の歴史観」をご伝授します。
そもそも、「巴紋」は、紋としては「文様紋の部類」に入ります。
「文様類」は、他の「植物紋」などと異なり、「生活の習慣」を一つの自然現象の中の現象を表現して、それを図案化したものなのです。
それだけに、”大きな意味”を持っています。
この「文様類」の中味を知る事は、”先祖の生活習慣”を如実に知る術と成ります。
ですから、この「文様紋」には、次ぎの様な経緯を持っています。
特に、この”巴紋”は「武家」の「文様」としては代表的なものです。
「武家の歴史」を物語るものとして代表的な物なのです。
本来、この由来は武具の鞆(とも。弓を射る時に左手首につける革製の道具)から来ています。
つまり、鞆の形に似ている事から、先ずは、”鞆絵”(鞆の役割を擬人化して絵化したもの 平安期に多く武家の間で好まれ描かれた。)として用いられました。
これが、丁度、”水の渦巻”に似ているところから、”巴の字”がこの渦巻に似ているので、この字が当てられました。
何れも”トモ”、つまり、「水」の持つ意味や、「鞆」(鞆具の役割)の持つ意味や、「巴」(人の基)の持つ意味から来ています。
そこで、水は、”防火”の最たるものですから、平安末期に、”防火のお祓い”として用いられ始めたのです。
その為に、当初は身分の高い「武家の家」の”鬼瓦”に用いられたのです。
その後、”武家の車与”や”衣服の文様として用いられたのです。
これら全ては、当初は”「お祓い」”が目的でした。
そして、この「文様」をこの様に使っている事は、当初はその「武家の家柄」を示すものでした。
そこで、源平時代には「源氏方」が良く用いました。
ところが、院政時代に入ると、西園寺実季の氏が、これを最初は”車の文様”に用いました。
この為に、この「巴文様」が、上級武士の武具の文様などから、今度は、使用した西園寺氏の身分から肖って”家柄を権威づけられる文様”に代りました。
つまり、次ぎの様に変化したのです。
お祓い祈願紋ー家柄誇張紋ー権威の象徴紋―家柄の象徴紋ー結城一族の家柄誇張紋ー八幡宮の神紋
そこで、西園寺氏は、貴族でありながら武家としても立ち振るいましたので、その後、これを西園寺家が、「副紋」の”「家紋」”として正式に用いたのです。
それまでは、藤原氏や皇族賜姓族系の源氏等の貴族系の「高級武士の象徴紋」でした。
その為に、貴族と成った東国武士の藤原秀郷一族一門は、「総紋の藤紋」とは別に、”家柄を誇張する副紋”として、この「巴紋」を盛んに用いたのです。
「家紋」では無く、これを用いている者は、361氏の中の最高の「権威家」である事の誇示する象徴紋で在ったのです。
中でも、”「結城一族」を祖とする「関東屋形」”の「絶大な勢力」を持った「分家一門」が、敢えて、本家筋に匹敵する程の家柄を誇張する為にこの「副紋」を専用的に用いたのです。
そもそも、この「副紋」は、24地域に分布する「藤原秀郷一族一門」は夫々持っていますが、地域に依って異なっています。
中でも、「巴紋」を「副紋」とする者は、一族の中で、秀郷一門の中でも由緒ある「結城族」である事を指し示したのです。
この「巴紋」は、依って「関東屋形の東国一族」を指し示している「副紋」と成ります。
これを「副紋」としている「高級武家」は、一目で関東の秀郷一門の「結城一族」である事を示す事に成ります。
由緒のある中臣氏ー藤原氏より古い奈良期からの歴史の長いトップ級の家柄を指し示す文様と成るのです。
それも”名誉ある「結城官僚族」(ゼネコン)”を示しているのです。
そこで、源氏の頼朝方に味方した藤原秀郷一門は、鎌倉期には、”藤原秀郷流宗家”を引き継いだ「朝光」が、「頼朝」の許可を得て「結城氏の本領」を安堵してもらい、始祖とする「結城氏」を再興します。(平家に奪われていた。)
この後に、この再興した「結城氏」から「関東屋形の氏」が発祥したのです。
つまり、「結城氏」は「藤原秀郷一門の祖氏である由緒ある血筋の家柄」を意味します。
「関東屋形」は分家筋一門ではあるが、祖は宗家に匹敵する家柄として認められていた事を物語る”副紋の象徴紋”であるのです。
中でも、その典型的な戒律を護ったのは「有馬氏」で、「下がり藤紋」を「総紋」とし、「副紋」を「左三つ巴有馬紋」として用いたのです。
そして、更にこの「巴紋の文様」は、「清和源氏」の分家の「頼宣」を始祖とする「河内源氏」が、この文様を、特に武具などの象徴紋に用いた事から、後に、一般の武士には、八幡太郎義家の「清和源氏」を祭祀する全国の「八幡宮の神紋」として用いられていたのです。
武士は、肖って、この源氏の守護神の八幡宮の「神紋の神助」を受けようとして、江戸期初期には一般にも用いられる様に成ったのです。
従って、この「巴紋」は、むしろ、「家紋」の扱いでは無く、秀郷一門以外には、「神助紋」として、秀吉が初めて用いた「五七の桐紋」と同じく、”江戸期の高級武士の副紋扱い”で在ったのです。
ところが、江戸中期以降には、最早、”誰でもが平気で用いる「神助紋」”として、使われる様になりました。
明治期には、農民も苗字を持ち、墓も持ちする様に成って、遂には、「墓の文様」にまでもこの「神助紋」を、「桐紋」と同じ様に、最早、「副紋」の域では無く、その域を超えて、”「家紋」”として平気で用いる様に成ったのです。
(墓は高級武士のみが祭祀する仏教手段でしたが、家紋の刻印は原則的に宗教の戒律で慣習は無かった。江戸期に入って、家康に依って浄土宗が密教を解いて顕教にした事から、この戒律は解けて行った為に、墓所を持ち得る武士階級によって江戸中期頃から用いだしたのです。
そこで、この「巴紋」には、更に知っておかなければらない事が在るのです。
それは、この巴紋91文様の内で、有名で主要な「三つ巴紋」は、「14文様」があって、基本は「左文様」です。
「左」が「主の上格」とされるには、地球の回転に依る磁力の影響で、この地球上のものは全てこの磁力に引かれて、左回転をします。この為に、左が主格としたのです。
この14文様の内で、8文様が「左巴紋」です。
この中で、「左三つ巴紋」は陰紋を除くと、主紋は3つです。
この内、問題としているのは、左は2つです。右は1つです。
この右文様が一つとする理由は、左に対して何かあった場合の副的なものとして使われる事から、一つと成っているのです。
つまり、8文様に何かあった場合は、この一つの右文様が使われる事に成るので、副としての意味から、一つに成っているのです。
さて、ここでこの文様について「歴史観」が必要と成ります。
先ず、上記した様に磁力の影響で「左」が「主格」に成るのですが、”左と右の意味の違い”を知っておくことが必要です。
「左」が主紋です。これを中心に考えます。
つまり、逆に云えば「右」には、”武家のある慣習的な意味”を持っている事なのです。
この事を知っておかないととんだ「判断間違い」を起こすのです。
そもそも、上記した様に、この文様の「三つ巴紋」は上級武家では「副紋扱い」で、作用としては「左」ですが、「右」は「左」に対して、”何らかの謂れ”が在った時に使うものとしての「副的な慣習」でした。
先ず一つは、例えば、「副紋」かこれを「家紋」(本来家紋文様では無い)とする場合には、妾子や嗣子が分家する際に、宗家や本家が「左」の主副紋を許さなかったとか、罪を犯したとか、養子続きの別れであったとか、濃い縁者関係であったとか、良し悪しは別として、”何かの意味や謂れ”を持った時に使用するものでした。あくまでも「副的扱い」でありました。
氏家制度の中で、「副紋」なのに「家紋」としたり、宗家筋、本家筋、主家筋との何らかの違いを示す時に用いられる様になりました。
従って、そもそも、これを”「家紋」”としている事に虚偽があるのです。
(以前のお答えにも、お家の主紋は巴紋ではありませんとするのはこの「歴史観」から来ています。「虚偽の氏」、つまり、家柄を搾取偏纂の虚偽した[明治期の氏」を物語る事に成る。)
次に、本来は江戸初期まで、「左」が主で、「右」は”「副とする武家の慣習」”でした。
例えば、平安時代には、左大臣は右大臣より下の階級扱いでしたし、主は左にするものでした。
ところが、江戸中期以降に、儒教やキリスト教等の外の習慣が多く入り、「右」が主で、「左」が副とする慣習が、下級武士や庶民の中で急激に拡がりました。
「右」が「人間の利き手」であるとする合理的なことから、上級武士や貴族などは「左習慣」を頑なに護りましたが、急激に広まったのです。
この日本の殆どの慣習は、平成の現在も「右」で続いています。
「仏前の仕来り」や来客時等では、主を「左」にする事は、「武家の家筋」であったところでは、未だ続けられている様です。
さて、お便りに依りますと、「讃岐武田氏系青木氏」の墓所には、”「右三つ巴の家紋」が入っていた”とのお便りですが、何らかの”上記の影響”を強く受けた事から来ていると観られます。
「讃岐武田氏系青木氏」では、その逃亡経緯から、「武田花菱紋」が「主紋」で、「家紋」と成り、「左三つ巴紋」は源氏系として「八幡宮の神紋神助」で「副紋」と成る筈です。
既に、”「副紋」では無く、「主紋」「の家紋扱い」と成っている”と云う事や、「右巴紋」と成っていることは、このお家のなかには、間違いなく、「讃岐武田氏系青木氏の家筋」に”何かの変化”が興った事を意味しています。
1765年とすると、この「時代性の影響」を間違いなく受けたと考えられますが、「家紋扱い」として4基もあるところや、「左」には「武田花菱紋」もあるところから、この「讃岐武田氏系青木氏」のお家の家筋には、上記の”何かの変化”があった事が、無視できないところですね。
一応は「左慣習」を護っていますが、主格の「左三つ巴紋」では無く、わざわざ源氏であるのに、「左」を使えない訳でもないのに、「右三つ巴紋」である事から何らかの「八幡宮の神紋神助」以外に何かあると思います。
この”「何かの変化」は何なのか”と云う事ですが、筆者は、”宗教”ではないかとの疑問を持ちます。
それは、「戒名」と「青木・・・ 源・・」と正規の通名を名乗りながら、片方では院殿の無い戒名とするのには何か無理が在ります。
本来、筆者が把握するお家では「讃岐の武田氏系青木氏」は「浄土宗」です。
その慣習は護られています。
しかし、「浄土真宗」です。「浄土真宗」は元来、正規の通名は使いません。「宗派の戒律」です。
更に、浄土宗は「釈」も使わないところから、この4基の一族は他宗派に改宗した可能性が有ります。
「青木氏」は、改宗は厳しい戒律で縛られ、改宗した時は一族から破門ですので、墓所や墓に関する事などの一切の慣習仕来りは使えません。
恐らくは、其処までに行かない事の何かがあった事を意味します。
墓所は完全に別にしての祭祀を強いられていた筈ですし、江戸中期以降にはその掟は緩くは成ったとは云え、墓の祭祀そのものも以後に続けられたかが疑問です。
1765年以前には家紋が刻まれて無い事も、「甲斐の皇族賜姓族」の「武田氏系青木氏」の「賜姓族の青木氏」としては、「象徴紋」であった事から墓所には刻む習慣がそもそも無かったのです。
1765年以降には刻んだのは、この江戸中期以降の左右の時代変化による事から来ていると観られます。
「武田氏系青木氏」には、別の「青木氏の浄土密教」の独自の”「仏舎の習慣」”が用いられていました。
父上が指摘する疑問点はここにあると思います。
つまり、「讃岐秀郷流青木氏」−「秀郷流脩行系青木氏」−「讃岐武田氏系青木氏」には、左右は兎も角も、この同じ「巴紋」が使われているところから、「讃岐武田氏系青木氏」の「三つ巴紋の使用」には、お家等の「本流の副紋扱い」とは別に、源氏方には「八幡宮神紋の神助」との違いがあるのです。
以上の様に、「歴史観」を駆使してみてみると、”そのルーツの成り行き如何”が、はっきりと判別できるのです。
他にもありますが、一般に判り易い例として、「桐紋」や「巴紋」の様な文様には、家紋が同じだからと云って、”一族にある”とは上記の理由にて限らないのです。
依って、以前の筆者のお答えの前提には、この「歴史観の要素の租借」が前提と成ってお答えしています。
この事も「ルーツ探究」には、雑学の「必要な歴史観」なのです。
更に、ルーツの為に色々お調べに成って、無関係であるように観えても、「歴史観」を蓄える事が出来れば、次第に読み取る力も付いてきます。
そうすると、「推測観」が拡大して、より正しい先祖の生き様のルーツに辿り付ける事に成り易く成ります。
お便りの要望により、お便りの内容は秘匿しました。
では、又お便りください。
。
福管理人様 はじめまして。
この度は、ご丁寧なご返答を頂き、本当にありがとうございました。
何か、もやもやしていたものが、ちょっとすっきりした感じです。
家紋や宗派・土地柄等で、こんなに先祖の事がわかる事はすごいと思いました。
今後もこの青木ルーツ掲示板や研究室を興味を持って拝見していきたいと思います。
また、質問等ありましたら、よろしくお願いします。
とりあえず、お礼まで。
本当に、ありがとうございました。
現在、兵庫にお住いの米子八頭の青木さん 今日は。
始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
サイトには、歴史を研究して「青木氏に関わる事」が沢山論文にして投稿しています。
ヤフーのHPでは歴史カテゴリーでは段突の情報量です。
研究室やルーツ掲示板やその他の左メニューにはお家のご先祖の事も論文として記載していますのでお読みください。
膨大な論文ですので、お家の関係する処からお読みに成り、サイト内の検索モードで引き出し、そこから「青木氏」全体の事も合わせてお読みに成ってください。
お家のご先祖の経緯が良く判ると思います。
その際には、ご質問等が在りましたら、ご遠慮なく,このReでお尋ねください。
お家の事が深く判る様に成りますょ
さて、では、その為に、その結論からお答えします。
それで、サイトの論文のキーにしてください。
お家は、提供して頂いた情報から推察すると「皇族賜姓族の足利氏系青木氏」です。
この「足利氏系青木氏」は「信濃の皇族賜姓青木氏」と、「信濃の豪族」の「信濃足利氏」とが血縁して発祥した青木氏です。
信濃の守護王のこの「皇族賜姓青木氏」の一族の者が、男系跡目が出来ずに土地の豪族の足利氏から養子を迎ました。
しかし、又、この足利氏から来た養子にも嫡子に恵まれず、二代続きで跡目ができませんでした。
(女系に成った。)
この時、「家紋掟」に依って、「養子先の系列」に組み込まれた「皇族賜姓族信濃青木氏]です。
そもそも、「皇族賜姓族青木氏」とは、「天智天皇の第六位皇子」が臣下して賜姓を受けて「青木氏」を名乗った「五家五流皇族賜姓青木氏」の一つです。
この「皇族賜姓族青木氏」には、その後には、五代の天皇の「第六位皇子」と、それに準ずる皇位継承を外れた「第四世族皇子」とを、この「青木氏」の跡目に天皇は配置しました。
夫々を伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の「守護王」として配置され、その職務を”天皇を護衛する近衛軍”の職務を与えられました。
この「皇族賜姓族青木氏」の官位官職には、「最高の階級」を授与されて「光仁天皇」まで続きました。
その後は、平安初期の「嵯峨天皇」が、この「賜姓方式」を変更して、「天皇の詔勅」を発して、「青木氏」の賜姓方式から「源氏」に変更しました。
この時、「青木氏」の呼称は、改めて ”全ての皇族より下族する際に名乗る氏名”として、「青木氏の氏名」とその「慣習の一切の模擬の禁令」を発したのです。
この禁令は明治3年まで護られました。
詳しい事は、「皇族賜姓族青木氏」で検索して把握してください。
さて、そこで、何で、”「鳥取の八頭」か”の問題ですか、それは次ぎの経緯がありました。
この「皇族賜姓族信濃青木氏」の信濃の「足利氏系青木氏」の養子先の「信濃豪族足利氏」が、藤原氏北家の藤原秀郷の宗家一門に依って、この「本家の足利氏」が廃嫡されます。
そして、「秀郷一門の跡目」が入った「分家の信濃足利氏」を「本家]にして、信濃を秀郷一門の勢力圏に入れようとして、「信濃足利氏の同族争い」が興りました。
戦いの結果、この信濃の「本家の足利氏」が敗退して、この「本家の足利氏」は、日本海沿岸を経て、逃亡し、最終は鳥取の米子と八頭に辿り着きました。
そして、ここに山野を切り開き定住します。
この時、「信濃皇族賜姓族の足利氏系青木氏」は、この親族と成った信濃の「本家の足利氏」を護って逃亡に同行しました。
この本家との血縁で親族と成った「皇族賜姓族信濃足利氏系青木氏」が、この信濃の「本家足利氏」を護って、米子まで同行したのです。
この護衛し同行した「皇族賜姓族信濃足利氏系青木氏」が、其のままこの地に住み着いたのです。
これが、平安初期に米子と八頭に定住した「皇族賜姓族の信濃足利氏系青木氏」です。
つまり、これが「米子の青木氏」と成り、それがお家のご先祖と成ります。
この子孫は宍道湖の東際まで子孫を拡げています。
処で、「皇族賜姓族青木氏」とは別に、平安中期には、もう一つの流れの「青木氏」が、関東武蔵の国を中心に発祥します。
これが上記の「藤原秀郷流一門の青木氏」なのです。
この「藤原秀郷流青木氏」は、この「皇族賜姓族青木氏」の「五家五流皇族賜姓青木氏」とは、母方で血縁関係を持っています。
これを縁に「皇族賜姓族青木氏」を補佐する為に、特別に「皇族賜姓族青木氏」と同じ身分家柄官位官職を同じにして天皇より与えられます。
つまり、例外として、「円融天皇」の時に、特別に皇族外より「特別賜姓族青木氏」を発祥させました。
その関係もあって、勢力拡大を図った為に「信濃の足利氏の同族争い」が起こったのです。
この「特別賜姓青木氏」はこの結果、全国24地域に分布しています。
これは「秀郷の宗家一門」が、「朝廷の命」に従って赴任した地域に、「護衛団」として同行して、現地に定住した子孫と成ります。
この子孫拡大で、この「特別賜姓族の青木氏」は116氏にも広がります。
詳しくは、論文をお読みください。
この経緯の持った「皇族賜姓族信濃足利氏系青木氏」なのです。
これがお家のご先祖と成り、通常は「米子青木氏」と呼ばれる様に成ったのです。
次に、その後の経緯としては、お家のご先祖は、つまり、米子と八頭に定住した「皇族賜姓信濃足利氏系青木氏」には、「青木氏の皇族氏」としての伝統の純血を護る為に、島根まで、勢力を拡大して来た上記の「讃岐の秀郷流青木氏」との同族血縁をします。
この「秀郷流青木氏」の116氏には、「讃岐秀郷流青木氏」が在ります。
瀬戸内を勢力圏に入れ、且つ四国の讃岐から伊予と土佐の南域に掛けて勢力圏を持っていました。
この「讃岐秀郷流青木氏」は、瀬戸内で得た「莫大な財力」を使って、今度は山口を除く中国地方まで勢力を伸ばし、「出雲大社の亀甲族」と連携します。
そして、「宍道湖の西域」まで勢力を伸ばしたのです。
この「讃岐秀郷流青木氏」は、瀬戸内と四国を席巻する「超豪族」である事のみならず、「二足の草鞋策」で「商い」を営む超豪商でもあったのです。
この事から出雲国の宍道湖まで子孫を送り出します。
この「讃岐秀郷流青木氏」の勢力は昭和20年まで続きます。
さて、この「讃岐秀郷流特別賜姓族の青木氏」の「出雲に定住した末裔」と、お家の「皇族賜姓族」の「信濃の足利氏系青木氏」とには、奈良期から永遠として平安期まで続く「皇族賜姓族の掟」として、”純血”を護る為に、「同族血縁の掟」が在ったのです。
そこで、お家と同族と成った「讃岐秀郷流特別賜姓族青木氏」との「同族血縁」が興ります。
そして「三階松紋の皇族賜姓青木氏」がこの米子ー八頭で発祥したのです。
実は、この「松文様」、とり分け、「三階松紋の左松紋」は、「讃岐藤氏」の末裔が用いていた家紋類なのです。
その中でも、この「松紋の讃岐藤氏」は四国南域に分布しいます。
この「松紋の讃岐藤氏」は、「讃岐秀郷流青木氏」とは親族関係にありました。
その関係から「松紋の讃岐秀郷流青木氏」が、この親族の「宗家筋の讃岐藤氏」と同族血縁をして四国南域で発祥したのです。
この「松紋の讃岐秀郷流青木氏」の一部が、「讃岐秀郷流青木氏」の本家の命に従って、中国地方の松江地域に赴任して、その子孫が宍道湖付近西域に定住します。
この宍道湖西域に定住した「讃岐秀郷流青木氏」との同族血縁をして、お家の「左三階松紋の皇族賜姓族足利氏系青木氏」が新たに発祥したのです。
