※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。 みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。 また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、 下記の情報を添えて書き込んでください。 福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。 必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。] ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など) ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。 ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。 ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。 現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。 この掲示板へのご質問、疑問、不明な点などは、直接のメールではなく、この掲示板への「返信」という形でお願いいたします。 関連する情報や知識をこの掲示板に集約する目的です。 「青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。 ルーツ解明の際には大変役に立つものですので先ず一度お読みください。 また、皆さんのルーツ解明のお便りから公開されるものには、些細なことでも大切で重要な情報が沢山潜んでいますので、皆さんからの情報をお待ちしております。 |
ワード検索 |
---|
最新記事 |
---|
新年、あけましておめでとう御座います。
本年も宜しくお願いします。
さて、「年始のお墓詣り」に出かけられたとの事ですが、最近は、「年始のお墓参り」も少なく成りました。地方に依っては年末にする習慣もあります。
青木氏は、古来より年始ですね。年末は「墓掃除」で行きますが、一族家族そろっての「本参詣り」は「年始」です。
>児玉郡の前がどこにいたかまではわかりませんでしたが、
>皆同じところから出て集落を児玉郡に作ってたのでしょうか。
>他の青木家は皆違う家紋かと思っていましたので大変驚きました。
お家は、以前お答えいたしました様に、元は「伊勢青木氏」の「祖先神の神明社」の「神職の家柄」で、その「分家筋」ですから、「ご本家の柏紋」から出自し、「支流の丸付き紋の柏紋」と成って栄えました。
従って、元は、伊勢松阪にある「青木氏菩提寺」が「柏紋の青木氏の元寺」と成ります。
歴史ある「深谷神明社」を護り続けた事から深谷に定住した「伊勢青木氏の末裔」です。
従って、お家一族のその後の「青木氏の分家墓所」は、「柏紋神職の青木氏」が持つ「神明社の社領の地権」の範囲の中で、別ら墓所を設けて深谷から分離している可能性が有ります。
「ご本家筋の墓所」は「神道の原則」を護っていますから、「深谷の神明社」の直ぐ近くの社領内にある筈です。
「深谷神明社」の「神道」ですので、その後、「普通の墓所」と異なり「本家の神道墓所」は、その性質上から、恐らくは手狭であったと観られます。
依って、本来は「丸付き紋」を用いない慣習に従っている「青木氏」ですから、慣習に従わず敢えて「丸付き紋」を付けて「分家支流族」を形成している「大きな子孫力」を持っている以上は、「神道の墓所」では到底狭い事に成りますので、「墓所」を別にする事が起こったと考えられます。
この時、当然に「神明社4社」が、深谷から児玉郡等に十数社に分社していますので、本家だけの墓所では手狭に成り、分社のある地域にも、その「分家の土地」(児玉郡美里域)として分け与えられた場所に一族が住める「居住地]と「分家墓所」を敢えて設けたと観られます。
しかし、その後、「神道」ですので住職では無くて「一族の代表の方]が管理していた事に成るのですが、その多く成った墓所には、何時しか維持管理の為に「小寺」を建立し住職を招いたと成ります。
其処から、お家一族の栄枯盛衰の変化で以て、その寺の維持管理も大変と成り無住職の寺の墓所と成った経緯を辿って現在の勝輪寺の檀家寺として権利を譲ったものと成ったと観られます。
依って、殆どは「柏紋の青木氏」の「一族で占める墓所」に成った事と成ります。
お家の「柏紋の神道」もこれに沿った経緯を持っている事に成ると思います。
500社に上る全国の「青木氏に関わる神明社」は、[青木氏の定住地」に建立しましたが、江戸初期に徳川幕府に全て引き渡しました。
この時、各地にある「神明社の神道の墓所」(柏紋)はそのままに成りました。
それまでは、「伊勢青木氏と信濃青木氏と甲斐青木氏」が「二足の草鞋策」に依って得られた財力で、この全国の500社の神明社を「独自の職能集団」の「青木氏部」が修理保全を担ってきました。
依って、その後は、この徳川幕府の管理に移行しましたので、一部はこの「神明社の神職」として残りました。
従って、その神職は「神明社の歴史の遍歴」に沿っていると思います。
この時、「柏紋の神職の青木氏」は、多くは伊勢か信濃か甲斐に戻りました。
他の一部は、「青木村」を形成する村に「独自の祠」を維持する神職として残りました。
お家は、恐らくは残留組と観られます。
その後、「幕府の財政難」と「神明社の人気の低下」で、大変、「神明社」は,例外なく荒廃し、衰退し、遂には、各藩に修理令が出る始末に成りましたが全く進みませんでした。
この時、「荒廃した神明社の神職」を離れた「柏紋の青木氏」が「各藩の家臣」等に成った経緯を持っています。
前回お答えしました様に、甲斐青木氏系柳沢吉保が所沢に神明社を建てたのもこの事から来ています。
「柏紋の青木氏」も吉保の家臣に成った者も居まして、その後、柳沢氏は奈良に移封しましたが、この時に付き従ったお家の一族の方が「柏紋の青木氏」が奈良に分布しています。
そこで、先ず「家紋掟」で家紋は長い間には変化するものですから、お家の分家が「柏紋や巴紋」に所縁があるとすると、「分家の位置づけ」はご本家にそう遠くない分家であった事に成ります。
現在の墓所が児玉郡とし、周囲にはお家の家紋を中心に別家紋と別氏があるとすると、「神道の墓所」ですから「二番目の墓所」であったと考えられます。
「分家筋の墓所」としたところではないかと考えられます。
「児玉郡」は、埼玉県北部域の「深谷神明社」から西隣接域の山手ですから、「分家の入所」としては充分に考えられます。
以前、お答えいたしました「武蔵神明4社」、つまり、「深谷の神明社]と、「所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社]が加わり4社に成るのですが、後は、後に建立された「神明社系の分社」等がこの児玉郡域に建立されました。
恐らくは、この「分社域の神明社」をお家の分家筋が受け持たれたと観ています。
依って、「深谷の本宮」から「児玉郡の美里域」にお家の分家筋が移動されて、子孫を拡大させて「分家筋の墓所」を別に持たれたと考えられます。
依って、「児玉郡の美里町の勝輪寺」の前は、ご本家筋の深谷域に「本宮の神道の本墓所」があった事に成ります。
昔は、墓所や建物を建てる事等の「自由に出来る土地」は、「郷氏」や「庄屋]や「豪農」や[社領」や「寺領」などが「地権」と云う権利で補償されている地域、つまり、お家の場合は「社領」にしか持つ事は出来ませんでしたので、「児玉郡の美里」に「神明社の社領」の「地権」を持っていた事に成ります。
従って、「分家筋の墓所」を設けるには「児玉郡の美里」しか無かった事に成ります。
そのお家の「分家筋の墓所」であった「氏の家紋」から観て、寺に他氏の墓所がある件ですが、他のものは明治期ものでは無いでしょうか
>内田家の丸に十字の家紋
>代々木家の八ツ矢車の家紋
>丸に鷹の羽
先ず、この家紋の主家は、「丸に十字」は島津氏、「八矢車紋」は佐藤氏、「丸に鷹羽」は白須氏ですが、江戸期前にこの「姓族の墓所」が、此の寺処にある事は、「国元の墓所に埋葬する事」を前提としていますので、有るとすると「国抜け」と成りますので、江戸期までは「棲み分け」を原則としていますので明治期で無ければ先ずはあり得ません。
ただ、実は、この「矢車紋」には、「神職」が多いのです。
その事から、そもそも、この佐藤氏は、秀郷流一門で同門で、「第二の宗家」と呼ばれた「秀郷流青木氏」とは「同紋の縁籍関係」にあり、且つ、武蔵はその本領ですから、何かお家との所縁があると観られます。
考えられる事として、「神職関係」から養子縁組等が起こり、実家先の断絶家を嗣子に興して、その墓所をここに設けたとの見方も出来ます。
可能性として、普通は「家紋掟」に依り男子跡目が出来ず、先ず「養子先の家紋」に変化して行くものですが、全て「三つ柏紋]であったとすると、可成り後にまで「神職」を続けられていた事に成りますね。
普通なら、悠久の歴史を持つ「深谷神明社」からの時期から考えると、更に、その後に、「完全女系」が続き、「姓」まで変化した可能性も否定できない事も起こり得ますので、この血縁で家紋と墓所が同じに成るには、原則として普通は明治期以降の事に成ります。
然し、家紋が統一されている事は、一族が互いに助け合い「児玉郡」で纏まり「子孫繁栄」を図って居た事に成りますね。
場合に依っては、これ程長く家紋を変えずに居られる事は珍しく、「神職」であった出自先の「伊勢青木氏の四家制度」を採用していた可能性が有りますね。
他氏の左程墓所が多く無い所から観て、「檀家寺」に成った時点はそう昔の事では無く、明治初期と考えられます。
依って、「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り、その菩提氏の経営等が成りゆかずに、明治期に世間の仕来りに従い「一般」の「檀家寺」に成ったものと観られます。
多くはこの経緯を辿りますが、明治期では経営が成りゆかずに全てが「檀家寺」に変えたのです。
さて、昔は「柏紋の青木氏」で「伊勢神宮の神職の御師様」と呼称される立場にあったので、一度、その大元に成る「伊勢神宮」をお参りされると良いと思います。
「神明社の神職(柏紋青木氏)」は、「自然神」の「伊勢神宮」の「皇祖神」の「子神の祖先神」の「神明社」の神職です。その中でも古い「深谷神明社」系ですのでお勧めします。
その際には、合わせて、JR松阪駅下車の駅前広場の前の大通りを隔てた右手一画の中ほどにある本寺があります。
ここは元は、「青木氏の菩提寺」でした。
二度、松阪大火で消失して、その後に「紀州藩の菩提寺」を経て現在は知恩院派の浄土宗檀家寺と成っています。
「寺名」は匿名としますが、御訪問になると良いと思います。必要な場合はメールで連絡します。
ここが「お家の本宮」であり「出自寺」と成ります。
中々、「伝統」は伝わりにくいものですね。
筆者も同じです。
親族が聞く耳を持つかは別にして、先ずはこの世に生を得た以上は”「伝える役目」”だけは果たしたいと考えています。
筆者がそうでした様に、何時か、必ず一族の中に「伝統や歴史」を重んじる者が必ず出てきます。
ではまた何かありましたらお便りください。お待ちしています。
あけましておめでとうございます。
昨年ははじめてこの掲示板に参加させていただきましたが、
大変多くのことを教えていただきありがとうございました。
一昨日お墓参りに行ってまいりました。
周りの家紋を色々見てみましたのでご報告致します。
場所は前にもお伝えしました児玉郡の勝輪寺です。
青木家は皆、丸に三つ柏でした。
父曰く、小さな青木家の集まりがおじいちゃんの実家にはあるとのことでしたが、
児玉郡の前がどこにいたかまではわかりませんでしたが、
皆同じところから出て集落を児玉郡に作ってたのでしょうか。
他の青木家は皆違う家紋かと思っていましたので大変驚きました。
また、それ以外の苗字は
内田家がいくつかあり、丸に十字の家紋
代々木家があり丸に八ツ矢車の家紋
後は、丸に鷹の羽が一つだけありました。
新し目のお墓は除外すると、
一番青木家が多く、丸に三つ柏、内田家、代々木家がついで多いという感じです。
まじまじと見たことは無かったのですが、青木家の家紋が同じだったことが衝撃的でした。
他に着目したほうがいい点などあればまた機会を改めて訪問した際に見てこようと思います。
昔からお墓参りは気持ちが落ち着くものです。
ここまで色々教えていただいたのもありますが、今回はより一層気持ちがすっとしました。
この事を家族に話しても中々耳を傾けようとしないので、
少なくとも私はこの事実を大事にしたいなと思っております。
明日から仕事も始まりますが、
会社の近くにある芝大神宮にお参りに行こうと思っております。
副管理人様
> この様な生き様に付いての事が掲示板には論じています。
> 兎も角も、お読みください。
今も読んでいたところです。
歴史観、生き様、圧倒される思いです。
私ながらに検証しながら読み続けると相当時間はかかると思いますが
大分人生観も変わってくると思います。
このサイトに出会えて幸運です。
大変ありがとうございました。
信濃の青木さん 今日は。
早速、お便りをお読み下さって有難う御座います。
直近の{信濃青木さん」との親交では、明治の地租改正で伊勢と信濃では、歴史上の記録に遺る大規模な農民を交えた一揆が起こりました。
この一揆と云いますか動乱と云いますか、この一揆を裏で経済的に支えたのは「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」です。
この一揆は明治9年に租税の修正の案が出されて収束しましたが、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、超大地主であって地域の農民を護る為に貢献した事が判って居ます。
この時も地租改正で土地の利権を放棄する法が成立し、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、共に結束して民に開放して大きな痛手を負いますが、農民の税付加に反対していますが、「商い」でこれを賄い立ち直った事も有名な事です。
これ程の「賜姓族」としての結束を図りました。
この様な同じ援助の事が室町期にも起こっています。
この様な生き様に付いての事が掲示板には論じています。
兎も角も、お読みください。
有難い情報大変ありがとうございました。
先月伯母(父の姉)が107歳で亡くなりその葬式のとき従姉が先祖侍説を持ち出してきましたので少し調べてみました。状況証拠はいろいろありますが実態は養蚕と精米所をやっていましたので農家だろうと思っていました。ただ後の調査で藩米の精米は庄屋階級が自家精米所で行うことがあり養蚕については明治になって士族授産として奨励されたと知りそれを家業として継続できたと納得しました。
関氏につきましては家紋は「五葉木瓜(瓜の唐華)」です。現当主で四十六代とのことです。
明治35年頃の青木久右衛門につきましては私の祖父が明治13年生まれですからその父の久右衛門に間違いないと思います。
世代交代で本家に直接聞き難い中このサイトがあって大変助かりました。
大変有難うございました。
今後もこのサイトで勉強させていただきます。
信濃の青木さん 今日は。
始めまして。
全国の青木さんが自由に集う本サイトにようこそお越し頂きました。
これからも宜しくサイト運営にご協力の程をお願いします。
さて、お便りをお読み致しましたが、実は大変に驚きました。
常日頃、「信濃青木さん」のお便りがある筈だと期待しておりましたが、遂に頂きました。
実は、筆者は「伊勢青木氏」ですが、「筆者の家」とお家の「信濃の青木氏」とは、明治35年まで親密な親族関係を保っていました。
筆者の家の口伝では、大変にお世話に成ったと聞き伝えられておりまして、取り分け、江戸後期に久右衛門さんには、祖父の弟の光三郎が養蚕技術を学びに2年間お世話に成ったと聞いていまして、この光三郎は、その後、伊勢に帰って養蚕の殖産を広めたと聞いています。
この事は、三重の郷土史にも書かれていて、又、伊勢の郷士衆の家にも伝わっている有名な事なのです。
又、伊勢は米の品質が悪く、且つ、古来より地形と気候の影響で米の石高が耕作面積より低いと云う事があって、別には、「伊勢の青木氏」の者が、信濃は「米どころ」ですので、「信濃青木氏」の「宗家の久右衛門さん」に頼んで暫く生産方法を学び、それを伊勢に持って帰って品質は良く石高も多く採れる米の生産に成功したと伝えられ、更に、この技術を使って当時としては極めて珍しい「早場米」の育成に成功した事が伝えられています。この「早場米」は「早稲光」(早光米)と呼ばれ全国に広まったと聞いています。
郷土史にも記録され、地域の人々から徳宗家として「信濃青木氏」と共に尊敬されていた事が判って居ます。
その節は有難う御座いました。
さて、お家の事に付いては、研究室やルーツ掲示板等で詳しく論じていますので、そちらを先ずお読み頂くとして、「信濃青木氏の概要ルーツ」だけをここでは述べて措きたいと思います。
奈良期の天智天皇期に「大化改新」が起こります。その時を契機に青木氏は発祥します。
それまでは、「天皇家の皇位継承制度」は、「第六世族の皇子」までを王位継承者として扱われてきましたが、「天皇家の内蔵の財政」の立て直しの為に、これを改めて「皇子王」を第四世皇子までとし、「皇位継承者」は「第四位皇子」までと定められました。
天皇の代わりの際に起こる「第六世族以降の皇子」は王位を失い、且つ、皇族から排除され、更に、都から離れ、「坂東」に配置され職を失いました。
そして、合わせて、「第六位皇子」は、臣下して「侍」として「青木氏」を賜姓して発祥させ、天皇を警護する「臣下族」(侍)と定められたのです。
それ以外は比叡山に「門跡僧侶」として移されました。
「第四世族内の第六位皇子」は「宮廷警護」と「五地域の守護王」と施政執行を担う「国策氏」等の「賜姓五役」に任じられたのです。
この時に、「青木氏」を賜姓されたのは、「伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」でした。
そして、この「五つの王家」には、代々起こる「第四世族内の皇位継承者」から皇位で外れた皇子がこの「五家の青木氏跡目」に入る事を定められたのです。
これが、「伊勢青木氏」であり、「信濃青木氏」等であるのですが、ところが、下記にします様に、「近江」と「美濃」の「青木氏」は、平安末期に滅亡して仕舞いました。
「甲斐青木氏」は、平安期から室町期に掛けての戦乱で青木氏氏是を護ったのですが、同族争いが起こり衰退して地域での繁栄は大きく出来なかったのです。
それ以下の皇子は、全て下族して、坂東の警護に付きました。
これが「坂東八平氏」(ひら族)です。
ところが「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「二足の草鞋策」で生き延びました。
奈良期の頃から、「朝廷の役処」として「賜姓五役の国策氏」として、新たに”「紙屋院」”と云う「特別な役処」を与えられて、「和紙」(墨・硯)を作る事を命じられ、日本で最初に「和紙の生産」に成功しました。
それまでは中国の紙を全て輸入していました。
この中国の紙品質は良くなく、結局、研究の結果、「楮による和紙」の生産に成功したのです。
朝廷が「青木氏の紙屋院」の下で、丹波で直接に和紙生産に関わります。
又、「墨」も「備長炭の煤」を墨する事が出来、「硯」も紀州にて良質な「紫石の岩石」の素材が発見され、共に成功したのです。
それまでの「木簡]を使った記録から和紙の記録に切り換えます。
その結果、紙の利用文化から「朝廷絵師処」等の役処を支配下に置き、朝廷の「賜姓五役外」に多くの「文化的役処」も課せられました。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は共に力を合わせて「賜姓族」として役目を果たしたのです。
その後、朝廷で使われていた「余剰和紙」を「金銭に換える役目」も命じられて、且つ、市場で使われる様に改革を任じられました。
これが、平安中期に「二足の草鞋策」として朝廷より認められて、「賜姓五役の国策氏」として「紙屋院」の「紙屋」の屋号で「商い」も初め豪商とも成りました。
925年までには、「賜姓五役」として「信濃青木氏」も、「甲斐青木氏」も「和紙の殖産」に携わり、1025年には、「賜姓五役」以外に「二足の草鞋策」として、遂には日本で初めての「総合商社]を営み貿易まで手掛ける「商社」を経営します。
この時、お家の「信濃青木氏」もこの「古代和紙の殖産と興業と商社の経営」を共に担ったのです。
ところが、「嵯峨期の詔勅と禁令」を基にした「青木氏氏是」に従わずに、「平安末期の源平合戦」で、近江と美濃の青木氏は滅亡しました。
この様な数多い口伝や記録が「伊勢青木氏」や「信濃青木氏宗家」には遺されていまして、お家のお便りの様な概要の事は承知をしております。
そもそも、この「青木氏の事」は、全て研究室やルーツ掲示板等に記述していますが、賜姓五役を担う「五家五流皇族賜姓族青木氏」として、当家の記録にも遺され、平安期の「五つの歴史書」にも記録されています。
この様に、奈良期より「第四世族内の皇子王」として「伊勢、信濃、近江、美濃、甲斐」に「皇族賜姓族」の「青木氏」が、「朝廷の命」により定住し、「守護王」として活躍をし、又、宮廷の護衛団としても最初に担当した家柄です。
ところが、「平安末期の源平合戦」にて、「青木氏氏是」を破り「近江]と「美濃」の青木氏がこれに加わり敗戦して嵯峨期の詔勅に依って発祥した同族の「賜姓源氏」と共に、「美濃富士川の戦い」で滅亡して仕舞いました。
お家の「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」と「甲斐青木氏」は、「青木氏氏是」を護り生き延びたのです。
その後、お家の「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」は、その後、「賜姓五役」を維持する為に課せられた特別な家制度の”「四家制度」”に基づき、何度も互いに「養子養女」にて同族血縁して子孫を拡大してきました。
明治35年までこの「商いの関係」も続けられ、「親族」としての付き合いがありました。
その直近の象徴的な事が、上記の「久右衛門さん」に世話に成った事です。
筆者の家の屋号は、上記しました様に。「紙屋」で、襲名は「福家」の松阪殿は「長兵衛」と名乗っていました。
これらの概要はお家の信濃青木氏の宗家筋との関係ですが、さて、お家の「信濃青木氏」の「関氏との血縁」があったとの事ですが、明治後の事ですので、「社会の構成」が全く異なっていますのでルーツには参考には成りません。
>父に先祖は「猿が馬場峠警護の侍」と聞いたことがあります。
>信じている従兄弟たちもいますが私は疑問に思っています。
>あるとすれば松代藩真田家家臣ではなく(松代藩武家屋敷の巡回コースに青木家がありますが)むしろ川中島藩森家の残党ではと思っています。森家と関家は一門ですし、同じ期織田信長の家臣団に
青木があります。
次に、以上の行ですが、「信濃青木氏」の「江戸期の動き」に付いては、筆者が先祖から聞き及ぶところでは、西国街道と信濃善光寺と繋ぐ商道の「猿が馬場峠警護の侍」の説が理解できます。
この江戸期の「信濃青木氏」のご先祖は、二つの派に別れた事が聞き及んでいます。
一つは地域の庄屋で、地主の土地を生かした米生産と和紙殖産と養蚕等を始めとして「豪農」で、それを売り捌く「豪商」と、紙製品を加工して裁く「企業家」であった事が判って居て、この道を貫いた「賜姓五役」を務めた「郷氏の家筋」と、お家の「分家枝葉の家筋」と成った「武家の郷氏」の家筋を活かして「郷氏の国衆」として「真田氏の家臣」に成った「二つの家筋」とに江戸初期に分かれた事が判って居ます。
その豪農と豪商と企業家の宗家とは、筆者の家とは親族として親交を深めていた事が判って居ますので詳細は判って居ます。
筆者の家との親交が絶えたのは、筆者の福家の家(松阪宗家 筆者の家)が失火元の「松阪火災」になり「福家」は、賠償倒産して、家筋を「四家」に引き渡しました。(現存)
「信濃青木氏の宗家」とは、明治35年まで続きましたが、この時を境に「福家」と親交が無く成りました。
一部は娘の末裔に残務整理で遺しましたが、多少の親交もあったのですが、この松阪に遺した福家の我が家は平成10年に絶えてしまいました。
依って、紀州に移った「跡目の筆者の家」とも親交が途絶えました。
現在、信濃の情報は全く無く成りました。
この「信濃青木氏」は、宗家筋の枝葉では、伊勢青木氏と同じで、家紋は「笹竜胆紋」、宗派は「密教浄土宗」である事が判って居ます。
そこで家紋と宗派から、お家は下記の青木氏で分家筋に当たる「信濃青木氏」ではないかと観られます。
真田氏の家臣と成った青木氏は、その経緯から国衆と成って曹洞宗に宗派返していますし、この時に、「家紋掟」から蔦紋に成った事も判って居ます。
つまり、江戸期の中頃にお便りにある様に秀郷一門の支流族の「関家」を通じて「藤原秀郷流青木氏」との血縁をしている可能性が有ります。
或は、関家から養子を迎え、二代続きで男系跡目が出来ずに、武家の家紋掟に依り男系側の関家系列に入った事で蔦紋の青木氏が出来たことも考えられます。
然し、後者ではないかと推測します。
「青木氏と血縁族(家紋)-2 (蔦紋)」 にその事を記述していますが、「蔦の家紋」とその「丸付紋」ですので、江戸中期頃に支流族の分家として発祥したと観られます。
このルーツの分家筋に当たります。
然し、もう一つの武家として他藩に仕官した家は真田藩に仕官した事が判って居ます。
この真田藩に仕官した青木氏は二派に分かれ、一つは九度山に真田氏と共に同行し、もう一つは松代で家臣を続けたとあります。
この事はサイトでも論じています。
関家は母方に成りますので「青木氏」とは別と観られますし、「織田家の家臣の青木氏」に付いてはルーツははっきりしていて別の青木氏です。これも詳細は論じています。
尚、関家に付いては、その出自源は三つあるとされていまして、「伊勢関氏」で「たいら族」、「陸奥関氏」で「秀郷一門支流族」、「美濃関氏」は出自は不明です。
お家の云う関家は、恐らくは、「蔦の家紋」から「秀郷一門の陸奥関家」と観られます。
その根拠は、この陸奥関家は、陸奥から秀郷一門が陸奥から引き揚げた時に、陸奥の土豪で秀郷一門の血筋を受けた末裔の花房氏と共に信濃に定住しました。
この時に、信濃に同行した同じく秀郷一門の血筋を持った花房氏の配下の陸奥土豪の関氏だと観られます。
そもそも、この花房氏は、「信濃足利氏」を最初に名乗った豪族ですが、この「花房氏系足利氏本家」は秀郷一門に本家を追い出され、最終は米子に逃げ延びました。信濃足利氏は秀郷一門野血筋を受けた分家が取って代りました。
この時には、「足利氏」は「信濃青木氏」と血縁をしています。これが「足利氏系青木氏」です。
その経緯から、「信濃青木氏」の分家筋が、江戸期には関氏とも血縁を進めたと観られます。
この関氏は「藤原秀郷一門の支流族」ですが、この関家と江戸中期頃に下記の青木氏と血縁している可能性も在ります。
恐らくは、お家は、この「信濃青木氏の支流枝葉の分家筋」に当たると観られます。
本流の宗家枝葉が久右衛門の家筋と成ります。
そもそも、この青木氏は大きく分けると二つのルーツに成ります。
一つは、上記の「皇族賜姓五家五流青木氏」の25氏と、二つは「藤原秀郷流青木氏」の116氏があり、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は、円融天皇に依って賜姓を受け、「皇族賜姓族青木氏」を「賜姓五役」も膨大な職務と成った事に依り、これを補完する母方の「特別賜姓族青木氏」です。
後は、嵯峨期詔勅で名乗った[青木氏」4氏が在り、明治3年期の苗字令で名乗った第3青木氏が在ります。
お家は、信濃の「皇族賜姓族青木氏」です。
先ずは、論文をお読みください。お判りに成ると思います。
「出自などの詳細」は、「研究室の論文」を先ずはお読みに成り、その後には「ルーツ掲示板」でサイトの検索を使って「信濃青木氏」で検索してお読みください。
「家の詳細」は、「伝統シリーズ」で詳しく論じています。
膨大な論文に成りますので、ゆっくりと少しづつお読みに成り、都度判らない時はご質問をして頂く事でご理解が進むと思います。
「青木氏」の皆さんからよくご質問頂きますが、明治以降の現在の社会体制と、江戸期以前の社会体制は全く異なっていますので、「過去のルーツの事」を御理解いただくには、その当時の「歴史観」が必ず必要です。
お読みに成りながら、この「歴史観」を深めて行きながら理解を深めて行くことが必要です。
その為にはご質問も必要に成って来る事かと考えます。
ご遠慮なくお尋ねください。
長野県千曲市桑原の父の実家のルーツを知りたいです。
菩提寺は千曲市大雲寺(曹洞宗)、過去帳で江戸時代中期まで辿れるようです。
曽祖父以前は代々久右衛門、又右衛門を襲名しています。紋は「丸に蔦」、
屋号は「車や」、裏手に水車の設備の跡が残る精米所、表は養蚕農家を表す
ウダツの上がった3階建て(最上階は換気用)で北国西街道に面しています。
建物は明治期のものです。
父は官立の上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)出身です。
因みに数軒上には旧松代藩士の関家(本家)がありその下方に関家の分家が土塀を連ね
父の実家がその下にあります。
私の祖母の実家が関一門です。因みに文政年間に関(本家)の次男が紀州家家臣葛山八郎衛門(八百石)として養子に迎えられています。
江戸期の大半を関家が桑原村の名主庄屋を占め明治に入ってからも本家が区長、分家が戸長をやっていました。
青木家では久右衛門が寛文5年(1665)に長百姓として村誌に名を残しています。
昭和に入って祖父が桑原村の助役、戦後更埴市となって始めての選挙で伯父(父の長兄)が市議に当選しています。
戦前まで大地主だったことは間違いないです。
父に先祖は「猿が馬場峠警護の侍」と聞いたことがあります。
信じている従兄弟たちもいますが私は疑問に思っています。
あるとすれば松代藩真田家家臣ではなく(松代藩武家屋敷の巡回コースに青木家がありますが)むしろ川中島藩森家の残党ではと思っています。森家と関家は一門ですし、同じ期織田信長の家臣団に青木があります。
因みに桑原の関家の当主は代々新右衛門長○です。
我が家は私の代で絶えますが良い家系であれば娘に伝えます。
> 福管理人様、
> 初めまして、こんばんは。
> 早速の御返信を有難うございました。余談は改め修正させて頂きました。御助言に従い拝読させて頂きます。
> 今後ともまた宜しくお願い申し上げます。
肝付さん 今日は。
早速、お読み頂いた様ですね。
仰る通り、歴史は読めば直ぐ解ると云う事はありません。
それは、歴史を理解するには、「歴史観」と云う知識が必要で、これなくしては唯文章を読んでいると云う事に成ります。
理解と云う事は到底無理な事です。
それは、現在の社会体制と、江戸時代以前の氏家制度の社会とでは、「社会構成」が根本的に違うからです。
この「社会構成の知識」を時代毎に把握する事が必要なのです。
学校では、その基礎知識を学びますが、これでは、「個人のルーツの内容」を理解するには到底無理な事に成ります。
「氏」と「家」と「身分」や「封建」とそれにこれに深く「宗教」が絡んできますので、結果としてそれぞれの独特の「慣習や仕来りや掟」が有り、それがまた「家柄や家筋」に依っても異なっていますからなかなか現在感覚では理解は難しいのです。
それには、本サイトでは青木氏としては纏めていますので、肝付氏としての纏めは残念ながら出来ていません。
出来る限りにまとめていますが、「関係族」としての記述に成っている事は否めません。
確かに「リスク」はあるとは思います。それだけにご質問は必要ですね。
然し乍ら、他氏としては出来るだけ纏めていますので、本サイトの様な記述から徐々に読みながら、この「歴史観」を獲得して行くことが必要ですね。
何れにしても誰でも歴史を知るには同じ条件が課せられます。
従って、お便りを読んだ段階では、この「歴史観」が無いとお家のルーツの事が、今の社会とは余りにも違っている事から驚かれる事に成ります。
最初のお便りでは、この”歴史観」は在りません”と書かれていましたので、当然にびっくりする事に成りますね。
況して、そこに1300年以上の歴史を持つ「肝付氏」で、数少ない「氏族」あるのですから、頭が整理できないのは当然です。
ご子孫に「家の歴史」をご説明するとすれば、先ずはこの「歴史観」を持たれる事が必要です。
尚の事、「肝付氏」ですので、是非にこの「歴史観」を伴ってご説明しないと、子孫の方は聞いても判らないとでしょう。
筆者の家でも子供たちは、「青木氏」と云う事なので、理解に苦しんでいる様です。
筆者も、父や祖父から聞いても、最低限、未だその様な歴史の慣習の中で育ちましたので、未だ理解ができましたが、現在ではそのような家筋は全く無く成りました。
当然の事と思います。
時代劇のテレビなどでも少しは得られますが、お家の肝付氏や青木氏のルーツの歴史は、テレビ等とで得られるものとは一段と一般の武家社会とは一段違っているので、なかなか理解は出来ないのでしょう。
恐らくは、日本全国の氏姓は、8000あると云われていますが、その「肝付氏や青木氏」の「氏族」はたった1%にも満たないし、殆どは「姓族」です。
この「姓族」であれば、300年程度の歴史ですから、ルーツに関しては左程に「歴史観」を持たずにも基礎知識で理解は可能です。
「氏族」や「姓族」を合わせても、15%にも達しません。
後は、歴史を持たない家筋と成ります。
この「氏族」では無い「姓族」でも、最も早く発祥したのは、書物で確認できる範囲では正式には室町期初期頃の安芸国の「海部氏」と云われています。
「氏族」は、一時は最大時は室町期初期で200氏程度に成りましたが、下剋上や室町期の戦乱で滅亡して20程度に激減しました。
奈良期では20氏程度、平安期では40氏程度、鎌倉期では80氏程度でした。
「肝付氏」は、この奈良期の20氏の中に入るのです。
これも「肝付氏」のルーツを理解するに必要とする「歴史観」の一つで、先ずはここから「肝付氏の歴史観」を増やして行ってください。
従って、この様な「肝付氏のルーツ」を探究し得るツールは普通の書物では無いと思います。
青木氏や佐々木氏や藤原氏等では、歴史家やマニアなどが「ルーツの歴史研究」で解明されています。
これらは可成りの専門書で大抵は非売品です。
しかし、非売品で市販はされていませんので、現在では一般では相当に歴史研究をしなければこの「歴史観」は得られません。
況して、現在は「個人情報の縛り」が在って困難と云うか不可能です。
幸い「肝付氏」に関しては、「青木氏族の永嶋氏」に関わる事から、古くから研究されて解明されていますので、本サイトの範囲では得られます。
然し、地域性のある九州の「肝付氏」に関しては「青木氏」と「佐々木氏」が研究して相当な情報を持っています。
従って、先ずは青木氏の本サイトでゆっくりと少しづつ時間を掛けて歴史観を得てください。
ご質問頂ければ判る範囲でご協力いたします。
それ故に「青木氏の本サイト」は、「ヤフーのHPの歴史カテゴリー」に高倍率の審査を経て登録されている「歴史専門サイト」ですので、「ヤフー歴史カテゴリー」からも入る事は出来ます。
現在では、社会に貢献する為に公開投稿し、段突の情報量で「ヤフーHP」から「お墨付き」を得ています。
ある放送局にも本サイト(裏サイト)から「歴史情報」を提供しています。
では、先ずはお読みください。徐々に判ってきますよ。
現在では、本サイトの愛読者の読者は、青木氏族を含めて10000人/日以上がカウントされています。
お家の様に一般の方が読まれている「ヤフーHP」を含めると、相当なカウントに成ります。
ですから、今では10000人程度の歴史観を持った愛読者の「歴史マニア人」が育っている事に成ります。
歴史は「先祖の生き様」が観えてロマンがあり面白いですよ。
ご子孫にもその面白味を伝えてください。
福管理人様、
検索で引き出し拝読しようとしましたが頭の準備が追い付かず読めません。
4〜5代前辺りのことから分からず、家系について知りたいと思いましたが、
「ルーツ」を知ろうと思ったら全くスケールの違う世界に分け入らねばならない
という当たり前のことを教えられた気がしました。
膨大な内容をばらばらに読んでいては頭に入って来ません。分からない事
だらけのような気がしますが何をお聞きしたら良いかも分かりません。
時間をかけ、何か観えてくれば、と思っています。
福管理人様、
初めまして、こんばんは。
早速の御返信を有難うございました。余談は改め修正させて頂きました。御助言に従い拝読させて頂きます。
今後ともまた宜しくお願い申し上げます。
肝付さん 今日は。
始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
さて、青木氏サイトは、古来飛鳥の時代より天智天皇の第六位皇子(施基皇子)が「賜姓」を受けて「青木氏」が生まれ、そして、奈良期から平安期に掛けて「氏」が拡がり、遂には「青木氏族」と云う「皇族系氏族」が大形成されました。
平安期初期の「桓武天皇」の子供の「嵯峨天皇」は、二代続いてこの「賜姓制度」が途絶え後に、再び「青木氏」を賜姓する代わりに「源氏]と云う氏族を発祥させました。
「賜姓青木氏」は五代続き、「賜姓源氏」はその後11代続きました。
合わせて、「16代の皇族賜姓族」(青木氏 源氏)が発祥しました。
そもそも、「桓武天皇(山部王)」は、平安期の「聖武天皇」の期に男系の皇位継承者が無く成り、結局、「準ずる氏族」としてその為に、「伊勢青木氏」の「施基皇子」の第六男の「白壁王」が「聖武天皇」の皇女と血縁して「光仁天皇」と成って継承しました。
この子供の「山部王」が「桓武天皇」と成ったのです。
ところが、40程あった多くの氏族が滅亡する中で、悠久の歴史の荒波を乗り越えて、その「青木氏」は上手く生き延びて、現在までに遺った唯一の「氏族」ですが、ところが同じ賜姓族の「源氏族」はその「生き方」で完全に滅亡して仕舞いました。
結局は、「皇族系氏族」で、「二つの青木氏」が「武家侍の発祥源」と成っています。
「平安期初期」には、「藤原氏]等の「公家族」に対して、「青木氏族」は「武家族」として朝廷より最初に認証された「氏」です。
そして、「侍」(さむらい)の「最初の発祥源」として、「象徴族」として、「五家五流皇族賜姓族」が発祥しました。
その「五つの発祥地」は、伊勢、近江、信濃、美濃、甲斐と成ります。
これに対して、「賜姓青木氏」は、代々、公家の「藤原氏の母系族」であった事から、「藤原秀郷一門」から「母系青木氏」が「円融天皇期」に天皇より皇族外に特別に「賜姓」を受けて発祥しました。
ところが、青木氏一族であった「桓武天皇」が、制度に従って「青木氏」を賜姓せずに、母方の氏族に対して「平家」(たいら族 伊勢伊賀北部に住む「阿多倍の孫娘の高野新笠」を妻にする)を賜姓したのです。これが平城天皇まで賜姓制度は二代続きました。
これを基の賜姓制度に戻したのが、上記の桓武天皇の子供の「嵯峨天皇」なのです。
この「嵯峨天皇」は、詔勅と禁令を発し、「源氏]を賜姓しましたが、この時に合わせて、別に賜姓族にせずに「青木氏」は「皇族の皇子皇女」(第四世族王位まで)が皇位を離れる時に名乗る「固定氏名」として定め、賜姓せずに名乗る事が出来る氏名として定めました。
この「青木氏」が持つ一切の「慣習仕来り掟の使用」を禁令で禁じました。
この禁令は明治3年まで護られました。
さて、そこで、この事が、この「肝付氏」にどう繋がるかと云うと、次ぎの様に成ります。
実は、お家の「肝付氏」が現存する事は大変に珍しい事なのです。
「青木氏]とその古さは余り変わりません。
そもそも、「肝付氏の発祥」は、奈良期からの青木氏が持つ長い歴史とあまり変わらないのです。
それは、平安初期に朝廷の官僚族には、「五大官僚族」と云うものがあって、その中の一つです。
主に、「大蔵官僚族」でした。
その「大蔵官僚族」が「伴氏」なのです。
この「伴氏」の「大蔵官僚族」は、「大蔵氏」として「桓武天皇」から賜姓を受けた族で、「氏族」と成り、その大蔵氏の父の「阿多倍王」は、中国の「後漢]と云う国の第21代献呈の曾孫で「阿多倍王」と云う王が居て、その者が隋に滅ぼされて、17県200万人の民を引き連れて、大和博多に上陸しました。
瞬く間に九州全土を無戦で制圧し、関西の手前までの33国/(66国)を勢力圏に収めたのです。
その後、「戦い」を避け帰化し、敏達天皇の曾孫の孫娘の皇族の皇女を娶り、准大臣に任じられました。
そして、当時の政治機構の「三蔵制度」の内、「藤原氏」が持つ「斎蔵」を除き、「大蔵]と「内蔵」の朝廷の政治機構の二つの実権を官僚族として握りました。
中國の後漢の進んだ政治能力をもった「阿多倍の職能集団」の民は、瞬く間に平安初期の遅れた古い政治機構を改革して新たに作り上げたのです。
その「阿多倍王」には、皇族の血筋を持った「三人の子供」が居て、長男は坂上氏を賜姓され、彼の有名な坂之上田村麿です。
この坂上氏は、朝廷の軍政を担いました。
次男は大蔵氏の賜姓を受けて、朝廷の財政の「大蔵」を担いました。
三男は内蔵氏の賜姓を受け、天皇家の財政を担う「内蔵」を担当しました。
内蔵氏の子孫には、安倍氏や阿倍氏があり、東北方面に定住しています。
この長男は、桓武天皇と兄弟の様にして育ち、全国を統一する事に成功した事で有名な人物です。
次男の大蔵氏は、財政を受け持ちながらも、「阿多倍王」の父の「阿智使王」が住む九州の統治までも任されたのです。
そこで、大蔵官僚としての末裔が、この子孫が「伴氏一族」です。
この「伴氏」の一部が、九州全土の税を受け持つ「弁済師」で赴きました。
そこで、地元の豪族と血縁をして九州にその子孫を多く遺しました。
その最大の勢力を持ったのが、日向から薩摩まで勢力を張り、室町期中期までの長い間、この「伴氏の末裔」の肝付に居た者が、室町期の最大時には制圧していました。
これが、地名を採って名乗ったのが、何とお家の肝付氏なのです。
歴史的な出来事から考えて、お家の「肝付氏」が未だ南薩摩に現存する事が大変に珍しい事なのです。
さて、この「肝付氏」は、九州では、上記の「大蔵氏」が、朝廷より「錦の御旗」を授かり、「遠の朝廷」として「九州全土の自治権」を与えられました。
この上記の北九州各地に根付いた「官僚族の弁済師」の「伴氏」と、この自治権を与えられた同族の大蔵氏との同族血縁族です。
同族血縁族は、当時は、「高位の氏族」に取っては純血性を護る為の「高位の仕来り」として当たり前の習慣でした。
主に、九州南域を任されたのが、この肝付に居た大蔵氏族で、地名を名乗りました。
ところが、ここでこの「肝付氏」は「青木氏」と繋がりが出て来るのです。
平安末期に「源平合戦」が起こり、「清和源氏の源頼光」が平家に反旗を翻し、「以仁王の乱」を引き起こしたのです。
ところが敗退し、頼光の孫には、「宗綱と有綱と京綱の三人の兄弟」がいましたが、「京綱」は血筋を護る為に同族であった「伊勢青木氏」に事前に「青木氏跡目」に入り、命を取り留めました。
しかし、「宗綱と有綱の二人」は、罪を得て斬罪と成る所を、「京綱の青木氏」は平家清盛の母方(伊勢伊賀定住)に助命嘆願して、聞き入れられて、お家の一族が住む「肝付氏」の住む「日向廻村」に配流と成りました。
「桓武天皇」は「伊勢青木氏の末裔」で母方(高野新笠)の実家先は伊勢伊賀で阿多倍王の定住地であり、「伊勢青木氏」とは伊勢地域に住み、古代和紙の生産でも、共に殖産していた仲間であった。
つまり、間接的に血縁族の縁籍族でありました。
この誼で助命嘆願をしたのです。
「伊勢青木氏」は、平家とは間接的な血縁族と成ります。
ところが、この時、この二人は、日向廻村から再び「大蔵氏族肝付氏系廻氏」を背景に九州平家に対して再び反旗を翻しました。
結局は敗退して、やっと廻氏の一部は、「薩摩の大口村の寺」に「二人の末裔」を護り何とか逃げ込みました。
然し、結局、平家に追いつかれて、寺の門前まで来た時に、親族の「伊勢青木氏」を名乗りました。
「伊勢青木氏」には、「不入不倫の権」の「永代特権」で朝廷より護られていましたので、平家は引き上げました。
これで、「肝付氏」の保護の下で、「大蔵氏族肝付氏系廻氏」とその「清和源氏の血筋」をひく末裔は生き延びて、この時から薩摩大口村に「大蔵氏族肝付氏系廻氏」の「日向青木氏」が発祥しました。
その後に、平家が滅亡し故郷の日向廻村にも「青木氏の子孫」を拡げました。
「日向の青木氏族」が平安末期に九州に発祥しました。
この時に、この薩摩隼人に「青木氏族」として「大蔵氏族肝付氏系長嶋氏」が発祥しています。
お家の本流の「大蔵氏」は、平家一族で、「肝付氏」も平家一族であった事から参戦せず、この「宗綱と有綱」と北九州に駐屯していた「平家との戦い」には「肝付氏廻氏」だけが参戦したのです。
この肝付氏系廻氏に執っては「同族争い」と成ったのです。
「平家の同族」でありながら反旗を翻した事から、同族の廻氏は寺の門前でも許されず、結局は住職の勧めで、護って来た清和源氏の血筋を引く赤子の末裔に、「伊勢青木氏」を名乗らせて急場をしのいだのです。
この「肝付氏系廻氏」の血筋を持つ「日向青木氏」は、室町期末期からは「黒田藩の大傭兵軍団」と成って勢力を盛り返し一族を拡げ青木村を形成しました。
日向市から大口市までの地域にこの「肝付氏系廻氏の青木氏」は現存します。
有名な野球選手も出ています。
この「日向青木氏」は、お家の「肝付氏」とは、親族なのです。
ところが、この「大蔵氏系肝付氏」は、室町末期に、南薩摩から起こった土豪の島津氏が勢力を拡大して、肝付氏とは十数回も戦い勝敗は尽きませんでした。
結局は、薩摩の島津氏が優位を保ち、島津氏が支配権を薩摩で取りました。
そこで、両氏は決戦を避けて、肝付氏は島津氏の支配下に入り、薩摩北域を持つ事で、島津氏の筆頭家老として治めて子孫を遺しました。
その後に血縁して島津一族として栄えました。
これが、お家の肝付氏です。
ある程度の系譜も判って居ますが、さて、お家の肝付氏は、大蔵氏系に近いのか、肝付氏に近いのか、廻氏に近いのか、青木氏に近いのか、長嶋氏に近いのかは情報が無いので判りません。
情報としては、「隼大」と「都城」と「中郷」からは、大隅の隼人に住んでいた青木氏族に近い永嶋氏との繋がりを持つ肝付氏ではないかと考えられます。
詳しくは、兎も角も掲示板と研究室に島津氏、肝付氏、廻氏,長嶋氏、宗綱、有綱、日向青木氏等のワードでサイト検索で引き出して全て読んでください。
極めて詳しく論じていますので、お家のルーツが観えて来る筈です。
他に情報が在りましたらお知らせください。
ちょっとした情報でもお家の更なるルーツが観えてきますよ。
念の為に、明治以降の情報はルーツ探究には社会体制が異なる為に全く参考には成りません。
尚、「真宗」に付いては、九州の南薩摩のお家の事をある程度物語っています。
では、ご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
「青木氏族の関係族」としてお答えいたします。
はじめまして。宮崎県都城市に住む肝付と申します。
私の高祖父はハヤタ(早太?隼大?)と言い、児玉家から養子を迎えたということ
です。高祖父がどんな人物だったのか、全くわかりません。
かつて父が調べたらしいのですが、役所の記録は保存期間を過ぎていたとのこと
です。
家は旧中郷村にあります。曽祖父は軍人で、東京や熊本にも勤務し、満州にも居
たのか、あちらの友人と撮った写真があります。病気で早く亡くなったようですが、
晩年に村長をしていました。我家は東本願寺派浄土真宗。近くの寺に納骨堂あり。
寺の維持か納骨堂の建立などに我が家も協力したようです。
家紋は特に使用することもなく、一応、軍配ですが、調べたところ児玉家のものの
ようでした。仏壇に神棚、氏神の社もあります。カネトシ?という方が警察関係の
仕事で静岡に勤務していた際、山岡鉄舟と交流があったようですが詳細不明です。
家系のつながりを知るにはどうしたらいいでしょうか。
御助言等戴けましたら幸いです。何卒宜しくお願い申し上げます。
上山さん 今日は。
お返事いただきましたが、文章が処理の途中で消えて仕舞いました。
済みません。
代理投稿します。
>家紋の事は良く判りませんでした。いろいろと教えて頂きました。有難う御座います。
>これからも勉強して判ら無いところが在りましたらお尋ねしますので宜しくお願いします。
又、何か疑問がありましたら、ご遠慮なくご質問ください。
今日は。始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
全国の青木氏が集うサイトです。
さて、お便りに依りますと、「丸に桔梗紋」の家紋との事ですが、残念ながら、上山さんの事ははっきりと判りません。
判る範囲でお答えしましょう。
唯、江戸期前にご先祖が居て、その方の出身地が滋賀の出身として上山氏を名乗っていたとすると、滋賀の上山さんと観られます。
この滋賀の上山姓は、元は伊勢北部の伊賀の上山郷から出て来た農民の者が近江に出て来て、山賊集団を形成し力を得て、滋賀の土豪と成りました。これが関西の上山氏の出自です。
この上山を名乗った山賊は、「滋賀の青木氏」の断絶しかけた家の跡目も奪い「滋賀の青木氏」を名乗った事でも有名です。
然し、この上山姓が桔梗紋を家紋とする事は本来は「家紋掟」からありません。
そもそも、この「桔梗紋族」は、美濃の「土岐氏の家紋」で「源平の戦い」でこの一族一門は悉く滅亡して仕舞いました。
その後に、この滅亡した土岐氏の家紋を、元来は家紋の持たない上山姓の様な農民から武士に成った者等が、この文様を許可なく勝手に自分の家の家紋にする事が江戸初期と明治初期に起こりました。
恐らくは、お家は、江戸期に武士で無ければ、この明治期に名乗った上山氏だと思います。
明治3年と8年に全ての民は苗字を持つ事が義務付けられました。
この時に家紋も桔梗紋を使ったと観られます。
この桔梗紋に丸を付けて家紋としたのです。大変多くの民に使われました。
本来は、この「丸付き紋」と云うのは、分家が付ける事に成りますが、この桔梗紋族は、余り分家を遺さなくて本来は丸付き紋の桔梗紋家は、実は一族一門が完全に滅亡しているので少ないのです。
然し、一族の絶えた文様ですので、許可を得ずとも使える事から、逆に明治期に勝手に使われて増えたので大変多いのです。
最も多く使われた家紋と云っても良い程です。
もっとも、この家紋の文様は、「桔梗の花の色」が「紫」である事から、「紫」は色では「最上位の色」で、この「紫」を使えるものは、古来より朝廷の許可を得た「藤原氏や青木氏」等の「高位の身分」の者しか使えない色なのです。
ですから、この「紫色の桔梗紋」も当然に「高位の者」しか使えない「花文様」に成るのです。
「美濃土岐氏」は、「皇族賜姓族五家五流の美濃青木氏」の流れを汲む「土岐氏系青木氏」がある事で、この「桔梗の文様」と「紫色合い」が使えたのです。
然し、「賜姓族の氏是」に従わずに「源氏の血筋」を引いていた為に「源平の戦い」に参戦して仕舞って滅亡して仕舞います。
この時、「近江青木氏」や「近江源氏」も「駿河源氏」もこの「近江美濃の源平戦」に参加して「美濃富士川の戦い」で敗戦して掃討作戦で完全に滅亡しました。
因みに、「桔梗の紫色」と共に、「青木氏の象徴紋の笹竜胆紋」の「竜胆の花の紫色」は、「嵯峨期の詔勅と禁令」で使用は禁じられている「花文様」で「花色合い」なのです。
「明智光秀」が、この「美濃土岐氏の傍系支流末裔」と名乗って、この「桔梗紋」を家紋としたのですが、上記の禁令の事があって、この「花文様」は、兎も角も、「花の色合い」も「紫の花」としたので、「揚羽蝶紋」を「総紋」とし、「木瓜紋」を家紋とする由緒ある平家末裔の「信長」から、光秀は家柄を誇張しているとして嫌われたのです。
従って、この事が在って、この「花文様」と「花色合い」は無規則に多くの姓に使われる事に成ったのです。
本来は、使ってはならない「紫色合い」で、結果として使ってはならない「花文様」と云う事に成ります。
だから「桔梗文様」は、「126文様の類似家紋」も出来ました。
日本の家紋8000の中で、最も類似家紋の多い文様なのです。
これが桔梗紋の経緯です。
何故、この様に成ったかと云うと、江戸初期に成って社会に「権威」と云うものが無く成り、そこで「権威」を形成する必要から家康は、全ての農民から武士に成った全て者に対して、「武士」と新たに認める以上は「ルーツの作成」と「家紋の設定」を、「武士や大名をの身分を証明する黒印状」を発行する条件として義務付けました。
困った、農民から武士に成ったもの達は、「ルーツ」を作らねばなりませんので、他の家の「姓」と「家紋」を搾取して「ルーツ」を作り上げたのです。
幕府は搾取でも黙認し容認して「身分証明の黒印状」を発行したのです。
お家が、江戸期に武士であれば、この時に「上山姓」とこの「家紋」と「ルーツ」を作り上げた事に成ります。
従って、「桔梗紋の花文様と花色合い」では、「土岐氏の末裔」と云う事を証明する事は無理なのです。
そもそも「上山姓」は、「氏族」では無く「姓族」ですので、丸に桔梗紋はルーツ的に無理である事に成ります。
そこに、お家がこの「伊賀の上山郷の上山姓」を名乗った「姓族」(氏族では無い)ですから、この「桔梗紋の家紋(氏族の家紋)」は証明する事は出来ないのです。
恐らくは、江戸期には武士でこの「上山姓」であったとすると、「上山郷の上山」か「滋賀の上山」です。
「桔梗紋の土岐氏系青木氏」とは全く関係がありません。
一度、お家が江戸期には武士であったかをご確認ください。
お家の御本家に成る家にある「維新戸籍簿」には武士であったか、何処から来たかも記入していますよ。
武士であったとすると、「滋賀の上山姓」です。
丸に桔梗紋の家紋の事は疑問です。
最も勝手に多く使われた家紋ですので判別が付きません。
序に、お家の「上山姓」の「青木氏」は、室町期末期に千葉に移動しています。
ご質問が在りましたらご遠慮なくお尋ねください。
ご協力いたします。
はじめまして、大阪に住みます上山と申します。先日、私の家の家紋(丸に桔梗)について調べていると、こちらのページにたどり着き、興味があり見ていますと、土岐氏系青木氏の分家が丸に桔梗紋であることを知り、青木氏と上山氏の関係にすごく深いものかなと思い連絡させていただきました。
今日は。お久しぶりです。
さて、早速ですが,御質問のお答えに入ります。
御質問は次ぎの通りですが、以前のご質問でお答えした内容は、以下の通りです。
今回のご質問には、知っておかなければならない歴史観が在ります。
先ずは、祖父の方は明治の方と見受けれられます。
これは、江戸期と明治期では社会体制が全く異なっています。
氏家制度の江戸期には家紋などの伝統でルーツを確認できましたが、明治期はこの身分制度の「封建制度」と「氏家制度」で纏まる社会体制ではありません。
従って、明治期ではルーツを追う事は出来ません。
次に、善光寺の件ですが、この善光寺は、密教と顕教を併せ持つ中立的な大変に珍しい寺で、平安期から、比叡山の僧侶が集まる天台宗派と、皇族系の宗派の浄土宗派とが、二つの派で構成されていた珍しい寺に成ります。
平安期の当時は,社会は主体が未だ「密教」を前提とする宗教でしたから、一般の者、つまり、民衆を含む官僚や侍(当時はこれらの身分の人々を「百姓]と云った。)が信心できる寺として大いに広がりました。特に、民衆は「古代稲荷信仰」を主体として信心出来る宗教体制でした。
そもそもその「密教の天台宗」は、平安期は密教系を前提に貴族や公家衆等の出身者が僧侶と成り、この系列でこの寺に僧侶と成って入りました。
ところが、教義は「顕教」の「盧舎那仏」を「宇宙仏」として「釈迦」を「如来像」として説く宗派であり、明らかに「顕教」でした。
然し、体制では、つまり、「密教の大日如来を宇宙仏」とする説を唱える宗派でしたが、教義は「顕教の説法」を採用していました。
少し矛盾する宗派でした。
これが、「密教の在り方」について平安期の有名な[宗教論議」となり、挙句は「宗教戦争」と成った原因です。
比叡山系は、多くは「皇族の門跡院の者」と「公家や貴族」が僧侶と成った宗派でした。
ところが、これに反して「浄土宗」は「皇位で高位の氏族」が入信し、その「氏族の者」が「氏内から僧侶」と成り説法する「密教」だけを前提としていました。
「達親」と云う「仕来り」を敷いて布教する「独善の宗派]でした。
(研究室の「伝統シリーズ」で論じています。)
そこで、この「善光寺」は、この「二つの態勢の宗派」の僧侶を招き入れての寺の構成を採った事で、「特殊な善光寺」が生まれました。
当然に、内部は、二派に分かれる事に成ります。
この「密教」であって「密教」で無い、「顕教」で有って「顕教」で無い不思議な寺が出来上がったのです。
従って、後には民衆も含めて、江戸期には誰でもが信心出来て、且つ、「高位格式を持つ氏族」も信心できる「高い格式のある寺」が出来上がったのです。
この体制を持つ「善光寺」は、江戸初期には家康に依って「密教」を全て禁止した為に、全て「顕教」に統一しましたので、当時としては「身分の高い、格式のある僧侶」から成る「格式のある寺」が出来上がり、この為に家康は、特別に、この徳川氏が定める「葵紋」の他に、権威を更に高める為に特別に、「格式紋・権威紋」として、「立葵紋」を作りました。結果的にこの葵紋の使用を認められたのは、「二つ出自」にこの「立葵紋」を与えました。
一つは、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏」の「伊勢青木氏の融合族」に「徳川氏の勝姫」を嫁がせてこの「立葵紋の使用」を認めました。
そして、他に一切の使用を禁じました。
これらの上記の事は「伝統シリーズ」で論じていますので参照してください。
つまり、同じルーツの皇族系の持つ格式の高い氏や寺社に使用を認めたのです。
これが、「善光寺の格式紋・権威紋の立葵紋」の経緯由来です。
幕府は、この善光寺に「立葵紋の使用」を認めて「寺紋」として使わさせて「徳川氏の権威」を高める事に利用しましたし、且つ、保護したのです。
従って、この特別の神紋と成った「立葵紋」に付いてはお家とは家紋ではありませんので無関係です。
元は、上記しました様に、「皇族系の笹竜胆紋」と「神職で神道系の柏紋類」と「高位の格式を持つ木瓜紋類」(平家揚羽蝶紋を総紋としての織田氏も木瓜紋の由来を持つ)の「氏族の寺」として唯一の最高の格式高い寺が平安期に出来上がり、それが江戸期に「立葵紋の使用」をこの「善光寺」にだけが認められたのです。
当然にその僧侶の多くはこの紋類を持つもので構成されていたのです。
本来は、「柏紋類」は「青木氏の皇族賜姓族の神職系の家紋」で特別に朝廷より認められたものです。
依って、この善光寺にもこの「神職系の柏紋の者」が僧侶と成る事も起こったのです。
>祖父の実家が「長野の善光寺」であることがわかりました!