何故、「左三階松紋の皇族賜姓信濃足利氏系青木氏」が発祥したのかと云う問題ですが、この「信濃足利氏系青木氏」に男系に恵まれず、娘に養子を採ります。
しかし、この養子が宍道湖西域に定住していた「讃岐秀郷流青木氏」の「左三階松紋」の一族から同族血縁で迎えたのです。
ところが、この養子にも男系の嫡子に恵まれず、”二代続きで男系嫡子”に恵まれなかった事から、女系の「信濃足利氏系青木氏」が興ったのです。
そこで、「家紋掟」に依って、”男系を跡目とする「仕来り」”から、松紋の養子先の一門に組み込まれ、家紋もこの「左三階松紋」に成ってしまったのです。
本来は、「皇族賜姓青木氏の五家五流の青木氏」には、「皇族賜姓族」である事から、家紋では無く「象徴紋」として定められていて、家紋では無く、従って、変紋しない掟に成っています。
しかし、江戸期以降はこの掟が緩み、「五家五流青木氏外」の地方に流れた「皇族賜姓青木氏」には、”変紋”も余儀なくされ、家紋扱いと成って、お家の様な家紋が生まれる事に成ったのです。
本来は、「皇族賜姓族青木氏」は、「象徴紋」で、「天智天皇」から賜姓時に与えられたステイタスの「笹竜胆紋」です。
「皇族賜姓族の青木氏」には、”同族血縁を繰り返えす掟”であった為に、この「武家の家紋掟」には関わらない事が原則であったのです。
「五家五流の皇族賜姓族」には、伊勢を除く、近江、美濃、信濃、甲斐には土地の豪族との血縁で、近江の「佐々木氏系青木氏」、美濃の「土岐氏系青木氏」、信濃の「足利氏系青木氏」、甲斐の「武田氏系青木氏」が発祥しています。
(伊勢には、「藤原秀郷流伊勢青木氏」が定住していて、”伊勢”としての土地柄から、他氏との血縁は禁じられていたので、この同族血縁の青木氏同士の「融合の青木氏」が発祥しました、現在も伊勢の四日市に定住しています。)
これらの「青木氏」で、男系嫡子が出来なかった場合には、「家紋掟」に依って、変紋しました。
松紋の中でも「三階松紋」には10の文様があって、その文様に依って、その氏が判別できます。
その中の「左松紋」は「讃岐藤氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の分家筋が継承しています。
次に、宗派に関する事では、真言宗と成っていますが、全ての青木氏は本来は絶対に「宗派換え」はしません。
「五家五流皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓族秀郷流青木氏」には、「賜姓族」である為に「浄土宗密教」です。
特別に、「秀郷流青木氏」には、24の赴任先の事情から、「浄土真宗」に一時的に「宗派換え」をする事が許されていました。
「真言宗」は「浄土宗密教」とは宗教論争から敵対関係にあった為に、「青木氏」にはあり得ないのです。
根本的に、概念が異なっていた為に、宗派が真言宗では起こり得ません。
恐らくは、四国の南域の「讃岐秀郷流青木氏」の「松紋の青木氏」が、四国お大師さんのお遍路の環境から江戸期に真言宗に変紋したのではないかと思われます。
この結果の影響を受けて、上記した様に、養子先の家紋と当時に宗派も変わったものと考えられます。
恐らくは、、「鳥取県八頭郡隼村大字志子部村」の付近にお住いの青木さんはお家の親族関係であると考えられます。
当時は、「棲み分け」と云いまして、「青木氏」にはこの掟に縛られていました。
特に、家紋と宗派が変わる事が起こっているお家の場合は、特別に「棲み分け」が強いられました。
依って、この周囲の青木氏には、お家と血縁関係のある青木さんと成ります。
「米子」にはお家の「宗家筋」が、「八頭」の周囲にも「本家筋」の「青木さん」が、「慣習仕来り掟」を護って今でも定住している事は判っていますよ。
お家の提供された情報から、検証しますと、「米子ー八頭」に定住した「信濃の足利氏系青木氏」と成ります。
提供された曾祖父は明治初期前後の方と思われますが、それ以前もこの地域に住んでおられたとすると、「足利氏系青木氏」である事に成ります。
江戸期の昔は、「国抜け」と云いまして、定住地を変える事は勝手には出来ませんので、周囲の青木さんは、お家の何らかの形で「親族の方」と考えられます。
6代前は明治期の頃に成りますので、社会が自由社会と成りました。
「江戸期前の氏家制度」での社会でなかつたと考えられますので参考にはなりません。
しかし、墓所には1855年と記されていることから、上記した様に江戸末期を示していますので、氏家制度の中での検証が可能と成ります。
”青木太郎左衛門実俊と何か関係”に付いては、江戸期の慣習から観て、ご先祖の方と見受けられます。
”宣化天皇(第28代天皇)”に付いては、判りません。
しかし、そもそも、「先史時代」、「古墳時代」、「飛鳥時代」と在りますが、この天皇は「古墳時代の天皇」であり、歴史的な事に付いてはそれを証明するものはありません。
殆ど、この時代の事は、資料的には「神代の時代」の事として扱われます。
これを先祖とする事に付いては、他の歴史的な事は日本書紀に頼る以外には無いのに、この天皇を先祖として扱う事には問題があります。
せいぜい、歴史的には「欽明天皇」の事がせいいっぱいの事と成っています。
歴史的には、議論される範囲は、「飛鳥時代」の事で、明確に判るのは「日本書紀」で証明できる「孝徳天皇」か「天智天皇」の事からに成ります。
恐らくは、お家の父上は、上記しました様に、「皇位継承制度」を変更した「天智天皇の賜姓」の事を書いたのだと思います。
「第四世族の第六位皇子」には臣下させ、賜姓して、「天皇の警護」の役を定め、「侍の発祥源」としての「象徴氏」とし、施政を手伝う「国策氏」として「天皇の施政」を助ける事を義務付けました。
所謂、「三つの発祥源」「賜姓五役」を「賜姓青木氏」に義務付けたのです。
サイトには、「青木氏」に関わる「日本書紀」の記述に付いて掲示していますので、これもお読みください。
この「賜姓青木氏」に付いては、これは幾つかの「日本の歴史書」や「韓国の歴史書」で証明できています。
「天智天皇の第四世族の第六位皇子の賜姓」とその後の天皇の「第四世族皇子の跡目継承」を「青木氏」に入れた事にも依ります。
平安期初期の「嵯峨天皇」の「弘仁の詔勅」にも観られる様に、「賜姓青木氏」から変名した「賜姓源氏」もこの「青木氏」に跡目を入れて同族血縁をして維持しています。
特に、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」には跡目継承として「賜姓源氏」が入っています。
お家の父上は、この事を「神代の時代の宣化天皇」としたと観られます。
正規な発祥源は、「天智天皇」「天武天皇」「文武天皇」「聖武天皇」「光仁天皇」の五人の天皇からの「真人族と朝臣族の皇子族」から成り立っています。
「嵯峨天皇期」よりの累代の「11代天皇の皇子族」の「賜姓源氏」も「青木氏」に跡目を入れています。
以上ですが、提供して頂いた幾つかの少ない情報から、確定は出来ませんが、ほぼ間違いなく「米子青木氏」の「皇族賜姓族の足利氏系青木氏」の「分流族」である事が判ります。
詳しくはサイトの論文をお読みください。
ルーツ掲示板にも昔のお家の親族の方からのお便りもありますので検索でお調べください。
では、ご質問あれば、投稿の専用欄のReでお尋ねください。
初めまして、兵庫の青木です。
自分のルーツを調べたく、何か情報があればお教え下さい。
よろしくお願いします。
1 私の家の家紋は、「丸に左三階松」です。
2 私の曽祖父以前の先祖は、鳥取で、戸籍を調べた結果、
私の曽祖父以前は、「鳥取県八頭郡隼村大字志子部村六番屋敷」に住んでいた事までは、判明いたしました。
父が家系図を作っていたのですが、私より六代前までは、名前・戒名が記載されていました。(それ以前の不明の指名・戒名もあり。)
また、実際に上記志子部村に行き、志子部村の青木さん(2件青木さんあり)とお話しをさせて頂いたところ、わたしの曽祖父の名前を知っておられ、気さくにお話を聞かせて頂きました。
昔は、この志子部村に5,6件青木という家があったとの事でした。また、驚いた事に、その志子部村の青木さんに見せて頂いた家系図が父の作った家系図とほぼ一緒でした。その志子部村の青木さんの家紋も、丸に左三階松で一緒でした。また、志子部村の青木さんに案内して頂き、当家の屋敷跡と思われる場所に行き、父の家系図に書いてあった、私より五代前・六代前までの戒名が入った墓石も確認できました。
3 宗派は、私の曽祖父の時に黒住教に改宗した様ですが、それ以前は、「真言宗」である事を墓石の梵字の「ア」で確認しました。菩提寺は、「新興寺」と聞いていますが、父の家系図の中に「最勝寺墓地にある実栄位の墓、大剛来状 1855年安政2年」と書かれているのですが、不明です。ただ、叔父から聞く事によると、新興寺内の案内板に書かれてある青木太郎左衛門実俊と何か関係があるのでは?との事でした。そのあたりは、よくわかりません。
4 その他、因みに父の作った家系図の一番上には、宣化天皇(第28代天皇)とありますが、何を根拠に書いたのか不明です。
手がかりになりそうな事は、以上ですが、何か情報があれば、お教えください。よろしく、お願いします。
さて、早速のお便りありがとうございます。
前回の「土佐の武田氏系青木氏」の情報は、「青木氏の分布と子孫力」の論文等で、既にこの事に付いて論じています。
この情報は青木氏の方でも把握しています。
更に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と[土佐の武田氏系青木氏」との繋がりに付いても、家紋調査での「松紋」の存在が確認出来ていて、血縁があった事が確認できています。
「青木氏の分布と子孫力」の論文の「四国の処」の土佐域の検証のところをお読みください。
詳細は披露する事が出来ませんが、お家のご推測の通りであります。
確認して頂きました事に成りましたが、良くここまで辿り着けました事に実は驚きました。
筆者の情報源は、研究した段階では、”推測した内容”をある四国にある[鉄道マニア」の「歴史マニアグループ」に提供し,それをグループの方に確認して頂く方法での情報で、把握していました。
この様な事でのお家のお便りのお答えに成っています。
何よりも、「讃岐秀郷流脩行系佐野氏族青木氏」の讃岐での存在が確認出来た事は、「青木氏」に取って大きな収穫です。
残留組と伊勢組と駿河組の存在は確認できていますので、残る派一つの讃岐組が判りました。これで「4つの組の存在」がはっきりしました。
はっきり云って、始めはここまで南域に定住していたとは、思いませんでした。
推測では、末裔が生き残り存在するとして、せいぜい、愛媛域の今治か伊予付近と予測していました。
「讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」の勢力図と「お家の立場」(脩行系青木氏)から観て、四万十川流域の北側とは予想もしなかった事です。
「お家の位置関係」を聞いてからは、「讃岐秀郷流青木氏」の中での「宗家ー本家間の勢力争い」があった事は承知していましたが、これほどまでに厳しい内容であったとは考えられませんでした。
確かに、四国は江戸初期1600年前半まで「小競り合い」を含む争いがあった事は判るのですが、「讃岐秀郷流青木氏」の「勢力圏の南域」にまでとは、推理が及びませんでした。
しかし、考えて観れば、山内氏の「讃岐秀郷流青木氏を含む郷士」との争いから考えて観れば、あり得る事だと思いました。
本拠地青木村を東に持ち西に延びた「土佐の武田氏系青木氏の勢力圏」からもあり得る事だと納得いたしました。(西域に伸長し過ぎた帰来はあるが)
この推測不足の一つは、「讃岐秀郷流青木氏」は、「二足の草鞋策」で、瀬戸内全域を基に広島域から島根域の宍道湖まで、「出雲社の亀甲集団」と連携して北に、その財力と武力の勢力を使って、伸ばした事の意識があり、一方の「四国の郷士団勢力」の南西域に伸長する事が得策には成らない地域に押し出していた事が「筆者の発想不足」と成っていました。
しかし、「六稲三略」からの戦略上からは、”大いにあり得る事だ”とお便りを最初に頂いた時に考えました。
「大きく成り得た氏」としての宿命の「勢力争い」から来る処置と判断をし直したものでした。
場合に依っては、「讃岐秀郷流青木氏」は、「陸奥の国の弘前」までその勢力を拡げ、子孫末裔を配置していますので、当初、お家の立場上、弘前の方か、宍道湖に配置された一族に振り向けられた可能性が有る事も推測していました。
その後、調査依頼で得た「連携する歴史マニア」からの情報で、この処置は無い事が判っていました。
問題は、お家の家紋が州浜紋類であるのですが、ステイタスが消失している事から、正しい家紋が判りませんでしたし、思わぬ地域であった事から、実は、充分な「追跡調査」は出来なかったのです。
「郷士」と云う括りで、「土佐の武田氏系青木氏」からの「勢力伸長の方向」から四万十川沿いに、特に、この「三間の山間部域付近」に「郷士団の分布」が有るかの確認をしました。
それは、紀州の龍神村付近にも、前回のお便りにも書きましたが、”山間部には郷士団”が多いのです。
(お家は「土佐郷士」か「讃岐郷士」か「三間郷士」であった筈であるが、江戸期で消えている。)
つまりは、前回のお便りの「シンジケート」も、この様な「郷士団」に依って構成されているのです。
特に、四国、特に山内氏に観られる様に、「幕末の土佐」では、「坂本竜馬」や「武市半平太」にも観られる様に「郷士団の結束」は特に強かったし、各地に分布していたのです。
(郷氏家の当主は皆殺しにあっている。「長曾我部の再興運動」にも利用されて衰退した。)
「小さい郷士団」が多く集まり、更に「大きい郷士団」を構成していたのです。
当然に、そうなれば、讃岐の幾つかの青木氏には、大小はあるにしても讃岐秀郷流一門にしては、讃岐伊予の国の「郷士団」はあった筈です。
(「讃岐秀郷流青木氏」は枝葉を拡げていた一族一門の末端までこの「郷士と郷氏団」で固めていたのです。「土地持ち郷士」が多かった。)
況して、平安期には、紀州と四国は「平家落人の里」として、判っていますので、彼らは「平家郷士団」を山間部で作っていたのです。
紀州の紀伊山脈の山奥の「戸津川村郷士団」の様に、四万十川沿いにも四国遍路でも説明している様に山間部には「平家郷士団」がある筈です。
この事から、確認いたしました。
お家の父上は「通名」からのご推測でしたが、敬服いたしました。
確かに緩い血縁関係を持っていた事が判っています。
そして、広域の山間部域の三間地区には「郷士団の村」が有った事が確認できたのです。
三間の「脩行系秀郷流青木氏」と「土佐の武田氏系青木氏」と、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は兎も角も、この二氏の「郷士」には、更に、前回の「五」の「硬軟の戦略」を採る上でも当面、地域を固める上でも、この「平家の郷士団」との血縁も少なからずあったと観ています。
(「平家郷士団」は多くの姓に成っている。天台宗系の顕教には「郷士又は郷氏の武士」の慣習は原則は無い。青木氏の血縁は同族血縁か、娘の女系で行う習慣にある。)
後は、何はともあれ、お家と「土佐の武田氏系青木氏」との三間での血縁は、勢力は別にして「ルーツの家柄」から観て、同格以上であるので、血縁があったと観られ筈ですが、何かこれを示すものが見つかりませんかね。
例えば、家紋とか、江戸前の「親族の姓」とかから繋がる物があったら良いのですが。
筆者も調べて観ます。
では,何かありましたら又お便りください。お待ちしています。
今日は。早速、お便りをお読み頂けましたか。
さて、早速ですが、お便りのお説は、何も偶然ではありません。
ご推測は仰る通りの事です。間違いないと思います。
むしろ、配置関係から、この様にした事を証明しているのです。
この事に付いて、古来より、中国の文化の影響を強く受けいて、その原則論が日本の慣習の中に遺ったのです。
現在も田舎に行くとこの原則に沿って処置している慣習の地域が遺っています。
この”ある原則”が讃岐の中にもあったのです。
筆者も、この四国の青木さんを調べた時期が在りました。
「青木氏の分布と子孫力」と「武田氏系青木氏」の中でも、この原則で四国の分布が出来ている事を論じていて、逆にそれが、証明にも成って居るのです。
つまり、前回の”歴史観”の重要な一つです。明治までこの原則が多く使われました。
つまり、この世の”物事の構成”は、この原則に沿っていると云う論理の論説です。
ですから、古来の事で、ある事象が歴史上で見つかったとすると、先ずこの原則に沿っているかと云う事の検証を行います。
況や、この世の「物事の構成」は、”四ー六の関係”にあるとしています。
中国古来の学問の五行説、又は五行思想で、これを後に日本で発展させた陰陽説と組み合わせて出来た思想で、この中の一つに、更に生活の中に取り入れた古来学問のこの「四ー六説」があります。
日本のみならず、思想元の中国でも、現在でも、この「四と六の関係」を「庶民習慣」の中でも取り入れられています。
大変に難しい説で、簡単に云うと、全ては、四の数によって構成されていて、この四の組み合わせから外れるものは、六の数によって構成されていて、この原則を護る事で物事の処置が上手く行くと云う考え方です。
従って、”五はその中間にあって、何れにも属さず、何れにも属す”と云う考え方をするのです。
今回のお便りも、この原則の中にありますね。
「土佐の青木氏」の配置先と、青木村の関係、阿波青木氏との位置関係、等この原則に沿って出来ています。
研究室の論文にもこの事が記述していますので、注意してお読みください。
因みに、皇族賜姓族は「第六位皇子」が臣下した「青木氏」です。
依って、「第・四位皇子」までは「真人族」として「皇位継承権」が与えられます。
そこで、「第・六位皇子」は「朝臣族」として一階級落としての身分として、「侍」として臣下させます。
つまり、「賜姓・五役」を持った「・三つの発祥源」の「賜姓族」です。
そして、「・・王」と呼ばれる「皇族の皇子」は「第・四世族」までとし、「第・六世族」は「無冠の侍」と成って地方に配置されます。
鎌倉幕府を牛耳った「坂東八平氏」はこの「第六と第七世族」です。
この原則に合わない者は「無位無官の僧侶」となるか、「氏」を構成できない「単なる個人の侍」に成るかの「選択原則]が敷かれます。
ここで、では、”「第五番目」はどの類に含まれるのか”と云う事に成ります。
何れにも属せず、何れにも属する”のですから、”幅のある選択”が働くのです。
この場合は、結局は、その「物事の本質」、例えば、上記の事で云えば、その「皇子の本質」ですから,その”皇子としてのあらゆる意味の「価値評価」即ち、「人時場の要素」の配慮によって決まる。”によって決められます。
現在でも、難しい判断の時には、よく使われているのが、この「第五の位置」に属する物事ですね。
まさに「俳句や和歌」は、この原理原則の貴族の遊びで在ったのです。
五は「中間の意」、七は六を超えた「決まりの意」と成ります。
この「原理原則の言葉の組み合わせ」で「一つの情景」を如何に正しくうまく表現するかと成ります。
この言葉の使い方で、この四を原則としての使い方です。
四では、漢字で一つの意味合いを表現する「四字熟語」が在りますが、これで言葉は完成します。
これらは全て、「四の意味」と、「六の意味」と,「五の意味」の数字の使い方です。
これから明らかに離れた「七の意味」も加えての一つにまとめた情景を表現する文化です。
「文化」ですから、あらゆる民(室町期中期までは貴族を除く者を「百姓」と呼称していた。「農民の百姓」の意味は、「士農工商の身分制度」が定められた時からの呼称と成ります。)に浸透していた思考基準です。
さて、「土佐青木氏、−曽根の讃岐秀郷流青木氏−お家の青木氏」の関係は、「第五の位置」に無く、この「四ー六関係」の関係にある事は、”処置をしなければ成らない何かが在った”から、この関係式の処置を戦略的にしたのです。
この上記の[三つの氏」の周囲には、この関係する「四ー六の関係」の諸事が遺されている筈です。
お家に関する「讃岐秀郷流青木氏」の取った処置は、結局は、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」に取った処置と異なっているのは、お家がこの「第五の位置」にあったからなのです。
この「四ー六の関係式の思考基準」から、何らかのパラメータ”を考えだし、”見張り役の郷士・農民”で処置したのです。
恐らくは、「お家の本質」、つまり、「人時場」から考えて、存続させるに値する氏、或は、「郷士」であるかの利点数を「讃岐秀郷流青木氏」が配慮しての答えであった事に成ります。
つまり、この「人時場」の「欠点の点数」が「五」に相当した事に成ります。
「六」であれば、”消滅させる憂き目”を受けていた事に成ります。
歴史の推理に迷った時には、この原則を以て判断します。
つまり、これが”歴史観”の”昔の人の目”で見た判断なのです。
思考基準の基が「現在感覚」とは、この様に根本的にお大きく違っていたのです。
ある歴史を持つ厳しい「脩行系青木氏」の「お家の位置関係」は、この関係式に当てはめれば昔の人の目で見て答えを出す事が出来たのです。
当然に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の事も、この「思考基準」で「歴史観」と合わせて読み取る事が出来るのです。
「讃岐秀郷流青木氏」は、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」をどの様にするかは、これで判るのです。
「讃岐秀郷流青木氏」が指揮する、「曽根の讃岐秀郷青木氏」への処置では、宗家の当主は配流する位置関係が最も思惑に対して都合よく行く配慮をするとすれば、次ぎの様な指揮と成るでしょう。
先ず配流先は、讃岐宗家の位置から、この「四ー六」の成り立つ位置関係の所に定め、更に、これを見張るお家との位置関係からも、この「四ー六」の成り立ち位置関係に置きます。
且つ、最も南域に居た「土佐の武田氏系青木氏」の位置関係も、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」に、この「四ー六」の関係する位置に逼迫して移動させる処置を採る様に命じる筈です。
何処でも良いと云う事では無く、”指揮する者”とは、「他氏との勢力関係」、「曽根の讃岐秀郷流青木氏の動向」、お家の「見張り役の効果」をよりよく示す位置関係、現状の場所関係、等を命じる事に成ります。
これを受けて、「讃岐シンジケート」などがより詳細に、この「四ー六の関係」から決めて行く事に成ります。
そもそも、この場合は、この「四」とは距離にすれば「一里」です。
一里以内に近づけば、より親密に成り過ぎて、見張り効果を落としますし、二里ともなれば遠すぎて「見張りの役」は働きません。
これを一里以内の円内に納める事で、物事は何事に付けても上手く行くのです。
これをより効果的にするには、「直線の位置」に置くことでしょう。
”くの字”の様にすれば、「時間」と云う要素から「見張り効果」は低下します。
この原則に沿って、「場所」は四万十の川の領域、などで決められて行く事に成ります。
”戦略戦術の決定”として、「三つの氏」のそれぞれの位置関係を決めて行きます。
この場合、最も効果的にするには、大きい武力を持たした武装集団の「土佐の武田氏系青木氏」の位置関係を北に上げる事です。
「曽根の讃岐秀郷青木氏」に対する圧力を高められる事に成りますし、それを実行する能力をも持っていますから都合が良かった筈です。
従って、「土佐の武田氏系青木氏」の定住の位置関係が「青木村」を起点にすれば、北に上がり過ぎています。
明らかに、恣意的に上げたものと考えられます。
お家の「見張り役」は「静の四の見張り役」、「土佐の武田氏系青木氏」の「見張り役」は「動の六の見張り役」と戦略的に役割を判断させていたと観られます。
昔から、そもそも「六稲三略」と云う言葉が在ります。
「指揮する者」は、当時、この「四ー六の関係」から構成した「六稲三略の書」を会得しなければならない仕来りでした。
”物事を処置するに、定まった形式がある”とする「指揮要領の事」を描いたものです。
「指揮する者」は、必ず会得しなければならない「四ー六の関係式の心得」です。
江戸期までの「必読書」でした。
描いている言葉の表現が古いですが、その本質の概念は、現在社会にも通用する”「処世要領書」”だと思います。
お家の「見張り役」からの情報で、土佐の「武田氏系青木氏の武力」が北に押し上げれば掃討できますが、これが南に押し下れば掃討は失敗しますし、「土佐の武田氏系青木氏」の「青木村」の方に食い込んできます。
この好ましい戦術とは成りません。
この「六稲三略」から観ると、「土佐の武田氏系青木氏」の位置関係が青木村を起点にして突出し過ぎていて、「四ー六の関係]から好ましい陣形、配置、位置関係では無い事が判ります。
何かの事変に対応した配置関係にあった事が判ります。
北に押し上げて置いて、圧迫し、後は「讃岐シンジケート」に依って、「四ー六の関係式」から時間を掛けて処置する事に成ります。
この時間の間は、「四ー六の関係式」から、何らかの五の「硬軟の戦略」が採られた筈です。
筆者の持つ資料から、実は、「血縁関係」が採られた事を物語っているのです。
主には、それは家紋です。
「土佐武田氏系青木氏」の中に、「松紋の副紋家紋」の一氏が見つかっているのです。
この「松紋の氏」が拡がりを見せていないところから、明らかに「見張り役」としての「動静」を掴む「硬軟の戦略」(六稲三略)で在ったと観られます。
これが、往来や血縁であろうと観られます。
そこで、場合に依っては、問題と成っている「郷土史」にある「合力」も、この範囲にあり、そもそも「郷土史」が云う「合力」とは、この「範囲の事」で在ったのではないかと考えます。
この「三つの氏の位置関係」から、「戦いの合力」とは、「硬軟の戦略」の中の事では無かったかと観ています。
筆者は明らかに「戦いの合力」と「郷土史」は検証を見誤ったと観られます。
この「三つの氏」に挟まれた中で、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の「戦いの合力」は殆ど無理であると観られます。
その「合力」の前に、一里の中では、「見張り役」の土佐の「武田氏系青木氏」に、あっと云う間に潰される筈です。
まして、公家化した「曽根の讃岐秀郷流青木氏」であり、あり得ない「合力シナリオ」です。
仮に在ったとしても、「小競り合い」の中で終わりますし、「合力の調略」を進めて来た他氏も背後に有名を馳せた「赤兜」の「土佐の武田家氏系青木氏の武装集団」が控えているのです。
下手な動きはしない筈で、「調略」そのものがしない事が判ります。
以上ですが、実は、この「四ー六の関係式」での面白い話が歴史上に沢山あります。
例えば”天智天皇が記録で国家の標準時計を作った”とする記録が日本書紀にあり、調査班がそれを調べていると、これが飛鳥で見つかったのです。
この日本最古の「古時計」は、「漏刻」(水時計)と云うのですが、これにはこの「四と六の関係式」で出来ていたのです。
この一定に流れる水を、4段で一定にした御影石の壺に、サイホンを使って最後に溜まる池の水位で時間を定める方式です。
これには「時守」が、時を知らせる仕組みで「標準時計」を作ったのですが、この発見の決め手に成ったのが、この「四―六の関係式」で出来ていた事なのです。
これほどに、当時は何事もこの「四ー六の関係」を「生活の基本思考」と成っていた事例です。
お家のルーツも凄い着眼点に辿り着きましたね。
前回のお答えは、ロマンでも偶然でもないのです。
恣意的な処置の関係にあったのです
これが歴史マニアの歴史観の所以です。
この「一里関係」つまり「四ー六関係」の中に納まっている事の着眼点が大きなお家のロマンを拡げる基に成り、ルーツのロマンを証明する事に成ります。
「四ー六の事」や時計の事も研究室の何処かに描いていますので読んでください。
青木氏でも、「地名地形データ」でも調査しています。
メニューにありますので参照ください。
距離的な詳しい事はメモリー上から記していませんが、紀州におけるお家の事も「青木村」で書いていますので参照してください。
土佐と讃岐と阿波の青木氏の調査で大枠は掴んでいますので、他の論文も参照してください。
四国全体の中でのお家の位置関係が掴めます。
四国でのご先祖の生き様とそのロマンが拡がります。
今回の様な距離的な事は記述していませんが、論文の中での判断事項として「歴史観」としても良く用いています。
”距離の四ー六の関係式”は、”大事な「歴史観」”です。
是非、今後の歴史観として参考にしてください。
何時か、ご先祖の誰かが作られた由来書を、更に、進めてお家が本文の内容も含めて、「脩行系佐野氏族青木氏」の「平成の検証」として「由来書」を作られて、それを「末裔の方」が何時か読まれてロマンを遺されるのも一考かとも思います。
では、また何か判りましたらお便りください。
重ねて連投となりますが、新たなデータが入手出来ましたので、どうかご容赦下さい。
前回ご報告した『曽根青木庄屋』の他にもう一つ、愛媛県西南部鬼北地方にあったという『青木庄屋』の情報です。
このお家は前回の「曾根の讃岐秀郷流青木氏」庄屋から南東方向(地政学的に言えば『土佐側』)へ数キロほど離れた、ほぼ『隣村』と言ってよい土地に現在も暮らしておられます。
『鬼北町吉波』という地名です。
そのご子孫の方とコンタクトが取れ、わずかではありますが(理由はプライバシーにも関わりますのでご容赦下さい)、しかし決定的な証言を得ることが出来ました。
『家紋は武田菱』。
そう聞けばもう「武田氏系青木氏の土佐青木氏」の末裔と見て間違いなし、と考えます。土佐南西部に居住した勢力が、この地までその力を伸ばしていたわけです。
実は事前に、なんとなくそうではないかと思っておりましたが、やはりその通りでした。
副管理人様の分析をお借りしますと、『背後に「武田氏系青木氏の土佐青木氏」が控えている』とのことでしたが、まさに背後も背後、すぐ隣までその力が迫っていたわけです。
毎度のご慧眼、恐れ入ります。
以降、このお家を『吉波の武田氏系土佐青木氏』とお呼びしてよいと考えます。
ところで、当家が暮らしてきた場所は「曾根の讃岐秀郷流青木氏」から北西方向に数キロ離れております。(正確な数字は住所が特定できてしまいますのでご容赦下さい)
実はこれを地図上で見ますと『吉波の武田氏系土佐青木氏』の反対側、つまり当家と『吉波の武田氏系土佐青木氏』を結んだ線のちょうど真ん中に挟まれる格好で「曾根の讃岐秀郷流青木氏」が居住していたことになるのです。
再び副管理人様の分析をお借りして『「曾根の讃岐秀郷流青木氏」を見張っていた』としますならば、いささか出来過ぎなような気も致しますし、当時そんな正確な直線を引ける地図があったとも思えませんので、恐らく偶然とは思います(苦笑)
が、実際、そのような地理関係にあることは事実であります。
実は、更にロマンといいますか偶然の一致があります。
当家が最初に暮らしたとされる場所(現在の家のすぐ裏手になります)から、『青木姓』が刻まれた当家の旧墓地がある向かいの山を望む、その直線上に「曾根の讃岐秀郷流青木氏」と「吉波の武田氏系土佐青木氏」があるのです。
つまり我が家から先祖の墓の方向を見れば、すなわち二つの青木氏の居住地を遥かに望むことになるわけです(もちろん幾つもの山に阻まれて直接見ることはできませんが)。
地図でこれを発見して驚きましたが、偶然の一致にしても出来過ぎだろう、と苦笑した次第です。
ですが、もしやすると我が先祖は、日々の暮らしの中で当家の墓を望むたびに、その先にある『青木』の縁に思いをはせるべく、このような配置をしたのかもしれません。
いかにもロマンティックな想像で申し訳ありません。
ただ、亡くなった大叔父が遺したわずかな文書、それも廃棄寸前のところで確認された文章から、わずか数ヶ月で気づけばこんなところまで来てしまったことを思うと、『まるで何かに手を引かれたようだ』と思っても致し方ない、とご容赦下さい。
それにしても、以前もちらりと思ったことがあるのですが、この『四国西南部』という場所にこれほど多彩なルーツを持つ『青木氏』が居住していることは驚きです。
あるいは実際に、四国を統括していた「讃岐秀郷流青木氏」にとってこの地は、言葉は悪いですが『厄介払い』の地であった可能性もあるのでは、と思っております。
土地も海も豊かで、静かに暮らしていくのに不自由こそしない一方、「讃岐秀郷流青木氏」の本拠地からは余りに遠く、多少やんちゃをしでかしたところで影響は少ない。そこに当家や「吉波の武田氏系土佐青木氏」のような逃亡者、あるいは「曾根の讃岐秀郷流青木氏」のような身内のはみ出し者を配置する、『保護』という名の『飼い殺し』にする、そういう目的に適当な場所であったのではないでしょうか。
まだまだ素人の域を出ませんが、お教えのお陰で多少、四国・伊予西南部の構図が見えて来たような気が致します。
またご意見・ご批判ををいただければ幸いです。
冨田さん 今日は。始めまして。
さて、困りましたね。
以前お尋ねに成られた方と同じルーツの同文で同内容と成って居ますがお尋ねの方が違っています。
この方にお答えした内容以上には、残念ながら判りません。
ただ、お尋ねの中で、戦国時代には上州には冨田氏は無かったと住職の方が発言されています。
しかし、明治より約20年前の嘉永年間には上州に居たとする事と、時代考証的に墓所の碑文とが一致しません。
そして、明治前に墓所を持っているとすると、武士であった事に成ります。
士農工商の農工商の者は正式な墓所を持つ事は許されていませんでしたので、武士と成りますが、この時代は「国抜け」と云って、自由に定住地を抜けて移動する事は出来ない事に成って居て、これを破ると一族悉く斬罪です。
しかし、江戸期には上州に墓所まで持って定住していますね。
仕官先が変わったと云う事なのですかね。
そこで、そもそも、下り藤門は藤原秀郷一門の総紋で、宗家しか使えない家紋です。
一族であっても本家筋しか使えない家紋群です。
この文様に更に丸付き紋ですね。
秀郷一門は家柄身分から丸付き紋は一族は使いません。
全て副紋方式です。
更に、江戸期では、類似家紋の使用は法度です。
依って、藤紋の丸付き紋は藤原氏では無い事を意味しています。
花数からも違っていますので、藤原氏の家紋群では無い事に成ります。
ただ、一言、お家の大元のルーツは伊豆の大島にあります。
伊豆の大島から、冨田氏、富田氏や富岡氏等が大島から伊豆に、伊豆から駿河に駿河から上州へと移動した事は判っています。伊豆大島には大島水軍と云って源義朝が逃亡してのこした配流孫の末裔です。この水軍の末裔に成ります。その末裔と考えられます。
少し矛盾の持ったルーツと成って居ますね。
青木氏では全く判りません。
。
今日は。
早速、お便りをいただきました。
ありがとうございます。
さて、長い間、歴史をやっていますと、ルーツ等を調べるには、「特別な感覚」が必要になると感じています。
それには、現在、我々が”当然の思考”と思う感覚は、”歴史観”では全く異なる事が判ります。
それは「思考概念」が昔と今では違っているからで、つい”現在感覚”で観て仕舞うと云う事が起こるからだと思います。
「昔の事」を「今の事」では無理で、[昔の事」は「昔の事」で見ることが必要だからです。
現在感覚では「真の事」が見つからない事が「違和感」と成って脳が受け付けなく成る現象だと思います。
これには、矢張り、何でも良いから”歴史観”の基に成る事を培う事かと思います。
そこで,お家のお便りを観ていますと、次第に、この”歴史観”を獲得できる様に成って来たように感じます。
故に、「青木氏の事」が出て来ると見逃す事が出来なくなる感覚が生まれているのだと思います。
私の経験では、この事が大事な事なのです。
この感覚が、”昔の感覚に入れる現象”の入り口に入った事を示しています。
脳の中に、歴史知識が左脳に入り、歴史に付いて、それを使って右脳が租借する能力が出て来た証です。
これが進めば進む程に、この”歴史観”が深く成って”真の史実”を見つける能力を持てるように成るからだと思います。
簡単に云えば、昔の事は昔の人の目で観る事だと思います。
筆者は、その意味で、お便りには忌憚のないご意見を記述する様にしています。
悪しからご了承ください。
さて、今回のお尋ねのご推理が、この”歴史観”の中に入って来た事を感じています。
そこで、お便りのこの部分の所に注目します。
>”曽根青木家の墓・過去帳が納められていた『宗光寺』は『天台宗』の寺であり、”
実は、「二つの青木氏」には、他氏が絶対に伝承できない「慣習仕来り掟」が特別にあって、この事からこの情報が浮き上がってきます。
前回にも書きました様に、正式に「嵯峨期の詔勅と禁令」で他氏との区別が出来るのです。
それは、先ず菩提寺の寺名の”「宋光寺」”です。
つまり、何れも「・・光寺」の「仕来り」に従っているのです。
「皇族賜姓族青木氏」の菩提寺も、「特別賜姓族青木氏」の菩提寺も、例外なくこの「仕来り」に従っています。
これは他氏が真似のできない禁令の一つです。
この「二つの青木氏」の「121氏の菩提寺」は、この「仕来り」の「菩提寺名」を持っています。
(寺名は問題が起こりますので匿名とします。)
つまり、「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」である事がこの寺名で判ります。
この”曽根の讃岐秀郷流青木氏”は、この”青木氏の仕来り”を厳然と護って居た事を示すものなのです。
「青木氏の家柄」で云えば、「本家筋の青木氏」に匹敵する位の「青木氏」である事を物語っているのです。
そもそも「菩提寺」とは、本家筋が中心に成って一族一門の全てを自前の一つの寺で祭祀する寺の事です。
その「青木氏」が、「・・光寺」名の特別の呼称を使っている「菩提寺」を持っていると云う事です。
この情報は絶対に見逃す事が出来ないものです。
この一つで”多くの事”を物語っているのです。
つまり、「讃岐藤氏の讃岐秀郷流青木氏」の中でも「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は家筋が良かった事に成ります。
ここに”何かの意味”を持っています。
更に検証すると次ぎの事が浮かびます。
上記する事に完全補足する様に、次ぎに、宗派が「天台宗」と成って居ます。
本来、「二つの青木氏」は、本来は、「浄土宗密教」か、その系列の「浄土真宗」であります。
古来は宗教に付いては、自由に選べるものでは無く、その家柄身分に依って決められていた習慣でした。
そこで、「青木氏」は、「賜姓族」であった事から、その「賜姓族の役目」(賜姓五役)を全うさせる為に、つまり、「古代の宗教」(和魂荒魂)と「古代仏教」を引き継がせる為に、「古代仏教密教の概念」を引き継ぐ「浄土宗」を指定されていました。
この「掟」からは逃れられません。
ところが、「特別賜姓族青木氏」、つまり「秀郷流青木氏」には、藤原北家筋の中にある為に、「藤原氏北家筋」の「97家」の内の「9氏」の秀郷一門は、この古来からの密教性の強い「浄土宗密教」を引き継ぎました。
しかし、この秀郷一門の9氏の中で ”京の公家族の影響”を強く受けた一族の2氏の内の1氏が、この「讃岐の秀郷流青木氏」であるのです。
ところが、その為に、「秀郷一門」でありながら「讃岐藤氏」(公家族)の流れを引く「讃岐秀郷流青木氏」は、「武蔵の総宗本家」の云う事をなかなか聞かなかったのです。
「讃岐秀郷流青木氏」と書いていますが、昔からの俗称では、”「讃岐青木氏」”と呼称されていたのです。
それだけに、「讃岐藤氏の影響」が強かったのです。
その中でも、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、”「讃岐藤氏」の影響を強く受けている”と云う事なのです。
実は、元は、北家の秀郷は、藤原氏で在りながら、「公家族」のみならず、「貴族」でも無かったのです。
武蔵の「押領使」(警察権と軍事権の両方を持つ官僚)と云う「令外官」の低い身分で在ったのです。
ところが、関東で独立国を創ろうとして「平の将門の乱」が起こります。
朝廷は長い間この乱を鎮める事が出来なかったのです。
そこで、窮地に陥った朝廷は鎮める事が出来る者を募りました。
この時、「藤原秀郷」と共に、同じく「関東の押領使」を務めていた清盛より5代前の「平貞盛」が手を挙げました。