>しかしながら「善光寺」ですと家紋が立ち葵であること、我が家の家紋は丸に五瓜?でして宗教も神道です。
実家が「善光寺」と云う事は、どの様な経緯と裏付けで判明したかは判りませんが、考えられる事は、その「浄土宗派の僧侶の青木氏系」の者が、還俗して子孫を遺したとすればあり得る事です。
平安期では無い事であったのですが、江戸期中期頃からこの「善光寺の僧侶」が妻帯する事も起こり、善光寺内にも、還俗した者にも妻帯した子孫を遺した事は記録として遺されています。
ですから、元は「神職の神道」でありながらも、「善光寺の僧侶」であって還俗した者が、この還俗後に「元の家紋」を使ったとする事もあったとも考えられます。
依って、「柏紋類、木瓜紋類の青木氏」が、還俗して次ぎの経緯の中で子孫を増やした事も起こり得ます。
「立葵紋」は上記した経緯から家紋としては全く関係がありません。
「立葵紋」は江戸初期から家紋化する事は厳しく禁じられていましたし、江戸期の事ですので、関係はありません。
本来の家紋は、室町期中期頃以降では「五瓜紋」では無かったと観られます。
恐らくは、元は「柏紋の青木氏」であった事に成ると思います。
この事は不思議な事では無いと考えられます。
但し、還俗の所運が付いていて、下記の様な「跡目の家紋掟の経緯」から幾つかの家紋が江戸期には起こったと観られます。
ただ、明治期では、社会体制が異なっていますので、どんな家紋にも広がった事が云えます。
お家の祖父の事は、明治期ですから、「丸に五瓜紋」に成ったとも考えられます。
下記の様に、以前のお便りにも書きましたが、次ぎの様に成ります。
以前のお答え内容
>多分、推測の域が出ませんが、「木瓜紋」の前は一時期に「皇族賜姓青木氏の神職」の「三つ柏紋」を持つ氏であって、その後に、「土岐氏系の一族」との血縁を結んで男系跡目が叶わずに再び変紋を余儀なくされる事と成り、「家紋掟」に依り「木瓜紋」に成ったと見ます。
>それだけにこの神道、特に「高位の皇族賜姓青木氏」だけが持つ「自前の神社」の情報には重点をおいています。
>1200年以上の長い古い家柄をお持ちであるが故に言えることで、室町期や江戸期ではこの説は無理でしょうが。
>これに関する何かの情報があるといいのですが。例えば、御家は丸付き紋ですのでその分家筋ですので、本家筋の一部では、この「三つ柏紋の青木氏」の家紋を保持している可能性がありますし、地理的には同じ域の家紋類ですので充分にあり得る事と思います。
>キーポイントはお家が分家の「丸に五瓜紋の青木氏」であったとしても、本家筋の一部にこの「三つ柏紋」もあることかと思います。
>これが確認出来ればルーツ検証は確定です。
>兎も角も、綜紋は「笹竜胆紋」です。
>筆者とともに変紋前は「皇族賜姓青木氏の総宗本家の笹竜胆の家紋」と成ります。
>現在まで男系で続いてきた「伊勢青木氏」が皇族賜姓すべての青木氏の元に成りますので、元は「笹竜胆紋」であります。
>賜姓源氏も青木氏の綜紋の笹竜胆紋を同族ですので保持しています。
>賜姓源氏一族の全て総宗本家は完全に絶えましたので、現在では「伊勢青木氏」を始めとする5家5流の24氏の一族が「綜紋の笹竜胆紋」を繋いでいること成ります。
>(ただ、土岐氏系と近江系は源平合戦で滅亡しています。)
>つまり、その「24氏の青木氏」の一つの分家筋の御家は、「笹竜胆紋」から「三つ柏紋」へ、そして「木瓜紋」と移り分筋となっことから「丸付き紋」となったとも云えます。
さて、そこで歴史的に「ある変遷」があって、「木瓜紋」は、そもそも、上記した様に「高位で皇族系の氏族」であった事から、そもそも、「丸付き紋」は、本来は慣習として用いていなかったのです。
然し、この慣習も江戸期に成ると緩みましたので、「丸付き紋の木瓜紋の青木氏」もある事は認められます。
但し、特にこの場合、その中でも「五瓜紋」は、織田氏等の「平家の支流族」が用いた家紋類です。
その「五瓜紋」の真ん中にその「支流族の紋」、つまり、「副紋」を組み入れた文様の習慣を持っています。
その中に組み込むこの「副紋」は一般的に「唐花紋の変紋した文様」を用いました。
依って、お家のこの家紋に真ん中にある文様があるかどうか、無いかどうか、在ったとしてその文様がどんな文様であったかで、お家のルーツ先がどこの氏姓であったかは判ります。
この上に、本来は上記した様に「高位の純血性を護る為に「氏族」からすると無い「丸付き紋」ですが、唯一つ「丸に五瓜に唐花紋」使用した「姓族]があり、この「姓族」は唯一「江戸期の渋江氏」が認められます。
恐らくは、時期は何時かははっきりとは云えませんが、恐らくは「渋江氏の由来事」から江戸の中期頃から明治期初め頃の事では無いかと云えます。
つまり、二つ目の説は、この渋江氏の系列と養子血縁した青木氏である事が云えます。
「柏紋の青木氏」が男系跡目が出来ず、養子を渋江氏から迎えたが、この養子にも男系が認められずに、女系となり、家紋は「養子先の家紋」に変紋せざるを得なく成り、渋江氏の男系の系列に入り「五瓜紋の青木氏」と成った事に成ります。
だから、「神道神職の柏紋の青木氏」であったが「神道の五瓜紋の青木氏」が発祥したのです。
明治期の祖父の実家先のルーツは、江戸期に入っていますから、そのルーツの元は、辿れば善光寺の僧侶で有って、還俗して、妻帯して、子孫を拡げたが、その後の江戸末期頃に[渋江氏」と血縁して、上記の経過を辿った事が云えます。
問題は、”お家の実家先が善光寺”とする凄い発見は、どの様に見付けられたのかが問題です。
その事に興味が湧きます。
そもそも、上記の様に「善光寺の構成経緯」からは、本来ならば「実家先」とは出来ない筈ですし、更に、仏門の者の還俗の経緯は本来は伏せる事が慣習でした。
「還俗」と云っても簡単には「還俗」は起こりません。
例え還俗しても元の青木氏の下に戻る事に成ります。
依って、実家先とは成ら無い筈です。
況して、善光寺です。
これは、実家先とするそれが判る判断資料が滅多に観られない「凄い歴史的価値」を持ちます。
この事が判る事は、家紋云々等の「ルーツ事]は充分に判る筈です。
「善光寺実家」とは、果たしてどの様な意味なのでしょうか。
一応は、”「善光寺実家先」”としての資料から観られる範囲で考察をしましたが、少ない事ですので、「善光寺の地名」の事を云っているのですか。
そうだとすると、「立葵紋」のご質問の無意味が何を意味しているのですか。
では、お便りをお待ちしています。
お答え頂ければ幸いで改めてお答えし直します。
副管理人さん
大変、お久しぶりです。
新たにわかったことが有ります!
祖父の実家が長野の善光寺であることがわかりました!
しかしながら善光寺ですと家紋が立ち葵であること、我が家の家紋は丸に五瓜?でして宗教も神道です。
なにがなんだかわからなくなってきてしまいましたが宜しくお願い致します。
黒木さんの永島さん 今日は。
早速、お読み頂き有難う御座います。
お答えが遅れました。実は転居致しまして、この為にお便りを直ぐに出す事が出来ませんでした。
申し訳ありませんでした。
色々と、お家の御先祖の事に御推理されている事に感謝します。
このご努力そのものが「ご先祖への敬意の表れ」であり、「伝統」の基に成る行為と考えます。
「ご先祖の生き様」に思いを馳せる事は、これからの「子孫への思い」に通ずることにも成ります。
なかなか「ご先祖の生き様」を浮き上がらせる事は、情報を引き出す伝統や資料や口伝などの消滅も在って現在では難しいものと考えます。
然し、歴史観を通して少しつづでも「紐解き」をして行く事で、大まかな処は観えて来るものと思います。
これを後の子孫に「先祖のロマン」として遺してやる事も、「子孫の心」を豊かにすると思います。
さて、そこで、次ぎのお便りに付いて、筆者の考え方を披露して観ますので、現在まで判った「ご先祖の由来」について更にお考えを纏めてください。
>まづ、”永嶋”から”永島”に代わった経緯を、もう一度除籍謄本を良く眺め、調べて見ました。
>そこで、分かった事は、明治38年頃に初めて”永島”を名乗り、経緯は分かりませんが明治44年頃にまた”永嶋”へ戻したと考えられます。
>(墓の台座に永島と彫ってあったものは明治40年代以降のものに限られてました。)
さて、そこで、江戸期前と明治期後では社会体制は異なっていますので、「ご先祖の生き様」取り分け、「氏名の有り様」に付いては江戸期前の論理とします。
何故ならば、明治期には、「氏名の呼称」は「維新戸籍簿」以上の氏名を興す事は出来ません。
と云う事で、先ずご推理には、若干、無理が在ります。
それは、戸籍上で「永嶋氏」から「永島氏」に変わった時期を、「初めてとし、明治38年」としていますが、これは、無理です。
「明治維新の苗字令の3年」と「督促令の8年」があって、明治9年にほぼ正式に全国民の戸籍が定まりました。
この間に「維新に対する政治的な色々な関連する動乱」が起こりますが、どんなに遅くとも明治13年には確定しています。
つまり、これ以後に戸籍上、「維新戸籍簿」で戸籍が定まりましたので、新たな苗字を起こす事は出来なかったのです。
明治38年では、完全に政治が安定しています。
「除籍謄本」ですので、この明治38年には、「永島氏」が「何れかの土地」でお家の戸籍上では定まっていて、そこから、婚姻等で、初めて、ご先祖のどなたか、恐らくは、祖父に当たる方が、ご本家筋から維新戸籍法に基づいて、籍を新たに移して、別家の「永島氏」を設けた事を意味します。
それ以前、つまり江戸期には、「人別帳」の範囲では、且つ、「永嶋氏一門」の範囲では、先ず、「永島氏」であった事に成ります。
次に、”永嶋氏に明治44年に戻した”とすると、これは、戸籍法にて「永嶋氏」に「養子縁組」をして、何れかの「永嶋氏の家」の「跡目」を継承した事に法律上は成ります。
それは、「何処かの遠縁の養子縁組」か、「何処かの維新戸籍に登録された縁籍筋の永嶋氏の断絶した家」を再び「養子縁組の形」で興した事に成ります。
これ以外には明治8年以降は起こりません。
自由には家を勝手に興したり作ったりは出来なくなっているのです。
”「永嶋氏」も新たに作って”と云う事は出来なく、「維新戸籍に登記された家以外」には新たに出来ません。
全て「養子の形に依る継承」と成ります。
これは「永島氏」であろうと別の氏姓であろうと変わりません。
そうすると、「お家の系譜」には、「永嶋氏の家」と「永島氏の家」の「二流の家筋」を持ったお家と成ります。
明治期に成っても、江戸期の「秀郷一門の永嶋氏ルーツ」の中にある事に成ります。
「永嶋氏」を継承した後には、厳然と継承者がいるかどうかは別として、戸籍上は「永島氏」も遺る事に成るのです。
つまり、お家の者は、「永嶋氏」か「永島氏」の「断絶した家」を「養子縁組」の形で起こす事が出来る事に成ります。
平たく云えば、まだルーツを継承している事に成りますね。
然し、以前のお便りからすると、明治44年に永嶋氏に成ったにも拘らず、現在は永島氏の方の家を継承している事に成っていますから、永嶋氏にはお家の先祖の別の誰かがこの「永嶋氏」を養子縁組で継承していて、お家の家筋は矢張り永島氏であった事になりますね。
つまりは、”親戚に永嶋氏の人がいる”と云う事に成りますね。
依って、お家は、江戸期初期の後頃から「永島氏」を継承している事に成ります。
然し、「明治40年の墓所の彫刻の永島氏」は、「伝統ある本家筋流れを持つ永嶋氏の格式」を持つ「江戸初期の永島氏」とは違う様に読み取れます。
>この経緯は、お返事にあった江戸初期からの衰退の流れの中で、敢えて言うならば、明治中期の第六段階』による、”決定的”で”壊滅的”な衰退が起こったのではないかと現在私は考えております。
さて、この件ですが、逆ではありませんか。
そもそも、上記とした通りの経緯から、「永島氏」から一族の誰かが何処かの縁籍筋の「永嶋氏の跡目」を継承している事に成る訳ですから、そもそも衰退ではこの事は出来ない筈です。
この「永嶋氏の跡目」が、”「断絶跡目」”か、単なる”「養子跡目」”かは別として、「壊滅的」とは考え難いのではありませんか。
「断絶跡目」の場合は、「養子跡目」よりは、「経済的な裕福度」は高く無ければ出来ない事です。
何はともあれ、明治44年の「永嶋氏継承」では盛り返しているのではありませんか。
多くの家族を養う事が出来た事が出来て、他家に養子に出す事が出来るレベルは衰退とは成らないのではないでしょうか。
むしろ、お家が推理する「明治期の第六段階」は、「元のルーツ」に拡げ直した期になると考えます。
さて、そこで気に成るのですが、その「明治44年の永嶋氏」ですが、”どこの地域の永嶋氏”でしょうか。
「江戸末期の永島氏」のご本家の「明治維新戸籍簿」には、出来た最初の「永島氏の戸籍簿」には、「士分の場合」は、「何処から来た者かの発祥地域の記載」があります。
除籍簿にも土地記載がありますので、何処の土地の「永嶋氏に跡目」に入ったかが判ります。
これに依って、「断絶養子の跡目」か「養子縁組の跡目」かは凡そ判別できます。
兎も角も、明治期は、江戸期と違って、社会体制は、一族で纏まる社会の「氏家制度」から、「単位家族制度」に変わりましたので、衰退の様に観える事にも成ります。
この「明治期の衰退」と観えるのは、そもそも「氏家制度」ではありませんので、「氏の衰退」ではありません。
当然の有り様です。
そこで、明治末期には「永島氏」が、「他家(永嶋氏)」(他氏では無)を興したのですから、むしろ、混乱期を押し通して頑張って、遂には、「ルーツ元の永嶋」を再興した事は「繁栄」と観るのが正しいのではありませんか。
そこに”当主が云々”は別の問題ではありませんか。
何にせよ「永島氏」から「永嶋氏」ですからね。
「分家筋」から「本家筋」を興す事はなかなか無い事ですからね。
その「繁栄」もどこの「永嶋氏」かでそのレベルが判別できますね。
そこで、実は、気に成る一点が在ります。
それは、「菊池氏」です。
「菊池氏」には「阿蘇神社系の菊池氏」であり、「元寇の役」の際に北九州に集まった「秀郷一門の永嶋氏」と「九州域」を制圧していた大蔵氏」と血縁し、それに「九州の大蔵氏系菊池氏」があり、この「菊池氏」と「大蔵氏系永嶋氏」が血縁をして、江戸期直前にこの「大蔵氏族永嶋氏系菊池氏」が江戸に移動しています。
そして、この「大蔵氏族永嶋氏系菊池氏」と秀郷一門と更に血縁をしています。
恐らくはこの末裔ではないかと観られます。
この時期に、北九州では多くの豪族が秀郷一門と血縁をしているのです。
例えば、佐伯氏や大竹氏は秀郷一門と血縁して、その末裔の者が関東の秀郷一門の名籍を継いで関東に移動定住しています。
特に秀郷一門主要五氏の「永嶋氏」を初め、「進藤氏」や「長谷川氏」も血縁して名乗っているのです。
そして、「調整役の進藤氏」や「護衛役の長谷川氏」を名乗ると共に、遂には、「秀郷一門の関東佐伯氏」も秀郷枝葉一門として発祥させているのです。
お家が云う「菊池氏」も同じで、その秀郷一門枝葉の「関東菊池氏」だと思います。
そして、その「永嶋氏の跡目」を継いだ「明治44年の永嶋氏」もこの「大蔵氏族菊池氏系永嶋氏」だと思います。
と云う事は、お家の「永嶋氏系の永島氏」は、「九州の永嶋氏」とも同族血縁をしている事に成ります。
お家の「明治後の永嶋氏」は、明治後では「九州の永嶋氏」であった可能性があります。
つまり、明治期には未だ「永嶋氏(永島氏)の伝統」は一族の中ではある程度に伝承されていた事に成ります。
「明治44年頃の永嶋氏」は、関東本流の格式を持つ永嶋氏では無いのではと観られます。
江戸期初期の「宗家の永嶋氏」では無く、九州の菊池氏系の永嶋氏であると観られます。
明治期には、「宗家筋の永嶋氏]は、実は「宗家本家の格式」を落としての衰退はしていないのです。
>「慣習仕来り」や「経済的背景」をキーにして、「時代背景」、及び「除籍謄本」から推測すると、嘗て永嶋家にも、横溝正史の小説のようなドラマがあったように思われます。(殺人などはありませんが・・・)
>この”永島””永嶋”の物語は、幕末〜明治維新〜明治〜昭和初期の背景を通した、3代に渡る永嶋家の爺様達の苦闘の物語が浮かび上がって来ました。
>確定と判断する事は出来ませんが、福管理人さんのお返事にあった「社会の経済的衰退の状況」をキーにして金田一耕介になりきって考察をしてみます。
>この掲示板の内容からすると、全体の流れの末節の末節の小さな小さな一家の話ですが、日本の大激動の中、如何に末裔が生きたかを報告するのも一つの在り方ではないかと思い上手く書けるか分かりませんが、試みて見たいと思います。
何処の家にも、「社会的な経済的衰退」がある事でしょう。
その事に依る事件も起こるものですね。
この様な事件等の御先祖の生き様を網羅する事に依り、子孫が迷った時にこれを観て、「生きる力」や「考える力」を蘇らさせて、頑張る様に成ると伝承伝統を伝える意味も出て来るものです。
出来るだけ「金田一氏」に成り切って書く事も小説的に伝承するも良い事だと思います。
是非、推理を交えての伝承にして下さい。
>と言いながら、その前に、”「先祖墓」”についての、私の小さな”発見”からご報告いたしたいと思います。(こちらの方が説明が簡単そうですので)
>お墓に書かれていた、○中行人山の○の字ですが、”藤”の字かどうか写真をもう一度写真を眺め、パソコンの画像処理で彩度や明度を色々処理して文字を浮上らそうと試みましたが特定には至りませんでした。
>”行”のようにも見えるし、”詠”にも見えます。楷書体であれば”藤”にも見えなくもないですが、かなり苦しいと思います。
>(写真を添付しようとしましたが、上手き出来ませんでした)
>こんな事であれば、もっと墓石を良く調べてくれば良かったと今更ながら後悔しております。
昔の碑文には、一定のルールが有って、その一つには一族を指し示す何かの字句を読み込むルールが有ります。
歌などの様に、「枕詞」は地名の読み込みですが、「永氏」として「永」と云う字句を「永嶋氏の想起」を呼び起こすものとして使われているのを観た事が在ります。
地名の場合は。その一族が住んていた地域の枕詞が在りますので、其れを解明すれば良い事に成ります。
つまり、「永嶋氏の定住地」の「地名」を以ってして「永嶋氏を想起させる字句」としたと云う事もあります。
”「詠」とも観える”とした場合は、「永の字句」を使ったとも考えられます。
この根拠には「永」は「永久の意味」をも持つ事に成り、「読みこみ」としての上手さが観えるとも取れます。
ただ,「藤」でも、直接に「藤の字句」を使うかは別で、その碑文の「上手さ」は、一族の誰でもが想起や連想を呼び興すものである事が「上手い碑文」とも成ります。
「総紋」の「藤の花」は「下り藤紋」ですが、これを「別の形」で云い換えて連想させる方法も採っている様です。
例えば、「藤の花」は「紫」の色の代名詞と成っています。
この「紫」は、「高位の身分の者」や「藤原氏の氏」が特別に朝廷から使う事を許された「身分を表す色」なのです。
碑文の状況に依っては総紋の「紫花」ともとする事も考えられます。
今回は「山」を読み込んで掛けていますので、「山」に”「紫の藤の花が咲き乱れる様」”を読み込む事にも成っているので、この「碑文の内容」では「花」を重ねて読み込む事は無いと考えられますので、今回は「紫花」では無いと観られます。
例えば、「僧侶の袈裟色」はこの紫の色が最上位を表します。
「藤原氏の守護神」は「春日神社」ですので、「春」を使った事も考えられます。
この短文の碑文作成の要領からしても「紫の字句」とも考えられます。
もう一度、お調べに成って考えてください。
>この掲示板で、お墓の向きに着目し、大発見をされた方がいらっしゃったので、この”○中行人山”の墓の向きがどちらに向いているのか調べてみました。
>測定方法は、コンパスで正確に測った訳ではなく、お墓の位置の記憶を頼りにGoogle Mapで確認するだけの極めて簡単な方法です。
>お墓の向いている方向に線を一直線に引いてその線上をつぶさに調べてみました。そこで、藤原氏縁の場所を探してみると、唐沢山神社が線上に上がりました。偶然の一致かもしれませんし、私が悠久のロマンを求めたいが為にそのように思い込んでしまっているからかもしれませんが、お墓の向きは唐沢山神社を向いていたように思います。
良いところに気ずかれたと思います。
これは、藤原族の主要五氏の永嶋氏は春日神社ですので、この「唐沢山神社」が「春日神社系の分社」であるかをお調べに成る必要があります。
違えば関係は無い様に思えますが、お家は分家筋ですので「分社」である事は、充分に有り得ますので推理は当たっていると考えます。
確認してください。
昔はその様な線上に並べると云う「方位学」と云うものがありましたので、あり得る事でしょう。
コンパスと云う完全な方位では無くても良い習慣ですので、概しての範囲で良かったのです。
>もし、意図的に墓の向きを決めていたのであれば、江戸期の祖先は何を思い、また何を願い墓を立てたのか?と言う好奇心が沸いてきます。
>もしそうであれば、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と言う意味合いは筋が通るように思います。
>もしくは、「分家枝葉範囲の一族」が消えつつある伝統を墓で残そうとしたのかもしれません。(あくまで憶測の域をでませんが・・・)
墓の向きは、浄土宗仏教の慣習で、「墓」は、原則は北向きが好ましいのですが、或は「武蔵のルーツ元」の「入間」に向けて建てると云う事もあります。
昔より北は「仏の路]と云われ、「高位の方向」と云われて「天皇が坐す位置」として崇められてきました。
これには根拠があって、北はN極で、南はS極です。
北には「強力な磁場」が存在し、この地球上にある物全てはこの磁場に引き付けられています。
そもそも人間もこの磁場の御蔭で脳幹が働き、脳がシナパスを通じて反応し動く仕組みに成っています。
従って、頭を北に向けて寝ると、この「SNの地場」に引き付けられて、脳は磁場に強く影響を受けて体の機能に影響を受ける事に成ります。主に自律神経に働きます。
この様に、SNに対しては、取り分け、S極に対しては”「仏の路」”として定められていて、この道を邪魔にするとかは不浄にするとかは法度でした。
依って正常に保つ事が必要なのです。
当然に「墓所」はこの方向に向けて建てて、「仏の路」を作るのです。
従って、この概しての方向が、「北向き」か「入間」の方向に向いているかを確認ください。
この慣習に従っていると思います。
つまり、字句にしても「仏の路」ですので、一族一門を代表する何かの字句や文様を刻む事に成ります。
この方向に合って居れば、「藤の字句」に相当するものが刻まれている事に成ります。
「永嶋氏]の場合は、「常陸の方向」に成ります。
永嶋氏は関東屋形として室町期末期まで勢力を高め、江戸期でも御家人として格式を張っていましたので、仏の路は護った筈です。
>また、この”「先祖墓」”の台座の家紋については、写真の通り私の思い込みのようであり、何も彫られていないようにも見えます。
>この墓の周りの小さい墓をもっと具に見てくれば良かったと大変後悔しております。
>従いまして、現時点で、墓に於いても藤紋の確認は出来ておりません。
原則は、「刻む」と云う事に成りますが、本来であれば、「永嶋氏」では「燈篭」になるものが傍に在って、それに”刻む”と云う藤原氏の様な「高位の氏の習慣」でもあります。
これは、根拠が有りまして、最初、奈良期の初期の「墓という慣習」が始まった時には、当時は現在の様な「仏壇」と云う形式では無く、又、「仏壇」と云う言葉と何がしかの物を以って弔う慣習は在りませんでした。
最初は、”「仏舎」(仏舎)、又は「荘倉」(みくら)と云う方式で、奈良期の古くから藤原一族はこの慣習に従っていましたから、後に、これを「燈篭の形」にしていたと観られます。
「墓所の傍」に「仏の路」を照らす目的から昔の「墓の形の名残り」として建てたものです。
現在でも、何処でも「家の庭」に建てる習慣も、”お盆の仏の祭祀には道を照らし導く”と云う目的から庭に建てられたものです。
それが、「仏舎と燈篭と仏説」を組み合わせて一つの形にしのが「仏壇の形」に変化したものなのです。
従って、「燈篭」の様なものが「永島氏の墓所」にはあったと考えられます。
江戸末期にはこの「墓所の燈篭」を庭に持って来て据えてしまうと云う現象が起こりました。
もしかすると、ご本家の庭にはこの「墓所の燈篭」を持ち込んでいる事も考えられます。
ゴルフ場に成った事から、この燈篭を放置する訳には行かないので庭に持ち込んだ事は充分に考えられます。
恐らくは、「永島氏」ですから、この慣習を江戸期末期まで引き継いできていますので、近くにこれに当たる何かあるのかも知れませんよ。
そもそも、その総合的なその一つの「先祖墓」の様に慣習を護っているのですから、この「仏舎」や「燈篭」の様なものがあった可能性があります。
これは高位の藤原一門の浄土宗の密教の慣習ですから、確実に在ったと考えられますので一度お探しください。
「伝統シリーズ」の1から7までの論文に詳細が書いていますのでそれをお読みに成って参考にして下さい。
>そして、寛政12年のお墓の戒名を良く見ると頭一時が抜けておりました。
>やはり、文字が良く見えず”的”にも見えますし”夜”にも見えます。
>この墓地には、全体的に20〜30ほどの墓石が在り、昔はもっと沢山お墓が在ったと聞いております。
>本家の親戚によると、そこに在ったお墓を引き継ぎ先のお寺に移したと聞いております。
>これを聞いた父は、お墓つぶしてゴルフなど不謹慎だと怒っておりました。
>また、本家の親戚の家の仏壇には、沢山の位牌が有りました。
>私は位牌が2〜3程度のものは良く見るのですが、少なくとも10以上は一所に収めているようでした。
そもそも,戒名には、一定の戒律があって、夜とか的とか自虐的な文字を使う事は禁じ手です。
極楽で名乗る戒名ですのです、考え難い事です。
恐らくは、お墓の建立は前回のお答え通り「江戸初期の直ぐ後」と云うことであると思いますので、墓石は多かったと考えられます。
何故ならば、永嶋氏と永島氏は室町期末期に秀吉と互角の戦いをしました。
永嶋氏の結城氏は、「陸奥白河の戦い」で秀吉の最大の敗戦歴を作った一族です。
3000人と云う死者を出して、大阪に逃げ帰った事でも有名です。
伊勢の永嶋氏や伊勢の青木氏らが、秀吉の背後を突いた為に、白河では無理攻めをして最終は落城させましたが、敗戦の形は拭えませんでした。
この敗戦の始末処理如何では、豊臣家は無かった事にも成り得たのです。
元々は、この「白河」を陥落させた後に、下総の永嶋一族一門を攻め落とす計画でした。
ところが,一門の助っ人が各地から秀吉の背後を突いた事から、中止した戦歴を持っています。
従って、この煩い秀郷一門の処に家康を送り込んで衰退させようと関東に転封させた背景がある位です。
この事でも判る様に、江戸初期も大いに永嶋氏一族一門は栄え、直ぐこの地で家康に依って御家人旗本と成って栄えたのですから、確実に墓所は多かった事が云えます。
>お墓のある場所は山と言うよりは小高い岡と言った面持ちで竹林がなければ、全体を見回わせる事が可能であったであろう形状でした。
>この山をなんと呼称していたかは、現在情報がありません。
「永島氏」に執っては重要な事ですが、「伝統」は可成り消えている様ですので、相当に研究しなくてはならない事に成るでしょう。
取り分け、多くの伝統を維持する役目にあったにも関わらず、ご本家もこの動きに無いのですから難しことだと思います。
お家が、概要でも良いですから、推理を含めて遺す事も意味が在りますね。
「青木氏の同族である近江佐々木氏」は、「青木氏族の永嶋氏」の観点からルーツに付いても研究しています。
筆者は基本的な事はこの佐々木氏からの永嶋氏に付いて学んだ経験を持っています。
お家は、この青木氏の研究論を参考にして歴史観を高めて頂き、これからの見学時の判断の基礎要素を高めて頂ければ、ルーツ探訪の際にはこの歴史観で観る事が出来ますから、より多くの情報を獲得する事が出来る様に成ると思います。
筆者もこの経験から多くを学び獲得しました。
「ルーツを知る歴史マニア」と云うのはそういうものでは無いでしょうか。
是非、慌てずにゆっくりとお読みに成って推理力を高めて置いて、後に資料や記録や先祖の遺産を観た時に、この時の推理が当たっていたか、何処がずれていたかは判って来るものです。
推理は大いに必要です。高めれば高める程に正確度は増します。
この為にも、「青木氏サイト」は青木氏族としてご協力させていただきます。
では、ご質問等ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
こんにちわ。
連投申し訳ございません。
私の考える、『明治中期の第六段階』
について、述べて行きたいと思います。
事前に言い訳ではございませんが、あくまで
私の推論ですので、後から間違いと判明する事も
ありますので、ご容赦下さい。
ご参考までにご報告致したいと思います。
まづ登場人物は、以下の3名です。
永嶋佐兵衛(先代)
永嶋治郎次(二代目)
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)
佐兵衛の爺さまは、天保拾弐年(1841年)生まれで
幕末〜維新〜明治の日本が180度ひっくり返った
時代を生きました。有名な事件に関与したかは不明ですが、
19歳の時に桜田門外の変。23歳の時に禁門の変。
26歳で大政奉還。27歳の時は、江戸城無血開城、
会津戦争、明治元年と20代の多感な時代を幕末の
動乱の中で過ごしました。断髪脱刀令は30歳の時です。
ちょん髷を切る時にはどんな想いだったのか?とたまに
想像したります。
その間に、佐兵衛(先代)爺さんは、嫡男に恵まれず、婿養子を貰います。
貰い先は、柴崎家で、佐兵衛(先代)の奥さんの実家です。
佐兵衛(先代)爺さんにとって、奥さんが柴崎家からきて、婿養子も
柴崎家からと言うと、永嶋家と柴崎家は、
かなり血縁の深い間柄だった事が分かります。
その婿養子が、永嶋治郎次(二代目)です。除籍謄本には出生日の
記載が無いので当時何歳かは推測でしか分かりません。
永嶋家に来たのは20〜25歳頃では無いかと私は考えています。
そして、多分この頃に家督も継いだのでは無いか?と考えております。
この永嶋治郎次(二代目)は、現在の親族に大変評判が悪いです。
それは、この爺さまが博打に手を出し、財産を失ったと
されている人物だからです。
最初、私も「そうなのだろうなぁ」と思っていましたが、この時代を
調べてみると、そうとも言えない深刻な事実がある事に気づきました。
この時の日本の経済環境は最悪の事態で、所謂、松方デフレが深刻化し、
農民を中心に貧困に苦しんだ時期でもあります。
特に米の価格が値下がり、1884年は、米価は3分の1に、
自作農は21万軒が破産。100万人が没落し、1885年、自殺者は 7282人
に上ったとされています。
計算上ですが、この時、治郎次(二代目)爺さまは24〜29歳です。
お家の経済事情はかなり逼迫していたと考えられます。
そんな中、”博打=ムチャな投資”をしてしまったのでは無いか?
と言うのが私の推論です。デフレ期に大規模投資はリスクが大きすぎます。
多分家族の反対を押し切って無理な投資を行い、失敗し、多大な負債
を抱えた結果、全財産を失ったのだと思います。
この失敗が事実上、永嶋家の破滅を引き起こしたのだと考えました。
最初は、遊び人で丁半博打かなにかに、のめり込んだのかと
思っていましたが、時代背景からするとそんなお気楽な時代では
無いのではないか?と思うのです。(あくまで憶測ですが・・・)
私は、この二代目の治郎次(二代目)爺さんは、米価低下する不況の
中、何とか苦境を脱しようと必死に考えた結果の大博打(投資)に
敗れてしまい、結果、家を潰すまでになってしまった事を随分悔やんだと思います。
その心情は多分、苦悩して、くやしくて、くやしくて、悔やみきれない
心持だったのでは無いかと思うのです。
そして、私は、この治郎次(二代目)爺さんが、今の親族に未だに恨まれている
事について、少し不憫に思うのです。
そして、治郎次(二代目)爺さんは責任を感じ、心労が祟ったのか、
明治35年(1902年)この世を去りました。
歳にして、42〜47歳の比較的若い死だったと思います。
このような大ピンチの経済状況で家督を継いだのが、23歳の
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)です。
私は、この時家督を継ぐのが誰か、ひと悶着あったと考えております。
その理由は、永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)の2つ年下の
『叔父』がいたからです。この時、実は永嶋佐兵衛(先代)の成人した
次男坊がいたのです。長女(永嶋治郎次(二代目)の奥さん)との
歳の差が18歳!
永嶋家の経済状況をどん底に叩き込んだ、永嶋治郎次(二代目)の息子
に家督を継がして良いのか?それよりは、先代の次男坊に
家督を譲るのが正統ではないか?と言う論争は当然でたと思います。
しかし、永嶋佐兵衛(先代)が最終的に判断し、
永嶋忠治(三代目・私の祖祖父)に家督を譲る事に
したのだと思います。
永嶋佐兵衛(先代)は、家督相続も見据えて幾つか手を打ちました。
まづ、先代は永嶋家の苦境を何とか脱する為に、菊池家に助けを求めました。
明治34年(1901年)菊池家の息女を三代目の忠治爺さんの嫁にもらってます。
そして、明治38年(1905年)先代の永嶋佐兵衛はこの世を去ってます。
同年、永嶋佐兵衛の次男も分家届けを出し、永嶋家から除籍しています。
先代の佐兵衛爺さまは、菊池家への縁組を成功させて、家の家督相続問題のゴタゴタを
治めてから、それを見届けてからこの世を去りました。天保の幕末生まれの
男とは、かくも死に際が見事なものかと思わざるを得ません。
永嶋忠治(三代目)は、菊池家から経済的な支援も受けていたのでは
無いかと私は考えてます。その理由は、忠治(三代目)爺さまが、
菊池家に大変感謝をしているように思えるからです。
その根拠は、忠治(三代目)の長男に、菊池家の”菊”の字を取って
名前を付けている事、さらに次男坊の”伊の八”は義父の”伊八”から取って
いる事。(私の祖父が伊の八です。)もっとも祖父は”伊の八”と言う名前が
かっこ悪いと言って嫌っていたようですが。
そして、忠治(三代目)爺さまは、さらにお家安泰を狙い、永島家(永島郷土館)に助けを
求めたのでは無いか?と私は考えております。実家から郷土館まで約40km。
頼れる近所の親戚筋だったと言えなくも無いと思います。そして、この時期から、除籍謄本上で
記載される名が”永嶋”から”永島”に変わっています。
経緯は分かりませんが、郷土館の永島家の保護下に入ったのでは無いかと言うのが
”永嶋”から”永島”へ変わった名前変更の理由だと私は考えております。
その後、忠治(三代目)爺さまの、菊の文字を持つ長男は、近所の永嶌新蔵の
孫娘と結婚をします。この永嶌家は、住所が実家とほぼ同じである事から
『九州の永島氏も千葉にも移動していて、そこで同族血縁して、
「永嶋氏」が「永島氏」に変わる事等も起こっています。』とお返事頂いた
九州のような他の地より移動してきた一族の者では無いかと思います。
この時、菊の文字の付く長男に娘(長女)が生まれました。しかし、理由は
分かりませんが、この娘が6歳になった頃、別の菊池家へ養子へ出し、永嶌新蔵の
孫娘とは離縁をしたようです。その次に結婚した相手が、前回、本家の親戚で
お会いした90歳の大叔母になります。
この後に、日本は第二次世界大戦に突入し、人も国土も大きく損なわれて
過去の系譜が分からなくなってしまい、今に至っているのだと私は
考えております。
ですので、忠治(三代目)爺さんが何故、明治44年から永島から永嶋へ
名を戻したのか、もはや確認する方法がなくなってしまってます。
(もしかしたら90歳の大叔母はご存知だろうか?・・・)
長々と書きましたが、これが、私が理解した
直近の千葉の永島家?永嶋家?に幕末から昭和、平成に
かけて起こった出来事です。(多分に憶測を含みますが・・・)
しかし、多かれ少なかれ事実に基づくとこのような話なのだと思います。
直近の系譜だけも、その時、その時で懸命に生きるご先祖さまが蘇るように思います。
きっと、もっと過去のご先祖さまも、何時の時代であっても
懸命に生きてこられたのだろうなと
思います。そういった系譜が重なり幾つもの家族とつながり、
ひいては、この掲示板に集う多数の家族を結びつけているのだと思うと、
ご先祖さまに心から感謝したい気持ちで一杯です。
随分と長い文章で、しかも、かなりパーソナルな内容ですので
なんらご参考にはならないかとも思いましたが、青木氏とも縁のある
一族の生き様をご紹介するのも少しは意味がある事なのかもしれないと
思い、投稿する事に致しました。
まだまだ、永嶋佐兵衛(先代)から先の流れが分からないので
これからも色々と調べて行きたいと思います。
また、調査して疑問が出て来ましたらお教え頂けましたら
大変嬉しく思います。
内容が個人的な部分も含んでおりまして、感情的な物言いになり
お見苦しい所が有りましたらご容赦頂けたらと思います。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
福管理人様
詳しいご説明有難うございました!
お返事の内容を読みながら、
何点か思い当たる事がありましたので、ご報告致したく思います。
(今回のお返事で、私の中に、膨大な、疑問・推論・新事実が湧き出し
整理するのが大変な状態になってます。)
まづ、”永嶋”から”永島”に代わった経緯を、もう一度除籍謄本を良く眺め、
調べて見ました。そこで、分かった事は、
明治38年頃に初めて”永島”を名乗り、経緯は分かりませんが明治44年頃にまた
”永嶋”へ戻したと考えられます。(墓の台座に永島と彫ってあったものは
明治40年代以降のものに限られてました。)
この経緯は、お返事にあった江戸初期からの衰退の流れの中で、敢えて言うならば
『明治中期の第六段階』による、”決定的”で”壊滅的”な衰退が起こったのではないかと
現在私は考えております。
「慣習仕来り」や{経済的背景」をキーにして、時代背景及び除籍謄本から推測すると、
嘗て永嶋家にも、横溝正史の小説のような
ドラマがあったように思われます。(殺人などはありませんが・・・)
この”永島””永嶋”の物語は、幕末〜明治維新〜明治〜昭和初期の背景を
通した、3代に渡る永嶋家の爺様達の苦闘の物語が浮かび上がって来ました。
確定と判断する事は出来ませんが、福管理人さんのお返事にあった
「社会の経済的衰退の状況」をキーにして金田一耕介になりきって考察をしてみます。
この掲示板の内容からすると、全体の流れの末節の末節の小さな小さな一家の話ですが、日本の
大激動の中、如何に末裔が生きたかを報告するのも一つの在り方ではないかと思い
上手く書けるか分かりませんが、試みて見たいと思います。
と言いながら、その前に、”「先祖墓」”についての、私の小さな”発見”からご報告いたしたいと思います。
(こちらの方が説明が簡単そうですので)
お墓に書かれていた、○中行人山の○の字ですが、”藤”の字かどうか
写真をもう一度写真を眺め、パソコンの画像処理で
彩度や明度を色々処理して文字を浮上らそうと試みましたが
特定には至りませんでした。
”行”のようにも見えるし、”詠”にも見えます。楷書体であれば
”藤”にも見えなくもないですが、かなり苦しいと思います。
(写真を添付しようとしましたが、上手き出来ませんでした)
こんな事であれば、もっと墓石を良く調べてくれば良かったと
今更ながら後悔しております。
山の中と言う事もあり、薮蚊が多く、10分程度で逃げ帰ってきて
しまった事が悔やまれてなりません。
この掲示板で、お墓の向きに着目し、大発見をされた方が
いらっしゃったので、この”○中行人山”の墓の向きがどちらに向いているのか
調べてみました。測定方法は、コンパスで正確に測った訳ではなく、
お墓の位置の記憶を頼りにGoogle Mapで確認するだけの
極めて簡単な方法です。
お墓の向いている方向に線を一直線に引いてその線上をつぶさに
調べてみました。そこで、藤原氏縁の場所を探してみると、
唐沢山神社が線上に上がりました。偶然の一致かもしれませんし
、私が悠久のロマンを求めたいが為にそのように思い込んでしまって
いるからかもしれませんが、お墓の向きは唐沢山神社を向いていたように
思います。もし、意図的に墓の向きを決めていたのであれば、江戸期の
祖先は何を思い、また何を願い墓を立てたのか?と言う好奇心が
沸いてきます。もしそうであれば、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、
”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と言う意味合いは
筋が通るように思います。
もしくは、「分家枝葉範囲の一族」が消えつつある伝統を墓で残そうと
したのかもしれません。(あくまで憶測の域をでませんが・・・)
また、この”「先祖墓」”の台座の家紋については、写真の通り
私の思い込みのようであり、何も彫られていないようにも見えます。
この墓の周りの小さい墓をもっと具に見てくれば良かったと大変後悔しております。
従いまして、現時点で、墓に於いても藤紋の確認は出来ておりません。
そして、寛政12年のお墓の戒名を良く見ると頭一時が抜けておりました。
これも、写真を添付致します。(←添付できませんでした。)
やはり、文字が良く見えず”的”にも見えますし”夜”にも見えます。
この墓地には、全体的に20〜30ほどの墓石が在り、昔はもっと沢山
お墓が在ったと聞いております。現在は、この土地を手放してしまった為、少し行った
所がゴルフ場になっております。このゴルフ場の開業が平成2年
となってましたので、取り壊しがあったのは最近のようです。
本家の親戚によると、そこに在ったお墓を引き継ぎ先のお寺に
移したと聞いております。
これを聞いた父は、お墓つぶしてゴルフなど不謹慎だと怒っておりました。
また、本家の親戚の家の仏壇には、沢山の位牌が有りました。
私は位牌が2〜3程度のものは良く見るのですが、少なくとも
10以上は一所に収めているようでした。
お墓のある場所は山と言うよりは小高い岡と言った面持ちで
竹林がなければ、全体を見回わせる事が可能であったであろう形状でした。
この山をなんと呼称していたかは、現在情報がありません。
ここまで書いて随分な量になってしまいました。
また、改めて”明治中期の第六段階”についてはご説明致したいと思います。
拙い文章で、分かりづらく申し訳ございません。
永島さんの黒木さん 今日は、お久しぶりです。
お便りを楽しく読ませていただきました。
下総の青木氏族がどんな生き方をしていたかが蘇った気がします。
さて、次にお便りには大変な多くの情報が在りました。
それを下記に答えします。
>墓石の大きさは、70センチ〜80センチぐらいの高さで文字が風化しており殆どが読めない状態でした。
>向かって正面から、右に年号があり、中央に戒名、左に月日が彫られてました。墓の左サイドの面に生前の名前が彫られてます。
>台座の所に『永島』と彫られてました。
>何故お墓の文字が永島であって永嶋でないのかは、本家の親戚の人も分からないようでした。
前回のお答えで述べました様に、「永嶋」が「永島」に成っている事は、概して、江戸初期頃か明治初期前後での社会風潮が左右したと観られます。
下記の述べています様に、お家は幕末末期から、恐らくは、その秀郷一門の古来からの「慣習仕来り」や{経済的背景」に変化を起こしています。
恐らくは、この時の影響から「お家の慣習」にある程度の断絶が起こった事に依り、取り分け、この江戸中期から明治初期の影響を強く受けた事が考えられます。
唯、その「永島」と成っている「墓所の建立年代」が何時なのかに依りますが、幕末末期頃の建立であれば、この社会風潮が影響した事に成ります。
然し、「先祖墓」があるところを観ると、江戸初期の直ぐ後の頃とも思えます。
現実に、全国の藤原秀郷一門の「永嶋氏」が、この「二つの時期」に「永島、長嶌、永嶌」等多くに変えています。
それを維新戸籍に登録して反映さして仕舞っています。
伊勢の「長嶋氏」もこの二つの時期に同様に変更しています。
江戸初期頃としては、下記のお便りの”「永島郷士館」の影響”で永島氏に変更を起こった事に成ります。
実はこの「永島郷士館」には、下記に記しますが「永島氏」に成るある意味を持っているのです。
そもそも、「永嶋氏」は、歴史的に地域に依って「見分け」が出来る様に、「名乗り」を次ぎの四つに変更しました。
基は、関東域は「永嶋氏」で、中部(伊勢尾張)関西域では「長嶋氏」、九州大蔵氏系の北九州域は室町期初期に「永嶋氏」、中部域の日向域は「永島氏」と、肥後域では「長嶌氏」、南部九州の東域は「永島氏」、南部九州の西域は「長島氏」で名乗っていました。
現在も村があって遺されています。
これらの「ナガシマ氏」の末裔が、江戸末期の動乱期から明治期初期の社会変動期に掛けて職を失う等して、この為に起こった「経済活動」に依り、末裔移動が大きく動きました。
その事に依って、全国各地にこれらの「ナガシマ」が拡がって仕舞いました。
この時、明治維新と成り全国民が新規に戸籍の登録が義務付けられました。
この時に移動地に上記の「ナガシマ氏」が各地に発祥したのです。
そこで、各地の一族が大きな一族を頼って移動しました。
南九州と北九州からも総宗本家等のルーツ元を頼って千葉や埼玉に移動しています。
九州の永島氏も千葉にも移動していて、そこで同族血縁して、「永嶋氏」が「永島氏」に変わる事等も起こっています。
実は、一つの推理としては、この時に、下記に示す様な経緯から「永島郷士館」が興ったのかも知れません。
お家の地域は、当に「永嶋氏の里」ですので、今のところでは筆者は、「江戸初期後の社会風潮」が原因だと考えます。
唯、明治初期にも「維新戸籍」で新たに国民全員が戸籍登録しますが、この時に、敢えて伝統に関わらず「永嶋氏」を「永島氏」に変更して戸籍登録した事もあってこの事も考えられます。
これらは良く観られる現象でしたが、一つの形の分家のを作り出した理由と成っています。
お家の場合は、江戸初期後と筆者は考えます。
特に、室町期中期頃からには、関東でも本家が分家に対して「永嶋氏」を名乗る事を許さずに、「永島氏」を名乗らせたと云う事も起こりました。
その理由は、分家でも正妻の子と妾子があり、妾子の場合は、良くこの「永島氏」等にさせた事も起こりました。
この現象は全国の永嶋氏でも起こりました。
一つの形の「分家「を作り出す理由と成っています。
お家は庄屋をされていた末裔で「分家」とすると、上記の形では無く、「伝統の断絶」と「社会風潮」とが合わさったものと考えられます。
完全には、時期的な事が一致していますので、「移動に伴う血縁現象」も排除は出来ません。
この点はお調べに成ると良いと思います。
唯、下記のお便りに「女性の墓所」がある事や「先祖墓」がある事は、大いに判断の材料として気に成るところです。
つまり、「女性の墓所」がある事は、「婿養子」であった事も考えられ、その子供にも男子に恵まれず、又「二代続きの養子」と成り、「藤原氏の慣習」に従って、「最初の養子先の氏名」を名乗った事も考えられます。
依って、「永島氏」に成ったと云う一つの形の永島氏の推理です。
これも一つの形の「分家」です。
そこで判断材料と成るのは次ぎのお便りです。
>その中でも、何とか読めた墓石の文字としては、
>弘化二?年
>空是山秀道信士位
>寛政十二中年
>元圓室妙鏡信女位
>と言うお墓がありました。
>(どなたのお墓かは分かりません。)
>宝暦、寛政、弘化と言う年号の入ったお墓がありましたので、少なくとも江戸中〜末期からこれらのお墓があったのではないか?と思います。
>また、近くに、変わった並びのお墓がありました。中央に墓石があり、その周りを円を囲むように墓石が立ってました。
>中央のお墓には○中行人山(○の文字が潰れていて読めませんでした。
>と書かれており、上部に仏像が彫られてました。
>台座の所になにやら紋のようなものが彫られていたようにも見えるのですが、風化が激しく判別はできませんでした。
このお墓は、”「先祖墓」”と云うもので、個人や家等の祭祀では無く、「一族一門の先祖を祭祀する墓所」と観られます。
この「先祖墓」を別にして持つと云うものは、藤原氏等の「高位の氏族」が持つ事を許された「祭祀の慣習」でした。
他氏が誰てもが認められた「慣習仕来り」ではありませんでした。
取り分け、「台座の家紋」と「上部の仏像」と「碑文の構造」から観て、「一族の家紋」を継承している「分家枝葉範囲の一族」の「先祖墓」と成ります。
この「構成している慣習」から考えると、丸の不明の文字は、「藤」と云う字であったのではないかと思います。
つまり、「先祖墓」として、一族一門のモットーとすることを刻む習慣がありましたので、それを刻んだのでは無いでしょうか。
従って、恐らくは、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と云う事の碑文を願いにしたと読み取れます。
その「上部の仏像」に導かれて永遠に続くとしたのではないでしょうか。
実は、”「碑の上に釈迦像」等を載せる慣習”は、「江戸初期頃」から起こりました。
この慣習から、その「台座の部分」には、お家の「総紋」と成る「下り藤紋」が刻まれていたと考えられます。
前回お答えしました様に、この「総紋」には「お家の家紋」を組み込んだ「副紋方式」かはお調べに成る必要がありますが、どちらの「副紋方式」を採っていたかと云う事が判れば、お家の墓所の意味合いが、どの様な経緯で建設されたかが判ったのですが。
今回、この「台座の文様」が判って居れば、この問題も判ったのですが残念ですね。
「碑の上に釈迦像」等を載せる慣習には、ある意味が在るのです。
それまでは、そもそも、秀郷一門は、一族一門の「独自の教義」を旨とした「密教浄土宗」でした。
ところが、江戸初期に家康に依って、全ての「高位の氏族」が宗派とする「密教系浄土宗」は、全て、「密教」を止めて「顕教」にする様に禁令(顕教令)を発しました。
そもそも、「密教の宇宙仏」は「大日如来」で、直接、如来様が下界の者に教えると云う教義です。
限定された「氏族」のみを導く「密教」に対して、誰でも全ての者を導くとするのが「顕教」です。
ところが、この「顕教」は、「宇宙仏」は「盧舎那仏」で、その「盧舎那仏」が「釈迦」を通して下界の者に言葉として教えると云う教義です。
この「江戸の顕教令」で、”「碑像」などの頂上に釈迦像等を載せてあの世に導かれるとする意味から、この像の頂上に載せる習慣が起こりました。
これは「顕教の証」です。
然し、「顕教令」が出たからと云って、「永嶋氏」らは、直ぐに「密教」の独特の「伝統や慣習や仕来りや掟」を止められる事はありません。
と云う事は、「碑像の頂上の釈迦像」があるお家の「先祖墓」は、江戸期初期以降のものであった事に成ります。
それ以前はこの慣習は在りませんでしたので、お家の「先祖墓」と、その「周囲の墓所」はそれ以降のものであった事に成ります。
お家は、この時は、既に、「永嶋氏」の宗家や本家が継承していた「密教の教義の伝統」を継承していなかった事を意味します。
つまり、「お家の永島氏」は、「宗家筋」と「本家筋」から枝分かれして、”一つの分家一族を形成して”、ここに「独自の枝葉」の「顕教の先祖墓の墓所」を作った事に成ります。
その時期が江戸初期後であった事を物語っています。
そして、その「永嶋氏の密教の伝統や慣習」は、ある程度に「不継承」と成っていた事を意味します。
従って、この段階で、「密教の永嶋氏」では無く、「顕教の永島氏」に成っていた事を意味します。
「永嶋氏」から「永島氏」に成らざるを得ない状況に成っていた事にも成ります。
「先祖墓の建設の原因」はここにあったと考えられます。
「密教の伝統」から「顕教の習慣]に換える”何か(下記)”がこの直前に起こったと云う事では無いでしょうか。
そうで無ければ、”「祭祀寺」を持つ「先祖墓」”と云う「伝統の象徴」の様なものを独自に建設する事はあり得ません。
この「先祖墓」を建設した時には、既に、「密教の伝統を引き継ぐ永嶋氏」では無く、「密教の伝統」を少なく成ってしまった「永島氏」であった事に成ります。
これも分家に成る原因の一つの形です。
ただ、これは秀郷一門の中での「習慣 仕来り 掟」に依る結果の「名乗り」です。
一族一門の「伝統」が、「別の異なる形式」の「伝統」に成ったのですから、取り分け、少なくともこの「掟」が原因している事は少なくない事に成ります。
ご先祖の本家が”「庄屋」を務めた”とすると、この「一族の証」としての「先祖墓」の「お墓の存在」を如実に物語ります。
「庄屋」を務めながらも、「ご本家筋(永嶋氏)」で何かが「宗家筋」との間で「伝統の事」等での「考え方に意見差」が起こって、その結果、その「先祖墓の場所」がここに決められ祭祀される様に成ったとこの事を物語っています。
そもそも、「先祖墓」の傍に、「祭祀寺」がある事が、「永島氏」として分家独立した事を意味しています。
顕教に成っていたのですから、祭祀寺を経営する以上は、徐々に他氏も檀家として入って来た事に成ります。
又、ご本家筋が務めていた庄屋は、村域の「人別帳」を税の為に管理していましたので、この時にお家は、「永嶋氏」か「永島氏」として登録されていたかは確認する必要があります。
この事で、「江戸期の戸籍」の「代わり」として確定される事に成るのです。
「永島氏」としてならば、上記の事があった事は間違いは無い事に成ります。
この「人別帳」を探して確認する必要がありますが、恐らくは、この時には、上記の事から、「永嶋氏」の一族の中の「永島氏」であったと観られます。
「正規の戸籍簿」は、明治維新の「維新戸籍簿」に成ります。
「維新戸籍簿」は、国民全員が個人の自発意志で登録した最初のものです。
そこで、この時に、「永島氏」として登録していれば、「永島氏」です。
藤原氏の仕来りの中では、「永島氏」であっても、この「維新戸籍簿」では「永嶋氏」と戻して登録すれば「永嶋氏」に成って居た事に成ります。
この時に、「永島氏」として登録していたとすると、上記の事が原因している事に成り、「お家の永島氏」は、この「江戸期の先祖墓」を建築した時期には、既に「永島氏」と成った事に成ります。
つまり、江戸初期の”「少し過ぎた頃」”に、「永島氏」として名乗ったと云う事に成ります。
従って、この墓所には、これ以降の先祖のお墓しか無い事に成ります。
当時は、現在の様にこの荒れた土地に在りますが、「藤原氏の慣習」に従って、この山中に「祭祀寺の菩提寺」があって、一族を祭祀していたと観られます。
それなりの未だ「藤原氏の慣習」を護って居た事を物語ります。
そして、ここを”「・・山」”と唱えて、「永島氏の先祖が眠る墓」としたのです。
これは、「名乗りの先祖墓」を作る事は、「永嶋氏枝葉一門」の「永島氏」に成った事の「藤原氏の伝統の慣習」です。
「先祖墓の建設」には、その意味を持つその一つの証です。
昔は、墓所のある処が平地でも、「山」と唱えそこに由来する呼称で「・・山」と呼称しました。
これを墓所のあるところを”「霊山」”と云っていました。
この「霊山」がある所を、「永嶋」や「永島」の「名乗り」と同様に、「一つの藤原一族の名乗りの手段」としたのです。
藤原氏の伝統を完全には消失していなかった事に成ります。
肝心なところは維持していたと観られます。
従って、この「山の名」が何であったのかも、「永島氏」と共に重要な事なのです。
「・・山」と云うと、「あぁ− 下総のあそこの永島殿か」と云う風に判る事に成るのです。
この「一族の先祖を祀る霊山」の「山の名の慣習」で、「宗家 本家 分家 支流 分流 分派 縁者」等の「一門の枝葉」が判る事に成っていたのです。
だから、親族の方がこの山の事を「一つの名乗りの記憶」として、「レイザン」の「霊山」として発言したのです。
「霊山の名」を記憶して貰えていれば良かったのですが残念ですね。
「伝統の記憶」のギリギリの処でしたね。
若しかすると、「弘化の御先祖の戒名」の方の”「空是山」”がこの山の呼称であった可能性が充分に有りますね。
普通は村を見渡せる「小高い丘」を「墓所」や「先祖墓」を置くところとされていました。
そして、そこを「・・山」として呼称していました。
現実にお便りのお墓の戒名には「空是山・・」とありますからね。
「永島氏の伝統の霊山」として、将来に遺す事も含めて、敢えてご先祖はこの「戒名」にしたのではないでしょうか。
そもそも、「空是]は、浄土宗の「般若心経」の中の「色即是空 空即是色」の一説を採ったのではないでしょうか。
実は、お便りにはこれには「藤氏の慣習」が未だ読み取れます。
それは、先祖が50年過ぎると、その個々の「先祖の墓」を、この「先祖墓」に移すと云う慣習があったのです。
それには、「二つの方式」があって、一つは、その「先祖の墓」を「先祖墓の周囲」に「小さい碑」の様な形で作って祭祀する方法です。
もう一つは、その個々の「先祖の墓」を取り外して無くし、「霊位」のみを「御霊移し」と云う形で儀式を行い「先祖墓」に移すと云う方式です。
江戸中期頃までは、この慣習が続けられていたと観られます。
恐らくは、お家は前者では無かったかと思います。
だから、上記の「碑文の様な文章」と成ったと読み取れます。
そして、弘化の墓(1844年)と寛政の墓(1789年)は、この二つの墓所は、その後、この慣習が、この山にある寺が「廃寺」(明治か幕末か)に成ってから、その慣習を実行出来なく成ったかと観られます。
一族一門を専属に祭祀する「菩提寺」が、「廃寺」になると云う事は、それを維持して行く経済力が低下した事を意味します。
「顕教令」が出ても直ぐに、だれでもが祭祀する「顕教の檀家寺」に成ったのではありませんが、然し、「顕教」でありながらも、この「先祖墓」のある寺を「菩提寺」としていた事が、「江戸期の顕教令の影響」を物語ります。
そして、この「山の名」が、仮に「空是山」とすると「浄土宗の名残」も持っているのです。
これは「永島氏の所縁」を如実に物語っています。
今回のお便りには、「永嶋氏と永島氏の所縁」を強く物語る情報が在りましたね。
宝暦、寛政の墓所が遺されている侭に成っている事は、本来であれば、この「先祖墓」に移される筈ですが、其の侭に成っていることは、1789年の50年後は1839年に移される筈ですね。
ところが、その直ぐ後の1844年にも新しい墓所が設けられています。
つまり、1839年−1844年の幕末の頃から、この慣習が護られなくなった事を物語っています。
菩提寺が衰退したか廃寺に成ったか、慣習が忘れられたか何かがあった事に成ります。
「廃寺」が、お便りでは「叔父の頃」と解釈しますが、「廃寺」に至るまでには、「衰退」が起こりますので、幕末頃には既に「藤原氏の仏教的慣習」が護れにくく成って居た事が考えられます。
(幕末頃前後から「社会の経済的衰退の状況」から、全体的にこの寺や神社の維持が極めて難しく成り「廃寺や廃社」が続発しました。
青木氏から幕府に引き渡した500社に及ぶ神明社等は、著しく荒廃して200社以下に成って居た事が伝えられています。
寺も同じで、秀郷一門の菩提寺も「・・光寺」(匿名)の荒廃も激しく、遂には「一族の菩提寺」である事さえ「伝統」が消えて仕舞っている状況です。)
その証拠に、この二つの戒名には一つのこれを物語る現象が起こっているのです。
それは、お便りに依ると、庄屋や名主の場合で、且つ、”「郷士」”の身分を確保していた様ですから、藤原秀郷一門では、普通は「戒名」は、「院殿居士」の着いた「高位の戒名」を着ける「仕来り」に成っています。
然し、普通より夫々一つ格式の上の「・・山」の着いた「信士の戒名」ですし、女性の場合は、一つ格式の上の「室」と「信女の戒名」と成っています。
江戸中期から末期には、この「院殿居士」の着いた「最高位の格式」の「慣習の戒名」を着けられなかった事に成ります。
衰退は庄屋一族でありながら、既に江戸中期には起こっていた事を意味します。
つまり、格式は、「永島氏」であったのですから、「院殿居士」を着けるには問題はありません。
ところが、着けるには、それ「相当の戒名代」として「布施金額」が必要です。
それを払えなかった事に成ります。
つまり、この事は、この「菩提寺衰退と廃寺」と「伝統の慣習」がかなり進んで忘れられていた事が同時に起こっていた事に成ります。
「忘れられていた証拠」に、「女性の墓所」を設けていた事も「藤原氏の慣習知識」が途切れて仕舞った証拠に成りますし、「女墓」が消えている事もこれを物語る事に成ります。
「藤原氏の重要な仕来り」の「女墓」は絶対にあった筈です。
最低でも、この「先祖墓」の横に、「青石等の平石」に「女性の戒名」を代々書き足す事に成っていた筈です。
これも消えている様です。
「菩提寺衰退と廃寺」の際に住職も無く成った事から、「伝統」が途切れて仕舞った事に成ります。
尚且つ、「寛政の墓」は女性の墓所ですね。
然りながら、ここで興味深い事は、”女姓の方の墓”がある事です。
本来は、「嫁家の家」の墓に入り墓石の夫と併記して祭祀されます。
且つ、同時に「女系先祖」ばかりを祭祀する”「女墓」”に祭祀され、「戒名」を代々連ねて刻まれるのが「藤氏の仕来り」です。
この事も、「菩提寺衰退と廃寺の影響」で護られなかったか、続ける事が実行出来なかったと観られます。
>そして、肝心要の私の祖父の墓はやはり墓石が見当たらず、多分、この辺りと言う事で、その辺りに線香を上げてお参りをして参りました。
「祖父の方」の「御先祖の墓」が発見されないのは、その後に、別の寺に入った事から、その宗派にも依りますが、碑の様な墓を設け、この一族の「中央の先祖墓」に50年経過後に移したのではないでしょうか。
この碑の様な「小さい墓石」が何らかの理由で紛失したか、或は、ご本家が50年経過し、分家である事から「先祖墓」の方に「御霊移し」した事で管理を容易にする為に排除した事も考えられます。
その後、其の侭に成ったと観られます。
>これらのお墓は、本家の叔父が管理をしているような状況で、元々管理していたお寺が廃業になったそうです。
>何処かのお寺に引継ぎをしたようでしたが、そのお寺が何処かは何となく聞きそびれてしまいました。
>叔母が言うには、『レイザン』と言う宗派であるように聞きましたがはっきりしないままです。
>また、本家の叔母が言うには、永島郷土館と言うものがあり、その永島さんとは、血縁があるかもしれないと言う話を聞いた事がある。との事でした。
>本家の親戚にとっても、祖先の話は既に伝わらなくなってしまったようです。
ここで、重要な情報が在ります。
先ず、”叔父さんが管理していた”とすると、その時期は明治期とし、「衰退」はそのかなり前から始まって、「廃寺」に成ったのは明治期だとすると、「藤原氏の慣習」が途切れて仕舞っていた事に成りますね。
江戸初期には、まだ「祭祀の伝統知識」は護られていたが、その後、江戸中期前の頃の宝暦1751年頃には未だ継承されていた事に成ります。
とすると、お寺の住職の代の代わり目の頃1760年代に継承され得なかった事に成ります。
何かが寺側でも起こっているようですね。
これを段階を追って分けるとすると次ぎの様に成るのではないでしょうか。
「顕教」に成った事での「寺側の影響」で、「藤原氏の永嶋氏の伝統」が途切れた事も考えられます。
この場合は、「永島氏の枝葉ご本家」が、「伝統」を寺側に示す必要がありますが、「顕教」と成った事で、「他家の檀家」の人の「家の慣習」も入ってきて、「藤原氏の伝統」は強く云えず必ずしも守れなくなってしまった事が考えられます。
そうすると、最初の根本的な伝統が途切れたのは、第一段階として「江戸初期」と成ります。
次に、「先祖墓の建設期」が第二段階となり、「江戸中期前頃」と成ります。
江戸中期後の「寺の衰退期」が第三段階と成ります。
そして、廃寺期の幕末期が第四段階と成ります。
最後は、明治初期の第五段階と成ります。
夫々、段階ごとに依ってその「伝統の消滅」は変化した事に成るでしょう。
筆者は、「永島郷士館」の存在が「大きな境目」と成ったと観ています。
恐らくは、第三段階の時期に、「永島郷士館」は゜別の寺の檀家氏」として移動してから、この「伝統」も何もかも途切れて仕舞ったと云う事だと思います。
そもそも、「ルーツ先である事さえの忘却」が起こって、且つ、その墓所が判らないと云う現象を見逃す事は出来ません。
それで、ここで「重要な情報」とは、”「永島郷士館」”と「レイザン」(「霊山」)の事です。
先ず、「レイザン」の件ですが、これは当時は、上記しました様に、先祖を祀る一族の墓所で「先祖墓」のあるところを「霊山」と呼びました。
恐らくは、この事と間違えての先祖が祀られているところの事を「レイザン」として、そこにある寺の事を宗派と間違えたと観られます。
次に、その前に、「永島」と云う苗字です。
上記した様に、「永嶋氏」が「永島氏」に成っていて、その「氏名」(姓名では無い)を呼称する館があったと云う事ですが、血縁は大いにあって一族であった筈です。
同じ地域に別の一族が住む事は「氏家制度」の中では絶対にありません。