そして、朝廷に対して二人は、これに「二つの条件」を付けたのです。
天皇に注文を付けると云う「前代未聞の事」が起こったのです。
それだけに窮地に陥って居た事を示します。
それは、秀郷の場合は、”武蔵の国を領国にする事””貴族にする事”の「二つの条件」であって、朝廷はこれを渋々認めました。
結局、二人は、この乱を鎮めこの「二つの条件」を獲得します。
ここで、やっと「貴族」と「領主」に成ったとする経緯があったのです。
それ以後、この為に勢力を拡大させた秀郷一門は、朝廷より各地に一族を守護職として赴任を命じられる立場に成ります。
その24の赴任先に配置されますが、この讃岐にも赴任先として配置を命じられました。
そこで、一門に同行しての「護衛役の任務」を担っていた「讃岐秀郷流青木氏」は、「公家族の讃岐藤氏」との同族血縁を進めます。
結果として、「讃岐藤氏」の中に組み込まれて仕舞ました。
「秀郷一門の護衛団の役目」を持つ「讃岐秀郷流青木氏」は、この為に”「讃岐藤氏の讃岐青木氏」”とまで呼ばれる様に成ったのです。
貴族に成った秀郷一門の宗家の中で、讃岐に赴任し護衛団を務めた「秀郷流青木氏」も、血縁でもこの「讃岐藤氏」の「公家族の血筋」を持ったのです。
結果として、身分と家柄が武蔵の宗家の秀郷一門より高く成ったのです。
丁度、この「平将門の乱」と並行して、同時に、西のこの「瀬戸内」でも、勢力を拡大していた「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」が起こったのです。
前回にも書きましたが、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云うことから、途轍もない財力と勢力を握った「純友」を朝廷は警戒して潰しに掛かったのです。
これを九州全土の自治を任されていた阿多倍一門で京平家とルーツを同じくする「大蔵氏」に攻めさせて成功します。
このため、「純友の讃岐藤氏」は衰退します。
しかし、その後、大蔵氏から「瀬戸内」の「管理支配権」の権利を譲られて「瀬戸内」を支配に入れていた平家が潰れて、「瀬戸内の勢力図」が変わっりました。
この為に、「瀬戸内の民」に慕われていた「純友の讃岐藤氏」を慕って「讃岐藤氏」は再び勢力を盛り返しました。
この時、同族血縁化した「讃岐秀郷流青木氏」は、この勢力を下にこの「瀬戸内」で勢力を高めたのです。
この時から、讃岐で、勢力を獲得した「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」との血縁を進め、今度は「武力」だけでは無く、「瀬戸内」を活かした[二足の草鞋策」の財力で盛り返します。
これを推進したのが「秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」であったのです。
「護衛団の武力」と瀬戸内の「二束の草鞋策」での「財力」を得た「讃岐秀郷流青木氏」は、今度は「讃岐藤氏」に代わって讃岐を支配します。
それ以後は、以前にも書きましたが、そして、「讃岐秀郷流青木氏」は「瀬戸内の勢力と財力」を背景に自立の生き様を貫いたのです。
直ぐ東隣に同門の「阿波青木氏らの勢力」が在りながらも、自前の生き方を採用しました。
その一つとして、「四国の讃岐藤氏」との関係を深く持った事によるのです。
これが、”「讃岐藤氏の讃岐青木氏」”と呼ばれる所以です。
最早、「武蔵の秀郷流青木氏」よりは「讃岐藤氏の讃岐青木氏」としての行動を採り、民からこの様に観られる様に成ったのです。
他の24地域に分布する秀郷一門にはこの呼称はありません。
四国の秀郷一門の「青木氏」だけなのです。
さて、この「讃岐藤氏」は「藤原氏の公家族」です。
この京のルーツを持つ「公家族の宗派」は「天台宗」なのです。
故に、西園寺氏や一条氏等の公家族は、この「讃岐藤氏」を頼って四国に来るのです。
また、藤原氏公家族(摂関家族)の「名義上の荘園」が四国域に多かったこともありますが、この「讃岐藤氏」(天台宗)の流れをより深く持ったのが「曽根の讃岐秀郷流青木氏」である事に成ります。
処で、上記2氏の中の1氏の「讃岐秀郷流青木氏」の中でも、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が、この「讃岐藤氏の影響」をより血縁的にも強く受けたのです。
故に、公家族が信心する「天台宗」なのです。
宗派を「浄土宗」から「天台宗」に「宗派変え」をするという事は当時の上級社会では、大変な事で、それなりの理由が無く成ては認可は得られません。
その位ですから、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、”宗派変え”が出来るには何度も「跡目」を「讃岐藤氏」から取った事に成ります。
ここに、”何かの意味”の答えが潜んでいると観られます。
これは上記の”歴史観”です。
氏家制度の社会の中での「青木氏」に関わる”「慣習仕来り掟」に矛盾を生じているのです。
そもそも、「讃岐秀郷流青木氏」の宗家本家筋が居る中で、宗家本家の許可なく、「讃岐藤氏との血縁」や「天台宗の宗派変え」や「菩提寺の建立と寺名の使用」や「跡目縁組」等出来る事は絶対にありません。
「讃岐藤氏」の相手の方も、「讃岐秀郷流青木氏」の許可の得ていない関係を持つ事は、「讃岐秀郷流青木氏」との間に”亀裂”を作り出す事が起こりますので控える筈です。
しかし、出来ているところを観ると、考えられる「シナリオ」は唯一つです。
それは、”「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、「讃岐の宗家本家筋]であった。”と云う事に成ります。
しかし、ところが”勢力末端の危険な南域に「曽根の在所」がある事”です。
これは、”宗家本家筋”であれば、戦略上あり得ない事です。
「讃岐秀郷流青木氏一族一門」の中で、”何かがあった”からこの様な、あり得ない現象が起こっているのです。
では、”その「何か」は何なのか”と成ります。
この”あり得る現象”とは、この「氏家制度」の中での「仕来り」にある筈です。
宗家本家の惣領、つまり、”当主に成れる者はその任に値する嗣子を嫡子に定める”とする掟です。
長男が嫡子に成ると云う慣習は江戸初期に家康が定めた武家の慣習です。
室町期以前は、特に賜姓族青木氏の中では、青木家家訓にもある様に、”嫡子はその任に値する者”と定められています。
従って、その任に無い嫡子が居た場合は「廃嫡」と成り得ます。
「曾根の秀郷流青木氏」は、「寺名」と「天台宗」の宗派換えも成し遂げています。
つまり、嫡子として当主と成ったが、瀬戸内から中国地方の島根までも勢力拡大を成し遂げた超大勢力に成った一族一門を統制するには、この当主は、”その任に値しない”と成った事を物語ります。
そこで、これを全うするだけの能力が持っていない「愚能」と見做された「曽根の秀郷流青木氏」の家長は、廃嫡の憂き目を一族一門から受けたのです。
故に、先ずは南域の”曽根”に移動させられたと成ります。つまり、「配流処置」です。
この「愚能」とは、起こる諸問題に一族一門の決定事項に、充分な理解を示さず、常に反意を示し、これでは一族一門は保てないと判断されたのです。
故に、南域の三間域に「配流の憂き目」を受け、そこで反乱を起こしかねない事から、その「行動の見張り」をお家に命じた事に成ります。
更に、後に、この南域を強化する為に、讃岐秀郷流青木氏を頼って逃亡して来た「武装集団」であった「武田氏系青木氏」と共に侵略して奪い、その上で「武田氏系青木氏」に南域の運営を任したと成ります。
「見張り役]を含めて南域の向後の安定化を謀ったと観られます。
(詳しくは、研究室論文の各所に記述していますので参照してください。)
「寺名」は兎も角も、「一族一門の行動規範の概念」が異なる宗派の「天台宗」が、あまりに公家化した為に廃嫡事件が起こった事を示しています。
「浄土宗密教」か「天台宗密教」かの選択は、「青木氏の伝統シリーズ」で論じていますので詳しくそちらをご覧ください。
そもそも、「天台宗密教」と「浄土宗密教」は、根本的に「行動規範の概念」が異なっています。
現在は兎も角も、昔は「宗派の考え方」が即、人々の基本的な「行動規範」であった社会でした。
ですから、「讃岐秀郷流青木氏」の「浄土宗密教」の一族の中に、「天台宗密教」の者がいる事は、日本人の中に外国人が居ると云う事に等しく成ります。
これでは、氏家制度の社会の中では、”一門の統制”は取れません。
当然に、排除される憂き目を受ける事に成ります。
また、「讃岐秀郷流青木氏」と、四国の関係も「青木氏の分布と子孫力」にも詳しく論じていますので参照してください。
「平の将門の乱」と「藤原純友の乱」の関係も論じていますので歴史観を養う意味でも参照してください。
お家のルーツに少なからず関係する出来事です。
そこで、これ等の”歴史観”から、「讃岐の秀郷一門」で在りながらも、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が、「地元の郷土史」などにも出て来るのかは想像がつきますね。
そして、更には、同じく”歴史観”から、何故に、その地域が「讃岐の本領地」では無く、南の「宇和島市吉田町立間地区」にあったかも判りますね。
本領の「瀬戸内の讃岐域」では、同じ一族とは言え生き難い事が云えますし、「天台宗」と成った「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の生き方を貫くには、「浄土宗密教」の「讃岐秀郷流青木氏」の本家の居る所よりは、遠く離れたところが好ましい事は判ります。
本家宗家の側から観ても、”「統制」”と云う観点から「集団」から離すところに移動させる必要が出てきます。
まさしく、”武家の集団の中に、公家の概念を持つ武家が居た”のですから、まとまる訳はありません。
到底、宗派が変われば、思考概念が異なる事から同じ一門の所で同じ行動を採ることは出来ません。
況して、昔はその「宗派の考え方」、つまり概念が生き様を大きく左右した時代でしたから、宗派が違えば行動も違う事から、「讃岐秀郷流青木氏」の本家から観れば、「讃岐」から離して遠く南に定住させられた可能性が有ります。
自ら「曽根の讃岐秀郷流青木氏」が勝手に好きな地域に移動できる社会制度ではありませんでしたから、宗家本家の支持に従うのが常道です。
最初は”「曾根の讃岐秀郷流青木氏」”も「讃岐の本領」付近に居たと考えられます。
しかし、「讃岐秀郷流青木氏の一族一門本家」の意に従わない事が多くあって、四国の他の勢力と近接する南域に配置させられた可能性が有ります。
そこで、場合に依っては、”「讃岐秀郷流青木氏」の意に沿わない行動”を採る事も良くあって、「見張り」も含めて周囲に”お家”を配置した事が考えられます。
(曽根の秀郷流青木氏は、この処置では済まない事は充分に想像できます。)
では、何故に、1339年頃に「讃岐秀郷流青木氏」を頼って移動して来た「脩行系佐野氏族青木氏」のお家を配置したかの疑問です。
実は、この地域に配置した理由の一つには、”「脩行系佐野氏族青木氏」”の”ルーツ”にあるのです。
この証拠と成る事があるのです。
その前に、「南の讃岐秀郷青木氏の勢力」を補完する為に、「甲斐武田氏系青木氏」が、お家の様に、やや遅れた時期(1582年)に「讃岐秀郷流青木氏」を頼って逃げてきました。
武田氏が滅び「賜姓族武田氏系青木氏」は「讃岐秀郷流青木氏」を頼って来たのは、お家の南北朝期(1392年)のより後(250年位)になると思いますが、これも配置された地域は南域に成ります。
この「讃岐秀郷流青木氏」は、この時、南に移動させて土佐域の南東域を「讃岐秀郷流青木氏」と共に、この域を奪って、ここにこの賜姓族系の「甲斐の武田氏系青木氏」を定住させたのです。
目の届き難い地域は同じ一門でもなかなか命に従わない一族も居る事からも、他の豪族の調略の誘いに乗って反抗する事もあって配置したのです。
頼って来たお家の「脩行系青木氏の配置」も、この「武田氏系青木氏の配置」も皆南側です。
「讃岐秀郷流青木氏」に取っては、南域は他の豪族と身内の一族の反乱が最も警戒することで在ったのです。
「瀬戸内」を護るには”背後”を安定させる必要があり、身内の反逆や他氏の侵略に供える必要があったのです。
その証拠に、この理由から「讃岐秀郷流青木氏」を頼って四国には多くの逃亡者が入ってきましたが、全てこの南域に配置しました。
この意味で、お家のこの地域への配置には、先ずはこの意味の一つが在ったのです。
「天台宗」の「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は、宗派違いや家柄等の事もあって、この意味でこの地域に配置されたのです。
この地域に頼って来た大きい勢力を持った「武力集団の武田氏系青木氏」を配置して、更に二重のリング状に固めたのです。
依って、南域は1590年頃を以て小競り合いは在ったにせよ安定に向かいます。
この間に「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と「土佐の青木氏」は何れも「青木村」を形成していまして、関係があった模様です。
戦国期より少し後に、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」もお家もほぼ歴史的には同時期に衰退していると観ると何かがあった事が考えられますが、現在の所は正確には判っていません。
お家はこの地域にお墓が在りながらも荒廃している時期(1660年頃)と考え合わすと、1600年頃に「讃岐秀郷流青木氏」の命に従わなかった事もあったのかも知れません。
(「小競り合い」の合力に巻き込まれた。土佐一条氏か西園寺氏か宇都宮氏か長曾我部氏か等の戦いの「小競り合いの前哨戦」かで)
「土佐の青木氏」の衰退や、「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の衰退には、完全には一致はしませんが、しかし、共に、「同地域での戦乱での合力」に何か原因していると考えられます。
その基は「讃岐秀郷流青木氏の意」に従わなかったことが充分に考えられます。
なにせ意に沿わず独自路線を採った「宇都宮氏」も「西園寺氏」も「土佐一条氏」も、全ての関係族は、短期間に「讃岐秀郷流青木氏一門の勢力圏」で滅亡している位です。
では、核心に入ったとこで、何故、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」の居る地域にお家が配置されたのかと云う二つ目の理由の事ですが、これは、実はもう一つ”「脩行系青木氏」の本流のルーツ”に関わる事なのです。
それは「秀郷一門の青木氏」の中でも、この「始祖の脩行のルーツ」は、実は系譜では母系で”京の摂関家の血筋”を持っているのです。
秀郷の嫡子の千常より2代目の文行の子供の脩行は、一時、近江国に赴任していて近江の役人(掾)を務めていました。(「掾」とは、国司、介、掾、目の順に役職が異なる。副知事の様な役目)
この時の近江の時に、母方が摂関家から入ります。
途中で、秀郷の三男千国から発した「本流の青木氏」と、同族血縁をして「脩行の末裔」に青木氏の跡目を入れて「脩行系青木氏」を発祥させたのです。
(千国の青木氏は赴任先の地名を付けて呼称するが、文行系はその始祖の名を以て、脩行系青木氏と呼称する仕来りです。)
「秀郷流青木氏」は、秀郷の第三子を本流とするもので、秀郷より4代目の兼行系青木氏が本流と成ります。
しかし、お家はこの兼行の弟の文行の子供の脩行系の青木氏です。
秀郷一門は盛んに同族血縁をし跡目を入れたりして血筋の平準化を図っています。
「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は「讃岐藤氏の公家の血筋」を引く「青木氏」ですが、お家も母方に摂関家の血筋を持つ「秀郷流青木氏」の「脩行系青木氏」なのです。
故に、お家は秀郷一門の24地域とは別枠の、「京の影響」を強く持つことから、「紀州の守護」の護衛団を務めたのです。
故に、紀州の藤原明恵一門は京の公家族です。
お家は、この紀州に赴任した公家を護る役目を受けた護衛団の秀郷流青木氏で、配置されたのです。
恐らくは、お家の「近江掾」を務めていた時の縁での「母方の公家族」は、この「藤原明恵」のルーツに関わっていると観ます。
それでなければ、秀郷宗家の赴任先の護衛団として同行するのに、お家の「秀郷流脩行系青木氏」は、秀郷宗家一門ではない京の公家族の赴任先の護衛団を務めていた事に成ります。
慣例を重視する社会の中では、特別です。
先ずは無い事です。しかし、現実にはあったのです。
他の「秀郷流青木氏」が護衛団として同行した24の赴任地にはこのパターンはありません。
何かの強い所以があったからこそ、実現しているのです。
それは、筆者は、”この「藤原明恵」の家筋がお家の始祖の脩行の女系の実家先で在った”のではと観ているのです。
故に、紀州の守護を命じられた時に、婿先のお家に護衛団を依頼したのではないかと考えられるのです。
それには、「秀郷流青木氏」ではあるが、本流の兼行系では無く、文行系の青木氏であった事の柵の少ない理由から「宗家からの許可」が出たと観ています。
だから、上記した様に「讃岐藤氏」の「公家族」をも頼りに、お家はこの系譜を頼って讃岐に逃げたのです。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏]の「見張り役」として南域に配置された理由にはこの縁もあったのです。
伊勢、駿河に戻った本流は本来の先祖の所に戻った一団であって、恐らくこの時に、意見の違いが起こって居た事が判ります。紀州に残る派もあった事が判ります。
つまり、伊勢派、駿河派、讃岐派、紀州派、の4のグループに別れた事が判ります。
伊勢派は前回にも述べましたが、「皇族賜姓族青木氏」の「不入不倫の権」に護られる事と、特別賜姓族の伊勢秀郷流青木氏も伊勢に定住していましたので、ここに逃げ込めば安全です。
駿河派は「丸に州浜紋」の本拠地です。本家一族に護られる事を期待したのです。
讃岐派は京藤原氏の血筋を持つ本論の「曽根の讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」とを頼った事に成ります。
紀州派は、居残り派で、恐らく地元の土豪(玉置氏)との血縁を持っていた事から、それらを頼り、中には、その末裔はその豪族の姓を名乗った事に成ります。
これらの3派は、訳ありの支流族と成るので、宗家の意に反して南北朝の戦いに合力したこともあって責任を採って、「丸付き紋」の「丸に州浜紋」と、紀州では「玉置氏」を名乗って生き延びたのです。全て3派は「丸に州浜紋」です。
そこで、何故、「宗家の意志」に逆らって「南北朝の争い」に合力したのかの問題は、この「脩行のルーツ」の母方の所以が在ったからです。恐らくは母方の親族から誘われたのでしょう。
秀郷一門はこの戦いに合力していません。「宗家の戒律」に逆らう事に成るからです。
「讃岐秀郷流青木氏」と「讃岐藤氏」の縁を頼ったお家は、この南北朝の問題で、この「合力」を強く主張したのではないでしょうか。
しかし、敗退した。そこで、全面的な責任を取って、少数団で「讃岐青木氏」を頼り、その配置先を後に所縁のある「曽根の讃岐秀郷流青木氏」に成ったと考えられます。
「讃岐青木氏」もこの「曽根の讃岐秀郷流青木氏」を見張る意味でもお家を南域に配置したのです。
「大きい武力集団」であった場合は、「武田氏系青木氏」の様にその力を使って土佐域に配置したと観られますが、小集団であった事から「南域の三間と立間地区」の配置と成ったのです。
さて、”墓の家紋が無い事”への理由ですが、「青木氏の掟」に依り「宗家の意」に反しての行動を採った場合は、一切のルーツのステイタスが剥奪されます。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」は、墓に家紋が無いとすると、「讃岐秀郷青木氏」の意に従わず、上記した様にペナルティがあったと観られます。
当然に、家紋は当然に一門のステイタスも失いますが、この事が上記した様に”一族の責任”を採ったのです。
つまり、お家にも南北朝の事で当然にこの現象が起こったのです。
「讃岐青木氏の庇護」の下で、農業をしながら、武士であった事から、この地の「郷士」或は「郷氏」に成って生き延びたのです。
生粋の農民では無く「半農の武士」と成って生き延びたのです。
坂本龍馬の様に、有名な「土佐郷士」と呼ばれたか、或は「讃岐郷士」と呼ばれていた事も考えられます。
「讃岐秀郷流青木氏」は、郷氏として何れも歴史上では「四国の戦乱」では「大きな役割」を果たした事で有名です。
中でも山内氏との「土佐郷士」との戦闘は、過激で激戦した事で有名ですね。
何せ、この四国では、「讃岐藤氏であり秀郷一門の讃岐秀郷流青木氏」の、この「郷士や郷氏の協力」を得られなければ戦いには成らなかったのです。
潰れた豪族は、この土地の「武力集団」の「郷士団」の協力を失ったから短期間で滅亡したのです。
逆に、この多くの地域の「郷士団」に対して調略も働く事も強かったも云えるのです。
「お家の郷士」と成って居た見張り役の”「秀郷流脩行系青木氏」”も ”「曽根の讃岐秀郷流青木氏」”も、この「郷士団」を支配下に入れていた「讃岐秀郷流青木氏の意」に反して、これらの「調略」に載ってしまった事が在った可能性も否定できません。
故に、お家の「脩行系青木氏」は、この事から遂には農業に専従し、「曽根の讃岐秀郷流青木氏」は潰されたのです。
お家のお墓が1667頃に荒廃しているところから観ると、何かがあって、「青木氏」を捨て、「郷士」を捨て農業に従事したと推測されます。
「合力」の様な事が在ったとして、せめての「農業」に従事出来たとすれば、「讃岐秀郷流青木氏の意」に逆らっての「小競り合い程度」の「合力」の内容の如何で、許されて「農業」に専従できたと考えられます。
「合力」も何もなければ、「讃岐郷士」の身分で終わっていたと観られます。
恐らくは、お家のお墓の荒廃が1600年前後にあったとすると、少なくとも「郷士の立場」も失う何かがあった事が考えられます。
故に、お家には、紀州での事件もあって、ステイタスも無く成って居る事もあって、最早、頼る事も出来ずに、「讃岐秀郷流青木氏」の許可を得て”農民”となったと考えられます。
恐らくは、途中で何とか家を興そうとしたが、讃岐での長い間に「ルーツの伝統」を失い、龍神から来たと云う口伝だけが遺され、家紋もルーツも郷士も失って仕舞ったのです。
そこで、ご先祖の誰かが間違えた「ルーツと家紋」の矛盾の持つものを作り出してしまったのです。
後に、ご先祖の誰かがこれに気付き、そこで矛盾のある「青木氏」から明治期には苗字令により矛盾の無い様に関東屋形の一氏の「・・氏」に替えたのです。(「・・氏」は依頼により匿名)
その時に消えて忘れられていた「ステイタスと家紋」を、「丸に州浜紋」を間違えてか、周囲の滅亡した豪族の類似する「三つ巴紋」にして、それに合う様にルーツを戯曲して「・・氏」にしたか、或は、その戯曲に合わせて類似する「宇都宮氏等」の家紋をこれまた「矛盾」を含む事を採用して仕舞ったと観られます。
讃岐に移動してから、江戸期までの200年は、「讃岐秀郷流青木氏」の下で「郷士生活」の波乱の中にあったのですが、そして江戸期の安定した200年近い「農民生活」からの「伝統の忘却」が起こったのでしょう。
ここで、お家は、正しくは、元は、過去の柵みを無くせば、室町期には上級武士であって、室町期末期までは「郷士の立場」にあった筈で、家紋は「州浜紋」で、「秀郷流佐野氏族脩行系青木氏」で在ったのです。脩行の母方が摂関家に繋がっている事が読み取れます。
そして、そのルーツは駿河付近に定住していた秀郷一門と成ります。これは間違いありません。
そして、紀州と伊勢と駿河に親族がいる事を意味します。
>なお、当地を訪れた最大の目的であった『墓石の家紋を確認する』は果たせませんでした。どの墓にも、一つとして家紋が刻まれていなかったためです。
>よって曽根青木家の家紋は不明のままです。
>恐らくこの「曽根の讃岐青木家」は、土佐側から、四万十川沿いに移動(愛媛県鬼北地区は、土佐四万十川の源流に当たります)してきた讃岐青木氏の末裔とお見受けしますが、この点は副管理人様の評価・分析をお待ちします。
良い点に目を着けられました。所謂 青木氏の”歴史観”が出て来たようですね
これには、「青木氏の掟」の理由があるのです。
そもそも「青木氏」は、墓などに家紋(正式には青木氏の賜姓族では「家紋」では無く「象徴紋」と云う。)を付ける事が朝廷より古来より許された数少ない氏族です。
そもそも墓は上級武士以外には作れなかったのです。
一般の武士でもせいぜい「砂岩の石」を簡単に加工しての簡単な作りしか認められていませんでした。
庶民は墓所は明治初期までありませんで認められていませんでした。
大抵は土葬でその上に砂岩の石を一つ積み上げる事しかしなかったのです。
現在の様に、禁令が解けたために「花崗岩の墓所」と「家紋を刻む習慣」は明治期に入ってからの事です。
従って、江戸期以前の武士の墓所には砂岩であった為に刻んでも直ぐに消えて仕舞う事が起こったのです。一応はそれなりの武士の家柄では刻みますが20年もすれば消えて仕舞います。
しかし、氏家制度の社会の中では、宗家の意向と威光に従いますので、家紋などが無い事は、本家宗家との間に何かステイタスと伝統の継承が出来ない何かの異変が起こった事を示しています。
これは家紋のみならず、「戒名の院殿居士」の使い方にも関わってきます。
墓のみならず、仏殿の曼荼羅にも関わってきます。
「青木氏」は、上記した様に、「密教浄土宗」ですので、家紋では無く「象徴紋」と呼称され、原則、変紋や副紋はありません。総宗本家と同じ象徴紋を使う事に成ります。
従って、「象徴紋」の使用は厳しく扱われます。
秀郷一門青木氏は、宗家の許可で121紋の中で変化します。
依って、墓石に家紋が刻まれなかった理由は、上記の事が起こった事に依る理由以外には有りません。
「讃岐青木氏」の宗家の意に従わなかった事からステイタスをはく奪された事になります。
墓所も朽ちている処を観ると、何かがあって衰退滅亡して居る筈です。
この時代では「宗家の意」に反しての行動は放置しておくことは先ずあり得ません。
家柄から観ると、家紋は「下り藤紋」で、副紋は讃岐の本家筋の宗家は「雁金紋」ですから、副紋がこの地域の最大豪族の家紋を副紋にしている筈です。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の家柄から、本家筋と同じく副紋方式を持っていた筈です。
意外に雁金紋で在った可能性が高いと観ます。
副紋に「公家紋」を使用している可能性が有ります。
宗派も変えているところを観ると、「讃岐藤氏」の代表家紋の「松紋」(三階松紋等)を副紋としている可能性が有ります。
地域から「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の背後には、「武田氏系青木氏の土佐青木氏」が控えていますので、南から北への移動は無いと思います。
むしろ、上記した様にお家と共に北からの移動です。
「讃岐秀郷流青木氏の戦略上」から背後を固める意味からも北から南への移動と成ります。
南から北への移動は、一族との争いが起こりますので不可能です。
それだけの公家化した勢力は、この「曽根の讃岐秀郷流青木氏」には無かったと考えられるます。
それこそ反逆者で完全に根絶やしの滅亡の憂き目を受けて仕舞います。
恐らくはその後の行動も含めて、「曾根の讃岐秀郷流青木氏」の「墓」が荒廃しているところから、”根絶やしの憂き目”を受けていた事が考えられます。
そもそも「本家宗家の意」に逆らえば、どの様に成るかと云うと、「讃岐シンジケート」が掟を護る為に必ず「影の力」が動きますからね。何処にも逃げる事は出来ません。
宗家が手を出さなくても、「シンジケート」が処置しますので、滅亡の憂き目と成れば、成るのです。
つまり、お家は、周囲の豪族に合力したとしても、「シンジケートの粛清」を受ける程に、そこまで「厳しい処置」を受けなかった事を意味し、「農民」で生き残れたのです。
「曾根の讃岐秀郷流青木氏」のお墓が荒廃している事となれば、”歴史観”から観れば、恐らくはこの「影のシンジケート」に次第に目に見えない形で末孫までも粛清を受けた可能性が有ります。
独自の菩提寺と天台宗のステイタスを持っているところから、子孫が簡単に自然に絶えると云う事は先ず無い事です。
例えば、ドラマで、”山から山賊が降りて来て、村を焼き払い皆殺しにする”と云う場面がありますが、この様な場合は、”歴史観”から観れば、”「シンジケートの仕置き」”と観るのが正しいのです。
これも当時の「武家社会の掟」の”歴史観”です。
”反対し反抗すれどそれで済む”と云う安易な武家社会では決してありませんでした。
これが”歴史観”です。
「氏家制度の社会」を保つには、保つだけの厳しさもあったのです。
「山賊」等も山に家族を持ち住まいしていますが、「シンジケートの経済的支援」を受けていて、その為に「組織の取締」の云う事を聞きますので、勢力圏の中で無暗に村を襲うと云う事は先ずありません。
”「山賊」”と云えども、元は、地域の土豪であって、勢力争いに負けて潰されて、一族が山に籠った者達なのです。
これを大きい氏族がシンジケートの中に組み込み、「経済的支援」をして、「組織の力」に成って働き生き延びていたのがこの山賊達なのです。
普通は、「山賊」ではなく、「山族」なのです。
”いざ、戦い”ともなればシンジケートに従って参加しますし、「讃岐秀郷流青木氏」の様に「二足の草鞋策」を手広くする場合は、その”運送過程の安全”なども担当する役目を負っていたのです。
(そもそも、「四国の山族」の殆どは、元は「平家の落人」が逃げ延びた地域なのです。従って、そもそも”山賊のシナリオ”は無いのです。
「紀州龍神村」の奥手は、元はこの「平家落武者の村」なのです。「平家落武者の村」として観光地としても有名です。
この村は「十津川村郷士」と呼ばれて、今でも有名で剣道では日本一ですし、山奥村です。これも山賊の歴史観の一つです。)
ですから、無暗に襲えば組織から今度は自分達が潰されます。
これが、”戦国時代の歴史観”です。
この”歴史観”が無ければ昔の社会の在り方を正しく理解して掴む事は出来ません。
「讃岐秀郷流青木氏」の中での「合力」には、単純な合力の意味だけの事では無く、この”歴史観が大いに働く事に成ります。生か死かの選択です。
「土佐一条氏に合力」には、この歴史観を租借する必要があります。
果たして、”本当に「合力」をしたのか”と云う疑問をこの”歴史観”から持つべきなのです。
「郷土史」などは簡単に「合力」と書いていますが、ここに検証として「郷土史」には問題があるのです。検証に必要とする”歴史観”が不足している事が判ります。
でも、滅亡させられずにお家のご先祖は農民として生きていますよね。
そして、「讃岐秀郷流青木氏」は戦後の昭和20年までその勢力を維持していましたから、「郷土史の論説と検証」は変ですね。
そもそも明治10年頃までこの各地の青木氏の「シンジケート」が生きていた事が記録から判ります。
明治初年から10年頃まで続いた一揆などの騒乱にはこの「青木氏のシンジケート」が働き、一揆などの背後からの支援がなされていた事が記録に遺されています。
>ただ、丘一つ越えた土地にこれだけ堂々たる青木氏が居住する同時期、当家が『青木』を名乗って暮らしていたとなれば、逆に当家が『青木』を詐称できた可能性はほぼ無くなったのでは、と考えます。
>三間町曽根を含む鬼北地区には江戸期、少なくとももう1軒の『庄屋青木家』があったことも確認されており、当家が彼らの庇護の元で帰農し生きてきた青木氏、という具体的な図式が、逆に見えてきたように思われますが、いかがでしょうか。
両方共に、全くその通りです。異論はありません。
いよいよ”青木氏の歴史観”が出て来ましたね。
実はこの事をまっていました。
上記しました様に、氏家制度の社会の中での武士から転身して生き延びて行く為には、ある組織の中の庇護の下で静かに生きて行くことが必要なのです。
逆らえば、それなりの覚悟が必要です。
現在感覚では考えられない”歴史観”の必要な事が起こっているのです。
この”歴史観”は、歴史知識をより多く獲得して応用する事だと思います。
それには、青木氏であるので本サイトの論文をお読みください。
必ずや、この”歴史観”が得られます。
この青木氏の歴史観から観て、お家は必ずこの上記した論説の中にあったと観ています。
では、何か判りましたらお便りください。
初めまして、御教示をよろしくお願いします。本家は江戸中期には名主をしていました。
私の家は丸に下がり藤ですが葉が下向き花弁は外11内7家紋です。
どちらかと言えば花弁は離れています。
本家は元禄頃の墓誌があります
また嘉永5年の墓誌に上州足次村重吉郷写と碑文があります。
宗派は真言宗です、足次村の寺も真言です
足次村には戦国のころから冨田の名字はありませんと、住職にいわれました。
館林の武士と口伝えはがあります、冨田又十郎氏と関係があるのでしょうか
?又十郎氏の使用家紋はわりましたらよろしくお願いします。
本家は明冶の初め火事にあいなにものこってません。
本家は江戸中期には名主をしていました。
乱文に勝手な御教示お願い申し訳ありません。
いつもながら詳細なご回答をありがとうございます。
当方としましては副管理人様の情報評価・分析を全面的に信頼させていだたいておりますので、過去に投稿させていただいた『西園寺氏』、『宇都宮氏』等との関係につきましてはもはや一切拘泥しておりません。
当家のルーツにつきましても、ご教示頂いた方向で間違いなかろうと考えております。
それでもなお、こうして素人調査を続けておりますのは、ただ伊予西南部の田舎で百姓をしていたとしか理解していなかった当家に未知の過去があったことに対する驚きと、一族について可能な限りのことを知りたい、という好奇心が尽きぬゆえです。
大きなことを申し上げるようですが、家族愛・郷土愛からのもの、とご理解いただければ幸いです。
同時に、当ブログの青木氏研究に少しでも材料を提供できれば、という気持ちもあり、『青木』と聞けばつい目がいくようになってしまった、という面も否めません(苦笑)
そこで昨日の今日なのですが、郷土資料から注目すべきものを発見いたしました。
地元郷土史家による『曽根庄屋青木家-古文書と墓石銘からの郷土史研究』なる史料であります。
『曽根』は現・宇和島市三間町にあり、当家の墓がある場所からは『丘一つ』越えた地域です。
最初にご相談しました当家の伝承『三間町で庄屋をしていた』の部分に符号するものですが、一読した結果、副管理人様が既に下された評価・分析の通り、『この庄屋青木家は、当家の先祖ではない』と思われます。
ただ内容は一五〇〇年代に遡る墓石銘・過去帳・他家の庄屋史料を元に、曽根庄屋青木家歴代のつながりを解き明かしたもので、伊予西南部における青木氏の活動を知る上でも良好な史料と思われます。
以下のURLにコピーを貼らせていただきました。
ただ、地方の歴史研究雑誌に投稿され公開されているものではありますが、一応は著作権の問題もあろうと存じますので、副管理人様が確認・保存され、お返事を頂いた段階で削除する予定です。
『原寸で表示する』というボタンを押しますと見やすくなると思われます。
http://shashinkan.rakuten.co.jp/my-page/community/top/c/aokishouya
『見えない』という場合はご連絡をお願いします。メールアドレス等をお教えいただければデータを送付可能です。
上記史料に若干の補足を致しますと、曽根青木家の墓・過去帳が納められていた『宗光寺』は『天台宗』の寺であり、史料にあります通り現在は無住となっております。創建年代等は不明です。
現在、曽根青木家の過去帳を所蔵している『医王寺』は、当家が住む宇和島市吉田町立間地区にあり、同じく天台宗。寺伝等によれば『草創期は不詳であるが、『吉田古記』に「医王寺は、立間大光寺十二坊の一つで、天台宗である」とみえている。戦国争乱の世には堂宇は荒廃し、各宗の僧侶が時に応じて住持するなど、宝灯明滅、宝財・文献の類が散逸したという。応永二二(一四一五)年西園寺氏の配下清原勝円の帰依を得て浄財を募り、上日和尚が中心となり堂塔の再建をみた』とあります。
また宗光寺を含む一体は中世城郭『岩倉城跡』にあたり、道路建設のコースとなったことから自治体による調査が行われています。
http://pc2.ehimemaibun-unet.ocn.ne.jp/kankobutsu_hoka/hokokusyo/1 ..... yo_157.pdf
『曽根庄屋青木家』は現状、子孫はおられません。また道路工事に伴い、庄屋青木家の墓は宗光寺の山門内の境内に移され、歴代住職の墓に隣接した場所に集めた形で地元の方々がお世話をなさっているようです。(地元の皆さんの墓地は別の場所です)。
史料にある『庄屋以前の墓』は、今も岩倉城跡の山中にあります。
先日、実家の父と共に訪れましたが、竹やぶと雑木が密生し、歩くのも困難なほど凄まじい荒廃ぶりでした。
微力ながら墓の上の倒木を片付け、倒れた五輪塔を積み直すなどし、手を合わせて参りました。
やがて土に帰る、という思想からは余計なお世話であったかもしれませんが、ひょっとすればご先祖に何らかの関係があった方々、と思えば放っておくのも忍びなく思った次第です。
なお、当地を訪れた最大の目的であった『墓石の家紋を確認する』は果たせませんでした。どの墓にも、一つとして家紋が刻まれていなかったためです。
よって曽根青木家の家紋は不明のままです。
言うまでもありませんが、浄土真宗である当家と天台宗である曽根青木家とは宗派が違いますし、通字に『正』の字を入れる、といった風習も異なることから、曽根青木家が当家のルーツではない、という結論に達しました。
恐らくこの曽根青木家は土佐側から、四万十川沿いに移動(愛媛県鬼北地区は、土佐四万十川の源流に当たります)してきた讃岐青木氏の末裔とお見受けしますが、この点は副管理人様の評価・分析をお待ちします。
一方、 曽根青木家が庄屋となった年代が、当家の初代の没年より後であることから、『庄屋から分家した』という当家の伝承に矛盾があることも明白です。
副管理人様の分析通り、当家が『庄屋をしていた』との伝承は信用できないものと断定してよいと思われます。
ただ、丘一つ越えた土地にこれだけ堂々たる青木氏が居住する同時期、当家が『青木』を名乗って暮らしていたとなれば、逆に当家が『青木』を詐称できた可能性はほぼ無くなったのでは、と考えます。
三間町曽根を含む鬼北地区には江戸期、少なくとももう1軒の『庄屋青木家』があったことも確認されており、当家が彼らの庇護の元で帰農し生きてきた青木氏、という具体的な図式が、逆に見えてきたように思われますが、いかがでしょうか。
連投となりますが、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。
今日は。
お久ぶりですね。
ご苦労されている様ですね。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の讃岐と伊予域では出て来ないと思います。
全て、「讃岐青木氏」の事に成るでしょう。
出て来るとしては、和歌山か伊勢か駿河に成るでしょう。
「脩行系青木氏」の本流が逃げ帰った地域の駿河にお家のルーツの事があると思います。
既に、伊勢と和歌山で筆者が調べたところでは、お家の伝来の家紋は下記にも述べますが、早くも判りました。この事からも、讃岐では無理ですね。
ただ歴史を勉強する意味では無駄ではありません。
その意味で、下記にお尋ねとして論じます。
「青木神社」の件
「少彦名神」は仰る通り医術の有名な神様ですね。
実は、「青木氏」に取っても少なからず関係がある神様なのです。
中国地方での青木氏の末裔が、この「少彦名神」の医術を「神明社」の宮司の子孫として志を通じて、医術をより勉強して得て、更に関西に出て来て有名な医者に成った青木氏が在ります。
そもそも、古来の神社は、”ただ単に神様を祀るだけ”のものでは無く、「神の成せる技」として、”家内安全や平穏無事や病気治癒等”を、実際に行動を興して庇護する役も担っていたのです。