「棲み分け」と云う習慣があったのです。、それは、”伝統により棲み分けていた”とするこの”「先祖墓」”がある事で判ります。
その周囲には、お家の「祖父の墓所」があったとする事から、間違いはありません。
更に、その「永島」さんに「郷士の呼称」が付いています。
これには、重要な意味が在ります。
それは、「棲み分け」を前提とする「郷士」である限りは、”「地権」と云う慣習”があったのです。
これがある限りは「棲み分け」をする以外にはありません。
そもそも、「郷士」とは、その「国の藩領」とは別に、「領地内」に旧来から長く住み、その領地の土地の一部に”「地権」”を認められた「一族の武士団」の事を指します。
その網の目の様に血縁で結ばれた「郷士の一族」の「郷士頭」が住んでいた処を「郷士館」と呼ばれていました。
「土地の所有の権利」を持っているのです。
この「地権」を持っているのですから、後から入って来た別氏の藩主に成った者からすると、「厄介な集団」です。
有名な江戸初期の大事件が在ります。
山内一豊が土佐の藩主として入りますが、「一豊」は「土佐郷士の勢力」を弱める為に、この「地権」を小さくする政策を採ったのです。
この「地権」の持った「郷士集団」は抵抗します。
著しい戦いが起こり、「話し合い」を理由にこの郷士集団全員を城に招き入れます。
突然、城門を占めて、これらの「土佐郷士集団」を騙し討ちで全員殲滅したのです。
日本各地で同じ様な事が起こります。
逆に「家康」は、この「永嶋氏」を始めとして秀郷一門の「下総の郷士集団」を「御家人」として「幕府官僚の主軸」に置いたのです。
前回にお答えしました様に、唯、この時、「地権の所領」は「減額」しますが、「減額分」は「御家人」「旗本」「庄屋」「名主」などの豪農の俸禄で補えましたので、この様な騒ぎは起こりませんでした。
郷氏であり御家人と成った「永嶋氏」の枝葉の中での配分ても、「地権の配分」は「宗家や本家や分家等の格式」から変更されました。
当然に「永島氏」の枝葉の中でもその「一族末裔の配分も変わった事に成ります。
当然に、枝葉を大きく広げた氏では、生活がままならない事が起こります。
お家は、「永島氏の本家」の「一村の庄屋」の更に「分家格」と成りますから、小さい地権を認められた「郷士身分」のままであった事に成ります。
筆者は、この事で起こる「密教顕教の伝統の問題」もありましたが、この「地権の問題」もあって重なって「宗家永嶋氏との意見差」が起こっていたのではないかと観ています。
結局は、江戸初期の混乱期の「何だかんだの解決策」として、ある程度の地権を認めて「先祖墓」を作る事に至ったのではないでしょうか。
生活は苦しい事が続いて祭祀寺も維持が困難と成っていったと観られます。
これが上記しました様に「江戸初期の後」と観ているのです。
「郷士頭」とは、一族一門の古来から土地に住んでいた縁者関係を纏める「指導役」を各地域毎に置いて管理していました。
この事を云います。
この一族が担当する「地域の郷士」が住む各地域の「数人の郷士頭」とその「総元締め」の「宗家筋」に当たる「本家筋」の「永嶋氏」を名乗る「郷氏」とで藩領の領地の一部を地権で管理していたのです。
この「総元締め」の「郷氏」とは、大きな地権(大地主)を持ち、その地権の下に一族の「郷士の地権」が保障されていたのです。
つまり、この「郷氏」が、「永嶋氏」であって、本家の上の「宗家」と成り、その血縁のある「郷士頭」が「永島氏」であって、「本家筋」あった事を意味しています。
そして、お家は、その「郷士館」のご「本家の分家筋」に当たる事を、この「永島郷士館」が物語っています。
お家は、この「郷士館」の永島さんと共に、当初は「墓所」を護って居た事が判りますが、「衰退と廃寺」で、結局はその後にこの「郷士館」のご本家の永島さんは墓所を別にした事も考えられます。
「永島郷士館」は「お家の家筋」が「地権を有する郷士の庄屋」であった事を証明しています。
「庄屋」でも「地権」を持つ格式高い”強い庄屋”であった事に成ります。
結局、分家筋の叔父さんルーツが何とか檀家として明治期から管理する事に成ったと観られます。
依って、「先祖墓」や個々の墓所を管理するのは大変な労力と経済的な負担も必要ですから、一族の伝統も途切れ墓所が管理しきれなく成り、現状と成っていると観られます。
「永島」と云う氏名に成ったのも、この「永島郷士館」との本家分家の関係が在った事から起こっていながらも、然りながらも、現在は其れさえも判ら無く成っている事からも理解は出来ます。
つまり、「血縁の有無」も判らないと云う事は、今は同じ墓所には無い事になりますから、「永島郷士館」の墓所は別の処に移された事を意味しています。
「お家の先祖墓」もありながらも、「ご本家筋の墓所」も「別の処」と「檀家寺の寺」に移されている事ですから、大きな変遷がお家の一族に興った事を物語っています。
今回、頂きました一寸した情報でも、当時の慣習から照らすとご先祖の色々な事を引き出す事が出来ます。
ご親族の方にもこの事をお知らせください。
これからも色々判りましたらお知らせください。
「青木氏族の生き様」ががどんどん解明されて行く事に成ります。
では、またお便りをお待ちしています。
こんにちは。大変ご無沙汰をしております。
その後、何とか本家の親戚と連絡を取り、千葉の
お墓へ、父と叔母を連れてお参りに行ってまいりました。
結論から申し上げますと、余り状況が分かったとは
言えませんでした。そんな中ではありますが、出来る限り
ありのままに状況をお話致したく存じます。
祖父が眠っているはずのお墓がある場所は、
私がイメージしていたお墓とは随分と異なっており、
山の中に分け入って、竹やぶの中に墓石が並んでいる
と言う状態でした。(伊勢の我が家の近くの裏山でよく見るタイプ)
随分と荒れており、墓石が倒れていたり蔦で見えなくなった
ものもあり、なんとなく遺跡のような面持ちでした。
墓石の大きさは、70センチ〜80センチぐらいの高さで
文字が風化しており殆どが読めない状態でした。
向かって正面から、右に年号があり、中央に戒名、左に月日が
彫られてました。墓の左サイドの面に生前の名前が彫られてます。
台座の所に『永島』と彫られてました。
何故お墓の文字が永島であって永嶋でないのかは、
本家の親戚の人も分からないようでした。
その中でも、何とか読めた墓石の文字としては、
弘化二?年
空是山秀道信士位
寛政十二中年
元圓室妙鏡信女位
と言うお墓がありました。
(どなたのお墓かは分かりません。)
宝暦、寛政、弘化と言う年号の入ったお墓
がありましたので、少なくとも江戸中〜末期から
これらのお墓があったのではないか?と思います。
また、近くに、変わった並びのお墓がありました。
中央に墓石があり、その周りを円を囲むように
墓石が立ってました。
中央のお墓には
○中行人山(○の文字が潰れていて読めませんでした。)
と書かれており、上部に仏像が彫られてました。
台座の所になにやら紋のようなものが彫られていたようにも
見えるのですが、風化が激しく判別はできませんでした。
そして、肝心要の私の祖父の墓はやはり墓石が見当たらず
多分、この辺りと言う事で、その辺りに線香を上げてお参りを
して参りました。
これらのお墓は、本家の叔父が管理をしているような
状況で、元々管理していたお寺が廃業になったそうです。
何処かのお寺に引継ぎをしたようでしたが、そのお寺が
何処かは何となく聞きそびれてしまいました。
叔母が言うには、『レイザン』と言う宗派であるように聞きましたが
はっきりしないままです。
また、本家の叔母が言うには、永島郷土館と言うものがあり、
その永島さんとは、血縁があるかもしれないと言う話を聞いた事がある。との事でした。
本家の親戚にとっても、祖先の話は既に伝わらなくなってしまったようです。
実は、ここの掲示板を本家の叔母もネットで見つけて私の投稿した内容を読んだそうです。
ですので、私からは特に詳しく祖先の事は説明をしませんでした。と言うよりも
今回、本家の親戚とお会いするのは、父と叔母にとって、なんと
60年ぶりの話であり、親戚一同が再会に喜んでいる時に、この話は
何となく無粋な気がして、口に出す事が憚れたからです。
父と叔母にとっては、小学生ぐらいの頃に訪れた墓地でしたが
今は70代、80代のお年寄りです。昔はお墓も平らにきれいにしていた
ようですが、今は竹やぶの山中にある荒れようで、叔母が少しばかり
ショックを感じていたようです。
また、祖父の兄嫁の方がご存命で、(90代)父がお土産を持って
ご挨拶に行った所、第一声が「あなた様からこのような物を頂く云われはありません」
と仰り、その姿が毅然として見えて、私は不思議と嬉しく感じました。
父が一生懸命自分が甥っ子である事を説明すると、ようやく理解頂き、
わーわーと仰り、あんた達、難儀したな、難儀したなと何度も何度も
言われました。それを聞いた叔母は感極まって、涙をポロポロ流しており、
それを見たら、もうそれだけで、私の胸は一杯になりました。
この掲示板が元で、背を押されるように本家へ連絡を取りました。
お陰で、疎遠であった親戚と再会する事が出来きました。
本家の叔母からも、あんたのお陰だ有難うと言われ、少し恥ずかしい
気がしております。それもこれも、ここの掲示板との出会いがあっての
事だと大変感謝しております。色々と親身に教えて頂き有難うございました。
まだまだ、私共の家系がどのような経緯を経たのかは分かりません。
また、状況が分かればご報告しますので、お教え頂けたら大変嬉しく
思います。
取りとめもなく、助長的な作文のような文章になって申し訳ございません。
また、何か分かりましたらご連絡させて下さい。
宜しくお願い申し上げます。
東京の青木さん 今日は。
お久しぶりです。
お家の「伊勢青木氏」の「柏紋のルーツ」と成る「深谷」に参詣されましたか。
それは良かったですね。
参詣された時に、何かを感じられたようですが、筆者も同じで、”感覚的”と云う言葉でしか人間は表現できないのはもどかしい気がしています。
然し、この感覚的と云うものを感じ取る事が出来る人と、出来ない人がいる様ですが、出来ない人から見ると、理解を得られないのは残念です。
一族であっても、”感じない”と云う人の方が多いのも又事実です。
実は、筆者も感じる方で、兄弟親族の中でも感じると云う者は居ません。
筆者の両親や兄弟が亡くなった時の葬儀の際の夜に、仏壇の処に行きました処、何か不思議な人の声がするし、その声が誰かと話しをしている声なのです。
その場所も特定できる部屋の処からでした。
この三回の葬儀共に聞こえたのです。この状況が一週間続きました。
一緒に居た者に今聞こえているが、聞こえるかと聞きましたが全く聞こえないと云う事でした。
そこで、その場所から外に出ましたが聞こえなく成り、再び入ると聞こえるのです。
恐らくは、生態学的に云うと、筆者の脳神経の感覚が人より敏で、親族が亡くなった事でより敏に成った右脳が働く事が起こっていて、その事で右脳からベータ波が出ていて、そのベータ波で第四次元との繋がりを持った事が論理づけられます。
それが一週間敏状態が続いた事だと思います。
話声にはその人の特徴ある声色も聞こえるのです。単なる話声では無いのです。
恐らくは、筆者が持っているその人の記憶データが引き出されて右脳が働いたのです。
普通は右脳から出るのはアルファ波ですが、人間には、原始脳と云うものが脳幹の近くに押し込まれています。
左右の脳が発達する前に類人猿に近い頃に使っていた「複眼機能」と連動して「原始脳」を人間は誰しも未だ持っているのです。額の中央にあった複眼機能も今は脳幹の近くに誰も未だ持っています。
このベータ波とこの原始脳とが繋がって、この様な現象を起こすのではないかと云われています。
”心頭滅却すれば火も又涼し”の時も、”座禅でも雑念を取り除いた無想無念時にもこの現象を起こさせる事だと云われています。
強ち、無根拠では無いのです。
この事は簡単な事で身近な事で起こっていますよ。
子供を産んだ母親は、見えない真後ろに居る赤子の様子が料理等をしながらも手に取る様に同時に認知する能力があります。
男性にはありません。
子供を産む事に依って母性本能が高まり、右脳が敏に成り、このベータ波を出して子供の右脳とやり取りをしている事で起こっています。この現象は子供が立ち上がる頃までで次第に低下して行きます。
長く続くと敏に成っている右脳は疲労してその能力が低下しますし、母体には大きな負担と成るのです。
これとほぼ良く似た事が起こるのです。
ただ男性の場合は、その人の性質にも依るので、女性ほどではありませんが、起こる人と起こらない人、感じる人と感じない人の差が出ます。
類人猿の前の頃には、この複眼機能と原始脳と小さい右脳を使って生きていたと考えられています。
未だ人間には少し遺っていると考えられていて、何時か消える可能性が有ります。
最近の女性には、この能力が低下している事が判っています。
論理的には、お家が感じたこの様な時に働く感覚は、この現象から来ている事が裏付けられています。
取り分け、その環境の自然さ、つまりは、その酸素量、オゾンの影響を右脳が刺激を受けていると云われています。
従って、ごみごみしたところではオゾン量の減少が起こり、浮遊物の障害でもベータ波が飛びにくく成り起こりにくいのです。
深谷が、「ご先祖の地」であると、その御霊の住む特定される”「自然」”に対して、お家の敏と成った右脳が反応していたと観られます。
問題は、右脳は常に「敏」ではありませんので、「敏]と成るかの問題ですね。
座禅してやっと敏に成り得る位の位置づけです。
場所や人や時の環境変化に依っても感じ方は違って来る事に成ります。
おっしゃる通り、何とも言えない表現しにくい感覚に捉われますよね。
お家が、深谷に居て、何故、敏に成ったかは、後ろの子供の様子が判る母親に似ている事に成ります。
「赤子の子供」が「深谷の自然」と云う事に成りますね。
自然から発する何か(ご先祖の御霊)を受け取ったのでしょう。
昔は「深谷の水」は「霊水」として崇められていましたのに残念ですね。
自然が乱れると、オゾン量が低下して右脳を働かせなくなりますね。
都会の様に、感じ取る事が低下して仕舞います。
「心の豊かさ」を示すものとして、誰にでも持ちあわせていないものですので大事にされます様に。
さて、ご質問ですが、
昔の慣習として、「左三つ巴紋」は、本来は、神社仏閣の格の格式に依って、朝廷より掲げる事を許された「象徴紋」の「式紋」でした。
最も高い格式の「式紋」は、「五三の桐紋」で、「天皇家の祭祀」の「式殿」に用いられているものです。
依って、この文様は「家紋」ではありませんで、格式を示す「式紋様」と云うもので、「象徴紋」の一種です。
「家紋」は、室町期中期以降に「姓族」に依って使われる様に成ったもので、それまでは数少ない「氏族の象徴紋」としての位置づけでした。
家紋化したのは、室町中期以降に「姓族」(海部氏が最初)が発祥して、この数多い「姓族」が使用する様に成って起こった事です。
我々青木氏は数少ない「氏族」(40程度 最大時は200 現在では20)で、その「氏族の最高位の氏族」、即ち、「侍の発祥源」です。
ところが、明治期に入ってこの「仕来り」とその拘束力の「縛り」が低下して、格式に関わらず、「左三つ巴紋」や、「五三の桐紋」の式紋類は何の関係ない者にも使われています。
中には室町期中期から発祥した「姓族」は、江戸初期にはこれを「家紋」とする者まで現れました。
況してや、禁令(「嵯峨期の青木氏の詔勅」と共に出された「青木氏の慣習仕来り掟の使用禁令」)であるのに、「右紋」などの類似紋まで数多く使う様に成ったのです。
江戸中期以降は、村の「神社祭り」の際に祭祀紋(式紋)として用いる等の事が起こり、この事が各地に広がり、遂には「祠の神紋」とするまでに広がって仕舞いました。
中には、江戸期には「格式紋」に発展していたので、その神社の「神職の家紋」にして仕舞うと云う事に成ったのです。
この事は、「左三つ巴紋」は、古来は、「神社の式紋」であったと云う事を庶民も知って居た事を物語ります。
挙句の果てには、この「禁令文様」は、一般化して「91文様」にまでに広がって仕舞いました。
この式紋の「左三つ巴紋」の由来は、その説には多くあり、殆どは、室町期後期から江戸初期からの「家紋」としての論説であって、「式紋」「象徴紋」「格式紋]としての説としてのものはありません。
筆者は、「青木氏の神明社等の資料」より ”「三種の神器」の「勾玉」”を表すものとして、尊れて用いられたものと考えています。
その起源は、「象徴紋」は、平安初期に用いられていますが、「式紋様」としては神器に相当する文様として奈良期からのものであったと観られます。
室町期中期頃までは少なくとも一般には使われていませんでした。
依って、「647年頃からの氏族」の「慣習」の中では、「青木氏」の「柏紋」と共に「式役」としてこの「二つの文様」を用いていた事からと共に使われていました。
その事から、「柏紋」は「神職紋」に、「三つ巴紋」は「式紋」にと変化したのです。
これが、平安初期からの「象徴紋」や、鎌倉期には「格式紋」として変化して行き、遂には、江戸初期には「家紋」として無断で使用される始末と成りました。
この「左三つ巴紋」は、「自然神」の考え方を引き継ぎ、この「自然神」を「教義の基礎」としている「皇祖神(天皇家の守護神)、その子神と成る「祖先神」(青木氏の守護神)がその「教義」を引き継いでいます。
この「三つから成る勾玉」は、次ぎの「祖先神の教義」(青木氏に伝わる教義)から成り立っています。
「勾玉」は、先ずは、”「人の原型」”と云う定義に基づいています。
「勾玉」から成る「人の体」は、次ぎの三つに依って構成されています。資料解析が実に難解で要約すると次ぎの様に成ります。
一つは「和」: 人は「和」を「支」として成り立ち、この「和」は「心」に依って「支」を築かれます。
二つは「理」: 人は「理」を「技」として成り立ち、この「理」は「技」に依って「糧」を創出します。
三つは「教」: 人は「教」を「経」として成り立ち、この「教」は「経」に依って「験」を蓄積します。
この「三つの輪廻」に依って「人の体」は構築されます。
この「三つの輪廻」は自然(左巻)に沿って起こります。
現在で云う、仏説の「心技体」の原型と成ったものと考えられます。
この「神明社の式紋の教義」は「青木氏家訓10訓」にもこの「教義」が色濃く反映しています。
取り分け、「教」とあることが、他神の教義と異なるところで、「教」は「経」(道)を教え悟り、その「道」は「理の経験」(正しい筋道や道理から得た経験)から生まれ、「理の経験」は[和」に依って築かれると云う教義です。
この「和」に依って「理」が生まれ、この「理」は「教」を作り出し、「教」は「和」を生み出すと云う「神義」なのです。
つまり、この「三つ」は「回転」をしている事ですから、即ち、「自然の輪廻」で起こっていると云う教義です。
この「自然神の教義」を「文様」にまとめて教えているものが、この「左三つ巴紋」の文様です。
「左三つ勾玉文様」が「本来の呼称文様」で、「格式紋」に成った頃から「左三つ巴文様」と成った様です。
「自然神−皇祖神−神明社」の「教義文様」として、当初は「神明社の式辞」には「式紋」(教義紋様)として、”「神明社を守護神とする青木氏」”に依って、この「式辞」を取り仕切る役目柄から用いられていたものなのです。
この伝統を引き継いだのが、「柏文様」を「象徴紋」とした「神職の専門職」と成った「青木氏」なのです。
その「柏紋様の総紋」は「笹竜胆紋」が象徴紋です。
「柏紋」は「専門職としての立場」での「役柄の場合」に用いた「文様」なのです。
この「柏紋」は、奈良期では、「柏の木」は「青木の木」と共に「神木」として用いられていましたので、「神職の文様」と定められたのです。
この「柏の木」は、その大葉は、当時(飛鳥期)は「民の食器」として用いられていたもので、”式辞に神に捧げる供え物”の「敷物」として用いられていました。
従って、「青木氏」の「奈良期からの古い仕来り」として、「左三つ勾玉文様」=「柏紋」=「笹竜胆文様」の関係にあったのてす。
そして、この立場にあった「青木氏」に執っては、「式紋−象徴紋−格式文様」として位置づけられていました。
これが、「青木氏の密教」として引き継いで来た「古代仏教−古代密教」の「密教の仏説教義」として「心技体」の仏説に詳しく論説して変革したのです。
この「古代密教」は、「古代密教浄土宗−密教浄土宗−浄土宗」と変化しても、この教義が引き継がれて来たのです。
「巴紋」には、多説あり、武具説 水渦説 鬼瓦説はその形から巴の字が似ているということから、「巴紋」と云われる様に成ったのです。
これはあくまでも室町期末期頃からの「家紋]と云う前提からの説です。
この「青木氏が使っていた式紋」の存在を知っていた「公家の西園寺氏」が、氏が名義している「四国の荘園」を自分の領地として奪取して「公家豪族」と成りましたが、この時に「家紋」として用いたのが最初です。
この室町期末期の「西園寺氏」は、50年程度で戦乱で滅亡しますが、これ以後、「西園寺氏」に肖って他の豪族が「家紋」として使い始めたのです。
「青木氏族」だけにしか使用を認められていなかったこの「禁令紋の式紋」をこの時から豪族に使われる様に成ったのです。
「天皇家の式紋」も「五三の桐紋」も秀吉が勝手に天皇家の許可を得ずに、「太閤」と云う「朝廷官位」を背景に、勲功のあった者にこの「天皇家式紋」も与える始末と成り、遂には「五七の桐紋」まで作り大名に与え、大名が家臣や農民に与える権限まで広がって行きました。
遂には、巴紋と同じ様に、162文様にも広がりました。
江戸初期の家紋の持たない武士が、明治期には家紋苗字の持たない庶民が、「式紋の権威」に似せて使う様に成ったのです。
江戸幕府は、「権威」を保つ為に、この全ての「式紋」と「象徴紋」と「格式紋」と「高位の家紋」に関わる文様に対し、使用と類似紋の使用を禁止しました。
徳川氏一族のある姫が嫁ぎ先で勝手に「葵紋」を使った事で厳しく罰せられる事件まで起こりました。
当初は其れだけ厳しかったのですが、ところが、江戸初期は庶民から武士と成った者が多く成った事で、社会に権威が無く成ったのです。
その事から、幕府は何とか「権威付け」の為に「家譜」を搾取でも良いから強引に作る事を命じました。
進まなかった為に、挙句は、「黒印状」を発行する事を条件で、命じました。
幕府の「黒印状」が得られなければ大名としての立場を認められませんから、強引に搾取して「偽家譜」を作りました。
同じく家臣もこの命に従い家禄を獲得する為に[偽家譜]を作って藩主より「黒印状」を獲得したのです。
この為に、「偽家譜搾取」の社会が起こり、、その結果、禁令にも関わらず勝手に、「偽搾取家譜」に沿った「名家の家紋や式紋象徴紋格式紋等の使用の流れ」が逆に起こって仕舞ったのです。
この為に「禁令紋や類似家紋等の作成使用等の幕府禁令」は有名無実と成り、庶民まで使う様に成りました。
唯、室町期末期以前は、「左三つ巴紋」は、秀郷一門の「青木氏族五氏」(下記)に繋がる豪族が、「式紋」「象徴紋」「格式紋」「副紋」として厳格に使っていましたので、他氏が使えなかったと云う事が在りました。
しかし、明治期にはこの「縛り」は全く無く成り、庶民まで勝手に使う事が起こったのです。
そこで、青木氏の管轄下にあった「深谷の神明社」が、これを「正当な形で式紋」として使っているとすれば、お家の「柏紋の神職」は、その「社の格式」からも、「お家の格式」を歴史的に証明するものと成ります。
そんな中でも、奈良期からの「正当な式紋、象徴紋、格式紋」として用いていたと観られます。
むしろ、大きなお家に関する発見と見做されます。
既に、お家が「伊勢青木氏」に繋がる「由緒ある柏紋」(柏紋=巴紋)で一致である事から、江戸期と明治期のものでは無い事を証明している訳ですから、偽紋や類似紋などの多い中でも「柏紋」が、「正当な式紋の巴紋」を証明しているのです。
むしろ珍しい事に成ります。
お家の近く武蔵国や下野国には、この「左三つ巴紋」の朝廷より正式に使用を許されたもう一つの「秀郷流青木氏」が在ります。
取り分け、一門の中でも「関東屋形」と呼ばれる大豪族と成った「青木氏族」の「結城氏」、「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」、「赤松氏」の五氏も、その氏が抱える神社仏閣には、「式紋」として使用を朝廷より特別に許されています。
その中でも宗家筋に当たる1000年以上の悠久の歴史を持つ「結城氏」は、この文様を盛んに使用していました。
「結城氏」は、一時、「京平家の貞盛」らに抑えられて衰退していましたが、平家滅亡で再び[結城氏」を再興する事を鎌倉幕府から許されて、朝廷も追随して、名籍を遺す為に、「青木氏の柏紋族」と同じくこの「左巴文様の使用」を許されたのです。
この「結城氏」から出た一族の者の4氏も「式紋」として、「格式紋」として「象徴紋」として使う事が許されたのです。
室町期には、これをこの「四氏の副紋」としても使う様にも成りました。
お家の「柏紋族」等の「皇族賜姓族青木氏」の補完族の母方族「秀郷流青木氏族」としての主要族である「永嶋氏」、「長沼氏」、「進藤氏」、「長谷川氏」も使う事が許されています。
その意味で、「深谷の三つ巴紋」の発見は、「柏紋」に対して「古来の慣習の根拠」に成ります。
つまり、「柏紋と巴紋」は、古来より共に「神職式次第」の「対の関係」にあったのです。
「巴紋」と来れば「柏紋」、「柏紋」と来れば「巴紋]と云う風に,「対の関係」を室町中期頃までは長く維持して来たのです。
「皇族賜姓族青木氏」の「深谷神明社」は、「最古の所縁」の証拠ですが、それを歴史的に更にこの「巴紋使用の発見」でより確実にしました。
「柏紋のお家と深谷神明社」は、「二つの全青木氏」に執って「歴史的存在の意義」を持っています。
これも「何かの御霊の導き」の発見と観られます。
何かを感じる時にこそ、この様な発見が起こるのです。
これはまさしく「導き」に外なりません。
この格式高い「二つの式紋」は、その「神社仏閣の式殿」の「格式」を象徴する「象徴紋」として利用されていたのです。
是非に、この「歴史的価値」を「お家の口伝」にして頂けるとありがたいと思います。
又、何かありましたらお便りをください。
前回はご返信頂きましてありがとうございました。
ようやく深谷にいってまいりました。
瀧宮神社は神聖な感じがしました。
社務所も閉まっていたので、こそっと行って、
こそっと帰ってきました。
ただ、なんか違う気がしました。
感覚的な発言で恐縮ですが、
なんというか表現が難しいのですが、伊勢神宮で感じたものより
素朴で、その土地の全員に対してというか、青木氏だけではなくというか、少しだけ遠いというか。
その答えは、川越と所沢にいった時に何か感じるのかもしれません。
もしくは、それ以外に挙げていただいた、他のところで感じるのかもしれません。
この活動は続けてみます。
一つものすごく残念だったのが、
水が濁っていたことです。
先日の大雨の影響かもしれません。
水の綺麗な時にもう一度改めて行ってみようと思います。
木と水に何か関わりを感じます。
昔から木はとても好きです。そこにヒントがあるかもしれません。
一つ疑問に感じたのですが、神社は三巴の家紋でした。
これは気にする必要ないことなのでしょうか。
兵庫の青木さん 今日は。
お家の御先祖の地の信濃旅行されましたか。
青木氏の多いところに行くと不思議に何かなつかしさが感じられる気がします。
信濃には「青木の地名と所縁」の多いところですが、中でも「青木村」を形成していたのは「小県郡の青木村」ですね。
筆者も3年前に信濃旅行を体験しました。
確かに、「墓石の笹竜胆紋」や「信濃青木氏系の所縁の地」が少なく成っていますね。
この時は、「伊勢青木氏」と深い親交が明治期までありましたので、この事前に準備した資料を頼りに信濃代々の先祖が祭祀されている寺にもお参りしました。(菩提寺では無く成って居ました。)
このお寺は、「信濃青木氏の菩提寺」が消失し、その焼跡の別の檀家寺が建てられ、寺名も同じに名づけられていました。
その後に、一般の「知恩院系の浄土宗寺」と成りました。
然し、良く調べると、一画は「古い墓形式」のものばかりで、「平安期の青木氏の女墓の慣習」も一部に遺されていました。
「青木氏の四家一族の墓」も一画に与えられていて、僅かに「古来からの伝統」は護られて現在に至っていました。
「青木氏の墓石」(福家筋)には「笹竜胆の家紋」も刻まれていました。
果たして、この「伝統」もどれだけ続けられるものでしょうか。大いに疑問を持ちます。
信濃では、ところが”「西諏訪」”に今でも「青木氏」が多く定住していました。
全て「諏訪族青木氏」でした。
伊勢の記録に遺された「信濃青木氏の定住地(長野市の円域 小県郡の円域 諏訪郡の円域 白馬村の円域)」とするところには、「青木氏」は、最早、残念ながら少なく、お尋ねしたところでは、商いの影響で福家筋は信濃の別の処にお住いに成って居られました。
一族の殆どは、明治35年頃を境に関東や東京に移住していました。
この信濃も「甲斐武田氏滅亡の影響」を受けて、「甲斐青木氏」が家康の命で武蔵の鉢形に移住、「信濃青木氏」の一部も伊豆に移住、「諏訪族系青木氏の三氏」が「秀郷流青木氏」を頼って神奈川、横浜、栃木に移住、一部は越後に「秀郷流青木氏」を頼って移動しました。
勿論、お家の「信濃青木氏系の御先祖」の「信濃足利氏系青木氏」は、前回のお答えで述べましたが、別の理由で「米子ー八頭」に移動しています。
お家は,現地で子孫拡大を大いに図ったその「三階松文様の青木氏」ですね。
「米子ー八頭」の「三階松文様の青木氏」は、「二足の草鞋策」で生き延びて「米子商人」として有名です。
その「生き様」は、鳥取域を二つに分けて、西側は商業域、東側は屋敷域として一族が互いに助け合いながら「組織的な生活」をしていた事が判って居ます。
ですから、互いの親族の結束は固く、この特徴は室町期の戦乱期にも表れていました。
仮に、現在もお家の御先祖筋が未だ信濃に住んでいるとすれば、「旧北陸道沿い」の「信濃北の国境」で、「飛騨の北の国境」で,「越中の南国境」の三つに囲まれた凹んだ「三角州の地域」に定住して居た事が記録されています。
つまり、「足利氏系青木氏」は、「棲み分け」により、現在で云えば、「長野市」の西の「小川村」から「白馬村付近」に定住していた事に成ります。
(「青木湖」がある地域です。 左メニュウーの「青木と云う地名の地図」を参照)
伊豆は、平安期から「源の頼光頼政」の領国であった事から、護衛団として「信濃青木氏」も赴任し「伊勢青木氏」と共にお家の親族であった「信濃青木氏の定住地 伊豆青木村」でしたので、ここを頼って武田氏滅亡期の混乱で「信濃青木氏」も多く移動しています。
この様なことから、信濃に遺されたお家の一族の「信濃青木氏」は、この事から確認する処では、現在では「笹竜胆紋の福家(本家筋)」の末裔だけでしたので、少なく成っているとみられます。
「諏訪族青木氏」が、神奈川、横浜、栃木、越後、越前に移動していますが、西諏訪にはまだ大変多く「諏訪族青木氏」が定住していて、当時の西諏訪市長も青木氏でした。
西諏訪には「笹竜胆紋の青木氏」が未だ遺されています。
(「抱き角紋の青木氏」が多い。)
然し、「伊勢青木氏」と明治期まで関係の深かった「信濃青木氏の福家筋」が明治後に大きく分散している様です。
然し、総紋は「笹竜胆紋」ですので、墓所には「総紋」を刻む筈ですが、「四家制度」が崩れて「青木氏の伝統」は途切れている様です。
家紋は「笹竜胆紋」で本来は一族は変紋しないのですが、「諏訪族青木氏系」も「信濃青木氏系」も家筋に依っては「四家制度」が長く続けられなかった事から、江戸期には調べたところでは移動組は可成り変紋しています。
然し、伊豆には「青木氏の伝統」が遺されていた事から,「笹竜胆紋」が未だ一番多く遺されている地域です。
筆者もいろいろな「マニアの組織」に依頼して懸命にフォローしていますが、現在では、信濃は伊勢と関係があった事から「信濃青木氏の福家筋」だけが掴めている状況です。
この様に、「青木氏の伝統」が消えゆく中で、何とか「先祖の生き様」を遺そうとして「伝統シリーズ」で論じています。
この「伝統シリーズ」では、「青木氏の事」は、「青木氏の持つ資料」の中でが論じる以外にはありませんので、全ての「青木氏に関わる慣習仕来り掟」を論じています。
青木氏には、発祥期に興された「青木氏の氏是」が在りまして、これを頑なに護る事に依って生き延びる事が出来ました。
従って、公的に「青木氏の資料」が外に出る事は古来からの禁じ手でした。
この為に、依って、”「青木氏の事」”は、「青木氏」が論じる以外には無く成っているのです。
お家も、平安期末期頃の出来事ですから、米子八頭に移動したとしても、この「青木氏の氏是」類は伝承されていたと考えます。
「五家五流の青木氏」の中でも、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」には、この「青木氏の伝承」が頑なに護られていました。
上記しました様に、苦しい中でも武士を貫き、且つ、一族を護る為にも「商い」(米子商人)もし、この「米子青木氏」は「特徴ある生き方」をしました。
この事では、鳥取を東西に分ける等の事もして生き延びました。
青木氏の共通する慣習の「伝統シリーズ」をお読みください。
何か判りました、是非教えてください。
福管理人様、お世話になります。
この盆休み、家族で長野県に家族旅行に行ってきました。
行先は、戸隠神社、善光寺、信濃国分寺跡、青木村等を回ってきました。
また、信濃青木氏の手がかりを訪ねて、長野県北部の浄土宗のお寺、長谷寺、普光寺に行き、
青木家のお墓、笹竜胆紋のお墓を探してきましたが、残念ながら、出会う事はありませんでした。
また、何か情報があればご連絡致します。
岸本さん 今日は。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
さて、青木氏サイトの情報をご利用されていることは感謝します。
大いにご利用ください。
判るところの範囲でご質問にはお答えします。
伊勢の郷士族についてお調べの様ですが、残念乍ら、青木氏から見た範囲の「伊勢郷士」の事に付いて研究をしています。
従って、これを超える範囲の事は基本的には判りません。
ただ、調査される際の心得は判りますので、それを簡単に申し述べて置きます。
伊勢は古来奈良期からの歴史を壊さず持ち得ている唯一の国であります。
この伊勢は、その歴史の中で、護られての由緒を持ち得ています。
他国とは全く特異な環境下にありました。
お調べの「伊勢郷士」と呼ばれるものは、66国の中で一国に付き「全国平均540程度の郷士族」を有していますが、然し、伊勢はこの3%程度の20程度(正式には18)しか成りません。
これは、伊勢は奈良期から、「伊勢神宮」を抱えての事で、「不入不倫の大権」に護られてきました事から、余り、戦乱の中に巻き込まれる事も無く、この「20の郷士族」は、地主の「郷氏」の中に組み込まれて護られてきました。
歴史上、時の権力者の誰一人、この「伊勢の大権」を犯す事は原則はありませんでした。
依って、その中に共に護り合う組織は充実していて、互いに血縁関係を保ち生き残ってきました。
然し、ただ一人、「織田信長」だけは、これを犯し、「伊勢三乱」を起こしました。
然し、この時、信長はこの攻める相手は、この「20の郷士族」を相手としていなかったのです。
信長が、攻めたのは、鎌倉期から室町期中期まで、この平穏な伊勢の状況を狙って、京から平穏な伊勢に移動して来て瞬く間に勢力拡大した貴族出身の「二つの豪族」を潰しに掛かったのです。
そして、これを「蒲生氏郷」に命じました。
この「蒲生氏郷」は伊勢とのたいへん深い関係を持った豪族で、親族を伊勢に置いていた者でした。
これは「信長の配慮]でした。後の秀吉はこの伊勢を整理した後護りました。
そして、「信長」はこの京から来た勢力を作った貴族出身の「二つの豪族」を潰しに掛かったのです。
この時に、この「20の伊勢郷士」の内の「二つの郷士」が結束を裏切った事から、戦闘に巻き込まれたのです。
然し、信長は逆らう者は討ち滅ぼす方針であった為に、この「18の伊勢郷士」を纏めていた「郷氏」は、「武力」を使わずに、「知力」と「財力」と「影の抑止力」の「伊勢シンジケート」を使って、これらの「18の郷士」を護り通しました。
この「18の伊勢郷士」が、「伊勢の郷氏の大豪商」の下で「武士」でありながらも「商人」でもあると云う「射和商人」と成ったのです。
この「18の伊勢郷士」は「商人」でもあり、「影の抑止力」とも成って互いに護り合ったのです。
さて、お家が調べようとする族は、この「二つの貴族」の「豪族」と成った「配下の武士族(例えば神戸氏や内藤氏)である事に成ります。
お調べに成るには、この「伊勢の特殊な歴史的環境」を把握しなければ、恐らくは無理で困難と思われます。
正しいルーツを観る事は出来ません。
又、この時代の遺されている資料は殆どは、家柄格式を誇張する為に搾取偏纂の下にあります。
従って、お家が云われる「源氏が・・云々」と云った事柄はこの中にあることをも考慮するべきで、江戸初期には敢えて、「権威の創設」の目的で、恣意的にこの搾取偏纂の上でも良いから武士には「家柄の補償」を要求した経緯があって、これに従わない場合は、何人共「黒印状」を出さなかったのです。
この「国印状のお墨付き」を得ないと大名とその家臣は禄を食む事は出来なかったのです。
ですから、民の身分から「立身出世」したものばかりですから、搾取でも何でもいいから作り上げる事に専念したのです。
この事も充分に考慮するべきです。(この時,神社や寺社の歴史に聡い「神官や住職」が「家柄作り」に活躍した。)
依って、本サイトとしては、このお家の「源氏・・云々の前提」にある限りはテリトリーが異なっている為にお応えする事は出来ません。
伊勢は「日本最古の歴史」を持っています事から、この「歴史観の知識」が無ければ正しい答えを導き出す事は不可能です。
つまり、そもそも、この伊勢の特殊な歴史の中に、何で木曽源氏が出て来るのでしょうか。
昔は、人は領地に所属する社会で、自由移動は現在の様に叶わない社会でした。
伊勢には、「賜姓源氏」の祖の「皇族賜姓族青木氏」が居て、そこに悠久の歴史で、且つ血縁関係で深く結ばれた「20程度の郷士」が居て、その「20程度の郷士」に何で「清和源氏の支流の木曽源氏」が入り込む事が出来るのでしょうか。
「普通の歴史観」があれば、普通は、現在社会と違い「氏家制度」の中では、大いに疑問を持つ筈ですが。
それを無視していますよね。其れでは正しい答えは出ません。
況して、上記した京から来た「北畠氏」とは、「村上源氏」ですよ。
「北畠氏」では無いのなら、「北畠氏の家臣」と成りますが、昔は「氏家制度の慣習仕来り掟」の中にあったのですよ。
「家柄、格式」等の「つり合いの取れた婚姻」を行います。
「郷士」や「家臣」とには、無理な婚姻です。
先ずは「妾子」か「配流孫」でなければかなり無理な事ですね。
況してや、「純血性維持」を「賜姓族」として宿命で義務付けられていますから、あり得ない搾取である事は普通は判りますが。
其処に「清和源氏支流の木曽源氏」ですか。其れも「伊勢郷士」にですか。
先ずは、ここから疑問を持たれて、検証を進めるべきではありませんか。
「伊勢の一伊勢郷士」が主家を超えての婚姻、其れも「木曽源氏主流」とですよ。
先ずはあり得ない話です。
では、一歩譲って、その「家紋」は何でしょうか。
「嵯峨期詔勅」に依って発祥した11流の中の一つの「清和源氏」には、「賜姓族」として「象徴紋」に対する厳しい「慣習仕来り掟」が有って、ある範囲に限られています。
お家が示す「家紋」は、その「氏の出自」を証明するものですが、何でしょうか。
この「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」が護られているでしょうか。
先ず、この様な事から検証して、証拠立てて一歩ずつの「ルーツ探し」が必要であると思います。
「伊勢郷士20」の中の一つの「森田家」に関しては、多少承知しています。
しかし、上記の事からとても根底でカテゴリーやテリトリーが違いすぎて論じる事は出来ません。
以上
お便りありがとうございました。
お家の概要をご理解していただきました様ですね。
では、続きまして、更に深めていただく為に次ぎの事に付いて論じます。
尚、以下の事は全て研究室などの処に論じていますので、お読みください。
次ぎの事からについて論じる必要があると思いますので、忌憚なく記述していますがお読みください。
>というのも、私の祖先は明治に入った頃京都の伏見で日本酒の醸造を営むようになり、祖父の代まで続きました。
>父も技術職で親戚のほとんどがなにかしら技術系の仕事、自営業の方が多いです。私自身もデザイン系の仕事をしていたので、何か遺伝子的なものがあるのかと不思議な感じがいたしました。
恐らくは、お家の御推理はあっていると思います。
筆者の事で云えば、「伊勢青木氏」ですが、矢張り、「先祖の血筋」を引いていまして、「伊勢青木氏」には「青木氏部」と云う大職能集団を奈良期の古来から明治期35年まで持っていた事も有って、この血筋の御蔭で技術者で過ごしました。
先祖にも隔世遺伝的にこの「技術職能に優れた者」が出ている様です。
「青木氏」には、”「青木氏家訓10訓」と云うものがあって、この中にも「技術技能に関する戒め」がある程です。
物事の考え方も遺伝で「論理性」が強く、「性格や趣味」もこの領域のものです。
お家と筆者は、その出自のルーツが異なっていますが、元を質せば、平安期には母方で皇族系の藤原氏で間接的に繋がっていた事にも成ります。
ですから、その血筋を何処かで引いているのだと思います。
血液型が同じであれば、85−90%は同じ遺伝子を引き継いでいますので、あり得る事だと思います。
これらの事は、サイトに膨大に論文として掲載していますので、ゆっくりと少しづつお読みに成ってください。歴史マニアに成り得ます程に掲載されています。
ヤフーHP歴史カテゴリーに審査されて25倍の競争率で推薦認可で登録されています。
その情報量はヤフーお墨付きの”ダントツ”です。
同じ「青木氏」として、是非、本サイトを盛り上げて頂きます様に宜しくご協力お願いします。
さて、ご質問に入ります。
先ず、最初のご質問のお答えです。
>今の時点で分かるのは、菩提寺の京都伏見の清涼院(清涼庵)の過去帳から見ますと
>第三代目の戒名が『覺譽浄光信士』とあります。寛文13年と記載されております。
>第五代目の戒名が『浄閣清涼信士』とあります。寛永元年と記載されております。
>残念ながら初代の戒名がなぜか記載がされていない為、また調べる必要があります。
>菩提寺の清涼庵縁起録の中に私の先祖のことがふれておりました。内容としましては、
>『安政二年六月秋葉堂維持費寄付〜云々、年次不明なるも青木丹波守謹恋篤(祖先)と署名せる古き権現の絵像一軸奉納せられあり』という記載がありました。
そもそも、古来から宗教的慣習として、「戒名」には、特に「浄土宗の密教」は、その「戒名」に”過去の祖の先祖の経歴”を読み込む事に成っていますし、その人物とその家柄、格式等で「戒名」を換える仕組みを持っています。
現在でも、その家の過去の家柄、格式がはっきりとしていれば、格式の高い浄土宗寺では「戒名」にその先祖の事を繁栄させる慣習に成っています。
これを「院殿居士」と云います。
さて、頂きました、お二人のご先祖の「情報の戒名」につきましては、次ぎの様に成ります。
お二人の「ご先祖の方」は、この「院殿居士」の戒名に成って居ません。
「普通の戒名」で、家柄、格式を示すものは全く無く、「普通の家」の方であった事を示しています。
「丹治氏系青木氏」ではある事は、年代期から「二つの第三青木氏」と「二つの血縁青木氏」では無いことが判りますが、然し、筋目は、矢張り、本家主筋等を示す事柄は組み込まれていません。
この事から、前回お答えした通りに「分家筋の支流傍系族」(場合に依っては縁者)であった事を示しています。
お一人目の方は、真面目なお人柄であって、人に癒しを与える性格の方であったとしています。
お二人目の方は、清純なお人柄であって、信念を以って生きた方の様です。
人生を「寺侍」(前二つの字)として真面目に務められたご先祖であったとしています。
然し、「青木丹波守・・」の「ご先祖の肩書」と前回の「お家の家柄格式のご先祖の情報」とこの「戒名」とは全く一致していません。
この場合、普通は、「院殿居士」が付く事に成ります。
少なくとも「居士か殿」は付いている筈です。
「お便り」の江戸初期の資料とされるものの様に、お家の立場、家柄、格式は物語っていません。
お持ちの資料とはお大きく離反し矛盾しています。
この事をどの様に検証するかであります。
確かに、「寺関係者」であった。
しかし、その「ルーツ」は、「丹治氏系青木氏の本筋」とは言い難く、江戸初期であれば、未だその家柄格式の事は、「ご先祖や寺関係者」には忘れられていない筈です。
むしろ、大名に成った位ですから、「世間の大トピックス」に成っていた筈です。
従って、「二代目の方の戒名」が、この「院殿居士」での戒名でなければならないのに、「三代目の方」も同じです。
つまり、何を意味しているかですが、お便りの様にこの「お家の資料とか家柄」は、間違いなく、”「後付」”と云う手段であった事を意味しています。
では、搾取偏纂の良くある「室町期の第三氏」か、「明治期の第三氏」かと成りますが、そうでは無い様です。
それは「寺に江戸期の戒名がある事」と「浄土宗である事」と「浄土宗の寺侍」と「隅切り角に桔梗紋の名誉格の職能家紋」に依ります。
取り分け,この家紋は、江戸時代には幕府から与えられた「名誉格の家紋」ですので、類似家紋や搾取をきつく禁止されていましたので、他の者が使う事はこの縛りが解除された明治以降を除いて絶対に出来ません。
徳川氏の親族さえ類似家紋や搾取は許されず、葵紋の使用さえ2年を契機に返却を義務付けられていました。
徳川氏のある姫がある大名に嫁ぎますが、葵紋の使用は期間限定で一切禁止していたくらいなのです。
この様に、徳川氏が指定し与えた「名誉格の家紋」の使用は厳格に護られました。
現在の紫綬褒章や藍綬褒章の様なものでした。
これらに関する限りの「情報の整合性」が採れています。
二つの矛盾点
さて、「菩提寺」と表現されていますが、「檀家寺」ではありませんか。
「菩提寺」と「檀家寺」とは根本的に違いますよ。
江戸初期の家康の命に依って、全て原則は「顕教方式」と成りました。
しかし、行き成り「密教の菩提寺」は無く成る事は無かった事から、この「菩提寺」を持っている「氏族」は、その慣習を財力が続けられる限りは維持したのです。
しかし、明治以降は、この「菩提寺」は、社会が「氏家制度」が無く成り社会体制が変わり、完全に無く成りましたので、「檀家寺形式」に成っています。
この「丹治氏系青木氏」は、その「大名とする財力」と「新しい姓族」ではない「古い氏族」であった事から、確かに許可を得れば「氏の菩提寺」を建立する事は出来ました。
依って、”「菩提寺」”がある事には間違いは無いのですが、さて、この「武蔵出自の氏族」が、「[京」に菩提寺が在るかどうかは問題です。
本来は武蔵か摂津にある事に成ります。
そうでなけれは、勝手な処に建立する事は法度であって、「他の氏族との争い事」と成る事と、必要以上に社会に宗教色を強くして政治に影響を招ねかない様にとする原則から等で簡単に幕府許可は出ない事に成ります。
そもそも、奈良期より「神社仏閣の建立権」は、”特定の限られた許可を持つ氏族”にしか与えられていませんでした。
江戸時代もこれを踏襲しましたので、一氏族は、自由に建立する事は出来なかったのです。
又、それを「建立する職能集団」も、「青木氏の青木氏部」の様に「特定の氏」の「建立権を持つ氏族」に所属していましたので、尚更に不可能でした。
「青木氏」は、「青木氏部と云う大職能集団」を持っていて、「祖先神の神明社」を全国500か所に建立してきましたが、この権利を奈良期から持っていました。
奈良期から室町期まで皇位の持続の「特定の権利」でした。
お家は「丹治氏系青木氏」であるので、この権利を直接持っている事はありません。
依って、朝廷の許可を得て「摂津域か、武蔵域」に「氏の菩提寺」があったのです。
あちらこちらに菩提寺を建立する事は許可が出ませんでしたから、「京の菩提寺」はあり得ません。
「京]にそれほど「丹治氏系青木氏」が「菩提寺」を建立する程に子孫拡大はあったかは極めて疑問です。
その財力を本家筋では無い「お家のご先祖筋」が持ち得ていたかは疑問です。
それは、お示しに成った「普通の戒名」からも判ります。
「菩提寺」とは、「丹治氏系青木氏」と云う氏族全員のご先祖を一括して独善で祭祀し,一族からその祭祀の僧侶を置き維持する寺の事です。
従って、既に古い歴史を持つ「丹治氏系青木氏」には,ご本家があるのですから、武蔵大宮に菩提寺があり,摂津に分寺を建立していたのです。
現在も、ご本家筋のご子孫が大宮とその近郊に多く住んで居られます。
この事から、「京」に菩提寺は絶対にありません。
菩提寺が、武蔵大宮域か、分寺の摂津域に菩提寺が在るのですから、当然に過去帳も武蔵大宮域の菩提寺に在って京では無い事に成ります。
依って、時代が,末裔が,枝葉化が起これば、「忘却と錯誤」が起こるは「当然の事」に成ります。
ある程度の期間は武蔵か摂津かの菩提寺に届けられていた事は確実ですが、枝葉化で判らなくなった事に成ります。
「過去帳」をお調べに成る時は普通は「出自先の菩提寺」にお調べに成るのが普通です。
ここにも、お家の行動の忘却が起こっている事に成ります。
既に、お家も忘却を起こしているのですから、この様な事が、当然にお家の御先祖にもあった事を証明していますね。
前回のお答えの通り、「筆者の資料」からも、無かった筈です。
恐らくは、「江戸初期の令」からも「顕教」と成った「浄土宗」の「一般の寺」であった事に成ります。
「丹治氏系青木氏」の「独自独善の寺」では無かった筈です。
この「京の寺」に「過去帳」が在る事に疑問は残ります。
江戸初期は未だ、絶対的な「氏家制度」の中にあって、むしろ、「慣習仕来り掟」を重んじた「武家諸法度」や[公家諸法度」の「封建社会」を敷いてこれを強化していたのです。
お家のお説と資料成るものの価値に疑問が大きく残ります。
大きな矛盾点です。
況してや、前回にもお答えした通り、「お家の一族」は殆どは武蔵に戻っています。
この事は、武蔵に菩提寺が在った事を意味していて、「氏の寺」があちらこちらにある事は100%ありません。
「菩提寺」である限りは、上記した様に、要するに、”菩提寺」”なのですから、「院殿居士」に成っている筈です。
「普通の戒名」である事は100%あり得ません。
調べたところでは、この「寺の歴史」には、本尊を阿弥陀三尊を本尊とする「棲霞寺」と、釈迦如来を本尊とする「清凉寺」から出来ています。
その更に前身は浄土宗では無い「華厳寺」です。
ところが、更には、この寺は[釈迦如来」を本尊とするは「顕教」です。
依って、「清涼寺」は「顕教」で、その時に寺名も平安期中頃に変更されたものです。
ところが、「浄土宗」は「阿弥陀仏」では無く、元は、宇宙仏は「大日如来」ですので、”浄土宗らしい顕教の浄土宗”と云う不思議な事に成ります。
「顕教」は、「盧舎那仏、曼荼羅仏」を「宇宙仏」として、その間に「釈迦如来」を置いた宗派です。
この寺は、元は浄土宗ではありません。その更に元は「華厳宗」です。
この寺は有名で「由緒ある寺」なのですが、「密教方式」と「顕教方式」のミックスした様な形の寺と成っています。
ですから、このややこし事に成っているのです。
従って、この寺に「過去帳・・云々」のお説は、結局、これらの知識未了の「後のご先祖 明治期頃」が起こした明らかな「後付行為」を意味しています。
この「後付行為」は殆どと云って良い位に大変に多かったのです。
つまり、この寺は、遍歴のある「江戸期の寺」と云う事に成り、お家の「菩提寺」では決してありません。
従って、お布施を基として運営される「特定多数の檀家」を中心とする「顕教方式」に変化した明確な「檀家寺」です。
「檀家寺」には「過去帳」は決してありません。「人別帳 任別帳」です。
と云う事に成りますと、現在、前回お便りに依る「お家の過去帳」としているものは、「お家の過去帳」であるかは大いなる疑問と成ります。
「顕教」には「過去帳」は無く、「人別帳」成るものが有って、それは「系統的性質]を持ったものでは無かったのです。
「税」や「所在」などに使われる戸籍簿に相当するもので「ルーツと成る系統性」は無かったのです。
中には、庄屋でこの役目を担い、この「人別帳」の無い「檀家寺」もありました。
依って、その後の枝葉末裔のご先祖の人が、「人別帳」を「過去帳」と思い込んでいた形跡があります。
況して、その前身と成る寺の建立元は、源氏族の「源融」です。(源氏は11氏ある)
お家の藤原氏系の「丹治彦王」とその息子の「島左大臣」とは、左大臣「源融」とは「氏」がそもそも異なっています。
大きな矛盾で、「お家の過去帳」であるかは大いなる疑問です。
上記の「戒名」から来る「後付の問題」の「矛盾点1」と、「菩提寺の問題」の「矛盾点2」を解決しなくてはなりません。
つまり、この現象は歴史性が無いのですから、後から付けた事に成りますので、「矛盾点2」も「後付」です。
この事が、「寺侍と丹治氏系青木氏」は、上記した様に確かですが、江戸初期に「弟系ルーツ」の一族の傍系支流か縁者か徳川氏から命じられて、「寺管理」で赴任した事に成ります。
ところが、時代が経つに連れてお家のそのご先祖の「伝統の継承」が枝葉化で薄れ、忘却した事から何れかの代の人物が、”「お家のルーツ」を作り上げた。”と云う事に成ります。
その時、「寺」にあった「他の青木氏の過去帳」等を参考に利用して、「お家の過去帳」成るものを作り上げた。と云う事に成ります。
それを「後付の事」を書き消す為に必要以上に誇示する余りに、其処に、この「大きな矛盾」が生まれた事に成ります。
それを裏付けようとして恣意的に資料を遺して証明書の落書としたと観られます。
これは「寺関係者」であった事からは容易に出来る事です。
では、この寺の「他の青木氏」とは、”「京のどの青木氏か」”と云う事に成ります。
この「嵯峨天皇」に関係する「青木氏」と成りますが、「棲霞寺」に関係した「青木氏」を探し出せばよい事に成ります。
その答は簡単です。
前回お答えした「京」に定住した青木氏を記述しましたが、この内の「嵯峨天皇」の息子の左大臣の「源融」に関係した「青木氏」を選べは良い事に成ります。
お答えは、「近江青木氏」です。
前回にもお答えした様に、元は近江に居て、朝廷の仕事をしていた「近江青木氏」は大きな遍歴を持つています。
そもそも、「嵯峨天皇」は、「青木氏の始祖」の「施基皇子の子供」の「白壁王」(後の光仁天皇)の子供の「山部王(桓武天皇 孫)」の子供が「嵯峨天皇(曾孫)」であります。
この「嵯峨天皇」が「青木氏」を再び、「親兄弟で政権闘争」をした位に「第二期皇親政治」の「皇親族」に戻そうとした人です。
この子供が「嵯峨源氏」の「源融(曾孫)」で「左大臣」であったのです。
この時、一族の「近江青木氏」は京にあって精力的に働いていていました。
「五家五流賜姓族の青木氏」の中では、「皇親族」として「京」で”「賜姓五役」”として働いたのは、この「近江青木氏」だけでその役目にあったのです。
この「近江青木氏」には、京に長くいて「職能族の官僚」として活躍した同族系の「佐々木氏系青木氏」があります。
この「佐々木氏系青木氏」は「寺社関係の御師頭」であったのです。
故に、「佐々木氏系」には、現在でも「神職と住職」が全国的に子孫に実に多いのはこの事から来ています。
恐らくは、「青木氏の一族一門」の「源融の寺」である事から、この京の「清涼院の前身」の「棲霞寺の住職」をしていたと事に成ります。
江戸初期に於いて、お家の御先祖は、「始祖」を「丹治彦王」に持つ「丹治氏系青木氏」として武蔵から出て来て、その由緒を基に「寺侍」に成った事に成ります。
お家は、”何で、この」棲霞寺(清流院)の寺侍」に成ったのか”と云う疑問の答えは、ここで繋がっているのであります。
それは、「氏家制度の社会」であって、「全ての組織]を一族一門で固め、一族で護り合うと云う社会であったからです。
中々この「縁」が無い限りは、「寺侍などの権威」があり、「由緒ある寺」などには食い込めない社会であったのです。
恐らくは、徳川氏はこのルーツを知っていて、この事で選んで麻田藩に赴任を命じた事に成ります。
さて、更に、この関係は、実は、次ぎの事でも「縁の証明」が出来るのです。
それは、お家が今回ご質問成されている「寺侍」にあるのです。
良いところに発想と推理が届きました。驚きましたね。
その通りなのです。
鍵は、「寺侍」なのです。
次ぎの二つのご質問に関わっているのです。
先ずは、そもそも、”「侍」”と云う字を観てください。
「寺」に「人」と書いて,「侍」(さむらい)と書きます。
元は「さむらい」は「寺を護る役目をする者」としての役目でした。
この「寺」(仏)に「さぶろう」と云う古代言葉から来ていて 「さぶろう」は「沿い付き従う」の古代言葉でした。
そこから、「沿い付き従う者」を「侍」の字句を当て”(さむらい)”と呼ばれる様に成ったのです。
さて、”この役目を最も最初に務めた氏は誰なのか”と云う事に成ります。
それは、「天智天皇」が、「大化の改新」で[蘇我氏」から圧迫を受けて、「天皇権威」までも奪われる程に弱体化し、「身の危険」を感じたところから、「中大兄皇子」(天智天皇)が「神職の官僚」だった「中臣鎌足 賜姓藤原氏 斎蔵」を誘って反撃に出て、「蘇我氏」を討ったのです。
この反省から「改新]が起こります。
この時、「天皇の身の危険を護る親衛隊」が無い事から、「身内の者」をこの親衛隊にする事を定めたのです。
この為に、「王位継承者」を「第四世族内の第四位皇子迄」とし、後の「第四世族内の第六位皇子」に臣下させてこの役目を与えたのです。
後は、全て「下族」(民に返す事)させて、坂東に配置しました。
これが鎌倉幕府を作った「坂東八平氏」です。
この「臣下族」には、「青木氏」と云う「氏名」を賜姓して、「充分な武器と権力と身分と格式と保護」を与えて「皇族、皇居を護る役目」を与えました。
これが、「天皇」に「沿い付き従う者」として、「侍」と名付けて役目を与えました。
この時、天皇のみならず天皇家に関わる寺をも護る役目があった事から、この「さぶろう」から「侍として字句を作り「侍」としたのです。
この他にも、この「皇族賜姓族の青木氏」には、”「賜姓五役」”と云う言葉の「五つの役目」が与えられました。
この一つが「侍」です。
この「賜姓五役」の中には、”「三つの発祥源」”と呼ばれる他氏が成れない「名誉な役目」が与えられたのです。
(詳しくは是非に研究室をお読みください。全てを記述しています。)
この一つが「侍」で、これを務める「氏の家」を「公家」に対して「武家」と呼ばせたのです。
「青木氏」が、この「侍」で「武家」の始まりなのです。
鎌倉時代から江戸時代に成って呼ばれている「武士の武家」とは違うのです。
「侍の武家」は「青木氏」からの発祥なのです。
江戸時代には、幕府は「侍」も「武士」も同じくして「家」を構成する”「武家」”と呼ばせたのです。
元は、「貴族の公家」に対しての「侍の武家」でした。
奈良期からは「公家」と「武家」を同扱いにしたのです。
従って、「皇族に関わる寺社」には、「侍」が必ずいて、「侍」はこの「身分や家柄や格式」でもあり「役目」でもあったのです。
そもそも、平安期から室町期まで、「寺の目的」は「本来の宗教的意味合いの務め」だけでは無く、「軍事的、政治的な重要な拠点の役目」も担っていたのです。
場合に依っては、「経済的な役目」を担う寺もあった位で、その為に「防御の役目」も必要であった事から、「侍」を置いたのです。
これが「侍の起源」なのです。
つまり、「江戸期の武士」の「さむらい」は、この「侍」から来ているのです。
「寺侍」としている事は、江戸期の習慣で、本来は、「寺」は不要で「侍」で良い事に成ります。
徳川家康はこの事を知った上で、京の皇族に関わる由緒ある寺に対して、その「保護と管理」を「皇族に先祖を持つ氏族」にこの純粋な本来の「侍の役目」を職能集団として命じたのです。
これが、同時に「隅切り角桔梗紋の由来」です。
その任に命じられたのが、「丹治彦王」を始祖に持つ「源融」に関わる「寺の保護」を目的として、お家に「侍」として命じられたのです。
他氏には絶対に任じられない本当の意味の「侍の役目」なのです。
お家がこの「侍の屋仕事」をしていた事は、「丹治氏系青木氏」である明らかな証拠と成るのです。
始めは、”「近江青木氏」かな”とも思いましたが、前回に述べました「家紋判別」からはもう一つの氏の「丹治氏系青木氏」である事が判別できたのです。
お家は、上記した矛盾が在りますが、この事から、絶対に「丹治氏系青木氏」である事は間違いは無いのです。
結局は、時代が過ぎて、良く見られる「伝統の忘却」からの「後付の錯誤」に依る事なのです。
その「後付けの錯誤」は、「住職の近江青木氏」の「佐々木氏系青木氏の所縁」を利用した事に成ります。
と云うよりは、「青木氏」なので知識が無く皆同じと観て、この「氏の違いの判別」が出来なかった間違いからの事であろうと観られます。
然し、近江には、前回に述べました「青木氏」が他にも在ったのです。
そこで、念を押して、「青木氏や佐々木氏」等の「氏族」と、室町期から庶民から興った「姓族」の違いがある事を承知ください。
この”「姓族」”はこの様な仕事役目には絶対に着けません。
この朝廷が認めた”「氏族」”は、現在では、「8000の族」の中の1%にも成らない「20程度の氏族」しか残っていません。
お家はその中の一つの「氏族」です。
通称の「寺侍」であった事は、この「数少ない氏族」であることをも証明しているのです。
その中の「青木氏」であるのです。
この「氏族」には、佐々木氏も同族として同じ家柄格式官職官位名との一切の権威を持っていますが、家康はこれを政治的に保護した事は判っており、お家の嵯峨期詔勅に基づく「皇族青木氏」に命じたのです。
他に、この「皇族賜姓族」を補完する目的から、「円融天皇」に依って「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏」と、「川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」とはこの立場にあります。
「近江佐々木氏」は、「天智天皇の第七位皇子」で近江の佐々木の地名を採って特別に賜姓して「佐々木氏」を命じたのです。
>父方(青木家)の曾祖母の家が女官(公家または宮家に代々使えた家)の出身だそうです。
>なので、やはり朝廷との繋がりが昔からあるのかなと思いました。
>私の母方の祖母も女官の家の出身で母(立入家)の先祖は立入宗継という戦国時代に官吏として活躍した人物だそうです。
「氏家制度」と云う社会体制から、今と違って、自由に何でもの職業に就けると云う社会ではありませんでした。
全て「氏」の括りで社会が統制されていて、「氏」が責任を以って成し、「氏」の本家の意志の判断に従って、分家もその家に関わる全ての民は支配されていました。
故に、大きい社会の構造もこの氏の家柄、格式、官職、官位の位置での判断が働いた社会でした。
結婚や仕事も役目も何もかもこの「氏家制度」の「慣習仕来り掟」の範囲で動いたのです。
従って、この「慣習仕来り掟」からはみ出す様な事をしますと、生きる範囲の「氏」から追放の憂き目を受ける事に成ります。
然し、反面、経済的な保護も受ける事も起こりますので、安定し、本家が何もかも助けてくれる事も起こります。
婚姻や仕事はご本家からの指示に基づき行動する制度であったのです。
お家の事もこの中で起こった事から、「武士として名誉ある寺侍」に着けたのです。
ですから、「麻田藩との深い関係」があった事に成るのです。
従って、お家が、「麻田藩との関係」を示す事は正しい事なのです。
そして、この「母方の女官」などの事も、この「氏家制度」の中での当然の事で、婚姻は本家のとの関係から起こる事ですので、一族の名誉や家柄や格式にあった家柄からの婚姻と成ります。
従って、「女官」と成るルーツが起こる事に成ります。要するに俗に云う「つり合いの婚」です。
婚姻に関わらず、何事もこの「氏家制度」の中では、「つり合いの概念」の中で処置されました。
仮に、この処置から外れた様な事を起こすと、「氏の組織」から排除される等の非難や排斥などの罰が起こるのです。
先ずは生きて行くことは不可能に成る社会でした。
従って、この「吊り合いの社会」は母方にも適用され、むしろ、お家を証明する一つの証拠と成り得るのです。
こうでなくてはお家を証明できないのです。
極めて、「吊り合い」の取れた順当なお家の証拠です。
それは矢張り、「隅切り角桔梗紋の家紋を持つ名誉ある寺侍」であった事に依ります。
この事をも証明しています。
次ぎのご質問です。
>一点質問がありまして、基本的に寺侍は寺院から給を貰っていたのでしょうか?私の祖先は幕府から所領を与えられて生計を立てていたのでしょうか?
>藩士なら藩領から、旗本御家人なら天領からだと思うのですが、素朴な疑問がありました。
>寺侍とはどういった存在であったか?
「寺侍」は寺侍です。お家がどの様な形でこの上記した意味の持つ寺の侍と成って、どうしてこの「隅切り角桔梗紋紋」の家紋を持つてたかに関わります。
お家は、幕府から氏に命じられ一族の者に氏からこの役目を担ったのですから、「氏の宗家の摂津麻田藩」から「知行」を受けている事に成ります。
そして、そこから、それは4000石を与えた弟の分家に負担させている事に成ります。
この為に知行を与えている訳です。
命じるのは「氏の本家からの命」で、その名を受けた分家が「知行」を別に受けていれば、この「知行分」から支払われる事に成ります。
この原理に氏家制度は成り立っています。
「知行」と云う言葉には、”知って行う”のこの様な意味を持つているのです。
「命じる事」と「知行の事」とはこの関係にあるのです。
弟が知行を受けていなければ本家の知行から支払われ、本家が知行が無ければ最初に命じた幕府にある事に成ります。
しかし、現実には「麻田藩」の藩なのですから「知行」を受けている訳ですから、藩に成り、そして弟も知行を特例で受けているのですから,弟からの支払いと成ります。
その間に、知行者が居ればその者から受ける事に成りますが、無い事ですので、お家は知行を受けている弟の家臣と成ります。
徳川氏、又は、幕府は命じただけの事です。
幕府は、この”「命じる事」”で謀反を起こさない様に「藩の財政」をコントロールしているのです。
「藩の石高の知行]も幕府から受けているのです。
故に、幕府は藩に単に命じる事が出来る仕組みです。
現在は、最初に命じた者がその報酬義務を負いますが、氏家制度では最終に命じた団体がその報酬の支払い義務を負うのです。
中には寺そのものが雇った寺侍もありますが、その場合は寺からに成ります。
寺からは、礼金や小遣いの様な「賄料程度」のものは受けている事に成ります。
お家はこの家紋からそうでは無い事を証明しています。
ですから、必要以上の幕府との関係の有無を論じる事はお家を否定する事の意味を持ちます。
何故ならば幕府であれば、旗本か御家人かの事に成るからです。
この家紋はその様な意味合いを持っていません。
家紋が証明していますので幕府との関係は矛盾する事に成ります。
もし、幕府を前提に置くことは、分家も本家の摂津麻田藩をも飛び越えての侍と成る事に成ります。
これは旗本です。
人又は全ての民は、「氏」と「家」の関係を強調維持する事を基本に置いた社会の「氏家制度」の社会です。
「青木氏」、その上の、更には、「丹治氏」から離れる事はありません。
当然に、幕府、朝廷の範囲には到底にお家は及びません。
「寺侍」とは上記した通りです。
お家が「侍」、或は、「武士」の「丹治氏系青木氏」である限りは、単なる”「役目」”です。
「職業」ではありません。
ただ、”「名誉ある職能集団の侍」”、或は、「武士」である事を意味します。
従って、ここで、幕府、朝廷などとの関係があったとする説は、上記の様な「二つの矛盾」を孕む様な事に成ります。
「御資料の内容」は正確には判りませんが、上記する二つの矛盾から未だある様な気がします。
何とか家柄をよく見せようとする余りに矛盾する事を書きこむ結果と成り得ます。
「戒名の矛盾」や「菩提寺」等のものは、”「誇張のミス」”による当にその良い例です。
恐らくは、「氏家制度の習慣仕来り掟」に依って、摂津、又は、武蔵の菩提寺には、「誇張」は受け付けられませんので、正確に伝わっていると思います。
では、ご質問やご不明な点がありましたら、更にお尋ねください。
こんにちは。京都の青木です。
ここまで詳細にお調べ頂いきまして有難う御座います。感謝と同時に大変感激致しました。
ここまで膨大な資料が残っているということにも驚きましたが、研究内容の質の高さには驚くことばかりです。
やはり、家紋と宗派がルーツに関わる重要な要素を持っていたのですね。
職能集団というのも合点がいきました。また、寺侍の存在が私の中で不透明な所がありましたので大変勉強になりました。
というのも、私の祖先は明治に入った頃京都の伏見で日本酒の醸造を営むようになり、祖父の代まで続きました。
父も技術職で親戚のほとんどがなにかしら技術系の仕事、自営業の方が多いです。私自身もデザイン系の仕事を
していたので、何か遺伝子的なものがあるのかと不思議な感じがいたしました。
「江戸初期の御先祖の戒名」がどの様な戒名に成っているかで判別する事が出来ます。とのことですが、
今の時点で分かるのは、菩提寺の京都伏見の清涼院(清涼庵)の過去帳から見ますと
第三代目の戒名が『覺譽浄光信士』とあります。寛文13年と記載されております。
第五代目の戒名が『浄閣清涼信士』とあります。寛永元年と記載されております。
残念ながら初代の戒名がなぜか記載がされていない為、また調べる必要があります。
菩提寺の清涼庵縁起録の中に私の先祖のことがふれておりました。内容としましては、
『安政二年六月秋葉堂維持費寄付〜云々、年次不明なるも青木丹波守謹恋篤(祖先)と署名せる古き権現の絵像一軸奉納せられあり』
という記載がありました。
また「桔梗文様」は、元は、朝廷に関わる職業を仕事する族で、特に、その仕事は朝廷の祭祀や職役に限定されてきます。
元はその先祖が朝廷の官僚集団であった族とか、朝廷の職能官僚などの先祖を持つ族が使用しました。
その意味で、他の家紋とは違う朝廷と云う領域の文様であった事から、「家柄格式」としては良い事を意味します。とのことですが、
思いだしたのですが、父方(青木家)の曾祖母の家が女官(公家または宮家に代々使えた家)の出身だそうです。
なので、やはり朝廷との繋がりが昔からあるのかなと思いました。
私の母方の祖母も女官の家の出身で母(立入家)の先祖は立入宗継という戦国時代に官吏として活躍した人物だそうです。
その子孫と母から聞いておりました。
京都という土地柄だとは思いますが、やはり朝廷に何らかの関係を持っていたのかなとは思います。
まだ資料としては乏しいので、できるだけ調べられる範囲で活動していきたいと思っております。
一点質問がありまして、基本的に寺侍は寺院から給を貰っていたのでしょうか?私の祖先は幕府から所領を与えられて生計を立てていたのでしょうか?
藩士なら藩領から、旗本御家人なら天領からだと思うのですが、素朴な疑問がありました。寺侍とはどういった存在であったか?に興味を持っております。余りに情報量が少ないので。貴重な御意見、御指摘等御座いましたら幸いです。今後とも宜しくお願いします。
管理人さま失礼致します。
先祖の一家で有ります伊勢山田の喜早家及び射和の森田家等を調べておりました本掲示板の前田さまの投稿を拝
見し、喜早・森田両家の事について何かご存知無いかと、書き込ませて頂いた次第で有ります。
喜早家は木曽義昌の子孫を称し、森田家と共に射和・相可・田邊に一族が広がっているようなのですが、今一つ
家系を明らかにできずにおります。
京都の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしく青木氏同士のサイトとしてご協力の程を宜しくお願いします。
サイトには,「お家の丹治氏系青木氏」の事に付いては、研究室やルーツ掲示板や左メニューに関する資料がありますので、時間を掛けてゆっくりとお読みください。
その際、判らないところやご質問がありましたら何なりと本欄のReでお尋ねください。
さて、お尋ねですが、情報が少ないので確定は出来ませんが、凡よその事は判りますので、お答えします。又、他に判りましたらご連絡ください。
お家の情報としては、お家の御先祖の事について判るのは「家紋」と「京都のお寺」の事に成ります。
その前に、お家が口伝等で推測される「青木氏]としては、「摂津麻田藩1万石青木一重」のルーツの末裔ではと云う事ですが、この「青木氏」に付いてそのルーツを述べて見ます。
詳しくは、研究室やルーツ掲示板などで論じていますので、そちらをお読みください。
「摂津麻田藩の青木氏」は、関東の「武蔵7党」と呼ばれ豪族集団(地方の土豪)で、その中の一つで、「丹生党」と呼ばれる豪族集団がありました。
この豪族集団には、「丹治氏」と云う豪族がありました。
この「丹治氏」には、平安時代の中頃に、京都に住んでいた「皇族の丹治彦王」と云う第五世族の王子がいました。
しかし、この「丹治彦王」は罪を犯し、その罰として、坂東に5年の刑期で「配流の罪」を受けました。
この「丹治彦王」が配流中、この「丹生党の世話」を受けました。
この時、「丹生党」との間に「配流孫」を設けました。
この後、刑期を終えて、「丹治彦王]は京に戻されました。
この「配流孫」が成長して、「丹生党」の中に、「丹治氏」を発祥させました。
この「丹治氏」が、「嵯峨天皇の詔勅」を利用して、「皇族系」であると云う事から「名誉ある青木氏」と云う氏名を名乗る事が許される事に成っていました。
そこで、それを根拠に、室町期初期に「丹治氏系青木氏」を名乗ったのです。
この土豪の「丹治氏系青木氏」は、「室町時代の戦乱期」を生き延びる為に、丹治氏一族と共に子孫を現地に残し、”「傭兵軍団」”と成り、全国各地の豪族の「傭兵」として渡り歩きました。
そして、チャンスを観て、勢力を徐々に拡大させて行きました。
その最のキッカケは、信濃の国の豪族の傭兵と成って移動していた「丹治氏系青木氏」が、豪族の戦乱に出動して「傭兵代」をより多く獲得して勢力を大きくしました。
そして、その武蔵の7党から人を呼び寄せて拡大し傭兵を増やしました。
この結果、隣の甲斐の国から「傭兵依頼」があり、今度は甲斐の豪族の傭兵として働きました。
この「甲斐の大豪族の傭兵」と成った事から、更に、東北各地に出かけていた「党の者」を呼び寄せて「軍団」を大きくし、ここで暫く働きました。
ところが、室町期末期にこの大豪族は戦乱で衰退し、結局、「丹治氏系青木氏」の傭兵軍団は、美濃国に移動して、大豪族に成りつつある豪族の傭兵軍団として働きました。
ところが,この大豪族も問題を起こして、なかなか勢力を維持させる事が出来ずに一時、軍団を縮小させて武蔵に返しました。
ここで、「豊臣氏と徳川氏の戦い」が起こり始め、このチャンスを逃さないとして、美濃での繋がりを利用して、関ヶ原近くに軍団を自由な状態(何れの陣営にも所属しない「自由軍団」)で配置して、時期を待っていました。
そして、「夏冬の陣」が起こり、最終、戦いと成って、徳川氏側が窮地に追い込まれた時に、この「丹治氏系青木氏の自由傭兵軍団」は、同じ「関東の誼」を通じて「徳川氏に味方」して、徳川氏は一挙に形成が変化させました。(小早川事件と共に有名な事件)
この結果、徳川氏が勝ち、「論功行賞」で、この「武蔵7党」の「丹生党」の「丹治氏系青木氏」は摂津の麻田地域の一部の1万石分を割譲して徳川氏から与えられ、藩を構築する事を傭兵軍団として初めて認められます。
これが、摂津麻田藩1万石の青木氏の藩です。
この時、傭兵軍団であった事から、定められたある大きさの家臣団を構築する必要に迫られ、全国各地に散会していた一族一門とその家族と「武蔵7党」を呼び寄せて、麻田藩を構築したのです。
この時に、「丹治氏系青木氏]の一重には兄弟が居て、この者に麻田藩の兄を通じて弟に4千石を与えられます。
この時、河内、土佐、伊予、滋賀、近江に、1郡か2郡程度の「小さい所領」を与えられました。
この「磨田藩の支藩」にも成らない「小さい所領」を軍団に関わった一族の者で分け与えて管理しました。
この時、この「丹治氏系青木氏」がこの地域に分布して子孫を拡げました。
全国に大名と成った者等が行う様に、この磨田藩に成った時に、徳川氏に恭順の意を示す為に人質の娘を差し出します。
これが、亀姫ですが、後にこの亀姫の才量が優れ、尾張徳川氏に気に入られる事に成って、お家が書かれている様に「徳川氏との血縁関係」を持つ様に成ったのです。
この時に、この姫に付き従った一族の侍が京に住んでいた事は判っていて、上記したこの京での地領がこれらの者の管理下に置かれた土地なのです。
この時に、「麻田藩」は「徳川幕府」から、戦乱後の政情不安定な時期が未だ15年位続きましたから裏切らない様に多くの「藩の役目」を命じられました。
何故かと云いますと、この「丹生党の丹治氏系青木氏」は、上記しました様に、信濃と甲斐と美濃に「国衆」(傭兵軍団がある豪族の直接配下に入り働く軍団を「国衆」と呼ばれた。)であって、この時の豪族は全て豊臣方でした。
豊臣家の淀君とも面談し味方する褒賞として「飛鳥の一部」(土佐の一部等)を与えられていた為に、何時か裏切るのではないかと徳川氏に疑われていたのです。
「関ヶ原の戦い」でもギリギリのところで、豊臣氏を裏切り「徳川氏の調略」により味方した経緯があったのです。
この背景から、「亀姫の人質]の経緯があり、「弟(徳川氏に味方する事を主張していた)」に分量した経緯があるのです。
さて、そこで、お家はこの「武蔵7党の丹治氏系青木氏」、後に摂津麻田藩の一族とどの様な関係を持っていたかの問題と成ります。
それには、この「隅切り桔梗紋」の家紋に関わってきます。
実は、この角文様は、通称は「職能紋」と呼ばれ、職能に関わった者が用いた文様です。
そして、この角文様は、通常、その中に別の文様を入れて使われる文様です。
従って、お家がこの「角文様」を家紋としている事は、お家の御先祖は「職能集団]に関わっていた事を意味します。
次ぎに、その中に、「桔梗文様」を入れています。
この「桔梗文様」は、元は、朝廷に関わる職業を仕事する族で、特に、その仕事は朝廷の祭祀や職役に限定されてきます。
元はその先祖が朝廷の官僚集団であった族とか、朝廷の職能官僚などの先祖を持つ族が使用しました。
その意味で、他の家紋とは違う朝廷と云う領域の文様であった事から、「家柄格式」としては良い事を意味します。
つまり、お家の家紋は一般の職能紋の角文様を主として、その血筋として先祖の中に桔梗紋に関わるものを持っていた事に成ります。
中でも、この隅切り文様は、江戸期には宮大工等の一流の者を棟梁とする者が使用する事を許された事に成ります。
また、明治期には全ての民が苗字や家紋を用いましたが、この時にも、この職能に関わった者等が棟梁とは別なくこの文様を用いました。
従って、この角文様は色々と類似文様を作って用いた為に全てで72文様にも成ります。
特に、江戸時代に、徳川吉宗が、その幼少の頃、伊勢で育ちましたが、この時に親代わりに成った「伊勢青木氏」は、”「御師」”と云う伊勢神宮の一切を管理する職能集団の頭役を担っていました。
この「職能組織の棟梁」を[御師(おし)」と呼ばれていました。
この組織が職能集団を統率するに適していると観ていた吉宗は、紀州藩主から将軍に成りましたが、この時に、徳川氏の職能官僚にこの「御師制度」を採用したのです。
そして、官僚外の職能集団の民の頭領にも、この制度を適用して、その取締役にはこの角文様を名誉として与えたのです。
これが、角文様で、その角文様を観ると、何の職能集団かも判別が出来て、更に細かく判別できるように角文様の中に別の関係する文様を入れる事でより判り易くし,その家紋を持つ者は名誉とした文様でした。
とすると、お家は職能集団に所属し何らかの祭祀関係の仕事に従事して居た事を物語っています。
つまり、お家の御先祖は神社か仏閣かの職能に従事して居た事が判ります。
お家の情報から「寺侍」であったとしています。
その「寺侍の情報」と「お家の角文様」とは一致しています。
では、何時、お家が、この角文様を家紋としたのかという事に成ります。
「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」は、1605年頃を境に藩主と成った訳ですから、恐らくはこの家紋が使われたのは吉宗の時代ですから、この時、お家はこの家紋を使う事を許された事に成ります。
さて、そこで、然し、「御師の立場」に居たかは判別が情報が無い為に出来ません。
然し、この吉宗の時にお家の家紋は決まった事に成ります。
ところで、「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」のルーツとしてもどの程度のルーツなのか、誰のルーツなのかは判りませんね。
上記しました様に、全国に散会していた本家から分家、更には縁者の一族一門を呼び集めたのです。
ですから、又、この「丹治氏系青木氏」は、主に兄のルーツと弟のルーツに別れますが、ところが、矢張り、内部で一族一門が二派に分かれて激しい「勢力争い」が起こりました。
その混乱が原因して、”何処の丹治氏系青木氏”であったかは判別が難しく判り難いのです。
ただ、お家の場合が、「隅切り桔梗紋」とする限りは、「弟のルーツ」に関わる一族である事は判ります。
弟は徳川氏に味方する事を主張して居た事から、特別に家康に認められて、親族でありながらも、4000石と云う破格の扱いを受けていました。
普通はこの様な事は先ずはありません。
それに、この弟に所属した一族一門のものは、河内や土佐や伊予や近江や滋賀や摂津の西の一部の小さい所領地を与えられました。
この時には、近江、滋賀に一族の者を配置しています事からもこの弟のルーツである事は判ります。
では、何で、「京の寺侍」と成って移動したのかと云う疑問が起こります。
これには、予想できる事が在ります。
それは、この弟には、徳川氏は「色々な役目柄」を与えて引き立てようとしました。
その時に、京には由緒ある寺社が多く、この為に幕府は「京の寺関係の管理維持」をさせることを目的として赴任を命じたのです。
更には、近江滋賀域には小さいながらも所領の村も持っていた関係からも、命じられたと観られます。
むしろ、この役目を果たす為に、その財源とする処の所領を与えた事にも成ります。
無暗に意味なしに所領地だけ与える事は無く、況してや、天下の京に赴任を命じる事もありません。
何らかの意味があって、政治的に配置された事が伺えます。
恐らくは、「人質の亀姫」が子供を産み、それが後に「尾張藩の藩主」に成る等の経緯から観て、「有能であった亀姫」が働きかけた事が伺えます。
又、尾張藩もその様に働きかけた事が予想できます。
従って、お家は、本家筋では無く、分家筋の更に別れの血筋を持った「丹治氏系青木氏」である事が頷けます。
その証拠は、この本家の家紋群は、「富士山に霧紋」(富士山紋含む)です。
ルーツ元の「丹治氏」は、「三つ頭巴紋」でその元は関東に居た平家の子孫である事を示す「丸に揚羽蝶紋」を総紋としています。
この「三つ頭巴紋」には、現在に子孫を遺している「丹治氏系青木氏」としては多いのです。
主に関東以北に定住されています。
つまり、この「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」は、後に関東の故郷に多くが帰った事を示しています。
この事は、お家が関西に定住した事は、矢張り「職能集団の青木氏」であった事を示しています。
「職能集団」であったからこそ、その赴任地を離れる事は出来なかったのですし、離れなかったのです。
昔は、人は国に所属し縛られていて、その国から無断で自由に出る事は現在の様に許されなかったのです。
出れば、捕まり、「国抜けの刑」と云って一族は「斬首の刑」に処せられる程に厳しかったのです。
但し、神職や住職等、又は宮大工等の職能集団はある程度に許されていて、これらはその職能が長い経験と知識を必要とするところから、それぞれの「自国内での能力」には限界があって、幕府は各地にその「職業の枝葉」を拡げる事の意味から、申請すれば認められていたのです。
ですから、「隅切り桔梗紋」のお家は京に遺れたことに成ります。
全く、お家のご先祖が口伝で伝えていた事には矛盾が在りません。
お家としては、家紋から江戸初期が発祥と成りますが、その「源ルーツ」を辿れば、「丹治彦王」の平安期中期に遡る事が出来ます。
お家の「始祖の丹治彦王」の息子には、配流刑が解けて京に帰って後に、彼の有名な政治的に活躍した摂関家の「島左大臣」が排出されました。
「お家の遠祖」と云う事にも成ります。
この意味からも、縁の所縁を以って京に赴任した事も考えられます。
お家は、「皇族賜姓青木氏五家五流青木氏」と「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」の「二つの血縁青木氏」と違って、「嵯峨期詔勅」に従って発祥した「賜姓族」では無い「皇族系青木氏」です。
この系列の「皇族系青木氏」は、比較的子孫を戦乱の世の中を生き抜く事が出来ずに遺せなかったのですが、他に現存しているのには二氏あります。
お家は、現地孫で配流孫であった事から、「武蔵7党」と「丹治氏」に保護されて、「傭兵軍団」として、麻田藩の青木一重の様に、世の中を積極的に生き抜いたことにあります。
実は、もう一つありまして、この「青木氏」の氏名を使って、明治期3年の苗字令と督促令の時に、一般の民は、この「丹治氏系青木氏の氏名」を使った「第三の青木氏」と呼ばれる姓があるのです。
上記した「二つの血縁関係のある親族の青木氏」と異なり、この「青木氏」が最も多いのです。
そして、その如何にも「丹治氏系青木氏」で「麻田藩の青木氏」であるかの様に、出自事を示す書類なども寸分違わない形で搾取偏纂して作って持っていて、一見して間違う事が起こる位です。
然し乍ら、何が判別条件で判別できるかは、それは宗教です。
つまり、浄土宗では無い事に依ります。
何故かといいますと、この浄土宗は奈良期からのある経緯があって、「密教系」で一般の民は信者には成れなかったのです。
この慣習は、江戸時代も密教を顕教に変更して「信者範囲」を緩められましたが、矢張り、高級武士が入信する宗派で、明治3年から自由に入信する事が出来る様になりました。
然し、可成り高額の檀家費を払わなくてはならない事から、大正時代まで一般には入信する事が出来ませんでした。
又、お家の「浄土宗寺」も「青木氏の定住地」にしかあまり建立されておらず元々入信は難しかったのです。
ですから、どんなに搾取してもこの事だけは搾取は出来なかったのです。
ただ一点,お家にも疑問があって、「隅切り桔梗紋」で「寺侍」としている場合は、「神道」である事にも成るのですが、お家の浄土宗は何時頃からのものであるかを検証する事が必要ですね。
それは、お家の「江戸初期の御先祖の戒名」がどの様な戒名に成っているかで判別する事が出来ます。
過去帳の資料をお持ちとしていますので直ぐに判ります。
又、この戒名でもお家の「隅切り桔梗紋の家紋」が妥当であるかも判別する事が出来ます。
この滋賀近江には、明治期では無い「第三の青木氏」がもう一つあるのです。
平安末期に国内は乱れますが、この時、伊勢北部の上田郷と云う地域があったのですが、この上田郷から一人の農民が立身出世を夢見て滋賀に出てきます。
そして、やくざの様な組織を作って頭に成り、各地で盗賊山族などの悪さをします。
この時、丁度、滋賀に居た「皇族賜姓族青木氏」の「近江青木氏」が赴任を終えて、京に戻りますが、この一族の縁者で老人と一人の娘がこの地に遺ったのです。
この事を聞きつけた上田郷の者は、この家を襲い、その娘を誘拐して子供を産まします。
この子供を家長に据えて、許可なく勝手に「近江青木氏」を名乗ったのです。
そして、この事を朝廷に届け出て、賂に依って認められます。
その結果、この者は有能であった事から、朝廷から11もの赴任地を経験して、「近江青木氏」の役職を奪い成功したのです。
そして、滋賀に上田姓系の「青木氏の子孫」を拡大させたのです。
近江青木氏は、この結果、仕事を奪われて衰退します。
然し、再びその末裔の一部が摂津で生き延びて勢力を高め、この滋賀の「上田姓の青木氏」に戦いを挑みました。
結果、矢張り、敗退してしまいます。
ところが、後に、秀吉が、この名家の「近江青木氏」を復活させようとして、この上田姓の「滋賀の青木氏」と秀吉の面前で公式に戦わせたのです。
結果、勝利し、「近江青木氏末孫・摂津青木氏」は復権し、今度はこの「滋賀の上田姓系の青木氏」は衰退して、一部を遺して多くの子孫は千葉に逃げて行きます。
この復権した「摂津青木氏」のその後の末裔は、京では神職住職等の色々な職能集団の職業に就きました。
さて、この「滋賀青木氏」と「近江青木氏」も浄土宗(知恩院系)であります。
ただ、滋賀に遺った「滋賀青木氏」の末裔は、家紋は異なっていますが、この「青木氏」も明治期から錯誤忘却し混乱して「丹治氏系青木氏」の証拠資料を掲示して「丹治氏系青木氏」だと名乗っているのです。
ほぼ間違いは無いかと思いますが、この「二つの青木氏」との違いの「確実な証拠」を見つける必要があります。
尚、この近江滋賀地域には、上記した「皇族賜姓族近江青木氏」と系列の「賜姓族佐々木氏系近江青木氏」(源平合戦の富士川の戦いで滅亡し、僅かにその傍系末裔が遺されている)、其れに「藤原脩行系秀郷流青木」の一部末裔が定住しています。
これらの「青木氏」の氏と、お家とは「家紋」と由来が異なっていますので、このルーツでは無い事が判ります。
以上、お家の情報で判る範囲で検証しました。
他に情報が在りましたらお便りください。
どんなちょっとしたことでもルーツにつながることを見つける事が出来ます。
ご質問やご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
ではお便りをお待ちしています。
はじめまして。京都在住の青木と申します。
以前から私の青木家の祖先についてより詳しく知りたいと思い投稿させて頂きました。
まず、親戚の話では麻田藩初代藩主青木一重の子孫だと聞いておりました。
親戚の方が京都の菩提寺(尼寺清涼寺)に訪問し400年前から残っている過去帳を調べて、それにまつわる資料のコピーを私も入手いたしました。
資料によると徳川家(特に尾張徳川家)と関係があるようで、初代の青木甚左衛門はお亀の方(徳川義直の生母)と関係があるようです。
資料の内容だと、
『若君様御誕生被遊御名ヲ青木甚左衛門二御申付候テ五郎太様ト奉名付禰御機嫌能然〜云々
玉の如き男子誕生す青木甚左衛門御名を奉り五郎太君と名付奉り成長の後尾州の大守となり給ふ〜云々』
内容について具体的に知りたいところではありますが、見る限り私の先祖が徳川家と関係を示すような内容だなと思いました。
ただこれが青木一重かその父の青木重直と繋がりがあるのかは、私としては不透明です。
麻田藩主の子孫の方もご健在のようですし。
参考
菩提寺 浄土宗
家紋 隅切り角に桔梗
400年間 京都の寺侍だったと聞いております。
以上の点を踏まえて私の先祖のルーツやその当時どう役割を果たしていたのか?を少しでも知れたら幸いです。
宜しくお願いします。
今日は。 そうですね。お家の「ルーツ探し」は随分と進んだと思います。
お家の御努力の結果であります。ただ纏められる事が必要ではと思います。
可成り一部に深く入り過ぎた帰来もある様で,そうなると、「ルーツ探し」は、古来の詳しい慣習などの歴史観が必要に成ってきますので、本当のルーツの史実を押える事が難しく成る筈です。
それは其れで、当サイトの持つ「歴史観」をご利用される事が本サイトの本命ですが、前回のお便りにはこの域に入っています。
そこで、ご依頼のあった件に関してはサイトルールに反しますので、個人情報に関わらない範囲で、青木氏の方が読んで頂いて「歴史観の養成」に成る様に書かして頂きます。
お家のルーツの内容には、「歴史観の養成」に成る事が多く含まれていて、全国の青木氏のご先祖の生き様を正しく引き出すには最高の情報と成り得ます。
依って、多少ご迷惑とも成りますがお家の御先祖の「ルーツ探し」や「ご先祖の生き様」を描く事にも成り得ますので、敢えて投稿欄を使わさせて頂きます事をお許しください。
[ルーツ探し」
>当家の「ルーツ探し」におつきあいをお願いしてからそろそろ1年が経とうとしております。
「青木氏」は数少ない「氏族」として「姓族」と違い「特異な慣習」に宿命的に縛られて生きてきましたので、それだけに難しいのです。
今回の調査のポイントと成った「墓所の件」、「墓所の石質」の件、「住み方」の件、「地域の件」等々とそれに伴う「時代性の遍歴」等々が大きく左右してきます。
前回のお便りには、忌憚なく申し上げれば、この事の「租借」が不足していたと思われます。
明治期に起こった「苗字令」などに依って起こった[遍歴」も充分に配慮しなくてはなりませんでした。
そもそも、「人の起こす諸行」は「正」だけではありません。
ある時期に於いて「いつの世」も疑うような「悪」も平気で行われたのです。
其れが一人で興すのであれば未だ良いのですが、周囲が当然の様に麻痺して当たり前の様に平気で行われると云う事もこの明治期では起こったのです。
それは、例えば、「江戸期の士農工商」の「封建制度」の締め付けから解放された「庶民の安堵感」からの末路でした。
これは、何も明治初期に関わらず、江戸期初期にも、室町期初期にも、鎌倉期初期にも、平安期初期にも例外なく起こっています。つまり、「時代の変化点」で必ず起こっています。
この事を「聖武天皇の言葉]を借りれば、「百姓(百民)の性(さが)」と云うものでしょう。
従って、この”時代の初期の検証”には「充分な歴史観」で以て租借せねばならないのです。
取り分け、「青木氏の先祖の生き様」を観る為の「ルーツ探し」には是非必要な事であります。
「軍監」
さて、前回の「三つの地域の青木氏」には、この判別が必要でしたが、老婆心ながらもう一つ欠けている歴史観があるのです。
前回まで論じて来た様に、お家が「讃岐秀郷流青木氏」を頼って「四国西域の配置]に着きましたが、この時には、”お家だけの行動”と云う事には、当時の「氏族の武家の慣習」としては成らなかったのです。
それは、必ず、「お家の青木氏」に「見張り役」としての「讃岐秀郷流青木氏」が付き従っていた筈です。
当時の重要な「軍事的慣習」です。これは「戦国期の習い」です
全ての戦いの戦略内容を研究されると判ります。
これは現在でも形は変えても同じです。
「管理監督監査役の軍監」です。
つまり、このお家が調べられた地域の「三つの青木氏」には、前回の「第三氏の青木氏」は当然としても、「軍監役の青木氏」(讃岐秀郷流青木氏)も必ず居た筈なのです。
これを欠かす事は絶対にありませんでした。
「監査される方」もどれだけ頑張ったかを正当に評価してもらえる絶好のシステムであったから、それに依って「勲功の評価]も違ってきますし、”非常事態”が起こっても正しく宗家に伝わる事にも成って、援軍などの処置が容易に採られる等、双方にとっても是非に必要であったのです。
では、その「軍監役」は誰なのかと成りますが、この「軍監役の青木氏」は当然に讃岐から廻された者であります。
この「讃岐の軍監役」には「一族の仕来り」から「平安期からの伝統」を頑なに維持していますから、周囲の[青木氏]との間にはこの「伝統さの違い」が出ている筈です。
例えば、その「軍監役」が居ついた地域の「墓所の内容差」等の「伝統」等が際立って違っている筈です。
筆者は、衰退したかは別として、前回の「三つの地域のお話」には、一つはこの「軍監役の青木氏」が介在していたと観ています。
そうすると、お家のお便りの「推論の論理性」が合ってくると観ています。
前回にも何度も申し上げましたが、先ずは「墓所の構えの慣習」は勿論の事、「墓所の石質」を詳しお調べに成る事をお勧め致しました。
もう一度、「墓構え」は然ること乍ら良くお調べください。
これには、譲れない「氏族の仕来り」(氏の概念)が有るのです。
それを簡単に次ぎに述べます。詳しくは研究室の論文をお読みください。
次ぎの、「三つの石質」を使う事が定められているのです。
「墓石」
一つは、「砂岩」です。
「浄土宗の仏教的密教概念」である”「自然に帰る」”と云う事から、「個人墓」から50年後には「累代の五輪の塔」への「移り」は、最後には”「砂岩」が解けて自然に帰ってゆく過程”を作り上げているのです。
庶民の土葬の様に直ぐには「土」には帰らずに50年毎に解けて土に帰ってゆく一つの過程を描いている事なのです。
つまり、この「五輪の塔」の間には、「現世」と「彼世」を往来する「形の持たない人」(仏)と成るのです。
(浄土密教の考え方です。顕教はこの考え方を採りません。)
これが「仏」が「現世」に来るお盆の行事なのです。
ですから、「石質」は「砂岩」とするのです。
研究室でも詳しく論じていますのでよくお読みください。
上記の様に、この「五輪の塔」には「密教浄土宗の宗教概念」が入念されています。
次ぎは、「泥岩」です。
この石には多くの字句を刻みます。依って、この字句が消えない様にする必要があります。
「硬質の泥岩」には幾つかの種類がありますが、色の着かない「泥岩」が用いられます。
「色」とは、「色即是空 空即是色」「色不異空 空不異色」と云う風に、「色」は「現世」を意味します。
「色付きの石質」を使う事は、現世を強調する事を意味しますので、「現世」と「現世」に成りますので仏教では法度なのです。但し、紫は例外です。紫は宗教の色です。
この「無色」、つまり、「自然が示す色」の「泥岩」で以て「三代の墓石」を持ちます。
これを累代毎に繰り返して行きます。
「仏」と成った者は,直ぐには「彼世」の者とは成らず、50年の期間中は「現世」との往来が出来るまだ「形」を消しただけの「人」と成り得て、この期間を過ぎると「真の仏」と成り得て「五輪の塔」に移り、そこから子孫を見守る事に成ります。
祭祀の時期には「彼世」から来てこの「五輪の塔」に移動し子孫と会し会話し見守るのです。
これが「宇宙仏の大日如来」の「密教の持つ宗教概念の基本」です。
これを現在的に云えば、要するに「五輪の塔」は「電信電波塔」の様なものとして考えられていたのです。
注釈
(人は、邪念を取り除く事が出来れば、脳波からベータ波が出て、「形を消した人」との間で会話が出来るとした概念 ベーター波は現在の論理 現実に母性本能は赤子との間でこの右脳から出るベーター波で交信している。女性は原始脳を使って同時に二つの事を「連想する能力」を持っているのはこの事から来ている。)
ですから、「三代墓」の石質は、「形を消した人の立場」にありますから、「砂岩」とは違って「自然の力」では解けてはならないのです。
「形」のある時は「俗名」とし、「形」を消した人には「戒名」と区分けして、その「形を消した人」には一定の身分に分けて「戒名」(「院殿居士」に更にこれに「徳名」も添えられる)でも変えられたのです。
現在はこの慣習は消えていますが、当時は「俗名」「戒名」にも仏教的にこの格式に応じたものを持っていたのです。
これらの「形の有無の人」の「有り様」の「仏教的意味合いの性質」を持ったこの「泥岩の石質」が選ばれたのです。
更に、「碧石」或は「青石」です。
セメン質(石灰質)のこの「青石」には、「二大墓」の墓石に書かれない人、例えば、各種の妻や妾等のその家に子孫を遺す事に関わった女性の者の「墓石」として、これらの者の俗名と戒名と享年とを書き記するした「簿石盤」が墓所の横に設けられる「仕来り」が有りました。
家の番頭の様な献身的に家に献じた人を褒め称える為に建てる「碑」などはこ青石(藍石)を使われるのもこの慣習から来ています。
この「青石」にも、詳しくは論じる事を避けますが、「仏教的意味合い」に合ったものを持っていました。
中でも、決して、「仏教的意味合い」から「色付き」は用いられませんでした。
「青藍色」は「空の色、即ち、天色」と同じとして「自然の色」と見做されていました。
これら「三つの石質」は「宗教的概念」があって,その概念の根拠は「河原の石」にあるのです。
この「河原の石」は「現世と彼世の間」の間の環境を物語る一つのものとして考えられていたのです。(宗教的に川が持つ意味)
特に「密教浄土宗」、取り分け「和魂荒魂の古代信仰の影響」の受けた「古来密教浄土宗」はこの概念が色濃く残っているのです。
詳しく論じる事は別の機会にするとして、簡単に云えば、民が河原の付近に土葬する習慣と、その墳土の上に河原の丸く成った「砂岩」を載せるのはこの事から来ているのです。
従って、「讃岐秀郷流青木氏」の様な場合には、この古来からの「宗教的な慣習仕来り」にあり、この様なところが随所にあった筈なのです。
この「墓石の仕来り」は特には「墓所」にはよく見られたところです。
依って、「古い墓所」にはこの形跡が遺っているのですが、これらの知識を以って見れば”違う”とすぐに判別できます。
中でも「石質」は「墓所の構造」以外よりも顕著に出ています。
「花崗岩の墓石」は、「浄土宗」は平安期からこの上記の「仕来りの傾向」を色濃く引き継いでいますので、特に宗教的概念からも当初は忌み嫌われていた事からも「明治期の慣習」に依るものなのです。
(密教顕教共にこの仕来りがあった。)
故に、「江戸期中期以降の墓所」や「明治期の墓所」と違って、はっきりしています。
前回のお便りの一つはこの一つだなと思いました。
お家の父上も、お便りの中で、異変を感じられていたようですね。
「狛犬の翁」
>三間地域で庄屋をつとめたもう一つの青木氏・『吉波の武田氏系青木氏』と狛犬の・・の件です。
恐らくは、「村主とその村人との関係」が深かった事から、「苗字令」に伴い「青木氏」を名乗ったと思われ、その恩義で、その[狛犬の翁」たちは何とか自分たちの「生きた絆証」を一つの「真面な形」にして遺そうとしたのではないでしょうか。
実は、この「武田氏系土佐の青木氏」の宗家もお家と同じく「讃岐秀郷流青木氏」の保護の下で戦い生き延びて来た一族です。
現在は衰退し跡目が無くてその宗家末裔は遺されていない事が判っています。(研究室にも記述)
恐らくは、このお話では納得できるところがあって、甲斐から来た人々が結束力が強く宗家本家を盛り立てて、一時、江戸期まで”「青木村」”までを形成して生き延びて来た事は判っています。
この「お話の翁」にしても「狛犬の件」にしても、恐らくは何とか自分たちのその「生きた絆証」(村主と村人との絆の関係)を遺そうとしたことだと思います。
まず間違いなくこの事に関わっていると思います。
「左三つ巴文様」
> 今回、新たに発見された『三間左三つ巴青木家』もまた、『曽根庄屋青木家』に関係した同様の一家ではなかったかと想像します。あるいは伝えられる狛犬の翁のように神社の世話をする一家で、故に青木姓を名乗った際に『左三つ巴』紋を選択した、とも考えられます。
上記の事からも先ずお便りのお説は当たっていると考えます。
「第三氏の青木氏」であろうと、上記の「墓所の仕来り」等に従って「生きた絆証」を遺そうとした「秀郷流青木氏」であろうと、何れも「生きた絆証」(「村主と村人」との「絆の関係」)を遺そうとしたお話では無いでしょうか。
「春日神社」
>実は『昔神社があった』とされる裏山には、『左三つ巴青木家』から見て山のちょうど反対側にもう一つ、今も神社があります。隣の集落の人びとによって守られているその神社は『春日神社』であります。
この「春日神社」は、「秀郷一門の守護神」ですから、その四国に於いて、「春日神社」を創建し管理維持するには、正規に「神職の配置」を受けなくてはなりませんし、一門から「春日神社の認可」を受ける必要があります。
だとすると、お家だけでは難しいと観られ、この「守護神の建立」は、経緯から、その「創建の財力」や「維持管理費の財力」、又、「建立する宮大工などの職能集団の協力」を得なければなら無い訳ですから、それができるのは、上記した「軍監役の青木氏」の下で創建されたものでなくてはならないと考えられます。
つまり、この隣の集落の地域にはこの「軍監役の青木氏」の本家筋が住んでいた事に成りますね。
そして、元を質せば、お家達も秀郷一門ですから、形上ではこの神社の氏子組織に加えられていたのではないでしょうか。
だから、「狛犬の翁」のお話も含めて、通じるものが出来るので、村人も「苗字令」の下で「絆の形」を遺す手段として、以前より文様の有り様を記述しています様に、所謂、「左三つ巴紋」であったのだと思います。氏に関わった人の明治期のこの「文様の使い様」は間違っていません。
(「巴紋の持つ意味」を捩じらないで正しく評価すべきで観えるものも見えなくなります。)
一族とそれに付随した民も「絆」を基に、この「文様の有り様」の「古来からの秀郷一門の氏の仕来り」に従ったと観られます。
>我が家はもちろん、曽根青木、吉波青木など江戸期に庄屋をつとめ、比較的伝統を守りやすかったと思われる家の墓地でも、この仕来りは守られておりません。
さて、「仕来り」が護られていない事に関して、そのお家の前提が「第三の青木氏」では無いと定めた上での論調ですね。
確かに「第三の青木氏」でなくても、この慣習に従えない事は他にも沢山あります。
お家の様に、宗家筋とは離別して別行動で紀州から讃岐に移動し、更に四国では「土佐州浜紋」の本筋とは、更に別行動を採り、更には、「家紋や慣習仕来り掟」なども「錯誤忘却」しているお家であるとすれば、果たして、この「墓所の仕来り」は護り得たでしょうか。
何で、「絆の第三氏青木氏」と同じ状態と成ってしまっている「家紋」や「家の慣習仕来り掟]も判らなくなっているお家が、何で墓所の様な「面倒な仕来り」を護り得たでしょうか。
そもそも、何で土佐郡の土佐村に「土佐州浜紋の本筋」があるにも関わらず、忘却し何で「墓所の仕来り」だけは護れたのでしょうか。護れなかった筈ですではありませんか。
二度も本筋と「離別の状態」であったお家が「墓所の仕来り」を護れたでしょうか。不可能です。
「墓所の構造」をまず検証する前に、最早、その答えは出ているのではないでしょうか。
前回にもお答えしました様に、墓所のある場所にしても,慣習外の幾つも墓石がある事や、ご指摘しました墓に刻まれた年代の矛盾も、「歴史観」に沿う整合性がなく矛盾が目立ちます。
矛盾が在るのにどんどんと「自己の前提」を正として「ルーツの検証」を進めるには先ず無理が在るのではないでしょうか。
「ルーツ探究」と「先祖の生き様」には、これを解決しながら徐々に進めて先ず解決される事でしょう。
では、はっきりと申し上げます。
お家は前回までのお答えと、上記の事と合わせてその経緯の激しく著しい事の結果、「錯誤忘却」が完全に起こり、この結果、今回のお便りの様に、要するに、江戸末期から明治期に行った”「後付”の行為」の結果であるのです。
前回にも、それとなしに暗示させてお答えしました様に、明治期には、「家柄誇張のブーム」が起こったのですが、この時にこの様な行為が、特に、農民と同じ様に成って仕舞った”「格式」を忘却したお家の様な過去に「其れなりの家柄」をお持ちの家筋の人々が行った行為なのです。
ですから、何度も「錯誤忘却」と申し上げています。
ただ、「過去の家筋」は「州浜紋の近江脩行系秀郷流青木氏」で、紀州から南北朝の騒乱で、「讃岐秀郷一門」を頼ったお家であると申し上げています。
そして,お家のこの様な「錯誤忘却」の様な事では無く、一切の「青木氏の伝統仕来り掟」と「朝廷職務」までもを明治期までに護り通した本筋の「土佐州浜紋の青木氏」がありますよ。と云っています。
では、お家の前提と成っている”江戸期には庄屋”と云う事が証明されていますでしょうか。
明治期には,前回にも申し上げましたが、地租改正等で、庄屋が庄屋で無く成り、逆転して「庄屋」で無かった者が力を持ち得て”「庄屋」”として振る舞う現象や、「家柄誇張」の為にその勢いから”「庄屋」”と吹聴して庄屋に成り切った者が明治初期には沢山起こったのです。
筆者のお付き合いしていた深い親交のあった庄屋の家の「小作人」でしたが、地租改正で得た無償の広大な土地を利用して酒造りを営み成功して、土地を無くした「元庄屋」は余りに衰退し土地に居られなくなり他の地に移動して仕舞った結果、この力を得た「元小作人の者」が「庄屋」を振舞うと云う事が起こったのです。
現在もこの家は「製酒業]を手広く営み、元庄屋家の広大な家と土地を買い取り、今でも家柄を誇張し搾取して「庄屋気取り」で居ます。
今では何と”「庄屋」であった”と吹聴している有様です。
この様な事は各地でお起こったのです。
その為にこの逆転現象で庄屋などが明治期に結束して各地で動乱を起こした位なのです。
有名な5年も続いた「伊勢動乱」や紀州や信濃などでも激しい反対運動が起こりました。
然し、この偽庄屋のことは昔を知っている一部の我が家などはそうでは無い事が判っています。
ですから、以前のお便りにも何度も書きましたが、前提を「庄屋」とする以上は、先ずそれを証明すべきところから始めるべきではありませんか。
「庄屋]であれば、要するに”歴史伝統を深く持つ「庄屋」”であるのですから、「伝統」を遺しているのが「庄屋」ですから、それを証明する「物的証拠」や「伝統継承の慣習仕来り掟」等が最近まで少なくともあった筈ですよね。
其れだから”「庄屋」”なのですからね。
「神助紋」を「家紋」と云うほどに無い訳ですから、又、物的証拠も無い訳ですから、後は、「「明治初期の戸籍簿」をご覧に成れば、「お家の明治初期の家筋身分格式の事」が簡潔に書かれていますので、それを確認するべき事から始める事ではありませんか。(戒名でも判ります。)
同じ「神助紋」を「第三の青木氏」が「絆青木氏」として使用していますよ。
この事をどの様に思いますか。「錯誤忘却」でなくては説明はつかないと思いますが。
今回、お便りのあった「武田氏系青木氏」と土佐郡の「土佐州浜紋の青木氏」とは、同じ様な戦乱の荒波に揉まれたながらも、衰退は本家筋は衰退はしましたが、この「青木氏の慣習仕来り掟」を現在までも護り通していますよ。
「錯誤忘却」はありません。
四国には、次ぎの青木氏が定住しています。
1 讃岐に、「下がり藤紋に雁金紋」の「讃岐秀郷流青木氏」
2 土佐に、「花菱紋」の「武田氏系青木氏」
3 阿波に、「片喰紋」の「秀郷流青木氏」
4 阿波に 「剣片喰紋」の「秀郷流青木氏」
5 阿波に 「藤原利仁流青木氏」
6 讃岐全域と土佐北と伊予東には、「第三の絆青木氏」(讃岐秀郷流青木氏の絆青木氏)、
7 土佐北東に 「土佐州浜紋」の「脩行系秀郷流青木氏」
8 伊予東ー土佐国境に 「脩行系秀郷流青木氏」
9 「秀吉の青木氏」が「第三の青木氏」に混在している可能性が有る。
1から5まではその「ルーツの論処」は明確に成っているのです。
お家が失い錯誤した事を、維持して来た「武田氏系青木氏」を述べられる時に気づくべきでした。
そこで、お父上が四国の青木氏の云々をお調べに成っていてお便りに述べられていますが、四国の青木氏については、上記通り詳細を承知していますので、ご質問頂くなどしてご利用ください。
研究室やHp左メニューにも論じていますので、ご覧下さい。
>裏山の五輪の塔とオカルト話
お便りの「五輪の塔のオカルト話」は、どこの「青木氏の定住地」でも良くある話ですが、根拠が無いにしても面白いですよね。
然し、意外にこの中に「青木氏」を物語るものが潜んでいて、それが引き金に成って一つの[先祖の生き様」を浮き彫りにする事が出来る事が在ります。
筆者もいろいろと調べているとこの様なお話に出くわす事が実に多く、その事で重要な史実のキッカケを掴んだ事もあります。
情報を集める際には、色々な種類のマニア集団の方の協力を仰ぐ事が在りますが、この時は、この様なお話も逃さないのが解明の秘訣なのです。
特に、明治期は、ある種の「社会的な反動ブーム」が有って、それが元である種の恣意的な思惑を込められていて「純真性」が欠如して、「伝統伝説」と成り得ない事に成るのであまり参考にはならないのです。
江戸期中期前のこの様なお話には、恣意的な思惑が少なく純真性が豊かで有って、ある種の意味を持っている事が多いのです。
金太郎や桃太郎や浦島太郎などもこの様な地方豊かな話からそれを基にした形での童話と成っているのです。
この度の「明治期のオカルト話」はその意味で参考には成り難く、ただ当時の恣意的な社会的反動ブームの影響を受けていて、例えば家柄誇張などの為に,この様な作り話を仕立てて恣意的にその様な口伝を遺して強引に搾取行為で家柄をよく見せてしまうと云う事が殆どです。
ただ、この「オカルト話の結末」は、「お家の推論」は当たっています。
まず間違いは無いと観ます。
この時期の典型的な「搾取のオカルト話」ですね。
恐らくは、このお話も、意味が無かった訳ではなく、そのような搾取を目的とした恣意的行為の意志を持っていた事を証明しています。
つまり、「お墓の慣習」が継承されていないのに、「お家の伝統」が悉く消失しているのに、墓所の位置,構造、石質等の諸々の事が護られずに、先祖の個人墓を並べているなどは,恐らくはこの過去の消失した家柄を呼び戻そうとした恣意的行為であった事は間違いなく、偶然にもお便りでそれを証明した事に成ります。
「二つの青木氏の定住地」では、態々、この様な無茶な事は余り見つかりません。
他の研究室の論文をお読みに成ると判りますが、「青木氏の伝統」では、その立場上から華々しい行為やパホーマンス絶禁の事柄できつく戒められていた事柄です。
「青木氏の人家の品格」は華美を避け質素を旨とするものです。
(研究室論文に詳細記載)
その為の「習慣と仕来りと掟」が有って、「嵯峨期の青木氏の習慣や仕来りや掟」の「模倣行為」を禁止していて、明治期の初期まで護られて来ています。
その意味からも、四国の「青木氏」でのお家のお便りには違和感を覚え当初から疑問に思っていた処です。
筆者も、「四国の青木氏」を綿密に調査した事が在りますが、”何故、この様な事が起こったか”と云うと、ここに、厳密に云うと、他の「青木氏の定住地」から江戸期までに「四つの青木氏」が本来の「二つの青木氏」の中に,逃避して入り込んだ結果であると観られます。
その為に、余りの苦難からも「伝統や慣習、仕来り、掟」の継承が不可能と成り、消失し、その結果、「錯誤と忘却」の末に「搾取誇張」が起こってしまったと考えられます。
お家の場合を含むこの「逃避の青木氏」は「第三氏の青木氏」とは異なり元を質せば、列記とした「家柄や伝統]を持ち得ていた事があって、そこから、「過去の家柄」を思い出して取り戻そうとした行為の結果であると観られます。
其処に、「無理」が伴ったのです。
お家も頑なに訂正せずに「左三つ巴文様」などを「家紋」としている事のそのものがその典型的な行為です。
今回のお便りの「絆」を継承した「第三青木氏のお話」とその「左三つ巴紋の家紋扱い」はそれを証明しています。
お家の追伸にありました様に、「青城や仰木や葵木や青儀や青樹や蒼樹や藍木」等の姓が周囲にある事は、明治初期に周囲に可成り大きく「絆の第三青木氏」が発祥した事を物語る証拠です。
青木そのものを使う事は憚られるとして、「青木氏」に関わった「絆の村人」は上記の様な「あおき姓」を名乗ったのです。(研究室参照)
直接、「青木」を名乗った者は、「村主等の青木氏」と何らかの「直間的な関係」が深くあり名乗る事を許された者で,この「第三の青木氏」は「血縁青木氏」に対し「絆青木氏」と呼ばれ、「青木氏の定住地」には必ず存在します。
例えば、「青木氏の職能集団」であった「青木氏部」の人達が名乗りました。
従って、この事からこの「青木氏」が周囲に存在する事は、「青木氏部」が周囲にあった事に成り、返して云えば,四国で云えば、”「讃岐秀郷流青木氏の本家筋」”が周囲に居た事を証明する事にも成るのです。
この「職能集団」がどんなものであったかは兎も角も、周囲には神社や仏閣なども建立させられる事が可能な環境であった事にも成ります。
と云う事は、何度も申し上げています”「神助紋」”の「左三つ巴紋」を使える「第三の青木氏」が周囲に居た事も示しています。
恐らくは、「第三の青木氏」を名乗る時に主家筋から秀郷一門一族に「絆」で深く関わった事を示す為にも「青木氏や神助紋の使用」を、むしろ「主家筋」から「許可された」では無く「依頼された」事が起こった事を示しています。
つまり、お家のお便りの「狛犬の翁」の一寸したお話も,この事を「逸話」として遺そうとした事を物語っています。
逆に、「狛犬の翁」のお話は、今までお答えで論じて来た事の内容、況や「第三の青木氏の存在」と「讃岐秀郷流青木氏の存在」と「左三つ巴紋」と「守護神と菩提寺」等の事を物語る「環境]があった事を物語る事に成るのです。
この事は研究室でも詳細に論じています。
「絆の第三青木氏」では無い「州浜紋の近江脩行系秀郷流青木氏」が「左三つ巴紋」を家紋としている事は「絆の第三青木氏」と、一切の「伝統や慣習仕来り掟」を失って仕舞った事で、全く同じ事に成ります。
寸分違わない「見分け」が就かない事に成っている訳ですから、「錯誤忘却」だと申し上げています。
明治初期の戸籍簿で”庄屋”を確実に証明できなければ、お家は「絆の第三青木氏」と云う事に成り、これを覆す一切の証拠は無い事に成ります。
(”庄屋”であれば何らかの「伝統と慣習仕来り掟」などは現在でも遺されている筈)
今回の「青儀」の存在の情報の事で、お家の事が浮き彫りに成っています。
今回のお便りにも在ります様に「狛犬の翁」たちの「絆の第三青木氏」の「左三つ巴文様」の「家紋の使用」は、「藤原秀郷流青木氏の氏の巴文様」の「神助紋の意味合い」からも使用には問題はないのです。
慣習仕来りを同じくしたお家に問題があると申し上げています。
あくまでも「錯誤忘却」なのです。
無理に家柄を証明しようとしての明治期に起こった様に、再び、証拠に基づかない同じ「作り上げの行為」は避けるべきです。
当に、今も「人の業の成せる技」に填まっているのではありませんか。
お家は、「州浜紋の近江脩行系秀郷流青木氏」である事には間違いは無いのです。
足元の「小さな伝統」も消失ていて「錯誤忘却」しているのに、無理に掘り下げても出て来る事はお家の場合は先ず無いと思いますよ。
既に、土佐に「土佐州浜紋の青木氏」が「青木氏の伝統」を継承していると申し上げています。
この意味をご理解ください。
「祈祷師」や「山伏」と「五輪の塔」の経緯はお家が推理される事は間違いないと思います。
「お家」にしろ「第三の青木氏」にしろ、「五輪の塔」や「狛犬の事」に関わらず、その家柄などを誇示できるものを使ってのパポーマンスの末路であるでしょう。
明治期にはこの現象が「一種のブーム」であったのですから、四国も例外は無かったと観られます。
人誰しも何時の世もその”さが”から考える事は同じです。
特にお家は、家紋なども含む「伝統」と「慣習仕来り」の「忘却」の中にあって、何とか「過去の先祖」の「呼び起こし」には、「第三氏の絆青木氏」と違い大変な思いを持っていた事が伺えます。
さて、「墓の構造」のお問い合わせ依頼には、残念ながら本サイトを超えての直接のお答えはルール上する事は出来ません。
構造の前に「石質」で充分に決まりますよ。
お答えが無くても大方の推理も付きます。
江戸初期から現在まで365年として「砂岩」であるとすると、先ず可成り朽ちている筈で苔むしている状態で手入れなしでは年代なども判らなくなっている筈です。
柔らかい「砂岩」の性質上から割れて破壊が起こっている筈です。
仮に、「五輪の塔」なる物がお家の御先祖の累代先祖墓であったとして、放置されていたとするならば、或は土中に在ったとするならば、到底、「砂岩」では無理な話です。
恐らくは、お家が推理するパホーマンスがあっての事であると思います。
依って、全て明治期から使用された「花崗岩(御影石)」では無いでしょうか。
更に、いくつもの「墓石」があったとするならば、365年の江戸初期のものと明治期のものとは違っていて、「石質」は同じと云う事には成らない筈です。
ご依頼の「墓所の構造」の検分に関しては宗派に依っても違っています。
お家が「浄土宗」では無くて、「浄土真宗」か「曹洞宗」かの宗派であったとすると、特に「仏ごとの墓石の慣習」は「顕教]であるので原則ありません。
特に、真言宗の中での真宗や曹洞宗であるとすると、真宗は前回にも述べましたが、「厳しい仕来り]であったので「個人墓」では無く「先祖墓」だけです。
更に、この累代先祖墓も宗派概念からも無く、五輪形式のものではありません。
「仏像」も極めて限定的に認める物で原則禁令です。主に「仏画」を使用します。
この事からも、「五輪の塔」は明治期のものである事が判ります。
とすると、「石質」は「花崗岩」です。
「武士階級」や「庄屋身分」であるとして、「お家の仏壇」には「仏画」をお持ちですか。
この「宗教仏画」が無ければ、江戸期には「五輪の塔」も無かった筈です。
如何ですか、お便りにはその形跡の「雰囲気」が無いところから、「仏画」は無いのではありませんか。
あるとして、その「仏画」に何を書いていますか。
これでも判りますよ。(詳細は研究室で論文として論じている。)
以上、ご理解ください。
庄屋の件も是非、明治期初期の本家筋の戸籍簿をご覧ください。
もう少し、前のめりに成らず一つ一つを証明しながら進む事をお勧めします。
個人情報に関わる事は避け、青木氏全員にその歴史観を持ってもらう為に,敢えて基本的な知識を論じています。今回もその様にしましたのでご了解ください。
東京の青木さん 今日は。
お久しぶりです。
お便りを読まして頂きました。
そうですか。是非、一度深谷にお参りしてください。
さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、先ずお答えから致します。
全く、関係がありません。
それには、次ぎの様な理由がはっきりとあります。
1 この「八坂神社」は「産土神」です。「祖先神]ではありません。
「青木氏が守護神とする神」とは全くその出自が異なります。
研究室に「青木氏の守護神と神明社」の論文にもその根拠が記述していますのでお読みください。