その為には、「国の神」の「皇祖神の伊勢神宮」に代って、「子神の祖先神の神明社」に、この役目を与えました。
全国に神明社を建立させ、この「建立と運営」を「賜姓五役」として「青木氏」に任務を与えたのです。
その為に「青木氏」は「御師」の「総括の立場」にあり、「伊勢神宮の御師の立場」にありました。
この為に、「青木氏」は「御師様、氏上様」と呼ばれ、全国の庶民の為に、朝廷は伊勢神宮の一つの役目として(”神の成せる技”)として、その一つの役目を果たす様に「漢方薬」の「薬師の役目」を与えたのです。
そして、朝廷はこれを「賜姓族の青木氏」の役目として”調薬する役目”を与えたのです。
その「青木氏」は、これを「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」の役目の一つとして、全国に500にも成る神社を配置したのです。
この「神明社の神職」にこの役目を与えました。
そして、”神の成せる業”として、全国に広がる「神明社」を通じて、この「神明社の禰宜の宮司」に「漢方役の医術」と「薬の作り方」や「薬草の見分け方」や「探し方」等を記して、教えて、この大役を担わしたのです。
この「漢方医」としての「全ての技術技能」の「青木氏の御師頭」は、朝廷よりこの「少彦名神の役目」を「青木氏」が変わって背負ったのです。
「医療機関」が整っていなかった「古代の社会状況」の中で、「神を祭祀する神社」にその役目を与えて、全て”「神」の成せる技”として、”病気を治す事”も務めていたのです。
民は「少彦名の神」に祈願し、その結果、「御師の禰宜」から「神の御託宣」として、「漢方薬の調合」を受けて飲み「病気治癒」を果たして、「神の加護」を受けたとして喜ばれ崇拝し信心したのです。
これが、「神明社の神職」が務める大事な役目でも在ったのです。
つまり、”「漢方医」の「御師の薬師」”として、「民」に関わっていたのです。
その「神社」で、”家内安全を祈願する習慣”はこの事から来ているのです。
古来は、多くは「神明社」が担っていたのですが、その内に、平安時代の後半には積極的に「熊野神社」の様な民間の”大きな神社”もこの「薬師の役」を務める様になりました。
その後、平安末期頃には、”朝廷の庇護を受けていた大神社”等の中にも、「神仏習合」で、更には「薬師観音像」を安置して、”病気治癒を祈願する民”には、「神仏の両方からの加護と御託宣」として「漢方薬」を配合して、「医術の役目」を果たしていた「一般の神社」もありました。
この状況は、室町期末期頃まで続きました。
江戸期に成って、宗教改革で衰退しましたが、「八代将軍の吉宗」は幼少の頃に加納氏と共に伊勢青木氏等が親代わりに成って育てた事もあって、この上記の”「御師の事」”をよく承知していて、再びこの「御師のシステム」を復活させ、更には「幕府のシステム」にもこの「御師システム」を敷きました。
現在、「青木氏の伝統シリーズ」の中でもこの事に付いて論じています。
それを示す”「伝統品の薬籠」の論文”を掲載していますが、上記の役を示す「漢方薬を入れる籠」の「伝統品」が「賜姓五役」の「青木氏のステイタス」として代々「氏の伝統遺品」として奈良期から引き継いできています。
現在も遺されています。
これが、「青木神社の由緒」として、今治市にも遺されているものと思います。
この様な事は全国の青木氏に関わる神明社の有るところには、この様な逸話が数多く遺されています。
例えば、NHKの大河ドラマの中で、「近江青木氏の血筋」を引き継ぐ「黒田氏の初代」はこの「薬師の御師」であった事はドラマ化されましたね。
そして、最終は播磨に落ち着いた「神明社の神職」であった事が紹介されました。
ドラマでは、各地の薬草を探す傍ら、更には「神明社」を通じて、「各地の動静」を伝える諜報活動の役をも演じていました。
当にこの通りなのです。
「青木通り」の件
次に「青木通り」の呼称は、明治後に名づけられた呼称だと思います。
「嵯峨期の詔勅」に依って、「青木氏」の呼称も含めて、青木氏以外は”青木”に関わる呼称の一切の使用を禁じていますし、その密教に関わる習慣の使用と模写を禁じています。
一つの例として、「以仁王の乱」で「源頼政」の孫は、九州日向国の廻村に配流されます。
本来なら、反乱者として打ち首ですが、親族の伊勢青木氏の嘆願で生き延びて配流と成ったのですが、再び反乱を九州で起こし敗れます。
この時、「廻氏の遺族」は「配流孫」と共に薩摩の大口村まで逃げ延びます。
しかし、追手が追いつき、逃亡先の寺まで来た時に、住職から”伊勢の青木氏の末孫だと名乗れ”と忠告を受けて生き延びる事に成功したのです。
平家軍は「不入不倫の大権」が天皇より「青木氏」に与えられていた為に手出しが出来なかったのです。これが現在の日向青木氏です。
この特例は、明治3年までほぼ護られました。
ですが、上記の事から「神明社」を通じての慣習は許されていましたので、「薬事」の事が遺されているし、「青木通り」の事も含めて、後に「青木神社」も「神明社」から変名したと観られます。
その時期は、江戸初期の宗教令に伴う処置か、”明治初期の廃仏毀釈の嵐”を逃れる為に、「青木氏の守護神」の「神明社」でも破壊は免れる事が何とか出来ます。
しかし、より確実に神社を護る為に、更に強調して印象を与える目的から、”青木”の言葉を使い「青木神社」の呼称に替えたものと思います。
全国の各地の神明社にはこの様にした神社もありました。
つまり、「青木」に関しては、「天智天皇」から与えられた永代の”「不入不倫の大権」”を奈良期からありましたので、人々はこれを護っていました。
今治でもこの「神明社」が遺された事が考えられます。
各地の神明社は、歴史上、”三度の宗教改革の災禍”がありましたが、多くは「廃仏毀釈」等の激しい災禍から逃れられましたが、中には室町期中期以降には、平安期の最盛期との状況と違い、庶民の中では地域によっては、その影響は薄れて破壊されたものもありました。
さて、次ぎはお便りです。
「青木地蔵」の件
>また同市内には『青木地蔵』もあり、四国88カ所の『番外』と位置づけられ、お遍路用の無料宿泊所が設置されており、地域の人々によって今も世話がなされています。調べてみますと『青木地蔵』は全国にいくつか点在するようです。
このお便りは「青木氏の足跡」として考察されていますが、納得できます。
実は、全国に広がる「青木地蔵」なるものには、”謂れ”が在りまして、それを若干披露したいと思います。
この事は、「伝統シリーズ」の論文の中ても詳細に記載していますし、多くの論文にも書いています。
そもそも「青木氏」は、元来、「古代の浄土密教の氏」です。
その「青木氏」は、「皇族賜姓族」として、「賜姓五役」の一つとして、仏教が伝来しない前からの「古代の和魂荒魂」の「宗教概念」を引き継ぎ、仏教伝来後も「古代仏教」を「青木氏の密教」として伝承してきています。
つまり、「二つの宗教概念」を継承しているのです
古代宗教の「和魂荒魂の宗教概念」と「古代仏教の宗教概念」を習合させて、一つの「密教概念」を確立させて伝承しています。
そこで、「和魂荒魂の宗教概念」には、「荒神様の概念」、「古代仏教の概念」には、「毘沙門天様の概念」が在って、この二つを習合させていたのです。
そして、「和魂荒魂の荒神様」には、青木氏等が祭祀する「三宝荒神」と、これを基に発展した庶民が信心する「地荒神」の二つがありました。
この「地荒神様」には「道祖神」、「産土神」が生まれ、庶民の中でも、地侍の様な階級が信心する「産土神」と、この農民等の庶民が信心する「道祖神]が在りました。
この庶民の「道祖神」には、道端に祭祀された「お地蔵様」が在ります。
この「お地蔵様」には、そこで、「元の青木氏」が祭祀する「三宝荒神様」の所縁を以て「青木地蔵」と云う「地蔵像」が作られたのです。
これには、上記の「薬師で病気治療」に「青木氏」が深く関わった事とか、「道祖神」の元の「三宝荒神」の「青木氏」の理由から、特に庶民から敬愛されて「青木地蔵」が祭祀されたのです。
これが庶民から自由自然発生的に生まれた「青木地蔵の所縁」です。
この「青木地蔵」があるところには、「病気治癒の薬師」などを通じて、その地の「青木氏」が庶民から尊敬されていた証拠です。
室町期中期までには、「青木氏」が存在する地域には多くありましたが、戦乱などで消滅する等で江戸期直前には数少なく成りました。
明治期に成ると、この伝統も無く成り、遺されているところも数少なく成りました。
その意味で今治地域は珍しく、恐らくは”讃岐藤氏の讃岐青木氏の所以”でしょう。
瀬戸内に廻船業で絶大な勢力を持っていたこの「讃岐青木氏」も昭和20年頃には衰退して、この様な伝統も消えて行ったものと考えられます。
「四国の神明社」の件
>ところで、当家の先祖が住んでいたとされる『愛媛県三間町(現愛媛県宇和島市三間町)』は、地域的には『鬼北地区』と呼ばれる地域に属しており、現在そこにはいくつかの町が合併した『愛媛県鬼北町』があります。
>高知県西南部との境を形成する地域です。
>この鬼北町に、愛媛県におけるもう一つの『神明神社』があることを、他ならぬ当サイトの記事で知りました。
>行政区分では隣町になりますが、当家の先祖が庄屋をしていた、とされる地域から遠からぬ場所であり、注目しております。
恐らくは、「讃岐青木氏」が護っていた神明社系の神社であって、同じ系列のものであったと考えます。
土佐一条氏の件は歴史上有名ですが、短期間の事件ですし、讃岐青木氏に取ってはあまり関係の無い事件の領域です。
>また『小京都』とまで呼ばれた都市を建設する財力や、土地を治めるための戦力も、四国の青木シンジケートの協力なしには不可能と思えます。
>この時、四国の青木氏はどのように動いたと考えるべきでしょうか。
>我が先祖がなぜこの伊予西南部に移動したのか、その事への手がかりになるのでは、と思い質問を差し上げました。
この件については、前回のお答えでも記述しました。この範囲で動いたものです。
1584年から1585年に掛けて、宇都宮氏や西園寺氏は滅亡してしまいます。
この少し前には一条氏も潰れています。1509年には四国は安定しています。
平安期には「純友の乱」にも観られる様に、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われ、その結果、朝廷や源氏から妬まれて,危険視されて潰されます。
しかし、その後、再び勢力を盛り返し、「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」は、この反省から「武力」だけでは無く、「瀬戸内の沿岸勢力」を纏め上げて、その産物を全国に売り捌きます。
且つ、廻船業としても「二足の草鞋策」で「莫大な財力」も築き上げ、四国中国地方全域の中で群を抜いて「影の力」として存在して居たのです。
従って、同じ藤原秀郷の血縁一族の宇都宮氏でも、「讃岐藤氏の協力」が得なければ、この四国では生きて行けなかったのです。
お話の一条氏にしろ長曾我部氏にしろ、四国の豪族は何氏にしろ潰されていますが、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は無傷で生き残っているのです。
この「讃岐藤氏の勢力」を得なければこの四国では生き残れなかったのです。
態々”「讃岐藤氏」”と呼ばれる位に絶大な「影の勢力」であったのです。
この「瀬戸内のシンジケート」を無視できなかったのです。
ですから、「瀬戸内」を制していた為に一切の大名は武器食糧などが入らなくなり何時か潰れて行くのです。
毛利氏でも伊予攻めしても慌てて直ぐに自領に戻ると云う事をした位なのです。
”長居は無用”で「影の力」で潰されるのです。
ところが、「影の力のシンジケート」を持つこの「讃岐藤氏の讃岐青木氏」等は武力勢力には一切関わらなかったのです。
「讃岐青木氏の一族一門」は、多くは”「土地持ちの郷氏」”として各地に存在して、”影の実力者”として存在して居ました。これは「秀郷一門の戒律」です。
本拠の関東でもこの戒律を強く護りました。
頼朝も、家康も、戦わず臣下させて「一族の勢力」を維持させ護ったのです。
家康などは、わざわざこの「藤原姓」を名乗って、”藤原の朝臣徳川の家康”として官位を受けています。
「幕府」もこのことから開けたのです。
頼朝はバックと成っていた「北条氏等の坂東八平氏の勢力」の反対を押し切って、一切の秀郷一門の本領を安堵して、その勢力を自分の勢力に取り込み、「北条氏の勢力」に全てを委ねる事を避けたのです。
「秀郷一門」はその勢力を結集すれば鎌倉幕府、云い換えれば「坂東八平氏」を遥かに超えていたのです。
しかし、前に出る事はしなかったのです。
”世に晒す事無かれ 何れ一利無し 然れど 世に憚る事無かれ 何れ一利無し。”の戒律が在ったのです。
秀吉などは、この「全国の秀郷一門の勢力」を怖がって、先ずは「関東の藤原一門」を攻め落とそうとしましたが、本領は無理として、勢力の北の端からの「陸奥の勢力」から潰しに掛かります。
しかし、背後の秀郷一門の動きに危険を感じて、秀吉に依って差し向けられた軍は、大犠牲を払って陸奥の結城氏を急いで無理押しして潰して、慌てて大阪に逃げ帰った位です。
これが全国にある秀郷一門の生き様の戒律です。
「讃岐藤氏の青木氏」は、宗家にはなかなか従わなかったのですが、この「伝統の戒律」の一線だけは護りました。
その宗家との勢力は変わらなかったのです。
つまり、”四国の動き”には関わらなかったのです。
お家の龍神から讃岐に逃亡した「脩行系青木氏」は、この「讃岐藤氏の青木氏」の庇護を受けていましたので、「讃岐青木氏の戒律」に従い、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の勢力圏の伊予の南西域を護る為に配置された事から移動したと観られます。
「土佐一条氏への合力」や「宇都宮氏や西園寺氏」の云々は、「讃岐藤氏」の中の単なる出来事で、短期間の勢力圏の縮図であって、一条氏の歴史から観ても「正式な合力」とまでの行動では無かったと考えます。
お家が主張されている”宇都宮氏や西園寺氏との関係”も、又、この”土佐一条氏との関係”も室町期末期の短期間の中での出来事です。
お家のご先祖の「龍神説」による「脩行系青木氏」の「単独の行動」と云うよりは、庇護下にあった「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の中での「戦略的行動」の範囲であったと観ています。
大きい歴史事と結び付けての”ご先祖”とする考えと観ますが、前回にもお答えしました様に、龍神説からの「佐野氏族脩行系青木氏」とすれば、考えられないシナリオです。
家紋まで「三つ巴紋」にしてまでの論調には矛盾が在ります。
この四国にはお家の歴史観は短期間の範囲ですので、公的な歴史書館の中には遺されていないと思います。
「龍神説」の「脩行系青木氏」であれば、本流と和歌山に遺された一族の家紋は、正しく「丸に州浜紋」を護っていますよ。
氏の象徴である家紋が厳然と子孫に依って護っていると云う事は、お家の歴史感が未だ遺されていると云う事です。
恐らくは、お家が論調している「青木氏の事」は、全て「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の事であると思います。
「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の家紋は「下がり藤紋」に副紋「雁金紋」です。
お家が論調している「三つ巴紋」は、「讃岐青木氏」には有りませんし、「丸に州浜紋」もありません。
「青木氏」としては無い家紋で、秀郷一門でも、進藤氏系だけです。
兎も角、龍神説の「脩行系青木氏」の「三つ巴紋の青木氏」から来るお家の「青木氏の論調」は考えられません。
「青木氏」には、他の武家と異なり家紋掟には特定の歯止めがあってこの様な事は起こりません。
「龍神説の脩行系青木氏」であれば、和歌山と伊勢と駿河に逃げ帰った本流は、正しく「家紋」を護っていますよ。
つまり、お家のルーツを正しく搾取無く護っているのです。
まぁ、兎も角も、お家ではなく、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は何人も超える事の出来ない「影の力」を持っていたのです。
前回のお答えのみならず各所の論文にもこの事は記述しています。
是非に、青木氏の研究室やルーツ掲示板の論文などを走破してください。
必ずや、お家の青木氏の生き様を導き出す糸口やチャンスが別に訪れる筈です。
龍神から出て来た「脩行系青木氏」の事が解明する筈です。
調査が進んでいない様なので、敢えて念の為に、お家の別のルートの伊勢や駿河に移動した一族や和歌山に遺された一族の家紋をお教えします。全て「丸に州浜紋」です。
和歌山での遺されたお家のご先祖は、支流族とは成って居ますが、和歌山一の豪族に成って居ますよ。
現在でも勢力を広げています。「・・・三」と云えば知らない人はいません。
匿名ですが、超有名な代議士に成って居ます。
地元でも裾野大きく広げた今でも和歌山の旧名家です。
この様に伝統が遺されたところにはお家のルーツの事が発見できる筈です。
この家紋は、四国のお家が云う家紋と極めて特徴が類似しています。
龍神説が正しいとすると、途中でご先祖の誰かが家紋を間違えた可能性がありますね。
兎も角も、四国では、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」との混同は、矛盾が起こり何時までも本当のルーツにはたどり着けませんから避けるべきです。
周囲の青木氏の家紋などを良く見極めてからの論調とされるべきです。
では、龍神説からのルーツ探究をお勧めしますが、ご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。
ご無沙汰しております。
その後、暇を見つけてはこちらのサイトを読ませて頂いたり、当地域の郷土資料などを閲覧したりしております。
当家に直接つながる証拠は未だ発見できませんが、少しでも理解を深めたいと試行錯誤しております。
ところで郷土資料などを閲覧するうちに、愛媛県における青木氏の足跡と思われる情報をいくつか入手しましたので、参考資料として記述させていただきます。
1.愛媛県今治市に『青木神社』、またその神社があった場所がかつて『青木通り』と呼ばれていた。
青木神社はこちら。現在は今治市の式内神社『姫坂神社』の境内に移設されております。
hhttps://www.google.co.jp/maps/place/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E7%A5%9E%E ..... ,17z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x35503a56f515a64b:0x10ce6978d3d2f12?hl=ja
神社の由来書にはこのようにあるそうです。
青木神社由緒
一、祭神 少彦名神
一、神徳と沿革祭神 医学の神様として広く信仰さ れている少彦名神様は、太古各地を巡って 医術と医薬の道を指導し大勢の病人を救 済なさった神徳の高い神様であります。
青き(青木)通り(現、北日吉町一丁目)は少彦名 神様のご駐蹕の古跡に小千国造が神籬を 立てて祭祀を行ない、のち社殿を造営され た大そう古い神社であります。江戸時代藩主の祈願所として庶民の信仰 あつく、病に悩む人々特に「咳」の守護神 として祈願と感謝に奉納する草履は相当 の数であったと伝えられています。明治四二年にここに遷座されましたが今 も霊験を頂く祈願者は市内一円から附近 の町村からそのあとを断ちません。」
「青木通り」は現在の青木神社の位置から南東に少し下がった、現JR今治駅の裏手の辺りですが、現在は住宅地図などを見る限り『青木姓』は見当たらないようです。
ただ愛媛県今治市はかつて伊予の国府が置かれていたとされる土地(考古学的発掘による証拠は未だ発見されていない)で、また青木氏とゆかりの深いとされ愛媛には2カ所しか確認されない新明神社(この情報も当サイトで勉強させていただきました)が存在する土地でもありますので、青木の足跡と考えて不自然ではないと思われます。