「青木氏」は、「自然神」の系列の主系に所属する「皇祖神の子神」の「祖先神」を「主神」としています。
判り易くする為に簡単に云いますと、奈良期から平安初期頃には主に次ぎの「3つの神格」がありました。
(分類には他説もあるが、判り易くする為に次ぎの様に分類出来ます。)
A「自然神」系列の「皇祖神」−「祖先神」・・皇位の族が守護神とする神格
B「産土神」系列の「祇園社」等・・・・・・・・・・皇位外の族、又は、豪族等が守護神とする神格
C「道祖神」系列の「稲荷社・一般社」等・・・土豪とそれに所属する民等の者が守護神とする神格
以上の三つに分けられました。
(注釈 この三つは「社屋の建立方式」も三様式で異なっています。)
我々の「青木氏」は、「皇族賜姓族五家五流青木氏」でありますから、「自然神の伊勢神宮」に所属する「Aの継承族の主氏」で、且つ、「御師」で「氏上」です。
つまり、「祖先神の族」です。
2 「八坂神社」は元は「祇園神社」です。
イ 明治期の「神仏分離令」に依って改名されたものです。
何故、この様な「神明社」(自然神・皇祖神)の近くに「祇園社」(産土神)が祭祀される事に成ったのかですが、後にある「歴史的な経緯」があって、この様に「合祀状態の事」に成ったのです。
それは、前回にも記述しましたが、「神明社」は室町期末期頃から戦乱でその経営が難しく成り、止む無く対応策として「他の神格」を併呑する事で、”人を集めて”維持して来たのです。
中には、「神格」に「仏格」を「習合」させる事が頻繁に行われました。
然し、明治初期には社会体制が「武士階級の氏家制度の封建社会」から「庶民の自由社会」へと変化しました。
その為に、明治初期の「廃仏毀釈」の破壊運動が起こり、遂には、「神仏分離令」(1868年)と「大教宣布」(1870年)が出されました。
簡単に云えば、この現象が余りに酷かった為に、”「宗教」と云うものを訳解らなくなる事を避ける為にはっきりさせよ”と号令を掛けたのです。
この「深谷の神明社」も例外では無く、且つ、伊勢より遠くに位置する為に「守護神]とする「青木氏の保護」も受けられる事が無く、結局は「合祀・併呑・習合」の経緯を辿りました。
依って、「深谷の神明社」は、他に無い「悠久の歴史」を持つが故に、「祖先神」が「祖先神」で居られたかは別の問題で、大きな遍歴を持っているのです。
当然に、「神明社」で居られたかも同様であって、「お家のルーツの本元の郷」と成る「伊勢の青木氏」に執っては、”遠くに居る親族”を気遣う気持ちでいっぱいでした。
この様に「社の在り方」に「多少の遍歴」はあったものと考えられます。
その一つが、この「八坂神社(祇園社)の合祀」がも知れませんね。
室町期からの”京の祇園精舎の鐘の音・・・”で全国的にも有名を馳せた「八坂神社(祇園社)の影響」を強く受けていた事は否定は出来ません。
然し、お家の「青木氏」に執っては別物です。
ロ その前の江戸初期には、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は奈良期から建立を始めた500社近くにも成る「神明社系列」を協議の結果、一切を「青木氏」より「徳川氏」に引き渡しました。
この後に、「徳川氏」に成って、その管理が行き渡らずに荒廃し、中には無く成ると云う事も起こる始末でした。
この時にもこの現象が著しく起こったのです。
汎神的な「八坂神社の産土神」と違って、「神明社の祖先神」は独神的な「青木氏だけの守護神」であった事からも、平安期までの社会体制と異なり、「江戸期には氏家制度」は変化して、伊勢青木氏からの保護があったにせよ「生きて行く事」は難しかったと考えられます。
恐らくは、前回の記述でも書きましたが、「柳沢吉保が建立した神明社」も「別の配慮」からもこの事が在って、見兼ねて「伊勢青木氏」に執って代って別に二か所に建立したのではないかとも考えています。
つまり、この時期がこの「深谷の神明社」が最も荒廃していた事も考えられます。
殆どは、この苦しい時期に勢力を各地に「祇園社勢力」を「八坂神社(祇園社)」として拡げていた事もあって、殆どが「八坂神社(祇園社)」に成り得ていた事もあり得ます。
(八坂神社の呼称は明治期の事)
それを「甲斐の青木氏」の吉保がこの地の藩主に成った処で、「青木氏]から引き継いだが荒廃が続く状況を憂いて「江戸幕府の後押し」もあって別に「神明社」を建立した事とも考えられます。
何故、吉保が敢えて「神明社」を建立したかは、確かに彼は「青木氏」ではあったが、筆者の主説はこの説を採っています。
ハ 室町期の戦乱では、戦禍に晒されて「神社仏閣」は、その「戦いの戦略上の拠点」と成りましたので、消失し「荒廃の憂き目」を受けました。
この時、「庶民」たちは、その跡地に今度は「信仰の拠点」として、「祠等」を建立して「他の神格」(産土信仰・道祖信仰・毘沙門信仰・荒神信仰・稲荷信仰)を祭祀して信仰を維持しました。
「甲斐柳沢」の「青木吉保」は、この領民が尊厳し信仰する姿勢を観て、自らも「民の祠」だけで放置せず「幕府の建立許可」を得てでも「正規の神明社信仰」を呼び起こそうとしたと考えられます。
他の国に比べて多すぎる武蔵にこれだけの多くの江戸期の「神明社」(4)、或は「神明神社」(12)がある事がこれらの行為を物語っています。
況して、この悠久の歴史を刻むこの「深谷神明社」は、この武蔵の地域に前回にも記述しました様に、多くの「神明社」も建立されましたので、その経営は大変でしたし、秀郷流一門の中での在籍国で、更には、「柳沢吉保」(青木吉保)の「神明社」もあるのですから、武蔵は武蔵で大変でした。
これらの「多くの信仰体」は関西から発祥していますので、関西は関西でもその存立競争には「相当な財力」が必要でしたので、関東とはまた違った厳しさの現象が起こったのです。
幸いに「関西の近畿圏」では「青木氏の商いの莫大な財力」がありましたので、主な「神明社」は、社寺を建立し管理し修理する職能集団の「青木氏部」と云う者を独自に持っていた為に何とか保てる事が出来ましたが、「分社の神明神社」は残念乍ら同じ様な事が起こり難しかったのです。
「京の八坂神社」や「難波の住吉神社」の様に、この現象は何処でも起こっています。
兎も角も、「神社仏閣」の事を論じる場合には、長い悠久の時間の中で「大きな歴史的遍歴」を受けていますので、これを度外視して判断する事は避けなければなりません。
筆者も青木氏を研究する中で避けて通れなかった位に、これには一つの「宗教歴史論」が出来ているのです。
又、「氏族」の「青木氏の歴史観」は、他姓の「姓族」とは異なり単純閉殻には行きませんので、上記する「歴史的な遍歴」(歴史観)も強く受けています。
依って、以上の「三つの神格の区分け」と「仏格の区分け」をして考えてください。
以上の事は根本的に異なるところですが、3として前回にも記しましたが先ず、根本的にその「時代性」が異なっています。
又、その「祭祀格の氏族」が全く異なっています。
「八坂神社」は論評を避けますが、「祭祀格の姓族」が主格に成っています。
又、その「祭祀方法」も全く異なっています。
「神明社」も「八坂神社」も「神社」であるから”何もかも同じ”と云う事は無いのです。
分けて考えるのが通常です。
「上司の方」が云われている様に、「神社仏閣」に付いては、何処も同じく考える事は間違いなのです。
以上の様にこの経緯からしてもこの事は度外視してください。
先ずは、お便りを読破してご理解いただきます様に。
その中で今回の様にご質問が生まれましたらお便りください。その都度、詳しくご説明します。
「荒神」や「産土神」や「道祖神」等の事に付いても研究室でも詳しく論じていますので、是非お読みください。
最後に、お参りに関しての事ですが、どの様に解釈するかは自由ですが、ただ単に「氏の守護神」と云う事だけでは無く、「お家のルーツ元」であると云う事です。
「ルーツの家」であり、且つ、お家は「神道」なのですから、つまりは、「お家の墓所」になるところなのですよ。
”お墓にお参りに行くのと同じ意味”を宿命的に「お家」には他人と違って持っているのです。
そもそも、”関係ないから、或は、意識しないで”と「他人のお墓」にお参りに行く人はいないと思いますよ。
我々の祖先の「青木氏」は、そもそも、「日本のルーツ」が8000にも成る中で、その中で40にも満たない朝廷が認めた「氏族」で、且つ、その中でも「皇族賜姓族」でありますよ。
そして、お家はその中でも純然とした「柏紋一族の青木氏」です。
「青木氏と云う厳しい慣習」の中で生きて来た数少ない末裔です。
そもそも、「上司の方」の云う判断基準の「姓族」ではありませんよ。
では、又お便りをお待ちしています。
こんばんは。
ご返信に時間がかかり失礼致しました。
先ほど気づきまだ途中までしか読めておりませんが、
こんなにも色々とお教えいただきありがとうございました。
まず、深谷、所沢、川越の神明社に行ってみます。
しっかり読みこませていただきますが、
先に1つどうしても聞きたいことがありご返信致しました。
深谷の神明社のサイトを見たのですが、八坂神社の写真も乗っていました。
八坂神社は何か関係があるのでしょうか。
というのも、八坂神社は、天照大神ではなく、
祀っているのは素戔嗚尊だったはずです。
実は、会社の上司にこのサイトのことを話す機会があり、そこで以前の話から自分はお参りをする際
天照大神の祀っているところにお参りに行くべきだと思うという話をしたことがあります。
大変尊敬している上司であり、且つ神社に詳しく、表現が正しいかわかりませんが、スピリチュアルについて詳しいことから
上記のような話しました。
しかし
その上司から、青木は素戔嗚尊と何か関係があるので、とらわれる必要はないのではないか
と言われたことがあります。
上司が何故そんな話をしたかというと
私の今の家の近くには牛嶋神社があり、
子供の頃は家の近くに八坂神社がありどちらも、素戔嗚尊が祀られているからという理由です。
もはや、青木氏とは関係のない話なのでこの質問をずっとしようかどうか迷っていましたし、
天照大神が祀られている神明社にお参りする必要性を感じていたのですが
いただいた深谷の神明社に八坂神社があることから、驚きのあまり質問させていただきました。
お元気でしたか。
良くお調べに成っていて驚きます。
今回のお便りには、若干疑問点があって、お答えに窮するところがあります。
では早速、感じるところを述べますが、もう一度、検証して観られる事をお勧めします。
>以前ご報告した『曽根庄屋青木家』(天台宗・宗光寺を菩提寺とし、現在は家系の絶えた青木家)が存在した『三間町曽根』、その住宅地図を入手・捜索しておりましたところ、『青木姓』を名乗るお家がもう一軒、旧庄屋青木家のごく近くに現在も暮らしておられることが判明しました。
上記の事は「明治期の事」の様に観られますので、次ぎの事に注意すべきです。
この推理には、次ぎの「江戸期前の慣習の租借」が欠けていると観られます。
明治期前までは、つまり、”「棲み分け」”と云う慣習がありました。
同じ所に別の出自の青木氏が住むと云う事はありません。
他氏は、兎も角も、少なくとも「青木村」を形成できる権利を持っている「青木氏」に関してはありません。
一族で無いのに、「別の青木氏」が”近くに住む”と云う事は本来はありません。
あるとすれば、それは、「明治期の苗字令」に依って名乗った「第三の青木氏」である事に成ります。
以前にも記述しましたが、離れては、江戸期末期に掛けて起こった「武士の家の名義買い」がありますが、本件の場合は、これでは無いと観られます。
明治3年と8年に庶民には、「苗字」を持つ事を義務付けられましたが、なかなか進まず、結局は、8年後迄ずれ込みました。
そこで明治政府が採った「最後の唯一の手段」は、「周囲の郷士や郷氏の氏名」を半強制的に名乗らせると云う手段に出ました。
その時に、「青木氏と農業や職能での関わりのあった者」等に近くに住んでいた庄屋等の「青木姓」を名乗らせると云う事が起こったのです。
全国各地の青木氏が定住していた地域には、一夜にして「青木姓」が興ったのです。
この時、姓と共に墓所と家紋も持つ事に成りました。同じ家紋を使うと云う事が起こりました。
もう一点は、明治期の家の繁栄は、「氏家制度」でなくなり「社会体制」が異なった事と、「地租改正」で農民に実際に土地を無償供与で下げ渡された事とで、「地主の態勢」が明治9以降に裏腹に変化していますので、土地の大小は氏や家の大小を物語るものでは無く成りました。
このお話が明治期の事であれば、ルーツの探究から除外すべきです。
「曾根青木氏」又は「立間青木氏」とは,ルーツの違う「姓」の人が傍に住んでいたとすると、この「明治期の第三の青木さん」であると観られます。(前回に述べました)
「家紋」は同じとするも、明治期では判断材料とは成り得ません。
この青木さんとの判断材料は、「宗派」と「伝承の有無」と「明治初期の戸籍」と成ります。
未だ、何年も経っていないのに”「過去の伝承」が全くない”と云う現象ですが、そんなに「伝承」は急には消えません。
「家紋」に関わらず「神助紋 左巴紋」のみならず同紋を、中には”「藤氏北家総紋」”をも使うと云う現象が茶飯事に起こりました。
「左三つ巴紋」がお家の家紋とすると、全国各地にお家の親族が居た事に成りますね。
然し、「脩行系青木氏」が全国各地にもれなく存在すると云う事は先ずはあり得ません。
高野山や比叡山等や大きな春日神社に行ってください。
神社、祠,寺の掃天、神社の幔幕、神職の背、僧侶の袈裟の裾等にまでもこの「紋所」を入れていますよ。
明治には、其れも「墓所」にもこの「神助紋の紋所」を平気で使うと云う事も起こりました。
これ全部お家の御親族なのでしょうか。
>1.『三間左三つ巴青木家』の初代と推定されるものは『丸石』。元は五輪塔であった可能性もある。
>2.2代目と推定される墓は『天和二年(1682)』の年号だけが判別でき、墓の主や宗派等は不明。
>3.3代目と推定される墓は『釋 ◯ ◯』。
>4.分家の初代は『安永8年(1779)』。
>5.明治期まで『青木姓』を刻んだ墓はない。家紋も確認できず。また『三間旧庄屋青木家』の墓のような格の高い戒名も確認できない。
”「家」には「伝承」が無いのに「墓」にはある”と云うのも疑問ですね。
兎も角も「墓石の石種」を確認してください。「花崗岩での慣習」は明治期からのものです。
徳川時代前は宗教的概念に依って「砂岩」が主流です。
年代に付いては、明治期に「虚偽の搾取偏纂」が横行しました。
全体に疑問を持ちますね。
「青木氏」には、前回にも述べましたが、”三代までを祭祀し、50年ごとに累代の先祖墓の墓石に移す慣習”がありますが、この内容では、変ですね。
この慣習は護れていませんね。
お家が土佐郡土佐町から西の伊予に移動してから、既に、江戸初期まででも260年、天和迄でも350年も経過しています。
6代も済んでいますから全て「先祖墓」にある筈ですよね。
そもそも、どの様な慣習であったのでしょうか。
”家紋や戒名が無い”と云う事はどういう事を意味するのでしょうか。
その意味する処は唯一つです。
>3代目と推定される墓には 「釋」が刻まれていた。
>そうなりますと、当家に伝わっていた『三間の庄屋から分家した』という伝承も、あながち見当はずれではなかったことになりますし、以前の副管理人様のお返事に『曽根旧庄屋青木家と縁組があったのではないか』との推定があったことも思い出されます。それが別な、しかも意外な形で証明されたことになります。の文字があり、我が家の墓と同じく『浄土真宗』の形式をとっているのですが、そのすぐ隣に女性のものと思われる墓が立っており、これが戒名の頭に大日如来を示す『ア』の梵字が入っていることから、『天台宗』のものと思われるのです。
>二つの墓は、配置から考えてご夫婦のもの思われるのですが、夫が浄土真宗・妻が天台宗と違う宗派で埋葬されるということがあり得るのか、いささか奇異に思えます。
>しかも『三間左三つ巴青木家』の墓を見ていきますと、4代目以降の墓はすべて『ア』の梵字が入った天台宗形式となっているのです。
>そこで父が『お寺はどこか』とお尋ねしたところ、なんと『宗光寺』というお返事。やはり天台宗、それも『曽根旧庄屋青木家』の菩提寺であったのです。
「三代目の墓石」が未だある事が疑問ですし、三代目の時代の墓所の墓石に、浄土真宗の「釋」がある事にも疑問が残ります。
密教系、取り分け「浄土真宗」は、この時代には、ある事情があって「仏像の本尊」を置かずに、「仏画」を以て「本尊」としたのです。
況して、そもそも「路傍の石」「河原者」と云う言葉がある様に、「庶民」は墓所を持つ概念がありませんでしたので、庶民から武士までを信徒とする「顕教の真宗」で、差別して「武士」だけに先祖を殊更に祭祀する教義は持ち合わせていませんでした。
むしろ、「武士階級の墓所」には、真宗は「戒め」として特段に厳しかったのです。
その一つとして、先ずは「墓石種」を是非確認ください。
「家の伝統」が無いのに、「釋」等を刻印するのも疑問ですし、「墓石の刻印」や「墓石の数」(個人墓も無い)も同様で、「真宗」は止む無く武士には「祭祀の慣習」をより厳しく護らせました。
それで答えが出ます。
上記した慣習から記述されている事に付き、「お便り」に矛盾があって論じる事は難しいのですが、「夫の墓」と「妻の墓」が異なる事は、他氏には無い「青木氏の慣習」としてあり得ます。
(浄土真宗ではあり得ない慣習 矛盾)
一つは、「青木氏の慣習」として「女墓」です。
「本家」が行う慣習で、「累代の妻」の「戒名と俗名」が書き記された「別の横隣」等の処に設けられた「平面の墓石簿」の事です。
この慣習は、「嵯峨期詔勅の禁令」で「青木氏外」では使えない「浄土密教の慣習」で明治3年まで護られました。
二つは、「妻の出自」が、「家の出自」より高い場合に、「妻の出自の墓」を別に設け、何時しか、「妻側の姓」を嗣子の誰かに継承させる事を前提に、後に名乗った者に継承させる墓として用います。
特に一般的に、家柄の高い「妻の出自先」に「跡目断絶」等が起こった場合に、この「墓所」を設ける慣習がありました。
その為に宗派が違うと云う事が墓所に起こり得ます。
然し、この事で「天台宗」が「妻の出自先」であった事が判りますが、若干、「密教浄土宗の慣習」とにズレがありますが、これには「平安期の特令」があって、「皇族出自者」で「門跡者」や「斎王」に類する者が、「氏」を興した場合にはこれを認めるとしていて、この「門跡者」の殆どは「天台宗」に入信しましたので、「天台宗の女墓」があり得るのです。
この「女性」はいずれにしても、「皇族出自者」であった事に成り得ます。
この何れかの現象が起こった事を物語っています。
然し、突然に「女墓の慣習」は起こりません。
「女墓の戒名」とその「仏数」を観れば、これに相当するかは判別が付きます。
>『曽根旧庄屋青木家』の過去帳は立間・医王寺にあります。
>そしてこの『三間左三つ巴青木家』も現在、医王寺の檀家となっている、その事情も同じです
>『曽根旧庄屋青木家』とはやや距離を置き、宗派も一貫して浄土真宗であった『立間青木』とは一線を画して生きた一族であったようです。
先ず兎も角も、下記の事は何度も云う様ですが、[真宗」は「顕教」であるので、「寺」が同じであるから云って何の意味もありません。
「顕教の意味」が理解されていない様に思いますので、窮します。
又、合わせて「菩提寺」と「檀家寺」とは違いますよ。お家が云う「菩提寺」とは「檀家寺」の事ですよ。
根本的に運営形式が異なっています。
又、「過去帳」と「人別帳」とも異なっていますよ。お家が云うのは「人別帳」の事ですよ
「曾根と三間と立間の三つの青木家」は「何らかの血縁関係」を持ちながら、「独自の路」を歩んだ事は頷けます。
どちらが本家であったかは、その「伝統の継承如何」に関わり「財産の大小」は必ずしも一致しませんが、「独自の路」ともなれば、尚更の事に成ります。
宗派的には、「伝承」としては、「三間」(本家)と「立間」(分家)の「浄土真宗」が、ご本家筋一統、「曾根」の「天台宗」が、女系化した分家筋と、先ずは観るのが妥当と考えられます。
そして、「家の勢い」は曽根筋となるように観られます。
然し、ここで、仮に、「女墓」があったとすると、「曾根」が慣習的には「ご本家筋」と成りますので、真宗の「三間のご本家筋」は宗教的には本家筋であるので、矛盾が出ます。
更に、「土佐郡の土佐州浜の総本家」は何であるのかと云う疑問も出ます。
伊予側に移動定住した分家筋が、江戸期初期(最初の伊予の墓の年代の1670年頃まで)のあるところまでは知っていた筈で、「土佐郡の総本家筋」をさて置いて、「本家の動き」をするのかと云う疑問が起こります。
それだけに、「大きな末裔力」を伊予で作り上げたのでしょうか。
「三つの青木氏の宗派や墓所の内容」などが分かれている処を観ると、”「伊予本家」”を作る程では無かった事を物語っています。
何か疑問を感じます。
この内のどれか「一つの青木氏」が上記した様に違っている事に成りますね。
土佐郡の土佐村が紀州から讃岐に移動した「土佐州浜紋」の最初のお家の家筋、そこから国境に沿って伊予迄伸びた分家筋、その分家筋が江戸期に成って、三派に分かれ、上記の様な系譜を作ったと考えられます。
特に、「三間」「立間」「曾根」には血縁関係を持ちながらも「独自の路」を歩みその繋がりは薄らいだと観られ、その「三流」に「栄枯盛衰」が起こっていた。
そして、江戸期以降は、「土佐の土佐州浜の総本家」とは、「土佐」は土佐で{青木氏の断絶」が起こり、「家の伝承」はするものの「土佐姓]を名乗る事が起こるが、「青木氏の伝承」は護り通し、紀州からの「絵所領職」の「古来からの役目」を果たし、「独自の伝承」を遂げて、完全に伊予筋とは絶縁状態に成っていた。
と観られます。
今回のあるお便りから鑑みて、お家が伊予側に移動時には、そんなに距離が無い事から、未だ「土佐郡土佐村での慣習」が伝わっていたと考えられます。
しかし、”何で「土佐州浜紋」が伝わらなかったのか”と云う疑問が矢張り残りますね。
ここに、”「神助紋の左三つ巴紋」を使わなくてはならない何かが起こった”と考えるのが普通ではないでしょうか。
「錯誤忘却」としていた事も含めて「紋所の検証」が必要ですね。
今回の「推理のお便り」の「お父上のお便り」には、”「青木氏の慣習」に沿った検証が成されているのかな”と云う事が起こっています。
初代や二代目や三代や四代の墓石の普通の墓所が、現在も遺っていると云う事には疑問があります。
四国は、「宗派の総本山」ではありませんので、何か変ですよ。
本来であれば、「五輪の塔の累代の先祖墓」に移していると観られますし、特に、浄土真宗や天台宗や真言宗からの慣習から観ると、一寸変ですね。
ある一つの事が予測できますが、今回は確定は出来ませんので論調は避けます。
又、もう少し歴史観を用いて矛盾を解く調査をされた上で、疑問や不明点などが何かありましたらお便りください。
お返事を拝読いたしました。いつもながら鋭いご指摘に冷や汗の有様です。
前々回のお返事で『大洲・喜多地域』という新しい視点が加わったため、あわてて飛びついた挙句に出来上がった投稿でしたので、いつにも増して拙い部分も多かったと反省しております。当家の四国における移動経路、及び家紋については十分に納得いたしましたので、どうぞご寛恕いただければ幸いです。
ところでお返事をいただいた後、すぐにお礼とお詫びの書き込みをするのが筋と心得ておりましたが、今日まで遅れてしまったのには理由があります。
実は、故郷において現地調査を続けている父から、三間の『曽根庄屋青木家』付近において全く新しい情報を掴んだ、という連絡があり、その調査報告を待っておりました。
以下、ご報告させていただきます。
以前ご報告した『曽根庄屋青木家』(天台宗・宗光寺を菩提寺とし、現在は家系の絶えた青木家)が存在した『三間町曽根』、その住宅地図を入手・捜索しておりましたところ、『青木姓』を名乗るお家がもう一軒、旧庄屋青木家のごく近くに現在も暮らしておられることが判明しました。
三間町曽根の近郊には、我が家が明治期に縁組した親戚(こちらは青木氏族系の歴史的背景等のない縁組と考えております)がありますので、さっそく紹介していただき、父が訪問して参りました。
その結果、当家のルーツに直接つながる、非常に興味深い事実が数多く判明しました。
新たな『青木家』は、旧庄屋青木家跡から歩いて数分という距離にあり、父も当初は『曽根青木家の末裔であろう』と考えていたのですが、現地でお尋ねすると意外にも『違う』というご返事。
驚いて詳しお話をお聞きしたところ、古い伝承などはほとんど残っていないものの、まず次の事実が判明しました。
1.現在残っている家は分家で、本家はすぐ近くにあったものの家系が絶えている。
2.かつての本家は非常に勢いのあった家で、家の裏山など広大な土地を所有していた。
3.近くに『曽根旧庄屋青木家』が存在していたことは知っているが、あちらとは『別の家』と認識している。
4.『立間青木家』のことは全く知らなかったし、伝承もない。
そして最も注目すべき証言が次のものです。
4.家紋は『左三つ巴』。
これには父も仰天したそうですが、無理もありません。我が家と同じ『左三つ巴』を持つ青木家が、山一つ越えた三間町曽根に存在していたのです。しかも『曽根旧庄屋青木家』のごく近くというのですから、驚きも当然でしょう。
以降、こちらのお家を仮に『三間左三つ巴青木家』と呼称させていただきます。
父がこれまでの調査結果等をお伝えしたところ、先方は驚くと同時に『今になってそんな歴史が判明するとは』と非常に喜ばれ、現在も裏山にあるという本家・分家の墓地を見せていただくことになりました。草を刈ったり、文字が読みやすいように墓石を磨いたりと、大変なご協力をいただいたそうです。
以下は墓地の調査結果となります。
1.『三間左三つ巴青木家』の初代と推定されるものは『丸石』。元は五輪塔であった可能性もある。
2.2代目と推定される墓は『天和二年(1682)』の年号だけが判別でき、墓の主や宗派等は不明。
3.3代目と推定される墓は『釋 ◯ ◯』。
4.分家の初代は『安永8年(1779)』。
5.明治期まで『青木姓』を刻んだ墓はない。家紋も確認できず。また『三間旧庄屋青木家』の墓のような格の高い戒名も確認できない。
以下、墓石が点在しているのですが、並びの順があちこち飛んだり、あるいは無くなっていたりするものもあり、完全な復元は未だできておりません。
ただし一点、これまでの調査と合わせて非常に興味深いことが確認できました。
3代目と推定される墓には『釋』の文字があり、我が家の墓と同じく『浄土真宗』の形式をとっているのですが、そのすぐ隣に女性のものと思われる墓が立っており、これが戒名の頭に大日如来を示す『ア』の梵字が入っていることから、『天台宗』のものと思われるのです。
二つの墓は、配置から考えてご夫婦のもの思われるのですが、夫が浄土真宗・妻が天台宗と違う宗派で埋葬されるということがあり得るのか、いささか奇異に思えます。
しかも『三間左三つ巴青木家』の墓を見ていきますと、4代目以降の墓はすべて『ア』の梵字が入った天台宗形式となっているのです。
そこで父が『お寺はどこか』とお尋ねしたところ、なんと『宗光寺』というお返事。やはり天台宗、それも『曽根旧庄屋青木家』の菩提寺であったのです。
以前ご報告した通り、現在は宗光寺が無住であるため、『曽根旧庄屋青木家』の過去帳は立間・医王寺にあります。そしてこの『三間左三つ巴青木家』も現在、医王寺の檀家となっている、その事情も同じです。(実際には医王寺も跡継ぎが修行中のため、さらに遠い宇和町の寺にお世話になっている、とのこと)。
墓地については以上ですが、あともう一点『昔この裏山に神社があった』そうです。残念ながら『何神社』かは不明で、実は近年、お家を改装した際、神社の納め札と思われる文書が大量に見つかったのですが、調べずに焼却してしまったと。
あるいは『神明神社』ではなかったかと思われますが確証は得られず、非常に残念です。
現在のところ判明している客観的事実は以上です。ここからは推論となりますので、また分析・批判をお願いできれば幸いです。
まずは何よりも『家紋が左三つ巴』であること。
また我が『立間青木家』の初代が亡くなったのが寛文7年(1667)ですから、『三間左三つ巴青木家』の丸石の残った墓を初代、年号のある最も古い墓を2代目(天和二年(1682))と推定しますと、『最初に伊予南域へ移動してきたのが初代、その後、2代目の時に分家した』と考えて矛盾はありません。
すなわち、この『三間左三つ巴青木家』こそ、伊予南域における我が家の本家筋、と考えられるのです。
また墓とお寺の情報から、この『三間左三つ巴青木家』が『曽根旧庄屋青木家』と非常に近い関係を結んでいたことは明白とみられ、おそらく3代目当主の妻で天台宗の墓に葬られた女性は『曽根旧庄屋青木家』の方と思われます。そこから一家を挙げて天台宗に改宗していることからも、その関係の近さがうかがえます。
『曽根旧庄屋青木家』とはやや距離を置き、宗派も一貫して浄土真宗であった『立間青木』とは一線を画して生きた一族であったようです。
そうなりますと、当家に伝わっていた『三間の庄屋から分家した』という伝承も、あながち見当はずれではなかったことになりますし、以前の副管理人様のお返事に『曽根旧庄屋青木家と縁組があったのではないか』との推定があったことも思い出されます。それが別な、しかも意外な形で証明されたことになります。
あくまでも推定の段階ですが、こんな四国の片田舎でも、波乱の歴史の中でそれぞれに独自の道を選びつつ、長い長い命脈をつないできた足跡がたどれることは驚きであり、感動です。また『曽根旧庄屋青木家』と『天台宗』については、さらなる広がりも予想されておりますので、そちらをご報告できる日も楽しみでなりません。
報告は以上となります。あるいは見当はずれの点もあろうかと思われますが、これまで通り厳しいご指摘を頂ければ幸いです。
今日は。
お元気でしたか、
でも大変ルーツ探究にご努力されている処を観ますと、無駄なご挨拶に成りますね。
さて、今回のお便りを楽しみながら読まして頂きました。
実の処,「歴史観」が持たれ、ポイントを突かれていられる様に感じました。
概ね、賛成です。
「ルーツ]には,必ず「歴史の荒波]に揉まれて「大きな幾つもの変遷」が伴っています。
全て平坦では無かった事が痛感します。
況して、「青木氏]には、他氏と異なりその立場上から荒波の上に載っている様な「変遷」を受けています。
それだけに、一筋縄では行かず、「膨大な歴史観]を以て検証しなければ正しいルーツに辿り着けないと云う「宿命」があります。
そして、ご先祖の「生き様」がぽっかりと浮かん観えて来なければ「本当のルーツ」にまで辿り着けないし、推論も建てられないと考えています。
それだけに面白くロマンでもあります。
何時か,ご子孫がこの検証結果を観て、”心の癒しと成るロマン”を感じられる事を与えられます。
其処に、「変遷」=「伝統」が生まれるものと考えます。
これ無くして、「伝統」は維持されて行けないと観ています。
今回のお便りは、当にその「究極のルーツ検証」の処に来ていると考えられます。
では、早速、筆者の論調を記述します。
お便り一説
>仮説通り大洲の『西光寺』が当家の菩提寺であったとするならば、これまでの『本来の家紋である州浜紋のステイタスを忘却した結果、現在の左三つ巴紋に変化した』、という推定に疑問を生じます。一族の情報センターである菩提寺には、必ず家紋の情報も伝わっていたはすでず。
お家の場合は,”菩提寺に家紋の形跡が遺っていた”とする推理は、違うのです。
何故ならば、次ぎの事から残っていないとするのが普通です。
その前に結論から先に述べます。
イ ”「顕教」”には”[密教]”で無い限り、そもそも、”「過去帳の概念」”がありません。
ロ 又、「浄土宗]で無い限りありません。
ハ あったとしても、「税」に関する一時的に使用する戸籍の”「人別帳の台本」”のみです。
ニ 「人別帳]は、”「系統性」” は全くありません。
ホ それも ”「台帳」” であって、”「譜」”では無く、「お家の特定個人」では無く、”「村の村主」”が管理するものです。
ヘ 且つ、”「人」”に関する事が無いのに、”「家紋]”に対する継承などは当然に、到底、あり得ません。
では、その「根拠」を次ぎに述べます。
そもそも、この[西光寺」そのものも例外なく「大きな変遷」を受けています。
下記にお家が論じられている様に、本来は、「西光寺」は密教系の秀郷一門宗家と秀郷流青木氏の菩提寺です。
従って、「密教浄土宗」である筈なのです。
ところが、江戸時代初期以降は家康に依って、「密教]を排除して全ての寺は「顕教」に変えられる令が出されました。
然し、なかなか「悠久の歴史」を持つ「青木氏の立場」からはこの「伝統」を換えて顕教に直ぐに変えられない家柄でした。
根本的に、前回にも論じましたが「密教と顕教]は「祭祀する仏」と「その概念」が異なっています。
然し、「世の荒波」と「変遷」を強く受けた「全国の青木氏」の中では、お家の様な、「氏存続の憂き目」を受けた時の立場では、この「西光寺の密教」も「密教]では居られないと云う現象が起こります。
そこで、先ず、江戸期以前の歴史的な事象については、「浄土宗系の浄土真宗、曹洞宗」と「真言宗」の影響を強く受けて、「青木氏」が存続する地域に依っては、「浄土真宗の西光寺」、「曹洞宗の西光寺」、「真言宗の西光寺」の三つ形が生まれる事に成ったのです。
それは、つまり「地域と時代の要素」が強く働いています。
「秀郷一門の青木氏」は、24の地域に赴任してこの「影響」を激しく受けたのです。
「赴任地の地域]に依っては、[密教浄土宗の寺]があるかと云う問題です。
「高位の氏」しか宗派とする事が出来ない宗教で、「氏の単独の密教」ですから、「青木氏の定住地」にしか「密教系の浄土宗」は無い筈です。
つまり、「赴任地」には無い事が前提です。
当然に、仮にその赴任地に「菩提寺」を建立しても、「浄土宗僧侶」は氏家制度の中で生きている限りは「一門の宗家」から廻して貰わなくてはなりません。
そこで、平安期の赴任期間は、「四年を前提]としていますが、「赴任地」が何時変わるかも知れない事に成り、そこに菩提寺を建立する事は先ず出来ない筈です。
そこで、秀郷一門は、次ぎの対策を打ち出しました。
それは,「浄土真宗」への入信を一時的に赴任先では認める事にしたのです。
「浄土真宗の親鸞」は、「法然の弟子」ですが,「法然」を裏切って「顕教」としたことから、武士から民迄を含む信者を各地に持っていました。
ですから、殆どの地に存在する事に成ります。
然し、赴任期間を終えると「武蔵」に帰る事で、元の「密教浄土宗」に戻る事が出来たのです。
ただ、現地に遺された「現地孫」は「真宗」を宗派としても良い事に成っていました。
この現象が平安期中期970年頃から起こりました。
有名な「平安期の密教論争」、「鎌倉期中期の顕教宗派の信者争奪戦」、「室町期中期で起こった曹洞宗と真言宗の争い」、「江戸期初め下級武士に依る勃興族が信心した曹洞宗の台頭」等で、「西光寺」が「密教」は元より「顕教」でも「浄土宗」では居られなくなったのです。
「時代の影響」に依っては、「浄土宗の西光寺」が、「浄土密教系」の二つの「浄土真宗の西光寺」「曹洞宗の西光寺」と、一つの「真言密教系の西光寺」が生まれたのです。
「地域の影響」に依っても、中でも、この四国は「真言宗の遍路の国」であり、且つ、ここには、「讃岐と阿波」は「赴任地」でありますが、讃岐域を除いて「密教」の本来の「青木氏の定住地」ではありません。
依って、讃岐以外に「浄土密教派の寺」は原則的にはありません。
そこで、「氏の菩提寺」の「西光寺」を建立しても、浄土宗本山から浄土宗系僧侶を配置され得ません。
そうすると、結局は、一族から先ず認められている「浄土真宗」を先ず考えます。
次に「曹洞宗」を考えます。最後は「真言宗」と成ります。
ここに、況して、「浄土真宗」と「曹洞宗」の少ない「真言宗のメッカの地」である事から、「真言宗の西光寺」が生まれるのです。
この経緯に付いては研究室でも論じていますのでお読みください。
上記の様な事から、四国に於いては、この宗派での検証を前提とする事には大きな問題があるのです。
況して、お家は、紀州から一族が、「南北朝の路線争い」から二派に別れ、「宗派と家紋継承権」を無くしての「四国への逃避行」でしたから、この「宗派と家紋」に関する前提は「検証考」から外さねばなりません。
この事は、前回の回答でお答えしています。
とすると、「お家の菩提寺」を建てる事は可能ですが、上記の通り、「密教系浄土宗」、或は、「顕教の浄土真宗の寺」を作る事は出来ません。
つまり、根本的に「宗教概念」が異なる宗派と成りますので、ルーツやその他の「慣習や仕来りや掟の継承」での「寺」では無く成ります。これが「顕教の前提」です。
研究室や、以前にも書きましたが、「顕教」には密教で無い限りそもそも「過去帳の概念」がありません。
あったとしても、「税」に関する一時的に使用する戸籍の「人別帳の台本」のみです。
「人」に関する事が無いのに、「家紋]に対する継承は当然にあり得ません。
況してや、お家は、「州浜族の逃避族」ですから、この前提の中に無いのですから、又「伝統の継承」は認められていませんから無理です。
「菩提寺」としても「顕教の寺」に成る事に成ります。
依って、お家の「人の検証」はおろか「検証の家紋の前提」は根本的に無理なのです。
先ずこの事を配慮してください。
更に、次ぎの事も配慮を重ねてお願いします。
「巴紋の経緯」としては次ぎの様に前回に記しました。
前回の巴文様の筆者記述
>お祓い祈願紋ー家柄誇張紋ー権威の象徴紋―家柄の象徴紋ー結城一族の家柄誇張紋ー八幡宮の神紋
「巴紋]は、以上の様な特徴を得て特別な経緯を辿りました。
「巴文様」は,古来より「人の原型」を表すものとして,「勾玉」等と共に,「神聖なる物」、「高位なる物」として崇められて来たものなのです。
自然神の「神助紋」として三世紀の頃より用いられて来たもので、従って、これを用いる者は高位の特別に限られた者しか使う事が出来ない文様と成りました。
これを独占的に用いたのが、日本の最大勢力を誇った「北家筋藤原氏一門9氏」だけであって、これを使える氏として社会の中で、絶対的に認められて来たのです。
「特定の氏の神助紋」として、そして、「特定の氏の象徴紋」として、何時しか、「賜姓藤原氏の守護神」の「春日社」と、「賜姓源氏の守護神」の「八幡宮」の「神紋」として用いられる事に成ったのです。
前回の巴文様の筆者記述
>そこで、「公家西園寺氏」は、「貴族」でありながら「武家」としても立ち振るいましたので、その後、これを「西園寺家」が、「北家筋の藤原秀郷一門」の「親助紋」、「象徴紋」、「副紋」であったものを敢えて「公家武家」に成る事で ”「家紋」”として正式に用いたのです。
「西園寺氏」が用いる事には全く問題はありません。
「公家」は本来は、「武家」が用いた「氏家制度」の中での「上下の系列を指し示す方法」としての「家紋」に関しては、元来はこの習慣はありません。
あくまでも「象徴紋」です。
「西園寺氏」や「一条氏」や「北畠氏」等の「北家筋の公家」が、南北朝の末期から「武家化」した事から、この「象徴紋」を「家紋化」して用いた物です。
前回の巴文様の筆者記述
>それまでは、「北家藤原氏一門」や「皇族賜姓族系の源氏」等の貴族系の「高級武士の象徴紋」でした。
>その為に、貴族と成った東国武士の藤原秀郷一族一門は、「総紋の藤紋」とは別に、”家柄を誇張する副紋”として、この「巴紋」を共に盛んに用いたのです。
>「家紋」では無く、これを用いている者は、361氏の中の最高の「権威家」である事の誇示する「象徴紋」で在ったのです。
お家の「近江系秀郷一門の二氏」(蒲生氏と蒲生氏系伊勢魚木氏と、脩行系青木氏)は、この「巴紋様」を用いたのです。
さて、そこでお家は、「脩行系青木氏」ですから、州浜紋ですが、これは使えません。
では、使えないお家は、「家紋」又は「象徴紋」をどうしたのかと云う事に成ります。
武士が家紋を持たない事は、庶民に成った事に成りますので、必ず伊予讃岐に逃避したとしても持たなければなりません。
筆者は、「家紋掟」の仕来りに従い、次ぎの三つのどれかに従った筈と考えます。
1は、「丸付き紋」です。
2は、「陰文様紋」です。
3は、「類似紋」です。
この事からお家が採った答えが出るのです。
州浜紋に対する検証
1は、上記した事からこの文様の持つ権威から、「巴紋」の場合は「丸付き紋」は禁紋とされていました。
従ってこれは絶対に使えません。
2は、「宗家の承認」が必要で、「陰紋の使用」は「主家の親族」が「家臣の身分」に落とした時に使用する文様と決められていました。
「巴紋」の陰紋も1と同じく禁紋です。
3は、「巴紋」に関しては、上記の特別な文様である事から、原則、禁紋でしたが、「藤原氏の勢い」が低下した江戸期初期に成って、「類似家紋」が増えました。
江戸期前では、この「類似家紋」は許可を得た分家筋以外には、一般的に用いられていません。
爆発的に増えたのは「勃興氏の台頭 姓族」で江戸期初期からです。
「州浜紋」は、「類似家紋」を含めて、43紋がありますが、この43の「類似家紋」は、元の文様とは原則的に別物として扱われました。
依って、宗家の認可は必要ありません。
とすると、お家の取るべき手段は唯一つです。
3の類似家紋だけです。
ここで、「どの程度の類似性」を持たせるかは問題です。
そこで、「伊予と土佐域」で用いられた「類似家紋」が、実はあるのです。
それは通称では、後の江戸期中期の頃にある経緯があって、”「光琳州浜紋」”と呼ばれていました。
この紋の本来の呼称は「土佐州浜紋」と呼ばれます。
主に土佐地域に分布したもので、俗に「光琳派族」と呼ばれるものです。
恐らくは、この「土佐州浜 光琳州浜」が、お家の「讃岐秀郷流青木氏」を頼った時のお家の「御本家筋」であると考えています。
これには、厳格に「青木氏の州浜族の慣習仕来り掟」を護って来た事を意味しています。
この事は詳しく研究室の「伝統7−8」の論文に記載していますので参照してください。
念の為にポンイトとしては次ぎの事を記述しています。
「土佐派大和絵」
そもそも、上記の師事した師匠は、次ぎの通りである。
A 平安期には、「巨勢派」の「巨勢公望」に師事したとある。
B 鎌倉期には、「巨勢派」の門人「春日基光」に師事したとある。
C 室町期初期には「巨勢派」の「大和絵」”の「朝廷絵師」の「藤原氏朝」等に師事したとある。
D 南北朝時代の頃には、「巨勢派」の「師匠」として、「朝廷絵師」として「藤原行光」に師事したとある。
E 江戸期には、「巨勢派」の別派の「土佐派」が「大和絵」を復興させるのに貢献し師事したとある。
F 江戸末期には、大和絵の「土佐光信」(1434年)に師事したとある。
この「巨勢派」は「大和絵」として「朝廷の絵」を専門に描いた流派である。
この関係から「青木氏」は代々この派に師事した。
「青木氏」等が、この青木氏族の「流派の画家」を後援し、この関係から「朝廷」からも強く支持された。
「大和絵の巨勢派」は、室町時代から200年間を、正式な「朝廷の絵所」(朝廷絵師)を世襲した。
しかし、室町時代末期には、一時、朝廷の「絵所領職」を失った。
その理由は、室町幕府衰退と、一時、戦乱期で朝廷も衰退した為に、更には、この流派の後継者が次々と戦乱で死するなどして「大和絵の流派」は全く途絶えたのである。
この後に、この「巨勢派」は、別流派として江戸期に成って、土佐出身の者等で「土佐派」」を創設して、純日本的な「大和絵の伝法」を再び樹立した。
以上がその一節です。
さて、この「四国青木氏族」の「土佐州浜紋様」(通称 光琳州浜紋)は、次ぎの氏族が継承しています。
その人物は、”「土佐光信」”と云う者で、この光信の「土佐一族」は、元は平安期末期のご先祖が務めていた役職で、室町期中頃(江戸初期まで)までは「朝廷絵師」(朝廷絵所領職)を務めていた事があって、筆者の「伊勢青木氏」とは、同じ朝廷の「紙屋院の役」であった事ともあり、且つ、「絵−和紙の関係」から、実に懇意に長く親交していた一族なのです。
(筆者の家の記録と口伝がある。)
(「伊勢青木氏」は「二足の草鞋策」で「和紙の殖産と販売」を営み、この「朝廷絵師の絵所領職」を援助した。)
お家のご先祖が書かれた絵を筆者の家にはありますよ。
実は、筆者の先祖の多くは、この「土佐一族」(土佐光信の租)から「紙屋長兵衛の嗜み」として代々専属に「大和絵の墨絵」を習っていて、「祖父と父親」は、親交は元より、態々、土佐まで出向き、「朝廷水墨画の南画」を会得し修行しました経緯を持っていました。
平安期から元々親交のあったこの一族が、紀州に居て「南北朝戦乱」に巻き込まれ、一派は州浜の故郷に帰り、もう一派は「讃岐秀郷流青木氏」を頼り、更に「現地孫の一派」は紀州に遺りました。
この事は、「伊勢の二つの青木氏」は当然に知っていて、何らかの通信手段を持っていた事から、江戸中期に成っても代々、その一族に「大和絵の師事」を受けていた事を物語っています。
ところが、他の画法が人気を得て、その結果、古式豊かなこの「大和絵の衰退期」が訪れます。
この時も、又「伊勢青木氏」が[大和絵」を継承するこの「土佐州浜族」を経済的に援助して「大和絵]を遺す事に務めました。
遂には、自らがこの「大和絵の技法」を継承する事が「賜姓族五役]の元来の務めであるとして、「伊勢青木氏]の祖父は、自らがこの役目を果たそうとして、明治35年に土佐に渡り、又、若い父親も大正3年頃にこの土佐州浜の大和絵派の族の下に留学をしています。
この「州浜派大和絵」は、上記しました様に、他にも「紀北地方の巨勢の元祖巨勢派」が近くにあり、且つ、京などにも2派の別派がありましたから、何も土佐まで行かなくても師事は可能でした。
然し、親交のあった「土佐」を敢えて選んだのです。
これは、深く親交の合った「大和絵の技法」を直接会得した「脩行系青木氏の師匠」の方が居たからこそ、その師匠を敢えて頼ったのです。
つまり、この事は、端的に云いますと、「土佐のお家のご先祖]の「ご本家筋(土佐州浜族)」には、「朝廷の大和絵の絵所領職」を務めた方がおられたと云う事です。
お家のご本家です。「筆者の伊勢青木氏」が、直接、お家のルーツの「ご本家]を確認している事を意味します。
祖父と父は終局、この「大和絵」の影響を受けた「水墨画の南画絵師」の継承者として明治期に関西域に優明を馳せ、遂には、天皇家自らが「絵所領職]として伝承して来た事から、「天皇」から直接召し出されて、朝見し、その時に,この「大和絵の南画水墨画」を大正期初期に献上しています。
この「天皇家からのお返し (天皇家の宝)」として、「日本最古の藤白墨」を「紀州徳川氏」を通じて賜ったのです。
これらの記録と資料とこの時に献上した複製画は遺されています。
研究室にこれらの事が記述されています。参照ください。
この様な事は、お家のご先祖が記憶消失をしていますが、「伊勢青木氏」では何とか「諸々の伝統」を遺して来ている為に、判っているのです。
故に、厳しく「錯誤忘却」と書き記してお家を「ルーツ探究の本筋」に戻そうとしての事でした。
既に、お家は南北朝から、600年以上もたっているのですから、最早、「州浜紋]か、或は、通称、「土佐州浜紋様」(光琳州浜紋)に戻してもよろしいのではありませんか。
”今更”と云う考え方もあるとは思いますが、根拠なしの論理矛盾を起こしている「巴紋」も良いとは思いますが、家紋の知る者が観れば、「搾取偏纂の第三の青木氏」と観られるところですね。
(別の家紋を持つ青木氏からお尋ねが有って、「墓石に刻む家紋」として元の青木氏の家紋に戻された方も居られます。雑談掲示場に記載)
その事で、筆者は、「お家のお便り」を頂いた時には驚きました。
サイトのお便りにお答えしていると、この様な驚く事は他にもありましたが、度々不思議な事が起こるのですね。
「筆者の検証」では、この「絵の存在」から、紀州に居た頃からの付き合いがあった事は、更には口伝で祖父より伝わっていましたから、間違いはないと観ています。
何故ならば、「伊勢の秀郷流青木氏」とは、研究室でも論じています通り、同族血縁を繰り返し「四日市殿」と呼ばれる「青木氏融合族」まで発祥させているのです。
以前にも、論じましたが、「近江系秀郷一門の蒲生氏」(伊勢三乱に活躍)は,この「伊勢の秀郷流青木氏の跡目(梵純)」に入っています。
「近江系の脩行系青木氏」も同近江で全くの同族でもあり、当然に当時の「純血の慣習仕来り」から「蒲生氏」との血縁もあった事に成りますので、「脩行系のお家のご先祖」とは、「筆者のルーツ」とも「間接的な血縁族」と成ります。
従って、「絵の存在」と「絵の師」でもあり、「伊勢と接する地」と「伊勢秀郷流青木氏」と「近江蒲生氏」とから鑑みると、少なくとも「紀州の有田の青木村」に居た頃の以前からの「付き合い」があった事は判っています。
お家とは「南北朝以前の祖との付き合い」と成ります。
四国に移動しても、筆者の上記しました資料からは、続けて祖父の代まで付き合いをしていた事を物語ります。
お家とは、血縁があったかは現在の処完全に掴み切れませんが、下記に記しますが充分にあったと考えられ完全に否定は出来ないと考えます。
ですから、実の処、この答を当初から出さなかったのです。
お家の「ルーツ探究の進捗度」を待っていました。
「お家のルーツ探究」には、今回のお家の推理のお便りからも、結局は「家紋」が大きく左右するところまで来ましたので、お答えを出す事にしました。
「巴紋」に拘っておられるようですが、讃岐に移動したお家の「ご本家の本当の家紋」は、後に、この「州浜紋」の事を江戸中期頃に「光琳州浜」と呼ばれた「類似家紋」です。
(参考 一門の総紋は下り藤紋)
そもそも、この「土佐州浜文様」は、”「類似」”と云うよりは、最早、「州浜文様」の「中央の丸み」が少し大きいだけで殆ど変りません。
これは、他の論文でも論じていますが、他の類似家紋と異なって、「賜姓族の二つの青木氏」等の「高位の一族一門」が、「本家筋の純血性」を護る為に、又「家紋」を変化させない為に、且つ、その出自をはっきりさせる為にも用いる手法です。
この事からも、この「州浜紋」の「土佐の州浜一族」をはっきりとさせる為に用いられた「土佐州浜紋 通称、光琳州浜紋」からも証明できるのです。
この様に本来は、「紀州北部」と「愛知」より以東の「駿河」迄分布する「州浜紋」ですが、この経緯からも少し離れ瀬戸内を越え「伊予ー土佐」の讃岐国境の山間部にも分布しているのです。
この「類似家紋」が、この様に呼ばれたのは、もうお判りと思いますが、「土佐光信の三筆」からでた「琳派」として江戸中期に有名に成った事から呼ばれたものです。
この「三筆の先祖」が古来より「朝廷絵師」であったが、江戸中期に、別の系列一派の光琳派を築いた「尾形光琳」、「乾山、「本阿弥光悦」等で有名に成った一派です。
(土佐光信の光と琳とを雅号とした)
つまり、お家の「脩行系青木氏の先祖」は、南北朝以前には「大和絵 朝廷絵所領職」を務めていたのです。
くどい様で、失礼とは思いますが、敢えて今回のお便りは、大変に青木氏に関する「歴史観」と、推論を構築する「歴史技量」が極めて高く成ったと感じていて、「地理性」までも使う様に成っています。
そこで、更に、その歴史観等を高めて頂く為に、敢えて次ぎの事を忌憚なく書き記します。
以上の事は、前回のお答えの中でも書き記しましたが、「家紋」に付いても、上記しました様に”「逃避行」”ですので、「巴紋の前提」が間違っています。
もう一度、良くお読みください。
そこで、お家は全国8000ある中で、現在は20にも満たない「氏族」です。
その他は、全て「慣習仕来り掟」の異なる「姓族」です。
「氏族」は、最大時は200にも成りこの関連族が400にもあったものが、下剋上戦国時代とで滅亡し、40程度に成り、遂には江戸期には20程度に成って仕舞いました。
この朝廷より認可された「氏族]は、
「家の象徴紋」(姓族では家紋)を持ち、
「氏の総紋」を持ち、
「流派の副紋」を持ち、
「守護神の神紋(神助紋)」を持ち、
[菩提寺の寺紋」を持ち、
以上の文様を持っているのです。
朝廷より認可されていない室町期中期より勃興した「姓族」は「家」の区別をするだけの「家紋」しか持ち得ていません。
お家は、藤原氏の北家9氏の秀郷一門361氏の中の青木氏族の近江の州浜紋族の脩行系青木氏の「氏族」であるのに、”「巴紋」は「家紋]だ”と拘っておられ、何度違うとご指摘をしているのに、「姓族の家紋」と主張されているのが、疑問です。
20の中に、”好むと好まない”とに関わらず、居るのですから、当然に、この数少ない「氏族の歴史観」の中で「正しいルーツ」を探究しようとすると、引き込まれざるを得ないのです。
そう云う、”良し悪し”は別として、どの様なイデオロギーをお持ちか判りませんが、この「氏族」の「慣習仕来り掟]の持ったご先祖を持ったことに原因があるのです。
「氏族」でありながら、「姓族の家紋」に拘られるのは自由ですが、本サイトにお尋ねの際には、「正しい論調」が出来ない事に成り得ます。
以上の事に念を押しておきたいと考えます。
この”「巴紋」”は、秀郷一門の使用する”「神助紋]”で、「象徴紋]で、[副紋]ですので、「家紋」としての考え方は出来ないのです。
お家が秀郷一門である事を放念されていられる様ですが、少なくとも、秀郷一門では出来ません。
そもそも、”「巴紋」”は、「皇族賜姓族青木氏の柏紋」に相当する「秀郷流一門」の「神紋で象徴紋で副紋」なのです。
つまり、神明社の柏紋=春日社の巴紋 という数式が成り立つのです。
この「二つの青木氏」、取り分け、前回のお答えにも書きました様に、秀郷一門の「近江系の青木氏の二氏」はこの「仕来り」に縛られ、且つ、この「伝統」を頑なに護っていたのです。
故に、この二氏は、「宮廷貴族の血筋」を濃く持ち、他の一門とは異なっていて、これが、特別に、”「脩行系」”と呼称されている所以なのです。
お家のご先祖は、「秀郷一門と脩行系」と云うこの二つの事に縛られているのです。
論調が違ってきますので、ご放念されない様にお願いします。
従って、お家がこの「巴文様」を家紋とする場合は、「秀郷一門の神職系青木氏」と成る事に成ります。
然し、お家は,お便りより、「神職系の青木氏」では無い事が判ります。
何故ならば、「浄土宗」では無い「西光寺」を建立しているからです。
秀郷一門の「神職」は、秀郷一門の守護神の「春日社」か「神明社」で、お家の場合は、上記した様に、「近江系二氏」ですので「神明社」の”「神道」”なのです。
「墓所のある寺」は持ち得ません。
ここでも、矛盾する事に成るのです。
これだけ矛盾すれば、室町期末期と明治初期の「第三の青木氏」と云う事に成って仕舞います。
お家の場合は、墓所を江戸期には持っていた事から、室町期末期のルーツを持たない「勃興族」の「第三の青木氏」と云う事にも成って仕舞いますよ。
ご先祖が、”紀州の地から出て来た青木氏”と云う事を述べられているところから、南北朝の時代にこの知識を先ずは「普通の姓族や氏族」が持ち得る知識ではあり得ません。
お家のご先祖が、何らかの伝統を持ち得ていて、その記憶からこの伝承を述べられた事である事は判ります。
依って、お家は、「四国の讃岐青木氏を頼っての逃避行の歴史史実」からも「州浜紋の脩行系青木氏」と断定しているのです。この二つ「知り得ない情報」からです。
(筆者側の記録と資料がありますが)
「巴紋の経緯」として、江戸初期から中期にかけて「立身出世族の勃興氏 姓族」と「第三氏の明治初期」に、幕府の権威創権の督励で、これを「家紋扱い」にして仕舞ったのです。
従って、お家がこれを「家紋」とする事の論理矛盾が起こり間違えているのです。
そして、「伊予宇都宮氏」が何故にこの「巴紋」を家紋扱いにしているかをお考えください。
「巴紋」を副紋として使っている大名は藤原一門以外にも他にも沢山ありますよ。
北家筋と秀郷一門を除いて、全国に戦国時代と江戸時代を含めて何の血縁関係の無い「20の姓族」が同紋の「左三つ巴紋」を使っていますよ。
この事をどの様にお考えですか。
これを「家紋」とする以上は、お家はこの「江戸期初期の勃興姓族の青木氏」か「明治初期の第三の青木族」と云う事に成って仕舞います。
はっきりとした”「論理矛盾」”がお起こるのです。
お家は、先ず間違いなく「紀州有田の青木村」から逃避した「州浜紋の秀郷一門」の「近江の脩行系青木氏」であると観ています。
依って、「巴紋」とする事は、このお家の「ルーツ検証」は、大きな矛盾を含んでいて根本的に成り立たなくなります。
更に、そもそも、この「巴紋文様」は、秀郷一門の一族の中での慣習では、”「何らかの所以」”を持つ者が一時的に用いるべき「便宜的特別な文様」であると書きましたが、お家は、”「州浜紋が使えない立場」”に「南北朝の結果」で成りましたから、この”「何らかの所以」”の立場にありました。
江戸期前には少なくとも、「氏家制度」のこの「慣習の仕来り」の中でのものでした。
「錯誤や忘却」では無いとすると、「何らかの所以」の時に、この一時的な場合に使用する「巴紋」を用いて、遂には、「錯誤か忘却」で、「家紋扱い」にして仕舞ったと論じています。
だとすれば、「神職」ではありませんが、「秀郷一門の慣習」に沿っていない事に成ります。
実は、今回のお家の「地理的な考察」のお便りから”「錯誤忘却」”が起こった理由が出ているのです。
下記にその理由を示しますが、「巴紋」に拘る為に未だ気が付かれていない様です。
筆者が、”錯誤とか忘却”の「意味合い」としたのは、先ず、この「慣習(家紋化)」が忘れられかけた江戸期の中で、この使えない「州浜紋」に酷似する文様を用いて「家紋」(家紋では無い)としたと観ていたのです。(上記しました様に判っていたのですが)
秀郷一門である限りは、この「仕来り」に縛られているのです。
あくまでも、お家は一族から「離れての逃避行」なのです。
そうで無ければ、お家は、全ての検証は崩れて、恐らくは、「勃興族」でも無く成り「第三の青木氏」と云う事に成って仕舞います。
現実に、「巴紋の第三の青木氏」は多いのです。
下記のお説もこの前提にあっての論調と成ります。
お便り
>その情報を元にしますと、当家が紀伊の青木村から四国へと落ち延びた当家が、現在の伊予・宇和郡に至るまでの経緯について、ひとつの仮説を構築することができるのです。
>さて、前回のご報告で大洲に『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』が存在するとご報告しました。
>大洲市は愛媛県有数の大河『肱川』が流れる盆地に広がる街です。
>『青木』『青木谷』です。
『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』の存在は納得いたします。
「伊予宇都宮氏」の「宇都宮神社」、さらに東側に『城願寺』の「伊予宇都宮氏の菩提寺」と『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』の存在の位置関係は理解しました。
「お家の逃避行の経緯」
筆者の検証としては、先ず、「南北朝の戦い」で、紀州のお家の一族の意見が二派に分かれます。
この時、敗退した「楠木正成の赤坂村の末裔の逃避行」が起こり、この末裔と同行したかは別として、共に「讃岐藤氏の秀郷一門」を頼って、「瀬戸内の讃岐」に着き、そこで、暫く保護の下で居た、
その後、落ち着いたところで、伊予側の護りとして配置され、更に南域に移動した。
ここで、一族をある程度繁栄させ力を着けたところで、「菩提寺と神明社」を建立した。
この時、「秀郷流讃岐青木氏」の保護の下で、「乱世の時勢」を読み込み、同門の「宇都宮氏」や「西園寺氏」等に味方して合力し、遂には,「菩提寺や神明社」を建立できるまでの「最大の繁栄」を遂げた。
この時、世話に成った「秀郷流讃岐青木氏」(瀬戸内の経済力で中立主義)の云う事を聞かず、「地理的な要素」もあって「長宗我部氏の北侵」の「防御ライン」を築くべく「宇都宮氏や西園寺と共に防御の味方」をしたことから敵とみなされ、「長曾我部氏」の四国統一戦に巻き込まれ、宇都宮氏や西園寺は滅亡した。
しかし、お家は、それでも「讃岐秀郷流青木氏の背景」(長曾我部氏が讃岐秀郷流青木氏を敵に廻す事は長期戦と成った場合、その経済力差で敗退を意味する恐れがあった。)もあって、お家は九死に一生を得て救われ滅亡に至るまでには成らず、結局は逃れられたのですが、お家も衰退した。
(ここで「錯誤忘却の理由」が起こった)
其処に、秀吉の四国征伐が始まり、「長曾我部氏」は土佐一国の勢力のみと成ります。
この時、中立を保って勢力を温存した「讃岐秀郷流青木氏の保護」を再び受けて「大洲地域の南域」の護りに入りお家は何とか勢力を持ち返します。
然し、秀吉の時代に成り、再び、戸田氏らの秀吉方の攻勢で窮地に陥り、結局は秀吉の「青木氏の配置」などでお家が邪魔と成り、一応の「郷士の立場」を得ていたにも関わらず排除されて、ご先祖の墓所のある現在の土地に移動して、そこで山を切り開き農業に勤しだと云う事に成ります。
この時、お家の一族に「逃避先の違い」(意見の違い)が起こったのです。
大洲域を留まり菩提寺を護ろうとする者(分家筋)
秀郷一門の保護下に入る為に讃岐側に移動する者(本家筋)、
恐らくは、この時に、お家の分家筋が墓所を建てるのに「郷士の身分」であった事を示す為に自分の家の家紋を思い出そうとした。
時も過ぎ農業をする事から、「記憶消失」と「伝統の消失」で「錯誤忘却」から、何とかうすら覚えに記憶していた「州浜紋の類似」から、或は、先祖が一時的に用いていた「巴紋」を思い出して「家紋」として用いて仕舞ったと観られます。
この経緯で、お家の一族が次ぎの様に成りました。
「大洲町」派(分家 伝統不継承)
「土佐町」派(本家 伝統継承)
では、”この現象が何時起こったのか”と云う問題が出ます。
0 讃岐秀郷流青木氏の支配の時(1392年)
1 長曾我部氏の侵攻の時(1585年)
2 戸田氏の軋轢の時(1595年)
3 秀吉の検地の時(1597)
4 徳川氏の領地配分の時(1642年)
以上で、これ以外には「移住の事件性」は無いと考えられる。
土佐町の土佐光信 (1434年)
正式には「土佐州浜紋」と呼ばれ、通称、「光琳州浜紋」を継承していた「土佐郡土佐町の土佐光信」は、既にこの1434年の時にはこの地に定住し、一族を繁栄させていた事に成ります。
お家は1392年に讃岐に入っていますから、既に、それから42年経過しています。
1から4は「その後」と成りますから、お家は、先ず最初は、「讃岐秀郷流青木氏」からこの地に配置された事に成ります。
「長曾我部氏の経緯」と絡めて、検証しますと、次ぎの様に成ります。
その後の経緯
ところが、「長曾我部氏の台頭と侵攻」で「讃岐の西側」の「伊予土佐の国境付近」が危険に成り、大洲域が特に危険が迫り、そこの護りを固める為に配置されます。
この時、国境の讃岐側は本家筋が護り、お家の分家一族が伊予土佐側に廻され、そこを護った事に成ります。
ところが、お家の「土佐州浜一族」は、ここで、同じ地理性を持った者の西園寺氏や宇都宮氏と連携して「防御網」を構築して繁栄を遂げ、守備域を拡大して「菩提寺と神明社」を建立するまでに勢力を高めました。
ところが、「長曾我部氏」がいよいよ侵攻が進み、西園寺氏や宇都宮氏が滅亡したが、「讃岐藤氏」と「秀郷一門」の「北からの援護」で「長曾我部氏の侵攻」を牽制し、お家は何とか生き延びた事と成ります。
然し、「秀吉の四国征伐」が始まり、この「長曾我部氏」も遂に「秀吉の侵攻の支配下」に成り、土佐一国に抑え込まれる。
結局、この時、「大洲域」で生き延びられると思った時に、「戸田氏の圧迫」を受けて、更には、「秀吉の検地」などの「軋轢と家臣の配置」とで、「西光寺と神明社」を捨てて、元の配置された地域の「大洲の東域の国境沿い」に逃げ込んだと成ります。
更には、徳川氏の伊予と土佐のと讃岐の「領地配分と郡制改革」で、「郷士」で有ったにも拘らず、土地を失い農業をして暮らし、安定した江戸期に入ります。
そして、この「旧守備の地」で生き延びたと成るのではないでしょうか。
この時に、農業した事に依って、「武士の慣習と伝統」を何時しか失います。
ところが、この「戦いや変遷」に遭遇せず「讃岐域に近い土佐郡」の「ご本家筋」では、1から4の事に見舞わられずに安定した繁栄を遂げ、その結果、「州浜紋の伝統」を失わずに「名門の武家」として済んだ事に成ります。(伊勢青木氏が実地に確認)
然し、ここで、”何で、ご本家が名門の「青木氏」を捨て、地名の「土佐姓」を名乗ったのか”と云う疑問があります。(ここから青木氏の資料から検証)
筆者の検証では、明治期まで「筆者の家との古来からの付き合い」のあった事から、この情報では、「土佐州浜族」は、「旧来の大和絵の朝廷絵師」で「絵所領職」でもあった事から、再び多くの弟子を抱えられる程に勢力を盛り返します。
家康もこの奈良期からの「日本古来の大和絵」を好み、「絵所領職の家柄」と「絵技法」を保護され、江戸幕府から「旧領安堵の処置」(記録)を受けます。
そして、「可成りの伝統のある郷氏の旧領地」を確保しての「地主の武家」で「格式高い庄屋格の身分」であった事が「伊勢青木氏」に伝わっています。
ところが、この事を考えると、このご本家は1495から1500年頃に子宝に恵まれず、土地の者を養子に取り、それに嫁を取った事で「青木姓」は絶え、地名を採って「土佐姓」をそれ以後(光信の時)に名乗った事に成ります。
この時、絶えた「青木光弘の子」でありながら、「土佐の地元の土豪」の「土佐広周の子」として育てられます。これが、「土佐光信の所以」です。
この段階で、何とか変遷に会いながらも「青木氏」を継承出来た「大洲の分家筋のお家」と、「青木氏」を継承出来なかった「土佐村のご本家」との関係は無く成っていた事を示します。
この時、ご本家は、”「家」”そのものは維持している事から「家紋と伝統」はそのままに維持した事に成ります。
ここで、実は、驚くべき凄い証拠が遺されているのです。
「土佐州浜紋一族」の「所以」を「江戸幕府も認める物」が「土佐光信」に遺されています。
それは、二つあります。
一つは、光信が態々、「土佐州浜紋族の家」の「ルーツ」を後世に遺し明確にする為に、書いたものです。
それは、秀郷一門の神助紋(下り藤紋の総紋に匹敵する)を”「巴紋の文様」”を「大和絵技法」で極めて正確に色彩豊かに描いた「象徴紋絵」があるのです。
これは、公的に「極めて有名な絵画」です。
恐らくは、これは「公的に成っている」ところから、「徳川氏」(家康か)から描くように依頼されたものでは無いでしょうか。
家康は、征夷大将軍になる時に、三河の土豪の家柄であって低い事から、幕府を開く為の格式の「征夷大将軍」の称号が朝廷より得られなかった時期があって、この為に、関東の秀郷一門を全て家臣に加えて「御家人」の家柄にして,江戸幕府の上級官僚集団にしたのです。
この事に依って,この「藤原氏の家柄」を「自分のルーツ元の家柄」であるとして、「家臣の中心」に据えて、「征夷大将軍の格式」を獲得しました。
これで朝廷は仕方なく認めて、幕府が開けられる様に成った有名な経緯があります。
この為に、ご本家の「土佐州浜一族」の「土佐三筆」にこの「藤原一門の象徴紋の神紋の巴紋」を態々描かしたする説もあります。
次ぎは、この「土佐州浜紋族の通名」が、秀郷一門の通名では無く、「伊勢青木氏の通名」と同じであると云う事です。
これは何を意味しているかと云う事です。
筆者の「伊勢青木氏の通名」は、「信」か「光]を用いる事に成っていました。
三代前までこの慣習が護られてきました。
土佐州浜のご本家筋もこの「光」と「信」のどちらかを使っています。
つまり、これが「紀州でのお家」との間で、血縁関係があった可能性を物語っています。
この「光]と「信」は、「皇族賜姓族五家五流青木氏の通名」と成っていて、これは、平安期に同族で血縁関係を持っている「賜姓源氏の清和源氏の本家筋の始祖の頼光系四家」が用いていた通名にも成っています。
平安期末期からの累代の先祖と、祖父や父が現地で学んだ事が「血縁の有無」を物語ると考えます。
この「通名」が同じ一族一門でなければ、同じと云う事には成らないのですが、同じなのです。
これが、お家の「土佐州浜紋族の経緯」です。
依って、”「巴紋」”が「土佐州浜紋族」の「土佐信光三筆」によって書かれた「巴紋絵」は「西園寺氏の巴紋」と同じだからとして ”お家と「親族」だ”とする推論は危険すぎます。
(他氏には「巴紋」の「同紋の姓族」は、20もある)
お家の場合は、「土佐州浜紋」なのです。
「類似文様」でありますが、「西園寺氏の象徴紋」と異なっているのです。
更に物理的には、「長曾我部氏の防御ライン」を張った事から「関係保持の血縁」をしたとしても、短期間に「巴紋」に成り得る事は不可能です。
何故ならば、先ず、お家の「ある家紋」があったとして、この[家紋」が仮に「巴紋」に変化するには、お家に男系跡目の嫡子に恵まれず、「西園寺氏」から養子を迎えたとし,その養子にも嫡子が出来ず「二代続きでの養子」を迎えると成った場合に、「最初の養子先」の「西園寺氏の系列」に組み込まれて、家紋は「養子先の家紋」と変化します。
この時、初めて「西園寺氏の家紋」(象徴紋)に成ります。
但し、「西園寺氏」が認めた場合に限ります。
この間、年数的に約最低で20年は擁する事に成ります。
つまり、80年の1/4ですから、そこまでにお家の勢力は成り得ていたのかと云う問題があります。
血縁するには家柄には問題はありませんが、お家の勢力拡大に至るまでの期間に関して検証をする必要があります。無理です。
「宇都宮氏」と「お家の家柄」の差も問題です。
宇都宮氏は確かに「関東屋形」と呼ばれた一員ですが、秀郷一門からすると「傍系族」に過ぎず、況して、「第二の宗家」と呼ばれた「青木氏」であり、「近江系の脩行系の青木氏」です。
家柄がお家の方が衰えたとはいえ遥かに上です。
況して、お家は分家筋であり、「土佐村の本家筋」を差し置いて「伊予宇都宮氏」と血縁するかの疑問もあります。
又、家紋も消失し「神助紋の巴紋」です。
共に巴紋の立場ではありますが、何か血縁と成る証拠が見つから無い限り疑問です。
筆者は合力はしたものの無かったと観ています。
それは、「秀郷流青木氏の背景」をあくまでも護る必要が無ければ、「長曾我部氏」は何の脅威もお家に感じなかった筈です。
お家は、「西園寺、氏宇都宮氏、一条氏」は悉く滅亡しているのですよ、そして生き残っているのです。
そして、お家だけが生き残っているのですよ。
矛盾を感じませんか。この何れかと血縁していれば、お家も一族と見做されて「長曾我部氏」に徹底的に潰されて滅亡していますよ。
「長曾我部氏の戦い方」はご存知と思いますが、先ず一族末孫まで存続は何れの地に居ても無理です。
でも、生きていますよね。何故なのでしょうか。
その答えは一つです。
更に、問題は、血縁するとした時のお家の家紋設定が何であったかの問題です。
「家紋」の無い家との血縁は、決して「公家族の西園寺氏」であろうと宇都宮氏であろうと致しません。
「伊予の宇都宮氏」は宗家から無視されていたのですよ。真面な家紋などは使えません。
依って、上記した慣習に沿って止む無く使えるのは「巴紋」なのです。
血縁したとするには「土佐州浜紋」か上記した「見極めの類似家紋」でなくてはなら無い筈です。
お便り
>現在は『曹洞宗』ですが、本尊は『阿弥陀如来』です。
この事は、上記しました様に、四国に於いては、充分にあり得る事です。
むしろ,そうで無くてはお家のルーツが成り立ちません。
又、「四国の真言宗」の中での「曹洞宗」と云う事から、お家の盛隆期とも一致しています。
「密教浄土宗」は「宇宙仏」は「大日如来仏」です。
浄土宗系の曹洞宗は、中級と下級武士を多くの信者としていましたので、「二つの浄土宗系の宗派」でありますので、正しい事に成ります。
そもそも、「如来」とは、”宇宙仏が天から来た”とする「仏の意味」ですから、「密教の前提」とする”「如来]”と云う意味でも合致しています。
三代格の仏(如来、菩薩、王天)の「阿弥陀仏の如来」は正しいのです。
地理と位置関係については、納得出来ます。
つまり、お家は、この位置関係から、上記しました様に、身を護る為に、「長曾我部氏の台頭」に対して西園寺氏や一門の宇都宮氏との防御関係を持った事には充分に納得出来得る事です。
「讃岐秀郷一門の背景」がありながらも、ある意味で中立を保っていた「讃岐秀郷流秀郷一門の援護」が充分に期待できないところから、先ずは、対抗しなければなら無いところから止む無く、合力した事が頷けます。
大洲市の中心部にある地名と遺跡があることも合わせて頷けます。
「合力関係」が成立する「地理的関係」も成立しています。
お便り
>さて、思いがけず大洲の地に『神明神社』『西光寺』が二組、発見できたわけですが、実は地図を広げて視線をさらに上流へと移しますと、もう一か所、『西光寺』が発見できるのです。
前回にお答えしました様に「神明社」であれば別としても、「神明神社」については納得出来ませんが、二組の「西光寺」の存在に付いては、「神社」とするところからも、実は「時代性」について江戸期頃と観られますので、どちらか一つが「お家の西光寺」と考えられます。
それには、この「西光寺」に関しては、「ある事情」があって「時代性」が大きく左右しているのです。
実は、この「西光寺」には、陸奥域まで秀郷一門の定住地には必ず存在するのですが、江戸期に建立された「西光寺」もあるのです。
何故、この「秀郷一門の菩提寺西光寺」が江戸期に掛けて多くあちらこちらに建立されたかと云う問題ですが、これには明確な理由があるのです。
これらには殆ど「真言宗」が多いのです。
四国域には、特にこの「系列の西光寺」が実に多いのです。
それには、次ぎの様な訳があるのです。
江戸期に成って配置された「勃興族の大名」等が、「自らのルーツ」をよく見せる為に「藤原一門の出自」として見せかける為に、勝手にこの「西光寺」が建立されたのです。
何故、「西光寺」かと云いますと、「讃岐藤氏」と「讃岐秀郷一門」がこの四国に平安期より定住していて、多くの末裔子孫を現地に広げているからなのです。
お家の情報からと地理的条件から江戸期初期に近い事が頷けます。
何故ならば、秀郷一門は、「浄土宗又は浄土真宗の菩提寺の西光寺」を既に持っているのですから、江戸期に成って態々建てる事は先ずありません。
それは、次ぎの事で証明できるのです。
この江戸期前の頃の墓所の「青木氏の仕来り」では、当代より三代までを遡って祭祀し、50年過ぎる毎に、「五輪の塔」の「累代先祖墓」に移す「仕組み」に成っています。
従って、子孫が増えても「墓所」が必要以上に増えない様にして「菩提寺の範囲」を護った「仕来り」が有ったのです。
つまり、あちらこちらに「西光寺」が増えない様に仕組まれていたのです。
江戸期以上は、戦国と違って「石高の範囲」で「子孫の拡大」を押えられますから、「氏の勢力」は拡大はしません。当然に使用の墓所は増えません。
四国の「藤原秀郷一門はこの仕組み」の中にありますから、増えたとするには、「家柄搾取の勃興氏」の「他宗の西光寺」と成ります。
その為に「西光寺」に対応する宗派があり得ない「顕教の真言宗」が多いのですが、この事から藤原氏のものでは無い事が頷けます。
そもそも、高野山に行かれると判りますが、室町末期から江戸期に掛けての殆どの大大名が挙ってこの「真言宗のメッカ」に墓所を建立し、「檀家としての立場」を作り上げたのです。
これは「家柄」をよく見せる為に採った策でした。
殆どの家柄は江戸期初期の権威保全の他の督励に依る影響を受けた「搾取偏纂行為」です。
それが、下記のお便りで証明できるのです。
従って、四国のみならず、全国的にも、「真言宗西光寺」は、「本来の西光寺」とは異なります。
放念される事をお願いします
「神明神社」は、兎も角も、このお家が定住していた大洲外の「西光寺」に付いて時代性をご確認されるとこの疑問が解ける筈です。
お便り
>大洲市の東隣り、肱川に注ぐ支流『小田川』の流域にある『内子町』に『西光寺大師堂』なるお堂が存在します。
>当地の地誌によると正式名は『金栄山西光寺』(堂にはその扁額も掲げられている)で、『西光寺の廃寺跡』と記述されているのです。
>お堂の建物自体は江戸前期のものとさ、・・・。
>別の地誌には『西光寺・真言宗寺であった』ともありますが、四国遍路の宿泊所として『大師堂』と呼ばれたことから曲解された可能性があると考えます。
これは推理が当たっていません。
”曲解”ではなく、上記の理由から来ているのです。
「地誌」が正しいのです。
お便り
>残念ながら、当地には『神明社』『神明神社』を見つけることはできませんでした。
>当地・内子町は『喜多郡(宇和郡の北、『北郡』から変化したともいう)』に属し、江戸期が大洲藩領でしたが、その記録にもありません。
喜多郡は、依って、上記しました様に、お家の経緯からも、見つける事は出来なかったのは正しい事なのです。
「お家の定住地」は、上記の経緯でどの時期かは、そのポイントは「大洲の地の北端域」にあると観ます。
上記した筆者の伊予と土佐の歴史観に付いては,「花菱紋の武田氏系青木氏」との「棲み分け」から、現在の高知県の中央北域の現在高知市の以北の国境の土佐郡土佐町と観ています。
ここを中心にお家の本家筋が定住分布したと観られます。
そうすると、伊予と土佐の国境沿いに沿って分布した事に成りますが、「土佐の国境の大洲最以北域の分布」と「土佐郡土佐町から喜多郡域までの分布」の二つに成ります。
「時代性」では、秀吉に追われての逃避で、「讃岐寄り」の「土佐郡域」までの山中にお家が本家筋に近い国境の地域が逃げ込んだです。
一部のお家が逃避中にこの大洲の国境域の山中に逃げ込んだです。
恐らくは、現在も分布しているところから、この国境沿いに大洲から喜多郡を経て土佐郡までの地域に逃げ込んだと考えられるのです。
ここで江戸期にお家の子孫を分布させたと成るのではないでしょうか。
依って、その「先祖の伝統」が「本家筋」との間で消えて、「大洲域の末裔」に伝統が消えたので、家紋を間違えて仕舞ったとなると観ています。
「土佐の光信の子孫」では家紋を維持していた事で判ります。
「西光寺」と「大師」は根本的に異なっていますので、上記しました様に、「江戸期の西光寺」については、根本的に青木氏とは別としてお考えに成る事が必要です。
江戸期の家柄誇張等の搾取偏纂の別物です。
従って、歴史的な意味として、青木氏に執っては内子町は関係ないと観られます。
当然なから、この地に正規の神明社と一部の系列を除いて神明神社はこの地域には無いと考えられます。
依って、喜多郡域の神明社の存在は無理と観られます。
特に、四国に於いては、特別で、江戸期には、「遍路」の宣伝の影響を強く受けて、歴史的に青木氏のデータと成り得ません。
前回にも論じましたが江戸期までのものとしてお考えください。
お便り
>ただ、堂が立つ土地は現在も『五百木(いよき)』といい、藩政時代は『五百木村』でありました。『青木』が古くは『うぉーき』、『あうぉーき』と発音されていたと、当サイトで教えていただきましたので、『青木(あおき)=五百木(いよき)』と変化した可能性はないか、と考えます。もしそうであるならば、同じ大洲・喜多郡に三つ目の『青木氏ゆかりの地』があることになります。
”あおきの呼称の変化”とする推論は、少し行き過ぎと観られます。
それよりも、”五百”に意味を持っています。
真言仏教では、五百は、盧舎那仏の宇宙仏の言葉を伝える釈迦の弟子として「顕教の仏の数」を云います。「五百羅漢」と云って、通常では昔、この僧侶等の事を”羅漢さん”と呼称されていました。
そこから、この「弘法大師の辺路の所縁」からこの地名が付けられたものと観られます。
本来、「木」は古来より、三世紀ころからの「自然神の対象」として、崇められていて、「真言宗」はこの「自然神の概念」の傾向を強く持っていますし、「毘沙門天」等の「三宝信仰の仏像」も真言宗は祭祀しています事から、その伝統が地名に使われて、「羅漢さん」と「木」を組み合わせて出来た地名では無いでしょうか。
現在でも、神社では「楠木や青木や榊や毘沙木」がこの神木化しています。
大きい古い木で、虫の着かない様な樹木は古来より、「神の宿る木」として、崇められてきました。
「自然神」は日本古来の最古の宗教です。卑弥呼が使っていた占いはこの自然神です。
「卑弥呼の時代」からあります。
奈良期には、「和魂荒魂」、平安初期には「三宝信仰」等全てこの自然神からの出自です。
「青木氏の祖先神の神明社信仰」もこの系列です。
お便り
>この地には『南北朝の戦いの後、伊予に移動した楠木正成の末裔によって拓かれた』との伝承があるのです。
>以下、その伝承を記述します。
>『内子町河内』の地名と河内家は現在も存在し(五百木の北方山中)、『菊水寺』も現存します。2つの伝承は、この菊水寺と河内家を中心に伝わったもののようで、河内家では自らの一族を『伊予楠木家』と称する一方、讃岐に落ち延びた一族(『木地家』と称したそうです) 以上の『楠木正成末裔伝説』の信憑性については、ひとまず問いません。
>しかしながら、これらの伝承が内子の地に『南北朝の戦に関わって移動してきた何者か』が存在した残滓ではないか、と推定することは十分に可能と考えます。さらに当地に『西光寺』、そして可能ならば『五百木地名』の痕跡があることを加えますと、次の推論が浮かび上がってきます。
>この内子の地こそ、紀伊から伊予に落ち延びた当家が、最初に移り住んだ土地であったのではないでしょうか。
お家が最初に移り住んだ土地は上記しました通り、当初から判っています。
「土佐州浜紋」で証明できます。
放念される事を期待します。
次に、上記しました様に、「楠木正成の末裔伝説」は、紀州赤坂村の記録にはありませんが、あり得る事かも知れませんが、殆ど「江戸期の搾取偏纂」ではと観られます。
楠木氏は元は、室町期の1300年代の「鉱山職人の出自」で、その鉱山の銀産出で一山当てた者で、その者が紀州赤坂村に住み着いて、その金で、身分を買い、土地の土豪と成ったものです。
一時、「伊勢青木氏の伊勢シンジケート」の一員でした。
この者が良く勉強し、学識を高めて、南北朝の時に南朝が窮地に陥っていたところをこの学識の事を知った南朝は、藁をも掴む気持ちで呼び出したものなのです。
現在で云えば、「一発屋」と云う処でした。
土地の土豪連中をこの金銭で集めて、3000人程度集団を造り、山城に籠ったのです。
この時、これを軍事と経済的に支援したのが「伊勢シンジケート」でした。
山の山間部でゲリラ活動をして、「相手の食糧」を絶つと云う不戦勝利の戦法を採ったことから、10万と云われる大軍であることから、直ぐに軍が飢えが起こり2000人が死に至り、極端に戦力が低下して一時的に勝っただけなのです。
この事を知っていた九州に逃れた足利氏は、今度は青木氏のシンジケートから離れ「平地での実戦」に出たのです。当然に勃興族の金でなった土豪は負けます。
この「楠木氏」は「姓族」で、お家の様に秀郷一門州浜族と云う大豪族での氏族ではありませんから、それほどに逃げなければならない氏の大きさは元来より持っていませんでした。
正成は死んだ後は周囲は、蟻の様に離散してしまいました。
現地に居られなくなった楠木氏は周囲からの脅威から八方離散で逃げ延びるしかなかったのです。
依って、極めて「信憑性」は低いと観られます。
「西光寺」も「五百木」も上記しました様に、論外にするべきことです。
むしろ、これは、お家の事を利用した搾取偏纂では無かったでしょうか。
お便り
>さらに二つの条件を挙げます。
>今ひとつは、当地を含む大洲・喜多郡地域が『紙の産地』であったことです。
>当地は今も和紙を生産していますが、これは大洲藩時代に再興されたもので、本来の喜多和紙は江戸初期までにほぼ廃れていました
>当家が伊予逃亡の際に頼った讃岐藤氏が、この紙の生産・販売に関わっていたことは確実とみてよい、と考えます。とすると、落人である当家を隠れ住まわせ、同時に生活の道を与える土地として、この喜多郡内子の地は非常に好条件ではないか、と考えるのです。(ちなみに当地では紙のほか、ハゼの実を原料とした『和ろうそく』を生産し、藩政時代は非常に栄えました)。
さて、内子については、多少疑問が残ります。
ただ、「和紙」と「ハゼの蝋燭」には同意しますので論じます。
「松阪商人」の一つで、青木氏と血縁関係を持っている「射和商人」と云う有名な豪商団体がありまして、この豪商がこの和紙と蝋燭の商いを各地にしていました。
「青木氏の松阪商人」も総合商社として行っていたのですが、この伊勢青木氏の援護を受けた「射和商人」も紀州ー伊勢の名産として青木氏が多く住む「土佐域」「讃岐域」に広めた可能性が室町期末期から商業記録では観られます。
この事は伝統シリーズ等でも論じています。
「和紙」の日本最古は、東大寺の記録でもあります様に、「伊勢和紙」で、715年に「楮和紙」での「試作ー生産ー殖産ー興業」とほぼ925年頃まで「伊勢青木氏」に依って開発と販売が行われました。伝統シリーズで論じています。
これは各所に記録として残っています。
この時、「伊勢青木氏」は、朝廷の「紙屋院と云う役」を務め、興業で「紙屋」と云う称号で朝廷で余った「和紙」を市場に出す事の「朝廷許可」を得て、「二足の草鞋策」を始めました。
当時の経済は「部制度」と呼ばれるもので、「職能集団方式」で「全ての殖産」で作られた物は、一度、朝廷に収め、必要な量を朝廷に残し、余った物は市場に出す仕組みでした。
この権利を開発者でもある「伊勢青木氏」が獲得したのです。
そして、この権利を、一族の他の「四家四流の皇族賜姓青木氏」に貸与して、「五大産地」として繁栄させました。
近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の「楮和紙」は1000年以上の歴史を持っている事は公の記録に記載されています。
この「伊勢の楮和紙」は、伊賀地方から紀州南部までに広めて手広く殖産をしたのです。
伊賀を故郷とする「平の清盛」も宋貿易の逸品にする程に優れた紙質でした。
室町期には、「紙文化の室町文化」が起こりましたので、「五家五流の青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」は250万石と云う「巨万の富」を獲得しました。
この時、お家も紀州に居ましたから、又、青木氏とは親交を深めていましたから、「伊勢楮和紙」は知っていた筈です。
江戸初期には、家康は、この「楮和紙の生産方法」を「伊勢青木氏」から伝授を受け、全国各地に生産拠点を移しました。
従って、お家が讃岐に移動してからもこの「和紙の生産」に関わった可能性は否定できません。
筆者の「商業記録」や「青木氏の譜」からは出てきませんが、「伊勢青木氏」から指導員を出した可能性はあると思います。
この「射和職人」が「土佐村」に移動して指導したと考えられます。
「土佐村のお家の御本家」は、上記しました様に、「大和絵の絵所領職」の役処があった事や、「紙屋院の役」を務めた「伊勢青木氏」との「深い親交」から観て、「楮和紙の生産」は「土佐村」でも行っていたと充分に考えられます。
この「ご推理」は当たっていますね。
「土佐村」から「西域の山間部」に分布したお家の一族から観れば、充分に考えられる事です。
尚、この楮は、山間部の様な処に良く生息する植物で、紀州と良く似た土地柄ですので、且つ、後に「幕府の奨励」もあって、生産した事は充分に有り得ます。
次に、驚くなかれ、「ハゼの蝋燭」は、明治期まで、何と「紀州北部から横に伊勢の北部」に掛けて、「蝋燭の最大生産地」でした。
「楮和紙」と同じく歴史的な「紀州伊勢域の名産品」です。
現在でも、「紀州北部の東域」には、未だこの「ハゼの蝋燭」は生産されていますよ。
紀州北部の山を観てください。特に、秋には「ハゼの紅葉」で山一面は真っ赤ですよ。
ハゼの木が無いところは無いくらいですよ。
これも明治期まで盛んに生産されていまして、筆者の幼少の頃まで近隣では未だ生産が盛んでした。
大変なご推理です。
お家の「土佐州浜紋一族」が住む「大洲から土佐村までの山間部」では、お説の通りと考えます。
間違いはないと考えます。
「山間部」で生き延びるには、何処でもそうですが、耕す田畑では一族を養ってゆくことは無理です。
何かの殖産をしなければ無理である事は充分に判っていた筈で、恐らくは紀州に居た時の知識と伊勢唐、上記しました「青木氏との関係」からお家の推理は絶対的条件としてあった事が頷けます。
先ず間違いはないと思います。
確か前回のお便りに「郡代の一色氏」の「青木氏からの手紙」や「一色氏の存在」は何かと繋がっている可能性が有りますね。
お便り
>当地に定着した当家はその後、小田川を伝って肱川の下流域へと、2度目の移動を行います。移動した時期がいつであったか、また移動先が残る2つの『ゆかりの地』のうち、大洲の『青木』『青木谷』か、あるいはやや上流域の『貫小屋』のどちらであったかは現在のところ不明です。
>ですが、あえて推論するならば、まず先に最も下流域の『青木』『青木谷』に移動したのでは、と想像します。 内子に逃げ延びて住み着いた当家は一時、大きく伸長し、大洲の地に『神明神社』と『西光寺』を建てて根を張った、と想像します。内子・五百木村から直線距離にして12キロほどですが、曲がりくねった川を下ったとすればその数倍の距離の移動でした。
最初、内子町に逃げ延びたとする推理説は若干賛成できません。
この当時、「讃岐藤氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の勢力範囲が、未だこの域までのものではありませんでした。
これは、武田氏系青木氏等の事でも判る様に、伊予側に迄勢力が進捗していませんでした。
「純友の乱」以降、一時衰退してその勢力は衰退します。
そして、再び、讃岐を中心に莫大な「瀬戸内の経済力」を背景に室町期までにその勢力を張ったのですから、内子説はちょっと無理ですね。
上記しました様に南北朝期末期には、讃岐と土佐の国境の山間部の土佐郡土佐村(土佐市ではありません)に住んでいた事が判っています。
それと、「時代の経緯」と秀郷一門の勢力圏の差があります。
お家は、土佐村から大洲域までの国境山間部の分布です。
お便り
>ここまで考えて、やはりどうしても無視できないのは『伊予宇都宮氏』の存在です。
>伊予宇都宮氏は、九州の豊前宇都宮氏6代頼房の三男・豊房が元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられて大洲に城を建てたのを始まりとし、最後の豊綱が天正13年(1585年)に没するまで八代を数えた、とされます。
>伊予宇都宮氏が実際に大洲に勢力を張ったのがいつになるのか、正確にはわかりませんが、当家が大洲・青木の地に根を張った時期と、ほぼ間違いなく重なると思われます。
>前述のとおり、彼らの居住区がほぼ重なっていたことも間違いありません。
>さて、ここで当家と伊予宇都宮氏の関係について、今一度、再評価すべきと考えます。
上記しました様に、西園寺と宇都宮氏との関係は、大洲域での事では、「長曾我部氏の侵攻」に対処して合力した事は否定はしません。
筆者も同じ考えです。
ただ「当家」と云う前提が、どの範囲ではあるかは判りかねますが、上記しました様に歴史的に「お家の分家」と云う定義では、あり得ます。
然し、ご本家は南北朝期からの歴史的伝統を明治期まで何とか維持していますし、秀郷一門がいきなり勢力圏外の伊予の大洲域や内子付近に何故、送り込むのでしょうか。あり得ません。
もし、お家の説としますと、「讃岐藤氏と讃岐秀郷流青木氏の勢力」は、讃岐と瀬戸内と伊予と土佐北部と、片喰族の秀郷流青木氏の阿波の国とで、本土四国を勢力圏に収めていた事に成ります。
本流は瀬戸内を越え北側の本島の安芸の国から日本海に伸びたのです。
これは全く歴史的に間違っていますよ。
戦国時代は、土佐は「長曾我部氏の勢力範囲」から観ても、又、伊予は「河野三氏一族」と後に西園寺氏の支配と成りますから、「讃岐藤氏と讃岐秀郷流青木氏」はここまで勢力を持ち得ていませんでした。
然しながら、「伊予の宇都宮氏」と立地関係に於いてお家の関係は確かに短期間の中でのほんの一時的な関係で認められますが、そもそも、宇都宮氏の伊予での勢力図は歴史上の範囲に載って来ない範囲ですよ。
上記した様に、伊予は河野三氏と長曾我部氏と西園寺氏の範囲です。
「青木村や神明神社」があるからと云って、ここは同じ「菩提寺名」や「村名」を持つ「讃岐青木氏の定住地」でもあるのですよ。全てお家とは成りません。
以前も今回も何度も「神明社」と「神明神社」は必ずしも一致しないと申し上げています。
「西光寺」も、その宗派と時代が異なれば、「秀郷一門の菩提寺」とは限らないと申し上げています。
その家柄と経緯と由来にあった宗派で無ければ同じと云う訳にはゆきません。
「西光寺の浄土宗」か「浄土真宗」は、「秀郷一門」、「曹洞宗」は、お家の様な紀州からの移動族の様な場合に於いては、「浄土宗系の曹洞宗」と成ると説いています。
余りにも、史実と歴史観に結びつかない推論として、「宇都宮氏との結び付き」を作り上げようとするのは疑問です。
何度も云いますがそもそも「青木氏」では「巴紋」は家紋ではありませんよ。
お便り
>当家と伊予宇都宮氏との関係については、
>もちろん当家が『青木』『青木谷』にいつか居住し、いつそこを去ったのか、それを知る確たる史料は無いため、かならずそこで接点を持った、とは言い切れません。
>ただ、ここで思い出されるのは当家の家紋『左三つ巴』。そして、家伝に混じり込んだ宇都宮氏由来の伝承(藤原北家・藤原道兼)です。さらに、現在の檀家寺『大楽寺』が、宇都宮氏の再興による寺(元々は天台宗大楽院として建てられた。宇都宮堂房(いえふさ)によって開基された。
>房綱は天正13年(1585)に長曽我部氏に討たれてしまっていた。
>さらに当家が大洲の地に『西光寺』を持っていたとするならば、少なくともその時期までは家紋等のステータス管理も行われていたはずで、忘却や取り違えは考えにくいと思われます。となりますと、当家の家紋は武家の仕来りに従い、正しく『左三つ巴』に変更された、と考えるのが自然ではないかと考えるのです。
このお考えは、上記しました様に、「三つ左巴」紋は「家紋」では無いと云う事です。
お家は「土佐州浜紋」です。
更に、前回からも「お家の西光寺」は、家紋やルーツ名やお家の伝統を系統的に維持する態勢の無い「曹洞宗の宗派の顕教系の西光寺」だと申し上げています。
逆に、故に「お家の菩提寺」だと申し上げているのです。
「密教浄土宗」のみが、この「ルーツを継承する仕来り」を持っていて、後は、”顕教だ”と何度も申し上げています。
もう一度前回からのお便りを良く租借してお読みください。何度も論じています。
その他は「人別帳」で、「寺の経営」も庶民全般から浄財を集めて「檀家方式」に依る運営です。
「浄土宗」は、「福家に依る達親方式」です。
依って、ルーツは愚か家紋などは論外です。
念の為に、そもそも、「家紋」として持ち得たのは、朝廷が認めた高位の「氏族」であって、朝廷が認めていない室町期中期からの勃興族の「姓族」では江戸期に成ってからですよ。
そもそも、元よりのその概念が「姓族」には無かったのです。
家紋化したのは江戸初期ですが、家康が作り上げた「権威造成」による「姓族の習慣」ですよ。
家康が嫡男が家を継ぐと決めた時からのきっかけで「家紋化」が積極的に起こったのです。
この区別を是非つけて頂くようにお願いします。
依って、このお説には、同意しかねます。
お便り
>内子から大洲へと伸長した当家は、そこで伊予宇都宮氏と縁を結びます。前回の副管理人様の御回答で、伊予宇都宮氏が『讃岐藤氏の生き方を真似た事に依って読み間違えた』と分析しておられましたが、まさにそのようであったと想像します。『青木』『青木谷』に隣接する『宇都宮神社』には、下野の宗家からは失われたとされる『日光山並当社縁起』 が伝えられ、文明九年(1477)に宗家の下野宇都宮氏十六代正綱が奉納したと署名があります。奉納の真偽は置くとしましても、伊予宇都宮氏が本家との関係を強調し、『伊予の宇都宮』を標榜せんとした形跡が随所に見られるのです。(大洲・喜多郡には『宇都宮神社』が多く建てられ、内子・五百木にも建っている。『仁平3年(1153)に下野国より勧請』という、かなり『?』な社伝がある)
この事に付いては、同感で間違いはないと考えます。
ただ宇都宮氏との血縁の有無には時代性から観て困難です。
お便り
>当家は、この伊予宇都宮氏の野望に『乗った』のではないかと想像します。フィクサー・スポンサーのような存在だったかもしれません。
>しかし、結果としてこれは失敗します。
>大洲は北の河野氏、南は西園寺氏、土佐からは長宗我部氏と、まさに四面楚歌の状況に追い込まれます。土佐の一条氏と縁を結んだこともあったようですが、結局はどちらも滅びてしまったのはご承知のとおりです。
>当家が大洲南方の山中、『貫小屋』に三度目の移動をしたのは、この時期ではなかったかと想像します。居住地の移動というよりは、ステイタスとしての神社と寺を、護りやすい山中に移動させた、というところではないでしょうか。ここまでは、まだ当家もステイタスを維持できていたことになります。
>ですが宇都宮氏が滅び、当地が豊臣秀吉の支配地となって、状況はさらに悪化します。
>特に天正15年(1587年)、伊予大洲を領有し伊予南域を支配した戸田勝隆の時代、当家のような郷士は、相当に迫害された様子が伺えます。戸田氏は今も、当地では非常に評判の悪い人物でして、『そこまで悪くもなかった』という説がある反面、司馬遼太郎氏などは『暴君説』をとっていらっしゃいます。
この事も上記しました通りで、同感で、間違いない事だと考えます。
戸田氏は「秀吉の命」を受けての行為であって、「追い出し」と「自然滅亡」を期待しての措置であったと観られます。
ただ、無暗にやりますと、「秀郷一門の郷氏の反発」を受けて「自らの存在」を悪化させますので、弱らせて追い出すの程度を目標としていたと考えられます。
例えば、上記しました様に、「長曾我部氏」が採った様に、「秀郷一門の勢力」を気にしてお家を潰さなかった事、又、大内氏の様に、騙して集めて門を閉めての「郷士集団の皆殺し」と云う事にも成り、後の治世に悪影響を及ぼしたこの二の舞を踏みます。
お便り
>この時代、どうやら多くの郷士の菩提寺が破壊されたり、土地の簒奪も起こりました。これに対して激しい反乱も起こりましたが、戸田氏はさらに強烈な締め付けで対抗し、泥沼のような状態になったことがうかがえます。(逆に戸田氏断絶の後、大洲・宇和島藩に入った加藤・伊達の両家は、土地の郷士に対して非常に気を使った形跡がある)。
>その戸田のお膝元で、当家がそのまま居続けることは不可能でした。
>戸田氏の大洲入りが天正15年(1587年)、当家が今の土地に来て、初代が亡くなったのが寛文7年(1667年)。その間80年。
戸田氏の事は、同意します。
「大内氏の皆殺し」が良い例ですよ。
ここで、間違いを起こしています。
何度もお答えしていますが、お家の様な秀郷一門以外の土着では無い「郷士」以外は、そもそも「菩提寺」を持つ事はあり得ません。
「姓族」ですよ。持つ事はあり得ません。
「多くの郷士」は間違いです。
何度も云いますが、「菩提寺」と「檀家寺」は根本的に違います。
宗教概念もシステムも経営も管理方式も何もかも違います。
「姓族」と「氏族」は、根本的な「慣習仕来り掟」が違うのです。
「顕教の姓族」の「家紋」と、「密教の氏族」の「象徴紋」が違うと何度も述べています。
この事から租借していただきたいものです。
お便り
>その間、当家はゆかりの地を追われ、讃岐藤氏の支援も受けられず、今度こそ『神明神社』『西光寺』のステイタスも失い、伊予のさらに南域・おそらくは『三間郷・曽根青木家』が勢力を持っていた土地に逃げ込みます。
>この『曽根青木家』については別に調査を進めており、彼らが三間の土地において、ある大きな動きを起こしていたこと。そして当家とはやはり『近江の縁』があったと思われることなどが推定されています。それについても、いつかご報告できればと思っています。
>ともあれ、曽根青木家の勢力下といえども讃岐藤氏の影響から逃れることはできず、また菩提寺を失ったからといって曽根青木家と同じ天台宗に改宗する、という選択肢もなかったと思われる当家は、辛うじて宇都宮氏に縁を持つ現在の『大楽寺』で檀家となるのが精一杯だった、と想像します。
>そしてどうにか現在の地に落ち着いた当家は、『左三つ巴紋』と『青木』の名だけをステイタスとして伝え、伊予南域の農家として生きてきた、そのように想像するのです。
このお説には同意いたします。間違いはないと思います。
「三つ巴紋」は賛成できません。
「三つ巴紋」をどの様に信じるかはお家の自由ですが、史実は異なっています。
「土佐州浜紋」が明確に有りますので、史実に外れる歴史観には理解ができません。
「青木氏」については上記しました通りです。
ただこの南域から東域にかけては多くのお家とは異なる青木氏が存在しますし、青木村も正式に持ち得ていますので、間違われない様にしてください。
調査の際には、お家の「土佐州浜一族」は、「曹洞宗」である事を前提にしてください。
「密教」としながらも、その概念は顕教の曼荼羅仏を宇宙仏とし、釈迦を伝道仏としている訳の分からない天台宗と真言宗があります。
この事もなかなか知識を獲得するのも難しいですが、頑張ってください。
青木氏には欠かせない知識です。
大変、長文に成った様ですが、是非、他氏とは全く異なり、「青木氏」としての特異な慣習に縛られた多くの「歴史観」を是非ご理解頂きます様に。
家紋や象徴紋は、特異な分野であり、なかなか高度な知識を獲得するのは難しいですが、少しずつでも良いですが、何とかご理解ください。
「青木氏」には絶対に欠かせない歴史観です。
今回は大変な量のご質問でしたので、より判り易く成る様にご説明したつもりでですが、その為にお便りが遅れました。
然し、そのご推測が以前より一段と高まり、その洞察力が高く成った事に驚かされました。
お家のルーツは一応は大まかには判っていましたが、そのルーツ周辺をよりご理解しての事に成る様に、留めていました。
更に、御研究される事を期待します。其れには青木氏が持ちます「歴史観」を是非収得される事を期待します。この歴史観が無ければなかなか正しいルーツに辿り着けず矛盾を多く含んだものと成り得ますので、これを是非サイトからのお願いとします。
筆者も出来るだけ丁寧に詳細にはっきりとお伝えする事を旨としてお便りをしています事を御理解ください。
では、以上の事でご質問やご不明な点がありましたら、又、何か新たに判りましたらお便りください。
お待ち申し上げています。
いつもながら迅速かつ丁寧な御返事、ありがとうございます。
おかげさまで今治の『青木里』については合点がいきました。
ですがもう一方、大洲の『青木』『青木谷』、及び『西光寺』『神明神社』については、これまで調査していたのが主に宇和郡以南であり、北部の大洲・喜多地域はまったく視野に入っていなかったため、これが我が家のルーツにつながるのでは、という副管理人様のご指摘に非常に驚いております。
ただ、そのご指摘でひとつ気になるのは、仮説通り大洲の『西光寺』が当家の菩提寺であったとするならば、これまでの『本来の家紋である州浜紋のステイタスを忘却した結果、現在の左三つ巴紋に変化した』、という推定に疑問を生じます。一族の情報センターである菩提寺には、必ず家紋の情報も伝わっていたはすでず。
この疑問の追求はいったん置かせていただくとして、改めて大洲・喜多郡地域に目を向けますと、大変興味深い情報を発見することができました。
その情報を元にしますと、当家が紀伊の青木村から四国へと落ち延びた当家が、現在の伊予・宇和郡に至るまでの経緯について、ひとつの仮説を構築することができるのです。
ただ、その中には副管理人様に分析・評価を頂いたこれまでの分析に反する部分も出てまいります。自分なりに『頂いた分析には反するけれども、このように考えるのが最も自然ではないか』と判断するものではありますが、当然ながら歴史の素人による調査・仮説ですので、失礼を承知の上、これまで以上に厳しいご批判を頂ければ幸い、と前置きさせていただきます。
話がやや広域に渡りますので、できれば愛媛県の地図をご用意頂いた上でお読み下されば幸いです。
さて、前回のご報告で大洲に『青木』『青木谷』の地名と、『西光寺』と『神明神社』が存在するとご報告しました。
やや分かりにくい点もあったかと思いますし、書き漏らした部分もありますので、今一度、この点をご報告させていただきます。
大洲市は愛媛県有数の大河『肱川』が流れる盆地に広がる街です。川は南から北へ、大きく蛇行しながら流れており、『青木』『青木谷』の地名は町の北側、川の流れで言えば下流域の『五郎』に残っております。藩政時代に当地を領有した大洲藩・加藤家(米子から転封)の記録には『五郎村』とあります。
hhttps://goo.gl/maps/HXjEj
上記のネット地図を閲覧いただければ、肱川の北側に細い川が注いでいるのをご確認いただけると思います。その辺りが『青木』『青木谷』です。そのすぐ東側に伊予宇都宮氏が下野から勧請したとされる『宇都宮神社』、さらに東側に『城願寺』という寺も見えると思いますが、ここが伊予宇都宮氏の菩提寺です。長宗我部氏の侵攻時に破壊され荒廃していたものを、藩政時代に復興したとされます。東側に等高線の盛り上がった丘がありますが、そこが伊予宇都宮氏が最初に居城とした(後に現在の大洲城の原型となる城を建てた)城跡とされます。
『青木』『青木谷』が、宇都宮氏ゆかりの地に囲まれて存在しているのが分かると思います。
『神明神社』『西光寺』は、『青木』『青木谷』から肱川を挟んだ南側の『若宮町』にあります。上記ネット地図でも位置が確認できると思われます。『神明神社』は、肱川にかかる橋を渡った大洲市役所・喜多小学校のすぐ東側、『西光寺』はそこから東に500メートルほどの場所にあります。『西光寺』については寺伝で『本来は別の場所にあったが、肱川の反乱で何度も被害を受けたため、当地に移動した』とあり、現在は『曹洞宗』ですが、本尊は『阿弥陀如来』です。
まずは大洲市の中心部に、以上の地名と遺跡があることをご承知ください。
そして、ここから南へ5キロほどの山中に『貫小屋』という集落があり、そこに『神明神社』があります。ネット地図にも『神明神社』が確認できます。さらに現地の地誌に、この神明神社と敷地を同じくする西光寺という寺があったが、今は手水鉢と墓地の一部、仁王経の版木、木像などが伝わるのみで、墓地の年代から江戸中期までは存在したと思われる、との記述を発見しました。この貫小屋の『神明神社』と『西光寺』については、藩政時代の記録に記載がなく、当時には既に忘却されていた可能性があると思われます。
まだ現地調査などはできていませんが、いずれ訪ねてみようと思っております。
さて、思いがけず大洲の地に『神明神社』『西光寺』が二組、発見できたわけですが、実は地図を広げて視線をさらに上流へと移しますと、もう一か所、『西光寺』が発見できるのです。
大洲市の東隣り、肱川に注ぐ支流『小田川』の流域にある『内子町』に『西光寺大師堂』なるお堂が存在します。当地の地誌によると正式名は『金栄山西光寺』(堂にはその扁額も掲げられている)で、『西光寺の廃寺跡』と記述されているのです。お堂の建物自体は江戸前期のものとされ、四国遍路の道中にあることから、遍路の宿泊・お接待所として長く利用されてきました。別の地誌には『西光寺・真言宗寺であった』ともありますが、四国遍路の宿泊所として『大師堂』と呼ばれたことから曲解された可能性があると考えます。
残念ながら、当地には『神明社』『神明神社』を見つけることはできませんでした。当地・内子町は『喜多郡(宇和郡の北、『北郡』から変化したともいう)』に属し、江戸期が大洲藩領でしたが、その記録にもありません。
ただ、堂が立つ土地は現在も『五百木(いよき)』といい、藩政時代は『五百木村』でありました。『青木』が古くは『うぉーき』、『あうぉーき』と発音されていたと、当サイトで教えていただきましたので、『青木(あおき)=五百木(いよき)』と変化した可能性はないか、と考えます。もしそうであるならば、同じ大洲・喜多郡に三つ目の『青木氏ゆかりの地』があることになります。
さらにこの内子町の地誌を読んでおりますと、大変興味深いことがわかりました。
この地には『南北朝の戦いの後、伊予に移動した楠木正成の末裔によって拓かれた』との伝承があるのです。
昔ならば『どこにでもある落人伝説』と一笑に付したかもしれませんが、当家のルーツ調査で判明・推定された事柄を総合すると、あながち見過ごせない情報です。
以下、その伝承を記述します。
『河内国水分の土豪楠正成の二男正儀は、父討死の時幼少(8歳)で千早城に住していた。その嫡男正秀も千早城に居住して再起の機をうかがっていたが、南朝の盛運も次第に傾き、正盛父子は残党を従え、明徳3年(1394)南北朝和睦以後、伊予の国に渡ったという。伊予には宮方、土居、得能の旧交の人びとがおり、父子をいたわり敬い、喜多郡の山村に居を構え、近隣を横領した。菊水の紋所は、楠と知れることを恐れ且つ先祖の名を憚り、紋は三ツ橋と定め、姓を河内として家を残した。後の五十崎(いかざき)竜王城河内駿河守吉行は実に正盛八代の孫である。吉行は曽根城の客将で、天正7年7月14日(1580)の竜王城攻めに加わり、戦功によって竜王城主となり、14年間在城した』。
また別の伝承では、『楠正成の裔孫・楠正之進正敏、応永の末頃嗣子・正賀等の一族を率い、河内の佐山(狭山)から喜多郡中居村(内子町大字河内)に移住したという。姓氏の橘楠木を憚りて「河内」を称へ、二代正賀になり中居村を河内村と改め、菊水寺を建て、楠氏を河内氏と改める。正賀は正敏の子で正成四代の孫。正賀八代の孫、河内駿河守吉行は、曽根の客将で大功があり、諸将が協議して竜王城主となる』とあります。
『内子町河内』の地名と河内家は現在も存在し(五百木の北方山中)、『菊水寺』も現存します。2つの伝承は、この菊水寺と河内家を中心に伝わったもののようで、河内家では自らの一族を『伊予楠木家』と称する一方、讃岐に落ち延びた一族(『木地家』と称したそうです)を『讃岐楠木家』と呼び、明治頃の記録では互いに交流を持っていた、とあります。
以上の『楠木正成末裔伝説』の信憑性については、ひとまず問いません。
しかしながら、これらの伝承が内子の地に『南北朝の戦に関わって移動してきた何者か』が存在した残滓ではないか、と推定することは十分に可能と考えます。さらに当地に『西光寺』、そして可能ならば『五百木地名』の痕跡があることを加えますと、次の推論が浮かび上がってきます。
この内子の地こそ、紀伊から伊予に落ち延びた当家が、最初に移り住んだ土地であったのではないでしょうか。
この推論を補強する根拠として、さらに二つの条件を挙げます。
ひとつには内子が山中の盆地であり、敗残の身が隠れ住むに適していることです。大河・肱川とは川でつながっており、少なくとも江戸期の記録では川伝いに小舟が行き来できたとありますので、下流との物流も確保されていました。
今ひとつは、当地を含む大洲・喜多郡地域が『紙の産地』であったことです。
当地は今も和紙を生産していますが、これは大洲藩時代に再興されたもので、本来の喜多和紙は江戸初期までにほぼ廃れていました。(同じく紙生産の廃れていた隣の宇和島藩が、土佐から人材を入れて再興したのを真似、大洲藩も土佐和紙を取り入れ再興したと藩政時代の記録にある)。
しかし廃れる前、本来の喜多和紙の生産記録は古く、正倉院の東南院文書に「天暦四年(九五〇)一一月二〇日 伊予国二百戸、うち温泉郡五十戸、風早郡五十戸、喜多郡百戸、租・庸・調・中男」とあるそうで、その量は喜多郡二七二〇張、温泉郡と風早郡が共に一三六〇張。当時から開けていた風早、温泉両郡の二倍を納めています。
当家が伊予逃亡の際に頼った讃岐藤氏が、この紙の生産・販売に関わっていたことは確実とみてよい、と考えます。とすると、落人である当家を隠れ住まわせ、同時に生活の道を与える土地として、この喜多郡内子の地は非常に好条件ではないか、と考えるのです。(ちなみに当地では紙のほか、ハゼの実を原料とした『和ろうそく』を生産し、藩政時代は非常に栄えました)。
推論を続けます。
当地に定着した当家はその後、小田川を伝って肱川の下流域へと、2度目の移動を行います。移動した時期がいつであったか、また移動先が残る2つの『ゆかりの地』のうち、大洲の『青木』『青木谷』か、あるいはやや上流域の『貫小屋』のどちらであったかは現在のところ不明です。
ですが、あえて推論するならば、まず先に最も下流域の『青木』『青木谷』に移動したのでは、と想像します。地図で見てもお分かりの通り、肱川河岸にある非常に便利な土地で、上流と下流の物流を抑えるのに最適です。最初に住み着いた内子エリアはもちろん、この肱川は本流を土佐国境に発しており、土佐との物流も盛んでした。かの坂本龍馬が土佐を脱藩した際に使ったルートがまさにこれであり、地元では『龍馬脱藩の道』として顕彰されています。
内子に逃げ延びて住み着いた当家は一時、大きく伸長し、大洲の地に『神明神社』と『西光寺』を建てて根を張った、と想像します。内子・五百木村から直線距離にして12キロほどですが、曲がりくねった川を下ったとすればその数倍の距離の移動でした。
ここまで考えて、やはりどうしても無視できないのは『伊予宇都宮氏』の存在です。
伊予宇都宮氏は、九州の豊前宇都宮氏6代頼房の三男・豊房が元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられて大洲に城を建てたのを始まりとし、最後の豊綱が天正13年(1585年)に没するまで八代を数えた、とされます。
伊予宇都宮氏が実際に大洲に勢力を張ったのがいつになるのか、正確にはわかりませんが、当家が大洲・青木の地に根を張った時期と、ほぼ間違いなく重なると思われます。
前述のとおり、彼らの居住区がほぼ重なっていたことも間違いありません。
さて、ここで当家と伊予宇都宮氏の関係について、今一度、再評価すべきと考えます。
当家と伊予宇都宮氏との関係については、こちらにご相談して間もない時期に、副管理人様より否定的な分析を頂いております。ですが今回、『当家の大洲における居住歴』が推定されたことにより、同説を改めて検証する必要があるのでは、と考えるのです
もちろん当家が『青木』『青木谷』にいつか居住し、いつそこを去ったのか、それを知る確たる史料は無いため、かならずそこで接点を持った、とは言い切れません。