また同市内には『青木地蔵』もあり、四国88カ所の『番外』と位置づけられ、お遍路用の無料宿泊所が設置されており、地域の人々によって今も世話がなされています。調べてみますと『青木地蔵』は全国にいくつか点在するようです。
ところで、当家の先祖が住んでいたとされる『愛媛県三間町(現愛媛県宇和島市三間町)』は、地域的には『鬼北地区』と呼ばれる地域に属しており、現在そこにはいくつかの町が合併した『愛媛県鬼北町』があります。高知県西南部との境を形成する地域です。
この鬼北町に、愛媛県におけるもう一つの『神明神社』があることを、他ならぬ当サイトの記事で知りました。
行政区分では隣町になりますが、当家の先祖が庄屋をしていた、とされる地域から遠からぬ場所であり、注目しております。
ところでここからは余談といいますか質問になるのですが、愛媛県西南部について調べるうちに、愛媛大学の川島勉教授が書かれた「永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察」なる論文を拝読しました。
愛媛大学のサイトに全文が公開されております。
http://www.ed.ehime-u.ac.jp/~kiyou/0402/pdf36-2/2.pdf
これによりますと永禄八年以降、土佐一条氏が伊予侵攻を本格化させ、それに『三間の衆』が従っており、この地域が土佐一条氏の勢力下にあったことが分かります。
歴史についてほとんど興味を持たなかった者ですが、調べますと土佐一条氏は土佐一条氏は、1468年(応仁2年)に一条兼良の子で関白の一条教房が、応仁の乱の混乱を避け、京都から所領であった土佐幡多荘(現在の四万十市中村)に下向した、とあります。
最終的には長宗我部氏の傀儡となって消滅するようですが、一時は土佐を二分するほどの勢力を持ち、西園寺氏や大内氏とも婚姻関係を結び、四国西南部に大きな力を振るったようです。
押しも押されぬ藤原北家、初代は関白までなった人物が下向したとなれば、四国の青木氏も無関係であったとは思えません。また『小京都』とまで呼ばれた都市を建設する財力や、土地を治めるための戦力も、四国の青木シンジケートの協力なしには不可能と思えます。
また下向に際しては、京都から多くの貴族や武士が随伴したという話もあるようです。
この時、四国の青木氏はどのように動いたと考えるべきでしょうか。
我が先祖がなぜこの伊予西南部に移動したのか、その事への手がかりになるのでは、と思い質問を差し上げました。
例によって中途半端な知識でご不快な点も多々あろうかと存じますが、不出来な青木子孫が不出来ながら努力を続けているのに免じて、ご教示いただければ幸いです。
さて、「密教の情報提供」が追伸されていました。
確かに、5家5流皇族賜姓青木氏の15氏は密教の中の更に密教です。
仏教伝来前の飛鳥時代の「和魂荒魂」の「古代宗教」からの密教性です。
三大密教の前の「神仏習合の古代密教」からの伝統を青木氏は引き継いでいるのです。
確かに、悠久の歴史を持つ氏ですから、当然にその習慣や仕来りも遺されているものです。
確かに、筆者も子供の頃は周りと生活の何処かが違うと云う違和感があり、何か周囲の人も違和感で接していた様な気がします。
子供で有ったので気にもしていませんでしたが、これが密教浄土宗の仕来りであったとは思いもしませんでした。
ただ広い部屋にはいつもお香の匂いが漂い、茶器セットが常に準備されているのは、確かに周囲とは違うと思っていましたし、お盆や彼岸などの祭祀には大変な違いが在りました。
考えてみると、友達が来ても部屋に絶対に上がらない状況でした。異様な雰囲気が漂っていたのでしょう。
「5家5流の賜姓族青木氏」の一門15氏は、「和魂荒魂の古代宗教」に「古代仏教」が習合し、それが「密教浄土宗」に成り、「青木氏の密教」として、その慣習仕来り掟を護ってきました。
また、この”青木氏の慣習仕来り掟を他氏が倣っては成らない”とする平安初期の禁令もあって、余計に密教性が高まりました。
ところが鎌倉時代には、宗教改革が起こり、浄土宗も密教が衰退して顕教の浄土宗が起こりました。
室町期には下剋上や戦国時代で密教を継承して行く氏は殆ど滅亡してしまいました。
依って、密教が余計に密教と成ってしまって、特異なものと成ってしまいました。
江戸初期には全ての密教は顕教に変更する様に「宗教令」が出て、密教を宗派とする氏族は青木氏と近江佐々木氏位に成ったのです。
ですから、諏訪族の定住地では無かった地の栃木や埼玉に移動したお家に取ってみれば、尚更、明治期に成っても「異質の感」が在ったと観られます。
信濃諏訪地方では、周囲が全て信濃青木氏一門ですから、たとえ顕教令が出てもそうでも無かったでしょう。
しかし、父の代までは護って居たのですが、筆者の代の現在では最早、難しく成って居ますね。
ですから、出来る限り、文書にしてでも遺そうとして、「伝統」シリーズで細部まで掘り下げて検証して論文を投稿しています。
既に、若い頃に書き溜めた原稿を修正して投稿を始めています。
恐らくは20くらいの伝統シリーズで投稿する予定です。
研究室などに沢山の論文を投稿していますので、必要なものをコピーして「諏訪族青木氏の由来書」にして子孫に遺すのもロマンが在って良いのではないでしょうか。
若い時にはなかなか読みませんが、定年間際の歳をとってみると、楽しみと成るでしょう。
お便りの情報を頂きましたが、「蒙古斑」や「絹と和紙」や「密教」等の情報に驚きました。
実にカンの鋭い感覚の持ち主とお見受けいたしました。
青木氏は、伝来の血液型があって、実はAB型が大変多いのです。
これは奈良期より明治の初めまで同族血縁をして来た所以です。
賜姓族としての血縁性を護る為に採られた生き残り策であった模様です。
AにしてもBにしてもルーツにあるのは、殆どがAB型から分離したAでありBであります。
つまり、隔世遺伝で、2代前か3代前にO型の先祖がいるとABは突然配偶者の血液型如何に関わらず分離した分離型Aと分離型Bが出るのです。
これも過去の同族血縁の影響です。
伊勢青木氏一族は信濃青木氏一族とは明治期の初めまで女系で相互に同族血縁をして来ました。
信濃青木氏の諏訪族青木氏にも同じ現象が起こっている事もあり得ます。
これは、「青木氏の密教」を護ると云う事も一つにはあった事に成ります。
蒙古斑の無い遺伝が今も起こっていると云う事が、ABに対しても起こっている可能性が有ります。
何か他にも血液型の特徴もお持ちでは無いでしょうか。
(栃木域に於いても氏族賜姓族と云う事から、同格式の持つ「秀郷流青木氏」との間で同族血縁が進んでいるのです。
昔は、「家柄つり合いの血縁」が主体でしたから「氏族」、「賜姓族」と成れば、必ずあったと観られます。)
お家が「ヒト遺伝子」を継承する「女系青木氏」であると云う事でこの事が考えられる事に成ります。
又何か判りましたら、是非にお便りください。
信濃の諏訪族青木氏の方も、神奈川の諏訪族の青木氏の方も、栃木の諏訪族青木氏の方も、埼玉北部の諏訪族青木氏の方も、楽しんでみていますよ。
確か、お家の親類に当たる栃木の諏訪族青木氏さんで自衛隊に入隊しておられる方も良く本サイトの投稿を観ておられるようです。
「密教の事」も論文でより詳細にはっきりさせますのでご期待ください。
では、お便りをお待ちしています。
ルーツ掲示板には諏訪族青木氏の方の投稿も沢山ありますので、それもゆっくりとお読みに成ると良いと思います。
小平の青木さん 今日は。お久しぶりですね。
お元気のご様子で何よりです。
さて ”小平”の小川氏は「姓族」ですので、「氏族」の「青木氏」とは全く関係ありません。
青木氏の場合は、奈良期から唯一氏名を村名に出来る氏族です。
天智天皇は、全国に氏名を村名にする事を禁じました。
この禁令は江戸期まで護られました。
小川・・は村の地名から採った姓名です。
青木氏とは、「氏族」と「姓族」の先ず大きな違いがあります。
次ぎに時代性が違っています。地名からの姓名は殆どは江戸初期頃からの発祥です。
「諏訪族の青木氏」はこの武蔵に移動して来たのは、武田氏が滅んだ室町期末期です。
以前のご返事にも書きましたが、諏訪族青木氏は一度神奈川に、次ぎにその一部が栃木に移動定住しました。
その栃木の一部が仙台の手前まで宇都宮付近に伸長します。
更にその後その一部が、武蔵の八王子付近に戻って移動定住します。
そもそも、江戸期を含む以前は移動定住は法度で、「国抜け」と云って、その一族が連座制で打ち首の斬罪です。
許可制の期間限定です。(何らかの理由、血縁とか開墾とか、の領主が認める理由があって移動出来るもので、その後に定住するにも許可が必要に成るのです。)
従って、室町期末期に、お家は、秀郷流青木氏の背景の下に後押しを得て、その勢力域を拡げて自領とする動きを見せたのです。
ところが、ある事件(下記)があって、この「八王子」に一部移動した「諏訪族青木氏」は、秀郷一門の秀郷流青木氏の定住地の武蔵の国境にも広がりを見せています。
(八王子は開墾と血縁ですが、お家は小川地区の開墾・殖産が条件であり、この一部が定住を認められたルーツです。)
恐らくは、その多くは「秀郷流青木氏」との血縁関係と開墾を通じて広がったと観ています。
「秀郷流青木氏」の定住地の中に「抱き角紋」の「秀郷流青木氏系」の「諏訪族青木氏」が国境付近に観られるのです。
普通は「棲み分け」と云って争いを避ける為に定住地を区分するのですが、血縁族はそのどちらにも属さない事から、国境に住むのが決まりで在ったのです。
依って、八王子の山間部とか秩父の山間部とか、河川の未開地とかを開拓して定住地を作り出すのです。
小川村も岸村も秀郷一門の自領内での当時は未開の地でした。
村山市一帯は「秀郷流青木氏」の入間の根拠地域です。
お家は、秀郷一門の許可を得て、この自領地の未開発部分の開発の殖産を主導した諏訪族の者であったと観られます。
秩父の山間部と荒川との境に出来た湿地帯、即ち、花園ー小川ー松山ー坂戸ー桶川ー熊谷の領域に囲まれた「湿地帯」を埋めて平地を作った領域で、秀郷一門が行った開墾地で有名です。
ここに、この湿地帯に適した物を植える事に成ったのです。
その殖産が、「養蚕」と「和紙」の殖産を試みたのです。
恐らくは、この小川地域の湿地帯の開墾作業には「姓族」の「小川・・・」土豪が替地として関わったのです。
その殖産には経験者を本庄や宇都宮などからこの殖産能力の持った「諏訪族青木氏」を招いて、行わせたのです。
それがお家のご先祖であった事に成ります。
南の八王子ー青梅ー飯能ー越生ー「小川」ー深谷ー本庄ー北の宇都宮までの戦略上のラインを作り上げたのです。
これがかの有名な「小川開拓」ですが、お家のご先祖は殖産のそれを成したのです。
この村山入間に居た郷士を替地としてこの開拓に差し向けたのです。
実は、その状況証拠として、栃木に伸長したお家の諏訪族青木氏の本流は勝ち取った土地の跡に必ずこの殖産を敷いたのです。
ですから、当然に、この「小川開拓」にも専門家を差し向けた事に成ります。
当時、荒川の上流河川域は良く氾濫したのです。
そこで、上記の湿地帯を埋めて護岸工事をし開拓地としたのです。
江戸時代は更に、水量の多いこの荒川の水を分ける開拓工事をしたのです。荒川分水として有名な河川工事の一つであったのです。
次に第二の状況証拠として、次ぎの事があげられます。
この土木工事は秀郷一門の得意中の得意の仕事で平安期から江戸までこの本職なのです。
比較的知られていない事なのですが、秀郷一門は、平安期から「土木工事プロ」なのです。
「藤原秀郷一門」の元の平安初期の氏名は官職から「結城」で在ったのです。
その最初に住んだ地域名が「結城」です。
鎌倉幕府の頼朝は、この結城氏の能力を良く知っていて、平家が奪っていた結城の領地を秀郷一門に本領安堵して戻します。
この幕府が行う土木工事の能力を高めようとしたのです。
朝廷の土木工事を専門に行う官吏で、今で云う設計から施工まで行う「ゼネコン」です。
有名な事として何と現在の「山陽道」の元はこの「結城氏」が行ったのです。
ですから、「結」・「城」なのです。
このライン上に存在する秀郷一門の豪族を「関東屋形」と呼ばれます,
そのラインが小川で切れていてここを開拓する事で一門の勢力は繋がり安定したのです。
荒川下流域の氾濫も少なく成ったのです。
勿論、経済的な流れが起こり生活は向上したのです。
江戸期には、幕府は秀郷一門に命じて、更にこの北域の開拓整備も進めます。
開拓しても、そこに根付く事が出来る産業を作り出してこそ開拓です。
それが、この湿地帯に適したのが、「桑と楮」であって、その殖産能力を信濃の古来から持っていたのが、諏訪族青木氏でした。
そして、そこに殖産を導いたのでした。この事は幕府の記録にも残っているのです。
特に、幕府は、この小川の「養蚕と和紙」には、「幕府の専売制」を強調して、江戸の中期頃にはその利益が莫大で中国に輸出するまでに成って居ます。
この為に、「専売制の利権」を独占する為に、嫌がらせ等をした為に地元の農民や郷士や郷氏や領主が組んで「利益の分配」で事件まで起こしているのです。
殆どはこの様にして、定住地を開墾してそこを住みかとするのですが、お家も宇都宮に帰らずにここに定住してしまった事に成ります。
その為には、他国の土地を奪って開墾するか、秀郷一門の許可を得て未開地を開墾するかの方法を採るのです。
開墾してもそこにどの様な作物を植えるかも開墾の作業秘訣です。
お家はこの後者で在ったのです。
従って、地主に成れているし、郷士にも成れているのです。お家は本来は「郷氏」の家柄です。
「養蚕と和紙」の何らかの跡が遺っている筈です。
幾つかの記録に依れば、”「桑と楮の殖産」を指導した”と観られますので一度お調べください。
お家の本流の「諏訪族青木氏」は、栃木を制覇して更に仙台のところまで勢力を伸ばして行った前者に成ります。
当然に土地を奪取した後には、上記したライン上にこの「桑と楮の殖産」を進めたのです。
北へ北へと伸長する中で、「諏訪族青木氏」の本流一族は、その後にこの勢力地にこの殖産を根付かせる為にお家のご先祖をここに配置して殖産を進めたと観られます。
小川氏の事に付いては「姓族」ですので、詳細は把握していませんが、半兵半農民から立身出世して力を持った者です。
岸村付近から替地で小川地域に入り勢力を以て地名を姓名にした者です。
その者と一緒にこの「付近の東より」を許可を得て隣接した形で殖産開墾をしたお家であろうと観られます。
お家は、小川の西よりは武蔵7党の勢力圏に近づく事から、無かったと観られますので、全体として小川村として扱われた事に成ります。
ライン上の中での役ですから秩父より東に定住していたと観られます。
従って、それほどに大きな氏の末裔を拡げていない事に成ります。
小川氏は「姓族」で「郷士」、お家は「氏族」で「郷氏」で、その違いが出ているので、小川村付近の記録には出ないと観られます。
その理由は、そのお家の主流は栃木方面にあるからです。
お家はこの小川地域に「殖産の専門家」として配置された家であって、そのルーツを辿れば奈良時代からの「氏族」です。
「抱き角紋」は、朝廷から認められた数少ない「氏族」ですので、本来、「丸付き紋」は無いのです。
信濃から栃木に移動定住して来た悠久の歴史を持つ「正規の諏訪族青木氏」です。
「日本書紀」にも出て来る氏族をご先祖に持っているのです。
(参考に、面白い話が日本書紀に載っています。
それは、諏訪族と青木氏が牧畜と絹と和紙の殖産を作り上げて信濃を開墾して豊かにしたので、天智天皇は特別に朝廷に呼び出して褒美と領地を与えます。
この時、諏訪族の首魁(諏訪族青木氏の母方)が青木氏と共に、天皇に直訴したのです。
やってはならない作法なのです。天皇に話が出来るのは正三位以上の高位の者しか出来なかったのです。
ところが、この首魁は皇族賜姓族の青木氏を背景に、天皇に対して、税が高いので、改善してほしいと直訴したのです。
周囲の者は止めに入ったのですが、天皇は直接聞く事を許して、その結果、税が緩く成り更に殖産が進んだ事が書かれています。
この事で、信濃青木氏は立場が良く成って朝廷からほめられたことが掛かれています。
その女系のルーツを辿れば、日本書紀にも書かれているこの人物の「後漢の人」の信濃の「馬部の首魁」に辿り着くのです。
故に蒙古斑の無い理由は、この「ヒト遺伝子」を引き継いでいる「女系の影響」がお家の中に主流と成って引き継がれ、隔世遺伝にて1/4で蒙古斑が出て来る事に成ります。
お家は女性ですので、この「ヒト遺伝子」を今も引き継いでいる事になります。
大変貴重な生き証人と成りますね。
「男子系諏訪族青木氏」には無い「体」が証明するとは実に珍しく驚きです。
遺伝子から観た絶対的な諏訪族の人の証明ですね。
お家のご親戚は栃木に今でもありますし、神奈川にも、信濃に、諏訪にも健在です。
是非、「珍しい女系の青木氏」は「生き証人の青木氏」ですから、是非引き継いで頂きたいものですね。
青木氏から観ればですが、お家が青木氏を引き継いだ事は、善き判断であった事に成りますね。
「ヒト遺伝子の論文」もレポートしていますのでお読みください。
日本書紀の青木氏に関わる事もレポートしていますよ。是非お読みください。
さて、話を下に戻しますと、何故ならば、青木氏だけは、500人程度以上に成ると、「青木村」の命名権が持っているのです。
現に、お家のご先祖の栃木に移動定住した「諏訪族青木氏」は2か所に「青木村」を形成しているのです。
そして、そこに、「諏訪神社」か「神明社」かの何れかを建立しているのです。
お家は、この一般的には「青木氏の「神明社」に関わりを持ったことから、青木氏の神明社や諏訪神社や菩提寺を建立する力と子孫拡大が500人を超えていなかった事が判ります。
臨済宗は浄土宗系列の支流です。これも納得出来る証拠です。
依って、浄土宗系寺を宗派としているこの事から判る事は、お家が信濃皇族賜姓族諏訪族青木氏である事が判ります。
更に、青木氏には一族の者を祭祀する寺(菩提寺)を建てる権利を持っているのです。
江戸末期まで、神社仏閣は誰ても建てる事は出来ず、特別に許可を得た氏族にしか認められていない権利なのです。
一般の「姓族」には、「寺社の建立権」のこの権利は認められていないのです。
青木氏にはこの「三つの権利」が認められているのです。
(小川氏には姓族ですのでこの権利を保有していません。従って、周囲に寺や神明社がある事はその権利を持っている氏族が周囲に居た事を示します。
秀郷流青木氏は勿論に諏訪族青木氏が周囲に居た事を物語ります。)
小川氏が、村山地区の郷士との事ですが、そもそも村山は秀郷一門の宗家の有る根拠地です。
其処に、武蔵7党と呼ばれる連合体が元から在ったのです。
「武蔵7党」とは弱小集団が互いに連合して身を護る集団です。
その中に丹党等が元から村山入間に郷士(地侍)として住んでいたところです。
そこに秀郷一門がここを根拠地とした為に、この地域の「地侍」は「別の土地」を与えられて、そこを開墾して交換地の土地を大きくもった郷士です。記録が遺されています。
サイトに「郷士」や「郷氏」のことをレポートしていますし、「武蔵7党」の事もレポートしていますのでお読みください。
この丹党から「丹党青木氏」が出ています。この事も詳しくレポートしています。
武蔵の地侍の定義が少し間違っていますが、”役人崩れと主張している地侍”のその地域がやや西寄りの地域です。
「武蔵7党」のそのルーツの主張は「家柄誇張」の江戸初期の搾取偏纂です。
ただ、丹党の「丹治氏系青木氏」だけはそのルーツが確認でき、記録もあります。
これもレポートが在りますのでお読みください。
日本書紀にもお家の事が書かれていますので、レポートしていますのでここもお読みください。
さて,その神明宮はお家の諏訪族を含む単独の「青木氏の守護神」です。
依って、お家は諏訪神社と神明社を守護神と成ります。
神明社には伊勢神宮が親神です。
その意味で「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」は、「伊勢神宮」に替えて朝廷にも命じられて奈良時代から全国に自氏建立の神明社は500社程建立しました。
「青木氏の守護神ー神明社の論文」にもありますので、お家の生き様が良く判りますよ。これも是非お読みください。
>それから、蔵には昔質屋をやっていたらしき看板と、敷地内に昔蚕小屋跡がありました。蚕は紙に結びつきますでしょうか?