ただ、ここで思い出されるのは当家の家紋『左三つ巴』。そして、家伝に混じり込んだ宇都宮氏由来の伝承(藤原北家・藤原道兼)です。さらに、現在の檀家寺『大楽寺』が、宇都宮氏の再興による寺(元々は天台宗大楽院として建てられた。宇都宮堂房(いえふさ)によって開基された。堂房は、豊前国の宇都宮鎮房の第3子。堂房は、萩森城主・宇都宮房綱を頼って九州より敗走してきたが、房綱は天正13年(1585)に長曽我部氏に討たれてしまっていた。そこで、房綱の姉婿である菊池武国を頼って、この地に落ち延びた)という点にも、改めて注目できるのでは、と考えます。
さらに当家が大洲の地に『西光寺』を持っていたとするならば、少なくともその時期までは家紋等のステータス管理も行われていたはずで、忘却や取り違えは考えにくいと思われます。となりますと、当家の家紋は武家の仕来りに従い、正しく『左三つ巴』に変更された、と考えるのが自然ではないかと考えるのです。
ここからは推論というより、単なる想像となりますのでご容赦下さい。
内子から大洲へと伸長した当家は、そこで伊予宇都宮氏と縁を結びます。前回の副管理人様の御回答で、伊予宇都宮氏が『讃岐藤氏の生き方を真似た事に依って読み間違えた』と分析しておられましたが、まさにそのようであったと想像します。『青木』『青木谷』に隣接する『宇都宮神社』には、下野の宗家からは失われたとされる『日光山並当社縁起』 が伝えられ、文明九年(1477)に宗家の下野宇都宮氏十六代正綱が奉納したと署名があります。奉納の真偽は置くとしましても、伊予宇都宮氏が本家との関係を強調し、『伊予の宇都宮』を標榜せんとした形跡が随所に見られるのです。(大洲・喜多郡には『宇都宮神社』が多く建てられ、内子・五百木にも建っている。『仁平3年(1153)に下野国より勧請』という、かなり『?』な社伝がある)
当家は、この伊予宇都宮氏の野望に『乗った』のではないかと想像します。フィクサー・スポンサーのような存在だったかもしれません。
しかし、結果としてこれは失敗します。
大洲は北の河野氏、南は西園寺氏、土佐からは長宗我部氏と、まさに四面楚歌の状況に追い込まれます。土佐の一条氏と縁を結んだこともあったようですが、結局はどちらも滅びてしまったのはご承知のとおりです。
当家が大洲南方の山中、『貫小屋』に三度目の移動をしたのは、この時期ではなかったかと想像します。居住地の移動というよりは、ステイタスとしての神社と寺を、護りやすい山中に移動させた、というところではないでしょうか。ここまでは、まだ当家もステイタスを維持できていたことになります。
ですが宇都宮氏が滅び、当地が豊臣秀吉の支配地となって、状況はさらに悪化します。
特に天正15年(1587年)、伊予大洲を領有し伊予南域を支配した戸田勝隆の時代、当家のような郷士は、相当に迫害された様子が伺えます。戸田氏は今も、当地では非常に評判の悪い人物でして、『そこまで悪くもなかった』という説がある反面、司馬遼太郎氏などは『暴君説』をとっていらっしゃいます。
この時代、どうやら多くの郷士の菩提寺が破壊されたり、土地の簒奪も起こりました。これに対して激しい反乱も起こりましたが、戸田氏はさらに強烈な締め付けで対抗し、泥沼のような状態になったことがうかがえます。(逆に戸田氏断絶の後、大洲・宇和島藩に入った加藤・伊達の両家は、土地の郷士に対して非常に気を使った形跡がある)。
その戸田のお膝元で、当家がそのまま居続けることは不可能でした。
戸田氏の大洲入りが天正15年(1587年)、当家が今の土地に来て、初代が亡くなったのが寛文7年(1667年)。その間80年。
その間、当家はゆかりの地を追われ、讃岐藤氏の支援も受けられず、今度こそ『神明神社』『西光寺』のステイタスも失い、伊予のさらに南域・おそらくは『三間郷・曽根青木家』が勢力を持っていた土地に逃げ込みます。
この『曽根青木家』については別に調査を進めており、彼らが三間の土地において、ある大きな動きを起こしていたこと。そして当家とはやはり『近江の縁』があったと思われることなどが推定されています。それについても、いつかご報告できればと思っています。
ともあれ、曽根青木家の勢力下といえども讃岐藤氏の影響から逃れることはできず、また菩提寺を失ったからといって曽根青木家と同じ天台宗に改宗する、という選択肢もなかったと思われる当家は、辛うじて宇都宮氏に縁を持つ現在の『大楽寺』で檀家となるのが精一杯だった、と想像します。
そしてどうにか現在の地に落ち着いた当家は、『左三つ巴紋』と『青木』の名だけをステイタスとして伝え、伊予南域の農家として生きてきた、そのように想像するのです。
相当に勝手な妄想も含まれますし、内子・大洲の現地調査も未だ果たせておりませんので、副管理人様のお叱りを受ける部分もあろうかと思いますが、今のところはこれで精一杯というところです。
長文となりましたが、よろしく評価・ご批判を頂ければ幸いです。
今日は お元気ですか。
ルーツ探究は進んでいますか。
前回のお答えには、書き切れなかった事として次の事が在ります。
このお便りをする事が、お家の調査や本サイトの読者のご努力に必要以上に「先入観」を与える可能性があるとして控えていましたが、敢えてお便りをする事に致しました。
本サイトで得られた知識と合わせて調査されるとご理解が深まる事もあり得ますので、お便りを差し上げる事にしました。
実は、このお便りは実に重要な事なのです。
必ず「お家のルーツの根拠」と成る事には、間違いないと思います。
全国に分布する[柏紋の青木氏]に執っても参考に成ると思います。
実は,それは次の事にあるのです。
前回までのお便りは「青木氏」に執っては大変に貴重な情報でした。有難うございます。
と云いますのも、この埼玉には,下記に示す様に、極めて「古い神明社」が多くあって,「伊勢と信濃の青木氏」が「初期の段階」で建立したと考えられている「祖先神の原型」と観られる「神明社」が、この「奈良期の遺跡」と成っている「深谷の地域(瀧宮)」にあったのです。
ですから、ここに当然に、初期の「神職の柏紋」を「象徴紋]とする「伊勢青木氏」がここに赴任している筈なのです。
つまり、この近隣に「柏紋を象徴紋とする青木氏」の「現地末孫」が定住している筈なのです。
他の地域の「神明社]も可成り確認できているのですが、この「深谷の瀧宮神明社」には、「古く歴史ある神明社」である事から、何か遺されている事を期待していたのです。
ところが、この「武蔵の国」には、関西に比べて「神明社の伝統」に関わらず資料や伝統や遺品が少ない事が云えるのです。
平安中期以降には、同族の「秀郷流青木氏」に関して「116氏」も居たのに、比較的その様な「資料や伝統や遺品等」が不思議に遺されていない事が云えるのです。
これは、関東に於ける「時代性の変化」が大きかった事が原因しているのですが、最低限でも”滅亡した”と云う記録が無い事から、つまり、「人」は残っているのですから、「家紋的な事」は未だある筈と観ていました。
ところが、研究を進める中で、残念ながらこの事が掴めませんでした。
恐らくは、次ぎに述べます様に、「柏紋の青木氏」は、長い間、その「家筋」から「生活の自由度」が「慣習仕来り掟]に縛られて、どの地域でも「子孫]を大きく拡大をさせていない事があるのです。
これは、「皇族賜姓族の氏の家柄(純血性 同族血縁)」や、「神に仕える身の神職」と云う立場もあった事もあり、且つ、「五家五流の青木氏」の「福家筋]から、「四家制度」に依って”「神職]を派遣される”と云う安心もあり、又、赴任後も、”出自先に帰れる”と云う安心感の事もあって、何処でも大きな「子孫繁栄の形」が無かったのです。
(「秀郷流青木氏」は、逆に赴任先に「現地孫」を遺す事を義務付けられていた。)
ですから、当然に資料や遺品なども少なく容易には検証が難しかったのです。
江戸期初期には、未だこの「貴重な青木氏の伝統」が、その関係者の中では”「伝統」”として遺されている事が一般的であったのですが、これは、”「ある事」”で判っているのです。
この「ある事」とは、それは、”「甲斐の青木氏」の「柳沢吉保」がこの事を知っていた”と云う事なのです。
そして、この”「柳沢吉保」”は、ここに(所沢中尾)、何と”青木氏の守護神として神明社」”を建立しているのです。
何故、この「柳沢吉保」が、”「青木氏の守護神の神明社」なのか”と云う疑問が湧くと思いますが、それには、「下記」に示す「確実な理由」があったのです。
この”「ある事」”に付いては、歴史家の中でも余り知られていない事なのです。(下記参照)
ですから、筆者は、必ずこの「象徴紋である柏紋」は、”この地域に小さいながらも必ずある”と観ていました。
これを確認出来れば、「伊勢青木氏の古代の柏紋を象徴紋とする青木氏」が「何らかの形」で、この地に末裔が定住している事が証明出来ますし、又、「神明社」の事もより明確に証明できます。
これは普通は、その「神社の由来」を調べれば判る筈なのですが、残念ながら、「神社」はこの具体的な証拠を公的に遺さないのが通例なのです。
その”「古い」”と云う事が、”「神と云う神秘性」”から一般的には公的にはっきりさせないのです。
取り分け、この「深谷の瀧宮」の様な「極めて古い神明社」(建設様式で決まる)は、「古い事」からそれを物語るものが「日本書紀の程度」しかないと云う事もあるのです。
殆ど、室町期中期前迄には遺されていたとしても、その後には、この様な「高位の家柄の氏」は「下剋上」で潰されて、”「戦国時代の戦乱」”で焼き討ちされて消失しています。
「神社」は、古来より「戦いの拠点」とも成りましたので、「神職の柏紋の青木氏」も巻き添えを食って、「滅亡の憂き目」もあり得ると観ていました。
従って、その環境下の中で、お便りを頂きました時に、大変に驚きました。
そもそも、「深谷」のこの「瀧宮の地」は、秩父山の雨水が荒川に流れ込み、その地下水系がこの深谷の地に湧き出て来る非常に水系に恵まれた土地柄です。
この「水系の恵み」を頼って、ここに奈良期から多くの人が集まり住み着いた場所で、「古い遺跡」の地域でした。
この地に、平安期初期に朝廷は、「青木氏」に「大神明社」を建立する事を命じ、「皇祖神の天照大神と豊受大神」を祭祀したのです。
これが、通称、その「象徴」と成り得るべき「瀧宮神明社」なのです。
そして、この「神明社に湧き出る水」は「神の水」として扱われ、その川に流れる様を以って、瀧に見立てて「瀧の宮」と名付けられたのです。(歴史的には有名な事)
この様に「悠久の歴史」を持ち、「由緒ある憂愁明媚な土地柄」であった事から、この地に初期の「神明社」を建立し「青木氏の神職」を必ず配置し、是非に「現地孫」を遺したと観られるのです。
(注釈 「天智天皇」は、「蘇我氏の横暴」の反省から「大化改新」を実行しましたが、その中の一つとして「自らの考え」を信頼できる身内にやらせる事で,「臣下の横暴」を防ごうと考えました。その為に、「第六位皇子の施基皇子」を賜姓して、臣下させました。
「臣下族」に成ったにも関わらず「官位官職」などの[権威」を「皇位継承者族」より遥かに上の「最高位」(天皇に継ぐ身分と地位)にして与え、「青木氏」を発祥させるシステムを採用したのです。
そこで、注釈として「神職の青木氏」である場合は、知って置くべきことがあるのです。
それは「伊勢王の施基皇子]の弟の「第七位皇子の近江王の川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」も同様なのです。
ただ、この「賜姓族の第六位皇子」の外でありながら特別に賜姓を賜った「天智天皇の賜姓族」の「近江佐々木氏」は、「青木氏」の様に「氏存続の要の経済力」を高める為に「二足の草鞋策」を採らなかったのです。
故に、「国策氏」等としての力はあまり発揮されなかったのです。
それ故に、「神明社の神職」、「菩提寺の住職」に力を注いで兄の「青木氏」を助けました。
奈良期の段階では、「佐々木氏」との「神職」に依る同族血縁が起こっているのです。
恐らくは、場合に依っては,埼玉地域の周囲に「柏紋の佐々木氏」も存在する事もあり得ます。
(「近江佐々木氏系青木氏」が存在する。)
「東北北陸」の広域陸奥域には、「神職の佐々木氏」が実に多いのはこの事に依るのです。
逆に、「広域陸奥」には存在する事はするのですが、「神職の青木氏」が少ないのは、この「佐々木氏の補完」があったからなのです。
当然に、同族で血縁していますので、その結果として「柏紋の佐々木氏」も多いのです。
この「与えた役目」が”「三つの発祥源」”と呼ばれるもので、その一つの務めとして”「国策氏」”を担いました。
つまり、「皇族の身内」が「実際の政治」を「執政」として実行するシステムの「第一期皇親政治」が始まったのです。
「天皇の身辺を護る事」や、「皇居を護る事」から始まり、「政策立案、実行、監査」の末端までをこの「国策氏」が、「自らの氏の力」で行うシステムです。
それには、「経済力、軍事力、政治権力」の「三権」を獲得する必要があります。
「経済力」には、「内蔵の天皇家の財政」を頼らない「和紙の開発・殖産」などの「二足の草鞋策」、「軍事力」には「守護神の神明社を使ったシンジケート」、「政治権力」には「授与された最高位の権威」で対応しました。
その「国策」の中の一つとして、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を、政治的に平定した各地に、その印として,又、「国家のステイタス」(国家統一)として建立する必要性が出ました。
この一つが、「柏紋の神職」であったのです。
その為に、「青木氏」は、この「神明社の神職」を「自らの氏の組織」の中で養成する組織の「青木氏部」(「国策氏」としての神明社や菩提寺や和紙製造等に関わるあらゆる職能集団 国策氏)を創設したのです。
そして、この「神職」には「青木氏」から輩出させました。
注釈 上記しました様に、「古代の社」は、単なる”民を安寧にする神を祀る”と云う目的だけでは無く、「政治権威の誇張]、「各地の情報網の拠点」、「軍事の拠点」、「皇族配置の拠点」、「政治の支所」等の「多くの役目]を持っていたのです。
この「役目]を担ったのが、「青木氏の柏紋族」であって、「柏紋」と云えば、決して「神職のイメージ」だけでは無く、影で”上記の仕事をする氏”とも観られていたのです。
これを司る氏の事を”「御師」(おし)”と呼ばれていました。
お家のご先祖も、”「御師さま」”と周囲から呼ばれていた筈です。
「伊勢青木氏」は、全国に配置したこの”「御師」”の「御師頭」を務めていたのです。
この「印象」とその「務め」は、周知の事として、実際にも江戸中期まで持たれていたのです。
つまり、故に、上記した「柳沢吉保」も「所沢」に「自らの守護神の神明社を建立」した上で、この自藩でのこの役目を果たさせ様としたのです。
「綱吉のお側用人」であった事から、江戸城から離れられない事が在って、この「青木氏のシステム」を採用したのです。
恐らくは、この「柏紋の神職の御師」から、各地の「神明社」からの「情報の連携」で「政治的な情報」を獲得してい事に成ります。
一種の「諜報官の様な役目」も果たしていたのです。
ですから、平安期末期までは、その中の一つに、”全国の民の安寧”を保つ為に全国に「神明社建立」と、その「一切の諸事の始末」を命じたのです。
この「仕事」を「国策氏の務め」として”「賜姓五役」”と呼ばれるものがあったのです。
つまり、その時の「初期の段階」で建立したのが、この「深谷の神明社」なのです。
その証拠に、一時、室町期末期に上杉氏の支配に入りますが、この上杉氏も、”余りの良き由緒ある「土地柄」”から、この「深谷の神明社」を”自らの現地上杉氏の守護神に指定する等”の事をしました。
上杉氏の「裏の目的」は、「東の端の勢力圏」と成った「深谷の地域」に、この「諜報活動の拠点」にするつもりであった事が考えられるのです。
その証拠に、しかし、この上杉氏も支配したここに”「軍事力拠点の城」”を建てましたが、時の勢いに負けて城は廃墟と成り、直ぐにこの支配が解け秀郷一門の下に戻ります。
要するに、「柏紋の神職」の末裔がこの深谷付近に確認出来ないのは、筆者は、”この時の乱世の影響を受けているのかな”とも考えていました。
そもそも、この「賜紋」の「柏文様」は、「伊勢の守護王」であった事から「伊勢神宮」の「神職の象徴紋」としても用いられた文様でした。
(注釈 「施基皇子」は、「日本書紀」に何度も出て来る様に、「天智天皇の執政」として忙しい為に、国司の「三宅連岩床」が代理を務めた。)
この後、「鎌倉期末期頃」に「青木氏の神明社の神職」が「象徴紋」として用いましたが、「室町期初期」には、「戦乱で勃興した豪族」等が”「類似紋の家紋」”として用いた物です。
この発祥期から観て、お家の始祖は、奈良期末期には、この「深谷の神明社」に赴任した時のその「現地孫の枝葉末裔」であると観られます。
そもそも、この「柏文様」は、「ブナ科」の木の広葉で、飛鳥期前には、食器として用いられていたものです。
「神に捧げるお供品」としての「柏餅の由来」も初期は「米餅の食器」としてのものであったのが、蒸して「柏餅」に成ったのはこの事から来ています。)
「中国の古書」にも「倭人は皿を用いず、「柏葉」を以ってして食器とし成し、手で用いて食らう」と記されています。
注釈 「青木氏の総紋の笹竜胆紋」と同じく、この「柏紋」は誰でもが使える文様では無く、許可なく使用する事を禁じていた文様なのです。
「嵯峨期の詔勅」に伴って出された禁令に依って、「青木氏の習慣と仕来りと掟」の一切を使用する事を禁じたのです。明治3年まで原則護られました。
従って、この「深谷」には、”他氏が使えない柏紋様”(同族の近江佐々木氏を除く)が遺されている事は、この史実の大きな証明に成るのです。
「天智天皇]と皇位争いで「壬申の乱」の政争でたおれた「有間皇子」は、熊野古道の「紀州藤白の坂」で,「蘇我赤兄」に殺害されますが、この時に詠んだ歌に、「家に居れば、飯井盛るしいも草枕、旅にしあれば、椎の葉(柏)に盛る」と詠んでいます。
つまり、既に、この時には、「柏葉」は「神技」の一つに成って居た事を示し、「榊木]や[青木]と共に”「神木」”であった事を示しています。
この「神木」から採った「アオキの木」を「青木氏」として賜姓を授かり、この少し前の647年に発祥しています。
この「青木の木」は、賜姓時に「青木氏」の「氏木」と定められました。
この「神木」(「青木」と「柏」)の二つを「氏木」と「青木氏の象徴紋様」と定められたのです。
(本サイトの写真館に載せています。)
そもそも、この様に色々な目的を持って「神明社建立」は、既に奈良期末期から建立に入っています。
京に都を移した「桓武天皇」(「伊勢青木氏」の「光仁天皇の子供」で「施基皇子の孫」)は806年までには、この「神明社」を既に「広域陸奥」に、記録から推算すると何と「20社の神明社」も既に建立していたのです。
注釈 平安初期は、可成りの伝染病や災害や飢饉や治安悪化などから「民のフラストレーション」が高まっていて、慌ててそれを鎮める為に建立した傾向があります。
この為に「青木氏の神職」は不足傾向にあったのです。
「身内の桓武天皇:孫」から「律令政治の完成」の為に、「皇親政治の青木氏」は軋轢を加えられて苦しんでいた時期でもあったのです。
そんな中での「柏紋の神職」を各地に廻さなくてはならない事に成っていたこの事から、恐らくは「深谷の神明社」は、この社会が不安定に成っていた前後の頃に、この社会安定を祈願しての「奈良期末期頃の神職」と成ります。
注釈 この「平安期の直前の時期」か、その少し前の「奈良期の後半の末期の時期」に建立された可能性が有ります。
(注釈 奈良期から平安期には”「陸奥」”の呼称は、「関東以北」を”「陸奥」”と一括して呼んでいた。)
「広域陸奥」の「南域末端の武蔵」のこの「瀧宮域の古跡」には、「神明社の建立」と「神職の柏紋の存在」は確実で、「神明社の存在」は既に確定されていますが、「深谷」に「柏紋の青木氏」が確認出来なかったのです。
奈良期末期には、「青木氏」(「桓武天皇の山部王」も「伊勢青木氏の出自」)に依って「20社程度」は既に建立されていました。(この時期の後半期に建立か)
その時からの、「柏紋様」は「青木氏の神職の象徴紋」であった事が云えるのです。
(注釈 この事から、奈良期から食事を作る者を「膳夫」(かしわで)と呼ばれる様に成りました。
そして、遂には、神社で手を合わせて叩く動作を「かしわで」と呼ばれる様に成ったのです。
この「食器]として用いられた事から、「神事」にも用いられる様に成りました。
そして、遂には奈良期末期には「神木」として扱われたのです。
つまり、この”「かしわで」”も「青木氏の由来」に関わっているのです。)
その事から、「神職」は、これを「神職の象徴文様](賜木)として「青木氏」が用いました。
「鎌倉期末期から室町期初期」の頃から、これを「高位の者が氏の文様」としたことから,室町期中期からは「周囲の氏」は使い始め、これを真似て、「姓族」から発祥したその豪族たちが「室町期末期」には「家紋化」したものです。
(注釈 「氏族」と「姓族」とは「家柄」が異なります。「禁令」で有る為に「類似紋」として許可を得ていたのです。
「氏族」とは、奈良期から平安期の朝廷が認めた氏で室町期中期以前にもルーツを持つ氏です。
「姓族」とは、農民や職人等から立身出世した勃興の姓で、室町期中期前のルーツを持たない姓、朝廷や幕府が認めていない姓です。「日本最初の姓族」は瀬戸内から出た「海部氏」)
この事から、他の神社系列の神職も,これに習って「柏紋」を変化させて「類似紋の柏紋」を用いました。
その「柏文様の原型」が「青木氏が用いた柏文様」です。
つまり、「お家の由緒ある文様」なのです。
結果として、この文様は、「132もの家紋」が出来上がりました。
その元は、お家の「象徴紋」からなのです。
この事から「青木氏」は、その立場から「総紋]である「笹竜胆紋様」を「家紋]とは呼ばずに、「青木氏」は「柏紋様」も含めて”[象徴紋」”と呼称していました。
そもそも、「皇族賜姓族青木氏」には、「子孫拡大」に依って「分家、傍流,支流」とその「枝葉末孫」の広がりで、普通は、”「家紋掟」”に依って「跡目」が「不継承」と成って「二代続きの養子」を迎えて仕舞うと、「養子先家紋」と成って仕舞います。
しかし、「青木氏」は、奈良期からの”「四家制度」”と云うシステムに依って”「純血性」”を保って、この「家紋の変化」を起こさない様にしていたのです。
従って、この「四家の末裔子孫」は「象徴紋(家紋)」であるので「青木氏」である限り変化しないのです。
全ての「四家(20家)に所属する末孫」は、「天智天皇」より賜紋の「笹竜胆紋」を、所謂、「家紋」では無く「象徴紋]として来たのです。
同じ「血統を持つ末裔子孫」である為に,「家」は原則的に無く、「氏」で纏まっていた事から、起こった「厳しい仕来り」でした。
従って、「姓族」が使う様な「家紋]とか「分家」とかは起こらないのです。
これは”「四家制度」”と云う「皇族系」に課せられた護らなければならないシステムで、「純血性」を護る厳しい「最大の宿命」でした。
但し、このお家の「神職の柏紋」だけは、”「神職」”と云う事からその「神に関わる氏」として、よりその「純血性」を保ち「特別な務め」を全うする事から「別扱い」とされました。
「笹竜胆紋」を「総紋」として、職柄から「柏紋」を示して、その「職域の重要性」を示した行為であったのです。
従って、尚更に、「家紋」では無く、且つ、「神職の特別な象徴紋」であったのです。
現在は、状況が変わっていますが、元は「氏の象徴紋(家紋)」が「笹竜胆紋」で、「職紋]が「柏紋]と云う考え方であったのです。
「職紋」を持つ氏は、日本の「氏姓」が8000もある中で、「青木氏」ただ一つです。
この「青木氏の仕来り」に真似て、「由緒ある悠久の歴史を持つ他の神社」は、この「柏紋の類似紋の使用」を特別に「朝廷」より許された「文様」なのです。
(徳川幕府初期に葵紋を始として「名家の家紋」に対して、「権威」を護る為に「類似紋の使用」を禁じた。)
例えば、「神明社」と同じ様に、奈良期から、平安初期からの「悠久の歴史」を持つ神社である「熱田神宮の千秋氏」、「宗像神社の宗像氏」、「吉田神道の吉田氏、卜部氏」、「吉備津宮の大守氏」等が許されて用いました。
さて、そこで、この「柏紋」の「祖先神」の[神明社」は、埼玉では次ぎの通りです。
この中で、直接的に「青木氏の柏紋の神職」の関わった「祖先神の神明社」は、「深谷の神明社]と、[所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社]が加わり4社に成るのです。(後は、後に建立された「神明社系の分社」等です。
「深谷の神明社」は、「伊勢神宮」の「内宮の天照大神」と、「外宮の豊受大神」とを祭祀する純然とした「神明社」で、「伊勢神宮」は「天皇家の守護神の”皇祖神”」で、この”「子神」”と定められた「皇族賜姓族の守護神」を”「祖先神」”とします。
この”「子神」の「祖先神」”を祀るのが”「青木氏」の「神明社」”であるのです。
「皇祖神」の神を祭祀する「子神」であるので、この「深谷神明社」は、「親神」の「皇祖神]と、「子神]の「祖先神」の両方を祭祀する神社形式(神明造)に成っています。
この「祭祀形式」は、極めて古い形であって伊勢神宮を祭祀した頃の形式です。
この「古式の祭祀形式」から奈良期からの形式であるのです。
やや遅れて、「所沢神明社」は「天照大神]を「親神]として祭祀しますが、「祖先神の神明社」を「主神]として祭祀する「神社」です。
この事から、西域の「深谷神明社」を創建した後に、やや遅れて続けて、東域に建立した純然とした「神明社]の「所沢神明社」であるのです。
次に「川越神明社」は、その中間の地に建立された純然として、「皇祖神の子神形式」で「祖先神形式の神明社」として建立されています。
平安期中期までに続けて建立されたものと考えられます。
この深谷地域、所沢地域,川越地域の「三つの神明社」は、「柏紋の青木氏」が関わった神明社です。
中でも、お家のご先祖が深谷地域に定住していたとすると、この「奈良期形式の創建」とされる「最も古い神明社」に「伊勢]から配置された神職に任じられた「青木氏」である事が判ります。
この奈良期に「神職」を配置できるのは、未だ「青木氏部」を持つ「始祖施基皇子」の「伊勢青木氏」しかありませんでした。
関東には、上記しました様に、余り「青木氏の伝統資料」が遺されていない事もあって、お家のルーツがどの程度まで辿れるかは、興味のある処です。
恐らくは、辿れても、資料が無い為に江戸初期か室町期末期までのものであると思います。
所沢と川越の地理的な由来から、お家の子孫が、この「二つの神明社」に配置された可能性が考えられますが、お家の末裔の広がりにも関わりますので、判断の情報が無ければ確定は難しいと思います。
普通であれば、その様に成るのが順当ですが、この所沢と川越から観て、難しいかなとも思えます。しかし、この「二つの地域性」と、「二つの神明社の祭祀形式」と、この「武蔵の時代性」と、「三つの創建期」と「秀郷流青木氏の発祥期」(958年頃)から鑑みて、お家の同族の「柏紋の青木氏」を赴任させた可能性も高い事が伺えます。
この場合は、同じ「柏紋の神職」ですから、「信濃青木氏」からも送る事は可能に成っていましたので、他の神明社系は伊勢と限定する事は難しいのです。
この「三つの神明社」以降は、時代性から観ても、「伊豆地方」からも同族を赴任させる事は可能でしたので、お家の「深谷からの末裔」を配置したとは考え難いのです。
”お家の末裔だ”と判定させられる要素が「同じ柏紋の青木氏」であるので、お家に何か遺されたもの以外には判断が出来ません。
一応は、この事に付いて「状況証拠」としての研究は続けたいと思います。
ただ、ここで、その「状況証拠」として、他に「13の神明社系の神社」がありますが、これらの社の由来は比較的新しいものであり、系列ではありますが、本流としてのものが少ない事から、果たして、「創建時の時代性」から観て、中には伊勢や信濃から直接配置したと云い難いものがあり、これらの「神職」は必ずしも「柏紋]ではありませんので、「三つ乃至は五つの神明社」から「13の神明社系」にその弟子を配置していた事が考えられます。
この「16の神明社」、及び、「神明社系」は、埼玉域を万遍に配置している事や社名の統一性から観て、ある程度の計画性が有った事を物語っています。
恐らくは、「分社」としての扱いで「弟子」を配置していると観られます。
さて、ここで、上記しました「柳沢吉保」に付いて、「青木氏」である場合は知って置いて頂くべき、一つ興味深い事を記述します。
上記した事で、実は、江戸初期の”「柳沢吉保」”を御存じだと思いますが、彼は、元は由緒ある「甲斐国の武田氏系青木氏」です。
(注釈「五家五流皇族賜姓族」の「甲斐の青木氏」と「甲斐の武田氏」が血縁して、二代続きで跡目が継承されず、女系と成った為に「養子先の武田氏」に組み込まれた「青木氏」の事)
「柳沢の地」に住んでいた「青木氏の始祖」は、「曾祖父の青木信定」で、この子には、「三人の兄弟」が居て、「兄の正定]は「巨摩郡]に定住します。
そして、「次男の豊定(吉保の祖父)」は「柳沢の地」に定住します。
「三男の豊勝」は父親に可愛がられ「常光寺」の「親許」で暮らします。
甲斐の「武田氏系青木氏」のこの「青木豊定(吉保の祖父)」は、「跡目騒動」と「宗教改宗」と「武田氏系青木氏一族争い」と「父親(信定)との路線争い」の「四つの騒動」に巻き込まれ、結局、「父親の反発」を買い、「青木氏」を名乗る事が許されなかったのです。
そこで、仕方なく住んでいた地名を採って”「柳沢」”と名乗ったのです。
そこで、「武田氏」が滅んで、「甲斐武田氏系青木氏一族一門」は、「徳川氏の配下」に入り、一族全てが「埼玉の鉢形村」に移住させられます。
「吉保の父の安定」は「館林藩の下級武士」として仕えます。
そして、「150石の低い身分」に成りますが、その跡目は吉保は長男でありながら妾子であった為に腹違いの弟に譲り、下級武士としながらも勉学に励み、その才知で綱吉に仕えて出世して、最初にこの縁のある「所沢の藩主」に成ります。
この時に、この「所沢中富」に、「青木(柳沢)吉保」は「青木氏の守護神の神明社」をもう一つ建立したのです。(研究室の武田氏の花菱紋の論文に記載)
これが、「所沢中富の祖先神の神明社」の所縁です。
これが、「柳沢吉保」が、「神明社」を建てられる理由であったのです。
つまり、「青木氏」である事を認識して、この「青木氏の守護神である神明社」を建立したのです。
実は、この時に、もう一つの「所沢神明社」から由緒ある神職を廻した経緯があるのです。
従って、論理的には、所沢にも「柏紋の青木氏の末裔」、つまり、お家の親族が存在する筈ですが、現在は判っていません。
所沢は、入間地域は、「秀郷流青木氏のメッカ」ですので、「青木氏」が多すぎて「秀郷流青木氏」か「伊勢青木氏」かの判別が、最早、資料の消失で確定して云う事も出来ない事もあるのです。
然し、今回の事で確証は高まりました。
恐らくは、この様な「吉保の所沢中富の神明社」がある事から,お家のご先祖の神職との何らかの関係があった事が充分に考えられます。
「正式な青木氏の守護神の神明社」とする以上は、宮司も「正式な青木氏」からとなるでしょう。
そうすると、正式な「青木氏の柏紋の神職」を求める筈です。
況して、その由緒正しい「柏紋の青木氏」が近くに定住しているのですから、この事を見逃すわけにはいかない筈です。
面白い「青木氏のロマン」ですね。
これを証明する糸口は、残念ながらお家の「深谷の御本家」と成りますが、判らないとすると、難しかなとも考えられます。
そこで、次ぎに、この埼玉の神明社を記述します。
埼玉 神明社 深谷市西島(別名 瀧宮神社)
神明社 所沢市中富
神明社 川越市神明町
神明社 所沢市
神明宮 川越市鹿飼
神明宮 さいたま市岩槻区釣上
神明神社 飯能市
神明神社 さいたま市西区塚本町
神明神社 朝霞市田島
神明神社 加須市川口
神明神社 川越市今泉
神明神社 志木市柏町
神明神社 新座市野火止
神明神社 ふじみ野市亀久保
神明神社 南埼玉郡菖蒲町上栢山
天照皇大神宮 久喜市上清久島
神明社 3 神明宮 2 神明神社 9 大神宮 1 神社 皇大神社 其の他 1
以上の事は、「青木氏の守護神と神明社」に詳しく記載しています。
尚、以上の表は、特に、シリーズの−20に記載しています。
以上が埼玉のお家の「柏紋の由来」です。
「深谷神明社」がお家の御先祖の神職であったのです。
更に、残りの「神明社系の神職」を配置するには、室町期中頃から江戸期に掛けて「伊勢と信濃」から配置するには難しく成り、室町期中期頃に武蔵の「特別賜姓族の秀郷流青木氏との融合族」を発祥させて、その子孫を「残りの社」に順次に配置した可能性が有ります。
これを「伊勢と信濃の青木氏」の協議と、「伊勢と信濃の融合族」の仲介で、「武蔵の秀郷一門」と「秀郷流青木氏」との血縁を進めた事が充分に考えられます。
「氏家制度」の社会の中では、「吊り合いの範囲」で血縁と成り、更には、「神明社の神職」の場合はより「純血性]を求められていた事から、他の地位と同じ様に、先ず間違いはないと考えられます。
「三つ程度の神明社」であれば、未だ何とか伊勢と信濃と深谷でも可能ですが、一国に16社もあるとなると、何らかの手を打つ以外には無い事が判ります。
各地では「神職の問題」だけでは無く、「宮大工等の職能部の問題」なども関わってきますので、「融合族」は「必須の課題」でした。
この「弟子説」も、「青木氏の仕来り」で、「女系の絆青木氏」として血縁させて、配置して居た事は充分に考えられます。
現在は、どの様に成っているかは、判りませんが、「融合族」である事とお家が分家である事から,その後に充分な子孫を拡げていますので、元の経緯は上記の経緯で辿った事が充分に考えられます。
これだけの埼玉の「神明社及び神明社系の社の神職」(全国約500社)を維持させて行くには、大変な事であり、可成り積極的に子孫を発祥させて配置したと考えられます。
以上の様に、お家の「柏紋」には、この様な大変貴重な歴史的史実を持っています。
是非、この情報を大事にされて、後世の末裔にロマンとして書き残して頂きたいと思います。
最早、系譜などは判らなくなっていますので、辿る事は出来ません。
系譜などよりは、ご「先祖の生き様」を伝統として未来のご子孫に伝える事が肝要では無いでしょうか。
現在の「真言宗勝輪寺」は、「氏の菩提寺手」は無く「檀家寺」でありますので、且つ、「顕教」ですので、お家のルーツの事は伝承されていません。
あったとしても、ルーツが明記されていない「租税管理]の為のその時代毎の「人別帳」が残っている程度です。「青木氏の菩提寺」でなければ「氏の系統性」はありません。
況して、お家はこの武蔵では、元は「神道」ですから、「菩提寺」も持っていなかった筈です。
あるとすれば、「伊勢の菩提寺」に遺る事に成る筈ですが、この「伊勢の青木氏」だけの「菩提寺」も何度か災難に遭遇して記録は消えています。
上記しました様に、この「深谷神明社」も「室町期の混乱」で記録は消えていると思いますが、一度、お参りに「深谷神明社」と「所沢神明社」と「川越神明社」にも”そっと”行かれては如何ですか。
それこそ電撃的な何かを感じるかも知れませんよ。
ご訪問された際には、是非にお便りを頂きます様に、お願いします。
「伊勢神宮]に今度は訪れる際は、もっと引き付ける何かがあるかも知れませんね。
有名な神宮参道に、「伊勢青木氏」の寄付した大きな「燈夜塔」が4基ありますよ。
参考として匿名としますが、お家の始祖と成る人の菩提寺は、松阪市多気郡にあります。
以上の事を配慮されて、ルーツ探究のご努力される事を期待します。
では、又お便りください。お待ちしています。
お久しぶりです。
色々とご努力を成されていて感心します。
この度のお便りも楽しんで読まして頂きました。
ありがとう御座います。
今後とも宜しくお願いします。
歴史を好む者に執ってはこの上もない楽しみです。
そこで、「多くの情報」ですので、整理してまとめあげましたのでお読みください。
可成りの緊張感で取り組みました。
そこで、この事は、中々「専門的な領域の歴史観」ですので、判り易くする為に、次ぎの様に、追って論じて行きます。
>『伊予の国分寺』に残された『寄進の記録』から、国府周辺の条里はほぼ再現されており、『青木里』に関する記述は『国分二寺領坪付断簡』なる文書中に記載されているようです。それが書かれた当時、青木里は国分尼寺の寺領であったようです。
そもそも、「国分寺(金光明経寺)」と「国分尼寺(法華経寺)」は「聖武天皇」の「勧奨の詔」に依って全国の国に一つずつ建立したものです。
凡そ、744年頃から759年頃の督促で実現した寺ですから、既に、この時期に「皇族賜姓族青木氏」は「神明社建立」を10社程度を建立して居た事に成ります。
この後には、平安期の「桓武天皇]が20社を806年までに建立していた事が記録されています。
四国は、「秀郷流青木氏」が主体の地域ですが、「秀郷流青木氏」は960年以降の発祥と成りますので、この”「青木里」”なるものは少なくとも「平安期末期以降の処置」と成ります。
これには、理由がありまして、「青木村」の名称に関して、「嵯峨期の詔勅と禁令」で、「氏名」を使った「村名の使用」を禁じていて、更に、「賜姓族の慣習仕来掟」の模倣の一切を禁じています。
従って、当然に「青木氏の村」の呼称も禁じています。
この「禁令」は、原則、「明治3年」まで護られました。(室町期中期に一度破られた)
もう一つは、「青木村」が使えない事から、「青木里」或は「青木郷」を使った経緯があるのです。
この禁令から「秀吉」がある事を理由(下記)に使ったとされる「青木里」である事が判っています。
そもそも、「豊臣秀吉」は、「信長検地」の意志を継いで、統一した国から直ちに”「秀吉検地」(1582年から)”を行う等をし、この四国は「長曾我部氏の制圧(1585年)」後にこの検地を行っています。
これが「青木里」の”「里」”の元に成り、”「青木」”の根拠は1580年頃に起こっています。
この「秀吉の検地」は、「信長検地」と異なり,税の納入方法、村単位の改革、土地の区分け方法、計算方法等を換えて統一性を持たせて改革をしました。
(「居住集団の単位」は、古来より「名」、「村」、[惣]、「庄」、「郷」、「里」があり、秀吉は「税の納入単位」をこの「村の単位ごと」にまとめて「納税する仕組み」を造りました。
地域に依っては、「名」でするか、「村」でするかは、その地域の「人口」とその「散在」の状況に依って変えました。
秀吉は特に、「惣」を無くし「「里]を加えて、内容を換えて五種で行う様に改めました。
但し、「町」に匹敵する「字]は[村]では無く、且つ、江戸期からの事であるのです。
そして、その「責任者」を定めて「名主 なぬし」や「村主 すぐり」や「庄屋 しょうや」の「乙名 おとな」等の「役柄の呼び名」で運営させました。
この時の単位が敷かれてその「郷里制」が遺っていた事に成ります。)
この秀吉が決めた単位の「里」の事を地域や地方では「日吉里」と一時呼ばれ,「申告制」から「石高制」へ移行を実行しました事を意味してその様に呼ばれたのです。
四国をほぼ統一した「長曾我部氏」も土佐だけ独自の検地を行う等をしましたが,結局は「秀吉検地」で行われています。
この事から、この「青木里」は、秀吉の最盛期の室町期末期の呼称と成ります。
その証明として、今回、それがお家の情報の中にも記述されています。
>伊予国分寺が長宗我部元親侵攻の際に焼かれ文書群だけが残された、、当地に『青木里』が存在したことは間違いないと思われます。条里のマス目から飛び出す格好で、ちょうど後からくっつけたように存在していることも、青木氏の移動に伴って新設された里なのでは、
この「青木里」は、「嵯峨期の詔と禁令」に依って”「青木村」”を使えない事から、秀吉に依って「青木里」にした事は判っています。
”「長宗我部元親侵攻」”の頃の直ぐ戦後期と成ると「秀吉の処置」と成ります。
徳川幕府も、室町期末期から勃興氏が社会を支配した事から、”「権威」”が崩れ秩序の荒廃が起こりました。
慌てて、今度は家臣に対して”「権威」”を作り出す為に「ルーツ」を作成して提出する様に命じ、この結果に対して「大名格」には「黒印状」を発行する条件としたのです。
この「政令処置」が家臣まで及ぶことに成りました。
江戸初期に起こった家紋群が爆発的に40倍程度に急激に増えたのはこの事から来ています。
幕府の令によって、ルーツの持たない立身出世した家臣等は、搾取、模倣、類似に依って、何でもかんでも兎に角「ルーツ」を作り出し、提示して、大名や一般武士の命と成る”「黒印状」”を獲得したのです。
ところが、今度は、逆にこの行為が社会に蔓延して、本来の目的とする「権威の獲得」が出来なく成って仕舞ったのです。
そこで、この「青木氏の村名」の”「青木村」”の様に、又、”「青木里」”の様に、その「権威]や「家柄」や「名声」を利用する為に「類似性のもの」が横行して”「権威」”と云うものが保てなくなる現象事が社会に蔓延したのです。
慌てた幕府は、そこで、この事を受けて、今度は一転して”「権威」”を保つ為に「類似村名」や[類似家紋」等に対して、”「権威あるものに対する類似性の禁止」”に出て、その「使用の禁止令」を発しています。
以上の事から徳川氏は、多くの「秀郷流青木氏を家臣団」に抱えましたが、”「青木村の権威」”に関しては一切手を出さなかった事は判っています。
では、徳川氏でなければ豊臣秀吉と成りますが、これには、「青木里」を使った経緯として、秀吉には、「青木氏に関わる根拠」が有るのです。
「秀吉」は「信長の意志」を継いで「蒲生氏郷」(伊勢秀郷流青木氏)に「伊勢攻めの三乱」の始末を実行させた際に、「権威」の無かった秀吉は「豊臣家の家柄」をよく見せ様としました。
この時に、「嵯峨期の禁令」を破って「秀吉の青木氏」を「豊臣家」の中に「青木氏」を発祥させ、「北の庄八万石」を与えて「青木氏の親族」を豊臣家の中に強引に創り上げたのです。
そして、”「従兄弟」だ”と発表したのです。
「伊勢三乱の始末」には「蒲生氏郷」を介して「伊勢青木氏との詰めの交渉」がありました。
この時に、[伊勢青木氏の譜」を利用して、類似の名で豊臣家の中に「青木氏」を発祥させたのです。
(蒲生氏郷と交渉に当たった伊勢青木氏の当代の名に類似させて、「青木紀伊の守一矩」と成りました。)
その後に、この末裔に、”「青木里」”を造らせてその親族を配置した経緯があるのです。
それが、「秀吉の四国征伐」の後に成ります。
(この”「秀吉の青木氏」は豊臣家滅亡で、徳川家康に依って除封されてその痕跡を抹消するべき処置を講じて潰されて滅亡します。
一部この末裔が、福井に逃げ込んだとする説もありますが、秀吉信望の歴史家の偽説で、詳細は「伝統シリーズ」で論じる事に成っています。)
従って、「青木氏の移動」は「青木里」である限りは無いのです。
お家の推理の「青木里の新設」は”「くっ付けた新設」”である事は正しいのですが、”「青木氏の移動」”では無く、「秀吉の青木氏の末裔の配置」なのです。
ですから、「徳川氏に依る除封とその処置」を受けた事から、この「青木里」は直ぐに消えたのです。(徳川氏の除封禄に記載)
>現在の当地は『今治市桜井』にあたり、もはや『青木』の地名はなく、また住宅地図などを見ても青木姓は確認できません。
>先日報告しました今治の『青木神社』が存在した『日吉里』とは、条里のマス目で言いますと一直線に西の端と東の端、という関係になります。
このお便りは、上記の事(「徳川氏に依る除封とその処置」)を物語っています。
「青木里」は「除封処置」の末に消えたのです。当然に、「青木姓」はありません。
「今治の青木神社」は「嵯峨期の禁令」に関わっていて、この「禁令」を歴史上で破ったのも朝廷の「執政の太閤」と成った事により、その立場を利用した秀吉ただ一人です。
「青木氏」を発祥させた事を根拠にこの様な事をしたのです。
これは「秀吉に依る神社」であって、依って、「日吉里」なのです。(日吉は秀吉の幼名)
故に、「青木里」と「日吉里」の条理の位置関係にあるのです。
>豊臣秀吉の四国征伐後、伊予東部は福島正則に与えられますが、一部が後に摂津藩初代藩主となる『青木一重』に与えられています。この時、彼が領有した『周布郡』は、この青木里のあった地のすぐ西側に接しています。
>摂津青木家はその後四十年ほど当地を領有しただけでしたが、当時、当地で代官を務めた一色家の末裔がその後も庄屋として根を張り、青木家から送られた手紙や文物を大切に伝えていらっしゃいます。
>あるいは青木一重が当地を与えられたのも、「青木氏の縁」があったからでは、と想像します。
さて、ここで,「摂津麻田藩の青木氏」は、実は、「武蔵七党」の一つで,丹治党の「丹治氏系青木氏」です。
この「丹治氏系青木氏」は、「嵯峨期の詔勅」を使って名乗った「青木氏」で、「皇族の者」が下族した等の時に名乗れる氏名として「嵯峨天皇」に依って定められました。
この「丹治氏系青木氏」は、「平安期の丹治彦王」の「現地孫」で、「丹治彦王」は罪を受けて、坂東に配流と成ります。
この時に現地の「武蔵七党」との間に出来た子供が、かなり後に成って「青木氏」を名乗ったのです。
この「丹治氏系青木氏」は、同じ地域に平安中期から「秀郷流青木氏」が定住していた為に、坂東の小土豪が互いに護り合う組織を作ったのです。
これが「武蔵七党」で、この七党の中でも丹治氏が一番力を持つていてリードしていました。
この中で、「丹治氏系青木氏」は乱世を活かして「立身出世」を夢見て,各地を移動して、信濃、甲斐、美濃と移動して行きました。
”「国衆」”と呼ばれる「傭兵軍団」で、信濃では「国衆」として働き、より勢力の持った豪族に移って出世のチャンスを狙っていたのです。
信濃の「国衆」になり、後に武田氏の「国衆」と成り、この武田氏も滅亡し、最後は美濃に移動します。
そこで、徳川氏と豊臣家の戦いが始まり、様子をうかがって、勲功のチャンスを建てる為に戦いの最中にきわどいところで「徳川方」に味方して、戦況は徳川方に傾くと云う勲功を上げました。
その結果、この「丹治氏系青木氏」は、先ず「摂津の麻田地域」の1万石を与えられ、武蔵の故郷と全国に「国衆」として散っていた一族一門を呼び寄せたのです。
これが、「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」です。
その後、「飛び地領」として、「弟の末裔」には「伊予の周布郡」の一部が与えられ、更には,「河内の地」も合わせての4000石も与えられます。
これが、伊予の「丹治氏系青木氏」の摂津麻田藩の一族の短期間の所領なのです。
「周布郡」と隣の「青木里」とは、直接的な関係はありません。
要するに、徳川氏が、「秀吉の青木氏」の領有していた「小さい土地」をこの「丹治氏系青木氏の弟 親族一統」に勲功として分け与えたものなのです。
別系ですので直接的には、お家の「青木氏」とは”「青木氏の縁」”では全く関係はありません。
結局、「周布」の「福島正則の転封」等で、江戸期初期には郡制を大きく変えてこの「土地の整理と所領の整理」を行いました。
「大洲」も豊臣政権時では、戸田氏でしたが、これも徳川時代には除封とその処置を受ける事に成ります。
江戸期には加藤氏−蒲生氏−最終、支藩を含めて「伊予藩」(松平氏 郡制も変わり四郡に統一)のものに成りますので、「周布」に関しては無関係と成ります。
さて、興味のある事は、この代官とされる一色家は、伊勢から美濃、尾張に掛けて子孫拡大をした氏ですが、元は、「一色」とは、「伊勢王の施基皇子」の”「シキ」”を採って名付けられた地名です。
この「シキの地名」は、伊勢に最も多く、員弁桑名等から美濃、尾張に掛けて多くあります。
この「一色家」は、色々な説がありますが、磯城や志岐や志基等の地名が多くあります。
この地名から名乗ったとされるのですが、どの「ルーツ」とされるかは問題なのです。
恐らくは、この「一色氏の末裔」は、「二つのルーツ」があって、1−「伊勢青木氏」に関わるルーツと、2−同じ時期の従兄弟に当たる「天武天皇の皇子」の同名の「磯城皇子」のルーツの末裔の「二つ」の何れから出自していると観られています。
基本的には、同族血縁を繰り返していますので、どちらとも言い難い処ですが、伊勢より東寄りはその所領から、「磯城皇子]を始祖とする「一色氏の青木氏族」である事ははっきりしています。
依って、「一色氏」から「青木氏」を名乗る事は「嵯峨期の詔勅」で可能です。
これが、筆者の研究で、僅かに遺された室町期末期の美濃の「伊川津の青木氏」と観られます。
この「磯城皇子の子孫」も「嵯峨期の詔勅」で「青木氏」を名乗る事が出来るのです。
美濃には、「伊川津七党の青木氏」が在りますが、この「磯城皇子の末裔」の「一色氏の青木氏」ではないかと考えられています。
この付近には、「一色氏」と同じ様に、「施基皇子の青木氏」と「磯城皇子」の「嵯峨期詔勅」で名乗った「青木氏」と「一色氏」とが混在して判別が付きません。
更には、ここには「州浜紋の秀郷流青木氏」や、「片喰紋の秀郷流青木氏」等も定住していますので「青木氏の括り」では判別が付きません。(家紋分析で判別可)
そもそも「ルーツ」は同族ですし、仕事も同じであったのですから、当時の純血の慣習から「同族血縁」している事は充分に有って、判別そのものの意味も無いくらいに成っているのです。
歴史家の中でも,混在して論じている人もある位ですが、根本的には天智と天武の違い差があります。
その意味で、筆者は本来の始祖の一色氏のルーツは、「皇族賜姓族伊勢青木氏」の伊勢側にあるとして分類しています。
その後に、「施基皇子の末裔」と「磯城皇子の末裔」が何度も血縁を重ねながら二つのルーツを持つ一色氏は東域に分布して行ったと観ています。
「五家五流」の中の「美濃の青木氏」は、美濃の「土岐氏系青木氏」と共に、「源平の富士川の乱」で死滅しましたのですが、お便りの「一色氏」は、この一部遺された「磯城皇子系の一色族の青木氏」であると考えられるのです。
「青木家」から送られたとする手紙先とは、恐らくは「伊勢青木氏」か「伊川津の青木氏」かの「青木氏」であると考えられますが、「伊勢青木氏系の族」は四国に移動分布していませんので、極めて少ないとされる美濃か尾張に分布している衰退した「青木氏族一色氏」の「磯城皇子系」の「一色氏系青木氏」と考えられます。
確率は低いですが、場合に依っては、滅亡したとされる「一色氏」と同族血縁した「土岐氏系青木氏の傍系」が遺っていてその「青木氏」であるかも知れません。
いつの時代の手紙か判りませんが、実に「青木氏」としては興味深いところです。
ですから、”「一色氏」が「青木氏」と関わっているところでは”とするお家の推理説はその通り正しいのです。
ただ、四国には少ない「麻田藩の丹治系青木氏」と、この一色氏の手紙先の青木氏と、お家の大洲の「近江脩行系青木氏」と、「讃岐秀郷流青木氏」と、「土佐の武田氏系青木氏」と、「阿波の秀郷流青木氏」と「利仁流青木氏」とが存在したのです。
基本は、「讃岐秀郷流青木氏」ですが、上記しました様に何の不思議もない「一色氏系青木氏」を発祥させていたかも知れませんね。
「大洲」には、推測の域を全く超えませんが、あまり「子孫拡大」が図れなかった事から、”「青木」”と云う地名だけを遺したとも考えられます。
実は、同じ事がお家のご先祖の赴任地の紀州の地にも起こっていますよ。
お家の「ご先祖の跡の有田郡域」にはお家が引き上げた事に依って「青木の地名」だけが遺っていますよ。(地名地形データ参照)
>愛媛県内ではもう一箇所、大洲市に『青木』と『青木谷』の地名を発見しました。
>近隣に青木姓の在住は確認できません。2つの字は並んで存在し、近くには大洲を領有した宇都宮氏が関東から勧請したという『宇都宮神社』があります。神社の記録にはその際『古跡を再興した』とあり、本来の祭神は不明です。
>青木・青木谷は愛媛有数の、大河『肱川』に面した土地で、その対岸には『神明神社(現在の祭神は倭姫)』があり(こちらのHPの神明神社リストには報告されていません)、
然し乍ら、大洲市の「青木と青木谷」の地名では、「秀郷流青木氏の所縁の地」に因んでつけられた可能性が有ります。
この地名は、定住地であった可能性が低い事からサイトには載せていませんが、「讃岐秀郷流青木氏の所縁の地」である可能性が有ります。
恐らくは、「関東屋形」の「秀郷流の宇都宮氏」の「宇都宮神社」は、本来は「春日社」となる筈ですが、神社名を「宇都宮]としているところが、検証するべきところかなと考えます。
「四国宇都宮氏」を敢えて誇示する処から、名付けたと考えられます。
本来は、徳川時代までは、「宇都宮氏」が独自で神社を建立する事は許される事では無い事で、誰でもが勝手に神社を建立する事は出来なかった時代です。
この建立権は奈良期より、特定に朝廷か幕府の許可を得た限定した「高位の氏」にのみに与えられた権利です。
(「宗教」と云う事から乱立すると宗教に依って国の政治が左右される危険性があって限定された。)
「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族の青木氏」の「二つの青木氏」は、この権利を以て神明社を500社にも上る程に建立しているのです。秀郷一門にも「春日社の建立権」を与えられています。
従って、「宇都宮氏」が「神社を建立する直接の権利」は、秀郷一門と云えど、「傍系族」である事から権利は本来ありません。
然し、乱世の時に、「宇都宮」として敢えて禁令を破り建立したのですから、「武蔵の宗家」から「勝手な行為」として観られ、氏家制度の社会の中では「厳しい軋轢」を受ける事は必定です。
そこで、「春日社」では無く、「宇都宮神社」として建立したのです。
故に、宗家から見放され、攻められても援軍を送る事無く、「最長100年程度の存続」しか許される事は無かったのです。
況して、直ぐ傍には、「讃岐秀郷流青木氏」が、東域に阿波にも「秀郷流青木氏」が居たのですから、それらの力を借りれば潰される事は無かった事は明明白白です。
そこを「長曾我部氏等の豪族」に見透かされ、然し、潰れ滅亡したのです。
以前のお答えにも論じましたが、”「氏の存続が短い」”と云う事は、何か氏に「存続]に欠かせないものが無かったから「短い」のであって、それは、「自らの力で解決できない能力」でありながら、それを読み間違えて突っ張った結果の現れです。
「戦国」とはそんな甘いものでは無かった筈です。故に”「戦国」”でした
何かの大きな庇護が無くては生きて行けない時代でした。
恐らくは、「讃岐秀郷流青木氏」は、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われたほどに、「瀬戸内の経済力」を以てして、「武蔵の宗家」に本家の「讃岐藤氏」と共に対抗して「武蔵の総宗本家」の意向に付いて云う事を聞かなかったのですが、この「生き方を真似た事」に依って読み間違えたと観られます。
故に、”祭神が不明とする”とか、「倭姫」と云う神を作り出す以外には無かった事に成ります。
これが、歴史観から観て明らかにその証拠です。
この「神明神社の祭祀」は、「祖先神」ではありませんし、「天照大神と豊受大神」を祭祀するものではありませんので、「正規の青木氏」が建立した社では無く、且つ、系列社でも無い事から記載していません。
又、時代性も信頼出来得る範囲の設定よりも大部後の建立ですので、記載はないのです。
「神明社」が正規の呼称で、「神明神社」は系列かそうで無い場合が多いのです。
この「神社」は正規の建設形式を持っている社でしょうか。
「祠に近いものを神社」としているのではないでしょうか。
江戸時代と明治初期には、禁令がある為に「祠」を多くつくられました。
「神社の建築形式」には、「大社造]や[住吉造」や「神明造」等があって、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」は、奈良期の古来より「神明造」と云う一定の神明社形式を持っています。
これで、その神社がどの系列の何時の時代のものかが判定できるのです。
尚、筆者が調べた範囲では「国の神社庁」の中には見つけられませんでした。
つまり、「青木氏の神明社」から観て、検証外の社である事に成ります。
>近くには『西光寺(現在は曹洞宗、由来は不明)』が存在します。またその2つの寺社が立つ地域は『若宮』の地名で記載されています。
>さらにそこから南西に下った場所には『青木大明神社』があり、江戸初期〜中期に書かれた大洲藩の記録に『由緒不明の祠』として記録されていますので、少なくともそれ以前の建立と見られます。
>大洲の中心部から少し離れた山中にも『神明社』があり、江戸の中期ごろまでは境内を接するようにして『西光寺』という寺が建っていたことがわかっています。
>大洲は青木氏の居住地としては認知されていませんが、肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは、と想像しております。
さて、上記に「秀郷流青木氏の所縁の地名」と書きましたが、それは、この問題に答えが出ているのです。
それは、「西光寺」と「若宮」です。
「西光寺」は「秀郷一門と秀郷流青木氏の菩提寺」(浄土宗)です。
「檀家寺」ではありません。
「菩提寺の定義」は、氏独自で氏の先祖だけを祭祀する寺で、建立から神職まで独自の氏の力で全てを取り仕切る寺の事です。
つまり、「達親形式での密教系の寺」です。
その対照的な寺が「檀家寺]で、「顕教」です。