このご質問に付いては、時代性が良く判らないので、難しいのですが、古くから絹は使用され養蚕は各地で行われていました。
特に、農民のみならず、武士に於いても副業として養蚕の「殖産」を行っていました。
直接に作業に関わらなくても殖産として関わり、栃木から神奈川までは桑野が多く見られた事が記録されています。
諏訪族は信濃では元々養蚕が盛んで、且つ、古代和紙の生産でも有名でした。
「古代和紙」は、その意味で「諏訪族青木氏」もこの生産能力を持っていて「桑や楮」の「原材料の生産」に積極的に関わっていました。
筆者の伊勢青木氏と信濃青木氏系一族(諏訪族青木氏含む)は、この一族が殖産に関わった和紙と絹の販売を手広く行っていました。
当然に「信濃諏訪族青木氏系」も逃亡先では武士として生きて行くことは難しく「生活の糧」として色々な職業に就きました。
中には信濃での経験を持ち込み殖産を広めたとされるのが神奈川で海岸沿いを開墾して「桑」の殖産を広めた事が判っています。
又、栃木に伸長した諏訪族青木氏は,その土地にも「桑の殖産]と同じ作業を伴う「和紙の楮の殖産」も手掛けています。
この状況証拠からも小川地区に「養蚕と和紙の殖産」を手掛けたと観られます。
秀郷一門にとっても諏訪族青木氏のこの行動は非常に重要な「戦略上の事」であったのです。
奪った土地になにもしないと云う事は治政から許される事ではありません。
武蔵の「秩父の小川村」は「小川和紙」として昔から有名ですね。
因みに青木氏に関わる地域では、全国和紙に関わる地域は、平安期からのものとして20か所に成るのですが、その内、14か所が和紙の生産地なのです。
如何に青木氏が一族が和紙に関わっていたかは良く判ります。
和紙の生産地
紀伊、伊賀、近江、美濃、・信濃、甲斐、ーー皇族賜姓青木氏
上野、下野、・武蔵、上総、越前、越中、越後、美作ーー特別賜姓族の秀郷流青木氏、
養蚕の生産地
・信濃、甲斐、美濃、
上野、下野、・武蔵、上総
この様に室町期からの時代を合わせると、養蚕地も和紙の生産地に類しています。
これには、「人」と「湿地の土壌と気候」と「桑と楮」の生産に適している事です。
湿地の水分を吸い取る能力の強い「桑と楮]が用いられたのです。この殖産には専門知識が必要であったのです。
中でも、最も両方に大昔から盛んであったのが「信濃」と「武蔵」で、その中でも「小川和紙」(秩父和紙)で有名です。
「小川生糸」としても有名でした。
ところが、奈良期からの殖産地であり、信濃も「信濃和紙」で「信濃生糸」有名です。
ここで「信濃と武蔵」は繋がるのです。
その「繋がる要素」は、「諏訪族青木氏」を含む「信濃青木氏」が殖産した「桑と楮」なのです。
「開拓地の小川村」は、この「桑と楮」の殖産に賭けたのです。
その基を持ち込んだのがお家のご先祖なのです。
その殖産をこの小川の開拓地に持ち込んで広めたのです。
武蔵は、室町末期から盛んに成りました。
特に江戸幕府の肩入れが特別に在って、武蔵の秩父小川地区は「桑の木」と「楮の木」の殖産が盛んであったのです。
これは信濃から諏訪族青木氏らが持ち込んだ殖産であったのです。
以上です。
余談として、そもそも、人のミトコンドリアでは、人は先ず「雌」があって、そこから子孫存続を確実にする為に、「雌の部分」から「雄の部分」を抜き出して分身を出して、生き残りを図ったのです。
この間にはミトコンドリアは生き残りの為に「4度の転換」を図りましたが上手く行かずに最終は、雄の部位を分離して生き残りに成功したのです。
元は、雌なのです。だから元の「ヒト遺伝子」は男性には無く女性にあるのです。
その分身の証拠が現在の男性には4か所遺されています。
その二つは一つは「乳首」と「ヘソ」です。全く機能していません。これが証拠です。
後の二つは本論では禁止用語に成りえますので表現できませんので割愛しますが、元は雌であるのです。
とすると、人の継承論からすると、論理的には、蒙古斑の様に、はっきりとする事が出て女系が本筋である筈です。
青木氏の密教論の仕来りでは、女系の青木氏が2代続いてもその家が男系では無く成っても、一代目の女系の嫁ぎ先の男子を養子として迎えてすれば正規の男系後継ぎとする事が出来る事に成って居ます。
お家の子供さんの息子さんが青木氏を継ぐ事で男系にもなりますし、娘さんまでの男子の子供さんが後を継げば世紀の青木氏となる仕来りです。レポート投稿済み
世間の仕来りとは少し違っていますが、兎にも角にも、本来は遺伝子的には女系である事が矛盾の無い継承と成りますね。
ご質問と成る大抵の事は家紋掲示板やルーツ掲示板や研究室やメニュー地名データにもレポートしていますので、ゆっくりとお読みください。
武蔵7党や坂東八平氏等の事などはインターネットよりも正しく大抵詳しくレポートしていますよ。
是非お読みください。
では、又何か判りましたらお尋ねください
また、思い出した事ですが、密教の話も聞いた事あります。が、元は密教なんて変だからあまり人に言わないよう言われた覚えがあります。
それから、小川村は元々神奈川県横浜群かなにかの小川村を戸籍で見ました。
また確実な情報にまとまりましたら書き込みます。
大変遅くなり申し訳ありません。
小平の青木です。
久しぶりにこちらに訪れ、こんなにも親身に膨大な情報を教えて頂きましてありがとうございます。お礼も遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
まさか、管理人さんとも繋がりがあり、膨大な歴史の渦に頭が整理出来ていません。
そして私が生きていく間に少しづつ自分のルーツを理解し、明白にして子供に伝えたいとおもいました。
少しづつまた質問しに戻ってきます。
膨大な先祖の歴史が一本に繋がりそうで、頭が混乱しています。本当にありがとうございます。
祖母が亡くなり相続で家がバタバタしていて、また子育てに追われる日々を過ごしていて、こちらへの質問をすっかり忘れたまま月日がたってしまいました。
こんなにもはっきりしたお答えを貰えるとはありがたいです。
まずは家紋の○を取り払う事が使命かと思います。
そして、小平市の歴史と私の家の歴史の繋がりを知りたいのですが、お寺は小川寺臨済宗円覚寺派寺院だそうです。
小平市は小川町が初めて作られたのが起源で、その小川町に住んでいます。神明宮と小川寺は青梅街道を挟んで南と北にあります。
が私の家は丁目を一つ飛ばした場所にありますが、小平での青木氏の元はうちであることは確実です。
管理人さんの話では神明宮と青木氏は一緒にやってきたという事ですが、小平の始まりの小川村を作ったのは小川九郎兵衛となっていて、簡単に調べた所青木氏は小平の歴史には見当たりません。
小川寺の歴史や神明宮の歴史にも出て来ないようです。(ネットで調べたくらいですが)
しかし、うちの言い伝えでは最初に小川村に住んだ何人かのうちの一人ということでした。
小平の歴史らしき文章の引用ですが、小平で一番最初に開発されたのは、小川村です。 開拓者は、小川九郎兵衛といって岸村(現在の武蔵村山市)の郷士でした。小川氏は武蔵武士の末裔です。武蔵武士とは、平安の時代、朝廷から国司として派遣された下級役人が任期があけてもそのまま居ついて、土地と警察力を持つようになった人のことです。中でも武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)が有名で、小川氏は西党の構成員で、小川牧(秋川市)という馬を育てる牧場を治めていました。室町時代には、北条早雲の北条氏に仕えていましたが、北条氏が秀吉に降伏(1590年)して滅びてからは岸村(現在の武蔵村山市)に住むようになったそうです。
だそうで、何故この小川氏と一緒に村の最初の人となったのでしょう?
それから、蔵には昔質屋をやっていたらしき看板と、敷地内に昔蚕小屋跡がありました。蚕は紙に結びつきますでしょうか?
遠い親戚の方に出会えたこと、本当に感謝します。
素晴らしいデータベースを作っていただきありがとうございます。
また、何かわかりましたら追加で記入させてください。
今日は。早速のお便りありがとうございます。
大変失礼をしました。
実は、お答えをする前に、前提が在りましたが、それを書き忘れてしまいました。
それは、抱き角紋の青木氏の中に、良くこの「抱き茗荷紋」と間違えてお尋ねがあり、尚且つ、抱き角紋の青木さんの支流族にこの抱き茗荷紋が多い事を念頭に描いたものなのですが、書き終わった時にはこの前提をすっかり書き忘れて仕舞いました。
というのは、この抱き茗荷紋の青木氏には、本来はこの「丸付き紋の抱き茗荷紋」の青木氏は無いのです。
この文様は江戸初期に作られた文様で、家紋を持っていなかった立身出世した旗本の70家にも及ぶ家が家紋にしました。
主に関西では稲垣氏、鳥羽氏等の、二宮氏の一族が使いました。
関東では、前回にもお答えした漁師や漁業関係者や船舶関係者に成った中で、且つ、昔は「抱き角紋の支流族」であった中に、長い間に身分や家紋等を無くした者も居たのです。
その彼等が、徳川氏の「軍船の傭兵」として、度々戦いに参加した者が、江戸初期に旗本と成った者があったのです。
その彼らが、旗本として武士として、うろ覚えにしていた家紋を「抱き茗荷紋」と勘違いして、家紋とした事が起こったのです。
これが関東での発祥原因です。
普通は上記した一族で近江や伊勢の関西地域から出る江戸初期の家紋なのです。
青木氏は古い氏で江戸初期に出る家紋の氏では無いのです。
ところが関東からは神奈川横浜等の海域側からも出るのです。
彼らのルーツを調べると、その多くは、前回お答えした神奈川に辿り着くのです。
そして、その殆どは海に関わる職業に成って居て、その殆どはルーツは神奈川に逃亡した「諏訪族青木氏」に繋がるのです。
この末裔の一部が上記の事から旗本と成り、その時に、本来の家紋の伝承が出来ずに、「家紋」を間違えて何らかの関係から良く似た「抱き茗荷紋」にしたと考えられているのです。
三重の者で「抱き茗荷」の人物が周囲に居た可能性もあって、それを使った等の事が在ったりもしました。
しかし、その本当の事態は判らないのです。
”類似した為に間違えた”と云う説が通説に成って居ます。
彼らの元の先祖は、”海の仕事”をしながら神奈川横浜の「海の傭兵」として生き延びた「諏訪族青木氏」であった事が判っているのです。
実は、日向青木氏にも日向灘の「海の傭兵」の軍団で黒田藩に「プロ傭兵」として働いた青木氏なのです。
日向灘で漁をしながらの有名な日向プロ傭兵軍団でした。
日向青木氏には農業をしながらの「陸の傭兵」としても黒田藩専属の「プロ傭兵」としても働きました。
お家とは家紋が全く異なっているし、これらの軍団の拠点は薩摩大口村と青木村にありました。
諏訪族とか戦いで逃亡した武士は多くは漁業や農業をしながら「戦い」が起こると「傭兵」として参加する「武装集団」を形成したのです。
お家は、太平の江戸末期頃に成って元の仕事に戻り、その関係から明治に成って日向に落ち着いたと考えられます。
江戸期の長い間に日向との繋がりが出来た可能性が考えられます。
この事を描く事をすっかり忘れて仕舞って慌ててお答えをして仕舞いました。
お家の室町期末期のご先祖は神奈川の諏訪族青木に繋がるのです。
青木氏の古い氏には本来無い家紋なのですが、現実には121の青木氏の家紋群には江戸初期のお家の青木さんが有るのです。
ここでお家の家紋が「丸付き紋」です。
この「丸付き紋」にはそのお家の経緯として色々な意味を持っています。
この様な時に使う一般的な方法の一つです。
主に分家族や支流族や遠縁族等が使うものですが、江戸初期に抱き茗荷紋とした際に何らの事情があって丸付き紋にしたかが伺えます。
「抱き茗荷紋」は新しい為に始めから「丸付きの抱き茗荷紋」は無い筈なのです。
本来なら神奈川であるのに日向にある事の理由は、分家か支流か遠縁であったから日向に移動出来たことが先ずあったと思います。
むしろ、幕末当たりで何らかの関係で日向に移った事から、分家等の意味から丸付き紋にした事だとも思います。
昔の慣習でこれはよくあった事ですが、仕事関係での日向の知り合いの家に養子とか跡目に入るとかの事が在った事が考えられます。
漁村や船頭等の長の家に迎えられた等の事が在ったのではないでしょうか。
何かその様な事が遺ってはいませんか。
一度お調べに成ると良いかも知れませんね
以上です。
青木氏121氏には色々な歴史的な経緯をもつているのですが、お家もその中の一つです。
では、又何なりとお尋ねください。
ご丁寧にご回答をいただき、ありがとうございました。
祖父の実家とは、疎遠となっており、追加情報がどこまで入手できるか、コツコツと調べて参りたいと思います。一つ、回答いただきました中で確認がございます。祖父の墓の紋「丸に抱き茗荷」とご回答の解説の「角紋」については、同じルーツということなのでしょうか。理解ができませんでしたので、ご回答をよろしくお願いいたします。
埼玉の青木さん 今日は。
ようこそ青木氏サイトにお越しいただきました。
これからもよろしくお願いします。
サイトには青木氏に関する事を沢山投稿しています。
膨大ですが、ゆっくりと楽しんでお読みください。
お読みに成って、不明な点や、ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
全国の青木さんが集うサイトですのでこれからもよろしくご協力お願いします。
さて、ご質問ですが、提供頂きました情報は「抱き角紋」と御尊祖父が日向の方との事ですね。
実は、明治以前でなければルーツは判らないのです。
明治以後は維新で時代が変わりましたので、自由に定住地を変えられる様になりました。
それまで、江戸時代以前は封建社会で氏家制度の社会でしたし、定住地の移動は原則禁止で特別に許可を貰って移動する事に成り、所定の範囲で帰らないと捕まって罰せられる時代でした。
隠れて国を出ると、「国抜け」と云って「斬罪」に罰せらる時代でした。
一族全て打ち首に成る時代でした。
情報が明治後ですので、ルーツの判定は出来ません。
折角ですので、「抱き角紋」に付いてで観てみます。
「抱き角紋」は、信濃の「諏訪族青木氏」が持つ家紋です。お家はその支流です。
お家の江戸時代以前のご先祖は信濃の青木さんでした。
この信濃の諏訪族の青木氏は、奈良時代の大化期に天智天皇の第四世族までの皇子が王の身分に、第六世族は王から外しました。第七世族は下族させて坂東に配置しました。
天皇家の財政が皇子が多い為に逼迫していた為に皇位継承制度を見直したのです。
そこで、この第四世族内で第四位皇子には皇位継承権を与え真人族と呼称して呼びました。
「第六位皇子」には天智天皇から直接に賜姓(青木の氏を与えられる事)を与えられて臣下(武家)しました。朝臣族と呼ばれました。それ以外の者は皇族から外れ、「宿禰族や連族」と呼ばれてました。
この「皇族賜姓族の青木氏」は、次ぎの国の守護王として配置に成りました。
近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の五つの国です。
この国の守護王をしながら天皇を直接護る近衛の護衛団も担います。
又、皇親族と呼ばれて天皇が政治をする手伝いも行います。
天皇が変わる度に出る皇位継承順位から外れた第四世族内の皇子、つまり、「真人族と朝臣族」はこの五つの守護地の青木氏の跡目や養子に入って青木氏族を形成したのです。
この制度は五人の天皇に依って行われました。光仁天皇まで続きました。
嵯峨天皇からは源氏と氏名を変えて花山天皇まで11代続きました。
この嵯峨天皇からは、皇位継承から外れた皇子が天皇家から外れて下族する際に名乗る氏名としました。天皇の詔勅と禁令を発して、この氏名の使用を永代に禁じました。
さて、お家の青木氏は信濃の「皇族賜姓青木氏」ですが、この青木氏が信濃の豪族の諏訪族と血縁をしました。ところが、この「諏訪族」と血縁した青木氏は、男系跡目が二代続きで出来ず、掟に依り養子先の男系の諏訪族の系列に入る事になりました。
その為に、「皇族賜姓族の諏訪族青木氏」と名乗りました。
この皇族賜姓族の諏訪族青木氏は養子先の家紋の「四つ抱き角紋」を家紋としました。
これがお家の青木氏です。日本書紀にも出て来る青木氏です。
ところが、時代が進み、変化が起こって、この諏訪族青木氏には、更に諏訪族系の青木氏には四つの青木氏が生まれます。
全て家紋は四つ抱き角紋か五つ抱き角紋です。
この諏訪族青木氏は四つの青木氏の内、武田氏と血縁した武田氏系の諏訪族青木氏の二つの流れの青木氏も生まれます。この二つは諏訪族武田氏系青木氏と呼ばれます。
武田氏が滅んだ時、この諏訪族青木氏は次ぎの四地域に逃亡しました。
新潟、神奈川、横浜、栃木、埼玉に逃亡して生き延びました。
ここには、皇族賜姓族青木氏を補佐する為に、母方血縁で繋がる藤原秀郷の第三子の千国が特別に天皇から賜姓を受けて、例外として皇族外でも「青木氏」を名乗る事に成ったのです。
青木氏と全く同じ官位官職など一切の扱いを受けて同じくして皇族賜姓青木氏を補佐しました。
平安中期に発祥しました。
この後の青木氏は藤原秀郷流青木氏と呼ばれ、特別賜姓青木氏と呼ばれました。
全国に116氏もの流れの子孫を作り埼玉入間を中心に超大勢力を誇ります。
日本最大の勢力と成ります。
埼玉入間に宗家を置き、その周囲を神奈川横浜を半径にしてぐるぐる巻きに116氏の青木氏の本家筋が護っていたのです。
この新潟、神奈川、横浜、栃木、埼玉の青木氏を頼って諏訪族青木氏は逃げ延びたのです。
さて、抱き角紋は埼玉を除き他の四か所に逃げ延びて再び、秀郷流青木氏の保護を受けて勢力を盛り返します。
「武田の赤兜」と呼ばれて強かったのです。
この時、徳川家康はこの赤兜軍団を一部家臣にしました。
そこで、このどの諏訪族青木氏かと云う事に成ります。
ここからは情報が無い為に判らないのです。
恐らくは明治後に移動自由に成った事から、各地に分散していますが、現在でも、この四地域に多く分布しています。
実は、抱き角紋の諏訪族青木氏はあまり各地に分布しない考え方を持っていたのです。
それは独自の神社の「諏訪神社」を「守護神」にしていましたので分布しないのです。
ですから、上記の四つの地域には諏訪神社があるのです。
「諏訪神社」はお家の守護神ですよ。
日向の青木氏はお家とは、ある理由があって全く別の青木氏です。
明治の始めに日向に漁業の関係で定着したと考えられます。
そうすると、恐らくは、明治初期頃に漁業関係であったとすると「新潟」か「神奈川」の諏訪族青木氏と観られます。
更に、推測すると、神奈川の漁師関係者であったと考えられます。
神奈川に定住した諏訪族青木氏は秀郷流青木氏の庇護を受けて漁業者(漁師や船頭)に成った者が多かったのです。
この神奈川の諏訪族青木氏の一部が栃木に移動し秀郷流青木氏の背景を下に「武士団」として生き延びました。
この漁業関係で日向灘の漁場の漁に出ていた関係から明治期に移動自由に成った事から日向に定着したと観られます。
日向青木氏は、確かに日向の出ですが、「薩摩の大口村」に一族全員移動定住しているのです。
明治の初期にはほとんどは未だ大口村から西域に分布していましたが、その後に日向にも広がりました。
諏訪族と諏訪族の青木氏に付いては研究室やルーツ掲示板の論文をお読みください。
沢山のお便りが来ています。お読みに成るとお家のご先祖の事が良く判りますよ。
その上で、何か関わる情報が無いかをお調べに成ると特定する事が出来るかも知れませんよ。
その時には一つ一つ片づけて行けばある程度辿り着けるでしょう。
ご本家を辿る事から始められると、江戸期のお家のルーツに辿り着けますよ。
ご本家の明治維新の戸籍簿にどこから来たかを描いていますよ。
祖父の段階では無理と思いますが、更に、2代前位に成ると思います。
現在でも、信濃の諏訪地方に行けばお家のご先祖が未だ沢山居られますよ。
西諏訪地域に分布しています。
おーい青木さん と呼べば はーいと答える位ですよ。
ここがお家の古先祖の土地ですよ。
一度、サイトの関係論文をお読みください。
そして、何でも結構ですからご質問等ありましたらまたお便りください。
埼玉県在住の青木と申します。
我が家の家紋のルーツを調べていたら、このサイトにめぐりあい、ご質問をさせて頂きました。
祖父は明治末の生まれで 、既に他界しており、墓石には、丸に抱き茗荷の紋がはいっています。
父に確認したところ、祖父は日向市の細島の漁師の次男として生まれ、戦前に関東に出てきたとのことでした。
祖父の実家は、現在も日向にあり、少なくとも明治初めにはその地で漁師を営んでいたようですが、遠縁となっ
ています。
日向市は、日向青木家の地でありますが、我が家の家紋である丸に抱き茗荷との関係が解りませんでしたので、
恐縮ですがご教授いただければ、幸いです。
よろしくお願いいたします。
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