祭祀する仏も異なり、「密教系の菩提寺」は「大日如来」を「宇宙仏」とします。
そして、「如来」が直接その身に教えると云う形式です。
「顕教の檀家寺」は、「曼荼羅仏を宇宙仏」とし、それを「釈迦」が言葉に変えて仲介するとする形式です。
元より、「顕教の檀家寺」はあらゆる民が集まって寺を運営し、全ての民を祭祀する寺の事です。
「二つの青木氏」は、この「密教の菩提寺」ですが、「特定の寺(皇族賜姓族の菩提寺の寺名を危険である為に匿名にする)」を持っているのです。
この”「西光寺」(正式呼称は”せいこおじ”)”が近くに存在する事は、秀郷一門が近くに定住して居た事の証明に成ります。
その為に、「何らかの所縁」があった事に成ります。どの様な[所縁]かは次ぎの事で判ります。
「神明社」が有って、「西光寺」があると云う事は、「秀郷流青木氏]で、それも「伊勢系か近江系の青木氏」である事を示しています。
つまり、この二つをステイタスとする一門の氏は「伊勢系と近江系」しかないのです。
そこで、元々は、「秀郷流青木氏」は、「皇族賜姓青木氏の神明社建立」を「円融天皇の命」に従い、建立とその運営を補完する役目を担いました。
その中でも、「春日社」では無く「神明社」を「守護神」としたのは、「関西系の秀郷流青木氏」(関西系は近江と伊勢に秀郷流青木氏が定住していた。)なのです。
その中でも、「皇族賜姓青木氏」と血縁を深く持った「近江と伊勢秀郷流青木氏」が中心に成って祭祀したのです。
「京藤原の公家の血筋]を特段に持つ「秀郷一門」で、「青木氏系に繋がる氏」としては「近江の蒲生氏系青木氏」と「藤原脩行系青木氏」の二氏に限ります。
(以前にもお答えしましたが、お家の「藤原秀郷流の脩行系青木氏」は、”「近江掾:国司の次ぎの下位」”と成って赴任し、北家族の公家との同族血縁に依って末裔が発祥しそこに定住した末裔である。)
さて、ここで、もうお気づきと思いますが、お家は、以前お便りで、「秀郷流青木氏」の中でも「近江系の州浜紋の脩行系青木氏」であるとお答えしましたが、この「西光寺」と「神明社」はその証です。
さて、そこで、四国伊予と土佐と讃岐と云うキーワードで観ると、矢張り、この二氏が関わっているのです。
上記しました様に、この時期の伊予藩は加藤氏から蒲生氏へ、そして最終は松平氏に移りました。
然し、加藤氏の後を引き継いだ近江から来た「伊予の蒲生氏」(忠智)は[跡目断絶の憂き目」(7年間)を受けたのです。
当然に、この藩主と成った「伊勢三乱」を担当した「蒲生氏郷」の孫「蒲生忠智」には、「蒲生氏郷」の「祖父の兄弟」が母方の「伊勢秀郷流青木氏の跡目」を一族の「梵純」が継いでいますので、この「青木氏」が同族家臣として同行してきている可能性もあります。
(期間が短い為に、この青木氏はこの伊勢に引き揚げている)
次ぎは、お家も南北朝を契機に、この讃岐から伊予にそして土佐に移動してきました。
この事から考えると、この「二つの要件」を叶えるのは”「お家」”だけと云う事に成ります。
つまり、「西光寺」はお家の菩提寺であった可能性が有ります。
「讃岐秀郷流青木氏」が、この遠い地に菩提寺を構える可能性は低いと考えられますので、後はお家の菩提寺と観る以外にはありません。
「蒲生氏」も子孫は、7年間では遺していないのですから、「お家の菩提寺」であった事が頷けます。
さて、次ぎは「若宮」の地名ですね。
実は、この”「若宮」”は秀吉が用いた「宮」なのです。
つまり、「秀吉のキーワード」なのです。
豊臣家以外にのこの「若宮のキーワード」を使う事は出来ません。
「秀吉」は、「蜂須賀小六の配下」であった時に、「今宮神社」の「シンジケートの一員」として働いていた事があるのです。
その為に、政権を執った時に、この「今宮神社」を保護し、荒廃していた全国に分布する「今宮神社」を立て直しました。
そして、難波にこの「今宮神社の総社」を建立したのです。
この「今宮神社」の「今宮シンジケート」を使って、全国の「諜報活動」をしたのです。
それは、この「今宮神社」は、戦乱期に衰退し、生きる為に影で「諜報組織」を造り生き延びたのです。
これに付いて「有名な事]が在ります。
織田信長は武田氏との決戦で鉄砲を入手しようとしましたが、初めは入手できませんでした。
これを聞きつけた家臣と成っていた秀吉が、この「尾張の元締め」の「今宮神社」に引き合わせたのです。
当時誰でもが欲しい程に鉄砲は入手出来なかったのです。
この「鉄砲」は、この「今宮等のシンジケート」からでは無くては入手出来なかったのです。
それを知っていた秀吉は、古巣の「尾張の今宮神社」に渡りを着けました。
そして、その結果、信長は、鉄砲を造り、且つ、この「鉄砲の傭兵軍団」の「雑賀族」と会う事が出来たのです。
「今宮神社」はこの雑賀族3000人の軍団も紹介したのです。
それで、武田氏に勝つ事が出来たのです。
この事から、「今宮神社」は「豊臣家の保護」を受けてに大きく成ります。
ところが、秀吉は、この「今宮神社」だけでは間に合う事が出来なくなり、下部組織に「若宮神社」を造ったのです。
四国には、公家が多く逃げ込みましたが、この「若宮神社」に「秀吉の庇護」を受けて、戦乱から逃げ込みました。
この付近に、「若宮の地名」がある事は、元はここに「若宮神社の痕跡」があると考えられますが、秀吉は、この「大洲」の”「神明社と西光寺の環境」”を利用して、「四国の情報」を適格に入手する為に利用したと観られます。
「神明社と西光寺」は、「神明社」のシンジケートを使った「青木氏の諜報機関」でもあったのです。
「西光寺」も秀郷一門の[秀郷流青木氏」が定住している所の全国に建立していたのですから、同じ様に、「大きい氏の菩提寺」も城郭の役目を果たし、神社共に「同じ役目を持っていましたので「情報機関」として入手する事は出来ます。
ここに、「若宮神社」を建立する事に依って、神社間の連携でと共に、「神明社」からも「西光寺]からも情報を入手できる事に成ります。
況してや、「水運の要衝」ともすれば、申し分のない地域と考えられます。
表向きは、「若宮神社」は、「公家皇族等の避難地」として「高位の人」を集める事で、その役目をより補完したと観られます。
然し、「豊臣政権」は、短期間で終わりましたので、結果として背景を失った神社は廃墟と成ったと観られます。
依って、お説の通り、お家はここに一時期住んでいた事が考えられます。
恐らくは、この秀吉に依ってこの「若宮の目的」から、お家の「州浜紋の近江秀郷流脩行系青木氏」の存在が左右して、思うような「重要な活動」が出来ず、邪魔と成る為に排除されたのではないでしょうか。
さて、少し違っている事が在ります。
それは、「青木大明神社」は、「祠」である事と、「明神社」は「神明社」では無く、大阪の「豊うけの神」を祀る「稲荷社系の社」です。
大阪の淀川の沼地から発祥した日本書紀にも出て来る最古の「稲荷信仰の原型」と成った社です。
この「とようけの神」は、「五穀豊穣の神」としての「庶民の神」で、後に「伊勢神宮」の「外宮の豊受大神」として祭祀される様に成った奈良期初めの庶民の「極めて古い社」です。
「神明社」ではありません。
秀吉は、ここにも、この「青木の地名」を採って、「若宮神社」をカモフラージュする社として大阪の「庶民の大明神社」をここに持ってきた事が考えられます。
これが彼の有名な大阪の「住吉稲荷神社が前身」です。
秀吉は、この「稲荷神社」を保護し、政治的にも庶民を誘導する意味からも積極的に利用しましたので、「徳川時代」に成って、各地で起こった様に、上記した様に「強い印象」を持つ「秀吉の遺跡」を理由に取り壊されて、「祠」で遺したと考えられます。
まして、この伊予は、「多くの郡」がありましたが、治政を良くする為に「四郡系列」に統一されて、「松平藩」に成りましので、余計に「秀吉の遺跡」が痕跡が無い様に取り潰された可能性が有ります。
そして、「若宮神社」を排除して、昔の「藤原秀郷流青木氏」の「神明社と西光寺」の状態に戻したと観られます。
(「秀郷流青木氏」は、幕府の御家人、旗本と成り、「幕府の主な官僚軍団」と成りました。
特に、「御三家の紀州藩」では、「初代頼宣」は余りにも「伊勢の秀郷流青木氏」と、「伊藤氏等の秀郷一門」を大量に家臣団として採用しました事から、幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられて軋轢を受けた事は有名な事です。)
これらの事から鑑みて、「四国南域の大洲」には、一時期、お家の「神明社と西光寺」があって、そこを一族の”「所縁の地」”としたと考えられます。
依って、筆者は”「所縁の地」”と記述したのです。
従って、上記の通り、
>”肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは”
とするお説は、当に史実を突いたもので、正しい推理であると考えます。
お家のお住いの地からしてもこの水運の要衝から観ても、納得出来ます。
筆者は、以前土佐に移動した武田氏系青木氏の事で、論文にもしていますが調べた経緯があって、
この「四国の青木氏」に付いての謎の一端が解けて来た事を感じます。
筆者は、「史実の積み重ね」と「状況証拠の積み重ね」を重んじて、余り「郷土史」を前提とする論調は採って居ませんのが、可成りの確率で頷けるとこがあります。
是非、今後も、歴史観を以てご努力を続けられる様に頑張ってください。
確証データはありませんが、「史実の状況証拠の積み上げ」で「反論の余地」はあるのかと云う位に思っています。
大変に良く調べられたと感じ入っています。
歴史観が出て来た賜物ですね。
一読いただければ幸いです。
ご無沙汰しております。
その後も当家のルーツ探求を続けておりますが、なかなか有力な証拠は見つかっておらず、報告も滞っております。
が、一方で伊予の郷土資料を巡る中、伊予における青木氏の痕跡とおぼしきものをいくつか発見しましたので、青木氏研究の一助になればと思い報告を差し上げます。よろしくご評価いただければ幸いです。
ひとつは、以前にも『青木神社』・『青木地蔵』の存在を報告した愛媛県今治市周辺で、かつての『伊予国府(未だに正確な場所が同定されておらず、研究が続けてられている)』に関する資料の中に、『青木里』の存在を確認しました。
hhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/13/2/13_2_138/_pdf
やや見えにくいですが、この資料の2枚目に国府付近の条里を記した地図があり、その西の端に飛び出すように『青木里』の記述があります。
調べますと、国府の近くにあったことが分かっております『伊予の国分寺』に残された『寄進の記録』から、国府周辺の条里はほぼ再現されており、『青木里』に関する記述は『国分二寺領坪付断簡』なる文書中に記載されているようです。同文書には年号日付が入っておらず、いつの時代の記録であるのか不明なのが残念ですが、それが書かれた当時、青木里は国分尼寺の寺領であったようです。
伊予国分寺が長宗我部元親侵攻の際に焼かれ文書群だけが残された、という経緯から、少なくともそれ以前、当地に『青木里』が存在したことは間違いないと思われます。条里のマス目から飛び出す格好で、ちょうど後からくっつけたように存在していることも、青木氏の移動に伴って新設された里なのでは、と想像されます。
現在の当地は『今治市桜井』にあたり、もはや『青木』の地名はなく、また住宅地図などを見ても青木姓は確認できません。先日報告しました今治の『青木神社』が存在した『日吉里』とは、条里のマス目で言いますと一直線に西の端と東の端、という関係になります。
また歴史的に見ますと、豊臣秀吉の四国征伐後、伊予東部は福島正則に与えられますが、一部が後に摂津藩初代藩主となる『青木一重』に与えられています。この時、彼が領有した『周布郡』は、この青木里のあった地のすぐ西側に接しています。摂津青木家はその後四十年ほど当地を領有しただけでしたが、当時、当地で代官を務めた一色家の末裔がその後も庄屋として根を張り、青木家から送られた手紙や文物を大切に伝えていらっしゃいます。
あるいは青木一重が当地を与えられたのも、青木氏の縁があったからでは、と想像します。
愛媛県内ではもう一箇所、こちらは全く由来がわからないのですが、大洲市に『青木』と『青木谷』の地名を発見しました。こちらは現在も『字』として残っておりますが、近隣に青木姓の在住は確認できません。2つの字は並んで存在し、近くには大洲を領有した宇都宮氏が関東から勧請したという『宇都宮神社』があります。神社の記録にはその際『古跡を再興した』とあり、本来の祭神は不明です。
青木・青木谷は愛媛有数の大河『肱川』に面した土地で、その対岸には『神明神社(現在の祭神は倭姫)』があり(こちらのHPの神明神社リストには報告されていません)、その近くには『西光寺(現在は曹洞宗、由来は不明)』が存在します。またその2つの寺社が立つ地域は『若宮』の地名で記載されています。さらにそこから南西に下った場所には『青木大明神社』があり、江戸初期〜中期に書かれた大洲藩の記録に『由緒不明の祠』として記録されていますので、少なくともそれ以前の建立と見られます。長く『女神像』が祀られ、女性が出産に際し『男子祈願』をする祠として地域住民に守られていたそうですが、いつごろか像が盗まれ、ごく最近になって立派な神社へと建てなおされたようです。
面白いことに、大洲の中心部から少し離れた山中にも『神明社』があり、江戸の中期ごろまでは境内を接するようにして『西光寺』という寺が建っていたことがわかっています。現在は社だけで、寺の方はわずかな遺構しか残っていないようです。
大洲は青木氏の居住地としては認知されていませんが、肱川を利用して瀬戸内とつながる水運の要衝でもありましたので、あるいは一時期でも居住していたことがあったのでは、と想像しております。
以上、なにぶん素人の雑な調べ物ですので、さぞ粗ばかりと思いますが、一読いただければ幸いです。
埼玉の青木さん 今日は。
早速のお便り頂きました。ありがとう御座います。
さて、前回にもお便り致しました様に、人間の心には、不可思議な事が在りますね。
筆者もその事を感じています。
遺伝子が同じである事は、「分身」とすると、それを発展させれば、まだ解明されていない事ですが、[記憶遺伝子」がその重要な処を引き継いでいるのだと思います。
そして、それを「自分の右脳」を動作させ、「ベーター波」を発生させて、「左脳」の「固定の記憶因子」を動作させているのだと私は観ています。
人間には、現在の脳以外に、「原始脳」と云う脳があって、人間が野生時に動作させていた脳ですが、ここに右脳のベーター波が刺激して、無意識の中で、それを思い起こして引き出しているのではないでしょうか。
人間は「有意識」の中でしか、思考を働かせませんが、「無意識」の中の「深層思考」はこの様な形で働いているのだと思います。
現に、例えば、「男女の無意識」の中で動作する「深層思考原理」は、0.5秒と云う速さで、「三つの原理思考」を働かせて、再び「有意識」に戻り、その「三つの思考」でものを「判断する仕組み」に成っています。
この思考原理が男女で異なっている事は解明されています。
然し、これと同じで、「無意識」の中で、ある「心のキッカケ」で「心技体の条件」が整った状況下で、そのことが呼び起されるのではないかと考えます。
何時でも誰でも無条件に連動すると云う事では無く、ある条件が整えば、「原始脳の固定記憶因子」と「右脳のベーター波の伝道子」と「左脳の記憶因子」が同時に連動して起こる現象だと筆者は観ています。
これは、個人の感じ方の強さには、大小はあるとは思いますが、人には、取り分け男性には歳を取ると心技体のバランスが採れ、連動する条件が連動してくるもので、依って、感じる人の感じ方の大小は別としても、必ず訪れるものだと考えられます。
従って、取り分け「緊張感」が存在する「心技体」の状況下の時は起こらないのだと思います。
旅をして,普通の時はこの「原始脳」は働きませんが、この「原始脳」を刺激する森杜や神社に侵たると「心技体の条件」と合致して、何かの「記憶遺伝子」が引き付けられることが起こるのだと思います。
女性は、上記しました様に、「深層思考原理」は「感情主観論」ですから、男性が持つ”先祖と云う概念”とは「質と強弱]は異なっています。
それだけに、「感じ方の条件]は異なっている事に成ります。
もう少し、お家が云う様に”「霊感」”とも云うべきものに近い[直接的な感情的感覚」(直観)だと観られます。
依って、恐らくは、この現象は、0を含む大小の結果によって、”誰にでも起こる”と云う事では無く、お家の「心根」との結果で起こるものであると思います。
そもそも、我々の「青木氏の密教仏教」では、”縁無き衆生動し難し”と云う「戒めの言葉」が遺されています。
人間であれば、誰でもと云う事では無いのだと思います。
上記の様な連動する状況が起こる人に感じられる現象ではないでしょうか。
お家がご先祖の事を知りたくなったと云う事は、それが一つのこのサインであったと観られます。
お家の脳に納まっていた「心のご先祖」から、”お前の条件が整ったよ”とする信号であったのでしょう。
それが、今、紐解くように広がりを始めたと云う事では無いでしょうか。
>”嬉しく思う”
と云う事も、その右脳から「準備の信号」でしょうし、”より深くルーツ、青木家について知りたいという気持” も、「前頭葉」を通じて準備され「右脳」からのベーター波による「準備の信号」だと思います。
>”不思議なもので、昔から神社が好きで居心地がよく”
この事も同じく「準備の状態」と観ます。
>”何の因果か、たまたまお付き合いしている人が三重県出身な為、伊勢神宮に先日も訪れたところでした。”
この事もこの「引き付ける動作」が働いたのではないでしょうか。
>”霊感などはまるっきりありませんが、神社に訪れた時に相性みたいなものがあり、
>ダメな神社と心落ち着く神社があります。伊勢神宮は別格で気持ちが安らぐため、
>どこかで共鳴してるのかもと思いました。”
「霊感」などと云う不確定な物では無く、お家の「無意識の脳」が自然な状態の時に起こるその事を認識しているのではないでしょうか。
人が、”不思議”と感じている事は、そもそも、この現象を云っているのではないでしょうか。
その時に、お家がどの様に反応するかと云う事であって,お家は自然に動いたと云う事だと思います。
それは、矢張り、旅等で”自然と触れ合う事”の「心根」を持つお家だからこそ、”無理なく整えられた条件”ではないでしょうか。
我々、「青木氏が持つ密教概念」で「青木氏の氏是」とも云うべき ”縁無き衆生 動し難し”の「戒言」だと思います。
昔の心に遺った「真言宗の自分の宗派」、「茨城県古河市の故郷」、「長谷観音の真言宗」等の事も、その様な環境が、”縁無き事”では無かった事を意味しているのだと観ます。
お父上がご存じなかった事が、お家に起こると云う事は、良し悪しは別として、”「縁在りき衆生」として生まれついているのだ”と考えるべきでは無いでしょうか。
筆者も、多くの兄弟の中で、ただ一人、論理性癖を強く持つ「物理系の技術者」でしたが、幼少の頃から、筆者だけが「歴史]とか、[先祖]とか、「自然]とか不思議に好きで、関わる事が多かったのです。
色々と長い人生の中で、「有意識」では説明の就かない「不思議な事」が起こりました。
お家は、その一人で、故に、「自然に起こるリンク」だと思います。
お家には、そのような「脳の能力」は、子孫の中で、三代に一人の割合で起こると云われている「隔世遺伝」が起こっているのだと思います。
>「神明社の話」と、藤原秀郷一族一門は、春日神社が守護神と記載がありましたが、伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」の場合、どちらにお参りに行くことが正しいなどあるのでしょうか。
お家は、恐らくは、歴史的な総合の経緯から「伊勢青木氏」から派遣された末裔だと考えます。
依って、お家は「神明社が守護神」で、「藤原一門一族」ではありませんので、「春日社]ではありません。
「青木氏融合族」と云えども、お家は「皇族賜姓族の青木氏の柏紋」の「神職の末裔」なのですから、この「青木氏系の青木氏」なのです。
むしろ、非常に「青木氏の純血性の高い末裔」である事に成ります。
>信濃青木氏と伊勢青木氏のどちらなのかをわかる術はあるのでしょうか。
在ります。それは、生き残った「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「二足の草鞋策」で「巨万の富と勢力」を確保しました。
「伊勢青木氏」では、「250万石の力」で、「青木氏部」と云う「職能集団」と「伊勢シンジケート」を持ち、全国の「神明社」を指揮していました。
従って、「伊勢青木氏」には、「青木氏部」と云う「神職」を養成する組織も持っていました。
そこで、この「神職」は「伊勢青木氏の指揮」の下で出ていますので、お家の元祖は「伊勢青木氏」だと考えます。
つまり、元は「伊勢王」として、「施基皇子」を始祖とする「伊勢神宮」を護っていた筆者と同じルーツに成ります。
つまり、「大化改新」の「天智天皇の第六位皇子の施基皇子」(647年発祥)が始祖と成ります。
元より、「柏紋紋」ですので「藤原鎌足」を始祖とはしていません。
お家の故郷の「現地のお寺」では、これらの事は判らない事ですが、宗派が違いますので、現在ではお調べに成る事は不可能だと思います。
「青木氏の範囲の中」で無ければ、それほどの個人の事までの資料が昔の時代に遺されていた事はありません。
「伊勢青木氏」の中とも成っても、それを掘り起こすご先祖の資料がお家に見つからない限りは無理です。
そして、更には「武蔵の青木氏融合族」で「現地孫」ですから、最初に赴任した神職(始祖)が伊勢に持ち帰っている可能性が有りますので、資料は見つからないと思います。
(お家の「融合族と成った始祖」は、任期が終えると勝手に「武蔵」に留まる事は「国抜けの大罪」に成りますので、特別な事情が無い限りは元の国元に戻らねばなりません。
しかし、現地に生まれた末裔は返る事も残る事も可能です。お家は、「秀郷流青木氏の保護の下」に現地の武蔵に残ったのです。
そして、柏紋を引き継ぐ青木家を武蔵に発祥させたのです。
この様な事は、陸奥に於いても、「柏紋の青木氏融合族]の現地孫が残って青木氏を拡大させています。
又、この「柏紋の青木氏の融合族」が北海道にも移動定住しています。
資料的には、伊勢でも室町期末期には「六割が消失する様な大火などの災難」が何度も起こりましたので、見つかる可能性が少ないと思います。
筆者も苦労しているところです。
然し、ながらも、調べ上げた結果らも、「状況証拠の積み上げ」で、解明が進んでいます。
その事から、お家の事も、この伊勢の積み上げの資料から、判断が付きます。
(研究室の論文をお読みください。現在、「伝統」と云うテーマで論文を投稿しています。その中にも、記述されています。
現在は、「伝統12」ですが,「伝統14位」でお家の事がより詳しく論じられていますので、もう少しお待ちください。
その前に、他の論文を参照して置いてください。そうすればより理解が深まると思います。)
「伊勢」の「四日市」にも、「伊勢青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「立葵紋の青木氏の融合族」(徳川氏との血縁族)が在ります。
このお家を含む「青木氏等の菩提寺」は、「多気郡」に在ります。
この「多気郡にある分寺の菩提寺」は、「伊勢松阪の四家の総寺の菩提寺」と別に、「多気郡」にも「融合族」や「絆青木氏」を祭祀する「専属の寺」が在りました。
現在も顕教と成って在ります。
そもそも、「伊勢の皇族賜姓族の青木氏」には、「四家制度]いう「子孫存続のシステム」がありまして、そのシステムで「二つの青木氏」があって、「四家の青木氏」と、女系などで繋がる「絆青木氏」が在りました。
この為に余りに大きく成った事から「松阪の総寺」とは別に、この「絆青木氏」等の青木氏を祭祀する「分寺」として多気郡にも創建したのです。
恐らくは、お家はこの「分寺」から赴任して行った「神職の青木氏」から出自したと観られます。
「日本書紀」などに書かれた事も論文にしていますので、これらの事は、全て、論文に記載していますので、お読みください。
お家の事をこの文面などで全てを網羅する事は不可能ですので、是非にゆっくりとお読みに成ってご質問やご不明な点は、都度、是非にお尋ねください。
「青木氏」は、他氏と違って、1400年もの歴史を持つ日本唯一の朝廷が認める氏です。
その為に、数多くの歴史を持っていますので、是非お読みください。
「柏紋の青木氏」は、全部の歴史に関わる奈良期からの青木氏ですので、関係するところを全てお読みに成って更に全体を治めてください。
青木氏は、「古代仏教の密教」で、「密教浄土宗」です。
更には、奈良期前からの宗教の「和魂荒魂信仰」の「古代宗教」を維持して来た家柄です。
更に、古代の「三宝荒神信仰」も維持して来た氏のです。
こんな氏は日本には青木氏しかいません。その信仰を奈良期から中心に成って専門に治めて来たのが、お家の「柏紋の青木氏」なのです。
筆者の家では、未だこの仕来りが遺っていました。
残念ながら、筆者の代で遺品などは残りますが、この「慣習仕来り掟」も消える事に成ります。
ですから、ここに文章で全てを「青木氏」に遺そうとしています。
では、お便りをお待ちしています。
早速ご返信頂きまして有難うございました。
長文の記述を頂きましてとても勉強になりました。
また、これだけのお話を聞けて、とても嬉しく思うと共に、
より深くルーツ、青木家について知りたいという気持ちになりました。
今までは漠然と自分に関係しているところのみを見ていましたが、
一つずつ読み込ませて頂きます。
> お家のご先祖は、「柏紋」ですから、元は「神職の青木氏」です。
不思議なもので、昔から神社が好きで居心地がよく、旅行のたびに神社を巡っていたので、
たいへん驚きました!
> つまり、お家は、元は神職で、伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」です。
何の因果か、たまたまお付き合いしている人が三重県出身な為、
伊勢神宮に先日も訪れたところでした。
霊感などはまるっきりありませんが、神社に訪れた時に相性みたいなものがあり、
ダメな神社と心落ち着く神社があります。
伊勢神宮は別格で気持ちが安らぐため、
どこかで共鳴してるのかもと思いました。
また、真言宗ということも改めて先程父親に確認しました。
あまり自分の宗派などを親に尋ねる機会も無かったので、
勉強になりました。
これもまた不思議なのですが、
産まれてから社会人になるまで、茨城県古河市に住んでおり、
幼少期から近くの長谷観音にお参りにいくことがとても多かったのですが、
先程調べたら長谷観音も真言宗豊山派でした。
父親は知りませんでしたが。。
ご返信を読みながら、リンクしていくことがあまりに多く、
驚きながら読んでいましたがいくつか疑問が湧いたので再度ご返信させて頂きます。
神明社の話と
藤原秀郷一族一門は、春日神社が守護神と記載がありましたが、
伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」の場合、どちらにお参りに行くことが正しいなどあるのでしょうか。
両親は全く知らないという感じでした。
また、信濃青木氏と伊勢青木氏のどちらなのかをわかる術はあるのでしょうか。
祖父は亡くなっており、父は知らないので、遡ろうにも後はお寺に聞くしかないのでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。
>家紋は丸に三柏
>私の祖父の実家は、埼玉県深谷市児玉郡
>先祖のお墓は同じく児玉郡美里町の勝輪寺にあります
東京にお住いの武蔵の青木さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
埼玉は中心地ですが、東京にも、昔は武蔵の国でしたから「青木氏」が多いですよ。
埼玉は、オーイ青木さん”と呼べば、”ハーイ”と答える位ですよね。
私も若い時は、先祖は「伊勢青木氏」ですが、埼玉の草加の八潮に居ました。
お家は、柏紋ですので、一部に私と同じ血が流れていますよね。
サイトには、膨大な青木氏に関する情報が在ります。
ご先祖の生き様を何とか描きだし、未来の末裔のロマンとしたいと考えています。
さても、お家のご先祖にご興味をお持ちに成ったとの事ですが、誰しも何時か自分の先祖の事を知りたいと思う時が必ず来ます。
最近の遺伝学的に観ても、親と血液型が同じであれば、その親の遺伝子の80から90%を引き継いでいる事に成ります。最早、これは、分身の領域です。
「分身」と云う事は、「先祖=自分」である事を物語っている事に成ります。
従って、当然に、”「過去の自分」”を知りたくなるのは「必然的な心の変化」と成ります。
お家は、その「心の過程」に到達した事に成る訳ですから、その心を純真にして大切にする事をお勧めします。
その為には、青木氏サイトは是非にご協力させて頂きます。
何なりとご遠慮なくお尋ねください。
では、ご質問に入ります。
そもそも、青木氏は、「五家五流皇族賜姓族青木氏」、「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏 116氏」、「皇族青木氏」、「室町期末期」と「明治初期」の「第三の青木氏」から成り立っています。
(研究室とルーツ掲示板等をお読みください。全ての事が記録されています。膨大な資料ですからゆっくりと少しづつお読みください。)
つまり、「4つの流れ」が在ります。
昔は、「氏家制度の社会」でしたから、「氏や姓」が異なれば、「棲み分け」をしていました。
依って、どの流れの青木氏であるかは情報が在れば全て判ります。
さて、お家の情報から、結論から先にお答えします。
お家のご先祖は、「柏紋」ですから、元は「神職の青木氏」です。
この「柏紋の神職」は、次ぎの経緯で発祥しました。
そもそも、「青木氏の守護神」は、「伊勢神宮」の「皇祖神」の「子神の祖先神」の「神明社」です。
この「青木氏の独自の守護神の神明社」は、全国に500程度建立されています。
この神明社はこの「二つの賜姓族」の「青木氏」が朝廷より命じられて「自分の氏の守護神」として全国主要な地域に安寧の為に建立したのです。
其処の「神明社の神職」は、全て「青木氏の者」が「神職」と成っているのです。
中には、「皇族賜姓族の青木氏」だけでは、500もの「神職」を配置する事は出来なかった為に、この「青木氏」と「賜姓族の同族の佐々木氏」も「青木氏の神明社の神職」と成っているところがあります。
主に北陸地方に多いのです。
この「神職の青木氏」は「五家五流皇族賜姓族の青木氏」から発祥しています。
一族から、神職に成る者を決めて、各地に配置していたのです。
つまり、お家は,その末裔です。
「五家五流の皇族賜姓族青木氏」とは、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の「五つの国の青木氏」です。
「皇族の第四世族内の第六位皇子」が、[5代の天皇」から「青木氏」を賜り、この「五つの国の守護王」と成って配置された「皇族の者の臣下族」です。
「天智天皇」から「光仁天皇」(伊勢青木氏)までで発祥した「高位の朝臣族の臣下族」です。
この氏は、「三つの発祥源」と呼ばれて、日本の「侍の発祥」、「武家の発祥」、「国策氏の発祥」の三つの元と成った氏です。
ですから、「侍の元」は、この「青木氏」が最初なのです。「侍の元祖」です。
この中で、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「甲斐青木氏」が生き残り、他の同族の二つの氏は「源平合戦」で滅亡しました。
そこで、「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏」は、この「皇族賜姓族青木氏」と親密に母方で繋がる同族です。
本来は、この「柏紋の青木氏」は、上記の「二つの青木氏」の「近江と美濃の青木氏」は滅亡衰退しましたので、「皇族賜姓族青木氏」の「伊勢青木氏」か「信濃青木氏」ですが、お家は、関東の武蔵の国に定住していますので、「特別賜姓族青木氏」であるかも知れません。
そして、「特別賜姓族青木氏」は、その領国は「武蔵の国 埼玉県」の入間地域にその宗家が居て、その周りに半径を横浜神奈川までとして、螺旋状に取り囲み「宗家」を護っていたのです。
当に、ご先祖がお住まいに成られた地域は、「秀郷流青木氏」の本家筋が住んでいた地域です。
ここにお家の「青木さん」が居る事は、そのルーツは大まかに判ります。
この付近はそう云う地域です。
この「秀郷流青木氏」は「第二の宗家」と呼ばれ、この藤原秀郷一門を指揮していました。
これらの事は、研究室に論じていますし、ルーツ掲示板にも論じていますので、関係する処からお読みに成ってください。詳しく判る様に成りますよ。
検索で「柏紋」とすれば沢山のレポートが出てきます。
又、左のメニューからもお家の事が観る事も出来ます。
さて、そこで、お家は、この「二つの青木氏」の同族のどちらからなのかと云う事なのですが、それを判断するには、一つは武蔵、二つは寺の宗派、が絡んできます。
恐らくは、「二つの流れ」の「同族の青木氏同士の血縁族」だと観られます。
この同族の116氏から成る「秀郷流青木氏」は、「五家五流の皇族賜姓族の青木氏」の「全国の神明社建立」の仕事を、「円融天皇の命令」で手伝いました。
その為に、特別に、同じ家柄身分官職官位等一切を与えて、「秀郷の三男の千国」に「青木氏」を賜姓して、同じ役目の「皇居と天皇の護衛団」を命じたのです。
そこで、「伊勢」か「信濃」からの「神職の青木氏」が、この武蔵に建立した「神明社の神職」として赴任して、そこで、「秀郷流青木氏」と「同族血縁」をした「青木氏」ではないかと観られます。
「二つの青木氏」の「同族の融合族」です。
この「融合族の末裔」が、「埼玉と茨城と千葉」には大変多いのです。
ところが周囲に「神職」でありながらも、”寺に墓所を持っている事”からも察しが付きます。
「神明社神職の場合」は、「神道」ですので「寺の墓所」は本来は持ちません。
特に、青木氏の神職は掟で持つ事は出来ないのです。
そこで、児玉郡の美里町の勝輪寺の墓所のある寺で、その宗派は真言宗ですね。
「五家五流皇族賜姓族の青木氏」は、全て「密教浄土宗」です。
「特別賜姓族の秀郷流青木氏」は、「浄土宗」と「浄土真宗」です。
この「仕来り」に縛られています。絶対に破る事は自滅の行為でした。
ところが「藤原秀郷一族一門」は、「総紋」を「下り藤紋」として、守護神は「春日神社」です。
然し、ただ、一度、換えられる事が関東で起こったのです。
それで江戸期初期には、何らかの理由で「宗派換え]をしている事が考えられます。
そもそも、真言宗は弘法大師の和歌山の高野山ですが、江戸期前後に関東に布教を強め、信徒争奪の曹洞宗と「宗教戦争」をした経緯があったのです。
「青木氏」の中でも、掟を破って追放されながらも、「甲斐武田氏系青木氏」が、室町期末期にこの「宗教戦争」の事で「宗派換え」をしています。
恐らくは、「柏紋族の青木氏」は、古来より「神道」でありながら、江戸期頃からの「墓所と檀家寺」を持っている事は、「融合族」の上記の「青木氏」である事が頷けます。
それは、秀郷流青木氏の融合族であるからこそ、この掟に強く縛られなかった事が頷けます。
古からの「慣習仕来り掟」に縛られない立場に成って居た事を物語っています。
周囲のお墓は「柏紋」で無かった事はそれは其れで正しいのです。
恐らくは、周囲は一門の領国ですから、「秀郷流青木氏の墓所」である筈です。
「116の家紋」から成り立っています。恐らくは、埼玉の本家筋の枝葉末裔が住んでいた地域です。
ですから、主要8紋か、副主要紋の合わせて16紋の家紋である可能性が高いと観られます。
周囲の青木さんの「墓所の家紋」が何であるかを更に調べるとより明確に成る筈です。
然し、「秀郷流青木氏」は墓所を持ちますので、「柏紋」でありながらも墓所を持つ事が出来るのは、この掟に縛られ難い「融合族の証」です。
普通は、「神職」の場合は、一族から配置の為に赴任してきているのですから、元に戻る筈です。
ところが、赴任者は戻った事が考えられますが、そこで秀郷一門の青木氏と血縁した「末裔」の「子供」と「孫」は残ったのです。
むしろ、「掟」に依り戻れなかった事が考えられます。
それは、戻ると四家制度と云う仕来りに強く縛られていた事から、現地末裔は戻る事は出来なかったと考えられます。
その「現地の末裔一族」が戻らずに「武蔵」に定住している事は、その末裔が、「棲み分け」を前提としている限りは、「秀郷流青木氏」と血縁した事に成るのです。
この武蔵の周囲には、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が「伊豆」に定住しています。
ここから、元は赴任した事も考えられます。
何れにせよ、お家は、共に「秀郷一門の青木氏」の血筋を引く同族の「伊勢青木氏」か「信濃青木氏」の何れかの子孫と成ります。
「丸付き紋」ですので、この現地に残った「柏紋の本家筋」の「分家の支流族」の「枝葉孫」であると観られます。
当時は、「皇族系の氏」の者が護る「最大の義務」は「純血性」を護る事にあり、この為に「同族血縁」を繰り返しました。
これは是非守らなければならない「高位の氏」の「皇族者 朝臣族」の「慣習掟仕来り」の宿命でした。
これを破ると一族から「追放の憂き目」を受けて、生きて行くことは出来ません。
つまり、お家は、元は神職で、伊勢か信濃青木氏と秀郷流青木氏との「融合族」です。
詳細は、是非、他の関する論文からお読みください。
「サイト内の検索」をお使いください。
他に何かの情報が在れば何でも結構ですからお便りください。
それで、このどちらかかは判る事に成ります。
兎も角も、歴史の事で判らない言葉等の事が多いと思われますので、判らない時は、研究室とルーツ掲示板や左メニューや家紋掲示板から選んでお読みください。
お家のルーツの事を一度に全部ここでは書ききれませんので、是非、お読みください。
そして、そこで、ご質問やご不明な点があったら、どんなことでも結構ですからご遠慮なくReで専用欄としますので、是非、お尋ねください。
はじめまして。東京都墨田区に住む青木と申します。
何がきっかけか覚えていませんが、自分のルーツに興味を持ち、
数ヶ月前にこのサイトを見て、投稿をしようか迷っておりました。
自分がどのような系統の青木なのか、自分の先祖はどのような事をしていたのかなど
無性に知りたく、投稿させて頂きました。
少ない情報かもしれませんが、よろしくお願いします。
家紋は丸に三柏
私の祖父の実家は、埼玉県深谷市児玉郡
先祖のお墓は同じく児玉郡美里町の勝輪寺にあります。
それ以外は特に情報はありませんが
お寺には、青木のお墓がたくさんありました。
同じ青木でも、丸に三柏ではないものも、多くありました。
どうぞ宜しくお願いします。
射和の前田さん 今日は。
お便りを早速頂きましてありがとうございます。
読まして頂きました。
実は驚きました。「青木光三郎」は、筆者の祖父の弟に当たる人で、分家筋に当たります。
現在も、松阪にその末裔が住んでいます。
お便り頂きました内容は,前回は江戸初期の事でしたが、今回は明治初期の事でありますね。
実は、「青木家」は「四家」と呼ばれ、古来より、松坂殿、名張殿、員弁殿、桑名殿、そして、別格の四日市殿とでルーツは形成されていまして、現在もその様に成っています。
松阪殿が筆者の宗家筋です。
この「青木光三郎」は、松坂殿の分家筋に当たります。
三人の嗣子が居て、祖父が長男で宗家跡目を継ぎ、次男がこの光三郎です。三男は作左衛門の子で作次郎と云います。我々は光三郎さん、作次さん呼んでいました。
全くお便りに頂きました通りです。
この「光三郎」は、宗家からの指示で若い時に、前回にお答えした通り江戸期の先祖の意志を継ぎ、更に伊勢に殖産を広める為に色々と働いたと聞いています。
このお話の背景には、江戸末期から燻っていた農民等の不満がありまして、「明治政府の処置」でその不満はピークに達し、明治初期に起こった農民等に依る有名な「伊勢一揆」に成ります。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と「伊勢加納氏」が背後で「経済的支援」をし、この「一揆」を支えた事が判っています。
明治9年に一応は、収まりが付きましたが、矢張り、伊勢は一揆の背景の後遺症で未だ立ち直るには至っていませんでした。
そこで、若い「光三郎」は「養蚕の技術」を身につける為に、「信濃青木氏」からの誘いもあり信濃青木家を頼りました。
この「信濃青木氏」とは、「近江、美濃、信濃、甲斐の青木氏」の中でも、「近江、美濃」が衰退する中でも、緊密に連携し、「信濃和紙」で互いに支え合って生き延びてきました。
明治のこの「伊勢一揆」の時も、共に経済的なバックボーンと成って、支えあった事は伝えられていて、「血縁関係」も深かったのです。
この「信濃青木氏」を頼って、「養蚕の技術」を習得して、伊勢に帰ってこれを広めようとしました。「膨大な資産投資」が必要で、且つ、「養蚕環境の適合」等の問題の苦労があって、当初はなかなか思う様には行かなかったと聞いています。
又、「早場米」(早稲光)の件ですが、これを実行するに当たり、問題が生じたと伝えられています。
それまでは、「青木の土地」は多くの農民に依って支えられていました。
しかし、明治政府の「農民解放」を狙った「地租改正」で、「農地の土地の利権」をある一定の条件に適する範囲で下げ渡す事に成りました。
この時、「地主の租の申告制」であったものから、「農民自身」が行う「租税の申告制」が採用されましたが、「収穫量」は、農民自身が算定する額方式の申告制でありました。
しかし、「実際の収穫量」はこれに見合う以上のものと成ったので、今度は政府が決める「収穫の税」としました。
これに見合う収穫が出来なかった場合には、その差額を農民が労働や金銭で補うシステムを採用したのです。
これに反発して,納まりかけていた一揆が、再び、所謂、「伊勢暴動」として起こりました。
結局は明治14年頃に何とか納まったと聞いています。
この間の「農民の生活」を「松阪青木家」と「信濃青木氏」が面倒を看たと記されていますし、口伝でも伝えられています。
「伊勢」では、この後もこの「農民の収穫」を上げる問題を抱え苦しみました。
そこで、「信濃青木氏」が古来から手掛けていた「信濃養蚕」を何とか伊勢にも持ち込んで、「養蚕」を殖産して救おうとしたのです。
これには「青木光三郎」が取り組んだと聞いています。
そして、この時は、既に「紀州藩」も解体され、援護の手が差し伸べられず、「伊勢青木氏」が独自に、元は地主として、更に収穫を上げる手段として、「早場米の研究」にも取り掛かったと聞いています。
「青木氏の四家の総力」を上げての取り組みであった事が伝えられています。
さて、「飯南町粥見の青木家」は、松坂と玉城町と共に、筆者の「松阪殿」のルーツの分家の親戚筋が住んでいる地域です。
この地域には、今でも病院など経営した親族、警察官等して多く青木家親族が住んでいます。
「飯南の光三郎」か、「玉城の作次郎」の子孫が住んでいる地域ですね。
「松阪の元吉」の「伊勢宗家青木氏」からは、明治期から「地元の郷士先」(商家)には「娘の嫁ぎ先」で繋がっています。
「筆者の家」の記録からは、残念ながら「出の娘の嫁先の記録」は凡そ判るのですが、「入りの嫁先の記録」が判らないのです。
既に、明治期に入っていますので、江戸期前の様に宗家では、記録は作成されていませんので、光三郎さんや作次郎さんの家の事が当初より判らなくなっています。
恐らくは、この親族のどちらかの家との血縁であろうと観られます。
確認したところでは、「多気丹生」からだとすると、「光三郎さんの家」ではないかとの反応でした。
そんな話を聞いたことがあるとの情報でした。
筆者の「松阪の青木家」の「宗家(幼名元吉の家)」ではありませんね。
ただ、もし、お家が多気丹生のお家で、お家の前田氏が「加納氏との血縁筋」であるとすると、筆者の曾祖父のところに嫁いだ事になり得ます。
前回のお答えで書きました様に「加納氏」の「加納屋」が「土地の郷士の商家」との血縁を盛んにした事は伝わっていますので、加納氏からの縁談持ち込みは充分にあり得る事ではと考えられます。
念の為に、筆者の本家筋では、「加納氏」筋とは、江戸末期からは何度も血縁をしています。
(筆者の祖父母のちかばあさんも加納氏)
曾祖父(幼名寅吉 三男 最終は宗家の跡目継承)も三人の兄弟が居ましたので、この三人の何れかになります。
加納氏ではない場合は、元吉の父寅吉の兄の家か、元吉の弟の光三郎さんか作次郎さんの家ではとも考えられます。
「多気丹生」のお家がはっきりすれば、松阪では作次郎さんの家が、筆者の宗家の墓所を護っていますので、確認は出来ると思います。
兎も角も、光三郎さん(元吉の二歳年下)にしても、作次郎さんにしても、その生業から周囲の元郷士商家との血縁は充分に考えられます。
宗家を継承した「松阪の元吉」までが、「過去の仕来り」に従って、京都公家の末裔(京都の叶氏 筆者の祖母 すえ)から嫁を迎えた事は判っています。
そのほかの家筋では、この「旧来の仕来り」は外れて、地元の「元郷士衆の商家」との血縁関係を積極的に進めたと伝えられています。
依って、お家の父上のお話は充分に納得出来ます。
兎も角も、お便りの親族の方の嫁ぎ先は、「伊勢青木氏」の「名張、員弁、桑名、四日市」の「伊勢の四つの青木家」では無く、筆者の「松阪の親族」との血縁である事には間違いはないと思います。
因みに、湯浅の金山寺味噌の件も、吉宗との取り組みでしたが、この味噌から醤油を取り出す事の「伊勢醤油の殖産の件」にも、「松坂の青木氏」は力を注いだ事も判っています。
「青木氏の話」の中では、明治期の「三大殖産事業」(養蚕 早場米 醤油)と位置付けられていて、松坂の莫大な資産を投資して「伊勢青木氏」が関わったと伝えられています。
明治38年頃までに達成したと伝えられています。
(明治35年に松阪宗家は失火して倒産、「松坂の宗家の元吉」は、後は光三郎や作次郎が引き継ぎ他の「伊勢青木氏」に委ねてこの事業が引き継がれたと伝えられている。)
明治期の血縁としては、血縁した「玉置氏」までは判っていますので、「醤油の玉置氏」、「早場米の・・氏」、「養蚕の・・氏」が判る事に成り、素晴らしい事だと思っています。
ご親戚はこの一つに入るのではと期待しています。
追伸 2/26
調査の結果、「伊勢郷士」の小林氏と小野田氏との血縁関係がある事が判りました。
詳細は記述出来ませんが、松坂殿系列では、玉置氏と共に、明らかに「伊勢郷士との血縁」が証明されましたので、お家の情報との血縁も証明される事が出来ると思います。
他の四家との血縁関係も青木氏の四家制度から充分に考えられると思います。
今回のお便りでは、ここに入る家が判る事に成り研究がより進んだ事になります。
是非、何か判りましたら、又お便りください。
ありがとうこざいました。
先日は詳しく教えて頂き本当にありがとう御座います。
父に射和商人の話を聞いたら「射和の青木本家は辻(八)氏[外郎で有名]の菓子箱を作って冨山、森田家に続く場所に家を構えた。その下で竹川新宅次に国分家次に河村家があった。つまり豪商に囲まれた所に青木家があります。その分家の青木光三郎氏は若き頃長野で養蚕を習い射和に広めた。彼は督農家で稲の古株を山の出水(泉)で冬を越させ春にそれを植えた。これを繰り返しついに稲の新品種を伝えた。これを「早稲光」か「青光」と付けたと記憶し雑誌に載せたら大反響だった」と話してました。
父から多気丹生から飯南町粥見の青木家に嫁いだ親戚があるそうです。こちらの粥見の家も関係がある気がします?
何かわかればまた宜しくお願いします。
「来場記帳」よりこちらに移動させました。
>初めてこのサイトをみておどろきました。
>私の青木一族の家紋は「つるひいらぎ」ですが、なかなか葬儀屋さんさらに家紋の詳しい方に聞いてもでてきません。
>集落行政区に青木一家が10数戸親戚付き合いしており蔓柊です。菩提寺は真言宗豊山派の万蔵院で現在の住職は74世を名乗っています。お墓も青木一家だけ万蔵院のなかに墓石、埋葬地は集落内の2墓制となっています。
>さらには、坂東市内(岩井市と猿島町合併)には 青木が100戸ほどほとんど青木という集落もあります。さらに各地区に数戸まとまっているものを見ると旧猿島町管内で150戸はあると思いますが、家紋は調べておりません。
>定年退職をしたものの、行政関係機関の役柄会合が多いためこれから話題作りをしたいとおもっています。
茨城の青木さん 今日は。始めまして。
これからもよろしくお願いします。
本サイトには、青木氏に関する事柄を研究して投稿しています。
青木氏に関することを何とか網羅して、「将来の末裔のロマン」として遺したいと考えて管理人さんのご理解を得て運営しています。
青木氏には、未だ、多くの伝統的な事が遺されていて、それを掘り起こしています。
全国の青木氏さんのみならず、今や、青木氏族の方々、青木氏外の方々、青木氏に関わった方々のご子孫からも頻繁にご質問が多くあります。
「ヤフーHPの歴史カテゴリー」では、折り紙付きのダントツの情報量です。
日本8000もの氏姓の中では、これほどの情報量を持っている氏族は無いと思います。
これからもよろしくご協力の程をよろしくお願いします。
さて、お家は「蔓柊紋」の青木さんですね。
「研究室の青木氏の家紋」の論文に、「蔓柊紋の青木さん」の事を記載しています。
「柊文様」は確かに少ない家紋群です。
中でも、「蔓柊紋」は、「特定の青木氏一族」が用いていた家紋ですので、知らない人はいると考えられますね。
でも、青木氏の中では、そうではありませんよ。
研究室の論文やルーツ掲示板などお便りをお読みに成れば判りますが、「青木氏」は、他とは異なり、「特定の立場」を持ち得ていた氏族ですので、世間では知らない人もいるかも知れませんね。
「家紋掲示板」などにも論じていますので、詳細はそちらを先ずお読みください。
お住まいの茨城には、「藤原秀郷流青木氏116氏」の内の昔、”「関東屋形」”と呼ばれた「秀郷一門の氏族」と、「秀郷一門」の”「第二の宗家」”と呼ばれた「秀郷流青木氏」が「青木村」を形成して定住していたところです。
「柊紋」は「丹治氏系青木氏」が最初に用いた家紋類ですので、「秀郷一門青木氏」とは出自は異なっています。
そもそも、茨城は「秀郷一門の青木氏」が住んでいた地域です。
そこに、”「武蔵七党」”と呼ばれた「柊紋の丹治氏系青木氏」の家紋群がある事は、昔の「棲み分けの慣習」から考えると、お家が先ずどちらの「青木氏」であるかを検証する必要がありますね。
本来は、”「武蔵七党」”は、埼玉県の「児玉、秩父、比企、入間」の四地域に分布しています。
現在の坂東市は、茨城県の西域ですから、国境を隔てています。
特に、この「武蔵の国」の北側に住んでいた「柊紋」の「丹治氏系青木氏」は、立身出世を夢見て、一族郎党をそっくり移動させて「見込のある豪族」に味方して、その地に移動して行く”「国衆」”と呼ばれた集団であったのです。
この「柊紋の丹治氏系青木氏」は、その「信濃」「甲斐」「美濃域」に伸長した一族で、最終的には「関西の摂津域」にその一族の多くを移しました。
つまり、「関ヶ原の戦い」で家康に味方した事から、遂に、「摂津麻田藩1万石」を与えられ、そこに武蔵の国に居た一族も最終的に移り住み居住し住み着きました。
昔は、ルーツ毎に「棲み分け」を原則としていましたので、同じ所にルーツの違う青木氏は住んでいません。
では、何故、東隣の国境沿いに「柊紋の青木氏]が定住していたのかと云う疑問が出ます。
お便りでは、150戸と可成り大きい集落を形成し、その宗派は「真言宗」で、「墓所が二墓制」であったとする情報から考えますと、次ぎの様に成ります。
「秀郷流青木氏」は「関東屋形」の宇都宮から南側の地域から埼玉の入間まで、及び東よりの水戸域までに定住していた事を合わせて考えると、「重なる地域」は、”「入間の北域」”と成ります。
そこで、「棲み分け」を前提としますので、次ぎの事が考えられます。
「秀郷流青木氏」は、「秀郷宗家一門」が武蔵入間に住み、そこを中心に螺旋状にして神奈川、横浜まで半径として、護衛団として宗家を護り、中心の本家筋から外環の分家筋へと取り巻き、宗家を護ると云う形式を採っていました。
特に、上記しました様に、「丹治氏系青木氏」は、室町期末期から移動していますので、血縁が興る事は先ずあり得ません。
とすると、室町期中期頃に入間の北域側に居た「秀郷流青木氏」の分家筋が男系の嫡子に恵まれず、「棲み分け」の入間の隣に居た「丹治氏系青木氏」から何とか「婿養子」を迎えて血縁したことが起こった事になります。
ところが、その「養子」にも「嫡子」に恵まれずに、結局、女系と成った事から、「家紋掟」に依り、「青木氏の本来の家紋」が「養子の男系側」の「柊紋」に変紋してしまった事に成ります。
この経過を辿った「秀郷流青木氏」ではないかと考えられます。
そこで、この「秀郷流青木氏」の「元の家紋」は何なのかと云う事が問題と成ります。
お家の「真言宗」(イ)と、「墓所二墓制を採用していた事」(ロ)と、「ある程度の集団である事」(ハ)が、この事を物語っているのです。
実は、本来、「秀郷流青木氏」には、高位で母方で皇族と血筋で繋がる権威のある「特別賜姓」である事が左右しています。
この家柄である事から、家柄の違う「丹治氏系青木氏」と血縁しますと、「青木氏宗家」から「宗派」や「住所」や「墓所」等を外される罰を受けます。
これは「氏家制度の社会」ですから、当然の結果です。
「秀郷流青木氏」では、「下り藤紋」を総紋として、「116氏の家紋」の中にあり、「浄土宗」(A)で、「青木村」(C)を形成して住んでいました。
墓所は、「自らの氏」だけを祭祀する「浄土宗菩提寺」を創建し、そこに墓所を設ける仕来り(B)です。
恐らくは、宗家からこの処置(イ)(ロ)(ハ)を受けた事を物語っています。
この処置程度で許されて、依然として「青木氏を名乗る事」を認められたことを物語っています。
依って、上記しました様にある範囲で集団で住んでいる筈であるのに、そこよりわずか離れた西地域にご先祖のお住まいがあると云う事は、この事を物語っています。
現在の「坂東市」は、本来住んでいる筈の「水戸域」より「西域の国境沿い」にある事が何かあった事を物語る事になるのです。
つまり、イ−A ロ−B ハ−Cの事が本来あるべき姿と異なっている差なのです。
「柊紋」は木犀科の樹で、昔から、疫病を払う木として用いられてきました。固い木ですよね。
花は白い小さな極めて良い匂いがしますね。木犀と同じで、庭先の玄関の処に良く植えていた木ですね。剪定が難しい木ですね。
この家紋にも、お家のこの事件が起こった事が、「柊文様に蔓付紋」にも出ています。
普通は、「秀郷一門の青木氏」は、「下り藤紋の宗家」から116の家紋に枝葉が広がっていますが、本来の家紋の「柊紋」に、「蔓付」にする事は、「一門の仕来り」としては採用していないのです。
「副紋方式」と云う方式を採用しています。
ですから、お家に何かが起こった事から、この処置を採ったのです。
ですから、「蔓付紋」は珍しいのです。
その何かとは、家柄で云えば藤原氏から観ると、格下の「武蔵の土豪集団 武蔵七党」の「丹治氏系青木氏との血縁」で、「由緒ある名跡の男系の家筋」を継承出来なかった事が原因しているのです。
柊紋そのものでは、仕来りに大きく反する事に成り、一門に対して申し訳がない事から、「柊に蔓付紋」として、新たな家紋にして凌いだと云う事を物語っていると観られます。
と云う事は、最初入間付近に居たお家のご先祖は、「116氏の中でも「本家筋の枝葉一族」という事に成ります。
故に、敢えて「蔓付紋」の処置としたと考えられます。
そして、処置として、「宗家」より「住まい」を「茨城の西境界の地域」に移る事を命じられたと観られます。
とすると、「元の家紋」は、「主要八家紋」の一つであった事に成る可能性を秘めています。
何か墓所に刻んだ文様とか、周囲の青木氏さんにこの家紋を持っている青木さんが居るかも知れませんよ。
秀郷一門青木氏の事は、膨大なサイト資料ですので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。
お読みに成って判らない時は、何なりとご質問ください。
「話題作り」にご協力いたします。
どんなことでもお答えしたいと思っています。人生相談でも、時事放談でも、庭の手入れ方や写真の事や絵の事でも何でも結構ですよ。
では、これからもよろしくお願いします。
福管理人様、お世話になります。
私の様に、何の知識を持たない者の質問にも、いつも丁寧に答えて頂き、本当にありがとうございます。なかなか私の能力では理解しにく部分もありますが、青木氏に課せられた仕来りというのが何となくわかったような気がします。ありがとうございます。
これからも少しずつ勉強していきたいと思いますので、ご教授の程、どうぞよろしくお願い申し上げます。とりあえず、お礼まで。
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | |